前回は、近世初期の風俗画に描かれたうどん屋について見てきました。
そこからは、城下町などの建設ラッシュの進む都市への人口流入と、それに伴う「外食産業」の発展という流れの中にうどん屋の出現があったことが見えてきました。そして、うどん屋には「烏賊の干し物」のような独特の看板が掲げられていました。この看板については「看板研究史」として、詳しく取り上げられているようです。今回はうどん屋看板の変遷を見ていくことにします。
そこからは、城下町などの建設ラッシュの進む都市への人口流入と、それに伴う「外食産業」の発展という流れの中にうどん屋の出現があったことが見えてきました。そして、うどん屋には「烏賊の干し物」のような独特の看板が掲げられていました。この看板については「看板研究史」として、詳しく取り上げられているようです。今回はうどん屋看板の変遷を見ていくことにします。
テキストは「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について 国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年 1 月」です
看板の古典的な研究は、坪井正五郎 『工商技芸看板考』が挙げられるようです。

この中には、うどん屋の看板についても詳しく触れられています。それによると、うどん屋の看板は、この本が書かれた明治20年頃には、すでに東京にはなくなっていたと記します。そして、東海道や中山道の宿場には残っているして、『江戸名所図会』の板橋のうどん屋には描かれていることを指摘しています。さらに、柳亭種彦の考証随筆『用捨箱』に紹介された事例を次のように記します。

この中には、うどん屋の看板についても詳しく触れられています。それによると、うどん屋の看板は、この本が書かれた明治20年頃には、すでに東京にはなくなっていたと記します。そして、東海道や中山道の宿場には残っているして、『江戸名所図会』の板橋のうどん屋には描かれていることを指摘しています。さらに、柳亭種彦の考証随筆『用捨箱』に紹介された事例を次のように記します。
「此看板は元と市中でも用ゐたもので有るが追々に失せて場末の地にのみ存し、今日では夫も跡を絶て宿駅を通行しなければ見る事が出来なひ様になつたのでござります」
つまり、昔は江戸市内でも使われていた、今は街道沿いの旅籠などにに見られるのみとなっていると結論づけます。

次に、柳亭種彦「用捨箱」 (1841年刊)を、研究者は取り上げます。この本にも、うどんの看板について項があって、次のように述べています。
〔十五〕温飩の看版芋川昔ハ温飩(うんどん)おこなはれて。温飩のかたはらに蕎(そば)麦きりを売り。今ハ蕎麦きり盛さかんになりて其の傍に温飩を売る。けんどん屋といふハ、 寛文中よりあれども蕎麦屋といふハ近く享保の頃までも無なし。 悉(み)な温飩屋にて看板に額あるいひハ櫛形したる板へ細くきりたる紙をつけたるを出いだしゝが今江戸には絶えたり。(中略)今も諸国の海道にハ彼幣(しで)めきたる看板ばんありとぞ。 (後略)
意訳しておくと
明治の『工商技芸看板考』とだいたい同じ事が書かれています。江戸でも、古くはすべてうどん屋で、蕎麦屋は享保(1716~36)の頃までもなかった。看板として「額」や「櫛」の形をした板に細く切った紙を付けたものを使うが、これは既に江戸では絶えており、諸国の海道(街道)で見られる、
ここにでてくる 「額」は、上部が尖り、屋根を付けた絵馬的な形状か、長方形の形状で「うどん」などの文字が書いてあるもので、「櫛形」は、上部がやや丸くなった比較的幅が狭いものを指すものと研究者は考えているようです。
この本にはうどん屋の看板の挿絵として、次の四つの例が載せられています。

この本にはうどん屋の看板の挿絵として、次の四つの例が載せられています。

①図8の右上が井原西鶴『好色一代男』 (天和二年〈1682刊)の「いも川/うむどん」に描かれたものです。東海道の二川付近の宿場「芋川」の名物だったうどんの看板です。尖頭形の板の部分に「いも川 うむどん」と書かれています。
②右中が『人倫訓蒙図彙』 (元禄三年(1690刊) 「旅籠屋」 の挿絵の中に 「うとん/そはきり」 の看板が掲げられていると記されます。板部分が長方形ですが、①の「いも川うどん」とおなじように、宿場の旅籠に吊されています。。
③左上が『道戯興(どうげきょう)』 (元禄11年1698刊)のうどん屋の図です。絵が小さいので読みにくいのですが「うとん/そば切/切むぎ」 と書かれた看板が軒下に掲げられています。 店内では、伸し棒で生地を伸ばす人物と、徳利、盃などと土間に竈があり、見世棚には、角樽と徳利などが置かれていて、うどん・蕎麦と酒を提供する店であることがうかがえます。道戯興は、 寺子屋の代表的な教科書である『実語教』のパロディー版で当時のうどん/そば屋のイメージを描いたものと研究者は指摘します。
④享保年間 (1716~36) 彫折本「江戸八景の内品川の帰帆」 (図8の下)
江戸庶民風俗図絵には、うどん屋の看板を掲げた店が描かれています。
ここでは、店の外で麺類をどんぶりから立ち食いする男の姿、煮物を手前には薦被りの大きな酒樽が2つ見えます。縁台に座った男が飲んでいるのは、お茶ではなくお酒のようです。その隣では、串に刺された煮物にかぶりつく男があります。真ん中にたつ男が店の主人なのでしょうか。煮物をつぎ分けているようです。その隣の立ち姿の女は、手に勺を持っているのその妻でしょうか。その奥の奥戸さんには大きな二つの鍋が据えられています。ここで煮物は茹でられているのでしょう。手前の座敷敷には食べ終わった男達が休んでいるようにも見えます。持ち物から、彼らは飛脚人夫のようです。街道を急ぐ飛脚のなじみの店で、そこにうどん屋(麺類)の看板が掛けられているとしておきましょう。


以上のように、江戸時代中期の元禄年間には宿場にうどん屋が描かれた事例が多いようです。そういえば、前回見た金毘羅大祭図屏風にもうどん屋が3軒描かれていましたが、この屏風も元禄時代の物です。この頃には、この看板は宿場でよく見られるもの、という認識が書き手にもあったことがうかがえます。
しかし、この看板は江戸中期以降の図絵には見当たらなくなります。
林美一『江戸看板図譜』にも、板に糸状の物を垂らした「烏賊の干し物」のようなうどん屋看板は、寛延・宝暦頃(1748~63)までは、上方では使われていたが、それ以後は市中から消えて行灯型の看板に替わったと記します。
研究者は次のように、うどん屋看板の変遷をまとめます

「四条河原図巻」の⑤⑥は、製麺を行ううどん屋と祇園社門前の茶屋のうどんの看板です。前者は板部分が細く、後者は尖頭形で板の幅が広い「額型」です。新旧二つのタイプを絵師は店に応じて描き分けられたのでしょう。しかし、時代の経過と鞆に市中では行灯型の文字看板⑦にとって替わられます。そして、糸状の物を下げた旧来の看板は、街道沿いの宿場に残るという変遷を経たと研究者は整理します。
ちなみに⑩の金毘羅大祭図屏風に描かれたうどん屋の看板は、変遷上の一番新しいタイプになるようです。 それでは、うどん屋看板は、どこで、どのようにして誕生したのでしょうか。
堀越喜博『満州看板往来』 (1940年刊)には、中国奉天のうどん屋( 「切面舗」 )の看板が3つ載せられています。
板状の部分が、

①一つは模様(蝙蝠)の木彫り②一つは「金絲切面」(面の異体字で麺の意)③一つは「銀絲切面」 と書かれている。
中国東北部以外で、この看板が使われていたかを調べたところ、20世紀前半の北京でも、この看板は数多く見られたことが分かっているようです。江戸時代の日本のうどん屋看板と、中国のものは、どこかで共通の起源を持つことは間違いないようです。問題は、いつどのような形で、この看板が日本に伝わったのかです。中国などの風俗画を詳しくみていく他ないのでしょうが、その経緯はまだ分からないようです。
最後に研究者が挙げるのは、「うどん屋と暴力」の問題です。
前回見たように、近世初期風俗画には、うどん屋の主人が暴力的な人間として描かれていることが多いのです。その理由として考えられることを挙げると
①半裸で「のし棒」を使い、力を込めて麺を作る、という所から、棒をもって振り回して暴れるというイメージが出てきた。②「新規の外食産業」に好奇の目が集まり、勢い偏見も生まれた
急速に流行し始めたうどん屋に、偏見が集まったのかも知れません。より重要なのは、暴力的場面を好む風潮が当時はあった、ということです。前回に紹介した「築造図屏風」は、慶長12年(1607)の駿府城築城を描いたとされていますが、うどん屋が玉をこねる前では、大勢の人夫達が入り乱れて喧嘩シーンが描かれています。安土桃山時代の風俗画には熱気ある喧嘩シーンは人気があってよく描かれたようです。
以上をまとめておきます。
一七世紀の初頭に、城下町などの近世都市の建設が一気に進み、労働者が大量に流入します。そして、単身赴任者でもあった人夫たちを当て込んだ「外食産業」が、東西の別なく流行します。そのトップバッターとして現れたのが、「烏賊の干し物」のような看板とともに現れたうどん屋だったようです。しかし、江戸中期になると蕎麦屋の出現と鞆に、うどん屋の看板は市中からは姿を消し、街道の宿場の風物として残ります。それが風俗画のひとつの素材となったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について 国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年 1 月」




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