「貞観三年記録」にみえる空海の兄弟たち
「貞観三年記録」には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内11人の名前とその続き柄が記されています。それらの人物を系譜化すると下の系図のようになります。
この系図は以前に見ましたので、分かること、疑問に思うことを要約して指摘しておきます

①空海家の苗字は、佐伯直氏であること。②父は田公で、官位はないこと(無冠)③空海には、弟たちが4人いたこと。(ここには記されませんが妹もいたようです。)④一番下の弟真雅とは、年齢が27歳離れること。
以上からは、次のような事が推察できます。
①空海の父田公には、官位がないので郡長等の政治的な職務にはついていなかった
②父田公の家系は佐伯直家の本流ではなく傍流であった。
③田公の兄弟の中に佐伯直本家を継承する一族がいて郡衙の郡長等に就いていた
④本家筋は、田公一族に先駆けて都に本籍を移し、中央貴族への道を歩み出していた。
⑤田公は官位がなかったがその息子達は、僧侶になった空海・真雅以外は官位を得ている。
⑥田公の時代に、一族の急速的な経済的な上昇があったことが考えられる。
⑤空海の甥たちの課題は、空海や真雅などの高僧をだした家として、本家一族のように本貫を京に移し中央貴族への道を歩み出すことにあった。
佐伯直一族をとりまく情勢を押さえて上で、空海の高弟達を視ていくことにします。平安京で活躍した讃岐の佐伯一族は、空海のあとに何人かの高僧を輩出します。
空海をはじめとする讃岐の五大師です。
①空海高弟集団のトップとされる実恵=道興大師②空海の実弟である真雅 =法光大師③空海のおいで因支首(和気)氏出身=智証大師④真雅の弟子である聖宝 =理源大師 醍醐寺創設
このうち、空海の甥になる和気氏出身の智証大師(円珍)は、空海と対立していた最澄のもとで、のちに天台宗座主となります。それ以外は、すべて真言宗の法灯を継いでいます。④の理源大師以外は、佐伯氏の血脈に連なる者達なのです。この点に焦点を当てながら、空海の後継者となった実恵を、見ていくことにします
実恵は、延暦四年(785年)多度郡に生まれたといいます。


松原氏が考える上の系図によると、田公とは異なる佐伯直家本家筋にあたるようです。空海が774年生まれですから年齢的には一回り若いことになります。ちなみに空海と末弟の真雅よりは15歳ほど年長という関係でしょうか。
実恵が生まれた時には、まだ空海は善通寺にいたかもしれません。空海から見れば「佐伯家本家の従兄弟」にあったり、幼い実恵とは顔見知りだったと考えることもできそうです。
奈良・大安寺で得度し、空海が唐から帰って京都高雄寺を拠点としていた時代から傍らにいたようです。そのため空海第1の弟子とされます。弘仁元年(810年)に、数ある弟子の中から一番早く実恵に胎蔵・金剛両部灌頂を授けていますので、空海の信頼や期待も高かったことがうかがえます。
また、高野山開創の際に、空海が先行派遣させているのも実恵と泰範です。弘仁八年(817年)32歳の時になります。実恵が大阪府河内長野市に観心寺を開創したのは、その十年後の天長四年(827年)です。この頃になると、空海は多忙に追われながら体は悪性の腫瘍にむしばまれ、信頼をおく実恵をかた時も離さなかったようです。
「わが滅後、諸弟子は実意によりて教えを受くべし」
と、東寺の学僧たちに空海が指示したと伝えられています。
東寺の最高位は「東寺長者」と呼ばれ、その歴代が『東寺長者補任』(『群書類従』巻第五十八所収)にまとめられています。空海と実恵の部分を見てみましょう。
(承和)同二年乙卯 長者大僧都空海。正月八日。於宮中真言院被始行後七日御修法。依重宣下止勘解由司庁号内道場真言院。三月廿一日丙寅。寅尅。於金剛峯寺御入定。年六十二。同三年丙辰 長者権律師実恵。五月十日任権律師。年五十一同四年丁巳 長者権律師実恵。同五年戊午 長者権律師実恵。同六年己未 長者権律師実恵。同七年庚申 長者権律師実恵。九月廿八日。転任少僧都。年五十五。同八年辛酉 長者少僧都実恵。権律師真済。十一月九日。任権律師并長者。四十三。元内供。二長者初也。同九年壬戌 長者少僧都実恵。権律師真済。同十年癸亥 長者少僧都実恵。権律師真済。同十一年甲子長者少僧都実恵。権律師真済。同十二年乙丑長者少僧都実恵。権律師真済。同十三年丙寅長者少僧都実恵。権律師真済。同十四年丁卯十五年六月十三日改元。長者少僧都実恵。十二月十二日入滅。年六十二。寺務十二年。号檜尾僧都。法禅寺是也。権律師真済。四月二十三日転正律師。十一月至一長者。年四十八。 権律師真紹。四月二十三日任権律師。十一月補二長者。年四十二。
毎年の東寺長者名とその年齢がが記されています。最初に記されているのが空海です。その後に「実恵 → 真済」と引き継がれていったこと、また実恵が東寺長者に就任したのが51歳の時だったことが分かります。実恵が「真言二祖」と呼ばれたのは、空海に続いて「東寺長者」に就任したからだったようです。
空海が亡くなった翌年の承和三年(836年)、実恵は唐の長安、青竜寺にある空海の師・惠瓊和尚の墓前に空海の死を報告する一文をしためています。
……その後、和尚、地を南山に卜して一伽藍を置き終焉の処とす。今上の承和元年をもって都を去り行いて住す。二年の季春、薪尽き火滅す。行年六十二。ああかなしいかな。南山、白に変じ、雲樹悲しみを含む……。
この報告文は、弟子の真済、真然の二人が入唐するのに託したものす。しかし、出発後間もなく船が難破して失敗、翌承和四年(837年)の入唐僧円行へ改めて託します。ところが円行の乗った船もまた途中で引き返し、翌年五月に再度出発し、目的を果たす。実彗の書いた名文は三度目にやっと長安。青竜寺の恵果和尚の墓前に供えられたようです。
このことは、実恵の記録の中で必ず触れられます。先代の葬儀を執り行うことは、後継者の正当性を示すことにもなります。長安の恵果墓前への報告も、実恵の後継者としての正当性の主張のひとつと私は考えています。つまり、高野山の真雅との間に、何らかの確執があった可能性があります。
実恵は、東寺の別当職として真言宗門を率いるトップの座に座ります。
彼の人柄は、師の教えに忠実な、極めて実直な性格だったと研究者は考えているようです。そのため強い政治力を発揮するといったタイプではなかったようです。ある意味。大きな支えであった空海を失ったあと、真言宗の統率は、実恵にとって重荷だったのかもしれません。
実恵の没年は承和十四年(847年)11月で、空海と同じ62歳です。その生涯の業績を見てみましょう。
空海が没した後に直面した課題は、未完成のままの東寺伽藍群です。
それは食堂をはじめ、わが国最大の五重塔などを完成させることです。これを朝廷の厚い保護を受けながら完成させて、東寺別当の地位を固めます。
しかし、空海が初めて創設した庶民の学校である綜芸種智院を廃校にし、校舎を処分しています。承和12年(845)9月のことで、空海の没後十年のことです。このため
「わが国初の庶民の学校として空海の肝いりで作られた綜芸種智院を廃校にした実恵」
という評を後世には受けるようになります。東寺の伽藍整備に精いっばいだった実恵には、付属機関である学校経営まで手が回らなかったとしておきましょう。その代わりとも言えますが、実恵はその二年後の承和十四年(847年)から東寺で「伝法会」を開くようになります。伝法会とは大日経や金剛経など真言密教の教義についての講義や研究を行うもので、空海の教えを忠実に守り広めていこうとする実恵の意図がうかがえます。
この伝法会の開催には多額の経費が必要だったようです。そのために、綜芸種智院の建物を処分した費用で丹波国(兵庫県)の大山に荘園を買い求め、その荘園からあがる年貢で賄ったと云われます。しかし。これも、彼の没後には中絶してしまいます。
実恵は師の教えを忠実に守った律義者としての性格が強いようです。
例えば彼が好んだ仏像の作風は、師の空海とは違い、繊細な日本的風潮だったようです。
東寺御影堂の不動明王(平安初期作 国宝)は、空海の念持仏と伝えられますが、その作風は空海独特のインド的な神秘さではないと研究者は考えているようです。

また河内長野市の観心寺の本尊の如意輪観音像(国宝)も、日本的です。ここからこの2つの仏像は、実恵時代に作られたものでないかとという見方もあるようです。
実恵は、承和十四年に亡くなります。
その後、千年近くたった江戸時代の安永三年(1774年)8月に、後桃園天皇から道興大師の号を贈られます。空海後の真言宗門の混乱を未然に防いだ実恵の功績は高く評価されます。しかし偉大でありすぎた師の空海の陰で、目立たない性格ゆえに、実恵の存在に人々の目は向けられなかったようです。
その後、千年近くたった江戸時代の安永三年(1774年)8月に、後桃園天皇から道興大師の号を贈られます。空海後の真言宗門の混乱を未然に防いだ実恵の功績は高く評価されます。しかし偉大でありすぎた師の空海の陰で、目立たない性格ゆえに、実恵の存在に人々の目は向けられなかったようです。
ある本は
「空海の教えのワクから一歩もはみ出ようとしなかった実恵は、ある意味で最も讃岐人らしい讃岐人だった」
と評しています。
ところで、高野山金剛峯寺における空海の後継者は弟の真然(伝燈国師)です。では、実恵と真然、どちらが実質的な後継者だったのでしょうか。年齢的には先ほど見たように実恵のほうが一回り年上のようです。また、空海との関係も実恵の方が緊密で長かったようです。
最後に実恵を、空海の甥たちはどのように見ていたのかをみておくことにしましょう。
空海の甥たちが本貫を京都に移すことを政府に願い出た 「貞観三年(861)の記事」の後半部を、見てみましょう。原文は以前に紹介したので意訳のみにします。


①豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっている。このことは実恵・道雄の功績によること。しかし、我ら田公の一門はまだ改居・改姓ができていない。
②実恵・道雄の二人は、空海の弟子である、 一方田公は、空海の父であり、我らの叔父にあたる。
⑧田公一門の大僧都真雅(空海末弟)は、今や東寺長者となっている。しかし、田公一門と実恵・道雄一門に比べると、格差は明らかである。
③身内の豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、往時をかえりみて悲歎することが少なくない。なにとぞ正雄等の例に従って、宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。
ここからは甥たちの実恵・道雄の本家筋への不満が聞こえてきます。同時にここからは田公の息子や孫たちの系譜は、佐伯直家の傍流であったことがうかがえます。実恵・道雄を輩出した系譜で、佐伯家の本流(本家)だったようです。空海や真雅の系譜は、佐伯家の中では傍流で「位階獲得競争」の中では遅れをとっていたようです。
系図の実恵・道雄系の真持の経歴を正史で確認しておきましょう。、
承和四年(837)十月 左京の人 従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持ら姓佐伯宿繭を賜う。同十三年(846)正月 正六位上佐伯宿爾真持に従五位下を授く。同年 (846)七月 従五位下佐伯宿爾真持を遠江の介とす。仁寿三年(853)正月 従五位下佐伯宿爾真持を山城の介とす。貞観二年(860)二月 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿而真持を玄蕃頭とす。同五年(863)二月 従五位下守玄蕃頭佐伯宿爾真持を大和介とす。
ここからは、本家筋に当たる真持は、23年前の承和四年(837)十月に、すでに佐伯宿雨の姓を賜わっています。また「左京の人」とあるので、これ以前に都に本貫が移っていたことが分かります。そして、真持はその後は昇進を重ね栄達の道を歩んでいきます。
つぎに、正雄の経歴を正史で確認しましょう。
嘉祥三年(850)七月 讃岐国の人 大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿爾を賜い、左京職に隷く貞観八年(866)正月 外従五位下大膳大進佐伯宿而正雄に従五位下を授く。
とあり、正雄は真持におくれること13年で宿爾の姓を得て、左京に移貫しています。ここからは、佐伯家の本家筋に当たる真持・正雄らが田公一門より早く改姓・改居していたことは間違いないようです。
これを空海の甥たちは、どのように思っていたのでしょうか。
「謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。」
と申請文書には書かれています。真持・正雄らの改姓・改居は、実恵・道雄の功績によるというのです。今見てきたように実恵・道雄は、空海の十大弟子です。そして、俗姓は佐伯氏で空海の一族(本家筋)にあたります。
道雄については『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月条の卒伝には、次のように記されます
権少僧都伝燈大法師位道雄卒す。道雄、俗姓は佐伯氏、少して敏悟、智慮人に過ぎたり。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳及び因明を学ぶ。また閣梨空海に従って真言教を受く。(以下略)
とあって、生国は記されていませんが、佐伯氏の出身であったことが分かります。
真持の改姓・改居は承和三・四年(826・837)なので、東寺は東寺長者であった実恵の尽力があったのでしょう。実恵は承和十四年(847)に亡くなっているので、嘉祥三年(850)の正雄の改姓・改居には関わりを持つことはなかったはずです。
これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっているので、前年の正雄の改姓に力があったのでしょう。ここからは、
これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっているので、前年の正雄の改姓に力があったのでしょう。ここからは、
①実恵は真持一門に近い出自であり、②道雄は正雄一門に近い出身
と研究者は考えているようです。
空海の甥たちの思いは、次のようなことではなかったでしょうか。
真持・正雄の家系は、改姓・改居がすでに行われて、中央貴族として活躍している。それは、東寺長者であった実恵・道雄の中央での功績が大である。しかし、実恵・道雄は空海の弟子という立場である。なのに空海を出した私たちは未だに改姓・改居が許されていない。非常に残念なことである。
今、我らが伯父・大僧都真雅は、東寺長者となった。しかし、我々田公の系譜と実恵・道雄一門とを比べると、改姓や位階の点でも大きな遅れをとっている。伯父の真雅が東寺長者になった今こそ、改姓・改居を実現し、本家筋との格差を埋めたい。
地方豪族の中にも主流や傍流などがあり、一族が一体として動いていたわけではなかったことがうかがえます。佐伯一族というけれども、その中にはいろいろな系譜があったのです。空海を産んだ田公の系譜は、一族の中での「出世競争」では出遅れ組になっていたようです.実恵と真雅の間には、本家筋と分家の一族的なつながりと同時に、反目やしがらみがあったことがうかがえます。これは、円珍の場合も同じであることは以前見たとおりです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館」
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