丹生明神と狩場明神
重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵
 
 『今昔物語集』(巻十一)(嘉承元年(1106年成立)には、空海の高野山開山のきっかけが記されています。そこには弘仁七年(816)4月ごろに空海が高野山に登って、高野の地主神である丹生明神に会ったことから始まります。これは康保五年(968年成立)の『金剛峯寺建立修行縁起」がタネ種のようです。

高野山丹生明神社

ここで注目したいのが、高野の領地は丹生明神の化身の山人から譲渡さたということです。つまり高野山の元々の地主神は丹生明神だったことになります。丹生明神は、丹(水銀)と深く関わる神です。「高野山=丹生明神=水銀」という構図が見えてきます。今回は、これを追いかけて見ます。テキストは、前回に続いて 「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究」です。
丹生大師(丹生山神宮寺)を訪れた目的は愛宕山(多気郡多気町丹生) – 神宮巡々2
三重県の丹生大師(丹生山神宮寺)

 丹生山の神宮寺は、宝亀五年(774)に空海に虚牢蔵求聞持法を伝えた秦氏出身の勤操(ごんぞう)が開山した寺です。
丹生山の神宮寺は弘法人師の大師をとって「丹生大師」と呼ばれています。これは勤操が創建し、その後に空海がこの寺の緒堂を整備し、井戸は空海が掘ったという伝承からきているようです。このような伝承を生み出したのは、丹生に関わりのある伊勢の秦の民だと研究者は考えているようです。伊勢の丹生伝承は、勤操―空海―虚空蔵求聞持法が結びついてきます。

水銀の里 丹生を歩く|イベント詳細|生涯学習センター|三重県総合文化センター

 弘法大師が掘ったという井戸について、松田壽男は「水銀掘りの堅杭の名残」とします。
 神宮寺には、水銀の蒸溜に用いた釜と木製の永砂器が保存されているそうです。神仏分離までは一体だった隣の丹生神社の神体は、鉱山用の槌と鑿(のみ)とされます。さらに金山籠(かなやまかご)という鉱石搬出用の器具も残されています。これらは水銀掘りに使われたものと研究者は考えているようです。
丹生大師 三重県多気郡
 松田壽男氏は、丹生神社の神宮寺所蔵の蒸溜釜は、古墳時代の「はそう」と呼ばれた須恵器とまったく同じだと指摘します。壺形で上部が大きく開き、腹部に小孔があります。この形は神官寺所蔵の蒸溜釜と比べると、「構造がまったく同様で、古墳時代の日本人が朱砂から水銀を精錬するために用いたと見てさしつかえない」とします。

須恵器「はそう」考
須恵器「はそう」

 ここからは、この地では、古くから朱砂採取が行われていたことが分かります。秦集団の丹生開発のようすが見えてきます。

丹生水銀鉱跡 - たまにはぼそっと

若き日の空海は、何のために辺路修行をおこなったのでしょうか?
 それは虚空蔵求聞持法のためだというのが一般的な答えでしょう。
これに対して、修行と同時にラサーヤナ=霊薬=煉丹=錬金術を修するため、あるいはその素材を探し集めるためであったと考える研究者もいます。例えば空海が登った山はすべて、水銀・銅・金・銀・硫化鉄・アンチモン・鉛・亜鉛を産出するというのです。
 また空海が修行を行ったとされる室戸岬の洞窟(御厨洞・神明窟)の上の山には二十四番札所最御前寺があります。ここには虚空蔵菩薩が安置され、求聞持堂があります。そして周辺には
①畑山の宝加勝鉱山
②東川の東川鉱山、大西鉱山、奈半利鉱山
があり、金・銀・鋼・硫化鉄・亜炭を産していました。これらの鉱山は旧丹生郷にあると研究者は指摘します。
錬金術と錬丹術の歴史 |
錬丹(金)術
 佐藤任氏は、空海が錬丹(金)術に強い関心をもっていたとして、次のように記します。
①空海死後ただちに編纂された「空海僧都伝」に丹生神の記述があること、
②高野山中腹の天野丹生社が存在していたこと、
③高野山が銅を産出する地質であったこと
これらの事実から、空海の高野山の選択肢に、鉱脈・鉱山の視点があったとみてよいと思われる。もしその後の高野山系に丹生(水銀・朱砂)や鉱物の関心がまったくなかったなら、人定伝説や即身成仏伝説の形成、その後の真言修験者の即身成仏=ミイラ化などの実践は起こらなかったであろう」

として、空海は渡唐して錬丹術を学んで来たこと。鉱脈・鉱山開発の視点から高野山が選ばれたと記します。
 松田壽男も次のように記します。
空海が水銀に関する深い知識をもっていたことを認めないと、水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことや、空海の即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

本地垂迹資料便覧

内藤正敏は『ミイラ信仰の研究』の「空海と錬丹術」の中で、次のような説を展開します
空海が僧になる前の24歳の時に書いた『三教指帰』は、仏教・儒教・道教の三教のうち、仏教を積極的に評価し、儒教・道教を批判しています。が、道教については儒教より関心をもっていたようです。そして、空海は『抱朴子」などの道教教典を熟読し、煉金(丹)術や神仙術の知識を、中国に渡る以前にすでに理解していたとします。
確かに、三教指帰では丹薬の重要性を説き、「白金・黄金は乾坤の至精、神丹・錬丹は葉中の霊物なり」と空海は書いています。白金は水銀、黄金は金です。神丹・錬丹は水銀を火にかけて作った丹薬です。
ミイラ信仰の研究 : 古代化学からの投影(内藤正敏 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

これを補うように内藤正敏は、空海が唐に渡った時代のことについて次のように記します
「空海が中国(唐)にいる頃は、道教の煉丹術がもっとも流行した時代であった。ちょうど空海が恵果阿闍梨から真言密教の奥義を伝授されている時、第十二代の店の皇帝・憲宗は丹薬に熱中して、その副作用で高熱を発して、ノドがやけるような苦しみの末に死亡している。私は煉丹術の全盛期の唐で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはないと思う。ただ、日本で真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかっただけだと思うのだ
 
これらを積み重ねると、自ずから空海が丹生の産地の高野山に本拠地を置いた理由のひとつが見えてくるような気もします。
水銀と丹生神社の関係図
松田壽男氏は「丹生の研究」に「高野山の開基と丹生明神」と題する次のような文章を載せています。
   金剛峯寺から引返して、道を高野山のメーンストリートにとり、東に歩いてきた私は、 一の橋かられ地をぬけて、奥の院の大師霊廟へと進んだ。香花に包まれた空海の墓。その傍らにも丹生・高野明神の祠があることは、すでに紹介ずみである。私はさらに、この聖僧の墓地の裏側に廻り、摩尼山の山裾にとりついてみた。こうして、奥の院から高野山の東を限る摩尼山の画面にかけての数地点で採収した試料からも○・○〇五%という高品位の水銀が検出されて、私を驚喜させた。科学的な裏付けは、西端の弁天岳だけではなかった。少くとも弁天岳から摩尼山までの高野山の主体部、すなわち空海の「結界七里」の霊域は、すべて水銀鉱床と判定され、鉱産分布の地図に新たにマークをしなければならないことにになったのである。

 ここからは高野山の霊域の全体が「水銀の鉱徴を示す土壌が露頭」していて、「全山がそっくり水銀鉱床の上に乗っている」ことが分かります。それを知った上で空海は、ここを選んだようです。逆に言えば、空海が丹生(水銀)に関心がなかったら、ここを選んではなかったかもしれません。
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  空海と丹生(水銀)の関係は深そうです。それは、同時に秦氏との関係を意味すると研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。