備中児島を中心に大きな勢力を持っていた五流修験の起源について、前回はみてきました。
その結果、五流修験は熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に、中世になって形成されたのが修験集団であること。そして、活発な活動を展開するようになるのは13世紀になってからということが分かってきました。彼らは由来に「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであると考え、熊野本山との「幻想共同体」を作りだしていたようです。
その結果、五流修験は熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に、中世になって形成されたのが修験集団であること。そして、活発な活動を展開するようになるのは13世紀になってからということが分かってきました。彼らは由来に「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであると考え、熊野本山との「幻想共同体」を作りだしていたようです。
五流修験が次のステップを迎えるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇の息子達を迎え入れたことが契機になります。今回は、そこから見ていきましょう。


後鳥羽上皇の第四王子 冷泉宮頼仁親王が承久の乱に連座して、承久二年(1220)に児島に配流されます。これが五流修験の発展の原動力になっていきます。
『吾妻鏡』承久三年(1222)七月廿五日の条には、次のように記されます
「冷泉宮令遷二于 備前国豊岡庄児島の佐々木太郎信実 法師受一武州命丿令互子息等奉守護上之云云」
児島の豊岡庄に配流された冷泉宮頼仁親王は、備前の国の守護佐々木信実にあずけられます。この頼仁親王の兄が桜井宮覚仁法親王でした。覚仁法親王は、建保五年(1217)十二月大阿闇梨青龍院覚朝について得度し、翌6年には、三井寺円満院住職として三井の長吏になっています。
「五流伝記略」などによると、頼仁法親王は、承久二年(1220)に京都の戦乱をさけて、児島にやって来て尊滝院に庵室を設けて避難生活を送っていたようです。
一方、翌承久三年に豊岡庄に流された頼仁親王も、林の尊滝院に移って共に生活するようになったようです。このために尊滝院を御庵室先達と呼ぶようになります。
やがて延応元年(1239)、後鳥羽上皇は隠岐で亡くなります。
この塔は昭和45年に解体修理が行なわれましたが、その時に塔身首部から火葬した骨片95、歯12、香木8片、鉄製細片などが発見されたようです。五流一山には、後鳥羽上皇が亡くなった後に死体を荼毘に付し、遺骨を三分して一つを隠岐、今一つを山城国、最後の一つをこの宝塔におさめたとの伝承があります。その伝承通りの遺物です。
頼仁親王は、守護の佐々木信実の娘を妻とし、二人の子供を残します。
宝治元年(1247)四月二十日、48歳で、尊滝院で亡くなります。亡骸は木見の諸興寺に葬り、墓地を若宮御霊殿と呼びます。
一方、後鳥羽上皇の第6皇子が覚仁法親王です。
この地に流された兄頼仁親王(後鳥羽上皇の第4皇子)と共に、当時衰退しかけていた尊瀧院の再興に力を尽くしたとされます。
この地に流された兄頼仁親王(後鳥羽上皇の第4皇子)と共に、当時衰退しかけていた尊瀧院の再興に力を尽くしたとされます。
岡山県倉敷市林の熊野神社参道の途中に池があり、その中に桜井塚という島があります。そこに、五流尊瀧院の大僧正となった桜井宮覚仁法親王の墳墓があります。桜井塚の十三重層塔と灯籠は、覚仁親王の墓と並んでありますが、親王のために建立されたものです。

塔は約5m高さで、親王没の弘長3年頃の建立で、初重の軸だけが当初からのもので、その他は明治末年になって皇国史観の高まりの中で修復・再建されたものです。造灯籠は高さ約170㎝の豊島石製で、室町時代(14世紀初め頃)の作とみられています。これも後のになって、建立されたもののようです。
ふたりの親王の墓を比べると、五流一山がふたりをどう評価していたがうかがえます。覚仁法親王の方が五流一山に残したものは大きかったと考えられていたようです。なぜかと云えば、覚仁法親王は宝治二年(1248)に、熊野三山ならびに新熊野三山検校となり、建長七年(1255)の後嵯峨上皇の熊野御幸に際しては、先達をつとめます。これが親王先達のはじめとなるからです。彼は文永三年(1266)四月十二日、59歳で亡くなります。
覚仁法親王は、頼仁親王の長男道乗を、尊滝院の後継者とします。あわせて自分が所有していた肥後詫間郡之内大庄の八ヶ所、同郡の川尻庄の大部分を与えています。
後継者となった道乗の行った経営スタイルを見ておきましょう
①上沢氏から妻をめとり、宮家六党のうしろだてのもとに児島五流の再建(創建?)を進める。②自らは五流一山の庄務となり、清田八幡宮・福南山・滝宮・通生神社に社領を与え、諸興寺・由伽寺・藤戸寺領などを定めた。③尊滝院を長子澄意(次は二子頼宴)、伝法院を三子親兼、太法院を四子隆禅、報恩院を五子澄有、建徳院を六子昌範につがせて、自分の子供たちにより五流一山の再興を行った。
ここからは道乗によって、親王の子孫が五流一山の統率者になるというスタイルが出来上がったことが分かります。こうして一山の組織は整えられると共に、求心力も高まったようです。
由伽山蓮台寺には、正安元年(1299)在銘の打懸札二枚が伝えられています。そのうちの一枚の裏に、親兼・隆遍・隆禅・隆有・宋助の名前が記されています。このうち親兼、隆禅は道乗の子になります。ここからは、道乗の子供や法資が熊野三山の一つである那智に比定された由伽山の経営に関係していたことが分かります。「岡山熊野三山」の連携が見えてくるのも、この時期からのようです。
こうして、五流一山は道乗によって組織化され、そのうしろだてとなった宮家六党らによって支配されるようになります。その神領は小島庄を中心として、波佐川庄、豊岡庄を含めて児島一円に及んでいたようです。
この時期の五流一山の状況を見てみましょう。
弘長二年(1262)二月の奥書がある「長床六十三箇条式目」には、次のような事が記されます。
まず児島の庄全体は、長床衆一同の領で、権現結縁の者が生活する所とされています。そして次のように記されます
一山の運営は長床衆の下知に従って庄官及び両政所が行なう。その際両政所は行事を支配し、庄官は百姓を支配する。政所や庄官になるのは長床の座衆のみである。しかしいくら長床の座衆でも熊野常住の者や京都に留まっているものがなることは出来ない。なお政所は百文、庄官は百五十文の支給を受ける。社寺に関しては、まず修理をおこたらず、祭礼に専念せよ。もっとも神社、寺院、供僧の加増は禁止する。また社寺の奉仕者の職を在俗者にゆずることも禁じる。
長床の地は一般の人々は入れない殺生禁断の地で、百姓が茸をとったり、漁人が貝などをとることも禁じす。
なお、修行の道場は質素であったようで、社殿にはたたみやござをしいてはいけない。修行道場である福南山の供米は、庄官の得分でまかなえ。
その他に、一山の行事としては六月会、峰入、霜月大師講、後鳥羽上皇追善の大乗会などがあげられています。この「六十三箇条式目」には、二十一名に及ぶ署名が並びます。おそらくこの人々が当時の長床衆の主要な者と考えられます。
前回に、お話ししたように児島は「吉備の中海」に面し備讃瀬戸の戦略的要衝でした。
戦略的な要衝は、争奪戦の対象になり戦乱に巻き込まれるのが世の常です。中世期には、五流一山は、度々戦乱にまきこまれます。その際に、熊野は南朝の拠点でしたから五流一山も南朝方に荷担します。結果としては、負け戦の連続になり神領を減らしていくことになります。その過程を見ておきましょう。
戦略的な要衝は、争奪戦の対象になり戦乱に巻き込まれるのが世の常です。中世期には、五流一山は、度々戦乱にまきこまれます。その際に、熊野は南朝の拠点でしたから五流一山も南朝方に荷担します。結果としては、負け戦の連続になり神領を減らしていくことになります。その過程を見ておきましょう。
南北朝の戦乱に活躍した児島高徳は、児島五流の出身といわれています。


彼は後醍醐天皇の隠岐脱出を知ると一族のものと馳参じ、その功によって児島を得ています。そして尊氏の反乱後は、熊山城、福山城などで反幕の兵をあげます。南北朝の争を記した「太平記」には、児島高徳をはじめ修験者の活躍について、くわしく記されています。
また「洞院公定日次記」の応永七年(1400)十月の条に「太平記」の作者として、小島法師が挙げれています。こうしたことから、「太平記」の作者を児島の五流山伏と考える研究者もいるようです。
そして、吉野朝廷に大将軍の下向を要請します。吉野では、これに応えて脇屋義助を派遣します。義助は吉野から高野山をへて田辺にでて、ここで新宮別当湛誉から熊野の水夫、武具、兵糧などを与えられ、三百余般の船にのって船出します。そして淡路の武嶋に行き、さらにここから備前の児島につき信胤と同船して、伊予今治におもむいています。ところが義助は、伊予の国府で病死し、信胤も敗れてしまいます。
佐々木信胤は五流と親族関係で、熊野水軍も佐々木方に荷担しました。両者に関係をもつ五流一山も当然、南朝方につきます。幕府の高師直は、これに対する処罰として児島の常山より東側を五流一山から没収します。この結果、五流一山は児島の西半分のみを社領として活動を続けることになります。
その上に、応仁の戦乱にまきこまれます。
五流一山の覚王院は、細川勝元と所縁がありました。その権威をかりて山内でおもいのままに振舞い反感をかっていたようです。応仁の乱は、細川勝元と山名持豊が争ったわけですが、覚王院に反感を持っていた五流一山の者は、山名方に味方し、覚王院を亡ぼそうと画策します。
これを知った覚王院円海は備中国西阿知に退きます。そして応仁二年(1468)三月二十日夜、細川方の兵をかりて五流一山に乱入し伽藍僧堂を一宇も残らず焼きはらってしまいます。こうして以後、覚王院と五流一山の確執は長く尾をひくことになります。
応仁の乱後、幕府はこの五流一山の衆徒の争を罰して、神領をさらに減らします。その結果、近隣十七村、約8000石になってしまいます。
このような窮状の中で、再建計画を打ち出したのが大願寺の天誉です。
彼は応仁の乱で廃墟になった一山の再建を志し、文明元年(1469)から長享元年(1487)にかけて四国を中心として諸国を勧進し、資財や資金を集めます。そして明応元年(1492)に一山の再建に成功します。
しかしこの再建直後の明応年間に、残っていた児島十七村の熊野権現神領が、常山城主の謙野土佐守及び同肥前守に押領されてしまうのです。伽藍は再建されましたが、神領を失ってしまったのです。そこで管領細川政元にかけあいますが、一向に要領をえません。
そのような中で永正四年(1507)、管領となった大内義弘のはからいで児島のうち林庄、曾原庄、火打庄(今の福江)の三ヶ村が五流一山に返されることになります。
しかし、天文十六年(1547)には、一山を追われた覚王院円海の子孫との因縁から再び戦乱に巻き込まれます。
五流一山へ帰山を許されないことに恨みを抱いていた覚王院円海の子孫は、阿波の三好長慶の兵を借りて、一山に乱入して火をかます。この時には一山の者が結束して、これを防いだために、楼門や長床を焼失したのにとどまったようです。この時に焼かれた長床は、元亀二年(1571)大納言増印が資財をあつめて、天正の始めに再建しています。
五流一山へ帰山を許されないことに恨みを抱いていた覚王院円海の子孫は、阿波の三好長慶の兵を借りて、一山に乱入して火をかます。この時には一山の者が結束して、これを防いだために、楼門や長床を焼失したのにとどまったようです。この時に焼かれた長床は、元亀二年(1571)大納言増印が資財をあつめて、天正の始めに再建しています。
このような五流一山の神領への押領や侵入にたいして、本山である京都の聖護院門跡道応が動きます。
彼は、西国廻国の際に毛利元就に接見し、五流一山の保護を求めます。吉備への進出のプラス材料になると考えた元就は、五流近隣の城主へ五流の保護を命じます。加えて永禄十一年(1868)十月二十六日に、三ヶ村の界に輝元と元就の名で神領である事を明示した制札を建てています。こうして、大内氏から与えられた神領三ヶ村は、毛利氏の庇護のもとに安堵されることになります。
修験者(山伏)が武力集団化するのは、古代以来のことです。
五流一山も武力集団化していたようで、一山の修験者が従軍僧として戦陣に加わることは日常化していたようです。彼らは、「知識人」でもあったので右筆・外交官・葬儀・戦闘記録・祈祷師など、いろいろな業務を担当していたようです。
彼は、西国廻国の際に毛利元就に接見し、五流一山の保護を求めます。吉備への進出のプラス材料になると考えた元就は、五流近隣の城主へ五流の保護を命じます。加えて永禄十一年(1868)十月二十六日に、三ヶ村の界に輝元と元就の名で神領である事を明示した制札を建てています。こうして、大内氏から与えられた神領三ヶ村は、毛利氏の庇護のもとに安堵されることになります。
修験者(山伏)が武力集団化するのは、古代以来のことです。
五流一山も武力集団化していたようで、一山の修験者が従軍僧として戦陣に加わることは日常化していたようです。彼らは、「知識人」でもあったので右筆・外交官・葬儀・戦闘記録・祈祷師など、いろいろな業務を担当していたようです。
たとえば元亀二年(1571)春、讃岐国の香西駿河入道宗心が、児島の本太城の能勢修理を攻めた時のことです。五流の建徳院が能勢修理の陣に加わり、雨乞をして大雨を降らせ、能勢修理はそれに乗じて打って出て宗心を打ちとったという記録が残っています。五流修験が戦争で、重要な役割をはたしたことが分かります。
こうした五流一山の武力や情報収集力、その背後にある熊野水軍などに注目する勢力も出てきます。
それが秀吉です。秀吉は、山陽・四国制圧のためには瀬戸内海の制海権を握ることが不可欠であることに早くから気付いていたようです。当時は備讃瀬戸の制海権は、毛利氏に属する村上水軍が握っていました。それに対抗しようとしたのか、天正十年(1882)秀吉は、長床衆の加勢を求めて使者として蜂須賀小六を五流に送っています。しかし、五流一山は毛利氏への帰属が強く、この時には応じなかったようです。そのため秀吉から、林、火打、曾原の三ヶ村も没収されてしまいます。全ての神領を失った一山では、天正十一年(1883)、使者を京都に派遣し、照高院道澄を通して秀吉に歎願します。この結果、天正十七年(1589)になって、秀吉の配下となった小早川隆景から、堪忍料として百石を与えられています。この百石の社領は後には、宇喜多秀家にもひきつがれます。
それが秀吉です。秀吉は、山陽・四国制圧のためには瀬戸内海の制海権を握ることが不可欠であることに早くから気付いていたようです。当時は備讃瀬戸の制海権は、毛利氏に属する村上水軍が握っていました。それに対抗しようとしたのか、天正十年(1882)秀吉は、長床衆の加勢を求めて使者として蜂須賀小六を五流に送っています。しかし、五流一山は毛利氏への帰属が強く、この時には応じなかったようです。そのため秀吉から、林、火打、曾原の三ヶ村も没収されてしまいます。全ての神領を失った一山では、天正十一年(1883)、使者を京都に派遣し、照高院道澄を通して秀吉に歎願します。この結果、天正十七年(1589)になって、秀吉の配下となった小早川隆景から、堪忍料として百石を与えられています。この百石の社領は後には、宇喜多秀家にもひきつがれます。
戦国期の五流一山が直面した課題は、何だったのでしょうか
①五流一山では、神領の多くを失ってしまいます。神領に頼らない一山の経営方法が求められます。
②戦乱で修験者たちに大きな実入りになっていた熊野詣でも衰退します。この結果、熊野本宮との関係自体も薄れていきます。代わって本山派の聖護院末寺として活動するようになります
このような時代の変化に、どのような対応策したのかをみておきましょう
室町時代になると、院の財源は「配札・祈祷」などの布教活動に求められるようになります。
特に戦国時代になって、神領のほとんどを失ってからは、この動きが強まります。五流修験では原則として「霞(かすみ=テリトリー)」は、五流のみが所持していました。公卿は五流のいずれかに属して、直接に配札などの活動をおこなっていたようです。五流それぞれの霞は次のようになります。
尊滝院 塩飽七浦、備中松山・連島、肥前七浦、肥後太法院 備前瓶井山・金山・脇田・武佐・御野、小豆島
作州(本山、桃山除)、日向建徳院 伊予、安芸内豊田郡、紀伊の内日高郡報恩院 備前国岡山並四十八ヶ寺、作州本山・横山、
備前西大寺伝法院 讃岐、備後一万国並備中之内浅口郡
ここからは5流(5つの院)が、それぞれテリトリーを持ち、その地域の山伏たちを統括して、布教活動を行っていたことが分かります。
統一した組織体と云うよりは、5つの院の連合体と捉えた方がよさそうです。また各院の霞は、前回に見た縁起で主張される「熊野権現」分祠地と重なるようです。
室町時代の五流一山の衆会、講、饗などの年中行事を見ておきます。
これらの行事は長床衆を中心として行なわれていました。行事の名称を見ると、初雪、月見などの饗、連歌会、管絃講、公達集会や公達庚申などが見られます。地方の山伏にしては、洗練された諸行事が数多く行なわれていると研究者は指摘します。これは五流修験が、常に京都や熊野におもむいたり、早くから院や公卿の先達をしてきたことから、身につけた教養や作法なのかもしれません。
これらの行事は長床衆を中心として行なわれていました。行事の名称を見ると、初雪、月見などの饗、連歌会、管絃講、公達集会や公達庚申などが見られます。地方の山伏にしては、洗練された諸行事が数多く行なわれていると研究者は指摘します。これは五流修験が、常に京都や熊野におもむいたり、早くから院や公卿の先達をしてきたことから、身につけた教養や作法なのかもしれません。
「後法興院記」の明応二年(1493)四月十九日の条には、児島の山伏二人が聖護院門跡の京都入りのお供をしていたことが記されています。こうしたこともあって五流修験は、京都でもよく知られた山伏であったようです。児島の五流修験は、都でも聖護院末の異色の修験者として受けとめられていたとしておきましょう。
戦国期の五流の伽藍や関連宗教施設を最後に見ておきます
①伽藍整備については、明応年間に大願寺の天誉によって再建され整備されて。本社・若殿・西宮・中西社から成る社殿を中心として、長床・観音堂・三重塔・神楽殿・御供殿・鐘楼・仁王門が立ち並んでいます。さらに元亀天正の頃までには、行者堂、楼門、唐門、回廊、一切経蔵、千体仏堂、後鳥羽院の御廟堂、覚仁法親王の御廟堂が再建されています。この他に修験の院坊、大願寺、神宮寺などの社僧の本堂、庫裡が山内各所に姿を見せていました。戦国期の地方寺院としては、瀬戸内では有数の規模を誇っていたようです。
当時の児島には、五流のどんな関連社寺があったのでしょうか。
まず新宮にあたる木見の諸興寺があります。ここには新宮権現の本地薬師(恵心作)をまつった薬師堂、阿弥陀堂、若宮殿、御廟堂が立ち並んでいました。その他にも、紀州の神倉に比定された背後の山には毘沙門堂もあります。
那智にあたる由伽山には、権現堂と本地堂があり、本地堂には那智権現の本地十一面観音がまつられていました。その南には、紀州の那智同様に滝があり、滝宮があります。この他五流の山伏が那智権現に参詣する際に垢離をとった井戸があり、五流の井戸と呼ばれていました。
その他の関連宗教施設を列挙しておきましょう
①応永三十一年(1424)五流一山総録の智蓮光院宜深が一山の菩提寺として作った有南院
②有南院の近くには、熊野権現の御旅所の清田八幡宮
熊野権現の祭礼の際には神輿や神馬は、本宮(林)を出て、新宮(木見)をへたうえで、清田八幡宮へ渡御し、神事の法楽ののちに本宮に帰ったと伝えられます。現在この神社には、
至徳四年 (1387)三月嘉慶元年 (1387)十一月応永十九年 (1412)十一月応永二十九年(1422)二月永禄八年 (1565)九月
の五枚の棟札が伝えられています。そこには五流一山の関係者の名前が記されています。ここからは、清田八幡宮が五流一山において重視されていたことが分かります。
室町時代の五流一山は、五流と公卿を中心とした修験者から成る座衆と大願寺を中心とした非座衆から成りたっていました。しかし、実際の運営は座衆が行なっていたと研究者は考えているようです。「新熊野権現御伝記」には、元亀・天正頃の長床結衆寺院(座衆)として、次のような院が記されます
建徳院、尊滝院、吉祥院、伝法院、報恩院、太法院、智蓮光院、覚城院、南滝坊、常住院、本城院、青雲院、宝蔵院、大弐(出家当住)、俊雀(千手院当住)、正寿院、少納言(大善院当住)
ここには塩飽本島の吉祥院が新たに加わって「五流」が六ヶ院に
なっています。建徳院、尊滝院、吉祥院、伝法院、報恩院、太法院が五流で、その他は公卿になります。
塩飽本島の吉祥院が「五流」に加えられた経緯を示す史料はないようです。推測するなら、塩飽本島は塩飽水軍の拠点で早くから五流が関係していた備讃瀬戸の戦略的拠点です。そのために、本島に新たに五流の一院をもうけ、一山の運営に参加させるようになったとしておきましょう。どちらにせよ、塩飽本島に、五流の拠点が置かれていたことは押さえておく必要があります。
以上をまとめておきましょう。
①中世に後鳥羽上皇の子孫とされる道乗によって児島の地に五流修験は確立される。②この時期に五流修験は備前国の守護の佐々木一族など宮家六党の後だてのもとに熊野神領の児島庄を支配し、熊野権現に奉仕する形ができた。③しかし、この時期も児島に本拠をおくとともに、熊野にも拠点を持って先達として積極的に活動していた。④南北朝時代以来のたびたびの戦乱で神領による財政的な支えが不可能とななったことに加えて、熊野信仰そのものも衰退した⑤このため児島の修験者は熊野から独立して、自分達自身の手で一山を守り信者を獲得して行くようになった。⑥五流修験者は瀬戸内沿岸で活動し、中国・四国から九州をテリトリーとする霞が成立するのはこの時期である。⑦五流修験は、霞の檀那への配札や加持祈祷などの収入に活路を見出すようになる。
このように考えれば「長床縁由」に記される「熊野権現勧請譚」や、「聖武天皇や孝謙天皇の御代の伝承」は、信者をひきつけるためにこの頃に考え出された物語と思えてきます。
どちらにしても五流は、戦争や内乱に屈することなく、縁起をととえ積極的に宗教活動を行なうことによって新たな信者を獲得し、その後の五流修験の活動基盤を作っていったと言えます。
どちらにしても五流は、戦争や内乱に屈することなく、縁起をととえ積極的に宗教活動を行なうことによって新たな信者を獲得し、その後の五流修験の活動基盤を作っていったと言えます。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮家準 「五流修験と山陽の霊山」 山岳宗教研究叢書12所収
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