ソラのお堂

阿波の「ソラの村」と呼ばれる村々には、小集落毎にお堂が今も祀られています。そして、そこでは祭礼と芸能が行われています。端山88ヶ所廻りをしていて、出会ったお堂は魅力的でした。どうして、このお堂は作られたのだろうか。また、そこで踊られる「盆踊り」は、どこからやってきたのだろうか、疑問はつきません。その都度、思うところや考えたことを載せてきましたが、地元の史料や研究だけでは、なかなか分かりません。もう少し大局的な「見取り図」が必要なようです。今回もテキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に」です

唐招提寺の舞楽

唐招提寺の舞楽 
奈良時代には東大寺を中心に国家鎮護を目的に仏教の法会が行われるようになります。それが国分寺建立などによって、地方にも拡大していきます。これは「国家的規模の意図的伝播」です。
 平安時代になると真言宗などの密教寺院の地方進出が進みます。これには仏教以前のわが国古来の山岳宗教が大な役割を演じ、その拠点ともいえる山岳寺院を足がかりに勢力を伸ばしていきます。四国では、この中から焼山寺や太龍寺のように、四国辺路の寺へと成長して行く寺院が現れます。密教系寺院の中には、地方豪族の信仰を背景に、多くの寺僧・社僧をかかえて繁栄し、地方の大寺院に成長して行く寺も現れます。このような寺社では、善通寺のように中世後半のある時期までは、経済的裏付けを確保して、規模にあった専業の宗教者を抱え、年中の法会を行うようになります。
1年中法会

一方、中央の大社寺勢力や貴族達も荘園支配という形での地方進出を進めます。それにともなって、荘園鎮守社やその神宮寺が創建されるようになります。そこでは、荘園領主は「イデオロギー的荘園掌握の方法」として寺社は活用されます。これは、中世ヨーロッパの修道院と荘園と同じです。鎮守社の祭礼では、領主が中央で行っていた祭祀や芸能構成が、そのまま地方の荘園にもちこまれます。祭礼準備を行うのは荘民の役目として義務づけられるようになります。そのため荘園内に仏神田や祭祀田が確保され経済的な裏付けがされた上で、専門の宗教者などが祭祀にあたるようになります。
 このような祭礼・芸能の地方進出には、山岳密教系の寺社や荘園鎮守社寺によってそれぞれ独自のスタイルがあったようです。その系統の宗教者によって、祭祀構成や法会、芸能などに共通した特色が残されています。その特徴は、正月三ヵ日の祭祀である元三や、修正会、修二会など新春に行なう行事に重点を置いた祭祀です。ほかに毎月一日ごとの朔幣の奉幣、三月三日・五月五日・七月七日・九月九日の節供ごとの奉御供、仏事に重きを置く所では仁王会・法華八講・車厳会・蓮幸会・維摩会など、加えて年一度の正祭になります。これらを地方の大寺と呼ばれる寺は、整備していくことに苦心するようになります。
旅探(たびたん)】参加できる日本の祭り「醍醐寺の五大力尊仁王会」

 その中で、時代が下るにつれて地方独自のものも盛り込まれ、地域に根付いていくことになります。特に新春にあたっての修正会には、村落生活の中で伝えられた祖霊祭や、豊穣予祝の切実な願いが、前面に押し出されてきます。
惣郷」(そうごう)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力
 中世社会が進むにつれて、人為的な空間エリアであった荘園や行政単位としての郷とは別に、地縁的集落結合が大きな意味をもつようになります。それが惣郷や惣村と呼ばれる地縁結合体です。ここでは精神的拠り所として、自分たちの信仰する神仏を選び、自分たちの手で祭祀を行なう寺社を勧請するようになります。つまり、一宮や善通寺のように専業祭祀者を中心とした地方有力社寺とは別に、新たに登場してきた惣郷は、自分たちの手で寺や神社を建立し、運営するようになるのです。そして、それまでの専業祭祀者を中心とした地方有力社寺とは別に、惣郷(集落)ごとに祀られた小祠・小堂が村落生活の中心として定着していくことになります。この時点では、まだ鎮守の森には建造物はなかったかもしれません。
それでは、新たに登場した惣郷の社で行われるようになった祭祀と芸能とは、どんなものだったのでしょうか。また、どんな宗教者が関わったのでしょうか
大千度行者(だいせんどぎょうじゃ),日光山伏(にっこうやまぶし) ,里山伏(さとやまぶし)

 この時期の郷村の社寺経営に関わったのは、高野山系系(山岳密教系)の下級宗教者たちだったと研究者は考えているようです。それは、里山伏・里修験、聖などに分類された宗教者です。彼らは、修行遍歴の中で縁があって定着し、次第に村の有力者として祭祀や郷村内での相応の位置を確保していった者がいるようです。その際に、修行で得た胆力や実践力は集団を動かすのに大きな力となったかもしれません。
 三河の田楽(みかわのでんがく)
三河の田楽
しかし、郷村の社で行われた祭祀や芸能スタイルに、新しい工夫があったわけではないようです。それまで地方の有力社寺が、中世前期を通じて徐々に育ててきた年中行事の中から民衆の求める行事を選択して持ち込んだようです。地域の人々が求めるスタイルに変化アレンジさせることが彼らの手腕で、工夫の見せ所だったようです。これを民族化・土着化と呼ぶのかも知れません。
 次に今まで述べてきたことを、具体的に「フィルドワーク」で見ていくことにしましょう。
1修正会 東大寺

 
研究者がここで紹介するのは、三河・信濃・遠江の国境一帯の山深い山村の小祠・小堂に伝承された修正会(しゅっしょうえ=オコナイ)を中心とした祭祀と芸能です。「田遊び」とか「田楽」「おこない」などの名で呼ばれる行事は、天竜川沿いだけでも、現在十三カ所に伝承されているようです。「田遊び」とか「田楽」という言葉だけを見ると、田植えと関係あるように思って今しますが、そうではありません。その年の豊作豊穣を願う新年の儀式です。

高松神社 (浜岡)---御前崎市観光ガイド『駿河湾☆百景』

この地区の祭祀と芸能が、いつ頃に定着したのかを知る史料はないようです。しかし、遠江国小笠郡浜岡町門屋の高松神明社(高松神社)の社家中山家文書(元弘3年(1333)八月)に次のように記されています。
「遠江笠原庄一宮長日仏性並色々御供料米拾六石下行之時納量十御宝蔵随千其当役令配分注文」
ここには年間一六石の仏神事料の配分先が次のように記されています。
元三十三ヶ日御供料一石八斗
元三十三ヶ日参籠のため一石七斗
正月七日歩射料二斗
一石 同十五修正導師・同供僧井参籠神人等御神楽井田遊井得元・秋貞両御百姓社参祝新陶
 笠原荘の鎮守社として一宮を称したこの社は、熊野権現社の名でも呼ばれたことからうかがえるように山岳密教系の信仰が入りこんだ神社です。正月行事を中心に、毎月一日の朔幣、二月一日・七月七日の祭祀に対する御供料、毎月四斗五升宛の長日仏性料などが配分されていることが分かります。
 祭祀の中心は社僧・神人など専業宗教者です。その中に荘域内の得元や秋貞名の百姓も参加して、その年の豊穣を祈る「神楽」「田遊び」が正月の修正会の中で行われています。14世紀前半には、このような行事が地方の神社にも定着していたことが分かります。
  東海地方の荘園鎮守社や、旧仏教系の大寺院には、鎌倉期から南北朝にかけて修正会が行なわれています。その際に注意したいのは、開催目的です。その内容は東大寺や国分寺で行われていた国家的祈願の法会という古代的な発想ではありません。新春にあたっての祈願である五穀豊穣と延命忠災で、芸能内容も民俗化されアレンジされたものに変化しています。これを土着化と云うのかも知れません。
田楽踊りとのぼうの城
のぼうの城に登場する田楽踊り

どうして修正会に田楽踊りが演じられるようになったのでしょうか
田楽踊りは平安時代中期頃から鎌倉時代にかけての流行芸能でした。それが一種の延年の芸能として取入れられるようになったようです。醍醐寺三宝院の『賢俊僧正具註暦』貞和二年(1146)正月一日条には次のように記されています。
御神供以下如例、修正如例、(中略)田楽新座社頭役如例了

この他にも日光山輪王寺修正会の顕夜や、多武峯、毛越寺、秋田県鹿角郡(現鹿角市)八幡平大日堂の修正会に田楽踊りは演じられています。ここからは平安末期から中世にかけて、密教系を中心とする寺院の修正会・修二会に、本来の呪師芸だけでなく翁猿楽を含む猿楽芸、田楽踊り・田遊びなどの諸芸能が取り入れられるようになっていたことが分かります。
のぼうの城』つづき - ジョルジュの窓

これらの芸能が山間の村々に浸透して定着するのには、どのようなプロセスがあったのでしょうか
①まず地方の大社寺の行事として定着
②その後、村々に活躍した里修験者などの手によって伝播
という過程が考えられます。修正会・修二会が民俗化していく過程では、その行事をこの地方ではオコナイの名で呼ぶようになります。三河の猿投神社文書の延慶一年(1309)三月九日付「中条景長寄進文書」に「行(オコナイ)」という字で記されています。三・信・遠の山間部の小祠・小堂のオコナイの場合は、系譜的には中央寺社の修正会などと同一線上にあると研究者は考えているようです。

 それが早くから開発の進んだ東海地方の荘園鎮守社や、旧仏教の地方拠点とされた寺院に持ちこまれ定着、民俗化して中世村落民の民俗行事として受け入れられます。これが第一段階です。さらに開発の進められた山間村に、開発領主の手で持ち込まれるというのが第2段階のようです。
第16回日本史講座まとめ③(院政期の文化) : 山武の世界史


それでは、具体的なお堂や祠を訪ねてみましょう。
伊豆神社(長野県下伊那郡阿南町新野) - Yahoo!ロコ

長野県阿南町新野の二善寺観青堂(伊豆神社)は、御神事(雪まつり)を伝えます。新野には伊豆権現の信仰を持って、この地に定着した伊東氏の伝承があります。伊東氏は伊豆権現の神主を務めると同時に、この地域の開発領主として大きな力を持っていたようです。修正会の祭事も、この伊東氏とその下に属する内輪衆と呼ぶ神人組織によって執り行われ、神事も彼等によって行なわれていたようです。その費用も、伊東氏の負担でした。芸能は上手衆と呼ぶ東西に分けられた組織があり、その世襲によって奉納されていました。二善寺観音もこの伊豆権現に「本地壱本分神成はとて」(『熊谷家伝記』)勧請されたと伝えられます。
新野の雪祭
伊豆神社の御神事(雪まつり)

新野の場合は、二善寺観音を習合した伊豆権現、則ち伊東家の影が強く、新野平野開拓時には、伊豆国の走湯権現の信仰を持った宗教人の活動が見えてきます。伊豆の走湯権現は、今ではその伝統をなくしてしまっていますが、中世期には修験系の信仰を集めた大きな集団として勢力を持っていたようです。奥州平泉や日光山と同じくらいの規模で、天台系信仰が伝えられ、常行堂では修正会が行われ、磨多羅神を祀ったことも知られています。この宗教人の影は、遠州側のオコナイを残す地帯と重なり合います。たとえば静岡県浜松市北区引佐町寺野では、その地帯の開発が伊豆の伊東氏の手によって行われたと伝えます。そしてオコナイの伝わる観音堂も、その開発主によって建てられたと云います。
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 オコナイを残す小堂のうち、峰神沢(現浜松市大竜区)の大日堂には、延徳一年(1491)正月四日の再建棟札が残ります。正月四日が、この堂のオコナイが行われる日です。川名葉師堂(引佐町)は、応永二十二年の再建記録があり、文安四年(1447)二月十六日の年号のある鰐口が保管されています。これらの祭祀はいずれも村の開発者と思われる家が担当したらしく、堂の近くに鍵取の屋敷や屋敷跡が残る所が多いようです。
西浦田楽(にしうれでんがく) - 水窪情報サイト|水窪観光協会
西浦観音堂の田楽踊り

静岡県浜松市天竜区水窪町西浦観音堂はその典型で、観青堂のすぐ下に別当の家があります。祭祀はこの別当を中心に、公文衆・能衆と呼ばれる村の草分け二十数軒の家が世襲で行なってきました。西浦には中世の史料はありません。延宝九年(1681)の年号がある翁猿楽の詞章が最も古いものです。しかし、祭祀形態や芸能から見て、中世には確実に遡ることが出来ると研究者は考えているようです。研究者の調査によると、西浦だけでなく、近辺各所の集落に、観音堂・大日堂・薬師堂などの小堂が祀られ、近世末まではオコナイを修していた痕跡が見られるようです。そしていずれも別当・鍵取りなどの名で小堂の祭祀を司る家筋があり、それらの家が土地の開拓者か、それに近い伝承を持ちます。それがこの地域の一つの特色となっているようです。つまり開発者達が持ち込んだ信仰と芸能が、そのまま残っていると考えられるようです。
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鳳来寺
もうひとつの特色は、三河側の修正会には、田楽踊りが加わることです。この背景については、次の2点を研究者は考えているようです。
①近くに鳳来寺という大きな密教系の山岳寺院があったこと
②戦国時代を通じて菅沼氏等の有力豪族が、祭礼に影響を与えたこと
古刹である鳳来寺と、村々で祀る小堂とが、どのような関係にあったかを明らかにする史料はないようです。しかし、近世には鳳来寺領である浅畑・下平・寺林・人峠・引地・橋平・湯谷(以上、東郷と称す)、吉村・岡・大草・黒谷・峯・田代・塩谷・塩平・為・栃下(以上、西郷と称す)の村々が、五人の鳥帽子役、大峠・引地・大草・峯の四人と新加の玖老勢の統率のもとに鳳来寺の諸行事を勤めています。鳳来寺の修正会は、正月三日の本堂(薬師堂)庭において行なわれるのが最も盛大で、田楽踊りは常行堂と本堂庭の行事として行われました。これが、各集落でも舞われるようになったようです。寺林の大日堂では、東郷の人のみによって修正会が行なわれています。これは、周辺の村々が、鳳来寺からの影響を受けて各地域に田楽踊りを取り入れたものと研究者は考えているようです。
 鳳来寺での田楽踊りは早くに行われなくなります。しかし、戦国時代の各集落では、有力土豪たちの助力によって、村人たちによる宮座が組織され続けられます。本家の踊りは消えても、それを取り入れた周辺集落のものは、村人に根付いて生き残ったことになります。
田峯観音浄水 (愛知県設楽町) - ちょこっと日帰り旅行~伊豆の田舎より~
田峯観音堂

 愛知県北設楽郡設楽町田峯観音堂の修正会の芸能は、戦国武将との関係を伝えます。『遣銘書』は比較的信頼のおける小野川家の伝書で、次のように記されています。
永禄二末年、田峯村大般若経御調中候、田楽大輪村道津具薬師堂ョリ、高勝寺へ御引取中候
ここからは、有力土豪菅沼氏が、自分の信仰する田峯観音堂高勝寺の大般若経を揃えた時に、祭祀芸能として大輪村道津共葉師堂の田楽を引きとったとあります。菅沼氏はもともと津具城に居た土豪で、文明二年(1470)菅沼三郎有衛門尉貞吉の時に田峯城に移っています。
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菅沼氏は本願の地の祭祀と芸能を、のちに田峰に移して演じさせたことになるようです。ここからは道津具薬師堂と菅沼氏の関係は、単なる信仰者という関係を超えていたことがうかがえます。本来は新野伊豆権現における伊東氏や、西浦の高木氏のなど深いつながりをもった土豪が、のちに有力武将となって、本願の地を離れて田峰にやってきたと研究者は考えているようです。この菅沼氏は田峯観音ばかりでなく、鳳来寺の祭礼も庇護しています。また長篠に城を築いた別流の菅沼氏は、設楽町長江観音堂の修正会に力を貸しているようです。ここには、三河山間部の諸堂の祭祀と芸能には、集落を越えて勢力を伸ばした地元の有力豪族の力が働いて、他の地域とは異なる歴史をたどったことがうかがえます。
三河の田楽(田峯田楽)【みかわのでんがく(だみねでんがく)】

 なお田峯観音堂の祭祀には、近世までそれぞれの役に扶持が付いていたようです。これも戦国時代の土豪によって保護された名残だったのでしょう。
1田峰田楽

以上をまとめておきます
①天竜川流域の山村の小祠・小堂でも中世に成ると修正会(しゅっしょうえ=オコナイ)が行われていた。
②その際の芸能は、神降し・王の舞、呪師系の呪術舞、田遊び、田楽踊り、翁猿楽、猿楽系芸能、巫女神楽系の舞が演じられていた。
③その特徴は、村の開拓者と思われる一族が、鍵取・禰宜・別当などを名乗って祭祀の中心となり、堂字を守ってきた。芸能も、それらの人々か中心となって伝承されてきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。