豊臣秀吉の四国支配体制は?
長宗我部元親侵攻図

長宗我部元親の四国平定

天正一三年(1585)春、土佐の長宗我部元親は四国統一を果たします。しかし、それもつかの間、秀吉が差し向けた三方からの大軍の前に為す術もなく飲み込まれ、8月に四国は豊臣統一政権に組み込まれます。その後の四国の大名配置は、四国平定の論功行賞として行われます。秀吉は、四国の大名達を「四国衆」と呼んでいたと言われます。ここからは、四国の大名を一括して認識していたフシが見えられます。どんな思惑で秀吉は、大名達を配置していったのでしょうか。讃岐に生駒氏が配される背景を巨視的に見ていきたいと思います。テキストは「川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置 中世西国社会と伊予所収」です。 
51585年頃の大名配置図
  
四国平定後の秀吉の大名配置を見ておきましょう。
長宗我部元親には土佐一国のみの領有が許され、
阿波・蜂須賀家政
讃岐・仙石秀久
伊予・小早川隆景
が配されます。このほか詳しく見ると各国の一部は、
阿波には 赤松則房・毛利兵橘
讃岐には 十河存保
伊予には 安国寺恵瑣・来島通総・得居通久にも与えられています。彼らは、いずれも長宗我部戦での活躍が認められたものです。長宗我部から奪った瀬戸内三国を見ると、阿波・讃岐には豊臣大名が、伊予には秀吉に近い毛利系大名の小早川氏が配されています。以前から河野氏と結び伊予に進出していた毛利氏は、平定前に秀吉から伊予拝領を約されていました。この大名配置のねらいは、阿波・讃岐・伊予の瀬戸内三国に政権下の有力大名を配置し、九州征討に備えることにあったようです。それを裏付けるように天正13年~15年にかけて、この三国では検地が行われています。これは新たな軍役賦課のためであったと研究者は考えているようです。そして実際に、九州攻撃の先陣を務めたのは「四国衆」でした。
 
仙石秀久、戦国を駆ける | 書籍 | PHP研究所

 讃岐の領主とまった仙石秀久は天正14年(1586)9月に島津征討に参陣しますが、豊後・戸次川の戦で大敗し、その責任を問われて領地没収となります。代わって翌年正月に、讃岐国領主になったのは尾藤知宣です。しかし、彼もまた日向での作戦失敗で領知を没収されます。その後を受けて、天正15年8月に讃岐領主に封じられたのが、生駒親正(近規)です。短命に終わった仙石・尾藤氏に代わって領主となった生駒氏によって讃岐は戦国時代にピリオドを打ち、近世へと脱皮していくことになります。

高松城 周辺地理図

生駒親正の高松城築城の戦略的なねらいは?

 天正十五年の九州平定後は、讃岐・伊予の大名が入れ替えられて瀬戸内の固めが増強されます。秀吉の子飼いの豊臣大名によって、この地域が占められるようになります。その中でも生駒親正が築城した高松城は、城の中に港湾機能を取り込んだ今までにない構造であることは以前にお話ししました。その規模や岡山城などの移転状況などから判断して、瀬戸内海の制海権を握るための重要な役割を担うために作られた水城だと研究者は考えているようです。
 秀吉は生駒親正を信頼し、頼りとしていたようです。秀吉は親正に「讃岐国一円領知状」〔生駒家文書〕を出し、国内に秀吉直轄の蔵入地を観音寺に設定し、その代官にも任命しています。豊臣政権下での讃岐や生駒親正の重要性をうかがい知れます。さらに、親正は中村一氏・堀尾吉晴とともに三中老(小年寄)として、五大老・五奉行間の調整を図る要職にも就いています。
 こういう中で親正は、自らの居城築城を開始します。
その選定にあたっては、まず引田浦・宇多津という港町に入りますが適地とせずに、最終的に野原庄(現在の高松)を選定したことは以前にお話ししました。「南海通記」によれば、戦国時代の野原庄には香西氏配下の武将達の小城が多数あったとされます。その記録通りにサンポート開発の発掘によつて、港湾施設や積荷が出土し、中世の港町があったことが分かっています。西浜や東浜や砂州の存在、船便の良さや背後の高松平野のヒンターランドとしての潜在力も、高松選定の大きな要因だったと研究者は考えているようです。
 高松城と生駒親正は、西国全体を支配下に置いた豊臣政権にとって、瀬戸内海の防衛・侵略拠点としての大きな布石の役割を果たすことになります。

次に伊予の情勢を見てみましょう
小早川隆景の肖像画の画像 | 戦国ガイド 
小早川隆景(毛利元就の三男)
伊予を支配することになったのは、安芸から海を越えてやってきた小早川隆景です。彼は秀吉の意向を受けて、城割・検地などを実施し、近世伊予の礎を築いたとされます。これらの政策は、先ほど見たように九州侵攻をにらんでのことでした。しかし、伊予国内には先ほど見たように旧領主の河野氏や西園寺氏の領地も混在し、小大名領が入り交じった状態でした。その結果、中世的遺制が残り、これが払拭されるのは九州平定後のことになるようです。
 しかも秀吉は、翌年の天正15年(1587)6月には、隆景(毛利元就二男)に筑前一国と筑後二郡・肥前二郡が与えて九州に転封させます。これに併せて毛利秀包(元就九男・隆景養子)に筑後三郡が与えられます。この転封は、朝鮮半島への侵攻準備のためだと研究者は考えているようです。九州平定のために四国にその侵攻の中核となるべき大名が配置されたのと同じ手法です。秀吉の信頼の厚かった小早川隆景に、朝鮮半島侵攻の基盤となる筑紫が任されたのです。こうして筑前名島城に入った隆景は、太閤検地など近世的政策が展開され、地元領主階級の結集がなされていきます。
5 四国の大名配置表

このような動きと連動する形で、秀吉は四国の大名配置を行なったことを改めて確認する必要がありそうです。
九州平定とそれに続く朝鮮出兵の布石として、秀吉は四国の大名配置を行ったという視点です。その動きを簡単に見ておくことにしましょう。

5 秀吉の四国大名配置図

 小早川隆景を筑紫に転封したの後、秀吉は東・中予に福島正則、南予に戸田勝隆を入れます。こうして瀬戸内三国全てに、秀吉子飼いの豊臣大名が配されます。福島正則や戸田勝隆は、伊予の近世化を進め、地付きの土豪族を弾圧し多くの悲劇が生まれますが、それも後に控える朝鮮半島侵攻のためには不可欠な準備の一つだったと考えていたのかも知れません。領内の不満分子弾圧を果たした後、戸田勝降は大津城から板島丸串城へ、福島正則は湯築城から国分山城へ短期間で移ります。
国分山城 - 城見る人も好きずき
国分山城に迫る小早川軍
 
文禄4年(1595)7月、関白秀次は高野山へ追放され、切腹を迫られます。その検使役を勤めた福島正則は、尾張清州34万石に転じ、代わって池田秀雄が国分山城へ入ります。秀雄の子秀氏は、南予の大津二万石に移された。同じく文禄4年7月には、加藤点明が文禄の役の功によって増封され、淡路から正木に入ってきます。そして同月、板島の戸田勝隆に換わり、藤堂高虎がやって来ることになります。豊臣秀長配下で、高野山に隠居していた高虎を秀吉に仕えさせたのは、讃岐藩主の生駒親正でした。

国分山城の写真:今治城天守にあった解説文 | 攻城団

朝鮮出兵にみる「四国衆」
豊臣秀吉は四国の大名を「四国衆」と呼んでいたことは最初に述べました。秀吉は小田原の役から朝鮮出兵にかけて、四国衆を水軍として軍団編成を行ったようです。当時の四国衆の大名にとって、朝鮮半島出兵のための水軍編成が大きな課題として秀吉から求められていたことになります。しかし、朝鮮での実戦では「四国衆」として統一的に動くことはありませんでした。それどころか大名間で反目し、ばらばらに動きに終始して、そこを朝鮮水軍に各個撃破されることが多かったようです。
阿波の古狸と呼ばれた『蜂須賀家政』したたかに乱世を生き抜く - YouTube

その中で、讃岐の生駒親正と阿波の蜂須賀家政だけは名実ともに同一ユニットで動いていたと研究者は指摘します。蜂須賀正勝は、秀吉の与力としてその統一過程に深く関わり、播磨国龍野5万石余の大名となります。四国平定においても、嫡子家政とともに讃岐・阿波に侵攻して活躍し、長宗我部元親との講和も結んでいます。その功績を認められ戦後に、阿波一国が与えられ、長男家政は父同様、政権下での重要な置を占めることになります。
  一方、土佐の長宗我部元親は、柴田勝家や徳川家康と結び、島津義久を援助するなど、豊臣政権においては「外様」大名扱いされます。土佐の長宗我部は秀吉にとっては仮想敵国だったのです。これに対して、秀吉子飼いの重要な豊臣大名である生駒・蜂須賀は、瀬戸内海だけでなく士佐を抑える役割も担っていました。そのために、生駒・蜂須賀両藩は対土佐・長宗我部に対する同一ユニットの軍事編成が想定されていたと研究者は考えているようです。それを裏付けるように城下町の防衛ラインである寺町は、高松・徳島ともに土佐を向いて形成されています。また実際に、生駒・蜂須賀連合軍が上佐を攻める軍事演習を行っていたことも紹介されています。このような「讃岐・阿波」の同盟関係が朝鮮半島侵攻の際にも発揮されたようです。

 朝鮮出兵した豊臣大名同士でも大きな軋蝶があったことはよく知られています。
それがその後の関ヶ原の戦いなどにどのような影響をもたらすのか、ひいては四国の大名配置にどう働いたのかという視点で見ておきます
 伊予の藤堂高虎と加藤嘉明は、同じ水軍に編成されていました。しかし、この両者は激しく対立し、軍事行動の分離・排斥がたびたびあったようです。そのため高虎は独断で、秀吉に注進しています。その際に蜂須賀家政は嘉明に同情的だったと伝えられます。
 朝鮮出兵では、関ヶ原合戦の要因ともなる事件も起きています。
石田三成の腹心・福原長尭が軍目付として派遣され、蜂須賀家政らの戦線縮小策を秀吉に報告し、家政らが罰せられます。後に家政は、福島正則・藤堂高虎・加藤清止・浅野幸長・細川忠興・黒田長政とともに石田三成襲撃を決行しています。朝鮮戦線に出兵した大名達の間には、大きな亀裂が生まれ豊臣政権は内部から分裂していたのです。その中で「四国衆」と呼ばれた大名たちの連携・対立が次代へと受け継がれていきます。

慶長五年(1600)9月15日、関ヶ原合戦における四国大名の動向を見ておきましょう。

5 四国の大名配置表 関ヶ原直前

徳川家康の東軍についていたのは
①阿波の蜂須賀至鎮
②讃岐の生駒一正
③伊予の加藤嘉明・藤堂高虎
石田三成の西軍についたのは
④讃岐の生駒親正
⑤伊子の安国寺恵瑣・小川祐忠・池田高祐・来島康親、
⑥土佐の長宗我部盛親

東軍勝利の結果、合戦後の論功行賞では、
⑦伊予が加藤嘉明・藤堂高虎に三分
⑧土佐一国に山内一豊
⑨讃岐の生駒氏は親子が両軍に分かれて戦ったが、一正の活躍が認められ、旧領を安堵された。
⑩蜂須賀家政は、領国家臣を豊臣秀頼に返却して高野山に隠遁
関ヶ原合戦を四国衆の視点で見ると、次のようになるようです。
①徳川秀忠軍の遅参のために、家康は旧豊臣大名中心の陣立てで勝利を得た
②そのため戦後の論功行賞では、旧豊臣大名に報いる必要があった
③結果として徳川政権成立期には、阿波・讃岐・伊予には秀吉子飼いの「外様」大名領が残った

そのような中で、長宗我部氏の居城であった土佐浦戸城の受け取りには井伊直政が派遣されますが、長宗我部軍の激しい抵抗を受けます。阿波・讃岐・伊予軍の動員によって,ようやく城が明け渡され、翌年正月に山内一豊が入城し、高知築城に着手するという不穏な情勢もあったようです。徳川の天下に決まったとは思わない人たちも数多くいたようです。

徳川の時代到来と四国衆
慶長八年(1603)2月、家康は征夷大将軍に任命され、江戸城・城ドの増改築を進めるなど二重公儀・東西分治体制を確立していきます。「四国衆」もこれに協力していく姿勢を取るようになります。山内一豊は、御前帳において9、8万石の拝領高を10、36万石に改正して提出します。応分の軍役を負担することをこのような形で申し出たのです。「四国の押さえ」としての自覚ともいえます。
 風見鶏と云われながらも外様大名として家康の信頼を得て、側近的地位を築いたのが藤常高虎です。
彼は伊予から伊勢・伊賀への転封後、家康の下で大坂を包囲する戦略を練り、それを具体化するための各地の城造りに携わります。高虎の旧領大津へ、洲本から高虎に近い脇坂安治が入ります。高虎は家康の意を汲んで、洲本城を大津に移し、板島城を改築して、大坂包囲網を完成させます。その後、伊達秀宗がこの地に入国し、宇和島と改称します。
大坂の陣へは、四国衆も出兵します。
戦後に、諸大名の中で最も高い評価を受けたのは、松平忠直・井伊直政・藤常高虎でした。四国衆では蜂須賀至鎮の評価が高かったようです。至鎮へは淡路一国7万石が加増さています。蜂須賀家では、この武功は後の世まで語り継がれることになります。
 大坂夏・冬の陣で豊臣家が減亡することによって、「二重公儀体制」は清算されました。しかし、秀吉時代に配置された旧豊臣大名が四国や西国を占るという問題は解消されませんでした。
            
 この状況が大きく変化するのは、三代将軍家光治世の寛永期になってからです。
この時期は、キリスト教禁止令・貿易制限令・ポルトガル船来航禁止令の発布、島原の乱平定など、幕府の「鎖国」(海禁)体制整備期でもあり、西日本は対外的・軍事的緊張が高まっている時でした。そのような西日本の軍事的緊張を背景に、瀬戸内海沿岸にも御家門が配置されていきます。それまで、瀬戸内の中国・四国筋に御家門はありませんでした。ただひとつだけ備後福山に「譜代」水野家があるだけです。そういう意味で、四国に御家門を置くということは徳川政権にとって家康以来の大きな課題でもあったようです。
寛永13年(1645)には、松山15万石、今治3三万石が久松松平家に与えらます。そして、この藩は正保4年(1647)のポルトガル船来航に際し、長崎警備を命じられています。
さらに生駒騒動の後、寛永19年には水戸徳川家の連枝として高松城に入った松平頼重もまた、徳川政権下で瀬戸内海掌握を期待されていました。将軍から「西国・中国の目附たらんことを欲す命」〔「英公実録」〕があったようです。幕府の意を汲んで、松平頼重は高松城の海側への拡張工事を行い、軍事機能を充実させています。頼重は、朝鮮出兵も経験した生駒家の船団をそのまま引継ぎ、さらに紀伊徳川家からは、軍船が武器を備えて贈呈されています。頼重はこの船に乗って、宮島参り称して安芸の宮島近くまで船団の「軍事訓練兼示威パレード」を何度も行っています。
高松城122スキャナー版sim

 つまり、生駒氏によって築城された高松城は秀吉の大阪城を守るためであり、瀬戸内海の制海権防衛の拠点、さらには豊臣家の外様である土佐長宗我部への備えという戦略的な意味がありました。しかし、松平高松藩の高松城は大坂防衛の水城であると同時に「西国・中国の目付」の役割を求められていたようです。それを体現したのが松平頼重による高松城の改修だったことになるようです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置
中世西国社会と伊予所収」