哲学者の梅原猛は「廃仏毀釈という神殺し」という次のような文章を山陽新聞に寄稿しています。(要旨)
仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。
「神々の殺害」という廃仏毀釈が五流一山に、どのように襲いかかったのかをみてみることにします


現在の児島 熊野神社
五流一山は、神道の熊野神社と仏教の五流修験に分割されます。
神社には神職として旧祠官の大守有太と還俗した大願寺の宮本右藤太、下禰宜の高見弥三郎の三名が奉仕することになります。そして五流修験は神社からは追放されます。追放された修験者たちは、旧観音堂を本堂(現本地堂)として、吉祥院、智蓮光院、太法院、尊滝院、伝法院、建徳院、報恩院で一山を再形成します。これが現在の三重の塔のエリアになります。さらに明治6年には神社は、郷内村を氏子圈とする郷社熊野神社と名前を変えます。
一方修験者は、明治五年の修験道廃止後は聖護院を本寺として天台宗寺門派に所属することになります。
神仏分離で、五流の5院や公卿12院は壊滅状態になったようです。
田辺進、「親子で読む 続編郷内の歴史散歩」2005には、次のように記されます。
今熊野十二所権現の鎮座する林村は、幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏であり、修験道廃止によって、失業となる。五流尊瀧院のみ天台宗の寺院となり、後は全て還俗する。
還俗後、このころ警察官・軍人の職業が生み出されたので、そちらに就業した人も多かったといい、五流伝法院の兄弟は軍人となり高官に出世したと伝える。伝法院も建徳院も大阪のほうに移るともいう。
「幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏」とあります。中世から比べると規模は縮小していたとはいえ、1/3近くの住民が山伏を生業としていたことがわかります。神仏分離で警察官や軍人に「転業」した人たちが多かったようです。
修験者(山伏)関係の寺院を地図上で確認しておきましょう。
建徳院(高槻市内藤家)
報恩院(林・新見家)伝法院(大阪市三宅家)
八院:
大泉院(林・三宅家)、正寿院(林・内藤家)観了院(林・本多家)、宝良院(林、岡田家)
非座衆35ヶ寺
大願寺(今、宮本家)、西光坊(今、西方寺)串田有南院(今、一等寺)曽原、惣持坊(今、宝寿院)福江杉本坊(今、慈眼院)尾原、仁平寺(今、真浄院)林南之坊(今、大慈院)植松、法華寺(今、蓮華院)浦田神宮寺(禰宜屋敷) 是如院(報恩院の上手)蜜蔵坊(竹田の田の中) 多宝坊(宝良院の下手)宝生坊(木見、惣願寺) 清楽寺(祠官屋敷)
かつての五流長床衆の寺院跡を見ておきましょう。
明治の神仏分離で大願寺は廃寺になり、住職は神職となり、明治10年頃まで仕えたようです。明治7年桜井小学校が旧大願寺に新設され、旧大願寺客殿及や長床は教室として使用されます。そのためここには、旧学校跡の石碑が建っています。
大願寺の南は行者池で、その中島が桜井塚です。
今は陸続きになっています。この中島が、後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁法親王の御墓所(「備前紀」)だとされます。石造十三重塔は、供養塔と云われ、初重の軸部(鎌倉中期)だけでしたが、皇国史観が高まる明治末になって、現在のように十三重石塔に再建されたものです。
今は陸続きになっています。この中島が、後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁法親王の御墓所(「備前紀」)だとされます。石造十三重塔は、供養塔と云われ、初重の軸部(鎌倉中期)だけでしたが、皇国史観が高まる明治末になって、現在のように十三重石塔に再建されたものです。
◆後鳥羽上皇供養宝塔(重文):
三重塔南にある供養塔です。承久の乱で流刑となっていた桜井宮覚仁親王と冷泉宮頼仁親王が 、父後鳥羽上皇一周忌供養のために仁治元年(1240)に建立したと伝えられます。かつては覆屋(御廟)を建て、一切経を納めた経蔵が付設されていたと云います。
真浄院:(旧五流報恩院)
明治23年、かつての五流報恩院の土地建物を譲り受けて、移転したようです。報恩院の敷地は広かったようで、真浄院の敷地は、その南側1/3程度になるようです。寺号は「備前記」では「新熊野山仁平寺」、「備陽国誌」では「金光山妙音寺真浄院」とあります。現在、この寺は「金光山妙音寺真浄院」と公称します。「仁平寺」とは、十二所権現非座衆35ヶ寺中に見える寺号でなので、十二所権現の社僧の流れを汲む寺院のようです。
五流太法院跡の南の一画に大仙(大山)智明大権現の堂宇があります。太法院跡の西側には、多くの地蔵石仏が並びます。先述したように近世になると、五流修験の山伏が先達となって信者を伯耆大山に登拝する風習が盛んになります。その際の登拝許可などは五流山伏が握っていました。そのため各地から五流の山伏寺に、登拝許可を受けに来ました。こうした大山と五流山伏との関係から、大山智明権現が五流に勧請されたようです。智明権現の本地は、大山寺本尊地蔵菩薩になるようです。
覚城院も山伏廃止令で廃寺となったようです。
しかし、児島四国88ヶ所第53番札所が大願寺から移され、そのため覚城院堂宇は天台宗阿弥陀庵として、現在まで存続しました。本尊は阿弥陀如来坐像で、元の覚城院本尊と伝えられます。覚城院は明治維新まで十二所権現裏(北)にある福岡山に鎮座する福岡明神の別當でもあったようです。
寺院エリアの残る「新熊野十二所権現三重塔」を見ておきましょう。
しかし、児島四国88ヶ所第53番札所が大願寺から移され、そのため覚城院堂宇は天台宗阿弥陀庵として、現在まで存続しました。本尊は阿弥陀如来坐像で、元の覚城院本尊と伝えられます。覚城院は明治維新まで十二所権現裏(北)にある福岡山に鎮座する福岡明神の別當でもあったようです。
寺院エリアの残る「新熊野十二所権現三重塔」を見ておきましょう。
右が三重の塔 左が長床(焼失)
熊野十二所権現社の長床前広場の東・段上に鐘楼・役行者堂と並んでいます。一辺4.3m、総高21.5m(青銅製相輪6.8m)の三重塔で、応仁の乱で焼失したものを、別当大願寺天誉上人によって、再興されます。しかし、安永から天明年中(1781-89)に倒壊したようです。それを、別当大願寺湛海が願主となり、文政3年(1820)に再興したものです。この時期には、善通寺の五重塔や金毘羅大権現の旭社も建立中であった時期になります。寺社の建築ラッシュの時代です。
長床が焼失して、さえぎるものがなくなった本社
第2殿以外は、池田光政により正保4年(1647)再建とされますが、天保11年(1840)再建との古記録もあり、様式上からは天保11年再建とする方が妥当と研究者は考えているようです。
なお、現在、神社側の説明版には「熊野神社祭神は伊邪那美神、伊邪奈岐神、家都御子神、速玉之男神」とあります。ここには熊野の神達の名前はありません。それ以外にも記紀の神々(アマテラス、ニニギなど)が祭神として祀られているようです。
これだけを見ると、最初に挙げた梅原猛の「廃仏毀釈は、神々の殺害
」であったという言葉に真実みが出てくるように私には思えてきます。
本殿の前にあった長床。
長床は修験道場で、享保年中(1716-35)の再建と伝えられていました。瓦には、室町期のものが多く使われていて、室町期の建築を再興したものであろうとされていたようです。明和5年(1768)の再建との記録があるとも云われていたようです。13間×3間の長大な建築で、中央右2間が通路で、拝殿も兼ねます。
これだけを見ると、最初に挙げた梅原猛の「廃仏毀釈は、神々の殺害
」であったという言葉に真実みが出てくるように私には思えてきます。
本殿の前にあった長床。
長床は修験道場で、享保年中(1716-35)の再建と伝えられていました。瓦には、室町期のものが多く使われていて、室町期の建築を再興したものであろうとされていたようです。明和5年(1768)の再建との記録があるとも云われていたようです。13間×3間の長大な建築で、中央右2間が通路で、拝殿も兼ねます。
長床で、社殿は隠されていましたが焼失後は社殿が剥き出しになっていました。この方が開放的でよいと言う人もいますが、どうでしょうか。
明治維新の神仏分離で次のような境界線が引かれたようです
①三重塔の建つ5段ほどの石階から上は五流山伏の所有地②それ以外は熊野神社の所有地
この分割ラインでは、長床は神社の所有地の上に建っています。しかし、その機能上から建物は五流山伏の所有とされてきました。そのため、神社側は長床を拝殿として使用するため、五流側から「借用」という形をとってきたそうです。
平成19年に再建されますが、以前の姿とは全く違う「近代的スタイル」の建築物になっています。
参考文献
神 仏 分 離 あるいは 廃 仏 毀 釈備前新熊野十二所権現(五流修備前新熊野十二所権現(五流修験・五流尊瀧院・尊瀧院三重塔)
神 仏 分 離 あるいは 廃 仏 毀 釈備前新熊野十二所権現(五流修備前新熊野十二所権現(五流修験・五流尊瀧院・尊瀧院三重塔)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_goryu.htm
宮家準 「五流修験と山陽の霊山」 山岳宗教研究叢書12所収
















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