藤原保則伝に描かれた9世紀の備中・出羽・讃岐
藤原 保則(やすのり)という平安時代前期の公卿がいます。地方官として善政により治績をあげ良吏として知られた人物のようです。後に、三善清行がその功績を称えて『藤原保則伝』を著しています。
その中に、藤原保則が讃岐国司としてやってきて残した言葉が記されます。9世紀の讃岐のことを知る手がかりにもなるようです。
今回は、『藤原保則伝』を史料に国司から見た地方の情勢を見ていきたいと思います。
三善清行
『藤原保則伝』を書いた三善清行は学者で政治家で、菅原道長のライバルとされる人物です。
三善清行がどちらかというと理想主義者で、道真がやることがあまり面白くなかったようです。道真を冷ややか見ていて、律令こそが本来のあり方だという考え方を持った人です。9世紀後半は、そういった理想と現実の間で政治家は揺れ動くような時代だと研究者は考えているようです。


三善清行は「意見封事十二ヵ条」という意見書を、当時の醍醐天皇に対して提出しています。その中に備中国下道郡邁磨(にま)郷という地域を取り上げて、こういうことを言っています。
もともと渥磨郷の地名の由来は、そこに2万人の人たちがいた。ところが7世紀後半に倭国は百済を救援するために朝鮮半島に軍隊を送り込み大敗北します。いわゆる白村江の戦いです。その時に西日本の成人男子が兵士として大量動員されます。その結果、西日本の成人男子の人口が減ってしまうのです。この遜磨郷は時代が下るに従ってどんどん成人男子の数が減ってきている、と三善清行は言っています。天平年中(765~767年)には、成人男子が、1900人いたと云いますからかつての2万人から比べると激減です。2万人が本当かどうかは別として。それからおよそ百年年後の貞観年間(866年頃)には70人余りになったと云うのです。これが藤原保則が備中の役人だった時のことです。かなり大げさに書いているようですが、人口が減ってきている、とくに税金を納めるべき成人男性が減ってきているということはたしかです。一つの郷でさえこのような状況だから、他もそうなんじゃないかと、だから今は大変な時代だと、三善清行は国家に向かって警告しています。一見、唐風文化とか中国風の文化を取り入れて、都の方では「先進文明化」が進んだように思っているかも知れないが、備前を始め地方社会はかなり疲弊しているじゃないか、と三善清行は警告していたわけです。三善清行とはそういう政治家であり、現実主義の菅原道真とはそりが合わなかったようです。彼が理想の地方政治家としたのが 藤原保則であり、そのために後に伝記を残したようです。
前置きが長くなりましたが本題の藤原保則について、見ていきましょう。
藤原保則(やすのり)が飢饉で大打撃を受けた直後の備中に赴任することになるのは貞観8年(866年)のことです。これがはじめての地方官への転出で、40歳台のことです。
『藤原保則伝』には、備中・備前国司時代の業績が次のように記されます。
藤原保則は、貞観8年42歳にして、備中権守となり赴任した。当時の備中国は大飢饉の後を受けて、とくに今の阿哲郡の辺りは、疲弊最も甚だしく白昼にも強盗が横行し、道にさえ餓死したものを見るありさまで、全くの生き地獄であった。そこで、保則は、まず貧困者を救い、大いに農耕を励まし倹約を勧めたので、漸く窮民も豊かになり盗賊も後を絶った。
貞観16年(874年)備前権守となったが政策方針は殆どかわらない。部下に悪者あらば、ひそかに説き、或は、自分の財産を分け与えた。もし、国内に大事あれば、必ず自ら吉備津神社に詣でて、これを祈った。すると常に感応があった。為に教化が大いに行われて、父母のごとく慕われた。
あるとき、安芸の賊が備後に入り込み、調の絹を盗んで備前磐梨郡にきて、宿の主人に備前国司のことを聞くと、藤原保則の善政がいき渡っており、「仁義を持って教え、国人みな廉潔を守り、信義を重んじること神明に通じている。ゆえに、もし悪事あらば吉備津の神のお叱りを直ちに受ける。」このことを聞き、盗人大いに驚いて、夜も寝られず、夜明けとともに、国府にいたり自首していった。
「わたしは、備後の官絹40匹を盗みました。どうかお仕置きください。」
と保則その状を喜び、召して食事をとらせ、その絹を封じ、添え書きして備後に持ち帰らせた。備後の国司小野喬査、怪しみ且つ喜び直ちに盗人を赦し、自ら備前に至り、保則に深謝した。
と保則その状を喜び、召して食事をとらせ、その絹を封じ、添え書きして備後に持ち帰らせた。備後の国司小野喬査、怪しみ且つ喜び直ちに盗人を赦し、自ら備前に至り、保則に深謝した。
貞観17年役目を終えて、京に帰るとき、両備の人が道を遮り、泣いて別れを惜しむ。老人が酒を持ってきて酒、肴を勧めて止めない。保則老人の言に反することをおそれ、滞留すること数日、その間訪れる人絶え間なく、保則困り果てて、ある夜、ひそかに小船にのって去った。従者を待つため、和気郡方上津に停泊した。郡司その糧食の少なきを聞きて、白米二百石を贈る。保則その志を喜んで是を受け、国の講読師に書を送り、「船中に怪事が多い。僧に頼んで祷らしめよ」と。そこで、国分寺の僧を遣わす。保則乞うて般若心経一本をよませた、贈られた白米は全て布施して去った。これぞ、官界に職を奉ずるものの鑑である。
他国から入った盗賊が保則の善政を聞いて恥じ入り自首した話や、保則が任を終えて帰京する際に、人々が道を遮り泣いて別れを惜しんだというエピソードを三善清行は、挿入してその善政ぶりを記しています。
これ以外にも当時の備中の情勢を次のように記しています。
藤原保則が備中の役人になった時に、ここでは略奪をして殺し合いをしたり、税金を払うのを嫌って逃げたりして、税金を納めるべき成人男子が一人も残っていなかった。これを書いた三善清行は、最初に述べた通り、後に備中国に国司として赴任した経験があるので、当時の備中国が大変な状況だったことを知っていました。それを藤原保則は、見事に統治したと云うのです。
その後に保則は、お隣の備前国の国主になります。

ここには吉備津彦神社が登場してきます。この神社が、備前国の命運を左右するような大事な神様であると記されます。当時の国守達も吉備津彦神社が精神的な支柱となっているとを肌身で分かっていたようです。これも一つの地域観でしょう。どんな神様を信仰しているかは、地域によって違います。その神様がどういうことをしてくれるかということも、地域によって違うわけです。この神様に対してよい行いをすれば豊作になり、そうでなければ罰を受けるということがここには書かれています。祭事と政事は、まさに一体であったことが改めてうかがえる史料です。

ここには吉備津彦神社が登場してきます。この神社が、備前国の命運を左右するような大事な神様であると記されます。当時の国守達も吉備津彦神社が精神的な支柱となっているとを肌身で分かっていたようです。これも一つの地域観でしょう。どんな神様を信仰しているかは、地域によって違います。その神様がどういうことをしてくれるかということも、地域によって違うわけです。この神様に対してよい行いをすれば豊作になり、そうでなければ罰を受けるということがここには書かれています。祭事と政事は、まさに一体であったことが改めてうかがえる史料です。
清和朝末の貞観18年(876)に、保則は平安京に戻り、検非違使佐となり都の治安に手腕を発揮します。元慶2年(878年)出羽国で蝦夷に反乱が発生し、官軍が大敗します。すると保則は地方官としての経験を期待され反乱の鎮圧を命じられてます。この戦争は、蝦夷が圧倒的に有利でした。

そのような状況下に保則は、出羽でどう対応したのでしょうか。
一言で言うと、力でねじ伏せたのではなく、懐柔政策を取ります。それが功を奏して平定されます。その後、秋田城の建直しまで行います。具体的には、保則は早速現地へ向かい、防備のため兵の配置整備を行います。また反乱の原因を調べると、当時は全国的な飢饉が起きていたにもかかわらず、役所の人間が厳しい取り立てを続けていたことが分かります。そのために起きた反乱だったようです。そこで保則は、まず役所にしまいこまれていた米を民衆に配ります。このような対応ぶりに懐柔策も軌道に乗り、蝦夷の指導者が投降してきます。保則はこれを受け入れ、中央への報告書には「反乱は鎮まりましたので、穏便な措置をお願いしたい」と記します。それを政府も受けいれます。この蝦夷の反乱を【元慶の乱】と呼びます。ここには、藤原保則の国守としての能力がいかんなく発揮されたシーンが描かれています。
「藤原保則伝」には、前任者の国司のことが次のように記されています。
秋田国守の良岑近(よしみねのちかし)は
「聚(あつ)め斂(おさ)むるに厭(いと)うことなく、徴(はた)り求むるに万端なり(税を徴収することはいっさい厭わない)」
「貪欲暴獷(ぼうこう)にして、谿壑(けいがく)も填(うづ)みがたし(広い谷も填めきれないほど貪欲である)」
「もし毫毛(ごうもう)も(少しでも)その求めに協(かな)わざるときは、楚毒(そどく)(苦しみ)をたちどころに施す」
といった人物であったと記します。
ここからは乱の原因が、前年の不作にもかかわらず、国司たちが農民から収奪を繰り返したことにあったことがうかがえます。また『藤原保則伝』には、中央の権門子弟らも、東北の善馬・良鷹を求めて相当悪どいことを行っていたことが記されます。馬や鷹は、東北の名産品として都でも需要が高く、安価に脅し取ることができれば、都でかなりの利益を上げることができたようです。ここからは現地官僚の悪政だけでは片付けられない一面が見えてきます。見方を変えると、中央集権的な律令国家が変容して、地方の現地官僚がその政治の実権を握って、自分の利益を追い求める政治が行われるようになっていたことを示します。こうした国司らの圧政に抵抗して、生きるために多数の蝦夷が反乱に立ち上がったと云えそうです。
それが「藤原保則伝」には、
「出羽国は公民と蝦夷が雑居していて、田地が豊かで珍しい特産物もたくさんある。力の強い官吏が居座って租税を増やし、勝手に賦課を加えている」
と記されています。
これに対して藤原保則は何をしたのでしょうか。
『藤原保則伝』には「法律を百姓に教え示す」とあります。法律に暗い人たちに対して法律を教えたと云うのです。これを最初に読んだときには、脈略がつながらずに「支離滅裂」という印象を受けました。
その後、藤原保則が讃岐国守としてやってきて残した言葉を読んで、その意図が何となく見えてきました。そこには、出羽とは対照的なことが讃岐については書かれています。
「讃岐国は倫紙と能書の者が多い」
文章が上手い人が多いというのです。そして、次のように讃岐のことが記されます。
「この国の庶民はみな法律を学んで、それぞれがみな論理的である。村の畔をきっちりと定めて、ともすれば訴訟を起こす」
讃岐については、比較的法律に詳しい人が多いとして、かえってやりづらい、やり込められるといった地域性が「保則伝」から見えてきます。これは出羽国とは対照的です。讃岐国では法律に明るい人が多く、法律を武器に争うことが多く、そういう争いを止めるように、保則が取り成すことを讃岐では行ったようです。
ちなみに藤原保則は、菅原道真の前任者になります。
保則が讃岐を去るに当たって次のような言葉を残したと三善清行いうのです。
保則が讃岐を去るに当たって次のような言葉を残したと三善清行いうのです。
「今度の新任の国司はたしかに大学者であり、私の能力の及ぶところではないけれども、内面の志を見ると危険な人物なんじゃないか」
ということを語ったと三善清行は記します。確かに菅原道真は中央政界に戻ったあと左遷されます。これはたぶん、保則の口を借りて三善清行の本音が語られていると研究者は考えているようです。
「藤原保則伝」では、かなりの分量を割いて出羽国を治めることがいかに大変だったかということが書かれています。しかし讃岐国はあっさりと書かれていて、統治の上ではあまり手がかからなかったような印象を受けます。
最後に藤原保則は九州の筑前・筑後・肥前に行きます。
そしてこの地域を「群盗が多く、治安が悪く、まるで法律がないがごとく略奪される」であると言っています。いろいろな人たちが集まってくる地域なので、なかなか秩序が守られないというのです。それに対して保則が、それを守らせるようにしたという美談が語られています。確かにこの地域は朝鮮半島や大陸と近い関係にあるところで、ある意味で「防衛前線」にあたるエリアです。讃岐とは置かれている地域の状況が違ったようです。出羽国は蝦夷がいるし、大宰府は新羅が攻めてくるかもしれないという緊迫感があります。そのなかで、讃岐の地域はみんなが法律を学んでいるというのです。このような任地の状況を、藤原保則はどう考えて地方長官として対応したのでしょうか。地域によってさまざまだなという感じがします。これを「多様性」と云うのかも知れません。9世紀の日本は、地域によって多様性のあふれる国家だったとしておきましょう。
保則はその後は都に帰り、その業績が認められ官位をどんどん上げていきます。最終的には公卿の一員にまで登ります。公卿というのは、公家の中でも一定以上の地位にある人たちのことです。今のお役所に例えるとすれば、国家公務員の中でも「○○長」という役職についている人くらいの感じになるようです。政治中枢で活躍した人が多いとはいえない藤原南家の中では、かなりの出世です。それにおごり高ぶることはなく、亡くなる直前には比叡山に入り、念仏を唱えながら往生したと記されます。
882 2・- 藤原保則,讃岐守に任命され,赴任する886 1・16 菅原道真を讃岐守に任命する(三代実録)888 5・6 守菅原道真,降雨を阿野郡城山神に祈る890 春 菅原道真.任を去る(菅家御伝記)
年表を見ると9世紀後半の讃岐には、藤原保則や菅原道真など、有能な実務型国司が実際に赴任してきます。讃岐の国司のトップの守は、中央政府の主要メンバーである「参議」という役職を兼任している人が多かったようです。そのため実際には讃岐の国にやってこない人が多かったようです。ところが、藤原保則や菅原道真は実際に赴任し、讃岐にやってきます。そういった特徴が讃岐国の国司にはあるようです。
例えば、藤原保則の後にやって来た菅原道真は、その後右大臣までとんとん拍子に上がっていきます。

その中で彼はいろいろな政策を出しています。例えば、税収が上からないことに対して、国司を責めるのではなく、ある程度国司が国内のことを自由に運営できるようにしたらどうかというような制度改革をやります。ある意味「寛平の改革」と云えるかも知れません。これはひょっとすると、讃岐国での実務経験を踏まえた上で、そのような政策が行われたのではないかとも思えてきます。それは「保則伝」にあるように、讃岐国は他の国に比べて非常に治めやすい国だ、という評価とも関わってきます。藤原保則の赴任地を見ると、他の国はかなり苦労している様子がうかがえます。ところが讃岐はそうではないようです。讃岐の国司になることが、国司としてある種のステータスのようなものがあったとも思えます。

その中で彼はいろいろな政策を出しています。例えば、税収が上からないことに対して、国司を責めるのではなく、ある程度国司が国内のことを自由に運営できるようにしたらどうかというような制度改革をやります。ある意味「寛平の改革」と云えるかも知れません。これはひょっとすると、讃岐国での実務経験を踏まえた上で、そのような政策が行われたのではないかとも思えてきます。それは「保則伝」にあるように、讃岐国は他の国に比べて非常に治めやすい国だ、という評価とも関わってきます。藤原保則の赴任地を見ると、他の国はかなり苦労している様子がうかがえます。ところが讃岐はそうではないようです。讃岐の国司になることが、国司としてある種のステータスのようなものがあったとも思えます。
「寛平の改革」は、9世紀の終わりに行われた地方改革で、きちんと税収を取るにはどうすればよいかということに焦点を合わせて、毎年にわたって改革を進めています。そこには道真の讃岐における実績・業績が反映されていて、それは都の論理では分からない、都の論理だけでは思い付かない改革ができたのではないかと研究者は考えているようです。だとすれば、讃岐における経験が大きなものだったとも云えます。そういう意味では、讃岐国の統治というものは、大げさに言えば中央の国政を左右するようなものであったという認識が、役人の間でもあったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 シンポジウム記録「地域から見る古代史の可能性」 香川県歴史ミュージアム
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