多度津周辺の島や海岸部のお墓と寺院・神社の関係を見ていくと、そこに高野聖の痕跡が見えてくるようです。南無阿弥陀仏を唱え、阿弥陀・念仏信仰を庶民に広げた高野聖の姿を追ってみましょう。まずは備讃瀬戸の島巡りです。
佐柳島長崎の埋墓
島の北側の長崎集落では、かつては海沿いに死体を埋め、黒い小石を敷き詰め、その上に「桐の地蔵さん」という人形を立てました。それが「埋め墓」です。月日をおいて、骨を取り出し、家毎の石塔を立てた「拝み墓」に埋葬します。「埋め墓」と「拝み墓」を併せて、両墓制と呼びます。佐柳島の埋め墓
佐柳島の埋め墓の特徴は、広い墓地一面に海石が敷きつめられていていることです。この石は、全部海の中から上げた石だそうです。ここでは埋葬にはほとんど穴を掘らず、棺を地上に置いてそのまわりに石で積んだようです。その石は親戚が海へ入って拾い上げて積みます。
『万葉集』の巻二は、ほとんど挽歌ですが次のような歌があります。
「讃岐狭岑島(沙弥島)に石中の死人を視て、柿本人麻呂の作れる歌」
「(上略)名ぐはし 狭岑(沙弥)の島の 荒磯面に 廬りて見れば 浪の音の 繁き浜辺を 敷妙の 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ(下略)」
意訳変換しておくと
讃岐坂出沖の沙弥島にて、石中に眠る死人をみて柿本人麻呂が作った歌
名ぐはしき沙弥島の荒磯に舟から下りてみると 浪の音の繰り返す浜辺に 砂を枕にして 荒磯を床にして臥す君がいた
君の家を知っていれば 飛んでいって家族に告げようにも それもできない 無念なことだ」
「石中の死人」から、死体のまわりに石を積んであったこと、つまり積石だったことがわかります。おそらく古代の沙弥島も佐柳島も、同じような葬法がとられていたのでしょう。このような積石は、もともとは風葬死者の荒魂を封鎖するものでした。それが時代が下がり荒魂への恐怖感がうすれるとともに、死者を悪霊に取られないようにするという解釈に変わったと研究者は考えているようです。
そして、肉親のために石を積む気持が、死者を悼み、死後の成仏を祈る心となって、供養の積石(作善行為)に変わっていきます。
佐柳島の埋め墓で、海の石を拾ってきて積むというのも供養の一つの形なのでしょう。
ここには寺はありません。古い地蔵石仏(室町時代?)を祭った小庵があるだけです。同じ佐柳島の本浦集落の両墓制は、海ぎわに埋め墓があり、その上の小高い岡の乗蓮寺周辺に拝み墓があります。
佐柳島に行く途中にフェリーが立ち寄る高見島の浦と浜の両集落にも、両墓制の墓地があります。それぞれの墓地に大聖寺と善福寺がありました。拝み墓が成長して、近世に寺になったようです。島をやってきて最初に住持となったのは、どんな僧侶なのでしょうか?
多度津の陸地部でも、見立(みたち)浜の墓地は、かつては埋め墓と拝み墓の両墓地が分けられていたようです。
その隣の、西白方の西の浜の墓地のすぐ近くに熊手八幡官があり、宝光院、上生寺もあります。東白方の墓地の一枚の田を隔てた南側に、荒神さんという字の氏神があります。
墓と寺と宮とは別々のもののように今は思われていますが、神仏分離以前の日本人の感性としては、どれも人の霊を祭る所で同じものだったようです。明治以後に見方が変えられただけです。この墓と寺と宮は三位一体で混淆していましたから、一緒に祀られているのは当然だったようです。
その隣の、西白方の西の浜の墓地のすぐ近くに熊手八幡官があり、宝光院、上生寺もあります。東白方の墓地の一枚の田を隔てた南側に、荒神さんという字の氏神があります。
墓と寺と宮とは別々のもののように今は思われていますが、神仏分離以前の日本人の感性としては、どれも人の霊を祭る所で同じものだったようです。明治以後に見方が変えられただけです。この墓と寺と宮は三位一体で混淆していましたから、一緒に祀られているのは当然だったようです。
中世の堀江周辺の地形復元図 東西に伸びる砂州の背後に潟湖があった
中世に多度郡の津があった堀江の墓場を、多度津町史は、次のように記します。
中世に多度郡の津があった堀江の墓場を、多度津町史は、次のように記します。
集落の中央に観音堂があり、えんま像が祀られてる。堂の裏に古い墓がある。堀江の古くからの家は、観音堂に祖先の古い墓を持っている。墓地の裏はすぐ海である。表側では少し離れて西に弘浜八幡宮があるが、海側から見るとすぐ近くである。
墓地に観音さんを祭って堂を建て、それが寺になったのが観音院で、今は少し離れて東に大きな寺となっている。観音院の本尊は観音の本仏である阿弥陀仏である。寺号の伊福寺のイフクという言葉も、土地から霊魂が出入りするという信仰に基づくものと思われる。宮と墓と寺と一直線に結んで町通(まつとう)筋という、広い道があり、堀江集落の中心をなしている。両墓制から生まれた寺は心のよりどころとして、仏を祀るところともなる。この種の寺は民衆の寺である。
ここからも先祖供養の墓地に、観音堂が建てられ、それがお寺に成長していくプロセスがうかがえます。また、社も鎮霊施設として墓地周辺にあったことが分かります。
近世から明治にかけては多度津の中心地であった元町周辺のお寺を見てみましょう。
多度津町誌には、桜川改修に伴う極楽橋の着け替え工事の際のことについて次のように記されています。
両岸を掘り下げていた人が金縛りとなって動けなくなったという。不思議なことだと思っていると、沢山の古い人骨と五輪の供養塔が埋まっていた。
またポンプ場工事の時、富士見町の桜川への流れこみの川の底からも、五輪塔が掘り出された。今は埋め立てられて新町になっているが、弁天山のすぐ下まで海が入り込んできていて、古い骨壷が出上したこともある。そこに法輪寺があり、いわゆるえんま堂がある。言うまでもなく墓地である。それから桜川の川口近くの両側は須賀(洲家とも書く)という昔の洲である。
その砂州一帯が、佐柳島と同じように古代には死体の捨て場であったようです。
それが埋葬概念の普及と共に「埋め墓」や「拝み墓」が続くエリアになっていきます。桜川の北側(現JR多度津工場)のあたりには、光巌寺という小庵があり、そこへの参り道に架かるのが「極楽橋」だったようです。そして、橋の南の袂に観音堂がありました。そこから発展したと考えられるのが摩尼院や多門院です。摩尼院の本尊は地蔵さんの石仏です。これは先祖供養の民間信仰から生まれてた「庶民の寺」から発展したお寺らしいと多度津町史は指摘します。
摩尼院の道向こうにある多聞院も同じような性格のお寺だと推測できます。
摩尼院の道向こうにある多聞院も同じような性格のお寺だと推測できます。
多度津の墓場周囲に作られた宗教施設は、民間信仰に根付くもので善通寺などの「鎮護仏教」系の寺院とは異なりました。古代の仏教は、国家・天下の平安を祈るもので人々の現世利益や鎮霊・葬送に応えてくれるものではありません。中世になって、先祖供養や来世往生などの庶民信仰に応えてくれたのは、聖たちでした。時宗聖たちが京都の悪霊(感染症)にたたられた死者を埋葬し、戦国時代には戦場にうち捨てられた死者達を葬り、供養したこと、それを記録として残し、縁者に伝えたことは以前にお話ししました。
瀬戸内海の海運拠点などでも、お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達であったようです。これが、庶民が聖を受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。ここには、高野山系の念仏聖たちの痕跡がいろいろな形で見えてくることは以前にお話ししました。
そして、桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の鎮魂寺として生まれ、発展してきたのが摩尼院や多門院であると多度津町史は考えているようです。(多度津町史912P)
次に摩尼院に残る版木を見てみましょう。
次に摩尼院に残る版木を見てみましょう。
多度津摩尼院の五輪塔形曳覆(ひきおおい)曼荼羅の版木
この版木は縦91、5㎝、横35、5㎝で、表面には五輪塔形裏面には胎蔵界中台八葉院・幡形・
が彫られています。制作年代は江戸時代初期頃とされます。
この版木で摺ったものを葬送の時に、死者に被せました。減罪の功徳を得て、極楽往生を約束する真言・陀羅尼などが書かれています。これが後には、経帷子に変化していくようです。摺られたものは、死者とともに火葬されるものなので、遺品は残りません。しかし、版木が全国で20例ほど見つかっています。五輪塔形曳覆曼茶羅の版木からは、何が分かるのでしょうか?
この版木のデザインは、密教と阿弥陀信仰が融合してキリークが加わり、さらに大日如来の三味形としての五輪塔と一体化します。そして、五輪が五体を表す形になったようです。それが鎌倉時代末の事だとされます
中でも研究者が注目するのは、滋賀・圓城寺や、京都・西明寺のものです。圓城寺の版本は、
A面には五輪塔形、B面には胎蔵界中台八葉院と幡形が彫られ、
その傍らに「南無阿弥陀仏」とともに「承和元年三月十五日書之空海」と彫られています。ここには「南無阿弥陀仏」の六宇名号と空海の両者が登場します。これは
真言密教 + 弘法大師信仰 + 念仏・阿弥陀信仰」
=真言念仏の公式
にぴったりと当てはまります。
西明寺のものには、蓮台の上に「南無阿弥陀仏」、その背後には船形の光背がみえます。光背の上下にはキリークとアがあり、さらに『観無量寿経」と陰刻されています。研究者が注目するのは、版本が納められる箱に「高祖大師御作 船板六字名号二枚 加茂大野邑西明寺什物」とあり、これが船板名号と呼ばれている点です。船板名号は時衆系念仏聖に関わりがあるとされることは、弥谷寺の船板名号で以前にお話ししました。つまり、五輪塔形曳覆曼茶羅には、時宗系の高野聖が関わっていたと研究者達は考えているようです。高野聖の痕跡がうかがえるものが、摩尼寺には残っているのです。
大宝寺の五輪塔形曳覆曼荼羅
この版木が所蔵される摩尼院は、今は多度津町の中心街に位置しています。
しかし、この寺はかつては桜川河口の砂州の上の両墓制のお墓が広がるエリアの入口付近にあったことは、先ほど見たとおりです。そこで滅罪供養と向き合った高野聖がいたのでしょう。彼は、弥谷寺や白方の海岸寺などの流れをくむ聖であったかもしれません。
しかし、この寺はかつては桜川河口の砂州の上の両墓制のお墓が広がるエリアの入口付近にあったことは、先ほど見たとおりです。そこで滅罪供養と向き合った高野聖がいたのでしょう。彼は、弥谷寺や白方の海岸寺などの流れをくむ聖であったかもしれません。
近世初頭の江戸時代に瀬戸内海交易の活発化に伴って、沿岸拠点湊は成長を遂げていきます。塩飽の島々の湊も、ターミナルセンターの役割を果たし、人とモノと金が動くようになります。
この時期は阿弥陀・念仏信仰をもつ高野聖が、高野山から追放された時期とも重なります。彼らは、中世以来の念仏聖の拠点であった宇多津の郷照寺や弥谷寺に居遇しながら、その活動先を多度津や塩飽などの繁栄する湊町に広げて行ったのではないでしょうか。
鬼念仏(摩尼院)
『祗園執行日記』の康永2年(1343)八月十四日の条には、次のような「営業活動」を行う高野聖の姿が記されています。
高野遁世者正心、師匠寂心の為、教養念仏勧進の次(ついで)、仏舎利奉拝せしむ。一粒奉請するの処、当座に於て二粒分散し了んぬ。巳上三粒なり、又袈裟十帖代三連渡し了んぬ
意訳変換すると
高野聖正心は、亡師の追善供養という口実で仏舎利を参拝させ、結縁(寄進)をよびかけていた。このときに私(顕詮)が、仏舎利一粒を奉請(借りうけてまつる)すると、分散して三粒になる奇瑞があった。引導袈裟10枚を買って3連(1連=100文)を渡した。
ここには、高野の時宗化下した念仏僧が、京都の四条橋あたりで、笈(おい)を据えて仏像を掲げ、仏舎利をかざり、鉦をうちながら寄進を呼びかけている様子が描かれています。研究者が注目するのは最後の「袈裟十帖代 三連渡し了んぬ」と袈裟10枚を300文で売っていることです。
念仏勧進は、ただで念仏させるのではなくて、六字名号の念仏紙(賦算札)を拝受させ、うけた喜捨の何分の一かは高野山におさめ、のこりは聖の収人となったようです。その上に、舎利を貸し出しして喜捨をうけ、なお引導袈裟を売るのですから、なかなかよい商売です。高野山からの出張路上販売とも云えます。
この時代から250年後の多度津の摩尼院の高野聖は、五輪塔形曳覆曼荼羅(引導袈裟)を、自前の版木をそろえって、自分の寺で摺って「販売」していたのです。こうして塩飽諸島の繁栄する湊にも滅罪供養のために高野系の念仏僧が定着するようになり、それが寺院に成長して行ったというストーリー(仮説)が考えられます。それは、あまり古いことではなく中世末から近世初頭にかけてのことのように思えます。
以上をまとめておくと
①中世の多度津周辺の海辺の湊には、海岸に死者を埋葬する風習があり、「埋め墓」「拝み墓」という両墓制が見られた。
②その周辺には、観音堂が建てられ阿弥陀仏が祀られたりするが最初は無住であった。
②死霊に対する鎮魂意識が広がった中世に、滅罪供養に積極的に取り組んだのは高野の時宗系念仏聖であった。
③高野聖は、阿弥陀・念仏信仰のもとに極楽浄土への道を示し、そのためのアイテムとしてお札や
引導袈裟を「販売」するようになる。
④江戸幕府の禁令によって高野山を追放された念仏聖先は、定着先を探して地方にやってくる。
⑤その受け入れ先となったのが、荒廃していた四国霊場や、滅罪供養のお堂などであった。
⑥多度津の摩尼院では、高野系念仏聖がもたらした五輪塔形曳覆曼荼羅(引導袈裟)の版木が残っている。ここからは、高野聖の滅罪寺院への定着がうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
多度津町史 第9編 寺社と信仰(911P~)
武田和昭 四国辺路の形成過程
関連記事
関連記事
コメント