大和国のほぼ中央部は、国中平野と呼ばれる奈良盆地です。奈良盆地に集まった水は、大和川と名を替え、西側の生駒・金剛山地の間を穿って亀ノ瀬渓谷を西流し、大阪に出ます。しかし奈良盆地に降る雨の量は、必ずしも多かったわけではありません。そのため水田耕作を始めた人々は、周囲の山々には雨を乞う神々を多く祀る一方、大陸から渡来した高度な技術によって、多くの溜池が築造してきました。水の配分に対する意識も、高かったようです。
たとえば天理市の石上神宮(布留神社)は、朝廷からは武器庫としての役割を担わせられています。しかし、もともとは布留川の水を支配する神を祀る祭祀施設だったようです。水源地である山頂に神(竜王)を奥宮として祀り、川が平野に流れ出す山と田の境に遙拝所があります。里人はこの社を、朝廷の思惑とは別に付近の田を潤す布留川の神を祀る社として、受け止めていたようです。支配者の側も、そのことは充分承知していたようです。律令制の下に、王権が一切を支配しようとした古代においても、またそれに続いて、荘園など中央の支配者が収穫物を収奪した時代においても、この水の支配者たる布留の神を祀るのは、主として支配者の側の仕事でした。
しかし中世も後期にはいると、事情は大きく変化します。
権門社寺の力が衰え、それに反比例して在地郷惣民の結束による新しい村落組織が誕生します。すると、田畑の収穫を左右する布留川の水の管理と、それに関連した布留神社(石上神社)の祭祀は、惣郷自身が行なわねばならなくなります。そこに誕生するのが、「布留郷」という郷民の組織です。もちろん「郷」は、古代律令制下の地方行政組織の一つとして機能してきました。しかし、中世後期には、それとは別に地域民の利害に基づく結束の下に誕生する中世郷が登場してきます。それが布留郷です。その利害とは、もちろん布留川の水利です。
これに対して、布留神社を精神的紐帯とする郷民は結束して、興福寺と対立しながら、郷としての意志を貫徹する力を持つまでに成長して行きます。これは、讃岐の中世の村々が進む道でもありました。奈良平野の雨乞行事の形成に重ねて、その過程を今回は追いかけて見ようと思います。テキストは、前回に続き「山路興造 中世芸能の底流 中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」です。
”石上(いそのかみ) 振之高橋(ふるのたかはし) 高々尓(たかだかに) 妹之将待(いもがまつらむ) 夜曽深去家留(よそふけにける)”<万葉集・作者不詳>「石上の布留川にかかる布留の高橋、その高い橋のように高々と爪立つ思いで、あの女が待っているだろうに、夜はもうすっかり更けてしまった」 男の訪れを待ち焦がれる女の許へ、夜がふけてから通う男が詠んだ歌です。
①大和神社を紐帯とする大和郷九カ村、②和爾坐赤坂比占神社を紐帯とする和迩郷五ヵ村、③桜井市では初瀬川の水を利用し、大神神社を紐帯とする三輪郷三ヵ村④磯城郡旧原本町付近では、飛鳥川の水掛かりで、多坐輛志理都占神社を紐帯とする多郷三〇ヵ村
後世の江戸時代の史料には、これらの郷に雨乞のオドリを演じた記録が残っているようです。その具体的様子を、記録がもっとも良く残る布留郷を中心に見ていきましょう。
雨が降らず旱魃が続くと、布留郷の郷民が雨乞いに動き始めます。
その最初の行動は、郷民の代表と布留神社の爾宜が、竜王山の山中に鎮座する竜王社まで登り、素麺50把と酒一斗二升を供えることでした。そして、これが適えられれば、郷中総出でオドリを奉納することを神に約束します。ここでもオドリは「満願成就のお礼」として踊られていたことが分かります。このオドリを「南無手踊り」と呼んでいたようです。名前からして念仏踊りの系譜を引く風流踊りのような気配がします。この踊り自体は、奈良平野一帯の雨乞の御礼踊りとして、あちこちで踊られていたようです。奈良奉行所の与力の筆になる『庁中漫録』には、次のように記されています。
大和の国のなもてをとリ(南無手踊り)ハ、此布留郷より事をこれり、南無阿弥陀仏踊と書て、なもてをとりとよめり、或ハ雨乞のときか、あるときハ神にいのりのとき、願をたてゝ此をとりを執行なり、布留五十余郷として執行なり、
意訳変換しておくと
大和の南無手踊りは、この布留郷から始まった。南無阿弥陀仏踊と書て「なもてをとり」と読む。雨乞の時や、神に願掛けしたときに成就した際に踊るもので、布留五十余郷で行う
ここからは大和の南無手踊りの起源は、布留郷の踊りにあるという伝承があったことが分かります。ヲドリの具体的様子は、文政頃に成立した『高取藩風俗間状答』に、次のように記されています。
南無手踊 旱の節、雨乞の立願し、降候と御礼に踊る、願満踊といふ、所々に御座候、高取城下の式は、行列又場所にても、警固のために、天狗の面或は鬼の面をかぶりたるもの棒をつき、群集の人を払ふ、其次、早馬と申、おとり子小太鼓を持、唐子衣装花笠、其次、中踊と申、色々の染帷子・花笠、音頭取は華笠・染帷子にて、してを持、所々に分りて拍子をとる、頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内に赤熊をかふることもあり、此太鼓に合せて踊る、法螺貝・横笛・叩鐘にて調子を合す、押にははら大鼓とて、後に御幣を負ひ、はらに大鼓を括りつけ、帯を引かけ赤熊をかふる、踊は壱番より五番まて、手をかへ踊候、村毎に少しづつ手も替はり候ゆへ、一村一村分て踊る、
南無手(なむて)踊は旱魃の時に、雨乞立願の御礼に踊るので願満踊とも云う。高取城下で行われる時には、行列や会場に天狗の面や鬼の面をかぶり棒をついた警固人が先頭に立って出て、群集を払い整理する。その次に早馬と呼ばれる踊り子が小太鼓を持ち唐子衣装花笠で続く。その次は中踊と呼ばれる集団で、色々の染帷子・花笠を着け、音頭取は華笠・染帷子やしてを持ち、所々に分かれて拍子をとる。頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内側に赤熊を被ることもあり、太鼓に合せて踊る。それに法螺貝・横笛・叩鐘が調子を合す。押には腹に大鼓を抱え、背中には御幣を負う。踊は壱番より五番までで、手をかへながら踊り、村毎に少しづつ変化させている。一村毎に分て踊る。
とあり、村ごとで少しずつ踊り方を換えていたことがうかがえます。布留郷では、このヲドリは、江戸時代を通じて何回も踊られています。文政十年(1827)8月の様子を「布留社中踊二付両村引分ヶ之覚」(東井戸帝村文書)は、次のように記します。
この時は布留郷全体の村々が、24組に分けられていた。東井戸堂村・西井戸堂村合同による一組の諸役は、大鼓打四人、早馬五人、はやし二人、かんこ五人、団踊一〇人、捧ふり二人、けいご一〇人、鉦かき二人、大鼓持三人の、計四二人になる。
1組で42人のセットが24組集まったとすると、郷全体では千人以上の規模の催しであったことが分かります。
踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。
南無手踊りについては、踊りを踊った村が記念に絵馬に描かせて地元の神社に奉納したものが残っているようです。
①高取町下子島小島神社
踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。
南無手踊りについては、踊りを踊った村が記念に絵馬に描かせて地元の神社に奉納したものが残っているようです。
③明日香村橘春日神社(文化九年(1804)
④明日香村立部(慶応三年〈1867)
⑤明日香村稲淵字須多伎比売神社(嘉永六年(1853)
⑥川西町結崎糸井神社(天保十三年(1842)
⑦安堵村束安堵飽波神社・年末詳)
これらの各神社に残された絵馬は、保存もよくて、オドリの各役の扮装などがよくわかるようです。
中世後期に近畿地方の郷村に登場した風流のオドリは、郷村組織の拡がりと足取りを同じくして全国に拡大していきます。そして鎮守社の祭礼や、寺院での孟蘭盆会、また旱魃時に行なわれる雨乞の御礼踊りとして踊られるようになります。その例をいくつか見ておきましょう
油日神社
雨乞では、近江国甲賀郡の霊山・油日岳を御神体とする油日神社(現甲賀市)があります。油日川の水掛かりの村々である油日谷七郷(油日・上野・毛牧・探野・栖山・田賭野・野)に、中世末期に成立した五反田などが加わって、雨を祈ってオドリを奉納しています。
また近江国坂田部の大原十八郷(中心は東近江市湖東町)では、出雲井の水掛かりである村々(間田・小川・井ノ口・野一色・坂国。鳥脇・村井田・上夫馬・下夫馬・市場・市場中・本庄・本庄中・春照・高番など)が、雨乞いのために総社の岡神社にオドリを掛けています。
井之口日吉神社 長浜高月町
伊香郡富永荘(長浜高月町)でも、高時川右岸から取水する大井堰の水掛かりの村々が、上六組(井之日・持寺・保延寺・雨森・柏原・尾山)と下六組(束物部・西物部・横山・店川・磯野・東柳野)に分かれて、鎮守社である井之口日吉神社にオドリを掛けています。
駒宇佐八幡宮の百石踊り
播磨国では、武庫川の上流域で、その水掛かりの村として、三田市の駒宇佐八幡宮を祭祀する上谷と下谷が、雨乞の御礼踊りとして伝承した百石踊りがあります。
播磨国では、武庫川の上流域で、その水掛かりの村として、三田市の駒宇佐八幡宮を祭祀する上谷と下谷が、雨乞の御礼踊りとして伝承した百石踊りがあります。
加古川の支流である東条川の流域では、九東条町の秋津住古神社を紐帯とする常田・古家・西戸・横谷・貞守・長井・少分谷・長谷・石黒・岡本・森の村々が結束して、雨乞の風流踊りを行なっていました。
最後に、中世の雨乞い風流踊りについて研究者は、次のように指摘しています
①踊りの成立基盤が、江戸時代に村切りされた近世村ではなく、中世後期の共同体である郷である
②郷のなかの集落(村)が単位となってオドリ組を構成し、複数の組が互いに掛け合う場合が多かったこと。
③複数の組が競演するために、風流の趣向を競い、歌の歌詞に工夫を懲らすなど、互いに競争心が働いて、芸態がより面白く、また複雑になっていったこと。
④同じ芸態のオドリを、少し趣向を変えて、祭礼や盂蘭盆会にも雨乞にも用いたこと。
このような視点で讃岐の雨乞い踊りを見てみるとどうなのでしょうか
私は、まんのう町で踊られていた七箇念仏踊りは、滝宮に出向いて踊られていたというので「雨乞い踊り」という先入観で見ていました。しかし、④のように、日頃は祭礼や盆踊りとして踊られていたものが「転用」されたものが、雨乞成就のお礼のために踊られた視点は、新しい視野を開いてくれるような気がします。
また風流踊りは、雨乞成就のお礼のために踊られたという視点も刺激的です。もともとの滝宮念仏踊りは、讃岐中からいくもの組が参加していたと伝えられます。それも衣装から道具をなどを揃えると大部隊になります。雨乞いという「異常事態」の中で、どうしてこれだけの舞台装置を揃えるのかが私には不思議でした。しかし、雨乞成就のお礼のために、準備して周辺の郷村が揃ってお礼参りしたとするなら納得できます。
また風流踊りは、雨乞成就のお礼のために踊られたという視点も刺激的です。もともとの滝宮念仏踊りは、讃岐中からいくもの組が参加していたと伝えられます。それも衣装から道具をなどを揃えると大部隊になります。雨乞いという「異常事態」の中で、どうしてこれだけの舞台装置を揃えるのかが私には不思議でした。しかし、雨乞成就のお礼のために、準備して周辺の郷村が揃ってお礼参りしたとするなら納得できます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流 中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」
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