昭和の時代には、丸亀平野のため池は弥生時代には出現していたと考えられていました。
 当時は、津島遺跡(岡山市)や古照遺跡(愛媛県松山市)の発掘が大きく取り上げられ、その影響もあったようです。
3.西根堰と水路網にみる歴史的風致 (1)はじめに 桑折町周辺は産ヶ沢川による扇状地が発

しがらみ堰
の発掘は大きく取り上げられ、弥生時代の灌漑技術が過大評価されたこともあるようです。しがらみ堰が作れるのなら、自然の窪みを利用した小規模な堤防もつくることが出来るようになり、それがため池灌漑へ移行し、農地を拡大していったというストーリーになっていきました。そのため、丸亀平野のため池の発生も、弥生期か古墳時代にまでさかのぼると考えられました。
 そして、丸亀平野のため池の発生については、次のような仮説が出されました。
2 丸亀平野のため池と遺跡
  
①昭和27年の3回の洪水調査から丸亀平野の洪水路線を明らかにし、弥生式遺跡の立地、ため池の配置を地図上に落としてみる。
②そうすると弥生遺跡が、いずれも洪水路線に隣接する微高地に立地すること
③ため池が洪水路線に沿って、鈴なりのように連なっていること
以上から次のように、研究者は推測しました。
水田が広がるにつれて、自然の窪みを利用した小規模な堤防をもつ初期ため池灌漑がスタートした。大規模古墳の土木工事は、そのままため池の堰堤工事に転用できるし、労働力の組織化もできるようになった首長は、丸亀平野の凹地にため池を築造することで、水田開発を大規模に進めていくことになる。

  以上が「丸亀平野における弥生・古墳時代の初期ため池灌漑」説です。しかし、現在ではこれは余り顧みられることのない「過去の説」になっているようです。
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 それでは、現在はどのようにかんがえられているのでしょうか
 20世紀末に丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代の遺跡が数多く発掘されました。その中には、溝の幅が2mを超える「大溝」や「基幹的灌漑水路」と呼称される主要な灌漑水路も出土しています。これらの分水路を組み合わせで、水田への水は引かれていたと発掘報告書は報告します。
例えば坂出IC周辺の川津遺跡からは、下のような水路が出ています。

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ここでは、旧大束川から分岐した用水路が川津中塚遺跡を経て、下川津遺跡まで連続して続いていました。しかし、この段階では、何㎞も先から導水路を設けて広い範囲をカバーするような灌漑水路ははないと、研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 地形区分図

 以前に見たように善通寺王国の都である旧練兵場遺跡でも、微髙地周囲を網の目のように流れる中谷川(旧金倉川?)から導水された水路は、さほど長いものではありません。居住区から遠く離れた水源から取水する必要がなかったようです。
 古墳時代も、このような状況に変化はありません。
弥生時代後期に開かれた灌漑水路の多くは、古墳時代を通じて機能・維持されますが、なぜかこれらの多くは古墳時代後期の6世紀末葉から7世紀前葉に埋没・放棄されます。その理由は不明です。7世紀前半は断絶の時代なのかも知れません。
南海道 条里制与北周辺

 7世紀末になると律令国家の建設が進み、それに伴って目に見える形で南海道が東から伸びてきます。南海道を基準に条里制ラインが引かれます。そして南海道沿いには、各郡司達は郡衙を整備し、氏寺を建立し、自らの支配力を目に見える形で誇示するようになります。
川津一ノ又遺跡
そしてこの時期に、丸亀平野にため池が始めて出現します。
川津一ノ又遺跡(坂出市)では、7世紀後葉に築造されたため池が出てきています。大きさは推定で約3ha、復元堤高は約1mで、上流側の大束川から水を取り入れ、灌漑水路で各水田へ導水していたようです。
 このため池が「条里制実施にともなう水田面積の拡大への対応」のために、作られたと思いたいのですが、どうもそうではないようです。川津のため池の堤高や池敷面積から想定して、ため池築造により灌漑エリアが格段と広がった様子はうかがえないと研究者は云うのです。ため池築造が耕作地の拡大を目指したものではなく、途中に貯水場を設けることで「安定した農業用水の供給をはかることが目的」があった研究者は考えているようです。また、灌漑域も郷エリアを超えるものではありません。

満濃池灌漑エリアと条里制
 丸亀平野の条里制については、発掘から次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割はmラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
①については、条里制工事が一斉にスタートし耕地化されたのではないようです。極端な例だと、中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあるようです。場所によって時間差があるのです。つまり、条里制によって7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないようです。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。つまり「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。
金倉川 10壱岐湧水

中世の善通寺一円保(寺領)を、例にしてみましょう
①一円保の水源は、二つの出水と弘田川でまかなわれていた。
②14世紀後半になって、弘田川上流の有岡の谷に、有岡池を築造した
つまり、善通寺の寺領(?)である一円保は、金倉川から取水は行っていません。これが私にとっては謎です。もし満濃池が空海によって築造されたとすると、その最大の受益者は空海の実家の佐伯家でしょう。
1空海系図2

空海の弟は、多度郡の郡司を勤めていたようで、業績を表彰された記録が正史に残ります。満濃池築造の際には、郡司だったかもしれません。そうだとすると、満濃池の利水に関して大きな発言権を持っていたと考えられます。当然、満濃池から善通寺周辺への灌漑路を整備し、それによって水田や畠などの開発に乗り出したはずです。
 しかし、満濃池から善通寺までの用水路なんて、この時代に整備・維持できたのでしょうか。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺生野町辺りの旧金倉川流路跡
わたしは金倉川を使えば、いいのではないかと思っていました。しかし、古代の金倉川や土器川は流路が定まらず、堤防もないためにいくつもの流れになって丸亀平野を流れ下っていました。そこに堰を設けて導水するなんてことができたのでしょうか。
金倉川と条里制

 もしそれが可能だったとしたら、どうして中世には善通寺一円保は金倉川から導水せず、有岡池の築造を選んだのでしょうか。古代にできていたことが、中世にはできなくなった理由がつけられません。
 もうひとつは、古代において多度郡の佐伯家が用水不足からため池を必要としていたのなら、まず取りかかるべきは有岡池だったのではないでしょうか。最初から満濃池である必要はありません。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の導水水路で、これは一円保には描かれていない

 土木モニュメントは、古墳を例にすると小形のものから作られ始めて、様式化し、大型化するという段階を踏みます。それまで丸亀平野になかった超大型のため池が、突然姿を現すというのも不自然です。まさに弘法大師伝説のひとつなのかもしれません。
 築造費用についても、当時の国司は空海が讃岐に帰ってきて、満濃池修築を行ってくれるなら、修築費も国が出す必要はないと云っています。手弁当で人々が参加することを前提としているのかも知れませんが、資材などの経費は必要です。だれが出すのでしょうか。これは、佐伯家が出すと云うことなのではないでしょうか。そこまでした、佐伯家にとって満濃池は必要だったのでしょうか。もし満濃池の築造の必要性があるとすれば、多度郡司である空海の弟の国家への貢献度を高め、位階を上げるためという理由付けはできるかもしれません。 
弘法大師御影 善通寺様式


 空海による満濃池修築というのは考古学的には疑問があるようです。しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。古代の満濃池については、私は分からないことだらけです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書 第3章歴史的環境
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