「正保国絵図」の讃岐版は生駒家が去った後に、幕府の求めに応じて松平藩の下で作成・提出されたものです。しかし、ここには香東川後の流路は示されていません。なぜか流路変更前のルートが記されています。今回は、香東川の治水について見ていこうと思います。テキストは、
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。

【図9】は、香東川の分岐周辺の写図です。この絵図では東の寺井村と西の川部郷の間の②で香東川が東西に分岐しています。現在の香川中央高校の西側の川部橋あたりとされているようです。
分流した川にはそれぞれ次のような注記があります。
①東側の流れについて、「一ノ宮川 広八間 深六寸 洪水時一町三十問 渡リナシ」、②西側の流れについて、「圓(円)座川」「川幅六間 深五寸 洪水ノ時広廿間 渡なし」
東側の河道には「香東川」との注記もあります。分かれた川は、それぞれの流域から一宮川と円座側と呼ばれていたようです。成合は、その二つの川に挟まれたエリアであったことが分かります。ちなみに、一の宮村にある「明神」は、現在の田村神社のようです。
【図10】は、香東川が分岐している状況を描いた所を「正保国絵図」の2つの版で示したものです。分岐点を見ると、どちらも円座と一宮の間になっています。先ほどの絵図を比べると、分岐点が「寺井ー川部」から「一宮ー円座」に変化しているようです。これをどう考えたらいいのでしょうか?
まずは定説を確認しておきましょう
香東川は寛永年間(1624ー44)、生駒家が讃岐一国の領主であったとき、東側の流れをせき止め、高松城下西部を流れるよう川筋を一本化したというのが定説です。その工事を行ったのが、生駒家の外戚であった伊賀・藤堂藩から家老級の扱いでやって来ていた西嶋八兵衛とされています。その根拠となるのは、次の2つの資料です
①寛政三年(1791)成立の地誌「大野録」に次のように記されていること。
香渡川は、寛永の頃まて大野の郷の西より二又にわかれて、一筋は一ノ宮・坂田郷をへて室山の東をめぐり、石清尾山の下を流て、いとがはまの西に入けり。
又一筋は弦打山の西に、そふて今のごとし。当(大野)村の中州といへるは、則両河の間なり、寛永中、自然の河瀬深くなりて、東は浅くなりけれは、国主生駒公より堤を築て、東の河筋を畑にひらかせたまひ、古河筋新開と号す。
意訳変換しておくと
香東川は、寛永の頃までは、大野郷の西で二つの流れに分かれて、一筋は一ノ宮・坂田郷をへて室山の東をめぐり、石清尾山の下を経て、いとがはまの西で海に流れ込んでいた。もう一筋は弦打山の西に沿って、今の流れと同じである。大野村の中州というのは、この二つの流れに挟まれたエリアになる。寛永年間中に、西側の河は深くなりて、東川の川筋は浅くなった。そこで生駒藩では、堤防を築いて、畑に開墾し「古河筋新開」と呼ぶようになった。
もうひとつの根拠は、大野村の中州附近から出土した「大禹謨」と刻まれた石碑の存在です。
これは自然石に刻まれたもので、今は栗林公園の商工奨励館の内庭に保存されています。中国古代の伝説の王で、治水に業績を上げた禹を祭る碑です。彼の治水事業の故事にちなんで、西嶋八兵衛が設置されたとされます。
その出土と再発見の時期や場所、経緯については、藤田勝重著の「西嶋八兵衛と栗林公園』に詳しく書かれています。要約しておきます。
藤田は、昭和37年、八兵衛の墓所のある三重県上野市を訪ね、同市立図書館に寄託された八兵衛の自筆文書を多数閲覧したこと。さらに当時、三重県文化財専門委員を勤めていた村治円次郎と面会し、大禹謨の刻文は八兵衛の真筆であるとの鑑定を得たこと。以上から、この碑文が西嶋八兵衛の自筆のものであり、香東川を一本化し、現在の河道に固定された記念碑として設置された
この絵図で白い部分が高松城です。そして、高松城を東西から囲むように流れている川が書き込まれています。私は、これを見て香東川が一本化される前の絵図と思っていました。しかし、説明には「天保国絵図」と書かれているのです。天保国絵図は、天保6年(1835)に幕府が、各藩に作成・提出を求めた国絵で、信頼性が高いとされます。これを見る限り、幕末になっても香東川は分流してながれていたことになります。本当に、香東川は一本化されていたのでしょうか。
天保国絵図の香東川分岐点を拡大して見ましょう。
分岐点は、最初に見た絵図と同じ寺井村と河辺村の間です。小田池からの用水路の合流地点でもあるようです。最初に見た正保国絵図とほとんど変わりありません。 ちなみに図中の、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示だそうです。


【図11】は、「高松平野地形分類図」より、香東川がかつて分岐していた川部と大野周辺を示したものです。
ここからは、香東川の旧河道のうち、時期の新しい旧河道Ⅱは東側に集中していることが分かります。東側の河道の川幅について「洪水時一町三十間」と記されているのは、洪水時に旧河道に水があふれ、それほどの川幅になることを示しているようです。大禹謨の最初の出土地は、大野・川部間の中州であったといいます。この附近に自然堤防を利用して南北方向に堤防を築き、東側の流れをせき止めたと研究者は考えているようです。せき止め後、東側の分流は御坊川として独立したとします。
しかし、この工事が西嶋八兵衛によって行われたかどうかは、私は判断を保留します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。





コメント