前回は、播磨の住吉神社に伝わる中世前期の祭礼芸能を見てきました。今回は若狭国三方郡地方の延暦寺や奈良春日社領の荘園を見ていこうと思います。テキストは「 山路興造 中世芸能の底流 第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に」です。
若狭では、かつての荘園の範囲を氏子圏とした神社に芸能が伝承されているようです。これは荘園領主が本家から勧進した鎮守社に、祭礼芸能も同時に持ち込んだためです。その際には、経済的裏付けとしての荘園内に神田や芸能田を確保したうえで、荘民に所役を割り当てています。それが若狭には、今も残っているようです。
福井県三方郡三方町気山の宇波西(うわせ)神社は、
鎌倉時代には耳西郷と呼ばれる国衛領に鎮座する古社でした。耳西郷は鎌倉末期には領家職が東二条女院によって奈良春日社に寄進され、南北朝期には地頭職が天龍寺領と移っていきます。その後幾たびかの変遷を経て、字波西神社の祭祀は、耳西郷の村々によって担われるようになります。四月八日の祭礼は、旧耳西郷の気山(中山・市・中村・寺谷・切追)、牧口、大藪、金山、郷市、久々子、松原、笹田、日向、海山、北庄の村々が奉仕しています。宇波西神社の祭礼の特色は、これらの村々が定められた神餞と御幣を持って参詣することです。神社境内には各村の仮屋があって、献般を済ませた後は村ごとにそこに座を占めて饗宴を開き、当番村が繰り広げる上の舞・獅子舞・田楽などの芸能を楽しむのです

宇波西(うわせ)神社の王の舞
祭礼で芸能を演じる村は、次のように決まっているようです。
①王の舞が海山・大藪・金山の三村が1年宛ての交替分担②獅子舞が郷市・松原・久々子の交替制③田楽は日向が2年、牧口が一年の交替
これは神社にある大永二年(1522)の「上瀬宮毎年祭礼御神事次第」に記された、当時の神事に献供を寄せた村と一致します。約五百年の歴史があるようです。


祭礼では、今では前日から当日の朝にかけて、それぞれの村で宮座が行なわれ、それを済ませてから総鎮守の宇波西神社に舟でやって来るという段取りになっています。しかし、これは宮座が開放されて以降の形式で、古くは耳西郷内の各村浦に住んいた選ばれた上層農漁民たちによる惣宮座があったと研究者は考えているようです。神社の鎮座する気山には、「気山モロト」と呼ばれる特定の家のみで継承する宮座が今も残されています。彼らは、謡の間に若狭鰈や桜の一枝を馳走にして献を重ねていきます。ここからは、春未だ浅い早朝の上方五湖を、舟で渡って神餞を運ぶ素襖・烏帽子の村人たちの姿と、中世期の若狭に生きた人々の姿がダブって見えてくると研究者は云います。
①興の村(王の舞と獅子舞を担当)、
②流鏑馬村(流鏑馬は廃絶)、
③大村(田植舞を担当)、
④田楽村(田楽を押当)
の四つの宮座によって行われています。
また、大炊寮の所領であった田井保の範囲を氏子に持つ多由比神社では、四月十八日の祭礼に、宮座によって田楽・上の舞・獅子舞・細男舞が演じられます。このように若狭の特徴は、保や荘園などの中世前期の氏子範囲を宮座とする神社の祭祀が、現在まで残されていることだと研究者は指摘します。

若狭の勧進された鎮守社では、荘園単位の宮座によって演目が演じられていました。それに対して畿内の惣村の宮座では、専業猿楽者を祭礼に招聘する方式がとられます。権門勢家という後ろ盾を失った猿楽者が、その生き残り策として、力を付け始めた惣村を芸能市場に選んで、積極的に売り込みを図ったようです。惣郷の鎮守社の祭礼に、神を出現させるという役割で、猿楽者が登場するようになるのです。そのスタイルを具体的に見てみましょう。
猿楽者は、社の遷宮に際し「方堅」という呪術を行なうことで惣村に進出していました。それがさらに進んで、春秋の祭礼にも登場するようになります。神格を持った「翁面」をご神体として本殿に祀らせ、それを春秋の祭礼に取り出して猿楽者自身が舞い、神の姿として見せるというスタイルです。

現在でも各地の神社には、南北朝期から室町時代の翁・二番艘・父尉(ちちのじょう)の三面がご神体に準じて祀られていることがありますが、それはこの時に使われていたようです。
現在でも各地の神社には、南北朝期から室町時代の翁・二番艘・父尉(ちちのじょう)の三面がご神体に準じて祀られていることがありますが、それはこの時に使われていたようです。
惣村の自治活動の先進地と云われ、15世紀末には、一揆によって八年間の自治支配を実現した南山城地方では、宮座をこの方式によって運営する所が多かったようです。

京都府木津市の岡田国神社には、境内中央に建つ拝殿を利用した能舞台を中心に、両側に見物の桟敷となる仮屋(長床)が残されています。祭礼には長床でおける宮座行事が終了した後、この拝殿に橋掛かりを設け、郷が楽頭職を与えた猿楽者が能を演じていたようです。特別なときには、いくつもの猿楽座が呼ばれて競演することもあったようです。

岡田国神社
京都府木津市の岡田国神社には、境内中央に建つ拝殿を利用した能舞台を中心に、両側に見物の桟敷となる仮屋(長床)が残されています。祭礼には長床でおける宮座行事が終了した後、この拝殿に橋掛かりを設け、郷が楽頭職を与えた猿楽者が能を演じていたようです。特別なときには、いくつもの猿楽座が呼ばれて競演することもあったようです。

見物する座席は、惣郷の勢力関係によって、細かく決められていました。ハレの場における村のステイタス確認儀式の場でもあったようです。桟敷には上層農民である殿原桟敷と、その家族たちの女房桟敷、そして一般農民の地下桟敷の別があります。ここからは当時の惣村の内部構造などもある程度うかがえます。同時に中世農民がハレの日の興奮を、自治組織の運営にうまく組み込んでいった知恵も知ることができます。
いつの時代でも、農民にとっては米の不出来が大問題であったはずです。残された絵図を見ると、中世の農民は、祭りを神祭りの場としてハレの行事に組み込み、一日を楽しんだ様子が伝わってきます。
それを研究者は次のように描きます
また田植が田の神を迎えての神事であった時代には、美しく飾った自慢の牛たちを、何十頭も田んぼに入れて、熟練の牛使いがそれを見事に歩かせて田を鋤くのが、どこの地方でも見られたようです。
指揮者との掛け合いで歌われる早乙女たちの田植歌は、豊穣を祈る呪歌でした。それは時間の推移によって歌詞が決まっていて、時には笑いを誘うバレ歌を交えて、労働の疲れを忘れさせます。それを囃す男たちの楽も、腰太鼓・摺りささら・鼓などが用いられ、賑やかに撥が五月晴れの空に舞います。全員の意気が揃うと、早乙女の笠の端が一斉に揺れて、歌声が卯の花を散らす。この日ばかりは無礼講で、田主の裁量で酒がふんだんに振る舞われ、その女房は田の神の嫁たる「オナリ」に扮して、昼の食事を運ぶ。この夕ばかりは性の解放さえされたのは、そのいずれもが秋の菫一穣を願う儀式の一部であったからにはかならない。
平安時代の貴族たちは、この田植えさえも一大イベントとして鑑賞対象として記録に残しています。(栄華物語)。現在でも広島県の山間部や島根県の一部には「囃子田」とか「花田植」とか呼ばれて、地主の大きな田んぼを、太鼓を囃しなから植え行事が残されていました。

そこで歌われた田植え歌の歌詞が「田植草子」と呼ばれる中世の庶民が育てた文芸の代表として、国文学の研究対象になってきたようです。この他にも正月行事には「田遊び」と称して、一年の稲作過程を神の前で模擬的に演じてみせたりすることもあったようです。それが近世には、絵図として描かれ、都市の裕福な階層の人気を集めたりもします。ある意味、農作業の「啓蒙書」の役割も果たしたのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

そこで歌われた田植え歌の歌詞が「田植草子」と呼ばれる中世の庶民が育てた文芸の代表として、国文学の研究対象になってきたようです。この他にも正月行事には「田遊び」と称して、一年の稲作過程を神の前で模擬的に演じてみせたりすることもあったようです。それが近世には、絵図として描かれ、都市の裕福な階層の人気を集めたりもします。ある意味、農作業の「啓蒙書」の役割も果たしたのかも知れません。
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参考文献
山路興造 中世芸能の底流
第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に
山路興造 中世芸能の底流
第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に
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