聖宝は16歳で空海の弟真雅に入門し、東大寺でいろいろな宗派を学びながら山林修行にも関わるようになっていたことを見てきました。南都奈良での修学がいつまで続いたのかはよく分かりません。歳仁寿三年(853)・聖宝22歳の時に東大寺の戒壇に登り、受戒したする伝えがあります。(雲雅『理源大師行実記』、祐宝『続伝燈広録』) また受戒後に、元興寺の願暁らに随従したという説もあります(雲雅、前掲書、竜海『理源大師是録』)。
しかし、これらの説は、同時代史料ではありません。聖宝に理源大師の論号が贈られ「理源大師伝説」が語られるようになる宝永四年(1707)以後に成立した伝記書に記されるものです。これらを信ずることはできないと研究者は考えているようです。
しかし、これらの説は、同時代史料ではありません。聖宝に理源大師の論号が贈られ「理源大師伝説」が語られるようになる宝永四年(1707)以後に成立した伝記書に記されるものです。これらを信ずることはできないと研究者は考えているようです。
このような伝説の中に、聖宝が四国にやって来たと伝えるものがあります。それを今回は見ていこうと思います
天安二年(858)、聖宝が27歳の時に四国を遍歴し、観賢を見出だしたという説話です。最初に確認しておきたいことはこの話は、観賢が五、六歳の童子のころであったという他の記録から「逆算」して創作されたものであることです。そのため聖宝が実際に、天安二年に四国を巡錫したとすることはできないと研究者は考えているようです。それを念頭に置いた上で、見ていくことにします。
聖宝の四国巡錫のきっかけは、聖宝と師の真雅との対立だったようです。
聖宝の四国巡錫のきっかけは、聖宝と師の真雅との対立だったようです。
この話についての一番古い記録は、『醍醐雑事記』で、犬をめぐって師弟の争いが、次のように記されています。
真雅は、犬をたいそう可愛がり、大事に飼っていた。聖宝は、犬を憎み嫌悪していた。二人の犬にたいする愛憎は、水火の仲といってよいものであった。真雅が外出していた折りに、門前に猟師が行ったり来たりして、犬を見ながら、いかにもその犬を欲しそうなそぶりをみせた。聖宝は、それを察して欲しいなら捕まえて、早く立ち去れと言った。猟師は、たいそう喜んで犬を連れて行ってしまった。
やがて真雅が寺に帰って、食事の時間に愛犬を呼んだが、もちろん犬は顔をみせなかった。翌日になって真雅は犬を探したが犬の姿はどこにもみあたらなかった。この時、真雅は怒って、「この寺房には犬を憎んでいるものがいることを私は知っている。私の寺房の中で、私が可愛がっているのを受けいれないものは同居させるわけにはいかない」といった
聖宝は自分のしたことを顧みて、真雅の言いつけを気にかけ、寺を抜けだしてて四国に旅立ち修行につとめることになった。
ここには師の真雅が大事にしていた愛犬を、聖宝が勝手に猟師にあたえてしまったこと。それを反省し、聖宝は四国山林修行に旅立ったというのです。話としては無理があるようです。しかし、この説話からは聖宝と真雅とのあいだに確執があったことはうかがえます。研究者は次のように指摘します。
「聖宝が真雅と必ずしも信仰と行動をともにせず、仏教のあり方についてもこの師弟が考えを異にしていた」
真雅は時の権力者良房に近づき、その力を背景に宮廷を中心とする活動を繰りひろげ、真言宗の拡張につとめてたことは以前にお話ししました。
一方弟子の聖宝は、前回に見たように南都奈良で修学中のエピソードからは、東大寺の腐敗した上座僧侶を批判していたことがうかがえます。その腐敗が、天皇や藤原家への接近の中から生まれてきたことを見抜いていたはずです。そのため真雅のやり方に同調することができず、批判の眼をそそぐようになっていたことが考えられます。だとすれば、師弟のあいだに隙間ができるようになったのは当然かも知れません。 この説話の中に出てくる「犬=宮廷貴族勢力」と聖宝が捉えていたと見ると、当時の様子が見えてくるのかも知れません。
説話に戻りましょう。次のシーンは四国辺路巡りに出た聖宝が、幼い日の観賢と出会うシーンです。
讃岐路で聖宝が人家の前で乞食をしていると、門のあたりに五、六歳くらいの子供が遊んでいた。聖宝が立ちどまって、よくよく見ると、その子供は非凡な顔だちをしており、仏法の大立て者となるにちがいない相をしていた。
聖宝が、その子供に父親はどこにいるのかと訊くと、子供は、「父は田植をしているが、母は家にいる」と答えた。聖宝が、子供の家に行って物を乞うと、家の主は、聖宝を見て深く尊敬の念をおこし、「食物を召しあがるか」と言ったので、聖宝が「いただこう」と応じると、大豆の飯を新しい黒色の上器に盛ってきて、食べるように勧めてくれた。食事をすませて立ち去ろうとしたら、門の外には、まだその子供がいた。そこで聖宝が、「さあ坊や、都に来ないか、美しいものを見せてあげるよ」と話しかけると、その子供は、「はい」と答えた。聖宝は子供を抱いて、足早にそこを立ち去ったのであった。
観賢
これが聖宝とその弟子観賢との出会いです。観賢は、後に弘法大師の入定留身説を説き始め、現在の大師信仰を広めた真言宗再興の大きな貢献者として、高い評価を得ています。
観賢の出身については史料がなくよく分からないようです。
『東寺相承血脉』に「大師(空海)の甥也 七歳聖賓(宝)具足洛中入給」
とあって、空海の甥で、7歳の時に聖宝に伴われて洛中にやってきたと記します。しかし、これをすぐに信じるわけにはいきません。大師(空海)の甥というのは、無理があります。
観賢の生まれは、讃岐国呑東郡坂田郷(高松市西春日町)の生まれとされます。そのために奏氏であるとも、大伴氏の人とも云われまが、これもよく分かりません。
誕生地とされる西春日町には観賢堂というお堂が地元の人たちによって建立されています。お堂の周りには「観賢御廟」「弘法大師剃刀塚」の二つの石碑があり、地元の信仰を受けてきたことが分かります。
観賢堂(久米寺)香川県高松市西ハゼ町
説話に戻りましょう。まるで人さらいのように観賢を讃岐から平安京へ連れ帰った聖宝です。
ほどなく都に帰ってきた聖宝は、仁和寺や般若寺などの庵室に、その子供を置き、都に出かけては乞食をつづけます。しかし、一日に供養を受けた食物は、あくる日の分に残すことができなかった。このような苦労をかさねて、聖宝は、月日を送っていた。ある日、中御門の下で、しきりに先払いの声がして、集まっている人びとを追いはらつていた。聖宝は扉の陰に隠れて、ひそかに見ていると、先払いの主人が藤原良房であることが分かった。聖宝が扉の陰に隠れていたにもかかわらず、良房は聖宝に目をとめて、驚いた様子で、「どういうお方か」と訊ねた。聖宝が、「乞食法師である」と答えると、良房は、
「あなたは非凡なお方であろう。深く敬意を表したい。しかるべき日に、かならずわたしの家に来てもらえないか。お話ししたいことがある」
と語った。聖宝は、それに応じたのであつた。
「しかじかの日に、僧がやって来て案内を乞うたら、すぐに取りつげ」
と家人に命じた。約束した日に、聖宝が参上すると徳の高そうな老人がすぐに取り次いだ。良房は、聖宝を召し入れ、普段着のまま聖宝と対面した。しばらくして良房は若君を呼びだして、聖宝に、
「申しつけたいのは、この若君のために祈一幅してもらいたいことだ。今後、祈躊してもらえないものか。」
聖宝はそれを引き受けることにした。
その後、聖宝が子どもを般若寺に住まわせて、乞食をしながらその子どもを養っていることを話した。すると良房は、若君の衣服を持たせて、子供を迎える使者を般若寺に遣わした。やがて連れてこられた子供を見た良房が、
「この子供は、非凡な相があり、聡敏さも人に抜きんでている。この邸に住まわせ、若君(惟仁親王(後の清和天皇?)と遊ばせたい」
と言うと、聖宝は、
「毎日、倶舎の頌(世親の著で唐の玄美が訳した『阿昆達磨倶舎論本頌』)を読ませているので、御殿に伺候させれば、学問は怠りがちになるから、時々参上させたい」
と答えた。
その子供は、読書をすれば、たちまち理解してしまい、ふたたび質ねるようなことはなかった。たちまち倶舎の頌三十巻を覚えてしまったのである。般若寺の僧正観賢こそが、この子供なのであった。
聖宝が師の真雅から勘当されていることを良房に語ると、
良房は、
「わたしが一緒に貞観寺へ行って、勘当を許してもらえるようにしてやろう。その日になったら来てほしい」
と言った。それに応じた聖宝は、良房のもとを退出した。
金剛草履
藤原良房は、家人に命じて墨染めの衣服と狩袴、そして金剛草履を用意させた。聖宝が約束した日に参上すると、良房は以前のように対面し、用意させた衣服と狩袴を聖宝に着せて、同じ車で貞観寺へ向かった。良房の車が貞観寺に近づくと、先払いの声が、しきりに聞えてきたので、寺の人びとは、良房がどのような用事で、寺にやって来たのか計った。良房が車から降りようとした時、踏み台に金剛草履が置いてあっためを目にとめた寺の人びとは、不思議に思った。それは聖宝が車から降りる時に履くための草履であった。
真雅
良房は真雅と面会して、
「聖宝が勘当されているのを聞いたので、許してもらえるようにと一緒に参ったのである」
と語った。それに答えて真雅は、
「わたくしから申しあげることは、なにもない。思いもよらず聖宝を離別させてしまい、それ以後は、いつも後悔し、残念なことだと思っていた。聖宝がもどって来たのならば、このうえもなく嬉しいことで、わたくしの本心を満足させてくれることになる」
と述べた。良房は喜んで、真雅のもとに来た時と同様に聖宝と同じ車に乗って帰ろうとしたが、聖宝は辞退したために馬で送ろうとした。しかし、聖宝は金剛草履を履き、般若寺へ歩いて帰っていった。
修験者姿で描かれた聖宝(理源大師)
これが聖宝が真雅の勘気にふれ、四国遍歴に出かけたさいに観賢を見出だし、また真雅の勘当を藤原良房のとりなしで許されたという説話です。この『醍醐雑事記』を撰述したのは慶延です。彼は12世紀後半の人物で、鎌倉幕府成立の頃には、このような話が醍醐寺に伝えられていたことが分かります。
ちなみに『醍醐雑事記』では、聖宝が観賢を抱いて讃岐の国から「ほどなく都にもどった」とあります。しかし、後の憲深の説話には
「小者(観賢)を取りて打ち負ひて、一日の間に般若寺に着き給ひけり」
に「発展」します。「観賢を背負って、一日で讃岐から京に帰ってきた」と、「聖宝=スーパーマン」説が強調されるようになります。鎌倉時代初期には、聖宝が不思議な能力を持っていた修験者として、描かれるようになっていたことがうかがえます。
この説話には、藤原良房の時代には、まだなかった仁和寺や般若寺などが出てきます。仁和寺は、仁和二年(886)に起工され、翌年に完成した寺です。般若寺は、延喜年間(901)に観賢を開基として建立された寺院です。どちらも観賢と関係の深い寺です。ここからは、この話が「創作」されたものであって、事実を物語るものではないことが分かります。
また、聖宝が良房から祈祷を頼まれた「若君」というのは、良房の外孫惟仁親王(清和天皇)であったかもしれません。そうすると、この説話は、天安二(858)年頃のことを踏まえて語られていると研究者は指摘します。
この時期の聖宝の師である真雅の動きを見ておきましょう。
嘉祥3年(850年)右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王(後の清和天皇)を生む。真雅は親王生誕から貞観16年(874年)まで24年間、宮中に詰めて聖体護持仁寿2年(853年)惟仁親王のために藤原良房と協同で嘉祥寺に西院建立。仁寿3年(854年)10月、少僧都に任ぜられる。斉衡3年(856年)10月、大僧都に任ぜられる。貞観2年(860年)2月、真済没し、東寺一長者に就任貞観4年(862年)7月、嘉祥寺西院が貞観寺と改められる。元慶3年(879年)1月3日、貞観寺にて入滅。享年79。
真雅は清和天皇が生まれてから24年間、「常に侍して聖体を護持」とありますから、内裏に宿直して天皇を護持していたようです。「祈祷合戦」の舞台と化していた当時の宮中では、「たたり」神をさけるためにそこまで求められていたようです。この結果、藤原良房の知遇、仁明、文徳、清和の歴代天皇の厚い保護のもとに、真雅の影響力は天皇一家の生活のなかにもおよぶようになります。仁明帝一家は、あげて真雅の指導で仏門に入るというありさまです。ここから天皇が仏具をもち、袈裟を纏うという後の天皇の姿が生まれてくるようです。
真雅は、貞観寺創建と前後して東寺長者、二年後には僧正、法印大和尚位にまで昇進します。そして、量車(車のついた乗り物)に乗ったまま官中に出入りすることが許されます。僧職に車の乗り物が認められたのは真雅が最初で、彼の朝廷での力のほどを示します。
このように真言宗は天皇家や貴族との深いつながりを持ち隆盛を極めるようになります。しかし、聖宝から見れば真雅は「天皇家の専属祈祷師」になったようなものです。「宮中に24年間待機」していたのでは、教義的な発展は望めません。そして、教団内部も貴族指向になっていきます。このような布教方針や真言教団の経営方針に、聖宝は批判の目を向けていたとしておきましょう。
聖宝と真雅の師弟の間に生まれた亀裂が埋められることはなかったようです。この時期の聖宝の行方が「空白」なのも、山林修行ばかりのせいではなさそうです。聖宝に光が当たり出すのは、真雅の亡き後のことのようです。それは高野山の真然によってもたらされるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝と真雅の確執 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館
コメント