中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
宮座は、もともと寺社の祭祀の負担すべきことを、地域共同体や商工業者に担わせるために、支配者の側が率先して作らせたものでした。その宮座組織を拠り所にして、民衆側は逆に自分たちの精神的紐帯として活用するようになります。そして郷村自治の拠点としていきます。鎮守社の祭礼を行う中で共同体意識を培い、結束力を高める場と宮座はなります。鎮守社の祭礼は、惣郷民の結束の確認の機会としても機能するようになるのです。
宮座の組織が早くから発達する近畿地方の郷村では、春秋の一期に、定期的祭礼を行なうのが通例でした。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、共同体の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。
日根野荘の宮座
同時に、あらかじめ契約を結んでいた猿楽者などの芸能者がやって来ます。彼らは翁姿に変じた先祖の神として現れ、翁舞(翁猿楽)を舞うことで、郷民を祝福します。余興として、当時の流行芸能であった狂言や猿楽能も演じられたようです。
田楽と猿楽
また正月の祭りでは、その年の秋の豊穣を正月の神(先相神)に祈る様々な行事が行なわれました。それらの費用は、古くは領主の側の負担でした。そのため領主の居館跡からは、酒を酌み交わしたかわらけの破片が数多く出土するようです。郷民達は、領主居館でただ酒を飲んでいたようです。しかし、時代が下るに従いこの習慣はなくなります。自治とは自腹でもあります。郷民自身が順番に負担する「頭屋」の制度などによって賄うようになります。
これら恒例の祭りとは別に、旱魃の時に行なわれたのが雨乞祈願です。郷村の祈雨祈願のスタイルは、竜神に祈るという点では、古代と変わりません。寺院僧による読経であり、牛馬を殺して竜神の池に投げ込み、怒らせるという方式です。
和泉国日根野荘の郷民による雨乞踊りは
公家の九条政基が和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)で見た雨乞いの様子が彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条には、次のように記されています。
この付近の村々は、葛城山系の灯明岳から流れ出す大鳴川の水を水源として耕地を拓いていて、その源流には修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。
犬鳴山七宝滝寺
この寺は天長年間(824~)に、淳和天皇がこの地域の源流にある7つの滝に雨を祈って霊験があったという伝承のある霊山で、祈雨の寺院です。中世後期にここで行われていた雨乞は、九条政基の日記を要約すると次のようになります。①最初に入山田村の郷社である滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う②験のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう③次には近くの不動明王堂で沙汰する④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
という手はずになっていたようです。
「雨乞いして雨が降らなかったためしはない。なぜなら綾子踊りは、雨が降るまで踊る」というのが、私の住む地域に伝わる雨乞い綾子踊りの鉄則です。ここでも雨が降るまで、いろいろな手段が講じられていたようです。しかし、やることは、古代の雨乞いと変化はないようです。ところが、大きく違っているのは、雨が降った後のお礼です。
「雨乞いして雨が降らなかったためしはない。なぜなら綾子踊りは、雨が降るまで踊る」というのが、私の住む地域に伝わる雨乞い綾子踊りの鉄則です。ここでも雨が降るまで、いろいろな手段が講じられていたようです。しかし、やることは、古代の雨乞いと変化はないようです。ところが、大きく違っているのは、雨が降った後のお礼です。
文亀元年夏の時には、雨乞いをすると直ぐに霊験があり、一日後の22日条には「未刻に及び滝宮の嶺に陰雲強く鮮興り、雷鳴一声霜ち聞き入る」と記されています。この降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。雨乞いのために行なうヲドリを、私たちは「雨乞踊り」と呼んでいます。しかし、ここでは「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。このような風流やヲドリを、雨乞に演じるということは、律令制の時代や、中世前期の荘園にはありませんでした。中世後期に始めて登場するイベントです。
「勝尾寺請雨勤行日録」には、次のように記されています。
請雨、嘉吉三年七月十九日、外院庄ヨリ付之、同日末刻開向在之、丁丑日別院衆モ大般若読了、(中略)同時ヨリ庭ニテ大コヲ打、ツヽミ、ヤツハチ、フエ、サヽラニテ、ヰキヤウ(異形)無尽ノク
ここからは、雨乞いが成就した後に、大鼓・鼓・八撥・笛・摺リササラなどの囃子が使われて、踊りが奉納されています。
このようなヲドリは、「風流の囃子物」とも呼ばれていたようで、民衆が自ら演じる芸能として、京都・奈良の近郊農村部を中心に、近畿一円に登場していました。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。その背景として考えられる要因を、挙げておきましょう。
このようなヲドリは、「風流の囃子物」とも呼ばれていたようで、民衆が自ら演じる芸能として、京都・奈良の近郊農村部を中心に、近畿一円に登場していました。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。その背景として考えられる要因を、挙げておきましょう。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために民衆の間に流布させた、「躍り念仏」の流行③人の目を驚かせる趣向を競う、「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために工夫されたものではありません。先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られていたものです。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
「政基公旅引付」には雨乞い以外の風流の様子も、記されています。
雨乞祈願が成功した同じ年の孟蘭盆会、入山田郷の郷民は念仏風流を行なっています。同日記の七月十三日条に、次のように記されています。
「今夜船淵村之衆風流念仏、又堂の庭に来る、念仏以後種々の風流を尽す
この風流を観た政基は、その趣向の風情や使われている言葉が、都のものにも劣らないと感嘆しています。
翌日14日には土丸村の風流があり、翌々日15日は高蒲村の衆による念仏風流と、大木村の衆による風流が、政基の居る堂の庭にやってきて踊っています。16日の夜には四ヵ村がともに滝宮社に赴いており、土丸と入木、菖蒲と船淵というそれぞれ二村の立合で芸が披露されています。
風流の本流は囃子物だったようですが、社頭では猿楽能の式三番と能「鵜羽」が郷民の手で演じられています。その能を観た政基は、「誠に柴人之所行希有之能立を作る也」と驚いています。ここからは16世紀初頭には、畿内では郷民による祭礼芸能が、相当に浸透していたことがうかがえます。
この年は神社の秋の祭礼でも風流が演じられています。
演じられたのは入山田村の神社である滝宮の祭礼ではなく、式内社であった大井関神社(現日根神社)の祭礼です。
大井関神社(現日根神社)
この神社は、古代には日根神社として呼ばれていましたが、日根庄が成立すると、その荘園鎮守社となり、日根野荘一帯の田畑を潤す水を、樫井川から取水する大堰に近かったこともあり、大井関神社と名を替えて祀られるようになります。日根野荘が解体しても、住民にとつての信仰は続き、八月十五日の祭礼には、入山田からも参加していたようです。 政基はこの祭礼の様子を、次のように記しています。
「当国五社宮祭礼也、大井関社第四之社也、抑も高蒲・船淵之衆一昨夜不参之条、今日十六日態卜風流企て推参、事の外人儀之風流也」
風流以外にもその後には船淵の百姓である左近太郎という者が、猿楽能の式三番を演じており、その演技の確かさにも驚いた様子が記されています。郷民の中には、玄人はだしで演じる者がこの時代には現れていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山路興造 中世芸能の底流 中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌
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