櫛梨神社が鎮座する櫛梨山
櫛梨神社と宥範の関係については、以前にお話ししました。
今回は、その話しにもとづいて宥範の里を歩いてみようと思います。まずは、その生誕地とお墓を訪れてみましょう。丸亀平野を南北に区切るのが如意山です。その西側の頂が櫛梨山で、ここには麓に櫛梨神社があります。その背後には、毛利方が西讃岐支判の拠点とした櫛梨山城があります。
櫛梨山からの眺めは抜群で、南には丸亀平野が拡がり、その向こうに阿讃山脈が東西に低く連なります。目を落とすと眼下に見える鎮守の森が大歳神社です。大歳神社は櫛梨神社の御旅所ともされ、その周辺に宥範の生家岩野家はあったとされます。
ある研究者は、宥範の生家と大歳神社の関係について、次のように記します。
大歳神社の北に「小路」の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」
ここからは次のようなことが類推できることが分かります。
①大歳神社の北に「小路」の地字が残ること。②「小路」から櫛梨保が荘園化して荘司がいたこと③鎌倉時代以降も、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立されたこと
さっそく「小路」に行ってみましょう。
コミュニティーバスの停留所名に「小路(しょうじ)」とあります。「しょうじ」という地名が出てくれば、研究者はすぐに「庄司」と頭の中で変換して、中世の荘園機構の一部があったところと推察します。ちなみに、この集落の背後の鎮守の森が大歳神社です。そして、すぐ後が「小路」集落の墓地になります。中世にはここに寺院もあったようですが、今は墓地だけが残っています。この墓地に宥範の墓はあるようです。
「宥範墓所の由来」碑
ここには 大麻山(象頭山)を背景に「宥範墓所の由来」碑があり、次のように記されています
「宥範増上は今から700年ほど前に、この上櫛梨の地に生まれ、若き日に大歳の社に参籠し、心願を念じ、その大願を達せられんことを祈った。」
と宥範縁起を要約した内容です。宥範縁起は、応永九年(1402)3月に、善通寺誕生院住持・宥源が書いたもので正式には『贈僧正宥範発心求法縁起』と呼ばれるようです。
少し長いですが「宥範縁起」を意訳変換しておきます
宥範僧正は文永七年(1270)に那珂郡櫛梨郷で生まれ、幼い頃に櫛梨郷の北に釜える標高158mの如意山の麓にあった如意谷新善光寺に通って、上人から読み、書き及び経典を教わった。弘安十年(1287)17歳の時に出家して大式坊と名乗り、香河郡坂田郷にあった無量寿院の覚道上人について東密、特に金剛界のことを学んだ。翌年18歳の時に新善光寺の上人の勧めに従い、信濃国の善光寺で浄土教を学んだ。21歳の時帰国して、無量寿院で胎蔵界のことを学んだ。永仁元年(1293)4月24日無量寿院で三宝院実賢から潅頂を受け西三谷(飯山町三谷寺?)で倶舎を学んだ。水仁2年25歳の時に、備前国出身の観蔵坊と連れになり、高野山に修学のために行った。しかし、高野山は南北朝の内乱で荒れていて学問をするような状態ではなく、宥範は高野山を去ったが、観蔵坊は留まった。宥範は下野国の鶏足寺に行き、学頭頼尊から事相(実践修法面)教相(教義面)を学び、26歳の時に三宝院成賢方の灌頂を四人の僧と伴に受け、名を了賢坊と改めた。鶏足寺は東・台両密兼学の学問所だつたが、台密は捨てた。永仁五年28歳の時鶏足寺を出て衣寺に行き、妙祥上人から大日経の奥疏を学ぼうとしたが、妙祥上人は老齢の隠居の身であるとして宥範の申し出を断わり、奥州ミカキ郡の如法寺の道性房が大日経の奥疏の権威であると教えてくれた。下野国の赤塚寺の衆徒の浄乗坊も一緒に行くことになり、赤塚寺の寂静坊にあいさつに行くと途中で食べるようにといって大きな二連の串柿をくれた。この時天下は大早で、串柿や松の葉などを食べながらやつとの思いで如法寺に着くと道法房という人がいて、大日経の奥疏に詳しくはないというので暫く逗留して、下野国に帰ることにした。途中は大飢饉で、野山に自生する蕗をとって食べ、炎天下で肌は黒く焼け、食べるものもなくやせおとろえて鶏足寺に辿り着いた。その姿を見た妙祥上人は鶏足寺で、大日経の奥疏を学ぶことを許可してくれた。正安元年(1299)30歳の時に妙祥上人の伴をして武蔵国の広田寺と伊豆国走湯山の密厳院に行った。妙祥上人の勧めで一「妙印抄』を著すことになり、のちいつしか、三十五巻として完成させた。嘉元三年(1305)36歳の時に鎌倉殿に招かれて妙祥上人は鎌倉に行くことになり、宥範に伴をするようにいった。が、生まれ故部に帰って両親にから帰国するようにいった旨を上人に告げると、上人は密厳院の覚典を一人前の僧侶に育ててから帰国するようにと云った。覚典が一人前の僧侶に僧侶になったので、徳治死年(1306)36歳の時に、京都を経て西宮で船に乗ると順風に恵まれ、香河郡八輪島(屋島)観音堂前にあっという間に着いた。無量寿院の末寺の野原郷の常福寺にいた師の覚道上人と再会を果たした。徳治2年以後、櫛梨郷の正覚寺にたびたび通って両親に孝行をし、また、善通寺に度々通って終に寂園坊に住んだ。覚道上人に隠遁の志を告げると、常福寺の傍らに草庵をつくつて住むようにいった。この草庵に野原草堂という名前をつけた。徳治二年に善通寺の末寺で奥の院でもあった称名院(象頭山)の傍らに草庵をつくって住み、この草庵に小松小堂という名前をつけた。延慶二年(1309)から嘉暦三年(1328)迄の十八年の間に数度上洛して、安祥寺に行き、大日経の奥疏を極めることにした。鎌倉から妙祥上人の弟子の是咋房が小松小堂を訪れ、宥範に再び一「妙印抄』を著すように勧めて、元徳2年(1330)に『妙印抄』85巻を完成させた。この年に善通寺の奥の院の称名寺に移った。善通寺の衆徒たちがやって来て宥範に善通寺に入って大破した善通寺を復興するよう再三頼んだので、元徳三年七月二十八日に善通寺に入つて東北院に住んだ。元弘年中(1331~33)に誕生院を造営し始めて、建武年中(1334~38)に完成なった誕生院に移り住んだ。暦応年中(1338~1342)には五重の塔・四面大門・四方垣をつくり終えた。観応三年(1352)7月1日誕生院で弟子の宥源にみとられて、遷化した。享年八十三歳であった。
「宥範縁起」は、幼少の頃から弟子として宥範に仕えた宥源僧都が、宥範から聞いた話を書き纏めたものです。
応安四年(1371)三月十五日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。 ここからは以下のようなことがうかがえます
応安四年(1371)三月十五日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。 ここからは以下のようなことがうかがえます
①如意山の麓に新善光寺という善光寺聖がいて浄土宗信仰の拠点となっていたこと②そのため香河郡坂田郷(高松市)無量寿院で密教を学んだ後に信濃の善光寺で浄土教を学んだこと。③その後、高野山が荒廃していたので東国で大日経を学んだこと④善通寺を拠点にしながら各地を遊学し大日経の解説書を完成させたこと⑤現在の金毘羅宮の下の称名寺に隠居したが、善通寺復興の責任者に担ぎ出されたこと⑥14世紀中頃に、荒廃していた善通寺の伽藍を復興し名声を得たこと。
東国での修行を終えて36歳で帰国した宥範は、両親に孝行するため、善通寺の野原草堂から正覚寺にたびたび通ったと記されています。ここからは、宥範の両親がいる居館(大歳神社?)家と正覚寺は近かつたことがうかがえます。さきほど見た小さな墓地は地元では「宥範三昧」と呼ばれているようです。
「宥範三昧」と呼ばれる墓地
この墓地は、もとは正覚寺の墓地であったのが、寺が無くなって墓地だけが残ったのかもしれません。
宥範の両親が亡くなると正覚寺の墓地に葬られ、宥範は宥源に自分が亡くなると両親の墓のそばに葬つてくれるよう頼んだとしておきましょう。墓地の中に小さなお堂があって、この中に宥範の石像が安置されています。
「宥範三昧」と呼ばれる墓地
この墓地は、もとは正覚寺の墓地であったのが、寺が無くなって墓地だけが残ったのかもしれません。
宥範の両親が亡くなると正覚寺の墓地に葬られ、宥範は宥源に自分が亡くなると両親の墓のそばに葬つてくれるよう頼んだとしておきましょう。墓地の中に小さなお堂があって、この中に宥範の石像が安置されています。
小路の中
それでは宥範の実家は、どこにあるのでしょうか?
「宥範僧正誕生之地」碑
宥範は、建武三年(1336)誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を相続しています。
これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」の地位です。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であり、それを相続する立場にあったことがうかがえます。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、岩野氏という経済的保護者が背後にあったことも要因のひとつのようです。
櫛梨神社に続く参道
そうだとすれば、櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧の管理にあったことになります。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからも大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。14世紀には上櫛梨や櫛梨神社は、宥範の実家である岩野一族の支配下にあったとすれば、次のような疑問が浮かんできます。
①岩野氏のその後はどうなっていくのか。武士団化するのか
②櫛梨神社の背後の山城・櫛梨城と岩野氏の関係は?
③東隣の公文にあったとされる島津氏の所領との関係は?
④丸亀平野南部で「戦国大名化」する長尾氏との関係は・
それはまた課題と言うことにして・・・
①岩野氏のその後はどうなっていくのか。武士団化するのか
②櫛梨神社の背後の山城・櫛梨城と岩野氏の関係は?
③東隣の公文にあったとされる島津氏の所領との関係は?
④丸亀平野南部で「戦国大名化」する長尾氏との関係は・
それはまた課題と言うことにして・・・
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