小川荘で行われていた祭礼芸能を見る前に、中世期の越前地方の芸能史的背景を考えておく必要があるようです。室町時代の京都の公家や僧侶の日記『看聞日記』や『満済准后日記』には、越前猿楽の名がよく見えると云います。
1田楽と能
中世期の越前には、独自の専業猿楽芸団がいたようです。
小山荘からも遠くはない丹生部越前町の越知神社には、正和三年(1314)二月十九日付の「大谷寺小白山三月三日御供方々下行次第事」という文書があります。その中に「小飯一具を猿楽方へ下行し」たという文言があます。これを「越知山年中行事」などをあわせ読むと、猿楽衆の活発な活動が見えてくると研究者は云います。
白山神社 (平泉寺白山神社) 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
 小山荘の北、勝山市平泉寺町の白山神社でも、猿楽が古くから演じられていたようです。大永四年(1524)六月の臨時祭には、守護朝倉孝景が猿楽衆に五貫文の祭礼料をあたえています。(平泉寺文書)。京都に芸団が上洛していることや、あちこちに中世期作の能面を残していることなどからしても、専業の猿楽者が越前に常住し、社寺の祭礼などで演じていたことがうかがえます。

越前の猿楽衆については、後藤淑氏によって次のような事が明らかにされています。
①福井県池田町水海に古い形式の猿楽能が残り、それが岐阜県本巣市根尾能郷の猿楽能と関係づけられそうなこと、
②中世の面打の上手に越前者福来がおり、永亨七年一月一十一日条に越前猿楽福来という者の名が出ること、
③世阿弥の『中楽談儀』にも、越前の面打の系譜として石王兵衛・龍有衛門・夜叉・文蔵・小牛・徳若などの名がある
④中世の面が勝山市滝波白山神社、越前市大滝神社、同郡池田町月ヶ瀬大洗磯崎神社、須波阿須疑神社などに残ること
⑤その他にも大谷寺旧蔵などのものが知られること、
⑥前田家所蔵面、梅若家所蔵面の銘により「越前国熊太夫」という者がいたこと、
⑦美濃同長滝白山神社(現岐単県郡上市)で行なわれる延年の能を、越前国大和五郎大夫が教えに行つていたこと(慶安二年(1650)「修正延年之次第」)
 しかし、越前猿楽の実態はについては、もうひとつはっきりしないようです。

1池田町水海の鵜甘神社
田町水海の鵜甘神社
研究者が注目するのは池田町水海の鵜甘神社の猿楽能で、田楽踊りや古式な猿楽能が伝わることです。
この神社は、小山荘の村々とは宝慶寺のある山を隔てて隣に位置します。また小山荘の川原、打立とは同じ谷筋の奥という関係になります。今ではこの谷筋で古い猿楽能を残すのは、水海一ヵ所のようです。

福井県:池田町地図 - 旅行のとも、ZenTech

しかし、研究者はかつては次のような村々に、猿楽や翁舞が演じられていたと指摘します。
①近くには稲荷村の稲荷大明神正月六日の行事に、翁舞と猿楽能が
②その奥の月ヶ瀬村の小白山薬師堂正月十三日の行事に翁舞が、
③さらに奥の志津原村白山神社では、正月十七日に翁舞が、
④小山荘折立郷の隣村小島村(現小畑)の春日社にも、正月十四日に翁の神事
そして、水海の鵜甘神社正月十五日の行事ということになります(現二月十五日)。これを、どう考えたらいいのでしょうか。

前回に小山荘では、各郷(近世の村)毎に神社があり、領主から保証された祭田が附属し、年中行事や芸能(猿楽・翁舞)が行われてきたことを見てきました。それが、現在の池田町の足羽川沿いにあった旧村々の神社でも行われていたと研究者は考えているようです。それを、順番に並べると、足羽川沿いに稲荷社→薬師堂→白山社→春日社→鵜甘社となります。つまり、小川荘の祭礼・芸能は、そのまま山一つ隔てた地に近世まで伝承されていたことになります。

鵜甘神社の年に一度の神事!水海の田楽能舞とは【国の重要文化財・池田町】 | Dearふくい|福井県のローカルメディア

 今は水海の鵜甘神社に残る祭礼芸能は、翁舞・猿楽能の他にも、「からすとび・祝詞・あまんじやんごこ・あま」と称する芸能が演じられています。これは田楽踊り的要素もありますが、構成的には一種の「延年」であると研究者は指摘します。また、水海鵜甘神社の翁舞や猿楽能は、現在は地元の人々によって演じられています。そして、稲荷・志津原・月ヶ瀬には、芸能はなくなっています。しかし、翁三面をはじめ能面が大切に祀られています。「越前名蹟考」によれば、江戸時代後期にはこれらの芸能は、村人が演じるようになっていたようですが、中世期には専業の猿楽者が村々の楽頭職を持っていて演じていたと研究者は考えます。
 それを裏付ける一つの証拠が翁舞を演じる日が、少しずつずれていることです。これは、ひとつの猿楽集団が順番に村々を訪れて、神社本殿に祭祀する翁面を取り出して舞っていったからだとします。

それでは、田楽などを踊った芸能者はどこからきたのでしょうか

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           曹洞宗の宝慶寺
 水海の集落の東山中にある曹洞宗の宝慶寺に研究者は注目します。北条氏一族がこの付近の地頭職を有していた事は、前回に見ました。宝慶寺は北条時頼の菩提と、北条一族のために建立された寺です。この寺には、正安元年の「沙弥知円他寄進状」(宝慶寺文書)に「依為深山勝地、無円島耕作之儀、人跡民家隔境」と記されています。ここからは人里から遠く離れた山中に曹洞宗の「二宝修練道場」として建立されたことがうかがえます。しかし永禄九年(1566)の「宝慶寺寺領日録」の門前には、33名の地代納入者が記されています。その中には酒屋。大工などの肩書きがみられます。どうやらお寺の門前には民家が建ち並び村としての景観を見せるようになっていたようです。

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 研究者が注目するのは、この問前住人の中に「猿楽小五郎」という人物がいる事です。
禅宗の寺では付近の小祠・小堂と同じように猿楽を奉納することがあったようで、門前に猿楽者が住んでいたことが分かります。推測を働かせると、小五郎という猿楽者の先祖は、門前に住みつき、宝慶寺の楽頭職を有すると同時に、付近一帯の神社や、小祠・小堂の祭礼猿楽、市祭りの猿楽を一手に引き受けていたというストーリーが描けそうです。水海鵜甘神社の猿楽能伝来の伝承が、北条時頼と結びついていることも、宝慶寺門前住の猿楽者との関係がうかがえます。

  小山荘の「田数諸済等帳」には、黒谷御領家方の場合には、一石五斗の猿楽給が記されていたことが記されています。その他の神社でも猿楽田が一反から二反は準備されています。若狭国三方郡藤井天満宮の延文四年(1359)の猿楽気山人夫楽頭職給が一反で、分米二石三斗、同じく山西郷の観応二年(1351)の文書では一石四斗とあるから、小山荘における猿楽給もほぼ同じ額になります。もちろん「田数諸済等帳」に記された小山荘の祭礼猿楽や、その近隣の猿楽が、すべて宝慶寺門前住の猿楽者の手になったというわけではないでしょう。平泉寺鎮守白山神社や、越智山大谷寺の小白山祭礼を担当した猿楽者も居たでしょうし、この地域最大の神社で会った篠座神社には、専属の猿楽者が居た可能性もあります。宝慶寺門前住の猿楽者は、いくつもの猿楽座のうちの一つにすぎません。しかし、越前の中世には、多くの猿楽座が並立して存在できる条件が整っていたと考えることはできそうです。
 偶然にた小山荘(大野市西南部の一地域)の史料は、今から見ると小祠・小堂としか思えない村堂の祭礼にも祭田が確保され、芸能が行われていたことを教えてくれます。別の見方をすれば、それだけ猿楽者の需要は多かったことになります。 
中世村落で祭祀と芸能が土地定着化し、自分たちのために、自分たちの手で祭祀を行なう小祠・小堂が勧請されていく姿を見てきました。そのパターンの特色を、研究者は次のようにまとめています。

①祭祀圏が地縁的共同体という比較的小地域的であること。
②祭祀構成が、中世期前半に地方に定着化した山岳密教系寺院や、その息のかかつた荘園鎮守社的的な有力社寺の祭祀構成をコンパクトにし、より民俗化したものであること
③祭祀や芸能を行なうものが主として専業者ではなく、共同体内の者であること,
④この祭祀と芸能の伝播者や育成者が、山岳密教系の下級宗教者であること,
⑤行なわれる芸能は、共同体の強い願いである豊穣祈願を織り込んだ正月行事が中心である
⑥その上に旧仏教系寺社の祭礼や法会の中心芸能である旧楽踊り・猿楽能の翁舞・呪師芸・神楽系の祈祷芸能などが、独自に民俗化して行なわれる。そこには特色よりも共通性の方が強く見られる。

しかし、越前ではもともと有力社寺に付属していた専業猿楽者を、仏神田の確保によつて村落のの祭礼にまで引きずり込み、それによって独自に越前猿楽と呼ばれる専業芸能集団を生み出したようです。この点は中世後期に畿内地方の郷村を中心に、宮座組織を基盤にして猿楽能が演じられていくことにつながる先駆的な動きとも云えます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献「 山路興造 中世芸能の底流  第二章 中世山村における祭祀と芸能」