空海のあとを受け継いだ真言教団のリーダーたちをみると、空海の血縁者が多いようです。前回に見た実恵にしても、真雅、真然、智泉など、いずれも空海の血をひく佐伯直氏の出です。初期の真言宗教団のなかで佐伯直氏一族は強い勢力をもっていたことがわかります。空海の死後に、真言宗教団をまとめたのは東寺長者の実恵でした。その後が、空海の末弟の真雅です。しかし、兄の空海とは、年が27歳も違います。異母兄弟と考えるの自然です。
佐伯直家の本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを中央政府に求めた「貞観三年記録」には、空海の身内11人の名前とその続き柄が記されています。それらの人物を系譜化すると下の系図のようになります。
1 空海系図

今回はこの真雅(しんが)を見ていくことにします。
 真雅についての根本伝記は、寛平5年(893)に弟子等よって編纂された『故僧正法印大和尚位真雅伝記』全1巻と、『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条真雅卒伝になるようです。
 それによると、真雅の本姓は佐伯直で、もとは讃岐国多度郡に属していたのが、申請運動の結果、宿禰の姓を賜って佐伯宿禰氏となり、右京に戸籍を移すことになたことが記されます。真雅の兄は空海で、年齢的には27歳も年が離れています。異母兄弟と考えるのが自然です。父と子ほども年齢が離れていることは、頭の中に入れておきます。

真雅 地蔵院流道教方先師像のうち真雅像
真雅像(地蔵院流道教方先師像)

 真雅が生まれたのは延暦20(801)年です。この当時、兄の空海は、大学をドロップアウトし、沙門として各地の行場を修行中です。もしかしたら行方知れずで、弟の生まれたことも知らなかったかもしれません。真雅は9歳の時、讃岐から上京しています。官吏となるためには、この頃からから書道や四書五経について学ぶ必要がありました。しかし、彼の進む道は、兄空海の栄達と共に変化していきます。この時期の空海と真雅の動きを年表で見ておきましょう
801年 真雅誕生
805年 長安で青竜寺の恵果に師事し密教を学ぶ。
806年 明州を経て十月帰国。
809年 上京、高雄山寺に居を構える。
810年 勅許を得て実恵、智泉らに密教を教える。真雅上京
813年 真言密教の本旨を示す。
816年 高野山開創を勅許。(43歳) 弟真雅(16歳)を弟子とする。
817年 高野山開創始まる。
819年 真雅(19歳)に具足戒を授ける。
822年 東大寺に灌頂道場建立。
823年 嵯峨天皇から東寺をもらう。
     真雅(23歳)天皇の御前で真言37尊の梵号を唱誦する。
834年 空海が東寺で実慈と真雅に両部灌頂を受ける。
835年 空海死亡
  真雅にとっては、記憶にほとんどない兄が突然遣唐使になって唐に赴くことになったことは驚きだったでしょう。それがわずか2年で帰国し、その後は密教のリーダーとして飛躍していく姿には、もっと驚いたかも知れません。

大師堂(神護寺) - コトログ京都
神護寺大師堂

真雅が空海と初めて出会ったのは、いつどこででしょうか。
 それを示す史料はありませんが、九州太宰府での「謹慎待機」が解けて、空海が京都の髙尾山神護寺に居を構えてからのことでしょう。それに時期を合わすように、真雅は上京しています。この時期の空海の動きは密教伝来の寵児として、スッタフの拡充充実が求められます。真雅が16歳になるのを待っていたかのように、真雅を出家させ、19歳の時には具足戒を授け、スッタフの一員としたようです。
 真雅は、唐の長安・青竜寺住職恵果和尚から伝えられた新しい密教の教義を、むさぼるようにして兄から学んだのでしょう。そんな真雅を空海は身近において、宮中へも連れて行ったようです。
   『故僧正法印大和尚位真雅伝記』には、真雅の活躍が次のように記されています。
 真雅(23歳)の時、内裏に参入し、御前にて真言三十七尊の梵号を唱え、声は宝石を貫いたようで、舌先はよどみなかったため、天皇はよろこび、厚く施しをした。

また、この年に空海は10月13日には、皇后院で息災の法を三日三夜修法し、12月24日には大僧都長恵・少僧都勤操とともに清涼殿にて大通方広の法を終夜行なっています。このような儀式に空海は真雅を伴って参内したようで、淳和天皇や朝廷の面々の知遇を得ることができました。これが後の真雅の人的ネットワークとして財産になり、空海の後継者の一人としての地盤を固めるのに役立ったようです。
真雅

承和元年(834年)9月、真雅と実慈は、病が重くなっていた空海から東寺で、共に両部灌頂を受けます。空海が後事を託したのは、一族の実恵と真雅の二人だったことがうかがえます。
「東寺長者」には実恵が就きますが、遺命で東寺の大経蔵管理については、真雅に全責任を任したと云います。東寺の大経蔵は、空海が唐から持ち帰ったおびただしい数の経典や密教の法具など一切が納められていた真言密教にとって最も重要な蔵です。ある意味、空海後の真言宗組織は、実恵・真雅の「二頭体制」だったといえるのかもしれません。以後の真雅の動きを年表で追ってみましょう

835年 弘福寺別当、また、一説に東大寺真言院を委託される。
847年 東大寺別当に任ぜられる。
848年 大権律師、9月:律師に任ぜられる。
850年 3月、右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王(後の清和天皇)を生む。
     真雅は親王生誕から24年間、常に侍して聖体を護持
853年 惟仁親王のために藤原良房と協同で嘉祥寺に西院を建立。
860年 真済死亡後の東寺長者となる(先任二長者の真紹をさしおいて就任)
862年 嘉祥寺西院が貞観寺と改められる。
864年 僧として初めて輦車による参内を許される。
874年 7月、上表して僧正職を辞するが許されず(その後、再三の辞表も不許可)。
879年 1月3日、貞観寺にて入滅。享年79歳79。
1828年 950回忌に、法光大師の諡号が追贈。

この年表を見ると、850年の清和天皇の誕生が真雅の大きな転機になっていることがうかがえます。

真雅と藤原良房
藤原良房

そこに至るまでに真雅は、実力者藤原良房への接近を行っています。良房の強大な力を背景に、真雅は天皇一家の生活に深くくい込んでいったようです。良房をバックに真雅が天皇家と深いかかわり合いを持ちはじめたころに発生するのが「承和の変」です。

真雅と承和の変

良房が図ったこの政変は、天皇家を自らの血縁者で固めようとしたもので、これに反対する皇位継承者や重臣橘逸勢らを謀反人と決めつけて流罪・追放します。ところが実権を収めた良房に舞い降りてくるのが
①応天門の放火炎上
②流感のまんえん
③地震の続発
です。当時は、これらは怨霊のたたりとされていました。たたり神から身を守ってくれるのが先進国唐から導入された最先端宗教テクノである密教でした。具体的には真言高僧による祈祷だったようです。ここが真雅の舞台となります。
真雅と応天門2
こうした世情のなか、真雅は良房の意を受けて
①仁明天皇の病気平癒
②惟仁親王(のちの清和天皇)の立太子祈願
などの重要な収法の主役を演じます。
 真雅の躍進は、藤原良房の保護・支援が大きいようです
嘉祥3年(850)3月25日に生まれた惟仁親王(後の清和天皇)は、文徳天皇の第4皇子でしたが、母は藤原良房の娘です。そのため11月には皇太子に立てられます。これは童謡に次のように謡われたようです。
大枝を超えて走り超えて躍り騰がり超えて、我や護る田や捜り食むしぎや。雄々いしぎやたにや。」

「大枝」は「大兄」のことで、文徳天皇には4人の皇子ありながら、その兄たちを超えて惟仁親王が皇太子となったこと風刺したもののようです。その皇太子を護持したのが真雅でした。
 また藤原良房の娘明子が文徳天皇のもとに入った後、長らく懐妊しませんでした。ここでも藤原良房は真雅と語り、真雅が尊勝法を修した結果、清和天皇が誕生したとも記されます。
真雅と応天門の変

このように惟仁親王(清和天皇)降誕の功もあって、真雅は藤原良房より信認を受けるようになっていきます。
仁寿3年(853)10月25日には、少僧都
斉衡3年(856)10月2日には大僧都
僧官を登り詰めていきます。さらに清和天皇が即位した翌年の天安3年(859)に嘉祥寺西院に年分度者を賜ったのも、それまでの真雅の功に対する、摂政藤原良房からの賞であったのかもしれません。
真雅と清和天皇

清和天皇
 真雅は清和天皇が生まれてから24年間、「常に侍して聖体を護持」とありますから、内裏に宿直して天皇を護持していたようです。「祈祷合戦」の舞台と化していた当時の宮中では、「たたり」神をさけるためにそこまで求められていたようです。この結果、藤原良房の知遇、仁明、文徳、清和の歴代天皇の厚い保護のもとに、真雅の影響力は天皇一家の生活のなかにもおよぶようになります。仁明帝一家は、あげて真雅の指導で仏門に入るというありさまです。ここから天皇が仏具をもち、袈裟を纏うという後の天皇の姿が生まれてくるようです。
 実恵は、空海のワクのなかで忠実に法灯を守ろうとしました。それに対して、真雅は師空海の残した法灯と貴族社会との結びつきを強めていったと言えそうです。
  この結果、真言宗は天皇家や貴族との深いつながりを持ち隆盛を極めるようになります。
しかしある意味、「天皇家の専属祈祷師」になったようなものです。「宮中に24年間待機」していたのでは、教義的な発展は望めません。そして、教団内部も貴族指向になっていきます。
 これが天台宗との大きな違いだったと私は思っています。真言宗は、空海がきちんと教義を固めて亡くなります。それを継いだ宗主たちは、教団内部の教義論争に巻き込まれることはありませんでした。そして、真雅は「天皇家の専属祈祷師」の役割を引き受けます。
 一方、天台宗の場合は最澄は、教義の完成を志し半ばにして亡くなります。
残された課題は非常に多く、内部論争も活発に繰り返され、そこから中世の新宗教を開くリーダーが現れてきます。それだけカオスに充ち満ちていて、新しいものが生まれだしてくる環境があったのでしょう。これが比叡山と高野山のちがいになるのではないでしょうか。少し筆が走りすぎたようです。話を真雅にもどしましょう。

真雅は藤原良房の政治力をフルに活用し、真言宗の拡充を図ります
そのひとつが貞観四年(862)に、伏見区深草僧坊町に貞観寺を開創し、初代座主となったことです。この寺は、東寺をはるかに上まわる大伽藍と、広大な荘園を有するようになりますが、やがて東寺、のちに仁和寺心蓮院の末寺となり、中世に衰退して廃寺となります。

 真雅は、貞観寺創建と相前後して東寺長者、二年後には僧正、法印大和尚位にまで昇進します。そして、量車(車のついた乗り物)に乗ったまま官中に出入りすることが許されます。僧職に車の乗り物が認められたのは真雅が最初で、彼の朝廷での力のほどを示します。

  「幸いにして時来にかない、久しく加護に侍る。かの両師(実恵と道雄)と比するに、たちまち高下を知らん」(『日本三代実録』巻5、貞観3年11月11日辛巳条)

と評されたように、真言宗においても実恵と道雄の権勢は高まります。そのため真雅の貞観寺には多くの荘園が寄進されます。朝廷と密接な結びつきのある貞観寺に寄進することによって、租税から免れることを狙うとともに、有力者と接近して地域の権益の保護をはかるためでしょう。貞観寺の田地は約755町(750ha)にも及んだといわれます。

 真雅は自分が法印大和尚位についた年、師の空海が死後も無位であることに気を遺います。そして、空海への法印大和尚位の追贈を、清和天皇へ願い出て許されています。
 
貞観の大仏開眼供養会があった年の十一月、
讃岐の国多度郡の佐伯直氏の一族十一人に、佐伯宿爾の姓があたえられ、あわせて平安左京に移貫することがみとめられます。    
空海の甥たちの悲願がやっとかなったのです。これより先に一族を代表して佐伯直豊雄が、宿爾の姓を賜わるために提出した申請書には次のように記されています。

今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸ひに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師 実恵と道雄)に比するに、忽ち高下を知らん」(「三代実録」貞観三年十一月十一日辛巳条)

ここからは、賜姓と京への本貫地の移管が、叔父真雅の威光を背景に行われたことがうかがえます。豊雄らの賜姓を周旋したのは、佐伯直氏の本家とされる中納言伴善男でした。(『三代実録』同上条参照)。
 真雅も伴善男と組んで佐伯氏一族の賜姓と移貫を実現させるために工作したのでしょう。
 貞観六年(864)二月、僧綱の位階が制定されたさいに真雅は、法印大和尚位の位階を賜わり、僧正に任ぜられています。もともとこの新位階の制定は、真雅の上表によって定められたものです。こうして真雅は、僧綱の頂点に立って仏教界を牛耳る地位を獲得したのです。
 しかし、そのころの政局は、けっして平穏ではありませんでした。咳逆病の流行による社会不安が広がっていました。そのような中で起きるのが先ほど述べた応天門の変です。応天門は、大内裏の正殿である朝堂院(八省院)の南中央に位置する重要な門です。そこから火が出て、門の左右前方に渡廊でつながる棲鳳・翔鸞の両楼も応天門とともに焼け落ちてしまったのは、貞観八年(866)二月十日の夜のことです。そして、半年後には時の大納言伴善男は、息子の中庸とともに応天門に火をつけた主謀者として告発され、善男らは大逆の罪で斬刑を命じられますが、罪一等を減じられて遠流の刑に処せられることが決定し、善男は伊豆の国へ、中庸は隠岐の国ヘ配流されます。伴善男は佐伯直氏の本家とされ、賜姓を周旋した人物です。賜姓決定が、もう少し遅ければ佐伯直氏の請願も認められることがなかったかもしれません。

874年7月
「上表して僧正職を辞するが許されず(その後、再三の辞表も不許可)」

とあるように、真雅は七十歳を過ぎたころには、何度も朝廷へ一切の要職から引退したいと願い出ますが聞き入れられません。
『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条、真雅卒伝)には、真雅の死を次のように記しています。

 晩年真雅は病に伏せ、医者や薬に頼ることなく、手に拳印を結び、口に仏号を唱えて遷化した。享年79歳。元慶3年(879)正月3日のことであった。真雅は清和天皇が降誕以来、左右を離れずに日夜護持していたから、天皇ははなはだ親しく重んじていた。天皇は狩猟を好んでいたが、真雅の奏請によって山野の狩猟を禁じて、自らもこれを断ったばかり、摂津国蟹胥・陸奥国鹿尾の贄を御膳に充てることも止めたほどであった

彼も江戸時代末期の文政十一年(1828)になってから法光大師の号が贈られています。
真然像
真然(しんねん)像

最後に真雅や空海の甥に当たる真然を見ておきます。
彼は空海の実弟である佐伯直酒麿(佐伯田公の五男)の子といわれ、真雅や空海とは叔父。おいの間柄になります。真然は、空海から密教の教義、真雅からは両部潅頂を受けています。そして、空海没の翌年の承和三年(836年)に、遺唐使として真済とともに出港します。その際に、空海の死を長安・青竜寺に報告する手紙を託されますが、乗船の難破で入唐が果たせず、命からがら帰国しています。
空海の遺命で、その後の真然は金剛峰寺の伽藍造営に全力を傾注します。
真然廟(高野山)
真然廟(高野山)

そのためか、空海亡きあとの真言教団は、東寺派と金剛峰寺派に分かれ冷戦状態が続き、円仁、円珍らによって降盛をみせていた天台宗とは対照的な様相をみせます。心配した真然は晩年、真言宗の復興へ動き出しますが、果たせないまま党平二年(890年)9月に没します。真然の果たせなかった夢を継ぎ、真言宗を盛り立てたのが益信、聖宝、観賢らになるようです。
真然大徳廟

  以上見て来たように、空海は真言教団の重要ポストに佐伯直親族を当て、死後も彼らが教団運営の指導権を握っていたことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 讃岐人物風景1 四国新聞社 1980年