上の順番で丸亀扇状地が丸亀平野になっていく過程を追って見ることにします。
まずは①の扇状地がいつ形成されたかについてです。
まずは①の扇状地がいつ形成されたかについてです。
29000~26000年前 鹿児島湾の姶良(あいら)カルデラ火山が噴火し,火山灰(AT)を大量に日本列島に振らせました。この時期は、地球は最終氷河期で海水面が現在より約100m下がったようです。
そのためこの時期は、間宮海峡,宗谷海峡が陸つづきとなり、朝鮮海峡,津軽海峡は冬期に結氷し,アイスブリッジが架かった状態となります。
瀬戸内は草原が広がり,湖沼が発達し、そこにナウマン象などの大型ほ乳類が大陸からやってきます。私たちのご先祖さん達は、現在の瀬戸内海の島々の頂上からやってくる獲物達を見張っていたようです。瀬戸大橋の橋脚となった島々の頂上からは、国分台や坂出市の金山のサヌカイトの石器破片が数多く出てきます。これらは中国地方にも搬出されています。
そのためこの時期は、間宮海峡,宗谷海峡が陸つづきとなり、朝鮮海峡,津軽海峡は冬期に結氷し,アイスブリッジが架かった状態となります。
瀬戸内は草原が広がり,湖沼が発達し、そこにナウマン象などの大型ほ乳類が大陸からやってきます。私たちのご先祖さん達は、現在の瀬戸内海の島々の頂上からやってくる獲物達を見張っていたようです。瀬戸大橋の橋脚となった島々の頂上からは、国分台や坂出市の金山のサヌカイトの石器破片が数多く出てきます。これらは中国地方にも搬出されています。
以前にお話ししましたように、発掘調査では、丸亀扇状地の礫状の上から姶良カルデラの火山灰は見つかっています。この時代の土器川は、現在の平池や聖池のラインまで礫を運んできて、すでに丸亀扇状地の形成を終えていたことになります。その後に、火山灰は降り積もりました。氷河期は雨が少ないので、土器川の浸食・堆積作用は弱まります。この時期の丸亀扇状地は、現在の土器川の瓦のように礫岩が重なり積もる姿を見せていたのでしょう。土器川は北流し、岡山の高梁川などと合流し西に流れ、現在の佐田岬を迂回して足摺岬の西方で太平洋に流れ込んでいたようです。
これが一変するのが13000年前です。温暖化進み最終氷期が終わり,完新世が始まります。
亜寒帯針葉樹林は年々少なくなり,広葉樹林,照葉樹林が広がり、草原もなくなっていきます。こうして寒冷気侯に適応し,草原を食料源にしたナウマン象,オオツノジカ等は絶滅します。代わって森林の堅果類,芽等をえさにするた中小哺乳類のニホンシカ,イノシシ,ツキノワグマ,キツネ,タヌキ,ノウサギ,ニホンザルなど、私たちに馴染みのある動物たちが登場します。地球が暖かくなるに従って、海水面は上昇し、鳴門海峡から海水が瀬戸内草原に注ぎ込み内海としていきます。
このころには,日本列島は黒潮の流れ込みを受けて、夏季多雨,冬期多雪の気侯が形成されていきます。この時期のご先祖さまの住居は、洞穴,岩陰を利用したものが多いようです。瀬戸内平原でのナウマン象狩りから山間部の林の中での鹿や野ウサギ狩りへと生活スタイルを変えなければならなくなったようです。
しかし、ご先祖さまはこの環境変化に適応すべく、次のような新たな「技術」を生み出します。
これが縄文時代の幕開けとなっていきます。
これが縄文時代の幕開けとなっていきます。
土器の発明(堅果類,肉の煮沸)弓矢の発明(狩猟)釣針の発明(漁撈)尖頭器の改良―有舌尖頭器の出現(狩猟)石皿,磨石の増加(堅果類の調理)磨製石斧の増加(木器の製作)磨製石斧の出現.
この過程で,どのような地形変化があったのでしょうか。
更新世はかつて「洪積世(こうせきせい)」とも呼ばれていました。 更新世末期の最後の寒冷期(ヤンガー・ドリアス寒冷期)が終わると、長期的で大規模な温暖化が始まりました。これを完新世の始まりとします。完新世には急激な温暖化により、氷床や氷河が解け、世界的に5m前後の海水面上昇が起こりました。特に今から約7000年前には、現在よりも温暖化していたため、海水面の高さは今よりも約3メートル高かったと推定されています。
その後、海水面がやや低下して現在の位置になりました。海水面が上昇したことによって、それまで陸上の低地にあった河川に海水が流れ込んできて、河川の堆積物の上に海の堆積物が重なるという事態も起こりました。 これが丸亀扇状地の末端部やその下の三角州で起こったことです。
次に弥生集落と地形の変遷を淀川流域の例で見ておきましょう。
上の説明を図示化すると下のようになります。
これを参考にしながら以前お話しした善通寺市の旧練兵場遺跡の集落の変遷について簡単に「復習」しておきます。


①丸亀扇状地(平野)は,土器川の流路が東西に変遷を繰り返して氾濫し、網の目のように流れ自然堤防を形成したため,微髙地に富んでいた。②西からやってきた弥生人たちは、この微髙地を利用して定着し稲作を始めた。③自然堤防上に集落、その後背湿地に小さくて不規則な水田が開かれた④定期的に低地部分には洪水が襲ってきた。その結果,地形の逆転がしばしば起こった。⑤大規模な洪水の際には起伏が増し,反対に小規模な場合には起伏差がなくなっていった。⑥弥生時代中期末~後期,古墳時代後期には後背湿地部分の埋積が徐々に進んだ。⑦7世紀末には、それまでの微髙地を含む起伏が少なくなり、今のような平坦な状態になった。
その平坦になった時期に、条里型土地割の水田が拓かれていきます。
背景には、この時期に土器川の堆積作用が激減したことがあるようです。
丸亀扇状地帯の一部で段丘化が生じたと研究者は考えているようです。分かりやすく云うと、段丘崖が出来ることによって、土器川の流れが限定化され安定化します。それに応じて、人々は土地利用や土地開発の方法を変えていくようになります。平面化した扇状地は、洪水が発生しなくなり堆積が停止ます。
これは何をもたらしたのでしょうか?その影響や結果を列挙していきましょう。
これは何をもたらしたのでしょうか?その影響や結果を列挙していきましょう。
①地下水位が低下し土地が高燥化した。
このため,土地条件が安定し水害を受け難くなった。一方で地表面の更新が行われなくなり,同じ地表面を長い期間にわたり利用し続けなければならなくなった。
②地下水位の低下は湿田を、乾田化させ生産力を向上させた。
湿田と比較した場合,乾田は水管理がうまくできれば、裏作に麦をつくる二毛作が可能になったり,畜力を利用した耕作や、長鋤の利用も可能になります。これは、土地生産性を飛躍的に高めることにつながります。実際に、大阪府の池島・福万寺遺跡の中世旧耕土からは、鋤の痕跡やヒトや牛と考えられる馬蹄類の足跡が見つかっています。
③河川灌漑の場合には,従来の灌漑システムが段丘化により破壊されてしまうこともあった。
そのために段丘崖上まで水を引くためには、もっと上流側に取水口を設けることが必要となります。これにチャレンジしたのが中世に東国から西遷御家人としてやって来た東国武士集団だったことは以前にお話しした通りです。土器川右岸の飯山町には、そのような痕跡がいくつも残されています。
④段丘上では土地は高燥化し,より多くの灌漑用水が必要になります。濯慨がうまく行かない場合には,赤米のような耐乾品種の導入,あるいは水の管理しやすい小さな区画への変更が図られたかもしれません。また,水田から畠へ土地利用を転換せざるを得なかったかもしれません。最悪の場合,土地が放棄され荒廃した可能性もあります。
このような「耕地廃棄」と農民の移動は、中世では日常的であったとうです。
⑤さらに,同じ土地で二毛作が行われると,程度の差こそあれ土地を疲弊させます。
このため施肥が不可欠となります。新灌漑システムは,荒廃しかけた土地の再開発には不可欠の条件になったでしょう。上流側への井堰の移動や溜池の築造などの方法がとられるようになります。
これは善通寺の一円保絵図の中に描かれた有岡大池の築造過程で以前にお話ししましたので、省略します。
⑥一方、段丘下の現氾濫原面では、洪水が頻繁に起きます。
このため,堆積が急増し大規模自然堤防が形成されたり,砂州が急速大きくなったりします。例えば多度郡の港が、白方から堀江に移ったのも中世のこの時期です。弘田川の堆積作用で白方港は利用不能になり、代わって金倉川の堆積作用で形成された砂州の内側に堀江津が登場します。
洪水が集中する河原は「無主の地」として市が立つなどイベント広場として利用されるようになります。
例えば『一遍上人絵伝』に描かれた福岡の市は,吉井川(岡山県)の現氾濫原にできた定期市です。また,広島県福山市の草戸千軒遺跡は,芦田川の現氾濫原面に立地した河港でした。さらに,河川が上流から運んでくる土砂は海を遠浅にし,塩堤による干拓を可能にします。
12世紀後半頃から干拓が成功し始めるのは,人々の土地開発に対する欲求,技術の進展だけでなく干拓が可能な場所ができたことと深い関わりがあると研究者は考えているようです。鹿田川(現在の旭川)の河口付近に開かれた備前国上道郡荒野荘絵図(1300年)は,まさにこのような様子を示したもののようです。
12世紀後半頃から干拓が成功し始めるのは,人々の土地開発に対する欲求,技術の進展だけでなく干拓が可能な場所ができたことと深い関わりがあると研究者は考えているようです。鹿田川(現在の旭川)の河口付近に開かれた備前国上道郡荒野荘絵図(1300年)は,まさにこのような様子を示したもののようです。
丸亀平野は、平野と呼べるものではなく扇状地であったことが改めて分かります。
丸亀平野は、もともと扇状地の礫状の石が積み重なっていて、非常に水はけのよい土壌なのです。それが、完新世以後の洪水などで土砂が堆積して平面化しましたが、水はけがいいことには変わりありません。これは、稲作栽培には適さない土壌です。そのため善通寺一円保の寺領の水田率は、3割程度でした。そのような環境が讃岐の中世農民を、赤米の耕作や麦を重視する二毛作へと向かわせたのです。
丸亀平野は、もともと扇状地の礫状の石が積み重なっていて、非常に水はけのよい土壌なのです。それが、完新世以後の洪水などで土砂が堆積して平面化しましたが、水はけがいいことには変わりありません。これは、稲作栽培には適さない土壌です。そのため善通寺一円保の寺領の水田率は、3割程度でした。そのような環境が讃岐の中世農民を、赤米の耕作や麦を重視する二毛作へと向かわせたのです。
丸亀平野の水田化が進むのは、近世以後にため池と用水網が整備されて以後のことです。
古代の用水網は貧弱でした。丸亀平野で最も進んだ勢力と技術力を持っていたと考えられる善通寺勢力(後の佐伯氏?)も、その水源は二つの湧水からの導水のみです。有岡大池が作られるのも中世になってからです。このような状況を見ると「満濃池」が古代に作られていたのかも疑問に思えてきます。中世の善通寺一円保は、金倉川からの導水も行えていない状態なのです。
古代に満濃池からどのようにして善通寺にまで水を運んできたのか。
池ができても用水路がなければ水は来ません。金倉川を通じて善通寺方面まで水は供給されたと簡単に考えていました。しかし、古代の土器川や金倉川の姿が見えてくれば来るほど、その困難さに気付くようになりました。地形復元なしで、土地制度や水利制度を語ることの「無謀」さも感じるようになりました。
池ができても用水路がなければ水は来ません。金倉川を通じて善通寺方面まで水は供給されたと簡単に考えていました。しかし、古代の土器川や金倉川の姿が見えてくれば来るほど、その困難さに気付くようになりました。地形復元なしで、土地制度や水利制度を語ることの「無謀」さも感じるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献











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