瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近世史 > 讃岐生駒藩

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
尾池玄蕃が大川神社(権現)に寄進した雨乞用の鉦
1626(寛永3)年  旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春   浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年 8月   西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月   西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
      尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月  生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.
1620年代後半に讃岐生駒藩は長年の旱魃で飢饉となり、多くの農民が土地を捨てて逃散していきます。まさに存亡の危機に追い込まれます。これに対して当時、生駒藩の後見人だった藤堂高虎は生駒藩の重臣たちに次のように伝えます。

「生駒藩が現在の危機をのりこえるためには、灌漑の便をよくし、百姓共の心をを落ちつかせることが肝要である。ついては目付として遣わしている西島八兵衛は、伊勢藩では郡奉行をつとめ、灌漑土木事業には巧者の者である。故、西島と心を合わせて事を運ぶよう」

  藤堂高虎の指示に従って、生駒藩は目付として送り込まれていた西嶋八兵衛のもとに団結し、危機を乗り越えようとします。当時30歳だった西嶋八兵衛を中心に「挙国一致」で体制が整えられ、「ため池 + 大型河川の治水灌漑 + 用水路網整備 + 農地開墾・開拓」などがセットになった「丸亀平野総合開発事業」がスタートします。
 西嶋八兵衛は藤堂高虎から英才教育をうけていて、天下普請の京都二条城、大阪城などにも参加し、設計や現場監督も務めた経験をもった当代一流の土木技術者でもありました、その彼に持てる力を発揮する場所が与えられたことになります。別の視点から見ると、城づくりなどの軍用技術が、天下泰平の世の中になって、治水灌漑などの民政技術に転用される時代がやってきたこと、その中心に讃岐では西嶋八兵衛がいたという意味づけができます。ながくなりましたがここまでは前振り導入です。ここからが本題です。
 当時の西嶋八兵衛の動きを追いかけていると、本当にこれをひとりでやったの?と思えてきます。
 彼は「目付」の「レンタル客臣」で家老並みの石高2000石待遇です。今の県庁で云うと、総務部長・土木建築部長・東京出張所所長というポストかもしれません。そして残された文書には、3人の奉行の一人として彼の花押(サイン)があります。つまり目を通していたことになります。現場監督をやっている暇はなかったのではないかと思えるのです。もともと西嶋八兵衛は満濃池を造りに派遣されたのでありません。後見人の藤堂高虎の目付(全権委任責任者)として、讃岐にやってきているのです。
 そんな疑問の中で、私が注目したのが尾池玄蕃です。
彼については、以前に次のようにまとめました。

尾池玄蕃2

こうしてみると、尾池玄蕃は「丸亀平野開発プロジェクト」を担った能吏のひとりであったことが見えてきます。ところが生駒騒動前に尾池玄蕃は、熊本藩細川家に招かれ、百人扶持でトラバーユしていくのです。さらに後には二人の子供も、熊本藩に就職し、それぞれ千石拝領されています。形としては生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようにも見えます。尾池玄蕃の肥後藩への再就職には、どんな背景があったのか気になっていました。それに応えてくれる論文に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「 小川雄   西山左京・八郎兵衛宛て曾我古祐・包助書状の検証  足利道鑑(尾池玄蕃)と西山氏・尾池氏をめぐる研究の基礎作業として」です。

まず、尾池玄蕃の息子の 西山至之(にしやまのりゆき)を、ウキで見ておきます。
室町幕府13代将軍足利義輝の遺児といわれる尾池義辰(玄蕃)の子。初め尾池伝右衛門(諱:唯高)と称し、後に姓名を改めて西山左京(至之)を名乗った。父を招いた熊本藩主細川忠利から細川綱利の代まで仕える。石高は1000石。家格は比着座同列定席。子に西山重辰、西山之氏。経歴『全讃史』によれば、父の義辰は讃岐高松藩主生駒家より2000石を授けられており、至之と弟の尾池藤左衛門が各1000石を相続したという。 寛永14年(1637年)の生駒家改易(生駒騒動)や島原の乱の頃に肥後熊本藩主細川氏から熊本城下に召し寄せらる。高松藩時代同様に知行1000石・無役・客分に遇され、左右着座の上座にあたる比着座同列定席の家格に編入される(弟の藤左衛門も1000石を知行した)。
新たに称した西山姓は室町3代将軍義満(北山殿)や8代将軍義政(東山殿)に倣ったものかと思われる。綱利の参勤交代に従って江戸に滞在する間に病没した(後略)
ここからは次のような情報が読み取れます。
①尾池玄蕃には、3人の子どもがいて、長男が西山至之(伝右衛門)、次男が尾池藤左衛門が供に、細川藩に仕えることになった。ちなみに末子:官兵衛は生駒藩に残り、後にその子孫は大野原開発に関わることになる。
②尾池玄蕃は、室町幕府の足利義輝の嫡男であることを宣言するために「足利道艦」と改名した。
③長男の尾池伝右衛門も、室町3代将軍義満(北山殿)や8代将軍義政(東山殿)に倣って「西山」に改姓した。
ここからは、尾池玄蕃が「足利義輝の直系子孫」であることを強く印象づけようとしていることがうかがえます。どうして、そのような必要があったのでしょうか?
研究者が新たに発掘した書状を見ていくことにします。
発給者の曾我古祐・包助は、足利将軍家の直臣で、この時点では徳川将軍家に召し抱えられた曽我氏の子孫になるようです。兄の古祐は大坂町奉行、弟の包助は館林松平氏(徳川一門)の家老をつとめつ立場で、徳川将軍家に重用されていたことがうかがえます。

武家家伝_曽我氏
曽我氏系図 「曾我兄弟」の子孫

一方、受取人は西山左京・八郎兵衛で、尾池玄蕃の長男で、彼らは足利義輝(室町幕府十三代将軍)の落胤を称していたことは先ほど見た通りです。つまり、足利幕府にかつて使えていた者同士の書簡のやりとりということになります。それでは見ていくことにします。

尾池玄蕃 旗本家からの書状
 意訳変換しておくと
 なお(西山左京の息子)勘十郎様や山三郎様へ書簡を先に差し出しておくべきところですが、長年音信不通で連絡がとれなく返信が困難な可能性もあり見合わせていました。道閑(尾池玄蕃)様は、このとをご存じないと存じて書状も差し上げませんでした。
 尾池伝右衛門尉殿が江戸へお上りになることについてご連絡頂き、それを見て、勘十郎様・山三殿にもお伝えしました。伝右衛門尉殿については(細川家への就職が内定し)、おめでとうございます。細川殿は肥後在国中だそうですがで、そろそろ江戸に出立するころと察せられます。なお将軍(家光)にも若君様(長男竹千代:後の徳川家綱)が御誕生したとの情報が内々ではひろがっています。これは肥後殿にとっても大慶で、下々に至るまで恐悦なことです。また私儀のことになりますが、急な用向きで、先月21日朝に、大坂へ帰任しましたが、いろいろなことで書簡を出すのが遅れてしまいました。心配しておりましたが、藤左衛門尉殿が京都にいらっしゃるようですが、日程が合えばお会いしたいとも思います。猶期後音之時度候、恐惶謹言、
曽我丹波守八月十(寛永十八年)
 八月十七日 (曽我)古祐(花押)
 西山左京様参御報(尾池)

この文書からは次のような情報が読み取れます。
①大坂町奉行在任中の曾我古祐が、西山左京に宛てた書状であること
②時期は「若君様の御誕生」から、将軍徳川家光の子息で八月出生は、寛永十八年(1641)の長男竹千代(後の徳川家綱)だけなので、この書簡は1641年のもので、生駒騒動発生前年のことになること
③内容は、尾池玄蕃の次男伝右衛門が江戸に下向することを伝えたことへの左京の書状の返書
④追伸部分に登場する勘十郎と山三郎は、西山左京の子息にあたる。
⑤江戸下向が話題にのぼっている尾池伝右衛門・藤左衛門も西山左京と同じく、足利道鑑(尾池玄蕃)の子息になる。
この中の伝右衛門については、従来は西山左京と同一人物とされていました、しかし、この書簡からは別人であったことが確認できます。以上から、尾池玄蕃は三人(西山左京と尾池伝右衛門・藤左衛門)息子と行動をともにしていたとしておきます。
ここで研究者が注目するのは②のこの書簡が、生駒騒動発生の前年にあたることです。
それでは、沈み行く生駒藩から尾池玄蕃とその息子たちが肥後の細川藩へと乗り換えたのはいつなのでしょうか。最初に肥後藩に仕えたのは、次男の西山左京だったようです。そして肥後藩の大阪事務所に勤務するようになります。それがいつなのかはよく分かりません。ただ、寛永15年(1638)には左京は熊本に移り、細川氏の家中に加わていたことが確認できます。その3年後(1641年)正月二日に、熊本で藩主細川忠利は、尾池玄蕃と西山左京勘十郎・山三郎をはじめとする家中の客分たちを熊本城の奥書院で引見しています。ここからは、1641年には尾池玄蕃と次男の西山左京は、細川藩の客分として正式に迎え入れられていたことが分かります。
 研究者が注目するのは、この時の藩主引見には、尾池伝右衛門・藤左衛門の二人の息子の名前がないことです。
尾池玄蕃や左京とちがって、伝右衛門・藤左衛門はまだ細川氏に召し抱えられていなかったと研究者は判断します。 この書簡がやりとりされた1641年の時点では、息子の尾池伝右衛門・藤左衛門のリクルートはまだ進行中で、実現はしていなかったことを押さえておきます。
 そんななかで藩主忠利が寛永18年3月に熊本で死去します。これにより伝右衛門・藤左衛門のリクルート対象は、忠利から嫡子の光尚に替わります。父が亡くなったときに光尚は江戸にいて、将軍家(家光)から家督相続と帰国を許され、熊本に下向ています。そして、用向きを終えると9月末頃に再び江戸に向かって出立しています。その途中の伏見で尾池藤左衛門と対面しています。この「殿様面接」を経て、藤左衛門も細川氏への仕官が正式決定となります。そして12月17日に、妻子を連れて熊本に到着します。
 以上から書簡に出てくる尾池伝右衛門・藤左衛門の江戸下向とは、伏見で江戸に向かう藩主細川光尚と合流し、その江戸参府に随行して上京する計画だったと研究者は考えています。書簡からは、藤左衛門が京都にいたことが分かります。それは藩主光尚の熊本出立を京都で待っていたいたようです。分からないのは、藤左衛門のみが藩主と対面していることです。伝右衛門の名前がないのです。
こうしてみると、細川家は生駒家に仕えていた尾池玄蕃と2人の息子を、客分待遇1000石で迎え入れたことになります。それも生駒騒動勃発の直前です。
尾池玄蕃の家族を客分として迎えた細川藩には、どんな思惑があったのでしょうか?
 近世に生き残った将軍足利氏の子孫としては、次の2氏が知られているようです。
A 鎌倉公方・古河公方の系譜を引く喜連川氏
B 足利義稙(十代将軍)の系譜を引き、足利義栄(十四代将軍)を輩出した平島氏
Aの喜連川氏については徳川将軍家、 Bの平島氏は阿波蜂須賀氏によって扶助されました。
しかし、喜連川氏や平島氏がと違い、尾池氏(西山氏)は、真正の足利氏後裔とはいえません。自称「足利義輝の子孫」なのです。
細川家には近世大名にのし上がるまでに数々の栄光がありました。その中にただひとつ汚点があります。それが家祖・藤孝(幽斎)が将軍足利義昭(義輝弟)の側近でありながら、織田信長に通じて義昭を裏切ったことです。これは、細川氏が自分の系譜を誇るうえで、マイナスポイントとして作用するようにもなります。そこで、細川氏は「尾池玄蕃=足利将軍の落とし子」の真偽を度外視して、尾池玄蕃と西山左京父子を家中に迎え入れたと研究者は考えています。これは「弟(義昭)は裏切ったが、兄(義輝)の子弟は客分として迎えている」という「旧主を庇護する忠臣の演出」ということになるのでしょうか。
 足利道鑑(尾池玄蕃)や西山氏・尾池氏を足利将軍家の後胤とするのは、肥後細川氏の家中の中だけで通用する虚構でした。ところが、足利家の末裔で徳川幕府の有力旗本となっていた曾我古祐・包助兄弟も、西山氏と交際するようになります。足利義昭を見捨てて、後の戦乱の世を生き延びたという経緯は、熊本の細川家と同じです。そのため、旗本の曾我兄弟は細川氏の「尾池玄蕃=足利将軍の落し子」というフィクションを受入て、西山父子を尊重する態度をとっていたのは、先ほど見た書簡の通りです。これについて研究者は次のように記します。

その裏には、今は徳川将軍家の旗本であるが、かつての旧主(尾池・西山家)にも礼を尽くしているというポーズを演出しつつ、足利将軍家旧臣としての自意識を満たそうとしたのだろう。

以上をまとめておきます。

①伊勢藩の藤堂高虎が目付として生駒藩に派遣した西嶋八兵衛は、大旱魃への対応策として「ため池 + 治水工事 + 用水路整備」がセットになったで大規模な「総合開発事業」を各地で同時に進行させた。
②丸亀平野地域の責任者が尾池玄蕃で、青野山に代官所をもうけて指揮にあたった。
③それが残された大川山の鐘や、多度津念仏踊りの史料からうかがえる。
④尾池玄蕃は自分の出自を、室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児と称した。
⑤そして讃岐香川郡の横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)の養子となったとした。
⑥後に生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。
⑦二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
⑧熊本藩細川家は「尾池玄蕃=足利将軍の落とし子」の虚構をあえて信じて「旧主を庇護する忠臣」という立場を演出した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「 小川雄   西山左京・八郎兵衛宛て曾我古祐・包助書状の検証  足利道鑑(尾池玄蕃)と西山氏・尾池氏をめぐる研究の基礎作業として」
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前回は、生駒藩重臣の尾池玄蕃が大川権現(大川神社)に、雨乞い踊り用の鉦を寄進していることを見ました。おん鉦には、次のように記されています。

鐘の縁に
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、 為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行 疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃
ここに願主として登場する尾池玄蕃とは何者なのでしょうか。今回は彼が残した文書をみながら、尾池玄蕃の業績を探って行きたいと思います。
尾池玄蕃について「ウキ」には、次のように記します。
 尾池 義辰(おいけ よしたつ)通称は玄蕃。高松藩主生駒氏の下にあったが、細川藤孝(幽斎)の孫にあたる熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。
「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
出生については、天文20年(1551年)に足利義輝が近江国朽木谷に逃れたときにできた子ともいうあるいは「三百藩家臣人名事典 第七巻」では、義輝・義昭より下の弟としている。
 足利将軍の落とし胤として、貴種伝説をもつ人物のようです。
  尾池氏は建武年間に細川定禅に従って信濃から讃岐に来住したといい、香川郡内の横井・吉光・池内を領して、横井に横井城を築いたとされます。そんな中で、畿内で松永久通が13代将軍足利義輝を襲撃・暗殺します。その際に、側室の烏丸氏女は義輝の子を身籠もっていましたが、落ちのびて讃岐の横井城城主の尾池玄蕃光永を頼ります。そこで生まれたのが義辰(玄蕃)だというのです。その後、成長して義辰は尾池光永の養子となり、尾池玄蕃と改名し、尾池家を継ぎいだとされます。以上は後世に附会された貴種伝承で、真偽は不明です。しかし、尾池氏が香川郡にいた一族であったことは確かなようです。戦国末期の土佐の長宗我部元親の進入や、その直後の秀吉による四国平定などの荒波を越えて生き残り、生駒氏に仕えるようになったようです。
鉦が寄進された寛永五(1628)年の前後の状況を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
     尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.

ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、満濃池築造にも取りかかった。
④同年に尾池玄蕃は大川権現に、雨乞い用の鉦を寄進している。
3人の国奉行の配下で活躍する尾池玄蕃が見えて来ます。

尾池玄蕃の活動拠点は、どこにあったのでしょうか?
尾池玄蕃の青野山城跡
三宝大荒神にある青野山城跡の説明版

丸亀市土器町三丁目の三宝大荒神のコンクリート制の社殿の壁には、次のような説明版が吊されています。そこには次のように記されています。
①ここが尾池玄蕃の青野山城跡で、西北部に堀跡が残っていること
②尾池一族の墓は、宇多津の郷照寺にあること
③尾池玄蕃の末子義長が土器を賜って、青野山城を築いた。
この説明内容では、尾池玄蕃の末っ子が城を築いたと記します。それでは「一国一城令」はどうなるの?と、突っ込みを入れたくなります。「昭和31年6月1日 文化指定」という年紀に驚きます。どちらにしても尾池玄蕃の子孫は、肥後藩や高松藩・丸亀藩にもリクルートしますので、それぞれの子孫がそれぞれの物語を附会していきます。あったとすれば、尾池玄蕃の代官所だったのではないでしょうか? 
旧 「坂出市史」には次のような「尾池玄蕃文書」 (生駒家宝簡集)が載せられています。
預ケ置代官所之事
一 千七百九拾壱石七斗  香西郡笠居郷
一 弐百八石壱斗     乃生村
一 七拾石        中 間
一 弐百八拾九石五斗   南条郡府中
一 弐千八百三十三石壱斗 同 明所
一 三千三百石八斗    香西郡明所
一 七百四拾四石六斗   □ □
  高合  九千弐百三拾七石八斗
  慶長拾七(1615)年 正月日                   
           (生駒)正俊(印)
  尾池玄蕃とのへ
この文書は、一国一城令が出されて丸亀城が廃城になった翌年に、生駒家藩主の正俊から尾池玄蕃に下された文書です。「預ケ置代官所之事」とあるので、列記された場所が尾池玄蕃の管理下に置かれていたことが分かります。香西郡や阿野南条郡に多いようです。
 生駒家では、検地後も俸給制が進まず、領地制を継続していました。
そのため高松城内に住む家臣団は少なく、支給された領地に舘を建てて住む家臣が多かったことは以前にお話ししました。さらに新規開拓地については、その所有を認める政策が採られたために、周辺から多くの人達が入植し、開拓が急速に進みます。丸亀平野の土器川氾濫原が開発されていくのも、この時期です。これが生駒騒動の引き金になっていくことも以前にお話ししました。
 ここで押さえておきたいのは、尾池玄蕃が代官として活躍していた時代は生駒藩による大開発運動のまっただ中であったことです。開発用地をめぐる治水・灌漑問題などが、彼の元には数多く持ち込まれてきたはずです。それらの解決のために日々奮戦する日々が続いたのではないかと思います。そんな中で1620年代後半に襲いかかってくるのが「大旱魃→飢饉→逃散→生駒藩の存続の危機」ということになります。それに対して、生駒藩の後ろ盾だった藤堂高虎は、「西嶋八兵衛にやらせろ」と命じるのです。こうして「讃岐灌漑改造プロジェクト」が行われることになります。それ担ったのが最初に見た「国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛」の3人です。そして、尾池玄蕃も丸亀平野方面でその動きを支えていくことになります。満濃池築堤や、その前提となる土器川・金倉川の治水工事、満濃池の用水工事などにも、尾池玄蕃は西嶋八兵衛の配下で関わっていたのではないかと私は考えています。
多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

以前に紹介したように「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊文書)」に、尾池玄蕃が登場します
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言
七月朔日(1日)       (尾池)玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮(牛頭天王社)神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

以後の尾池玄蕃の文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日) 尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認
  滝宮神社への踊り込み(奉納)が7月25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を細かく与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。
 ここからは尾池玄蕃が滝宮牛頭天皇社(神社)への各組の踊り込みについて、細心の注意を払っていたことと、地域の実情に非常に明るかったことが分かります。どうして、そこまで玄蕃は滝宮念仏踊りにこだわったのでしょうか。それは当時の讃岐の大旱魃対策にあったようです。当時は旱魃が続き農民が逃散し、生駒藩は危機的な状況にありました。そんな中で藩政を担当することになった西嶋八兵衛は、各地のため池築堤を進めます。満濃池が姿を見せるのもこの時です。このような中で行われる滝宮牛頭天皇社に各地から奉納される念仏踊りは、是非とも成功に導きたかったのでないか。 どちらにしても、次のようなことは一連の動きとして起こっていたことを押さえておきます。
①西嶋八兵衛による満濃池や用水工事
②滝宮牛頭天王社への念仏踊り各組の踊り込み
③尾池玄蕃による大川権現(神社)への雨乞用の鉦の寄進
そして、これらの動きに尾池玄蕃は当事者として関わっていたのです。
真福寺3
松平頼重が再建した真福寺

 尾池玄蕃が残した痕跡が真福寺(まんのう町)の再建です。
 真福寺というのは、讃岐流刑になった法然が小松荘で拠点とした寺院のひとつです。その後に退転しますが、荒れ果てた寺跡を見て再建に動き出すのが尾池玄蕃です。彼は、岸上・真野・七箇などの九か村(まんのう町)に勧進して堂宇再興を発願します。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったようです。ここからは、尾池玄蕃が寺院勧進を行えるほど影響力が強かったことがうかがえます。
 しかし、尾池玄蕃は生駒騒動の前には讃岐を離れ、肥後藩にリクルートします。檀家となった生駒家家臣団が生駒騒動でいなくなると、真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重です。その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。それが現在地(まんのう町岸の上)に建立された真福寺になります。
  以上をまとめておきます。
①尾池玄蕃は、戦国末期の動乱期を生き抜き、生駒藩の代官として重臣の地位を得た
②彼の活動エリアとしては、阿野郡から丸亀平野にかけて活躍したことが残された文書からは分かる。
③1620年代後半の大旱魃による危機に際しては、西嶋八兵衛のもとで満濃池築堤や土器川・金倉川の治水工事にあったことがうかがえる。
④大川権現(神社)に、念仏踊の雨乞用の鉦を寄進するなどの保護を与えた
⑤法然の活動拠点のひとつであった真福寺も周辺住民に呼びかけ勧進活動を行い復興させた。
⑥滝宮牛頭天王社(神社)の念仏踊りについても、いろいろな助言や便宜を行い保護している。
以上からも西嶋八兵衛時代に行われ「讃岐開発プロジェクト」を担った能吏であったと云えそうです。
 尾池玄蕃は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
玄蕃の子孫の中には、高松藩士・丸亀藩士になったものもいて、丸亀藩士の尾池氏は儒家・医家として有名でした。土佐藩士の尾池氏も一族と思われます。
    
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


 香川県には、現在以下の3つの「讃岐国絵図」が残されています。
①丸亀市立資料館本 (1633年作成)
②金刀比羅宮本 (1640年作成)
③高松市歴史資料館本 (元禄年間 18世紀初頭前後)
④内閣文庫本 (1838年作成 天保国絵図)
大きさはどれも畳一畳ほどのものです。今回は、これらの国絵図が何の目的で、作られたのかを見ていくことにします。「テキストは羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」です。

グーグルで「讃岐国絵図」を検索して、国立文書館デジタルライブラリーを開いて、④の天保国絵図を覗いてみます。自由にポイントを選んで拡大できるので、近世の讃岐のことを地図上で確認するには重宝しています。私の愛用サイトのひとつです。

讃岐国絵図 天保版1
   ④讃岐国絵図 内閣文庫本(1838年作成 天保国絵図)

 江戸幕府は、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの絵図等を各藩に命じています このうち最後の作成となった天保国絵図は、天保6年(1835)に作成指示が出され、3年後の1838年)に完成しています。その作成方法等について、国立文書館デジタルライブラリーの説明画面には次のように記されています。
縮率・描法等は元禄図と同様で、1里を6寸とする縮尺(約21,600分の1)で、山、川、道路等が描かれ、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です。郡別に色分けされた楕円形の枠内には村名と石高が、白四角で示された城下町には地名と城主の名前が記されています。
讃岐国絵図 天保版2金毘羅周辺
      讃岐国絵図 天保版 (金毘羅周辺拡大図)

 各絵図の一隅には、郡ごとの色分け・石高(こくだか)・村数を列挙した凡例が記され、最後に国絵図の作成に関係した勘定奉行・勘定吟味役・目付の氏名が加えられています。
(以下略)
原図サイズ:455cm×南北301cm。
天下統一を果たした秀吉や家康は、各国の国絵図の提出を大名達に命じます。
秀吉は天正十九年(1591)に、大名から郡ごとの絵地図を提出させて天皇に献上しています。家康は慶長九年(1604)に西日本の大名から郷帳と国絵図を提出指示、家光は寛永十年(1633)に、全国の大名に国絵図を提出させています。しかし、これらの地図に、作図法の統一はなかったようです。
 正保元年(1644)に家光は、再び全国の大名に国絵図を提出させます。この時に作図法について、次のような指示が出されています。
 慶長九年に国絵図奉行の西尾吉次が指示した作図マニュアルには、次のように記されています。
①田郡名を墨書して、一郡ごとの田畑数・分米高・村数を朱書きすること
②村名を俵形に記入し、その外側に村の石高を書きつけること
③国境を入念に描くこと、
④田色絵にして川や道を区別すること
⑤絵図全体が大きくなりすぎないこと
この指示に基づいて、生駒藩でも讃岐の国絵図が制作されたようです。このため正保年間以後に作られた国絵図は、統一性があります。それ以前のものとは、一目見て違いが分かるようです。その後も幕府は元禄・天保に国絵図を提出させています。なお、寛永の国絵図は、急な提出命令だったので慶長国絵図などの今までに書かれていた国絵図を写したものが多かったようです。
さて、幕府に提出された讃岐国絵図の中で、讃岐に残されたコピー版を見ていくことにします。
 丸亀市立資料館には「寛永国絵図」が保管されています

 丸亀市立資料館蔵『讃岐国大絵図』は、金刀比羅宮蔵と記載内容、表現、色遣いまで非常によく似ているので、同系統版と研究者は考えているようです。丸亀市の高木伝太氏が所蔵していたものを、市が買いとったもですが、そこに書かれている内容は、金刀比羅宮蔵のものとほとんど同じのようです。
 寛永国絵図の幕府提出用の原本は、慶長国絵図をテキストにして急いで作成されたもので、両者はほぼ同じものだったようです。異なる点は、寛永国絵図には西島八兵衛がつくった90余りの大の代表的な大池12が描かれていることです。ここからは、寛永国絵図には普請奉行の西島八兵衛が関与・作成したことが推測できます。

次に金刀比羅宮蔵『讃岐国大絵図』を見てみましょう。
この絵図の裏書きには「寛永拾年酉三月日」、「生駒高俊公御寄付写 讃岐国大絵図 寛永拾七辰年」と記されています。
 ここからは、寛永十年(1633)に幕府に提出するために作成された絵図をコピーして、さらにそれを寛永17年(1640年)に再コピーしたものを金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことがうかがえます。製作時期からみて、幕府巡見使派遣の際に作成された寛永国絵図原本のコピー版を、生駒藩取りつぶしの直前の寛永17年(1640)に奉納したようです。領国支配のためには重要な情報が書き込まれた国絵図ですが、出羽国一万石に移封となった生駒家にとって、『讃岐国絵図』は不要のものです。そこで日頃から信仰の厚かった松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)に奉納したというストーリが考えられます。
 このように寛永十年(1633)に幕府に提出した原本からは、少なくとも金刀比羅宮蔵版と丸亀市立資料館蔵版2つのコピーが作成されていたことになります。
この両者の関係を研究者は、次のように考えているようです。
①九亀市立資料館本は、原本が作成された寛永十年に写されたもので、書かれた内容は金刀比羅宮本とほぼ同じである。
②1640年に寄贈された金刀比羅宮本の方が丸亀市立資料館本よりも、すっきりと洗練されたものになっている。
③西嶋八兵衛1639年に、伊勢に帰っていて金刀比羅本の作成にかかわっていない。

両者の細部を検討すると、丸亀市立資料館蔵版は、原本完成の直後の寛永十年にコピーされたもので、金刀比羅宮版より原本に近いようです。つまり、2枚の讃岐国絵図は、幕府に提出するために作成されたものの原本をコピーして讃岐国内に残したものと研究者は考えています。

系統の違う高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』を見ておきましょう。
讃岐国絵図|高松市
高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』

 高松市資料館のHP解説には、次のように記されています。    
本絵図は縦79センチメートル、横212センチメートルの法量で、墨書に一部着色し南を上にする構図である。黄色く着色された短冊形の枠には郡名を、着色の無い円形枠には村などの地名を記す。郡境は墨書き、道は朱書きによって表現し、山、川、海は薄墨で着色している。
社寺には墨及び朱書きをし、黄色や薄墨の着色で建造物が表現されている。
高松市歴史資料館所蔵「讃岐国絵図」、市文化財に/文化財保護審議会が答申 | BUSINESS LIVE

各村には石高が表示されており、裏面には郡ごとに総石高と田方、畑方のそれぞれ総反畝数が記されている。
そして、絵図の裏(折本の表紙にあたる箇所)には角型と壺型の印章があり、印文は角型が「別所信治」、壺型が「孫四郎」と読める。これらの印章から『寛政重修諸家譜』第8の播磨三木城主別所氏の一族である別所常治(正徳元(1711)年没)が所蔵していたものと考えられる。
同書によれば、常治は最初の名が「信治」、名乗りが「孫四郎」であり、延宝6(1678)年に家督を継ぎ、書院番や使番などを務めた後、長崎奉行に任じられている。これと同じ角型と壺型の印章が、明石市立文化博物館蔵「播磨国絵図」、鳥取市歴史博物館蔵「因幡国絵図」「伯耆国絵図」でも見られることから、この常治が収集したコレクションの一部であったと推察される。

この絵図には、金毘羅寺(松尾寺:現金刀比羅宮)に、三つの建造物が朱で描かれています。
讃岐国絵図 高松市資料館蔵の池内村
高松市歴史資料館 讃岐国絵図

その三つの建造物は観音堂・新金昆羅堂(薬師堂)・多宝塔のようです。
①観音堂は宥雅が元亀二年(1571)前後に建立したものです。長尾氏出身の宥雅は、翌年の元亀四年(1572)に観音堂に登る坂道の北側に金毘羅堂を建立しています。
②新金昆羅堂(薬師堂)は、生駒藩外戚の山下家出身の院主によって元和九年(1623)に建立され、それまでの金毘羅堂は役行者堂に衣替されます。
③多宝塔は延宝元年(1673)に、生駒騒動の後に、初代高松藩主としてやってきた松平頼重が建立寄進したものです。
 高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、③の多宝塔が描かれているので、慶長国絵図をテキストにして延宝元年(1673)以降の元禄年間に作成されたことが考えられます。つまり、寛永十年(1633)作成の九亀市立資料館蔵や金刀比羅宮蔵のものよりも新しいものになるようです。
 ところがもうひとつ問題があります。
この国絵図には満濃池が書かれていないのです。満濃池は源平合戦の最中に決壊して以後450年間放置され、その跡には「池内村」ができていたと伝えられます。その「池内村」が、この絵図には記さています。西嶋八兵衛が満濃池を改修したのが寛永5(1628)年のことです。
 また、丸亀城が「圓亀古城」となっているのはいいとして、引田城が「城」と記されています。これは慶長20(1615)年の一国一城令以前のことを描いていることになります。
 以上のように高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』からは、次のようなことが読み取れます。
①金毘羅大権現の多宝塔からは、17世紀後半のことが記されていること。
②満濃池跡の「池内村」や引田城からは、17世紀初頭のことが描かれていること
①②の矛盾する内容が、同位置地図に描かれていることになります。これに対して、研究者は次のように考えているようです。
A 高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、慶長末期までの詳細な情報を記す原図があったこと
B その原本に基づいて、コレクターの別所常治が亡くなる正徳元年までの間で書写した国絵図である。
 幕府の元に集められ保管されていた各国の慶長国絵図を、元禄気になってコピーしたのかもしれません。どちらにしても、高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、丸亀市立資料館蔵や金刀比羅宮蔵の「寛永国絵図」系統のものにはない江戸初期の讃岐の様子が描かれた史料であることになります。そこに書かれている内容は、慶長年間(1596一1615)頃のものが含まれているようです。しかし、製作年代については、元禄年間に作成されたもので、丸亀市立資料館本より40年以上新しいと研究者は考えているようです。そして、高松市歴史資料館本は、慶長国絵図が存在していたことを示す貴重な史料と云うことになるようです。
讃岐国絵図 高松市資料館版新聞報道
高松市歴史資料館蔵の讃岐国絵図
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度


 
正保元年(1644)に幕府は、各藩に「正保国絵図」の制作を命じます。慶安初年1648)にかけて国絵図が、国毎に作られ幕府に提出されます。ちなみに讃岐国の担当大名は、松平讃岐守頼重でした。
 この時期の讃岐国は、寛永17年(1640)に生駒高俊が封地の讃岐国を収公され、翌18年に西讃岐五万石の領主として山崎家治が、翌19年に松平頼重が讃岐高松12万石の領主として移封を命じられています。生駒藩一国体制から、高松藩と丸亀藩の二藩体制への移行期でした。山崎藩・藩主家治は、九亀城を居城として、廃城となっていた丸亀城の修築を始めます。つまり正保国絵図には、生駒家が讃岐一国の領主であった時期の讃岐国開発の最終的な姿が、描かれていると研究者は考えているようです。
 それでは引田はどう描かれているのでしょうか。
まずは「正保国絵図」(国立公文書館)の大内郡の様子を見てみましょう。
引田 大内郡 正保国絵図
①古城山(引田城跡)の背後の入江には引田濱があります。
②馬宿川の河口と、馬宿村には舟番所が置かれています。
③遠見新番所も、後から設置されたようです。
④高松・阿波街道が引田濱を通過しており、西に向かうと大坂峠を経て阿波へ
⑤東には白鳥を経て、高松へ
⑥引田濱の注記には次のように記されています。
「是より庵治へ七里二十三町 磯より沖の舟路まで十七町 西北風に船掛かりよし
ここからは引田浦が後背地や街道に面して、交易湊として栄える地理的な条件を持っていたことがうかがえます。何より、海に開けた港があり、讃岐では最も大坂に近い所だったのです。生駒氏が讃岐にやって来たときに、最初の城を構えようとしたのも納得がいきます。生駒氏の引田城造営については、以前にもお話ししましたので、今回は別の視点から引田城下を見ていくことにします。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
 絵図をもう少し拡大して見ましょう。
「正保国絵図」の引田城跡の周辺部の拡大図です。
引田 小海川流路変更

この絵図から読み取れることを挙げておきます。
①中央左手に「古城山」と記入されている山が引田城跡。
②右上から流下している小海川が「古城山」の西側を流れ海に流れ込んでいる
③その河口西側に安戸池がある
④引田濱を高松・阿波街道が通過している
⑤高松街道の小海川には橋が架かっている
⑥橋の東側の高松街道沿いに●が2つついている。これが一里塚の印であった。
下図は、約200年後の「天保国絵図 讃岐国」の大内郡のエリアを切り取ったものです。
引田 大内郡 天保国絵図

天保国絵図は、幕府の命により作られた最後の国絵図になるようです。完成は天保9年(1838)とされるので、さきほどの正保国絵図の約二百年後の引田が描かれていることになります。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に閲覧可能です。

  画面を引田にズームアップしていきます。
引田 大内郡 天保国絵図拡大

まず気づくのは、①小海川の流路の変化です。正保国絵図では、古城山の西麓を通り、安戸池の西側で海へ注いでいました。ところが、天保国絵図では、小海川は、古城山の東麓を流れて海に注いでいます。安戸池側には流れていません。現在の河道と同じです。
 また、旧河道跡には⑤「塩濱」(塩浜)と記されています。「正保国絵図」後に、小海川の河道は変更されていることが分かります。つまり、江戸時代に小海川の川筋は付け替えられたのです。
その付け替えが行われたのは、いつのことなのでしょうか。
その資料として研究者は、ほぼ同じ時期に描かれたとされる2つの絵図を比較します。

引田 小海川流路変更2
①共通するのは、引田城(城山)と誉田八幡が鎮座する宮山と引田浦の間は海として描かれている②右の「高松国絵図」では、小海川の河道は宮山の西側を通り「安穏池」(安戸池)は、川の一部として描かれています。つまり、小海川の河道は安戸池側にあったことを示しています。ここからは、この二つの絵図が書かれた時には、小海川は安戸池側に流れていたことが分かります。

【図5】は引田の「地理的環境説明図」(木下晴一氏の作成)です。
引田の地理的環境

流路変更前の小海川の河道を、上図でたどってみましょう。
①小海川は、内陸部の条里型地割と山地のエリアでは、真っ直ぐに北へ流れてきます。
②それが潟湖跡地にはいると蛇行し、
③海岸部の砂嘴・浜堤に沿って両方へ流れを変え、
④誉田八幡の南部を経て、城山西麓(安戸池)海へ注いでいた。
その復元図を見てみましょう。
HPTIMAGE.jpg引田

【天保国絵図】にあった塩浜は、城山西麓のかつての干潟に当たるようです。
【図4】のふたつの絵図では、城山と宮山との間は海で隔たれていました。そして、城山と誉田八幡との間もかつての潟で、満潮時には海水が流入していたようです。この場所は、一番最初に見た「正保国絵図」では陸続きとして描かれていたので、それまでに埋積されたのでしょう。
引田城下町復元図
それでは、小海川の付け替えの目的は、どこにあったのでしょうか
① 小海川の現在の河道は、古川に向かって低くなる方向には流れず、最も高いところを流れている。
②これは河道を入為的に固定していることを示す。
③北側の丘陵の裾部に沿って直線状に流れ、砂嘴と西から延びる舌状の丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいる。
④狭い部分から下流の河道左岸側には高さは低いが幅広の堤防が築かれている。
以上のように、小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に海に排水することを目指したもので、小海川のルート変更を行う事で、砂嘴上にある引田の水害防止策がとられたと研究者は考えているようです。
1引田城3


その時期は現在の所は、正保国絵図が作成された後から、天保国絵図の作成までの200年間の間としかいえないようです。生駒時代に行われたものではないようです。
5引田unnamed (1)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)


「正保国絵図」の讃岐版は生駒家が去った後に、幕府の求めに応じて松平藩の下で作成・提出されたものです。しかし、ここには香東川後の流路は示されていません。なぜか流路変更前のルートが記されています。今回は、香東川の治水について見ていこうと思います。テキストは、
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
香東川の分岐 正保国絵図

【図9】は、香東川の分岐周辺の写図です。この絵図では東の寺井村と西の川部郷の間の②で香東川が東西に分岐しています。現在の香川中央高校の西側の川部橋あたりとされているようです。
分流した川にはそれぞれ次のような注記があります。
①東側の流れについて、
一ノ宮川 広八間 深六寸 洪水時一町三十問 渡リナシ」、
②西側の流れについて、「圓(円)座川」「川幅六間 深五寸 洪水ノ時広廿間 渡なし」
東側の河道には「香東川」との注記もあります。分かれた川は、それぞれの流域から一宮川と円座側と呼ばれていたようです。成合は、その二つの川に挟まれたエリアであったことが分かります。ちなみに、一の宮村にある「明神」は、現在の田村神社のようです。

香東川の分岐
【図10】は、香東川が分岐している状況を描いた所を「正保国絵図」の2つの版で示したものです。分岐点を見ると、どちらも円座と一宮の間になっています。先ほどの絵図を比べると、分岐点が「寺井ー川部」から「一宮ー円座」に変化しているようです。これをどう考えたらいいのでしょうか?
まずは定説を確認しておきましょう
香東川は寛永年間(1624ー44)、生駒家が讃岐一国の領主であったとき、東側の流れをせき止め、高松城下西部を流れるよう川筋を一本化したというのが定説です。その工事を行ったのが、生駒家の外戚であった伊賀・藤堂藩から家老級の扱いでやって来ていた西嶋八兵衛とされています。その根拠となるのは、次の2つの資料です
①寛政三年(1791)成立の地誌「大野録」に次のように記されていること。
香渡川は、寛永の頃まて大野の郷の西より二又にわかれて、一筋は一ノ宮・坂田郷をへて室山の東をめぐり、石清尾山の下を流て、いとがはまの西に入けり。
 又一筋は弦打山の西に、そふて今のごとし。当(大野)村の中州といへるは、則両河の間なり、寛永中、自然の河瀬深くなりて、東は浅くなりけれは、国主生駒公より堤を築て、東の河筋を畑にひらかせたまひ、古河筋新開と号す。

意訳変換しておくと
 香東川は、寛永の頃までは、大野郷の西で二つの流れに分かれて、一筋は一ノ宮・坂田郷をへて室山の東をめぐり、石清尾山の下を経て、いとがはまの西で海に流れ込んでいた。もう一筋は弦打山の西に沿って、今の流れと同じである。大野村の中州というのは、この二つの流れに挟まれたエリアになる。寛永年間中に、西側の河は深くなりて、東川の川筋は浅くなった。そこで生駒藩では、堤防を築いて、畑に開墾し「古河筋新開」と呼ぶようになった。

 もうひとつの根拠は、大野村の中州附近から出土した「大禹謨」と刻まれた石碑の存在です。
栗林公園(大禹謨碑)|フォトダウンロード|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット

これは自然石に刻まれたもので、今は栗林公園の商工奨励館の内庭に保存されています。中国古代の伝説の王で、治水に業績を上げた禹を祭る碑です。彼の治水事業の故事にちなんで、西嶋八兵衛が設置されたとされます。
 その出土と再発見の時期や場所、経緯については、藤田勝重著の「西嶋八兵衛と栗林公園』に詳しく書かれています。要約しておきます。
藤田は、昭和37年、八兵衛の墓所のある三重県上野市を訪ね、同市立図書館に寄託された八兵衛の自筆文書を多数閲覧したこと。さらに当時、三重県文化財専門委員を勤めていた村治円次郎と面会し、大禹謨の刻文は八兵衛の真筆であるとの鑑定を得たこと。以上から、この碑文が西嶋八兵衛の自筆のものであり、香東川を一本化し、現在の河道に固定された記念碑として設置された

これが定説のようです。しかし、最近国立公文書館のデジタルアーカイブスを何気なく見ていて、出会ったのが次の絵図です。

香東川周辺 天保国図 

  この絵図で白い部分が高松城です。そして、高松城を東西から囲むように流れている川が書き込まれています。私は、これを見て香東川が一本化される前の絵図と思っていました。しかし、説明には「天保国絵図」と書かれているのです。天保国絵図は、天保6年(1835)に幕府が、各藩に作成・提出を求めた国絵で、信頼性が高いとされます。これを見る限り、幕末になっても香東川は分流してながれていたことになります。本当に、香東川は一本化されていたのでしょうか。
  天保国絵図の香東川分岐点を拡大して見ましょう。
香東川分岐点

  分岐点は、最初に見た絵図と同じ寺井村と河辺村の間です。小田池からの用水路の合流地点でもあるようです。最初に見た正保国絵図とほとんど変わりありません。  ちなみに図中の、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示だそうです。
香東川の分岐4

【図11】は、「高松平野地形分類図」より、香東川がかつて分岐していた川部と大野周辺を示したものです。
ここからは、香東川の旧河道のうち、時期の新しい旧河道Ⅱは東側に集中していることが分かります。東側の河道の川幅について「洪水時一町三十間」と記されているのは、洪水時に旧河道に水があふれ、それほどの川幅になることを示しているようです。大禹謨の最初の出土地は、大野・川部間の中州であったといいます。この附近に自然堤防を利用して南北方向に堤防を築き、東側の流れをせき止めたと研究者は考えているようです。せき止め後、東側の分流は御坊川として独立したとします。
香東川治水工事1

しかし、この工事が西嶋八兵衛によって行われたかどうかは、私は判断を保留します。
     最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。

金毘羅大権現が発展していく礎石となったのが、生駒家時代の寄進地でした。
何回にも分けて金毘羅に寄進された石高は330石になります。
これを他の寺院と比較してみると寄進地が圧倒的に多いのが分かります
①2番目に多いのが勝法寺(興正寺)の150石
②3番目は生駒家の菩提寺法泉寺の100石
③国内で古い由緒を誇る国分寺・誕生院(善通寺)でも60石程度。
⑤白峰寺・田村神社は50石で、親正ゆかりの弘憲寺と同じ。
⑥屋島寺が43石、水主明神の35石、引田八幡宮30石、滝宮27石、威徳院20石、根来寺18石と続きます。
 金毘羅へは、寛永年開になっても祭祀料50石が寄せられていたので、生駒家からの寄進は実際は380石であったと考えてもいいようです。生まれたばかりの新興宗教団体の「金毘羅大権現」に、生駒家が寄進を重ねたのはオナツという女性の力があったことを以前にお話ししました。

生駒一正 - Wikipedia
生駒家2代藩主・一正
 
一正の愛したのが於夏(オナツ)です
 一正は讃岐入国後に於夏(オナツ・三野郡財田西ノ村の土豪・山下盛勝の息女)を側室として迎えます。於夏は一正の愛を受けて、男の子を三豊の山下家で産んでいます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになります。彼は成人して、腹違いの兄の京極家第三代の高俊に仕えることになります。
 
寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり。「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。 金毘羅大権現への寄進・保護を進めたのも於夏とその子ども達です。
オナツと金毘羅を結ぶ糸は、どこにあったのでしょうか? 
それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
一方、於夏の弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。
この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 1613~45年まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。宥睨が金毘羅の院主となった慶長18年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。オナツを中心に強力な「金毘羅大権現の応援団」が生駒藩には形成されていたのです。そのメンバーを確認しましょう。
①2代目・一正未亡人の於夏
②一正とオナツの息子で藩内NO2の石高を持つ筆頭家老・生駒左門
③一正とオナツとの間に生まれた娘山里(?実名不明)(左門の妹)
④於夏の娘山里③が離婚後に産んだ生駒河内(一正の養子)
⑤於夏の娘山里③の再婚相手である生駒将監と、その長男・帯刀
   こうして「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀」を於夏の血脈は結びつけ、生駒氏一門衆の中に、外戚山下家の人脈(閨閥)を形成していきました。この血脈が大きな政治的な力を発揮することになります。その結果、もたらされたのが生駒家の金毘羅大権現への飛び抜けた寄進になるようです。
オナツの娘(山里?)について、生駒記には次のように記されています
家嫡正俊、讃岐守ニ任ジ四品二叙シ家督相続ス。二男左門ハ五千石宛行、家老並ニナル。女子一人猪隈人納言公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル。
意訳すると
生駒家二代一正は、長男正俊を讃岐守に任じ四品を叙任し家督を相続させた。二男左門(正俊異母弟)には、五千石を知行させ家老並に扱った。女子一人(山里?)は、猪隈人納言公忠公に嫁がせたが故ありて高俊の代になって国に戻ってきた。

この様に史書は一正の息女が猪隈大納言へ嫁しことを伝へています。
しかし、「公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル」とあり、京都の猪熊大納言公忠卿に嫁しますが「故あって」懐胎したままで讃岐に帰ってきます。なぜ帰ってきたのでしょうか、しかも懐妊状態で?
 前置きが長くなりましたが「謎の女・オナツの娘(山里)」について紹介した文章に出会いましたので紹介したいと思います。
テキストは「山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年」です。
ここには、宮中一の美男子と云われた猪熊大納言公忠卿に嫁した「オナツの娘(山里)」が、なぜ懐胎したままで讃岐に還ってきた理由が明らかにされています。史料を見てみましょう。
幕末の金光院の役人山下盛好の覚書の一文です。

1オナツの娘の離婚理由

意訳して見ましょう
後陽成天皇 慶長十三(1608)年3月、
猪隈侍徒教利(この家は今は絶家となっている。生駒一正侯ノ女、猪隈大納言公忠公に嫁いだと記録にあるのは、この教利の一族のことである)
鳥丸参議光廣公(同家六代目ノ所に見える人物である)
花山院少杵忠長公(同家の系譜からは削除されたのか見えない。今の花山家とは別かもしらない。
徳大寺少特実久公(同家十九代目である)
飛鳥井少将雅賢公(同家十四代目である)
難波少膳宗勝(同家十四代目である)
松本少格宗隆等
以上の者達が共に結んで蕩遊し、密かに宮女五人を誘い出し、これを姦した。(内二人は実承寵幸)
これを知った後陽成天皇は震怒し、
1オナツの娘の離婚理由

家康公の京都所司代・板倉四郎左衛門宗勝に告発し、糾すように求めた。慶長14年(1609)11月に次のような処分が下された。
猪隈教利は斬首 宮女五人を八丈島に流した。宗隆・頼国は硫黄島、忠長を松前(北海道)、雅賢は隠岐、宗勝は伊豆へ流された。光廣・実久の二人は、許しを得て位階を復活させた。この引書は、逸史・続国史略・王代一覧に書かれていることに依った。
  これはなかなかスキャンダラスな内容のようです。いまの週刊誌風に表現すると
イケメン貴族達 宮女5人と乱交バーテイー
 天皇は激怒し 首謀者は斬首
というようなタイトルが飛び交いそうです。

報道には「裏をとる必要」があるので、別の資料にも当たっておきましょう。
「高橋紀比古 江戸初期の宮中の風紀紊乱について 平成元年、歴史読本臨時増刊号 」に、は次のような内容が載せられています。
   徳川幕府が成立し戦国時代の窮乏からは解きはなたれたものの政治から隔離された生活をしいられるようになると公家衆の風紀は著しく弛緩してゆく。宮廷随一の美男子ともてはやされると右近衛権少将猪熊教利は、女官との愛に溺れて素行がおさまらず、慶長十二年(1607)2月に勅勘をこうむり、京から出奔した。一説に相手の女官は後陽成天皇の寵をうけていたという。ところが事件発覚後も宮中の気風はいっこうに改まらず、慶長十四年七月には典薬の兼康備後なる者が手引きをし、参議鳥丸光広・左近衛権中将大炊御門頼国ら公卿と典侍、広橋氏、権典侍中院氏らの女官が、今でいう乱交パーティーをくりひろげた。
この一件を知った後陽成天皇は激怒、公卿の官位を剥奪し、女官をそれそれの実家に帰し禁錮にした。さらに天皇は出奔して行方知れずの猪熊教利を捕縛のうえ乱交に加わった男女ともども極刑に処するよう幕府に求めた。
 これにたいし徳川家康は、同年11月に教利が日向国で逮捕されると、京へ押送させ、兼康備後とともに死刑にした。しかし、天皇の御母新上東門院や女御近衛氏による助名嘆願もあって鳥丸光広、徳大寺実久を無罪。他の公卿、女官を配流とするにとどめた。
   金光院の山下家の文書と現代の歴史学者の説は一致しているようです。一正とオナツの娘(山里)、故あって懐胎したままで讃岐に帰ってきた背景には、こんなスキャンダルに巻き込まれたからのようです。
山下家の記録には、一正とオナツの子ども達が次のように記されています。
  一男は生駒左門
西村大屋舗(現在―三豊郡山本町)(山下盛久宅ナリ)ニテ誕生、慶長五子年也
幼名 熊丸卜云、九才ノ時
南無天満大自在天神卜染筆有、今宗運寺(山下盛久建立)ノ什物也
連技家老トナリ五千七十石
寛永十七辰年生駒家没落、作州森美作守侯へ御預、五十人扶持ニテ為方卜有
万治三子年五月九日死去六十一才
体本院雄心全功居士
女子 猪隈大納言公忠卿二嫁ス
(逸史略、続国史略、慶長十四年六月猪隈侍徒斬罪ノ吏有)
有故高俊侯ノ代国二返り有胎ノマヽ一子ヲ生ム 後生駒特監二再嫁ス生駒帯刀ノ継母ナリ
意訳すると
逸史略、続国史略には、慶長十四年六月に猪隈侍徒斬罪となったことが記される
そのため三代高俊侯の時に、懐妊状態で讃岐に帰り、男子を産んだ。その後、生駒特監に再嫁し、生駒帯刀の継母となった
一子ハ生駒河内(猪隈大納言公忠卿の子) 
釆地三千石余被下置、生駒騒動二際シ追放サンル。子孫、高松二有卜云フ
                                (以上、山下家譜)
どうして、一正は娘を公家に嫁がせたのでしょうか?
理由のひとつは、一正が戦国武膊の悲情さ・無常さを充分味って、栄枯盛衰の少ない公家社会へ嫁がせたという説です。生駒家も関ヶ原の戦いでは、父親親正と子の一正は豊臣方と徳川方に引き裂かれました。また、勝ち馬に乗れなかった武人達の末路も見てきました。一正の心の中には「可愛い愛娘は、武将の嫁より宮廷人の嫁へ」と思ったのかもしれません。
第二の理由は、宮廷人(九条家)と姻戚関係を結ぶことで、生駒家の権威を得ようとしたのかもしれません。
しかし、選んだ相手が悪かったようです。こんなトラブルに巻きこまれようとは、おもってもいなかったでしょう。懐妊して讃岐に身も心も疲れ切って帰ってき娘にかける言葉もなかったのではないでしょうか。黙って見守った一正の心配りは父親としての愛情を感じさせるものでした。父なし子として産まれてきた子を自分の養子として育てます。そして後には、家老並みの知行を与えています。また母親となった山里には、家老・生駒格監の後妻として再婚させています。
 こうして、山里は新たな伴侶と幸せに暮らせたかと云えば、そうではなかったようです。
 再婚相手の生駒生駒格監も寛永9(1632)年に亡くなります。この病死については、毒殺説もあるようです。この頃から生駒家では、外戚山下家の権勢に反発する空気が広がっていきます。
それが生駒家騒動につながります。この結果、(山里)につながる人たちは次のような道を歩みます
①継子 帯刀は、松江藩松平家預五十人扶持
②兄 左門(連技家老5070石)は、美作藩森美作守侯へ御預、五十人扶持。万治三子年五月九日死去六十一才
③一子 生駒河内(釆地三千石) 追放サレル。子孫高松二在リト伝ヘラル          
                                (山下家家譜)
この様に山里は、二人の夫、継子、兄、実子と別れ別れになります。彼女の晩年を伝へるものは、何一つ残されていないようです。継子と共に松江へ移ったか、兄と共に作州へ、それとも実子とともに追放され高松近在で余生を送ったのか分かりません。
一正とオナツの娘を「山里」と呼んできましたが、これも実名かどうかも確かには分からないようです。
彼女が、どこで亡くなり、どこに墓があるのかも分かりません。讃岐17万石の大名の息女として、産まれ京都の公家の嫁として旅だって行った頃には、その先にこんな展開が待ち受けているとは思ってもいなかったでしょう。
 母オナツと彼女につながる山下家の血縁が、生駒家の中で外戚として、大きな政治勢力となり、それが新興宗教施設の金毘羅大権現にとっては大きな力となったことを、記しておきたいと思います。
 最後まで、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年

 


5c引田

引田の中世の賑わいぶりや近世の引田城には、これまでも何回かお話ししてきました。今回は、引田の城下町について書かれた論文を見ていきたいと思います。テキストは「木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討 香川県埋蔵物文化材調査センター紀要Ⅶ  1999年」です。

5引田3
近世城下町の特徴について、研究者は次のようなポイントを挙げます。
①兵農分離と商農分離が進められ、城・重臣屋敷・一般武家屋敷・足軽屋敷・寺社・商人町・職人町が綿密な都市計画(町割)によって配置されている。
②同業者を集住させるため「鍛冶町」「大工町」といった町名がある。
③防御要地や城郭弱点に寺町が「要塞」として配置される
④街路幅が狭く、T字路・カギ型・喰違や袋小路がある。
⑤城下町全体を堀や上塁などによって囲む。
⑥京都の町割をまねて、碁盤日状の整然とした町割を形成
⑦長方形の街区が街路に面して並び、奥行の深い短冊形の町屋敷が続く
⑧街路両面に町屋敷が一体となって町を構成する両側町の形態をとる
以上の8点が指摘されています。 
これらの特徴が引田城に見られるのでしょうか。各項目をチェックしていきましょう。
⑦の町割・屋敷割りを、まず見てみましょう。

5hiketaHPTIMAGE

 砂嘴の上に立地していますので少し湾曲していますが、長方形の街区が積み重ねられた構造です。敷地は街路に面する間口が狭く奥行の深い短冊形の屋敷割になっています。長方形街区の長辺の方向は一定ではありませんが、全体としては計画的な町割となっています。ここからは、誉田八幡官付近から南方の足谷川付近までの町割は、同時期に普請されたと研究者は考えているようです。

1引田城下町4
②の町名を見てみましょう。
 引田の街は現在は「引田町引田○○番地」で登記されていますが、「松の下」などの町名が残っているところもあります。それを、住宅地図などから挙げると
「松の下」「魚の棚」「久太郎町」「大工町」「草木町」
「北後町」「南後町」「北中の丁」「南中の丁」「寺町」
「大道一~四丁目」「本町一~五丁目「本町六丁目浜」
「本町六丁目岡」「本町七丁目」

などがあります。このうち「大工町」は各地の城下町に見られる職人町名です。また南北の「中の丁」のみ「町」ではなく「丁」の字を使っています。生駒親正によって建設された高松城下や九亀城下では,侍屋敷を一番丁、二番丁と呼んでいます。全国的にも武家町が「丁」、町人町が「町」を用いていた例があるようです。引田町も「丁」は武家町であった可能性があります。
 「中の丁」には近世に大庄屋であった日下家があり、他地域に比べると屋敷面積が広いようです。重臣たちの住居エリアであったことがうかがえます。
第7図は、研究者が地域の人たちからの聞取調査で作成した「町」の範囲のようです。「松の下」と「魚の棚」がひとつになって「松魚」と呼ばれたりして正確でない所もあるようですが⑧の両側町のスタイルであることが見て取れます。

1引田城下町5

③の寺町については、積善坊・善覚寺・高生寺の三寺が一列に並び「寺町」を形成します。
第9図で見ると、寺町の位置は、高松からの讃岐街道が引田の街に入る入口付近になります。
寺社が要地や城郭の弱点と思われる場所に複数まとまって配置
という寺町の規定に当てはまる要衝になる場所です。この3つの寺院の沿革についてはっきりしたことは分からないようです。しかし、三寺はすべて真言宗の寺院です。生駒親正は、讃岐に入部するにあたり讃岐が弘法大師生誕の地であることから真言宗に改宗したことが知られています。真言宗派による国内統治策の一貫だったのかもしれません。
また、誉田八幡宮の南には別当寺で真言宗の城林寺がありました。
 しかし、明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。この寺の唐破風造りの玄関が寺町の積善坊に移築されています。その差物上部には生駒家家紋の「生駒車(波引車文)」の彫物があります。この家紋は『讃羽綴遺録」よると文禄・慶長の役以降に生駒家が使っていたものです。誉田八幡宮別当寺の城林寺は、生駒家ゆかりの寺であったことがうかがえます。
次は④の「街路幅が狭く,街路をT字路・カギ型・喰違いにしたり袋小路にしたりしている」です。
敵の進入路と第1に考えられるのは街道筋です。引田城の場合は、
A 高松側や阿波側から街道筋を通り
B 御幸橋で小海川を渡り
C 引田城へ
というルートになります。
第9図A地点を見ると、それに備えて二つのT字路が造られていのが見て取れます。また道幅は狭く、十字路の多くは筋違いになっているため周囲の眺望がききません。砂嘴が湾曲していることもあって見通しが効かず、よそ者は道に迷いやすい街並みです。これらは城下町として、生駒氏が意図的に造りだした可能性が高いと研究者は考えているようです。


1引田城下町3

  砂嘴を開削した小海川河口部は、次のような点から内堀としての性格をもつと考えられます。
①誉田八幡神社の南側が城主の居宅や上級家臣の居住区である可能性が高い
②河川は砂嘴を横切っており、砂嘴を最短距離で開削していない。これは両岸の町割の方向と合致する
つまり、砂嘴を通した小海川が内堀で、その北側が重臣たちの居住区エリアであり、そこに港もあったということになります。そして、城下町の建設と流路変更は同時期に行われた可能性を指摘します。

第8図は「沖代」の地籍図の部分です

1引田城下町6

ここには周囲の地割とは異なる細長い地割が積み木のように重なっています。これは何を意味するのでしょうか?研究者は

「周囲の水路とは異質な幅広の堀状の水路が存在」

を読取り、これを「堀の痕跡」であると推察します。堀状の地割の方向は、城下町の地割の方向と一致します。そして、南側の条里型地割や潟湖跡地の水田地割とは不連続です。このことも城下町外側の堀の痕跡説を補強します。
 城下町南端を区切るように足谷川という小河川が流れています。
 この流れも一部丘陵を開削開削した人工河川だと研究者は指摘します。足谷川の河道はもとは第2図Cの位置であったと推定され,第8図の細長い地割がその痕跡と云うのです。そうであれば小海川や古川の流路固定と同時期に足谷川も流路が変更・固定され、周辺の水田開発が進行ます。そして、その後に現在の流路に付け替えられたことが地割の前後関係から推察されるようです。足谷川は、城下町建設以後に流路変更が行われたことになります。

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   以上から引田城の囲郭ラインは次のようになります。
①東は瀬戸内海
②北と西は砂嘴背後の低湿地という自然地形を利用し,
③砂嘴を開削した小海川河口部が内堀
で総構えの構造となっていたと推定できます。このような構造は戦国末・織豊期の特徴です。
 引田の街は城下町としての性格を持っていることが分かります。

1引田城下町7

                 
10図は現在の小海川の流路南側の10cm等高線図です。これは各水田の標高をもとに作られたもので微起伏が等高線で示されています。小海川は左から右へ流れています。ここからは、次のようなことが読み取れます。
①現在の小海川は古川に向かって流れてる
②しかし、低い所に向かって流れるのではなく、一番高いところを通過している
 これは何を意味するのでしょうか。
もちろん、天井川となって周囲に土砂が堆積して標高が高くなっているということもあるでしょう。しかし、これは河道が人の手によって作られ固定されたことを示していると研究者は考えています。
 もう一度確認すると現在の流れは、北側の丘陵の裾に沿って直線状に流れ、砂嘴と西からの丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいるのです。一番狭くなっている所から下流の河道左岸には、幅広の堤防が築かれています。このような小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に排水することを目指したものと推察できます。

 小海川の旧河道であった安戸・松原には明治末年まで塩田が拡がっていました。
5引田3

白鳥町の教蓮寺の享保11(1726)年の教蓮寺縁起には,天正15(1587)年に生駒親正が旧任地の播州赤穂郡の人たち数十人を白鳥松原に移住させ、製塩を始めたことが記されています。また寛永19(1642)年の「讃岐国高松領小物成帳」には松原・安戸に塩222石3斗が課せられています。ここからはこの地域で製塩が行われていたことが分かります。引田に近い阿波国撫養でも天正13(1585)年に、播州龍野から阿波に転封された蜂須賀家政が,播州荒井から2人の製塩技術者を招き塩田開田を始めています。近世初頭の瀬戸内海沿岸の大名にとって製塩は、最重要の殖産事業でした。
引田町歴史民俗資料館に「旧安堵浦及浜絵図」が保管されています。
1引田城下町8

これは引田塩政所(庄屋)であった菊池家が所蔵していたもので「天明八年」(1788年)の記載から18世紀後半以降の安堵(戸)浦の塩田が描かれています。絵図中央に「大川」という(旧)河川が右から左へ流れ、左の河口部には塩田を守るために石垣堰堤が築かれています。
そして(旧)と括弧書きにしてあります。これが小海川の旧河道である大川の当時の姿のようです。大川は締め切られて現在の小海川と連続していなかったことが分かります。  川のひとつの流れは誉田八幡と引田城の間から引田港へ抜け、河口部は「江の口」と記されています。
1引田城下町9

写真6は、河口付近を拡大したものです
大川の河口部沿岸は堤が築かれ、各所に石水門やユルが描かれています。満潮時に大川を上がってくる塩水を引き入れる入浜系塩田が開かれていたことが分かります。引田の塩田開発当初の状況がうかがえます。ここからは、小海川の流路を変更することによって、淡水の流入や洪水による被害を防止し、本格的な塩田開発が行われたことがうかがえます。小海川のルート変更は、
①引田城の防衛ラインである内堀
②引田城下町の洪水対策
③旧河口(大川)の安堵への本格的製塩の殖産
という「一挙三得」を実現したものだったようです。
5引田unnamed (1)


以上のように,引田城下町は小海川のルート変更とともに備された可能性が高いと研究者は考えます。
 生駒親正は引田に入部した翌年に、高松城の築城を開始します。しかし、引田城がこの時に1年未満で完成したとは云えないようです。生駒親正が本格的に高松城の築城を始めるのは、発掘調査の瓦の出土量などから関ヶ原以後であることが分かってきました。それ以前の政治情勢を考えると
①秀吉生存中は、朝鮮出兵で多額の戦費が係り、藩主も不在であったこと
②天正年間では大名たちの国替えが頻繁に行われ、腰を落ち着けての国作りや城作りに着手していないこと
というこたが指摘されます。慶長2(1597)には、支城として丸亀城を築き、嫡子・一正に守らせています。高松城だけでなく支城を築き一門を配しています。引田城も同様の性格があったようですが、ここに本格的な城が築かれるのも関ヶ原以後のことになるようです。
白鳥町の与田神社の『若一王子大権現縁起』は享保年の記載があることから18世紀以降のものとされますが、ここにはつぎのようなことが記されています
「 銀杏樹在 寒川郡奥山長野。因国君生駒讃岐守俊正公弟,
生駒甚助某受 封於大内郡而居引田与治山城
慶長十九年 応大坂召予兵而往拠城 明年元和元年夏五月七日城陥。於是甚助逃帰而匿奥山
俊正公属関東 故尋求執而誅之 葬諸銀杏樹下
意訳すると
銀杏の木が寒川郡の奥山長野にある。讃岐国藩主生駒俊政の弟・生駒勘助は、大内郡引田与治山城を治めていたが、慶長十九年の大坂の陣に豊臣方を支援し、大阪城に参陣するも破れ、明年元和元年夏五月七日に大阪城が陥落すると讃岐に逃げ帰り、引田の奥の山に逃げ隠れた。藩主俊正は関東の家康方についたので、弟での勘助を探索し捕らえ誅殺した。そして銀杏樹下に葬った。

とあります。「讃羽綴遺録』にも、生駒甚助が大坂夏の陣の際に、豊臣方につき元和元年に讃岐国において誅殺されるという記載があります。
 ここからは生駒甚介(三代藩主正俊の弟)は、引田城主として、東讃岐を支配してことが分かります。そして大坂夏冬の陣には、大阪城に立て籠もったというのです。生駒藩藩主の兄弟の間にも「路線対立」があったようです。大阪城陥落後は、引田に戻りますが、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。
 その所領を継いだのが生駒隼人になります。
 生駒隼人は、四代藩主壱岐守高俊の弟になります。引田城は代々藩主の弟が守るお城であったようです。彼の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しています。これは引田城の「城主」であったからでしょう。彼の下に配された侍数は26人ですが、生駒騒動の際には、その全てが集団ボイコットに参加し、生駒家を去っています。讃岐に根付いていない在地性弱い外来の侍集団であったことがうかがえます。
どちらにして、生駒藩では知行地制が根強く残り、引田城は藩主の弟が「城主」として治められていたことがわかります。つまり、関ヶ原以後に、「城主」となった「藩主の弟」たちがお城はともかく、城下町については整備したとも考えられる余地は残ります。

  関ヶ原前後に高松城も含めて、近世的城郭を3つ同時に整備する背景には何があったのでしょうか?
生駒親正の構想は
中央に高松城、
西讃の丸亀城
東讃の引田城
を配して、讃岐防衛と瀬戸内海交易ルートの確保にあった思われます。しかし、3つの城の建設が関ヶ原の戦いの前か、後かで仮想敵勢力は変わってきます。
①関ヶ原の前に築城されたとすると、秀吉の死後の東西抗争に備えてということになります。
②関ヶ原の後だとすると、家康の意をくんで毛利や島津の西国大名への備えのため
ということになるのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①生駒親正は讃岐における最初の拠点を引田に置いた
②引田城の本格的な整備は関ヶ原の戦い前後に始まる
③引田は、マチ割り、寺町・職人町・街路構造等に近世城下町の要素もつ
④引田城下町の整備は小海川の付け替えと密接に結びついている
⑤新しく開削された小海川は「内堀 + 運河 + 洪水対策 + 旧河道河口の塩田化」など多くのプラス面をもたらした。
⑥生駒藩では、引田城には藩主の弟が入り大内郡を「城主」として治めた。
⑦引田城主の生駒勘助は大坂の陣では豊臣方について参戦し、大阪城落城後に逃げ帰り切腹した。

ここからも生駒藩では知行制が温存され「城主」や家臣団の「自由度」が高かった気配が感じられます。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討     

1丸亀城3

天正十三年(1585)、豊臣秀吉が四国を統一した時からが近世の始まりといわれます。秀吉が讃岐国を託した仙石氏と尾藤氏は、両者とも九州遠征に失敗し、短期間で罷免されます。
その後に生駒親正が天正十五年(1587)8月10日に讃岐領主としてやってきます。戦乱で荒廃していた讃岐国は生駒家によって、立て直されていくことになります。まさに讃岐の近世は生駒家と共に幕開けると云ってもいいと思うのですが、後世の評価は今ひとつ高くありません。それは、次にやって来る松平頼重の影に隠されたという面があるのではないかと私は思っています。

 生駒親正は、まず東讃の引田にやって来て城作りを始めます。
しかし、引田はあまり東の方に寄り過ぎると考えたのでしょうか、短期間で放棄して次候補を物色します。さてどこに城を築こうかと考え、宇多津の聖通寺山は狭過ぎる、丸亀はちょっと西に寄り過ぎ、由良山は水が足りないなどと考え、最後に決めた所が野原庄、現在の高松城がある所に決めたようです。この辺りのことは以前にお話ししましたので省略します。野原庄での城作りは天正十六(1588)年から始まったとされますが、近年の発掘調査から本格的な築城は関ヶ原の戦い後になると研究者は考えているようです。
  南海通記は、高松城は着工2年後の1590年には完成したとありますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままです。文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。天守台の解体修理に伴う発掘調査からは、大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と報告書は指摘します。つまり、入国して10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたと考古学的資料は示しているようです。織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は、関ヶ原の戦い以後に行われた可能性が出てきたようです。そして、同じように発掘調査から引田城も関ヶ原以後に、本格的に整備されたようです。
次に丸亀城がいつ築城されたのかを見てみましょう
   丸亀は、慶長二年(1597)に城の築城にとりかかったと「讃羽綴遺録」・『南海通記』・「生駒記」などに書かれています。これが現在の「定説」のようです。
年表で当時の政治情勢をを見てみましょう。
1590年天正18 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
1591年天正19 9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年文禄1 12・8 生駒親正・一正父子,5500人を率いて朝鮮半島出兵
1594年文禄3 生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
1597年慶長2 2・21 生駒一正,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣する
   春   生駒親正,一正と計り,亀山に城を築き,丸亀城と名付ける

 しかし、年表を見れば分かる通りこの時期は、秀吉の朝鮮出兵の時期と重なっています。多くの兵士が長期に渡って朝鮮半島で戦っています。軍事遠征費に莫大な費用がかかっている上に、親正や一正父子も兵を率いて遠征し讃岐には不在なのです。この様な中で、丸亀に新城を築くゆとりがあったのでしょうか。それに高松城も、まだ姿を見えていません。
 築城が急がれる軍事的な背景や緊張関係も見つかりません。 秀吉没後の慶長3年8月18日(1598年9月18日)以後に、東西の緊張関係激化に対応して築城したというのなら理由もつきますが、・・・・。
関ヶ原の戦い前後の生駒藩の動きを年表で見ておきます
1598年慶長3年9月18日)秀吉没
1599年 生駒藩の検地が始まる〔慶長7年頃まで〕
1600年慶長5 6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため従軍
 7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,
     騎馬30騎を参陣させる.
 8・25 生駒一正,岐阜城攻撃の手柄により,徳川家康より感状
 9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦する
 9・- 生駒親正,高野山で出家し家康に罪を謝る
1601年慶長6 生駒一正,家督をつぎ家康より讃岐17万1800石余を安堵
     生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280人を丸亀城下
     へ移住させる
1602年慶長7 生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1603年慶長8 2・13 生駒親正,高松で没する.78歳

弘憲寺(生駒親正夫妻 墓所)「香川県指定史跡」 香川県高松市 ...
生駒親正夫妻墓所(高松市弘憲寺)

  生駒家も真田家と同じように、父子がそれぞれ豊臣と徳川に別れて付いて、お家の存続を図っています。そのお陰で、一正は家康より讃岐国を安堵されます。そして、一正は丸亀城から高松城に移り、父に代わり正式に領主となります。
生駒一正 - Wikipedia
生駒一正

 この時に新領主となった一正に、家康が求めたこと何でしょうか。
それは、次の戦争に向けた瀬戸内海交易路の確保のための、海軍力増強と防備ラインの構築だったのではないでしょうか。周囲の姫路城や岡山城などの瀬戸内の城主は一斉に、水城の整備・増強を始めます。先ほど見たように発掘調査によっても高松城は、関ヶ原の戦い後に岡山城との同版瓦が使用されています。ともに、徳川時代になって作られているのです。姫路城には、強力な水軍基地があったことも分かってきました。この様な中で、生駒家は引田城の整備を行っています。丸亀に新城を築くとすれば、この環境下ではなかったかと私は考えています。ちなみに「讃羽綴遺録」では、丸亀城築城を関ヶ原の戦い後の、慶長7年としています。

生駒さんの丸亀城とは、どんな姿だったのでしょうか?
資料①「讃州丸亀城図」とある図面が生駒さんの丸亀城です。
1 丸亀城 生駒時代

 この絵図は、東京目黒の前田育徳会尊経閣文庫に所蔵されていたようです。「前田」と云えば、加賀百万石の前田家です。前田家の五代藩主前田綱紀が古今の書を広く収集し、それらの収集した書物を「尊経閣蔵書」といい、その文庫を「尊経庫」と呼んでいたようです。その中で、城絵図は有沢永貞という人が中心になって集めています。有沢は文武にすぐれていた金沢の藩士で、藩内にこの人に武芸を習わなかった者はいないとまでいわれていたようです。その人が絵図の収集にも精力的に動きました。そして、現在に伝わっています。

 丸亀城は亀山という山に築かれています。この山の岩質は輝石安山岩で、五色台や飯ノ山のと同じ系統の岩で、堅くて割れるとが非常に鋭い岩になります。
城図からは、次のような事を研究者は読み取っています。
①真ん中の黒く囲まれたのが郭一で、今でいえば本丸で、まん中に天守台があります
②図の左側が東で、天守台は入口が東向きにあり、今のお城と異なります。
③天守台を囲んだ郭一の南側から東側・北側にかけて二の郭が取り囲んでいます。
④さらに東側に郭があり、これが三の郭です。
⑤三の郭の南に続いて四の郭があります。四の丸は今はありません。
⑥二、三、四の郭があって、南西に大手門があります。
⑦三の郭の東北端と西北端から山麓へ石垣があり、北側の中腹くらいから平地になっており、ここが五の郭で、山下屋敷といわれた所です。
後に山崎さんによって、再築される丸亀城との比較は次回に行います。次に、お城ができた頃の丸亀城周辺は、どんな状態だったかを見ておきましょう。生駒藩お取りつぶし直前の寛永十七(1640)年「生駒高俊公御領讃州惣村高帳」を見てみましょう。
   鵜足郡
一 高百七袷貳石八斗八升      三浦
  高合 貳万貳千百六播八石四斗五升五合
 那珂郡
一 高四百六石八斗九升一合                  圓龜(丸亀)
一、高八百Ξ拾Ξ石四斗九升Ξ合    柞原
一 高八百三石八斗         田村
 鵜足郡の三浦は、予讃線の北側の西平山、北平山、御供所にあたる所です。ここで172石の米が取れたようです。そして圓龜(丸亀)には、406石余の土地があったと書かれています。今の丸亀の町は、お城周辺以外は、ほとんど田んぼだったということになりそうです。
 次の田村は現在の田村町で田村池周辺ですが、この村高が「八百三石八斗」とありますから、丸亀は、田村のほぼ半分くらの石高だったようです。
「讃岐国内五万石領之小物成」には「小物成」が記されています
小物成ですから雑税、米以外の税金になります。
  「銀子弐百拾五匁  圓龜村  但横町此銀二而諸役免許」

とあり、丸亀は215匁の銀を納め、これで横町は諸役を免除されていたことが分かります。また、
「米三石  圓亀村  但南条町上ノ町 此米二而諸役免許」
とあります。米三石を納めることで、南条町の上ノ町は諸役が免除されていたようです。それから「宇足郡之内」とある中に
一、干鯛(ほしたい)千枚  三浦運上
一 鰆之子百五拾腸     同所
とあります。三浦は先ほど見たように平山町や御供所のことです。ここからは干鯛と鰆の子が納められています。鰆の卵は、からすみにされて珍重されていたようです。江戸での贈答品にしたものでしょう。この地域が漁師町であったことがうかがえます。

亀山の小さな山の上に、お城が乗っていたのは、わずかの間でした。大坂夏の陣のあと軍事緊張がなくなると、幕府は一国一城令を出します。その結果、寛永初めころまでに丸亀城は廃城となったようです。
寛永4(1627)の8月に幕府隠密が讃岐を探索し、高松城と城下町の様子についての報告書が「讃岐探索書」として残っています。そこには高松城については、当時の状態が破損箇所も含めて詳細に絵図を付けて報告されています。しかし、丸亀城については、なにもありません。隠密にとって「報告価値なし」と判断したようです。関ヶ原の戦い後に、西国大名への備えとして作られた丸亀城は、ここに役割を終えたようです。
 ちなみに、この年の生駒藩の蔵入高は「9万4636石3斗4升,給知高12万63522石9斗8升」と報告されています。隠密は必要な情報を集めて、幕府に報告しています。ちゃんと仕事をしていたようです。
以上見てきたように、生駒さんは関ヶ原の戦い前後に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。讃岐への定住覚悟ができたのは関ヶ原後で、その時期から3つの城の工事が本格化したようです。
今回はここまでで、おつきあいいただき、ありがとうございました。

      
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満濃池改修図

生駒藩時代に西嶋八兵衛によって再築された満濃池が、その後どのように維持されていったのかを見ていくことにします。『政要録写』『満濃池史要』からは、江戸時代の満濃池普請記録が下のように定期的に行われていたことが分かります。
満濃池普請表1
満濃池普請表2
○が御用普請 ◎が国普請 三重○自普請 ※( )内の数字は揺の耐用年数を概算したもの
 ○御用普請とは?
 材木や鉄類などの材料費と人夫の扶持米を幕府が負担し、池御料の年貢米によって賄われた普請。
 ◎国普請とは?
高松藩領、丸亀藩領、池御料、金比羅社領の四者が負担した普請
 自普請  
水掛かりの石高割りで農民が負担した普請。
 
この表からは次のようなことがうかがえます。
①平均すると10年に1回は池普請があったこと。
②底樋交換工事は、17世紀は15年毎だったのが、18世紀以後は半世紀に一度になっていて耐用年数が延びている。「技術改良」があったようだ。
③底樋は、工期が長くなるので前半・後半部の2つに分かて実施されている。
④17世紀は御用普請であったのが、18世紀には国普請になり、幕末には自普請で行われるようになっている。
なぜ定期的な「池普請」(改修工事)が必要だたのでしょうか?
ため池には水を抜くための取水施設として「底樋」と「竪樋」があります。
ため池底樋
底樋は箱状のもの、丸太をくり抜いたものや素焼の土管などが使われ、池底から勾配をつけて設置されます。「竪樋」には土手の内側に傾斜にそって設置し、いくつかの揺(ゆる)が設けられており、水位に応じて取水するようになっています 満濃池のように大きなため池は「竪樋」に「揺木」(「筆木」)で栓をして、これを引き抜く足場を設け、数人がかりで「揺る抜き」をしていました。

満濃池底樋と 竪樋
満濃池 文政3年の底樋と 竪樋
 木製樋管は腐りやすいので、その防止策として底樋の最末端に水だまりを設け、底樋を常に水に浸かるようにしていました。木材の代わりに、石材が利用されるようになるのは幕末になってからですが、これも石材化の最初の普請では「不良工事」となって接合部からの漏水し、決壊を招いています。抜本的な解決は鉄筋コンクリート管の登場まで待たなければなりませんでした。木が使われている以上は定期的に交換する必要がありました。そのためには堰堤を堀り、底樋を交換し、再び埋め直すという作業が求められたのです。これを怠ると堰堤は決壊します。
ため池底樋3
現在のため池の底樋
 人海戦術で行われた築堤工事
堰堤工事は、土を運んで突き固めるという繰り返しなので、大人数が必要でした。堤体の突き固めは、次のふたつの作業が行われます。
①棒・杵を用いて堤防を突き固める「千本搗き」「杵搗き」
②シテ振りとよばれる先導が多数の人足を前後左右に追い回し足で踏み固める「踏み締め」
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「杵搗き」と「踏み締め」
大きなため池の最難関は、工事中の洪水処理でした。
今ではダム建設の際には、本体工事に先立ち工事中の洪水を工事現場から逃がすための仮排水路を設けています。が、河川本流を堰き止めるような満濃池のような大きなため池では、仮の排水路を設けることは無理でした。そのため堤の両側から築き上げ、まん中の部分は最後まで水路として残しておいて最後に一気に締め切るという方法がとられていました。満濃池の仁寿3(853)年の工事では最後の締め切りにの際に
「夫役6,000人を発し、10日を限り力をつくして築き、俵ごも68,000余枚に砂土をつめて深処をうずめた」
とあります。堤の中央部は短期間に一気に築き上げるために、一番もろく堤防の弱点で、決壊の原因となったようです。
満濃池  竪樋.寛政jpg

 満濃池の底樋と揺替(寛政11年)
底樋や揺に使われた木材は
 初期の承応三年(1653)までの材料は、ほとんどが松材だったようで、耐用年数が短かったことが先の史料からも分かります。
竪樋は尺八樋と言われる構造で、慶長13年(1608)に河内国狭山池で「枝付尺八樋」が初めて使われるようになった新技術でした。そのため充分に使いこなせず最初の頃は、構造的に問題があったようです。
大阪で求めて、運ばれてきた木材
 万治元年(1658)の普請からは、耐用年数の延長と経費節減のために、底樋などの主要部分には草槙や檜のような高価な良材を使うようになります。良材は、周辺の山にはないので、大阪市場で買い求めるようになります。大阪町奉行所の「町中入札」で落札した材料は、落札者が海路丸亀港へ回送。それを普請方が受け取り岸上村の普請所まで運ばれます。樋大工も、備中・備前の先端技術をもった大工を呼び寄せています。ここからは満濃池のユル換え工事は、当時の最先端の技術と材料・職人が関わるトッププロジェクトだったことが分かります。

 しかし、時代を経るにつれて太い良材が手に入らなくなります。
そのため宝暦十二年(1762)からは、槻や栂を主要部分に使うようになります。主要部以外には使う松材は、満濃池に近い鵜足郡長尾村の御林(藩有林)から伐り出されています。次第に運ぶのに便利な近くの御林が選ばれるようになり、嘉永六年(1853)の普請には、中通村から切り出されたものが使われています。

満濃池ユル換え工事宝暦
満濃池 宝暦のユル換え平面図
 底樋の長さは六十五間(182メートル)、それを高さ十二間半(23メートル)の堤防の底の部分に敷設します。この底樋普請は前半と後半の二回の工期に分けて行われています。2回に分ける理由は
①工期が長くなり、その問に暴風雨や洪水に襲われる危険があったことと、
②年内には終わらないと、池に水を溜めることが困難になるため
だったようです。

満濃池普請5
満濃池底樋(文政2年)
普請は八月末から始められ、年内か遅くとも翌年の正月中には終わるように計画されていました。

 普請の際の労力は讃岐各地から集められた百姓達でした。
庄屋に引き連れられてやって来た百姓達は、付近の村々の農家に宿泊し、約五日間決められた規則に従って働きます。御用普請や国普請、自普請の種類は違っても、結局は農民の労力に頼るはかなかったのです。
満濃池池普請文政3年
満濃池普請図(文政3年)

文政十年の揺替普請(自普請)について
 文政十年(1827)の揺替普請の記録が残っています。それによると動員された「のべ人数」は底樋後半と竪樋櫓仕替で約25万人に上ります。夫役は水掛かりの石高に応じて配分されていて、高百石について約700人となっています。

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       満濃池ユル替工事の動員人夫数確認図 
一日にどれくらいの人たちが動員されたのでしょうか
たとえば文政十一年の冬の動員人数をみると、
  文政十一年正月十日 高松領十郡    六百七十人
            西   領   六百七十三人
              合計   千三百四十六人
      正月十二日 高松領十郡   九百九十三人
            西   領   九百九十三人
              合計   千九百八十六人
      正月十三日 高松領    千二百七十五人
            西領     千二百七十五人
              合計   二千五百五十人
      正月十四日 高松領      千四百二人
            西   領    千四百二人
              合計    二千八百四人
 となっていて、一日2000~2500人程度が動員されています。正月を越えての普請作業なので、工期終了間際のことだったのでしょう。これより遅くなると田植えまでに、満水にならなくなる可能性が出てきます。工期日程に間に合わせるための最後の動員だったかもしれません。ここから一日の動員数を2000人とすると、工期期間が9月からの4ヶ月間なので、
2000人×120日=24万人という数字が出てきます。
これを、どのように振り分けて動員したのでしょうか。
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満濃池人数改図(各村からの動員人夫数が確認されている)
桂重喜著『讃岐の池と水』で見てみましょう。
「高百石に付き約700人」の人夫割当を行ったようです。当時の田畑一反歩の平均石高を約一石一斗とすると、一反歩割当人夫数はのべ約8人となり、一戸当たりの耕作面積を五反歩とすると、一戸当たり「のべ人数38人」の割当となるようです。普請に出向いた百姓は、1回について最低十日は普請小屋に滞在し、使役に従事しなければならなかったので、一戸当たりの割当人夫38人ということは、普請の年はこれを三、四回は繰り返さなければならなかったことになります。これを村役人は、各戸に分配負担させていったのでしょう。
 しかし、百姓の方も心得たもので、一家の労働の中心となる担い手は避け、老人や年少者を差し出していたようです。嘉永二年(1849)の底樋仕替普請の際に丸亀藩が出した「定書」には次のように記されています。
「満濃池御普請中、私用の者は申すに及ばす、無益の人足差出し仕りまじく候事」

逆読みすると老人や年少者などの「無益の人足」が差し出されていたことがうかがえます。
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 行こうか、まんしょうか、満濃の普請、百姓泣かせの池普請

 と謡われた里謡が残っています。その実態を探って見ましょう。
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 私は最初は、満濃池普請は水掛かりの地域だけ、つまり丸亀平野の百姓達だけに割り当てられていたのかと昔は思っていました。ところが今見てきたように、そうではないのです。東讃の農民も、三豊の農民も割り当てられていたのです。つまり、讃岐国中の百姓達による普請工事だったのです。自分たちの田んぼに引かれてくる水のことならやる気も出るでしょうが、他人の田んぼのための池のために動員されたのです。これが驚きの一つでした。

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満濃池普請図右側(嘉永年間 始めて石底樋が使われている)
 各地からの村々の農民の動員や引率・管理など普請人足の統率を担ったのは庄屋たち村役人でした。人足の確認、扶持米などの受け取りと支給などにあたっています。
 たとえば、ペリーがやって来る4年前の嘉永二年(1849)の普請時には、高松領分で池普請に当たったのは那珂郡、鵜足郡の庄屋の中から一名、他の八郡の庄屋の中から一名が交替で普請場に詰め、指揮にあたっています。その際の庄屋の服装と満濃池までの行列についても藩から厳しく規定する次のような文書が残っています。
一、行列は馬または駕龍は勝手次第。
二、両掛、雨具を備え、若徒、槍持ち、草履取りを従えること。
三、衣類は越後平地の帷子、絹の羽織、川越正徳平の袴または葛の野袴、または紋付綿服、帯刀のこと。
   普請が始まると、普請場には役人の出張小屋や普請小屋、大工小屋などが建てられます。

満濃池普請小屋図1
満濃池小屋掛図
満濃池の場合は高松藩、丸亀藩、多度津藩の他に池御料、金毘羅社領など複雑に分かれていました。そのため現場には、各藩が別々に小屋掛けをしていました。
大野原からやってきた池普請組
 大野原(観音寺市)の井関村庄屋・佐伯家には、文政三年(1820)の池普請に参加した当主・民右衛門が残した「満濃池御普請二付庄屋出勤覚書」があります。

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 満濃池普請図左側(嘉永年間 始めて石底樋が使われている)

この記録から池普請に動員された農民達について見てみましょう。
この時の普請は、堤の外側を掘り下げ、木製底樋の半分を交換するものでした。現在の観音寺市大野原町を含む豊田郡和田組の村々からは、約三百名の人々が駆り出されています。その監督役として、民右衛門は箕浦の庄屋小黒茂兵衛と満濃池に出向きます。九月十二日の早朝出立した民右衛門は、財田川沿いの街道をやって来て昼下がりに宿泊地に指定された骨山(旧仲南町帆山)に到着します。そして、丸亀藩役人衆への挨拶に行っています。

決壊中の満濃池
幕末の満濃池決壊時の地図
(池の中を金倉川が流れている 朱色部分が丸亀京極藩)

 なぜ、満濃池に近い福良見に丸亀藩は、現地事務所を置かないのかと思いました。
調べてみると帆山までが丸亀領で、その向こうの福良見は高松領でした。ここが高松藩と丸亀藩の国境だったのです。そのため丸亀藩の東端の帆山(ほのやま)に現地事務所は置かれたようです。
 三豊からやてきた百姓は、帆山など周辺の寺院などに分宿し、食事は自炊です。ある意味、手弁当による無償動員なのです。
 翌日、工事現場への集合は太鼓の合図で行われます。
周囲に分宿していた人々が集まり、蟻が這うように見えたと記します。
十三日は、雨天で工事は休み
十四日もぬかるみがひどく休日
十五、十六両日は工事を実施。
和田組村々の人足は、三班に分かれて工事を行っています。
ところが和田組の人夫が立入禁止区域に入って、用を足したことを見咎められ、拘束されるという事件が発生します。これを内済にしようと、民右衛門は奔走。池御料側、櫛梨村庄屋庄左衛門らの協力により、ようやく内済にこぎつけるのです。そのためか、十六日は、櫛梨村と和田組村々の人足が、同じ班に入って作業を行っています。同日昼下がり、民右衛門は五日間の役目を終え、夜更けに帰宅しています。庄屋として責任を果たし、安堵したことでしょう。

満濃池底樋石造化工事
満濃池底樋石造化工事 
 三豊の百姓にとって、自分たちの水掛かりでもない満濃池の普請で、しかも寝泊まりも不便な土地でただ働きをさせられるのですから不満や不平が起きるのは当たり前だったのかも知れません。しかし、一方で民右衛門のように「事件」を通じての他領他村の人々との交流が生まれ、人的なネットワークが形成されるきっかけにもなりました。また満濃池普請という当時の最先端技術についての情報交換の場になり、地元でのため池工事や土木工事に生かされるという面もあったようです。  
   一方、自ら進んで池普請に参加する人たちもいました。
  塩飽の与島の島民たちです。
満濃池とは関係のない塩飽諸島の島民たちがなぜわざわざ普請にやってきたのでしょうか。しかも自発的に。与島には、
「満濃池の普請に出向かないと、島の井戸が干しあがる」
という言い伝えがあったようです。島民のほとんどが真言宗であり、信徒として空海と満濃池、島民との繋がりが生まれたのかもしれません。しかし、本当のところは分かりません
参考文献   満濃池史所収 江戸時代の満濃池普請 

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     前回、讃岐中世の港町めぐりで引田を紹介したら、もう少し詳しく知りたいというリクエストを頂きました。そこで、引田について見ていきます。引田は、戦国末に生駒氏が讃岐領主として入ってきて最初に築城したところで、城下町も整備されたようです。そのために、生駒氏以前と以後では、街の姿が大きく変わりました。生駒藩以前と、新たに引田城が築かれた後の引田を比べることで見えてくるものを探したいと思います。
1引田城3

 まずは現在の引田を見ておきましょう。
引田の目の前は播磨灘が広がります。かつては島だった城山に向かって南東から北西に弓なりに海岸が湾曲します。地図だけ見ていると、伯耆の米子から境港に伸びる弓ヶ浜とよく似ているように見えてきます。
3引田

平成10年(1998)に、この弓なりの上に位置する本町三丁目で、防火水槽設置工事が行われました。その掘削断面から、ここが砂堆であることが分かりました。引田の街は、大きな砂堆(砂堆1)の上に形成されているようです。砂堆上には海岸線に沿って、北から川向、小海川を挟んで松の下、魚の棚、中ノ丁、本町一丁目~七丁目、木場(きば)、大明神などが並んでいます。
5引田3
 小海川河口部をはさんで北側(川向側)と南側(松の下側)では、北側の方がやや高いことから、北側がより安定した地形のようです。砂堆の最も高い所を、通る旧街道が縦断するように伸びて松の下、中ノ丁、本町一~七丁目の街並みが続きます。この旧街道は、昭和30年代に新しく国道11号線が開通するまでは阿讃の主街道で、この街道に面してマチスジ(町筋)、オカと呼ばれる商家や住宅が建ち並ぶ商店街を形成されていました。
中世引田の復元図から見えてくることを挙げておきましょう。
砂堆Iの上に街並みが形成され、その東西両側に向かって地形は広がっています。
②砂堆Iの西側には潟湖跡(潟湖Ⅰ)があります。
『元親記』では土佐の長宗我部群が「引田の町」を囲んで陣取ったとあり、続いて「本陣と町の間に深き江」があり、潮が満ちているとありました。引田の「町」と城は、「江」によって隔てられていたことが分かります。
③この「江」は城山の南側にある安戸から引田港まで入り込んでいた潟1と砂堆2のことで、現在は陸地となっていますが、明治までは塩田だったようです。
④この「江」は安戸塩田(砂堆3)で作られた塩を引田港まで運ぶ運河でもあったと地元では伝えられています。中世には小型船の往来や船着場として利用していたようです。
⑤『元親記』に記された引田の「マチ」は、引田城と「江」の対岸の宮の後や川向の集落Iと集落2にあたるようです。ここは安定した地形ですから、当時の引田の港町があったのはここのようです。

5引田八幡神社
⑥川向の亀山と呼ばれる高台に、引田の氏神である誉田八幡宮が鎮座します。この八幡宮は延久元年1069)に現在地に遷座したと伝えられます。県の自然記念物に指定の社叢が生い茂っているため、今は引田港は見えません。が、かつては眼下に引田港が見下ろせたはずです。この八幡宮は海上の安全を願って建立されたもので、航海や漁師にとって当て山となっていたようです。

5引田7
 今の八幡宮本殿は南面していますか、かつては北面していたと伝えられています。それはこの神社の北側に引田城があったからでしょう。八幡宮が北面していたは、引田城に向かって鎮座していたということになります。ここにも八幡宮が引田沖や潟1を往来する船の管理や引田城の鎮護を担う役割があったことがうかがえます。この神社を中心に、中世の港は形成されていたようです。
5引田unnamed (1)

⑦当時の引田の町の中心は、この八幡宮周辺の川向や宮の後でした。現在の中ノ丁から本町があるマチ(砂堆1)には、家屋は少なかったようです。
⑧今度は西南の塩屋方面を見てみましょう。ここには低湿地でかつての潟(潟2)が埋積したものとのようです。この潟の西には塩屋や小海(おうみ)という製塩やその景観を表す地名が残っていて、古代・中世にはここまで海が入り込んで入江を形成してたことがうかがえます。『入船納帳』にみえる引田船の塩は、この塩屋付近で作られたのかもしれません
引田が大きく変化するのは、生駒親正の引田城の築城です 。
讃岐領主として、やってきた生駒氏は最初に引田の城山に築城を始めます。一緒にやって来た家臣団も生活のためには屋敷を構えなければなりません。城下町の整備は火急の重要課題です。引田には、その際の屋敷割りが、現在の町割や地名に残っています。

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 引田の城下町復元図から見えてくることを挙げてみましょう。
碁盤目状の町割りがされている。
②道幅は狭く十字路も筋違いになっているところがいくつかある
③本町六丁目には箸箱町と呼ばれる地域がある。これは建物の並びが、箸箱の蓋のように出し入れできるのが一方だけで行き止まりとなっていることを表すもの。
以上からは城下町として、防衛上のために造られていることがうかがえます。
 その他にも引田のマチには魚の棚や草木町、大工町といった城下町によく見られる市場や職人町を示す地名も残ります。また中ノ丁や本町というように村役人や町人・商人が居住する地域や、寺町のようにまとまって寺院が配置された地域もあります。
引田城下町の中心はどこだったの?
 生駒親正が引田城の後に築いた高松城下や丸亀城下では、侍屋敷が並ぶ地域を一番丁や二番丁のように「丁」、町人町を「町」と表記して区別しています。引田の中ノ丁も武家町であったと考えられます。中ノ丁には生駒時代に庄屋役を仰せつかり、以降明治まで引田村庄屋を勤めた日下家や、松の下には先祖が生駒氏に仕えたという佐野家や岡田家などの有力商家がありました。これらの家が中ノ丁や松の下に集まっていることは、この地区が引田の政治の中心であり、城下町がここを中心に整備されたことがうかえます。本町は北から一丁目・二丁目・三丁目……七丁目と並びます。これは北側の中ノ丁を基点に、順序に付けられたと考えられます。
 さらに北後(きたうしろ)町や南後(みなみうしろ)町は地名からすると、中ノ丁や大工町・草木町から次第に広がっていった地域のようです。このように引田城下町は中ノ丁を中心に町が展開していったと研究者は考えているようです。

 生駒氏以前の中世の引田は、集落1と集落2にあたる川向や宮の後が町の中心でした。それが生駒親正による城下町の整備で、砂堆の南側にも家臣団の屋敷が「町割り」されて建ち並ぶようになります。そして、町の中心が松の下や中ノ丁に移ります。川向は「川の向こう」という意味ですから小海川の南側の地域が中心となってから使われるようになったのでしょう。
 また北面していた八幡宮を、南面に改めたのも生駒親正と伝えられます。南面させて引田のマチを望む方向に変えたのは、八幡宮の役割が引田城の鎮護から引田のマチの鎮護に変わったことを示しているのでしょう
 復元図には魚の棚や草木町・大工町といった城下町によく見られる市場や職人町が見えます。魚の棚には江戸後期まで魚問屋があったようです。また、本町の旧街道に面したマチスジは近世にも数十件の商家が建ち並び、最近まで商店街を形成していました。ここに住んでいた商工業者たちが、このマチの経済的な役割を担っていたようです。
引田の寺町は?           
寺町には積善坊(真言宗)・善覚寺(浄土真宗)・萬生寺(真言宗)の三つの寺院が一列に建ち並んでいます。小規模ですが寺町を形成していたようです。積善坊は、もともとは内陸部の吉田にあったがいつのころか現在地に移り、天正年間の長宗我部勢の兵火により焼失したようです。それを生駒親正が修復したといいます。
 善覚寺も小海にあったのを明暦年中(1655)゛に中興沙門乗正が現在地に移したと伝えられます。萬生寺は天文10年(1541)に当時引田城主であった四宮氏の菩提所として建てられたという縁起が残ります。
 このようにそれぞれ異なる縁起を持つ寺院が寺町に集まっていることは、誰かが意図的に移転・配置したのでしょう。寺町は引田では、西の入口にあたります。東の入口にも本光寺(真言宗)があります。東西入口に、防御施設として寺院が配置されたようです。
 このように引田は、生駒親正による都市計画により城下町が整備され、町の中心が移り武家町や職人町・商人町・寺町が形成されたことが分かります。
 しかし、生駒親正の都市計画は町割の整備だけではなかったようです。最も大事業でだったのが小海川の付け替え工事でした。
 小海川は川向と松の下を隔てるように流れます。この川は、今は丘陵部に沿って直線的に播磨灘に流れていますが、元々は安戸方面(潟1・砂堆3)に流れて「運河」の役割も果たしていました。それを砂堆Iを切り開いて直線的に海に出るルートにしたようです。これだけ見ると、この河口が果たしていた運河や船着き場の役割が果たせなくなることになります。
なんのための大規模な河川付け替え工事だったのでしょうか?
潟1と砂堆2・砂堆3にあたる小海川の旧河道の安戸には、明治44年(1912)まで塩田があり、大正年間に耕地整理が進められ現在は田地となっています。つまり旧河道は塩田に姿を変えたようです。
  大内郡松原村(東かがわ市松原)の教蓮寺に伝わる享保11年(1726)の『松雲山教蓮寺縁起』によると、
天正15年(1587)に生駒親正が引田に入部した際、播磨国赤穂から人民数十人を松原村に移住させ、塩浜を拓いたと記します。同じように引田の安戸でも、赤穂から住民が移住して塩田を造ったと伝わっています。中世以来、引田では塩屋(潟2)で製塩が行われていましたが、より海水を引き入れやすい安戸(潟I・砂堆3)で大規模な製塩を行おうとしたことがうかがえます。小海川の付け替え工事は、安戸への淡水の流入や洪水の被害を防止し、新たな塩田開発のためだったようです。
 さらに安戸だけでなく『元親記』でみた「江」も塩田に拓いた可能性もあります。安戸塩田の開発の背景には、塩屋の潟が上流からの埋積で埋まり塩田が仕えなくなった可能性もあります。
 小海川の付替工事は、塩田開発だけでなく、潟を排水することによる水害防止、そして堀として城下の防御の三点が考えられます。小海川付け替え工事に関する文献史料はありません。そのため年代などは明確にできませんが、この工事は生駒親正の城下町の整備と同時期に行われ、以前からあった製塩業を城下町の重要産業として発展させたと研究者は考えているようです。

引田に残る伝承からも、生駒親正による城下町の整備をうかがえるものがあります。
坂ノ下にある岩崎観音には、次のような伝承が伝えられます。
この辺りは船泊まりで、餓鬼が度々出没していました。生駒親正が引田にやって来たときに、この訴えを聞き、安全を願って祠を建て、聖観世音を安置した。これが岩崎観音である
というものです。ここには「岩崎観音付近が船泊まり」だったとあり、小海川が付け替えられる前の景観を裏付けるものとなります。同時に、小海川旧河道(潟I)には、船が行き来していたこと分かります。
 また八幡宮の秋祭りには、引田の各地区で獅子連や奴連が、大明神にあるお旅所まで旧街道往復2㎞を練り歩きます。八幡宮に奉納される奴の起源は、天正年間に生駒親正によって八幡宮が再建されたのを喜んだ引田の人々が「やり踊り」を奉納したのが始まりと伝えられています。ここにも数百年経った現在も引田の人々の記憶に城下町整備を行った生駒親正が「郷土の恩人」として、後世にも語り継がれています。

 ところで生駒親正が引田を拠点としたのどのくらいの期間だったのでしょうか?
資料的には数力月で引田から宇多津に移っています。彼の引田時代はきわめて短期間でした。引田から宇多津に移った理由は『生駒家始末興廃記』には次のようにあります。
生駒雅楽頭近規ハ、永禄・元亀・天正等之兵乱、太閤秀吉公幕下に属し、数度之武功依之有、天正十五年讃岐之守護尾藤甚右衛門没落之跡 高十七万六平石受封して、讃岐国大内郡引田之城え入部被成候所、引田ハ国之東端ニて、西方難治より、鵜足郡聖通寺山の城に居住、此城往昔仙石権兵衛殿築被申由伝候、然ルに近規国政被仰付るに、当国先々衆呼出し、相応之扶助を宛て国務被仰付、当地境内狭故、天正十六年、香東郡野原庄二初て城を築、天正之頃迄は、在々小城共多故、海辺仁保・多度津・笠居・津田・三本松・引田杯船付二ハ商売人有之、其外在々分散して繁昌之地も多くハなし、
ここには次のようなことが記されています
①生駒氏が秀吉から讃岐国領主に任じられ、最初は引田を拠点とした
②しかし「引田は讃岐の東端で、西方が治め難し」として 宇多津の聖通寺山に移ったこと
③さらに聖通寺山では手狭になったために香東郡野原(高松)で新城に着工したこと
④天正の頃までは仁保(仁尾)・多度津・笠居・津田・三本松・引田が有力な港町で、ここに商人達がいたようです。この引田の商人たちが居住していたのが『元親記』で仙石氏に包囲された引田の町なのでしょう。

 引田か短期間で拠点を移動させた理由は、次の2点のようです
①引田は瀬戸内海東部での軍事拠点としては機能するが、讃岐を治める拠点としては東に偏りすぎていること、
②本格的な城下町建設には、砂堆Iの地域は狭すぎて大規模な埋め立て造成工事を行わないと、岡山や姫路のような城下町は造れないという地形的制約があった
とされているようです。 
 生駒親正は引田から移った翌年の天正2(年(1588)には香東郡野原に高松城の築城に着手します。
そして慶長2年(1597)には丸亀に高松城の支城を築き、ここには親正の子・一正を入れます。これは西讃地方の支配のための支城的な役割もありました。東讃地方にも支城が必要であるという認識があったようです。当時は、関ヶ原の戦い直前で、臨戦態勢が整えられていく時期でもあります。
 享保年間(1716)の『若一王子大権現縁起』や寛政四年(1792)の『小神野夜話』では、慶長年間に生駒甚助(一正の次男)が大内郡一万石を領し、引田城に拠ったとあります。引田城が東讃地方の支城として整備が続けられたことがうかがえます。
 また発掘調査によっても数多く出てくる瓦は、関ヶ原直前のもので、入部当時のものではないことが分かってきました。引田城や城下町の工事は、関ヶ原の直前に活発化したと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと
①中世の引田の町は、八幡宮周辺を中核として川向や宮の後に集落があり、現在マチと呼ばれる中ノ丁から本町がある砂堆には集落が限定的であった。
②駒親正の引田城と城下町の整備により景観は一変する。
③町の中心が八幡宮周辺から現在のマチに移り、武家町や職人町・商人町、そして寺町が計画的に配置された
④小海川付替え工事が行われ、安戸塩田の開発などの殖産事業も実施された。
⑤しかし、生駒氏の拠点は短期間で宇多津を経て高松に移された。⑥そのため引田城や城下町整備は、関ヶ原直前から本格化した
以上、生駒氏による引田の城下町整備についてでした。
萩野憲司 参考文献中世讃岐における引田の位置と景観  中世讃岐とと瀬戸内海世界 所収
1584 天正12 (甲申)
 県内  6・11 土佐の長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡
 1585年 天正13 (乙酉)
   4・26 仙石秀久および尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し屋島に上陸,喜岡城・香西城攻略
   5・15 仙石秀久,阿波より讃岐に引揚げ牟礼・高松に陣取る(仙石家譜)
   7・25 秀吉と長宗我部軍との和議が成立し,長宗我部元親は土佐へ退却
   7・- 仙石秀久,秀吉から讃岐を与えられる.ただし2万石は十河存保の支配
   仙石秀久,抵抗した香東郡安原山百姓100余人の首領13人を聖通寺山麓で処刑する
   この年 フランシスコ・パシオ,上京の途中塩飽に寄る(イエズス会日本年報)
1586年 天正14 (丙戌)
   12・13 仙石秀久,戸次川で島津軍と戦って大敗し,十河存保ほか多くの讃岐武將戦死
   12・22 仙石秀久,戸次川の戦いでの不覚を責められ豊臣秀吉とり讃岐国没収
   12・24 尾藤知宣,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる
1587年 天正15 
   6・- 尾藤知宣,日向国根白坂の合戦で豊臣秀吉の怒りをかい讃岐国没収
   8・10 生駒親正,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる(生駒家宝簡集)
   8・17 加藤清正,讃岐の平山城(聖通寺城カ)を生駒親正に引き渡す
   12・- 播磨国赤穂から数十人が白鳥の松原に移住し塩田を開く(教蓮寺文書「教蓮寺縁起」)
1588年 天正16 (戊子)
   この年 生駒親正,香東郡野原庄の海浜で高松城築城に着手する
1589年 天正17 (己丑) 2・晦 豊臣秀吉,塩飽1250石の領知を船方衆650人に認める
   3・- 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
   この年 豊臣秀吉の北条氏討伐に際し,塩飽船,兵糧米を大阪より小田原に運ぶ,
1591年 天正19 (辛卯)9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年 文禄1 12・8 (壬辰)
   3・- 生駒親正・一正父子,秀吉の命で5500人を率いて朝鮮半島へ出兵する
   10・23 豊臣秀次,塩飽に大船建造を命じ船大工・船頭を徴用
1594年 文禄3 (甲午)生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
   10・16 豊臣秀吉,生駒一正に来春の朝鮮出兵のための水主・船の準備を命じる
   7・12 夜,大地震.田村神社の神殿壊れる(讃岐一宮盛衰記)
1597年 慶長2 (丁酉)
   2・21 生駒一正,朝鮮出兵で第7番に属し,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣
   生駒親正,一正と計り,西讃岐支配のため亀山に城を築き,丸亀城と名付ける
   この頃 生駒藩の検地が始まる
  1600年 慶長5 (庚子)
   6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため家康軍に従い関東に赴く
   7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,騎馬30騎を参陣
       この後,高野山に入り家康に罪を謝る
   9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
   9・- 生駒親正,高野山で出家
 生駒藩,香西加藤兵衛(往正)ほか20名を登用し,佐藤掃部に「国中ノ仕置」を命じる
1601年 慶長6 (辛丑)
1602年 慶長7 (壬寅)
    生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
    播磨国の人々が坂出(内浜・須賀)に移住する(西光寺文書)
1603年 慶長8 (癸卯)
   2・13 生駒親正,高松で没する.78歳
1605年 慶長10 (乙巳)
   9・- 生駒一正,初めて妻子を江戸へ住まわせる(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
1609年 慶長14 (己酉)
   5・23 生駒一正,妻子を江戸に住まわせたことにより,徳川秀忠より「半役」
       (国役を半分にする)を申しつけられる(生駒家宝簡集)
   2・2 生駒一正,国分寺より梵鐘を召し上げ,その代りとして荒田1町を寄進
   3・14 生駒藩,国分寺へ梵鐘を返却する(国分寺文書)
   この年 生駒一正,親正の菩提のために弘憲寺を建立し,寺領50石を寄進する
1610年 慶長15 (庚戌)
   (2)・8 駿府に参勤していた生駒一正,名古屋城築城を急ぐため名古屋へ赴く
   3・18 生駒一正没する.56歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   4・- 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.
この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1611年 慶長16 (辛亥)
1613年 慶長18 (癸丑)
   10・1 徳川家康大坂征討の出陣を命じ,大坂冬の陣おこる.
   11・1 生駒正俊,大坂木津川口に陣をしく(徳川実紀)
   11・17 生駒正俊,住吉で家康に参見する.家臣森出羽・生駒将監・萱生兵部の活躍めざま しく家康・秀忠より感賞される
   8.- 全国的に踊りが広がり,これを伊勢神踊と号する(讃岐国大日記)
   10・25 大地震起こる(讃岐国大日記)
1596~1615年 慶長年間
   この頃 生駒藩,高松城下魚棚の住人の一部を野方町に引き移し,水主役を勤め
       させる(英公外記)
   この頃 金倉(蔵)寺の諸堂が復興する(金倉寺文書「由緒書」)
1615年 元和1 7・13 (乙卯)
  政治・経済
   2・12 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により塩910石を大坂城へ納め
       る(菅家文書)
   3・22 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により薪3500束を大坂城へ
       納める(菅家文書)
   4・6 徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
   夏   生駒正俊,大坂夏の陣で徳川方につき,軍用金5000両を家臣に配分して
       生玉庄に陣取る(生駒記)
   5・7 大坂城落城
   (6)・13 一国一城令により丸亀城廃城
1621年 元和7 (辛酉)
   6・5 生駒正俊,没する.36歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   7・- 生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見

  
HPTIMAGE高松

 
高松城下を描いた絵図資料は25点、19種類あるそうです。これらの絵図には高松城及び高松城下が描かれています。これらを製作年代順に並べて見比べてみると、どんなことが分かってくるのでしょうか。まずは生駒藩時代の二枚の絵図を見ていくことにしましょう。
 高松城は生駒親正によって天正16(1588)年,香東郡野原庄の海浜に着工されました。
高松城の地理的要害性ついて『南海通記』は
「此ノ山ナイテハ此ノ所二城取り成シ難ク候、此ノ山アリテ西ヲ塞キ、寄口南一方成ル故二要害ヨシ,殊二山険阻ニシテ人馬ノ足立ナク,北ハ海ニ入テ海深ク,山ノ根汐ノサシ引有リテ,敵ノ止り居ル事成ラズ,東八遠干潟 川人有リテ敵ノ止ミガタシ,南一ロノ禦計也,身方干騎ノ強ミトハ此ノ山ノ事也」

とあり、北は海岸で,東は遠浅の海岸が広がり,西は山が迫っており,山の麓は浜が広がる要害の地に築かれたことを指摘します。
 最も古い絵図は寛永4(1627)年に記された『讃岐探索書』の絵図(絵図1)のようです。
これは題名からうかがえるように幕府隠密が書き残した報告書で、絵図のほかに高松城の他にも町の広さなどが記録されています。当時は生駒藩時代で外様大名でなので監視の目がそそがれていたようです。隠密は次のように高松城を絵図入りで報告しています。

1讃岐探索書HPTIMAGE
天守閣は三層で,三重の堀をもつ。内堀の中に天守のある本丸があり,堀を挟んで北側に二の丸,東に三の丸がある。天守の西側の西の本丸は多聞で囲まれ,南西・北西・北東の角に二重の矢倉がある。二の丸は矢倉で囲まれていて,北角には矢倉が2つある。二の丸と内堀を挟んで西側にある西の丸の北側は塀で、北の角には屋敷があり,南の角に矢倉が2つある。しかし、中堀の石垣は6~7間が崩れて放置されている。海側にも海手門と矢倉があり,その東側には塀が続いているが、土が剥げ落ちている。
 また海側には海手門があった。中堀の東南付近には対面所がみられるが,この北側には堀を挟ん
で三の丸との間に門がある。三の丸は東南角に二重の矢倉があり,矢倉に続いて30間の多聞が続く。海の方にも矢倉があり,塀が巡っているが塀は崩れかかっていた。
 
1生駒藩時代
お城周辺の拡大図
これは高松城のことを記した一番古い史料になりますが,築造開始より年数が経過して,土塀や石垣は相当傷んでいて、それを放置したままになっていたことがうかがえます。藩内のお家騒動が激化してそれどころでなかったのかもしれません。
「讃岐探索書』は、城下の周辺ついては次のように記します
城下は城の西側,南側,東側に広がっていて、東10町(約1km),北南6町(約650 m)程度の広さで,800~900軒の家が並んでいる。城下町の東西には潮が入る干潟が広がり,南側は深田であった。 
 ここからは高松城の西と東はすぐ海浜で、東西の町は小規模で、南に向かって城下町は発展していく気配を見せています。町屋数は900軒前後であったといいます。公儀隠密の描いた「絵図1」は略図で、高松城下の町の名や,その広がりなどについては詳しくは分かりません。しかし、東西に干潟が広がる海岸の先端にお城が築かれていたことは分かります。
1HPTIMAGE
これに対して『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)は詳細に描かれています。
この絵図を見て気付くことを挙げておくと
①城と港(軍港)が一体化した水城であること
②中堀と外堀の東側には町人街があること
③外堀の南に掛けられた橋に続いて丸亀町がまっすぐに南に続いていること
外堀の南と西にはは侍屋敷が続きます。侍屋敷は外堀内が108軒、外堀西が162軒で、重臣屋敷は中堀の外側に沿って配置されているのが上図から分かります
町筋を見ていくと東西に5筋、南北に7筋の通りが配されています。注目しておきたいのは東側の外堀の内側には、町屋があることです。これらは特権的な保護を受けていた気配があります。町屋の総数は1364軒になるようです。公儀隠密の報告から10年あまりで1,5倍に増えていることになります。急速な町屋形成と人口の集中が起きていたことがうかがえます。
 東西南の町屋を見ておきましょう。
 東部は町屋が広がり,いほのたな町・ときや町・つるや町・本町・たたみみ町などの町名が見えます。外堀の東側は東浜舟入で,港ですが舟入の東側にも町屋が広がり、材木屋、東かこ(水夫)町があります。
 南側には丸亀町,兵庫かたはら町,古新町,ときや町,こうや(紺屋)町,かたはら町,百聞町,大工町,小人町が続きます。この数からも城下町は南に向かって伸びていった様子がうかがえます。
 城下の東には通町,塩焼町が、城下のはずれには「えさし町」が見えます。
絵図の西端は、現在の高松市錦町に所在する見性寺付近で、東端は塩焼町で,現在の高松市井口町付近にあたります。
 南端には三番丁の寺町が見えます。そこには西からけいざん(宝泉)寺・実相寺、脇士、浄願寺・禅正寺・法伝寺・通明寺・福泉寺・正覚寺・正法寺の寺院がならび南方の防備ラインを形成します。なお「けいざん寺」は宝泉寺のことで、二代住職が恵山であったことから人々は「けいざん寺」と呼んだようです。
 この南にはかつては堀もあったようで、それが埋め立てられて「馬場」となったとも伝えられます。それを裏付けるように厩,かじや町が描かれ,南東部には馬場があり,その南には侍屋敷があります。この辺りは、現在の高松市番町2丁目で、高松工芸高校の北側あたりから御坊町にかけてになります。
「生駒家時代高松城屋敷割図』(絵図2)には三番丁が描かれていますので、この時代に城下はこの辺りまで広がっていたようです。
しかし、高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

とあり,松平頼重の頃に六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場が新たに侍町になっことが記されています。つまり、それまでに五番丁まであったと記します。生駒藩時代に、どこまで城下が広がっていたのかは、今の史料でははっきり分からないようです。
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 この「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのでしょうか。研究者が注目したのは、中堀と外堀の間の西上角にあった西嶋八兵衛の屋敷が
描かれていることです。彼は藤堂家から派遣されて、讃岐のため池築造や治水灌漑に大活躍した讃岐にとっては「大恩人」です。西嶋八兵衛は寛永4(1637)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあって、その後に大本寺は建立されたと,大本寺の寺伝が記します。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 ここでもう一度「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2)をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作された研究者は考えています。まるで推理小説を読むような謎解きは、私にとっては面白いのですが、こんな作業を重ねながら高松城を描いた19種類の絵図を歴史順に並べらる作業は行われたようです。

 生駒騒動で生駒氏が改易された後,寛永19(1642)年,高松城に入部した松平頼重は寛文10(1670)年に高松城の天守閣の改築をし,翌年には新しく東の丸を築造しています。東の丸があるかどうかが絵図をみる際のポイントになるようです。東の丸があれば、松平藩になってからの絵図と言うことになります。
1高松城 屋島へ
それでは、この絵図はどうでしょうか?
「讃岐高松丸亀両城図 高松城図』(第6図 絵図3)も製作年代がありません。東の丸が描かれていないので寛文11(1671)年以前のものであることは間違いありません。この絵図は、高松城下町は略されていますが、周辺への街道が描かれています。周囲をみると屋島(八嶋)島の状態で陸と隔てられ、屋島と高松城は湾として描かれています。また,志度へ向かう道が2本描かれています。1本は東浜より湾を渡って屋島の南に抜け,牟礼・志度方面へ向かう道,もう1本は長尾街道と分岐し,海岸線を経由して屋島の南で前者の道と合流する道です。この道のすぐ北側は海で,湾状となって描かれていますが,この辺りは西嶋八兵衛によって寛永14(1637)年に干拓が行なわれた場所になります。ところがこの絵からは干拓の様子が見えません。ここからこの絵図は生駒藩時代のもので,西嶋八兵衛が干拓を行う寛永14(1637)年より前のものと研究者は推理します。
 
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第8図「讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)です。
 この絵図と先ほどの「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)を比べると、2つの相違点に気がつきます。一つは(絵図2)では東浜舟入の東側は「東かこ町」でした。この東の海岸をみると,塩焼浜と記され,浜が広がっている様子が描かれています。一方この絵図4では、東かこ町側の海岸は直線的に描かれていて、絵図の着色から石垣の堤防が築かれたことがうかがえます。
 2つめは、この「絵図4」では西浜舟入の侍屋敷の西側には町人が見られますが『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)では町人町は描かれていませんでした。ここから『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2』より新しいものと研究者は考えているようです。
 それでは『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は生駒藩時代,高松藩時代のどちらをを描いた絵図なのでしょうか?
 松平頼重が高松城に入城するのは寛永19(1642)年で,『生駒家高松城屋敷割図』(絵図2)の製作の3~4年後です。東浜の海岸の石垣工事や,西浜町人町の建設などの工事は大工事であり,これだけの工事を3~4年間で行なうのは難しいようです。『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は、松平頼重入封以後の高松藩時代のものと考えるほうが無難のようです。
 なお,明暦元(1655)年松平頼重が五番丁に浄願寺を復興します。浄願寺は寺域も広く「高松城下図」(絵図7)など後世の絵図にも大きく描かれています。しかし、この「絵図4」には浄願寺は描かれていません。これも明暦元(1655)年以前のものとされる理由のひとつです。
DSC03602

  以前に生駒藩の高松城の建設は従来考えられていたような秀吉時代のことではなく、関ヶ原の戦い後になって本格化したと考えられるようになっていることをお話ししました。それは発掘調査から分かってきたお城の瓦編年図からも裏付けられます。
DSC02531

 そして、新たにやってくる新領主・松平頼重のもとで高松城はリニューアルされ、城下は新たな発展の道を辿ることになるようです。

1高松城寛永16年

生駒時代の高松城のようすを、上の図1から説明すると
城の中央に天守閣があり、その西側に本丸、本丸の北側にニノ丸があり、ニノ丸の東側には三ノ丸があります。ここからは中濠と内濠に囲まれて西ノ丸と三ノ丸があるということが分かります。西ノ丸の下の方の一帯は、現在の「桜の馬場」になります。
 外濠は西の方には「西浜舟入」、東の方には[京浜舟入]と記されています。ここが前回にもお話しした船場になります。軍港としての役割もあったのではないかと私は考えています。
 この船場から南の方に下がって東西に走っているのが外濠です。この中濠と外濠に囲まれたところが、侍屋敷になります。その侍屋敷の南の中央辺りに、今の「三越」は位置しているようです。
 城への門は、中濠の南にかかっている橋が城への出入口で、大手門になります。外濠のあったところは、今では片原町から兵庫町、そして西の突き当たりが広場として残っています。
 城下町は、外濠から南の方に広がっていて、この地図にも当時の地名が書き込まれていますが、今の高松の商店街に残っている町名と殆ど同じです。例えば、片原町・兵庫町・丸亀町・塩屋町・新町・百聞町・通町・大工町・鍛冶屋町などです。当時のメーンストリートは、丸亀町から南新町へと南に進み、後に田町が発展して藤塚へと延びていくことになるようです。
1高松城 生駒時代屋敷割り図
生駒時代屋敷割図
                   
生駒騒動と生駒氏の改易
 秀吉によって讃岐一国を与えられた生駒氏によって、讃岐の近世は始まります。生駒氏は引田 → 聖通寺山と拠点を移し、高松に本格的なお城が築かれ、その南に城下町が形成されていくことになります。生駒氏は約五〇年間にわたって領主として支配し、讃岐に落ち着きを取り戻す善政を行ったと評価されています。
 ところが寛永十四年七月に国家老生駒帯刀が、生駒藩江戸家老前野助左衛門らを幕府に訴えたことから、「生駒騒動」が始まります。そして、寛永十七年五月に、「生駒藩内の家中立ち退き」が幕府で問題になります。生駒藩の家来が、国家老派と江戸家老派の二つに分かれ、江戸家老派に与した藩士が、讃岐からも江戸藩邸からも集団脱走して、大坂に集結するという大事件が起こりました。なぜ、そのようなことになったのか、ということについてはよくわかっていないようです。当然、家臣たちが藩邸を脱走すれば、藩が潰れるということは分かっているはずなのに、なぜ家臣たちが立退いたのか?当然、職場放棄し「脱走」した彼らも後に処分されます、この事件の原因については、諸説あって今後の課題のようです。

Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
 この事件は、幕府の老中たちによって裁かれて、藩主の責任だということで、讃岐を取り上げられてしまいます。そして生駒高俊は、温暖な讃岐から秋田県の雪深い矢島へ移されてしまいます。矢島は、冬は2メートルも雪の積もる鳥海山の麓で、冬はスキーで賑わう小じんまりした町です。

1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重による高松藩の基礎作り
 生駒氏が去った後、寛永十九年二月に松平頼重が高松藩主となります。この時に、讃岐は西の丸亀藩五万石余と高松藩11万石の二つに分けられます。ほぼ土器川から東の方の高松藩の政治体制・領内支配体制を作り上げていくのが松平頼重です。
 ちなみに、この人は水戸黄門のお兄さんになります。本来ならこの人が、水戸藩主になるべき人でした。一説には、頼重が生まれたときには、父の水戸藩主徳川頼房は、お兄さんたちに子供がなかったということで、頼重を世継として幕府に届けるのをためらった。そして、頼重を家臣に育てさせたと伝えられます。
 その六年後に弟の光圀が生まれました。その時には、お兄さんたちにも子供が生まれていたということで、頼房は光圀を世継として幕府に届けたといいます。こんな不遇な回り合わせにあった頼重は、やがてそのことが幕府に知れ、将軍徳川家光の耳にも入り、寛永十五年に下館藩(しもだて栃木県)の五万石の大名となります。そして四年後に高松城に入ることになります。このように高松藩は水戸家の分家的な存在で、幕府に非常に近く家門(親藩)という立場にある藩だったようです。
 城下上水道と溜池
 頼重が高松藩に入ってからの業績は、最後につけた年表にあるように、先ず城下に上水道を敷きます。上水道としては、全国的にみてそう古いものではありません。ただ、地下水を飲料水として使用したのは、全国初ということで注目されています。井戸としては次の三つが使われました。
「大井戸」現在でも瓦町の近くに大井戸というのが、規模を小さくして復元されて残っています。物が投げ込まれたりしていますが高松市の史跡です。
「亀井戸」亀井の井戸と呼ばれていたものです。五番丁の交差点の少し東の小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっていますが、発掘調査をすればきっとその跡が出てくると思います。
「今井戸」ビルの谷間にほんとうに小さな祠が残っていて、鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥に、「水神社」の祠があります。この3つの井戸から、高松城下に飲料水としての井戸水を引いています。
 翌年の正保二年は、大旱魅で新らしく溜池を406を築いたといいます。しかし、一度に築いたものではなく、恐らく頼重の時代に築いたものが406で、この時にそれをまとめて記したものと研究者は考えているようです。どちらにしても生駒氏時代に西島八兵衛が溜池を築いたと同じように、頼重の時代に入っても溜池の築造が続いていたことがうかがわれます。
 高松城石垣の修築と検地
 正保三年には、高松城石垣の修築に着手しています。
この時期の高松城の様子を幕府が派遣した隠密が記録した「讃岐探索書」が残っています。
その中に、石垣が崩れているとか、土塀が壊れたりしていると書かれていて、当時の高松城は相当いたんでいたようです。生駒藩は、「生駒騒動」のごたごたで城の手入れも充分できていなかったのかもしれません。年表の寛文五年に、城下周辺から検地を始め、寛文十一年に終わるとあります。
 領主にとって検地は領地経営の根本に関わる重要事業です。
頼重も六年間かかって領内の検地をやり終えています。高松藩では、これ以後検地は行われていません。この検地によって、高松藩における年貢取り立てのための農民支配体制が、ほぼ出来上がったと考えることができます。
1高松城 松平頼重普請HPTIMAGE
いよいよ寛文十一年九月に高松城普請が始まります。
この工事の結果、できた高松城が図2です。
 普請前の生駒時代の違いについて、見ておきましょう
 一つは、生駒時代は東側の中濠は侍屋敷に沿っているだけでした。ところが普請後は、中濠が途中で東に分かれ下横町にぶつかってから北に進んでいます。この結果、中堀まで船が入ってこられる構造になっています。
 二つ目は、普請前は海に面した北の方は「捨石」と記されているように、石を捨てただけの簡単な石垣だったようです。ところが、普請後には、しっかりとした石垣もでき、爪か彫とか対手御門が新しくできています。
 三つ目として、普請前の城内への入り口である大手門が、普請後には橋がとりはらわれていて、右の方のが鼓櫓の横の濠の上に橋がかかっています。現在も、ここにある旭橋から城内に入ります。そして四つ目は北の方の一部に海を取り込んで北ノ丸を新しく造成し、さらに、東の方では侍屋敷と町屋を二つに分割して、新しく濠を設けて東ノ丸をつくり、もともとは城外であったところを城内に取り込んでいます。
 高松城普請は単なる城の修理ではなく、城の拡大であったということです。これ以後の高松城の姿は明治維新まで変わらなかったようです。
 
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この城下の屏風は、高松城だけでなく城下町の様子まで描かれています。そのため城の様子や城下町の様子がとてもよくわかります。人々がどんなものを運んでいるのか、どんなものを着ているのかなど、細かく描かれています。そういう意味で、この屏風は当時の人たちの風俗などが、よく分かる大変貴重な資料と評価が高いようです。

1 高松城p51g

その後の高松城はどうなったかのでしょうか
図2の東ノ丸の米蔵丸のところには、現在は県民ホール(レグザム)が建っています。それから米蔵丸の半分から下の作事丸にかけて、県立ミュージアムがあり、その南には城内中学校がありました。城の中にいろいろな建物が建つことは、高松城は国史跡であり、文化財保護の立場から考えると、問題だという意見もあるようです。
 また、本丸の石垣のすぐ横の内濠の部分が築港駅のホームになっています。さらに西ノ丸の一部が中央通りにかかり、生駒時代の大手門の跡の近くの西の中濠が埋め立てられて現在電車が走っています。東ノ丸の東側の濠は、フェリー通りになっています。
1 高松城54pg
 明治以後、高松は港町として発展してきましたが、この城の辺りが港町として発展していくさいにお城の敷地が切り取られていった歴史があります。21世紀になって、この国にも心の余裕ができたようで、文化的な面にも目を向けていこうという時代になってきました。昔のままの高松城を復元するのは無理でも、少しでも昔の姿に、戻そうとする動きが出てきています。

 昔の高松城は、海に接して石垣のある海城で、瀬戸内海からは海辺に石垣の見えるすばらしい城だったと思います。今では、石垣の北を埋め立てて道路になって、石垣が海に洗われる姿を見ることはできません。しかし、行政は石垣と道路の間の建物を撤去して散歩道をつくり、石垣の北を少し掘って海水を入れて濠のようにして、昔の高松城の姿に少しでも近づけようとしているようです。岡山行きのフェリーが廃止になった跡の利用にも期待したいと思っています。
1 高松城 教科書.明治34年 - 新日本古地図学会
参考文献
  木原 高松城と松平頼重
(『高松市教育文化研究所研究紀要』四五号。1994年)
          「高松城と松平頼重」関係年表
天正12年(1582)6月 本能寺の変
天正12年(1584)6月頃長宗我部元親、讃岐十河城を攻略する
天正13年(1585)春 長宗我部元親、四国を平定する。
   4月 豊臣秀吉、長宗我部元親攻撃を決定する。
   7月 豊臣秀吉、四国攻撃軍と長宗我部軍との和議を命令
   8月 千石秀久、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正14年(1586)12月 豊臣秀吉、千石秀久より讃岐国を没収
天正15年(1587)8月生駒親正、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正16年(1588) 春 生駒親正、高松城築城に着手
慶長2年(1597)春 生駒親正、丸亀城を築く。        
     生駒藩、この頃から同7年頃にかけて領内検地実施
慶長5年(1600)9月  関ヶ原の戦い。
慶長6年(160U 5月 生駒一正、徳川家康から讃岐国を安堵
慶長19年(1614)10月 大坂の陣始まる。
寛永4年(1627)8月  幕府隠密、讃岐を探索する。
寛永8年(1631)2月  西島八兵衛、満濃池を築造する。
寛永14年(1637)7月  生駒帯刀、幕府老中土井利勝らへ訴状衛出・生駒騒動の始まり)
寛永17年(1640)7月 生駒高悛、「生駒騒動」で讃岐国没収 
            羽国矢島1万石に移封。 
寛永18年(1641)9月山崎家治、西讃岐5万石余を与えられ丸亀城に拠る 
寛永19年(1642)2月  松平頼重、東讃岐12万石を与えられ高松城に拠る
正保 元年(1644) 高松城下に上水道を敷設する。
正保2年(1645) 讃岐大干ばつ
正保3年(1646)6月  高松城石垣の修築に着手する。
明暦3年(1657)3月  丸亀藩山崎家断絶する。       
万治元年(1658)2月  京極高和が山崎家領を継ぐ  i
万治3年(1660)この年丸亀藩、幕府より丸亀城普請を許される       
寛文5年(1665)この年 高松藩、城下周辺より検地を始め11年に完了する。これを「亥ノ内検地」という
寛文9年(1669)5月 高松城天守閣の上棟式が行われる。
翌年8年 造営が成る。
寛文10年(1670)丸亀藩、延宝にかけて検地を行う。
寛文11年(1671)9月  高松城普請が始まる。この年家臣知行米を「四つ成」渡しとする。
延宝元年(1673)2月高松藩主松平頼重、病により隠退する。
延宝2年(1674)9月 米蔵丸・作事丸(東ノ丸)が完成する。
延宝4年(1676)3月 月見櫓の棟上げが行われる。北ノ丸完成か
延宝5年(1677)5月 艮櫓が完成する。
元禄8年(1695)4月  松平頼重、死去

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生駒親正
 秀吉が四国に進攻し、長宗我部元親を土佐に封印して後の讃岐は短期間で何人か領主が交代します。その後、天正一五年(1587)8月に秀吉から生駒親正が讃岐を拝領してやってきます。これが讃岐の戦国時代の終わりとなるようです。そういう意味では生駒親正は、讃岐に近世をもたらせた人物と言えるのかもしれません。
まず親正のことについて簡単に見ておきましょう
 親正は美濃国土田の出で、はじめ織田信長に仕えていましたが、後に秀吉の配下に入り、讃岐にやって来る3年前に播磨国に二〇〇〇石を領し、二年後には播磨の赤穂に六万石を有する近世大名へと成長します。そして翌年には、対岸の讃岐領主になるのです。この急速な出生ぶりからは秀吉の期待と信頼がうかがわれます。
 讃岐に入封した親正は領内支配体制を固めるために、讃岐国内の有力な武将を家臣に取り立て家臣団を充実させます。また寺社にも白峯寺50石、一宮(田村)神社50石、善通寺誕生院28石、松尾寺金光院(金毘羅大権現)25石などの寄進・保護を行っています。さらに、大規模な治水灌漑事業を行い水田開発を積極的に行うなど、長く続いた戦乱の世を終わらせ民心を落ち着ける善政を行ったとされています。まさに戦乱から太平への転換を進めた人物として、もう少し評価されてもいいのではないかと個人的には思っています。
 しかし、政治家ですから善政ばかりで世が治まるわけではありません。反抗するものには、徹底した取り締まりを行っています。天正十七年に秋の年貢納入時期になっても山田郡の農民が年貢を納めなかったために、その首謀者を捕えて香川郡西浜村の浜辺で首を刎ねたという記録も残っています(「生駒記」)。
 ところで生駒親正が支配した讃岐の石高は、朱印状が残っていないのではっきりしません。慶長五年に、親正の子である一正は、徳川家康より23000石を加封され173000石を安堵されたようですから、引き算すると15万石ということになります。讃岐にやって来た親正は、最初から高松を拠点にしたのではありません。
最初に引田城、次に宇多津の聖通寺山城を築いています。
1引田城3
なぜ、引田城や聖通寺山城を捨てて、野原(高松)に新城を築いたのでしょうか? 
 生駒氏が最初に城を築いた引田について見ていましょう
引田は、古代から細長い砂堆の先に伸びる丘陵周辺が安定した地形を維持してきました。
HPTIMAGE.jpg引田
ここには『土佐物語』などの近世の軍記物から付近に船着場があったことが想定されているようです。その湊の港湾管理者としての役割を担っていたのが丘陵上にある誉田八幡神社のようです。砂埃の背後は塩田として開発されていたらしく、前面にははっきりした段差があり、その後は海側へと土地造成と町域の拡大が進められていきます。それは住民結合の単位としての「マチ」の領域、本町一~七丁目などとして今に痕跡を残しています。このように中世の引田の集落(マチ)の形成は、誉田八幡神社周辺を中心に、砂堆中央から根元方向に向けて進みますが大きな発展にはならなかったようです。

1引田城1
 引田城は、潟湖をはさんでこの誉田八幡神社に向かい合っています。つまり、引田城の築かれた現在の城山は、沖に浮かぶ島だったことを物語ります。つまり城とマチとは隔たった位置にあったのです。このように見ると、引田は瀬戸内海を睨んだ軍事拠点としては有効な機能をもつものの、豊臣大名の城下町建設地としてはかなり狭い線状都市であり、大幅な人工造成を行わなければ近世城下町に発展することはできなかった地形のようです。それが秀吉に讃岐一国を与えられ入国した生駒氏が、ここを拠点としなかった理由のひとつだと研究者は考えているようです。
1引田城2
 また讃岐東端の引田は、秀吉側が四国侵攻の足掛かりとした場所ですが位置的にも東に偏りすぎています。讃岐の中央部に拠点を置こうとするのは、政治家としては当然のことでしょう。
  ところで私は生駒氏の築城順を
①引田城 → ② 聖通寺山城 → ③ 丸亀城 → ④ 高松城 
と単純に考えていました。引田では東に偏りすぎているうえに城下町建設には狭いので、聖通寺山に移った。その際に、引田城は放棄されたと思ったのです。ところがそうではないようです。近年の引田城の発掘調査の教えるところでは、高松城と丸亀城と引田城は同時に建設が進行していたことが分かってきました。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かりました。また出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われているのです。つまり、秀吉が亡くなり朝鮮出兵が終わると、この次期は次期政権をめぐっての駆け引きが風雲急を告げた時です。そのための臨戦態勢として、3つの城を同時に建設するということが行われていたことがうかがわれます。そういう意味では引田城は、この時点では軍事的には放棄された城ではなかったようです。ただ引田城は、城下町が作れないし、東に偏りすぎているということだったのでしょう。
  次に親正が築城を始めたのが聖通寺山です。
1聖通寺山城1
ここは中世は細川氏の守護所が置かれた場所で、歴史的には、新参者である生駒氏が城を築くにはふさわしい場所と言えます。
それでは聖通寺山城と宇多津の関係はどうでしょうか?

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 宇多津の中世復元地形は、青ノ山・聖通寺山の麓まで大きく湾入する入江と、その奥部に注ぐ大束川河口部に形成された砂堆が広がります。青野山の山裾から集落が形成され始め、戦国期には砂堆上にも集落(マチ)が展開していたようです。砂堆の付け根に当たる伊勢町遺跡では、一三世紀後半~一六世紀の船着場(原初的な雁木)と思われる遺構が出ています。このような船着場がいくつか集まった集合体が「宇多津」の実態と研究者は考えているようです。その点では、一本の細い砂堆のみの引田と違っていて、どちらかというと香西や仁尾などの規模を持った港町であったようです。しかし、その領域は狭いうえに、宇多津と聖通寺山城は大束川で隔てられていて、引田と同じように城と城下町の一体性という点からは問題が残ります。
1聖通寺山城
また聖通寺山城は、現在は瀬戸大橋の橋脚の下となっていますが備讃海峡西側を押さえる要衝の地で、中世の守護所・宇多津に近い所です。前任者の仙石秀久は、年貢徴収に抵抗した領民を聖通寺城下で処刑しています。また、丸亀城下町の水主町・三浦(西平山町・北平山町・御供所町)は、聖通寺城下北側の平山や同東側の御供所の住民を移転させることによって成立したと伝えられます。もっと前まで遡れば、御供所に隣接する坂出・古浜の住民は、生駒氏とともに赤穂から移住してきた伝承をもつようです。ここからは生駒氏の城作りが瀬戸内の海上交通にアクセスする意図があったことがうかがわれます。
 しかし、聖通寺山城跡からは石垣が見つかりません。また城の縄張りから中世有数の港町・宇多津との一体性が感じられません。さらに宇多津は中世以来の寺社勢力が強い町でした。旧勢力の反発や協力が得られなかったのかもしれません。こうして聖通寺山城と周辺の近世城郭・城下町化は、不十分なままで終わったようです。
 しかも、引田から聖通寺にやって来て翌年1588年(天正16)には香東郡野原の地に高松城と城下を築いたと『南海通記』は記します。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)もあります。
 どちらにしろ、3番目に着手した城が高松城になるようです。しかし、高松城の着工や完成時期についてはよく分からないことが多いようです。
高松城が着工された時期背景を見ておくことにしましょう 
1590年に、秀吉は関東・東北を制圧し、国内では未征服地がなくなりました。織豊政権は「領土拡大」を自転車操業で続けることによって「高度経済成長路線」を維持してきました。秀吉は、日本国内が「飽和状態」となったにも関わらず「内需拡大による低成長路線」への政策転換を行わず、朝鮮半島とその先の中国(明)に領土を求め「高度経済政策」を再現しようとします。1591年(天正19)に九州の諸大名を動員して、対馬海峡を目前にした肥前・名護屋に壮大な城(名護屋城)を築かせ、1598年(慶長3)まで、休戦をはさみつつ、朝鮮半島全域で軍事行動を展開します。生駒氏を含む四国の諸大名も「四国衆」として、この戦いに加わります。

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名護屋城の生駒親正陣屋跡
生駒氏は、文禄の役で5,500人、慶長の役で2,700人の兵を送り、親正と息子の一正も海を渡ります。
 また親正は、1594年(文禄3)から翌年にかけて、伏見城にいた秀吉に代わり大坂の留守を預かり、1595年(文禄4)7月15日に秀吉から5,000石を加増されています。この日は、秀吉が自らの後継者として関白に任じていた甥の秀次が、謀反の疑いで切腹させられた日です。文禄の役の休戦交渉から秀次事件という重要な時期に、生駒親正は秀吉と名護屋・朝鮮派遣軍との間をつなぐ場所にいたことになります。豊臣政権下で宇喜多秀家・蜂須賀家政などとともに、西国支配の要の役割を果たしてきた親正の位置付けがよく表れています。と同時に、秀吉が讃岐に生駒氏を配した背景に、西国支配の要としての思惑があったこともうかがわれます。豊臣政権下での親正の存在は決して小さくなかったことがここからは分かります。
 相次ぐ国内戦争の延長としての文禄・慶長の役は、豊臣大名たちの領国経営にとって、重い負担だったようです。それは生駒氏にとっても同様で、高松城下町の建設がなかなか進まなかった理由の一つとも考えられます。  
  しかし、秀吉亡き後の豊臣・徳川家の激突に備えて各勢力は臨戦態勢に入ります。そのために生駒氏も引田・高松・丸亀の3つの城郭の整備を同時に行うことになったことは先ほど述べたとおりです。
『南海通記』(享保三年〈1718〉成立)には引田・聖通寺山両城を含めた讃岐の城郭は、
「皆乱世ノ要害」であり、「治平ノ時ノ居城ノ地」である「平陸ノ地」を求めて野原に新城高松城と城下町を建設するに至った
と記します。ここで研究者が注目しているのは、「新たな領国経営の拠点として平城を意識し、生駒氏自身が山城(聖通寺山城)を下りている点」で、秀吉の「山城停止令」との関連がうかがわれるようです。
 『南海通記』は、一次史料ではなく後世に讃岐綾氏の後継を自認する香西成資が香西氏顕彰のためにかいた歴史書という性格があり、内容については信憑性が疑われるところが多々あります。しかし同時に、この史料しかないという事情もありますので、注意しながら頼らざるえません。

 野原(現高松)は安定した二㎞四方の海浜部地形がありました。
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 そこに野原中黒里・浜村・西浜・天満里・中ノ村などの集落が分立していました。そして、それぞれが次のような3つのエリアに機能的に分かれていました。
①国人領主・香西氏配下の小領主と地域紐帯を強める伝統的な寺社が押さえたエリア(中ノ村)、
②讃岐国外に開かれた情報センターとしての寺院と流通管掌者が押さえたエリア(中黒里)、
③紺屋・鍛冶屋などの職人や漁労集団などが集住するエリア(浜村)、
 交易の前線としての海浜部(港湾)に近接していたのは②・③であり、①は現在の栗林町あたりで少し内陸部にありました。

DSC03821十三世紀の野原復元図
 また、高松地区で行われた40地点近い発掘では、1650年より前の遺構は、整地された痕跡がなく、盛土などの人工造成を行わずに中世野原の地面に、そのまま城下町の建設を行うことが出来たようです。これも有利な条件の一つだったでしょう。
 以上から、引田・宇多津は城下町建設地としては狭く、町も中世的な住民結合が強く残っていて、新しくやって来た生駒氏にとっては「邪魔になる存在=解体すべき対象」と見えたのかもしれません。生駒氏は、野原の広大な地形と「ニュートラル」な地域構造に、城下町建設の夢を託したとしておきましょう。
DSC03843高松をめぐる交通路
 一方、慶長二年に西讃岐統治と備讃瀬戸へのにらみをきかせるために親正は那珂郡津森庄亀山に丸亀城を築きます。そして、この丸亀城には子一正が居城することになります。
1丸亀城
 秀吉の没後、徳川家康が勢力を強めます。会津の上杉景勝を討つため家康は慶長五年六月に大坂を出発しますが、これには生駒一正が従軍していました。こうして、九月の関ヶ原の合戦では父の親正は豊臣秀吉恩顧の大名として石田方につき、子の一正は家康方について戦うことになります
一正は関ヶ原の合戦で徳川方の先鋒として活躍し、家臣三野四郎左衛門が活躍します。これにより生駒藩は所領没収を免がれ、一正に讃岐171800石余が安堵されました。こうして生駒家は豊臣系の外様大名でありながら、関ヶ原の合戦を乗り切り近世大名としで存続する道が開けたのです。
 慶長十三年九月に生駒一正は妻子を江戸屋敷へ住まわせたことにより、普請役を半分免除されています。これが参勤交代制の始まりになりますが、その際に率先して行うことで一正は家康への忠誠の証を示しています。
 大坂夏の陣の後に、一正は藩主となって丸亀城から高松城に入ります。丸亀城には重職の奉行・佐藤掃部を城代としておきます。一正死後に藩主となった正俊は、丸亀城下の一部の町人を高松城下へ移住させ、その地は丸亀町と呼ばれるようになります。そして丸亀城は元和元年の一国一城令により廃城となります。

以上をまとめると
①生駒親正が讃岐にやってきて最初に築城にとりかかったのは引田城であった
②ついで宇多津の聖通寺山に移り、
③1年後の1588年には高松城の築城にとりかかった。
④最終的に高松城が選ばれたのは、香川中央部の「古・高松湾」に面し、背後の後背地もひろく、城下町形成に適した空間が確保できたことが考えられる。
⑤しかし、当時は朝鮮出兵などの大規模軍事行動が続いていいたために高松城築城はあまり進まなかった。
⑥それが急速に進むのは秀吉死後の関ヶ原の戦いに向けての政治情勢にある。
⑦この時期の生駒藩は、高松城築城と平行して引田城・丸亀城の3つの城を同時に築城していた
⑧家康についた一正は、丸亀城から高松城に移り、高松城を拠点にする。以後、城下町建設も軌道に乗り始める
        参考文献    高松城下町の成立過程と構成
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 前回までは、戦国末の天正年間に金毘羅大権現の基礎を確立した宥盛の手腕について見てきました。その中で疑問に思ったのは、生駒藩が金毘羅に度重なる寄進をおこなった理由です。その背景を探ってみることにします。
そこには、オナツという女性の存在が浮かび上がってきます。

Amazon.co.jp: ※生駒家法名 生駒主殿親道 江戸旗本 雅楽頭親正→高松城主讃岐守一正→左近太夫正俊→壱岐守高俊・・高清・・親興・・正親等資料古文書  : おもちゃ
              生駒家法名 初代が親正・二代が一正
天正15年(1587)8月、前任の仙石氏・尾藤氏が一年にも満たない間に改易された後に、讃岐国領主として入ってきたのが生駒親正(62歳)一正(33歳)親子です。この生駒家の下で讃岐の国は戦国時代の荒廃から抜け出す道を歩み出していくことになります。次の戦いに備えて、引田・高松・丸亀の3つの城の造作が進められます。そのような国づくりの中で、関ヶ原の戦いを迎えることになります。生駒家も「生き残り戦術」として信州の真田家と同じように、父親正が豊臣方へ、子一正が家康方につき戦うことになります。結果は豊臣方の敗北で、父親正は蟄居を余儀なくされ、実権を握った一正は戦後に丸亀城から高松城に拠点を移し、新しい国づくりを継続していきます。

一正の愛したオナツとその子左門
生駒藩主の肖像画|由利本荘市公式ウェブサイト さん
生駒一正

 一方、男盛りの一正は讃岐入国後に於夏(オナツ:三野郡財田西ノ村の土豪山下盛勝の息女)を側室としていました。オナツは一正の愛を受けて、男の子を産みます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門(正房)と称すようになり、元服後に腹違いの兄・京極家第三代の高俊に仕えることになります。寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。

それでは、オナツと金毘羅を結ぶ糸はどこにあったのでしょうか?
   それはオナツの実家である財田村の山下家に求められます。山下家は戦国時代に一条家(現四万十市)に仕えていた武将のようです。主家の一条家が長宗我部元親に滅ぼされた後に財田にやって来て、勢力を養ったと伝えられます。財田において長宗我部と戦ったとの言い伝えが残っていないことから、親長宗我部派であり、土佐軍と共にやって来て「占領軍たる長宗我部軍の在地化」した勢力のひとつと考える研究者もいるようです。とにかく戦国の世を生き抜いた財田の武将・山下盛郷が山下氏の始祖でになるようです。
 山下家の二代目が盛勝(オナツの父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久でオナツの兄です、父と同様、郷司となり西ノ村で知行200石支給されます。
しかし、彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
 一方、オナツの弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この盛光の息子が宥睨です。宥睨は、宥盛死後にその後を継いで金毘羅の院主となります。
つまり、生駒藩の殿様である一正の寵愛を受けるオナツと、当時の宥睨は姻戚関係では「甥と叔母」という関係にあったわけです。
宥睨の弟・盛包は兄宥睨が金毘羅の院主となった慶長十八年(1613)ごろに、河内村の屋敷を引き払って金毘羅の門前町に移ってきます。この家が金光院住職里家の大山下となります。そして、後には山下家が金光院院主の座を「世襲」していくことになります。その方法は、山下家の一族から英才を選んで、院主につけるというものでした。
オナツの甥・宥睨を支える血脈の形成
こうして慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨には、出里の山下家の叔母オナツを中心とする心強い「応援団」がいたようです。そのメンバーを確認しましょう。
生駒藩では一正は慶長十五(1610)年に亡くなっていますが、
①一正の未亡人オナツ
②オナツの息子で藩内NO2の石高を持つ生駒左門、
③一正との間に生まれていた息女、
④③の息女の夫生駒将監
⑤③と④の長男生駒河内
など山下家ゆかりの人が大きな権勢を誇っていた時期なのです。これが金毘羅への度重なる寄進と後援につながったようです。

 山下家の宥睨と宥盛の関係は?
宥盛(在職慶長五年~十八年)は、金毘羅大権現の基礎を築き、象頭山の守護神・金剛坊として奥社に祀られている人物ですが、宥睨とも姻戚関係がありました。それを見ておきましょう。
 宥盛の父は井上四郎右衛門家知といい、生駒家家臣で東讃川鍋村で四〇〇石を知行していました。宥盛が出家したので弟である井上家之が跡を継ぎますが、天和元年(1618)大坂夏の陣で討死にしてしまいます。弟・家之の妻は、三野郡詫間町の山地右京進の娘です。そして、その姉は詫間の山地家からオナツの弟の盛光のもとに嫁ぎ宥睨を産むのです。
 なかなかややこしいのですが、宥盛にとって宥睨は「弟の妻の姉の息子」という義理の甥関係になるのでしょうか。どちらにしても、両者には婚姻関係があります。このような姻戚関係も宥睨が金光院住職となる際には、力を発揮したのかもしれません。もちろん、オナツを通じての生駒家の後押しが金毘羅に対してあったはずです。同時に、宥盛も宥睨の背後にあるオナツを中心とする山下家の「血」の力に「期待」していたはずです。それに応えるだけの成果を、挙げたからこそ宥盛は次期院主に宥睨を指名したのだと私は思います。
 
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さて、生駒藩の寄進時期とオナツのに関係する事項を並べて、
        「色眼鏡」をかけて見てみましょう
天正15年(1587)8月、生駒親正(六十二歳)一正(三十三歳)親子が入国。
天正15年(1587)生駒親正、松尾村20石寄進。
天正16年(1588)生駒一正、榎井25石寄進。
天正17年(1589)生駒一正、小松村5石寄進。
         一正がオナツを側室とする。
慶長 5年(1600)オナツが実家(財田西ノ村)で一正の子・左門を出産
慶長 5年(1600)生駒一正、院内31石寄進。関が原の戦い
慶長 6年(1601)生駒一正、金毘羅42石寄進。
   生駒一正、三十番神社改築。
慶長 8年(1603)観音堂改築 丸亀城竣工。
慶長12年(1607)生駒一正、高篠村30石、真野10石、買田村10石、真野5石寄進。
慶長15年(1610)一正死亡 正俊が生駒家継承
慶長18年(1613)オナツの甥・宥睨が金光院の住職就任(以後32年間)
慶長18年(1613)生駒正俊、寄進状。
元和 4年(1618)生駒正俊、院内73石、苗田村50石、木徳村23石、寄進。
元和 6年(1620)生駒正俊、鐘楼堂建立。
この頃、オナツの産んだ左門は、腹違いの兄の京極家第三代高俊に仕えるようになる。
元和 7年(1621)正俊が36歳で死去 生駒高俊が幼くして継承、五条村へ100石寄進。
元和 8年(1622)生駒高俊、寄進。合計330石となる。
寛永17年(1640)お家騒動(生駒騒動)発生、生駒家は出羽国矢島へ配流
     (1645)金光院院主 宥睨死亡
①第1期は、天正年間です。生駒家の入国の天正十五(1587)年1月24日から始まり、3年連続します。田地の所在場所は、松尾村・江内村(榎井村)・小松村と象頭山の山麓のかつての小松庄に集中します。しかし、これは国内安堵のためであり、他の神社仏閣と比べて飛び抜けているという印象は受けません。
②第2期は、慶長年間前半です。関ヶ原の戦の後に集中します。これは、一正が実権を握り戦勝への御礼と「オナツの男 子出産祝い」ではないでしょうか。この辺りからオナツの意向を感じます。
③第3期は、慶長年間後半です。オナツからの宥睨への「院主就任祝い」ではないでしょうか。
④第4期は、元和年間です。第三代の正俊が急死した後の、弔意の性格と同時に、オナツにすれば息子左門が元服し 家禄に付くことが出来た返礼もこめられているのでは?
以上、私の大胆な推察(独断)でした。
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改めて生駒家の寄進高を見て思うのは?
①生駒家の金毘羅に対する330石という寄進は、ずば抜けて多くトップです。
②2番目に多いのが勝法寺(興正寺)の150石で、これは三好実休の時代からの寄進で例外的です。
③3番目は生駒家の菩提寺法泉寺の100石です。
④国内で古い由緒を誇る国分寺・誕生院でも60石程度。
⑤仙石家からは100石の寄巡をうけていた白峰寺・田村神社は50石で、親正ゆかりの弘憲寺と同じ。
⑥以下、屋島寺が43石、水主明神の35石、引田八幡宮30石、滝宮27石、威徳院20石、根来寺18石と続きます。
 金毘羅へは、寛永年開になっても祭祀料50石が寄せられていたので、生駒家からの寄進は実際は380石であったと考えてもいいようです。生まれたばかりの金毘羅神に、生駒家が寄進を重ねたのはオナツの力もあったのでしょうが、それだけで説明できることはできなようです。

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参考文献  金比羅領の成立  町史ことひら3 42P~

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