今から130年前の明治20年代には、コレラ・赤痢・天然痘・再帰熱・腸チフスなどが香川県でも大流行していたようです。明治20年代前半は、凶作、米価の暴騰が続き、その日の生活に飢える貧窮民が多数生まれました。それに追い打ちを掛けたのが、感染症です。当時の香川県の様子を見ていこうと思います。テキストは香川県史 近代2 明治前期の衛生 427Pです
この表からは次のようなことが分かります。
①1890(明治23)年と1895(明治28)年の2度にわたってコレラが大流行した②その死亡率は6割を超えている
一回目のピークである1890年(明治22)では、約2000人の患者がでて、その内の7割が亡くなっています。この年は、7月中旬から流行の兆しが見え、10月に発生数が最大に達し、12月初旬に終息したようです。2度目のピークは、1898年(明治28)です。この年は、日清戦争が終わり、大陸から多くの兵士達が帰還してきます。それに伴って、患者が増えたようです。この時には香川県の患者総数は約2300人で、その内の約1500人が亡くなっています。
下の表は、1890(明治23年)のコレラ流行の際に高松避病院に入院したコレラ患者の年齢別内訳です。
これを見ると、コレラ患者の死亡率は、年齢と共に高まっています。40歳を越えると、 コレラにかかることは死を意味したようです。当時の人々が、 コレラを「コロリ」と呼んで、何よりも恐れた理由が分かるような気がしてきます。この時のコレラは、山田香川郡で多発し、海岸、河川に近い個所から広がっています。
下の表は、1890(明治23年)のコレラ流行の際に高松避病院に入院したコレラ患者の年齢別内訳です。
これを見ると、コレラ患者の死亡率は、年齢と共に高まっています。40歳を越えると、 コレラにかかることは死を意味したようです。当時の人々が、 コレラを「コロリ」と呼んで、何よりも恐れた理由が分かるような気がしてきます。この時のコレラは、山田香川郡で多発し、海岸、河川に近い個所から広がっています。
赤痢も大流行したのが、下の表から分かります。
日清戦争の開戦時の1894(明治27)年には7000人を越える患者が出ています。以後は減少しますが患者発生は続きます。私が驚いたのは赤痢の死亡率の高さです。赤痢は感染しても、死に至ることはないものと思っていました。しかし、それは抗生物質が作り出されて以後の話のようです。それ以前には赤痢も30%を越える死亡率だったことが分かります。
先ほど見たように、コレラは1895(明治28)年に第2のピークを迎えていました。加えて赤痢の流行です。明治20年代後半の香川県は、疫病に襲われ続けていたことが分かります。次に腸チフスを表27で見てみましょう。
腸チフスのピークは、明治22年、24・25年、28・29年の3回のようです。24年の発生は那珂郡、多度郡に多く見られ、6月には毎日30名から80名の発生が記録されています。日清戦争終了後の明治28年の流行の多発地は、小豆、鵜足、高松、多度などの96か村から出ています。瀬戸内海に面する地域から発生者が出て、周辺に拡大していく様子がうかがえます。このときの死亡率は、約18%程度になります。死亡率は低いようです。
この他にも天然痘があります。
明治30年で総計した数字として患者総数249名、死者61名という記録が残っています。これを見ると、天然痘患者の発病数は他の伝染病に比べると少ないようです。また死亡率は約18%以下で推移しています。これは、天然痘対策が当時としては一番進んでいたことが背景にあるようです。
明治30年で総計した数字として患者総数249名、死者61名という記録が残っています。これを見ると、天然痘患者の発病数は他の伝染病に比べると少ないようです。また死亡率は約18%以下で推移しています。これは、天然痘対策が当時としては一番進んでいたことが背景にあるようです。
1891(明治24)年6月月に香川県は、衛生組合規定を定めて、種痘を徹底して行う事を明記しています。そういう中で1893(明治26)年に、大阪と兵庫で天然痘流行の兆しが見えると、いち早く25歳以下の未種痘者約16万人に種痘を行っています。また、天然痘が発生した村には、その村の住民全員への種痘を義務づけています。このような対策が天然痘の拡散を防ぐとこにつながっていきます。そして、その他の感染病も天然痘対策を教訓に整備されていきます。
最後に「再帰熱」を見ておきましょう。これは回帰熱とも呼ばれたようですが耳慣れない病名です。
ウキを見ると次のようにあります。
回帰熱(かいきねつ、relapsing fever)は、シラミまたはダニによって媒介されるスピロヘータの一種ボレリア Borrelia を病原体とする感染症の一種。発熱期と無熱期を数回繰り返すことからこの名がつけられた。
「発熱期と無熱期を数回繰り返す」ために熱が引くと「治った」と勘違いして、放置して感染が拡大する厄介な病気のようです
回帰熱は、香川県では1896(明治29)年に始めて患者が出ます。
この病気の発生推移を、発生当初から詳しく追った表が県史近代434Pに載せられています。
①温かくなりシラミやダニが活発に動き出す5月に患者が急速に増え始めます。②6月末になると急速に患者が増え始め、ピークに達します。③死亡率も6月になると10%を越えます④11月初旬までに総数4179人の患者を出し、その内の497人が死亡しています。
明治23年8月19日付の『香川新報』には、「衛生と実業との関係」と題する社説には、「労働者、無産者の疾病・伝染病などの衛生問題は、工場生産の効率に悪影響を及ぼす」と、生産性の面からの衛生対策の必要性を論じています。こうした時代背景もあって、帝国憲法が発布された1889(明治22)年ごろから、窮民医療を志す民間病院が県下にも創設されはじめます。
1889年1月 真言宗青年伝燈会が慈恵病院1891年2月 丸亀衛戊病院の軍医と看護人が丸亀博愛病院を設立
この2つは、どちらも窮民施療を設立の主旨としている病院です。
また衛生組合規定が出来てからは、各地で衛生談話会が開かれるようになります。そこでは伝染病予防、伝染病心得、清潔法などの講話や幻灯会が、小学校や神社、寺院、芝居小屋など、庶民に身近な場所で行われるようになります。この談話会の講演者は、警察署長や医師、県の検疫委員が務めています。


コレラ病予防法
内務卿・大久保利通が通達した明治10年の「虎列刺病豫防(よぼう)心得書」は、石炭酸(フェノール)による消毒や便所・下水溝の清掃などの予防対策が載せられています。また第13条では、「『虎列刺(コレラ)』病者アル家族」で看護に当たる者以外は、他家に避難させて「妄(みだ)リニ往来」することを許さずとあります。
内務卿・大久保利通が通達した明治10年の「虎列刺病豫防(よぼう)心得書」は、石炭酸(フェノール)による消毒や便所・下水溝の清掃などの予防対策が載せられています。また第13条では、「『虎列刺(コレラ)』病者アル家族」で看護に当たる者以外は、他家に避難させて「妄(みだ)リニ往来」することを許さずとあります。
「伝染病は公衆衛生の母である」といわれます。日本ではコレラ流行によって衛生観念が一気に高まったことがうかがえます。幕末・明治前期の人々は、風聞(フェイクニュース)に惑わされながらも、身辺を清めて換気をし、外出を控えるなどの努力をしています。そして、流行が過ぎ去るまで耐え忍ぶしかなかったのです。
県や高松市は、明治20代にいろいろな伝達を出しています。
それは、コレラ・腸チフス・天然痘などの予防と、清潔法、消毒に関するものが多いようです。また、コレラの拡大に対しては、交通遮断など、ロックダウン的な措置もとっています。これは、日清戦争の帰還兵がもたらす伝染病の拡大防止という視点以外に、兵士への病気感染を未然に防ぐという思惑も見えます。

それは、コレラ・腸チフス・天然痘などの予防と、清潔法、消毒に関するものが多いようです。また、コレラの拡大に対しては、交通遮断など、ロックダウン的な措置もとっています。これは、日清戦争の帰還兵がもたらす伝染病の拡大防止という視点以外に、兵士への病気感染を未然に防ぐという思惑も見えます。

伝染病の感染者に対して、各市町村に隔離病院が設けられます。
しかし、この時期の隔離病院は名ばかりで、廃屋に等しい個人の家を借り受け、看守人を置いただけで隔離を重点としたものでした。中には、蚕を飼うような家が、隔離所になった例もあるようです。さらに、設置に際しては、近隣から苦情も出ます。県市町村は、隔離所の民家探しや場所の選定に苦慮したようです。そのため設置場所として、山林に近いところやスラム地区が選ばれたことが新聞には報道されています。しかも、医者の十分な回診態勢はありません。
患者が発生すると、その家族や近隣地域に消毒がが行われた。そこにやって来て、検疫にあたる警察官の態度は、患者をあたかも悪魔でも扱うような有様であった、と記されています。


丸亀市亀水町の「コレラ地蔵」
垂水町の土器川生物公園の駐車場横には、小さな墓地があります。その入口に鎮座するのがこのお地蔵さんです。顔立ちが長く、私の第一印象は「ウルトラマンに似とる」でした。ニコニコしながら近づいてみると説明版には次のように書かれていました。
開国の産物として、幕末から明治に掛けてから何度もコレラが大流行します。1879(明治12)年には全国で10万人以上の方が亡くなりました。そのコレラの波は20世紀になるまで何度も押し寄せ、多くの人々の命を奪っていったようです。
亡くなった人々を供養するともに、生き延びたことへの感謝の念もあったのかもしれません。この地蔵様のお顔からは慈悲と悲しみといとおしさが感じられます。合掌

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 香川県史 近代2 明治前期の衛生 427P









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