琴平町の象頭山という呼び名は、近世以後に金毘羅大権現が鎮座して以後の名前です。それまでは延喜式内社の大麻神社が鎮座する山として、全山が大麻山と(現象頭山を含め)呼ばれていたと私は考えています。
ブラタモリ こんぴらさん - めご の ひとりごと

 この山はNHKのブラタモリでも紹介されていましたが、金比羅本殿が建つ地点から上は安山岩でできていて、所々に岩肌を露わにした山様を見せます。金毘羅本殿の奥には、岩窟があるとされます。その外に山中には風穴などもあり、奥社の背後も岩壁となっています。これらの岩窟や瀧(断崖は)は、修験者たちの格好の修行場ゲレンデとなり、彼らの聖地となります。山岳信仰の高まりととともに、善通寺の「奥の院」として修行に励む修験者たちのゲレンデとなり、時代が下ると、そこに山岳寺院が出現したことがうかがえます。これらの寺院は、善通寺→瀧寺→尾背寺→中寺廃寺→萩原寺と山岳寺院ネットワークでつながり、修験者たちの活発な交流が行われていたことが、史料から見えてきます。そこには、多くの修験者たちが入り込み、「中辺路」修行を行っていたことがうかがえます。
 金毘羅大権現以前の、この山の宗教施設を順番に挙げておくと次のようになります。
①式内社大麻神社(忌部氏の氏神?)
②瀧寺(中世の山岳寺院)
③称名寺(中世の阿弥陀・念仏信仰の寺院)
④三十番社
⑤松尾寺金光院を別当とする金毘羅大権現
ここからは、近世に金毘羅大権現が流行神として出現する以前に、大麻山にはそれに先行する宗教施設があったことが史料からは分かります。
もうひとつのこの山の性格は、「死霊のゆく山」でした。
中世以来、小松荘の人たちにとっては、死者を葬る山でした。現在も、琴平山と愛宕山の谷間を流れる清流沿いには、小松荘以来の墓地である広谷の墓地が広がります。そこには、墓を守る墓寺も建てられ、高野聖達の念仏布教活動が行われていたようです。いわゆる「滅罪寺」もあったのでしょう。
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丸亀平野から見る大麻山
 一方、丸亀平野の里人から見れば、この山は祖先が帰っていく甘南備山で、霊山でした。神体でもあるこの山を仰ぎ見て、気象の変化が占われたのかも知れません。そのような処には、中世に成ると、拝殿が姿を現すようになります。それが多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)なのかもしれません。中世以前においては、大麻山は霊山で、信仰の山だったと私は考えています。
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今回は金毘羅大権現登場以前の宗教施設である称名寺を訪ねてみます。 テキストは前回に続いて、山本祐三「琴平町の山城」です。ここには、称名寺付近の詳細な地図が載せられています。この地図を参考に実際に私も訪ねて見ました。その報告記でもあります。

称名寺 「琴平町の山城」より
称名寺周辺地図(「琴平町の山城」)
称名院へは、ホテル琴参閣の裏のあかね幼稚園のそばから山に伸びる道を辿ります。この辺りは「大西山」と呼ばれ、山から流れ出す谷川沿の橋がとりつきになります。
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大門口
地図上には「大門口」あります。称名院(後の称明寺?)の大門跡と伝えられます。確かに、両側が狭まった所に大門が建っていたような雰囲気がします。しかし、研究者は後に道を付けるために切通したものと一蹴します。
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大門口を振り返って見た所
 ここを抜けると、空間が開け目の前に田んぼが現れます。なんでこんな所に・・と思っていまいますが、金毘羅宮の神田のようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭3

6月には田植え祭が毎年行われ、田舞の歌が奉納される中で、早乙女(巫女)が苗を植える姿が見られます。神前にお供えするお米が古式に則って、栽培されています。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭7

 さらに管理道を真っ直ぐに登っていくと、左手に伸びる広場に神馬(しんめ)の墓があります。ここからは琴参閣の向こうに西長尾城の城山が望めます。
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さらに林道を登り、原生林の中に入っていきます。砂防ダムの建設のために付けられた林道は、今は役割を終えて廃道になっていますが人が通るには快適な道です。
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薄暗くなった中を、すぐに右手にカーブすると森の中の大木の根元に、朽ちそうになった小さな祠が迎えてくれました。
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ここが、称名寺跡のようです。確かに周辺は広い平坦地です。しかし、林道整備の際に、造成された土地かも知れませんが、この盆地状に開けた所が称名寺跡としておきます。史料には、ここからは、五輪塔に用いた石が多く見られ、瓦も見つかることがあると記されています。

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 林道を上っていくと、谷川のせせらぎが響き、下には砂防ダムの湖面が見えます。さらに登ると林道の分岐点が現れ、そこに池があります。森の中に青い水面を見せる池で、趣を感じさせてくれました。
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しばし佇んでいたのですが、五月末の快晴の温かい日なので、ヤブ蚊の襲来を受けました。早々に退散します。里山歩きには、防虫ネット付きの帽子と長袖と防虫スプレーが必需品であることを忘れていました。 
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称名寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶の道範です。
道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
 道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
 その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をしています。この寺は、善通寺創建の時の柚(そま)山で、建築用材を供給した山と伝えられています。この時も、当時進められていた善通寺復興のための木材確保のためであったかもしれません。尾背寺も中世は、山岳寺院と多くの修行僧がやってきて書経なども行っていたことが、大野原の萩原寺に保存されている聖教の書き付けから分かるようになっていたようです。
 一泊した翌日、道範は帰路に称名院を訪ね、次のような記録を残しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。
松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」  (原漢文『南海流浪記』)
 このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土信仰のの寺
②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる
③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。
ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。以前に見た弥谷寺の念仏僧侶と同じような生活ぶりがうかがえます。
 私も称名院跡で、いろいろと想像してみようとしたのですが、その試みはヤブ蚊たちによってもろくも打ち砕かれたことは、先ほど述べた通りです。
瀧寺について
 道範は、念々房が不在だったために、その足で瀧寺を訪れ、『南海流浪記』に次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」

 『西讃府志』(1852年)には、次のように記されています。
『南海流浪記』ニ宝治2年(1248)11月18日 参詣瀧寺 坂十六町  此寺東向高山有瀧  古寺礎石等庭々有之 本堂五間 本佛御作千手云々 此寺ハ大麻山ナル葵瀧ノアタリニアリシト云博ヘリ
 今ハ何ノ趾モ見エズ 又同書二称名寺卜云フモ載ス 是ハ此山ノ麓ニテ 今地ノ名二残リテ 其趾アリ 
意訳変換しておくと
「南海流浪記」には、1248年11月18日に、称名寺から坂を16丁(1,7㎞)ほど登った瀧寺に参拝した。この寺は、東向きの高山にあり、近くに瀧がある。古寺の礎石が庭に散在している。本堂は五間で、本佛は弘法大師御作の千手観音と云う。この寺は大麻山の葵瀧のあたりにあったと伝えられている。 今はなにも残っていないが、同書には称名寺も載せている。 この寺はこの山の麓にあった寺院で、 今は地名のみが残っている。 

瀧寺のロケーションとしては、称名院から坂道を16丁ほど上った琴平山の中腹で、近くに瀧があると記します。この瀧は「葵の滝」と考えられてきました。本尊仏は、御作とあるので弘法大師作の千手観音菩薩だったとします。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとする研究者もいます。そうすると、道範は、千手観音と記しますので、ここには矛盾が出てくるようです。
 「琴平町の山城」は、瀧寺の位置について次のように記します
象頭山頂近くの「葵滝」の位置は、急斜面でとても寺が立地できる所ではない。(中略)
大麻山の東側中腹に東に向って派出した尾根の根元部鞍部を「木戸口」といい、これはその東向き尾根に戦国時代にあっ大麻山城の入口(虎口)のことである。(中略)
 平成12年4月22日(土)私たち5人は「大麻山城」の調査に行った。尾根に到着してから、松田ら三人は城の縄張図を採りはじめたが、私と淀川氏の二人はそれをせず、手持ち無沙汰だったので、「木戸口」そばに「瀧寺跡」の標識があったので、そのあたりをあちこち歩いてみた。「瀧寺」がどんな寺か当時知らなかったもののいわば時間つぶしの呈で歩いてみたのである。しかし寺跡の礎石や瓦なども見つからず、何も収穫はなかった。その辺りはやや平坦地で面積もかなり広く、寺院を建てるには適当な場所だと思った。
  として、大麻山城の「木戸口」の鞍部に「瀧寺」があったと推定します。
道範以後の称名院は、どうなったのでしょうか。
道範が称名寺を訪れてから約150年後の応永九年(1402)に撰集された『宥範縁起』に登場します。宥範は、以前にお話ししましたが「善通寺中興の祖」として、中讃では当時は最も尊敬された僧侶です。そこのころの宥範は、
「嘉暦二年(1327)……小松の小堂に閑居し給へり。」

と、隠退をしようとしていた時期でもあったようです。しかし、その高名・学識のために、それもかなわず、さまざまの仕事や要職に引っ張り出されます。隠居地としていた「小松の小堂」と称名(明)院は、同じ寺内か同義と研究者は考えているようです。なぜなら、『宥範縁起』の後段に次のような同様の記述が見えるからです。
「安祥寺の一流、底を極め、源を尽く給て、販国之後、小松の小堂に、生涯を送り御座す處に、…」

 と、あって宥範は余生を小松の地、なかでも大麻山近辺にある隠居寺で過ごすという意志が見えます。そして、この記述が、金毘羅と宥範を結びつける材料にもなったようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭
  
   この後は、称名院の名は見えなくなります。
称名院という寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての地名だけが残ったようです。金刀比羅宮文書中の、慶長十四年(1609)9月6日付の生駒一正の判物に、
  「一 城山、勝名(称名?)寺如前々令寄進候事」

慶長十八年(1613)正月14日付生駒正俊判物に同文、同年同月16日付生駒家家老連署寄進状に、「……勝名寺林……」
 年未詳正月19九日付生駒一正寄進状に
  「照明(称名)寺山……」
 などと出てきます。現在の金刀比羅宮でも、この地を「正明寺神田御田植祭」のように「正明寺」と表記されています。
これらの「しょうみょうじ」は、称名院の遺称地と研究者は考えているようです。
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現在「正明寺」と呼ばれる旧地名の盆地状の場所を称名院跡であると町誌ことひらは比定しています。

 称名院を、道範が訪ねたときは、宝治二年(1248)の冬11月でした。
町誌ことひらは、そのころ、法然房の直弟であった讃岐出身の僧侶を紹介しています。京都九品寺の覚明房長西です。長西は、讃岐国三谷(飯山町)の出身で、19歳の時出家して法然房の門下となり、その後に九品寺流の派祖になった人です。29歳で師の法然がなくなると、諸国の高徳の僧を訪ねて行脚を重ね、讃岐を拠点に念仏布教を行います。讃岐での布教の時の弟子に、覚心、覚阿らがいたようです。これらの人々が讃岐で活動していた時期と、道範の配流の時期が一致することを町誌ことひらは指摘します。

 道範は、覚海に学びその門下四哲の一人として不二思想を身につけていたようです。また、真言念仏にも傾倒して『秘密念仏紗』を著し、念仏義も追及しています。つまり、念仏信仰に強い関心を持っていたことがうかがえます。ここからは、先ほど見た称名院の念仏者と道範は、かねてより親交があったと研究者は考えているようです。
 称名院の九品の庵室といい、念仏者といい、九品の浄土を思う浮かべるには、いいロケーションだったのではないでしょうか。彼らが、念仏布教ために法然の配流地である小松荘を選んだとも考えられます。そういう視点で見ると、浄土宗の文書に出てくる「讃岐国西三谷」は、「鵜足郡三谷(飯山町三谷)」か、もしかして「那珂郡三谷(琴平町)」、つまり、称名院かもしれないと研究者は考えているようです。その根拠としてあげるのが石井神社の由緒に、
  「……源朝臣重信、……那珂郡小松庄三谷に城を構へ」

 とあることです。小松庄に三谷という所があって、城を築くに相応しい土地だったようです。その地が後に、寺地となっていたという推理です。
最後に『古老伝旧記』は、称名院について、次のように記します。
当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。

 ここには、浄土信仰、念仏信仰の寺、西山の氏神としての称名院の姿が見えます。なお、金毘羅の民が氏神として祭ってきていた称明寺(称明院の後身?)の鎮守社が慶長年間(1596~)に廃絶します。それを継承して、旧小松郷五力村の氏神と大井八幡神社に祀ったと伝えられます。称名寺の鎮守社がこのエリアの産土神であったことがうかがえます。

この称名寺の管理権を握ったのが当時の長尾城主の甥である宥雅のようです。
宥雅は、この称名寺を拠点に新たな宗教施設を、この山に創建しようとします。そのために作り出したのが金毘羅神です。これは「綾氏に伝わる悪魚伝説 + インドの蕃神クンピーラ + 薬師信仰」をミックスした新たな流行神でした。これを、この称名寺の上方の岩穴付近に、松尾寺の守護堂として建立します。こうして、称名寺が「下の堂」、金比羅堂が「上の堂」という配置が出来上がります。しかし、それもつかの間、長宗我部元親の讃岐侵入で宥雅は堺に亡命を余儀なくされます。新設された金比羅堂は、南光院という土佐の修験者のリーダーの管理下に置かれることになります。そして、四国の修験道のメッカとして機能していくようになるのです。これは以前にも述べたとおりです。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三「琴平町の山城」
町誌ことひら第1巻 中世の宗教と文化
参考文献