真言密教の影響を受けた中世の国家儀式は、どんな形で行われていたのでしょうか。
空海は,本格的な密教と二つの新しい儀礼を中国から請来しました。
①現世利益をもたらす修法と②密教への入門儀礼である結縁灌頂、師資相承儀礼の伝法灌頂
この儀式を行うための新しい儀礼空間が必要とされます。そして次のような密教の諸道具が整えられます。
①絵画(両界曼荼羅・別尊曼茶羅・祖師影像その他)②法具、各種の壇(大壇・護摩壇など)
この儀礼空間の中で大規模なものが、宮中真言院でした。正面五間、奥行二間の母屋に、一間の庇をめぐらし、母屋内部には両界曼荼羅を東西に対置させて、その前で密教僧が供養法を行うものです。
密教の儀礼というと「加持・祈祷」が思い浮かびます。
庶民はもとより、貴族にとっても「加持祈祷」は、日常生活とはまったくちがう空間で行われる異体験でした。私も、小豆島の島遍路の霊場で最初に護摩祈祷を体験した時の空間に驚いたのを思い出します
庶民はもとより、貴族にとっても「加持祈祷」は、日常生活とはまったくちがう空間で行われる異体験でした。私も、小豆島の島遍路の霊場で最初に護摩祈祷を体験した時の空間に驚いたのを思い出します
異香に満ちた密室空間幾何学風の曼茶羅念怒相の明王などの本尊音読される陀羅尼象徴作法を演じる僧侶
など非日常的な空間を作り出します。日本社会に基盤をもたない密教儀礼は、宋・遼風の八角九重塔をもつ白河天皇発願の法勝寺のように、数十・数百の新造本尊を前に、多数の壇を設けて行われることもあったようです。まさに、異国風の異文化の象徴だったのかもしれません。
国家儀礼としての密教修法の第一は、後七日御修法です
国家儀礼としての密教修法の第一は、後七日御修法です
後七日法略記 元弘3(1333)年
これは天皇の安泰を願って、正月第二週に行われる行事で空海最晩年の創始と言われます。これが次のような要因を背景に中世の国家法会に脱皮していきます。
中世密教の成立担い手たる東寺の権門化天皇制の変化
それでは「後七日御修法」は、どのような空間で行われていたのでしょうか。
①東西に長い堂を南から俯厳した構図です。(正面が北)②堂内部の東西に両界曼茶羅を対面させ、その前に大壇が置かれます③北側に五大明王が掛けられ、中央に不動明王、そして四天王が配されています。④東側の外に十二天の絵画が掛けられています
この配置は、現在も東寺灌頂院で行われているものと同じのようです。どんな儀礼が行われたのでしょうか。
①幕を巡らして薄暗い室内をつくり、内部で阿閣梨が修法を行う。②両界曼茶羅、五大明王の絵画は、灯明に照らされ、描かれた仏の姿が浮かび上がる。③曼茶羅の前方に置かれた大壇上の法具は、金に鍍金され、鈍い光を発している。④阿閣梨は呪を唱え、印を手に結び、即身成仏の境地に達する。⑤外側の床に列座する助修の僧侶は、同じく呪を唱え続ける。⑥護摩壇からは炎があがり、その光が間欧的に、薄暗い堂内に反射する。
以上が研究者が考える儀礼の様子です。
この宮中の儀式を模して、両界曼茶羅を対面させて掛ける形式をもつ建築が、東寺、東大寺、高野山、仁和寺など密教有力寺院には作られるようになります。同時に、法具類も用意されます。
そして寺院の場合は、結縁灌頂と伝法灌頂のための舞台として使われるようになります。時代が下ると、施設は持たないまでも、これらの絵図や法具をもつことが寺院のステイタスシンボルになります。そのため善通寺のような地方の真言有力寺院は、競って曼荼羅や不動明王・四天王の絵図を集め蔵するようになります。それが国家儀礼に連なる道でもあったからです。
そして寺院の場合は、結縁灌頂と伝法灌頂のための舞台として使われるようになります。時代が下ると、施設は持たないまでも、これらの絵図や法具をもつことが寺院のステイタスシンボルになります。そのため善通寺のような地方の真言有力寺院は、競って曼荼羅や不動明王・四天王の絵図を集め蔵するようになります。それが国家儀礼に連なる道でもあったからです。
修法の場合は、必要な道具は、仏画、法具壇、などです。
これらは簡単に移動することができます。そして適度な大きさの空間があれば、どこでにでも設営することができました。これなら地方寺院も手をだすことができます。同時に宮中や貴族の邸宅でも、験力のある修験者(僧侶)を招いて祈祷はおこなえます。これが各種の修法が頻繁に、貴族達の間で行われた理由のひとつのようです。
これらは簡単に移動することができます。そして適度な大きさの空間があれば、どこでにでも設営することができました。これなら地方寺院も手をだすことができます。同時に宮中や貴族の邸宅でも、験力のある修験者(僧侶)を招いて祈祷はおこなえます。これが各種の修法が頻繁に、貴族達の間で行われた理由のひとつのようです。
宮中真言院でおこなわれた後七日御修法は、東寺長者が主導するものでした。
しかし、真言宗が小野・広沢の両流に分かれ、儀礼について争論があきるようになり、その違いが重要な問題となります。それはある意味、自己の存在理由の宣伝の場でもありました。同時に、作法、設営の複雑さから、記録・指図が多数作られ、また編纂されて、次回の設営の参考とされるようになります。醍醐寺関係史料のなかに、後七日御修行法の設営を示す多数の指図が含まれているのは、そのためのようです。密教の法脈伝授儀礼である灌頂も、有力密教寺院で行われてきました。
こうして、国家法会を中心に中世の日本密教は形作られていきます。
注意しておかなければならないのは、密教諸派閥が個別に秘密口伝として相承していたわけではないことです。各派閥は対立する一方で、修法の百科全書(『覚禅砂』や『阿娑縛砂』)などが編集され、知識の共有化は進みます。また、修法に不可欠な本尊や道具を、院が秘蔵して「有効利用」することもありました。
例えば、如法尊勝法は、白河院時代に真言小野流の祖範俊が考案したと云われます。
久安二年(1146)に鳥羽院の命で寛信が行って以来、次第作法が整えられていきます。

そして、鳥羽院の意向で、本尊の如意宝珠は、修法中のみ院から与えられて大壇上の塔中に置かれることになります。三週におよぶ期間中、鳥羽院は何度も参加し、「客人斉々、見る者目を驚かす」(『覚禅砂』)という演出ぶりだったようです。 こうして権力の意思で「新奇な国家法会」が創設演出されることになります。

そして、鳥羽院の意向で、本尊の如意宝珠は、修法中のみ院から与えられて大壇上の塔中に置かれることになります。三週におよぶ期間中、鳥羽院は何度も参加し、「客人斉々、見る者目を驚かす」(『覚禅砂』)という演出ぶりだったようです。 こうして権力の意思で「新奇な国家法会」が創設演出されることになります。

藤沢清浄光寺所蔵の「後醍醐天皇像」
ここに描かれている後醍醐天皇は有髪俗体です。
ところが、袈裟を付け密教法其を持っています。そして背後には「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の神々を背負っています。
ところが、袈裟を付け密教法其を持っています。そして背後には「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の神々を背負っています。
これを「聖俗両界における権威を顕示した異形の姿」と研究者は指摘します。この肖像画に象徴されるように後醍醐天皇は両界にわたり個性的な行動と痕跡を残しています。
王法が外護する仏法、仏法が護持する王法
という古代以来の原則を掲げて、中世の寺院社会は公家との深い関係を保ち続けました。それが中世になると「外護」という枠を大きく超えて、深く寺院社会に足を踏み入れた天皇・上皇があらわれてくるようです。
参考文献 中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館
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