旧大内郡は讃岐の東端にある郡で、引田郷・白鳥郷・入野郷・与泰(田)郷の四郷からなります。その構成は、西に「中の山」(中山)が境界となり寒川郡と分かたれ、南は、讃岐と阿波の「中の山(大坂峠)」があって、両国を隔てます。さらに、郡内にも「中山」(伊座)があって引田郷と白鳥郷を分けます。そして、北と東は瀬戸内海に面し畿内と接します。
中世の旧大内郡には、ひとつの宗教文化圏が形成されていたと研究者は考えているようです。
南北朝期から室町期にかけて三方を山に囲まれ、北は瀬戸内海に広く開いた大内郡に花開いた宗教文化が形作られていたというのです。その中心が水主神社やその神宮寺の与田寺であったといいます。そして、その頂点の時代を象徴するのが増吽という真言密教系の僧侶であったと指摘します。
大川郡に形成された中世文化圏がどのようなものであったのかを見ていきたいと思います。
旧大内郡には、中世以前の大般若経600巻を保有する寺社が二ヵ所あります。それだけの歴史と勢力を持っていた宗教施設と考えることが出来ます。
まず、大般若経の写経とその意味について最初に確認しておきます。
オークションに出されていた写経大般若経六百巻
まず、大般若経の写経とその意味について最初に確認しておきます。
写経は、経典の一字一句を書き写すことですが、功徳の最も大きい行為だとされてきました。
①朝廷や諸経寺の写経所では、専門の写経生らが書き写しました。一般の僧俗らも盛んに写経を行いました。修験者たちも山野での修行と同じように、写経は修行ともされ、功徳ともされていたようです。
②写経は大般若経が主流でした。これは600巻もある大部の経です。これを願主の呼びかけに応じて何人もが手分けしながら写経し、納めたのです。つまり、写本に参加した僧侶達は何らかのネットワークで結ばれていたことになります。残された大般若経の成立過程を追うことで、それに関わった僧侶集団を明らかにすることができます
③大般若経を真読する法会を大般若会といいますが、その目的は、現世安穏(あんのん)・菩提追修の祈願と国家安寧のための祈願のふたつがあったようです。これが、しだいに各階各層を越えて各地で流行するようになります。室町時代になると真読するのではなく転読することが盛行するようになります。
①真読は600巻すべてを読誦するために多くの僧侶と時間が必要です。
②そこで考えられた短縮方法が「転読」です。転読は、巻頭の経題と数行を読んで次に移る方法です。
③巻子本では、巻き取りに手間と時間がかかるため折本が使われるようになります。
④さらに、折り本を片手に巻末を扇状に広げると経文を読み通すような様になります。華麗な動作は、転読に主る祈願法会の「華」でした。
旧大川郡で大般若経があるのは大内町の水主神社と白鳥町の若王寺です。
香川県内には古代・中世の大般若経六〇〇巻揃えて保存している所はほとんどありません。この2ヶ所以外では
①丸亀市の正覚院②庵治町の願成寺③観音寺市の宝寿寺④高松市の随願寺(戦災で焼失)
だけです。その中でも、水主神社の大般若経は、国の重要文化財に指定されています。この経は、もともと巻子本であったものを転読しやすいように折本に仕立て直しています。600巻の中の7巻に奥書があります。さらに、その7巻の内巻388には、保延元(1135)年の年紀があります。ここから平安時代後期のものを中心に、鎌倉から室町時代にかけて補写したものが混しっていることが分かります。
経函に保管された大般若経
この経は、「牛負大般若経」と呼ばれてきました。
それが何故なのかは、経函の底に書かれた墨書から分かります。そこには「水主神社大般若経函底書」書かれ至徳三(1286)年に水主神社の末寺であった仲善寺の亮賢が勧進して作らせたものであることが記されています。
そして、伝来については次のように記します。
破損した箱を新たな物に交換する際に、書き直したと注記して次のように水主神社大般若経の由緒を記しています。
本云伝聞、此大般若経、元伊予国石鎚社所奉安置御経也、而自彼国奉送当社之時、負牛運送之間、於泥中奉落、失般若二巻、雖然彼牛負大般若経依功徳、受人身成沙門形上、件子細具感夢想之間、参詣当社 此経内二巻書写之、奉加之、此子細聞及之間、為後代記之、洛陽比叡山末流阿闇梨幸厳
意訳変換すると
次のように伝え聞いている。この大般若経は、元は伊予国の石鎚社に奉安されていたものである。それが牛の背中に乗せられて運ばれてきた際に、泥の中落ち、般若二巻を失ってしまった。しかし、牛負大般若経の功徳を伝え聞いた沙門が阿現れ、当社で失われた二巻を写経し、奉納した。この子細については、後代の記録でよく知られている。比叡山末流阿闇梨幸厳
ここからは次のような事が分かります
①この大般若経、元は伊予国石鎚社にあったものを移管したこと
②その際に牛によって運ばれてきたので牛負大般若経と呼ばれるようになった
③輸送中に亡くなった2巻については、写経し完成させた。
このような牛負(荷)伝承は、仏教説話として各地に残るのもので、ありふれた内容です。しかし、面白いのは、伊予の石鎚社にあった経巻を水主神社に納めていることです。石鎚社は、長寛元(1163)年以前に、すでに熊野権現が勧請されて『梁塵秘抄』にも有名な修験行場の一つに数えられているように四国における熊野信仰の一大拠点でした。当然、伝来した時には水主神社でも熊野信仰が盛んで、熊野行者が相互に頻繁に往来していたことがうかがえます。
それでは、だれが、いつ大般若経を石鎚社から水主神社にもたらしたのでしょうか。
経巻奥書と函書に出てくる3人の人物で研究者が注目するのは、阿闇梨伝燈大法師幸厳です。彼は、牛負伝承の伝聞者であると同時に、仁治元(1240)年八月十七・十八の両日それぞれ巻186と316を書写した人物です。そして幸厳は、境内にある御幸殿に祭られています。これは大般若経六百巻をもたらした功によるものではないかと研究者は考えているようです。
幸厳は、天台系の修験者を自ら示唆しています。
伊予石鎚社の横峰寺の最澄の弟子が仁寿四(854)年、延暦寺別当になっています。これらの関係を併せて考えると大般若経が水主神社に移されたのも唐突ではないようです。
至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
持来ル事、北内越中公・原上総公一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①経函製作のための桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事するものか、あるいは、海上輸送を生業とするものでしょう。水主の地理的環境からして前者と研究者は考えているようです。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。
④実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。
それでは、「皆阿州吉井ノ木」とある吉井とはどこなのでしょうか。
阿波の吉井は、阿波国那珂郡の南北朝期、東福寺普門院領であった大野本荘にあたるようです。大野本荘の本所は、一条家です。この荘園は、鎌倉時代から熊野信仰の盛んなところで、正安二(1300)年三月三日付けの先達栄賢引旦那注文案(米良文書)によると、大野本荘にあった岩嶺寺の先達に導かれる旦那33家が目録に記されています。熊野先達にとっては、有力な旦那衆がそろっていたところだったようです。
また、地図で分かるとおり吉井の地は、那珂川の下流に位置します。この川の上流は、鶴林寺や太龍寺があり、真言系僧侶(修験者)たちが山林管理も担当していたようです。また、紀州からやって来た集団の寄進を受けていたことは、以前にお話ししました。那賀川流域の流通・交流に熊野修験者のネットワークは大きな影響力を持っていたようです。ある意味、那賀川流域の木材の流通圏を握っていたのかもしれません。木材等は、那賀川で河口に運ばれ、そこから遡上して水主神社まで運ばれた可能性もあります。後世には、阿波木材は堺に運ばれ三好衆の大きな財源となっていたようです。そのようなルートが中世からあったと考えられます。
大内郡における神仏習合
旧大内郡は、13世紀後半以降、南朝方の浄金剛院領となります。南朝方の荘園であったことが大川郡の宗教的な特殊性を形成していくことにつながったようです。これは鎌倉新仏教の影響を押さえて、水主神社を中心とする熊野信仰の隆盛を長引かせます。そのため南北朝以降も新仏教勢力が浸透・定着が進まなかったと研究者は考えているようです。そのことを、当時の大川郡における神祇信仰から見ていきましょう。
中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社です。
先ほど見た大般若経の函書にあるように、大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。江戸時代のものですがは、「水主神社関係神宮寺坊絵図(水主神社蔵)」、文政四(1822)年には、水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアにこれだけ多くの宗教施設がひしめきあっていたのです。
水主神社(讃岐国名勝図会 幕末)
坊舎をふくめると100を越える数になったとでしょうし、与田山周辺を含めると、さらに数は増えるでしょう。その中には、宗教活動だけでなく経済活動に従事する出家の者たちもいたようです。彼らは、信仰を紐帯にいろいろなネットワークを結んでいたようです。 水主神社の残る神祇信仰関係の文化財を見てみてみましょう。ここには次のような国指定重要文化財があります。
倭追々日百襲姫命坐像倭国香姫命坐像大倭根子彦太瓊命坐像 女神坐像四体男神坐像一体、木造狛犬一対
女神像4(水主神社)
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会 松岡調筆)
これらは、いずれも平安時代前後のものです。狛犬や獅子頭は、中世の村々に神社が姿を現し、本殿が造営され、その中に神像が納められていく時期にあたります。与田寺周辺にあった工房で作られて、周囲の寺社に提供されていたことが考えられます。 どちらにしても香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはないと研究者は評します。仏教文化だけでなく、神仏混淆の中で神祇信仰も大内地区は隆盛を迎えていたのです。これが後の浄土真宗の大内地区への教線拡大が進まなかった要因のひとつだと私は考えています。
大内郡全体を見てみると、誉田神社が2社あります。
引田の亀山と旧誉水村横内です。この二社は、県下の誉田神(応神天皇)を祭っている神社の多くとは異なり、中世以前の勧請で古社です。郷八幡社は、『宝蔵院古暦記』によれば、承平一(936)年秋八月に一郷一八幡勧請によって創始されたと伝わります。
引田の誉田神社は社伝に、承和八(841)年に河内国誉田八幡宮を勧請して、当初中山伊座に祭祀していたものを延久元(1069)年、現在地へ遷宮したと記します。
横内の誉田神社は、創始は不明ですが、同じく河内国誉田八幡宮からの勧請を伝えます。研究者が注目するのは、両社が河内国誉田八幡宮からの勧請をうたっていることです。
横内の誉田神社は、創始は不明ですが、同じく河内国誉田八幡宮からの勧請を伝えます。研究者が注目するのは、両社が河内国誉田八幡宮からの勧請をうたっていることです。
八幡神は、神仏習合の強い神で、源氏の氏神とされて以来、鎌倉時代からは盛んに武神としても祭られるようになります。河内の誉田八幡宮の創始は、平安時代末期のこととされます。したがって、大内郡の誉田神社両社の勧請は、それ以降のことになります。そうだとすれば、与田郷に地頭職を得て東国から遷住した小早川氏の勧請が考えられます。
引田の誉田神社は、中世引田港の管理機能を担っていた可能性があること以前にお話ししました。そのため戦国末期に引田に城下町を築こうとした生駒氏も、この寺院を取り込んだ町割りを行っています。
引田の誉田神社は、中世引田港の管理機能を担っていた可能性があること以前にお話ししました。そのため戦国末期に引田に城下町を築こうとした生駒氏も、この寺院を取り込んだ町割りを行っています。
しかし、神祇信仰では、大内郡では圧倒的に水主神社の勢力が強かったようです。
このことは、江戸時代になっても松平頼重が水主神社の強勢に対抗させるため白鳥宮への保護政策をとったことからもうかがえます。このように、大内郡の宗教文化は、仏教と神祇信仰との習合と競合によって隆盛を見ることができました。その中心にあったのが水主神社と、その別当の与田寺であったようです。それは、熊野系修験者(真言密教僧侶)に担われていたようです。そのため、熊野行者のネットワークを通じて、水主神社は阿波や伊予の石鎚、或いは備中児島の五流修験、紀伊熊野と結びつけられ、活発な人とモノの交流が行われていたようです。
その例が伊予石鎚社からの大般若経の奉納であり、阿波那賀川流域からの木材の寄進にみられました。また、熊野参拝の四国側の集結地点にも当たります。熊野参拝を目指す先達に連れられて、この地にやってくるきて信者への宿泊や行場を提供したはずです。その外港である引田港は、熊野水軍の拠点として寄港する舟も多かったことは以前にお話ししました。
四国巡礼(八十八ヵ所)の始発(打ち出し)上陸地は、金毘羅参詣の隆盛に押されるまでは、引田・白鳥・三本松が圧倒的優位を占めていました。
大内郡における宗教文化を中世讃岐の文化史上に、正しく位置付けようとする試みが研究者によって続けられているようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
コメント