修験者たちの四国辺路の行場巡りの修行が、近世の四国霊場札所めぐりの原型であったといわれるようになっています。そのために、四国における修験者たちの活動に、焦点が当てられて研究成果がいくつも出されるようになりました。それらを読んでいて、気になるのが五流修験です。五流修験は倉敷市の児島半島に本拠を置いた修験集団でした。彼らの教団の形成と讃岐や四国との関係に焦点を当てて見ていこうと思います。
五流修験の拠点である児島半島の「地理的な復元」をいつものように、最初に行っておきましょう。
児島半島は、かつては島で北側には「吉備の中海」が拡がっていました。この海域は、近世に至るまで近畿と九州を結ぶ最重要のルートでした。古代吉備王国は、この備讃瀬戸の要衝を押さえて近畿勢力の有力な同盟者に成長して行きます。
児島半島は、かつては島で北側には「吉備の中海」が拡がっていました。この海域は、近世に至るまで近畿と九州を結ぶ最重要のルートでした。古代吉備王国は、この備讃瀬戸の要衝を押さえて近畿勢力の有力な同盟者に成長して行きます。
最初に簡単に児島修験の概略を確認します。
平安時代中期頃に、熊野本宮長床の一族と名乗る修験者たちが児島にやってきてます。
彼らは、熊野本宮の神領の中で最大の児島庄に熊野権現を勧請し、これに奉仕する修験集団を形成します。この集団は、自分たちの開祖を役小角の高弟、義玄・義学・義真・寿元・芳元として、尊滝院、太法院、建徳院、伝法院、報恩院の五ヶ寺を開きます。この5つの寺院から彼らは「五流」と呼ばれるようになります。
その後、平安時代末頃には児島の五流は、一時衰退したと云います。
しかし、承久の乱が起こり、後醍醐天皇の息子達が児島に流刑となっり、その子孫が院主となり五流の五ヶ寺は再興されます。
以後中世期を通して、五流修験は醍醐天皇の流れをくむ公卿からなる長床衆、社僧などを中心とする一山として繁栄します。五流山伏は、児島だけでなく熊野にも拠点をもつようになります。また、皇族の流れをひくことから皇孫五流、あるいは公卿山伏と呼ばれ、院や貴族の熊野詣にあたっては先達として活躍することになります。
五流修験は熊野権現を勧進していますから本山派に所属していました。
しかし、その組織の中に中国・四国から九州の一部に霞を持ち、霞内の先達に哺任を出すなど、本山派内でも別格的な位置を与えられていたようです。
しかし、その組織の中に中国・四国から九州の一部に霞を持ち、霞内の先達に哺任を出すなど、本山派内でも別格的な位置を与えられていたようです。
備讃瀬戸の制海権掌握のための拠点としての児島
先ほど見たように児島の地は、現在では半島になっていますが、中世初期までは、その名の示すように島でした。熊野権現が勧請された林村は、水鳥灘の人江で、瀬戸内海の東の要所である備讃瀬戸の制海権を掌握するための拠点として重要戦略拠点でもあったようです。
古代には吉備王国がこの水路を押さえて、瀬戸内海航路の管理権を握っていたことは先述したとおりです。源平の戦いでも争奪戦が展開されます。室町時代には、細川家が吉備と讃岐の守護職を得て備讃瀬戸の管理権を握っていました。戦略地点は戦いの時には、攻防戦の対象となります。このために児島五流も源平、南北朝、戦国時代などの戦乱にまきこまれていきます。
近世期の五流修験
京都の聖護院内では、九州の宝満・求菩提などの座主と共に、院室につぐ位置を与えられ、公卿も各国の大先達につぐ位置を与えられていたようです。そして歴代の聖護院門跡の峰入の時には開伽、小木の指南役をつとめています。それだけでなく、本山派の春の葛城入峰、秋の大峯入峰でも重要な役割をはたしていました。
中央でも重要な役割を担っていた五流修験に対して、地元の岡山藩は保護と管理の両面の宗教政策を巧みに使い分けて、管理下に置いていこうとします。まず、五流一山にそれまでの修験と、修理寺院大願寺のほかに新たに祠官を加えて、これらに百九十石の社領をあたえて保護します。特に山伏にはこのうち百石を与えると共に、門跡の峰入や葛城・大峯の峰入にあたっては、その都度銀子を与えています。
五流修験は、中四国の霊山である大山・石鎚の修験者を掌握していました
五流の山内には、大仙智明権現がまつられ、石鎚山に擬せられた行場もあります。
大山や石鎚へは五流修験者たちの修行ゲレンデでした。同時に、彼らは先達として、多くの信者をこれらの霊山に参拝に連れて行きます。以前にお話ししたように、大山への岡山からの参拝を組織したのは、五流修験者たちでした。彼らは信者の里に庵を結び、それが発展して寺になった所も数多くあるようです。
大山や石鎚へは五流修験者たちの修行ゲレンデでした。同時に、彼らは先達として、多くの信者をこれらの霊山に参拝に連れて行きます。以前にお話ししたように、大山への岡山からの参拝を組織したのは、五流修験者たちでした。彼らは信者の里に庵を結び、それが発展して寺になった所も数多くあるようです。
明治の神仏分離により、熊野権現は郷社熊野神社となり、大願寺は退転します。
修験者は、五流筆頭の尊滝院を中心として結束し、聖護院末の修験集団を形成します。そして第二次大戦後は、尊滝院を総本山とする宗教法人「修験道」を結成し、中国・四国を中心に全国各地に教師・信者をもつ修験集団として活動するようになります。
これが五流修験の概略です。これでは、よく分からないのでもう少し詳しく各時代毎に見ていくことにします。
五流修験の縁起では、児島への熊野権現の勧進をどのように記しているのでしょうか。「長床縁由」などの諸縁起を見てみましょう。
は次のような伝承をのせています。
は次のような伝承をのせています。
修験道の開祖役小角は韓国連広足の彿言によってとらえられようとした時、朝廷の追捕の手をさけて熊野本宮にかくれていた。しかし自分のために母親が捕えられたと聞いて自ら縛につき伊豆の大島に配流された。その時義学らの五大弟子を中心とする門弟三百余人は、王難が及ぶことをおそれて熊野本宮の御神体を奉持して、権現を無事に安置しうる霊地を求めて船出した。
そして淡路の六嶋、阿波の勝浦、讃岐の多度、伊予の御崎(佐田岬)、九州各地などを三年間にわたってさまよい、これらの場所にそれぞれ権現を分祀した。ただし御神体そのものを安置しうる霊地はまだ発見しえなかった。
ここで伝えようとしていることは
①自分たちは、修験道の開祖役小角の五大弟子につながる法脈であること②法難に際して、聖地熊野本宮の神体をもって瀬戸内海方面に亡命したこと③瀬戸内海沿岸の淡路・阿波・讃岐・伊予、九州をさまよい権現を分祠したこと。
など、自分たちの集団のよるべき法脈と、瀬戸内海のテリトリーが主張されます。
多度郡は、空海を産んだ佐伯氏の本貫で善通寺がある郡になります。その郡港として古代に機能していたのが弘田川の河口にある白方(多度津町)です。ここには近世になって「空海=白方誕生説」を流布した父母院・熊手八幡・海岸寺・弥谷寺があります。
多度津町白方の熊手八幡 その向こうに広がる備讃瀬戸
これらの寺院に残された寄進物を見ると信者達には、備讃瀬戸を挟んだ備後や備中の人たちが名前が見えます。さらに絞り込んでいくと、彼らは五流修験の下に組織された人たちではなかったのかと思えてくる状況証拠があります。
つまり、大山や石鎚への蔵王権現信仰と同じく、白方にも熊野権現が分祠され、それを五流の修験者たちが祀り、彼らが先達として備後・備中の信者達を連れてきたのではという仮説です。実は、これは小豆島の島遍路巡りをして思った事でした。吉備から見て南に開ける海の向こうにある補陀落や観音信仰の霊地としての小豆島や白方は見られていたのではないかという筋書きです。
後に、その霊地に弘法大師大師伝説が接ぎ木されていくパターンです。これは、観音寺が八幡信仰と観音信仰の上に、弘法大師伝説が接木されるのと同じような手法です。
後に、その霊地に弘法大師大師伝説が接ぎ木されていくパターンです。これは、観音寺が八幡信仰と観音信仰の上に、弘法大師伝説が接木されるのと同じような手法です。
白方=空海誕生地説の拠点だった海岸寺奥の院からの備讃瀬戸
この動きを進めたのが五流修験であったとすれば、「空海=善通寺生誕説」にこだわる必要はありません。彼らは善通寺とは別の系譜の修験者たちです。新たに「空海=白方生誕説」を流布し、白方の宗教施設のさらなる「集客力アップ」を目指したのではないかというのが私の仮説です。
中世に多度郡白方に置かれた宗教施設は、児島五流の影響をうけていたとしておきます。
また、多度津以外の「淡路の六嶋、阿波の勝浦、讃岐の多度、伊予の御崎(佐田岬)」にも、熊野権現を分祠したと云います。これは、古代のことではなく、後世における五流修験の活動範囲と私は考えています。さらに縁起をみていくことにします。
瀬戸内海をさまよううちに、義学は船を東に向けるよう神託を受けた。これに従って東に舵を向け備中と備前の境まできた時、山上から呼声が聞えてきた。この場所が現在の倉敷市呼松である。この声にひかれて更に梶を南にとり柘榴の浜(現在の児島下の町)に到着した。すると海浜の石の上に白髪の老人が左手に経巻、右手に賊斧を持って立っていた。老人は、ここから北に進むと如意宝満の峰という霊地がある、そこに権現を鎮座すると良い。自分は地主神の福岡明神であるが、今後は熊野権現を護持しようと語った。義学らは喜んで上陸し柘榴の浜に寺を作った。これがのちの惣願寺である。一行は教えられた通りに北に道をとり、福南山の山麓をへて峠(のちに熊坂峠と呼ばれた)を越えて福岡邑に到着した。なおこの途中、福南山の麓で休憩して堂を作り地蔵をまつった。これが現在の熊野地蔵である。さて福岡の地に着いた一行は、熊野十二社権現の御神体を安置してまつりを行なった。大宝元年(701)三月三日のことであったという。またあわせて境内に地主神の福岡明神を勧請した。その御神体は柘榴の浜で老人が立っていた石である。熊野権現の到来を喜び迎えた村人は同年の三月十五日に仮の御社にまつり、什物をはこび込んだ。やがて六月十五日には十二社権現すべての御社が完成した。爾来熊野権現が福岡の邑に鎮座された三月三日は同社の大祭とされている。また仮宮を造られ什物がととのえられた三月十五日には負事の賀、十二社権現の御社が完成した六月十五日には祭典が行なわれるようになったという。
以上が「長床縁由」などに見られる児島への熊野権現の勧請物語です。近世の写本「五流伝記略」には、天平宝字五年に木見に宮殿を建てて新宮諸興寺とし、同じく児島の山村に那智山を移して新熊野山由伽寺を開いたと記します。これらがはたして史実かどうかは分かりません。
つまり、自分たちは熊野長床の子孫であり、新たに児島の地に熊野権現を開いたという「新熊野」伝説を主張しています。これをそのまま信じることはできませんが、この縁起類が書かれた時代の背景をうかがえることはできそうです。
つまり、自分たちは熊野長床の子孫であり、新たに児島の地に熊野権現を開いたという「新熊野」伝説を主張しています。これをそのまま信じることはできませんが、この縁起類が書かれた時代の背景をうかがえることはできそうです。
さらに、聖武天皇が神領を寄進し、孝謙天皇の御代に堂宇が整ったこと、そして児島の地に新宮及び那智の権現も勧請されたという縁起が、後世に作られたと研究者は考えているようです。
「尊滝院世系譜」では尊滝院の開基を義学とします。
以下二世義玄、三世義真、四世寿元、五世芳元と役小角の五大弟子を並べ、六世神鏡、七世義天、八世雲照、九世元具を記します。9世の元具が死亡した永観(983)年間以降、承久2年(1220)の覚仁法親王による再興までの間、同院は中絶して寺院は荒廃したとします。
寺院の縁起は「①古代の建立 → ②中世の荒廃 → ③近世の復興」というパターンで書かれたものが多いようです。③の場合は「復興=創建」と、読み直した方がいい場合もあります。六世から九世迄の四人のうち神鏡以外の三人については、具体的な活動が伝承されているようです。しかし、史料を検討した研究者は
寺院の縁起は「①古代の建立 → ②中世の荒廃 → ③近世の復興」というパターンで書かれたものが多いようです。③の場合は「復興=創建」と、読み直した方がいい場合もあります。六世から九世迄の四人のうち神鏡以外の三人については、具体的な活動が伝承されているようです。しかし、史料を検討した研究者は
「実在の人物であるとはいいがたく、後世に付会して作られた伝承」
という疑いの目で見てます。
縁起の中で主張する「五流修験=熊野本宮長床衆亡命集団」説も検討しておきましょう
本家の熊野本宮長床衆は、大治三年(1128)の記録に
「長床三十人是天下山伏之司也、自古定寺三十ケ寺 此外山伏中は余多委口伝」
とあり、百五拾町歩の社領が与えられています。
熊野長床衆の行事には延久元年(一〇六九)の「社役儀式之事」によると、
元旦の衆会への出仕一月七日から七日間の祈念夏百日間の寵山修行院や貴族たちの峰入の先達
などの重要な役割を果たしています。この長床衆の中心をなしていたのが五流といわれる五つの院坊です。そしてその代表が執行でした。
室町時代に成立した「両峰問答秘紗」によると、平安時代末から鎌倉時代初期の熊野長床五流は、「尊・行宗・僧南房、報・定慶・千宝房、太・玄印・龍院房、建・覚南・覚如房、覚・定仁・真龍房」で、いずれも晦日山伏です。
この「尊」は尊滝院、報は報恩院、太は太法院、建は建徳院、覚は覚城院の略号のようです。例えば、尊滝院の行宗は、嘉応二年(1170)44歳で長床(直任)執行となり、文治三年(1187)四月、後白河法皇の病気を治した功により少僧都になっています。また西行が大峯入りをした際の先達としても知られています。
このように本家の熊野五流山伏達は、平安時代末期から鎌倉時代初期に熊野を拠点とした先達として活動していることが史料から分かります。また、熊野において特に院や貴族などの峰入に際して重要な役割をはたします。
それでは、児島の五流長床衆は、どうなのでしょうか。
児島の長床五流の活動は、史料からは見いだせません。つまり、児島の五流修験が由来で主張する「熊野長床五流の亡命者」は、史料的には説明できないようです。
しかし、中世初期の「熊野本宮御神領諧国有之覚事」には
『八千貫、従内裏御寄進 大祀殿修理領、備前児島』
とあります。ここからは、熊野本宮の大祀殿修理八千貫を児島五流が寄進していることが分かります。この寄進額は、熊野の神領中では最大の貫数になります。児島の地が熊野本宮の重要な神領であったことは分かります。
経済的だけでなく、この児島の地は瀬戸内海における水軍の重要な拠点であったことは先述しました。
とくに佐々木盛綱の渡海が謡曲にもうたわれた元暦元年(1184)の源範頼と平行盛の藤戸の戦は、児島が舞台です。
この児島を掌握することが、源氏にとっても平氏にとっても重要なことであったことがうかがえます。
藤戸の戦を勝利に導く敵前渡海をした佐々木盛綱は、その功により源頼朝から、児島の波佐川の庄を与えられます。
これに対して、五流修験は、次のように幕府に対して激しく抗議します
児島の地は天平二十年、聖武天皇から神領として賜ったもの故、その一部の波佐川の庄を盛綱に割譲することは出来ぬ
一山の代表真滝坊は鎌倉におもむき、そこで27年間にわたって訴願を続けています。これに対して承元四年(1210)になって、五流の訴えが認められ、波佐川の庄が五流一山に返されています。五流一山ではこの決定をてこに、熊野長床衆や熊野水軍をうしろだてにして、児島一円を拠点とする強力な修験集団を作りあげていったようです。
こうして、13世紀になって熊野五流は、熊野水軍の舟に児島五流の僧侶(修験者)たちが乗り込み、瀬戸内海交易を活発に展開するようになります。熊野詣での信者を、五流の先達が導引して、熊野水軍の定期船が運ぶという姿が見られるようになります。この時期には、芸予諸島の大三島や塩飽の本島などには、熊野水軍の「定期船」が就航していたと考える研究者もいるようです。瀬戸内沿岸における熊野信仰は、児島五流の修験者が強く関わっていたことがうかがえます。
また、縁起に記さた瀬戸内海沿いの多度郡などに熊野権現が分祠されたのも、この時期のことだったのではないかと私は考えています。
こうしてみると五流修験の起源を、古代にまで遡って考えるのは難しいようです。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に、中世になって形成されたのが修験集団が児島五流と言えそうです。そして、活発な活動を展開するようになるのは13世紀になってからのようです。その際に彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想共同体」を生み出したとしておきましょう。
以上をまとめておくと、
①児島は熊野神社の社領となり、熊野権現が勧進された
②備讃瀬戸の要所である児島は、熊野水軍の瀬戸内海における重要拠点となり、熊野権現信仰の布教拠点にも成長して行った。
③義天が福南山で虚空蔵求聞を行い妙見をまつったり、雲照が清田八幡宮を熊野権現の御旅所にするなどして、吉備の熊野三山が整えられて行った。
④しかし、この時期の五流修験の本拠は熊野であり、児島は熊野長床五流の拠点にすぎなかった
五流修験が次のステップを迎えるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇の息子達を迎え入れたことが契機になります。それは、また次回に・・
①児島は熊野神社の社領となり、熊野権現が勧進された
②備讃瀬戸の要所である児島は、熊野水軍の瀬戸内海における重要拠点となり、熊野権現信仰の布教拠点にも成長して行った。
③義天が福南山で虚空蔵求聞を行い妙見をまつったり、雲照が清田八幡宮を熊野権現の御旅所にするなどして、吉備の熊野三山が整えられて行った。
④しかし、この時期の五流修験の本拠は熊野であり、児島は熊野長床五流の拠点にすぎなかった
五流修験が次のステップを迎えるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇の息子達を迎え入れたことが契機になります。それは、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮家準 「五流修験と山陽の霊山」 山岳宗教研究叢書12所収
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