小豆島霊場の真言宗のお寺では、今でも日常的に護摩祈祷を行っています。そこで用いられるのは四角い護摩壇です。ところが三角の護摩壇もあったようです。これは特別なもので、悪霊や邪悪なものを鎮めてしまう時に用いられたようです。その三角の護摩壇が寺の名前になっているのが三角寺のようです。どんな悪霊を鎮めたのでしょうか?
イメージ 1

四国偏礼霊場記』は三角寺の歴史について、次のように書いています。
此寺本尊十一面観音、長六尺二寸、大師の御作、甲子の年に当て開帳す。今弥勒堂を存ず。慈尊院の名思ひあはす。もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂相並ぶときこえたり。社の前、池あり。嶋に数囲の老杉あり。大師の時、此池より龍王出て、大師御覧ぜしとなん。庚嶺はもろこしの梅の名所也。此所も本、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

意訳変換しておくと
①この寺の本尊は十一面観音で、大きさは長六尺二寸。大師の御作で、60年毎の甲子の年に開帳する。
②今は弥勒堂があり、これにちなんで慈尊院と云うのだろうと思い当たる。
③もともとは阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂が並んでいたという。
④社の前に池があり、その中の嶋に大きな老杉がある。弘法大師も、この池から龍王が出て行くのを見たという。
⑤庚嶺は、もろこしの梅の名所となっている。ここももともと、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

イメージ 2

ここからは次のような事が分かります。
①②については、弥勒菩薩は慈悲の仏だといわれているので「慈尊」は弥勒のことになります。それで慈尊院という名前がおもい合わされると、『四国偏礼霊場記』は書いているようです。この「お寺のもともとの本尊は弥勒菩薩だったのが、後から十一面観音を移して本尊としたと研究者は考えているようです。
③には、阿弥陀堂がありますので、ここが熊野系の念仏聖の拠点だったようです。周辺に真言念仏の信者達がいたことがうかがえます。
④社前の池で弘法大師は三角護摩壇で祈祷を行い、龍王を追い出した。ここから三角寺と称したのだと解釈しています。
三角形の護摩壇の跡 三角の池 - 四国中央市、三角寺の写真 - トリップアドバイザー
雨沢龍王

 ③に挙げられる緒堂の中の「雨沢龍王」を見ておきましょう。
これは龍王山の龍王です。これを調伏するために三角の護摩壇がありました。「社の前に池あり」の「社」とは、雨沢龍王の社伝を指します。その前に池があったようです。今は、龍王ではなくて、島の中に弁天さんが祀られています。かつては善女龍王を祀っていた社が、庶民の信仰変化を受けて弁天さんに取って代わられているのと同じ現象です。今は龍王は、奥の院の仙龍寺でまつっているようです。
③には「大師御覧ぜしとなん」と書いていますが、由来には
「龍を追い出した、あるいは調伏して水を出すことを誓わせた」

とされています。つまり、弘法大師がここで龍王を調伏した。それがこの池に設けられた三角護摩壇だということになります。しかし、三角寺の縁起には、悪い龍を弘法大師が追い詰めたら降参して、農民のために水を出しましょうと約束したということが脱落しています。

三角寺(四国第六十五番)の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|13万件以上の神社仏閣情報掲載
三角形の護摩壇跡 今は池になっています

 この寺の起源は龍王の水源信仰にあるようです。
龍はすなわち水神です。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地を十一面観音としたけれども、龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための三角護摩が焚かれて、その結果、水を与え、農耕を護る水神となったという信仰がもとになって、縁起ができているようです。旱魃に苦しむときには里の人々は、三角寺の僧侶(修験者)に護摩祈祷を依頼したのでしょう。
四国中央巡り7】オススメ!幽玄の世界『奥の院 仙龍寺』 : 【エヒメン】愛媛県男子の諸々
奥の院 仙龍寺

  それでは、その水源はどこにあるのでしょうか。
三角寺周辺には、それらしきところが見当たりません。
それは龍王山の反対側の山向こうの谷にあります。そこには龍がいるということから、現在は仙龍寺という名前になっています。これが三角寺の奥の院でした。仙龍寺は何故か、四国霊場全体の総奥の院とも称しています。
 実は昔の奥の院は、現在の仙龍寺のもっと上にあったようです。旧奥の院跡としておきましょう。これが仙龍寺と三角寺の共通の奥の院になります。そこが水源信仰の聖地だったようで、その水源神として祀られていたのが雨沢龍王です。その本地仏は十一面観音でした。雨沢龍王は龍王山の龍王になります。龍王は荒れやすい神です。それを鎮めるための護摩が焚かれて、いつしかそれが水を与え、農耕を護る水神へと姿を変え今に伝わる縁起ができたと研究者は考えているようです。 四国・愛媛】龍が棲む山 仙龍寺 | 備忘録

今度は三角寺の奥の院仙龍寺の歴史を見てみましょう
①里人は里から望める龍王山を龍の住む霊山として崇めた
②そこに弘法大師(熊野系修験者)がやってきて龍王を調伏した
③そして旧奥の院に、水源神として雨沢龍王やその本地物・十一面観音が祀られた。
④旧奥の院の下流の行場には、多くの行者が滝行や窟寵りをするために訪れるようになった
⑤そこに仙人堂を建てられ、仙龍寺として独立し、後には舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化した
⑥仙龍寺の大師は「作大師」として米作の神とされるのは、旧奥社以来の水源信仰を受けているから。
 この仙龍寺や宿坊の運営に関わったのが地元の「めんどり先達」と呼ばれる熊野先達たちでした。彼らは旦那を熊野詣でに誘引すると同時に、仙龍寺やその宿坊の「広報活動」を展開したようです。仙龍寺の信者達が中国地方や九州からもやって来ていたのは、そのような背景があるからだと私は考えています。

澄禅の「四国辺路日記」には、65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

昔ヨリケ様ノ(中略)者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
昔から住み着いた住持が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①仙龍寺の住持が、念仏信仰者に対して激しい嫌悪感を示していること。
②それに対して、澄禅は厳しく批判していること。ここから彼自身は念仏信者であったこと
③澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたこと
④しかし、17世紀後半の仙龍寺では念仏排斥運動が起こっていたこと
⑤一方、三角寺には阿弥陀堂が建立され、念仏信仰が保持されていたこと
この時期に修験者たちの間には、念仏排斥運動が起きていたのかもしれません。
1三角寺~仙龍寺 遍路地図

三角寺は、いつ、どのように姿を見せたのでしょうか
中世の辺路修行者は、行場で修行するために霊場を廻っていました。しかし、近世の遍路はアマチュアで辺路修行は行わず、納経と朱印が目的化します。彼らにとって険しく不便な山の上の札所に行く必要はないのです。そのため札所寺院は、遍路の便を図って里に下りてくるようになります。
 仙龍寺が札所では、平石山を超して遍路はやって来なければなりません。仙龍寺には、瀬戸内側の平石山の北麓に、弥勒菩薩を本尊とする末寺の慈尊院がありました。ここを新しい札所にすることにします。こうして、雨沢龍王の本地仏であった十一面観音は旧奥の院から慈尊院に下ろされて本尊とします。そして、龍王を調伏するための三角の護摩壇が作られたり、雨沢龍王などのお宮やお堂が並ぶようになります。こうして、今までの慈尊院が三角寺と呼ばれるようになります。
つまり、仙龍寺も三角寺も旧奥の院から「里下り」したお寺さんなのです。ところが、後に仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、現在では関係が断ち切られているようです。その原因は、三角寺が弘法大師信仰に転換してから起きたようです。それはまた別の機会にして・・。
65番札所 三角寺遍路トレッキング - さぬき 里山 自然探訪&トレッキング

三角寺に残された古い仏像を見てみましょう
①本尊は平安時代前期、十世紀前半の十一面観音立像で、四国内でも屈指の古像
②毘沙門天立像は足下に地天が置かれた兜跛毘沙門で、平安時代後期十一世紀の制作
③不動明王も平安時代末期12世紀の古像
④本堂には平安時代後期11世紀の聖観音菩薩立像
⑤別の御堂には、朽ち果てた尊名不明の大きな像(平安時代後期以前)
 ここには、平安時代後期の仏達がそろっています。
以上からある研究者は三角寺を、次のように高く評価します
「四国霊場の中でも、屈指の古い歴史を誇り、特筆すべき重要な寺院」

現在の本尊とされている①の「十世紀前半の十一面観音立像」ですから、同じ時期には三角寺も現在地に建立されたものと私は考えていました。ところがそうともいえないことは、先述したとおりです。近世になって三角寺が旧奥の院から里下りしてきたときに、移されたもののようです。残念ですが三角寺には古代・中世の史料がないので、詳しい寺歴が分かりません。その姿が見えてくるのは16世紀末期になってからです。

三角寺 本堂 - 四国中央市、三角寺の写真 - トリップアドバイザー

 本堂内に安置されている騎獅文殊像には胎内銘が記されます。それを要約すると、次のようになります。
①文殊像の造立には四国辺路の供養のため、里山(三角寺周辺)の諸旦那や辺路衆が参加した
②施主は三角寺の乗慶、仏師は薩摩出身で、法花寺に住した佐意
③三角寺奥院(仙龍寺)の慶祐と、その弟子も助力して
④文禄二年(1593)に造立された
 これに関連して三角寺の麓にある東本願寺末の正善寺の縁起は、次のように伝えます
⑤日向国出身の山川刑部大輔五郎左工門国秀が、永禄年間(1558~70)中に当地に来た。
⑥そして、この土地の永蔵坊とともにふたりで秘仏を背負い四国霊場を巡拝した
⑦やがてこの地に住み着いき、水蔵坊が正善寺を開いた
ここに登場する五郎左工門国秀や永蔵坊は、廻国聖か山伏のような修行者だと研究者は考えているようです。二人は秘仏を背負って「四国辺路修行」を行っています。これがすぐに②の胎内銘の法花寺の仏師佐意と直結するものではないかもしれません。
しかし、次のような事は分かります。
①この文殊苦薩像は四国辺路衆が関与したこと
②三角寺奥院(仙龍寺)には、中納言や少納言と名乗る僧がいたこと
③仏師が九州薩摩から移り住んだ山伏か廻国聖とみられる人物であったこと
ここからは戦国時代頃の三角寺も、廻国性の強い修験者や聖達を受けいれやすい雰囲気に包まれた寺院であったようです。
その後、寛文十三(1673)に本堂(観青堂)が建立されます。
その棟札からは、次のような事が分かります。
①発起人は山伏の「滝宮宝性院先住権大僧都法印大越家宥栄」と「奥之院の道正」です。
②本願は「滝宮宝性院権大僧都宥園と奥之院の道珍」
③勧進は「四国万人講信濃国の宗清」
④導師は地蔵院(萩原寺)の真尊上人
 このうちで①の「大越家」は当山派で大峰入峰三十六度の僧に与えられる位階で、出世法印に次ぐ2番目の高い位になるようです。宥栄は当山派に属する修験者たちの指導者であり、本山の醍醐寺や吉野の寺寺へ足繁く通っていたことが分かります。江戸時代初期の三角寺や奥の院には、それ以前にも増して山伏や勧進聖のような人物が数多くいたようです。
 気になるのは③の「四国万人講信濃国の宗清」です。四国万人講とは、どんな組織で、活動内容はどんなことをしていたのでしょうか。四国辺路をする人々に勧進を行っていたのかもしれません。これらの人物は、三角寺住持の支配下で勧進など、さまざまな宗教活動していたのでしょう。それが本堂再建(創建?)の原動力になっていたはずです。そして、ここには藩主の寄進や保護はみられません。

④の導師を勤めているのが萩原寺(観音寺市)の真尊上人であることも抑えておきたい点です。
萩原寺は、雲辺寺の本寺にも当たります。ここからは、三角寺は萩原寺を通じて雲辺寺とも深いつながりがあったことがうかがえます。高野山の真言密教系の僧侶のつながりがあるようです。もちろん彼らは弘法大師信仰の持ち主で、その信仰拡大のために尽力する立場の人たちです。
次いで貞享四(1687)年には、弥勒堂が建されます。
これは、四国における弘法大師入定信仰の拡がりを示すものだと研究者は考えているようです。弘法大師入定信仰と「同行二人」信仰は、深いつながりがあることは以前にお話ししました。
このように江戸時代初期前後の三角寺は「弘法大師信仰+念仏信仰+修験道」が混ざり合った宗教空間であったようです。
現在の四国霊場の形成史を研究する人たちは、霊場の起源を熊野信仰に求めようとしています。
霊場の多くが熊野権現を鎮守としていることから、霊場の開山は熊野行者によって行われたと考えるのです。その後に、若き日の空海のような沙門たちや、行者達がやってきて、行場として賑わい、そこに庵ができてお寺へと成長して行くという物語になります。
 その寺院は、ときどきの流行の仏教信仰に刻印されます。高野系の念仏僧によって、阿弥陀信仰の拠点になったり、弘法大師信仰が高まるとそれを受けいれたり、同時に弥勒信仰を受けいれたりしていきます。そのため霊場に伝わる仏教思想は重層的です。いろいろな痕跡を見せてくれます。三角寺も、雨乞い信仰=龍神信仰、熊野信仰、阿弥陀信仰、弘法大師信仰、弥勒信仰などの痕跡がお堂や残された仏像から見えてきます。

三角寺に残る熊野信仰の痕跡を見てみましょう
熊野に残る「熊野那智人社文書」には、次のような伊予の旦那売券があります。
永代うり渡□旦那之事芋
合八貫九百文
右彼旦那ハいせの国高野之宮成寺円弟引、
同いよのめんとり先達 
同法華寺、何も地下一族ニ 依有用々
永代八貫九百文二廓之坊へうり渡申処実正也(後略)
永正二年三月二十日        山城
廓坊                      助能(花押)
「伊与国もれ分先達之事」
一、めんとり先達三角寺法花寺の坊
一後略)
意訳変換しておくと
熊野先達の旦那権利について、八貫九百文で永代売り渡すことについて
伊勢国高野の宮成寺円弟が保持していた伊予の旦那権を、伊予のめんとり(妻鳥)先達の三ヶ寺と法華寺に永代譲渡する。以後は、地下(じけ)によって旦那権を管理する
この永代権を八貫九百文で廓之坊へ譲渡する(後略)
ここからは次のような事が分かります。
①永正二年(1505)三月二十日に伊勢の先達から伊予のめんどり先達が伊予の旦那権を購入したこと
②「めんとり先達三角寺法花寺の坊」とあるので、めんとり(妻鳥)先達と総称される中に、三角寺と法花寺も含まれていること
③したがって三角寺や法花寺の寺中に、熊野先達として活動した人物がいたこと。
以上からは、16世紀初頭から戦国時代にかけて、 三角寺周辺の旦那達が、これらの先達に率いられて熊野に参詣していたことがうかがえます。そして本堂に安置される四国辺路供養の文殊菩薩像に銘文にある三角寺と法花寺とは、このニケ寺になると研究者は考えているようです。
  このように三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が活発な活動を行っていたことが分かります。

最後に、三角寺周辺の熊野行者はどのようなルートでやって来たのでしょうか。
P1190594
新宮の熊野神社(四国中央市)

   伊予の古い勧請事例は大同二年(807)勧請と伝えられる旧新宮村の熊野神社です。東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの新宮村の熊野神社を拠点に愛媛県内に入ってきたと研究者は考えているようです。その意味で新宮の熊野神社は、宇摩地方の熊野信仰の布教センターの役割を果たしたようです。そのため次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
四国霊場の三角寺やその奥社の仙龍寺は、熊野行者の行場が里下りしたお寺のようです。 
参考文献
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰