コロナ流行の前に北海道・道東の木道廻りと称して、岬の先端や砂州の背後の湿地に設けられた木道をいくつか歩いて廻りました。その時に、気づいたのが金比羅神社が道東の各漁村に鎮座していることです。特に根室半島周辺には、濃厚な分布度合いを感じました。どうして、道東にはこんなに金毘羅さんが鎮座しているのだろうかという疑問が沸いてきました。
そのような中で出会ったのが「真鍋充親 根室金刀比羅神社の建立由来と高田屋嘉兵衛について こんぴら所収」です。これをテキストに、根室周辺の金毘羅さんを見ていくことします。
根室に一泊し、早朝に根室港の高台に立つ金刀比羅神社を訪ねます。広い神域を持ち、近代的な社伝を持つ立派な神社です。展望台からは、港が眼下に広がり、海が見えます。そして、そこには大きなる展望台高田屋嘉兵衛の銅像がオホーツク海を見つめて立っています。高田屋嘉兵衛とこの神社は深いつながりがあるようです。
この神社の由緒については「金刀比羅神社御創祀百八十年記念誌」や「参拝の栞」に次のような年表が載せられています。
宝暦四年(1754)納沙布航路開かれ、根室に運上屋を置く
安永三年(1774)飛騨屋久兵衛、根室場所請負う
天明六年(1786)最上徳内・千島を探検
寛政四年(1792)露使節ラックスマン根室に来航し、通商を求む
寛政十年(1798)近藤守重が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
寛政十一年(1799)高田屋嘉兵衛が択捉航路を開く。幕府東蝦夷地を直轄す。
文化三年(1806)高田屋嘉兵衛、根室に金刀比羅神社を創祀
文化八年(1811) 露艦長ゴロウニンを国後で捕える。高田屋嘉兵衛送還され、ゴロウニンの 釈放に尽力、九月解決す。
天保八年(1837) 藤野家にて金比羅神社を祭祀す。
天保九年(1838) 社殿改築。
天保十年(1839) 山田文右衛門漁場請負。
弘化元年(1844) 浜田屋兵四郎、白鳥宇兵衛漁場請負う。
嘉永二年(1849) 藤野嘉兵衛再び漁場を請負い社殿修築す。松浦武四郎択捉島を探険 石燈龍奉納(納者柏屋船中藤野屋支配人)
安政元年(1854) 日露和親条約締結
明治二年(1869) 蝦夷を北海道と改称。開択使役所設置する。
明治五年(1872) 根室病院創設。温根沼に渡船場開設。
明治六年(1874) 根室本町へ遷宮
明治九年 咲花小学校開校。
明治十年 西南戦争勃発。根室一円の氏神として崇敬。
明治十一年 根室、函館聞の定期航路開設。
明治十四年 琴平丘新社殿に遷宮。社格が御社。
明治十五年 開拓使を廃して、根室、函館、札幌県をおく。
明治十九年 本殿新築。拝殿修管。
大正七年 県社に昇格
大正十年 鉄道開通、国鉄根室駅開業。
この年表には、根室金刀比羅神社の創建は文化3年(1806)のこととされています。この年に高田屋嘉兵衛が漁場請負権を得た際に、海上安全・漁業、産業の振興などを祈願して、祠宇を今の松ヶ枝町に建立し、金刀比羅大神を奉斉したとあります。
しかし、当時は神仏混交で金比羅さんは「金毘羅大権現」で権現さんです。金刀比羅というのは、明治以後の神仏分離後に使われるようになった用語です。ここでは金毘羅大権現としておきます。明治十四年に「琴平丘新社殿に遷宮」とあるので、それ以前は別の所に鎮座していたようです。高田屋嘉兵衛が創建したときの祠はどこにあったのでしょうか?
高田屋嘉兵衛が根室にやって来た当時は、根室や国後、択捉島海域は北方漁業の宝庫として着目され始めた時でした。同時に、ロシア国との間に北辺緊急を告げていた時でもあったことは司馬遼太郎の「菜の花の丘」に詳しく描かれています。

幕府は根室を直轄して、その開発と警備に当ったることにします。そして幕命により漁場を請負った高田屋嘉兵衛は、北方海域における航路の開拓と、漁業振興に心血を注ぎ、その安泰と繁栄を祈り、祠宇を建て金毘羅大権現を勧進したようです。そして、又弁天島(旧大黒島)には市杵島神社を建立したと記されます。もともと弁天島はアイヌの聖地であり、信仰を集める島でもあったようです。

幕府は根室を直轄して、その開発と警備に当ったることにします。そして幕命により漁場を請負った高田屋嘉兵衛は、北方海域における航路の開拓と、漁業振興に心血を注ぎ、その安泰と繁栄を祈り、祠宇を建て金毘羅大権現を勧進したようです。そして、又弁天島(旧大黒島)には市杵島神社を建立したと記されます。もともと弁天島はアイヌの聖地であり、信仰を集める島でもあったようです。
安政元年(1854)村垣範正が残した東蝦夷の巡視日記には、次のように記されます。
「弁天社及び金毘羅大権現は、文化三年高田屋嘉兵衛、当場所請負を命ぜられ、漁業満足祈願のため、社殿を箱館に於て切組み、当地に着するや、直ちに建立せしものなり」
とあります。建立当時の社殿は函館で材木が整えられて、船で根室まで運ばれて、組み立てられたようです。
高田屋嘉兵衛によって建てられた金毘羅大権現の祠は、どのように引き継がれていったのでしょうか。
年表には「天保八年(1837) 藤野家にて金比羅神社を祭祀す。」とあります。高田屋嘉兵衛の後を受けて、漁場請負権を得たのが藤野嘉兵衛です。彼が高田屋嘉兵衛が約30年前に創建した社殿改築を行ったようです。極寒の地なので、30年毎位で改築する必要があったことがうかがえます。改築の翌年・天保10年には、藤野嘉兵衛は肴場請負を山田文右衛門に譲り、根室を去っています。
年表にはありませんが、明治3年の文書には、次のように記されています。
「明治三年四月に、藤野家の根室人である蛯子源之助及び妻ハツの両氏は、信仰篤く、数年の立願を以て、黄金三十八両を献じて、讃岐に於て、御神像を奉製し、金刀比羅宮にて入魂式典を執行し、藤野家の手船「宗古丸」に奉乗して、同年五月本殿に奉鎮する」
ここからは廻船業を営む藤野家の一族で根室に住む蛯子源之助とその妻ハツが讃岐の金刀比羅宮に参拝し、そこで「神像」を作り、自社の手船に載せて持ち帰えり、社殿に祀ったことが分かります。幕末から明治初期には廻船業者などの富裕な信者によって、社殿が維持されていたようです。
高田屋嘉兵衛については「百八十周年記念祭記念誌」に、次のように記されます。
「高田屋嘉兵衛(1769~1827)明和六年淡路国都志本村に生まれる。兵庫に出て水主となり、苦労の末、寛政八年辰悦丸を新造し。船持船頭となる。その後北方漁場の重要さに着目し、函館に進出し、遂に幕府の信用を得て、蝦夷地御用船頭となり、文化二年(1805)には根室漁場を請負い、その卓越した識見と、商魂を以て、当地方の漁業振興に力を尽した。文化九年(1812)択捉島よりの帰途、国後島泊沖で露艦ディアナ号に捕えられ、カムチャツカへ連行され、幽囚の身となるも、常に日本の外交に心を尽し、露国の信用を得て、当時日露間の大きな問題となっていた、ゴローニン釈放等に奔走し、協定成立に努力す。文政元年家業を弟に譲り、淡路に隠退。文政十年病歿、享年五十九才。彼は当神社を創始した信仰深い人であったばかりでなく、北方漁業開発の偉大な商人でもあり、根室の礎を築いた功労者でもあった。」
高田屋嘉兵衛は、地元では「北方漁業開発の偉大な商人でもあり、根室の礎を築いた功労者」としてリスペクトされているようです。この神社に彼の銅像があるのが納得できます。
高田屋嘉兵衛の銅像建立趣意書も見ておきましょう
この地方の開拓には、まことに多くの人々の尽力があった。然し高田屋嘉兵衛が活躍した当時は、鎖国と封建制の厳しい体制下であり、露国の南下、原住民とのあつれきが続いた厳しい時でもある。
遠隔寒冷の未知の北海に帆船を進めての開拓は、嘉兵衛の高邁な勇気と才覚、練達せる航海技術に加えるに徳実で誠実溢れる人柄、開拓にかける大きな使命感と責任感がこれをなさしめたものといえる。
択捉島航路の開拓と産業開発に就て見ると、宝暦二年(1754)から寛政年間にかけて、北海道周辺は、外国船の出没が続き、また原住民の和人襲撃騒動などがあり、幕府としてその対策に努力している。そして寛政十年、幕府は180名からなる巡察隊を二手に分けて派遣したのもその一策といえる。
根室、国後、択捉島に渡って「大日本恵登呂府」の標柱を建て、更めて旧来の領土である事を宣言した。露国勢力は度々択捉島に迫り、我が国としては、同島を「日本領土」として明示する事は急を要していた。然しそこには一つの大きな障害があった。それは国後島と択捉島との間に流れる海峡であった。この海は「魔の水道」と呼ばれ、濃霧に覆われる事多く、潮流は荒れ狂い、原住
民の小舟は度々遭難し、その為に開拓に必要な人員や物資の大量輸送は不可能になった。
寛政十一年函館に進出した嘉兵衛は「蝦夷地御用船頭」を命ぜられ、根室、国後島、厚岸で交易を始めていた。前年択捉島を調査した近藤重蔵は、嘉兵衛の優れた航海術に着目し、厚岸に於て嘉兵衛に会い、状勢の緊迫と、択捉島開拓の緊急を説き、大型船による択捉島航路の開拓を要請した。嘉兵衛は快くこれを承諾し、重蔵と共に、根室から国後島に渡り、同島のアトイヤ岬から、潮の流れを観察し、苦心の結果、三筋の海流が、狭い海峡で一筋となり、択捉島ベルタルベの突端に激突する事をつきとめ、安全な航路を見究め、自ら約十屯の宜温丸を操船し渡海に成功したのであった。
同島に上陸した彼は、詳に調査し、国後島に待つ近藤重蔵に報告した。この安全な航路の開拓は、幕府のその後の同島警備と開発に大きな進展を見せたぱかりでなく、高田屋の事業発展にも大きく連なっていった。
択捉島航路開拓に成功した嘉兵衛は、幕府直轄制下にも拘らず、択捉島場所請負を命ぜられた。
翌寛政十二年三月、手船「辰悦丸」他五隻の船に、米、塩、衣類等をはじめ、漁場開設に必要な漁具、漁網、建築資材、大工労働者、更に医者、医療具を乗せ、幕吏近藤重蔵外数十人と共に、択捉島に渡り、上陸した彼は、海岸各地を調べて、十七ヶ所に漁場を設け、原住民達に漁具を与えて、日本式漁法を教え、その漁獲量に応じて生活に必要な物資を与えたので、彼等の生活水準は上り、渡島当初八百余人だった原住民の人口は、時と共に増え、。噂を聞いて渡島してきた者を合せると千二百人にもなった。
嘉兵衛の下に、喜んで稼動し、それまでは日露両国の勢力の狭間に置かれていた原住民の不安と苦悩は消え、日本国民としての自覚を持つ様になった。原住民達も、日本式漁法に慣れるに従い漁狭量も飛躍的に上昇した。主なる商いは海産物であり、海獣皮、熊皮、狐皮、鳥羽などがあげられた。享和三年(1803)のサケ、マスの漁獲量は一万八千石に上り、内七千五百石は塩蔵、他は魚粕、魚油として内地に運送した。殊に魚粕は肥料として増産に寄与した。
択捉島開拓は当初露国勢力の千島列島南下に対抗する最前線基地として、警備と原住民の撫育に重点がおかれたが、嘉兵衛の活躍によりその目的は達せられ、更に同島の豊富な資源の開発は、高田屋の事業を進展させ、幕府の財政に大きく寄与する事となり、根室や函館のその後の発展にも連なった。
これを小説化したのが「菜の花の沖」なのでしょう。
そして根室の金刀比羅宮は、県社として周辺漁港に分社・勧進されていきます。根室周辺に金毘羅社が多いのは、この神社の「布教活動」の成果でもあるようです。
納沙布岬の金刀比羅神社
そして、敗戦までは根室は「最果ての港」と云うよりも、千島列島の島々への拠点港として機能します。そのため北方領土の島々にも、金比羅神社を始め多くの神社が分社・勧進されることになります。敗戦時には次のような神社が鎮座していたようです。国後島 近布内神社り 老登山神社志発島 東前金刀比羅神社り 稲荷神社水晶島 金刀比羅神社多楽島 金刀比羅神社市杵島神社大海龍王神社色丹島 色丹神社
これらの神社の御神体は敗戦後は、根室の金刀比羅神社に祀られているようです。
以上をまとめておくと
①高田屋嘉兵衛によって根室に金毘羅大権現が勧進された
②その後、金毘羅大権現は根室の氏神様として信仰を集めるようになった。
③そして明治以後には、金刀比羅宮が周辺漁村へも勧進されるようになった。
④千島列島の島々にもかつては金刀比羅宮が勧進され祀られていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋充親 根室金刀比羅神社の建立由来と高田屋嘉兵衛について こんぴら所収」
コメント