塩飽本島の笠島集落
江戸時代の塩飽諸島は、朱印状を与えられた廻船の島として特別な位置を持つようになります。天正十八(1590)年秀吉の朱印状によって、塩飽島1250石が、船方650人の領知するところとなります。船方(水主)650役の島として、秀吉の直轄領に指定され、小田原攻や朝鮮出兵に関わりました。この朱印状は、家康によって安堵され、江戸時代も幕府の直轄領として、650人の水主役を果し「船方御用相勤」を続けます。
このような島は、他にはありません。芸予諸島の村上水軍と比べると、非常に有利な条件で中世の財産を、近世に持ち込むことができたと云えるかもしれません。このように塩飽島の水主役は、秀吉の天下統一・対外政策とかかわって設定されたものであることを前回はみてきました。
江戸時代半ばになると、その性格を次第に変えていくようになります。戦時の後方支援という役割から朝鮮通信使や長崎奉行の送迎など幕府の政治・外交上に関係する海上輸送業務に従事することが任務になっていきます。
江戸時代半ばになると、その性格を次第に変えていくようになります。戦時の後方支援という役割から朝鮮通信使や長崎奉行の送迎など幕府の政治・外交上に関係する海上輸送業務に従事することが任務になっていきます。
塩飽島における政務は人名から選ばれた「年寄・庄屋・年番」などによって行われました。
近世初期に「年寄」を勤めたのは入江氏・真木氏・古田氏・宮本氏などです。寛永以後は、吉田氏と宮本氏を中心に自宅を塩飽政所と称し、浦(本島と広島)や島に置いた庄屋・年番を続轄して支配が行われました。そのため世襲化した年寄の支配がだんだん強大となり、人名内部からも反発が生まれ、寛政元年年四月には巡見使へ政所改革の訴願が行われます。これを契機に、行政改革が行われたことは以前にお話しした通りです。
近世初期に「年寄」を勤めたのは入江氏・真木氏・古田氏・宮本氏などです。寛永以後は、吉田氏と宮本氏を中心に自宅を塩飽政所と称し、浦(本島と広島)や島に置いた庄屋・年番を続轄して支配が行われました。そのため世襲化した年寄の支配がだんだん強大となり、人名内部からも反発が生まれ、寛政元年年四月には巡見使へ政所改革の訴願が行われます。これを契機に、行政改革が行われたことは以前にお話しした通りです。
この改革の一環として、政務センターとしての勤番所が建設され、ここで塩飽島の行政が行われるようになります。
塩飽島の行政は、この寛政改革によって塩飽政所行政(年寄の自宅)から塩飽勤番所行政へと変り、組織的にガラス張りで行われるようになったともいえます。そして年寄を中心とする勤番所行政は、明治五年まで続くことになります。
塩飽島の行政は、この寛政改革によって塩飽政所行政(年寄の自宅)から塩飽勤番所行政へと変り、組織的にガラス張りで行われるようになったともいえます。そして年寄を中心とする勤番所行政は、明治五年まで続くことになります。
近世初頭の年寄支配の強さの背景として、研究者は次のような要因を挙げます
①中世以来の在地土豪の出身であり、土地所持者であったこと②船方の棟梁で廻船業者であり、社会的地位が高く、経済力が卓越していたこと
年寄たちが「土地所有 + 廻船業者」によって経済力をもっていたことが大きかったようです。宝永元年八月「塩飽嶋中納方配分帳」(塩飽勤番所保管文書)からは、当時の年寄四人の年寄役が、飛び抜けた配分高を得ていたことが分かります。その年寄の残したものを見てみましょう。
年寄役の一人である笠島浦の吉田彦右衛(彦右衛門は世襲名)は、笠島浦の奥まった所に約271坪の屋敷をもっていました。
そして、菩提寺の浄土宗専称寺境内には「塩飽笠嶋之住人吉田彦右衛門家永」と刻まれた大きな「人名墓」と呼ばれる墓石を残しています。これは高さ2,3m、幅75㎝・厚さ44㎝の逆修墓石で、寛永四(1627)年八月四日に建立されたものです。
この他にも家永(長)は、八幡宮(泊浦宮之浜)の大鳥居を、寛永五年六月に年寄宮本家とともに奉献しています。大鳥居には「塩飽嶋政所吉田彦右衛門家長」と刻まれています。寛永年間頃の政所(年寄)吉田彦右衛門家永が、豊かな財力を持っていたことがうかがえます。
そして、菩提寺の浄土宗専称寺境内には「塩飽笠嶋之住人吉田彦右衛門家永」と刻まれた大きな「人名墓」と呼ばれる墓石を残しています。これは高さ2,3m、幅75㎝・厚さ44㎝の逆修墓石で、寛永四(1627)年八月四日に建立されたものです。
泊浦の年寄宮本家も吉田彦右衛に並ぶ財力の持主だったようです。
年寄宮本半右衛門も、笠島の吉田家が「人名墓」を建てた同じ年の寛永四(1627)年に、初代宮本伝太夫の墓を作っています。

同時に木烏神社(泊浦)の大鳥居を、薩摩の石大工紀加兵衛に製作させ奉献しています。寛永年間には、笠島浦の吉剛家と泊浦の宮本家は、豊かな財力をきそい合っていたようにも見えます。八幡宮の大鳥居建立には吉田彦右衛門家長をはじめとする吉田家が中心となり、それに宮本家も加わっています。また木烏神社の大鳥居建立には宮本半右衛門正信をはじめとする宮本家が中心となり吉田家も加わり建立しています。この時期、年寄の両家を中心として塩飽島は、廻船業などで繁栄し、黄金時代を迎えていた時代です。それが立派な墓石や大鳥居の建立となって、今に残っているのでしょう
木烏神社(泊浦)の大鳥居
同時に木烏神社(泊浦)の大鳥居を、薩摩の石大工紀加兵衛に製作させ奉献しています。寛永年間には、笠島浦の吉剛家と泊浦の宮本家は、豊かな財力をきそい合っていたようにも見えます。八幡宮の大鳥居建立には吉田彦右衛門家長をはじめとする吉田家が中心となり、それに宮本家も加わっています。また木烏神社の大鳥居建立には宮本半右衛門正信をはじめとする宮本家が中心となり吉田家も加わり建立しています。この時期、年寄の両家を中心として塩飽島は、廻船業などで繁栄し、黄金時代を迎えていた時代です。それが立派な墓石や大鳥居の建立となって、今に残っているのでしょう
このような塩飽の繁栄は、いつまで続いたのでしょうか。
廻船業は競争時代に突入し、相対的に塩飽島の地位は低下していきます。明和二(1765)年八月「塩飽嶋明細帳」(塩飽勤番所保管文書)には、次のような記録が残っています
一、船数大小合三百弐拾壱艘内七艘 千百石積より千四百石積迄 廻船五拾七艘 四百五十石積より三十石積迄 異船拾壱艘 五十石積より入石積迄 生船弐拾三艘 三拾五石債より弐十石積迄 柴船八十八艘 弐拾五石積より八石積迄 通船百三十三艘 十三石積より五石積迄 猟船式艘 三十石積 網船〆嶋々之者共浦稼之儀、先年者廻船多御座候而、船稼第一二付候得共、段々廻船減候二付、異船稼並猟働付候者茂御座候、且又他国江罷越、廻胎小舟之加子働仕、又ハ大工職付近国江年分為渡世罷出候、老人妻子共農業仕候
意訳変換しておくと
塩飽では、かつては廻船が多くあり船稼が第一だった。ところが、明和2(1765)年になると塩飽島の人々の職業は、廻船を中心とする船稼から、廻船・異船(貸船)・猟働・他国の廻船・小舟の加子働きや大工職などで出稼ぎする者が多くなり、老人子共は島に残り農業を行うようになってしまった。
これは、島の窮状を訴えるための文書なので、そのままには受け取れませんが、廻船中心に栄えた経済繁栄が失われ衰退しつつあることを危機感を持って訴えています。
笠島集落
正式文書に「人名」と言う言葉は出てきません。「船方」が正式な呼び名です。
年寄は別な表現をすれば、船方650人のメンバーの一人でもありました。近世初期の年寄は、一族で多くの船方を担当したはずです。この船方を何時の頃からか塩飽島においては、人名と呼ぶようになります。しかし、江戸時代には公式文書には、この呼称は使用されていません。使われているのは「船方」(水主)です。それも年寄と大坂船手奉行・大坂町奉行との間の文書のやりとりの中に限られ、年寄からの文言に対して具体的に指示する必要から便宜上使用しているだけだと研究者は指摘します。
明治になっての維新後秩禄処分の金禄公債証書交付願のやりとりの中でも、政府は水主という言葉を使用し、人名という言葉は全く使用していません。つまり近世・近代において人名という呼称は、塩飽島で私的に使用されてはいますが、公的には使用されていなかったことは押さえておきたいと思います。
塩飽島の人々の間で、人名に対する認識が深まるのは、版籍奉還・秩禄処分の問題を通してのことのようです。金禄公債証書交付願の運動(明治9年~34年頃まで)を通して、人名650人の結束は強められていきます。その動きを見てみましょう。笠島町並保存地区文書館展示史料には、明治になっての豊臣神社の勧進運動の記録が残っています。
笠島集落
それでは「人名」という言葉が広がったのは、いつからなのでしょうか。塩飽島の人々の間で、人名に対する認識が深まるのは、版籍奉還・秩禄処分の問題を通してのことのようです。金禄公債証書交付願の運動(明治9年~34年頃まで)を通して、人名650人の結束は強められていきます。その動きを見てみましょう。笠島町並保存地区文書館展示史料には、明治になっての豊臣神社の勧進運動の記録が残っています。
笠島浦では、明治14年11月に、人名78人が、尾上神社境内へ豊臣神社(小祠)の新設を那珂多度部長三橋政之宛願い出て、許可されます。その願文には次のように記されます。(意訳)
維新によって領知権は消滅したが、秀古の発拾した朱印状によって島民の生活は支えられた、その恩に報ゆるために笠島の人名同志78八人が相談して、「豊霊ヲ計請シ歌祥デ悠久二存仁セン」として、豊臣神社(小祠)の新設した。その経費は人名78人の献金で、維持費は人名の共有山林を宛てた。
笠島の尾上神社
笠島の尾上神社の上り口にある豊臣神社の前には、二本の石柱が立っています。向って左の石柱には
「国威輝海外」(表)、「当浦於七十八人 明治三十一年一月元旦建之」(裏)右の石柱には「忠勤致皇室」(表)「天正年間征韓之役従軍塩飽六百五十中」(裏)
と刻まれています。この二本の石柱は、日清戦争の勝利と秀吉の朝鮮出兵を歴史意識としてダブらせて建てられたようです。日清戦争の勝利記念と自分たちの先祖の朝鮮出兵が結びつけることで、ナショナリズムの高揚運動と、人名の子孫としてのプライドを忘れまいというる意図が見えてきます。このように豊臣神社や石柱の新設建立に、笠島浦の人名は結束して行動しています。この豊臣神社のある尾上神社の境内には「一金四百円 当浦人名中」(年不記)刻まれた寄付金の石柱もあります。

今度は泊浦の木烏神社境内を見てみましょう。ここには、次のような刻字のある石碑が泊浦人名90人によって建てられています。
「豊公記念碑海軍大将子爵斉藤実書」(表)「塩飽嶋中人名六百五拾名之内泊浦人名九拾人 昭和三年十一月建之」(裏)
以上のように本島の笠島浦・泊浦を歩いただけでも「人名」と刻した石柱・記念碑などがいくつも目に入ってきます。朱印状の船方650人は人名として昭和期まで結束して活躍していることが分かります。
天正十八(1590)年の秀吉朱印状の「船方六百五十人」の船方は、戦時の水主役が勤まる650人であったはずです。しかし、江戸時代の天下泰平の時代になると、水主役の代銀納が行われるようになります。
広島の江の浦庄屋七郎兵衛の安永八年の記録「江ノ浦加子竃数並大小船数」には、次のように記されています。
加子(水主)一人役株を持つ八左衛門は、職業(渡世)は木挽、同喜十郎は農業、同太治郎は異船(貸船)商売、同新七は農業、同治郎左衛門は廻船加子働、同喜兵衛は加子
ここからは加子役株(人名株)を持っている人たちの職業(渡世)は色々であったことが分かります。つまり船方(水主)650人という実質的な夫役負担者から、水主役とは関係のない職業の者が、水主株所持者(船方・人名持者)になっていたようです。
人江幸一氏保管文書によると幕末、人名持(人名株、船方・水主・人名)という表現がよくみられるようになります。例えば次のような人たちです。
人名持百姓何某・人名持船方何某・人名持大工何某・人名持庄屋何某・人名持年番何某・人名持弥右衛門・人名持三郎後家たつ・入名持長左衛門後家とよ・人名持彦吉後家さゆ・人名持兼二右衛門後家さよ
さらに、人江幸一氏保管文書の安政三年「辰麦年貢取立帳」(泊浦)に「人名株弐口五人二而割持」とあります。安政五年「午責年貢取立帳」(泊浦)には「小人名持分」として、人名一株未満の所持者を「小人名」と呼び、十二人の小人名の名前が記載されています。ここからは幕末には、人名一人役(一株)が複数人によって分割所持されていたことが分かります。
以上の例から、研究者は次のように指摘します。
①水主役に従事できない人々の水主役(株)の所持が進行していた②水主一人役(株)が、複数人によって所持されるという水主役株の分化が進行していた
これは、近世初頭の人名設置からすると、水主役(船方役・人名役)の形骸化が進行していたと云えます。
この背景には、人名株を一人前でなくても所持したいという願望があったのでしょう。このように朱印状の船方六百五十人の仲間になりたいという願望が、塩飽島の人々には強くあったようです。塩飽島において船方(人名)株を持つことが、一つのステータスと考えられていたのです。
この背景には、人名株を一人前でなくても所持したいという願望があったのでしょう。このように朱印状の船方六百五十人の仲間になりたいという願望が、塩飽島の人々には強くあったようです。塩飽島において船方(人名)株を持つことが、一つのステータスと考えられていたのです。
慶応四年一月人名(株)のない小坂浦の者達が人名二人前を要求して小坂騒動が起こったことは、その象徴としてとらえることができよう。そのような意識は明治以後も強く、「人名社会」という言葉が使用され、「人名」と刻したさまざまな石柱や記念碑を造らせたともいえよう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「加藤優
塩飽島の人名 もう一つの秩禄処分 徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」
塩飽勤番所 勤番所に伝わらない秀吉朱印状の意味するものは?
讃岐の港町 塩飽に進出した香西氏 その後にやってきた村上水軍
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