昔から気になる廃寺があります。まんのう町の尾背寺です。ここには、かつてはキャンプ場があり、若い頃は野外指導のために夏の間に何度も登っていました。そんな中で発掘調査が、1978・79年に行われ、その報告書も出されれています。それを読んでも、「中世山岳寺院のひとつ」ということくらいしか頭には残りませんでした。しかし、大川山中腹の中寺廃寺が発掘され、次のような事が見えてきました。
①讃岐の山岳寺院がネットワークとして結ばれていたこと②熊野行者をはじめ修験者たちが頻繁に訪れ、辺路修行を行っていたこと、③里の本寺の奥の院として、行場であり、学問所の機能を果たしていたこと
尾背寺が孤立的に存在していたのではなかったようです。そんな中で、町誌ことひらの史料編を眺めていると、大野原町・萩原寺の文書の中に尾背寺との関係がうかがえる史料があることを知りました。それらの資料で、尾背寺について分かることをまとめておこうと思います。
「尾ノ背寺跡の発掘調査書」には、発掘成果について次のようにまとめられています。
①寺の存続期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間と推定。②その中心は、瓦片が集中出土する現在の尾野瀬神社拝殿周辺である③拝殿裏には礎石が並んでいることから、ここが本堂跡の最有力地④神社すぐ下の通称「相撲取場」と呼ばれる平坦地も候補地⑤残存状態は良好で、礎石が点在する⑥尾野瀬神社の在る平坦地から、墓ノ丸までの一帯には平坦地や石垣が多数検出され、いくつもの坊があったことを実証づける⑦尾ノ背寺の寺域は広く、神社からさらに上方にも平坦地があり,「鐘撞堂」などの地名が残っている
調査で出土した遺物多くは、土師質の小四・杯のようです。
その土師器に特徴があるようです。出土した土師器は、地元の讃岐の元吉城ではない、外部から持ち込まれたものがあるようです。それは、底部の切り離しの際には、回転ヘラ切りが行われるのが一般的です。ところが小皿・杯 に各1点 づつ糸切りのものがあるようです。これは、在地のものではなく、讃岐以外の地から持ち込まれたものと研究者は考えているようです。修験者など、国を超えた移動が行われていたことがうかがえます。この時の調査では、仏具が出てきていないので、寺の性格については明らかにすることが出来なかったようです。
その土師器に特徴があるようです。出土した土師器は、地元の讃岐の元吉城ではない、外部から持ち込まれたものがあるようです。それは、底部の切り離しの際には、回転ヘラ切りが行われるのが一般的です。ところが小皿・杯 に各1点 づつ糸切りのものがあるようです。これは、在地のものではなく、讃岐以外の地から持ち込まれたものと研究者は考えているようです。修験者など、国を超えた移動が行われていたことがうかがえます。この時の調査では、仏具が出てきていないので、寺の性格については明らかにすることが出来なかったようです。
尾背寺跡出土 白磁四耳壷
次にこの寺の文献資料を見ておくことにします。
まず挙げられるのが『南海流浪記』(宝治二年(1248)十一月)です。これは高野山の学僧道範の讃岐流刑記録です。道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
南海流浪記 尾背寺・称名寺参拝の部分
その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をして、次のように記しています。
「同年十一月十七日、尾背寺参詣。此ノ寺ハ大師善通寺建立之時ノ柚山云々、本堂三間四面、本仏御作ノ薬師也、三間ノ御影堂・御影並二七祖又天台大師ノ影有之」
意訳変換しておくと
「尾背寺は、弘法大師が善通寺を建立したときの柚(そま)山であると云われる。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には七祖又天台大師の御影が祀られていた。
ここからは次のようなことが分かります。
①尾背寺には、善通寺創建の時の柚(そま)山として、建築用材を供給した山と伝えられていた。この時も、宥範の手で進められていた善通寺復興のための木材確保のためにやってきたのかもしれません。この寺が善通寺の柚(そま)山の「森林管理センター」や、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。
②本堂には弘法大師作とされる薬師如来が祀られていたようです。善通寺の本尊も薬師如来です。ここからは、熊野行者的な修験者たちによって両者が結びつけられていたことがうかがえます。
尾背寺で一泊した翌日、道範は帰路に小松荘の称名院を訪ねています。称名院は、現在の金刀比羅宮の神田の上にあったとされる寺院です。それを次のように記しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土教の寺。②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。
ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。これは、以前に四国霊場の弥谷寺に庵を構えていた高野の念仏聖の姿とよく似ています。彼らは、「念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰 + 修験者」の性格を併せ持った聖達でした。その影が称名院の僧侶達からもうかがえます。そしてこれらの寺院や庵は「善通寺 ー 称名寺 ー 尾背寺」と、修験者や高野聖たち行者のネットワークで結びつけられていたことがうかがえます。
尾背寺跡地形図
江戸時代に金毘羅金光院に仕えた修験寺院多聞院の〔古老伝旧記〕には、次のように記されています。
「尾野瀬寺之事 讃州那珂郡七ヶ村之内 本目村上之山 如意山金勝院 尾野瀬寺 右寺領新目村 本目村一 本堂 七間四面一、諸堂数々 一、仁王門 一、鐘楼堂 一、寺跡数々 一、南之尾立に墓所数々有一、呑水之由名水二ヶ所有(後略)」
意訳変換しておくと
「尾野瀬(尾背)寺について この寺は讃州那珂郡七ヶ村、本目村上之山にあり如意山金勝院と号する。 尾背寺の寺領は新目村 本目村で一 本堂 七間四面一、諸堂数々 一、仁王門 一、鐘楼堂 一、寺跡数々 一、南の尾根に墓所が多数ある一、呑水之由名水二ヶ所有(後略)」
ここには、かつての尾背寺は、新目・本目を寺領としていたこと。本堂が七間四面あったと、山伏らしい法螺(?)が記されます。さらに本堂以外にも、数々の緒堂や山門があり、坊跡も残る寺院があったことが記されています。江戸時代になっても、かつての尾背寺の繁栄ぶりが伝わっていたことがうかがえます。
ちなみにこの文書を残した多門院は、初代金光院院主とされる宥盛が土佐の修験道の有力な指導者を迎えて、設立した院房です。全国にネットワークを持つ金比羅行者の養成・指導機関として、機能するとともに、金比羅の街の警察・行政機関の役割も果たしていました。多門院には、阿波の箸蔵寺などを拠点とする修験者たちを始め、全国の修験者たち(天狗)が出入りしていたようです。そのために修験道者の交流・情報交換センターでもあったと私は考えています。
大正七年(1918)刊の『仲多度郡史』に「廃寺 尾背寺」として、次のように記されています。
「今の尾瀬神社は、元尾脊蔵王大権現と称し、この寺の鎮守なりしを再興せるなり、今も大門、鐘突堂、金ノ音川、地蔵堂、墓野丸などの小地名の残れるを見れば大寺たりしを知るべし」
昭和十三年(1938)刊の『香川県神社誌』もそれを受けて
「古くは尾脊蔵王大権現と称えられ、両部習合七堂伽藍にて甚だ荘厳なりしが、天正七年兵火に罹り悉く焼失。慶長十四年三月、その跡に小祠を建てて再興(中略)明治元年 脊を瀬に改め尾瀬神社と奉称」
と記されています。
ここにはもともとは「尾脊蔵王大権現」と称し、神仏混淆の「蔵王大権現」が祀られていたとします。「蔵王権現」は、修験者の信仰対象です。ここにあった尾背寺は「山伏寺」と認識されていたことが分かります。萩原寺所蔵の聖教類では、真言宗本来の教学修法の下にあったとされますが、山伏集団の拠点であったようです。それが長宗我部元親の侵攻で兵火に会い焼失したというのです。
以上、文献史料や発掘調査から分かることをまとめたおきます
①鎌倉時代から戦国時代にかけて、尾背寺と呼ばれる山岳寺院が存在した。②現在の尾背神社の拝殿辺りに本堂があったようで、本尊は薬師如来であった。③尾背蔵王権現と呼ばれ、山岳修験者たちの修行地でもあった。④善通寺の奥の院として、杣山の管理センター的な役割も果たしていた。⑤寺域には、多くの院坊跡がみられ多くの修験者たちがいたことがうかがえる
町誌ことひらは、尾背寺に関する新たな文書を史料編の中で紹介しています。それは、観音寺市大野原町の萩原寺に伝えられる文書です。それを次に見ていきましょう。
萩原寺地蔵院の「地鎮鎮壇法」には、文保元年(1317)尾背寺下坊で書写したと記されます。
御本云、寛喜二(1230)年四月廿二日、於北白川博授了、道範文賓治二年戟四月廿四日、於善通寺相博御本、同三年二月六日書篤畢、賞弘 抑賜御本而同年十月廿日、癸巳、左衛門少尉紀範忠氏寺筑佐堂之鎮壇修之、重験不思議也、是偏御本無誤之故也、不能委注耳、賞弘在判 文保元(1317)年目十一月十二月、於尾背寺下坊書篤了、(東京大学史料編纂所架蔵「史料蒐/集目録』二五七、香川県萩原寺)
この聖教は寛喜二年(1230)四月、道範が北白川で受法します。その後、道範は寛元元年(1243)讃岐へ配流されますが、その5年後の宝治二年(1248)四月に、善通寺でこの法を実弘に伝えたようです。翌三年二月に、実弘は自分用に、もう一度書写しています。その転写を行ったのが尾背寺下坊で文保元年(1317)のことです。配流の身の道範が伝えた聖教が、尾背寺下房で書写され、それが大野原の萩原寺の聖教として保管されていたことになります。
ここからは次のようなことが分かります。
①道範がいくつかの聖教を善通寺に伝えたこと②その一部は、伝来され尾背寺で書写されていること。③尾背寺には「下房」があったこと。④「善通寺 ー 尾背寺 ー 萩原寺」という高野山系僧侶のネットワークがあったこと
四 〔授法最略作法〕
正平十二年後七月十二日、以相承之本書加道叡法印了、御判(聖尊)右、以師主遍智院宮三品親王(聖尊)、御自筆之本書篤之了、 道興右、以此本奉授与照海大徳即以了、應安四(1371)年十月十八日道興(花押)
ここには三品親王聖尊自筆の本を、醍醐宸尊院道興が写して応安四年(1237)十月に、尾背寺の照海に与えたことが書かれています。萩原寺の中興真恵も、聖尊・道興から高野山宏範を経てこの法を受けています。尾背寺の照海も、また聖尊と道興の法を受けています。ここからは、萩原寺と尾背寺の院主は「兄弟弟子」の関係にあったことが分かります。法流の面でも、人脈の面でも二つのお寺は親密であったことがうかがえます。
〔真成授真尊印信〕
護摩口決(中略)明徳三年正月五日、 令書篤畢、照海應永九年八月廿二日、於讃州尾背寺遍照院、書篤畢、成紹應永廿一年八月五日、書篤畢、真成康正三年二月廿七日、書篤畢、真尊
ここからは〔真成授真尊印信〕の「護摩口決」が先ほど出てきた照海から成紹に伝わり、真成・真尊と書写され受け継がれていることが分かります。そして、成紹の書写は「讃州尾背寺遍照院」で行われたとあります。下房以外にも、「遍照院」もあったようです。
成紹授真恵印信 尾背寺金勝院で書写されたことが記されている
「成紹授真恵印信」は、尾背寺の照海の後継者成紹が真恵に授けた印信が七通集められています。
塔印 口決在之明 (梵字)右於讃州尾背寺金勝院道場、授於大法師真恵畢、應永十二年 二月十六日博授阿閣梨位成紹
ここからは足しかけ3年にわたって、さまざまな法流が成紹から真恵に授けられたことが分かります。それが行われたのが「讃州尾背寺金勝院道場」です。金勝院という院房もあったことがわかります。
以上から次のようなことが分かります。
①中世の尾背寺は萩原寺と同門で、密接な関係があったこと②尾背寺では、いくつもの院房があり、そこで活発な書写活動が行われていた。
それでは、尾背寺はどうして衰退したのでしょうか。
讃岐の寺院は、土佐の長宗我部元親の侵攻により兵火に会い、衰退したと由緒に書いている所が多いようです。これは、江戸時代後半になって郷土意識が高まるとともに、讃岐を「征服」した長宗我部元親に対する反発が強くなり、いろいろな書物が「反長宗我部元親」を展開するようになったこともあるようです。
尾背寺の衰退には、当時台頭してきた新興勢力の金毘羅大権現の別当金光院との対立があったようです。
先ほど見た『古老伝旧記』には、尾背寺と金毘羅金光院の間の争いがあったことが記されています。当時の金光院院主は宥盛でした。宥盛は、新興勢力の金毘羅神が発展していくために旧勢力との抗争を展開していきます。
金比羅堂を創建した長尾家出身の宥雅は、長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命ていました。その後、元親が院主に据えた宥厳が亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、後を継いだ宥盛を藩主の生駒家藩主に訴えています。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束していた金を送らない②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾背寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。このようなお山の「権力闘争」を経て、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位を確立させていったのが宥盛です。
宥盛は、すぐれた修験僧(山伏)でもあったようです。
金剛坊と呼ばれて多くの弟子を育てました。その結果、金毘羅山周辺には多くの修験の道場が出来て、その大部分は幕末まで活躍を続けます。彼自身も奥社の断崖や葵の滝、五岳山などをホームゲレンデにして、厳しい行を行っています。同時に「修験道=天狗信仰」を広め、象頭山を一大聖地にしようとした節も見られます。つまり、修験道の先達として、指導力も教育力も持った山伏でもあったのです。
彼の弟子には、多聞院初代の宥惺・神護院初代宥泉・万福院初代覚盛房・普門院初代寛快房などがいました。これを見ると、当時の琴平のお山は山伏が実権を握っていたことがよく分かります。
特に、土佐の片岡家出身の熊之助を教育して宥哩の名を与え、新たに多聞院を開かせ院主としたことは、後世に大きな影響を残します。多門院は、金光院の政教両面を補佐する一方、琴平の町衆の支配を担うよう機能を果たすようになって行きます。
宥盛は、真言密教の学問僧というばかりでなく、山伏の先達としてカリスマ性や闘争心、教育力を併せ持ち、生まれたばかりの金毘羅大権現が成長していける道筋をつけた人物と言えるでしょう。
同時に、同門の善通寺とは対立し、その末寺的な存在であった称名寺や尾背寺に対して、攻撃を展開したことがうかがえます。その結果、 尾背寺の大師御影は金光院の所有となり、真如親王の御影も金光院御影堂に収められたと『古老伝旧記』には記されます。以前に現在の松尾寺に伝わる弘法大師座像は、「善福寺」にあったものを金光院の宥盛が手にして、金毘羅大権現に祀られていたものであったことは以前にお話ししました。坐像の中から宥盛自筆の祈願文が出てきました。宥盛の山伏としての辣腕ぶりがうかがえます。
ちなみに彼は金毘羅神の創建者として、今は神として祀られています。明治になって彼に送られた神号は厳魂彦命(いずたまひこのみこと)です。そして、かれが修行した岩場に「厳魂神社」が造営され、ここに神として祀られたのです。それが現在の奥社です。
近世はじめまで山岳寺院として繁栄してきた尾背寺は、戦国時代に衰退するとともに、江戸時代になると金毘羅大権現との抗争で廃寺となったようです。そして、その跡に明治になって尾野瀬神社が建立さるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町誌ことひら 古代・中世史料編 268P
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