十~十一世紀になると摂関政治の下で、国司の守に地方行政を委任する受領請負制が始まります。こうして受領と呼ばれた国司が、自分の家族や家臣らを任地に派遣し、自分はその国に出向かずに、摂関家の家司として仕えるようになります。これを遙任(ようにん)国司と呼んでいます。京都周辺の要所には「受領の蔵」として、任地からの富が運び込まれます。こうして受領層による地方行政が行われるようになります。
地方では、介・禄などの旧国司らは、受領の派遣する「負名」の下で、国衛の職員化します。これが留守所です。荒廃した郡司制も再編され、彼らが郡や院などの納税を在庁名として請け負うようになります。こうして受領の身内や家来が国使や収納使などとなって在地にやってきて、新しい郡司や名主からの徴税を請け負うようになります。
このようなもとで、地方の国分寺や郡寺、式内神社などは、どうなったのでしょうか?
それを今回は見ていこうと思います。テキストは 井原今朝男 中世寺院と民衆中世社会の時代的特質 です
平安時代文書集『朝野群載』巻22の「国務条事(国務条々事)」新任国司が赴任旅行から、着任、執務開始、日常政務に及ぶ決まり事、ノウハウ、心得などを42ヶ条にわたり、事細かくまとめたもの。
国司が最初に任国にやって来たときには、その国の神社への参拝が行われ国司神拝が行われていました。
讃岐に国司としてやって来た菅原道真も、国内の寺院や神社が誰の氏寺や氏神であるのかは頭に入れていたようです。それは、国司にとって押さえておくべき職務内容だったのかもしれません。そのため十世紀中葉までは、式内社神社の修理や式年遷宮なども国司の手で行われていました。
ところが、11世紀には受領遥任制になって、国司がやってこなくなると国司神拝は、次第に行われなくなります。それにつれて国分寺や郡寺・寺社の修理も部分的になり、荒廃する所が多くなります。
国司が最初に任国にやって来たときには、その国の神社への参拝が行われ国司神拝が行われていました。
讃岐に国司としてやって来た菅原道真も、国内の寺院や神社が誰の氏寺や氏神であるのかは頭に入れていたようです。それは、国司にとって押さえておくべき職務内容だったのかもしれません。そのため十世紀中葉までは、式内社神社の修理や式年遷宮なども国司の手で行われていました。
ところが、11世紀には受領遥任制になって、国司がやってこなくなると国司神拝は、次第に行われなくなります。それにつれて国分寺や郡寺・寺社の修理も部分的になり、荒廃する所が多くなります。
承徳三年(1099)因幡国司平時範が因幡の宇倍社・惣社に参拝した記録が『時範記』です。
11世紀末というと受領遥任制が一般化している時代です。それなのに、時範はわざわざ任国の因幡国に下向しています。どうしてでしょうか?
それは、国司が任地にやって来ず、国鎮守や惣社に参拝しないことや寺社が荒廃しているのに放置したままでにしておくことへの強い反発と不信が在庁官人には溜まっていたからだと研究者は考えているようです。それを解消するための国入りだったようです。
因幡国ではその20年後に、藤原宗成が因幡守に就任します。やはり「九箇年間未だ下向せしめず」という有様で、国分寺をはじめ国内寺社の荒廃は放置されたままだったようです。国人らは「恐れ有るの由申し合うと云々」と、一致して因幡にやってきて国司神拝することを求めています。
元永二年(1119)九年目になって、ようやく目代を派遣して初任神拝を実施します。それでも在庁らの不満は大きく不満は収まりません。そこで「国一宮」での臨時祭を行うため、国司宗成は直々に下向することにします。それでも「任終の秋に臨み初めての下向、衆人は不受の気有り」という雰囲気だったと伝えます(『中右記』)。
このように11世紀になり遙任国司の時代になると、都からやってこず、地方の神を祀らない「遙任=不在国司」のもとで、地方の寺社は荒廃するところがでてきていたようです。
このように11世紀になり遙任国司の時代になると、都からやってこず、地方の神を祀らない「遙任=不在国司」のもとで、地方の寺社は荒廃するところがでてきていたようです。
11世紀、地方寺社の対応は、どうだったのでしょうか
上野国では国司の事務引継書である『上野国交替実録帳』(長元三年(1030)が残っています。そこには、国司は国内の寺社を位階に応じて管理・登録しています。例えば山円郡では、
正一位美和名神社那波郡では二位火雷明神社三位委文明神社
の三つが登記されています。つまり、全部の式内社を管理保護するのを止めて、ランク付けをして階層の高い神社を保護するという方式に変えたと言えます。もちろん位階の高い神社は、当時の国衙留守所の有力豪族の氏寺や氏神が選ばれたことでしょう。
新国司と旧国司の職務引継ぎの際のやりとりを見てみましょう
新しく国司となった良任は、神社・学校・寺院の仏像や礼服、祭器などが破損したり、なくなったりしているとし「其由如何」と質問しています。前任国司は、代々の国司の実情を引き継いできたのであって
「当任の間公平を存せんがため多く修造を加えた」
と反論しています。その例として、
甘楽都正一位の抜鉾大明神が30年一度の造替で万寿二年(1025)改造の年に相当していたので玉殿と御垣を新造した。勢多郡の正一位赤城明神社も七年一度の大修造の都市だったので、万寿四年(1027)に修造した
ことを挙げています。
ここからは、国内の式内社の内で一の宮・二の宮・三の宮あたりまでは、国司の命により、式年祭毎に建替が行われていたことが分かります。讃岐でも、一宮神社(高松)や二宮神社(三豊市)は坂出の府中国府の管理下に置かれて、定期的な修造が行われていたことが考えられます。
さて上総国に戻ってみると、国分寺尼寺の仏像などが破損しているという指摘についても、前任国司は次のように反論します。
「これ当任の解怠に非ず」「既に数代に及ぶ」「損失は年に積もり修造を尽し難し」
つまり、「それは、私の責任ではない。数代前の国司の代からすでに、壊れており放置されており修繕の手も及ばない」というのです。そして、自分は国司として、国分寺と定額寺の修理や彩色を行い、破損の内十分の二、三を過ぎるほど「随分之功」を挙げたと主張しています。
ここからは、それまでは国司が管理修繕していた地方の寺社の中には、定期的な修繕が行われずに放置され衰退化していた所が増えていたことが分かります。
そして上総国の新任国司は次のように記します
金光明寺の十一面観音像は長保三年(1001)五月十九日の官符で前々司平重義が造像して安置した。定額寺の放光寺は、氏人の申請で定額寺より除いた。法林寺の金堂は人延三年(九七五)七月一日の大風で顛倒し、講堂は長徳元年(995)十一月十日野火で焼失した。弘輪寺、慈広寺など定額寺の実情は長和三年(1014)、寛仁四年(1020)、万寿元年(1024)の歴代国司の「交替日記(記録)」を、そのまま引き継いだ
ここからは国分寺や地方定額寺の管理修繕は、事実上放棄されて荒廃にまかされていたことが分かります。
このように11世紀の藤原道長・頼通政権下では、受領国司は国内寺社を管理し、修造年期の基準に基づいて修理していくことができなくなっていたようです。これでは、国司の国内諸社の巡回は行えません。
しかし、律令体制の下では「政事=祭事」です。
地方の有力神社や寺院での祭礼や神事がなくては「政(祀)事」が行えません。そこで、考え出されたのが特定の郡内神社を指定して、「国内第一の霊社」とか「一宮」「二宮」などの呼称を与え、「国鎮守」「郡鎮守」として参詣することで国司神拝を合理化することでした。
地方の有力神社や寺院での祭礼や神事がなくては「政(祀)事」が行えません。そこで、考え出されたのが特定の郡内神社を指定して、「国内第一の霊社」とか「一宮」「二宮」などの呼称を与え、「国鎮守」「郡鎮守」として参詣することで国司神拝を合理化することでした。
また儀式も最勝講や仁王会、修正会など最重要な護国法会だけを実施し、国衛や国分寺の周辺にその分社を集めて惣社とします。こうして国府近くに「惣社」が新たに作られることになります。これが総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)で、地方の神社の祭神を集めて祀った(= 合祀)神社のことです。岡山には総社市という地名が残ります。讃岐には、国府の外港と考えられる坂出市林田町に総社神社があります。
惣社神社 坂出市林田町
こうして、一宮や二宮神社以外は、それぞれ在庁の在郷豪族に管理をまかせます。
ある意味、国内運営の宗教的な負担金を削減し、遙任国司の取り分を増やしたということにしておきましょう。 受領国司がやってきた場合も惣社と、有力な神社だけに神拝することで済ませ、国内への諸神ヘの巡回を行うことはなくなります。こうして因幡国では、国府に近い宇倍社が元永二年(1119)には「一宮」と呼ばれるようになります。国一宮の出現は、国によって地域差があったようです。
讃岐の場合も、国府の外港の林田港に総社が置かれ、高松の田村神社が一宮神社に指定されていくのも、このような背景があったようです。田村神社は、国府にも近いし、秦氏の氏寺とされていますので、その背後に在庁豪族としての秦氏の力もあったのでしょう。しかし、三豊の大水上神社が二宮とされたのは、どうしてなのでしょうか? この神社は二宮川の源流に鎮座し、弥生時代の青銅器も流域からはいくつも出土しています。古代以来の聖地だったことは分かるのですが、それを支えた豪族(氏神とした氏族)となると、よく分かりません。手がかりは、流域の古墳後期の大型石室をもつ古墳や古代寺院妙音寺を建立した勢力です。これを「丸部部臣(わにべのおみ)氏」と考える研究者もいるようです。どちらにしても、この時期に大水上神社が二宮に指定された背景には有力豪族の存在があったと思うのです。
万寿二年(1025)東国疫病の流行で、上野国では郡司七人が死去したり、佐渡では百余人が死亡しています。
当時は疫病は、地方神をないがしろにした祟りであると云われました。国司は、疫病退散のために任地に向かい儀式を行うことが求められます。そうしなければ職務怠慢と責任問題になります。
甲斐守藤原公業は「祈願のため、勧農のため」に三月二十四日任国に下向しています。(『小右記』)。
上野では康和二年(1100)雨が降らず早魃で庶民が苦しみます。上野介藤原敦基は、日代平周真を甘楽郡の抜鉾社に派遣し、宝剣を奉納して、「甘膏を牛漢に仰せ」と漢祭によって「十句之雨」を祈願しています(『本朝続文粋』)。

当時は疫病は、地方神をないがしろにした祟りであると云われました。国司は、疫病退散のために任地に向かい儀式を行うことが求められます。そうしなければ職務怠慢と責任問題になります。
甲斐守藤原公業は「祈願のため、勧農のため」に三月二十四日任国に下向しています。(『小右記』)。
上野では康和二年(1100)雨が降らず早魃で庶民が苦しみます。上野介藤原敦基は、日代平周真を甘楽郡の抜鉾社に派遣し、宝剣を奉納して、「甘膏を牛漢に仰せ」と漢祭によって「十句之雨」を祈願しています(『本朝続文粋』)。

諸国での護国法会は国司の義務でした。
そのため特定の寺社を選んで祈願するようになります。この抜鉾社が中世には、上野国一宮貫前神社になります。
相模では国司橘輔政・藤原惟親の代には、国分寺の砂金や資財を国衛財政のために借用したままで、修繕が行われずに荒廃する一方になります。(『小右記』)。


讃岐国分寺(復元模型)
国分寺は国によって、荒廃の度合いの格差が大きかったようです。
院政期なると、国府周辺の郡に国一宮、国衛、惣社、国分寺などが。それぞれ地方の実情にあわせて整備されていくようになります。国衙の政(祀まつりごと)のために、宗教的な施設や舞台は必要なのです。こうして、国鎮守や護国法会の最勝講・仁王会、流鏑馬、般若会などの年中行事が整備された舞台で行われるようになります。
国衛には次のような関係書類が残されています。
「神社下符毎年員数事、仏寺同前」「国内神社員事、国寺事」「神社仏寺免田事」
この「国内寺社」「国寺」が、国衛在庁が管理していた寺社になるようです。ここで注意しておきたいのは、ここに登録されている寺社は、古代の式内社とは異なると云うことです。新しい中世的な国内寺社秩序に基づいて、登録されたものになっています。
讃岐の場合だと、延喜式内神社28社の全てが「国内寺社」として把握されたわけでありません。国府の管理下から離れた神社は、氏神とした豪族達の衰退と共に、姿を消して行きます。そして明治になって式内社神社捜しが行われるまでは、忘れ去られてしまった神社もありました。

讃岐の場合だと、延喜式内神社28社の全てが「国内寺社」として把握されたわけでありません。国府の管理下から離れた神社は、氏神とした豪族達の衰退と共に、姿を消して行きます。そして明治になって式内社神社捜しが行われるまでは、忘れ去られてしまった神社もありました。

以上をまとめておくと、
①かつて各国の一宮神社は、院政権力によって全国一律に画一的に整備されたものとされてきた。
②しかし、延喜式には式内神社をクラス分けした記録はない。
③「一宮制」「一宮惣社制」は、最初からあったものではなく、現在の一宮や二宮は、中世になって格付けされたものである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。①かつて各国の一宮神社は、院政権力によって全国一律に画一的に整備されたものとされてきた。
②しかし、延喜式には式内神社をクラス分けした記録はない。
③「一宮制」「一宮惣社制」は、最初からあったものではなく、現在の一宮や二宮は、中世になって格付けされたものである。
参考文献
井原今朝男 中世寺院と民衆 中世社会の時代的特質 所収
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