修験道は、里人のお山信仰と深くつながっていたようです。今回は、修験と里人のお山信仰を比較しながら関連づけて行くことにします。テキストは 宮家準 修験道とお山信仰 修験道と日本宗教所収です

大峰曼荼羅
修験道には、お山を曼荼羅ととらえる世界観があります。
平安時代初期に成立した『大峰縁起』の中には、次のような仏教聖界が説かれます。
①吉野から熊野に到る大峰山系の吉野側が金剛界曼荼羅、②熊野側が胎蔵界曼荼羅③大峰山の峰々に金剛界、胎蔵界の各部の諸尊が配置
胎蔵界という言葉から分かるように、お山を「母なる山」とし、そこで修行することによって再生するという宗教思想がすでに生まれていたことが分かります。


熊野曼荼羅
密教の教義では、曼荼羅は宇宙そのものを神格化した大日如来、すなわち宇宙の全体像をさすものとするようです。
この視点からお山を金剛界、胎蔵界の曼荼羅ととらえる「宇宙山」の思想が生まれます。宇宙山は世界の中心軸をなす黄金の山で、吉野の金峰山が国軸山、金の御岳と呼ばれるようになります。
しかし、これはすでに行者達によって存在していた山中他界観を密教の立場から説明したものに過ぎないように私には思えます。

日常の世界とは違う「他界」としてのお山を捉え、そこを仏の世界とするとらえ方からは、密教的色彩の強いお山曼荼羅観が成立しました。もっとも早いものは、奈良時代末までさかのぼるもので、お山や海岸近くの岬などを観世音菩薩の補陀洛の浄土とする信仰です。
熊野の那智山東北の月山関東の日光四国の足摺岬大和の松尾山
などが修験道の行場としてさかえます。
瀬戸内海に着き出した岬や海岸などが補陀洛浄土の出発地点とされ十一面観音などの観音がまつられている所は、讃岐にもいくつかあります。東から志度寺、屋島寺、根来寺、郷照寺、道隆寺、海岸寺、観音寺などは補陀洛信仰の痕跡がうかがえます。

弥勒菩薩の治める兜率天
次いで平安時代になり、末法思想が盛行し弥勒菩薩の信仰が人々の心をとらえるようになちます。そうするとお山を弥勒菩薩が説法している兜率天の四十九院とする信仰が生まれてきます。
平安時代末期の『諸山縁起』は、大峰山の内に四十九院があるとしたり、『彦山流記』に彦山四十九窟があると説くのは、こうした弥勒信仰からきているようです。
やがて浄土思想が流行するようになると、お山に阿弥陀の浄土が描かれるようになります。熊野本宮や白山など阿弥陀如来を本地物や本尊とする霊山は、多いようです。
古代の人々は、お山を死霊・祖霊の居所と信じていたと民俗学者は云います。
古代の人々は、お山を死霊・祖霊の居所と信じていたと民俗学者は云います。
観音の浄土補陀洛を信じる人々は、遠く中国の舟山諸島にあるとされた補陀洛に往生することを願って、那智や足摺の浜から船出する行者たちを生み出します。また吉野の金峰山などは弥勒の浄土とされていましたので、そこへの参詣も、死後は兜率天に往生して弥勒の説法を聞くことを願ってのことでした。もちろん熊野への参拝は、阿弥陀の浄土での極楽往生を求めてのことでした。
つまり次のような分業体制があったことになります。
①観音菩薩=補陀洛信仰=熊野那智②弥勒菩薩=兜率天信仰=吉野金峯山③阿弥陀菩薩=浄土信仰=熊野本山
こうして各地の霊山には、お山の景勝地に「弥陀が原」など浄土を指す名称が付けられていきます。 これを「山中他界観」と云うようですが、そこにはお山に骨をおさめたり、墓地を作ったり、供養塔を建てるというようなことも行われるようになります。東北の山寺(立石寺)、高野山などでは、これに修験者が関わることがもあったようです。ここから山岳寺院の中には、納骨の風習が残っているところがあります。それが「死者の帰っていく山」と呼ばれた霊山で、讃岐では三豊の弥谷寺が有名でした。近年では、修験関係の社寺では祖霊殿を設け、遺骨などをあずかっている所が増えているようです。
修験者自身も、死後は死霊となってお山に帰ることであるとして、死亡を「帰峰」と呼ぶ人も多いようです。霊山にある供養塔や木曽御岳の霊神碑などは、死霊となってお山に帰った修験者の霊を弔うためのものなのです。
お山には浄土や極楽だけでなく、地獄もありました。


立山曼荼羅地獄谷部分
立山や白山・大山のように火山だったお山では煙や熱湯が噴き出している所を地獄谷と呼んでいます。そこには極楽往生できぬ死霊が徘徊していると云われます。そして、供養のための「作善」として、小石が積まれたりするようになります。後世には、修験者がお山の極楽と地獄を描いた曼荼羅を持ち歩いて、極楽往生のための参詣を勧めるようになります。

極楽には阿弥陀如来が、地獄には奈落に苦しむ死霊を導く仏として地蔵菩薩が配置されます。次第に地獄のおそろしさが強調されるようになると、死霊を極楽に導く地蔵菩薩への崇拝度が高まります。それに従って地蔵菩薩の対偶仏として天界を支配する虚空蔵菩薩が極楽の仏として崇められるようになります。

虚空蔵菩薩
もともと虚空蔵菩薩は、吉野山で行者が守護仏として重視した仏だったようです。それが空海が虚空蔵求聞持法のために修行した仏として有名になります。こういう背景があるためでしょうか、伊勢の朝熊山をはじめ当山派・修験者の霊山では本尊を虚空蔵菩薩としていることが多いようです。霊山にある奇岩、巨石、滝、泉などは、神霊が宿るものとして、崇められていました。
すぐれた霊地の神霊、山の神、水分神などは、とりわけ大きな霊力を持つとされます。蛇・狼・狐・熊などの動物は、こうした神のあらわれとしておそれられ、信仰されたりもします。なかでも竜や蛇は各地のお山で水分神の体現とされていました。
当山派修験には、開祖とされる聖宝(理源大師)が大峰山で大蛇を退治したという伝承があります。お山に入った修験者が竜を退治したという伝説は、修験者がお山の主ともいえる水分神を自己の統御下においたことを物語っているようです。つまり、降雨をコントロールできる霊力をもつ存在とされ、雨乞い祈祷を行うようになります。讃岐でも、村々で行われた雨乞い祈祷は、念仏踊りも、綾子踊りも山伏たちが主導していたと私は考えています。
お山を曼荼羅とした場合には、いろいろな神霊は曼荼羅内の諸尊に当てはめられました。
大峰山などでは、その主要な八ヵ所の霊地に峰中修行の宿を設け、そこに役小角が体得した金剛蔵王権現の巻属である大峰八大金剛童子が一つずつ祀られています。大峰山中には、この八つの宿を含めて百二十(実際は七十余)の宿が設けられていたといいますが、その多くは修験者がお山に入る以前から神霊をまつる霊地であったようです。。
大峰山などでは、その主要な八ヵ所の霊地に峰中修行の宿を設け、そこに役小角が体得した金剛蔵王権現の巻属である大峰八大金剛童子が一つずつ祀られています。大峰山中には、この八つの宿を含めて百二十(実際は七十余)の宿が設けられていたといいますが、その多くは修験者がお山に入る以前から神霊をまつる霊地であったようです。。
葛城山系では、拝所に法華経二十八品を一つずつおさめて経塚が作られています。


その主な所には葛城八大金剛童子が配置されています。修験者がお山に入る以前には、ばらばらにあったお山の霊地が、修験道の影響のもとに一定の世界観にもとづいて体系化されていったようです。このように山中に、童子をまつったり、宿や経塚を作ることは、大峰や葛城などの以外の全国各地のお山の修験道場でも行われるようになります。
お山は邪神邪霊、邪鬼や神霊の使いである動物のすむ魔所として、里人は畏れていました。
魔所に入り込んで修行する修験者を、邪鬼や動物霊と闘い、それを降伏させ命ずるままに使役する存在と畏れ敬うようになります。


役小角と前鬼、後鬼
役小角が大峰山中で前鬼、後鬼を使役したとの伝承、修験者が飯綱を使ったとの民間伝承は、こうした力を体得した修験者の活動を示すのでしょう。同時に、修験者が信仰対象になっていく姿がうかがえます。 さらに修験者は獅子にも変身したようです。
岩手県早池峰山麓の山伏神楽の権現舞では、魔界の王者である獅子(権現様)に変身した山伏が村人の安全を祈って舞います。

羽黒山の修験者が峰中で用いる鈴懸の模様は獅子です。これは修験者が獅子への変身していることを表しているようです。秋祭りの獅子舞の起源もこの辺りにあるのかもしれません。


羽黒山の修験者が峰中で用いる鈴懸の模様は獅子です。これは修験者が獅子への変身していることを表しているようです。秋祭りの獅子舞の起源もこの辺りにあるのかもしれません。
天上や地下の境界であるお山で修行する修験者は、超人的な性格を持つ宗教者としてとらえられていたようです。ここから山伏を天狗としておそれる信仰も生まれます。修験者は、人間であり、鳥の姿をした天狗とされたようです。天狗信仰は、山伏の活躍する霊山に根付いています。金毘羅大権現の象頭山も天狗が住む山とされていました。修験者が根付く霊山だったのです。

また、修験霊山には鬼の子孫と称する者もいたようです。
修験者が峰入に際して頭髪を一寸八分の摘髪にしたのも、僧でもなく俗人でもないことを示すためのものだったされます。修験者を半僧坊と呼ぶのもこうした性格を示していようです。このように修験者は、天上や地下の他界と此の世の人間を結ぶ「境界人」とされていたのです。
修験者の峰入は、春夏秋冬のそれぞれに行なわれていました。
これも次のように人々のお山登拝が起源にあるようです
①「春の峰」は卯月八日の山あそびが基にあるようです。
大峰山寺の戸開式は、戦前は旧暦四月八日に行われ、修験者は山上の石楠花を手折って下山したといいます。これは、山上で山遊びをした乙女が花を手折って下山する卯月八日の行事に通じます。
大峰山寺の戸開式は、戦前は旧暦四月八日に行われ、修験者は山上の石楠花を手折って下山したといいます。これは、山上で山遊びをした乙女が花を手折って下山する卯月八日の行事に通じます。
②当山派の「花供の峰」は、六月に大峰山中の拝所に花を供えてまわるという行事です。これも、お山を旅する人々が霊地に花を手向けて旅の安全を祈った習慣に似ています。
③七・八月頃に、信者が大峰山に登拝する「夏の峰」は、大和地方で盆山と呼ばれています。これも、山中に眠る祖霊に会いに行くための峰入だったようです。羽黒山でも夏の峰は、月山から祖霊を迎えるためのものとされています。
④山伏が一定期間山中に寵る「秋の峰」
羽黒山の「秋の峰」は子供たちの通過儀礼(成人式)の役割を果たしてきました。これももともとは修験者が、冬にお山に留まり春先に里に下って農神を守る山の神の力を体得するために、山の神が山中に留まっている間は、修験者も山中で修行したことと関係がありそうです。冬の峰の出峰の日が、山の神が里に下るとされる卯月八日にあたることも、これを裏付けます。
冬の峰の修行者は、山中で年を越したことから晦日山伏と呼ばれ、特に験力に秀でた者として崇められたようです。
晦日山伏は出峰後、修行によって獲得した験力を競うために験競べを行なっています。十二月晦日から元旦にかけて行なわれる羽黒山の松例祭の鳥飛び・兎の神事・大松明まるき・火の打ちかえなどの競技は、冬の峰終了後の験競べの面影を今に伝える行事だと研究者は考えているようです。

晦日山伏は出峰後、修行によって獲得した験力を競うために験競べを行なっています。十二月晦日から元旦にかけて行なわれる羽黒山の松例祭の鳥飛び・兎の神事・大松明まるき・火の打ちかえなどの競技は、冬の峰終了後の験競べの面影を今に伝える行事だと研究者は考えているようです。

羽黒山の松例祭の鳥飛び
お山修行を終えた修験者は、山の神を招いて祭をし、託宣させる宗教者として活躍します。
①福島県の葉山まつりは、修験者は葉山の神を招いて憑依させ託宣を下す。②木曽の御岳の神を中座につけて託宣させる御岳講の前座③山中の護法を憑りましにつける美作の護法祭の修験者
などは、いずれも山の神霊が修験者に憑依し、神霊を操作する宗教者とし振る舞います。他にも
①権現と化した修験者が舞う早池峰の山伏神楽、延年の舞、②修験的色彩の花太夫が榊鬼に神つけをする奥三河の花祭③美作の荒神神楽④石見の大元神楽の託舞
は、お山修行によって験力をえた修験者が山霊となり、分霊を使役する芸能です。以上をまとめておきます
①山岳信仰は、霊山を神々の鎮まる霊地として山麓から拝む神道となって展開するようになる。
②一方でお山に入って修行することによって山の神の力を身につけ、それをもとに呪術宗教的な活動をするという修験道を生み出した。
③修験道は、修行や呪験力を権威づけるために、仏教思想と混淆する。
②一方でお山に入って修行することによって山の神の力を身につけ、それをもとに呪術宗教的な活動をするという修験道を生み出した。
③修験道は、修行や呪験力を権威づけるために、仏教思想と混淆する。
④里人の山入り慣習にあわせて峰人修行行事を組み込み、仏教の成仏観をとり入れて、成仏や験力の根拠を説明するようになる
⑤こうした世界観を広げることによって、里人の現世利益的な願いや求めに応えて、呪術的活動を行うようになる。
⑥そして、近世には里人だけでなく都市庶民の間に深く浸透していき、流行神を登場させたりすることになる。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
⑤こうした世界観を広げることによって、里人の現世利益的な願いや求めに応えて、呪術的活動を行うようになる。
⑥そして、近世には里人だけでなく都市庶民の間に深く浸透していき、流行神を登場させたりすることになる。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収
宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収
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