中寺廃寺割拝殿跡から見上げる大川山
大川山を仰ぎ見る中寺廃寺の礎石に座って考えたことが今回のお題です。中寺廃寺からは銅製の密教法具である錫(しやく)杖(じよう)や三鈷杵(さんこしよう)の破片が出土しています。そこから修験者が、寺院が建てられる前から小屋掛け生活して、周辺の行場を回りながら「修行」をしていたことがうかがえます。また、出土した法具は、空海が唐から持ち帰る以前の古い様式のものです。つまり「空海以前」に中寺廃寺は存在し、行者達の修行が行われていたようです。
空海が密教を志した8世紀後半は、呪法「虚空蔵求聞持法(ごくぞうぐもんじほう)」の修得のため、山林・懸崖を遍歴する僧侶が現れた時期でした。中寺廃寺は、これにうってつけの場所で壊れた法具の破片は厳しい自然環境の中、呪力修得にむけ厳しく激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を、物語っているようにも思えます。そして、その中に若き空海の姿もあったかもしれません。
中寺廃寺の仏塔復元図
大川山信仰に始まるこの聖地に、仏堂・割(わり)拝(はい)殿(でん)や僧房などが建てられ、讃岐国の中で重要な山岳寺院に発展していくのが十世紀頃とされます。ところで山岳修行は、寺院というハコモノがなくともできます。ではなぜ、この時期に、この山奥に寺院が建立されたのでしょうか。
まず、その立地条件です。今は「山奥」ですが、かつては讃岐と阿波をつなぐ「街道」がいくつも近くを通っていました。また周辺山間部は、炭・漆・粉板(屋根葺き材)などの産地として有名で、豊富な山の資源が得られる場所でもありました。平安時代には、地方豪族や大寺院による山野の囲い込みと開発が進んだと云われます。こうした動きと山岳寺院の建立とは深い関わりがあるようです。同時期の金倉寺や道隆寺など、平野部での新たな寺院建設も、平野や海浜部での開発と関係します。これらが十世紀前後からの「第二の寺院建設ブーム」を生みだし、学問寺や修行道場(山岳寺院)といった今までにないスタイルの「思索の場としての寺院」が生まれる背景があります。その整備が後の空海をはじめとする讃岐出身の高僧輩出を、もたらすことにつながります。
中寺廃寺割拝殿復元図
中寺廃寺が、修行の場から山岳寺院へと変貌し、建物が建設されはじめるのが十世紀前後です。
それは、山岳寺院のネットワーク形成のスタートでもありました。この寺の西には野口ダムの谷を挟んで尾野背寺、さらに讃岐山脈の稜線をたどれば中蓮寺から雲辺寺と山岳寺院が山上に続きます。それは遠く石鎚まで伸びています。そして目を里に向ければ、種子には宗教荘園が開かれ金剛院が、その宗教センターとして機能するようになります。これらの山岳密教寺院は孤立していたのでなく、行(ぎよう)場(ば)ネットワークとして結ばれていたのです。各地に開かれた行場を「辺路修行」することが「四国遍路」につながります。つまり、ここは四国霊場の原初的な姿が見える所でもあるのです。
参考文献





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