四国辺路についての最初の巡礼記録は澄禅の「四国辺路日記」です。
真言宗のエリート学僧である澄禅については、以前にお話ししましたので説明を省略します。今回は彼が、どんな所に宿泊したかに焦点を当てて見ていこうと思います。テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。
真言宗のエリート学僧である澄禅については、以前にお話ししましたので説明を省略します。今回は彼が、どんな所に宿泊したかに焦点を当てて見ていこうと思います。テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。
承応2年(1652)7月18日に高野山を出発した澄禅は、次の日には和歌山の「一四郎宿」で宿を取り、20日に舟に乗りますが、波が高く23日まで舟の中で逗留を余儀なくされています。24日になって、ようやく徳島城下町に到着し、持明院の世話になります。この寺で廻手形をもらって、藤井寺から始めた方がいいとの助言ももらっています。
そして、夏の盛りの7月25日に、四国辺路の旅を始めます。私は、澄禅は一人辺路だと思っていたのですが、研究者は同行者が複数いた可能性を指摘します。
四国辺路指南の挿絵
最初に、澄禅が宿泊した場所を挙げておきましょう。
最初に、澄禅が宿泊した場所を挙げておきましょう。
七月二十五日 サンチ村の民家二十六日 焼山寺二十七日 民家二十八日 恩山寺近くの民家二十九日 鶴林寺寺家の愛染院二十日 不明(大龍寺か)八月一日 河辺の民家二日 貧しき民家(室戸の海岸 夜を明しかねたり)三日 浅河の地蔵寺(本山派の山伏)四日 千光寺(真言宗)五日 野根の大師堂(辺路屋)六日 漁家(漁翁に請う)七日 東寺(終夜談話し旅の倦怠を安む)八日 民家(西寺の麓)九日 民家か(神の峰の麓、タウノ浜)十日 民家(赤野という土地)十一日 菩提寺(水石老という遁世者)十二日 田島寺(八十余の老僧)十三日 安養院(蓮池町)十四日 安養院(蓮池町)十五日 安養院(蓮池町)十六日 安養院(蓮池町)十七日 安養院(蓮池町)十八日 安養院(蓮池町)十九日 五台山(宥厳上人)二十日 五台山(宥厳上人)二十一日 五台山(宥厳上人)二十二日 五台山(宥厳上人)二十三日 五台山(宥厳上人)二十四日 民家か(秋山という所)二十五日 民家か(新村という所)二十六日 青竜寺二十七日 漁夫の小屋ニト八日 常賢寺(禅寺)二十九日 民家か(窪川という所)三十日 随生寺(土井村 真言寺)九月一日 民家(武知という所)二日 見善寺(真崎・禅寺)三日 民家か(ヲツキ村)四日 金剛福寺 (足摺岬)五日 金剛福寺 (足摺岬)六日 金剛福寺七日 正善寺(川口・浄十宗)八日 月山(内山永久寺同行)九日 滝巌寺(真言宗)十日 浄土寺(宿毛)十一日 民家(城辺という所)十二日 民屋(ハタジという所)十三日 民屋(ハタジという所)十四日 今西伝介宅(宇和島)卜五日 慶宝寺(真言寺)十六日 庄屋清有衛門宅(戸坂)十七日 瑞安寺(真言寺)この寺で休息。十八日 瑞安寺(真言寺)この寺で休息十九日 仁兵衛宅(中田)二十日 宿に留まる(仁兵衛宅か)二十 日 菅生山本坊二十二日二十三日 円満寺(真百寺)二十四日 武智仁兵衛(久米村)二十五日 三木寺(松山)二十六日 道後温泉に湯治二十七日 民家(浅波)二十八日 神供寺(今治)二十九日 泰山寺十月一日 民家か(中村)二日 保寿寺(住職が旧知の友)三日 ″ (横峯寺に行く)四日 (横峯寺に行く)五日 浦ノ堂寺(真三[寺一六日 興願寺(真言寺)七日 三角寺奥の院(仙龍寺)八日 雲辺寺九日 本山寺か十日 辺路屋(弥谷寺の近く)十一日 仏母院 (多度津白方)十二日 真光院(金毘羅宮)十三日 真光院(金毘羅宮)十四日 真光院(金毘羅宮)十五日 明王院(道隆寺)十六日 国分寺十七日 白峯寺十八日 実相坊(高松)十九日 八栗寺二十日 八栗寺 (雨天のため)二十一日 民家(古市)二十二日 大窪寺二十三日 民屋(法輪寺の近く)二十四日 (雨天のため)二十五日 地蔵寺二十六日 阿波出港二十七日 舟二十八日 和歌山着
以上のように真夏の7月25日に徳島を出発して、秋も深まる10月26日まで91日間の四国辺路です。この間の宿泊した所を見てみると、次の69ヶ所になるようです。
①寺院40ヶ所(59泊)②民家27ヶ所(29泊)③辺路宿三ケ所(12泊)
澄禅の種子字
①の澄禅の泊まった寺院から見ていきましょう
澄禅は、種子字研究のエリート学僧で中央でも知られた存在でしたので、四国にも高野山ネットワークを通じての知人が多かったようです。高知の五台山やその周辺では、知人の寺を訪ね長逗留し、疲れを取っています。宿泊した寺は、ほとんどが真言宗です。しかし、禅寺(2ケ所)や浄土宗(1ケ所)にも宿泊しています。宿を必要とした所に真言宗の寺院がなければ、宗派を超えて世話になったようです。
①の澄禅の泊まった寺院から見ていきましょう
澄禅は、種子字研究のエリート学僧で中央でも知られた存在でしたので、四国にも高野山ネットワークを通じての知人が多かったようです。高知の五台山やその周辺では、知人の寺を訪ね長逗留し、疲れを取っています。宿泊した寺は、ほとんどが真言宗です。しかし、禅寺(2ケ所)や浄土宗(1ケ所)にも宿泊しています。宿を必要とした所に真言宗の寺院がなければ、宗派を超えて世話になったようです。
宿泊した40ケ寺の内、八十八ケ所の札所寺院は17ケ寺です。その中で讃岐が七ケ寺と特に多いのは、札所寺院の戦乱からの復興が早かったことと関係があるのでしょう。
③の「辺路屋」について見ておきましょう。
阿波・海部では、
海部の大師堂二札ヲ納ム。是ハ辺路屋也。(海部の大師堂に札を納めた。これは辺路屋である。)
土佐に入ってまもない野根では、
是ヲ渡リテ野根ノ大師堂トテ辺路屋在り、道心者壱人住持セリ。此二一宿ス。これを渡ると野根の大師堂で、これが辺路屋である。堂守がひとりで管理している。ここに一泊した
伊予宇和島では、
追手ノ門外ニ大師堂在り。是辺路家ナリ
讃岐持宝院(本山寺)から弥谷寺の途中には
「弥谷寺ノ麓 辺路屋二一宿ス」
と「辺路屋」が登場してきます。辺路屋とは正式の旅籠ではなく、大師堂(弘法大師を祀つた堂)で、そこには、辺路が自由に宿泊できたようです。土佐の野根の大師堂には、「道心者」がいて、御堂を管理していたことが分かります。この時期には辺路沿いに大師堂が建てられ、そこが「善根宿」のような機能を果たすようになっていたことがうかがえます。これから30年後の真念『四国辺路道指南』には、大師堂・地蔵堂・業師堂など63ケ所も記されています。この間に御堂兼宿泊施設は、急激に増加したことが分かります。
次に②の民家を宿とした場合を見てみましょう。
澄禅は、四国辺路の約4割を民家で宿泊してるようです。修験者などの辺路修行者であれば、野宿などの方法もとっていたはずですが、エリート学僧の澄禅には、野宿はふさわしくない行為だったのかも知れません。
どんな民家に泊まっているのかを見てみましょう。
どんな民家に泊まっているのかを見てみましょう。
阿波焼山寺から恩山寺の途中では、
焼山寺から三里あまりを行くと、白雨が降ってきたので、民家に立寄って一宿することにした
つぎに阿波一ノ宮の付近では、
一里ほど行くうちに日が暮れてきたので、サンチ村という所の民屋に一宿することにした。夫婦が殊の外情が深く終夜の饗応も殷懃であった。
ここからは、その日が暮れてくると適当に、周辺で宿を寺や民家に求めたことがうかがえます。ただ宿賃などの礼金などについては、まったく記していません。 いろいろな民家に泊まっていて、
薬王寺から室戸への海沿いの道中では、次のような記述もあります。
「貧キ民家二一宿ス。 一夜ヲ明シ兼タリ」
一夜を明かしかねるほど「ボロ屋」の世話になっています。「貧しき民家」の主が宿を貸すという行為にビックリしてしまいます。「接待の心」だけでは、説明しきれないものがあるような気がしてきます。ここでも澄禅は、これ以上は何も記していません。
伊予・宇和島付近では、
共夜ハ宇和島本町三丁目 今西伝介卜云人ノ所二宿ス。此仁ハ齢六十余ノ男也。無ニノ後生願ヒテ、辺路修行ノ者トサエ云バ何モ宿ヲ借ルルト也。若キ時分ヨリ奉公人ニテ、今二扶持ヲ家テ居ル人ナリ。
とあり、宇和島本町の今西伝介なる人物は「辺路修行者」は、誰にでも宿を貸したと記します。その行為の背景には「後生願ヒ」があるとします。来世に極楽往生を願うことなのでしょう。ここにも高野の念仏聖たちの影響が見え隠れします。阿弥陀信仰に基づくものなのでしょうが、辺路に宿を貸すことが、自らの後生極楽の願いが叶うという教えが説かれていたことがうかがえます。
伊予・卯の町では、
此所ノ庄屋清有衛門ト云人ノ所二宿ス。此清有衛門ハ四国ニモ無隠、後生願ナリ、辺路モ数度シタル人ナリ。高野山小円原湯ノ谷詔書提檀那也。
とあり、この地の庄屋の清有衛門も「後生願」で、辺路たちを泊めていたようです。彼は「四国辺路」も数度経験していたようです。澄禅の時代には、すでに庄屋などの俗人が何度も四国辺路に出ていたことが分かります。そして高野山の「小円原湯ノ谷詔書」を掲げていたと記します。四国辺路の後には、高野山にも参詣を済ませていることがうかがえます。ここにも、高野聖たちの活動が見え隠れします。しかも「旦那」という宇句からは、その関係が深かったようです。
伊予・松山の浄土寺の近くでは、
その夜は久米村の武知仁兵衛という家に宿泊した。この御仁は無類の後生願ひで正直な方であった。浄土寺の大門前で行逢って、是非とも今宵は、わが家に一宿していただきたいと云い、末の刻になってその宿へ行ってみると、居間や台所は百姓の構えである。しかし、それより上は三間×七間の書院で、その設えぶりに驚き入った。奥ノ間には持仏堂があり、阿弥陀・大師御影、両親の位牌などが綺麗に安置されている。
浄土寺近くに住む武智仁兵衛という人は、地主クラスの人で経済的には裕福だったようです。浄土寺の門前で出会った澄禅たちを自分の家に招いて「接待」を行っています。持仏堂に祀られているものを見ると「阿弥陀如来+弘法大師+後生願」なので、その信仰形態が弘法大師信仰と阿弥陀信信仰だったことがうかがえます。ここにも、高野聖の活動と同時に、江戸時代初期の松山周辺の庄屋クラスの信仰形態の一端がうかがえます。これらの高野聖の活動拠点のひとつが石手寺だったのかも知れません。
四国八十八ケ所辺路の開創縁起ともいうべき『弘法大師空海根本縁起」のなかに、次のように記されています。
辺路する人に道能教、又は一夜の宿を借たる友は三毒内外のわへ不浄を通れず、命長遠にして思事叶なり、
辺路する人に「道能教=道を教えたり」、 一夜の宿を貸せば命が長遠になり思いごとが叶うというのです。室戸に続く海岸の「貧しき民家」の主人も、後生極楽などを願ったのものかも知れません。この頃には右衛門三郎のことも知られていて、弘法大師が四国を巡っているという弘法大師伝説も流布していたようです。辺路者の中に弘法大師がいて、宿を求めているかも知れない、そうだとすれば弘法大師に一夜を貸すことが後生極楽に結び付くという功利的な信仰もあったのかもしれません。
横峰寺と吉祥寺の間では、
新屋敷村二甚右衛門卜云人在り、信心第一ノ仁也。寺二来テ明朝斎食ヲ私宅ニテ参セ度トムルル故、五日ニハ甚右街門宿へ行テ斎ヲ行テ則発足ス。
意訳変換しておくと
新屋敷村に甚右衛門という人がいて、この人は信心第一の御仁である。寺にやってきて明朝の斎食を私宅で摂って欲しいと云われる。そこで翌日五日に甚右街門宿へ行て、朝食を摂ってから出発した。
ここでは、寺までやって来て食事へ招いています。澄禅が「高野山のエライ坊さん」と紹介されていたのかも知れませんが、善根宿や接待ということが、すでに行われていたようです。しかし、食事などの接待があったことを澄禅が記しているのは伊予だけです。右衛門三郎が伊予でいち早く流布し、定着していたのかも知れません。
伊予・松山の円明寺付近では、次のような記述が現れます。
此道四五里ノ間ハ 辺路修行ノ者二宿貸サズ
53番札所円明寺は松山北部にあり、道後地区での最後の札所になります。次の54番延命寺は今治です。
この松山から今治の間では、「辺路修行ノ者二宿貸サズ」というしきたりがあったと記します。その背景は、宗教的な対立からの排除意識があったのではないかと私は考えています。高縄山を霊山とする半島は、ひとつの修験道の新興エリアを形成していたようです。例えば、近世に盛んになる石鎚参拝登山に対しても背を向けます。この半島には石鎚参拝を行わない集落が沢山あったようです。それは、別の修験道の山伏たちの霞(テリトリー)であったためでしょう。高縄半島の西側では、四国辺路の修験者に対してもライバル意識をむき出しにする勢力下にあったとしておきましょう。
以上、澄禅がどんなどころに泊まったかについて見てきました。
それを研究者は各国別に次のようにまとめます。
それを研究者は各国別に次のようにまとめます。
①阿波では札所を含め寺院の宿泊は少なく、民家に多く宿泊していす。これは、阿波の寺院が戦国時代からの復興が遅れ、荒廃状態のままであったことによる。
②土佐では札所寺院をはじめ寺院の宿泊が多い。特に住持のもてなしが丁寧なことを強調している。そして土佐の辺路の国柄を、
儒学専ラ麻ニシア政道厳重ナリ。仏法繁昌ノ顕密ノ学匠多、真言僧徒三百余輩、大途新義ノ学衆也、
と藩主山内氏を称え、そして真言仏教が盛んなことを記している。
③伊予は民家の宿泊が多い。これも阿波と同様に、寺院の復興が遅れていたためであろう。伊予の国柄への澄禅の評は、次のようになかなか厳しい。
慈悲心薄貪欲厚、女ハ殊二邪見也。又男女共二希二仏道二思人タル者ハ信心専深シ。偏二後生ヲ願フ是モ上方ノ様也。
全体的には慈悲心に欠けるとして、稀には信心深い者がいるとします。おそらく字和島の今西伝介や庄屋清右衛門などを思い出したのかもしれません。そして「後生願い」が「上方の様」であると記します。上方で盛んだった西国三十三ケ所のことと比較しているのかも知れません。
④讃岐は、藩主による寺院の復興が進んでいたので、寺院の宿泊が多い。なかでも札所寺院が七ケ寺もあります。
最後に全体をまとめておきます。
①宿泊場所は、民家であるか寺院であるかは、旅の状況に合わせていたらしいが、特に阿波から土佐室戸までの間は厳しいものがあった。
②寺院の場合は真言宗が多い。しかし、真言寺が無い場合は他宗の寺でも厭わない。
③旧知の友を頼って宿泊することがまま見られる。
④民家の場合は、貧しき民家と庄屋クラスの富裕な場合がある。この時代に、すでに善根宿という概念が生じていた。善根を施す根拠は、「後生善処」と考えられていた。また食事の接待も行われているが、ごく稀である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院
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