中世寺院 一遍絵図湯屋
  一遍絵図を見ていると上のような建物が描かれていました。
右からはね釣瓶で井戸から水を汲み上げているようです。その左に五右衛門風呂のような窯が据えられて童が薪をくべています。屋根の上からは、煙が立っています。校倉造りの白い壁の建物が湯殿なのでしょうか。中世の大寺院には湯屋があったようです。それでは、湯屋は寺院にとってどんな意味を持っていたのでしょうか。
中世湯屋 上醍醐西谷湯屋

まず、湯屋と風呂のちがいについて確認しておきます。
①湯屋とは沸かした湯を浴びる場
②風呂は、蒸気を浴びる蒸風呂(サウナ)
が本来の語義です。今とは違って、風呂が蒸気をあびるサウナだったようです。しかし、このふたつは早くから混じりあって、温室・浴堂などの言葉も使われるようになります。

中世湯屋 上醍醐西谷湯屋差図
  風俗史家の下川耿史さんは、湯屋について次のように述べます。
  「仏教では汚れを洗い流すことは御仏に仕える者の務めとする、沐浴の功徳が説かれていました。そのため寺院にとって不可欠な七つの伽藍には、浴堂も数えられています。それが揃うことで、初めて七堂伽藍といわれるほど、重要な意味を持っていたのです。実際に、東大寺には大湯屋と称される浴室が設けられていて、修行としての入浴と衆生救済の一環としての入浴が行われていました。これが、日本人が自然に湧き出している温泉以外の場所で入浴した、最初の事例なのです」

中世湯屋 東大寺「重源上人」大湯屋2
東大寺の『大湯屋』

 大寺院には、戒律の中に月に二回湯を沸かして入浴することが定められていた所もありました。衛生面とともに、穢れを祓う潔斎の意味が大きかったようです。そのため湯屋は聖なる場でもあり、僧団の集団決定を行う集会の場にもなります。
中世湯屋 東大寺「重源上人」大湯屋
東大寺の湯船
  
 大寺院は、構成員がフラットな平等関係ではなく、階層化された身分社会でした。そこでは入浴についても、身分秩序を守って湯を使うことになっていたようです。金剛寺・大山寺・鰐淵寺などには、湯屋を使う際のルールが残されています。また東福寺や東大寺二月堂などの湯屋内部には、そのルールを明記した札が掲げられていました。その中で、最も重要なものは「入浴順番」だったようです。それために建仁三年(1203)には、入浴の順序をめぐって比叡山の学生と堂衆が「闘争」を引き起こしています。(『天台座主記』)。

湯屋の様子を、本願寺の基礎を築いた覚如の一代記を描いた『慕帰絵詞』で見てみましょう。

中世寺院 慕帰絵詞

舞台は、美貌の少年覚如を興福寺に奪われまいと衆徒が鎧・弓矢で武装して守る三井寺南瀧院です。保護をうけた摂津国の坊舎では、部屋の奥に幕を垂らした湯屋があり、外では僧が薪を切り、童が火の番をしています。風呂焚きは童の仕事だったようです。
中世寺院 慕帰絵詞部分

浴室は湯を施す場として重視され、世俗の人々との接点の場として重視されていました。
中世湯屋 3

 中世の寺院では寺僧が湯浴みするだけでなく、寺辺の住民や有縁の俗人などに利用させるようになります。
これを「施浴・功徳風呂」とよびます。そうなると湯を沸かす回数も増えます。風呂を沸かすのには、大量の薪がいります。そのためには経費がかかります。経費に充てるために、有力者が湯料として所領を寄進し、その収入で湯を沸かす例も出てきます。建久四年(1193)の「礼阿弥陀仏田地寄進状」(東大寺成巻文書第九一巻)は、東大寺大湯屋のために湯田が寄進されたことを示す史料です。
 庶民に開放された湯屋を見ていきましょう
下野国足利荘の足利氏菩提寺堀内御堂(鑁阿ばんな寺)があります。
仁治二年(1241)二月、足利義氏は氏寺の堀内御堂での一族の忌日供養や大師講の時に「六齋日の湯」の興行をきめています。これは荘園や御厨の寄合で行い、郷ごとに薪三駄を引木として徴収することを公文所に命じています。郷から供出された薪でわかした湯が、郷住人の入浴に使われたわけで、堀内御堂は住人の保養センター的役割を果たします。粋な計らいです。周辺住民には歓迎されたことでしょう。
宮津市聟恩寺には、現在では手水鉢となっている鎌倉時代の湯船が残っています。

中世湯屋 宮津市聟恩寺湯船

今は手水鉢になっていますが、これが湯船だったようです。かつては、下から薪がくべられていたのでしょう。銘文には「十方檀那之合力」によって湯船が興法寺という寺院に設置されたと刻まれています。これも周辺住人を対象にした湯の例です。
 
村の湯屋は、病を治し、心をいやす場になっていたようです。
『今昔物語集』の三河守大江定基(寂照)の出家話には、次のような話があります。
五台山に参詣して湯施行を人々に行っていたところ、きたならしい女性が子どもを抱き、犬を連れて寂照のもとにやってきた。人々はいやがって追い払おうしたので、寂照は食べ物を与えて帰そうとしたところ、女性は「私には瘡があってつらいので、湯浴みしようとやってきたのです。お湯の功徳を私にいただけませぬか。」という。追われたのちにこつそりと子供。犬と湯浴みさせたものの追いかけてみると、スーッと姿を消していた。実は女性は文殊菩薩であったという。

ここからは聖者は、呼ばずともかたわらにそっと現れるものと考えられていたことがうかがえます。ここで注意しておきたいのは、カサブタで皮膚を犯された女性も湯屋に入ることができ、湯浴みは病を治すと考えられていたことです。また、尼寺法華寺では光明皇后がらい病者の垢を擦る話が伝えられ、中世には広く知られた話になっていたようです。
 らい病救済を積極的に行った奈良西大寺の律宗僧侶たちです。
その長老覚乗は信徒に「葬式に関わった後は穢れていないか」と問われて、清浄な戒律を守っている者は汚れないと答えます。このとき、白衣の童子があらわれて、それを認めて去ったと伝えられます。童子を神の使いとすると、律僧の行動はケガレに敏感な神祇からも認められた行為だったようです。
 こうして湯屋は身が清められて、聖なるものが出現する清浄な場と考えられるようになります。
そのため湯屋は僧侶たちの集会の場として使われるようになります。湯屋で決められたことは、清浄な場で話し合いの末に出した結論とされます。その決定は、僧集団の行動を一つにするにために、重要な役割を果たすようになります。裸のつきあいは、この時代から大切だったようです。
やがて南北朝期になると、時宗の京都六条道場では入浴者に料理が出されるようなります。
こうなると入浴とご馳走がセットになって、寺院の風呂は「休息・娯楽の場」の役割を濃くしていきます。戦国期の時宗寺院では歌・音楽を禁ずる禁制が出されています。禁止されると云うことは、逆読みすると、そのようなことが行われていたということになります。この時期の時宗寺院は、限りなく遊芸を提供する施設で旅宿化していたことがうかがえます。
中世湯屋 諏訪遊楽図

 こんなことが背景に有るのでしょう。美作国塩湯郷の永禄11年(1568)の地頭の掟には、湯屋造営は地下人の役で毎年春秋に興行すべきこととし、湯屋の管理をするものは湯旅人の役銭を徴収すべしと定めています。ここには、湯施行の姿とはちがった、現在に通じる湯治・娯楽としての湯が姿を見せていたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①寺院の湯屋は、沐浴として穢れをはらう場ととして七堂伽藍の一つで重要な建築物であった。
②そのため湯屋は特別な施設として、集会などにも使用された
③中世になると周辺住民にも開放され、寺院の庶民化の一翼をになう施設になっていく。
④湯屋施設の維持のために、有力者が寄進を行ったりするようになる。
⑤時宗寺院では、入浴と料理がセットになり娯楽的な施設も登場してくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館