瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:東かがわ市の歴史 > 引田

 
正保元年(1644)に幕府は、各藩に「正保国絵図」の制作を命じます。慶安初年1648)にかけて国絵図が、国毎に作られ幕府に提出されます。ちなみに讃岐国の担当大名は、松平讃岐守頼重でした。
 この時期の讃岐国は、寛永17年(1640)に生駒高俊が封地の讃岐国を収公され、翌18年に西讃岐五万石の領主として山崎家治が、翌19年に松平頼重が讃岐高松12万石の領主として移封を命じられています。生駒藩一国体制から、高松藩と丸亀藩の二藩体制への移行期でした。山崎藩・藩主家治は、九亀城を居城として、廃城となっていた丸亀城の修築を始めます。つまり正保国絵図には、生駒家が讃岐一国の領主であった時期の讃岐国開発の最終的な姿が、描かれていると研究者は考えているようです。
 それでは引田はどう描かれているのでしょうか。
まずは「正保国絵図」(国立公文書館)の大内郡の様子を見てみましょう。
引田 大内郡 正保国絵図
①古城山(引田城跡)の背後の入江には引田濱があります。
②馬宿川の河口と、馬宿村には舟番所が置かれています。
③遠見新番所も、後から設置されたようです。
④高松・阿波街道が引田濱を通過しており、西に向かうと大坂峠を経て阿波へ
⑤東には白鳥を経て、高松へ
⑥引田濱の注記には次のように記されています。
「是より庵治へ七里二十三町 磯より沖の舟路まで十七町 西北風に船掛かりよし
ここからは引田浦が後背地や街道に面して、交易湊として栄える地理的な条件を持っていたことがうかがえます。何より、海に開けた港があり、讃岐では最も大坂に近い所だったのです。生駒氏が讃岐にやって来たときに、最初の城を構えようとしたのも納得がいきます。生駒氏の引田城造営については、以前にもお話ししましたので、今回は別の視点から引田城下を見ていくことにします。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
 絵図をもう少し拡大して見ましょう。
「正保国絵図」の引田城跡の周辺部の拡大図です。
引田 小海川流路変更

この絵図から読み取れることを挙げておきます。
①中央左手に「古城山」と記入されている山が引田城跡。
②右上から流下している小海川が「古城山」の西側を流れ海に流れ込んでいる
③その河口西側に安戸池がある
④引田濱を高松・阿波街道が通過している
⑤高松街道の小海川には橋が架かっている
⑥橋の東側の高松街道沿いに●が2つついている。これが一里塚の印であった。
下図は、約200年後の「天保国絵図 讃岐国」の大内郡のエリアを切り取ったものです。
引田 大内郡 天保国絵図

天保国絵図は、幕府の命により作られた最後の国絵図になるようです。完成は天保9年(1838)とされるので、さきほどの正保国絵図の約二百年後の引田が描かれていることになります。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に閲覧可能です。

  画面を引田にズームアップしていきます。
引田 大内郡 天保国絵図拡大

まず気づくのは、①小海川の流路の変化です。正保国絵図では、古城山の西麓を通り、安戸池の西側で海へ注いでいました。ところが、天保国絵図では、小海川は、古城山の東麓を流れて海に注いでいます。安戸池側には流れていません。現在の河道と同じです。
 また、旧河道跡には⑤「塩濱」(塩浜)と記されています。「正保国絵図」後に、小海川の河道は変更されていることが分かります。つまり、江戸時代に小海川の川筋は付け替えられたのです。
その付け替えが行われたのは、いつのことなのでしょうか。
その資料として研究者は、ほぼ同じ時期に描かれたとされる2つの絵図を比較します。

引田 小海川流路変更2
①共通するのは、引田城(城山)と誉田八幡が鎮座する宮山と引田浦の間は海として描かれている②右の「高松国絵図」では、小海川の河道は宮山の西側を通り「安穏池」(安戸池)は、川の一部として描かれています。つまり、小海川の河道は安戸池側にあったことを示しています。ここからは、この二つの絵図が書かれた時には、小海川は安戸池側に流れていたことが分かります。

【図5】は引田の「地理的環境説明図」(木下晴一氏の作成)です。
引田の地理的環境

流路変更前の小海川の河道を、上図でたどってみましょう。
①小海川は、内陸部の条里型地割と山地のエリアでは、真っ直ぐに北へ流れてきます。
②それが潟湖跡地にはいると蛇行し、
③海岸部の砂嘴・浜堤に沿って両方へ流れを変え、
④誉田八幡の南部を経て、城山西麓(安戸池)海へ注いでいた。
その復元図を見てみましょう。
HPTIMAGE.jpg引田

【天保国絵図】にあった塩浜は、城山西麓のかつての干潟に当たるようです。
【図4】のふたつの絵図では、城山と宮山との間は海で隔たれていました。そして、城山と誉田八幡との間もかつての潟で、満潮時には海水が流入していたようです。この場所は、一番最初に見た「正保国絵図」では陸続きとして描かれていたので、それまでに埋積されたのでしょう。
引田城下町復元図
それでは、小海川の付け替えの目的は、どこにあったのでしょうか
① 小海川の現在の河道は、古川に向かって低くなる方向には流れず、最も高いところを流れている。
②これは河道を入為的に固定していることを示す。
③北側の丘陵の裾部に沿って直線状に流れ、砂嘴と西から延びる舌状の丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいる。
④狭い部分から下流の河道左岸側には高さは低いが幅広の堤防が築かれている。
以上のように、小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に海に排水することを目指したもので、小海川のルート変更を行う事で、砂嘴上にある引田の水害防止策がとられたと研究者は考えているようです。
1引田城3


その時期は現在の所は、正保国絵図が作成された後から、天保国絵図の作成までの200年間の間としかいえないようです。生駒時代に行われたものではないようです。
5引田unnamed (1)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)


5c引田

引田の中世の賑わいぶりや近世の引田城には、これまでも何回かお話ししてきました。今回は、引田の城下町について書かれた論文を見ていきたいと思います。テキストは「木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討 香川県埋蔵物文化材調査センター紀要Ⅶ  1999年」です。

5引田3
近世城下町の特徴について、研究者は次のようなポイントを挙げます。
①兵農分離と商農分離が進められ、城・重臣屋敷・一般武家屋敷・足軽屋敷・寺社・商人町・職人町が綿密な都市計画(町割)によって配置されている。
②同業者を集住させるため「鍛冶町」「大工町」といった町名がある。
③防御要地や城郭弱点に寺町が「要塞」として配置される
④街路幅が狭く、T字路・カギ型・喰違や袋小路がある。
⑤城下町全体を堀や上塁などによって囲む。
⑥京都の町割をまねて、碁盤日状の整然とした町割を形成
⑦長方形の街区が街路に面して並び、奥行の深い短冊形の町屋敷が続く
⑧街路両面に町屋敷が一体となって町を構成する両側町の形態をとる
以上の8点が指摘されています。 
これらの特徴が引田城に見られるのでしょうか。各項目をチェックしていきましょう。
⑦の町割・屋敷割りを、まず見てみましょう。

5hiketaHPTIMAGE

 砂嘴の上に立地していますので少し湾曲していますが、長方形の街区が積み重ねられた構造です。敷地は街路に面する間口が狭く奥行の深い短冊形の屋敷割になっています。長方形街区の長辺の方向は一定ではありませんが、全体としては計画的な町割となっています。ここからは、誉田八幡官付近から南方の足谷川付近までの町割は、同時期に普請されたと研究者は考えているようです。

1引田城下町4
②の町名を見てみましょう。
 引田の街は現在は「引田町引田○○番地」で登記されていますが、「松の下」などの町名が残っているところもあります。それを、住宅地図などから挙げると
「松の下」「魚の棚」「久太郎町」「大工町」「草木町」
「北後町」「南後町」「北中の丁」「南中の丁」「寺町」
「大道一~四丁目」「本町一~五丁目「本町六丁目浜」
「本町六丁目岡」「本町七丁目」

などがあります。このうち「大工町」は各地の城下町に見られる職人町名です。また南北の「中の丁」のみ「町」ではなく「丁」の字を使っています。生駒親正によって建設された高松城下や九亀城下では,侍屋敷を一番丁、二番丁と呼んでいます。全国的にも武家町が「丁」、町人町が「町」を用いていた例があるようです。引田町も「丁」は武家町であった可能性があります。
 「中の丁」には近世に大庄屋であった日下家があり、他地域に比べると屋敷面積が広いようです。重臣たちの住居エリアであったことがうかがえます。
第7図は、研究者が地域の人たちからの聞取調査で作成した「町」の範囲のようです。「松の下」と「魚の棚」がひとつになって「松魚」と呼ばれたりして正確でない所もあるようですが⑧の両側町のスタイルであることが見て取れます。

1引田城下町5

③の寺町については、積善坊・善覚寺・高生寺の三寺が一列に並び「寺町」を形成します。
第9図で見ると、寺町の位置は、高松からの讃岐街道が引田の街に入る入口付近になります。
寺社が要地や城郭の弱点と思われる場所に複数まとまって配置
という寺町の規定に当てはまる要衝になる場所です。この3つの寺院の沿革についてはっきりしたことは分からないようです。しかし、三寺はすべて真言宗の寺院です。生駒親正は、讃岐に入部するにあたり讃岐が弘法大師生誕の地であることから真言宗に改宗したことが知られています。真言宗派による国内統治策の一貫だったのかもしれません。
また、誉田八幡宮の南には別当寺で真言宗の城林寺がありました。
 しかし、明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。この寺の唐破風造りの玄関が寺町の積善坊に移築されています。その差物上部には生駒家家紋の「生駒車(波引車文)」の彫物があります。この家紋は『讃羽綴遺録」よると文禄・慶長の役以降に生駒家が使っていたものです。誉田八幡宮別当寺の城林寺は、生駒家ゆかりの寺であったことがうかがえます。
次は④の「街路幅が狭く,街路をT字路・カギ型・喰違いにしたり袋小路にしたりしている」です。
敵の進入路と第1に考えられるのは街道筋です。引田城の場合は、
A 高松側や阿波側から街道筋を通り
B 御幸橋で小海川を渡り
C 引田城へ
というルートになります。
第9図A地点を見ると、それに備えて二つのT字路が造られていのが見て取れます。また道幅は狭く、十字路の多くは筋違いになっているため周囲の眺望がききません。砂嘴が湾曲していることもあって見通しが効かず、よそ者は道に迷いやすい街並みです。これらは城下町として、生駒氏が意図的に造りだした可能性が高いと研究者は考えているようです。


1引田城下町3

  砂嘴を開削した小海川河口部は、次のような点から内堀としての性格をもつと考えられます。
①誉田八幡神社の南側が城主の居宅や上級家臣の居住区である可能性が高い
②河川は砂嘴を横切っており、砂嘴を最短距離で開削していない。これは両岸の町割の方向と合致する
つまり、砂嘴を通した小海川が内堀で、その北側が重臣たちの居住区エリアであり、そこに港もあったということになります。そして、城下町の建設と流路変更は同時期に行われた可能性を指摘します。

第8図は「沖代」の地籍図の部分です

1引田城下町6

ここには周囲の地割とは異なる細長い地割が積み木のように重なっています。これは何を意味するのでしょうか?研究者は

「周囲の水路とは異質な幅広の堀状の水路が存在」

を読取り、これを「堀の痕跡」であると推察します。堀状の地割の方向は、城下町の地割の方向と一致します。そして、南側の条里型地割や潟湖跡地の水田地割とは不連続です。このことも城下町外側の堀の痕跡説を補強します。
 城下町南端を区切るように足谷川という小河川が流れています。
 この流れも一部丘陵を開削開削した人工河川だと研究者は指摘します。足谷川の河道はもとは第2図Cの位置であったと推定され,第8図の細長い地割がその痕跡と云うのです。そうであれば小海川や古川の流路固定と同時期に足谷川も流路が変更・固定され、周辺の水田開発が進行ます。そして、その後に現在の流路に付け替えられたことが地割の前後関係から推察されるようです。足谷川は、城下町建設以後に流路変更が行われたことになります。

5hiketaHPTIMAGE
   以上から引田城の囲郭ラインは次のようになります。
①東は瀬戸内海
②北と西は砂嘴背後の低湿地という自然地形を利用し,
③砂嘴を開削した小海川河口部が内堀
で総構えの構造となっていたと推定できます。このような構造は戦国末・織豊期の特徴です。
 引田の街は城下町としての性格を持っていることが分かります。

1引田城下町7

                 
10図は現在の小海川の流路南側の10cm等高線図です。これは各水田の標高をもとに作られたもので微起伏が等高線で示されています。小海川は左から右へ流れています。ここからは、次のようなことが読み取れます。
①現在の小海川は古川に向かって流れてる
②しかし、低い所に向かって流れるのではなく、一番高いところを通過している
 これは何を意味するのでしょうか。
もちろん、天井川となって周囲に土砂が堆積して標高が高くなっているということもあるでしょう。しかし、これは河道が人の手によって作られ固定されたことを示していると研究者は考えています。
 もう一度確認すると現在の流れは、北側の丘陵の裾に沿って直線状に流れ、砂嘴と西からの丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいるのです。一番狭くなっている所から下流の河道左岸には、幅広の堤防が築かれています。このような小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に排水することを目指したものと推察できます。

 小海川の旧河道であった安戸・松原には明治末年まで塩田が拡がっていました。
5引田3

白鳥町の教蓮寺の享保11(1726)年の教蓮寺縁起には,天正15(1587)年に生駒親正が旧任地の播州赤穂郡の人たち数十人を白鳥松原に移住させ、製塩を始めたことが記されています。また寛永19(1642)年の「讃岐国高松領小物成帳」には松原・安戸に塩222石3斗が課せられています。ここからはこの地域で製塩が行われていたことが分かります。引田に近い阿波国撫養でも天正13(1585)年に、播州龍野から阿波に転封された蜂須賀家政が,播州荒井から2人の製塩技術者を招き塩田開田を始めています。近世初頭の瀬戸内海沿岸の大名にとって製塩は、最重要の殖産事業でした。
引田町歴史民俗資料館に「旧安堵浦及浜絵図」が保管されています。
1引田城下町8

これは引田塩政所(庄屋)であった菊池家が所蔵していたもので「天明八年」(1788年)の記載から18世紀後半以降の安堵(戸)浦の塩田が描かれています。絵図中央に「大川」という(旧)河川が右から左へ流れ、左の河口部には塩田を守るために石垣堰堤が築かれています。
そして(旧)と括弧書きにしてあります。これが小海川の旧河道である大川の当時の姿のようです。大川は締め切られて現在の小海川と連続していなかったことが分かります。  川のひとつの流れは誉田八幡と引田城の間から引田港へ抜け、河口部は「江の口」と記されています。
1引田城下町9

写真6は、河口付近を拡大したものです
大川の河口部沿岸は堤が築かれ、各所に石水門やユルが描かれています。満潮時に大川を上がってくる塩水を引き入れる入浜系塩田が開かれていたことが分かります。引田の塩田開発当初の状況がうかがえます。ここからは、小海川の流路を変更することによって、淡水の流入や洪水による被害を防止し、本格的な塩田開発が行われたことがうかがえます。小海川のルート変更は、
①引田城の防衛ラインである内堀
②引田城下町の洪水対策
③旧河口(大川)の安堵への本格的製塩の殖産
という「一挙三得」を実現したものだったようです。
5引田unnamed (1)


以上のように,引田城下町は小海川のルート変更とともに備された可能性が高いと研究者は考えます。
 生駒親正は引田に入部した翌年に、高松城の築城を開始します。しかし、引田城がこの時に1年未満で完成したとは云えないようです。生駒親正が本格的に高松城の築城を始めるのは、発掘調査の瓦の出土量などから関ヶ原以後であることが分かってきました。それ以前の政治情勢を考えると
①秀吉生存中は、朝鮮出兵で多額の戦費が係り、藩主も不在であったこと
②天正年間では大名たちの国替えが頻繁に行われ、腰を落ち着けての国作りや城作りに着手していないこと
というこたが指摘されます。慶長2(1597)には、支城として丸亀城を築き、嫡子・一正に守らせています。高松城だけでなく支城を築き一門を配しています。引田城も同様の性格があったようですが、ここに本格的な城が築かれるのも関ヶ原以後のことになるようです。
白鳥町の与田神社の『若一王子大権現縁起』は享保年の記載があることから18世紀以降のものとされますが、ここにはつぎのようなことが記されています
「 銀杏樹在 寒川郡奥山長野。因国君生駒讃岐守俊正公弟,
生駒甚助某受 封於大内郡而居引田与治山城
慶長十九年 応大坂召予兵而往拠城 明年元和元年夏五月七日城陥。於是甚助逃帰而匿奥山
俊正公属関東 故尋求執而誅之 葬諸銀杏樹下
意訳すると
銀杏の木が寒川郡の奥山長野にある。讃岐国藩主生駒俊政の弟・生駒勘助は、大内郡引田与治山城を治めていたが、慶長十九年の大坂の陣に豊臣方を支援し、大阪城に参陣するも破れ、明年元和元年夏五月七日に大阪城が陥落すると讃岐に逃げ帰り、引田の奥の山に逃げ隠れた。藩主俊正は関東の家康方についたので、弟での勘助を探索し捕らえ誅殺した。そして銀杏樹下に葬った。

とあります。「讃羽綴遺録』にも、生駒甚助が大坂夏の陣の際に、豊臣方につき元和元年に讃岐国において誅殺されるという記載があります。
 ここからは生駒甚介(三代藩主正俊の弟)は、引田城主として、東讃岐を支配してことが分かります。そして大坂夏冬の陣には、大阪城に立て籠もったというのです。生駒藩藩主の兄弟の間にも「路線対立」があったようです。大阪城陥落後は、引田に戻りますが、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。
 その所領を継いだのが生駒隼人になります。
 生駒隼人は、四代藩主壱岐守高俊の弟になります。引田城は代々藩主の弟が守るお城であったようです。彼の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しています。これは引田城の「城主」であったからでしょう。彼の下に配された侍数は26人ですが、生駒騒動の際には、その全てが集団ボイコットに参加し、生駒家を去っています。讃岐に根付いていない在地性弱い外来の侍集団であったことがうかがえます。
どちらにして、生駒藩では知行地制が根強く残り、引田城は藩主の弟が「城主」として治められていたことがわかります。つまり、関ヶ原以後に、「城主」となった「藩主の弟」たちがお城はともかく、城下町については整備したとも考えられる余地は残ります。

  関ヶ原前後に高松城も含めて、近世的城郭を3つ同時に整備する背景には何があったのでしょうか?
生駒親正の構想は
中央に高松城、
西讃の丸亀城
東讃の引田城
を配して、讃岐防衛と瀬戸内海交易ルートの確保にあった思われます。しかし、3つの城の建設が関ヶ原の戦いの前か、後かで仮想敵勢力は変わってきます。
①関ヶ原の前に築城されたとすると、秀吉の死後の東西抗争に備えてということになります。
②関ヶ原の後だとすると、家康の意をくんで毛利や島津の西国大名への備えのため
ということになるのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①生駒親正は讃岐における最初の拠点を引田に置いた
②引田城の本格的な整備は関ヶ原の戦い前後に始まる
③引田は、マチ割り、寺町・職人町・街路構造等に近世城下町の要素もつ
④引田城下町の整備は小海川の付け替えと密接に結びついている
⑤新しく開削された小海川は「内堀 + 運河 + 洪水対策 + 旧河道河口の塩田化」など多くのプラス面をもたらした。
⑥生駒藩では、引田城には藩主の弟が入り大内郡を「城主」として治めた。
⑦引田城主の生駒勘助は大坂の陣では豊臣方について参戦し、大阪城落城後に逃げ帰り切腹した。

ここからも生駒藩では知行制が温存され「城主」や家臣団の「自由度」が高かった気配が感じられます。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討     


引田 新見1
 信長が桶狭間で勝利し、華々しく戦国時代の舞台に登場してから数年後の永禄九(1566)年のことです。備中新見荘から勤めを終えて、京都の東寺に返っていく二人の荘園管理官がいました。彼らは新見から高梁川を川船で下り、河口の倉敷から塩飽本島を経て、讃岐の引田への帰国ルートをとります。これは、現在の「出張」ですから旅費請求を行います。その記録が東寺に残っていました。名付けて「備中国新見庄使入足日記」です。実務的な記録で、宿泊場所や宿代・船賃など最少限度のことしか書かれていないのですが、深読みするとなかなか面白いのです。前回は引田までを見てきました。
今回は引田から淀川中流の石清水八幡までの記録を見ていくことにします。最初に引田からの全文を出しておきます
十月十九日  十文  宿賃
廿日より廿四日迄
     百六十文  兵後(兵庫=神戸)にて旅篭
   壱貫百五十文  しはく(塩飽)より堺迄の舟賃
二十五日夕  二文  さかい(堺)にて夕旅篭
二十六日   四十文 同所  旅篭
二十七日朝  
   二文  旅篭  同所
   三文  はし舟(渡船)賃 兵後(兵庫)より堺へ上り申す時
   百文  さかい(堺)よりを坂(大坂)迄 駄賃
   貳百文 を坂よりよと(淀)迄 舟賃
   十二文 森口(守口)旅篭 同日
廿七日夕、八日朝
   四十文 ひら方(枚方)朝夕旅篭
廿八日 十二文 やはた(石清水八幡)にて 旅篭 同日
新見を出発したのが9月21日でしたから1ヶ月を費やして、兵庫まで帰ってきました。
淀川3

「壱貫百五十文、しはく(塩飽)より堺迄の舟賃」
とあります。塩飽(本島)から引田・兵庫を経て堺までの船賃が一貫百五十文です。倉敷ー塩飽間が百五十文でしたから、それを加えると堺までの1貫三百文ということになります。一貫は千文ですから、倉敷ー堺は千三百文の船賃ということになります。
これは、今のお金に換算するとどのくらいになるのでしょうか?
塩飽から引田への船上で買った米一升が12文でした。当時は、米一石=玄米150㎏=銭一貫=銭千枚が米の相場のようです。そこで一斗=十五キロ=百文になります。一升=十文ですから船上で買った一升=十二文という相場は、少し高いようです。しかし、船の上という状況を考えると、売る側の立場が強くなりますから高かったのかも知れません。

淀川6
1升=10文の相場を尺度にして考えましょう。
今は、米は安くなって道の駅などで生産者から買うとコシヒカリ30㎏=8000円が私の周りの相場です。しかし、20年ほど前は倍くらいの値段でした。計算しやすく10㎏=5000円とします。すると一斗(15㎏)=七千五百円=100文となります。一文は75円になります。そうすると一泊二食の宿代が十文=750円になります。宿代の値段が今と比べると格段に安く感じます。
 別の尺度で見てみましょう。宿泊費をモノサシにして比較しす。現在の出張旅費を1泊7500円として、当時の宿泊費10文と同価値とすると、7500円=10文と置きます。そうすると一文は750円で、米基準の10倍になります。
これで倉敷ー堺間の船賃1300文を現在価格に変換すると
①1文=75円レートでは 1300文×75円= 97500円
②一文=750レートでは 1300文×75円=975000円
レート的には①が納得のいく相場のようです。
2つめの疑問は、宿代に比べると船賃が高いのはどうしてなのかという点です。
例えば、倉敷ー塩飽は二人分で150文です。宿泊費が一泊10文ですから、船代の方が宿泊費よりも数倍高いことになります。今の私たちの感覚からすると船代は高額な感じがします。瀬戸内海交易の利益率の高さはこんな所にあるのかもしれません。
ぜに 
3つめの疑問は、重い銭をどうやって持参していたのかです
船賃だけでも銭1300枚です。宿賃を合わせると3000枚近い銭が必要になります。当時の銭は、中国から入ってきた宋銭・明銭でいろいろな種類の銅銭が流通していましたが、1枚の平均の重さは5グラム程度でした。10円玉が4㌘ですから、それよりも少し重かったようです。3000枚となると、どのくらいの重さになるのでしょうか・
5グラム×3000枚=15㎏
ふたつに分けて分担して持っても、一人7,5㎏の重さになります。当時、荘園の決済には手形がありましたが、船賃支払いに手形が使えたとは思えません。また、江戸時代なら金貨がありますが、この時代は銅銭のみの流通です。素人の私の疑問です。どちらにしても、相当な量の荷物をもっての旅だったようです。そのために陸上を行くときには人夫や馬を雇っています。
 「疑問の脇道」から本道へもどります。
「廿五日夕方、さかい(堺)にて夕旅龍」
 夕旅龍というのが、分かりません。しかし、次の「廿六日、四十文、同所、旅龍」あるので、堺で1泊目、2泊目、3泊目したのでしょう。1泊目は、夕旅龍で二十文、次の日は連泊で一日中いるので四十文となるのでしょうか。夕方から泊まったら半額だったとしておきます。しかし、倉敷や塩飽などでは一泊10文だったことを思い出すと、堺は一泊二十文で、倍の値段です。この時代にも「地方格差」があったようです。
「廿七日朝、廿文、旅龍」で出発いたします。
 「二文、はし舟賃」で、また渡し船に乗っています。兵後(兵庫)より堺へ上り申す時」と但し書きがありますから、大坂湾を横切って堺に渡ったときに上陸時の渡船代でしょうか。
「百文、さかいよりを坂(大坂) 駄賃
明治時代になから、「大阪の阪の字は、土に還る」と嫌われて、「阪」が使われるようになります。もともとは土偏の坂です。「堺よりを大坂迄、駄賃」とあります。駄賃は馬借への支払いなので、馬で陸上を行ったことになります。この旅には珍しい歩きです。地図を見れば分かるように、大和川は江戸時代になって流れを大きく変えられています。それまでは上町台地に行く手を遮られて北上して、現在の大阪城の北側で淀川と合流していたようです。

淀川7
ちなみに、この当時は大阪城はまだ姿を見せず、ここには石山本願寺が巨大な要塞のような姿がまわりを睥睨するかのようにあったようです。それを仰ぎ見ながら二人は大坂の船乗場へと急いだのかもしれません。
 次に「貳百文、を坂(大坂)よりよと(淀)迄」とあります。
大阪から淀まで船で、淀川を上ったようです。この時代から20年もすると秀吉が、伏見城を建て京と大坂を結ぶ淀川水運が整備されます。そして江戸時代になると旅客専用の「三十石船」が登場します。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれ、別名を過書船とも云われていました。
淀川5
全長五十六尺(約17㍍)幅八尺三寸(約2.5㍍)乗客定員28人~30人、船頭は当初4人と決められていたようです。 大阪には4つの船着き場(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)があり、上り船は、十一里余(約45㌔)の行程のほとんどは綱を引いて上ったようです。綱を引く場所は9カ所あって、どこからどこまでと区間が決められていたようです。そのため進むスピードは、のんびりしたものだったようです。
   船賃は江戸の享保の頃では、上り172文、下り72文との記録が残っています。労力がかかる分だけ上りの方が高いようです。この旅行者も淀までの船賃に一人百文を支払っています。百年以上を経ているのに、物価が上がってないのでしょうか。戦国時代の船賃とあまり変わっていません。
 江戸時代には朝早く出て夕方には伏見に着く便が多かったようですが、この時代はそんなにスムーズには進みません。
         十二文 森口(守口)旅篭 同日
廿七日夕、八日朝 四十文 ひら方(枚方)朝夕旅篭
 廿八日     十二文 やはた(石清水八幡)にて 
             旅篭 同日
と淀川を上る途中で泊まったところが記されています。森口(守口市)、ひら方(枚方)に泊まっています。一日で淀川を上るのではなくあちこちで泊まり、泊まり、上っていくようです。

なぜこんなに遅いのでしょうか?

川の上流に向かっての舟が曳かれているからのようです。
近代になって鉄道網が整備されるまでは、川が大きな輸送路でした。今では想像もつかないような所に川港があって、周辺の物品を河口の湊まで運んでいたのです。カヌーで中四国の大きな川を下っているとそんなことが見えてきました。例えば、吉野川中流の阿波池田町までは川船が上がってきていました。諏訪神社のすぐ下が川港で、そこを起点に池田町のかつての街並みは形成されています。そして流域からは藍が川船に乗せられて出荷されていったのです。このルートをカヌーで下るのは瀬がなく、流れが緩やかなためにあまり楽しい川下りにはならなりません。しかし、川船の船頭達は下っただけでなく、返荷を積んで上ってこなければならなかったのです。
高梁川3

 帆を上げてすーっと上っていくのは写真の中だけです。引っ張らなければなりません。人とが牛が船に付けた綱を引っ張って行きます。
淀川 『ヴォルガの船引き』(1870年~1873年)、イリヤ・レーピン画
           ロシア ボルガの船曳

流れの速い瀬の横には、舟を引っ張るための道がありました。一番有名なのが、この淀川の曳舟です。船が汽船になるまでは人間が引っ張っていたのです。
淀川曳き舟3

 廿八日 十二文    やはたにて 旅篭 同日
二泊して、やはた(八幡)に着きます。石清水八幡のある所です。ここに泊まっています。一応、ここをゴールにしたいと思います。
旅程図を見ながら振り返ってみましょう。
引田 新見1
備中の新見庄を出発した二人は、高梁川を舟で下って松山を経て高山に至ります。高山から倉敷までは陸上を、荷物を人夫に運んでもらっています。倉敷からは舟で、塩飽(本島)、讃岐の引田を経て兵庫・堺に至り、堺から大坂までは駄賃をはらって荷物は馬に乗せて歩いています。そして大坂からは淀川の川船に乗ります。これを見ると、ほとんど舟利用で、陸上交通を使っていないのです。
①高梁川の河川交通、これを用いて下る。
②次に瀬戸内海の海上交通を用いて堺まで行く。
③それから淀川の河川交通を用いまして、淀まで上る。
陸上交通と水上交通を組み合わせて移動しています。
巨椋池


 もうひとつ淀の重要性が見えてきます。

畿内の水運拠点には、瀬戸内海側に次の4つの湊がありました。
大阪湾に兵庫の津
神埼の津
渡辺の津
ここに入ってきた船の人とモノは、淀川を使って淀まで上ります。淀には、巨椋池がありました。今ここは、京都府の浄水場になっているようです。山崎のサントリーの工場の反対側に石清水八幡宮がみえます。その間には大きな池がありました。これが巨椋池です。この池に、瀬田川、宇治川、鴨川、旅川、本津川が流れ込んでいました。奈良盆地の川で、この巨椋他にそそぎ込まない川は、大和川しかありません。ということは、この淀川を遡って巨椋池まで行き木津川を遡れば、奈良盆地へ行けることになります。逆に京都へ行こうとすれば鴨川を遡ればいいわけです。それから琵琶湖方面へは宇治川、瀬田川を上れば行けます。逆に山陰側は、桂川を遡り、大井川へ入って行きます。そして丹波へ抜けることができます。つまり巨椋池は、河川交通のロータリー的な地理的役割を持っていたようです。
淀川曳舟
 こうしてみると、奈良や京都は淀川を通じて、瀬戸内海と結びついていたことになります。
だから引田周辺で取れた薪が、瀬戸内海を舟で運ばれ、京まで送られるということも可能だったのでしょう。穀倉類だけでなく薪などの生活物資に至るまで、瀬戸内海沿岸から運び込まれていたようです。その意味では、奈良の都も平安京も「消費都市」という性格は同じです。淀川水系を使って瀬戸内海と結びついていました。瀬戸内からの「供給」なしでは成り立たない都だったのです。奈良も京都も、瀬戸内海の方を向いた都と云えるようです。
参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)


桶狭間の戦いが行われて数年後の永禄九(1566)年、備中新見から京都までの移動記録があります。「備中国新見庄使入足日記」です。高梁川を遡った新見は、京都の東寺の荘園でした。そこでこの荘園と東寺との間には人とモノの行き来があり、それを記録した文書ももたくさん残されています。この文書は新見荘を管理するために派遣されていた役人が、都へ帰ってくるときの旅費計算記録です。だから途中でいくらかかった、どこに泊まっていくらかかったという旅費計算がしてあります。お金が絡むことなので、丁寧に書かれています。しかし、残念ながらそれ以外の記述は何もありません。実に実務的な文書ですが、このコースの中に何故か讃岐が出てくるのです。
 戦国時代の旅費計算書を見てみましょう。
新見庄を出発して高梁川を下って松山、それから高山、それから倉敷、塩飽、引田、兵庫、堺、大坂、守口、枚方、淀、八幡(石清水八幡宮)というルートです。
引田 新見1

永禄九年(1566)備中国新見庄使入足日記
教王護国寺(東寺)文書
永禄九年九月廿一日使日記
廿一日、二日 十六文  新見より松山へ参候、同日休み
廿八日     三文 人夫 高山より舟付迄

 「永禄九年九月廿一日使日記」、これがタイトルのようです。
9月21日に新見を出発しています。歩いての移動ではありません。高梁川の川船で下っていくのです。
高梁川3
廿一日、二日、二日間で十六文、日付の後には費用が書かれます。ここでは松山の宿代のようです。
「新見より松山へ参候、同日休み」
とあります。松山は「備中松山」で今の高梁のことです。ここで休憩のようですです。

高梁川1
高梁と高梁川
どうして松山で休息し、長逗留するのでしょうか。
当時は、松山に備中の国の守護所がありました。そこで、挨拶に上がったようです。守護所関係者に黙って通過というわけにはいかないのでしょう。ちなみに当時の備中守護は京兆家の細川氏で、本家の方の讃岐の宇多津に守護所を構える細川家の分家筋にあたるようです。そのため備中と讃岐の間に開ける備讃瀬戸は、細川氏の支配下にあったことになります。つまり、瀬戸内海の海上交通を細川家は真ん中で押さえることができていました。
備中松山というと、ずいぶん内陸に引っ込んでいるように見えますが、実は高梁川を使っての川船で瀬戸内海につながっていたことが分かります。

高梁川2
廿八日 三文 人夫 高山より舟付迄
「廿八日三文」、これは人夫賃です。荷物を運んでもらってます。
舟付というのは船着場のことです。高山は総社市高山城(幸山城・こうざんじょう)の近くにあった川港のようです。標高162mの山城からはゆっくりと流れ下る高梁川は眼下に見えます。重要輸送ルートである高梁川防備の戦略的な位置にあります。倉敷の手前までやってきたようです。
「廿八日夕、九日朝、四十文、旅籠、舟付迄」。
28日は高山に泊まって、翌日に旅籠をでて船着場に向かい、再び川船で倉敷に向けて下っていきます。

1 塩飽本島
塩飽本島(上が南)

倉敷から塩飽へ
廿八日 百五十文 倉敷より塩鮑(塩飽)迄
九月晦日より十月十一日迄、旅篭銭 四百八十文 
          十文つゝの二人分
十二日 十二文 米一升、舟上にて
  高山を朝に出て、高梁川を下り、その日のうちに倉敷から塩飽へ出港しています。倉敷より塩鮑(塩飽)迄の百五十文と初めて船賃が記されます。高梁川の川船の船賃は書かれていません。
ここまでは、船賃が請求されていないのはどうしてでしょうか?
高梁川は、新見庄の舟で下ってきたようです。鎌倉時代の史料から新見庄には、荘園に所属している水夫がいたことが分かります。カヌーで高梁川を下ると分かるのですが、この川は緩やかな川で初心者クラスでも川下りが楽しめます。特に高梁から下流は瀬もほとんどなく、ゆったりのんびりとした流れです。ここを昔は川船が行き来たことが納得できます。新見・松山・高梁と倉敷は高梁川でつながっていたことがよく分かります。
十文つゝの二人分
というのは二人で移動しているので経費はすべて二人分です。宿賃はどこの宿も十文です。そして150文が倉敷から塩飽までの二人分船賃です。宿代に比べると船賃が高いという気がします。塩飽のどこに着いたのかは何も書かれていません。しかし、当時の様子から考えると本島北側の笠島集落が最有力のようです。

本島笠島
「九月晦日より十月十一日迄、旅寵銭」、
9月29日から10月11日まで、塩飽での長逗留です。
ここで疑問
①なぜ塩飽にやって来たのでしょうか? 
牛窓方面から室津と山陽道沖合航路を進まないのでしょうか?
②なぜ塩飽で11日間も留まるのでしょうか。
①は、倉敷から塩飽への船賃は150文と記されますが、塩飽から次の寄港地までの船賃はありません。ここから先ほどの川船と同じように東寺の持舟を利用したことが考えられます。
本島笠島3

②については
当時は「定期客船」などはないので、商船に便乗させてもらっていました。当時の塩飽諸島は瀬戸内海という交易ハイウエーのサービスエリア的な存在で、出入りする商船が多かったのでしょう。そこに寄港する便のある東寺所属の商船の到着を待っていたのかもしれません。
十二日 十二文    米一升、舟上にて
 同日  五文     はし舟賃
十三日 舟二文    旅篭 引田
十四日  二文    同所    
十五日  二文    同所
   四十二文   米三升五合 たうの浦にて
十六日より十九日迄  同所
十九日 十文     宿賃
廿日より廿四日迄 百六十文   兵後(兵庫)にて旅篭
 壱貫百五十文 しはくより堺迄の舟賃
塩飽(本島)から引田へ
12日になって「舟の上で米を1升買った」とあります。ここから12日、塩飽のどこかの港から出港したことが分かります。
同日12日の「五文 はし舟(端舟)賃」とは、
端舟は、はしけのことのようです。港まで入港できず沖で待つ客船への渡賃が五文のようです。どこに着いたのかは翌日の旅籠代の支払先で分かります。なんと引田です。

引田 新見2
京都に向かうのにどうして引田へ?
  引田は讃岐の東端の港町です。今では香川の「辺境」と陰口をいわれたりしていますが視点を変えて「逆手にとって発想」すると、近畿圏に一番近い港町ということにもなります。そして、背後には古代のハイウエー南海道が通ります。そのため、都と讃岐の往来の一つの拠点が引田でした。
例えば
①平家物語の屋島合戦への義経ルート、
②鎌倉時代の南海流浪記の道範ルート、
など、讃岐への入口は引田です。

siragi
   引田の地理的な重要性について
引田は、南海道と瀬戸内海南航路という陸上交通と海上交通が連結ポイントになっていたようです。讃岐の人が都へ上ろうと思ったら、引田まで行けばいいわけです。そこまで行くのは、自分で歩いいく。これは、ただでいけます。そして引田から舟に乗るのです。宇多津あたりから乗ると、宇多津から引田までの船賃がかかります。だからなるべく東の方へ、東の方へと歩いて行く。そして、引田から乗るというのが中世の「作法」でした。
中世の和船
 「兵庫関雑船納帳」に出てくる引田舟を見てみましょう
当時、兵庫津(神戸港)には、海の関所が設けられていました。これを管理していたのは、東大寺です。後に春日大社、興福寺も加わります。この文書は、東大寺の図書館に残っていたもので、室町時代の終わり頃の文安二年(1455年)のものです。ここには、小さな船についての関税の台帳が載っています。一艘につき一律四五文の関税が課せられています。
『兵庫関雑船納帳』(東大寺図書館所蔵)
(文安二年(一四四五)七月)廿六日(中略)
四十五文 引田 人舟 四十五文 大木五六ハ 人舟 引田
四十五文 引田 四郎二郎    大木ハ五ハ
「人舟」とあるのは、人を運ぶ船、
「大木五十ハ」の「ハ」は一把二把の把だそうです。一束が一把になります。
大木五十把とは、何を運んでいたのでしょうか。
この舟は薪を運んでいたようです。都で使うための薪が、瀬戸内海沿岸の里山で集められ、束にして船で都に運ばれていたのです。木を運ぶ船という意味で木船と呼ばれていたようです。都の貴族達の消費生活は、燃料までもが地方からの物品によって支えられていたことが分かります。日常品が大量に瀬戸内海を通じて流通していたのです。
兵庫北関1
   兵庫北関を通過した舟が一番多い讃岐の港は?
  この表からは宇多津・塩飽・島(小豆島)に続いて、NO4に引田が入っていることが分かります。その数は20艘で、宇多津や塩飽の約半分です。
兵庫湊に入ってきた讃岐船の大きさを港毎に分類したのが下の表です。
兵庫北関2
200石を越える大型船が宇多津や塩飽に多いのに対して、引田は50石未満の小型船の活動に特徴があるようです。
  どんなものが運ばれていたかも見ておきましょう。
兵庫北関3
  積み荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の八〇%にあたります。
ちなみに塩の下に(塩)とあるのは塩の産地名が記入されていたものです。例えば「小豆島百石」と地名が書かれていて「地名指示商品」と研究者は呼んでいるようです。これが塩のことです。塩が作られた地名なので、( )付きで表しています。

中世関東の和船
  関東の中世和船
 こうしてみると讃岐の瀬戸内海港とは「塩の航路」と呼べるような気がしてきます。古代から発展してきた塩田で取れた塩を、いろいろな港の舟が運んでいたことが分かります。塩を中心に運ぶ「塩輸送船団」もあったようです。それは片(潟)本(古高松)・庵治・野原(高松)の船で、塩専門にしており、資本力もあったので、持船も比較的大きかったようです。
 話を引田に戻すと、引田にも中世から塩田があったので、地元産の塩を運ぶと同時に、周辺の塩も運んでいたようです。こうして引田湊は、港湾管理者としての役割を担っていた誉田八幡神社を中心に、商業資本の蓄積を進めていきます。この旅行者達がやってきてから20年後には、秀吉のもとで讃岐領主となった生駒親正は、この引田に最初の城を構えます。それは、東讃一の繁栄ぶりを見せていた湊の経済力を見抜いたからだと私は考えています。
   引田で長居しすぎたようです。結局10月12日に塩飽からやってきて、19日まで引田に逗留していたようです。引田の交易上の重要性を再確認して、今日はこれくらいしにします。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 県立文書館紀要3号(1999年)

                          

   
4M22317E260r
江戸時代の讃岐を描いた絵図は、北の岡山県上空あたりから俯瞰する視点で描かれたものが多いようです。この地図も、そのパターンで下側(北)に、瀬戸内海やそこに浮かぶ小豆島が細長く描かれています。その上(南)が屋島・志度になるようです。そして、一番東(左)にある湊町が引田になります。引田が「讃岐の東の端」と云われる所以でしょう。
 しかし、それは高松を中心とした見方です。引田は北に播磨灘が開け、沖には淡路島・鳴門海峡が眺望できる位置にあります。視点を変えると、近畿圏に一番近い湊町なのです。その地の利を生かして、古くから海運業が盛んな土地柄だったようです。
 おきゆく船がこの港には、立ち寄らなければならない理由がありました。
4讃岐国名勝図解 引田絵図

讃岐国名勝図会の引田
 幕末の「讃岐国名勝図会」には引田のことを、
当国東第一の大湊にして大賈大船おびただしく漁船も多し、諸国の船出入絶すして、交易、士農工商備れり」
と記します。江戸時代は引田浦は「当国東第一の大湊」で、廻船業や漁業が発達し、上の絵図のような街並みや立派な神社仏閣並ぶ湊町でした。引田の廻船は、瀬戸内海はもちろん江戸・九州・北国へ讃岐の特産品の砂糖や塩などを運んでいたことが分かってきています。
「名勝図会」を見ると、手前に大きな寺院があり、その向こうに密集する家並みと帆を下ろして停泊する廻船が描かれています。海運と結びついた引田浦の姿をよく描かれています。もうひとつ見逃してはならないのが港の向こうの山の上にある引田城跡です。この城の城下町として現在の引田の街並みが整備されたことは前回お話ししました。今回は、引田港の繁栄の背景を探ることです。
5c引田
 瀬戸内海南航路における引田が重要な港であった理由は?
 ペリーがやって来る約10年前の江戸末期に、引田港を利用する諸国入船の船主などから波戸を築いてほしいとの要望書が出てきます。これを受けて引田浦の商人たちにより波戸工事が計画されます。この頃に行われた丸亀藩や多度津藩の港湾整備などの「公共事業」は、藩主導ではなく富商が中心になって講を組織して行うのが一般的になっていました。「民間資本」の導入なしで、藩単独では大きな公共事業は行えない時代になっていたのです。幕藩体制は行き詰まり、未来を切り開く公共建築物を作ることもできないほど藩財政は行き詰まりを見せていたようです。引田の波戸工事も「民間資金導入による建設」が行われることになり、資金集めのための趣意書が廻されます。
  「讃州引田浦湊普請御助情帳」には、波止建設の必要性を次のように記しています。
「(前略)其向ふ名高き阿波の鳴門にて、諸国の船々此鳴門を渡海いたさんとする時、則此山下に繋て、潮時を見合すに随一の処也」
とあり、引田港は鳴門海峡を抜けるための「潮時を見合すに随一」の港で、重要な潮待港であることが強調されています。この「募金活動」に対して、屋島西岸の浦生や寒川郡津田浦、阿波国の大浦・撫養・粟田村、大坂砂糖会所や大坂砂糖問屋など讃岐国・阿波国・大坂の大坂への航路を中心とする地域からの寄付が集まっています。寄付のあった地域が引田浦の商人・廻船業者の商業取引のエリアであり、特に砂糖に関わる主要取引先であったようです。同時に、海上交易活動に携わる人たちにとって引田の「潮待ち港」としての重要性がよく認識されていたことも分かります。

5鳴門海峡地図.1jpg
近代に入っても引田の潮待ち・風待ち港としての重要性は変わらなかったようです。
『香川県引田港調書』の「引田港ノ現状及将来」の項には、引田港と鳴門海峡の関係が次のように記されています。
 瀬戸内海ノ関門タル鳴門海峡渡航セントスル船舶ハ、海上静カナルトキト雖モ必ズ引田港湾二潮待チ又ハ潮造り卜称シ、仮泊セザルベカラズコトニナレリ(鳴門潮流干満ノ関係上)、況ンヤ天候険悪二際シテハ、避難寄港スベキハ引田港ヲ除キテ他二求ムルコトヲ得ザルナリ、

 戦後の『引田町勢要覧』(昭和27年〈1952)でも、前年の引田港には年間貨客船1795隻(汽船274)隻・機帆船(1521隻)、漁船10552隻(機帆船3816隻・無動力船6736隻)、避難船285隻(機帆船60隻・無動力船225隻)の入港を記録しています。戦後直後には漁船の6割は無動力船であったことに注意してください。
5鳴門海峡地図.221jpg

南海道に通じる瀬戸内海南航路と鳴門海峡
 鳴門海峡は両側は瀬戸内海と紀伊水道で、干満の差によって大きな渦潮が発生するため「海の難所」として船乗りには恐れられてきました。しかし、潮の流れをうまく利用すれば「海のハイウエー」にもなり、古くから重要な交通路として利用されてきました。
   鳴門海峡の潮待ち港という役割は、古墳時代に瀬戸内海南航路が開かれて以来、引田が果たしてきたことかもしれません。吉備勢力のテリトリーである瀬戸内海北航路を使わずに瀬戸内海を通過するルートを開くことは、ヤマト勢力の悲願でした。その先陣を果たし、南航路を切り開いたのは紀伊を拠点とする紀伊氏であったようです。紀伊氏は日向勢力と協力しながら讃岐・愛媛・豊前・豊後の勢力を懐柔し、この航路を開いていきます。津田古墳群の勢力もその先兵か協力部隊であったのかもしれません。このルートを通じて、朝鮮半島で手に入れた鉄が畿内に運ばれていったのでしょう。吉備方面を通過する瀬戸内海北航路と同じく、讃岐沖から鳴門海峡を抜けて紀伊や摂津に抜ける南航路も重要な役割を果たしていたようです。どちらにしても、早くから鳴門海峡を通過する瀬戸内海南航路は開かれ、この航路をなぞるように「南海道」は整備されたと私は考えています。
5鳴門海峡地図6

中世の瀬戸内海航路が分かる資料としては朝鮮の高申叔舟が成宗二年(文明三年(1471))に著した『海東諸国紀』があります。ここには載せられた「日本本国之図」には、播磨灘と紀伊水道を通る海路として次の3つの航路が描かれています。
①和泉・紀伊と淡路を結ぶ二つの海路、
②讃岐から淡路島西岸を経て兵庫に通じる海路、
③阿波から淡路島東岸を経て兵庫へ通じる海路
ルート②は、淡路島西岸を通る航路のため秋から冬にかけては、強い北西の季節風が吹くため、安全面で問題がありました。昭和になっての動力船の時代にも、引田と大阪と結ぶ定期航路の客船は、春・夏は淡路島の西岸各港に寄港しながら北上しますが、北西の季節風が強く吹く秋から冬にかけては、ルート変更して淡路島の東岸を航行していました。つまり、ルート②は春から夏までの季節航路で、それ以外の季節はルート③の鳴門海峡を抜けるコースに、季節的な使い分けが古くから行われていたようです。もちろん、畿内を結ぶ瀬戸内海のルートで最も一般的なのは、山陽沿岸の瀬戸内海北航路ですが、四国北岸から鳴門海峡を通る瀬戸内海南航路もサブルートとして使用されていたのです。
5鳴門海峡地図.21jpg
ちなみに鳴門にはふたつの海峡があります。
ひとつは渦潮で有名な「大鳴門」です。これに対して大毛島・高島・島田島と対岸の撫養の間には100~500mの水通のような小鳴門海峡(小鳴門)があります。小鳴門海峡は大鳴門ほど潮流が速くないので、古代から小鳴門も海路として利用されてきました。
 引田の船乗り達は、は鳴門海峡を通過することを「鳴門をおとす」といい「何時ごろおとす(何時ごろ通る)」や「大鳴門おとすんかヽ小鳴門おとすんか(大鳴門を通るのか、小鳴門を通るのか)」と表現していたそうです。動力船で引田から鳴門まで約一時間くらいの距離であったようです。
5鳴門海峡地図

船はどのようにして鳴門海峡を越えていたのでしょうか?
 引田の元船大工や元船員は次のように話しています。
①満潮のときに紀伊水道から瀬戸内海に流れ込む海流にのって入り(南から北への流れ)、
②干潮のときに、瀬戸内海から流れ出す海流に載って紀伊水道に出る(北から南への流れ)。
③満潮の上、北西の風であれば海が荒れるが、北西の風でも干潮であれば逆に追い風となる
など、潮流や風により航行が大きく左右されたようです。

5鳴門海峡地図.221jpg
 高松方面から鳴門海峡を通過するのは干潮のときで、それまで船は引田港で潮待ちすることになります。志度や津田、三本松などの港もありますが、引田ほど天然の入江が発達した潮待ち・風待ちに格好の港はないと船乗り達は云います。四国(特に東讃地方)の北岸を通ってきた船が、潮待ち・風待ちした港が鳴門海峡から海上の直線距離で約25㎞のある引田港だったのです。昭和三〇年代まで引田で潮待ち・風待ちをしている船の船員が、買物や飲食する姿が多くみられ賑やかだったといいます。
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 中世の瀬戸内海航路はどうだったのでしょうか?
 中世の瀬戸内海を行き来する交易船は、順風であれば帆走し、風が悪ければ漕ぎ、暴風雨に遭えば船を港に引き上げて避難する、そんなことを繰り返しながら海を進んでいきました。まさに、潮まかせ、風まかせのために潮待ち、風待ちのために、多くの湊に寄港しながらの航海だったのです。
 動力船が普及した1960年代でも、激しい流れに逆らって海峡を乗り切るのは難しく潮待ち・風待ちを必要とした船もありました。鳴門海峡は「阿波の鳴門か、銚子の口(千葉県銚子市)か、伊良湖渡合(愛知県渥美半島)の恐ろしや」と、船乗りに恐れられた全国有数の海の難所だったのです。
 その難所を抜けるには、引田港で潮待ちして情報やアドバイスを得てから鋭気を養って出港していく必要があったのでしょう。
参考文献 
萩野憲司 中世讃岐における引田の位置と景観  
中世讃岐とと瀬戸内海世界 所収

     前回、讃岐中世の港町めぐりで引田を紹介したら、もう少し詳しく知りたいというリクエストを頂きました。そこで、引田について見ていきます。引田は、戦国末に生駒氏が讃岐領主として入ってきて最初に築城したところで、城下町も整備されたようです。そのために、生駒氏以前と以後では、街の姿が大きく変わりました。生駒藩以前と、新たに引田城が築かれた後の引田を比べることで見えてくるものを探したいと思います。
1引田城3

 まずは現在の引田を見ておきましょう。
引田の目の前は播磨灘が広がります。かつては島だった城山に向かって南東から北西に弓なりに海岸が湾曲します。地図だけ見ていると、伯耆の米子から境港に伸びる弓ヶ浜とよく似ているように見えてきます。
3引田

平成10年(1998)に、この弓なりの上に位置する本町三丁目で、防火水槽設置工事が行われました。その掘削断面から、ここが砂堆であることが分かりました。引田の街は、大きな砂堆(砂堆1)の上に形成されているようです。砂堆上には海岸線に沿って、北から川向、小海川を挟んで松の下、魚の棚、中ノ丁、本町一丁目~七丁目、木場(きば)、大明神などが並んでいます。
5引田3
 小海川河口部をはさんで北側(川向側)と南側(松の下側)では、北側の方がやや高いことから、北側がより安定した地形のようです。砂堆の最も高い所を、通る旧街道が縦断するように伸びて松の下、中ノ丁、本町一~七丁目の街並みが続きます。この旧街道は、昭和30年代に新しく国道11号線が開通するまでは阿讃の主街道で、この街道に面してマチスジ(町筋)、オカと呼ばれる商家や住宅が建ち並ぶ商店街を形成されていました。
中世引田の復元図から見えてくることを挙げておきましょう。
砂堆Iの上に街並みが形成され、その東西両側に向かって地形は広がっています。
②砂堆Iの西側には潟湖跡(潟湖Ⅰ)があります。
『元親記』では土佐の長宗我部群が「引田の町」を囲んで陣取ったとあり、続いて「本陣と町の間に深き江」があり、潮が満ちているとありました。引田の「町」と城は、「江」によって隔てられていたことが分かります。
③この「江」は城山の南側にある安戸から引田港まで入り込んでいた潟1と砂堆2のことで、現在は陸地となっていますが、明治までは塩田だったようです。
④この「江」は安戸塩田(砂堆3)で作られた塩を引田港まで運ぶ運河でもあったと地元では伝えられています。中世には小型船の往来や船着場として利用していたようです。
⑤『元親記』に記された引田の「マチ」は、引田城と「江」の対岸の宮の後や川向の集落Iと集落2にあたるようです。ここは安定した地形ですから、当時の引田の港町があったのはここのようです。

5引田八幡神社
⑥川向の亀山と呼ばれる高台に、引田の氏神である誉田八幡宮が鎮座します。この八幡宮は延久元年1069)に現在地に遷座したと伝えられます。県の自然記念物に指定の社叢が生い茂っているため、今は引田港は見えません。が、かつては眼下に引田港が見下ろせたはずです。この八幡宮は海上の安全を願って建立されたもので、航海や漁師にとって当て山となっていたようです。

5引田7
 今の八幡宮本殿は南面していますか、かつては北面していたと伝えられています。それはこの神社の北側に引田城があったからでしょう。八幡宮が北面していたは、引田城に向かって鎮座していたということになります。ここにも八幡宮が引田沖や潟1を往来する船の管理や引田城の鎮護を担う役割があったことがうかがえます。この神社を中心に、中世の港は形成されていたようです。
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⑦当時の引田の町の中心は、この八幡宮周辺の川向や宮の後でした。現在の中ノ丁から本町があるマチ(砂堆1)には、家屋は少なかったようです。
⑧今度は西南の塩屋方面を見てみましょう。ここには低湿地でかつての潟(潟2)が埋積したものとのようです。この潟の西には塩屋や小海(おうみ)という製塩やその景観を表す地名が残っていて、古代・中世にはここまで海が入り込んで入江を形成してたことがうかがえます。『入船納帳』にみえる引田船の塩は、この塩屋付近で作られたのかもしれません
引田が大きく変化するのは、生駒親正の引田城の築城です 。
讃岐領主として、やってきた生駒氏は最初に引田の城山に築城を始めます。一緒にやって来た家臣団も生活のためには屋敷を構えなければなりません。城下町の整備は火急の重要課題です。引田には、その際の屋敷割りが、現在の町割や地名に残っています。

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 引田の城下町復元図から見えてくることを挙げてみましょう。
碁盤目状の町割りがされている。
②道幅は狭く十字路も筋違いになっているところがいくつかある
③本町六丁目には箸箱町と呼ばれる地域がある。これは建物の並びが、箸箱の蓋のように出し入れできるのが一方だけで行き止まりとなっていることを表すもの。
以上からは城下町として、防衛上のために造られていることがうかがえます。
 その他にも引田のマチには魚の棚や草木町、大工町といった城下町によく見られる市場や職人町を示す地名も残ります。また中ノ丁や本町というように村役人や町人・商人が居住する地域や、寺町のようにまとまって寺院が配置された地域もあります。
引田城下町の中心はどこだったの?
 生駒親正が引田城の後に築いた高松城下や丸亀城下では、侍屋敷が並ぶ地域を一番丁や二番丁のように「丁」、町人町を「町」と表記して区別しています。引田の中ノ丁も武家町であったと考えられます。中ノ丁には生駒時代に庄屋役を仰せつかり、以降明治まで引田村庄屋を勤めた日下家や、松の下には先祖が生駒氏に仕えたという佐野家や岡田家などの有力商家がありました。これらの家が中ノ丁や松の下に集まっていることは、この地区が引田の政治の中心であり、城下町がここを中心に整備されたことがうかえます。本町は北から一丁目・二丁目・三丁目……七丁目と並びます。これは北側の中ノ丁を基点に、順序に付けられたと考えられます。
 さらに北後(きたうしろ)町や南後(みなみうしろ)町は地名からすると、中ノ丁や大工町・草木町から次第に広がっていった地域のようです。このように引田城下町は中ノ丁を中心に町が展開していったと研究者は考えているようです。

 生駒氏以前の中世の引田は、集落1と集落2にあたる川向や宮の後が町の中心でした。それが生駒親正による城下町の整備で、砂堆の南側にも家臣団の屋敷が「町割り」されて建ち並ぶようになります。そして、町の中心が松の下や中ノ丁に移ります。川向は「川の向こう」という意味ですから小海川の南側の地域が中心となってから使われるようになったのでしょう。
 また北面していた八幡宮を、南面に改めたのも生駒親正と伝えられます。南面させて引田のマチを望む方向に変えたのは、八幡宮の役割が引田城の鎮護から引田のマチの鎮護に変わったことを示しているのでしょう
 復元図には魚の棚や草木町・大工町といった城下町によく見られる市場や職人町が見えます。魚の棚には江戸後期まで魚問屋があったようです。また、本町の旧街道に面したマチスジは近世にも数十件の商家が建ち並び、最近まで商店街を形成していました。ここに住んでいた商工業者たちが、このマチの経済的な役割を担っていたようです。
引田の寺町は?           
寺町には積善坊(真言宗)・善覚寺(浄土真宗)・萬生寺(真言宗)の三つの寺院が一列に建ち並んでいます。小規模ですが寺町を形成していたようです。積善坊は、もともとは内陸部の吉田にあったがいつのころか現在地に移り、天正年間の長宗我部勢の兵火により焼失したようです。それを生駒親正が修復したといいます。
 善覚寺も小海にあったのを明暦年中(1655)゛に中興沙門乗正が現在地に移したと伝えられます。萬生寺は天文10年(1541)に当時引田城主であった四宮氏の菩提所として建てられたという縁起が残ります。
 このようにそれぞれ異なる縁起を持つ寺院が寺町に集まっていることは、誰かが意図的に移転・配置したのでしょう。寺町は引田では、西の入口にあたります。東の入口にも本光寺(真言宗)があります。東西入口に、防御施設として寺院が配置されたようです。
 このように引田は、生駒親正による都市計画により城下町が整備され、町の中心が移り武家町や職人町・商人町・寺町が形成されたことが分かります。
 しかし、生駒親正の都市計画は町割の整備だけではなかったようです。最も大事業でだったのが小海川の付け替え工事でした。
 小海川は川向と松の下を隔てるように流れます。この川は、今は丘陵部に沿って直線的に播磨灘に流れていますが、元々は安戸方面(潟1・砂堆3)に流れて「運河」の役割も果たしていました。それを砂堆Iを切り開いて直線的に海に出るルートにしたようです。これだけ見ると、この河口が果たしていた運河や船着き場の役割が果たせなくなることになります。
なんのための大規模な河川付け替え工事だったのでしょうか?
潟1と砂堆2・砂堆3にあたる小海川の旧河道の安戸には、明治44年(1912)まで塩田があり、大正年間に耕地整理が進められ現在は田地となっています。つまり旧河道は塩田に姿を変えたようです。
  大内郡松原村(東かがわ市松原)の教蓮寺に伝わる享保11年(1726)の『松雲山教蓮寺縁起』によると、
天正15年(1587)に生駒親正が引田に入部した際、播磨国赤穂から人民数十人を松原村に移住させ、塩浜を拓いたと記します。同じように引田の安戸でも、赤穂から住民が移住して塩田を造ったと伝わっています。中世以来、引田では塩屋(潟2)で製塩が行われていましたが、より海水を引き入れやすい安戸(潟I・砂堆3)で大規模な製塩を行おうとしたことがうかがえます。小海川の付け替え工事は、安戸への淡水の流入や洪水の被害を防止し、新たな塩田開発のためだったようです。
 さらに安戸だけでなく『元親記』でみた「江」も塩田に拓いた可能性もあります。安戸塩田の開発の背景には、塩屋の潟が上流からの埋積で埋まり塩田が仕えなくなった可能性もあります。
 小海川の付替工事は、塩田開発だけでなく、潟を排水することによる水害防止、そして堀として城下の防御の三点が考えられます。小海川付け替え工事に関する文献史料はありません。そのため年代などは明確にできませんが、この工事は生駒親正の城下町の整備と同時期に行われ、以前からあった製塩業を城下町の重要産業として発展させたと研究者は考えているようです。

引田に残る伝承からも、生駒親正による城下町の整備をうかがえるものがあります。
坂ノ下にある岩崎観音には、次のような伝承が伝えられます。
この辺りは船泊まりで、餓鬼が度々出没していました。生駒親正が引田にやって来たときに、この訴えを聞き、安全を願って祠を建て、聖観世音を安置した。これが岩崎観音である
というものです。ここには「岩崎観音付近が船泊まり」だったとあり、小海川が付け替えられる前の景観を裏付けるものとなります。同時に、小海川旧河道(潟I)には、船が行き来していたこと分かります。
 また八幡宮の秋祭りには、引田の各地区で獅子連や奴連が、大明神にあるお旅所まで旧街道往復2㎞を練り歩きます。八幡宮に奉納される奴の起源は、天正年間に生駒親正によって八幡宮が再建されたのを喜んだ引田の人々が「やり踊り」を奉納したのが始まりと伝えられています。ここにも数百年経った現在も引田の人々の記憶に城下町整備を行った生駒親正が「郷土の恩人」として、後世にも語り継がれています。

 ところで生駒親正が引田を拠点としたのどのくらいの期間だったのでしょうか?
資料的には数力月で引田から宇多津に移っています。彼の引田時代はきわめて短期間でした。引田から宇多津に移った理由は『生駒家始末興廃記』には次のようにあります。
生駒雅楽頭近規ハ、永禄・元亀・天正等之兵乱、太閤秀吉公幕下に属し、数度之武功依之有、天正十五年讃岐之守護尾藤甚右衛門没落之跡 高十七万六平石受封して、讃岐国大内郡引田之城え入部被成候所、引田ハ国之東端ニて、西方難治より、鵜足郡聖通寺山の城に居住、此城往昔仙石権兵衛殿築被申由伝候、然ルに近規国政被仰付るに、当国先々衆呼出し、相応之扶助を宛て国務被仰付、当地境内狭故、天正十六年、香東郡野原庄二初て城を築、天正之頃迄は、在々小城共多故、海辺仁保・多度津・笠居・津田・三本松・引田杯船付二ハ商売人有之、其外在々分散して繁昌之地も多くハなし、
ここには次のようなことが記されています
①生駒氏が秀吉から讃岐国領主に任じられ、最初は引田を拠点とした
②しかし「引田は讃岐の東端で、西方が治め難し」として 宇多津の聖通寺山に移ったこと
③さらに聖通寺山では手狭になったために香東郡野原(高松)で新城に着工したこと
④天正の頃までは仁保(仁尾)・多度津・笠居・津田・三本松・引田が有力な港町で、ここに商人達がいたようです。この引田の商人たちが居住していたのが『元親記』で仙石氏に包囲された引田の町なのでしょう。

 引田か短期間で拠点を移動させた理由は、次の2点のようです
①引田は瀬戸内海東部での軍事拠点としては機能するが、讃岐を治める拠点としては東に偏りすぎていること、
②本格的な城下町建設には、砂堆Iの地域は狭すぎて大規模な埋め立て造成工事を行わないと、岡山や姫路のような城下町は造れないという地形的制約があった
とされているようです。 
 生駒親正は引田から移った翌年の天正2(年(1588)には香東郡野原に高松城の築城に着手します。
そして慶長2年(1597)には丸亀に高松城の支城を築き、ここには親正の子・一正を入れます。これは西讃地方の支配のための支城的な役割もありました。東讃地方にも支城が必要であるという認識があったようです。当時は、関ヶ原の戦い直前で、臨戦態勢が整えられていく時期でもあります。
 享保年間(1716)の『若一王子大権現縁起』や寛政四年(1792)の『小神野夜話』では、慶長年間に生駒甚助(一正の次男)が大内郡一万石を領し、引田城に拠ったとあります。引田城が東讃地方の支城として整備が続けられたことがうかがえます。
 また発掘調査によっても数多く出てくる瓦は、関ヶ原直前のもので、入部当時のものではないことが分かってきました。引田城や城下町の工事は、関ヶ原の直前に活発化したと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと
①中世の引田の町は、八幡宮周辺を中核として川向や宮の後に集落があり、現在マチと呼ばれる中ノ丁から本町がある砂堆には集落が限定的であった。
②駒親正の引田城と城下町の整備により景観は一変する。
③町の中心が八幡宮周辺から現在のマチに移り、武家町や職人町・商人町、そして寺町が計画的に配置された
④小海川付替え工事が行われ、安戸塩田の開発などの殖産事業も実施された。
⑤しかし、生駒氏の拠点は短期間で宇多津を経て高松に移された。⑥そのため引田城や城下町整備は、関ヶ原直前から本格化した
以上、生駒氏による引田の城下町整備についてでした。
萩野憲司 参考文献中世讃岐における引田の位置と景観  中世讃岐とと瀬戸内海世界 所収
1584 天正12 (甲申)
 県内  6・11 土佐の長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡
 1585年 天正13 (乙酉)
   4・26 仙石秀久および尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し屋島に上陸,喜岡城・香西城攻略
   5・15 仙石秀久,阿波より讃岐に引揚げ牟礼・高松に陣取る(仙石家譜)
   7・25 秀吉と長宗我部軍との和議が成立し,長宗我部元親は土佐へ退却
   7・- 仙石秀久,秀吉から讃岐を与えられる.ただし2万石は十河存保の支配
   仙石秀久,抵抗した香東郡安原山百姓100余人の首領13人を聖通寺山麓で処刑する
   この年 フランシスコ・パシオ,上京の途中塩飽に寄る(イエズス会日本年報)
1586年 天正14 (丙戌)
   12・13 仙石秀久,戸次川で島津軍と戦って大敗し,十河存保ほか多くの讃岐武將戦死
   12・22 仙石秀久,戸次川の戦いでの不覚を責められ豊臣秀吉とり讃岐国没収
   12・24 尾藤知宣,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる
1587年 天正15 
   6・- 尾藤知宣,日向国根白坂の合戦で豊臣秀吉の怒りをかい讃岐国没収
   8・10 生駒親正,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる(生駒家宝簡集)
   8・17 加藤清正,讃岐の平山城(聖通寺城カ)を生駒親正に引き渡す
   12・- 播磨国赤穂から数十人が白鳥の松原に移住し塩田を開く(教蓮寺文書「教蓮寺縁起」)
1588年 天正16 (戊子)
   この年 生駒親正,香東郡野原庄の海浜で高松城築城に着手する
1589年 天正17 (己丑) 2・晦 豊臣秀吉,塩飽1250石の領知を船方衆650人に認める
   3・- 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
   この年 豊臣秀吉の北条氏討伐に際し,塩飽船,兵糧米を大阪より小田原に運ぶ,
1591年 天正19 (辛卯)9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年 文禄1 12・8 (壬辰)
   3・- 生駒親正・一正父子,秀吉の命で5500人を率いて朝鮮半島へ出兵する
   10・23 豊臣秀次,塩飽に大船建造を命じ船大工・船頭を徴用
1594年 文禄3 (甲午)生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
   10・16 豊臣秀吉,生駒一正に来春の朝鮮出兵のための水主・船の準備を命じる
   7・12 夜,大地震.田村神社の神殿壊れる(讃岐一宮盛衰記)
1597年 慶長2 (丁酉)
   2・21 生駒一正,朝鮮出兵で第7番に属し,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣
   生駒親正,一正と計り,西讃岐支配のため亀山に城を築き,丸亀城と名付ける
   この頃 生駒藩の検地が始まる
  1600年 慶長5 (庚子)
   6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため家康軍に従い関東に赴く
   7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,騎馬30騎を参陣
       この後,高野山に入り家康に罪を謝る
   9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
   9・- 生駒親正,高野山で出家
 生駒藩,香西加藤兵衛(往正)ほか20名を登用し,佐藤掃部に「国中ノ仕置」を命じる
1601年 慶長6 (辛丑)
1602年 慶長7 (壬寅)
    生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
    播磨国の人々が坂出(内浜・須賀)に移住する(西光寺文書)
1603年 慶長8 (癸卯)
   2・13 生駒親正,高松で没する.78歳
1605年 慶長10 (乙巳)
   9・- 生駒一正,初めて妻子を江戸へ住まわせる(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
1609年 慶長14 (己酉)
   5・23 生駒一正,妻子を江戸に住まわせたことにより,徳川秀忠より「半役」
       (国役を半分にする)を申しつけられる(生駒家宝簡集)
   2・2 生駒一正,国分寺より梵鐘を召し上げ,その代りとして荒田1町を寄進
   3・14 生駒藩,国分寺へ梵鐘を返却する(国分寺文書)
   この年 生駒一正,親正の菩提のために弘憲寺を建立し,寺領50石を寄進する
1610年 慶長15 (庚戌)
   (2)・8 駿府に参勤していた生駒一正,名古屋城築城を急ぐため名古屋へ赴く
   3・18 生駒一正没する.56歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   4・- 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.
この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1611年 慶長16 (辛亥)
1613年 慶長18 (癸丑)
   10・1 徳川家康大坂征討の出陣を命じ,大坂冬の陣おこる.
   11・1 生駒正俊,大坂木津川口に陣をしく(徳川実紀)
   11・17 生駒正俊,住吉で家康に参見する.家臣森出羽・生駒将監・萱生兵部の活躍めざま しく家康・秀忠より感賞される
   8.- 全国的に踊りが広がり,これを伊勢神踊と号する(讃岐国大日記)
   10・25 大地震起こる(讃岐国大日記)
1596~1615年 慶長年間
   この頃 生駒藩,高松城下魚棚の住人の一部を野方町に引き移し,水主役を勤め
       させる(英公外記)
   この頃 金倉(蔵)寺の諸堂が復興する(金倉寺文書「由緒書」)
1615年 元和1 7・13 (乙卯)
  政治・経済
   2・12 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により塩910石を大坂城へ納め
       る(菅家文書)
   3・22 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により薪3500束を大坂城へ
       納める(菅家文書)
   4・6 徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
   夏   生駒正俊,大坂夏の陣で徳川方につき,軍用金5000両を家臣に配分して
       生玉庄に陣取る(生駒記)
   5・7 大坂城落城
   (6)・13 一国一城令により丸亀城廃城
1621年 元和7 (辛酉)
   6・5 生駒正俊,没する.36歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   7・- 生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見

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