
徳治3年(1308)3月に「神火」によって「金堂・新御影堂・講堂己下数字梵閣令回録」とされます。
(「年末詳金蔵寺衆徒等目安案」『新編香川叢書』史料篇二、1981年)、多度津の道隆寺が再興されたころに、金倉寺は焼け落ちたようです。それが復興するのは、前回お話ししたように南北朝後の細川頼之の時代です。善通寺中興の祖と言われる宥範と同時期に金倉寺も復興を遂げて、次のような威容を見せるようになります。
「七堂伽藍、弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立、末寺以七村為収巧之地」「仏閣僧坊甍をならへ、飛弾の匠其妙を彰し、世に金倉寺の唐門堂と云ふ」
七堂伽藍が整い、27の別所を擁し、132坊が建ち並ぶ、末寺は周囲七ケ村に散在する仏閣僧坊が甍を並べ、飛弾の匠が技術の粋を尽くした門は「金倉寺の唐門堂」と呼ばれた
その後は「凡永正五(1508)年戊辰迄僧坊無事」とあるので、永世の錯乱で讃岐が動乱期を迎えるまでは伽藍は無事だったようです。その後、「天正三(1575)年亥乙焼失」とあって、「焼失」の原因は記されていません。香西成資『南海通記』には、天正3年(1575)には、西讃守護代の香川信景と那珂郡の金倉城主金倉顕忠が戦い、顕忠が敗死し金倉城は落城したと伝えられます。その際に兵火に巻き込まれたという説もあります。どちらにしても戦国時代末期の天正年間には、善通寺と同じく金倉寺の伽藍は姿を消していたことを押さえておきます。
阿波三好氏 → 長宗我部元親 → 仙石秀久 → 尾藤一成 → 生駒親正父子
この時代の金倉寺についてはよく分かりません。ただ慶長12年(1607)8月8日付の讃岐国金蔵寺本尊開帳供養願文が多度津の道隆寺に残されています(「道隆寺文書」、『新編香川叢書』史料篇)ここからは、この時代の金倉寺が真言宗であったこと、道隆寺と関係があったことが分かります。
生駒家騒動の後に讃岐は分割され、その後に髙松初代藩主としてやってくるのが松平頼重です。
彼は独自の宗教観を持っていて、一貫した宗教政策を行います。その中の一つが、讃岐の真言宗への対抗勢力として天台宗の寺院を育成することでした。そのために、根来寺・長尾寺と共に金倉寺は、天台宗に改宗され、堂宇の再興、寺領の寄進、什物の寄進が行われます。その時の伽藍規模は、「弐町四方」です。このように現在の伽藍の基礎が整えられていくのは、松平頼重以後であることを押さえておきます。
金倉寺の古文書で智証大師の年忌が最初に登場するのは、元文5年(1740)の850年忌の時です。
「唯今之通二伽藍大破致居申候而者御法事難相勤」いとして、「伽藍造立之上、右御法会修行申度」いので、その資財として「人別奉加両年分御免被下候様」
意訳変換しておくと
「現在、伽藍が大破しており(智証大師850年忌の)法会が勤められないような有様です。伽藍を造立した上で、御法会を行いたいと思います。つきましたは、その資財集めに「人別奉加(寄進活動)を2年間行う事を許可してください」
当時は寺社の寄進活動にも藩の許可が必要でした。髙松藩では半年間だけ奉加を認めています。しかし、これでは資財が不足すると判断したようで、「伽藍造立」を止めて「修復」へ変更しています。そして、元文3(1738)年正月に村方に対して合力米を、その翌年3月には檀那中に対して奉加銀の奉納を申し入れています。しかし、これらは思うように集まらなかったようです。実際に諸堂の修繕に着手できたのは、法会の半年前の元文5年3月になってからでした。

智弁大師900年忌御法会之記事(天明7年)
天明7年(1787)に900回忌天保11年(1840)に950回忌明治23年(1890)に1000年忌
智弁大師千年忌御法会之記事(明治23年(1890) 版木広告)
「金倉寺村・原田村等二寺跡数多御座候得共、百姓屋敷又者田畑二罷成、尤寺号も俄に知不申」
意訳変換しておくと
ここにはかつては、金倉寺村や原田村に、末寺や塔頭などが数多くあった。しかし、それも今では百姓の屋敷や田畑となっている。寺号も知ることができない
ここからは中世の子院や坊については、江戸時代前期になると名も分からなくなっていたことが分かります。
「往古之時毎歳九月之祖師諱日ニ、従三井寺衆徒十日宛下向二而法事執行有之」
ここには9月の祥月命日に園城寺から僧が金倉寺にやってきてして法要を行った故事によるとされています。また、現在でも9月27日から29日までを会式とし、併せて「鎮守新羅・山王・訂利帝祭礼も同断二執行」するとします。その日には「姓子并二諸人参詣群集」するほど人々がやってきたようです。
江戸時代末期の金倉寺 上が金毘羅参詣名所図会 下が讃岐国名勝図会(1853年)
江戸時代末期になると「法栄講」という講が作られています。
①鎮社六含講(「□鎮社六會講寄進」)②長栄講」(「明治長栄講元掛金并二朱分請取通」)③五穀成就牛馬堅固御祈予壽永代講④「訶利帝母講」(版木14)
頼重は、延三元年(1673)頃に金倉寺をはじめとする以下の10ケ寺へ愛染明王像と五大虚空蔵図を寄進し、五穀成就を祈蒔させています。
「領内壱郡一箇所、大内郡虚空蔵院、寒川郡志度寺、三木郡八栗寺、山田郡屋島寺、香川東阿弥陀院、香川西地蔵院、阿野南国分寺、阿野北白峯寺、鵜足郡聖通寺、那珂郡金倉寺、右真言。天台十箇寺二、使寄附本尊愛染明王并五大虚空蔵之図像、祈願毎年五穀成就焉」(「続讃岐国大日記」『香川叢書』第二、1941年)
愛染明王坐像(金倉寺蔵 松平頼重寄進)
当郡百姓共農具、毎歳三月廿一日善通寺会式二而調来申候所、時節遅ク百姓共木綿作仕付ニ指支迷惑仕候、依之金倉寺境内明年より毎歳三月二日・三日農具市企申度奉存候、右善通寺他領之義二御座候間、何卒御領内二而農具市出来仕候得者、売買之百姓共万々勝手之儀も御座候、其上早ク相調候二付、手廻克罷成候義二御坐候間、右願之通宜被仰上相済候様被仰付可被下候、已上 (1-24-6「目次 宝暦七丁丑年二月」)
意訳変換しておくと
那珂郡の百姓たちは毎年3月21日に、農具を丸亀藩領の善通寺の会式で調達しています。しかし、3月では作付け時期には遅れがちで百姓たちの木綿作り支障をきたしています。そこで金倉寺境内で来年から毎歳3月2日・3日に農具市が開催できるようになれば、百姓たちにとっては大変助かります。善通寺は丸亀藩で他領の地です。何卒、領内で農具市が開催でき、しかも今までよりも早く農具を調達できます。この件についてご検討いただけるようにお願い致します、已上
この願出は翌8年正月に聞き届けられています。金倉寺では開催にあたって藩の寺社奉行に次のように願いでています。
「初発之儀人出も難計間、境内賑合市成就之ため、前々之通芝居等興行申度」
意訳変換しておくと
「農具市は初めての開催なので、どれだけの人がやってきてくれるか心配です。つきましたは、集客のために境内で市や芝居などの興行を許可していただきたい。
これに対して、寺社奉行の鵜殿長左衛門の回答は次の通りです。
「善通寺市を此方引移シ申事、彼院へ対シ候而も寺より何角取計候而芝居等願申事不宜」
意訳変換しておくと
「善通寺の農具市を金倉寺へ引移して行う事を許可した経緯を考えよ。善通寺への配慮を金倉寺も行うこと。また芝居開催などは認めない」
と、今まで市を催していた善通寺への体裁もあるとして認めていません。しかし、3月3日に市が立つと「小見世物・浄瑠璃稽古なと有之、賑合申事」と記されています。許可されなかったはずの見世物や浄瑠璃などは開催されていたことが分かります。農具市は翌宝暦9年にも行われています。ところが安永8年(1779)に、徳川家基(10代将軍徳川家治長男)売御による服忌のため、当年は市を立てないとの記事の後は、しばらく記録から消えます。
金倉寺では文政元(1818)年に「何卒市立候様取立申度」と再び農具市の再開を願い出て許されています。
金倉寺の訶利帝母
翌16日は晴天に恵まれ、その上に訶利帝母堂で大般若転読が行われたため、「別而大群衆、境内已来未曽有之市立(大群衆がやってきて境内は立場の亡いような市の賑わい)」というの大盛況でした。ここからは、農具市は農村の人々にとっては、農具購入という目的もさることながら、芝居や見世物などが農繁期前の楽しみとなっていたことが分かります。農員市は昭和の終わり頃まで断続的に行われ、春の風物詩となっていたようです。

②徳治3年(1308)3月に「神火」によって「金堂・新御影堂・講堂」焼け落ちた。
③南北朝後に細川頼之の保護と、廻国の修験者や念仏聖の勧進活動で金倉寺は復興した。
④永世の錯乱後の讃岐動乱の中で、天霧城主の香川氏や西長尾城主の長尾氏の押領・侵犯を受け寺領を失い、僧坊や別所は姿を消した。
⑤天正年間の兵火で金倉寺は退転し、その後の近世にいたる経緯はよく分からない。
⑥初代高松城主の松平頼重が「円珍生誕の寺」を由縁に、天台宗の拠点寺として復興させた。
⑦その後の金蔵寺は、50年毎の円珍法会の執行に伽藍整備や行事を行うようになった。
⑧それが各種の講主催や農具市の開催で、これらの活動を通じて周辺商人や村々の農民までの信仰を集めるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「金倉寺調査報告書 第1分冊 2022年 香川県教育委員会」
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