瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近世史 > 近世讃岐の寺院

 
青竜寺徳源院1
青龍寺徳源院のパンフレット表紙
 丸亀藩・多度津藩の京極氏の菩提寺である滋賀県米原市の青竜寺徳源(とくげん)院に、お参りする機会がありましたので、報告記を載せておきます。

青龍寺徳源院参拝報告記2

東海道本線松原駅近くの青龍寺 関ヶ原の西側に位置する。

鎌倉時代に近江守護となった佐々木氏は、六角氏、京極氏、高島氏、大原氏に分かれていきます。
佐々木氏から京極氏へ 系図


その中で本家筋に当たる六角氏は、信長に滅ぼされますが、京極氏は戦国時代末期の大変動をくぐり抜けて丸亀藩主として明治まで存続します。霊通山清瀧寺徳源院は、この京極氏の菩提寺です。寺の由緒は、京極家初代氏信(法号:清瀧寺)によって1283年に建立された、そのため氏信の法号の清瀧寺殿から青竜寺を称したと伝えます。
徳源院のパンフレットには次のように記します。

 第5代高氏(道誉)は婆娑羅大名としてその名をはせ、その活躍は『太平記』や『増鏡』に詳しい。境内の桜は道誉が植えたものと伝えられ道誉桜と呼ばれている。(県指定名木、2代目)。江戸時代には、高和(第21代)の代に讃岐の丸亀に転封されたが、その子である高豊(第22代)、寛文12年(1672) に領地の一部とこの地を交換して寺の復興をはかり、三重の塔(県指定文化財)を建立し、院号も高和の院号から徳源院と改称した。このとき、近隣に散在していた歴代の宝篋印塔をここに集めたものが、現存の京極家の墓所である。

青龍寺徳源院=「京極家初代氏信(法号:清瀧) + 高和の院号徳源院」ということになります。

京極氏についての詳しい歴史については、別の機会に譲って、現在の徳源院の姿を報告します。

清瀧寺 京極氏墓所
青龍寺徳源院 黄色ゾーンが坊を含むエリア 赤が墓域

谷から流れ出す小川沿いにかつては16坊が建ち並んでいたようです。その奥、左手に本堂や三重塔はありました。
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                     青龍寺京極家墓所
伽藍内部のレイアウトを見ておきましょう。
青龍寺徳源院参拝報告記1
正面から入ると右手に大きなしだれ桜が枝を広げています。

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これが婆娑羅大名・佐々木道誉にちなむ道誉桜です。
青龍寺徳源院三重塔
桜の咲いているときの三重塔
この木は2代目で樹齢350年とのことでことでした。左手が3代目でこちらは、40年前後のようです。ちなみに丸亀城にも、この道誉桜を挿木したものが植えられているようです。

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青龍寺徳源院の三重塔 屋根が改修されたばかり
左手の三代目桜の奥に三重塔があります。小ぶりでスマートで、お洒落な感じがします。これも丸亀城主高豊が墓域を整備し、この寺を整備したときに建立されたものになります。何十年ぶりかの屋根の葺き替えを終えたばかりの姿です。ちなみに、この寺は京極氏の菩提寺なので檀家が一軒もないそうです。そのためサラリーマン住職として、この寺を代々住職家が守ってきたそうです。この塔の改修費は文化財に指定されているので、8割は国の補助が受けれるそうですが、2割は個人負担です。次に代には後継者はなく、維持が難しいとのことでした。
 案内され通されたのが庫裡の庭に面した部屋です。

青龍寺徳源院参拝報告記4


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枯山水の味のある庭です。

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庭を見ながらお茶を飲みながら住職さんから京極氏とこの寺の関係をお聞きします。贅沢な時が流れていきます。香川からの墓参りということで、特別に墓所に入ることが許されました。燈籠などの転倒の可能性があり、通常は立ち入りを行わなくなっているとのことでした。

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京極家墓所入口

京極家墓地1
京極家墓所配置図

いただいたパンフレットには次のように記します。
篋印塔と墓所は、境内の裏手の山裾に上下段に分かれている。上段は向かって右より始祖の氏信の古塔(花崗岩製、高さ278cm)  筆頭に高吉(第18代)に及ぶ歴代当主の墓18基が並ぶ。下段には、衰微していた京極家を立て直し中興の祖と崇められる高次(第19代)の墓が石廟の中に祀られ、歴代当主や分家(多度津藩)の墓が14基配列されている。
 大きい墓や小さい墓は、京極家の栄枯盛衰をそのままに表している。墓に刻まれた梵字や蓮華は長い間に風雪に削られて、容易に判読はできない。鎌倉時代から江戸時代に及ぶ各世代の特徴と変遷を示す30余基の宝篋印塔が、1カ所にあり、各時代の流行、特徴の変化が見られるのは、石塔研究家にとって貴重な資料となっている。 

青龍寺徳源院参拝報告記3 墓所
青龍寺徳源院の墓所配置図

京極家墓所


京極氏家系


京極高次
淀殿の妹・はつをめとった京極高次(たかつぐ)

門を入ってすぐに眼に入ってくるのが19世の松江藩主として京極家の復興を果たした高次の石廟です。
しっかりした石廟の中に納められています。
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青龍寺徳源院 石廟正面

青龍寺徳源院参 石廟展開図
石廟展開図

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高次の石廟の右側に、歴代の宝篋印塔が並びます。高次だけが石廟のなかに納めれていて、あとは木廟です。そして歴代順ではありません。2つ置いて高次の息子で松江藩主となった忠高、そして丸亀初代藩主高和・高豊と並びます。

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軒瓦には京極家の家紋があります。
青龍寺徳源院参 京極氏の宝篋印塔

そして裏側に多度津藩主の宝篋印塔が並びます。
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青龍寺徳源院 多度津藩墓石
歴代多度津藩主の宝篋印塔

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下段の丸亀藩・多度津藩主の宝篋印塔と、上段の宝篋印塔

上の奥の方に並んでいるのが「氏信以下歴代当主の墓18基」になるようです。上には上がれませんので近くからお参りすることはできませんでした。調査報告書に載せられているものを見ておきましょう。
京極始祖氏信 以下の宝篋印塔
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上段に並ぶ18基の内の十基です。もう一度パンフレットの言葉を読み返します。

大きい墓や小さい墓は、京極家の栄枯盛衰をそのままに表している。墓に刻まれた梵字や蓮華は長い間に風雪に削られて、容易に判読はできない。鎌倉時代から江戸時代に及ぶ各世代の特徴と変遷を示す30余基の宝篋印塔が、1カ所にあり、各時代の流行、特徴の変化が見られるのは、石塔研究家にとって貴重な資料となっている。 

清瀧寺の創建から高豊による中興までの歴史を振り返っておきます。
京極氏の始祖・氏信は、弘安7年(1284年)に出家して道善と号し、自分の没後追善のために清瀧寺へ料田を寄進しています。(「佐々木氏信寄進状」徳源院蔵)。これ以降、京極家の菩提寺となったようです。その後、高氏が母方の祖父・宗綱の供養のために西念寺を建立し、「清瀧西念両寺々務条々」を制定したほか、高詮の菩提寺である能仁寺の整備、高光の菩提寺である勝願寺など、清瀧寺周辺の整備が進みます。しかし、応仁の乱後の京極氏の衰退の中で、寺も退転したようです。
清瀧寺の整備は、中興の祖とも称される高次から高豊に至るまで段階的に実施されます。松江城主となった高次が発給した「清瀧惣坊中宛」の書状(「京極高次書状」徳源院蔵)に次のように記します。

「正祖屋敷」の「台所」を建てるために、「少し地形せばく」、「北の方」を増築したい

高次の子・忠高は、高次の墓所を清瀧寺に営み、清瀧寺参道の整備や参道に面して僧坊などの建物を建てたと伝えれてきましたが発掘調査で裏付けられます。高和は、丸亀へ転封になりますが、引き続いて「清瀧寺諸宇観を改む」とあるように整備を継続します。(『佐々木氏信寄進状』奥書)。
 さらに高豊は、寛文12年(1672年)に京極領だった播磨の二村を幕府に返上し、その代わりに清滝村と大野木村の一部を清瀧寺の寺領として経済基盤を整えます。同時に、三重塔、位牌堂、客殿を建て、庭園を整備し、周辺にあった歴代当主の墓を集約して墓所とし、十二坊を再興するなどの整備を行います。こうして整備された寺を父・高和の法号から「徳源院」とします。

清瀧村及び清瀧寺境内図
                 清瀧村及び清瀧寺境内図
高矩の代に描かれたとされる「清瀧村及び清瀧寺境内図」には、徳源院の庫裡や本堂の北西に「本堂」が描かれています。これが清瀧寺の本堂で、高豊が整備した徳源院は、位牌堂や墓所域を整備した清瀧寺境内にある院であったと研究者は考えています。
京極氏が松江や丸亀に転封になっても、本貫地の菩提寺を守り通そうとしたことが伝わってきます。しかし、この寺は京極氏の菩提寺で、他に檀家がいません。明治以後の近代になっての維持には苦労があったことがうかがえます。
青龍寺徳源院 大正時代

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 史跡清滝寺京極家墓所保存活用計画 米原市教育委員会

金倉寺 明治 善通寺市史
明治の金倉寺

金倉寺に残された古文書で、主に近世の金倉寺について見ていくことにします。テキストは「金倉寺調査報告書 第1分冊 2022年 香川県教育委員会」です。
金倉寺は寺伝では、和銅7年(714)和気道善(当時は因支首氏)が如意輪堂を建立し、道善寺と称したことに始まるとされます。
円珍系図1
円珍系図 円珍=広雄 その父が宅成 祖父が道麻呂)

智証大師像 圓城寺
国宝 円珍像(圓城寺)

智弁大師 円珍 金倉寺
円珍像(金倉寺蔵)
智証大師 金倉寺
円珍(金倉寺蔵)
 円珍は、高野山には行かずに、比叡山で出家します。そのうち入唐を思い立ち、853年に晩唐時代の唐に入り、5年後に帰朝します。父・和気宅成の奏上によって、先祖の和気道善が建てた自在王堂の敷地32町歩を賜って、道善寺を金蔵寺と改めたと「金蔵寺立始事」に書かれています。そうすると「金倉寺=道善寺」で、円珍の生前にはあったことになります。ただ、以前にもお話ししたように奈良時代に遡る古代瓦は少量で、大きな伽藍があったとは研究者は考えていません。お堂的な規模の小さな寺院だったようです。道善の子宅成の代には官寺となったとされますが、金倉寺が官寺になったことはありません。また、道善や善通・善光など人名が寺名となるのは中世的で、勧進の中心人物の名前がつけられるようになって以後のことです。

徳治3年(1308)3月に「神火」によって「金堂・新御影堂・講堂己下数字梵閣令回録」とされます。
(「年末詳金蔵寺衆徒等目安案」『新編香川叢書』史料篇二、1981年)、多度津の道隆寺が再興されたころに、金倉寺は焼け落ちたようです。それが復興するのは、前回お話ししたように南北朝後の細川頼之の時代です。善通寺中興の祖と言われる宥範と同時期に金倉寺も復興を遂げて、次のような威容を見せるようになります。
「七堂伽藍、弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立、末寺以七村為収巧之地」
「仏閣僧坊甍をならへ、飛弾の匠其妙を彰し、世に金倉寺の唐門堂と云ふ」
意訳変換しておくと
七堂伽藍が整い、27の別所を擁し、132坊が建ち並ぶ、末寺は周囲七ケ村に散在する
仏閣僧坊が甍を並べ、飛弾の匠が技術の粋を尽くした門は「金倉寺の唐門堂」と呼ばれた
ここには「弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立」あるので、数多くの別所や坊・末寺が周辺にはあって、夥しい勧進僧や念仏聖を擁していたことがうかがえます。彼らの勧進で中世の金倉寺は復興し、維持されていたとも考えられます。
 その後は「凡永正五(1508)年戊辰迄僧坊無事」とあるので、永世の錯乱で讃岐が動乱期を迎えるまでは伽藍は無事だったようです。その後、「天正三(1575)年亥乙焼失」とあって、「焼失」の原因は記されていません。香西成資『南海通記』には、天正3年(1575)には、西讃守護代の香川信景と那珂郡の金倉城主金倉顕忠が戦い、顕忠が敗死し金倉城は落城したと伝えられます。その際に兵火に巻き込まれたという説もあります。どちらにしても戦国時代末期の天正年間には、善通寺と同じく金倉寺の伽藍は姿を消していたことを押さえておきます。
 戦国時代末期の天正年間の讃岐の支配者は、次のように変遷します。
阿波三好氏 → 長宗我部元親 → 仙石秀久 → 尾藤一成 → 生駒親正父子 
この時代の金倉寺についてはよく分かりません。ただ慶長12年(1607)8月8日付の讃岐国金蔵寺本尊開帳供養願文が多度津の道隆寺に残されています(「道隆寺文書」、『新編香川叢書』史料篇)ここからは、この時代の金倉寺が真言宗であったこと、道隆寺と関係があったことが分かります。

松平頼重3

松平頼重
松平頼重の宗教政策

生駒家騒動の後に讃岐は分割され、その後に髙松初代藩主としてやってくるのが松平頼重です。

彼は独自の宗教観を持っていて、一貫した宗教政策を行います。その中の一つが、讃岐の真言宗への対抗勢力として天台宗の寺院を育成することでした。そのために、根来寺・長尾寺と共に金倉寺は、天台宗に改宗され、堂宇の再興、寺領の寄進、什物の寄進が行われます。その時の伽藍規模は、「弐町四方」です。このように現在の伽藍の基礎が整えられていくのは、松平頼重以後であることを押さえておきます。
善通寺の近世の復興が「弘法大師生誕の地」をアピールする江戸での「ご開帳」が大きな原動力となったことは以前にお話ししました。その動きに学んで金倉寺でも「智証大師円珍の生誕地」を前面に出していこうとする動きが始まります。

圓城寺 円珍生誕大法会
圓城寺の智証大師生誕法会

金倉寺の古文書で智証大師の年忌が最初に登場するのは、元文5年(1740)の850年忌の時です。
その前の元禄3年(1690)の800年忌については、「於御下屋敷厳重之御法会御執行被遊候」とあるので、藩主松平家の下屋敷で行われたようで、金倉寺での法会執行はなかったことが分かります。

智証大師八百五十年忌御法会之記事 金蔵寺
智弁大師850年忌御法会之記事(元文5年)
  金蔵寺は850年忌の法会執行に先立って、その8年前に高松藩に対して次のように願いでています。

「唯今之通二伽藍大破致居申候而者御法事難相勤」いとして、「伽藍造立之上、右御法会修行申度」いので、その資財として「人別奉加両年分御免被下候様」

意訳変換しておくと
「現在、伽藍が大破しており(智証大師850年忌の)法会が勤められないような有様です。伽藍を造立した上で、御法会を行いたいと思います。つきましたは、その資財集めに「人別奉加(寄進活動)を2年間行う事を許可してください」

当時は寺社の寄進活動にも藩の許可が必要でした。髙松藩では半年間だけ奉加を認めています。しかし、これでは資財が不足すると判断したようで、「伽藍造立」を止めて「修復」へ変更しています。そして、元文3(1738)年正月に村方に対して合力米を、その翌年3月には檀那中に対して奉加銀の奉納を申し入れています。しかし、これらは思うように集まらなかったようです。実際に諸堂の修繕に着手できたのは、法会の半年前の元文5年3月になってからでした。
この時の法会は、本門寿院(克軍寺)・鶴林寺・根香寺など高松藩領の天台寺院を招請して9月27日に始まり、29日に結願しています。その前後には「操・物真似井小見物」や「定日十日芝居興行」が催され、境内は参詣人で溢れていたようです。これが成功体験となって、50周年毎の年忌法会に計画的に取り組むようになります。そして人別奉加・勧化・開帳などの活動を通じて、資財蓄積にも努めます。集まった資材を檀家へ貸し付け、その利潤をもって明和年間の本堂建立に充てています。
その後、年忌法会は50年毎に次のように執り行われています。

金倉寺 智弁大師900回忌
智弁大師900年忌御法会之記事(天明7年)
天明7年(1787)に900回忌
天保11年(1840)に950回忌
明治23年(1890)に1000年忌
法会の奉加帳には、高松藩士をはじめ、檀家、村人など多くの名が記されています。50年毎の回忌が、多くの人々の助力によって開催され、「智証大師誕生之地」として金倉寺の名が知られるようになっていったことが分かります。
金倉寺 智弁大師1000回忌

智弁大師千年忌御法会之記事(明治23年(1890) 版木広告) 
 近世の金倉寺のことがうかがえる江戸時代の古文書の「覚」を見ておきましょう。
「覚」は元禄8年11月16日の年記銘があり、寺社役所へ宛てに作成された文書控のようです。ここには「金倉寺末寺」として那珂郡木徳村金輪寺・三条村村宝幢寺・金蔵寺村観音寺・同村護摩寺・同村財林坊の5院が出てきます。そして前回見たような中世の子院や塔頭は出てきません。中世の塔頭は、戦国時代の永正年間(1504年~1521年)に退転したと伝えられ、「再興無之」と記します。
 また次のようにも記します。
「金倉寺村・原田村等二寺跡数多御座候得共、百姓屋敷又者田畑二罷成、尤寺号も俄に知不申」

意訳変換しておくと
ここにはかつては、金倉寺村や原田村に、末寺や塔頭などが数多くあった。しかし、それも今では百姓の屋敷や田畑となっている。寺号も知ることができない

ここからは中世の子院や坊については、江戸時代前期になると名も分からなくなっていたことが分かります。

江戸時代に金倉寺は、どんな宗教活動をしていたのでしょうか?
それがうかがえるのが「享保十九刀十月十九日 寺社方へ指出候寺由緒」との端裏書を持つ「讃岐国那珂郡鶏足山金倉寺来由」です。ここには金倉寺では、円珍の会式は命日の10月29日には行わないとしています。その理由については次のように記します。
「往古之時毎歳九月之祖師諱日ニ、従三井寺衆徒十日宛下向二而法事執行有之」
ここには9月の祥月命日に園城寺から僧が金倉寺にやってきてして法要を行った故事によるとされています。また、現在でも9月27日から29日までを会式とし、併せて「鎮守新羅・山王・訂利帝祭礼も同断二執行」するとします。その日には「姓子并二諸人参詣群集」するほど人々がやってきたようです。
金倉寺 讃岐国名勝図会
江戸時代末期の金倉寺 上が金毘羅参詣名所図会 下が讃岐国名勝図会(1853年)

江戸時代末期になると「法栄講」という講が作られています。
講元は金倉寺で、人数は30名、掛票は100日、円珍の命日である10月29日に参会して園取りを行うと定められています。(「曇祖大師祥]法栄講帖」)。具体的な活動内容はよく分からないようですが、明治6年(1873)までは続いていたようです。
この他に、次のような講がありました。
①鎮社六含講(「□鎮社六會講寄進」)
②長栄講」(「明治長栄講元掛金并二朱分請取通」)
③五穀成就牛馬堅固御祈予壽永代講
④「利帝母講」(版木14)
金倉寺 五穀成就牛馬堅固
      金倉寺 「五穀成就牛馬堅固御祈予壽永代講」の表紙と版木
しかし、これらの講の内容については詳しくは分かりません。
記録からは、高松藩主や藩士らのために宗教活動を行っていたことが分かります。
例えば「金倉寺第三世」の最勝院了尊が、松平頼重の「御近習、殊御祈蒔僧」として近侍しています。了尊は尊龍へ金倉寺住持を譲ったのち、「御下屋敷之部屋二相詰罷在」ったとと記します。髙松の下屋敷で、祈祷などを行っていたようです。松平頼重は隠居後も、下屋敷のお堂には、不道明王と京都の仏師に造らせた四天王を安置して、プライベートにも祈念していたことが以前にお話ししました。了尊は、近侍僧として仕えていたようです。
頼重は、延三元年(1673)頃に金倉寺をはじめとする以下の10ケ寺へ愛染明王像と五大虚空蔵図を寄進し、五穀成就を祈蒔させています。
「領内壱郡一箇所、大内郡虚空蔵院、寒川郡志度寺、三木郡八栗寺、山田郡屋島寺、香川東阿弥陀院、香川西地蔵院、阿野南国分寺、阿野北白峯寺、鵜足郡聖通寺、那珂郡金倉寺、右真言。天台十箇寺二、使寄附本尊愛染明王并五大虚空蔵之図像、祈願毎年五穀成就焉」(「続讃岐国大日記」『香川叢書』第二、1941年)

金倉寺 愛染明王 松平頼重寄進
           愛染明王坐像(金倉寺蔵 松平頼重寄進)
愛染明王 白峰寺
白峰寺の愛染明王像(松平頼重寄進)
ここからは、金倉寺は那珂郡の祈願寺として位置付けられていることが分かります。この他、毎年正月・5・9月の祈祷壽と配札、藩主や藩士の夫人が懐胎した際の安産祈願、雨乞い祈祷、長日祈祷などを行っています。
金倉寺と周辺村落をつなぐ行事として農具市の開催があります。
宝暦7年(1757)12月、那珂郡村々の政所は、次のような口上を大政所へ提出しています。

当郡百姓共農具、毎歳三月廿一日善通寺会式二而調来申候所、時節遅ク百姓共木綿作仕付ニ指支迷惑仕候、依之金倉寺境内明年より毎歳三月二日・三日農具市企申度奉存候、右善通寺他領之義二御座候間、何卒御領内二而農具市出来仕候得者、売買之百姓共万々勝手之儀も御座候、其上早ク相調候二付、手廻克罷成候義二御坐候間、右願之通宜被仰上相済候様被仰付可被下候、已上               (1-24-6「目次 宝暦七丁丑年二月」)

意訳変換しておくと
那珂郡の百姓たちは毎年3月21日に、農具を丸亀藩領の善通寺の会式で調達しています。しかし、3月では作付け時期には遅れがちで百姓たちの木綿作り支障をきたしています。そこで金倉寺境内で来年から毎歳3月2日・3日に農具市が開催できるようになれば、百姓たちにとっては大変助かります。善通寺は丸亀藩で他領の地です。何卒、領内で農具市が開催でき、しかも今までよりも早く農具を調達できます。この件についてご検討いただけるようにお願い致します、已上           

この願出は翌8年正月に聞き届けられています。金倉寺では開催にあたって藩の寺社奉行に次のように願いでています。
「初発之儀人出も難計間、境内賑合市成就之ため、前々之通芝居等興行申度」

意訳変換しておくと
「農具市は初めての開催なので、どれだけの人がやってきてくれるか心配です。つきましたは、集客のために境内で市や芝居などの興行を許可していただきたい。

これに対して、寺社奉行の鵜殿長左衛門の回答は次の通りです。
「善通寺市を此方引移シ申事、彼院へ対シ候而も寺より何角取計候而芝居等願申事不宜」

意訳変換しておくと

「善通寺の農具市を金倉寺へ引移して行う事を許可した経緯を考えよ。善通寺への配慮を金倉寺も行うこと。また芝居開催などは認めない」

と、今まで市を催していた善通寺への体裁もあるとして認めていません。しかし、3月3日に市が立つと「小見世物・浄瑠璃稽古なと有之、賑合申事」と記されています。許可されなかったはずの見世物や浄瑠璃などは開催されていたことが分かります。農具市は翌宝暦9年にも行われています。ところが安永8年(1779)に、徳川家基(10代将軍徳川家治長男)売御による服忌のため、当年は市を立てないとの記事の後は、しばらく記録から消えます。
金倉寺では文政元(1818)年に「何卒市立候様取立申度」と再び農具市の再開を願い出て許されています。
檀家からは再興を祝して、幕・手水鉢・鳥居などが寄進されています(「農具市寄進誌」)。また、開催に伴って「市再興初年之義二付、賑合無之候而者人出無之候二付市場芝居申遣シ候事」とあるので、芝居興行も認められたようです。市は3月15日早朝より始まり、芝居の他に「のそき」「ちよんかれ」「手つま取」「江戸ぶんごまふ」「小見世物」「薬売・易者」「楊弓」などの「芸者・見せ物」が出ています。
金倉寺 訶利帝母堂2
金倉寺 訶利帝母堂
金倉寺 かりていぼ1

             金倉寺の訶利帝母
翌16日は晴天に恵まれ、その上に訶利帝母堂で大般若転読が行われたため、「別而大群衆、境内已来未曽有之市立(大群衆がやってきて境内は立場の亡いような市の賑わい)」というの大盛況でした。ここからは、農具市は農村の人々にとっては、農具購入という目的もさることながら、芝居や見世物などが農繁期前の楽しみとなっていたことが分かります。農員市は昭和の終わり頃まで断続的に行われ、春の風物詩となっていたようです。

広々とした境内 - 金倉寺の口コミ - トリップアドバイザー
金倉寺 仁王門
以上をまとめておきます
①金倉寺は寺伝では、和気道善が如意輪堂を建立し、氏寺として道善寺と称したことに始まると伝えられるが古代のことはよく分からない。
②徳治3年(1308)3月に「神火」によって「金堂・新御影堂・講堂」焼け落ちた。
③南北朝後に細川頼之の保護と、廻国の修験者や念仏聖の勧進活動で金倉寺は復興した。
④永世の錯乱後の讃岐動乱の中で、天霧城主の香川氏や西長尾城主の長尾氏の押領・侵犯を受け寺領を失い、僧坊や別所は姿を消した。
⑤天正年間の兵火で金倉寺は退転し、その後の近世にいたる経緯はよく分からない。
⑥初代高松城主の松平頼重が「円珍生誕の寺」を由縁に、天台宗の拠点寺として復興させた。
⑦その後の金蔵寺は、50年毎の円珍法会の執行に伽藍整備や行事を行うようになった。
⑧それが各種の講主催や農具市の開催で、これらの活動を通じて周辺商人や村々の農民までの信仰を集めるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「金倉寺調査報告書 第1分冊 2022年 香川県教育委員会」
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前回に続いて、今年の春に刊行されたばかりの「八栗寺調査報告書」を見ていきます。今回は、江戸時代の四国遍路の挿絵から八栗寺の伽藍の推移を見ていくことにします。
1 『四国編礼霊場記」(元禄2年(1689) 八栗寺図より

八栗寺 『四国編礼霊場記」(元禄2年(1689)

①五剣山を見ると、5つの峯が全部描かれています。このうち宝永地震で、一番左側の峯が崩落してしまうので、それ以前の五の峰が揃った姿ということになります。この峯々に何が祭られていたかを本文には次のように記します。

「中峰の峙つ三十余丈、是に蔵王権現を鎮祠し、北に弁才天、南ハ天照太神なり」

 一番高い中央の峰の頂上部に「蔵王」と記された祠が描かれていて、ここに蔵王権現が祀られています。ここからはこの地が修験者たちによって開かれた霊山であったことが分かります。
 また「是に七所の仙窟あり」とあり、山中には「聞持窟」「明星穴」「護摩窟」など、修験のための窟が描かれています。以前にも、お話ししたように古代の山林修行者が行場にやって来て、まずやらなければならないのは、雨風を凌ぐ生活空間を確保することでした。整備された寺院やお堂は、後になって形を見せるもので、古代にはそんなものはありません。空海も太龍山や室戸で窟籠もりを行っています。そして、洞窟は異界に通じる通路ともされていたことは以前にお話ししました。
「丈六の大日如来を大師 岩面に彫付給へり」
「中区に大師求聞持を修し給ふ窟あり、是を奥院と号す、寺よりのぼる事四町ばかり也、此窟中 大師御影を置」
意訳変換しておくと 
「丈六の大日如来を弘法大師は、岩面に彫付けた。」
「中央に大師が虚空蔵求聞持法を修した窟がある。これを奥院と呼ぶ。寺より登ること四町ばかりである。この窟中に、弘法大師の御影がある。」
蔵王堂直下には、空海が岩に掘ったという丈六の大日如来が大きく描かれています。
大日如来(八栗寺の行場)
また、その下には「聞持窟」があり、空海がここで虚空蔵求聞持法を行ったされ、窟中には弘法大師の御影が置かれていたと記されてます。弘法大師伝説が、この時代までには定着していたことが分かります。
 さらにその下の中央部に「観音堂」が南面して建ちます。
「大師千手観音を刻彫して―堂を建て安置し玉ひ、千手院とふ」
「本堂の傍の岩洞に不動明王の石像あり、大師作り玉ひて、此にて護摩を修し玉ふと也、窟中一丈四方に切ぬき、三方に九重の塔五輪など数多切付たり」
意訳変換しておくと
「弘法大師が千手観音を刻彫して、安置した一堂を千手院と云う」
「本堂の傍の岩洞には不動明王の石像がある。これも大師の作で、ここで護摩祈祷を行ったという。窟の中は一丈四方を刳り抜いたもので、三方に五輪塔が多数掘られている。
ここでは、もともとは千手観音が本尊だったことを押さえておきます。ちなみに今は聖観音です。
絵図には現在の聖天堂・護摩堂付近の場所に、簡易な建物が描かれていて、「護摩窟」と記されています。
八栗寺線刻五輪塔
線刻五輪塔(八栗寺)
ここで護摩祈祷が行われ、その周囲の壁には、多くの五輪塔が掘られていたようです。中世の弥谷寺でも、数多くの五輪塔が祖先供養のために掘られていました。ここからは中世の八栗寺にも多くの念仏聖や修験者たちがいて、祖先供養を行い、周辺の有力者の信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。また、「中世石造物の影には、修験者や聖あり」と言われるので、八栗寺も彼らの拠点寺院となっていたのでしょう。
 観音堂の下方には、現在と違った場所に鐘楼が描かれています。さらに絵図下方には「千手院」と記された建物が描かれています。千手院が周辺の子院のまとめ役として機能していたのでしょう。
次に「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800)の八栗寺を見ていくことにします。
八栗寺1800年

寛成年間に描かれた絵図なので、宝永地震で崩落した五峯がなくなって、四つの峰となった五剣山です。絵図下方に二天門があり、そこから正面に向かって五剣山を背に西面した本堂(観音堂)が描かれています。「本堂本尊聖観音御長五尺大師御作」とあるので、それまでの千手観音像から聖観音像へと変更されたようです。

八栗寺本尊聖観音2
八栗寺本尊 聖観音
 本堂の下方には、「聖天社」と記された聖天堂が南面して建ちます。
その屋根の上方には岩壁に刻まれた五輪塔が2基見えます。また聖天堂の下方の現在の通夜堂の場所、二天門の右上現在の茶堂の場所に、それぞれに建物が描かれています。通夜堂の場所にある建物については築地塀を挟んで二つの建物が並んで描かれています。また本文には「大師堂あり」と記されていますが、絵図中には描かれていないようです。鐘楼は「四国術礼霊場記」に描かれた場所と、変わりないようです。
この絵図と先ほど見た『四国編礼霊場記」(1689)を比較して見ると次のような変化点が見えてきます。
①五剣山の行場に関する情報が描かれなくなった。行場から札所への転換
②聖天堂が姿を現し、新たな信仰対象となっている 

『讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854)を見ていくことにします。
八栗寺 『讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854)

ここには江戸後期の八栗寺境内が描かれており、二天門、通夜堂、聖天堂、本堂、鐘楼は「四国遍礼名所図会」と同じ場所にあります。
①茶堂に隣接した後の御供所の場所に建物が描かれている
②本堂より南方の開けた場所には、石垣の上に大師堂
③石垣の手前、現在の地蔵堂の場所に小さいな建物
④大師堂の右手には大規模な客殿・庫裏の建物群
⑤聖天堂と本堂の間の岩壁には五輪塔が数基刻まれている
⑥境内に至る参道のひとつは、絵図左下、二天門に至る「七曲」と記された稜線を幾重にも折れ曲がった急峻な坂道
⑦もう一つは、大師堂と客殿・庫裡の間に至る「寺道」と記された谷筋沿いの道
ここからは、18世紀中に庫裡などの整備が進み、伽藍が大型化したことが見て取れます。信者たちの数を着実に増やしたのでしょう。

「讃岐国霊場85番札所 五剣山八栗寺之図」(19世紀中頃)を見ていくことにします。

五剣山八栗寺之図」(19世紀中頃)より

八栗寺所蔵の摺物で、年紀はありませんが建物の様子などから幕末期に作成されたものと研究者は考えています。『讃岐国名勝図会」の境内図との相違点としては、次のような点が挙げられます。
①鐘楼の位置が本堂と同じ石垣の上に移動
②「七曲」の参道から境内に至る道沿いに「七間茶や」と記された7軒の茶屋が描かれている
③聖天堂上方、五剣山麓に「中尉坊社」と記された堂が描かれている

「真言宗五剣山八栗寺之景」明治36年(1903)を見ていくことにします。
「四国八十五番霊場 真言宗五剣山八栗寺之景」明治36年(1903)

明治後期の八栗寺境内が詳細に描かれています。研究者は次のような点を指摘します。
①建物の位置は、現在とほぼ同じ。八栗寺は120年前から伽藍配置は変化していない
②絵図中の建物名称が、聖天堂が「歓喜天」、茶堂が「茶所」、二天門が「二王門」と現在と異なること
③五剣山の山頂付近に「蔵王権現」と記された祠が描かれているが、「四国偏礼霊場記」で描かれた峰とは違った峰になっていること
④「七曲道」から境内に至る参道沿いには旅館が描かれていて、「讃岐国霊場八十五番札所五剣山八栗寺之図」では7軒の平屋の茶屋であったのが、4軒の旅館(内2軒が2階建て)になっていること
⑤絵図右方には庫裡・客殿の建物群が詳細に描かれいて、その内に御成門がある。
八栗寺00

参考文献
芳澤直起 八栗寺の境内 八栗寺調査報告書(2024年)
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中世の志度道場は、修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼などの一大根拠地であった。

水戸黄門のお兄さんに当たる松平頼重が初代髙松城主としてやって来るのが1640年のことです。彼は、幼少期には水戸藩の嫡男として認められずに京都の寺院に預けられて、そこで成長します。僧侶としての知識と世界観と人脈をもっていた人物でした。そのため次のような興正寺と姻戚関係を持っていまし。

松平頼重の真宗興正派保護の背景

これ以外にも髙松藩と興正寺の間には、家老などの重臣との間にも幾重にも婚姻関係が結ばれて、非常に緊密な関係にあったようです。そのことをもって、松平頼重の興正寺保護の要因とする説もありますが、私はそれだけではなかったと考えています。政治的な意図があったと思うのです。
宗教政策をめぐる松平頼重の腹の中をのぞいてみましょう。
大きな勢力をもつ寺社は、藩政の抵抗勢力になる可能性がある。それを未然に防ぐためには、藩に友好的な宗教勢力を育てて、抑止力にしたい。それが紛争やいざこざを未然に防ぐ賢いやりかただ。それでは讃岐の場合はどうか? 抵抗勢力になる可能性があるのは、どこにあるのか? それに対抗させるために保護支援すべき寺社は、どこか?
 東讃では、髙松城下では? 中讃では?

もっとも手強いのは真言宗のようだ。その核になる可能性があるのは善通寺だ。他藩にあるが髙松藩にとっては潜在的な脅威だ。そのためには、善通寺包囲網を構築しておくのが無難だ。さてどうするか?

松平頼重の宗教政策

このような宗教政策の一環として、真宗興正派の保護が行われたと私は考えています。血縁でつながり信頼の置ける協力的な興正派の寺院を増やすことは、政治的な安定につながります。その方策を見ておきましょう。
まずは高松御坊を再興して真宗興正派の拠点とすることです。
御坊が三木から高松に帰ってくるのは、1589(天正17年)のことです。讃岐藩主となった生駒親正は、野原を高松と改め城下町整備に取りかかります。そのためにとられた措置が、有力寺院を城下に集めて城下町機能を高めることでした。その一環として高松御坊も香東郡の楠川河口部東側の地を寺領として与えられ、坊が三木から移ってきます。親正は寺領の寄進状に、この楠川沿いの坊のことを「楠川御坊」と記しています(「興正寺文書」)。ここにいう楠川はいまの御坊川のことだと研究者は考えています。そうだとすれば楠川御坊のあったのは、現在の高松市松島町で、もとの松島の地になります。
さらに1614(慶長19)年になって、坊は楠川沿いから高松城下へと移ります。

髙松屏風図 高松御坊
髙松屏風図絵

髙松城屏風図とよばれている4枚の屏風図です。水戸からやってきた松平頼重やそのブレーンは、この屏風図を見ながら城下町の改造計画を練ったのかもしれません。現在の市役所がある西寺町から東寺町にかけて東西にお寺ぶエリアが置かれていました。これは高松城の南の防衛ラインの役割を果たし、緊急事態の折には各侍達はどこの寺に集合するのかも決められていたと云います。

高松御坊3
讃岐国名勝図会(1854年)に描かれた高松御坊(勝法寺)
 幕末の讃岐国名勝図会には、東寺町(現在の御坊町)に高松御坊が描かれています。前の通りが現在のフェリー通りで、その門前に奈良から連れてきた3つの子院が並び、東側には真言の無量寿院の境内が見えます。寺町の通りを歩けば、建物を見るだけで真宗興正派の勢力が分かります。
 高松御坊は、水戸から松平頼重がやってきたときにはここにあったようです。頼重は、その坊舎を修繕し、150石を寄進して財政基盤を整えます。その際に創建されたのが奈良から移された勝法寺です。
そして高松御坊・興正寺代僧勝法寺として、京都興正寺派の触係寺とします。勝法寺は、京都の興正寺直属のお寺として高松御坊と一体的に運営されることになります。そして勝法寺を真宗の触頭寺とします。
興正寺末寺
高松藩の興正派末寺(御領分中寺々由来書)
「代僧勝法寺」が本末一覧表のトップに位置する。

このように勝法寺は髙松藩における真宗興正派の拠点寺院として創建(移転)されたのです。そのため興正寺直属で、京都からやってきた僧侶が管理にあったりました。しかし、問題が残ります。勝法寺は、讃岐に根付いた寺院ではなく、末寺もなく人脈もなく政治力もありません。そのためいろいろと問題が起こったようです。そこで松平頼重が補佐として、後から後見役としてつけたのが常光寺と安養寺でした。そのうちの安養寺は、それまでの河内原からこの地に移されます。後から移されたので、建設用地がなくて堀の外側にあります。こうして高松御坊と一体の勝法寺、それを後見する安養寺と、3つの子院という体制ができあがったのです。御坊町はこうして、真宗興正派の文教センターとなっていきます。
高松興正寺別院
現在の高松御坊(高松市御坊町)


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安楽寺の拠点寺院

前回までに阿波安楽寺の讃岐への教線拡大の拠点寺院となった3つの寺院を見てきました。中本寺としての安楽寺があり、三豊への布教拠点となった寶光寺、丸亀平野への布教拠点となったのが長善寺ということになります。今回は髙松平野の拠点となった安養寺見ておきましょう。

安養寺縁起3


 髙松藩に提出された由来を見ておきましょう。
意訳変換しておくと

安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、何代か後に河内原に道場を移転し、文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。


安養寺縁起5


①設立年代については、これを裏付ける史料がないのでそのまま信じることはできません。道場を開いたのは安楽寺からやってきた僧侶とされています。②「道場の場所は最初が安原村の東谷 その後、川内原に移転」とあります。いくつかの道場がまとめられ、惣道場となり、それが寺になっていくという過程がここでも見えます。地図で位置とルートを確認しておきます。安楽寺の真北が高松です。ここでも峠を越えてやってきたその途上に開かれた道場が末寺に成長して、里に下りていく過程がうかがえます。

③寺号許可は1595年とします。安養寺に下付された木仏が龍谷大学の真宗研究室にはあることが千葉氏の論文の中には紹介されています。木仏には1604年の年紀がはいっているようです。ここからは安養寺の寺号許可は17世紀初頭であることが分かります。本願寺が東西に分かれて、末寺争奪を繰り広げる時期です。この時期に、寺号を得た道場が多いようです。安養寺という重要な役割を果たした寺院でも寺号の獲得は、17世紀になってからだったことを押さえておきます。

安養寺末寺の木仏下付
本願寺の木仏下付日
安養寺の末寺リストを見ておきましょう。
寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
安養寺末寺リスト3

 安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)

安養寺末寺リスト2

ここからは次のような事がうかがえます。
①香川・山田郡の髙松平野を中心に、東の寒川方面にも伸びています。②注意しておきたいのは西には伸びていません。丸亀平野への教線拡大は、常光寺や安楽寺と棲み分け協定があったことがうかがえます。③一番最後を見ると天保4(1833)年3月の日付です。これは最初に見た常光寺の一覧表と同じ年なので、同時期に藩に提出されたもののようです。
ここには、髙松平野を中心に19寺が末寺として記されていますが、その多くがすでに離末しています。安養寺は安楽寺の末寺ながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院に成長していたことが分かります。まさに髙松平野方面への教線拡大の拠点センターであったようです。安養寺が髙松方面に教線を拡大できたのは、どうしてなのでしょうか。それには、次の二人の保護があったと私は考えています。

三好長慶と十河一存

真宗興正派を保護したのが、この兄弟がす。ふたりは姓は違いますが実の兄弟です。一人が三好長慶で、もうひとりが讃岐の十河家を継いだ十河一存(かずまさ)。この二人を見ていくことにします。

三好長慶と十河氏

美馬安楽寺に免許状を与え讃岐への教線拡大を保護したのは三好長慶でした。三好長慶は、天下人として畿内で活躍します。一方、弟たちは上図のように、阿波を実休、淡路を冬康・讃岐を十河一存が押さえます。そして、兄長慶の畿内平定を助けます。長慶が天下人になれたのも、弟たちの支援を受けることができたのが要因のひとつです。その末弟一存(かずまさ)は、讃岐の十河家を継ぎ、十河氏を名乗ります。十河氏は三好氏の東讃侵攻の拠点になります。また、三好・十河氏は、共通の敵である信長に対抗するために本願寺と同盟関係を結びます。「敵の敵は味方」というのは戦略のセオリーです。こうして安楽寺は三好一族の保護を得て、各地に道場を開いて教線を伸ばしていきます。それを史料で見ておきましょう。

十河氏の高松御坊への免許状

十河一存の後継者となった存保(実休の息子)が真宗興正派の高松御坊の僧侶達に出した認可状です。①の野原郷の潟(港)というのは、現在の高松城周辺にあった湊です。②高松にあった寺内町と坊を三木町の池戸(大学病院のあたり)の四覚寺原に再興することを認める。③ついては課税などを免除するという内容です。「寺内」となっているので、寺だけでなく信徒集団も含めた居住エリアがあったことがうかがえます。地図で見ると池戸の四覚寺原とは、現在の木田郡三木町井上の始覚寺周辺です。高松御坊が、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。それを十河氏が保護しています。ここで注目したいのは、新たに寺内町が作られることになった位置とその周辺です。近くには十河氏の居城十河城があります。そして、東には常光寺があります。ここからは常光寺や高松御坊が十河氏の庇護下にあったことがうかがえます。十河氏の保護を受けて常光寺や安養寺は髙松平野や東讃に教線ラインを伸ばしていたことがうかがえます。この免許状が出されたのは1583年で、秀吉の四国平定直前のことになります。三好長慶は、阿波の安楽寺に免許状をあたえ、十河存保は高松御坊に免許状をあたえています。
今までお話ししたことを、高松地区の政治情勢と絡ませて押さえておきます。

16世紀の髙松平野の情勢


①1520年の財田亡命帰還の際の三好氏の免許状で、安楽寺は布教の自由を得た。しかし、吉野川より南は、真言密教系修験者の勢力が強く、真宗興正派の布教は困難だった。

②そのような中で三好氏の讃岐侵攻が本格化する。香西氏など東讃武士団は、三好氏配下に組み入れられ上洛し、阿波細川氏の主力として活動するようになる。

③そこで堺で本願寺と接触、真宗門徒になり菩提寺を建立するものも出てきた。

④彼らに対して、本願寺は讃岐の真宗布教の自由を依頼。

⑤こうして、本願寺や真宗興正派は髙松平野での布教活動が本格化し、数多くの道場が姿を見せるようになる。それは16世紀半ばのことで、その拠点となったのが安養寺や常光寺である。

こうして、生駒氏がやってくるころには、讃岐には安楽寺・安養寺・常光寺によって、真宗興正派の教線がのびていました。それらの道場が惣道場から寺号を得て寺に成長して行きます。それを支えたのが髙松藩の初代藩主松平頼重という話になると私は考えています。今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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真宗興正派 2024年6月28日講演
安楽寺(美馬市郡里)
吉野川の河岸段丘の上にあるのが安楽寺です。周辺には安楽寺の隠居寺がいくつかあり寺町と呼ばれています。中世には、門徒集団が寺内町を形成していたと研究者は考えています。後が三頭山で、あの山の向こうは美合・勝浦になります。峠越の道を通じて阿讃の交流拠点となった地点です。

 手前は、今は水田地帯になっていますが、近世以前は吉野川の氾濫原で、寺の下まで川船がやってきていて川港があったようです。つまり、川港を押さえていたことになります。河川交易と街道の交わるところが交通の要衝となり、戦略地点になるのは今も昔も変わりません。そこに建てられたのが安楽寺です。ここに16世紀には「寺内」が姿を現したと研究者は考えています。

安楽寺


安楽寺の三門です。赤いので「赤門寺」と呼ばれています。江戸時代には、四国中の100近い末寺から僧侶を目指す若者がやって来て修行にはげんだようです。ここで学び鍛えられた若き僧侶達が讃岐布教のためにやってきたことが考えられます。安楽寺は「学問寺」であると同時に、讃岐へ布教センターであったようです。末寺を数多く抱えていたので、このような建築物を建立する財政基盤があったことがうかがえます。

安楽寺2
安楽寺境内に立つ親鸞・蓮如像

八間の本堂の庭先には、親鸞と蓮如の二人の像が立っています。この寺には安楽寺文書とよばれる膨大な量の文書が残っています。それを整理し、公刊したのがこの寺の前々代の住職です。

安楽寺 千葉乗隆
安楽寺の千葉乗隆氏
先々代の住職・千葉乗隆(じょうりゅう)氏です。彼は若いときに自分のお寺にある文書を整理・発行します。その後、龍谷大学から招かれ教授から学部長、最後には学長を数年務めています。作家の五木寛之氏が在学したときにあたるようです。整理された史料と研究成果から安楽寺の讃岐への教線拡大が見えてくるようになりました。千葉乗隆の明らかにした成果を見ていくことにします。まず安楽寺の由来を見ておきましょう。

安楽寺 開基由緒
安楽寺由来
ここからは次のようなことが分かります。
①真宗改宗者は、東国から落ちのびてきた千葉氏で、もともとは上総守護だったこと
②上総の親鸞聖人の高弟の下で出家したこと
③その後、一族を頼って阿波にやってきて、安楽寺をまかされます。
④住職となって天台宗だった安楽寺を浄土真宗に改宗します。
その時期は、13世紀後半の鎌倉時代の 非常に早い時期だとします。ここで注意しておきたいのは、前回見た常光寺の由来との食違いです。常光寺の由来には「佛光寺からやってきた門弟が安楽寺と常光寺を開いた」とありました。しかし、安楽寺の由緒の中には常光寺も仏国寺(興正寺)も出てきません。ここからは常光寺由来の信頼性が大きく揺らぐことになります。最近の研究者の中には、常光寺自体が、もともとは安楽寺の末寺であったと考える人もいるようです。そのことは、後にして先に進みます。

 安楽寺の寺史の中で最も大きな事件は、讃岐の財田への「逃散・亡命事件です。

安楽寺財田亡命

 寺の歴史には次のように記されています。永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田に転じて宝光寺を建てた。これを深読みすると、次のような疑問が浮かんできます。ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜ伝来地に再建しなかったのか。その疑問と解く鍵を与えてくれるのが次の文書です。

安楽寺免許状 三好長慶
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)

三好千熊丸諸役免許状と呼ばれている文書です。下側が免許状、上側が添え状です。これが安楽寺文書の中で一番古いものです。同時に四国の浄土真宗の中で、最も古い根本史料になるようです。読み下しておきます。
文書を見る場合に、最初に見るのは、「いつ、誰が誰に宛てたものであるか」です。財田への逃散から5年後の1520年に出された免許状で、 出しているのは「三好千熊丸」  宛先は、郡里の安楽寺です。

 興正寺殿より子細仰せつけられ候。しかる上は、早々に還住候て、前々の如く堪忍あるべく候。諸公事等の儀、指世申し候。若し違乱申し方そうらわば、すなわち注進あるべし。成敗加えるべし。

意訳します。

安楽寺免許状2

三好氏は阿波国の三好郡を拠点に、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して畿内と四国を制圧します。信長に魁けて天下人になったとされる戦国武将です。安楽寺はその三好氏から課役を免ぜられ保護が与えらたことになります。
 短い文章ですが、重要な文章なのでもう少し詳しく見ておきます。

安楽寺免許状3


この免許状が出されるまでには、次のような経過があったことが考えられます。
①まず財田亡命中の安楽寺から興正寺への口添えの依頼 
②興正寺の蓮秀上人による三好千熊丸への取りなし
③その申し入れを受けての三好千熊丸による免許状発布
 という筋立てが考えられます。ここからは安楽寺は、自分の危機に対して興正寺を頼っています。そして興正寺は安楽寺を保護していることが分かります。本願寺を頼っているのではないことを押さえておきます。

 三好氏の支配下での布教活動の自由は、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えることを意味します。安楽寺が讃岐方面に多くの道場を開く時期と、三好氏の讃岐進出は重なります。

安楽寺免許状の意義

 先ほど見たように興正寺と安楽寺は、三好氏を動かすだけの力があったことがうかがえます。⑥のように「課税・信仰を認めるので、もどってこい」と三好氏に言わしめています。その「力」とは何だったのでしょうか? それは安楽寺が、信徒集団を結集させ社会的な勢力を持つようになっていたからだと私は考えています。具体的には「寺内」の形成です。

寺内町
富田林の寺内町
この時期の真宗寺院は寺内町を形成します。そこには多様な信徒があつまり住み、宗教共同体を形成します。その最初の中核集団は農民達ではなく、「ワタリ」と呼ばれる運輸労働者だったとされます。そういう視点で安楽寺の置かれていた美馬郡里の地を見てみると、次のような立地条件が見えて来ます。
①吉野川水運の拠点で、多くの川船頭達がいたこと
②東西に鳴門と伊予を結ぶ撫養街道が伸びていたこと
③阿讃山脈の峠越の街道がいくつも伸びていたこと
ここに結集する船頭や馬借などの「ワタリ」衆を、安楽寺は信徒集団に組み入れていたと私は考えています。
 周囲の真言系の修験者勢力や在地武士集団の焼き討ちにあって財田に亡命してきたのは、僧侶達だけではなかったはずです。数多くの信徒達も寺と共に「逃散・亡命」し、財田にやってきたのではないでしょうか。それを保護した勢力があったはずですが、今はよく分かりません。
  財田の地は、JR財田駅の下の山里の静かな集落で、寶光寺の大きな建物が迎えてくれます。ここはかつては、仏石越や箸蔵方面への街道があって、阿讃の人とモノが行き交う拠点だったことは以前にお話ししました。中世から仁尾商人たちは、詫間の塩と土佐や阿波の茶の交易を行っていました。そんな交易活動に門徒の馬借達は携わったのかも知れません。

安楽寺の財田亡命

安楽寺の讃岐への布教活動の開始は、財田からの帰還後だと私は考えています。つまり1520年代以後のことです。これは永世の錯乱後の讃岐の動乱開始、三好氏の讃岐侵攻、真言勢力の後退とも一致します。

どうして、安楽寺は讃岐にターゲットを絞ったのでしょうか?

安楽寺末寺分布図 四国


江戸時代初期の安楽寺の末寺分布を地図に落としたものです。

①土佐は、本願寺が堺商人と結んで中村の一条氏と結びつきをつよめます。そのため、土佐への航路沿いの港に真宗のお寺が開かれていきます。それを安楽寺が後に引き継ぎます。つまり、土佐の末寺は江戸時代になってからのものです。

②伊予については、戦国時代は河野氏が禅宗を保護しますので真宗は伊予や島嶼部には入り込めませんでした。また、島嶼部には三島神社などの密教系勢力の縄張りで入り込めません。真宗王国が築かれたのは安芸になります。
③阿波を見ると吉野川沿岸部を中心に分布していることが分かります。これを見ても安楽寺が吉野川水運に深く関わっていたことがうかがえます。しかし、その南部や海岸地方には安楽寺の末寺は見当たりません。どうしてでしょうか。これは、高越山や箸蔵寺に代表される真言系修験者達の縄張りが強固だったためと私は考えています。阿波の山間部は山伏等による民間信仰(お堂・庚申信仰)などの民衆教導がしっかり根付いていた世界でした。そのため新参の安楽寺が入り込む余地はなかったのでしょう。これを悟った安楽寺は、阿讃の山脈を越えた讃岐に布教地をもとめていくことになります。

讃岐の末寺分布を拡大して見ておきましょう。

安楽寺末寺分布図 讃岐


讃岐の部分を拡大します。

①集中地帯は髙松・丸亀・三豊平野です。

②大川郡や坂出・三野平野や小豆島・塩飽の島嶼部では、ほぼ空白地帯。

この背景には、それぞれのエリアに大きな勢力を持つ修験者・聖集団がいたことが挙げられます。例えば大川郡は大内の水主神社と別当寺の与田寺、坂出は白峰寺、三野には弥谷寺があります。真言密教系の寺院で、多くの修験者や聖を抱えていた寺院です。真言密教系の勢力の強いところには、教線がなかなか伸ばせなかったようです。そうだとすれば、丸亀平野の南部は対抗勢力(真言系山伏)が弱かったことになります。善通寺があるのに、どうしてなのでしょうか。これについては以前にお話ししたように、善通寺は16世紀後半に戦乱で焼け落ち一時的に退転していたようです。
 こうして安楽寺の布教対象地は讃岐、その中でも髙松・丸亀・三豊平野に絞り込まれていくことになります。安楽寺で鍛えられた僧侶達は、讃岐山脈を越えて山間の村々での布教活動を展開します。それは、三好氏が讃岐に勢力を伸ばす時期と一致するのは、さきほど見た通りです。安楽寺の讃岐へ教線拡大を裏付けるお寺を見ておきましょう。

東山峠の阿波側の男山にある徳泉寺です。
この寺も安楽寺末寺です。寺の由来が三好町誌には次のように紹介されています。


男山の徳泉寺
徳泉寺(男山)


ここからは安楽寺の教線が峠を越えて讃岐に向かって伸びていく様子がうかがえます。注目しておきたいのは、教順の祖先は、讃岐の宇足郡山田の城主後藤氏正だったことです。それが瀧の宮の城主蔵人に敗れ、この地に隠れ住みます。そのひ孫が、開いたのが徳泉寺になります。そういう意味では、讃岐からの落武者氏正の子孫によって開かれた寺です。ここでは安楽寺からのやってきた僧侶が開基者ではないことをここでは押さえておきます。安楽寺からの僧侶は、布教活動を行い道場を開き信徒を増やします。しかし、寺院を建立するには、資金が必要です。そのため帰農した元武士などが寺院の開基者になることが多いようです。まんのう町には、長尾氏一族の末裔とする寺院が多いのもそんな背景があるようです。
安楽寺の僧が布教のために越えた阿讃の峠は?

安楽寺の僧が越えた阿讃の峠
阿讃の峠

安楽寺の僧侶達は、どの峠を越えて讃岐に入ってきたかを見ておきましょう。各藩は幕府に提出するために国図を作るようになります。阿波蜂須賀藩で作られた阿波国図です。吉野川が東から西に、その北側に讃岐山脈が走ります。大川山がここです。雲辺寺がここになります。赤線が阿讃を結ぶ峠道です。そこにはいくつもの峠があったことが分かります。安楽寺のある郡里がここになります。
 相栗峠⑪を越えると塩江の奥の湯温泉、内場ダムを経て、郷東川沿いに髙松平野に抜けます。
三頭越えが整備されるのは、江戸時代末です。それまでは⑨の立石越や⑧の真鈴越えが利用されていました。真鈴越を超えると勝浦の長善寺があります。⑦石仏越や猪ノ鼻を越えると財田におりてきます。
そこにある寶光寺から見ておきましょう。

寶光寺4

 寶光寺(財田上)

寶光寺は、さきほど見たように安楽寺が逃散して亡命してきた時に設立された寺だと安楽寺文書は記します。しかし、寶光寺では安楽寺が亡命してくる前から寶光寺は開かれていたとします。

寶光寺 財田

開基は「安芸宮島の佐伯を名のる社僧」とします。そのため山号は厳島山です。当時の神仏混淆時代の宮島の社僧(修験者)が廻国し開いたということになります。そうすると寶光寺が安楽寺の亡命を受けいれたということになります。讃岐亡命時代の安楽寺は、僧侶だけがやってきたのではなく、信徒集団もやってきて「寺内町」的なものを形成していたと私は考えています。

先ほども見たように財田への「逃散」時代は、布教のための「下調べと現地実習」の役割を果たしたと云えます。そういう意味では、この財田の寶光寺は、安楽寺の讃岐布教のスタート地点だったといえます。

寶光寺2

寶光寺
寶光寺は今は山の中になりますが、鉄道が開通する近代以前には阿讃交流の拠点地でした。財田川沿いに下れば三豊各地につながります。この寺を拠点に三豊平野に安楽寺の教線は伸びていったというのが私の仮説です。 それを地図で見ておきます。

 

安楽寺末寺 三豊平野


安楽寺の三豊方面への教線拡大ルートをたどってみます。
拠点となるのが①財田駅前の寶光寺 その隠居寺だった正善寺、和光中学校の近くの品福寺などは寶光寺の末寺になります。宝光寺末に品福寺、正善寺、善教寺、最勝寺などがあり、阿讃の交易路の要衝を押さえる位置にあります。三好氏の進出ルートと重なるのかも知れません。②山本や豊中の中流域には末寺はありません。流岡には、善教寺と西蓮寺、坂本には仏証寺・光明寺、柞田には善正寺があります。。注意しておきたいのは、観音寺の市街にはないことです。観音寺の町中の商人層は禅宗や真言信仰が強かったことは以前にお話ししました。そのためこの時期には浄土真宗は入り込むことができなかったようです。

安楽寺の拠点寺院

ここからは寶光寺を拠点に、三豊平野に安楽寺の教線ルートが伸びたことがうかがえます。その方向は山から海へです。

今回はここまでとします。次回は安楽寺の丸亀方面への動きを見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 丸亀平野にはこんもりと茂った鎮守の森がいくつもあります。これらの神社の由緒書きを見ると、その源を古代にまで遡ることが書かれています。しかし、実際に村社が姿を現すのは近世になってからのようです。中世には、郷社として惣村ひとつしかなく、各村々が連合して宮座を組織して祭礼を行っていました。その代表例が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)で、そこに奉納されていたのが各各組の念仏踊りです。これも幾つもの郷の連合体で、宮座で運営されていました。
 ここでは近世の村々が姿を現すのは、検地以後の「村切り」以後だったことを押さえておきます。。それでは、近世の村が、村社を建立し始めるのはいつ頃のことなのでしょうか。
また、それはどのようにして再築・修築・整備されたのでしょうか。このテーマについて、坂出の神社を例にして、見ておこうと思います。テキストは「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」です。
  坂出市史近世下には、神社の棟札から分かる建立や修築時期などについて一覧表が載せられいます。
坂出の神社建立再建一覧表1
坂出の神社建立再建一覧表2
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀までに創建されているのは、鴨葛城大明神・川津春日神社・神谷神社・鴨神社で、それぞれ再建時期が棟札から分かること。その他は「伝」で、それを裏付ける史料はないようです。

坂出地区の各村の氏神などの修繕や建て替え普請を見ていくことにします
坂出村の氏神は八幡神社です。
天保12(1842)年2月、坂出村百姓の伴蔵以下15名が「八幡宮拝殿 壱宇 但、梁行弐間桁行五間半瓦葺」とで拝殿の建替を、庄屋阿河征右衛門を通じて、両大政所の渡辺八郎右衛門と本条和太右衛門に申し出ています。
西新開の塩竃神社は 文政11(1838)年8月1日に、
地神社は      文政12年8月6日に創祀
東浜の鳥洲神社は  文政12年6月26日
どれも藩主松平頼の命によつて久米栄左衛門が創建し、西新開・東浜墾円・港湾の安全繁栄の守護神とされます。
 西浜の事比維神社も塩田開かれ沖湛甫が開港すると、船舶の海上安全のため、天保8(1837)年に沖湛南西北隅に創建されます。しかし、安政元(1854)年11月5日夜半の安政大地震で社殿が倒壊したため、その後現在地に移されます。(旧版『坂出市史』)、旧境内には、同社の性格を示す石造物が境内に残っています。たとえば、安政五年銘の鳥居には多くの廻船の刻宇、文久三年銘の常夜燈には「尾州廻船中」の刻宇、天保十一年銘の狛犬には「当浦船頭中」の刻字が刻まれています。

福江村鎮守の池之宮大明神については、1836(天保7)年12月の火事について、庄屋が藩に次のように報告しています。
一 さや 壱軒
但、梁行壱間半桁行弐間、屋祢瓦葺、
右者、昨朔口幕六ツ時分ニテも御鎮守池之宮大明神さや之門ヨリ煙立居申候段、村内百姓孫八と申者野合ョリ帰り掛見付、私方へ申出候二付、私義早速人足召連罷越候処、本社者焼失仕、さやへ火移り居申候二付、色々取防仕候得共、風厳敷御座候故手及不申候、右の通本社さや共焼失仕候二付、跡取除ケ仕セ候処、御神体有之何の損シ無御座候間、当郡西庄村摩尼珠院参リ当村氏神横潮大明神江御神納仕候、然ル後山中之義二付、乙食之者ども罷越焼キ落等御庄候テ出火仕候義も御座候哉と奉存候、尤御制札并所蔵近辺ニテも無御座候、此段御註進中上度如此御座候、以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎
十二月二日
渡辺八郎右衛門 様
本条和太右衛門 様
猶々、右之趣御役処へも今朝御申出仕候間、年恐御承知被成可被下候、己上、
意訳変換しておくと
一 さや 壱軒 梁行2間半 桁行2間、瓦葺、
 (1836)12月午後6時頃、池之宮大明神さやの門から煙が出ているのを百姓孫八が見つけ、私方(庄屋田中幸郎)へ知らせがあったので、早々に人足とともに消火に当った。しかし、風が強く手が着けられず、本殿とさやの門を焼失した。焼け跡を取り除いてみると御神体に損害はなかった。そこへ西庄の摩尼院がやってきて、福江村氏神の横潮大明神に御神納することになった。
 出火原因については、山中のことでよく分からないが、乙食たちがやってきて薪などをしていたのが延焼したのではないかとも考えられる。なお制札や所蔵附近ではないので、格段の報告はしません。以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎


焼失しなかったご神体が、西庄の摩尼院住職の助言で横潮大明神に一時避難されています。先ほどの年表を見ると、10年後の1846年に「福江村横潮大明神本殿 再建許可」とありますが、池之宮大明神の再建については記録がありません。池之宮のご神体は、横潮大明神に収められたままだったようです。火災で消えたり、小さな祠だけになっていく「大明神」もあったようです。

西庄村には2つの氏神があったようです。

西庄 天皇社と金山権現2

一つは白峰宮で、崇徳上皇を祀り崇徳天皇社と呼ばれていました。これが、西庄・江尻・福江・坂出・御供所の総氏神でした。そしてもうひとつが國津大明神です。
国津大明神では、1820(文政三)年正月、西庄村百姓の庄兵衛以下八名が拝殿の建替を次のように申し出ています。

「国津大明神幣殿壱間梁の桁行壱問半、拝殿町弐間梁之桁行一間、何も屋根瓦葺ニテ御座候所、及大破申候ニ付、此度在来之通建更仕度奉存畔候」

意訳しておくと
「国津大明神の幣殿は、壱間梁の桁行壱間半、拝殿は弐間梁の桁行一間、いずれも屋根は瓦葺です。すでに大破しており、この度、従来の規模での再建許可をお願いします。

申し出を受けた和兵衛は現地視察を行い「見分仕等と吟味仕候処、申出之通大破相成」、許可して同役の渡辺七郎左衛門へ同文書を送付しています。「従来の規模での再建許可」というのが許可申請のポイントだったようです。
1860(万延元)年2月には、西庄村などから崇徳天皇本社などの修築が提出されています。
   春願上口上
崇徳天皇本社屋祢葺更
但、梁行弐間 桁行三間桧皮葺、
一 同 拝殿屋祢壁損所繕
一 同 宝蔵堂井伽藍土壁右同断
一 同 拝殿天井張替
右者、私共氏神
崇徳天阜七百御年忌二付申候所、右夫々及大破難捨置奉存候間、在来之通修覆仕度奉願上候、右願之通相済候様宜被仰可被
下候、
本願上候、己上、
万延元年申二月  阿野都北西庄村百姓
現三郎
次太郎
          音三郎
次之介
善左衛門
次郎右衛門
助三郎
良蔵
同郡江尻村同  新助
善左衛門
                  瀧蔵
                     同郡福江村同 五右衛門
善七
与平次
同郡坂出村同  与吉之助
権平
  浅七
三土鎌蔵 殿
川円廣助 殿
安井新四郎 殿
阿河加藤次 殿
右之通願申出候間、願之通相添候様宜被仰上可被下候、以上、
西庄村庄屋 三土鎌蔵
坂出村同   阿河加藤次
福江村同   安井新四郎
江尻村同   川田廣助
六月
本条勇七 殿
右ハ同役勇七方ヨリ村継二而申来候、

この史料からは、次のような事が分かります。
①崇徳院七百年忌を控えて、西庄村の崇徳天皇社の本殿屋根などの修繕の必要性が各村々で共有されていたこと。
②その結果、西庄村百姓8名の他に、江尻村・福江村・坂出村の各3名、合計17名が発起人となり、各村の庄屋を通じて、大庄屋に願い出されたこと
③これらの村々で崇徳天皇社を自分たちの氏寺とする意識が共有されていたこと
ここには、崇徳上皇を私たちの氏神とする意識と崇徳上皇伝説の信仰の広がりが見えて来ます。

高屋村の氏神ある崇徳天皇社でも1819年12月、氏子の伊兵衛以下九名から拝殿の建替申請が出されています。
「崇徳天皇拝殿弐間梁桁行五間茸ニテ御座候所、及大破申候二付、在来之通建更仕度本存候」
申請を受けた政所綾井吉太郎は
「尤、人目の義者、氏子共ヨリ少々宛指出、建更仕候二付、村入目等二相成候義者無御座候」
意訳しておくと
「崇徳天皇拝殿は弐間梁で、桁行五間で、屋根は茸吹ですが、大破しています。つきましては、従来の規模で立て直しを許可いただけるようお願いし申し上げます。
申請を受けた政所の綾井吉太郎は、次のように書き送っています。
「もっとも人目があるので、氏子たちから寄進を募り、建て替えを行う時には、村入目からの支出はないようにする。」

ここからは大政所渡辺七郎左衛門・和兵衛に対して、その経費は氏子よりの出資であり、村人目にはならないことを条件に願い出て、許可されています。しかし、その修復は進まなかつたようです。
文政七年二月、同村庄屋綾井吉太郎は両人庄屋に窮状を次のように訴えています。
「去ル辰年奉相願建更仕候所、困窮之村方殊二百姓共懐痛之時節二付」
一向に修復が進まず、加えて「去年之大早二而所詮造作も難相成」
「当村野山林枝打まき伐等仕拝殿修覆料多足仕度由」
として同村の村林の枝打ちによる収益を修復に充てたいと願い出ています。しかし、藩は不許可としています。藩は村社などの建て替え費用に、村会計からの支出を認めていませんでした。あくまで、村人の寄進・寄付で神社は建て替えられていたことを、ここでは押さえておきます。
    五色台の麓の村々に白峰寺の崇徳上皇信仰が拡がって行くのは、近世後半になってからのようです。
その要因のひとつが、地域の村々の白峯寺への雨乞い祈祷依頼だったことは以前にお話ししました。文化2(1805)年5月に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いが白峰寺に出されています。そして、文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(白峰寺調査報告書312P)
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、白峰寺や崇徳上皇関係の施設に対する近隣の村々の支持や支援を受けることにつながって行きます。
ここらは「雨乞祈祷寺院としての高松藩の保護 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し、「民衆化」していることが見えてきます。19世紀前半から白峰寺への雨乞い祈願を通じて、農民達の白峰寺への帰依が強まり、その返礼寄進として、白峯寺や崇徳上皇関係の村社や郷社の建て替えが進んだという面があるように私は見ています。
例えば、1863(文久3)年8月26日に、崇徳上皇七百年回忌の曼茶羅供執行が行われています。回忌の3年前の万延元年6月に、高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままでした。そこで、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。それが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①近世になると各村の大明神は村社として、祠から木造の本殿や拝殿が整備されるようになった。
②整備された村社では、さまざまな祭礼行事が行われるようになり、村民のレクレーションの場としても機能し、村民の心のよりどころともなった。
③村民は、大破した村社を自らの手で修復・建て替え等を行おうとした。
④それに対して藩は、従来通りの規模と仕様でのみの建て替えを許し、費用は村人の寄付とし、村予算からの支出を認めなかった。
⑤19世紀後半になると、崇徳上皇信仰の高まりとともに、村社以外にも白峰寺や崇徳上皇を祀る各天皇社の建て替え・修復を積極的に行おうとする人々の動きが見えてくるようになる。
最後までありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」

中世から近世への神社の祭礼変化について、以前に次のようにまとめました。
神社の祭礼変遷

①中世は郷惣社に、各村々から組織された宮座が、祭礼行事を奉納していた。滝宮牛頭天王社へ奉納されていた北条組や坂本組の各組念仏踊りも、惣村で組織された宮座であった。
②検地で村切りが行われ、新たに登場した近世の村々は、それぞれが村社を持つようになる。
③近世半ばに現れた村社では、宮座に替わって若者組が獅子舞や太鼓台・奴などを組織し、祭礼運営の主導権をにぎるようになる。
④こうして中世の宮座による祭礼から、若者組中心の獅子舞や太鼓台が讃岐の祭礼の主役となっていく。
それでは江戸時代後半の各村々では具体的に、どんな祭礼が各村々の氏神に奉納されていたのでしょうか。これを今回は追ってみることにします。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ

テキストは、「神社の祭礼 坂出市史近世下151P」です。
  坂出市史は、最初に次のような見取り図を示します。
①江戸時代の村人たちは、神仏に囲まれて生活してたこと。村には菩提寺の他に、氏神・鎮守の御宮、御堂、小祠、石仏があり、氏神・鎮守の祭礼は、村人にとっては信仰行事であるとともに最大の娯楽でもあったこと。その祭礼を中心的に担ったのが若者たちだったこと。
②若者仲間が推進力となって、18世紀半ば以降、祭礼興行は盛んになり、規模が拡大すること。若者たちは村役人に強く求めて、神楽・燈籠・相撲・花火・人形芝居などの新規の遊芸を村祭りにとりこみ、近隣村々の若者や村人たちを招いて祭礼興行を競うようになること。
③これに対して、藩役人は「村入用の増加」「農民生活の華美化」「村外者の来村」などを楯にして、規制強化をおこなったこと。

若者達による祭礼規模の拡大と、それを規制する藩当局という構図が当時はあったことを最初に押さえておきます。

御用日記 渡辺家文書
御用日記 阿野郡大庄屋の渡辺家
  阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。
1841(天保12)年12月条の「御用日記」には、次のような規制が記されています。
一 神社祭礼之節、練物獅子奴等古来ョリ在来之分者格別、新規之義者何小不寄堅ク停止可被申付候。尤、獅子太鼓打の子供の衣類并奴のまわし向後麻木綿の外相用セ申間敷候
一 寺社開帳市立祭礼等の節、芝居見セ物同様の義相催候向も在之哉二相聞候、去年十二月従公儀被 御出の趣相達候通猥之義無之様可破申付候
意訳変換しておくと
一 神社祭礼については、練物(行列)や獅子舞・奴など古来よりのものは別にして、新規の催しについては、何者にも関わらず禁止申しつける。なお、獅子や太鼓打の子供の衣類や奴のまわしについては、今後は麻木綿の着用を禁止する。
一 寺社の開帳や市立祭礼の芝居や見せも同様に取り扱うこと。去年十二月の公儀(幕府)からの通達に従って違反することのないように申しつける。
ここからは、次のような事が分かります。
①旧来の獅子舞や奴に加えて「新規催し」が村々の祭礼で追加されていたこと
②藩は、それらを禁止すると共に従来の獅子舞などの服装にも規制していること
③幕府の天保の改革による御触れによって、祭礼抑制策が出されて、それを高松藩が追随していること

具体的に坂出地区の祭礼行事を見ていくことにします。 坂出市史は以下の祭礼記事一覧表が載せられています。
坂出の神社祭礼一覧
  これを見ると19世紀になると、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などさまざまな興行が行われていたことが分かります。

柳田国男は、『日本の祭』の中で、祭礼を次のように定義しています。
祭礼は
「華やかで楽しみの多いもの」
「見物が集まってくる祭が祭礼」
祭の本質は神を降臨させて、それに対する群れの共同祈願を行うことにあるが、祭礼では社会生活の複雑化の過程で、信仰をともにしながら見物人が発生し、他方では祭の奉仕者の専業化を生み出した。

祭礼が行われるときには、門前に市が立ちます。
上表の「1835(天保6)年2月、坂出塩竃神社」の祭礼と市立には、門前に約40軒もの店が立ち並び、約2100人が集まったという記録が残っています。天保7年の坂出村の人口は3215人なので、その約2/3の人々が集まっていたことになります。塩浜の道具市というところが塩の町坂出に相応しいところです。
この他にも市立ては、1839(天保十)の神谷神社(五社大明神)や翌年の鴨村の葛城大明神、松尾大明神でも、芝居興行とセットで行われています。
 芝居や見世物などの興行を行う人のことを香具師とよびました
香具師は、全国の高市(祭や縁日の仮設市)で活躍して、男はつらいよの寅さんも香具師に分類されます。その商売は、小見世(小店:露店)と小屋掛けに、大きく分けられます。小屋掛けとは、小屋囲いした劇場空間で演じられる諸芸や遊戯のことです。これはさらにハジキ(射的・ダルマおとしなどの景品引き)とタカモノ(芝居・見世物・相撲など)に分けられるようです。坂出では、どんな興行が行われていたのでしょうか。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
神谷村の神谷神社(五社大明神)の史料には、次のように記されています。
天保十年四月五日、「当村於氏神明六日五穀成就為御祈願市場芝居興行仕度段氏子共ョリ申出候」
尤、入目の儀氏子共持寄二仕、村入目等ニハ不仕」
意訳変換しておくと
1839(天保十)年四月五日、(神谷村の)氏神で明日六日、五穀成就の祈願のために市立と芝居を興行を行うと氏子たちから申出があった。なお費用は氏子の持寄りで、村入目(村の予算)は使わないとのことである」

と神谷村の庄屋久馬太から藩庁へ願い出ています。祭礼の実施も庄屋を通じて藩に報告しています。また、費用は氏子からの持ち寄りで運営されていたことが分かります。費用がどこから出されるかを藩はチェックしていました。

坂出 阿野郡北絵図
坂出市域の村々
鴨村の葛城大明神の祭礼史料を見ておきましょう。

鴨部郷の鴨神社
鴨村の上鴨神社と下鴨神社
1839(天保10)年4月7日と18日、葛城大明神社の地神祭のために「市場」「芝居興行」が鳴村庄屋の末包七郎から大庄屋に願い出られ、それぞれ許可・実施されています。この地神祭の時には「瓦崎者(河原者)」といわれた役者を雇って人形芝居興行が行われています。その際の氏子の申し出では次のように記されています。
「尤、同日雨入二候得者快晴次第興行仕度」
(雨の場合は、快晴日に延期して行う予定)」

雨が振ったら別の日に替えて、人形芝居は行うというのです。祭礼奉納から「レクレーション」と比重を移していることがうかがえます。

  林田村の氏神(惣社大明神)の史料を見ておきましょう。
林田 惣社神社
林田村の氏神(惣社大明神) 讃岐国名勝図会

惣社大明神では1845(弘化2)年8月19日に、地神祭・市場・万歳芝居興行の実施願いが提出されています。
以上のように、坂出の各村では、氏総代→庄屋→大庄屋→藩庁を通じて申請書が出され、許可を得た上で地神祭のために、市場が立ち、芝居や人形芝居の興行が行われていたことが分かります。その興行の多くは「タカモノ」と呼ばれる見世物だったようです。
  御供所村の八幡宮では、1834(文政七)8月12日に、翌々15日の松神楽興行ための次のような執行願が出されています。

然者、御供所村八幡宮二おゐて、来ル十五日例歳の通松神楽興行仕度、尤、初尾(初穂)之義者氏子共持寄村人目等二者不仕候山氏子共ヨリ申出候間、此段御間置可被成申候」

意訳変換しておくと
つきましたは御供所村の八幡宮において、きたる15日に例歳の松神楽の興行を行います、なお初穂費用については、氏子たちの持ち寄りで賄い、村人目からは支出しないとの申し出がありました。此段御間置可被成申候」

ここでも村費用からの支出でなく、「氏子共」の持ち寄りで賄われることが追記されています。
西庄 天皇社と金山権現2
西庄村の崇徳天皇社(讃岐国名勝図会)

西庄村の崇徳天皇社では、1834(文政7)年8月27日、湯神楽についての次の願書が出されています。
「然者、来月九日氏神祭礼二付、崇徳天皇社於御神前来月六日夜、湯神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出シ、尤、人目之義ハ村方ヨリ少々宛持寄仕候間、村入目者無御座候間、此段御間置日被下候」

意訳変換しておくと
つきましては、来月9日氏神祭礼について、崇徳天皇社の神前で6日夜、湯神楽を執行することが氏子より申出がありました。なお費用については村方より持ち寄り、村入目からの支出はありません。此段御間置日被下候」

 崇徳天皇社での湯神楽も費用は「村方ヨリ少々宛持寄仕候」で行われています。
湯立神楽(ゆだてかぐら)とは? 意味や使い方 - コトバンク
湯神楽

鴨島村の鴨庄大明神では、1858(安政5)年9月2日松神楽の執行についての次のような願書が出されています。

「然者、於当村鴨庄大明神悪病除為御祈薦松神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出、昨朔日別紙の通、御役所へ申出候所、昨夜及受取相済候二付、今日穏二執行仕せ度奉存候、此段御聞置被成可有候」

      意訳変換しておくと
「つきましては、当村鴨庄大明神で悪病を払うための祈祷・松神楽を行うことについて氏子から申出が、昨朔に別紙の通りありましたので、役所へ申出します。昨夜の受取りなので、今日、執行させていただきます。此段御聞置被成可有候」

 前日になって氏子達は、庄屋に申し出ています。庄屋はそれを受けて、直前だったために、本日予定通りに実施させていただきますと断りがあります。
林田村の惣社大明神でも、1860(万延元)年9月12日湯神楽の執行について次の願書が出されています。
「当村氏惣社大明神於御仲前、今晩湯神楽修行仕度段御役所江申出仕候、御聞済二相成候問」

ここからはその晩に行われる湯神楽について、当日申請されています。それでも「御聞済二相成候問」とあるので許可が下りたようです。ここからは祭礼の神楽実施については、村の費用負担でなく、氏子負担なら藩庁の許可は簡単に下りていたことがうかがえます。

祭礼一覧表に出てくる相撲奉納を見ておきましょう。
御用日記に出てくる角力奉納をまとめたのが次の一覧表です。
坂出の相撲奉納一覧
御用日記の相撲奉納一覧表
ここからは次のような事が分かります。
①1821年から43年までの約20年間で相撲奉納が7回開催されていたこと
②奉納場所は、鴨神社や坂出八幡宮など
③各村在住の角力取によつて奉納角力が行われたこと
④「心願」によって「弟子兄弟共、打寄」せで行われていたこと
⑤「札配」や「木戸」銭は禁止されていること。
近世後期の坂出周辺の村々に角力取がいて、彼らが「心願」で神社への奉納角力に参画していたことを押さえておきます。
  以上をまとめておきます。
①江戸時代後半の19世紀になると、坂出の各村々の祭礼では、獅子舞や太鼓台以外にも、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などのさまざまな行事が奉納されるようになっていた。
②これらの奉納を推進したのは中世の宮座に替わって、村社の運営権を握るようになった若者組であった。
③レクレーションとしての祭礼行事充実・拡大の動きに対して、藩は規制した。
④しかし、祭礼行事が村費用から支出しないで、氏子の持ち寄りで行われる場合には、原則的に許可していた。
⑤こうして当時の経済的繁栄を背景に、幕末の村社の祭礼は、盛り上がっていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    神社の祭礼 坂出市史近世下151P

         
前回までに飛騨では毛坊主によって道場が開基され、それが江戸時代に寺院化していくプロセスを見てきました。今回は、道場で毛坊主が行っていた教化法を見ていくことにします。テキストは、「千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」

 毎月の定例には、親鸞(28日)と本願寺前門主の命日に、村民はみな道場に集まって法会を行います。これが「お講」といわれ、十時ごろ道場に集まり、仏前で「正信偈(しょうしんげ)」「御文章」・説教の後、昼食の「お斎」を食べます。御飯は各自の持参ですが、お汁は「お講元」と呼ばれる当番(二名)が道場でつくります。

15.お正信偈を読む(2):拝読の方法(1) | 壽福寺だより
正信偈
正月元旦には、朝8時に村民全員が道場に集まり「おとそ」を飲みます。2月と9月の春秋の彼岸・お盆・11月の報恩講は、それぞれお勤めがあります。飛騨独特の行事としては夏期8月の別院回檀があります。
嘉念坊善俊 | がんでんの館
嘉念坊善俊
 飛騨の真宗は嘉念坊善俊によって開かれたとされます。
そのため道場80か寺は高山別院(照蓮寺)から輪番が供を連れ、毎年夏に嘉念坊の絵像を持つて、 一晩泊りで廻るしきたりとなっていたようです。
真宗大谷派高山別院照蓮寺(ひだご坊) - 高山市/岐阜県 | Omairi(おまいり)
高山別院(照蓮寺)

清見村の道場へは、8月の中旬から下旬にかけて、廻ってきます。お勤めは前夜と初夜の2回あって、嘉念坊の縁起を読んでいたようです。のちには教如・宣如等の本願寺門主の影像を開帳し、その消息を読むようになります。回檀には、村民が全員参加し、「御回檀餅」を供え、法会のあとには回檀踊りを踊ったと言います。この回檀の時に、本山や別院の経常費を村民から集めていました。
このような回檀は、中国地方の明光を開祖とする寺院でも行われているようです。
中国地方の備後・安芸・出雲・石見等には、相模国野比最宝寺の明光を開教の祖と仰ぐ寺が多く、これらの寺々へは明光の影像を持ち、回檀が行われていました。このように江戸時代には、本寺あるいは中本寺が配下の末寺を廻る、いわゆる回檀が各地で行われていたようです。しかし、近代になると、おこなわれなくなり、飛騨・美濃・越前・越中に残るだけになっています。
 毛坊主が行う宗教行事は、まず説教があります。
この説教のテキスト類が現在も各寺には残されています。これは浄上真宗の教義の解説が基本で、聞いていて面白いものではありません。こればかりだと、門徒は退屈し眠気を催すので、笑いをさそうような話を織りまぜながら仏法を説いたようです。長くなりますが、面白いのでその一例を見ておきましょう。
両度貴札辱拝見畢ル前文ハ皆略ス
当年ハ世界中飢饉ニテ、酒高直、肴高直。米・稗・豆。蕎麦・麦・塩・茶茂高直シ。其外蚕飼万作テ蛹高直、女沢山テ尻高直シ。万之物哉皆高直シ。下直イ物ハ一ツモ無シ。此節世上一同二、下直物者卜評判スルハ、鷹疾トヤラ云フ物チヤゲナ。
貴寺茂悴ヒ坊参故、其下直疾病於求メテ喜フ様二相聞へ申候。夏ノ瘡蓋ハ下直卜云フテモ甚タテケナイ物チヤゲナニ、早ヤイナシテ御仕マイナサレマセフ。
先ツ第一癌卜云フ物ニハ、甚毒立ノ有ル物チヤト云フ事チヤホトニ、早速二西芳佐トヤラ云フ医者ヲ頼テ来テ見テ貰フガヨロシウゴザロフ。西芳サンハ毒立ノ訳ケヲヨク知テゴザルホトニ、右西芳サン常ノ御咄二、癌ノ毒立テニハ、先ツ第一嫁二掛ル事ハ百ニナラヌ、其外ニハ酒ドク肴ドク念仏ドク寺参ドク餅ドク饂飩ドク后家ドク靭ドク、薬ナ物ハ一向スクナイトァル。其内貴寺ノ病ヒニヨイモノハ、人ノ嫁ヲ盗ム事、若ヒ娘ノ尻ヲツムコトガ第一ノ妙薬チヤト、日外御咄ヲ聞タコトカアル。貴寺モ大儀モ夜風ヲヒカヌャゥニ綿入ヲキテ夜釘テモナサレマセフoサウサイスルナレハ外ノ三角モ五卜鰻頭ノャゥニ成夕処モミナ/ヽナヲルナリ。
一 ニシンヲ送レト申サレ候二付、調ヘテイコシマスヶレトモ、ニシント申ス肴ハ、癌ニハ甚ダ毒クチャト云フ事ナレトモ、男根二大妙薬チヤト云コトュヘニ、少シイコシマス、此ニシンフ土鍋ニテョク煮、洒人毒ナレトモ、人ノ見ヌ処ニテヒャ酒テ二三盃呑テ臥テ、嫁二男根ノァタリフモマセルト、何ヤラ味ナ心地ガスルゲナト、昔シ咄シニアルコトチャホトニ、ヨクノ、御勘考ノ上、色々二味ヲツヶテ御療治ナサルベク候。
一 ヲレモ見マイニ来タケレト、嫁ノソバガハナレラレヌ故、先ユルンテ下ダサレ坊サマ。昼寝ノタワムレ御免/ヽ/ヽ/ヽ。貴寺寿命ノ妙薬チヤホトニ、御堂ノ脇へ持テ行キ御開クタサレカシク。
                                                                            前根物姪謹選
天保二年六月状
癌疾坊授与
  意訳変換しておくと
両度貴札辱拝見畢ル前文ハ皆略ス
今年は世界中が飢饉で、酒は高値、肴も高値。米・稗・豆・蕎麦・麦・塩・茶など、なにもかも高値。蚕飼も豊作で蛹が高値、女が沢山いて尻も高値。万物みな高値。値段が下がったものは一つもない。高値一辺倒の世情で、下値なのは、癌疾とやら云う物だけだ。
貴寺も坊参なので、その下値の疾病の流行を歓んでいるように聞いていますぞ。夏の癌は下値といっても、厄介なものなので早く治療されてしまいなされ。まず第一に癌と云うものには、毒が出るといわれますので、早速に西芳佐という医者を頼って、見てもらうのがよかろう。西芳さんは毒立(治療)をよくしっている。西芳さんがいつもしている話には、癌の毒立の第一は嫁に掛ル事は百日しない。その他に、酒ドク肴ドク念仏ドク寺参ドク餅ドク饂飩ドク后家ドク靭ドク、とあり薬になるものは少ないとある。そのうちでこの寺の病ひに効くのは、人の嫁を盗む事、若い娘の尻をつかむが第一の妙薬という、話を聞いたことがある。この寺の大儀も夜風をひかぬように綿入を着て夜釘でもなされませ。そうすれば外の三角も五卜鰻頭のようになったところも、たちどころに治癒します。
一 ニシンを送れというので、準備して贈りますが、ニシンという肴は、癌にははなはだ毒です。
男根に大妙薬というので、少し贈ります。このニシンを土鍋でよく煮て、洒大毒にして、人の見えないところで酒の二三盃も呑んで臥せ、嫁に男根のあたりを揉ませると、何やら味な心地がしてきます。昔の咄に出てくるように、よく考えた上で、色々に味をつけて療治したらよかろう。
一 私も見舞いにいきたいけれども、嫁の傍が離れられないので、許してくだされ坊さま。昼寝の御免 ごめん。この寺の寿命の妙薬なので、御堂の脇へ持ていってご開帳くだされ。
                                                                            前根物姪謹選
天保二年六月状
癌疾坊授与
なんとも下世話で猥雑な話ですが、毛坊主はこのような話を説教の合間にはさみながら、教化につとめたようです。教化の重点は、もちろん説教ですが、常に門徒の中にあって、共に耕し、供に楽しむという、生活を共にしながら仏法に生かそうとする毛坊主の姿が見えて来ます。門徒は、そのような毛坊主に共感を覚えて心のよりどころとしたのかもしれません。

しかし、村民が浄土真宗の教えをそのままにうけいれることは、なかなかできなかったようです。  
例えば浄土真宗では親鸞以来、呪術を強く否定してきました。これに対して、民衆の中には呪力への断ち難い思いがありました。それは、たえず生活にしのびより頭をもたげてきます。とくに天災地変や悪疫に打ちひしがれた弱々しい人心のすき間から、頭をもたげてきます。そのような村民の心情と、毛坊主の対応を史料で見ておきましょう。
差上申血誓之事
一 私共村方困窮打続、其上近年病身者数多出来、難渋仕候処、当夏山伏参申聞候ハ、当村二稲荷之社を建立して年々祭礼致シ皆々信仰仕候得者、病身者茂無病二相成、自然与村方富貴繁栄二相成可申与相勧メ候ニ付、不図相迷ひ候而、御手次様江茂相密シ、勿論本村方江茂深相包、稲荷のほこら新規二建立を相企、屋鋪ひき迄仕候処、被為及御間被仰聞候者、新地之寺社建立之義堅停止たるへし、惣而ほこら・念仏題目之石塔。供養塚。庚中塚・石地蔵之類、田畑・野林・道路之端二新規二一切取建間敷候。仏事・神事・祭礼等、軽執行之、新規之祭礼不可取立事。
右者公儀御法度之趣、前々より被仰渡候。東照神君様御取立之御厚恩不浅義二御座候得者、別而公儀御条目・御支配所御政法呼ク相守、禁奢家業を大切二相勤、微財之門徒迄御年貢所当不相怠様二心掛、現世之成行ハ前生の業因二一任して、後生之一大事者阿弥陀如来之本願、念仏之一行を正信して浄土往生を願ひ候外、別二諸仏・菩薩二追従不申、神明・仏陀江現世之寿福を不祈、依之札守等迄一切不致安置宗門故、万一心得違ひ候而神社等を軽蔑致シ候輩茂可有之哉と被為思召、 一切之諸神・諸仏を軽蔑不致、諸宗諸法を仮初二茂不可誹謗、第一王法を本与し、公儀之御掟を守、仁義五常を先与し、世間通途之義二随ひ、其外万御支配所江柳疎略之義無之様、常々教諭二およひ候様、兼而御本山る被仰渡候義二而、月毎之小寄会合二、右等之趣教誡致シ、御国政等堅相守、仏法・世法共無難二領受致シ、現当二世之要義心得違不申様、纏々致教諭候。其甲斐もなくと御利害被仰聞、 一言之申訳無御座奉恐人候。己後者小寄会合無憮怠相勤、御教誠被成下候通、急度心底相改可申候。万一心得違仕違犯之儀御座候ハヽ、仏祖之蒙冥罰未来者可堕獄者也。働而血誓之一札如件。
享和三癸亥年          楢谷村之内
七月十六日       麦島
四郎三郎(血判並二印)
久助(血判並二印)
権四郎(血判並二印)
長四郎(血判並二印)
忠助(血判並二印)
源四郎(血判並二印)
古十郎(血判並二印)

右之通心得違之意趣、今般御教誠之旨御請奉畏血誓仕処少茂違変無御座候。依之村役人奥印仕差上申候。以上。

楢谷村五人組 惣四郎(印)
孫重郎(印)
次郎兵衛(印)
四郎兵衛(印)
彦惣(印)

御手次
檜谷寺様
     意訳変換しておくと
一 私共の村は困窮が打ち続き、その上近年は病身者が数多く出て、難渋していました。そんな所へ、今年の夏に山伏が参りました。山伏は次のように勧めました。稲荷之社を建立して、年々祭礼を行えば、病身者はいなくなり、自然と村も富貴繁栄すると・・。その言葉に迷わされて、御手次様や本村にも相談せず、稲荷のほこらを新規に建立することにしました。祠が出来上がる段になって、毛坊主と名主から新地の寺社建立は禁止されていること、ほこら・念仏題目之石塔・供養塚・庚中塚・石地蔵之類などを、田畑・野林・道路の端に新規に建立することはできないこと。仏事・神事・祭礼などについても、新規の祭礼を執り行うこともできないことを伝えられました。
 これらは公儀の御法度で、以前から聞いていました。東照神君様の御取立の御厚恩は深いものがあり、公儀御条目・御支配所御政法を遵守するのは当然のことです。家業を大切に相勤め、微財の門徒に至るまで年貢担当を怠らず、現世の成行は前生の業因だとして、後生のことは阿弥陀如来の本願にまかせ、念仏一行を正信して浄土往生を願う。それ以外には、その他の諸仏・菩薩には目もくれずに、神明・仏陀へ現世寿福を祈らずに、宗門以外の札守なども一切安置しないこと。心得違から神社等を軽蔑する輩もいますが、一切の諸神・諸仏を軽蔑せず、諸宗諸法をかりそめにも誹謗せず、第一王法を遵守し、公儀の御掟を守、仁義五常を先与し、世間一般の義に従い、その他の支配所へ疎略のないように、常々教諭されてきました。御本山の「お講」である月毎の寄会では、以上の趣旨を承り、国政を堅く守り、仏法・世法ともに領受し、心得違のないようにと教諭を受けてきました。その甲斐もなくとこのようなことをしでかし、一言の申訳もございません。以後は、小寄や会合を、きちんと勤め、心底より改めます。万一心得違を犯すような場合には、仏祖の冥罰が末代まで及び堕獄者となることも覚悟します。働而血誓之一札如件。
以下略

この享和3年(1903)の証文からは、次のようなことが分かります。
①楢谷村檎谷地方では悪病が流行した時に、山伏がやって来て悪霊退散のために稲荷社建立を勧めたこと
②それを受けて真宗門徒達が麦島集落にひそかに稲荷社建立に動き始めたこと
③これを坊主と名主がききつけ、法令の上からも新規の寺社の建立は禁止されていることを申し聞かせたこと
④浄上真宗の教義からして祈蒔に類する行為は許されないこと
⑤この警告を受けて、血誓証文が作成されたこと。
  ここからは、19世紀になっても廻国の山伏の活動が行われていたことが分かります。門徒達にしてみれば、疫病が発生して多くの人が亡くなっているのに、真宗寺院は何もしてくれないという気持ちがあったのでしょう。だから、稲荷神社を建立して無病息災を祈ろうとしたのでしょう。これは、当時の都市部で展開されていた「流行神」信仰とおなじです。それぞれの神や仏は部門別に「分業体制」になっているので、専門の神仏を拝まないと効力はないと考えらるようになっていました。まさに「多神教」で、なんでも信仰の対象になっていたことは以前にお話ししました。
 しかし、別の視点から見ると村々での山伏の活動は、真宗寺院によって見張られていたことが分かります。村には稲荷神社を建立することはできなかったのです。確かに讃岐の農村部でも稲荷神社などが建立されている例は余り見ません。あるとすれば町屋の神社の中に摂社として建立されています。江戸時代には、新たな寺社の建立は農村部では厳しく規制されていたことを押さえておきます。
 これを讃岐の場合で見てみると、旱魃の際に真言宗は空海依頼の善女龍王への祈祷で雨乞いを行っています。
藩から雨乞いを公式に命じられていたのは、高松藩が白峯寺、丸亀藩が善通寺、多度津藩が弥谷寺だったことは以前にお話ししました。そんな中で、讃岐の真宗興正派の寺院が雨乞いに関わったという気配がありません。真宗寺院は「呪術」を否定していますから、雨乞い祈祷はできません。そこで、村人達が頼ったのが山伏ということになります。庄屋たちが村で雨乞い祈祷を行う際のリーダーは山伏が務めていることは以前にお話ししました。ちなみに、雨乞い踊りとされている「滝宮念仏踊り」は、「雨乞い成就のお礼踊り」であって、雨乞い踊りではないことは以前にお話ししました。佐文の綾子踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになるのは、近代になってからのことです。
  どちらにしても讃岐では、真宗寺院と山伏の間では「棲み分け」ができていたことをここでは押さえておきます。

江戸時代になり寺請制度が制度化されると、飛騨の毛坊道場も寺院化し、毛坊主が職業僧化していきます。
そうすると毛坊主の持っていた利点が、マイナスに働く場合も出てきたようです。そんな状況を伝える文書を見ておきましょう。
乍恐書付を以奉願上候
一私共組合之義者、古来より百姓株所持仕候二付、私共五ケ寺ハ村方頭役勤末候儀二御座候。然ル処右頭役相勤候得者、村内二故障有之候節、右役前二而利害中間事済仕候後、同行与不和二相成、難渋之筋も出来仕候而、甚以迷惑仕候間、御慈悲之上、向後村頭役相除候様被仰付被下候様、乍恐連印を以奉願上候。以上。

文化三寅年正月
小島郷
夏厩村 蓮徳寺
二本木村 西方寺
池本村  西正寺(印)
大谷村  西光寺(印)
高山御坊 御輪番所
意訳変換しておくと
私どもは、古来より百姓株を持っています。そのため村方頭役を勤めてまいりました。とろが頭役を勤める者は、村内で争論があった場合に、その役割として利害関係を明らかにして裁きを下さなければならない立場になります。その結果、不利な裁きを受けたと思われ、同行として不和になり、その後の運営に難渋し、迷惑を受けることが多くなりました。つきましたは御慈悲でもって、今後は村頭役を免除して頂けるように仰せつけ下さい。乍恐連印を以奉願上候。以上。

この文書は、小鳥郷の蓮徳・弘誓・西方・西正・西光の五か寺が連名で高山御坊に宛てた願書です。これら五か寺は古来から農業を営んでいたので百姓株を持ち、しかも名主など村の頭役を勤めていました。頭役を勤めていると自然と村民の紛争などの調停や裁断をしなければならない立場です。裁断者は、勝ち負けを決することになります。そうすると、敗れた村民は、裁定した毛坊主に反感をいだくようになります。これでは村民=門徒の教化がやりにくくなります。
 蓮如が村の長百姓をまず第一に門徒に引きいれようとしことは以前にお話ししました。
この時点では、農民が荘園領主の支配から脱れて地縁的自治体制(惣村)を築き上げようと、地域全住民が一丸となって、とりくんでいた時期でした。そのような社会運動の中で、村の長百姓は全住民の願いを束ね、彼等を代表する立場にありました。ところが近世封建制が確立すると、長百姓は村役人として権力支配の末端に位置づけられます。つまり、毛坊主が「権力の手先」という眼で見られるようになります。以前のように、「同志」や「先達」として見るよりも「手先」「管理者」としてみる住民を増えたようです。村の指導者と僧侶を兼ねる毛坊主は、微妙な立場に置かれることになっていたことが分かります。真宗寺院の性格が蓮如の時代からは、変化しています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」
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讃岐への真宗興正派の伝播を追いかけているのですが、その際の布教方法が今ひとつ私には見えて来ません。そんな中で出会ったのが   千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66Pです。

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飛騨の山村に、真宗教線が伸びていくときに重要な役割を果たしたのが「毛坊主」のようです。今回は、毛坊主と道場、その寺院化がどのように進められたのかを見ていくことにします。

笈埃随筆

江戸時代の飛騨の毛坊主について、百井塘雨の「笈埃(きゅうあい)随筆」には、次のように記されています。

「 当国に毛坊主とて俗人でありながら、村に死亡の者あれば、導師となりて弔ふなり。是を毛坊主と称す。訳知らぬ者は、常の百姓より一階劣りて縁組などせずといへるは、僻事(ひがごと)なり。此者ども、何れの村にても筋目ある長(をさ)百姓にして田畑の高を持ち、俗人とはいへども出家の役を勤むる身なれば、予め学問もし、経文をも読み、形状・物体・筆算までも備わざれは人も帰伏せず勤まり難し。」
意訳変換しておくと
「飛騨には俗人でありながら、村に死者が出ると導師として供養する毛坊主という者がいる。事情を知らない者は、普通の百姓よりも劣る階層で、これとは縁組などは行わないという者もいるが、これは、僻事(ひがごと)である。毛坊主は、どこの村でも筋目のある長(おさ)百姓で、普通以上の田畑を持つ。俗人とはいっても僧侶の役割を務めるので、学問もし、経文も読み、形状・物体・筆算までも身につけた教養人である。そうでなければ、門徒からの信望をえることはできず、務まるものではない。

ここからは、次のような事が分かります。
①毛坊主は剃髪することなく、家庭や社会を捨て去ることもなく、それまで通りの生活を送りながら仏道に生きる人たちだったこと
②しかも、毛坊主たちは、村の政治家・教育者・医者として積極的に地域社会をリードしようとする村々のリーダーでもあったこと
③同時に、彼らは教養人であり、社会事業者でもあったこと

 地域社会のリーダーが毛坊主となることは、本願寺蓮如の方針だったと研究者は指摘します。
もともとの毛坊主の源流は親鸞までさかのぼるようです。親鸞の教えは、家庭を捨て社会を離れ僧になって寺に入ることに、こだわりません。農民・猟師であろうと、官仕であろうと、念仏するものはみな等しく救われるという教えです。つまりそれまでの俗生活を送りながら、仏になる道が歩めました。
 親鸞は阿弥陀仏の救いの対象は、愚かな人たち、つまり凡夫であるとします。凡夫とは「行心、定まらず、軽毛の風に随って東西するが如し」と、世の苦しみ悩みにさいなまれ、羽毛が風にふかれるように、あてどなく右往左往する人間のことです。別の言葉で言うと、戒行を堅持して悟りを開こうという聖道教からは見放された人たちです。そのため、凡夫をめあてとする親鸞の門弟は、庶民階層とくに農民に信者が多かったようです。

 建長7年(1255)頃、念仏者に弾圧が加えられようとした時、親鸞は、次のように説きます。
念仏を弾圧する地頭・名主たちの行いは、釈迦の言葉にもあるように末世に起こる予想されたことである。彼等を怨むことなく、ふびんな人間であると、あわれみをかけよ。彼等のために念仏をねんごろにして、彼等が弥陀の本願のいわれをききわけ、救われるようにしてやれ。

この時点では、地頭・名主という地域社会の政治支配者は、念仏する農民にとっては、対立者としてとらえられています。しかし、もともと親鸞にとっては、どんな階層の人達も弥陀の救いの対象になり得る存在です。共に念仏する人は、貴族・武士・商人・農民みな同朋同行なのです。そこで布教戦略としては、まず念仏を弾圧する地頭・名主にも弥陀の本願をききわけるよう働きかけてやるべきだとします。
 これを受けて蓮如は、村の坊主と年老と長の3人を、まず浄上真宗の信者にひきいれることを次のように指示しています。

「此三人サヘ在所々々ニシテ仏法二本付キ候ハヽ、余ノスヱノ人ハミナ法義ニナリ、仏法繁昌テアラウスルヨ」

意訳変換しておくと
各在所の中で、この三人をこちら側につければ、残りの末の人々はなびいてくるのが法義である。仏法繁昌のために引き入れよ

 村の政治・宗教の指導者を信者にし、ついで一般農民へひろく浸透させようという布教戦略です。
蓮如がこうした伝道方策をたてた背景には、室町時代後期の村々で起こっていた社会情況があります。
親鸞の活躍した鎌倉時代の関東農村にくらべ、蓮如活躍の舞台となった室町後期の近畿・東海・北陸は、先進地帯農村でした。そこでは名主を中心に惣村が現れ、自治化運動が高揚します。このような民衆運動のうねりの中で、打ち出されたのが先ほどの蓮如の方針です。彼の戦略は見事に的中します。真宗の教線は、農村社会に伸張し、社会運動となります。惣村の指導者である長百姓をまず門徒とし、ついで一般の農民を信者にしていきます。その方向は「地縁的共同体=真宗門徒集団」の一体化です。そんな動きがの中で村々に登場するのが毛坊主のようです。
   毛坊主は、飛騨・美濃・越前・加賀などの山村の村々に、現在も生きつづけているようです。研究者が、その例として取り上げるのが岐阜県大野郡の旧清見村です。
清見村は広大な面積がありますが、人口はわずか2千人たらずで、17集落に分かれて点在します。各集落があるのは白川街道と郡上街道沿いで、地図のようにそれぞれに道場(寺)があります。
そこでは、次のような蓮如の伝道方策が実行されます。
①まず村の長百姓を真宗門徒に改宗させ
②蓮如から六字名号(後には方便法身の絵像本尊)を下付され
③それを自分の家の一室の床の間にかけ、
④香炉・燭台。花瓶などを置き、礼拝の設備を整える。
⑤これを内道場または家道場という
⑥ここで長百姓が勧誘した村人たちと共に、念仏集会を開く。
⑦その際、長百姓はいわゆる毛坊主としてその集会の宗教儀礼を主宰する。
⑧やがて村人の中に真宗信者が多くなると、長百姓の一室をあてた礼拝施設は手狭となる。
⑨そこで一戸建の道場が、村人たちの手によって造られる。これを惣道場と称する。
⑩この惣道場でも長百姓は毛坊主として各種の行事をリードする。
飛騨の毛坊主が蓮如に引見するときには、仲介の坊主が必要でした。
これを手次の坊主と云います。
飛騨の場合は、白川郷鳩谷の照蓮寺が手次を務めます。

照蓮寺(岐阜県高山市)】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
照蓮寺

照蓮寺は越後浄興寺の開祖善性の子善俊(嘉念坊)が創始したと伝えられる寺です。善俊は、はじめ美濃国白鳥に道場を構えますが、やがて北上して飛騨国鳩谷を拠点に布教したようです。

「草に風をくはふるが如く、人悉く集り、国こぞりて帰依し、繁昌日々に弥増て」

とあるので、多くの真宗門徒が結集し、「終に当国の真宗道場の濫腸」となったと伝えられます。
以上をまとめておくと、文明年間に飛騨国では、照蓮寺を手次に蓮如から本尊の授与をうけ道場を開設した者が多数います。清見村の道場もすべて照蓮寺を手次としていることが、それを裏付けます。これが後の時代には、中本寺の役割を果たすようになります。真宗興正派の讃岐布教センターとなった阿波の安楽寺や、三木町の常光寺が私にはイメージされます。

図026 野尻道場の平面見取図
野間道場の平面見取図

 惣道場が設立されると、この時点では全村民が真宗門徒となっていました。
そうなると道場の行事は、単なる宗教行事だけでなく、村の共同事業などすべて惣道場で相談して行われるようになります。惣道場は信仰だけでなく、村の議決機関としての役割も果たすようになったのです。
 こうして江戸時代中頃になると、惣道場は、本寺から木彫の阿弥陀仏像(木仏)を下付され、寺としての形態を整え、寺号を名乗るようになることは、まんのう町の尊光寺を例にして、以前にお話ししました。飛騨の真宗寺院が他と違うのは、寺を管理し儀礼を執り行うのは、相変わらず毛坊主だったことです。飛騨では、毛坊道場が寺院へ移行したあとも、毛坊主が門徒集団を指導していたことを押さえておきます。
福井県 浄土真宗唱える施設「道場さん」の現状とは 使われる建物、地域性豊か|北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ
越前の真宗道場
 この時期には、道場だけでなく有力門徒の中にも手次寺を通じて蓮如や実如の名号を授与されているものがいたことが残された各家に残された名号から分かります。

 以上をまとめておきます。
①道場とは、六字名号を掲げ、それを自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の施設を整えたもの。
②村人たちは、村長(むらおさ)を先達として正信偈をとなえ法話を聞く。この導師を毛坊主と称した。
③毛坊主は普段は百姓をしながら、村に葬儀や法事には導師をやっていた。
④江戸時代に本末制度が調えられると、本寺から六字名号や寺号を得て寺院化する所も現れた
⑤しかし、門徒の少ない所ではそのまま道場として存続した
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献         千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P
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   比叡山焼き討ちや、一向一揆殲滅作戦などから織田信長は「仏法の敵」とされてきました。しかし、これに対しては研究が進むにつれて異論が出されるようになっています。どんな所に光を当てて「信長=仏法の敵」説を越えて行こうとしているのかを今回は見ていくことにします。テキストは、「一向一揆の特質 躍動する中世仏教310P」です。
躍動する中世仏教 (新アジア仏教史12日本Ⅱ) | 末木文美士【編集委員】, 松尾剛次 佐藤弘夫 林淳 大久保良峻【編集協力】 |本 | 通販 |  Amazon

まず一向一揆についての定説を押さえておきます。
一向一揆は、幕府、守護大名、荘園領主など支配者層が応仁の乱によって弱体化した状況下で、民衆の宗教運動が一揆という形をとって現れたものされてきました。この見解は、次の二つの論拠に支えられています。
①その運動や武装蜂起が浄土真宗門徒を主たる担い手としていること
②一向一揆は、統一政権の担い手として登場した織田信長に弾圧され、解体された
①については、一向一揆の場合は真宗本願寺派という教団に属する武士や「百姓」が武装峰起の担手で、これを本山の本願寺僧侶が指導するというというのがパターンとされます。そのため阿弥陀信仰が団結の核となり、一揆の紐帯となっていたとします。
②については、織田信長によって解体されたとされます。一向一揆の場合は、信長が足利義昭を擁立して入京し、将軍に就任させて間もない元亀元(1570)年、浅井・朝倉など反織田勢力の大名に呼応して蜂起し、信長との断続的な交戦を展開します。そして石山戦争の末に天正8(1580)年、本願寺の本拠地大坂を引き渡して退去するという条件で信長と講和します。これが本願寺の実質的全面降伏で、一向一揆は解体された、というのが従来の説です。しかし、近年の研究は、一向一揆を中世ヨーロッパの異端運動になぞらえたような闘争モデルを下敷きとする従来の宗教一揆像に対して、批判・再検討を加えらっれてきました。
宗教一揆の場合、その原因には次の2つが考えられます
①信仰弾圧に対して信徒が一揆を結び蜂起した護教運動
②教祖の教義に基づく宗教王国を実現しようとした王国建国運動
この宗教運動の結果、起こされるのが宗教一揆と研究者は考えています。例えば島原の乱の場合は後者になります。宗教一揆は、このどちらかを指すのが普通です。しかし、一向一揆の場合は、どちらにもあてはまらないと研究者は指摘します。「一向宗」が戦国大名から「取り締り」を受けたことは事実です。しかし、取り締まりを行った動機は、政治的要因からの本願寺教団への介入か、山伏、下級神官、陰陽師、琵琶法師など呪術的民間宗教者に対する警戒かのいずれかです。宗旨そのものに対する弾圧はなかったと研究者は考えています。別の言い方をすると、真宗の教義そのものが戦国大名に危険視された事例はないということです。
 また一向一揆を②の宗教王国運動とみることもできないとします。本願寺教団の使っていた「仏法領」の語について、かつては「本願寺門徒が現世に実現することをめざした宗教王国」を指すとする研究者もいました。しかし、これに多くの研究者は否定的です。「仏法領」については、今では次のように説明されています。

現世を否定した宗教王国を指すものではなく、現世の秩序と併存する「仏法の領分」を指すものである。世俗法の支配する領域と棲み分けられた信仰活動の領域を指し、具体的には現実の本願寺教団を指す。この世ならぬ宗教王国の理想を現世で実現する意図は、戦国の本願寺教団には見出されていない。

蓮如像 文化遺産オンライン
蓮如
一向一揆が起きるのは、蓮如登場以後のことです。
それまでは、真言門徒が武装蜂起をした例はありません。最初の例は、応仁の乱の十年程前のことで、延暦寺のお膝元である近江国(滋賀県)で起きます。背景は本願寺の教線が、自分のお膝元に近江に及んでくるのに警戒心をもった延暦寺の衆徒の反発と過剰反応です。延暦寺衆徒は、京都東山にあった大谷本願寺を襲撃・破壊し、近江の門徒にも攻撃を加えます。これが「寛正の法難」です。近江門徒の一部は、金森に集結して衆徒らと戦います。これが最初の一向一揆とされています。つまり、最初の一向一揆は延暦寺の攻撃に対して武装防衛のために立ち上がったものと云うことになります。これまでは延暦寺衆徒による本願寺破却と近江門徒への攻撃は、「顕密仏教勢力による鎌倉新仏教への弾圧」という流れの中で捕らえられてきました。
しかし、「寛正の法難」からは、従来の説とは矛盾する次のような点があったことが分かります。
①比叡山衆徒から攻撃されたのは本願寺派だけであること。
②真宗高田派については、「本願寺派とは異なる」というその主張を受け入れて攻撃していない。
③仏光寺派は天台宗妙法院の庇護によって山門の政撃を免れている。
④山門衆徒と本願寺との停戦斡旋したのは本願寺を「候人」(保護下の存在)として庇護する大台宗三門跡の一つ青蓮院であったこと。
以上からは、この争いが「顕密仏教の天台宗と鎌倉新仏教の真宗との宗派対立」という見方では、とらえきれいないと研究者は判断します。
親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年記念企画展(第91回企画展)近江堅田 本福寺 | 大津市イベント情報集約サイト

16世紀の近江国堅田の真宗寺院本福寺の記録『本福寺跡書』を見ておきましょう。
『本福寺跡書』によると延暦寺の山門衆徒にとっては、宗旨が問題だったのではなく「礼銭(示談金)」をとることが目的であったと記します。そして最終的には、次のような協約でけりがつけられています。
①蓮如の嫡子順如が本願寺後継住持の地位を放棄し、五男実如を後継者とすること、
②本願寺は延暦寺山門西塔院末として「末寺銭」三十貫を納入すること
ここには宗教的なことは何も出てきません。両者の抗争原因が、宗旨問題ではないことが分かります。実態は、幕府要人の支持を背景に教線を伸ばした本願寺教団と、それに警戒を強めた山門延暦寺との私闘と研究者は判断します。延暦寺の本願寺攻撃は「顕密仏教勢力による鎌倉新仏教教団の弾圧」というモデルには、当てはまらないことを押さえておきます。そしてこれが最初の一向一揆の登場モデルなのです。


加賀一向一揆は、現地の政治対立に関わる一向一揆でした。
それに対して、幕府の権力争いにからんで一揆が起こった例もあります。将軍家が分裂して将軍候補者二人が並立し、また幕府内最大の勢力細川家もまた分裂して家督争いを繰り返すという政治状況が、16世紀になると続きます。このような中で将軍家や諸大名と密接な関係にあった本願寺は、これに頭を突っ込んでいきます。そして、諸国の門徒に武装蜂起を指令しています。信長との石山合戦も、このような一向一揆の一つのパターンと研究者は考えています。これらを石山合戦型一向一揆としておきます。
その一例が永正3(1506)年の、永正の争乱をめぐる一向一揆です。
これは細川政元後の将軍相続をめぐる抗争で、この中で香西氏などの多くの讃岐国人衆が没落していったことを以前にお話ししました。
本願寺は足利義澄を将軍として擁立する細川政元方に荷担して諸国の門徒に蜂起を命じます。越中、越前、加賀などの本願寺門徒が政元方として戦った他、河内、丹後、能登、美濃、三河などで本願寺門徒の蜂起や足利義澄方の軍勢の侵攻で、大量の戦死者が出ています(『東寺光明講過去帳』)
 これは本願寺門徒による大規模な武装蜂起でしたが、その要因は将軍家内の対立や、幕府有力者間の政治対立への介入です。これも教義や信仰とは無関係です。「仏法」のため以外の動員はしないという原則を、蓮如はもっていました。そのため「本願寺の危機=仏法の危機」という論理を持ち出して、門徒動員を行う必要があったと研究者は考えています。ここでは将軍家や幕府内部の政治抗争に、本願寺教祖が介入し、門徒が動員されたことを押さえておきます。

こうして見ると石山合戦も幕府をめぐる権力闘争の一コマということになります。
その一方の主役が織田信長で、もう一方の主役が前将軍・足利義昭と云うことになります。本願寺が最初に信長に対して峰起したのは元亀元(1570)年のことです。信長に擁立された将軍足利義昭と信長とが畿内を制圧します。一方、信長に追い出された三好三人衆も反政を開始します。これに近江六角氏、越前朝倉氏、近江浅井氏なども続いて蜂起します。本願寺顕如は、三好三人衆を支援する反信長勢力の一員として、諸国門徒を動員します。
どうして、本願寺顕如は信長との戦端を開いたのでしょうか?
 本願寺法主顕如は、門徒に対して信長が本願寺に無埋難題をふっかけ、遂に本願寺を破却するとの宣戦を行ったたために「本願寺防衛」のために戦うと訴えています。しかし、研究者はそうした史実は見当たらないとします。織田信長が本願寺教団に圧迫を加えたことはないというのです。それまでそのような素振りを見せなかった本願寺の突然の蜂起に、信長方は「仰大した」(『細川両家記』)と記します。そもそも顕如は、当初は足利義昭を擁立した信長の人京を歓迎する旨を信長に書き送っています。ここからは、両者の間には公然たる敵対関係はなかったことがうかがえます。
 本願寺が蜂起した時、義昭・信長の軍勢は大坂本願寺近くの野田・福島に籠る三好好三人衆を攻撃中でした。そのため信長側は、本願寺に対しては全く無防備でした。信長と浅井・朝倉両氏との抗争には、近江国の本願寺門徒が浅井軍を加勢しています。また伊勢国長島願証寺が蜂起し、信長の弟織田信興を攻めて自殺させるなど本願寺は、浅井・朝倉方に味方して戦っています。更に元亀3(1571)年後半になり、武田信玄が浅井・朝倉氏と通じ、信長に叛旗を翻し、足利義昭が信玄に呼応するようになります。このような反信長包囲網が完成し、信長が圧倒的不利と見られたときに、本願寺顕如はパワーゲームに参加したことになります。しかし、信玄の病死により武田軍は撤退し、義昭は信長に敗れ京都を去り、信長は浅井・朝倉氏を滅ぼします。同盟軍を失った本願寺は信長に和睦を申し入れます。信長は、この時も了承して天正元(1573)年には、和睦が成立しています。

 ところが翌年に越前で一向一揆が蜂起します。
一揆側は朝倉氏滅亡時に織田方に寝返り、越前の大名となっていた朝倉氏家臣前波長俊を滅ぼし、越前領国を制圧します。本願寺からは一揆集団支援のために、戦闘指導者が派遣されます。この時に本願寺顕如は、織田信長に対して再度蜂起します。これに対して信長は佐久間信盛、細川藤孝、明智光秀らを大坂方面に派遣して本願寺を攻撃させます。そして自らは軍勢を率いて伊勢国(三重県)長島の一向一揆を包囲し兵糧攻めにします。ここでは信長は長島一揆側の降伏の申出を許しません。殲滅作戦を行い、降参した一揆を欺し討ちにして無差別殺戮を行い、籠城した一揆衆を焼き殺すなど凄惨な殺戮の末に、伊勢長島一向一揆を殲滅します。それにとどまらず一揆の残党を捜索して皆殺しにし、本願寺門徒を同じ真宗高田派に強制改宗させます。これは門徒に対する信仰上の迫害には違いありません。しかし、高田派も真宗です。真宗の教義それ自体を信長が敵視したわけではないことを押さえておきます。進退窮った本願寺は和睦を乞い、信長も「赦免」します。前回に続き、2度目の本願寺の停戦要望に信長は同意しています。
念慶寺縁起(8)元亀騒乱④第1次信長包囲網と一向一揆 | 速水馨のブログ

天正4(1576)年、信長から畿内追放になった足利義昭は備後国鞆に亡命し、反信長包囲網形成に尽力します。

毛利氏の庇護を受けて自分の京都復帰を支援するようにとの書簡を各地の有力戦国大名に送っています。これを受けて越後国(新潟県)の上杉謙信、甲斐国(山梨県)武田勝頼、相模国(神奈川県)北条氏政が毛利氏に呼応し、反信長包囲網が形成されます。本願寺も義昭の呼びかけに応じて信長と三度目の交戦を開始します。諸国門徒も動員され大坂石山本願寺に籠城し、信長軍とあしかけ五年にわたる戦いを繰り広げます。これを「石山合戦」と呼びます。

織田信長の天下布武

天正七(1579)年末、劣勢に立った本願寺顕如に対し、信長が朝廷を動かして天皇から本願寺・信長の和睦が勧告されます。
これを受けて本願寺は寺地を手放して大坂を退去することを代償に、本願寺教団の存続を認めることが協定で約されます。それに対して、顕如の嫡子教如を担いだ抗戦続行派の抵抗もありましたが、結局は信長に屈し、前記協定の線で石山合戦は終息します。

このような石山合戦の経過をみて、気がつくのは交戦開始は、いつも本願寺顕如側にあることです。
元亀元(1570)年の開戦
天正三(1574)年の開戦
天正四(1576)年の開戦
すべて戦いは本願寺側から戦端が開かれています。これに対して信長側から事前に、本願寺教団への弾圧があったことを示す史料はないようです。
これと対照的なのは織田信長の和睦承認や本願寺に対する「赦免」です。
①天正元(1573)年の和睦も劣勢に立った本願寺に対し信長が停戦を承認したもの
②天正三(1575)年の和睦では伊勢長島、越前では徹底した皆殺し作戦をとっていますが本願寺に対しては穏やかな「赦免」
③天正八(1580)年には、わざわざ天皇の権威を持ち出し、本願寺教団の存続を認め、さらには教如を擁立した抗戦続行派の抵抗という事態にも、これを咎めることなく和睦
最後の和睦の際に信長が要求した大坂退去は、戦国大名同士の和平協約の際の「領土の一部割譲」と同じと研究者は評します。ここからは、信長は本願寺と本願寺教団を滅亡させるために戦っていたという説は成り立たないと研究者は判断します。
天正十(1582)年2月、本願寺顕如が拠点としていた紀伊国雑賀で、在地領主同士の紛争が起こります。調停しようとした本願寺が逆に巻き込まれて窮地に立ちます。この時に信長は「門跡(顕如)」の「警固」のために、家臣野々村三十郎を派遣しています。また諸国の本願寺門徒が、顕如のいる紀伊雑賀に参詣する際の通行安全も保障しています。
古書】正徳二年板本 陰徳太平記(全六巻)米原正義 東洋書院 www.thesciencebasement.org
陰徳太平記
 織田信長が本願寺を攻撃したのは、大坂の寺地を重要戦略拠点として獲得したいと信長が望んだためだという説があります。
これは17世紀末に成立した『陰徳太平記』に始めて書かれる見解です。これが世間では定説化されていきします。しかし、信長が大坂の寺地を望んだのなら、天正元年、天正三年の本願寺が劣勢に陥って和睦を乞うた時に、信長は寺地譲与を条件とするはずです。その時点では、石山からの退出は、停戦条件となっていません。信長が大坂の寺地を和睦の代償に要求したのは、天正八年の和睦になってからです。

むごい!戦国時代の壮絶な戦い3選(前編)・長島一向一揆編【ゆっくり解説】 - YouTube
壮絶な戦いにランキングされている長島一向一揆

 織田信長と一向一揆との敵対関係を示すものとして引き合いに出されるのは、伊勢長島一向一揆です。
しかし、近年の戦国史研究が明らかにしてきたことは、大量虐殺は戦国期の大名間の合戦では当たり前の戦術だったことです。例えば伊達政宗が天正十三(1585)年に大内定綱の軍勢が立て籠もる小手森城を攻略した際には城主・親類五百人余りを殺害し、女性、子供はもちろん犬まで無差別に殺傷しています。その結果、大内方の四カ所の城が降参し、他の四カ所は逃亡した、と政宗が戦果を誇っています。(『佐藤文右衛門氏所蔵文書』八月二十七日伊達政宗書状)、これは敵方の殲滅を意図したものではなく、戦術であり、敵方へのアピールだったと研究者は考えています。信長は一向一揆に対して降参の申し出を許したり、非戦闘員の赦免を指示したりしている事例もあります。 一向一揆との戦闘において総て皆殺しや大量殺数を指向してはいないと研究者は評します。
 また信長が無差別殺頷を行うのは、 一向一揆の場合のみならず、大名同士の合戦でもありました。ここでは、無差別殺戮戦術が信長の一向一揆対する唯一の対処法と考えるのは誤っていることを押さえておきます。ちなみに比叡山焼討も山門衆徒が、僧侶として遵守すべき中立を破り、密かに浅井・朝倉に味方したことへの報復です。宗教人や宗教集団であることが理由で行われたものではないと研究者は指摘します。
それならどうして信長が仏教を軽視し、否定的に扱ったという見解が生まれてきたのでしょうか。
確かに、信長が寺院を統制し、宗教団体や宗教勢力にある局面では敵対したこともあります。しかし一方で、仏教者や仏教寺院の特権を承認していた事例も数多くあります。当時の戦国大名は領国内で俗的支配と宗教者や宗教団体の存続との両立をめざしていました。信長の対応もその延長線上で考えるべきだと研究者は指摘します。信長は畿内の寺社領に対して、「守護不入」の特権を認め、寺院の自治を認めている例もあります。信長も、宗教者や宗教団体との共存を目指したいたと研究者は考えています。

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 信長が仏教に対して否定的だったという見解は、イエズス会宣教師の信長像によるところが大きいようです。
イエズス会は信長を自分たちの有力なパトロンとして宣教活動を進めていきます。そして、仏教諸勢力と対立し、キリシタン大名に働きかけて寺社を破壊させ、僧侶を迫害することも行っています。高山右近や小西行長の領土では、そのような動きがあったことを以前にお話ししました。そのため宣教師達は、本国への報告の際には、仏教を「偶像崇拝=迷信」と迫害する信長像のみが正義として強調されます。仏教を保護する信長の一面を伝えることはありませんでした。
   どちらにしても信長の仏教観や宗教政策は、江戸時代の仏教指導者や同時代のイエズス会の宣教師の目を通して記されたもので「色眼鏡」で見られていることを押さえておきます。織田信長が「一向一揆解体を目指して、抑圧的な姿勢で臨んだ」とされる通説には根拠がないと研究者は指摘します。

一向一揆が大名の軍勢と交戦したことも、その反権力性の証などではありません。本願寺が反信長包囲網の一員として参加したために、そのパワーゲームのメンバーとして軍事力を提供する義務が生じていたのです。同盟関係を結ぶと云うことは、義務を負わされると云うことです。政治的勢力となった本願寺顕如が取らざる得なかった外交政策の結果であるとみるほうが合理的です。
 一向一揆を反権力的で、中世ヨーロッパの異端運動とダブらせるような宗教一揆像は、どこから形成されたのでしょうか?
こうした一向一揆像は17世紀になってから歴史書に登場すると研究者は指摘します。つまり近世の創作物です。創作の要因は次の2点です。
①東西両本願寺派の正統性をめぐる論争
②江戸時代に本山が門徒たちに、先祖の篤信の物語として喧伝した石山合戦譚。
前者については、本願寺は江戸時代になって家康の宗教政策で東西両派に分裂します。その分裂要因の一つは、法主顕如とその嫡子教如との対立です。
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天正八(1580)年3月に、信長との講和に顕如とその子教如は同意します。
ところが直後に、教如はこの同意を翻し、大坂本願寺に留まり抗戦続行を諸国門徒に呼びかけます。紀伊国雑賀に退去した父顕如と、大坂に残留して信長への抗戦続行を叫ぶ教如とに教団は分裂します。この対立は、教如が信長に降伏し、顕如に詫びを入れて本願寺教団に復帰したことで収められます。しかし、教如は法主の地位を継ぐことができません。それが後の東木願寺創始につながります。こうして両本願寺が並び立ち、17世紀に東西両派はその正統性をめぐる論争を繰り広げます。
その際に、西本願寺側は教如を非難するために「鷺森(さぎもり)合戦」という事件を捏造します。その物語を見ておきましょう。
  天正十年(1582)6月2日未明の本能寺の変の時に、信長は子の信孝に鷺の森を制圧するよう命じていたという。『陰徳太平記』巻第六十七「紀州鷺森合戦並本願寺表裡分派事」に次のように記述されています。
 天正十年6月3日の早朝、織田勢先鋒の信孝殿の兵が「鷺の森」に押し寄せてきた。この地にとどまる門徒らは、如来の助けや祖師のご恩に報いるために、骨が砕かれ身が裂かれても惜しくはないと思っていた。恐れるものがないので、これが最後だと決心して大砲を構え、さんざん撃ちまくったところ、寄手は、踏ん張ったけれども楯や竹束が打ち壊され、たまらず数十町引き下がった。一息ついて、また敵が押し寄せるかと思っていると、巳の刻のころに寄手は陣を引き払って大坂に退いてしまった。だが、こんなに急に退くとは思わなかったので、後追いすることはしなかった。これほどの勢いで攻め寄せ、先鋒が鉄砲を突き付けておきながら急に引き返したことは、どうにも解せなかったが、後から聞くと、信長公が殺されたとの報告があったために、そうなったとのことだ。
こには教如の違約に遺恨をもった信長が、密かに本願寺を滅ばそうとして軍勢を派遣したという物語です。顕如上人は危機一髪のところを御仏の御加護により助かった、というオチです。これを事実として西本願寺は喧伝し、教如は本願寺教団を危機に陥れた張本人である批判・攻撃します(『本願寺表裏間答』)。
 この物語で研究者が注目するのは、次の二点です。
①本願寺に敵意のなかった信長が教如の違約を恨み本願寺職滅を企てたこと
②信長の怒りには顕如もまた共感を示して教如を非難したとして、教如の違約を批判していること
この物語を捏造した西本願寺側には、違約でもない限り信長が本願寺を敵視するはずがないと認識していたことが前提としてうかがえます。ところが反論する東本願寺も、再反論する西本願寺も、信長はもともと本願寺を敵視し、滅ぼす意図があったとの言説を論争の中で創り出していきます。信徒が求めていたのは、信長と戦う先祖門徒の活躍する英雄譚だったのです。そのために、「明智軍記』『陰徳太平記』など一般読者を対象とする軍記物に「鷺森合戦」が取り入れられるようになります。この過程で、本願寺門徒は言うに及ばず、世間的にも「本願寺に敵対的な信長像」が定着したと研究者は考えています。こうして、本山側が門徒に行う説教にも「信長=仏教破壊者・本願寺の敵」として流布されるようになり、唱導本にこの文脈で石山合戦譚が取り入れられます。こうして「本願寺潰滅を期す信長」という信長像は、東西本願寺の論戦を離れて一人歩きするようになります。両本願寺の門徒集団の中で「石山合戦は、法敵信長と篤信で本山に忠義な門徒との合戦物語」として語り継がれるようになります。
 軍記物に、篤信門徒の武装蜂起として「一向一揆」の言葉が登場するのは、18世紀になってからです。
こうして一向一揆像は、戦後歴史学でも十分な検討なしに受容されていきます。民衆の宗教運動である一向一揆の蜂起と、天下人・織田信長による圧殺という筋書は、こうして通説化します。信長の実像は、近世に伝えられた虚像のむこうにあります。その全貌はなかなか見えてこないようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
一向一揆の特質 躍動する中世仏教310P

 江戸時代の高松御坊と塩屋御坊は、つぎのような関係にありました。     
①高松御坊(高松藩)は、興正寺末の勝法寺が管理
②塩屋御坊(丸亀藩)は、西本願寺直轄で本山の輪番寺が管理
西本願寺と興正寺の間には、本末関係にありながら根深い対立があったことは以前にお話ししました。西本願寺は興正寺を自派の末寺と考えていたのに対して、興正寺は自ら本山と称していました。このような両者の対立は、明暦元年(1655)4月には、幕府によって興正寺19世准秀が越後へ流罪となるような事態も生みました。それでも興正寺は、別派を立てる運動をやめません。そのため興正寺別院の高松御坊(勝法寺)も、西本願寺に素直に従おうとはしなかったようです。高松御坊にすれば、三好実休以来の伝統があり、最近出来たばかりの丸亀の塩屋別院とは歴史も格もちがうという自負心もありました。それを高松藩が応援します。

高松藩藩祖の松平頼重は、興正寺との間に次のような姻戚関係がありました。
①興正寺18世准尊の娘良子が父頼房の側室に上がっていたこと、
②自分の娘万姫が20世良尊円超の養女となり、三男で21世を継いだ寂眠の室となったこと
このため興正寺や勝法寺を保護し、西本願寺との争いでも興正寺方に強く肩入れします。高松御坊からすれば、西本願寺のもとで新たに設置された丸亀藩の塩屋御坊は、自派に対しての切り崩し拠点のように見えたのかも知れません。そのため対抗的な姿勢を示します。それを高松藩も支援するという空気が生まれていきます。そのギクシャクした関係を見ておきましょう。

享保19(1734)年に、教法寺の住職が追放され、西本願寺の別院となったことは以前にお話ししました。
その際に、西本願寺は、御坊御請の御礼に高松に戒忍寺住職を派遣しています。彼は、高松藩へのあいさつを終わると、6月8日には高松勝法寺(高松御坊)へ出向いて塩屋御坊のことをよろしくおねがいしますと挨拶を済ませています。それ以前の6月5日付で、西本願寺からも高松の勝法寺へ次のような挨拶状が送られています。
一筆中さしめ候……然らば其の国丸亀領塩屋村教法寺儀、四年以来御本山え願い置かれ候処、今度、御領主え仰せ入れられ御許容の上 御坊に 仰せ付られ候間、万端御坊輪呑示し合さるべく候、触等の儀は在来の通りに候間、その意を得らるべく侯、不宣
六月五日                三人
高松 勝法寺
追啓 法中え 仰せ渡されの御使僧として戒忍寺御差下候間、左様心得らるべく候、以上
  意訳変換しておくと
一筆啓上奉り候……讃岐国丸亀領塩屋村教法寺について、先年以来、本山に対して別院化の願いがあった。そこで、丸亀藩主に願いでたところ許可が下りたので、正式に塩屋別院(御坊)とすることが認められ。ついては、万事について塩屋別院と協議しすること。なお、触頭等については従来の通りに行われるように、取り計らうように依頼する。不宣
六月五日            三人
高松 勝法寺
追伸 法中への仰せ渡しの使僧として戒忍寺を派遣して、以上のようなことを伝えたと、心得えていただきたい。以上

しかし、その後の経過を見ると、西本願寺が期待したようには、勝法寺と御坊輪番寺との関係はうまくいかなかったようです。
讃岐の真宗興正派の寺からは、丸亀藩の塩屋別院は西本願寺の讃岐への教勢拡大の拠点として設置された寺院で、自分たちの勢力圏に打ち込まれた布石とみられていたような気配がします。そのため塩屋御坊の活動については、非協力的な態度で臨みます。例えば塩屋御坊ができて4年後の元文2年(1737)には、次のような事件が起きています。
本願寺から御影が届きました | 浄泉寺
祖師(親鸞)御影
この年5月、塩屋別院に祖師御影が下付され、6月21日から28日まで開帳が行われることになります。そこで、開帳セレモニーへの参加を、讃岐の真宗寺院に呼びかけるために、塩屋別院の当時の輪番寺・弘願寺は「御遷座の節、法中・門中参詣の義」の触れ(通知)を出します。
 これに対して、丸亀城下の正玄寺(西本願寺末)から異議が出されます。それは高松藩の触頭寺は、高松御坊(勝法寺)であるので、その触れ(通知・指図)がなくては参詣できないと断ってきたのです。困った弘願寺は、西本願寺に経過報告するとともに、対処方を相談しています。これに対して西本願寺は、次のように答えています。

……是迄も御触・連署差し下し候節は、惣法中の触は正(勝)法寺え向け添状遣し正法寺より相触れ候、其御坊えは格別に別紙を以て御触の趣申し遣し候事に候、此度の儀も共の元より正法寺え向け連署相渡され正法寺より相触させ候えば、初発より御定の通りに相違致さずと中ものに候、其の元より直に触れられ候故、其の御坊の触下の様にも成るべきかと正法寺よりもこばみ候ものと推察せしめ候……

  意訳変換しておくと
 これまでも本山からの御触・連署を差し下す時には、真宗寺院の触頭寺である高松の正(勝)法寺へ送付し、それを正法寺から讃岐の各真宗寺院へと相触(連絡)するという方法をとってきた。これについては、以前に別紙で「触等の儀は在来(従来)の通り」と高松御坊(勝法寺)に伝えている。
 この度の件については、勝法寺へ連署を渡たし、勝法寺から相触(連絡)させれば、問題は起きなかったはずである。それが勝法寺を通さずに、丸亀別院(輪番寺弘願寺)から直接に、各寺委員への連絡通知をだしたことが、勝法寺の機嫌を損ねたのだろうと推察する…。
ここからは高松領、九亀領ともに真宗寺院への触れは高松の勝法寺から触れるのが筋道だと西本願寺でも承知していたことが分かります。それを守らなかった輪番の弘願寺に落ち度があるとも云わんばかりの内容です。これが慣例なのかもしれませんが、丸亀藩における連絡網としては、機能不全です。丸亀御坊が丸亀藩の真宗寺院に触れを出す場合にも、その都度高松御坊に依頼して出さなくてはならないということになります。これは、不便ですし、何より屈辱的です。

塩屋別院3
塩屋御坊(讃岐国名勝図会) 現在の本堂は安永4年のもの
安永4年(1775)の丸亀御坊の本堂上棟の時のことです。
30年余りの工期の末に、立派な本堂が完成します。その御書請待(セレモニーへの参加依頼書)が、藩主には西本願寺門主からの御書が、丸亀藩家老ヘは本山坊官からの連署が下されます。これに対して、興正寺末の金倉円龍寺と津森光善寺は「先例に従わないもの」と不承知の意思表明をします。そこで、丸亀御坊の当時の輪番寺だった善行寺は、丸亀藩の寺社役・安達覚左衛間、安藤貞右衛門、明石六太夫へ掛け合って、寺社役名で、門主の御書を受け取るように領内の末寺へ申し渡します。これは「特別措置」なのでお礼として、西本願寺は門跡から丸亀藩主に薫物と肴、家老と寺社役へは本山からそれぞれ羽二重と肴、加賀絹と肴が贈られています。「お手数をおかけしました」というお礼とお詫びの意味が込められていたのでしょう。
 しかし、西本願寺のこのような動きに対して、興正寺も黙っていません。
使僧桃源寺を丸亀に派遣して、これを先例としないように立ち働いたようです。その結果、翌(1777)年になって興正寺末の寺々からは不承知の旨が藩に対して出されます。藩では、それをも聞き入れて御書聴写猶予の触れを出しています。この当たりには、丸亀藩の高松藩に対する配慮ぶりがうかがえるように見えます。
 これに対して西本願寺はからは、次のような不満の書状が丸亀藩に送られてきます。
「……塩屋村掛所再建労に付き、御領中の末寺・門徒ども弥増しに法義相続候様に相示され候儀にて、 一国中におよひ候儀にて御座無く候故、寺法に差間と申す筋にては御座無く候……」

意訳変換しておくと

「……塩屋村掛所(御坊)の本堂再建の落慶法要について、御領中の末寺・門徒に対して法義に基づいて、通達連絡を行おうとしました。これについては讃岐一国のことではなく、丸亀藩内だけに関わることです。(どうして高松の勝法寺を通す必要があるのでしょうか。) 寺法を乱すものだという批判は、的外れです。」

しかし、丸亀藩の意向を変えることはできません。
このように京都の本山同士の争いが続いている間は、興正寺末の勝法寺やその他の諸院と塩屋御坊との関係は、決して円滑な者ではなく、ぎくしゃくとした関係だったようです。

以上をまとめておくと
①塩屋別院(御坊)は、もともとは赤穂からやって来た製塩集団を門徒たち建立した西本願寺を本寺とする寺だった。
②それが18世紀前半に、住職と門徒集団の争いで住職が追放され、西本願寺直属の御坊となっり、本山の僧侶が輪番で管理運営するようになった。
③しかし、讃岐の真宗寺院の触頭寺・勝法寺(高松御坊)からすると、宗派も異なり自分のテリトリーを犯す存在と写ったのか、反目が絶えなかった。
④こうして西本願寺別院としての塩屋御坊は、多数派の真宗興正派寺院からは冷たい眼で見られた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  まんのう町の「ことなみ道の駅」から県境の三頭トンネルを抜けて、つづら折りの国道438号を下りていったところが美馬町郡里(こおさと)です。「郡里」は、古代の「美馬王国」があったところとされ、後に三野郡の郡衙が置かれていたとされます。そのため「郡里」という地名が残ったようです。「道の駅みまの家」の南側には、古代寺院の郡里廃寺跡が発掘調査されていて、以前に紹介しました。

郡里廃寺跡 クチコミ・アクセス・営業時間|吉野川・阿波・脇町【フォートラベル】
郡里廃寺跡

この附近は讃岐山脈からの谷川が運んできた扇状地の上に位置し、水の便がよく古くから開けていきた所です。美馬より西の吉野川流域は、古代から讃岐産の塩が運び込まれていきました。その塩の道の阿波側の受け取り拠点でもあった美馬は、丸亀平野の古代勢力と「文化+産業+商業」などで密接な交流をおこなています。例えば、まんのう町の弘安寺跡から出土した白鳳期の古代瓦と同笵の瓦が郡里廃寺から見つかっています。讃岐山脈の北と南では、峠を越えた交流が鉄道や国道が整備されるまで続きました。

美馬市探訪 ⑥ 郡里廃寺跡 願勝寺 | 福山だより
郡里廃寺跡南側の寺町の伽藍群

 郡里廃寺の南側には、寺町とよばれるエリアがあって大きな伽藍がいくつも建っています。
それも地方では珍しい大型の伽藍群です。最初、このエリアを訪れた時には、どうしてこんな大きな寺が密集しているのだろうかと不思議に思いました。今回は郡里寺町に、大きなお寺が集まっている理由を見ていくことにします。その際に「想像・妄想力」を膨らましますので「小説的内容」となるかもしれません。
 地域社会と真宗 千葉乗隆著作集(千葉乗隆) / 光輪社 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」です。千葉氏は、郡里の安楽寺の住職を務める一方で、龍谷大学学長もつとめた真宗研究家でもあります。彼が自分の寺の「安楽寺文書」を整理し、郡里村の寺院形成史として書いたのがこの論文になります。
安楽寺3
河岸台地の上にある安楽寺と寺町の伽藍群
 寺町は扇状地である吉野川の河岸段丘の上に位置します。
安楽寺の南側は、今は水田が拡がりますが、かつては吉野川の氾濫原で川船の港があったようです。平田船の寄港地として栄える川港の管理センターとして寺は機能していたことが考えられます。
 この寺町台地に中世にあった寺は、真宗の安楽寺と真言宗の願勝寺の2つです。
寺町 - 願勝寺 - 【美馬市】観光サイト
願勝寺
願勝寺は、真言系修験者の寺院で阿波と讃岐の国境上にある大滝山の修験者たちの拠点として、大きな力を持っていたようです。天正年間(1575頃)の日蓮宗と真言宗の衝突である阿波法幸騒動の時には、真言宗側のリーダーとして活躍したとする文書が残されています。願勝寺は、阿波の真言宗修験者たちのの有力拠点だったことを押さえておきます。

安楽寺歴史1
安楽寺の寺歴
 安楽寺は、上総の千葉氏が阿波に亡命して開いたとされます。
千葉氏は鎌倉幕府内で北条氏との権力争いに敗れて、親族の阿波守護を頼って亡命してきた寺伝には記されています。上総で真宗に改宗していた千葉氏は、天台宗の寺を与えられ、それを真宗に換えて住職となったというのです。とすれば安楽寺は、かつては、天台宗の寺院だったということになります。それを裏付けるのが境内の西北隅に今も残る宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠です。中世には、天台・真言のお寺がひとつずつ、ここに立っていたことを押さえておきます。
 その内の天台宗寺院が千葉氏によって、真宗に改宗されます。
寺伝には千葉氏は、阿波亡命前に、親鸞の高弟の下で真宗門徒になっていたとしますので、もともとは真宗興正派ではなかったようです。そして、南無阿弥陀仏を唱える信者を増やして行くことになります。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
安楽寺の末寺分表

 安楽寺の末寺分布図を見ると、阿波では吉野川流域に限定されていること、吉野川よりも南の地域には、ほとんど末寺はないことが分かります。ここからは、当時の安楽寺が吉野川の河川交通に関わる集団を門徒化して、彼らよって各地に道場が開かれ、寺院に発展していったことが推測できます。
宝壷山 願勝寺 « 宝壷山 願勝寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

念仏道場が吉野川沿いの川港を中心に広がっていくのを、願勝寺の真言系修験者たちは、どのような目で見ていたのでしょうか。
親鸞や蓮如が、比叡山の山法師たちから受けた迫害を思い出します。安楽寺のそばには真言系修験者の拠点・願勝寺があるのです。このふたつの新旧寺院が、初めから友好的関係だったとは思えません。願勝寺を拠点とする修験者たちは、後に阿波法華騒動を引き起こしている集団なのです。黙って見ていたとは、とてもおもえません。ある日、徒党を組んで安楽寺を襲い、焼き討ちしたのではないでしょうか?
  寺の歴史には次のように記されています。

永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」

 ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜいままでの所に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか? その原因のひとつとして願勝寺との対立があったと私は考えています。

安楽寺文書
「三好千熊丸諸役免許状」(安楽寺)
  安楽寺の危機を救ったのが興正寺でした。
それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」には次のように記します。(意訳)
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える

この免許状の要点を挙げると
①「興正寺殿からの口添えがあり」とあり、調停工作を行ったのは興正寺であること
②内容は「帰還許可+諸役免除+安全保障」を三好氏が安楽寺に保証するものであること。
③「違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える」からは、安楽寺に危害を加える集団がいたことを暗示する
この「免許状」は、安楽寺にとっては大きな意味を持ちます。拡大解釈すると安楽寺は、三好氏支配下における「布教活動の自由」を得たことになります。吉野川流域はもちろんのこと、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えると云うことになります。安楽寺が讃岐と吉野川流域に数多くの末寺を、もつのはこの時期に安楽寺によって、数多くの念仏道場が開かれたからだと私は考えています。
 そして、安楽寺は調停を行ってくれた興正寺の門下に入っていったと私は考えています。
それまでの安楽寺の本寺については、本願寺か仏国寺のどちらかだと思います。安楽寺文書には、この時期の住職が仏国寺門主から得度を受けているので、その門下にあったことも考えられます。どちらにしても、最初から興正寺に属していたのではないような気がします。
 こうして、三好氏の讃岐支配の拡大と歩調を合わせるように安楽寺の教線ラインは伸びていきます。
まんのう町への具体的な教線ラインは、三頭・真鈴峠を越えて、勝浦の長善寺、長炭の尊光寺というラインが考えられます。このライン上のソラの集落に念仏道場が開かれ、安楽寺から念仏僧侶が通ってきます。それらの道場が統合されて、惣道場へと発展します。それが本願寺の東西分裂にともなう教勢拡大競争の一環として、所属寺院の数を増やすことが求められるようになります。その結果、西本願寺は惣道場に寺号を与え、寺院に昇格させていくのです。そのため讃岐の真宗寺院では、この時期に寺号を得て、木仏が下付された所が多いことは、以前にお話ししました。少し、話が当初の予定から逸れていったようです。もとに戻って、郡里にある真宗寺院を見ていくことにします。
近世末から寺町には、次のように安楽寺の子院が開かれていきます。
文禄 4年(1595)常念寺が安楽寺の子院として建立
慶長14年(1609) 西教寺が安楽寺の子院として建立
延宝年間(1675) 林照寺が西教寺の末寺として創立、
     賢念寺・立光寺・専行寺が安楽寺の寺中として創建
こうして郡里村には、真言宗1か寺、浄上真宗7か寺、合計8か寺の寺院が建ち並ぶことになり、現在の寺町の原型が出来上がります。

 安楽寺が讃岐各地に末寺を開き、周辺には子院を分立できた背後には、大きな門徒集団があったこと、そして門徒集団の中心は安楽寺周辺に置かれていたことが推測できます。どちらにしても、江戸時代になって宗門改制度による宗旨判別が行われるまでには、郡里にはかなりの真宗門徒が集中していたはずです。それは寺内町的なものを形作っていたかもしれません。郡里村の真宗門徒が、全住民の7割を占めるというというのは、その門徒集団の存在が背景にあったと研究者は考えています。
宗門改めの際に、郡里村の村人は宗旨人別をどのように決めたのでしょうか。つまり、どの家がどの寺につくのかをどう決めたのかを見ていくことにします。

寺町 - 常念寺 - 【美馬市】観光サイト
安楽寺から分院された常念寺(美馬市郡里)
「安楽寺文書」には、次のように記します。

常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」

意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」

ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家六百軒を分与されたことが分かります。先ほど見たように、安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。それから200年余りは無檀家の寺中あつかいだったことが分かります。
美馬町寺町の林照寺菊花展 - にし阿波暮らし「四国徳島の西の方」
林照寺
西教寺の末寺として創建された林照寺も当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです。それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。
②その後、安楽寺の子院が創建されると、その都度門徒は西教・常念・林照の各寺に分割された
こうして、岡の上に安楽寺を中心とする真宗の寺院数ヶ寺が姿を見せるようになったようです。
 以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧数多くの末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院をいくつも周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」
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安楽寺文書
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)
 真宗の四国への教線拡大を考える際の一番古い史料は、永正十七年(1520)の三好千熊丸(元長または 長慶)が安楽寺に対して、亡命先の讃岐財田から特権と安全を保証するから帰ってくるようにと伝えた召還状(免許状)です。これが真宗が四国に根付いていたことをしめすもっとも古い確実な史料のようです。
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その次は「天文日記」になります。これは本願寺第十世證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けた日記です。『天文日記』に出てくる四国の寺院名は、讃岐高松の福善寺だけです。ここには16世紀前半には、讃岐高松の福善寺が本願寺の当番に出仕していたこと、その保護者が香西氏であったことが書かれています。
その他に讃岐の有力な真宗寺院としては、どんな寺院があったのでしょうか?
幻の京都大仏】方広寺2021年京の冬の旅 特別拝観の内容と御朱印 | 京都に10年住んでみた
秀吉が建立した京都方広寺の大仏殿
天正14(1586)年、秀吉は当時焼失していた奈良の大仏に代わる大仏を京都東山山麓に建立することにします。高さ六丈三尺(約19m)の木製金漆塗坐像大仏を造営し、これを安置する壮大な大仏殿を、文禄4(1595)年頃に完成させます。大仏殿の境内は,現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の3か所を含む広大なもので,洛中洛外図屏風に描かれています。現存する石垣から南北約260m,東西210mの規模でした。モニュメント建設の大好きな秀吉は、この落慶法要のために宗派を超えた全国の僧侶を招集します。浄土真宗の本山である本願寺にも、声がかかります。そこで本願寺は各地域の中本寺に招集通知を送ります。それが阿波安楽寺に残されています。大仏殿落慶法要参加のための本願寺廻状で、その宛名に次のような7つの寺院名が挙げられます。

阿波国安楽寺
讃岐国福善寺・福成寺・願誓寺・西光寺・正西坊、□坊

阿波では、真宗寺院のほとんどが安楽寺の末寺だったので、参加招集は本寺の安楽寺だけです。以下は讃岐の真宗寺院です。これらの寺が、各地域の中心的存在だったことが推測できます。ただ、常光寺(三木)や安養寺などの拠点寺院の名前がありません。安養寺は安楽寺門下ために除外されたのかもしれません。しかし、常光寺がない理由はよくわかりません。また、「正西坊、□坊」などは、寺号を持たない坊名のままです。
 この七か寺中について「讃岐国福成寺文書」には、次のように記されています。
当寺之儀者、往古より占跡二而、御目見ハ勝法寺次下に而、年頭御礼申上候処、近年、高松安養寺・宇多津西光寺、御堀近二仰付候以来、其次下座席仕候

意訳変換しておくと
当寺(福成寺)については、古くから古跡で、御目見順位は勝法寺(高松御坊)の次で、年頭御礼申上の席次は、近年は高松安養寺・宇多津西光寺に次いで、御堀に近いところが割り当てられています。

ここからは江戸時代には、讃岐国高松領内の真宗寺院の序列は、勝法寺(高松御坊)・安養寺(高松)・西光寺(宇多津)・福成寺という順になっていたことが分かります。先ほど見た安養寺文書の廻状に、福成寺・西光寺の寺名があります。ここからも廻状宛名の寺は、中世末期までに成立していた四国の代表的有力寺院であったことが裏付けられます。今回は、これらの寺の創建事情などを見ていくことにします。テキストは、千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」です。

千葉乗隆著作集 全5巻(法蔵館) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

まず宇多津の西光寺です。この寺の創建について「西光寺縁起」には、次のように記します。
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。

意訳変換しておくと
天文八年十一月、向専法師が、本尊の奇特を感じて西光寺を創建した。向専の父は進藤山城守で其手長兵衛尉宣絞という。子細あって、大谷の本願寺で、発心出家し、本願寺十代証知の弟子となり、法名向専を賜った。

ここには、天文年間に大和国の進藤宣政が本願寺証如の下で出家し、宇多津に渡り、西光寺を創始したと伝えます。これを裏付ける史料は次の通りです。
①『天文日記』の天文20年(1551)3月13日の条に「進藤山城守今日辰刻死去之由、後聞之」とあり、西光寺の開基専念の父進藤山城守は本願寺証如と関係があったことが分かる。
②西光寺には向専法師が下賜されたという証如の花押のある『御文章』が保存されている
③永禄十年(1567)6月に、三好氏の重臣で阿讃両国の実力者篠原右京進より発せられた制札が現存している。
以上から、「西光寺縁起」に伝える同寺の天文年間の創立は間違いないと研究者は判断します。
③の西光寺に下された篠原右京進の制札を見ておきましょう。
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
西光寺ではなく「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」とあります。鍋屋というのは地名です。その付近に最初に「念仏道場」が開かれたようです。それが元亀2年(1571)に篠原右京進の子、篠原大和守長重からの制札には、「宇足津西光寺道場」となっています。この間に寺号を得て、西光寺と称するようになったようです。

宇多津 讃岐国名勝図会2
宇多津の真宗寺院・西光寺(讃岐国名勝図会 幕末)
 中世の宇多津は、兵庫北関入船納帳に記録が残るように讃岐の中で通関船が最も多い港湾都市でした。そのため「都市化」が進み、海運業者・船乗や製塩従事者・漁民などのに従事する人々が数多く生活していました。特に、海運業に関わる門徒比率が高かったようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちでした。

6宇多津2135
中世の宇多津復元図 
西光寺は大束川沿いの「船着場」あたりに姿を現す。
 西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。それが「鍋屋道場」の名前になったと推測できます。どちらにしても手工業に従事する人々が、住んでいた中に道場が開かれたようです。それが宇多津の山の上に並ぶ旧仏教の寺院との違いでもあります。
東本願寺末寺 高松藩内一覧
17世紀末の高松藩の東本願寺末寺一覧
つぎに高松の福善寺について見ておきましょう。
福善寺という名前については、余り聞き覚えがありません。 上の一覧表を見ると、福善寺は7つの末寺を持つ東本願寺の有力末寺だったことが分かります。そして、この寺は最初に紹介したように讃岐の寺院としては唯一「天文日記」に登場します。天文12(1543)5月10日条に、次のように記されています。 
「就当番之儀、讃岐国福善寺、以上洛之次、今一番計勤之、非向後儀、樽持参

ここには「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあり、福善寺が本願寺へ樽を当番として持参していたことが記されています。本願寺の末寺となっていたのです。これが根本史料で讃岐での真宗寺院の存在を証明できる初見となるようです。
 この寺の創立事情について『讃州府志』には、次のように記されています。
昔、甲州小比賀村二在り、大永年中、沙門正了、当国二来り坂田郷二一宇建立(今福喜寺屋敷卜云)文禄三年、生駒近矩、寺ヲ束浜二移ス、後、寛永十六年九月、寺ヲ今ノ地二移ス、末寺六箇所西讃二在り、円重寺、安楽寺、同寺中二在リ

意訳変換しておくと
福善寺は、もともとは甲州の小比賀村にあった。それを大永年中に沙門正了が、讃岐にやってきて坂田郷に一宇を建立した。今は福喜寺屋敷と呼ばれている。文禄三年、生駒近矩が、この寺を東浜に移した。その後、寛永16年9月に、現在地にやってきた。末寺六箇寺ほど西讃にある。また円重寺、安楽寺が、同寺中にある。

ここにはこの寺の創建は、大永年中(1521~28)に、甲斐からやってきた僧侶によって開かれたとされています。

高松寺町 福善寺
高松寺町の真宗寺院・福善寺(讃岐国名勝図会)

それでは、福善寺のパトロンは誰だったのでしょうか?
天文日記の同年7月22日は、次のような記事があります。
「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」

ここには、讃岐の香西神五郎が始めて本願寺を訪れたとあります。香西一族の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたようです。つまり、16世紀中頃には、讃岐の武士団の中に真宗に改宗する武士集団が現れ、本願寺と結びつきを深めていく者も出てきたことが分かります。
三好長慶政権を支える弟たち
天下人の三好長慶を支える弟たち
どうして、香西氏は本願寺の間に結びつきができたのでしょうか?
 当時、讃岐は阿波三好氏の支配下にありました。そして、三好長慶は「天下人」として畿内を制圧しています。長慶を支えるために、本国である阿波から武士団が動員され送り込まれます。これに、三好一族の十河氏も加わります。十河氏に従うようになった香西氏も、従軍して畿内に駐屯するようになります。三好氏の拠点としたのは堺です。堺には本願寺や興正寺の拠点寺院がありました。こうして三好氏や篠原氏に従軍していく中で、本願寺に連れて行かれ、そこで真宗に改宗する讃岐武士団が出てきたと推測できます。

西本願寺末寺(仲郡)
願成寺は丸亀平野の農村部にある。

丸亀市郡家の願誓寺は、文安年中(1444~49)に蓮秀によって開かれたとされます。
周辺部には、阿波の安楽寺や氷上村の常光寺の末寺が多い中で、買田池周辺の3つの寺院は西本願寺を本寺としてきました。周辺の真宗寺院とは、創建過程がことなることがうかがえます。しかし、史料がなくて、今のところ皆目見当がつきません。

西本願寺本末関係
高松領内における西本願寺の末寺一覧(17世紀末)
20番が願誓寺で、末寺をもつ。



福成寺は天正末年(1590)に、幡多惣左衛門正家によって栗熊村に創立されたと伝えられます。
この寺も丸亀市垂水町の願誓寺とおなじで、丸亀平野の農村地帯にあります。眼下に水橋池が広がり、その向こうに讃岐山脈に続く山脈が伸びています。境内には寒桜が植えられていて、それを楽しみに訪ねる人も増えているようです。丸亀平野の終わりになる岡の上に伽藍が築かれています。農民の間にも、真宗の教線が伸びてきたことがうかがえます。しかし、その成立過程についてはよくわかりません。

 福成寺
   
以上、廻状宛名の讃岐国六か寺のうち四か寺についてみてきました。残りの正西坊と坊名不明の二か寺については、どこにあったのか分かりません。
ただ、正西坊については、伊予松山の浄念寺ではないかと研究者は考えています。
浄念寺はもともとは三河国岡崎にあった長福院と称する真言宗の寺でした。それが長享年間(1487―89)に、蓮如に帰依して真宗に転じます。そして永禄年間(1558~70)の二代願正のときに、伊予道後に来て道場を開きます。天正14(1586)年、3代正西のときに、本願寺から木仏下付を受けています。讃岐国では所在不明の正西坊は、この伊予国道後の正西坊だと研究者は推測します。その後、慶長年間に松山に移建したといわれています。
以上をまとめておくと
①真宗教団は四国東部の阿波・讃岐両国、とくに讃岐でその教線を伸ばした。
②その背景としては、臨済・曹洞の両教団が阿波、伊予ではすでにその教圏を確立していて、入り込む隙がなかったこと
③それに対して讃岐や土佐はは鎌倉仏教の浸透が遅く未開拓地であったこと。
④それが真宗教団の教線伸張の方向を讃岐・土佐佐方面に向けさせたこと
⑤四国における真宗教団の最初の橋頭堡は、阿波国郡里(美馬)の真宗興正派の安楽寺だったこと
⑤安楽寺は三好氏の保護を受けて、讃岐に教線を伸ばし有力な末寺を建てて、道場を増やしたこと⑦それが安楽寺の讃岐進出の原動力となったこと。
⑧讃岐には、三好氏や篠原氏に従軍して出向いた堺で、真宗に改宗し、菩提寺を建てるものも出てきたこと
⑨宇多津の西光寺のように、海上交易センターとして海運業者などの門徒によって建立される寺も現れたこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」
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流刑先の小松庄・生福寺(まんのう町)法然の説法
        
浄土宗が四国に伝わるのは、承元元年(1207)に開祖源空(法然)が流罪先として讃岐に流されたときとされます。この時に、門下の幸西も阿波に流されていますが、彼の動向についてはまったく分からないようです。その後、幸西は嘉禄の法難(1327)によって、再び四国伊予に流されます。法然の讃岐流刑が、さぬきでの浄土宗布教のきっかけとする説もありますが、研究者はこれを「俗説」と一蹴します。例えば法然の「讃岐流刑」の滞在期間は、春にやってきて秋には流罪を許されて、讃岐を去っています。半年にも及ばない滞在期間です。「源空や幸西の流刑による来国は、浄土宗の流布という点では大した期待はもてない。」と研究者は考えているようです。

九品寺流長西教義の研究(石橋誡道 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

法然門下の九品寺流の祖・長西(
元暦元年(1184年) - 文永3年1月6日1266年2月12日は、伊予守藤原国明の子でした。

讃岐国で生まれ9歳のときに上洛し、19歳で出家して法然に師事します。京都九品寺を拠点にしたことから、九品寺流と呼ばれます。その教えは「念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願であり、諸行でも極楽往生は可能」というもので「諸行本願義」とも呼ばれるようです。長西は建長年間(1249~56)に、讃岐に西三谷寺を開いて教化につとめたとされます。しかし、それも短期間のことで、すぐに洛北の九品寺に移っています。その後、四国では浄土宗を伝道する者が現れません。「法然流刑を契機に浄土宗が讃岐に拡がった」という状況を、残された史料からは裏付けることはできないと研究者は指摘します。

4344102-55郷照寺

宇多津の時衆・郷照寺(讃岐国名勝図会)
 浄土宗の流れを汲む一遍の時衆は郷照寺などに、その痕跡を見ることができます。郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は

「おどりは(跳)ね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

で、一遍の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には、郷照寺が時宗の影響下にあったことを示す史料ともなります。
 滝宮念仏踊りの由来の中にも、「法然が伝えた念仏踊り」と書かれたものもりますが、実際には時衆の念仏踊りの系譜を引くものだと香川叢書は指摘しています。時衆のもたらした影響力は、讃岐の中に色濃く残っているはずなのですが、それを史料で裏付けることは今のところ出来ないようです。しかし、風流踊りの念仏系踊りにおおきな影響を与えているのは、法然ではなくて時衆門徒たちのようです。彼らによって、讃岐でも踊り念仏は拡げられたと研究者は考えています。それが、後世に法然の方に「接ぎ木」され換えたようです。

253 勝瑞城 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の居城 勝瑞

 戦国時代になって細川氏に代わって阿波の主導権を握ったのが三好氏です。三好氏の居城勝瑞でも、時衆が一時流行したことが「昔阿波物語」に次のように記されています。

昔阿波物語 | 日本古典籍データセット
昔阿波物語
勝瑞にちんせい宗と申て、門にかねをたゝき、歌念仏なと申寺を常知寺と申候、京の百万遍の御下り候て、談議を御とき候、その談議の様子ハ、浄土宗ハ南あミた仏ととなへ申候ヘハ、極楽へむかへとられ候か、禅宗真言宗ハなにとヽなへて仏になり候哉と御とき候て、地獄の絵をかけて見せ申候、……又極楽の体ハ、いかにもけつかうなる堂に、うちに仏には金仏にして見事也、念仏中ものハ、此ことくの仏になり、さむき事もあつき事もなく候と御とき候二付、勝瑞之町人ハ、皆浄宗になり申候、此時、禅宗真言宗ハたんなを被取めいわく……

意訳変換しておくと
勝瑞ではちんせい宗と呼ばれる宗派が、門で鉦をたたいて、歌念仏などを唱え、常知寺と称した。そして京の百万遍からやってきた僧侶が、説法を行った。その説法の様子は、浄土宗は南無阿弥陀仏と唱えて、極楽へ向かうが、禅宗真言宗は何を唱えて仏になるというのだろうかと説くことからはじまり、地獄の絵を掛けて見せた……又極楽の様子は、いかにも素晴らしい堂が描かれ、その内側には見事な金仏が描かれている。念仏するものは、このように総てが仏であり、寒さ暑さもない常春の楽園であると説く。これを聞いた勝瑞の町人は、皆浄土宗になったという。この時には、禅宗や真言宗は、大きな被害を受け迷惑な……

ここには、京の百万遍からやって来た僧侶によって、時衆が勝瑞を中心に信徒を増やし、一時は禅宗や真言宗を駆逐するほどの勢いであったことが記されています。ところがやがて「少心有町人不審仕候」とその教義に疑問を持つ町人も出てきて人々の信仰心が揺らぎます。その時に、きちんと説明・指導できる僧がいなかったようで、

「皆前々の如く禅宗真言宗になりかへり候二付、浄地寺と申寺一ヶ寺ハかりにて御座候なり」

時衆信徒の多くは、再び禅宗や真言宗にもどって、時衆のお寺は浄地寺ひとつになってしまったと記します。ここからは浄土宗は、四国において、その伝道布教等に人材を得ず、また領主・武士等の有力なパトロンを獲得することができず、大きな発展が見られなかったと研究者は考えているようです。
1 本門寺 御会式
本門寺 西遷御家人の秋山泰忠が建立
日蓮宗はどうだったのでしょうか。
東国からやって来た西遷御家人の秋山泰忠が、讃岐国三野郡高瀬郷に本門寺を開いたことは以前にお話ししました。泰忠は、讃岐にやって来る以前から日蓮門徒でした。高瀬郷での経営が安定すると、正応2年(1289)日興の弟子日華を招いて、領内郷田村に本門寺を造営します。これが西日本での日蓮宗寺院の初見になるようです。この寺は秋山一族をパトロンに、「皆法華」を目指して周辺に信徒を拡大していきます。今でも三野町は、法華宗信徒の比重が高いうようです。

もうひとつの法華宗の教宣ルートは、瀬戸内航路を利用した北四国各港への布教活動です。
本興寺(兵庫県尼崎市) クチコミ・アクセス・営業時間|尼崎【フォートラベル】
尼崎の本興寺
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
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宇多津の本妙寺に立つ日隆像
日蓮死後、ちょうど百年後に生まれたのが日隆で、日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出し、その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。そして、次のような港湾都市に寺院が建立していきます。大阪湾岸の拠点港としては
材木の集積地であった尼崎
奈良の外港としての堺
勘合貿易の出発地である兵庫津
また讃岐の細川氏守護所のあったる宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行っています。その結果、創建されるのが宇多津の本妙寺になります。

宇多津本妙寺
日隆によって開かれた日蓮宗の本妙寺(宇多津)
細川氏・三好氏政権を「環大阪湾政権」と呼ぶ研究者もいます。
その最重要戦略が大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っていて、人とモノとカネが行き来する最重要拠点になります。それを支配下に入れていく際に、三好長慶が結んだ相手が法華宗の日華だったことになります。長慶は、法華信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗の寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、堺や兵庫などの港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。
三好長慶】織田信長に先立つ日本最初の天下人 – 日本史あれこれ

天下人・三好長慶の勢力範囲=「環大阪湾政権」

 三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を、本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためとも考えられます。ただ、それだけではないでしょう。堺は、信長や謙信などの諸大名がやって来る「国際商業都市」で、そこに拠点をおいて自らの宗教的モニュメント寺院を建立することは、三好氏の勢威を広く示すことにもなったと研究者は考えているようです。
こうして「三好一家繁昌ノ折ヲ得テ、彼檀那寺法華宗アマリニ移り」と記すように、三好氏の保護を得て、法華宗は教勢を大いに伸ばします。

天正初年、天文法華の乱によって京都を追われた日蓮宗徒は、三好氏の政治拠点である堺を根拠地として、阿波に進出しはじめます。
番外編04 三好氏家系図 - 戦え!官兵衛くん。
そのころの阿波・讃岐は、三好長治の勢力下にありました。長治(ながはる)は伯父・三好長慶が「天下人」として畿内での支配力を強めなかで、本国阿波を預かる重要な役割を担っていました。しかし幼少のため、重臣の篠原長房が補佐します。また、長治は熱心な日蓮宗信者であり、日蓮宗勢力を積極的に支援します。こうした中で天正3年(1575) 堺の妙国寺等から多数の日蓮宗徒が阿波にやってきて、阿波国内すべてを日蓮宗に改宗させようとする「宗教改革」を開始します。これは当然に真言宗徒と対立を引き起こし、阿波法華騒動をひきおこします。
その経緯を「昔阿波物語」は、次のように記します。
 天正三年に、阿波一国の生少迄壱人も不残日蓮宗に御なし候て、法花経をいたヽかせ候時、上郡の瀧寺と申ハ、三好殿氏寺にて候、真言宗にて候、其坊主にも、法花経いたゝかせて、日蓮宗に御なし候、郡里の願勝寺も真言宗にて候を、日蓮宗になり候へと被仰候を、寺をあけて高野へ上り被申候、是をさりとてハ、出家に似相たる事と申て、諸人ほめ申候、此時堺より妙国寺・経上寺・酒しを寺三ヶ寺くたられ候、同宿余(数)多下り、北方南方手分して、侍衆百姓壱人も不残御経いたゝかせ被成候二付而、阿波禅宗・真言宗、旦那をとられ、迷惑に及ひ候二付而、阿波一国の真言宗山伏二千人、持明院へ集り、御そせう申上候様ハ、仏法の事に付て、国中を日蓮宗に被成候儀二候ハヽ、宗論を被仰付候様にと被申上

意訳変換しておくと
 天正三(1575)年に、阿波一国の老弱男女に至るまで残らず日蓮宗に改宗させ、法華経を頂く信徒に改宗させることになった。この時に上郡の瀧寺は、三好殿の氏寺で真言寺院であったが、その寺の坊主にも、法華経を読経する日蓮宗への改宗を迫った。郡里の願勝寺も真言宗であったが、日蓮宗を強制されて、寺をあげて高野山へ避難した。この行道について、人々は賞賛した。
 日蓮宗改宗のために堺から妙国寺・経上寺・酒しを寺の三ヶ寺の日蓮宗の僧侶達が数多く阿波にやってきて、北方南方に手分して、侍衆や百姓などひとりも残さずに法華経を授け、改宗を迫った。阿波禅宗・真言宗は、旦那をとられたために、阿波一国の真言宗山伏二千人が持明院へ集り示威行動を起こした。その上で「仏法の事について、阿波国中を日蓮宗に改宗させることの是非ついて、宗論を開いて公開議論をおこなうべきた」と御奏上書を提出した。

こうして開かれた宗論の結果、真言宗側の勝利となり、日蓮宗側は堺に引き退いたようです。
  先ほど見たように細川氏や三好氏は「環大阪湾政権」とも呼ばれ、海運のからみから堺の商人と繋がりが深く、町屋の宗派と言われた法華宗を大事にします。当時の法華宗は京で比叡山や一向宗とのトラブルで法難続きでした。そこで「畿内で失った教勢を、阿波で取り返そう」という動きがでてきます。これにたいして、阿波・讃岐の支配者である若い長治は、法華宗へ宗教統一することで、人々の宗教的な情熱をかき立て阿波の一体性を高めようとしたのかもしれません。しかし、これは現実を知らない机上の空論で、「家臣や民衆の心理から外れた蛮行」と後世の書は批判的に記します。
千葉乗隆著作集 全5巻揃(千葉乗隆 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

千葉乗隆氏は「地域社会と真宗406P」で、法華騒動の結果引き起こされた後世への影響を次のように記しています。

「法華騒動による真言宗徒の勢力回復の結果、阿波国内の日蓮教線はまったく壊滅し、真宗教団の展開もブレーキをかけられた。阿波を橋頭堡として展開しつつあった真宗の教線もその方向を讃岐および土佐の両国に転ぜざるを得なかった。そしてまた、すでに展開を終わっていた禅宗教団も転寺・廃寺が続出したことは前述の通りである。

しかし、法華騒動の評価については近年新たな考え方が示されるようになりました。
例えば、 『昔阿波物語』を書いた鬼嶋道智は、十河存保に仕えて、後に蜂須賀氏に登用された人物です。彼は、徳島藩家老からの要請でこの書を書いています。つまり、この書は三好氏一族の十河氏であった家臣が、その後、登用された蜂須賀氏に近い立場で書いた軍記ものということになります。そのため三好氏を否定的に評価することが多いようです。
 例えば三好長治については、その無軌道ぶりや「失政」に重点が置かれます。それが三好氏の滅びる原因となったという論法です。今の支配者(蜂須賀氏)の正統性を印象づけるために、その前の支配者(三好氏)を否定的に描くというスタイルになります。具体的には、長治の失政が三好氏滅亡を招いたという記述です。勝利した側が、敗者を批判・攻撃し、歴史上から葬り去ろうとする際に用いられてきた歴史叙述の手法です。
 そういう点を含んだ上でもう一度、『昔阿波物語』の「法華騒動」を見てみると、
①真言宗山伏3千人が気勢をあげ、争論の場を設けるように主張したことを
②根来寺から円正が招かれて宗論となったこと
③篠原自遁の仲裁で、真言宗の勝ちだが、「日蓮宗をやめると有事なく諸宗皆迷惑に及ひ候」と結果は曖昧なこと。
 ここには、激しい武力抗争があったとは書かれていません。武力衝突なしの争論で、その結果として敗れたとされる日蓮宗も併存することになったと解釈できます。つまり「真言宗側の有利に解決された」とは読めません。以上から「騒動」ほどのものではなかったと考える研究者も出てきています。阿波における禅宗や日蓮宗の衰退を、法華騒動にもとめる説は再考が求められているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天野忠幸編「阿波三好氏~天正の法華騒動と軍記の視線

塩屋別院3
丸亀の塩屋御坊(讃岐国名勝図会)

 丸亀市の塩屋町には、塩屋別院(御坊)という大きな伽藍をもつ真宗寺院があります。讃岐の真宗寺院の中では飛び抜けて大きい伽藍で気になる存在です。今は西本願寺の四国教区の教務所として、四国の末寺292ケ寺を束ねる役割を果たしているようです。今回は、この寺の創建と江戸時代の運用について見ていくことにします。テキストは、「堀家守彦 丸亀市寺院名鑑  1995年」 です。
丸亀の塩屋別院の位置 昔の地形図より
丸亀塩田のすぐそばに創建された教法寺(戦前の地図)

この寺は、もともとは教法寺として創建されました。

創建したのは、元和元年(1615)、播州赤穂からやってきた二十数人の製塩集団です。彼らは赤穂でいたときにすでに本願寺の門徒になっていました。塩屋村へ移り、塩浜を開いたときにすぐに念仏道場をひらきます。寛永20年(1643)12月には、本山の西本願寺から木仏・寺号を許され、教法寺と号するようになります。この寺は讃岐の農村部の真宗興正派の寺とは、その創建経過が異なります。塩職人を中心とする門徒集団(講)の発言権が強く、住職との間がギクシャクとした関係にあったようです。
 そんな中で享保16年(1731)正月、三代目住職知観が死去すると、その家族と門徒との間に争いが表面化します。これに対して丸亀藩は、本山・西本願寺の指示を仰ぐように命じます。本山の裁きは、寺を本山へ召し上げるというものでした。こうして住職は追放され、本山の御堂衆の明円寺が当分の間、管理することになります。明円寺は本山門主の留守番役です。

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塩屋御坊(山門)
 3年後の享保19(1734)年に、教法寺は本山の別院として塩屋御坊と呼ばれることになります。いわば本山の直轄管理寺院となったのです。ここまでを整理しておくと、塩屋御坊は当初は赤穂からやってきた製塩集団の念仏道場として開かれたものが、18世紀前半に西本願寺の別院になったという経緯があるようです。こうして別院にふさわしい寺格や伽藍が次のように整備されていくことになります。
享保18(1733)年 西本願寺一四代寂如の御絵下付
享保19(1734)年 教法寺を本山西本願寺の別院化
元文2年(1737)5月 等身の御影御絵が下付。
    (1738)年 御門と築地を建立、京都へ注文してあった釣鐘到着
寛保元年(1741) 台所完成
延享3年(1746) 勘定所完成
同 4年(1747) 二尊絵像の下付
寛延2年(1749)  本堂着工
安永四年(1775) 上棟式挙行
 現在の本堂は、18世紀半ばに着工し、完成までに30年近くの年月を要したようです。こうして塩屋別院には立派な伽藍が整備され「本院建築物の広大壮麗なる点は、郡内(仲郡)寺院中の第一位にあり」と仲多度郡史に記されるほどになります。

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讃岐国名勝図会に載せられた塩屋御坊に着色したもの
ちなみに、これらの整備事業には多額の資金が必要です。例えば西本願寺の御影・真影の下付相場は、次のような金額でした。

西本願寺宝物の下付相場

その都度、本寺にはこれだけの奉納金が納められ、謝金以外にも式典などにも多額の資金が必要でした。これだけの資金を準備できる讃岐の真宗寺院は稀だったはずです。塩屋御坊は財政基盤が裕福だったことになります。その財政基盤はなんだったのでしょうか? それはまた後ほど考えることにして、次に進んで行きます。

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塩屋御坊(山門から望む本堂)
 塩屋御坊は、先に見たとおり創建過程からして配下とか与力のない一本立ちの寺でした。そのため塩屋御坊講中の力が強く、輪番となった寺々と対立し、良好な関係が築けなかったようです。塩屋御坊のことを、輪番となった唯念寺は、天保12年(1841)正月3日付の手紙で、次のように本山へ報告しています。
……塩屋御坊所儀は御配下并に与力とてもこれ無く一本立の場所の上、時々輪番心配より国内にて講中・世話方と申す者相引立て、繁昌いたし候様に相成行き候に付ては、却て同坊講中共不機嫌に相成り中し候、夫と申すは、御坊勘定所の賄方、外へ相知れ候儀をば大にきらひ候所より和熟致さず候間、増々御坊所えは立入り申さず候様に相成り行き候に付き、塩屋村切りの御坊所に相成り居り申し候……
 
意訳変換しておくと
……塩屋御坊については、配下や与力などがない一本立の寺である。立地条件がいいので、輪番になった寺は讃岐国内から講中・世話方を引立てて、その才覚によって繁昌するようになった。これにたいしては同坊講中の中には、不機嫌な連中もいる。と云うのは、御坊の勘定所の賄方について、外部に知られることを嫌い、避けようとして融和が進まない。そのため外からの門徒が御坊へ立入ることがなくなり、塩屋村だけの御坊所になっている始末だ。

ここからは塩屋御坊が閉鎖的で、外部の講中に対して開かれた存在となっておらず、「塩屋村だけの御坊所」になっていると指摘しています。塩屋御坊は教宣センターとしての機能を果たしていなかったようです。

天保12(1841)年2月に、本山からの巡寺慈眼寺が提出した書簡を見ておきましょう。
一、塩屋御坊所之処在来御直門徒限二而万事御取持申上来候処、近来追々我意之振舞有之、輪番所賄向二不限、御作法向迄も差構候様相成、門徒気辺二不随候ハ交代等申立、且又御坊諸上納之処、御坊内御人少二而、賄向多分入不申、残何貫目と申程ハ村方門徒之処有二相成、且又於領方而も、塩運上之処御坊所有之候故、差寛めニ相成、是又村方之益二相成、格別外御坊とたかい
御殿之御恩を蒙居候。其弁もなく私欲かちに御座候ニ付、丸亀城下講中并高松同行も次第二不綺合二相成候処、当番所唯念寺殿、先般被  仰付候丸亀勘定元方講中を再取立勘定等為致候二就而者、御門御普請之運相成、町同行者勿論、東讃同行も追々帰状いたし、御繁昌二も及懸候処、村方直門徒以前之如く私欲難相成、且御上納金を以、是迄通り恣二酒食二取費候儀難相成候二付、当番番所并元〆講中世話方等相嫌、当輪番与不和合相企候基二御座候
  意訳変換しておくと
一、塩屋御坊の門徒について報告しておきます。この門徒達は、近頃ますます勝手な振舞が目立つようにようになっています。輪番所の賄向に限らず、御作法についても前例を無視することが多く、門徒たちの中には当番寺が従わないのなら、本寺へ交代を申立るべしと言い出す者も現れています。 又御坊が収めるべき上納物も、御坊内の用人が少くなり、賄向もかつてほどは入り用でないはずなのに、残何貫目と村方門徒の云うとおりに差配されています。さらに塩屋町は、塩運上所を御坊が所有しています。それも村方の利益となります。御坊は、格別に高い御殿(西本願寺住職)の御恩を受けています。ところがそれに応えることなく、私欲に走っているように見えます。そのため丸亀城下の講中や高松同行も、丸亀別院の講中のやり方について批判的なものが増えています。
 当番所の唯念寺殿は、先日次のように申しつけました。丸亀勘定元方講中を再取立てて勘定などの取り扱わせる。御門普請について、町同行はもちろん、東讃同行門徒にも寄進を募り、繁昌に見合うだけの寄進を行うなど、村方門徒も以前のように私欲なく、上納金を酒食に使うなどのことがないように、当番番所や元〆講中世話方が相嫌、当輪番与不和合相企候基二御座候

ここには丸亀御坊の講中は、御恩をわきまえずわがままばかりしているという評価が周りからでていることが報告されています。
DSC05907丸亀別院
塩屋御坊(別院)の山門と背後の本堂
これに対して、2ヶ月後の4月に塩屋御坊の講中は、本山からの使者石田小右衛門に口上書を差し出して、次のように反論しています。
一、塩屋村惣道場教法寺智観、自庵之企二付享保十六亥暦より三四ケ年之間村中騒動仕候而御領法御厄介二相成、
終二者
御本山依御慈悲二教法寺寺跡御取上御坊二被為仰候。其難有さの余り、大造之御堂御再建莫大之御借財二および、村中たばこを止め、正月の餅を不揚、心魂を砕しき御修覆相調申候処、去ル文化之頃、輪番最覚寺悪逆を企、大騒動二及、夫より暫く輪番中絶仕、留守居同様二相成居候処、講中共色々心痛仕漸々以前之通輪番被下候様相成申候処、又々唯念寺義最覚寺同様講中不和二相成、御坊廃亡仕候次第、誠二村中之老若男女児女童二至る道悲歎之涙にむせひ、此上は
御本山様へ愁訴歎願仕候あ外無御座与、村中一統決談仕罷在候
意訳変換しておくと
一、塩屋村の惣道場・教法寺の住職智観は、享保16(1731)年から村の講中と対立して、ついには騒動を起こして領法によって追放されました。そして、御本山の御慈悲で教法寺の寺跡は没収し、本山直属の御坊となりました。この措置に歓んだ門徒達は、御堂再建のために莫大な借金をして、そのために村中の門徒はたばこを止め、正月の餅を絶ち、心魂を砕いて修覆に身も心も捧げました。
 ところが文化年間(19世紀初頭)に、輪番寺の最覚寺が悪逆を企て、大騒動を引き起こしてしまいました。そのため輪番は中絶し、留守寺同様の有様になってしまいました。私たち講中はいろいろと心痛し、以前のような輪番制が復活するように申し入れてきました。ところが輪番制を務めることになった唯念寺が最覚寺と同じ様に講中と不和になってしまい、終には御坊は廃亡ということになりました。これについて村中門徒の老若男女児女童に至るまで悲歎の涙にむせんでいます。この上は御本山様へ愁訴歎願するしかないと、村中一統で決議してお願いする処断です。
ここには次のようなことが記されています。
①享保年間に、講中が住職と争い、住職が追放されて、寺は本山に取りあげられ別院となった。
②歓んだ講中は、西本願寺門主の御恩にこたえるために、伽藍整備にとりくんだ。そのため大きな借財ができたので、煙草も止め、正月のモチもつかない様であった。
このような塩屋門徒(講中)と、輪番各寺の両者の言い分には大きな開きがあるようです。
DSC05923
塩屋御坊本堂
 どちらにしても、丸亀御坊というのは丸亀藩における布教拠点となるべき寺院です。それが製塩集団の門徒と当番寺の間で諍いが続き、西本願寺の厄介な荷物になっていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 堀家守彦 丸亀市寺院名鑑  1995年

  前回に続いて龍谷大学図書館蔵の「讃岐國諸記」(写本41冊)を見ていくことにします。この書は西本願寺と讃岐国内の真宗末寺との間の往復書簡を年代順に写し取ったものです。41冊の内の6冊には、裏に「長御殿(ながごてん)」とあります。これは、西本願寺の中枢部、今で言えば総務部に当たる部署になるようです。「長御殿」の六冊は、上下三段に分かれていて、上段には本寺から末寺へ、下段には末寺から本山へ出した書簡が収められています。そしてその内容は、長御殿の配下の財務、庶務、講、免物など、それぞれの係の記録を整理したもので、「留役所」のものも、ある事件に関連した幾つかの書簡を一か所に集めるという風になっています。いまでいう項目毎にフォルダで整理するスタイルです。その中の嘉永4、5年ごろの書簡の中に、梶原藍水の「讃岐國名勝図会」をめぐる問題が記されています。今回は、それを見ていくことにします。テキストは 「松原秀明    資料紹介「讃岐國諸記」について    香川の歴史2号 1982年」です。

讃岐国名勝図会表紙
 「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854)刊行)
 嘉永4、5(1851)年ごろと云えば、梶原藍水の「讃岐國名勝図会」が出版される3年前になります。この「図会」の出版経緯については以前にお話ししましたので、ここでは省略します。父の残した資料や原稿を整理しながら、松岡調による挿絵も次々と仕上がり、この頃は原稿が出来上がってきます。そのため印刷に向けた動きが始まります。当時は、讃岐にはこのような書物を出版できる版元はなかったようで、京都の池田鳳卿に出版を頼んでいます。版下の確認・打合せののために、監水もよく上京していたようです。

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  「讃岐国名勝図会 前編第1巻巻頭」(国立公文書館版)
そんな中で、池田鳳卿宅に出入りする西本願寺の用人藤田大学が「讃岐国名勝図会」の版下に目にとめます。中を見ると、記事の中に西本願寺の意に沿わない所があることに気がつきます。そこで上司に報告するとともに、自分の意見を讃岐の梶原藍水に書き送ります。その部分を要約すると、次のように記されています。
①「興正寺末 常光寺」とあるのを「本願寺御門跡御末寺」または「本願寺御門跡御末・興正寺御門跡下寺」とすること
②一向宗という呼び名は讃岐ではよく通じる称号かもしれないが、それを「浄上真宗」と改めること
などを版元の池田を通じて梶原藍水と掛け合っています。
西本願寺と興正寺
京都の西本願寺と興正寺
前回にもお話ししたように、興正寺は真宗寺院として、「雲上明覧」などには本願寺と並ぶ門跡寺として挙げられています。しかし、その本山である西本願寺では興正寺を自分の末寺としか認めず、讃岐国内の興正寺系統の寺々も、すべて西本願寺末だという態度を通します。そのような立場からすると「興正寺末 常光寺」という記述は認めがたいことになります。譲っても「本願寺御門跡御末・興正寺御門跡下寺」でなければならないという立場です。これを書き換えるなら、西本願寺による「一括大量購入」もありうるという話が持ちかけられたようです。今で云うなら出版に関する宗門の介入で、言論の自由に関わる問題になります。しかし、当時は本寺がこのような書物の内容に口出しするのは当たり前だったようです。
 これを聞きつけた東本願寺からは、宗号のことは二の次にしても、東西本願寺を同格に書くのならよいが、西が東より尊いという書き方になれば大きい問題になるとの申入れが入ります。さらに興正寺からは「今のままでよいではないか。それなら興正寺末の四千の寺へ一部ずつ買わせるようにする」と言ってきます。

4343290-32高松寺町
高松城下の寺町その1(讃岐国名勝図会)

 各寺からの申し入れを受けた藍水は、高松藩主や重役から言付けられたことで、自分の考えで書きかえは出来ないと初めは突っぱねます。しかし、西本願寺が末寺への配布のために「一括大量購入」という条件を見せると、書き直しに応じる姿勢を見せます。結局、その後の話し合いがうまくいかずに、記事は改めたものの、本は買ってもらえない結果になってしまったようです。

4343290-33
       高松城下の寺町その2(讃岐国名勝図会)
以上の経緯からは、次のような事がうかがえます。
①東西本願寺や興正寺の僧侶たちは、寺格や本末関係のささいなことまで気にとめていたこと。
②京都の大寺院は「○○国図会」などを大量購入し、全国の末寺に配布していたこと。つまりこの手の書籍のお得意さんは、京都の大寺院であったこと。
③幕末の讃岐では、大型の書籍を大量に印刷できる版元はおらず、京都の版元に依頼していたこと
④そのため書籍出版の打合せなどのために、知識人が京都を訪れ、相互の情報交換が活発に行われていたこと。これが幕末の各国ごとの図会出版の流れを生んだこと。

「讃岐国名勝図会」巻五の末尾
  讃岐国名勝図会 後編や続編の広告が載せられているが未完
 ちなみに讃岐國名勝図会は、前編7巻(大内郡から香川郡まで)だけが1854年に出版されます。その後も梶原藍水は、後編の出版に向けて準備を進め、原稿は出来上がっていきます。しかし、これが出版されることはありませんでした。原稿のまま明治を迎え、彼の死後に受け継いだ息子は、明治政府に原稿を献本しています。それが鎌田博物館に保存されていることは、以前にお話ししました。

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讃岐国名勝図会後編の推薦文 安政4年となっている

 どうして原稿が出来上がっていたのに出版できなかったのか。
ひとつ推測できるのは資金難です。前編を出版し、その売上金を資金に後編を出版しようとしていたと思われますが、それが回収できなかったことが推測できます。大量購入先と思っていた西本願寺との交渉が行き詰まったことは先に述べました。それなら興正寺が買ってくれたのでしょうか、これもよくわかりません。讃岐国名勝図会は、各資料を参考にした考証的な性格で、挿絵も松岡調による緻密なもので後世の評価は高いものがあります。しかし、採算的ベーズには乗らなかったのかもしれません。それが、前編だけの出版に終わった原因としておきましょう。

4344097-09岩瀬尾八幡
高松の岩瀬尾八幡

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松原秀明    資料紹介「讃岐國諸記」について    香川の歴史2号 1982年」
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讃岐の真宗寺院には東西本願寺の末寺は少なくて、興正寺の末寺が多いことは以前にお話ししました。これは高松藩の興正寺保護政策の成果という面もあります。高松藩がどうして興正寺を保護したかについては、藩祖松平頼重との次のような特別な関係がありました。
①頼重の娘万姫が興正寺へ養女にゆき、
②興正寺の子供超秀は頼重の猶子として1ヶ月、高松城内にいて、仏光寺の間跡となったこと
このような姻戚関係があったために頼重は、高松の興正寺別院(高松御坊)を保護し、御坊川のあたりの寺領を今里村に地替えし、百五十石の朱印地を与えています。高松御坊の代僧となったのが勝法寺です。この寺はもともとは大和国吉野にあった寺で、それが讃岐に移り、三好実休から寺領をもらって、生駒家の時に城下の現在地に移った寺です。それを頼重は高松御坊を修造し、勝法寺を北隣へ移して御坊を守らせることにしたことは以前にお話ししました。

高松御坊(興正寺別院)3
勝法寺と高松御坊(讃岐国名勝図会)

 興正寺は真宗寺院として、「雲上明覧」などには本願寺と並ぶ門跡寺として挙げられています。
しかし、その本山である西本願寺では興正寺を自分の末寺としか認めず、讃岐国内の興正寺系統の寺々も、すべて西本願寺末だという態度を通します。そのため西本願寺と興正寺とのあいだでは、諍いが何度もあり、指導者同士も反目し合っていたようです。そんな中で、興正寺直営の勝法寺は、高松藩における西本願寺の触頭を務めていました。
 西本願寺と興正寺の関係がギクシャクしているので、勝法寺は西本願寺の云うとおりには動かず、西本願寺は取扱に苦慮します。そんな一コマが見えてくる史料が西本願寺に残されています。それが龍谷大学図書館蔵の「讃岐國諸記」(写本41冊)です。これは、西本願寺と讃岐国内の真宗末寺との間の往復書簡を年代順に写し取ったもので、金毘羅宮の学芸員であった松原秀明氏が紹介しています。
この中に、天保12年(1841)11月、高松の勝法寺との関係改善のために使僧慈眼寺が高松に派遣されます。西本願寺に残された報告書がには、次のように記されています。

高松勝法寺殿是迄丸々 興門様味方、役寺講中ハ勿論之事二御座候、依之 御殿之庭悪軽二取成仕、尤 興殿役人よりも少々二而も 御本殿御取持之振候得者、相嫌ひ候様子二御座候。然ル処、此度拙寺罷越候之処、始者殊之外諸方悪敷取附嶋も無之段之儀二候。夫より段々御殿之御趣意を申話し候処、実二心底より改心二相成、巳来者急度御取持可申上与役寺両寺二いたる迄心底相改り申候。実二御高徳之顕与奉存候。右触頭さへ改り候ハゝ追々相開ヶ可中与奉存、たとへ此度巡寺は出来不申候とも触頭さへ右之心中二相成候ハゝ、國ハ追々と相開ケ可申儀二御座候。(下略)
 
意訳変換しておくと
高松勝法寺殿はこれまでは、興門様(興正寺)の味方で、役寺講中は勿論のこと、西本願寺に対しを軽視し悪し様に取り扱っていると思っていた。しかし、勝法寺は西本願寺に対してばかりでなく、興正寺役人にたいしても嫌悪感を持っていることが分かった。それは今回、私が実際に高松の勝法寺を訪問したところ、こちらに対する悪印象や態度を示さなかったことからもうかがえる。実際に会って膝を突き合わせ、西本願寺の御殿の御趣意を伝えた所、心底より改心した様子であった。そして、急ぎ与役寺の両寺を呼んで話をした所、これも心底から態度を変えると約束した。これはまさに西本願寺御殿の高徳のいたすところである。触頭寺である勝法寺の態度さえ改まれば、追々に道は開けてくる。たとへ今回は、高松藩内の寺々を巡寺出来なくとも、触頭寺を味方につけることができたので、讃岐については追々と相開けていくことが期待できる。(下略)

西本願寺に対して悪し様であった高松藩触頭寺の勝法寺の態度が、直接に出向いて話し合った結果、関係が改善される兆しが見えてきたことを使者は、西本願寺に報告しています。ところがそれは見込み違いだったようです。6年後の弘化4年(1847)には、触頭勝法寺への通達は、すべて興正寺の添書がないと讃岐の国内には通用しないと高松藩は言い出します。これは西本願寺が讃岐に出す通達について、興正寺の認可が必要だということです。興正寺を自分の末寺としか認めない西本願寺としては、認めがたい事態です。通達の許可を末寺の興正寺に求めなければならないのですから。

興正寺派と本願寺
本願寺と興正寺の関係
このような状況打開のために、西本願寺は動き出します。高松藩の家老・本村駄老が上京する時を捕らえて、次のような文書を出しています。
(前略) 右様御領方二於て御寺法用道之趣意御聞取無之候ハ而者難相成義哉、此段及御尋問申度、右者全新規之義二而、御寺法差支之次第二候得者、何卒先規仕来之通ニ而相済候様致度、興正寺御関迄も当本山御木寺之事故、前以御用向之御趣意柄申達候義ハ難相成筋二御座候。新規之義彼是御寺法差支二付、於其御領方、是非趣意柄御承知被成度義二御座候ハゝ、拙者共とも其度毎御家司中亦者寺社役中迄申入候義ハ格別、前件之次第二而者、何共差支候二付、貴様造□急度拙者共ども及内談候間、右辺之所御汲取、御領方之御振合預御聞繕度、尤拙者共両人掛り之義二付不得止事及御内談候事(下略)

  意訳変換しておくと
(前略)高松藩領内での今回の通達は、西本願寺の意向を聞取ることなく実施されたもので寺法に差し障りが生じ、大きな問題となっている。今回の通達は、まったく新規のことで、寺法に差支えがありますので、何卒、先規に従って興正寺の添書がなくても当本山(西本願寺)通達が出せるように、前々のように改めていただきたい。新規のやり方だと、当寺にとっては大きな差支がある。代案として高松藩領内の末寺への通達や連絡について、私どもはその度に毎回、高松藩の役人か、寺社役人へ申入れを行うことを提案する。この代案を受けて、以前通りの取扱としていただきたい。繰り返しになるが新規方法は、差支がある。このことについて、高松藩と拙者方で協議したい。以上を汲取っていただき、高松藩領内における西本願寺からの通達について聞き届け頂き、改善いただきたい。そのためにも拙者との内談の場を設けて欲しい(下略)

 ここからは西本願寺の担当者の悲鳴のような要請が聞こえてきます。通達のたびごとに、西本願寺から藩の役人、また寺社方へお断りするから、興正寺の添書をもらうことは勘弁して欲しい、そのためにも内談の場を設けて欲しいという内容です。しかし、家老の黙老は、本願寺からの内談要望が伝わってくると、京都見物にかこつけて留守を使い、容易に会おうとはしません。黙老自身が興正寺内の牧家の親類であるうえに、高松勝法寺へは二女が嫁いでいるという婚姻関係をもっていました。つまり、高松藩の家老は、興正寺や勝法寺の身内でもあったのです。初代藩主の松平頼重が幾重もの婚姻関係を興正寺と結んでいたことは以前にお話ししました。それを受けて、以後の高松藩の重臣達の中には、興正寺と婚姻関係を持つ者が多く、幾重にもそのネットワークは結ばれていたのです。高松藩には「興正寺応援団」が広く広まっていたようです。
西本願寺と興正寺
西本願寺と興正寺の伽藍 隣り合ってある
 興正寺は本寺である西本願寺に反発し、「独立」を目指しますが、幕府は「本寺からの勝手な独立は認めない」という原則を貫きます。このため江戸時代に興正寺の独立が適うことはありませんでした。それが実現するのは、明治になってからです。興正寺は全国の末寺を引き連れて「独立」しようとします。これに対して西本願寺は、引き留め運動を展開します。こうして、興正寺末寺は、興正寺に着いていくか、興正寺末寺を離れて西本願寺につくかの選択を迫られることになります。興正寺末寺の多かった讃岐は、この渦中に巻き込まれていきます。ここで大きな影響力を持ったのが、旧藩主の松平氏だったようです。高松藩と興正寺の親密な関係から、讃岐の興正寺末寺に対して、興正寺に残るようにと影響力を行使します。そのため高松藩では、全国から比べると興正寺末寺に残った寺の比率が高いようです。興正寺の独立を陰で支えた高松藩ということになるのかもしれません。

興正寺末寺
高松藩の興正寺末寺
御領分中寺々由来 17世紀後半 安楽寺末を除く)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

尊光寺木仏下付
尊光寺(まんのう町炭所)の木仏尊像御免書

西本願寺側の「木仏之留」に記された讃岐の真宗寺院を見ておきましょう。
『木仏之留』とは、本願寺が末寺に木仏などを下付したことの控えのために『御影様之留』という記録に、その裏書を書き写したものです。17世紀末成立の「高松藩御領分中寺々由来書」に出てくる真宗寺院で、西本願寺の「木仏之留」に名があるのは、香東郡安養寺など次の22ヶ寺のようです。
「木仏下付=寺号付与」はセットでしたので、本山側の記録に記録があるということは、その寺の寺号獲得時期が確認できる根本史料ということになります。西本願寺の「木仏之留」に記された讃岐真宗寺院21ヶ寺(明源寺を除く)を「寺々由来書」の配列通りに並べて、その下に「木仏之留」の記事を注記したのが次の表5になります。
真宗寺院の木仏付与時期
高松藩真宗寺院の木仏下付一覧表
ここからは、どんなことが見えてくるのでしょうか。まず気づくのは、寛永18(1641)年8月に木仏の授与を受けている寺が多いことです。寛永18年組と呼び、そのメンバーを見ていくことにします。

興正寺の中本寺・常光寺(三木町)の末寺である常満寺・常善寺・蓮光寺が「寛永18年」組です。

木仏下付 常光寺末寺
常光寺末寺の木仏下付寺院一覧
日付を見ると8月中頃に、2・3日の違いで「木仏下付=寺号承認」されています。これらの寺の「興正寺には孫末、常光寺には直末」という関係は、「寺々由来書」ができる延宝初(1673)年になっても変わりなく続いています。
 一方、福住寺・信光寺・西徳寺も寛永18年8月組です。
これらの寺は、木仏下付のあった寛永18年8月当時は常光寺の直末でした。それが「寺々由来書」が成立した17世紀後半には専光寺の末寺となっています。常光寺に対しては、直末でなく孫末ということです。この期間に、常光寺と三ヶ寺の間に専光寺が介在するようになったようです。
同じようなことが常光寺末の徳法寺にも観られます。
この寺の木仏下付も寛永18年8月です。その時に西本願寺では「興正寺直末」と記録しています。それが延宝初年までには、常光寺末寺の覚善寺の末になっています。この背景には何があったのでしょうか? 例えば、政治的な介入が考えられます。以前に「常光寺記録」には、松平頼重が常光寺から末寺を取り上げようとしたことが次のように記されていることを見ました。

 松平頼重は讃岐にやってくると、まず常光寺から末寺の専光寺を召し上げた。専光寺は末寺を13ヶ寺も持つ有力な寺であったが、この末寺13ヶ寺も合わせて差し出せ言って来た。常光寺は、それを断って3ヶ年の間お目見えせず無視していた。あるとき、頼重は「常光寺の言い分はもっともだ」と言って13ヶ寺を常光寺へ返えしてくれた

 松平頼重は常光寺から専光寺をとりあげて、自分の養子が門主となった京都の仏光寺の末寺としようとします。このように当時は、藩主などの政治的な思惑で本末関係が変更されることもあったようです。


安養寺末寺の木仏下付
安養寺末の養専寺と専福寺
安養寺末の養専寺と専福寺も木仏下付は寛永18年8月組です。
安養寺は安楽寺の末寺で、塩江から髙松平野に掛けての安楽寺の教線ライン伸張の拠点寺院だった寺院です。そのため末寺も多い有力寺院で、高松御坊を支えるために伽藍がその南に移されたことは以前にお話ししました。ここには「安楽寺下安養寺下」とあり、安養寺が阿州安楽寺下であったことが記されています。
「常光寺記録」には、安養寺のことが次のように記されています。
「殿様御通之節阿州安楽寺義途中二而無礼仕蒙御咎ヲ以来御国江出勤無用被抑付候右二付安楽寺(高松)御坊江出勤指支御座候故香川郡川内原村二罷在候安楽寺末寺安養寺,安楽寺代僧二御坊江指出申候」

  意訳変換しておくと
お殿様に対して阿州安楽寺は、無礼なことがあった。それを咎められて以後は、安楽寺は讃岐への出入りを禁止された。そのため安楽寺は(高松)御坊へ出向くことができなくなり、香川郡川内原村にある安楽寺末寺の安養寺を、安楽寺代僧として高松御坊へ出仕させた。

ここからも松平頼重治世のはじめには、中本寺の安楽寺に代わって安養寺が、高松御坊を支えるてらとなったことが記されています。安養寺の寺伝もそれを裏付けるものになっていることは以前にお話ししました。

尊光寺・長善寺の木仏付与
安楽寺末の木仏下付寺院

阿州安楽寺の末寺で、寛永18(1641)年8月組は慈光寺(岡田)・長善寺(勝浦)です。
西長尾城周辺の岡田や羽床には、長尾氏を祖とする系図をもつ真宗寺院が多いようです。その中でも、慈光寺(綾歌町岡田)・長善寺(まんのう町勝浦)が木仏を下付された時期がはやいようです。さらにそれよりも30年早い慶長19(1614)年8月に木仏を受けているのが尊光寺(まんのう町炭所)になります。尊光寺の由緒書きを見ると「興正寺下鵜足郡尊光寺」で、慈光寺・長善寺は「興正寺門徒安楽寺下」です。ここからは、当時の尊光寺が興正寺直末であったことがうかがえます。それがいつのころにか、阿波の安楽寺の末寺になったことになります。それは、いつからなのでしょうか。
  慶長12(1607)年に木仏を下付された安楽寺末の安養寺も、その頃は「興正寺下香東郡安原庄河内原村安養寺」とあります。ここからも慶長年代は、尊光寺と同じように興正寺の直末だったようです。それが寛永末(1644)年には「興正寺門徒安楽寺下安養寺」と記されるようになります。そして延宝初(1673)年には、また興正寺の直末と記されるようになります。ここからは17世紀前半の慶長から寛永にかけては、本末関係も坊号・寺号と同じように改変が頻繁に行われていたことがうかがえます。この背景には、何が考えられるのでしょうか。末寺と興正寺、中本寺・安楽寺との力関係や住職との関係で左右したのでしょうか。この当たりはよくわかりません。それが「寺々由来書」の成立時期の17世紀末は、固定化していくようです。
  以上をまとめておくと、
①讃岐の真宗寺院の「木仏下付=寺号付与」の時期は、本願寺の東西分裂後がほとんどである。
②特に木仏下付が集中するのが寛永18(1641)年8月である。
③寛永18年下付の寺々で、尊光寺や安養寺など下付の時には興正寺直末とされている。
④しかし、その後は中本寺の安楽寺末寺とされた寺もある。
⑤以上から17世紀中は、本末関係や寺名なども大きな変化があり、流動的であったことがうかがえる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
ます。

阿野郡の郷
鵜足郡坂本郷(現丸亀市飯山町+綾歌町+垂水町周辺)
寛永21(1644)年の鵜足郡の「坂本郷切支丹御改帳」(香川県史 資料編第10巻 近世史料Ⅱ)には、宗門改めに参加した坂本郷の28ヶ寺が記されています。その中の24ケ寺は、真宗寺院です。これを分類すると寺号14、坊号9、看房名1になります。坊号9の中から丸亀藩領の2坊を除いた残り七坊と看坊一は次の通りです。
A 仲郡たるミ(垂水)村 明雪坊
B 宇足郡岡田村 乗正坊
C 南条郡羽床村  乗円坊
D 南条郡羽床村  弐刀
E 北条郡坂出村  源用坊
F 宇足郡岡田村  了正坊
G 那珂郡たるミ(垂水)村 西坊
H 宇足部長尾村  源勝坊
これらの各坊が寺号を得て、その後になんという寺になったのかを探ってみることにします。
「由来書」には郡名だけで村名がないので、特定しにくいようです。それに対して、前回に紹介した鎌田共済会図書館所蔵の「國中諸寺拍」には村名まで書かれています。その内の那珂郡垂水村には、真宗寺院が五ヶ寺あって他宗の寺はありません。そのうち西坊については「常光寺末那珂郡円徳寺末西之坊」で、「Gの仲郡たるミ(垂水)村西坊」であることが分かります。

常光寺末寺 円徳寺
垂水の西坊をめぐる本末関係

それでは垂水村のもうひとつの「A明雲坊」は、どうでしょうか?
現在の垂水には、願誓寺・善行寺・西教寺(下表60)・浄楽寺があります。

真宗興正派常光寺末寺一覧
常光寺の高松藩内の末寺(高松藩御領分中寺々由来書)
このうち三木郡常光寺末の善行寺(上表59)は「僧明誓の開基」とあります。明誓と明雪は音が近いので、明誓坊が明雪坊なのではないかと想像できる程度です。明誓坊が善行寺になったかどうかの確証にはなりません。あとはよくわからないとしておきます。

岡田の慈光寺
        琴電岡田駅北側に並ぶ慈光寺と西覚寺

岡田村(綾歌町岡田)にはB乗正坊と、F了正房が記されています。
現在、上の航空図のように岡田駅北側には、ふたつの寺が並んでいます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、岡田村正覚寺・慈光寺と記され阿州安楽寺末で、「由来書」にはそれぞれ僧宗円・僧玉泉の開基とあるだけで、以前の坊名は分かりません。讃岐国名勝図会の説明も同じです。しかし、慈光寺については、寛永18(1641)年に、まんのう町勝浦の長善寺と同じ時期に木仏が付与され寺号を得ています。
尊光寺・長善寺の木仏付与
安楽寺末寺の木仏付与時期

坂本郷の宗門改めが行われたのは、寛永21(1644)のことです。この時には慈光寺は寺格を持った寺院として参加しています。
つまり慈光寺以外にB乗正坊と、F了正房があったということです。
ふたつの坊が、統合され西覚寺になったことが推測できますが、あくまで推測で確かなものではありません。

西本願寺本末関係
西本願寺の末寺(御領分中寺々由来)
羽床村にもC来円坊、Dの弐刀のふたつの坊が記されています。
ところが「國中諸寺拍」には、西本願寺末の浄覚寺(上図7)しか記されていません。「由来書」では天正年に中式部卿が開基したとされていますが、「寺之證拠」の記事はないようです。ここからはC来円坊とD弐刀という二つの念仏道場が合併して、惣道場となり、浄覚寺を名来るようになったことが推察できます。
E 北条郡坂出村の源用坊については、
「國中諸寺拍」には坂出村には教専寺が記されているだけです。それが「由来記」には教善寺、「本末帳」は教専寺になっています。この寺は寛永年中の開基で、「讃岐国名勝図会」では玄諦の草創と記します。玄諦のころには源用坊と呼ばれ、それが教善寺 → 教専寺と変化したことが推測できます。

長尾氏 居館
慈泉寺と超勝寺は長尾氏の居館跡と伝えられる
現在のまんのう町長尾には、西長尾城主の館跡とされる慈泉寺と超勝寺があります。17世紀末の「由来書」と幕末の「讃岐国名勝図会」ともに、次のように記します。
①慈泉寺は大永年中(1521~28)に僧祐善の開基、
②超正(勝)寺は永正年中(1509~31)僧玄了の開基
玄と源が同音だから玄了は源勝坊であったことが想像はできます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、長尾村には慈泉寺と超勝寺があり、共に阿州安楽寺末と記されています。 ここからは源勝坊が寺号を得て超勝寺になったことが推測できます。もしそうなら超勝寺が寺号を得たのは、17世紀半ば以降のことになりますが木仏付与の書類は残っていません。
真宗興正派安楽寺末寺
安楽寺末寺(17世紀末の御領分中寺々由来)

寛永21(1644)年の「坂本郷吉利支丹御改帳」に出てくる真宗の九坊を観てきました。
しかし、確かなことは何も分からないと研究者は考えているようです。ただ生駒騒動後に成立した高松藩や丸亀編では、この頃は真宗道場の寺院化がすすむなかで坊号・寺名の改変が頻繁に行われていたこと、そして、寺号を得て坊から寺へと成長して行くのも、この時期が多かったことはうかがえます。
真宗寺院の木仏付与時期
高松藩の真宗寺院に木仏付与された時期一覧
また、坂本郷で行われた宗門改めに寺号をもつ14ヶ寺と同じように、寺号を持たない各坊も参加してたことが分かります。本願寺からは寺号を許されない坊でも、高松藩は寺として認め、宗務に参加させていたようです。寛文・延宝期になっても、そのことに変わりがなかったことは「本末帳」に貼付された次の記事からも分かります。
寛文元年丑ノ壬八月吉□
山田郡林之郷吉利支丹御改出家帳
人数三人内    弐人男 壱人女 了遊 印
一 了遊    歳五拾五 
一 くりもり  年五十三
一 男子小大郎 歳十九
右之了遊家内男女共拙僧旦那二御座候以上
山田部十川村
真宗 高木坊 印
高木坊は「由来書」では安養寺末山田郡光清寺となり、「文明年中高木坊与申僧」の開基だと書かれています。寛文元年にも寺号はなく高木坊のままですが、宗門改を行っていることが分かります。ここに記された了遊も「一くりもり」という女と一緒に生活し、妻帯していて「拙僧旦那二御座候」とあるので高木坊の檀家であることを保証しています。高木坊が宗門改めに加わっていたことが分かります。

今回はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」

「寺々由来」の成立時期を探る手掛りを、研究者は次のように挙げていきます。
 この書には、松平家の御廟所法然寺のことが書かれていません。前回もお話ししたように仏生山法然寺は那珂郡小松庄にあった法然上人の旧蹟生福寺を、香川郡仏生山の地に移したものです。建設は寛文八(1668)年に始まり、2年後の正月25日に落慶供養が行われています。その法然寺がこの書には登場しないので、寛文十(1670)年より前に成立していたと推測できます。ところが、ここで問題が出てきます。それはこの時に創建されていたはずの寺でも、この書には載せられていない寺があるのです。それを研究者は次のように指摘します。
①「仏生山條目」の第23條に「頼重中興仁天令建立之間、為住持者波為報恩各致登山法夏可相勤之」と定められた浄上宗の國清寺・榮國寺・東林寺・真福寺。
②頼重が万治元年に寺領百石を寄進し、父頼房の霊牌を納め、寺領三百石を寄進して菩提寺とした浄願寺
③明暦四年に、頼重が百石寄進した日光門跡末天台宗蓮門院
④頼重が生母久昌院の霊供料として寛文八年に百石を寄進した甲州久遠寺末法花宗廣昌寺
このように頼重に直接関係する寺々が、この書には載せられていないのです。これをどう考えればいいのでしょうか? その理由がよく分りません。どちらにしても、ここでは、法然寺の記載がないからと言って、本書成立を寛文十年(1670)以前とすることはできないと研究者は判断します。

結論として、本書の成立は寛文十年よりやや遅れた時期だと研究者は考えているようです。
その根拠は、東本願寺末真宗寒川郡伝西寺の項の「一、寺之證檬(中略)十五代常如上人寺号之免書所持仕候」という記述です。ここに出てくる常如という人物は、先代琢如が寛文11年4月に没した後を受けた人になります。(「真宗年表」)。そうすると、この書が成立した上限は、それ以後ということになります。また下限は、妙心寺末禅宗高松法昌寺は延宝三年十一月に賞相寺と改められます(「高松市史」)。しかし、この書には、法昌寺の名で載っています。また、延宝四年に節公から常福寺の号を与えられて真宗仏光寺派に属した(「讃岐国名勝国合」)絲浜の松林庵が載っていません。ここからは延宝2年頃までに出来たことが推測できます。

鎌田博物館の「諸出家本末帳」と「寺々由来書」を比較してみて分かることは? 
高松藩で一番古い寺院一覧表①「御領分中寺々由来書」を観てきましたが、これと「兄弟関係」にあるのが鎌田共済会図書館の②「諸出家本末帳」です。この書は昭和5年2月、松原朋三氏所蔵本を転写したことを記す奥書があります。しかし、原本が見つかっていません。この標題の下に「寛文五年」と割書されているのは、本文末尾の白峯寺の記事が寛文五年の撰述であるのを、本書全体の成立年代と思い違いしたためで、本文中には享保二(1717)年2月の記事があるので、その頃の成立と研究者は判断します。成立は、「由来書」についで、2番目に古い寺院リストになります。両者を比べて見ると、内容はほとんど同じなので、同じ原本を書写した「兄弟関係」にあるものと研究者は考えています。両者を比べてみると、何が見えてくるのでしょうか? まず配列について見ていくことにします。

寺由来書と本末帳1
由来帳と本末帳の各宗派配列
上が①の由来書、下が②の本末帳で、数字は所載の寺院数です。
①大きい違いは、「由来書」では浄土・天台・真言・禅・法華・律・山伏・一向の順なのに、「本末帳」では、一向が禅宗の次に来ていること。
②真宗内部が「由来書」では西本願寺・東本願寺・興正寺・東光寺・永応寺・安楽寺の順なのに、「本末帳」では興正寺・安楽寺・東光寺。永応寺・西本願寺・東本願寺の順序になっていること
これは「本末帳」は一度バラバラになったものを、ある時期に揃えて製本し直した。ところが欠落の部分もあって、元の姿に復元できなかったと研究者は考えています。
③掲載の寺院数は、両書共に浄土8・天台2・律12・時宗1・山伏1です。真言は105に対して59、禅宗は7と5、 真宗は129に対して121と、どれも「本末帳」の方が少いようです。
④欠落がもっとも多いのは真言宗で、仁和寺・大覚寺とも「本末帳」は「由来書」の約半数しかありません。これも欠落した部分があるようです。
「由来書」と「本末帳」の由緒記述についての比較一覧表が次の表3です。
由来書と本末帳
「由来書」と「本末帳」の由緒記述の比較
上下を比べると書かれている内容はほとんど同じです。違いを見つける方が難しいほどです。ただ、よく見ると、仁和寺末香東郡阿弥陀院(岩清尾八幡別当)末寺六ヶ寺の部分は配列や記述に次のような多少の違いがあります。
①の円満寺については「由来書」にある「岩清尾八幡宮之供僧頭二而有之事」の一行が「本末帳」にはありません。
③の福壽院について「本末帳」には、「はじめ今新町にあり、寛文七年、中ノ村天神別当になった」と述べていますが「由来書」には、それがありません。
⑤の薬師坊について「由来書」には「原本では記事が消されている」と断書しています。「本末帳」では、そこに貼紙があり、「消居」というのはこの事を指すようです。
⑥の西泉坊については、「由来書」には記事がありますが、「本末帳」にはありません。
全般にわたって見ると、多少の違いがありますが、内容は非常ににていることを押さえておきます。

研究者は表4のように一覧化して、両者の異同を次のように指摘します。
由来書と本末帳3

①志度寺の寺領は江戸時代を通じて70石でした(「寺社記」)。ところが「由来書」は40石、「本末帳」は50石と記します。「由来書」成立の17世紀後半頃は、40石だったのでしょうか。
②真言宗三木郡浄土寺の本尊の阿弥陀如来について「由来書」は安阿弥の作と記します。「本末帳」は「安阿弥」の三字が脱落したために「本尊阿弥陀之作」となってしまっています。
④法花宗高松善昌寺について、「由来書」は「日遊と申出家」の建立、「本末帳」は「木村氏与申者」の建立と記します。建立者がちがいます。
⑤真宗南条郡浄覚寺は「由来書」は「開基」の記事だけですが、「本末帳」では「開基」とともに「寺之證檬」とあります。
⑥の真宗北条郡教善寺(「本末帳」は教専寺)、⑦の真宗高松真行寺の例を見ても、真宗寺院の記事は、ほとんど例外なく「開基」と「寺之證拠」の二項があります。
⑧真宗高松覚善寺、⑨の徳法寺ともに「本末帳」では「寺之證拠」が貼紙で消されています。なお真宗の部で、「由来書」では例外なく「一、開基云々」とあるのを「本末帳」では「一、寺開基云々」とし、また「由来書」では「以助力建立仕」を「本末帳」では「以助成建立仕」という表現になっています。以上から、州崎寺の本は鎌田図書館本の直接の写しではないと研究者は判断します。
以上をまとめておくと
①「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」は、寛文九(1668)年に高松藩が各郡の大政所に寺社行政参考のために同時期に書上げ、藩に提出させたものとされてきた。
②法然寺が載せられていないので、法然寺完成以前に成立していたともされてきた。
③しかし、法然寺完成時には姿を見せていた寺がいくつか記載されていない。それは、松平頼重に関連する寺々である。
④以上から法然寺完成の1670年以前に成立していたとは云えない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
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香川叢書(昭和14年発行 昭和47年復刻)

私が師匠からいただいた本の中に「香川叢書」があります。久しぶりにながめていると「真福寺由家記」が1巻に載せられていました。それを読んでの報告記を載せておきます。
 香川叢叢書1巻18Pには、真福寺由末記の解題が次のように記されています。
仲多度郡紳野村大学岸上の浄土宗真福寺は、法然上人の配流地那珂郡小松庄での止住遺蹟と伝ふる所謂小松三福寺(四条村清福寺・高篠村生福寺)の一で、もとは同郡四條村にあつたが、寛永二年高篠村に移轄再興され、更に寛文二年藩主松手頼重が復興を計らせた。この記はその復興の成りしを喜び、寛文三(1663)年正月、松平頼重自ら筆執つて書いた由来記である。(同寺蔵)

高松藩藩祖の松平頼重自身の筆による由来記のようです。読んでみましょう。

讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)之遺跡、念佛弘通之道場也。蓋上人念佛興降之御、承元丁卯仲春、南北之強訴により、月輪禅定之厚意にまかせて、暫営寺に棲遅し、源信自から作る本尊を安置して、六時に礼讃ス。直に専念を行すれは、群萌随て化し、唯名字を和すれは、往生日こに昌なり。道俗雲のとくに馳、英虜星のごとくに集まる。而后、皇恩勅許之旨を奉し、阪洛促装,の節に及て、弟子門人相謂曰く。上人吸洛したまわは、誰をか師とし、誰をか範とせん。洪嘆拠に銘し、哀馨骨に徹す。依之上人手つから、諸佛中之尊像を割ミ、併せて極難値遇の自影をけつり、古云く、掬水月在手、心は月のこく、像は水のとしし誰か迄真性那の像にありと云はさらんや。而華より両の像を当寺に残して、浄土の風化盆揚々たり。中葉に及て、遺雌殆頽破す。反宇爰にやふれ、毀垣倒にたつ。余当国の守として、彼地我禾邑に属す。爰に霊場の廃せんとすると欺て、必葛の廣誉、あまねく檀越の信をたヽき、再梵堂宇を営す。予も亦侍臣に命して、三尊の霊像を作りて以寄附す。空師の徳化、ふたヽひ煕々と然たり。教道風のとくにおこり。黎庶草のとくにす。滋に法流を無窮に伝ん事を好んして、由来の縁を記す。乃ち而親く毫を揮て、以て霊窟に蔵む。維時寛文三歳次癸卯初春下旬謹苦。
     
  意訳変換しておくと
讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)の旧蹟で、念佛道場である。承元丁(1207)年卯仲春、南北之強訴により流刑となり、月輪禅定(九条良経)の荘園・小松荘にある当寺で、生活することになった。法然は自から彫った本尊を安置して、一日六回の礼讃を、専念して行っていると、高名を慕って多くの人々が集まってきて、名号を和するようになった。みるみるうちにいろいろな階層の人々が雲がたなびくように集まってきた。
 その後に、勅許で畿内へ帰ることを許さたときには、弟子門人が云うには「上人が京に帰ってしまわれたら、誰を師とし、誰を範としたらよいのでしょうか。」と嘆き悲しんだ。そこで上人は、自らの手で尊像を彫り、併せて自影を削った。古くから「掬水月在手、心は月のごとく、像は水のごとし 誰か迄真性那の像にあり」と云われている。このふたつの像を残して、法然は去られた。
 しかし、その後に法然の旧蹟は荒廃・退転してしまった。私は、讃岐の国守となり、この旧蹟も私の領地に属することになった。法然の霊場が荒廃しているのを嘆き、信仰心を持って、檀家としての責任として堂宇を再興することにした。家臣に命して、三尊の霊像を作りて、寄附する。法然の徳化が、再び蘇り、教道が風のごとくふき、庶民が草のごとくなびき出す。ここに法然の法流を無窮に伝えるために、由来の縁を記す。毫を揮て、以て霊窟に収める。
 寛文三(1663)年 癸卯初春下旬 謹苦。
内容を整理しておくと次のようになります
①那珂(仲)郡高篠村の真福寺は法然の讃岐流刑の旧蹟で、念佛道場で聖地でもあった。
②法然は、この地を去るときに、阿弥陀仏と自像のふたつの像を残した。
③松平頼重は、退転していた真福寺を再興し、三尊を安置し、その由来文書を収めた。
真福寺1
真福寺(まんのう町岸上 法然上人御旧跡とある)
少し補足をしないと筋書きが見えて来ません。
①については、残された史料には、小松荘で法然は生福寺(しょうふくじ)(現在の西念寺)に居住し、仏像を造ったり、布教に努めたといいます。当時、周辺には、生福寺のほか真福寺と清福寺の三か寺あって、これらの寺を法然はサテライトとして使用した、そのため総称して三福寺と呼んだと伝えられます。真福寺が拠点ではなかったようです。
小松郷生福寺2
 生福寺本堂で説法する法然(法然上人絵伝)

法然が居住した生福寺は、現在の正念寺跡とすれば、真福寺は、どこにあったのでしょうか?
満濃町史には「空海開基で荒れていたのを、法然が念仏道場として再建」とあります。真福寺が最初にあったとされるのはまんのう町大字四條の天皇地区にある「真福寺森」です。ここについては以前にお話したので省略します。
真福寺森から見た象頭山
四条の真福寺森から眺めた象頭山

松平頼重による真福寺の復興は、仏生山法然寺創建とリンクしているようです。
 法然寺建造の経緯は、「仏生山法然寺条目」の中の知恩院宮尊光法親王筆に次のように記されています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳すると
①浄土宗の開祖法然が、建永元年に法難を受けて土佐国へ配流されることになった。
②途中の讃岐国で。九条家の保護を受けて小松庄の生福寺でしばらく滞在した。
④その後戦乱によって衰退し、草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影だけが残っていた。
⑤それを源頼重(松平頼重)が高松藩主としてやってくると、法然上人の旧跡を興して仏生山へ移し、仏閣僧房を造営して新開の田地を寺領にして寄進した

 ここには頼重が、まんのう町にあった生福寺を仏生山へ移した経緯が記されています。これだけなら仏生山法然寺創建と真福寺は、なにも関わりがないように思えます。
ところが話がややこしくなるのですが、退転していた真福寺は、松平頼重以前の生駒時代に再建されているのです。
もう少し詳しく見ておくと、生駒家重臣の尾池玄蕃が、真福寺が絶えるのを憂えて、岸上・真野・七箇などの九か村に勧進して堂宇再興を発願しています。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったのです。生駒家の時代に真福寺は現在の西念寺のある場所に再建されたことを押さえておきます。
 その後、生駒騒動で檀家となった生駒家家臣団がいなくなると、再建された真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重ということになります。
頼重は、菩提寺である法然寺創建にとりかかていました。その創建のための条件は、次のようなものでした。
①高松藩で一番ランクの高い寺院を創建し、藩内の寺院の上に君臨する寺とすること
②水戸藩は浄土宗信仰なので、浄土宗の寺院で聖地となるような寺院であること
③場所は、仏生山で高松城の南方の出城的な性格とすること
④幕府は1644年に新しく寺院を建てることを制限するなどの布令を出していたので、旧寺院の復活という形をとる必要があったこと。

こうして、法然ゆかりの聖地にあった寺として、生福寺は仏生山に形だけ移されることになります。そして、実質的には藩主の菩提寺「仏生山法然寺」として「創建」されたのです。その由緒は法然流刑地にあった寺として、浄土宗門徒からは聖地としてあがめられることになります。江戸時代後半には、多くの信徒が全国から巡礼にやって来ていたことは以前にお話ししました。いまでも、西念寺(まんのう町羽間)には、全国からの信者がお参りにやって来る姿が見えます。

真福寺3

真福寺(讃岐国名勝図会)
 その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。
それが現在地の岸の上の岡の上になります。その姿については、以前にお話ししたのでここでは触れません。真福寺再建完了時に、松平頼重自らが揮毫した由来記がこの文章になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
真福寺由来記 香川叢書第1巻 446P

前回は17世紀末に高松藩で作られた寺院一覧表「御領分中寺々由来書」の東西本願寺の本末関係を見ました。この書では真宗の各派の順番は、西本願寺・東本願寺・興正寺・東光寺・永応寺・安楽寺の順になっています。今回は、真宗興正寺の本末関係を見ていくことにします。由緒書きを省略して本末関係に絞って一覧表化したのが次の表です。
興正寺末寺
高松藩の興正寺末寺(御領分中寺々由来書)

ここからは、つぎのようなことが分かります。
①(48)「代僧勝法寺」がトップに位置します。
この寺が現在の高松御坊(高松市御坊町)になります。高松藩藩祖の松平頼重が大和国にあった寺を讃岐に持ってきて、高松の寺町に高松御坊・興正寺代僧勝法寺(高松市御坊町)を再建(実質的な創建)します。これが、京都興正寺の触係寺として大きな役割を果たすようになることは以前にお話ししました。高松藩の興正寺末寺の管理寺院ともいえる寺なのでトップに置かれるのは納得できます。
高松御坊(興正寺別院)
高松御坊(勝法寺)と付属の3寺(讃岐国名勝図会)
興正寺代僧勝法寺の周辺に、寺中が三ヶ寺置かれます。勝法寺が大和からやってきた寺で、讃岐に地盤がなく政治力もなかったので、その支えのために常光寺や安養寺の末寺がその周囲に配されます。そのうちの(49)覚善寺は、常光寺(三木郡)末、(50)西福寺は安養寺(香東郡)末、(51)徳法寺は覚善寺末(常光寺孫末)です。そのため本寺から離れて勝法寺に続けて記載されています。
 どうして松平頼重は、興正寺を特別に保護したのでしょうか?
それは松平頼重と興正寺住職との間の次のような婚姻関係に求められます。
①興正寺18世門跡准尊の娘・弥々姫が、松平頼重の父頼房(水戸藩初代藩主)の側室に上っていたこと
②自分の娘万姫が20世門跡円超の養女となり、のち円超の四男寂眠と結婚したこと
このような婚姻関係があったために松平頼重は興正寺に強く加担したと研究者は考えています。そのため「御領分中寺々由来書」では、興正寺と西東本願寺は、並列関係に置かれています。興正寺の扱いが高いのです。
 松平頼重は京都の仏光寺とも深い関係にありました。
そのために仏光寺の末寺を藩内に作ろうとします。「常光寺記録」には次のように記されています。

 松平頼重は讃岐にやってくると、まず常光寺から末寺の専光寺を召し上げた。専光寺は末寺を13ヶ寺ももつ寺であったが、この末寺13ヶ寺も合わせて差し出せ言って来た。常光寺は、それを断って3ヶ年の間お目見えせず無視していた。あるとき、頼重は「常光寺の言い分はもっともだ」と言って13ヶ寺を常光寺へ返えしてくれた

どうして専光寺を差し出せと常光寺に要求したのでしょうか?
 ここにも頼重と、仏光寺の姻戚関係がからんできます。松平頼重は延宝2(1674)年7月、興正寺19世准秀の息子・雄秀(実は弟)を養子として、10月に高松へ迎え、11月には仏光寺へ入室させています。つまり、松平頼重頼重の子(養子)が仏光寺の第20世の随如となったのです。随如は法号を尭庸上人といい享保6年に81才で没しています。頼重は自分の養子となった随如が仏光寺門跡となったのに、讃岐に仏光寺の末寺がないのを遺憾に思い、常光寺から専光寺を取りあげて仏光寺末にしたというストーリーを研究者は考えています。どちらにしても後に現れる仏光寺末寺は、高松藩の宗教政策の一環として政策的に作り出されたもののようです。「由来書」の項目には、仏光寺末寺はありません。高松藩に仏光寺末寺は、もともとはなかったのです。
真宗興正派常光寺末寺一覧
常光寺の本末関係

(56)の常光寺(三木町)は、真宗興正派の讃岐教線拡大に大きな役割を果たした寺院です。
 常光寺の部分を拡大してみておきましょう。ここからは次のようなことが分かります。
①常光寺は高松藩に45ヶ寺の末寺・孫末寺があった。これに丸亀藩分を加えるとさらに増えます。
②東本願寺の寺院分布が高松周辺に限定されるのに対して、常光寺の末寺は、仲郡にまでおよぶ。
興正寺の本末表を見ての第一印象は、西東本願寺に比べて複雑なことです。
 直末のお寺の間に、(56)常光寺や(97)安養寺などの多くの末寺をもつ「中本寺」があります。常光寺の末寺である(70)専光寺(香東郡)や善福寺(南条郡)もその下にいくつかの末寺をもっています。これは興正派の教線拡大の拠点時となった安養寺や常光寺の布教活動との関連があるように私は考えています。このふたつの寺院は、丸亀平野や三豊平野に拠点寺院を設け、そこから周辺への布教活動を展開し、孫道場を開いていき、それが惣道場から寺院へと発展するという経緯を示しめすことは以前にお話ししました。
本願寺 (角川写真文庫) - NDL Digital Collections

 西本願寺には『木仏之留』という記録が残っています。

これは末寺に親鸞聖人の御影などを下付する際には、下付したことの控えとするため『御影様之留』という記録に、下付する御影の裏書を書き写したものです。「寺々由来書」の真宗寺院のうち「木仏之留」に名があるのは、香東郡安養寺など22ヶ寺です。そのうち寛永18年8月25日に木仏の下付を受けた宇多郡クリクマノ郷下村明源寺」は、その後の記録に出てこない謎の寺ですが、他はその後の消息がたどれます。例えば常光寺を見てみると、寛永17年正月15日に木仏を授与されたことが裏書(本願寺史料研究所所蔵「常光寺史料写真」)にから分かります。しかし、西本願寺側の寛永17年の「木仏之留」は、今のところ見付かっていないようです。両方があると、裏がとれるのでより信頼性が増すことになります。
「木仏之留」の記事と、「寺々由来書」の由緒書は、どんな風に関わっているか?
両書の記事が一致する例として、(68)常光寺末の常満寺(三木郡)があります。
  『木仏之留』
釈良如―
寛永一八年十巳八月十六日
願主常満寺釈西善
右木仏者興正寺門徒常光寺下 讃州三木郡平本村西善依望也             (取次)大進
  『寺々由来書』
一 開基寛正年中西正と申僧諸日一那之以助力建立仕候事
一 寺之證檬者蓮如上人自筆六字之名号丼寛永年中木仏寺号判形共二申請所持仕候事
由来には寛永十八年八月十六日という日付はありませんが、寛永年中として抑えています。これと同じような例が残る寺としては、次の寺が挙げられます。
西本願寺末  山田郡源勝寺
興正寺末   安養寺末山田郡専福寺
興正寺末常光寺末 専光寺末三木郡福住寺
同末同郡 信光寺
阿州東光寺末大内郡善覚寺
阿州安楽寺末宇足部長善寺(まんのう町勝浦)
同末同郡 慈光寺
22ヶ寺の中で、15寺までは木仏下付のことを寺の證拠として挙げていて、8ヶ寺までは授与された年代も正確に伝えています。下付された各末寺と、下付した側の本願寺の記録が一致するということは、「寺々出来書」の由緒の記事は、ある程度信頼できると研究者は判断します。
真宗興正派安楽寺末寺
安楽寺の末寺(寺々由来書)

『寺々由来書』を見て、不思議に思うのが阿波の安楽寺が興正寺の末寺に入っていないことです。安楽寺は、興正寺から独立した項目になっています。高松藩の安楽寺の末寺については、以前に次のように記しました。
①美馬の安楽寺から三頭峠を越えて、勝浦村の長善寺や炭所村の尊光寺など、土器川の源流から中流への教線拡大ルート沿いに末寺がある。
②長尾城跡の周囲にある寺は、下野後の長尾氏によって開かれたという寺伝をもつ。
③地域的に、土器川右岸(東)に、末寺は分布しており、左岸に多い常光寺の末寺と「棲み分け現象」が見られる。
④(123)超正寺は、現在の超勝寺

この本末関係図に、安養寺が含まれていないのはどうしてでしょうか。安養寺の寺伝には、安楽寺出身の僧侶によって開かれたことが記されていることは、以前にお話ししました。しかし、ここでは安養寺は安楽寺末寺とはされていません。安養寺が安楽寺から離末するのは18世紀になってからです。

  以上、まとまりがなくなりましたが、今回はこれで終わります。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
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  前回は17世紀後半に成立した高松藩の寺院一覧表である「御領分中寺々由来書」の成立過程と真言宗の本末関係を見ました。今回は浄土真宗の本末関係を見ていくことにします。テキストは「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」です。

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来2
 
「御領分中寺々由来書」に収められた高松藩の各宗派の寺数は、浄上8、天台2、真言115、禅宗7、法華12、 一向129、律宗・時宗・山伏各1の計376寺です。各宗本山の下に直末寺院があり、それに付属する末寺は直末寺院に続けて記されています。そして各寺院には簡単な由緒が書き添えられています。この表は、研究者がその中から由緒の部分を省いて、本末関係だけに絞って配置したものです。真宗については「西本願寺・東本願寺・興正寺・阿州東光寺・阿州安楽寺」が本山としてあげられいます。まず西本願寺の末寺を見ていきます。
 西本願寺本末関係
「御領分中寺々由来書」の西本願寺末寺リスト
東から西に末寺が並びます。そこに整理番号が振られています。西本願寺末の寺院が22あったことが分かります。例えば一番最後の(22)の西光寺には(宇足)と郡名が記されているので、宇多津の西光寺であることが分かります。この寺は信長との石山合戦に、戦略物資を差し入れた寺です。本願寺による海からの教宣活動で早くから開かれた寺であることは以前にお話ししました。しかし、他の宇足郡のお寺から離れて、西光寺だけが最後尾にポツンとあるのはどうしてなのでしょうか? よくわかりません。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺(讃岐国名勝図会)

仲(那珂)郡の3つの寺を見ておきましょう。
(17)正覚寺(善通寺市与北町)は、買田池の北側の岡の上にあるお寺です。末寺に(18)正信とあります。これは、寺号を持たない坊主の名前のようです。このような坊主名と思われるものが(2)(3)(4)(6)(11)(15)(18)と7つあります。正式な寺号を名のるためには、本山から寺号と木仏などを下付される必要がありました。そのためには、数十両(現在価格で数百万円)を本寺や中本寺などに奉納しなければなりませんでした。経済基盤が弱い坊などは、山号を得るために涙ぐましい努力を続けることになります。
(19)の源正寺は、如意山の東麓にある寺です。
(20)の願誓寺は旧丸亀琴平街道の垂水町にあるお寺で(21)の光教寺(まんのう町真野)を末寺としていたようです。

 阿波安楽寺に残された文書の中に、豊臣秀吉の大仏殿供養法会へ出勤するようにとの本願寺廻状があり、その宛名に次のような7つの寺院名が挙げられます。
「阿波国安楽寺、讃岐国福善寺・福成寺・願誓寺・西光寺・正西坊、□坊」

これらの寺が、讃岐の真宗寺院の中心的存在だったことが推測できます。願誓寺も西本願寺の拠点寺院として、早くからこの地に開かれたことがうかがえます。
仲郡の西本願寺末の3つの寺を地図に落としてみます。

 西本願寺末寺(仲郡)
西本願寺末寺の正覚寺・源正寺・願正寺
これをみると3つの寺が与北周辺に集中していることが分かります。丸亀平野の真宗教線ラインの伸張は、東から常光寺(三木町)、南から阿波美馬の安楽寺によって進められたこと、このエリアの東側の垂水地区にある真宗寺院は、ほとんどが常光寺末だったことは以前にお話ししました。それが与北の如意山の北側の与北地区には、西本願寺に属するお寺が17世紀後半には3つ姿を見せていたことになります。その始まりは願誓寺だったようです。ちなみに、この3つ以外には、高松藩領の仲郡には西本願寺末の寺はなかったということです。
正覚寺
西本願寺末寺の正覚寺

続いて宇(鵜)足郡の西本願寺末の5つの寺を見ておきましょう。
(12)東光寺は丸亀南中学校の東南にあります。寺伝には開基について次のように記します。
「清水宗晴(長左衛門尉、後に宗洽と改む)の次男釈清厳か讃州柞原郷に住居し本光寺を開基す」

祚原の三本松(今の正面寺部落)に本光寺を建てたとあります。それが、元禄のころに寺の東に光り輝く霊光を見て現在地に移され、名を東光寺と改めたとされます。

土器川旧流路
郡家・川西周辺の土地利用図 旧流路の痕跡が残り土器川が暴れ川だったことが分かる
 以前にもお話ししたように近世以前の土器川や金倉川(旧四条川)は、扇状地である丸亀平野の上を山田の大蛇のように何本もの川筋になって、のたうつように流れていました。そこに霞堤防を築いて川をコントロールするようになったのは、近世はじめの生駒藩の時代になってからです。西嶋八兵衛によってすすめられたとされる土器川・金倉川の治水工事で、川筋を一本化します。その結果、それまでは氾濫原だった川筋に広大な開墾可能地が生まれます。開発した者の所有となるという生駒家の土地政策で、多くの人々が丸亀平野に開拓者として入り込んできます。その中には、以前にお話ししたように、多度津町葛原の木谷家のように村上水軍に従っていた有力武将も一族でやってきます。彼らは資金を持っていたので、周辺の土地を短期間で集積して、17世紀半ばには地主に成長し、村役人としての地位を固めていきます。このように西讃の庄屋たちには、生駒時代に他国からやってきて、地主に成り上がった家が多いように思います。その家が本願寺門徒であった場合には、真宗の道場を開き、菩提寺として本願寺末に入っていったというストーリーは描けます。
 東光寺は丸亀南中学校の南東にありますが、この付近一帯は木や茅などの茂った未開の地で、今も地名として残っている郡家の原、大林、川西の原などは濯木の続く原野だったのでしょう。その原野の一隅に東光寺が導きの糸となって、人々をこの地に招き集落ができていったとしておきましょう。
(13)万福寺は、大束川流域にある富隈小学校の西側の田園の中にあるお寺です。
(14)福成寺は、アイレックス丸亀の東にある岡の上にあり、目の前に水橋池が拡がります。
(15)「先正」という坊主名がつく道場については、何もわかりません。以後、寺号を獲得してまったくちがう寺院名になっていることも考えられます。

まんのう町称名寺
称名寺(まんのう町造田:後は大川山)
(16)称名寺は、土器川中流のまんのう町造田の水田の中にあります。
このエリアは、阿波の安楽寺が南から北の丸亀平野に伸びていく中継地にあたります。そこに、17世紀という早い時期に、本願寺末のお寺があったことになります。寺伝には開基は「享徳2(1453)年2月に、沙門東善が深く浄土真宗に帰依して、内田に一宇を建立したのに始まる。」と記します。
讃岐国名勝図絵には、次のように記されています。

「東善の遠祖は平城天皇十三代の末葉在原次郎善道という者にて、大和国より当国に来り住す。源平合戦平家敗軍の時、阿野郡阿野奥の川東村に逃げ込み、出家して善道と改む。その子善円、同村奥の明神別当となり、その子書視、鵜足郡勝浦村明神別当となり、その子円視、同郡中通村に住居す。その子円空、同所岡堂に居す。その子善圓、造田村に来り雲仙寺と号す。その子善空、同所西性寺に居れり。東善はその子にして、世々沙門なり」

ここには次のようなことが記されています。
①称名寺の開基・東善の祖先は、大和国の人間で源平合戦の落人として川東村に逃げ込み出家。
②その子孫は川東村や勝浦村の明神別当となり、祭礼をおこなってきた
③その子孫はさらに山を下って、中通村や造田村に拠点を構えてきた
源平合戦の落人というのは、俄に信じがたいところもありますが、廻国の修験者が各地を遍歴した後に、大川信仰の拠点である川東や勝浦の別当職を得て、定住していく過程がうかがえます。その足跡は土器川上流から中流へと残されています。そして、造田に建立されたのが称名寺ということになるようです。しかし、山伏がどうして、真宗門徒になったのでしょうか。そして、安楽寺の末寺とならなかったのかがよくわかりません。

称名寺 まんのう町
称名寺(まんのう町造田)

中寺伝承には、次のように伝えられています。
「称名寺は、もともとは大川の中寺廃寺の一坊で杵野の松地(末地)にあった。それが、造田に降りてきた」

この寺が、「讃岐国名勝図絵」にある霊仙寺(浄泉寺)かもしれません。造田村の正保四年の内検地帳に、「りょうせんじ」という小字名があり、その面積を合わせると四反二畝になります。ここは、現在の上造田字菰敷の健神社の辺りのようです。この付近に霊仙寺があったと研究者は推測します。どうもこちらの方が私にはぴったりときます。
以上をまとめておくと、次のような「仮説」になります。
古代からの山岳寺院である中寺の一子院として、霊仙寺があった。いつしか寂れた無住の寺に廻国の修験者が住み着き住職となった。その子孫が一向宗に転宗し、称名寺を開基した。

西村家文書の「称名寺由来」(長禄三卯年記録)には、次のように記されています。
享徳2(1453)年3月、帯包西勝寺の子孫のものが、一向宗に帰依し内田村に二間四方の庵室を建て、朝夕念仏をしていた。人々はそれを念仏坊、称名坊と呼んだ。

 これが称名寺の開基のようです。とすれば、称名寺は「帯包西勝(性)寺の子孫」によって、開かれたことになります。
  称名寺は、寛文5(1665)年に寺号公称を許可、元禄14(1701)年に、木仏許可になっています。また文化年間(1804)の京都の本願寺御影堂の大修復の際には、多額の復興費を上納しています。その時から西本願寺の直末寺の待遇を受けるようになったといいます。

  ここで西本願寺末寺になっているからといって、創建時からそうであったとは限らないことを押さえておきます。
  17世紀中頃の西本願寺と興正寺の指導者は、教義や布教方法をめぐって激しく対立します。承応二年(1653)12月末、興正寺の准秀上人は、西本願寺の良如上人との対立から、京都から天満の興正寺へと移り住みます。これを受け、西本願寺は各地に使僧を派遣して、興正寺門下の坊主衆に今後は准秀上人には従わないと書いた誓詞を提出させています。この誓詞の提出が、興正寺からの離脱同意書であり、西本願寺への加入申請書であると、後には幕府に説明しています。つまり、両者が和解にいたる何年間は、西本願寺が興正寺の末寺を西本願寺の末寺として扱っていました。それはこの期間に西本願寺が下した親鸞聖人の御影などの裏書からも確認することができます。江戸時代、西本願寺は末寺に親鸞聖人の御影などを下付する際には、下付したことの控えとするため「御影様之留」という記録に、下付する御影の裏書を書き写していました。西本願寺と興正寺が争っていた期間に、興正寺の末寺に下された御影の裏書には興正寺との本末関係を示す文言が書かれていません。
 両者の対立は、和解後も根強く残ります。対立抗争の際に、興正寺末から西本願寺末とされ、その後の和解後に興正寺末にもどらずに、そのまま西本願寺末に留まった寺院もあったようです。つまり、興正寺末から西本願寺末へ17世紀半ばに、移った寺院があるということです。高松藩の西本願寺末の22ケ寺の中にも、そんな寺があったことが考えられます。開基当初から西本願寺末であったとは云えないことになります。
最後に、東本願寺の末寺を見ておきましょう。

東本願寺末寺 高松藩内一覧
東本願寺の末寺
①17世紀後半の高松藩「御領分中寺々由来書」には、東本願寺末の寺が24ヶ寺挙げられている。
②高松の福善寺が7ヶ寺の末寺を持っている。
③東本願寺の末寺は高松周辺に多く、鵜足郡や仲郡などの丸亀平野にはない
ここからは現在、丸亀平野にある東本願寺のお寺は、これ以後に転派したことがうかがえます。
 気になるのは(27)西光寺(西本願寺末香西郡)が、(26)竜善寺と(28)同了雲との間にあることです。
西光寺については由緒書に「寛文六年二月、西本願寺帰伏仕」とあります。もとは東本願寺の孫末であったのを、西本願寺に改派したときに、西本願寺直末になったようです。そうだとすると、前回見た真言宗大覚寺末の八口(八栗)寺が仁和寺孫末の安養寺と直末屋島寺との間にあるのは、もとは仁和寺末であったのを、大覚寺末に改派したためと研究者は推測します。
また②の高松の福善寺は阿波安楽寺文書の中の「豊臣秀吉の大仏殿供養法会へ出勤依頼廻状」に名前があるので、16世紀末にはすでに有力寺院だったことことが分かります。7つの末寺を持っていることにも納得がいきます。

  以上をまとめておくと
①17世紀末に成立した高松藩の「御領分中寺々由来書」には、西本願寺末寺として22の寺院が記されている。
②22の寺院の内訳は「寺号14、坊名1、道場主名7」で、寺号を得られていない道場がまだあった。
③丸亀平野には真宗興正派の常光寺と安楽寺の末寺が多い。
④その中で、仲郡の3つの西本願寺の寺院は、与北の如意山北麓に集中している。
⑤鵜足郡の西本願寺の5寺は、分散している。その中には他国からの移住者によって開基されたという伝承をもつ寺がある。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献

浄土真宗の讃岐での教線拡大について、三木の常光寺と阿波美馬の安楽寺が果たした役割の大きさについて以前にお話ししました。

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来

そんな中で先達から紹介されたのが「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として―四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」です。松原秀明は、金毘羅宮の学芸員として、さまざまな史料を掘り起こし、その結果として「金毘羅大権現に近世以前の史料はない」ことを明らかにしていった研究者でもあります。彼が30年以上も前に発表した文章になります。

ウキには「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」について、次のように記します。
成立 寛文九(1668)年 写本 木田郡牟礼町洲崎寺
高松藩が各郡の大政所に寺社行政参考のために書上げさせたもの。神社は所在地・由来・変遷・祭礼・別当寺・神宝・社地・末社、寺院は宗派・創建・変遷・本末関係・諸堂・本尊・宝物・寺地などを記している。写本は文政13年写。活字本 新編香川叢書史料篇
 「御領分中寺々由来書」は、高松藩の寺院一覧表としては最古のものになります。
これが新編香川叢書史料篇におさめられて以後は、近世前半の寺院の簡単な由緒を知る時の史料として、「町史」などにはよく引用されています。原本は、牟礼町州崎寺にあり、「御領分中宮由来」と合せて一冊になります。表紙の題は、「御□□宮由来 右同寺々由来」と読めるようです。扉の題は次のように記されています。

「御領分中宮由来 寛文九酉年郡々大政所書上 同寺々由来 久保停有衛門 蔵書」

「宮由来」には標題はありませんが、「寺々由来書」には「御領分中寺々由来書」と書かれています。ここで押さえておきたいのは、「御領分中寺々由来書」と「御領分中宮由来」は合せて一冊であったことです。
  
 この史料を最初に世に出したのは、松浦正一氏です。
松浦氏は、昭和13年1月、「寺々由来書」を翻字して孔版印刷で関係者に配布します。松浦氏が出版した孔版本の奥書は「文政十三寅冬写 久保博右衛門 蔵書」という原本の奥書に続いて、次のように記されています。
「昭和十三年一月片一日 以御城俊氏蔵本篤之畢 於高松市天神前表誠館 松浦正一」

 蔵書していた御城俊騨氏は、州崎寺の前々住職になるようです。洲崎寺の住職が保存していたものを、松浦正一氏が見せられて、重要性に気付き簡易的に出版したようです。松浦氏は「宮由来」と「寺々由来書」について、「香川史学第二号」(昭和47年11月発行)の「中世讃岐の信仰」で次のように記します。

「御領分中寺々由来」は次に述べる『御領分中宮由来』と題する、高松藩領内の神社の調査と同じころに調べが行なわれ、藩に報告されたものと思われる。その寺と宮との調査は当時の藩主頼重公の命令で、各郡大庄屋によって調べられ、書き上げたもの」

 これを受けて昭和54年2月に発行された「新編 香川叢書 史料」に翻刻されたときの解説にも次のように記します。

「初代高松藩主松平頼重が社寺行政の資料とするため、領内各郡の大庄屋に書上げさせた報告書である」

「各郡の大庄屋に書上げさせた報告書」という説は、その後に出版された各市町村史にも受け継がれているようです。
 この通説に対して、松原秀明氏は次のように疑いの目を向けます。

①「宮由来」は大内・寒川・三木・山田・南条・北条・鵜足・那珂の郡別になっていること
②それぞれの末尾には「右之通、村々社僧・神主吟味仕、書上け申所相違無御座候、依て如件」という文言があること。
③具体的には次の通り
大内郡 寛文九酉年二月十一日
大山太郎左衛門
日下佐左衛門
寒川郡 寛文九年西二月
寒河都鶴羽浦  真鍋専右衛門
同神前村 蓮井太郎三郎
三木郡 寛文九年酉ノニ月朔日
三木部井戸村   古市八五郎
同ひかみ村   山路与三大夫
山田郡 寛文九年酉二月五日
岩荷八郎兵衛
佐野弥二右衛門
南条郡 寛文八申年
花房九郎右衛門
植松長左衛門
北条郡 寛文九酉年 月朔日
北条郡加茂村   宮武善七
鵜足郡 寛文九年酉ノ
久米膝八
内海次右衛門
那珂郡 寛文九年西ノニ月九日
高 畑 甚 七
新名助右衛門

ここには日付と大庄屋の署名があるので、「社僧・神主吟味」した上で、大庄屋が藩へ提出した書上げであることは間違いありません。しかし、成立年紀については、疑問が残るとします。それはこの時点では、あくまで各郡大庄屋の書上げ段階だからです。これを集めて書物にして「御領分中宮由来」という題名を付けたのは、それから何ヶ月か何年か後になるはずです。その際に、各大庄屋が高松に集まって編集会議を行って相談のうえで書名を決めたというのは、非現実的です。実際には、書上げを受取った藩の役人か、あるいはこの方面の事に興味を持つ誰かが、書上げを清書して「宮由来」と命名したというのが現実的だと研究者は指摘します。
 なお、「宮由来」には高松城下・香東・香西の部が欠けています。これは何かの事情で書上げが提出されなかったか、まとめられるまでに散逸したかのどちらかでしょう。もし、後者ならば書き上げ提出から、それがまとめられるまでに相当の年月があったことがうかがえます。
次に「寺々由来書」の方を見てみましょう。     
①浄土・天台・真言・禅・法華・一向の各宗派に分けて、寺院を次のような本山別に分類しています。
真言は仁和寺・大覚寺・誕生院、
禅宗は妙心寺・能州紹持寺
法華は身延・京都妙蓮寺・京都妙覚寺・尼崎本興寺・備州蓮昌寺
真宗は西本願寺・東本願寺・興正寺・阿州東光寺・阿州安楽寺
②収められた各宗派の寺数は、浄上8、天台2、真言115、禅宗7、法華12、 一向129、律宗・時宗・山伏各1の計376寺
③記載様式の特徴は、各宗本山の下に直末寺院があり、それに付属する末寺は直末寺院に続けて挙げてあること
④各寺院には簡単な山緒が書き添えがあること
しかし、ここには「宮由来」のように各郡の大庄屋の名前は、どこにもありませんし、作成年月も記されていません。

例えば、真宗興正派の教線拡大の拠点寺となった常光寺(三木町)の末寺・孫末寺30ヶ寺を郡別に見てみましょう。

真宗興正派常光寺末寺一覧
興正寺末寺の常光寺(三木町)の末寺一覧
 「御領分中寺々由来書」の常光寺(56)の末寺・孫末寺は高松2・寒川2・三木6・山田4・香東3・北条1・南条6・那珂6となっています。この表を「大庄屋が取調べて藩へ提出した」とすると、どのようにして調べたのでしょうか。考えられるのは
①各郡に散在する末寺諸院を、どこかの大庄屋が一人で調査した
②各郡の大庄屋が情報を持ち寄って、常光寺の末寺・孫末寺の書上げを作って、だれかがまとめた。
しかし、孫末寺までの複雑な本末関係関係を、大庄屋の手で調査したというのは現実的でないというのです。各宗本山ごとに国内の頭取の寺院が調査するか、あるいは末寺・孫末寺から提出させた調書の記事
をもとにして寺社奉行で作成したと考える方が自然だとします。どちらにしても「大庄屋が取調べて藩へ提出した」というのは、考えられないとします。
 次に真言宗寺院について、由緒記事を省略して本末関係のみを示した一覧表を見ておきましょう。

真言宗本末関係
高松藩真言寺院の仁和寺末寺

真言宗仁和寺の讃岐末寺
大覚寺末寺
ここからは次のようなことが分かります。
①高松藩内の真言寺院は、ほとんどが仁和寺・大覚寺両本山に属する。その他の末寺は、善通寺誕生院以外にはない。
②志度寺・白峰寺・八国(栗)寺は、末寺を持たない。
③孫末寺院は、大内・寒川・三木・山田という東から西への順序に並べられている。
④大覚寺末の三木郡八口寺(八栗寺)が仁和寺末聖通寺末の安養寺と仁和寺末屋島寺の間に入っている。以前は八栗寺は、仁和寺末であったことが考えられる。
⑤仁和寺末香東郡大宝院(115)が、誕生院末四ヶ寺の後、真言宗としては最後尾に置かれている
どうしてこのような順番や配列になるのか、研究者にも理由が分らないようです。しかし、全体を見渡すと、各寺院の本末関係は一目瞭然で、よく分かります。本末関係を確認するには、いい史料です。
今回は、このあたりまでとします。次回は真宗の本末関係を見ていくことにします。

  以上をまとめておきます。
①「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」は、同一冊にまとめられていたために、どちらも各郡の大庄屋によって書き上げられたものを、まとめたものとされてきた。
②しかし、「寺々由来書」については、庄屋によって作成された書上げを、藩がまとめたとは考えにくい。
③「寺々由来書」の成立は、寛文九(1668)年以後のことと考えられ、高松藩最古の寺院一覧表である。
④「寺々由来書」は17世紀後半の高松藩の寺院の本末関係や簡単な由来を知る際の根本史料となる。
⑤この書が「新編香川叢書史料篇」に入れられることによって、各寺院の寺伝や本末関係を知る際には欠かせない史料となっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来2

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丸亀市垂水の西教寺さんで、「真宗興正派はどのようにして讃岐に伝えられたのか」でお話しさせていただきました。そのポイントを何回かに分けてアップしておきたいと思います。
 真宗興正派の讃岐での教線拡大については、三木の常光寺と阿波の安楽寺が大きな役割を果たしたことは以前にお話ししました。そのことについて両寺の寺史が、どのように記しているのかを見ておきましょう。
近世の讃岐真宗興正寺派 三木の常光寺の丸亀平野への教宣拡大ルート : 瀬戸の島から
三木の常光寺

三木の常光寺は、幕末に高松藩提出した報告書に次のように述べています。
 『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕 
   ①仏光寺(興正寺)了源上人之依命会二辺土為化盆、浄泉・秀善両僧共、②応安元年四国之地江渡り、③秀善坊者阿州美馬郡香里村安楽寺ヲー宇建立仕、④浄泉坊者当国江罷越、三木郡氷上村二常光寺一宇造営仕、宗風専ラ盛二行イ候処、阿讃両国之間二帰依之輩多、安楽寺・常光寺右両寺之末寺卜相成、頗ル寺門追日繁昌仕候、
これを要約すると次のようになります。
①1368年、佛光寺(興正寺)が、浄泉坊と秀善坊を四国に派遣
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺
③秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺
④讃岐の真宗寺院のほとんどがいずれかの末寺となり、門信徒が帰依
この寺歴で、常光寺が伝えたかったのは以下のようなことでしょう。
①常光寺の開基が真宗寺院の中では一番古いこと
②真宗布教の拠点が常光寺と安楽寺で、両寺は興正寺の末寺で同時に開かれた兄弟関係の寺院であること 
③両寺の布教活動によって多くの末寺が開かれたために興正派寺院が多いこと。
そして、添付資料として常光寺の末寺一覧表がついています。その中に、垂水の西教寺や善行寺、西の坊などは記されています。つまり三木の常光寺から讃岐の内陸部を西に進んだ教線ラインが丸亀平野の南部にまで届いていたことが裏付けられます。この史料によって、讃岐への真宗伝播について従来の市町村史など記されてきました。

安楽寺3
安楽寺(美馬市郡里)

 しかし、常光寺から「同時に開基された興正寺末の兄弟寺」と指名された安楽寺が藩に提出した寺史には、次のように記されています。

 安楽寺寺歴
安楽寺開基について
①先祖は上総守護だったと記されています。それによると、鎌倉幕府内での権力闘争で、北条氏に敗れた。
②そのため親鸞の高弟の下に逃げ込んで、真宗に入信した。
③そして、縁者の阿波守護をたよってやってきた。
④すると、安楽寺を任されたので真宗に改めた。
ここには、寺の開基者は東国から落ちのびてきた千葉氏で、その寺なので山号が千葉山になるようです。また、開基は鎌倉時代にまで遡り、四国で最も古い真宗寺院だという主張になります。先ほど見た常光寺が1368年ですから、それよりも100年近くはやいことになります。
この内容を常光寺由緒と比べておきましょう。
安楽寺と常光寺寺伝比較
常光寺と安楽寺の由緒比較
以上から分かることは次の通りです。
①常光寺文書には、常光寺と安楽寺は興正寺(旧仏光寺)から派遣された2人の僧侶によって開かれたとあるが、これは安楽寺の寺伝との間に食い違いがある。
②安楽寺はもともとは、興正派でなく本願寺末であったことが考えられる。
③常光寺の開基年代も1368年というのは、僧侶を派遣した仏光寺(後の興正寺)の置かれた時代背景などから考えても、早すぎる年代である。
④四国への真宗教線が伸びてくるのは、蓮如以後で堺などに真宗門徒が現れて以後である。
つまり、讃岐への教線ラインの伸張は、16世紀になってからと研究者は考えているようです。
以上、今回は常光寺と安楽寺は兄弟寺ではなく、安楽寺はもともとは本願寺末として成立していたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考史料
「橋詰茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力
 須藤茂樹 戦国時代の阿波と本願寺 「安楽寺文書」を読み解く
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18世紀頃になると中本山である安楽寺から離脱していく讃岐の末寺が出てきます。どうしてなのでしょうか。その背景を今回は見ていくことにします。
本寺と末寺(上寺・下寺)の関係について、西本願寺は幕府に対して次のように説明しています。
「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」
              「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)
 ここには下寺(末寺)は、本山より上寺(中山)に預け置かれたものとされています。そして下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要とされました。上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、かなり厳しい上下関係があったようです。そのため、上寺の横暴に下寺が耐えかね、下寺の上寺からの離末が試みられることになります。
 しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、上寺の非法があったとしても、下寺の悲願はなかなか実現することはありませんでした。当時の幕府幕令では、改宗改派は禁じられていたのです。
  ところが17世紀になると情勢が変わってきます。本末制度が形骸化するのです。その背景には触頭(ふれがしら)制の定着化があるようです。触頭制ついて、浄土宗大辞典は次のように記します。

江戸時代、幕府の寺社奉行から出された命令を配下の寺院へ伝達し、配下寺院からの願書その他を上申する機関。録所、僧録ともいう。諸宗派の江戸に所在する有力寺院がその任に当たった。浄土宗の場合は、芝増上寺の役者(所化役者と寺家役者)が勤めた。幕府は、従来の本末関係を利用して命令を伝達していたが、本末関係は法流の師資相承に基づくものが多く、地域的に限定されたものではなかった。そのため、一国・一地域を区画する幕藩体制下では、そうした組織形態では相容れない点があった。そこで、一国・一地域を限る同宗派寺院の統制支配組織である触頭制度が成立した。増上寺役者は、寛永一二年(一六三五)以前には存在していたらしい。幕府の命令を下すときは、増上寺管轄区域では増上寺役者から直接各国の触頭へ伝達され、知恩院の管轄区域では、増上寺役者から知恩院役者へ伝えられ、そこから各国の触頭へ伝達された。

幕府に習って各藩でも触頭制が導入され、触頭寺が設置され、藩の指示などを伝えるようになります。浄土真宗の讃岐における中本山は、三木の常光寺と阿波の安楽寺でした。この両寺が、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがった真宗ネットワークの中心でした。しかし、各藩毎に触頭と呼ばれる寺が藩と連携して政策を進めるようになると、藩毎に通達や政策が異なるので、常光寺は安楽寺は対応できなくなります。こうして江戸時代中期になると、本末制は存在意味をなくしていきます。危機を感じた安楽寺は、末寺の離反を押さえる策から、合意の上で金銭を支払えば本末関係を解消する策をとるようになります。つまり「円満離末」の道を開きます。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、その配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

 安楽寺の高松平野方面での拠点末寺であった安養寺の記録を見ておきましょう。
西御本山
京都輿御(興正寺)股御下
千葉山 久遠院安養寺
一当寺開基之義者(中略)本家安楽寺第間信住職仕罷在候所、御当国エ末寺門従数多御座候ニ付、右間信寛正之辰年 香川郡安原村東谷江罷越追而河内原江引移建立仕候由ニ御座候、然ル所文禄四年士辛口正代御本山より安養寺と寺号免許在之相読仕候。
意訳変換しておくと
安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から第間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、何代か後に内原に道場を移転し、文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。

整理すると次のようになります。
①寛正元年(1460)に安楽寺からやってきた僧侶が香川郡安原村東谷に道場をかまえた。
②その後、一里ほど西北へ離れて内原に道場を移転(惣道場建立?)
③文録四年(1595)に本山より安養寺の寺号が許可

①については、興正寺の四国布教の本格化は16世紀になってからです。また安楽寺が興正寺末寺となり讃岐布教を本格化させるのは、讃岐財田からの帰還後の1520年以後で、三好氏からの保護を受けてのことです。1460年頃には、安楽寺はまだ讃岐へ教線を伸ばしていく気配はありません。安楽寺から来た僧侶が道場を開いた時期としては早すぎるようです。
安養寺 安楽寺末
安楽寺と安養寺の関係

②については、「香川郡安原村東谷」というのは、現在の高松空港から香東川を越えた東側の地域です。安楽寺のある郡里からは、相栗峠を挟んでほぼ真北に位置します。安楽寺からの真宗僧侶が相栗峠を越えて、新たな布教地となる香東川の山間の村に入り、信者を増やし、道場を開いていく姿が想像できます。そして、いくつもの道場を合わせた惣道場が河内原に開かれます。これが長宗我部元親の讃岐侵攻時期のことであったのではないかと思います。
 以前に見たまんのう町の尊光寺由来に「中興開基」として名前の出てくる玄正は、西長尾城主の息子として、落城後に惣道場を開いたとあります。つまり、惣道場が開かれるのは生駒時代になってからです。
③には安養寺の場合も1595年に寺号が許されるとあります。しかし、西本願寺が寺号と木仏下付を下付するようになるのは、本願寺の東西分裂(1601年)以後のことです。ちなみに龍谷大学の史学研究室にある木仏には次のように記されたものがあるようです。

「慶長12(1609)年、讃岐国川内原、安養寺」

この木仏は西本願寺→興正寺→安楽寺→安養寺というルートを通じて、安養寺に下付されたものでしょう。「寺号免許=木仏下付」はセットで行われていたので、寺号が認められたのも1609年のことになります。
 どちらにしても安養寺は、安楽寺の末寺でありながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院として発展します。そのため初代高松藩主としてやってきた松平頼重は、高松城下活性化と再編成のために元禄2(1689)年に、高松城下に寺地を与えて、川内原より移転させています。以後は、浄土真宗の触頭の寺を支える有力寺になっていきます。寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
真宗興正派安養寺末寺
安養寺末寺

安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)
安養寺末寺一覧
安養寺の末寺
  以上から安養寺は安楽寺の髙松平野への教線拡大の拠点寺院の役割を担い、多くの末寺を持っていたことが分かります。それが髙松藩によって髙松城下に取り込められ、触頭制を支える寺院となります。その結果、安楽寺との関係が疎遠になっていたことが推測できます。安養寺の安楽寺よりの離末は、宝暦七(1757)年になります。離末をめぐる経緯については、今の私には分かりません。

DSC02132
尊光寺(まんのう町長炭東) 安楽寺の末寺だった
まんのう町尊光寺には、安楽寺が発行した次のような離末文書が残されています。

尊光寺離末文書
安永六年(1777)、中本山安楽寺より離末。(尊光寺文書三の三八)

一札の事
一其の寺唯今迄当寺末寺にてこれあり候所、此度得心の上、永代離末せしめ候所実正に御座候。然る上は自今以後、本末の意趣毛頭御座なく候。尤も右の趣御本山へ当寺より御断り候義相違御座なく候。後日のため及て如件.
阿州美馬郡里村
安永六酉年        安楽寺 印
十一月           知□(花押)
讃州炭所村
尊光寺
意訳変換しておくと
尊光寺について今までは、当安楽寺の末寺であったが、この度双方納得の上で、永代離末する所となった。つてはこれより以後、本末関係は一切解消される。なお、この件については当寺より本山へ相違なく連絡する。後日のために記録する。

安楽寺の「離末一件一札の事」という半紙に認められた文書に、安楽寺の印と門主と思われる知口の花押があります。これに対して安楽寺文書にも、次のような文書があり離末が裏付けられます。
第2箱72の文書「離末、本末出入書出覚」
「安永七年四月り末(離末)」
第5箱190の「末寺控帳」写しに
「安楽寺直末種村尊光寺安永七年四月り末(離末)」
  このような離末承認文書が安楽寺から各寺に発行されたようです。

興泉寺(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅
興泉寺(琴平町)

この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)が安楽寺から離末しています。
  その時には、離末料300両を支払ったことが「興泉寺文書」には記されています。興泉寺は繁栄する金毘羅大権現の門前町にある寺院で、檀家には裕福な商人も多かったようです。そのため経済的には恵まれた寺で、300両というお金も出せたのでしょう。  
 尊光寺の場合も、離末料を支払ったはずですが、その金額などの記録は尊光寺には残っていません。尊光寺と前後して、種子の浄教寺、長尾の慈泉寺、岡田の慈光寺、西覚寺も安楽寺から離末しています。
 以前にお話ししたように、安楽寺は徳島城下の末寺で、触頭寺となった東光寺と本末論争の末に勝利します。しかし、東光寺が触頭として勢力を伸ばし、本末制度が有名無実化すると、離末を有償で認める方針に政策転換したことが分かります。17世紀半ば以後には、讃岐末寺が次々と「有償離末」しています。

 そのような中で、長尾の超勝寺だけが安楽寺末に残こります。
長勝寺
超勝寺(まんのう町長尾)
超勝寺は、西長尾城主の長尾氏の館跡に建つ寺ともされています。周辺の寺院が安楽寺から離末するのに、超勝寺だけが末寺として残ります。それがどうしてなのか私には分かりません。山を越えて末寺として中本山に仕え続けます。しかし、超勝寺も次第に末寺としての義務を怠るようになったようです。
超勝寺の詫び状が天保9(1838)年に安楽寺に提出されています。(安楽寺文書第2箱72)
讃州長尾村超勝寺本末の式相い失い、拙寺より本山へ相い願い、超勝寺誤り一札仕り候
写、左の通り。
(朱書)
「八印」
御託証文の事
一つ、従来本末の式相い乱し候段、不敬の至り恐れ入り奉の候
一つ、住持相続の節、急度相い届け申し上げ候事
一つ、三季(年頭。中元。報思講)御礼、慨怠無く相い勤め申し上ぐ可く候事
一つ、葬式の節、ご案内申し上ぐ可く候事
一つ、御申物の節、夫々御届仕る可く候事
右の条々相い背き候節は、如何様の御沙汰仰せ付けられ候とも、毛頭申し分御座無く候、傷て後日の為め証文一札如件
讃岐国鵜足郡長尾村
            超勝寺
天保九(1838)年五月十九日 亮賢書判
安楽寺殿
意訳変換しておくと
讃岐長尾村の超勝寺においては、本末の守るべきしきたりを失っていました。つきましては、拙寺より本山へ、その誤りについて一札を入れる次第です。写、左の通り。
(朱書)「八印」
御託証文の事
一つ、従来の本末の行うべきしきたりを乱し、不敬の至りになっていたこと
一つ、住持相続のについては、今後は急いで(上寺の安楽寺)に知らせること。
一つ、(安楽寺に対する)三季(年頭・中元・報思講)の御礼については、欠かすことなく勤めること。
一つ、葬式の際には、安楽寺への案内を欠かないこと
一つ、御申物については、安楽寺にも届けること
以上の件について背いたときには、如何様の沙汰を受けようとも異議をもうしません。これを後日の証文として一札差し出します。
これを深読みすると、安楽寺の末寺はこのような義務を、安楽寺に対して果たしてきていたことがうかがえます。丸亀平野の真宗興正派の寺院は、阿讃の山を超えて阿波郡里の安楽寺に様々なものを貢ぎ、足を運んでいた時代があることを押さえておきます。

安楽寺の末寺総数83ケ寺の内の42ケ寺が安永年間(1771~82)に「有償離末」しています。讃岐で末寺して残ったのは超勝寺など十力寺だけになります。(安楽寺文書第2箱108)。離末理由については何も触れていませんが先述したように、各藩の触頭寺を中心とする寺院統制が整備されて、本山ー中本山を通して末寺を統制する本末制が有名無実化したことが背景にあるようです。

来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
常光寺(三木町)
このような安楽寺の動きは、常光寺にも波及します。
幕末に常光寺が藩に提出した末寺一覧表には、次の「離末寺」リストも添付されています。
安養寺末寺一覧
常光寺の高松藩領の離末リスト

これを見ると髙松藩では、18世紀前半から離末寺が現れるようにな
ります。
常光寺離末寺
常光寺の離末リスト(後半は丸亀藩領)

そして、文化十(1813)年十月に、多度・三豊の末寺が集団で離れています。この動きは、先ほど見た安楽寺の離末と連動しているようです。安楽寺の触頭制対応を見て、それに習ったことがうかがえます。具体的にどのような過程を経て、讃岐の安楽寺の末寺が安楽寺から離れて行ったのかは、また別の機会にします。
常光寺碑文
常光寺本堂前の碑文
常光寺本堂前の碑文には、上のように記されています。75寺あった末寺が、幕末には約1/3の27ヶ寺に減っていたようです。

以上をまとめておくと
①讃岐への真宗伝播の拠点となったのは、興正派の常光寺(三木町)と安楽寺(阿波郡里)である。
②両寺が東と南から讃岐に教線を伸ばし、道場を開き、後には寺院に格上げしていった。
③そのため讃岐の真宗寺院の半分以上が興正派で、常光寺と安楽寺の末寺であったお寺が多い。
④しかし、18世紀になると触頭制度が整備され、中本山だった常光寺や安楽寺の役割は低下した。
⑤そのような中で、中世以来の本末関係に対して、末寺の中には本寺に対する不満などから解消し、総本山直属を望む寺も現れた
⑥そこで安楽寺や常光寺は、末寺との合意の上で金銭的支払いを条件に本末関係解消に動くようになった。
⑦安楽寺を離れた末寺は、興正寺直属の末寺となって行くものが多かった。
⑧しかし、中にはいろいろな経緯から東本願寺などに転派するお寺もあった。
⑨また、明治になって興正寺が西本願寺から独立する際に、西本願寺に転派した寺も出てきた。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号

常光寺末寺1
常光寺の末寺一覧(高松藩領の一部)
前回は真宗興正寺派の中本山である常光寺(三木町)が、教線ラインを丸亀平野まで伸ばし、上表のように多くの末寺を支配下に納めていたことを見てきました。その中で19世紀になると、丸亀藩の末寺のほとんどが常光寺から離脱し「離末寺」となっていました。これは、阿波の安楽寺末の寺院にもいえることです。18世紀後半から常光寺や安楽寺などの中本寺と云われる有力寺院から末寺が離脱していく傾向が強まるようです。その背景には何があったのかを、今回は見ていくことにします。残念ながら讃岐には本末離脱を探れる史料がありません。

安楽寺1
安楽寺(美馬市郡里) 地元では「赤門寺」と呼ばれ興正寺派の中本山だった

あるのは阿波郡里の安楽寺です。安楽寺は先代の住持が大谷大学の真宗史の教授で、最後には学長も務めています。そして、安楽寺に残っていた文書を「安楽寺文書」として出版しています。今回は、美馬市の千葉山安楽寺に残る「安楽寺文書」の中に出てくる本末論争を見ていくことします。テキストは「須藤茂樹 近世前期阿波の本末論争―美馬郡郡里村安楽寺の「東光寺一件」をめぐって」です。
安楽寺末寺
安楽寺と讃岐布教の拠点となった末寺
 安楽寺については、以前にお話ししたように、阿讃山脈を越えて教線を伸ばし、丸亀平野や三豊平野に道場を形成し、それを真宗寺院に発展させ、多くの末寺とした中本寺です。そして、京都・本願寺-京都・興正寺-阿波国・安楽寺-末寺というネットワークの中に、讃岐の真宗寺院は組み込まれていきます。
寛永三年(1626)に安楽寺が徳島藩に提出した「末寺帳」 があります。
そこには、安楽寺末寺は阿波に18、讃岐に49、伊予4、土佐に8合計78ケ寺を数え、真宗の中本寺として四国最大の勢力を誇っていたことが記されています。徳島藩から寺領75石を宛がわれ、最盛期には末寺84ケ寺を誇るようになります。他にも郡里村にある勤番寺と隠居寺合せて8ケ寺を支配します。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
 安楽寺の阿波・讃岐の末寺分布図
東讃地区の末寺
光明寺(飯田)金乗寺(檀紙)安楽寺末東光寺下の光明寺(石田〉善楽寺(富田)西光寺(馬宿)善覚寺(引田)蓮住寺(鴨部)真覚寺(志度)

中讃地区
興泉寺(榎井)大念寺(櫛無)浄楽寺(垂水〉西福寺(原田)専立寺(富隈)超正寺(長尾)慈泉寺(長尾)慈光寺(岡田)西覚寺(岡田)専光寺(種)善性寺(長炭)寺教寺(種)長善寺(勝浦)   妙廷寺(常清)長楽寺(陶)
三豊地区
宝光寺(財田)品福寺(財田)正善寺(財団)善教寺(財団)最勝寺(財団〉立専寺(流岡)西蓮寺(同)仏証寺(坂本)光明寺(坂本〉善正寺(柞田)宝泉寺(円井)徳賢寺(粟井)

ところが18世紀頃から讃岐の末寺が安楽寺から離脱していく末寺が出てきます。
その原因となったのが本末論争とよばれる本寺と末寺の争論です。別の言い方をすれば「上寺・下寺との関係」です。これについては、「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)に、次のように記されています。
「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」

ここには、上寺の役目は下寺から本山へ寺号・木仏・絵像・法物・官職・住持相続等を願い出るとき取次ぎをしたり、下寺に違法がある場合、軽罪は上寺が罰し、重罪は本山に上申して裁断を仰ぐ、と規定されています。
 このように下寺は、本山より上寺に預け置かれたものとされ、下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要でした。そのための上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、かなり厳しい上下関係があったようです。そのため、上寺の横暴に下寺が耐えかね、下寺の上寺からの離末が試みられることになります。
 しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、上寺の非法があったとしても、下寺の悲願はなかなか実現することはありませんでした。当時の幕府幕令では、改宗は禁じられていましたが、宗派間の改派は認められていたので、下寺の離末・直参化の道はただ一つ、改派する以外にはありませんでした。つまり、興正寺派の場合ならば、西本願寺か東本願寺などの他の会派に転じるということです。しかし、これには、門徒の同意が必要になります。どちらにしても、本末論争は下寺にとって越えなければならない障害が多い問題だったようです。これだけの予備知識を持って、安楽寺と東光寺の本末論争を見ていくことにします。
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東光寺(徳島市寺町)

天寿山東光寺は、徳島城下の寺町にある浄上真宗興正寺に属した寺院です。

寛永11年(1625)、本寺の安楽寺からの離脱を図りますが、結果的には離脱はかなわなかったようです。東光寺が安楽寺から離脱しようとした背景は、何なのでしょうか?
東光寺は、城下町徳島の寺町にあり、藩士や有力商人・豪商を門徒に数多く持っていたようです。そのため経済的にも豊かで、その財力によって本願寺教団内部での地位の向上を図り、寺格を高め、阿波での発言力を高めていったようです。そして、本寺である安楽寺からの離脱を早くから計ろうとします。その動きを史料で見ておきましょう。
(史料1)東光寺跡職に付一札(『安楽寺文書』上巻7頁) 
「東光寺講中から入院願之状」
以上
態令申候、乃而東光寺諸(跡力)職に付而、をねヽと正真坊を申含、東光寺之住寺二相定申候、若正信坊別心候ハゝ、当島之御もんと中をねゝ得付可申候、為後日一筆如件、
慶長六(1601)年拾月廿八日
青山積(勝力)蔵(花押)
梯九蔵
土田彦経兵衛(花押)
梯藤左衛門(花押)
馬渡市左衛門(花押)
森介三(花押)
東へや
藤左衛門(花押)
きの国や
与大夫(花押)
まふりや
四郎右衛門(花押)
天工寺や
善左衛門(花押)
ぬじやの
平十郎(花押)
しをや
惣有衛門(花押)
半回
与八郎(花押)
益田
橘右衛門(花押)
       東光寺講中
安楽寺様
まいる
  「史料1」慶長六年(1601)に東光寺講中が次期住持職の選任件について、本山安楽寺への報告した文書です。事前の承認を安楽寺に求めたりするものではなく、結果報告となっています。ここには東光寺講中14人の署名があります。その構成は、武士と商人がそれぞれ6人、その他2人となっています。特に商人たちは、徳島城下町の有力者たちだと研究者は指摘します。ここからは東光寺の門徒は、武士や有力商人層で、経済的に豊かであったことがうかがえます。そのため彼らを檀家に持つ東光寺の経済基盤はしっかりとしたものとなり、その財政基盤を背景に本願寺内部での地位向上を図るようになります。
 例えば、東光寺は寛永12(1625)年には余間一家(本願寺における着席の席次に基づく格式の一つ)の位を得ています。
 西本願寺では、院家・内陣・余間・廿四輩・初中後・飛檐(国絹袈裟)・総坊主の階層があり、それに応じて法会などでの着座順位が定まっていました。上位3つにの「院家・内陣・余間」は三官と呼ばれて、戦国期の一家衆に由来する高い階級でした。
 寺号免許や法宝物の下付、官職昇進については、本山への礼金や冥加金の納入が必要でした。西本願寺の場合、「公本定法録 上」(「大谷本願寺通紀」)には、その「相場」が次のように記されています。
木仏御礼     五両二分
木仏寺号御礼 十一両
開山(親鸞)絵像下付 二四両二分
永代飛檐御礼 三三両一分
永代内陣(院家)御礼金五〇〇両
内陣より院家への昇進 五〇〇両
官職の昇進に必要な冥加金のほか、定期的に年頭・中元・報恩講の御礼金を上納しなければなりません。東光寺は、城下町に立地する裕福な寺院として、冥加金や上納金を納めて寺格を高めていったようです。東光寺が任命された頃には、余間一家は全国でわずかに31ケ寺で、四国では東光寺以外にはありませんでした。こうして、東光寺は阿波真宗教団における発言権を強めるにつれて、安楽寺の末寺であることが窮屈になり、不満を持つようになります。
 寛永三年(1626)の「四ケ国末寺帳」に、東光寺は安楽寺の末寺として記されています。東光寺はこのことを不服として、寛永11年(1634)に安楽寺からの離脱を試みるようになります。
この動きに対して、安楽寺の尊正が本願寺の下間式部卿に宛てた書状を見てみましょう。
「史料2」東光寺一件に付安楽寺尊正書状草案(安楽寺文書)
尚々東光寺望之儀、其元隙人不申候様二奉頼候、以上、
東光寺被罷上候間、 一書致啓上候、上々様御無事二御座被成候哉、
承度奉存候、去年ハ讃州へ御下向被成候処、御無事二御上着被成之段、誠有難奉存候、
東光寺望二付被上候、如御存知私末寺代々事候条代々下坊主之事候間、其御分別被成候て、其元二而隙入不申候様二御取合奉頼候、担々御浦山敷儀御推量可被成候、不及申上候へ共、右之通可然様二奉頼候、何も乗尊近口可罷上之条、其刻委可申上候間不能多筆候、恐性謹言、
     安楽寺
寛永拾弐(1635)年 卯月十六日
進上
下間式部卿様
人々御中
意訳変換しておくと
東光寺が望んでいる(安楽寺からの末寺離脱の)件について、そのことについては、耳にしなかったことにしてお聞きにならないようにお願い致します。東光寺の件については、以前に文書を差し上げたとおりです。
 上々様は無事に職務を果たしていると承っています。昨年は讃岐へお出でになり、無事に京にお帰りになられたとのことで、誠にありがたく存じます。
東光寺の申出については、ご存じの通り代々、東光寺は私ども安楽寺の末寺です。下坊主の分別をわきまえて、本寺よりの離脱申請などには取り合わないようお願いします。
ここには、安楽寺は、東光寺の離脱願いを相手にしないで欲しい、はっきりと却下して欲しいと依頼しています。
 「昨年は讃岐へお出でになり、無事に京にお帰りになられたとのことで、誠にありがたく存じます。」というのは、讃岐の安楽寺の末寺を下間式部卿が視察訪問したことへのお礼のようです。安楽寺が本願寺に内部においても、高い位置にあったことが分かります。

はじめ東光寺は安楽寺と話し合いの上で本末関係を解消し、興正寺直参になろうとしたようです。
その経過がうかがえるのが次の「東光寺一件に付口上書草案」(『安楽寺文書』上巻です
(前欠)
可給、於左様ニハ、鐘を釣り寄進可仕と申候て、与兵衛と申東光寺家ノをとなヲ指越申候処二、中々不及覚悟二義、左様之取次曲事二之由申二付、与兵衛手ヲ失罷帰申候、末寺に□無之候ハ如何、
様之調仕候哉、
一其段東光寺申様、右同心於無御座ハ、副状被成可被下と申候故添状仕、式部卿様へ宜□申候処二、此状上不申由、式部卿様より被仰下驚入申候、か加様迄之不届義仕候二付、今度両度まて人を遣尋申処二、私ハ五年三年居申者二而御座候ヘハ万事不存候間、但方へ尋可有と両度之返事二而御座候条、左様二面ハ埒明不申故、先以西教寺ヲ致吾上候間、有体二被仰付可被下候、以上、
寛永十三(1636)年
二月二日                安楽寺
式部卿様
まいる
一部を意訳変換しておくと
東光寺は釣鐘を寄進する旨を、与兵衛と東光寺家がやってきて申し出てきました。しかし、末寺のそのような申し入れは受けられないと断わりました。与兵衛は為す術もなく帰りました。末寺の分際を越えた振る舞いです。

ここからは、東光寺が安楽寺への鐘を寄進するので、それと引き換えに本末関係を解消して欲しい旨を申し入れていることが分かります。しかし、安楽寺の拒絶によって話し合いは落着しなかったようです。そこで東光寺は、方針を変えて安楽寺の末寺ではないと申し立て、本末争論が始めます。
それが寛永十九(1642)四月晦日の安楽寺から本願寺の下間式部卿への書状から分かります。
(史料4)東光寺一件成敗に付願書控(「安楽寺文書」上巻17頁)
申上ル御事
先度双方被召寄、御吟味被成候へ共、否之義於只今不被仰付迷惑仕候、
一 理非次第二仰付可被下候哉、
一 東光寺せいし二被仰付候哉、但私せいし二被仰付候哉、
一 私国本之奉行方へ御状御添可被下候哉
右之通被仰上相済申様奉頼候、此度相済不申候ハゝ、下坊主・門徒之義不及申、世門(間)へつらいだし不罷成候、急度仰付可被下候、
         安楽寺
寛永十九(1642)四月晦日
下間式部卿様
意訳変換しておくと
下間式部卿に申し上げます
先日は、当方と東光寺の双方が京に呼び寄せられ、本末論争について吟味を受けました。しかし、東光寺の申し出を「否」とする決定が下されず、当方としては迷惑しております。、
一 白黒をはっきりと下していただいきたい
一 東光寺の誓詞が正しいのか、私共の誓詞が正しいのかはっきりと仰せつけ下さい、
一 徳島藩の奉行方へ、決定文を添えて書状をお送り下さい
以上についてお計らいいただけるようにお願い致します。この度の件については、下坊主・門徒に限らず、世間が注視しています。急ぎ結論を出していただきますよう。
         安楽寺
寛永十九(1642)四月晦日
下間式部卿様
京都の本山で安楽寺と東光寺双方が呼び寄せられ吟味がなされたようです。しかし、はっきりとした結論が出されなかったようで、これに対して「迷惑」と記しています。そして、今後の本願寺への要望を3点箇条書きにしています。本願寺内部でも、東光寺の内部工作が功を奏して、取扱に憂慮していたことがうかがえます。

それから1ヶ月後に、東光寺から安楽寺に次のような「証文」が送られています。
「史料5」東光寺一件裁許に付取替証文写(『安楽寺文書』)
端裏無之
今度其方と我等出入有之処二、興門様致言上、双方被聞召届、如前々之安楽寺下坊主なミニ東光寺より万事馳走可仕旨被仰付候、御意之趣以来少も相違有之間敷候、為後日如此候、恐々謹百、
寛永拾九(1642)年             東光寺
五月十四日             了 寂判
安楽寺殿
意訳変換しておくと
この度の安楽寺と我東光寺の争論について、本願寺門主様から双方の言い分を聞き取った上で、東光寺は従来通り安楽寺の下坊主(末寺)であるとの決定書を受け取りました。これについていささかも相違ないことを伝えます。恐々謹百、

 寛永19年(1642)五月に、本寺の興正寺の調停で、本末争論は終結し、両寺は約定書を交換しています。東光寺からの証書には、「東光寺は従前通り安楽寺の末寺」とされています。これは、幕府の「本末の規式を乱してはならない」という方針に基づいた内容です。東光寺の財力を背景にしての本末離脱工作は、この時点では敗訴に終わったようです。
 安楽寺はこれを契機に、末寺に対して本山興正寺に申請書を出すときは、必ず本寺安楽寺の添状を付して提出するように通達し、これについての末寺の連判を求めています。いわば末寺に対する引き締め政策です。これは讃岐の安楽寺の末寺にも、求められることになります。
本末制から触頭制へ
 東光寺はその経済力と藩庁所在地に位置しているという地理的条件の良さによって、触頭(ふれがしら)の地位を得ます。触頭制について、ウキは次のように記します。
触頭とは、江戸幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のこと。本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。
 寛永13年(1635年)に江戸幕府が寺社奉行を設置すると、各宗派は江戸もしくはその周辺に触頭寺院を設置した。浄土宗では増上寺、浄土真宗では浅草本願寺・築地本願寺、曹洞宗では関三刹が触頭寺院に相当し、幕藩体制における寺院・僧侶統制の一端を担った
 従来の本末制は安楽寺の場合のように、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがったネットワークで、いくつも藩を抱え込みます。藩毎に通達や政策が異なるので、本寺では対応できなくなります。これに対して触頭制は、藩体制に対応した寺院統制機構で、江戸時代中期以後になると、寺院統制は触頭制によって行われるようになります。触頭制が強化されるにつれて、本末制は存在意味をなくしていきます。危機を感じた安楽寺は、末寺の離反する前に、合意の上で金銭を支払えば、本末関係を解く道を選びます。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、安養寺配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

常光寺離末寺
常光寺の離末寺院一覧

 前回に三木の常光寺末寺の一覧表を見ました。その中に「離末寺」として挙げられているかつての末寺がありました。ここには高松藩以外の満濃池御領(天領)の玄龍寺や丸亀藩の多度郡・三豊の末寺が並んでいます。これらが文化十(1813)年十月に、集団で常光寺末を離れていることが分かります。この動きは、安楽寺からの離末と連動しているようです。安楽寺の触頭制対応を見て、それに習ったことがうかがえます。具体的にどのような過程を経て、讃岐の安楽寺の末寺が安楽寺から離れて行ったのかは、また別の機会にします。

以上をまとめておくと
①中世以来結ばれてきた本末関係に対して、末寺の中には本寺に対する不満などから解消し、総本山直属を望む寺も現れた
②しかし、江戸時代によって制度化され本末制度のなかでは離脱はなかなか認められなかった。
③それが触頭制度が普及するにつれて、本末制度は有名無実化されるようになった。
④そこで安楽寺は、末寺との合意の上で金銭的支払いを条件に本末関係解消に動くようになった。
⑤その結果、常光寺も丸亀藩や天領にある寺との末寺解消を行った。
⑥安楽寺を離れた讃岐の末寺は、興正寺直属末寺となって行くものが多かった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  須藤茂樹 近世前期阿波の本末論争―美馬郡郡里村安楽寺の「東光寺一件」をめぐって―  四国大学紀要
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四国各県の宗派別寺院数と真宗占有率
香川県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が真宗で、それは約47%になります。その中でも興正寺派の占める割合が非常に多いようです。その背景として、次のような要因が考えられることを以前にお話ししました。
①15世紀に仏光寺(後の興正寺)が教勢拡大拠点として三木に常光寺、阿波の郡里(美馬市)に安楽寺を開き、積極的な布教活動を展開したこと
②本願寺も瀬戸内海沿い教線拡大を行い、宇多津に西光寺などを開き、周辺への布教活動を行ったこと
③戦乱の中で衰退傾向にあった真言勢力に換わって、農民層に受けいれられたこと
④髙松藩が興正寺派と幾重もの姻戚関係を結び、その保護を受けたこと
讃岐の浄土真宗寺院分布図
浄土真宗寺院の分布図
この中の①の阿波の安楽寺の丸亀平野方面への教線拡大過程は以前に押さえましたが、常光寺のうごきについては見ていませんでした。そこで、今回は常光寺の教線拡大ルートを見ていきたいとおもいます。テキストは 「藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号」です。
来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
興正寺派の布教拠点となった常光寺(三木町)

江戸時代後半の19世紀前半に、常光寺が髙松藩に提出した由緒書きが残っています。それを見ると、常光寺というお寺の性格が分かります。
『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕(意訳)
 当寺の創建は、足利三代将軍義満の治世の時(1368年)とされます。泉洲大鳥領主で生駒左京太夫光治の次男政治郎光忠と申すものが発心し、法名浄泉と名前を改め、仏光寺で修行しました。その後、常光寺の号を与へられました。仏光寺門下に秀善坊という者がいて、安楽寺と号していました。
 あるときに仏光寺了源上人は、二人に四国への教線拡大を託します。浄泉と秀善のふたりは、ともに応安元年に四国へ渡り、秀善坊は、阿州美馬郡香里村安楽寺を創建しました。一方、浄泉坊は当国へやって来て、三木郡氷上村に常光寺を建立します。布教活動の結果、教えは阿讃両国の間にまたたくまに広がり、真宗に帰依する者は増えました。こうして安楽寺・常光寺の両寺の末寺となる寺は増え続け、日を追って両山門は繁昌するようになりました。
 開基の浄泉より百余年後の文明年中(1469~87年)、五代目の住侶浄宣のことです。仏光寺の経豪上人は本願寺蓮如上に帰依し、仏光寺を弟経誉上人に譲り、蓮如上人を戒師にして、その頼法名を蓮教と改名し、京都山科の口竹に小庵を構へました。その寺は、蓮如上人より興正寺と名付けられました。これを見て、蓮教を慕う当寺の浄定坊も仏光寺末を離れて、文明年中より興正寺蓮教上人の末寺となりました。こうして、応安元年に浄泉坊は当寺を建立しました。
22代の祖まで血脈は連残し、相続しています。
要約すると
①足利義満の時代に(1368)に、佛光寺(後の興正寺)了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣した。
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿波美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依した。
④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。

以上は、300年以上経た19世紀になってから常光寺で書かれた由緒書きなので、そのままを信じることはできないにしても、大筋は認められると研究者は考えているようです。
常光寺や安楽寺は14世紀後半に創建されたとされますが、それが教線を拡大していくようになるのは16世紀になってからになるようです。この報告書には、続きがあります。そこには、常光寺の末寺が次のように列挙されています。
常光寺末寺1
常光寺末寺 1(髙松藩領内)
常光寺末寺2
常光寺末寺(前半髙松藩 後半丸亀藩領内)

かつて末寺あった寺としてあげられているのが次の通りです。
(年号は離末した年)
常光寺離末寺
常光寺離末寺(末寺を離れた寺院)

ここからは次のようなことが分かります。
①常光寺は興正寺の中本山として、41ケ寺の末寺をその管理下においていたこと。
②最盛期には、豊田郡流岡村(観音寺市)や、三野郡麻(三豊市)にまで末寺があり、三豊まで教線を伸ばしていたこと
③離末していく寺が18世紀になって増え、文化10(1813)年には多度津以西の寺が集団で離末していること

丸亀平野の末寺に絞り込んで見ると次の通りです。
①那珂郡七ケ村 円徳寺
②      垂水村 善行寺
③      垂水村 西教寺
④      原田村 寶正寺
⑤垂水村 西 坊     (円徳寺末寺)
丸亀藩領
⑥那珂郡 田村  常福寺
⑦那珂郡 佐文村 法照時(円徳寺末)
⑧那珂郡 苗田村 西福寺(円徳寺末)
旧末寺
⑨那珂郡 榎井村 玄龍寺
⑩多度郡  吉田村 西光寺
⑪多度郡 下吉田村浄蓮寺
⑫多度郡 三井村 円光寺
⑬多度郡 弘田村 円通寺

興正寺派常光寺末寺
丸亀平野の常光寺末寺分布地図
この中で①の円徳寺(現まんのう町七箇照井)は、⑤⑦⑧の3つの末寺を持っていたようです。
円徳寺・法照寺本末関係
那珂郡南部の常光寺の本末関係

常光寺の教線拡大図に阿波・安楽寺の末寺を重ねてみましょう。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
阿波郡里の安楽寺の末寺分布図
興泉寺(榎井)大念寺(櫛無)浄楽寺(垂水〉西福寺(原田)専立寺(富隈)超正寺(長尾〉
慈泉寺(長尾)慈光寺(岡田)西覚寺(岡田)尊光寺(種)善性寺(長炭)寺教寺(種)長善寺(勝浦) 妙廷寺(常清)長楽寺(陶)
安楽寺も勝浦の長善寺などを拠点に、教線ラインを次第に「讃岐の山から里へ」と伸ばしていく様子が浮かび上がってきます。
常光寺と安楽寺の教線拡大ラインと比較すると次のようになります。
常光寺 
三木から三豊へと讃岐を東西に結ぶ内陸の農村部を中心にした教線拡大ライン
安楽寺
阿波郡里から讃岐山脈を越えて丸亀平野や三豊平野に下りていく、南から北への教線拡大ライン

クローズアップして、現在の丸亀市垂水の両寺の末寺を見てみます。

垂水の興正寺派末寺
丸亀市垂水の善光寺・正教寺・浄楽寺

 以前にお話ししたように垂水は古代においては、土器川の氾濫原で条里制施行の空白地帯だったエリアです。それが中世になって有力武士団などによって、治水灌漑が行われ耕地整備が進んだと研究者は考えているようです。それを示すかのように、現在でも土器川生き物公園は、土器川の氾濫寺の遊水池として近世には機能していました。いわば土器川氾濫原の中世の開発地区が垂水や川西地区だと私は思っています。この開拓への入植農民達への布教活動を活発に行ったのが真宗の僧侶達だったのではないでしょうか。宗教的な情熱に燃える真宗僧侶が東の常光寺から、南の阿波安楽寺からやってきます。そして、道場が開かれ寺に成長して行くという道をたどったようです。
例えば、垂水の善行寺と西教寺は、もともとは常光寺の末寺で、善行寺は寛文年中(1661~72)に、西教寺は寛永年中(1624~44)に木仏・寺号を許されたといいます。

一方、この両寺の間にある浄楽寺は、讃岐名所図会に次のように安楽寺末寺と記されています。
一向宗阿州安楽寺末寺 藤田大隈守城跡也 塁跡今尚存在せり

とあり、1502年に藤田氏の城跡に子孫が出家し創建したと伝えられています。また、まんのう町買田の恵光寺の記録には、次のように記されています。
(この寺はもともとは、(まんのう町)塩入の奥にあった那珂寺である。長宗我部の兵火で灰燼後に浄楽寺として垂水に再建された

 琴南町誌には、現在も塩入の奥に「浄楽寺跡」が残り、また檀家も存在することが記されています。 以上から、垂水の藤田大隅守の城跡へ、塩入にあった那珂寺が垂水に移転再建され浄楽寺と呼ばれるようになったようです。どちらにせよ安楽寺の教宣拡大戦線の丸亀方面の最前線に建立された寺院であるといえます。この寺は、寛永年中に寺号を許されたようで、後には安楽寺を離れて西本願寺末となります。

  垂水の真宗興正派の3つのお寺を見ると、まさに西に向かって伸びていく常光寺の教線ラインと、北に伸びていく安楽寺の教線ラインが重なったのが丸亀平野なのだと思えてきます。このようなふたつのルートの存在が互いのライバル心となり、さらに浄土真宗の丸亀平野での拡大にはずみをつけたのかも知れません。これが16世紀半ばから17世紀前半にかけてのことです。
 これを真言宗の立場から見てみるとどうなるのでしょうか。
例えば当時の真言勢力の拠点と考えられるのは、阿野北平野では白峰寺、丸亀平野では善通寺です。これらの寺院は中世には、いくつもの子院や別院を持ち、多くの伽藍を擁する大寺院に成長し、僧兵を擁していた可能性もあることは以前にお話ししました。しかし、戦国時代になると戦乱と西讃岐守護の香川氏などの周辺武士団の押領を受けて勢力を失っていきます。白峰寺や善通寺・弥谷寺なども16世紀後半には、それまでの伽藍の姿が大きく縮小し、子院の数も激減しているのが残された絵図からは分かります。讃岐の真言勢力は衰退の危機的な状態にあったと私は考えています。そういう中で、古い衰退していた寺を、真宗僧侶は中興し、真宗に宗派替えしていきます。
 浄土真宗への転宗寺院の一覧表を見てみましょう。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗転宗一覧
 ここからは、次のことがうかがえます。
①どの宗派から真宗に転宗した寺院が多いか
②どの郡に転宗寺院が多いか
①については、密教系修験者の山林寺院が多かった天台・真宗からの転宗が多いことが分かります。
②については、鵜足・那珂・多度郡など丸亀平野を中心とする中讃地域に多いことが分かります。
また、転宗時期は、天文年間以降に多く見られます。この表からも讃岐で真宗寺院が増加していくのは天文年間以後であったことが裏付けられます。
  
次の表は各史料に書かれた讃岐の浄土真宗の創建年代を、年代別に示したものです。
讃岐の真宗寺院創建年代
16世紀までの讃岐の真宗寺院創建年代

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐最初の浄土真宗のお寺は、暦応4年(1341)に屋島沖の大島に創建された法蔵院(現真行寺)
②14世紀中に設立されたとする32寺院について、常光寺のように史料的に裏付けられるものは少ないこと
③讃岐における浄土真宗寺院の増加は16世紀以後のことであること。
④16世紀半ば以後に、真言・天台の大寺が衰退し、その勢力が弱まったこと。具体的には修験者の活動が停滞したこと。
⑤その隙間を狙うように、真宗興正寺派の教宣ルートが丸亀平野に延びてきたこと。

上の讃岐における真宗寺院創建年代を、更に詳しく郡別に分けた次のような表を研究者は作成しています。
四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗創建年代一覧
讃岐真宗寺院創建年代一覧(郡別)
ここからは16世紀までに創建されたとされる真宗寺院は、香川・阿野(綾)・鵜足・那珂に多いことが分かります。
以上のデータから当時の常光寺や安楽寺の教宣拡大戦略を私なりに考えて見ると次のようになります。
①戦乱の中で今まで大きな力を持ていた白峰寺や善通寺が衰退している。
②そのため多くの修験者や聖達が離れて、農村部への布教活動もままならない状態となっている。
③丸亀平野では「宗教的空白地帯」が生まれている。
④これは我々にとっては大きなチャンスである。丸亀平野を真言から「南無阿弥陀仏」念仏に塗り替えるときがやってきた。
⑤我々の新天地は、丸亀平野に在り! 丸亀平野が我々の西方浄土である!
⑥この仏の与えたチャンスをいかすために、我々の教宣活動の中心を丸亀に向ける
このような戦略が16世紀前半には立てられ、それが実行に移され浄土真宗寺院の数が増え出すのが16世紀半以後と私は考えています。

 一方このような浄土真宗の拡大に危機感を持った真言僧侶もいたはずです。
その一人が西長尾城の城主の弟とされる宥雅です。彼は善通寺で修行を重ねていましたが、長尾氏の勢力下でも増え続ける照度真宗のお寺や道場、真宗僧侶の布教活動のようすを見て脅威や危機感を感じていたののではないでしょうか。その対応策として考えたのが、松尾寺の守護神として新たな流行神である「金毘羅神」を祀るということでした。私は金毘羅神は、丸亀平野での真宗拡大に対する真言側の対応の一つ出ないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号
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白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853年)
 白峯寺境内には多くの堂舎が立ち並び、札所寺院として独特の整った景観をみせています。これを幕末の讃岐国名勝図会と比べて見ると子院の一乗坊などは神仏分離で姿を消しましたが、白峯寺の伽藍には大きな変化はないことが分かります。白峯寺の特徴は、境内には崇徳天皇を祀る頓証寺殿があることです。そのため頓證寺と本来の白峯寺の2つのエリアに分けられ、西側に頓証寺殿、その北東の斜面に白峯寺の堂舎が立ち並びます。頓証寺殿は後小松天皇の扁額にもあるように、中世には頓証寺という寺号をもつ別の寺であったことを押さえておきます。

P1150677
白峯寺勅額門

今回は紫陽花の花見遊行の白峯寺で考えたことの最終版です。
本坊前を通って護摩堂で西に折れて参道を歩いて行くと、正面に勅額門が見えてきます。そこまでの参道の周囲に植え込まれた紫陽花が見頃でした。花に夢中になって、崇徳陵への入口を見逃してしまうほどです。そして、勅額門の前にやってきました。

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白峯寺勅額門 奧が頓證寺拝殿(頓證寺殿)
門には「第75代 崇徳上皇 白峯寺 頓證寺殿」と掲げられています。ここで疑問に思ったのがどうして「頓證寺殿」なのかということです。推測になりますが、中世には白峯山には、次のふたつの異なる寺院と、数多くの子院が存在していました。
①山林修行の拠点としての白峰寺
②崇徳上皇陵の慰霊管理のための頓證寺
これが次第に白峰寺に合体化されていきます。そのため頓證寺は白峰寺に属する「殿(建物)」と解釈します。
頓證寺の門である勅額門から見ていきます。

頓証寺殿勅額門 三間一戸八脚門、切妻造り、本瓦葺。
延宝8年(1680)建立(寺伝)

頓証寺の入口を飾る大規模な八脚門です。「勅額門」とよばれるのは、室町時代中期に後小松天皇震筆の額が掲げられていたからのようです。
白峯寺 頓證額
寺号額「頓證寺」
その扁額は重要文化財に指定され今は宝物館に保管されていますので、現在のものは複製になるようです。この門には、保元の乱で上皇として戦った源為義・為朝父子像を随身として安置しています。死後の世界では悔い改めて、崇徳上皇を守るという意思表明でしょうか?どちらにしても天皇を祀る「神社」的な色合いの濃い建物と云えそうです。県下の八脚門では国分寺・志度寺等に次いで古く保存もいい状態です。
 勅額門は八脚門としては「工夫のこらされた、特異な形式の門」だと研究者は指摘します。
工夫が凝らされている所を見てみましょう。まず棟通りの中央二本の柱が、両妻や正・背面の柱より高く作ってあります。そのためこの二本の柱と前後の柱とは、海老虹梁で繋ぎます。さらにその下には飛貫が通り、上には柱頂部と桁を繋ぐ虹梁が架かるので二本の柱と正・面の柱は、強固に繁がれることになります。

白峯寺 勅額門2
白峯寺 勅額門1

東通りの柱は虹梁形の頭貫で繋ぎ、台輪を載せ、これらは妻まで到達します。妻では棟通りの柱の上に三物を組激、妻飾の虹梁が載っていますが、上記虹梁形頭貫・台輪は妻の虹梁と組み合って、妻側へその鼻を突出させることになります。
白峯寺勅額門2
白峯寺勅額門東側
妻飾では棟木と行との中間に身舎桁を一本ずつ通しています。が、これは内部には通されておらず、いわば見せかけの構造となっています。正面両脇間の飛貫と頭貫の間には透かし彫りの欄間を入れ、中備は菊花として、随所に付けられた拳鼻や絵様肘木は多様な絵様繰形で飾られます。特に妻の雲紋・波紋を彫る絵様は見ていても楽しいものです。専門家は、勅額門を次のように評価しています。
構造形式の上でも意匠の面でも傑出した特色を持つ極めて質の高い八脚門
 
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この門からは、正面に拝殿が見えてきます。ここから見る拝殿(頓證寺殿)は、お寺の風情ではありません。まさに神社の拝殿のようです。そんな演出をプランナーでもあり、オーナーでもあった松平頼重は、狙っていたのかも知れません。拝殿の背後に崇徳上皇陵があるのですが、それは隠れて全貌は見えません。

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白峯寺頓證寺殿

  いろいろな種類の紫陽花を楽しみながら拝殿までやってきました。改めて見ると、お寺の建物とは違います。まさに神社の「拝殿」です。このお寺の性格が「神仏混淆」色を色濃く帯びていることが改めて分かります。この拝殿について見ておきましょう。

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白峯寺頓證寺殿

頓證寺拝殿 延宝八年(1680 棟札)
拝殿は桁行七間という規模で、正面と背面に三間の軒唐破風付向拝を付けた壮大な建物です。内部は両端から二間目に円柱二本ずつを立てて、それぞれ梁行に虹梁形飛貫で繋ぎ、その上を板壁として、中央三間と両脇二間ずつの空間に区分しています。しかし、建具を入れて仕切っているわけでもないようです。このような構成は、横長の平面の神社拝殿ではよく見られるようです。今は一間おきに3つに分けられて、祀られているのは
中央 崇徳天皇
向かって右側 本地仏(十一面観音)
向かって左側 相模坊(相模大権現の大天狗)
正面の向拝は頭貫木鼻を龍頭として、中備蟇股に透かし彫りの彫刻を入っています。これに対して背面の向拝では絵様・繰形付の木鼻、蟇股も板蟇股で、正面と背面で「格差」があるようです。向拝の繋ぎは海老虹梁を入れ、唐破風の菖蒲桁受けの組物の背後に手挟を入れています。(下の写真①)
白峯寺 頓證寺拝殿3
白峯寺頓證寺殿

本体の中備は正・側面の中央間が蟇股です。それ以外は人字形割束を用いています。桟唐戸の上部の入子板には輪違いや麻の葉等の幾何学模様を彫り込んでいます。装飾金具も各部に丁寧に打たれています。
見てきたように装飾に手が込んでいますが、決して派手にはならず、和様を基調とした端正な形式と意匠でまとめられています。「十七世紀後期の上質な建物で、背後の三殿と併せて、形式も特異な建物として極めて重要」と研究者は評価します。

さて、この拝殿の向こう側は、どうなっているのでしょうか?
つまり拝殿と崇徳陵の間には何があるのかというのが、私の素樸な疑問でした。

P1150690
崇徳陵遙拝所への通路
相模坊天狗の横から拝殿の後側に廻ってみます。西行像にお参りして、拝殿横を抜けて後に回り込みます。奧には崇徳陵の石垣とその上の玉垣は見えます。
P1150697
白峯寺遙拝所からみた頓證寺殿の背後
しかし、拝殿背後は本殿があるようなのですが、木々が茂っていてよく分かりませんでした。後日、図書館から借りだした「白峯寺調査報告書NO2」の中に、拝殿と附属建物の関係が描かれた次の平面図を見つけることが出来ました。
白峯寺 頓證寺殿拝殿平面図
頓證寺殿拝殿平面図(拝殿と崇徳上皇殿などの三棟は廊下でつながる)
 
 ここからは、拝殿は、背後に並び建つ崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所であったことが改めて分かります。そして、今は一間おきに背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。かつては、拝殿で崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して密教の修法が行われていたことがうかがえます。そういえば、前回に見たように善如龍王への雨乞祈祷も、この拝殿で行われていたと史料にあったのを思い出します。次に拝殿奥の3つの建築物を見ていくことにします。

白峯寺 頓證寺 金毘羅参詣名所図会
頓證寺拝殿と三社の関係図(金毘羅参詣名所図会1853年)

崇徳上皇殿 延宝八年(1680 棟札)一間社、隅本入春日造、鋼板葺    
頓証寺拝殿の中央後方約13mの所に立つ隅本入春目造の建物です。春日造としては規模が大きいようです。組物は出組を用いますので、背面の妻飾の虹梁は柱筋よリー手外へ持ち出されることになります。

白峯寺 頓證寺崇徳上皇殿
崇徳上皇殿の妻飾
頭貫木鼻と組物の拳鼻が上下に重なり、頂部にも拳鼻が上下二段に重なります。しかし、全体的には装飾の少ない端正な建物の印象を受けます。この社殿は、近世には崇徳天皇の御影を安置していたようで、頓証寺との寺号もありました。しかし、崇徳上皇殿は建築形式としては神社本殿の形式です。それなら、なぜ神社にせずに「頓證寺」なのでしょうか? その宗教的位置付けはよく分かりません。なお、延宝8年建立の棟札には「崇徳天皇御社」と記されています。

白峯寺 頓證寺殿十一面観音
本地堂の十一面観音堂(崇徳上皇の本地仏)
本地堂(十一面観音堂) (1680 棟札)
 面三間、側面二間、背面二間、宝形造、向拝一間、本瓦葺   
白峯寺拝殿の東より後方5mほどの所に立つ宝形造の仏堂です。
本地堂は十一面観音堂・十一面堂とも呼ばれており、崇徳天皇の本地仏十一面観音を祀る建物で、建築形式も仏堂の形態をとっています。
正面は柱間三間ですが、側・背面は二間なので、二間堂と呼ぶべきと研究者は指摘します。組物は出三斗と簡素ですが、肘本に笹繰を付けられ、壁から外へ出る肘木には拳鼻を載ります。小規模な仏堂ですが。「丁寧で気の利いた意匠」と研究者は評価します。
白峯寺 頓證寺本地堂
頓證寺殿 本地堂向拝見返し
 内部には柱がなく、背面柱筋に寄せて仏壇を設けています。

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頓證寺殿の相模大権現の額

白峯権現堂(鎮守堂)  一間社流造、鋼板葺    延宝八年(1680 棟札)
白峯寺拝殿の左奧後方3mほどの所に立つ流造の社殿です。組物はすべて連三斗、中備は蟇股、妻飾は虹梁大瓶束を用いた簡素な流造で、「特徴がないのが特徴」の社殿のようです。天鼻・拳鼻は、隣の崇徳上皇殿とよく似ています。また、浮彫の絵様を彫りだした懸魚、垂木先端に金具を打つ丁寧な仕事ぶりは、拝殿背後の三棟に共通していると研究者は指摘します。
白峯寺 頓證寺白峰大権現妻飾
白峯寺頓證寺殿 白峰大権現妻飾

怨霊化した崇徳上皇は大天狗となって祟りを振りまいたとされますが、その子分として活躍したの相模坊です。彼は天狗信仰の持ち主の修験者で、後世には白峰大権現として祀られるようになります。
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拝殿前の白峰大権現像
中世の白峰山は天狗信仰で有名でした。これを真似て象頭山金光院も金比羅を天狗信仰の中心地にしようとします。近世初頭の白峰も金比羅も天狗信仰(大権現)の拠点であったことが、このような形で残っているようです。崇徳上皇を祀った社殿とは違って、建築形式も最も一般的な神社本殿の形式を採っています。
以上からは頓證寺拝殿は、背後の崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所で、三棟で共用できる桁行の長い拝殿を建てたことが分かります。
現在は、三棟と拝殿は廊で結ばれていますが、そこに使われている材料からは近代になってから付け加えられたものと研究者は指摘します。それを19世紀に描かれた3つの絵図で確認してみましょう。

白峯寺 頓勝因拝殿変遷

一番上の寛政十二年(1800)刊行の「四国遍礼名所図会」にはそれらしいものが描かれています。真ん中の弘化四年(1847)刊行の「金毘羅参詣名所図会」や一番下の嘉永六年刊行の「讃岐国名勝図会」には、それらしいものは描かれていません。現在の廊が近代になって作られたことは、ある程度裏付けられるようです。
 どちらにしても、三棟を一間おきに拝殿に接続するプランで拝殿が建てられていることには違いありません。このように神仏を祀る複数の建物を、ひとまとめにするような拝殿はほとんど例がないようです。例としては、円教寺(兵庫県)鎮守の乙天社と若天社の二棟の護法堂の前には、桁行七間の拝殿がありますが頓証寺のような規格性は見られません。護法堂と拝殿との間も大きく開いています。頓証寺は全体の配置が極めて独特なのです。このような今までにないプランを指示できるのは、松平頼重しかいないように私には思えます。

17世紀末に造られた頓證寺拝殿は、どのように使われてきたのでしょうか?
今は一間おきに、背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。が、かつては崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して、密教の修法が行われていたことがうかがえます。しかし、それだけではなかったことを教えてくれる史料が残っています。慶応四年(1868)八月に勅使が来た際の堂内の荘厳を示す「頓証寺荘厳図」(白峯寺聖教宝蔵80-72)です。

白峯寺 頓證寺荘厳図2
「頓証寺荘厳図」

これを見ると、大壇は中央にのみ置かれ、両脇間の背面に寄せて三宝に載せた御供と御神酒が供えられています。西端の二間分には勅使の座が設えられています。おそらく崇徳上皇御忌日に勅使が参拝したものでしょう。この時には、三壇は置かれていません。
 再建以前の頓証寺本地堂は「六間四面」の建物であったのを四宇に分けたものと延宝七年(1679)本地堂再建棟札に記されています。また承応二年(1653)刊行の「四国遍路目記」にも、その内部について次のように記されています。
其傍二九間四面ノ堂ヲ立テ、中ニハ天皇ノ御影、是ハ御法体ノ時、仁和寺ニテ御震筆二遊シ絵像ナリ、前ニハノ御母義御持尊ノ阿弥陀ノ三尊在り、大壇ノ中央ニハ使者ノ鳶ヲ木像二造テ在、右ハ相模坊自作ノ像在、是ハ頭襟結袈裟スル袴ニテ、有ニハ剣ヲ持、左二念誦フトリ玉フ中々恐キ体也、其前二天皇御守本尊在、中ハ釈迦、左右二大師卜太子ノ像在り、前二相模坊、左右二不動毘沙門也、

意訳変換しておくと
その(白峯陵)傍らに九間四面の堂を建立し、中には崇徳天皇の御影が安置された。これは、御法体の時に仁和寺で御震筆二遊シ絵像である。そこには御母御持尊の阿弥陀三尊があり、大壇中央には使者の鳶木像で造ったものある。右には、相模坊自作の自像がある。その姿は頭襟結袈裟の袴姿で、右手には剣を持ち、左には念誦る姿で、恐しき姿である。その前に天皇御守本尊(十一面観音?)があり、真ん中に釈迦、左右に大師と太子の像がある。前に相模坊、左右二不動毘沙門が置かれている。


ここからは、中世には「崇徳上皇御影 + 阿弥陀三尊 + 鳶の木像 + 相模坊自作の自像 + 十一面観音 + 釈迦・太師・大師 + 不動明王・毘沙門天」などの多くの神仏が置かれていたことが分かります。これが中世の「白峰寺 + 頓證寺」をとりまく宗教的な環境とも云えます。まさに神仏混淆です。ここから拝殿の前身は、崇徳上皇の御影堂というべき建物だったと研究者は考えています。

江戸時代初期になって、中世の白峰寺の姿を描いたとされる「白峯山古図」には、この拝殿はどのように描かれているのでしょうか。
白峯寺古図 本堂への参道周辺

ここには、頓證寺には拝殿や三棟はありません。ただ一棟の「御本社」と勅額門が描かれているだけです。白峯寺古図については、以前にお話したように、絵図の中に描かれている2つの三重塔が発掘調査で確認されていて、その「情報信頼度」が高い絵図です。
ここからは中世には、頓證寺は「御本社」1棟のみで、崇徳上皇の御影堂的な性格であったことが裏付けられます。とすれば、1680年の再建で、頓証寺は大きく「変容」したことになります。つまり、この時に、御影・本地仏・相模坊などが、一堂にあったものを、それぞれを祀る建物と拝殿に分離したのです。この背景には何があったのでしょうか? そこには、近世の国学思想に基づく神仏分離の思想が背景にあったと研究者は考えています。
松平頼重の心の内を覗いて見ると、次のようなものだったと私は考えています。
白峯寺を崇徳上皇慰霊の聖地として復興させよう。そのためにまずは、慰霊施設となる頓證寺を再建させる。その際に、いまの「御本社」の状態は何とかしなければならない。御影とその他のものが一堂に秩序なく、並べられているのは恐れ多いことである。崇徳上皇の御影以外をすべて排除するのは、抵抗が大きく、白峯寺の僧侶たちの同意も得られないだろう。とすれば、崇徳上皇の化身である十一面観音と、相模坊信仰の白峰大権現は別の建物を建てて、そこに祀ろう。そして拝殿は共通にする。限りなく神式であるが運営は、僧侶たちが行う。そんな構想で頓證寺の整備計画を進めさせよう。

「応永十三年(1406)の奥書を持つ「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
建長五年(1253)に崇徳上皇の菩提を弔うために二十一日の供僧を定め、二十一口の供僧を定め、「十二時不断の法花の法」を修すこととし、翌六年からは法華会と称した

十六世紀後期に書写された「建長年中当山勤行役定」も「毎年八月法花会法事」と記します。
ここからは、次のようなことが分かります。
①中世には崇徳上皇の菩提は、仏事によって弔われていたこと。
②「法花会法事」を担った供僧二十一人は、中世末期の十六世紀の「八講人数帳」「恒例如法経結番帳」に記された院家数と一致すること。
天皇の菩提を弔う供僧が、そのまま寺院を構成する院家となって近世まで受け継がれる例は、京都鳥羽の安楽寿院にもあるようです。天皇の墓を核とした白峯寺でも、このような寺院組織の形成と継承が行われていたと研究者は推測します。そうだとすると崇徳上皇の墓が設けられる以前からあった白峰寺は、13世紀中期以降は頓証寺の供僧二十一口を構成メンバーとする新たな寺院に転換したとして、研究者は次のように指摘します。
頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)を継承し、近世にいたって、頓証寺の伽藍を再編し、白峯寺も再興した

と見ることもできると研究者は指摘します。そのような変容を経た姿が現在の頓証寺と白峯寺と云うのです。
以上をまとめておきます。
①白峯寺は経済的に藩の庇護を受けていただけではなく、藩お抱えの宮大工集団が派遣されて、堂宇の造営・修理に当たっていたことが棟札からは分かること。
②白峯寺と頓証寺の境内は、17世紀後期に松平頼重によって再興され、さらに19世紀前期までにいくつかの建物が改築され、現在に至ること。
③これらの建築物は、高い技術をもった大工集団の手によるもので、その質は高い。
④とくに頓証寺の堂舎は質的な高さに加えて、従来の中世以来の崇徳上皇を祀る施設を、機能毎に分離して近世的な施設に変容させた独特の建築構成を持っていること。
研究者は④を、建築史的に高く評価します。崇徳上皇殿などの三棟を後方に控える間口七間の拝殿は、松平頼重の宗教政策の中からうまれてきたプランの可能性が高いと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  山岸 常人 白峯寺の建造物  調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会

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白峯寺の善如龍王社(雨乞いの水神)
 白峯寺は真言系修験者と関係が深かったので、雨乞いを始め、数々の祈祷が行われていました。例えば、幕末の文久3(1863)年写の「御上並びに檀那御祈祷帳」の中には、「五穀御祈予壽御札守」を1・5・9月の15日に髙松藩の寺社役所へ差し出していることが記されています。ここからは、白峯寺が髙松藩の公認の下に、領内農業安定のための祈祷を定期的に行っていたことが分かります。

この祈祷帳には、次のような祈祷依頼者名(檀那名)が記されています。
①瀬居島太郎兵衛(塩飽瀬居島)、積浦(庄内半島)30軒、宮浦25軒
②正月15日に「長日護摩切札」と「五穀御札」を阿野郡北の13か村へ11255枚配布
③正月15日に、各村の政所には五穀大札を配布。
④京都諏訪加兵衛・大坂鴻池市兵衛からの祈祷依頼
⑤備前下津丼講組の紀ノ國屋利右衛門をはじめ18人へ、下津井大黒屋三次郎・三好屋祐十郎を介して御守を配布
ここからは地元の阿野郡北との関係だけでなく、瀬戸内海の島々や対岸の下津井などの人々からも信仰を集め、その依頼に応えて祈祷が行われたり、祈祷札を配布していたことが分かります。

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白峯寺大師堂

寛政4(1792)年の「大師堂再建勧進」の版木には、次のように記されています。
「大師堂のミ仮堂のままにして、いまた経営ならされは、もろ人に助力を乞て、今や建立なさん事を希のミ」

意訳変換しておくと
大師堂だけが未だに仮堂のままである。再興計画が進まないので、諸人に助力をお願いして、建立に向けて動き出すことになった。

 ここには、再建計画が進まない大師堂について、「もろ人に助力を乞」うて、勧進僧達が活動を進める決意が述べられています。こうして、太子堂建設に向けての勧進活動が始まったようです。
白峯寺 伽藍詳細図
白峯寺伽藍図
その約10年後の享和3(1803)年8月には、阿野郡北の氏子が次の修復を藩に願いでて許可されています。
①御成御門西手入口の塀重門
②同所の石垣際東西20間、
③同所東打迫より勅額門までの石垣を石の玉垣にすること
③の石垣についてはこれまで「参詣人群集之節者危キ義」となっているのが解消されるし、「他所者等罷候節、見込みも宜相成」ると、危険箇所の改善にもなるし、参拝者の評判もよくなるとして白峯寺も歓迎しています。
19世紀になると、金毘羅大権現では石段や玉垣が整備され、参道が石造化していきます。それを進めたのは、阿波や土佐などの讃岐以外の参拝者の寄進活動でした。それが、白峯寺にも及んできたようです。金毘羅大権現と違うのは、寄進者が地元の信者たちであるということです。
白峯寺に関心持って 重文指定記念事業スタート 散華シールや御姿札を授与 | BUSINESS LIVE

白峯寺の石造物などの整備状況を年表化してみると
文化2年(1805)  西浜の嘉助による官庫宝前の石階の築造
文政12年(1829)「当山講中共」から伽藍本堂南の空地への、高さ一丈ほどの宝塔造立
天保12年(1841) 橋下権蔵・安藤庄兵衛による白峯大権現本社・十王堂の再建
「民間資本」の導入によって伽藍整備が進められているのが分かります。前回見たように白峯寺は江戸時代中期までは、高松藩主である松平家の保護、援助を受けることで伽藍整備が進められました。それが19世紀になると地元の阿野郡北の村々や氏子、当山講中、丸亀講中など民衆の援助によって、白峯寺の運営が維持されるという面も増えてきます。これは、金毘羅大権現や弥谷寺をめぐる状況と共通点が多いようです。
白峯寺 頓證額
頓證寺額
白峯寺には、丸亀城下に白峰講が組織されていました。その働きぶりを見ておきましょう。
宝暦13年(1763)は、崇徳院の六百年回忌にあたっていました。
そのため藩の許可を得て、2月から4月に「開帳」が行われることになっていました。そのため白峯寺の九亀講中が正月に、丸亀と多度津の船着き場へ案内建札を立てます。これに対して金毘羅大権現の関係者からクレームがつきます。金昆羅参詣者たちが白峯寺参詣へ獲られて、参拝者が減るという抗議です。これについて対応したのは、白峰寺ではなく、白峰寺の九亀講中の人たちでした。彼らは丸亀の町年寄へ願い出て、丸亀城下町の善通寺誕生院の旅宿「里坊」から、九亀藩寺社奉行へ立札設置許可を願い出るという手を打ちます。その結果、「開帳建札」は、丸亀藩の許可を得て、次の箇所に設置されることになります。
丸亀城下が新京橋・船入橋・中部(府)の三か所
多度津は米屋七右衛門が持参して立てること
    金毘羅大権現関係者も、丸亀藩の公式許可をえたことに、これ以上口出しはできません。
これについて後日、白峯寺は斡旋仲介を行ってくれた丸亀講中の次の有力者にお礼を持参しています。(「白峯寺大留」7-2)。
丸亀通町大年寄能登屋
松屋町大年寄竜野屋
阿波屋甚蔵
三倉屋茂右衛門
阿波屋伊兵衛
南条町電壁長右衛門
ここからは、丸亀講中のような白峰寺信仰を持つ有力者の応援部隊が形成されて、白峰寺の活動に対して積極的に協力していたことがうかがえます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です。

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白峯寺本堂(松平頼重により再建)
白峯寺は近世初頭には生駒家、その後には高松藩の松平頼重の保護を受けて本堂などの再建を行っていったことを前回に見てきました。その後の伽藍整備は、どのように進められたのか、またその資金はどのように捻出したのかを今回は見ておこうと思います。テキストは
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です。

白峯寺の財政基盤は、以下の寺領120石です。
①60石は生駒藩初代藩主生駒親正より寄進
②10石は高松藩初代藩主松平頼重より千躰仏堂領として寄付  (青海村の1町2反1畝23歩)
③50石は林田村の海岸での白峯寺の「自分開発」

寺領120石というのは、高松藩主の墓所法然寺と、城下菩提寺の成願寺の300石に次いで多い数字になるようです。しかし、白峯寺は120石という財政基盤を、無視した「過剰設備投資」を繰り返します。それを、崇徳院六百年回忌を翌年に控えた宝暦12年(1762)の財政状況で見ておきましょう。

崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
讃岐国名勝図会(拡大図)
  白峰寺には、高松藩主第五代頼恭(よりたか)の名前の入った寛延3年(1750)の棟札が多いようです。この時には、賀茂社ほか8社の再建立、御滝蔵王社・華表善女竜王社の再興、十王堂・鐘楼堂の再上葺、諸伽藍の繕、崇徳院社幣殿・御本地堂廊下・相模坊社幣殿・御供所廊下・惣拝殿陵門の再上葺を行っています。さらに宝暦12年(1762)に客殿上門の再葺が行われています。ここからは、600年回忌に向けて、藩主頼恭が事前に各堂宇の修理・整備を計画的に行ってきたことがうかがえます。それでもまだ足りない部分があったようです。白峯寺は、本尊・諸宝物・寺修覆等の費用が不足するためとして、高松藩へ「拝借銀(借金)」を次のように願い出ています。
諸本尊再興残り・ 銀2貫500目
宝物御寄付物等再興 銀6貫目
御成門玄関・客殿玄関境露次門等 銀8貫500目
御成門御上段・ニノ間客殿貼付唐紙等諸造作 銀4貫目
以上、合計銀22貫目が必要経費として挙げられています。そのため銀20貫目の拝借とその返済として毎年25石の「上米」を行うことを藩に申し出ています。高松藩はこれを認めません。しかし、白峯寺は食い下がります。借金額が多くなっていて自力での費用確保できないとして、再度寺社奉行へ願い出ます。その結果、高松藩は銀8貫600目、毎年25石の上米で手を打とうとします。これに対し白峯寺は再再度、銀20貫目の拝借を願い出ています。最終的には拝借は、銀13貫500目、上米は35石で折り合いがついたようです。拝借銀の利子は1か年1割3歩、返済の上米は寺領米の中から35石を代官所へ毎年暮れに納めるということになります。

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白峰寺本堂裏の宝寿瓦
高松藩からの借金返済がどうなっているのかを見ておきましょう。
 崇徳院六百年回忌から約40年後の享和元年(1801)に、返済の上米35石が10石減らされています。高松藩と拝借銀をめぐっての値引き交渉があったようです。この年には、民間から銀札4貫500目を借用した証文写しがあります。藩ばかりではなく、民間の金貸業者からも白峯寺は借金していたことが分かります。証文には拝借人・白峯寺、加判(保証人)高屋村百姓佐一郎とあります。地元の有力者である「高屋村百姓」が白峰寺の保証人を務めていることに研究者は注目します。
 以上から、この頃の白峯寺は、旱魃や水害によって寺領米が思うように入らず、借金が重なり高利返済に追われていて、借入額が銀40貫にもなっていたようです。白峯寺の寺領収入は、先ほど見たように1年間当たり120石です。倹約してその内の60石で寺運営を行い、残りを借銀の返済に廻しています。しかし、これでは借金は減りません。金利払いのために借金を重ねるというという悪循環の中にあったようです。これは丸亀藩の善通寺と共通します。
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白峯寺大師堂
 そのような中で、最後に頼るのは髙松藩です。
高利の借金返済ににあてるため銀40貫目を拝借し、寺領米の中から年60石を返済財源とする財政建て直し案を、高松藩へ願い出ます。これが許されたら「去々年(寛政12)御金蔵二而、拝借仕元銀十貫目」の未納銀をも皆済するといっているので、これより以前にも藩から借り入れていたようです。そして髙松藩は、これを認めます。白峯寺は先にも触れた通り、髙松藩の祈祷寺でした。藩のオフィシャルな面を担う寺院だったので、放置して見放すわけにはいきません。

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頓證寺殿の看板
 ところが早くも2年後の文化元年には、返済に廻した残りの60石では、寺運営ができないので、返済米の半減と利子の減少を願い出ています。財政再建計画は、わずか2年で頓挫したようです。今度は髙松藩も認めません。3年後の文化5年になると、再度60石返納の半減願いが出されます。髙松藩は、妥協案として20石減らして40石の上納にすることを認めています。
崇徳院回忌650年が終わった文化10年11月には、回忌行事に要した諸経費や、本寺の御室御所や京都の公家衆の奉納物に対するお礼の上京などの費用のために、銀40貫目の借金を願い出ています。これは認められますが、拝借銀40貫目から、納め残りの22貫目を差し引いた17貫目を白峯寺へ渡しています。髙松藩もなかなかの対応ぶりです。(以上、「白峯寺諸願留」7-5).
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勅額門
4年後の文政元年には、拝借銀の5年間免除を次のように願い出ています。(「白峯寺大留 51」報告書309P)
口達之覚
拙寺義、古来より西新通町二而旅宿所持仕居申候処、先住時分より追々及大破候二付、修覆之義職人共江積せ候所、年占キ建前二而最早修覆二難相成由二付、建更積せも仕セ候処、余程之入用二相見、其上上打続種々物入多指支候二付、去ル酉年重キ拝借をも相願候所、銀四拾貫目御貸被下、毎歳御定之通、米六拾石ツ、無滞相納居申候二付、尚更普請手当無之、及延引居申候、右旅宿之義者、龍雲院様御入国以来於御城主御祈蒔執行被仰付、正五九月御城下江罷出候節、拙僧ならびに衆僧共多人数止宿仕来候、往占ハ諸役御免地之由二も伝承仕候得共、年古キ義二而書面二相記有之義二も無御座は成義ハ難相別、当時町並二相成居申候処、件之通、及大破居申候、其上時年之風雨二而所々崩れ止宿等も難相成候、
白峯権現之講席等茂難相勤候付、無拠法縁之義等願相勤候程之義二而、甚心配仕、色々相考申候得共、所詮難及自力、乍併前条中上候、先達而之拝借銀上納方二も年二寄指支候仕合、其上御時節柄と申、別段之拝借難相願、ゴ極当惑仕罷有候、依之近頃中上候兼候へ共、右拝借銀上納方何卒五ヶ午之間、御用捨被成下候様、本願度奉存候、左候ヘハ右御用捨米を引当旅宿普請手当仕度奉存候、呉々も御時節柄右様之願中出候段、奉恐入候、
御城内重御祈躊二罷出候義二付、拙僧井衆僧共多人数仮宅等二而ハ、指支候次第茂御座候間、不得止事御歎申上候、此段宜御賢慮被下候様、奉願候、
以上
寅十月     白峯寺
右之通御勘定所江願指出候所、同月下旬願之通相済、尤三ヶ年御用捨被下候、若林義左衛門殿より申来候、
意訳変換しておくと

口達之覚
白峯寺については、古来より髙松城下の西新通町に「旅宿所」を持っていますが、先代の頃から大破したままになっています。そこで、修復について大工職人と協議したところ、「建物自体が耐久年数を超えて、修復は困難」とされました。そのため建替の見積もりを依頼しようとしました。
 しかし、打続く種々の物入のために、4年前に多額の借金を次のような内容でにお願いしたばかりです。銀四拾貫目の借金に対して、毎年米60石を返済すること。
 「旅宿」については、龍雲院(松平頼重)様が讃岐入国以来、御城主から祈祷執行を白峯寺が仰せつかってきました。そのため、正月・五月・九月の三回、拙僧や衆僧などの多人数の僧侶たちが髙松城下に参った際の宿となってきました。(中略)
しかし、先述したとおり長年の風雨で、痛みがひどく宿泊も出来ない状態です。(後略)
ここには髙松城下の西新通町にある白峯寺の旅宿の普請に充てるために、借入金返済の免除を願いでています。白峯寺は初代藩主松平頼重以来、藩主祈蒔執行のため正月・五月・九月に、住職はじめ多数の僧が高松城下へ出かけていきます。そのため旅宿です。これは髙松藩の公式行事でもあるので、無碍にも断れません。髙松藩は拝借銀の免除期間を5年間から3年間に短縮して認めています。
 さらに3年後の文政4年に、大師堂について借金を申し出ます。

太子堂は仮堂でしたが、寛政のはじめに造営が認められて、造営が始まり上棟します。しかし、資金不足で、外回り囲い板、唐戸厨子が出来上がっていません。そこで諸国参詣者の印象も悪いため、大師堂造作と城下旅宿の造作費用にあてるため、さらに拝借銀上納の3か年免除を願い出ます。藩は2か年間免除に値切って認めています。大師堂は天保5年春に完成しますが、西新通町の白峯寺旅宿の修繕は意外と経費がかかり、15貫目の借財となります。そのため、15貫目の拝借を願い出、返済は寺領米の中から行うことにしています。
 白峯寺では「諸初穂賽銭二至迄減少」「御寺内暮方難立行」状態で、寺の財政がゆきずまっていることを藩に訴えています。
藩は銀15貫目の拝借は認め、その内の10貫目は寺領米の中から毎年30石、5貫目は持林の伐取代金から上納することになります。この時高松藩は、郡方より阿野郡北の大政所(大庄屋)渡辺七郎左衛門と本条和太右衛門へ白峯寺の財政状況を問い合わせています。両大政所は、白峯寺の寺領からの収納は60石で、近いうちには借銀も皆済することができると返答しています。これは、白峯寺寄りの見通しの甘い見解です。

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白峯寺薬師堂

 危惧したとおり天保7年には長雨による寺領収納の減少のため、拝借銀10貫目に充てる返済米30石の免除を願っています。また翌年にも免除を申し出ています。(以上、「白峯寺諸願留」7-9)

以上、宝暦から天保にかけての白峯寺の財政状況について見てきました。
ここからは、寺領120石の財政収入を大幅に超える支出があったことが分かります。所謂、収入に見合う寺社経営ではないのです。そのために借金が膨らみ、どうしようもなくなると藩に泣きつくということを繰り返しています。崇徳上皇の百年に一度の回忌行事に備えて伽藍整備は進みますが、多額の借金は積み増しされて行きます。整った堂宇の背後には、「過剰な設備投資」による「火の車の財政状況」があったようです。それを最後で支えていたのが髙松藩であるということになります。髙松藩の祈祷所として公的な性格を持つ白峯寺だからこそできた寺社運営かもしれません。

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 近世後期になると、白峯寺は「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」と名乗るようになったことは以前にお話ししました。ここには、崇徳天皇御廟所である白峰寺を髙松藩が見放すはずがないという「確信」もあったような気もしてきます。
 これは以前に見た善通寺と丸亀藩の関係とよく似ています。善通寺も寺社経営は財政的には火の車でした。それを丸亀藩からの借金で賄っていました。そして、その多くは返金されることはありませんでした。空海生誕地の善通寺を、丸亀藩が見放せるはずがないという確信が善通寺側にはあったようです。
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参考文献
  「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
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生駒騒動後の讃岐分割
生駒藩がお家騒動で、幕府から所領を没収されたのが寛永17(1640)年のことです。その後の讃岐は、東の高松松平藩(12万石)と西の丸亀山崎藩(のちに京極藩)に分けられます。このうち白峯寺のある綾郡は、高松藩領に属することになります。白峯寺の西北にあった崇徳上皇陵の廟堂・頓證寺は、当時は荒廃していたようです。白峰寺自体が本堂などの伽藍の復興に精一杯で、崇徳上皇陵や頓証寺にかまっている余裕がなかったのかもしれません。

近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
松平頼重

そのような中で水戸藩からやって来た髙松藩初代藩主松平頼重は、独自の宗教政策を次々と打ち出し、「崇徳上皇慰霊の寺」である白峯寺にも手を差し伸べてきます。松平頼重の寺社保護政策を最初に挙げておきます。
①金毘羅大権現の保護と朱印地化 全国的な寺社への育成
②菩提寺法然寺の造営と社格確保 法然寺を頂点とする新たな寺院階層の形成
③金倉寺・長尾寺・根来寺などを、智証大師の天台宗への改宗と保護  真言勢力への牽制
④姻戚関係にある浄土真宗興正寺派の保護
有力な寺社を保護し、配下に置くことが治政安定につながることを知り尽くした上での「選択的寺社保護政策」です。そのような中で、松平頼重が白峯寺にどんな保護支援を与えたのかを年表化して見ておきます。
寛永20年(1643)  頓證寺の再興  崇徳上皇慰霊
万治 4年(1661)  千然阿弥陀堂を建立寄進。
維持料として北条郡(綾郡北部)の青海村の北代新田免10石を寄進。
延宝7年(1679) 御本地堂を再建立、
延宝8年(1680) 子・松平頼常とともに崇徳天皇社・相模坊御社・拝殿を再建立
元禄2年(1689)  崇徳院陵の前に、一対の石燈籠を献納(『松平頼重伝』)。
ここからは、松平頼重が白峯寺に対して継続的支援を行っていたことが分かります。これは金毘羅大権現や根来寺・長尾寺に対する頼重の支援ぶりと共通します。政治的意図を持って、継続的な支援が行われ、時と供に伽藍が整備されていきます。そして周囲の宗教施設に比べると、格段に立派な伽藍が姿を見せるようになるのです。そして次に、長尾寺や根来寺では、そこに安置する仏像群まで奉納しています。ただ寺領を寄進するのではなく、伽藍の完成形を見通した上での支援活動なのです。目に見える形での支援で、庶民の関心を惹きつけることになります。それが庶民の目を惹き、信仰心を集めることにもつながって行きます。これだけの伽藍が整備された寺院は当時はなかったのです。松平頼重の支援を受けた寺院は、一歩先んじた伽藍や堂宇を持ったことになったことを押さえておきます。

白峯寺には、歴代の高松藩藩主の残した棟札が数多く残されています。
その中で、初代の松平頼重に次いで多いのが五代藩主松平頼恭の棟札です。頼恭(よりたか)は、製塩・製糖などの殖産興業に尽力した高松藩中興の藩主とされます。彼は熊本藩主細川重賢と並ぶ博物大名の一人で、1760年代後期頃には、絵師三木文柳に『衆鱗図』(二帖)などの魚の図譜などの編集を平賀源内に命じたことでも有名です。
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松平頼恭の残した『衆鱗図』などの図版類
頼恭の名前の入った白峯寺の棟札は、寛延3年(1750)のものが多いようです。この時に、賀茂社ほか8社の再建立、御滝蔵工社・華表善女竜王社の再興、十王堂・鐘楼堂の再上葺、諸伽藍の繕、崇徳院社幣殿・御本地堂廊下・相模坊社幣殿・御供所廊下・惣拝殿陵門の再上葺があります。さらに宝暦12年(1762)に客殿上門の再葺が行われています。宝暦13年は崇徳院回忌600年に当たっていました。それにむけた伽藍整備計画が頼恭の支援の下に進められていたようです。この他にも、高松藩主の名前が棟札には見えるので、高松藩が白峯寺に対して一貫して保護を与えていたことはまちがいないようです。
 松平頼恭は、白峯寺に参詣も行なっています。
 崇徳院六百年回忌が行われる直前の宝暦13年(1763)2月には、それまでの伽藍整備の成果の確認のためでしょうか、白峯寺を参拝しています。この時には、林田村から登山し、崇徳上皇霊宝所・頓証寺・大権現を参拝しています。帰りは国分遍路坂を下って、国分寺へ立ち寄っています。その2年後にも参詣したといい、頼恭は頻繁に白峯寺を訪れたようです。そうしてみると先ほどの頼恭による一連の「白峰修復事業」は、崇徳院六百年回忌に向けた準備であったことが裏付けられます。
 このように白峯寺は高松藩との関係が深く、正月・五月・九月に高松城で高松藩主に対する「御意願成就」「御武運長久」の祈祷も行っています。高松藩の祈祷所として、白峯寺のほかに阿弥陀院(石清尾八幡宮別当)があり、高松城で大般若経の読誦を行っいまします。

 幕末の文久3年(1863)写の「御上丼檀那質祈千壽帳」には、江戸幕府将軍家、水戸藩、高松藩主、その他の大名たちや藩主一族、家臣たちの祈疇を行ったことが記されています。また藩主の厄年や、幕府から命じられた藩主の京都への使者の際にも、「安全之御祈疇」が行われています。
白峯寺境内の西北隅には、崇徳上皇の陵があります。
そのため崇徳院回忌の法要が古くから行われていたようです。その際に奉納された和歌・連歌・俳諧・漢詩などの文芸が白峯寺には、数多く残されています。
 近世に入ってからの崇徳院回忌と白峯寺との関係は、中期まではよく分かりません。六百回忌に際して、宝暦13年(1763)3月に、松平頼恭が崇徳上皇陵に石燈籠2基を寄付することになります。その場所について崇徳院回忌の行事の邪魔にならないようにと、高松藩と白峯寺の間で協議しています。その結果、初代藩主松平頼重が陵外の玉垣内に寄付していた石燈籠を、陵内へ移してその後に新しい石燈籠を立てることにしています。崇徳院回忌の行事の妨げにならないようにとあるので、それまでにも回忌法要が行われていたことがうかがえます。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1847年)2
白峯寺(讃岐国名勝図会(1853) 白峰寺西北の崇徳上皇陵

宝暦13年の崇徳院回忌六百年に向けた準備過程を見ておきましょう。
白峯寺は明暦4年(1658)に仁和寺の末寺となっていまします。そのため宝暦13年正月に次のことを仁和寺に願いでています。
①2月26日より本尊・霊宝等の「開帳」
②8月26日の法楽曼供執行
また前年10月には、寺社奉行へ2月26日から4月18日までの50日間の開帳を願い出ています。そして開帳の建札を次の場所に建てることが許可されます。
城下では西通町・常磐橋・塩屋町・田町・土橋の五か所
郷中では鵜足郡宇足津、那珂郡四条村・郡家村、三木郡平木村、寒川郡志度村の各往還
「閉帳」前の2月14日には高松藩主からの奉納物が届けられ、崇徳院の御宝前へ供えられます。

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高屋神社(旧崇徳天皇社 坂出市高屋町)
七百年回忌は、文久3年(1863)8月26日に曼茶羅供執行が行われています。
この時には回忌の3年前の万延元年6月に、同忌が近づいてきたのに高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままであるとして、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。これが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。
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高屋神社(坂出市高屋町)
 
崇徳院の旧地として、白峯寺が主張していた場所に鼓岡と雲井御所があります。

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図(江戸初期)に記された雲井御所と鼓丘

宝暦13年(1763)に、鼓岡の村方から提出された書付をみて白峯寺は、「御廟所同前之古跡」であるとして、鼓岡村の支配ではなく白峯寺による管理が望ましいとの意見を寺社方へ申し出ています。これから約70年後の天保5年(1834)には「府中鼓岡雲井御所由緒内存」を白峯寺は提出し、その中で「何分時節到来不仕」と再度提出しているので、白峯寺の主張は認められなかったようです。そのために「由緒内存」で、再び「当山支配」とすることを願い出たようです。ここからは江戸中期後に、白峯寺が「崇徳天皇御廟所 政所」としての自覚を高めていることがうかがえます。この結果、雲井御所の地については、免租となって番人を置くことになります。当時の9代藩主松平頼恕は、自ら碑文を書き、「雲井御所碑」を建てています。この時に鼓岡についても、何らかの措置がとられたようです。

2022年 雲井御所跡の口コミ・写真・アクセス|RECOTRIP(レコトリップ)
雲井御所碑(坂出市)
雲井御所
かつての雲井御所石碑と林田邸
後ろは林田氏邸宅、林田氏の本姓は綾氏で、生駒時代は林田村の小地頭、松平頼重の人国の時には、大政所。

 文化3年(1806)に頓証寺の境内が狭いため埋め立て造成計画が出されます。
「別而近年参詣人等多、混雑仕る」として、拝殿の西の御供所裏通りから南の番所にかけての約40間の長さに渡って5,6間の谷筋を埋立てる内容です。研究者が注目するのは、これを提案したのは白峰寺ではないことです。阿野郡北の氏子たちが農業の手隙に、ボランテイアで行いたいと願いでているのです。白峯寺はこれを、「参詣人群衆之節、混雑も不仕」と付帯して、寺社奉行へ取り次いでいます。
 しかし、この時には髙松藩の認めるところとはならなかったようです。そのため翌年には造った後の道の修覆も自力で行うとして、再度願い出ています。この道の修覆については「修覆留」が作成されているので、この時に道が造られたと研究者は考えています。(「白峯寺諸願留」7-5)。
崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
崇徳上皇陵と頓證寺と勅額門(讃岐国名勝図会部分拡大図)

 文政5年(1822)になると、頓証寺の勅額門の外手にある燈籠の前に、石燈籠を二基建立したいと申し出た「施主共」がいるとしてその建立願いがだされます。さらに10年後の天保4年(1833)には、同じく勅額門の外の獅子一対の建立願いが「心願之施主共」から出され、いずれも白峯寺は寺社方へ願い出て許可されています。(「白峯寺諸願留」7-9)。
 19世紀になると、十返舎一九の弥次喜多コンビの参拝記も出版され、金毘羅参拝客が急速に増加します。富裕な参拝者たちは、石段や玉垣、灯籠を奉納し、境内は石造物で埋まっていったことは以前にお話ししました。こんな景観を見たことのない庶民は、石の境内を見たさに金比羅を目指すようになります。そのような石造物寄進の流行が周辺寺院にも及ぶようになります。白峯寺もご多分に漏れず、19世紀になると富裕層が灯籠・狛犬などの石造物を寄進するようになります。
 白峯寺 六十六部の納経帳
 六十六部の納経帳に記された白峯寺の「肩書き」変遷
近世後期になると、白峯寺は納経帳にも自らの呼称を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」と記すようになります。
  自らの存立基盤を崇徳院陵とのつながりの中に求めようとする意識が白峰寺内部でも高まったことがうかがえます。もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししまします。しかし、これも白峰寺と頓證寺の一体化という視点で見れば、なんら不思議なことではないのかも知れません。
 同時に、このような白峰寺の教導の結果、周辺の「氏子」や「施主共」が積極的に頓証寺などの境内整備に参加するようになっていることが分かります。白峯寺への信仰、崇徳上皇信仰が民衆へ浸透していっていることを物語るものと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①髙松藩初代藩主松平頼重は、計画的継続的に白峰寺の伽藍整備を支援した
②5代藩主松平頼恭は、崇徳院六百年回忌を期に、白峯寺境内の伽藍整備を進め、自らその視察も行っている。
③髙松藩の支援を受けて、崇徳上皇回忌ごとに伽藍は整備された。
④そのような中で、白峯寺は自らの存立基盤を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」に求めるようになり、中世の故事をもとにさまざまな主張を行うようになる。
⑤周辺の庄屋や有力者も「崇徳天皇御廟所」である白峰寺を支援するようになり、崇徳上皇信仰は拡がりをみせるようになる。
ある意味これは、松平頼重のねらい通りのことだったのかもしれません。頼重の打った齣は、時を置いて大きな効果を持つようになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
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白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峰寺古図(江戸初期)には、多くの子院の堂宇が描かれている

 白峯寺関係の文章や絵図を見ていると、中世には多くの子院やあったことがうかがえます。例えば、寛文年中の『御領分中宮由来・同寺々由来』には、「真言宗 北条郡綾松山洞林院 白峯寺」とあり、洞林院を筆頭に古くは120坊があり、その内の21ヶ寺に補任状が出されてたと記します。この21ヶ寺が塔頭寺院だったと研究者は考えています。ところが、寛文年間には「寺中四ケ寺」とあり、4ヶ寺に激減しています。この時期は、中世末に衰退していた洞林院が別名によって復興する時期と重なります。
 数多くあった子院が激減するのは、 弥谷寺も同じでした。
弥谷寺も生駒藩の指示を受けた別名が兼帯して、運営権をにぎります。白峯寺と弥谷寺で子院が激減するのは、別名の「寺院経営」方針と何らかの関係があるのではないかと私は「妄想」しています。しかし、これも裏付史料がありません。そういえば、金毘羅大権現でも、金光院院主宥盛が辣腕を振るい、それまでの子院を排除・撃退し、金光院の優位性を確立していくのもこの時期です。それまでの白峯寺や弥谷寺には、中世の以来のさまざまな宗教者(熊野行者・高野聖・時衆念仏聖・修験者など)が子院の主として活動を展開していました。高野山が「真言原理主義」に建ち帰って、時衆念仏僧を排除したように、地方の有力寺院でも山内の異分子排除が行われたのかもしれません。さて話を元に戻します。
近世になっても存続した白峯寺の末寺を、見ておきましょう。
白峯寺所蔵の慶長9年(1604)から弘化2年(1845)までの江戸時代の棟札に記された子院名を一覧表にしたのが次の表です。
.白峯寺蔵棟札に記された子院
白峯寺の近世子院一覧
この表からは次のような事が分かります。
①慶長9年(1604)には、一乗坊、花厳坊、円福寺、西光寺、円乗坊の5ヶ寺があったこと
②延宝8年(1680)には、一乗坊、円福寺、宝積院、真蔵院、遍照院の5ヶ寺でメンバーが変わっていること
③その後は、この5ケ寺が天明7年(1787)まで確認できること
④その後の棟札には、これらの寺院名が記載されておらず、他の資料から円福寺は文化8年(1811)、真蔵院は文政3年(1820)まで確認できること
⑤現在まで残ったのは遍照院のみであること
これらの子院は、どこにあったのでしょうか?
白峯寺古図以来の各絵図に描かれている建物を一覧表にしたのが下図です。
白峯寺 建物変遷表
白峰境内建物変遷表

さらに、この絵図に記された建物を現在の平坦地に落とし込んでいったのが下図になります。
白峯寺境内建物分布図


ここからは、稚児川の両側には多くの平坦地や石垣が残っていることが分かります。これがかつて存在した21の子院の跡のようです。この中に、一乗坊、円福寺、宝積院、真蔵院などもあったことが分かります。しかし、遍照院はどこを探してもありません。
実は遍照院は、麓の高屋町にあります。

白峯寺 子院遍照院
慈氏山松浦寺遍照院(坂出市高屋町)
  慈氏山松浦寺遍照院は「遍照」という寺名からしても弘法大師(遍照金剛)信仰に深く関わるお寺であることが推測できます。本尊は阿弥陀如来、脇侍は弘法大師と弥勒菩薩です。庭に弘法大師が求聞持法を修したという求聞持石があります。
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遍照院の求聞持石
やや離れた後夜谷という窟は、大師修行の地と伝えられ、その途中に弥陀橋がかかります。これは遍照院から大師が毎日修行のため、窟へ通う時にこの橋まで阿弥陀如来が来迎したと伝えられます。近くには高野四社明神が建立されていて、高野山との深い関係がうかがえます。「弘法大師と阿弥陀如来」が併せて祀られるというのは、今まで見てきたように「真言念仏」の特徴です。ここにも高野聖の痕跡が見えてきます。この寺の建立は「求聞持石銘」に刻まれている年号からする 元禄年間(1688~1704)以前にまで遡れるようです。

遍照院には『遍照院大留草紙』が残されていています。
そこには江戸時代初期の圭翁代から記録が残り、次のようにな記事があります。
神谷村石風呂之場所二古来より風呂守護之弘法大師石像安置之処。御厨子大破二付今年再建立。尤内へ年号筆記シ置志也。下地之厨子ノ裏書ニ曰 元亀二未年七月二七日遍照密院入寺瑞応建立云々.
彼ノ岩屋と申茂大師之御遺跡にして皆当寺二属次具地也。依之往古より当寺之支配にして散物等寺納之事.
意訳変換しておくと
神谷村の石風呂がある場所は、古来より風呂守護のために弘法大師石像が安置されていた。その厨子が大破したので、今年再建した。再建年号を筆記しようと厨子を見ると裏書に、次のように書かれていた 
元亀2(1571)未年7月27日 遍照密院入寺の瑞応が建立した。
この岩屋(石風呂?)と茂大師の御遺跡は当寺に属す者である。往古より当寺の支配する散物である。
ここからは、次のようなことが分かります。
①神谷村には石風呂があったこと
②石風呂の管理権を返照院が持っていて、周辺遺跡などの管理権も主張していたこと
③元亀2年(1571)には、遍照院が存在し、神谷村にまで影響力があったこと
次に遍照院が出てくるのは、以下の文章です
白峯寺より寄附田地之初発
白峯寺法印圭典代当郡林田村之内 
片山寺領地開地之時分当寺之
道心者道休法師日々罷出候而
開地之事此以奥□ヲ白峯寺より
寄進之順□致し貰候而永当
寺江附置候寛文十二子歳六月二十七日
道休法師致命終候可有永々回向等也
右ノ田地二付後代何分之勝手布之とも勿論売沸質物等二
入申問敷事白峯寺より寄進状/左之通所は飛石也
(以下略。/は改行)
意訳変換しておくと
白峯寺法印圭典の時代に、綾郡林田村にあった片山寺開山寺の寺領を、道心者道休法師に白峰寺から永代寄進した。寛文十二年六月二十七日に道休法師が亡くなると、代代回向を行い、この田地は後代に至るまで勝手に売買したり、質入れする事がないように、白峰寺からの寄進状にも書かれていた。なおこの寺領は飛石である。

 ここからは、白峰寺圭典法印の時に道休法師が寺領の提供を受けたこと、その面積は石高は、合わせて2反1畝12歩、石高は2石2斗2升4合であったこと。これを元にして現在の遍照院が建立されたことが分かります。
寺伝には歴代住職について次のようにも書かれています。
開基弘法大師
右開基以来より寛永年中迄之住職等相知不申候
一、中興  白峯寺宥賢弟子 圭翁
右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
寛文元年十月三日二病死仕候
意訳変換しておくと
開基は弘法大師
開基以来、寛永年中迄の住職等については不明である
中興は、白峯寺宥賢弟子の圭翁
圭翁の住職並に隠居した年号月日についても不明
寛文元年十月三日二病死仕候
歴代住職について不明というのは、お寺が存在しなかったとも読み取れます。中興とされますが実際の建立は、寛永年中(1624~44)の圭翁によるものなのでしょう。その後の住職は次の通りです。
一、二代  白峯寺増真弟子 圭算
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  宝永五子年正月五日病死仕候
一、三代  白峯寺圭典弟子 圭澄
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  元文二年七月十六日病死仕候
一、四代  白峯寺等空弟子 證寂
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  明和三戊十一月朔日病死仕候
一、五代  白峯寺離言弟子 大印
  右宝暦四年十二月十三日住職被仰付
  宝暦十四五月十八日大内部引田積善坊へ移転被仰付候
一、六代  白峯寺離言弟子 而真
  右ハ宝暦十四年中五月十八日住職被仰付候明和五年子二  月七日山田郡林村吉国寺江移転被仰不候
一、 七代  香川郡坂田村悉地院親旭弟子□□
  右明和五子年二月七日住職被仰付候
      天明二寅十二月隠居仕候
一、八代  白峯寺剛咋弟子 圭応
  右天明二寅年十二月十三日住職被仰付候
遍照院
右之通御座候以上
寛政四壬子二月
以上は『大留記』に書かれた歴代住職名ですが、よく分からないところが多いようです。
『大留記』には、その他にどんなことが記されているのでしょうか。
宝暦8年(1758)12月の「阿野郡高屋村遍照院由緒」の冒頭に、次のように記します。
当寺由緒之儀従公儀御尋有之候二付去ル貞享元年子年二書出申候控を以此度左之通指出申候
意訳変換しておくと
当寺の由緒については公儀の御尋があって、それに応えるために貞享元(1684)年に、書き出したものである。それをこの度は、左記の通り差し出します。

元々は、貞享元年(1684)に書き出した(書き写された)もののようです。この由緒を要約すると次のようになります。
「遍照院は弘法大師の開基の寺である。大師が42歳の厄歳に当山を訪れた時、大地が震動して大石が出現した。大師はこの石の上で求聞持法を修して、歳厄から遁れた。そこで、末世の人々の災難を除くため自影の像を彫刻して本尊とした。そのためこの石を求聞持石、本尊を厄除大師という。
 また当山は高野大明神が鎮座したところであるので「高野」ともいう。その後、弘法大師は紀州の高野山を開いた。弘法大師を遍照金剛というが、当寺を遍照院、紀州高野山を金剛峯寺と号し、讃岐高野、紀州高野と同名並び立つものとした。
ここから遍照院は弘法大師格別の遺跡、厄除大師安置の霊場で讃岐の高野と呼ばれ、古くから、3月19・20・21日の正御影供には、近隣の信者が多数参詣するようになった」
以上が『遍照院由緒」のあらましです。
本尊の厄除大師は、庶民の信仰を集めたようです。
毎年3月20・21日に「高屋大師市」が開かれ「百姓農具市立」が行われて賑わいました。
 また、宝暦7年(1757)に遍照院が火災となり、本堂を残して多くの堂字が焼失します。そこで、その復興資金を集める為に、高松地蔵寺で宝暦9年3月1日から4月10日まで、1ヶ月少々の期間、厄除け本尊弘法大師の出開帳が行われます。この時期は、善通寺も京都や江戸での出開帳を行い、それが成功裏に終わり、金堂や五重塔再建に大きく寄与した先例があります。遍照院もそれを見習ったのでしょう。この出開帳には、大群集が押しかけ、怪我人がでるほどであったと記します。4月10日の閉帳の時には、数千人の参拝者が涙を流し、別れを惜しんだとも記しています。遍照院本尊の42歳厄除大師の霊験は強く、庶民の信仰を集めていたことがうかがえます。その4年後の宝暦11年に庫裏の再建が行われているので、相当の金額が集まったようです。

  文化8(1825)年にも、遍照院から次のような開帳願いが出されています。「白峯寺所願留193」(白峯寺蔵)
口上
一当寺之義者、大師四拾弐歳御厄年彫刻之本尊、則弘仁年中四拾弐歳二御建立被成候寺二而由緒も御座候而、毎歳高屋大師市と申伝、百姓農具市立有之、二月廿日より廿一日迄本寺白峯寺井同末等於拙寺正御影供法会執行仕候、依之市立二付、右御公儀より御役人中も参来申候、然ル処当寺本堂三間半四面瓦葺二而御座候処、年久敷相成候二付、是迄時々修覆加へ候得共、最早及大破修覆難及助力、旦家も百軒斗御座候所、甚貧家之者二而自分渡世も難渋仕候二付、中々寺之修覆等馴手便も無御座、当君仕候間、本尊厄除之大師来申二月廿五日より二月廿五日迄開帳仕度奉願候、左候得者参詣人之散物フ以修覆相加へ申度奉存候、右願之通、被仰付被下候得者、御町口々郷中二而尤寒川郡志度村、香川郡仏生山、鵜足郡宇足津村、寺門前江建札仕度被存候、
右願之通、相済候様、宜奉願候以上、
文化八年         阿野郡北高屋村
十月            遍照院判
      白峯寺
右之通末寺遍照院願申出候間、右願之通相済候様、宜奉願候以上、
横倉与次右衛門殿
河合平之丞殿
意訳変換しておくと
口上
遍照院は、大師42歳の御厄年の時に自ら彫られた大師像を本尊とし、建立された寺院で、由緒もあります。毎年、高屋大師市が開かれ、百姓たちの農具市で賑わいを見せます。二月二十日から二十一日には、本寺の白峯寺や子院が列席して、当寺で正御影供法会が行われ、この時に市も開かれ。髙松藩からの御役人たちも参来します。
 当寺の三間半四面瓦葺の本堂は、建立から月日がたち、修繕を重ね維持してきました。しかし、大破寸前の状態となり。もはやこれ以上は修繕も困難になってきました。新たに建立したいのですが、檀家も百軒あまりの貧家ばかりで、渡世も難渋している状況です。そのため寺の修復までにはなかなか手がまわりません。そこで、当寺の本尊である厄除大師を2月25日から3月25日までご開帳することをお願い申し上げます。そして、参詣人の寄進・奉納を修覆費用に充ててたいと思います。この願いが許されるのであれば、髙松城下や郷中の寒川郡志度村、香川郡仏生山、鵜足郡宇足津村、寺門前に建札を掲げたいと思います。以上のこと、許可していただけるように申し出ます。奉願候以上、
ここには、本堂大破のための修覆が必要であるが、遍照院の檀家は百軒ほどと少なく、しかも「貧家」で費用を確保できないこと。その資金集めのために本尊厄除大師の開帳を行う事を願いでています。
 本堂の建て替えなどの多額の資金が必要となったときに、「厄除大師」などの庶民的な人気のある本尊を持つお寺では、「ご開帳による資金集め」という方法が行われていたことが分かります。同時に、開帳行事は各寺院の判断で勝手に行えるものではなく、藩の許可が必要だったようです。
 遍照院は、幕末の文久2年(1862)にも庫裏修覆のために、本尊弘法大師と霊室等の開帳を3月10日から4月10日まで行うことを願いでています。(「御用口記」)。
 このように厄除大師は「集客力」のある本尊で、遍照院の勧進活動にも大きく寄与しています。庶民の支持を得ていたとも言えそうです。同時に、開帳は開催通知の立看板を建てるだけで、人々が集まってくるものではありません。そこで集客のためのプロモートを行っていたのが山伏たちだったと私は考えています。山伏(修験者)たちのネットワークを利用することで、このような開帳行事も成功に導くことができたのです。そういう意味では、ご開帳を成功に導くために修験者たちのネットワークを持っていることが必要だったと、私は考えています。
幕末に遍照院の弟子が次のような四国巡拝の届出願いを、藩に提出しています。(「白峰寺大留」報告書310P)
文化十三子年  口上
一      高屋村末寺遍照院弟子 空間
右者宿願御座候而四国順拝二罷出候、尤十七日出立仕候間、此段御届申候、以上
二月十六日    白峯寺
寺社御役所
郷御役所 銘々
意訳変換しておくと
文化十三(1813)年  口上
一      高屋村の(白峯寺)末寺遍照院の弟子 空間
右者が宿願であった四国順拝を行うことになりました。つきましては、17日に出立することを御届申しあげます。
以上
二月十六日    白峯寺
寺社御役所
郷御役所 銘々
ここからは遍照院の弟子 空間が四国遍路を行っていることが分かります。帰国報告が4月9日に出されています。約2ヶ月弱の遍路の旅であったことが分かります。
 また、天保6年には遍照院主が四国遍路を50日ほどで行った帰国報告書が白峰寺から藩の寺社奉行に提出されています。この巡礼は、弟子や院主は、先達として参加していたことも考えられます。そうすると、遍照院は行場としての痕跡を残し、そこでは真言系修験者が院主などを務めていたことがうかがえます。ここにも修験道ネットワークの中に返照院があったことが推測できます。


DSC04253
       遍照院の虚空蔵石から眺めた白峰山方面
 遍照院は高野山と関係が深いようです。
高野山から直接、光明曼茶羅が届けられ、その前で諸人に説法したり、高野山の持明院の使僧が訪れて一宿したりして、「人とモノ」の交流が行われています。また灯篭の建立に高野山無量光院が世話人になるなど、江戸時代中~後期には高野山との交流が盛んであったことが分かります。もちろん白峯寺との関係も深く、歴代の住職の多くは白峯寺住職の弟子です。そして年中行事には、相互に行き来が行われています。ある意味では、白峯寺に忠実な子院であったことがうかがえます。これも弥谷寺と高野山、そして近世以後にその本山となる善通寺の関係とよく似ています。

DSC04255
       磐座「求聞持石」に座する弘法大師
巨石信仰の聖地が、行者たちの行場となります。そして、稚児の瀧や奥の院の毘沙門窟の行場を結んで「行道」が行われるようになっていきます。ここに立つと五色台自体が霊山で、その山中の行場が「中辺路」ルートとして結ばれていたこと。そこに、さまざまな宗教者がやってきて「修行」を行ったことが感覚的に分かるような気がします。その拠点が白峰寺や根香寺で、そのサテライト行場がこの「磐座」だったのでしょう。そこに、後世になってやってきた弘法大師信仰を持つ高野聖たちが、磐座の上に弘法大師像を建てたという風に私には思えます。
以上、白峯寺の子院のひとつである遍照院の歴史を眺めてみました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P



五色台 | 香川県高松市の税理士 べねふぃっと税理士のブログ

「五色台」には白峰山(336.9m)、青峰(449.3m)、黄ノ蜂(174.9m)、紅峰(245m)、黒峰(375m)などが建ち並んでひとつの山塊となっています。根香寺は、その中の青峰(標高449.3m)の東斜面の標高350m地点に位置し、北東方向には瀬戸内海に浮かぶ女木島、男木島、豊島、小豆島などの島々を望むことができます。青峰の東に勝賀山(364.lm)、南側には五色台で一番高い大平山(478.9m)が連なります。青峰の北側には、黄ノ峰、紅峰、串ノ山に挟まれた生島湾があり、現在は県営野球場となっていますが、江戸時代は塩田が広がっていたようです。

根香寺古図右 地名入り
根香寺古図(江戸時代後半)  
今回は根香寺の伽藍変遷を、江戸時代の絵図で追いかけて見ようと思います。テキストは「片桐孝浩 根香寺の空間構成  根香寺調査報告書     教育委員会版23P」です。
 
  まず研究者は、地形図で根香寺境内の置かれた位置を確認します。
根香寺は青峰の東側斜面、標高350mに位置しています。
根香寺 周辺地形
根香寺周辺地形


地形図で根香寺周辺の丘陵(尾根)筋を見てみましょう。
青峰の北側からは北方向に延びる丘陵A
北西方向に延びる丘陵B
東方向に延びる丘陵C
青峰の南に位置する山塊からは、つぎの2つの丘陵が伸びています。
北方向に延びる丘陵D
東方向に延びる丘陵E
これを見ると根香寺は、青峰と青堪北側から延びる丘陵B、丘陵Cと、青峰の南に位置する山塊から延びる丘陵Dに挟まれていることが分かります。ちょうど仁王門は、丘陵Dの先端付近に建っているようです。
 今度は谷筋を見ておきましょう。
青峰北側から延びる丘陵Bと丘陵Cとに挟まれた谷筋A、また青峰と丘陵Dに谷筋Bがあります。谷筋Aの奥側には、谷頭池の役割を果たす根香池があります。また谷筋Bは、東から仁王門と境内の間を縫って入り組むようになっています。仁王門の建つ平坦地の東側は、谷筋Bが急峻で深く、 しかも広くなっています。 谷筋Bの最奥部にも、谷頭池があり以前は水田もあったようです。仁王門の建つ平坦部と本堂、大師堂などの諸堂が建つ部分との間の一段低くなった部分が谷筋Bになります。つまり、根香寺の境内は谷部Bを挟んで、仁王門の建つ平坦地と諸堂が建ちならぶ平坦地で形成されていることになるようです。
現香寺周辺の地形について記述したものに、根香寺所蔵の『青峰山根香寺略縁起』があります。
この縁起は根香寺の住職俊海が記したものなので、18世紀前半のものと考えられます。「青峰山根香寺略縁起』には、その地形について次のように記します。
「其往古は南ハ後夜谷、中ハ蓮花谷、北ハ毘沙門谷とて山上三流にわかれて」、
「楼門ハ後夜谷の東南に聳へ、護世堂ハ北嶺に?たり、笠井郷の平賀に大門と称し伝ふるハ当山の惣門の跡なるのミ、蓮華谷の尾続を天神馬場と云伝ふるハ」
意訳変換しておくと
「昔は南は後夜谷、真ん中は蓮花谷、北は北は毘沙門谷と、山上は三流(3つのエリア)に分かれていた」、
「楼門は後夜谷の東南にあり、護世堂は北嶺にあり、笠井郷の平賀に大門と呼ばれる根香寺の惣門跡があった。蓮華谷の尾根続きは天神馬場と呼ばれていた」
ここからは江戸時代の根香寺は「後夜谷」「蓮華谷」「毘沙門谷」、の3つのエリアに分かれ、「北嶺」「天神馬場」と呼ばれていた場所があったことが分かります。
根香寺古図左 地名入り
青峰山根香寺略縁起を絵図化した根香寺古図(左部)

これを研究者は次のような手順で確定していきます
①「天神馬場」は、昔からの言い伝えで、根香池の南東部の丘陵Cであること
②縁起に「蓮華谷の尾続を天神馬場と云伝ふるハ」と、天神馬場に続く谷が丘陵Cの南側にある「谷部B=蓮華谷」
③「南ハ後夜谷、中ハ蓮華谷、北ハ毘沙門谷」とあるので、北側にある谷部Aが「毘沙門谷」
④南側の谷部Bの急峻な部分が「後夜谷」、
⑤谷部Bの奥側で、仁王門と諸堂の立ち並ぶ平坦との間にある谷部が「蓮華谷」
根香寺古図 根来寺伽藍
根香寺古図の伽藍部拡大

諸堂の配置変遷を、江戸時代に描かれた絵図で見ていきます。
比較する絵図は次の通りです
A 寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689))
B『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))
C『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))
D『讃岐国名勝図会』(嘉永6年(1853)


A寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)に描かれた堂宇は次の通りです
根香寺 四国辺路日記 
四国遍礼霊場記の根香寺
①中央に「観音」と書かれた本堂
②本堂に向かって右に「智證(証)堂」
③智証堂の前に鐘楼
④本坊千眼院には、中央に本堂、その向かって右に建物、左に桁行の長い建物
⑤白峰寺からの遍路道から延びる参道はには、石段あり
⑥階段際やその周囲には柵

B『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))
根香寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼名所図会の根香寺
左下に白峯寺からの遍路道が伸びて来ます。しかし、境内入口に門はありません。その代わりに、門の礎石と考えられる「○」がいくつか書き込まれています。数えてみると「○」は12あります。どうやらこれが2間×3間の門跡だと研究者は推測します。門跡の左右には、藁葺の建物が2棟あります。門からの参道は、周囲の樹木の描かれ方から一旦下って、さらに階段を上っていくと諸堂がある平坦地に着きます。正面には、
瓦葺で屋根が宝形造のやや大ぶりの建物
左右に瓦葺で宝形造のやや小ぶりの建物
手前右に鐘楼
茅葺の建物、小さい社
左側に建物が2棟あります。
左側奥の建物はかなり大きく、「庫裡」のようです。
「根来(香)寺」図の説明文には、「大師堂 本堂の側にあり、智証大師堂」と書かれているので、「大師堂」と「智証大師堂」を意識してかき分けていることが分かります。どうやら本堂の左右の堂が智証大師堂と弘法大師堂であったようです。

『金昆羅参詣名所図会』(1847年)では
根香寺 四国遍礼名所図会
金毘羅参詣名所図会の根香寺

仁王門が復活しています。仁王門の手前左側に茅葺の建物があり、縁側で休む参拝者か、遍路が描かれています。これが茶屋のようです。「仁王門」を入ると一段低くなり、もう一度石段を上ると本堂や諸堂のある平坦地になります。石段途中の右側平坦地には建物がありますが、これが説明文にある「茶堂」のようです。石段を上る平坦地の奥側、山際に「本堂」を中心に向かって右手に「大師堂」、左手に「不動堂」が並びます。どれも宝形造で、「本堂」と「不動堂」がやや大ぶりの建物で、大師堂はやや小ぶりの建物です。ここでは智証大師堂が消えていることを押さえておきます。「大師堂」手前には「鐘楼」があり、「不動堂」左手前には「本坊」がひときわ大きく描かれ、繁栄ぶりがつたわってきます。本堂のある平坦地も含め、平坦地の縁部は石垣であったことも分かります。

次に『讃岐国名勝図会』では、
根香寺 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の根香寺

本尊千手観世音を安置する「本堂」「護摩堂」「祖師堂」「鎮守社」「茶堂」「地蔵堂」があると書かれているだけで、これら建物についての記述はありません。描かれた絵図を見ると、「白ミ子(白峰)道」から仁王門前の平坦地となり、仁王門に向かって左側と手前に建物があります。これは、金昆羅参詣名所図会にも描かれていたので、茶屋でしょう。「仁王門」を入ると一段低くなり、二段に分かれた石段を上ると本堂や諸堂のある平坦地に着きます。石段途中の右側平坦地にある建物に「茶堂」と書かれています。その平坦地の奥側、山際に「本堂」を中心に向かって右手に「大師堂」、左手に「五大ソン(五大堂)」がびます。不動堂が四天名王と併せて五大尊になったので名前が変わっています。全て宝形造で、「本堂」がやや大ぶりの建物で、「五大ソン」、「大師堂」はやや小ぶりの建物に描かれています。「大師堂」の手前には「鐘楼」があり、「五大ソン」左手前には「書院」などの建物があります。「鎮守社」は「井びに境内にあり」、「地蔵堂」は「坂中にあり」とあります。
以上が江戸時代に描かれた絵図に書かれた建物配置状況でした。

次に、現在の根香寺の伽藍配置を見ておきます。

根香寺 伽藍配置
現在の根香寺伽藍配置図
かく堂宇のたつ境内の4つの平坦地について押さえておきます。
①「仁王門」のある平坦地
②「仁王門」から一段低くなった平坦地
③2段に分かれた石段途中の平坦地
④石段を上った「大師堂」「五大堂」などの平坦地
これらの平坦地は現在と変わりありません。平坦地の縁辺には石垣が築かれているのも江戸時代と同じです。また、本堂の位置は変わっていますが、それ以外の「五大堂」「大師堂」などの建造物は、そのままの位置にあります。宝形造という建物構造も江戸時代のままのようです。
根香寺 緒堂変遷表
根香寺建築物変遷表
現在の建築物を見ておきましょう
まず「仁王門」前にあった茶屋はなくなって、今は駐車場になっています。根香寺住職からの聞き取りでは、「仁王門」前には、昭和25年頃まで茶屋があり、その西側に遍路宿が昭和33年頃まであったことが報告されています。
讃岐五景にも選ばれています【第八十二番札所 根香寺】牛鬼伝説の寺 | 88OHENRO + シコクタビ
根香寺王門仁王門
「仁王門」を入ると一段低くなり、二段に分かれた石段を上ると「大師堂」と「五大堂」のある平坦地となります。石段途中の平坦地にあった茶堂も今はありません。代わって西側に「水かけ地蔵」、東側に「牛頭観音像」、「役行者像」があります。
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役行者像(根香寺) 修験者の行場であったことを伝える
 石段の上の平坦地に、「大師堂」と「五大堂」が横に並び、「大師堂」手前に「鐘楼」、三大堂」左には「庫裡」、「客殿」などの建物があります。また、「大師堂」の東側には「龍官地蔵尊」、「延命地蔵尊」があります。「大師堂」と「五大堂」の中央から更に石段を上ると、一段高くなった平坦地に回廊を持つ本堂と回廊途中に阿弥陀堂があります。
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根香寺本堂
本堂について
名勝図会等では、本堂を中心にして向かって左手に五大堂(五大尊・不動堂)、右手に大師堂の三堂が並ぶレイアウトでした。それが昭和45年(1970)の30年毎の本尊千手観音の開帳の際に、旧本堂の上の敷地を造成し、木造の回廊を巡らせて、本堂をその中央上部に移築しました。さらに背面に収蔵庫を建設して、そこに本尊の千手観音を安置するようになったようです。解体修理の際には柱の根継ぎや床廻り、天丼廻り、軒廻り等の板材が取り替えられているようです。

根香寺 本堂平面図
根香寺本堂平面図

各部材は良質な檜材が多く、背面にも同様の暮股を組むなど、全体の様式にも手抜きがないと専門家は評価します。木鼻の繰り型や蛙股の形状も17世紀の作であるとします。しかし、向拝については、差し肘木や海老虹梁、手挟み、向拝頭貫、木鼻、暮股などは、宝暦4年(1754)の修覆後のもののようです。
大師堂については、弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』や嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』を見ると、三方に縁が組まれており、前面には向拝もありませでした。しかし、現在は大きく姿を変えているようです。これを研究者は次のように指摘します。
近代の修理で柱をはじめ相当量の取替が行われており、前面の増築改造を含め建物の改変もあり、旧来の形式が失われたものと思われる。建立年代については、肘木の形状や虹梁文様から、本堂向拝や山門と同時期と考えられる。また大師像休座には「寛政十戊午年」(1798)ほかの陰刻銘があるという。

「五大堂」や「大師堂」は、近世以降に位置の変化はありませんが、本堂は、背後の一段高くなった部分に移転していること。しかし、新たに本堂を建てたものではなく、解体修理して、位置を変えただけであることを押さえておきます。
根香寺 五大堂平面図
根香寺大師堂平面図
以上をまとめておきます
①「本堂」「大師堂」「五大堂」「鐘楼」「仁王門」は、「本堂」が昭和41年に解体修理して移動している以外は、動いていない。
②「本堂」「大師堂」などの宝形造のスタイルも変わっていない。
③「大師堂」は、当初は「智証堂」で智証大師像を安置するものであったのが、江戸時代後期(1800年以降)には、弘法大師像を安置する大師堂に変化した
 根香寺は青峰の東斜面に位置し、谷部B(蓮華谷)を挟んで立地し、そこに建てられている堂宇は江戸時代前半からほとんど変化なく現在に受け継がれているようです

〔参考文献】
   「片桐孝浩 根香寺の空間構成  根香寺調査報告書     教育委員会版23P」
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 土佐中村の一条氏は、対明勘合貿易に参加していたのか? : 瀬戸の島から

応仁の乱が始まった翌年(1468)年9月に、前関白一条教房は、兵火を避けて家領があった土佐国幡多郡の荘園に避難してきます。
そして、中村を拠点に公家大名に変身していきます。その間も、一条氏は、中村と上方の間を堺港を利用して何度も船で往復しています。
文明11(1479)年に、京都の一条家の造営用木材が、土佐中村から堺商人によって取引されて、運ばれるようになります。このころから堺商人と土佐一条家の関係が始まったようです。堺商人と土佐の一条家の間には、これ以後も頻繁に材木の取引が行われています。

畿内と関係の深い一条家は、堺を支配する細川氏との関わりも深かったようです。『大乗院寺社雑事記』の明応三年(1494)2月25日には、当時の大阪湾周辺の情勢が次のように記されています。
「細川方へ罷上四国船雑物 紀州海賊落取之、畠山下知云々、掲海上不通也」

意訳変換しておくと
細川氏への献上品を乗せた四国船が、紀州海賊に襲われ献上品が奪われた。畠山氏の命にも関わらず、紀伊水道は通行不能状態である。

 ここからは、土佐中村と堺を結ぶ太平洋ルートがあったこと、それが紀州海賊によって脅かされていることがうかがえます。この交易ルートを通じて、土佐への布教を展開していたのが本願寺でした。

 天文年間の本願寺法主は証如でした。
四国真宗伝播 本願寺第十世證如(しょうにょ)
本願寺第十世 證如(しょうにょ)

證如の時代の本願寺は、教団内部で対立が激化した時期でした。証如は、これを抑えて法主の指導力強化に努めます。そのような中で享禄5(1532)年6月に舞い込んだのが、細川晴元からの河内国に滞陣中の阿波・三好元長(法華宗)に対する襲撃依頼です。これに応えて証如は門徒を動員し、三好元長を和泉国まで追い立てて敗死させています。ところが、これを見て一向一揆勢の戦闘力を恐れた細川晴元は、本願寺と決別して京都の日蓮宗教団や六角定頼と手を結びます。そして、本願寺の本拠地であった山科本願寺を、焼き討ちにします。

四国真宗伝播 本願寺第十世證如本願寺 釋證如 方便法身尊形)
天文三年 本願寺 釋證如 方便法身尊形

 山科本願寺を追われた証如は、大坂御坊へ拠点を移して大坂本願寺とし、新たな教団の本拠地とします。その後は晴元の養女を長男・顕如と婚約させて晴元と和睦し、室町幕府とも親密な関係を築いて中央との関係修復に努め、本願寺の体制強化を進めます。また、山科本願寺の戦いを教訓として、各地の一向一揆に対しても自制的な動きをもとめるようになります。こうして、加賀一向一揆に対しても調停という形で門徒集団への介入を深めます。そのような中で、土佐の一条氏への接近を図っていきます。

大系真宗史料 文書記録編8 天文日記 1の通販/真宗史料刊行会/証如光教 - 紙の本:honto本の通販ストア
 天文日記

證如が残したのが「天文日記」です。

これは證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなる10日前まで書き続けた19年間の日記です。
『天文日記』の天文6(1537)年正月27日条に、次のように記されています。
今朝従土佐一条殿尊致来候 堺商人持而来之

ここからは、中村の一条氏が堺の商人に連れられて、初めて大坂本願寺に證如を訪ねていることが分かります。土佐中村の一条家と堺商人の関係に、本願寺が関わるようになっていたようです。

四国真宗伝播 土佐一条家の貿易船
土佐一条氏の貿易船建造計画

 以前にお話ししたように、一条氏は明との交易に参入するために渡唐船建造を開始し、その用材確保のために、天文五(1536)年4から、土佐国幡多郡から木材を切り出しはじめます。しかし、一条氏に大型船の建造能力はありません。そのため堺に技術援助を求めています。堺の造船や貿易事務のテクノラートであった板原次郎左衛門は、最初はこの依頼を無視します。しかし、一条氏は前関白という人的ネットワークを駆使して、大坂の石山本願寺の鐙如上人の協力を取り付けます。鐙如は浄土真宗のトップとして、信徒である板原次郎左衛門に中村行きを命じます。
 こうしたやりとりの末に、天文6年(1537)年3月には、堺から板原次郎左衛門が中村にやってきます。板原氏は、貿易船の蟻装や資材調達の調達などの元締で、堺の造船技術者のトップの地位にいた人物でした。彼が土佐にやってこなければ貿易船を作ることはできなかったはずです。そういう意味では、鐙如上人の鶴の一声は大きかったようです。上人側にも、日明貿易への参画という経済的な戦略があったのかもしれません。同時に、土佐への教線拡大という思惑もあったはずです。
 中村での組み立てが終了すると、船は艤装のために紀州に廻航されます。その際には、紀州のかこ(水夫)二十人を土佐国に派遣するよう依頼してます。ここからは、当時の中村周辺には、大船の操船技術を持った水夫もいなかったし、最終段階の艤装技術も中村にはなかったことがうかがえます。蟻装が終わった貿易船は、天文7年12月堺に回航されます。それを、鐙如は堺まで出向き密かに見物しています。こうして、一条氏は、本願寺の鐙如の支援と堺の技術協力で貿易船を建造しています。
 ここに登場する板原次郎左衛門は、堺衆で本願寺の門徒です。
本願寺の要請を請けて、堺商人と一条氏との仲介を行っています。また本願寺と一条氏との間を取り次いだのは、本願寺・斎相伴衆の堺・慈光寺の円教でした。本願寺の力なしでは、この大型船建造計画は進まなかったことが分かります。さらに、中村で組み立てられた船は、艤装のために紀州に廻航されています。ここでも、紀伊門徒の「海の民」が艤装にあたったのでしょう。
  以上からは、土佐一条氏と堺・本願寺・紀伊門徒とが大船建造を巡って複雑に絡み合って動いていることが見えてきます。同時に、一条氏と本願寺が強い結び付きをもっていたことからは、逆に本願寺の教線が堺・紀伊を通じて土佐中村方面に伸びていたことが推察できます。一条氏の渡唐船の建造は、堺衆との繋がりだけでなく、真宗本願寺の土佐への教線拡大との関わりで捉えておく必要がありそうです。

「天文日記」には、次のようにも記されています。
 土佐国より勧進之物千疋、又田布五十端来、此内五百疋ハ真宗寺下より

ここに寺院名が記されていないので、土佐のどこにあったお寺なのかも分かりませんが、天文年間に土佐に真宗寺院があったことは分かります。堺を通じて太平洋ルートによって真宗が伝播したことが、ここからはうかがえます。これは瀬戸内海側と比べると半世紀遅いことになります。
 以上から土佐への本願寺の教線ラインは、一条氏の手引きで堺商人を通じて大平洋を渡ったこと、そこに紀伊門徒の関わりもあったと研究者は考えています。そこには堺商人のしたたかな商業活動のやりかた見え隠れします。同時に、本願寺による太平洋ルート上の港への教線拡大の活動も含まれていたようです。
 中世の土佐の港津は、古代の『土佐日記』に出てくる「浦戸・大湊・奈波・羽根・奈良志津・室津」などの港にプラスして、「兵庫北関入船納帳」に出てくる「甲浦・先浜・奈半利・前浜・安田」も含まれるでしょう。これらは、東土佐の港ですが、西土佐エリアでは「洲崎・久礼・佐賀・中村下田」などを挙げることができます。堺の港から訪れた坊主は、これらの港に立ち寄って布教したとするのは自然なことです。前回見た阿波の那賀川河口の今津浦のように、土佐や瀬戸内海への中継港にも真宗寺院が姿を現し、真宗門徒の水運関係者の拠点として機能するようになっていました。

それでは、次に受入側の土佐一条氏の方を見ておくことにします。
研究者が注目するのは、弘治3年(1557)卯月29日付の「康政」の次の書状です。
一向衆之事其身惟一人之儀、可有御免之旨候也、乃如件、
弘治二年卯月二十九日            康政(花押)
渡部主税助殿
ここからは「康政」が「一向宗」を保護していたことがうかがえます。花押のある康政については、姓も分からない謎の人物です。この時期の一条氏は兼定が当主でしたが、わずか6歳で家督を継いだため、この康政が後見役となり、兼定に代わって執政を取り仕切っていたようです。一説には、康政は兼定の叔父で刑部卿と称したとされます。中村の真蔵院に入って宗覚と号し、それまで天台宗であった寺を真宗に改めたとも伝えられます。
この寺が『南路志』に出てくる西宝寺のようで、次のように記されています。
「開基之儀、康政卿渡辺主税二仰而一向宗建立、弘治二年康政卿宗旨御免之御書頂戴」

意訳変換しておくと
(西宝寺の)開基については、康政卿が渡辺主税に命じて一向宗寺院を建立した。それは弘治二(1556)年のことで、
康政卿より宗旨替えの届け出を頂戴している。

ここからは、16世紀半ばに中村に真宗寺院があり、一条家の保護を受けていたことが分かります。すでに天文年間には、貿易船建造などを通じて、一条氏が本願寺と深いつながりを持っていたことは見てきた通りです。この時期には一条家の実権を握る康政が、本願寺の布教活動を支援していたことがうかがえます。
 西宝寺のある与津浦は中村の外港でもありました。ここへも堺からいろいろな商品と供に、真宗門徒たちが来港し、西宝寺を交易センターとして交易活動を行っていたようです。
戦国時代の群像』72(全192回)一条 兼定(1543~1585)戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタン・戦国大名 | 古今相論 川村一彦

中村の一条氏は、長宗我部元親によって滅ぼされます。

一条氏が保護していた真宗門徒たちはどうなったのでしょうか。
 土佐ではこの時期に、海岸線の港周辺に道場が建てるようになった段階で、まだ多くは寺院として創建されていなかったと研究者は考えています。庇護者としての一条氏を失い、エネルギーを失った真宗は、以後は教線を拡大することはなかったようです。

長宗我部時代の土佐での真宗の状況を示す史料はありません。
そんな中で研究者が注目するのが「長宗我部地検帳』です。
長宗我部地検帳 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
長宗我部検地帳

この「地検帳」に出てくる寺院で寺号のあるものを抜き出すと真宗寺院は、全く見当たりません。ただ、次のような道場はあるようです。
フクシマ先年桑名助左衛門先祖通海寺へ寄進卜有テ
今迄通海寺知行之由候乍去勘左衛円を給分二不人就右可為御公領興
一所拾六代 中屋敷 真宗道場
「一所拾六代 中屋敷 真宗道場有」と文末に記されています。検地が行われた天正16(1588)年に、フクシマに真宗道場があったことが確認できます。
 『南路志』には、次のように記します。
「寺地ハ手結浦福島(=フクシマ)と申所ニ有之、天正地検帳の拾六代真宗道場床と記載御座候」

と記されています。以上から「フクシマ=福島真宗道場」は手結浦福島にあったことが分かります。手結浦は、現在の香南市夜須町手結で、太平洋に面した港町です。このフクシマ道場が、後の真行寺になるようです。現在の真行寺は、近世になって作られた手結内港を見下ろす位置にあり、この港の管理センターの役割をしていたことがうかがえます。他に寺院はないようなので、この港の関係者の多くを門徒にしていたことがうかがえます。
四国真宗伝播 土佐手結 真行寺
手結内港にある真行寺

ここからは土佐の港々には、真宗の道場が姿を見せるようになっていたことが分かります。この分布状況を地図に落としたものが図2になります。
四国真宗伝播 土佐天正16(1588)年に、真宗道場
土佐における真宗寺院・道場の分布図(1588年時点)
  この分布図からは、真宗の寺や道場が太平洋沿岸の港を中心に、海岸線からあまり内陸に入っていない地域に集中していることが分かります。
この他にも吾川郡長浜村の地検帳には「道場ヤシキ浦戸」が出てきます。
「南路志」では真宗寺の欄に次のように記します。
「永正年中 浦戸道場坂之麓二建立仕」

阿波郡里の安楽寺過去帳に土佐の末寺八か寺の内の一つとして浦戸には真宗寺の名があります。浦戸道場が真宗寺(現高知市南御座)に成長したようです。また吾川郡弘岡下ノ村にも「真宗ヤシキホリケ」とあります。これは教秀寺のようです。
このように時代は少し下りますが、道場がいくつか建設されていたことが分かります。土佐に真宗が遅れながらも伝播し、拠点となる道場が姿を見せるようになっていたことが分かります。

土佐で再び真宗の教線が伸び始めるのは、長宗我部氏が土佐を去った後です。
「木仏之留」によれば、堺真宗寺の末寺である幡多郡広瀬村の明厳寺は、慶長11(1606)年に、了専の願いにより准如から木仏下付が行われています。つまり、一人前の真宗寺院として独り立ちしたということです。

四国真宗伝播 土佐正念寺
正念寺(高岡郡宇佐村)

和泉堺の善教寺の末寺である高岡郡宇佐村にある正念寺は、慶長16(1611)年に、本願寺准如から木像の木仏に裏書きを下付されています。「地検帳」に宇佐村に道場のことが記されているので、これが正念寺と推測できます。正念寺は、阿波郡里の安楽寺の末寺帳にも記されています。天正年間に道場として建設されていたものが、慶長年間になって寺院として格上げされています。創建は堺との関わりのなかで、堺の国教寺の末寺であったものが、やがて教線を阿波から伸ばしてきた安楽寺に配下に入れられたようです。
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本願寺より下付された木仏

 慶長10年以降、四国各地で木仏の下付が頻繁に行われています。
その背景には、慶長6(1601)の本願寺の東西分裂があるようです。本寺の分裂という危機的な状況の中で、西本願寺は組織強化策の一環とし木仏下付をおこなうようになります。木仏下付には、西本願寺を支持する門末寺院への褒賞的意味合いがあったようです。 木仏は寺院・道場の最重要物件です。それが本寺である西本願寺から下付され、道場へ安置されるということは、当時の法主である教如への忠誠と強固な支持を誓うことになります。それまでは、木仏下付の例はあまりありませんでした。それが、本願寺の東西分裂後に顕著化するのは、教団の組織強化に有効だったためと研究者は考えています。
 この頃から道場から寺院へ「脱皮」成長していく所が多いようです。
土佐では寛永18年(1641)に、数多くの寺に「木仏下付」が行われています。この年を契機として、土佐真宗寺院の整備がはかられたことがうかがえます。これらの寺院は、天正年間までに道場として姿を見せていたもので、道場記載の地と、木仏下付された寺院の所在地がほぼ一致することからも、それが裏付けられるようです。


四国真宗伝播 土佐天正16(1588)年に、真宗道場

早くから開かれていた道場・寺院は、先ほどの分布図で見たように海岸線に近い位置にありました。
 明厳寺・正念寺などは、堺の寺院の末寺なので、大平洋ルートを利用して堺からもたらされと研究者は考えています。土佐では、四国山脈の山並みを越えての移動よりも、太平洋を利用しての移動の方が便利だったはずです。それを活用したのが紀伊門徒や、堺門徒など海洋航海者であったのでしょう。彼らを媒介者として、土佐には真宗教線ラインがのびてきたとしておきましょう。

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土佐分国図

以上をまとめておきます
①土佐への真宗伝播は、中村に亡命した一条家の保護を受けてはじまった。
②中村一条家は、木材取引などを通じて堺商人と結びついていた。
③堺に真宗が伝播し、真宗門徒が堺商人の中にも数多く現れるようになる。
④本願寺は、紀伊水道を通じて阿波へ、また太平洋のルートを利用して土佐への教線を伸ばした。
⑤当時一条家が建造中であった中国との大型貿易船は、堺の真宗門徒の造船技術者によって建造されていた。
⑥この大型船建造への支援を堺の技術者に命じたのは、石山本願寺の證如であった。
⑦この背後には、土佐一条家領内での本願寺の布教活動への支援協力があった。
⑧「渡り」と呼ばれる海の民の門徒化が進み、海岸部に道場や寺院が建設され、水連・商業活動に従事する者たちを門徒に組み込んでいった。
⑨真宗を保護した一条氏が長宗我部元親に滅ぼされると後ろ盾を失い、真宗門徒の組織化は十分に進まなかった。
そして、長宗我部元親が減んだあと、土佐では急速に真宗が広がっていきます。
戦国期に組織化されていなかった真宗教団は、長宗我部元親亡き後の近世になって組織化されていくようです。その背後に何があったかについては、また別の機会に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」
朝倉慶景 土佐一条氏と大内氏の関係及び対明貿易に関する一考察  瀬戸内海地域史研究8号 2000年


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前回は、近世の半ばになると各藩では、式内社などの古寺が再興・保護されるようになる一方で、小さな神社、淫祠などは破棄され、神社の整理が行われ、ランキング表が作られるようになったことを見てきました。神社が序列化されると、次はそこに奉仕する神職も序列化されます。その際には、序列の規準が必要となります。近世の神社がどのように組織化されていったのか、その原動力は何だったのかを見ておきましょう。テキストは    「井上智勝   近世神社通史稿 国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月
吉田神社|京都|二十二社|伊勢神宮を凌ぐ中世日本神道界の権威。 | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
吉田神社

そこで登場してくるのが公家吉田家です。
寛文五年(1665)の諸社禰宜神主法度(「神社条目」)は神職を次の3つに分類します。
①朝廷から授与された位階を持つ神職
②位階は持たないが吉田家が発給した許状(神道裁許状)を有する神職
③位階も許状も持たない神職、
そして、神職として装束着用が認められるのは①②で、③の神職は「下賤」の服とされる白張を着用しなければならないと規定します。
つまり、狩衣や烏帽子などを着るには吉田家の許し状、いわゆる神道裁許状が必要になったのです。さらにこの規定に違反し、裁許状の交付を受けずに、装束を着用した場合の取り締まりも強化します。
白張
白張

 白張とは白布の表裏に糊を強くひいて仕立てただけの狩衣で、貴族の従者や下人の装束です。神職が下僕が着る白張で神に祝詞を捧げたり、笏を構えても威厳はともないません。滑稽さを感じるかも知れません。これでは、儀式にはなりません。宗教的な儀式には、それにふさわしい厳かな着衣が求められます。神職の場合は、烏帽子に狩衣を着用し、手に笏を持ち、足には黒い浅沓を履き、神に仕える重々しい姿を人々に誇示することで神の威光も保たれます。白張で神事を行えということは、神職にとっては、廃業せよというに等しいと感じたかも知れません。
①の位階を得るためには、公家による取り次ぎを経て、勅許を受ける必要があります。そのためには、大きな経費と労力がいります。これができるのは、有力神社だけです。

5-吉田神社境内図

 これに比べて②の吉田家の許状は、はるかに軽い負担で手に入れることができたようです。そのため、村の神職は許状(神道裁許状)を得るために、京都の吉田家と関係を持つようになります。そして、その許状を得た後は、吉田家の配下として活動することになります。
つまり、吉田家が全国の神職の免許状交付センター権を握って、神道界を牛耳るようになるのです。
 金毘羅神を祀る松尾寺金光院の横暴に、絶えかねた三十番社の神職が最初に訴えを持って駆け込むのが吉田家だったのも、このような時代の背景があるようです。金比羅さんのように新興の地方有力神社は、吉田家の影響力を排除するためには、①を得る必要があります。金毘羅さんの「日本一社」指向も、この文脈の中で考える必要がありそうです。
吉田家が発給した許状(神道裁許状)
吉田家が発給した許状(神道裁許状)

①の位階を得るよりリーズナブルとはいえ、②の吉田家の許状を獲得するためにも相応の負担は必要です。

 ある村の神職の例を試算したものがあります。吉田家から神道裁許状を得るためには、上京して吉田神道の特訓を受けなければなりません。その交通費、滞在費、受領名や官位を得る費用は、しめて15両と試算されています。
 また、勝手に神職になるわけにはいきません。その神社を支配する藩主の推薦状や謝礼も必要でした。晴れて神職であることを吉田家から許可されれば、村の主だった名主や氏子を集めて披露の宴も開かなければいきません。いま、金一両を10万円とすると、15両は150万円、これに雑多な費用を加えると、何百万円の経費がかかったようです。小さな村の神社の神官たちにとっては、大きな負担だったかもしれません。そのほかにも、吉田家には各物品の価格や許可に対する次のような礼金のリストが作られていたようです。
①神社号を許可されるのに額字ともで10両
②烏帽子着用に金一分(約2万円)、
③掛緒や沓の使用許可にもそれぞれ金一分
神社を支える村の氏子たちは、神職が許状を得る際の謝礼や上京費用を負担するようになります。氏子たちは積み立てや信仰者に寄附を募るなどして、経費を捻出したのです。

この諸社禰宜神主法度(「神社条目」)によって吉田家は、幕府から神職の統括者(本所)としての承認を受けたことになりました。
 それ以前の神職は、伊勢神宮や、各地域の有力神社神職の許可によって身分が保証されていました。しかし、法令発布後は吉田家と関係を持つ以外に道はなくなったのです。それが嫌なら白張を着用して、祭祀に臨まなければなりません。
 これを別の視点から見ると、今まで神職身分を承認していた伊勢神宮をはじめとする有力神社の存在意義が否定されたことになります。ただ、一宮のようにそれまで神職身分の公認所であった地域の大社は、吉田家の配下となることで、それまで同じように神職の支配・統制を許されます。ある意味では、吉田家による神職免許交付システムの中に、有力神社も取り込まれたことになります。その頂点に吉田家は立ったのです。

将軍綱吉の元禄期を終えて18世紀になると、神社の位階授与(神階)を希望する者が激増します。
その背景には、神社財産の管理権をめぐる対立抗争が増えたことが背景にあるようです。この場合の決着方法として、位階申請が用いられたのです。神階を受けるためには領主の添状と、氏子の支持が必要でした。そのため申請の過程で、神社の代表者が誰であるのかが明らかにしなければなりません。
 具体的には、村々からの神階の申請は、吉田家に対して行われます。したがって、神位を受けるために上洛した者が、本所吉田家から神社の代表者であること、すなわち神社支配権を承認されることになります。神階は、神道裁許状と違って、神職以外の宗教者や一般の人々が支配する神社でも受けることができました。そのため社僧や山伏あるいは氏子でも、神位を受けることで、その神社の管理権を確保することができたのです。こうして18世紀の前半期には、吉田家による神階授与が最高潮に達します。
神階を受けるためには、いま一つ条件がありました。
神社の祭神などの基礎事項がはっきりしていなければ、神位を受けることはできません。今からすれば、当然のことのように思えますが、当時は、何を祀っているのかも分からない神社がたくさんありました。分からなくっても、年間祭礼行事等を行う際には、何も困りませんでしたから、そのままになっていたようです。
 そこで神位受与の申請を行う前に、吉田家のアドヴァイスを受けて、祭神などを決めたようです。こうして、神階受与の申請が進む中で、神社の基本的なことが整えられて行きます。結果として祭神や由緒は、どこも似たもの同士へと均質化していきます。それまで村に伝承されてきた独自の神格や由緒が駆逐され、記紀神話など中央の神体系に組み込まれて行くことになります。
祭神や由緒の確定は、神社帳を編纂した藩などにおいては、すでに進行していたことです。この時期から丸亀藩の西讃地誌のように、地誌編纂が盛んになってゆくことも、この傾向を助長していきます。民間の学者や神職も、次第に祭神や由緒の考証を行うようになり、彼らの手によって神社志が編まれることも多くなります。
吉田神道の四百年』 “神使い”の人びと - HONZ


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
  「井上智勝   近世神社通史稿国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月

 村の鎮守や祠にまで興味が涌いてきたのですが、各市町村の市史や町史で神社史を見ても要領を得ません。その記述パターンは、神社の由緒書きを、そのまま書き写し、どれだけ歴史が古いのか、由緒があるのかを競うような内容で、長宗我部元親の兵火によって全てが焼き尽くされたために、詳細未詳、と締めくくるものが多いようです。
 近世のムラの神社が置かれた状況を、歴史の文脈の中で捉えようとする文章に出会いましたので読書メモ代わりに紹介します。テキストは テキストは 「井上智勝   近世神社通史稿 国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月」
近世の宗教と社会 2 / 井上 智勝/高埜 利彦【編】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

著者は、中世と近世の間には、大きな社会的な断層があることを最初に指摘します。断層の形成要因のひとつが、近世に登場してくる強力な統一政権だというのです。そして「近世ムラの神社」は、「格段に強力な統一政権」の動向や影響を受けながら、あるものは継承され、あるものは否定されていくことになると云います。

兵農分離

まず取り上げるのが兵農分離と検地です。
織豊政権は、武士団の城下町へ集住化で兵農分離を進めます。さらに検地で、複雑な土地所有関係を領主と農民が直接向かい合うシンプルなものにしていきます。
 兵農分離は、村の神社に何をもたらしたのでしょうか?
 それまで村々に生活していた武士団は城下町に集住させされ、常備軍の一員に編成されます。つまり、ムラから武士が消えたのです。これはムラの神社に大きな打撃となります。なぜなら、それまでムラに居館を構え、自ら耕作に携わってきた在地領主は、ムラの神社にとっては、最大の篤信者であり、パトロンでした。兵農分離は、ムラの神社の最大の庇護者を奪ったことになります。
理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
ムラにあった中世の武士居館

 戦国の乱世の中で敗者となった武士団の中には、西長尾山城主(まんのう町・丸亀市)の長尾氏のように、帰農しながら寺院や神社の宗教者として地域での指導性や優位性を確保しようとする者も現れます。しかし、これもあくまでムラの一員としての存在です。武士たちいなくなったムラでは、百姓たちの手で神社運営が行われるようになります。
太閤検地|記事|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)

 検地も、ムラの神社にとっては、大きな打撃となりました。
 検地によって、寺社が今までに持っていた田地も、一旦清算されす。広大な土地を持っていた有力神社をはじめ村の氏神社(鎮守社・産土社)まで、社領や神領は没収されます。そして、検地を施されて、貢納の対象とされました。豊臣・徳川初期の検地による社勢の衰えを伝える神社が多いのは、検地による寺領縮小と関係しているようです。誇張もありますが、ある程度史実を反映したものと研究者は考えているようです。

こうして、ムラから武士たちがいなくなったことで、神社は百姓や宗教者が維持・運営してゆかなければならない時代がやって来ました。
しかも、検地によって神田や免田などが没収されます。まずは、神社を維持するための経済的な基盤を再建することが求められました。氏子たちは、年貢地に組み込まれた村の耕地の一部を「神田」などと位置づけ、年貢を納めた余りで神社を維持する努力を重ねます。
村切り
青いエリアが中世の郷、赤いエリアが「村切り」の地に生まれた村

 検地を受けて行われた「村切り」も、神社に影響を与えました。
近世の統一政権は、中世の中間搾取をなくして、領主が小農民から直接に年貢を集めるという方向を指向しました。そのためにムラは、小農民を把握しやすいように再編成されることになります。郷に、いくつもの線引きがされ、切り分けられます。これが「村切り」です。中世まであった広い荘郷は解体され、集落を単位として「村」が生まれます。これが近世的な「村」の誕生です。

中世から近世に移る際に、神社の奉仕者も変容します。
兵農分離によって武士団の棟梁などムラの領主がいなくなった所では、神社の維持・管理の担い手や司祭者、あるいは祭祀秩序に大きな影響が出ています。ムラの神社の神職には、領主層の一族が多かったようです。それが武士団がいなくなるということは、神職にとってはその後ろ盾をなくすることとを意味します。
「ムラの領主の転出=神職失脚=神社の祭礼行事再編」

ということにつながります。
 検地には土地に耕作民を縛り付けることで、安定的な貢租収入を確保し、政権の安定を図るという目的もありました。そういう意味では、封建体制とは人々の移動の自由、職業選択の自由を奪うことによって成立するものといえます。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から

 これは、諸国を巡り歩く廻国の宗教者にとっては、「生活権の侵害」でした。諸国を遍歴して活動していた山伏などの廻国の宗教者の多くは、いままでの「営業スタイル」がとれなくなります。こうして、山伏たちは、一つの土地に定着して、生きていくしか道がなくなります。ムラに定着した山伏たちは、当然のように村の宗教活動に積極的に関わろうとします。これは、神職との間に緊張関係を生むことになります。祭祀の方法や祭祀に携わる巫女などの職掌をめぐって、両者はしばしば争いを引き起こしていることが讃岐の資料にも出てきます。このような争いを重ねる中で、控訴判例などを通じて両者の職分は整理されていきます。職分の明確化は、神職に独自の身分に属するという自意識を育てていきます。それは、神職達の身分集団の形成につながります。
また、山伏と同じように廻国行者である伊勢や熊野の御師も、所属する神社の神を奉じて、巡回先に定着する者が数多く現れます。近世初頭の新田村落への伊勢社の勧請は、このような御師の活動によるものが多いようです。
 近世初頭には、修験者や廻国者・御師たちの移動が原則禁止され、彼らが地域に定着し、世俗化していく時期であったことを押さえておきます。

戦国の乱世を終らせた豊臣政権は、積極的に神社の修造を行います。
その覇業を継いだ家康もまた、著名神社の修造を行っています。これらは彼らの篤い信仰心を表すものとされたりもします。が、実際は国家レベルの「神事」を果たすことによって、自分が正当な国家公権の掌握者であることを誇示することが目的であったと研究者は考えています。
 豊臣政権も徳川政権も、検地によって神社の領地経営を一旦は否定しました。しかし、有力神社に対しては改めて社領を与えています。各藩主も、同じように領内の有力寺社に寺領や神領を寄進します。讃岐の生駒氏が新興の流行神であった金毘羅神を祀る松尾寺金光院に、併せて330石の寄進を行うのも、このような文脈の中で見ておく必要がありそうです。金毘羅山の金光院の場合には、高松藩主松平頼重の斡旋で、朱印地になります。朱印状を持つ神社は、高い格式をもって処遇され、年頭や八朔に将軍や大名らに拝謁を許されました。
 しかし、神領寄進が行われたのは、幕府や藩主が信仰を寄せる一部の寺社だけです。恩典に与れない神社の方が圧倒的に多かったのです。
それでは、村の神社は、どのように維持管理されたのでしょうか。
生駒藩の場合を見てみると、村の神社の境内や神官の住居などは「除地」という免税地あつかいにしています。そのエリアは領主側が決めるもので、神職や氏子の希望どおりにはならなかったようですが、村の神社の維持には助かりました。藩が神社維持について、全面的に村の氏子の自助努力に委ねていたのでもないことがうかがえます。

 確かに、信長は、中世の土地制度や国家権力の在り方を否定して登場してきました。スクラップ&ビルド方式が採用されます。抵抗するものは強大な軍事力によって焼き払い、それを乗り越えて新しい時代を開くという使命感の故なのでしょう。
 しかし、江戸時代に入りしばらくすると、殿様の中には
「帰順する者は多くこれを容れ、利用できる部分は旧来の枠組みを利用することで、無駄な消耗を省いた藩造り」

を目指す殿様も現れてきます。それが讃岐では、生駒氏であり、初代高松藩藩主の松平頼重になるのかもしれません。彼らは「神事遂行は、統治者の責務」という認識を、持っていたようです。もっと具体的に云うと、殿様の頭の中には、「領主には領内の寺社を維持し、神事を円滑ならしめる責任がある」という「義務意識」があったということです。
 讃岐が二つに分けられ後の高松藩には水戸藩から松平頼重が初代藩主としてやってきます。この頃にになると全国的に、衰退・廃絶していた古社を復興し、神社の秩序化を推し進めようとする動きが、各藩で起こってきます。
神祇宝典(じんぎほうてん) - 貴重和本デジタルライブラリー

例えば正保三年(1646)尾張名古屋藩主徳川義直は、「神祇宝典」を著しています。
その中には、全国の式内社およそ870社と、祇園社・北野社など著名式外社68社について、祭神の考証、注釈が付けられています。義直は、一宮真清田社や熱田社など領内の有力社を崇敬・保護しています。それだけに留まらずに、旧社顕彰の意図が全国の神社に及ぶものであったことがうかがえます。その思想は、仏教隆盛以前の状態を理想とし、そこに回帰するという姿勢に立脚しています。これはある意味では排仏思想で、唯一神道の立場に近く、その根拠は吉田神道ではなく、儒学の尚古主義にあったようです。
 式内社などの古社を重視し、これを顕彰しようとする動向は17世紀の半ばには、その他の藩でも見られるようになります。
紀伊和歌山藩では、慶安三年(1650)に廃絶した式内社の旧跡を比定し、それぞれに石碑を建てています。この式内社の顕彰の動きは、磐城平藩、土佐高知藩、肥前平戸藩などでも行われています。注意しておきたいのは、これらの古社保護が神社整理とともに行われたことです。つまり小さな神社の破棄が一方では進められたのです。神社に秩序を与えるために序列化し、上位の神社を保護し、下位に位置づけられた神社は、淘汰されたことになります。まさに「神社整理政策」です。
江戸泰平の群像』(全385回)149・松平 頼重(まつだいら よりしげ)(162 | 史跡探訪と歴史の憧憬

   松平頼重による金毘羅大権現・長尾寺・白峰寺などへの保護は、このような動きの一環として捉えられます。
ここからは藩主が、領内にある神社なら何でも保護したわけではないことが分かります。あくまで藩が宗教施設として公認した神社に限られていたのです。保護すべきは、天下泰平・国家安全と藩主の武運長久を願う神社です。領民が個人的な祈願を込めるだけの流行神的な神社は、存在意義のない、むしろ民を惑わす「淫祠(淫祀)」とされて破却の対象となったようです。藩にとって、「神事」は、あくまでイデオロギー支配の手段で、領民への迎合ではなかったことがうかがえます。
 一方、村の破棄対象となりそうな神社側としては、「淫祠」ではなく、藩に必須の神社であることを誇示することを求められます。その結果、領内津々浦々の神社の棟札にまで「天下太平」「国家安穏」などの文字が記されることになります。これを掲げないことには、存在意義の証明にならなかったのです。逆に言うと、これが前面に出ると、庶民の信仰対象とはならなくなります。庶民は、現世利益や病気治癒を求めて、新たな流行神の信者へとなっていくことになります。

神社の序列化や整理のあとに作られたのが、神社管理のための藩の帳簿です。
会津藩の「会津神社志」および「会津神社総録」、
岡山藩の「御国中神社記」
は神社整理後、その結果をもとに編まれたものです。反対に水戸藩の「鎮守開基帳」は、神社整理に先だって行われた調査の結果を集成した簿冊です。神社整理を行わなかった領主も、領内の神社を掌握しておく必要から、神社帳を作成しています。こうして藩内の神社は「神社帳」に記載され、序列が付けられていくことになります。「藩内神社ランキング表」が完成したことになります
 藩は、治安上の理由から無制限に神社が増えることを望んではいませんでした。しかし。神社帳を作ったあとは、放置状態で、取り締まりが行われた痕跡は見えません。そのため稲荷神社など小さな神社は建立され続けたようで、公的に未公認な神社がたくさんあったようです。

以上をまとめておくと
①近世初頭の検地と兵農分離(刀狩り)は、中世以来の神社におおきな影響を与えた。
②武士層が村からいなくなったことによって、村の神社は百姓たちに維持されることになる。
③検地のためにそれまでの寺領没収や、あらたな年貢課税を求められた寺院は、百姓たちの支えで維持されるようになった。
④藩主の中にも神社の維持を藩全体の政策の一環として捉え、保護を策を講じる者も現れた。
⑤しかし、それは同時に神社整理と神社のランキング化を進めるものでもあった。
こうして各村の神社は、藩の神社帳に記載され、その管理を受けることになりました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「井上智勝   近世神社通史稿 国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月」

     さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)

 前回は、威徳院の歴史について次のような仮説を立てて見ました。
威徳院には史料的に中世に遡るものはない。戦国時代になってから道隆寺の末寺として建立されたのをスタートにする。それが生駒時代に藩の保護を受け、周囲の新田台地
の開発を進め伽藍を整備し西讃の教学センターとして大きな地位を占めるようになった

 ある意味、象頭山の松尾寺金光院と似ています。松尾寺も近世初頭に創建された新興寺院でした。それが、金毘羅神という流行神を祀り、天狗信仰の聖地となることで多くの修験者を集めるようになります。そして、金比羅で修行した修験者が各地に分散し、金比羅講を開き信者を組織し、彼らが先達として金比羅詣でを進めるようになります。金比羅の出発は「海の神様」ではなく、「天狗信仰の聖地」であったのです。同じような動きが高瀬の新田台地でも起こっていたと私は考えています。

「威徳院に近世以前の歴史はない」云いましたが、この寺には中世の絵図がいくつも伝わっています。これらをどう考えるかが次の問題になってきます。
威徳院調査報告書の中世絵画を見ていくことにします。
威徳院には、絵画や書跡の掛幅、屏風、扁額など135点が保存されているようです。その中には、奈良国立博物館に保管されている威徳院所蔵の中世仏画四件を含みます。その内訳を見ると、絵画90件、書跡45五件と、絵画が全体の約2/3を占めます。その伝来は、高野山や、住職の兼帯などが行われた本山寺(三豊市豊中町)からもたらされたものが多いのが特徴のようです。
この中で中世に遡るのは次の九件です。
①南北朝時代に描かれた「不動明王二童子像」
②室町時代の作として、「十三仏図」
③「十一面観音像」
④「愛染明王像」
⑤「三千仏図」
⑥「仏涅槃図」
⑦「弘法大師像」
⑧「荒神像」

大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)には①「不動明王二童子像」と②「十三仏図」を「宝物」として冒頭に記しています。ここからは、この2つが威徳院にとって特に重要な仏画と位置付けられていたことが分かります。

① 不動明王二童子像(南北朝時代(十四世紀)から報告書を片手に見ていきます。
威徳院不動明王

 右手に剣、左手に頴索を持って語々座に結珈践坐する不動明王です。頭頂に蓮華を載せ、髪を総髪にして左前に弁髪を垂らし、両眼を見開いて上歯で下唇を噛みしめています。いわゆる弘法大師様と呼ばれる図像です。背後の迦楼羅炎は、朱と金泥で全身を覆うように表され、激しい火焔が台座の下に写っているのが見えます。不動明王の肉身は群青で、頭髪や眉は金泥で線描されています。
脇侍の二童子は、床に置かれた方形の台座上に立ちます。向かって右が衿掲羅童子で、右手に蓮華、左手に独鈷杵を持ち、肉身を白色に近い明るい色の顔料で塗り、頭髪は墨の細線で描かれていて黒髪の雰囲気がよく出ています。
左が制吐迦童子で、右手に宝棒、左手に三鈷杵を握ります。躰は全身が朱色で、頭部の巻毛は金髪です。おおらかさも感じられ、制作時期は南北朝時代、十四世紀頃と研究者は考えているようです。
県内にある不動明王画像の中でも古作の一つになるようです。大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)では弘法大師筆と伝えられ「宝物第一号」とさています。大正時代には、この「不動明王二童子像」が最重要宝物として扱われていたようです。
 不動明王は修験者の守護神です。
修験者は笈の中に小さな不動さまを入れて各地を修行しました。そして、適地を見つけると小屋掛けし庵を結びます。その行場に人気が集まると訪れる行者も多くなり、寺へと発展していきます。
現在の四国霊場の多くは、このように行者たちの行場から生まれたお寺が数多くあります。行場には不動さまが祀られていました。山の上にの行場近くにあったお寺は、近世になると麓に下りてきます。本山寺などはその典型であることは以前にお話ししました。行場は奥の院として残り、そこには不動さまが今でも祀られていることが多いようです。
ここからは不動さまを祀っている寺院はかつては行場を持つ山岳(海洋)寺院であったことが推察できます。
この不動さまを「宝物第一号」としていた威徳院にも、そのような側面があったことが考えられます。それは、前回もお話ししたように山号が「七宝山」であることからもうかがえます。七宝山は「辺路修行」の聖地でした。そこにかつては寺院があったり、七宝山を霊山とするお寺は、この山号を用いています。それは本山寺も延命院もおなじです。 この不動さまが中世の時代から威徳院にあったかどうかは、不明です。
威徳院十三仏図2

②「十三仏図」(室町時代(十四世紀)は三豊市の有形文化財に指定されています。
中世には、死者追善のために十三回の忌日ごとに供養を行う十三仏信仰が広がっていました。そのために描かれたのがこの仏画のようです。十三仏信仰は、鎌倉時代に中国から伝来した十王信仰をもとに、各王に本地仏を定め、忌日も増えるなどして南北朝時代頃に成立します。それぞれの忌日と本地仏は、次の通りです。
初七日忌-不動明王、
二七日忌-釈迦如来、
三七日忌-文殊菩薩、
四七日忌-普賢菩薩、
五七日忌-地蔵菩薩、
六七日忌-弥勒菩薩、
七七日忌-薬師如来、
百ヶ日忌―観音菩薩、
一周忌-勢至菩薩、
三回忌-阿弥陀如来、
七回忌-阿問如来、
十三回忌-大日如来、
三十三回忌-虚空蔵菩薩
威徳院十三仏図

威徳院の「十三仏図」は、各仏を上のように配置して、それぞれに仏の名称のほか、十王の名と忌日を二行で墨書しています。
 室町時代以降の十三仏図では、忌日順に本尊が並ぶのが多いのですが、この図は各尊像の順番が交錯する複雑な配置になっています。これは、「画面中央に位置する阿弥陀三尊や釈迦三尊などのまとまりを意識した構図とも考えられ、類例の少ない図像」と報告書は指摘します。
 それ以外の特徴としては、通常は虚空に浮かぶ蓮華座上に仏たちをを描くことが多いのですが、この図は文殊・普賢菩薩が獅子と象に騎座します。また各仏の下には、岩座や水波などの自然景が描かれます。この絵図の制作時期は、室町時代前半、十四世紀と推定されているようです。
 しかし威徳院への伝来は、18世紀以後になるようです。
なぜなら巻留の墨書に、十八世紀前半にはこの絵図は高野山雨宝院の真辨が所蔵していたこと記されているからです。それが後年、何らかの形で威徳院に伝えられたようです。この絵図が伝えられる人脈ネットワークが威徳院と高野山雨宝院の間にはあったことになります。

威徳院十一面観音像

③十一面観音像 縦100,5㎝ 横39㎝ 室町時代(十五世紀)
「十一面観音像」は、錫杖を持って立つ十一面観音の両脇に、難陀龍王と雨宝童子が配されるスタイルです。頭上に十一面を戴せて、右手首に念珠を巻いて錫杖を持ち、左手に水瓶を持って立ちます。その下側に両手で宝珠を捧げ持つ難陀龍王、宝珠と宝棒を持つ雨宝童子の二脇侍が描かれます。このような十一面観音三尊像スタイルは、奈良・長谷寺の本尊と同じで、長谷式十一面観音と呼ばれます。県内では、長谷式の十一面観音画像は非情にめずらしいようです。秘仏とされる威徳院の本尊も長谷式十一面観音像で、難陀龍王、雨宝童子の脇侍が附属する三尊像です。この図も本尊との関連性が考えられます。報告書の記述を見てみましょう
 十一面観音は、肉身を金泥で塗り、肉身線を朱の鉄線描で描き起こす。顔貌は、正面向きでやや平板化した印象もあるが、衣や光背の文様はのびやかな墨線で破綻なく描かれる。
脇侍の二尊はごく細い線で眉や頭髪を描き、顔は墨や朱などを使って表情豊かに描かれており、室町時代十五世紀に、優れた技量を持つ画家によって描かれたものと考えられる。巻留および箱の銘文から、十九世紀の前半と文久三年(1862)に、遍空と密道の二人の住職の手でそれぞれ修復されたことがわかる。
威徳院愛染明王像
④愛染明王像 縦104、2㎝横41、3㎝ 室町時代(十五世紀)
 愛染明王は、人々が愛欲、煩悩に向かう心を浄化して悟りへと導く明王です。息災、調伏、敬愛などを祈願する愛染法の本尊として信仰を集めたようで、香川県内にも数多く残されています。。
 この図は、中央に、宝瓶の上の蓮華座に結珈鉄坐する一面三目六腎の愛染明王が描かれます。その上には環路の下がった天蓋、床上には宝瓶から湧き出した宝玉や貝殻を描かれます。明王の六腎は、第一手の左手に五鈷鈴、右手に五鈷杵、第二手の左手に弓、右手に矢、第三手の左手に蓮華が握られ、右手は金剛拳です。髪は怒りの怒髪で、獅子冠を戴せています。教典通りの絵柄です。
 報告書を見てみましょう
粗めの画絹の上に、愛染明王は肉身を朱で塗り、肉身線を細い墨線で描くが、描写は全体にやや硬く形式化がみられる。台座等も含めて截金の使用は見られず、衣の文様も金泥と彩色によって截金文様風に描いており、画風から、室町時代、十五世紀の制作と考えられる。巻留には、智証大師筆とする墨書があり、威徳院でも重要な仏画の一つとして伝来したものと考えられる。

⑤ 三千仏図 三幅 南北朝~室町時代(十四世紀)
 三千仏図は、過去・現在・未来に現れる諸尊の仏名を唱えることで、罪を傲悔し、功徳を得ようとする仏名会(仏名懺悔会)の本尊です。これも巻留に、宝暦五年(1755)に住職の周峯が高野山で求めたことが記されています。18世紀半ばまでは高野山に伝来していたものが、その後威徳院に伝来したことが分かります。
威徳院仏涅槃図幅

⑥ 仏涅槃図幅 縦140、9㎝ 横108,8㎝ (十五世紀)
 釈迦は、その生涯を沙羅双樹の下で終えます。釈迦入滅の情景を描いたのが仏涅槃図です。この図は、中央に右腕を枕にして宝床に横臥する釈迦を描かれます。その周りに釈迦の死を聞いて集まり、嘆き悲しむ諸菩薩や仏弟子、様々な動物たち会衆の姿があります。画面向かって左上には、知らせを聞いて天上界から飛来する釈迦の母摩耶夫人の姿も見えます。この構図が鎌倉時代以降に主流となった定形版のようです。
 仏涅槃図は、涅槃会の本尊として用いられるので、大きな寺院には必ず備えられていました。
  この図とほぼ同じものが、覚城院(三豊市仁尾町)、地福寺(丸亀市広島)などのいくつかの真言宗寺院に伝来しています。ここからは同一の絵師、または工房で制作された可能性があります。 室町時代以降、地方寺院では宗教行事のために「仏画需要」が高まります。それを受けて、絵所などで粉本を用いた仏画を数多く制作し、供給していたことがうかがえます。
 
 地福寺本の紙背には、次のように記されています。
文明三/辛/卯/十月十五日/絵所/加賀守主計/彩圓終焉屹

ここからは文明三年(1472)に絵所の絵師、加賀守主計が描いたことが分かります。威徳院のものも同じ工房で作られたとすると、十五世紀後半に加賀守主計の絵所か、またはそれに近い位置にいた絵師によって描かれたことが推測できます。加賀守主計については、史料では室町時代に、京都で活動した加賀守(加賀)を名乗る絵師がいたことが分かっているようです。
 高野山の寺院を兼帯する威徳院住職が高野山で求めて持ち帰ったのを周辺の僧侶が見て、「うちにもあれと同じものを求めてきてくらんやろか」と依頼する姿が浮かんできます。 
 この仏画にも紙背に宝永年間(1704~11)と文化11年(1805)の二度にわたって修復が行われたことを示す墨書銘があるようです。

威徳院弘法大師

⑦ 弘法大師像   室町時代(16世紀)
 画面向かって左斜めを向き、右手に五鈷杵、左手に念珠を持って背のある椅子に坐す弘法大師の姿が描かれます。その背後に、山間から姿を現した釈迦如来が描かれています。「善通寺御影」とよばれる弘法大師像です。高野山で描かれた弘法大師像には釈迦如来は描かれていません。ところが讃岐で描かれたものには、釈迦如来が描かれるようになります。
どうしてなのでしょうか?
 空海が四国の山中で修行をしていた時に、釈迦如来が雲に乗じて現れたという説話を絵画化したものとされます。鎌倉時代に讃岐に留配された僧道範が著した「南海流浪記」に、善通寺で釈迦如来の姿が描かれた空海自筆の大師像を見たという記述があります。ここからこのスタイルは「善通寺御影」と呼ばれるようになったようです。
 この様式は香川県内には、多くの作例があります。その背後には、与田寺の増吽の布教活動と重なることが指摘されています。つまり、この善通寺御影があるところは、増吽の組織していたネットワークに組み込まれていたと研究者は考えているようです。増吽の性格は「熊野信仰 + 勧進僧 + 書写ネットワークの元締め + 高野聖 + 弘法大師信仰」といくつもの要素が絡み合ってることは以前にお話ししました。そのようなネットワークの中に威徳院も組み込まれていたことがうかがえます。
 今に伝わる「善通寺御影」の作例は、どれもほぼ同じ図様です。そこからは原本となるものを、写し継いで、増吽の工房などで多数の画像を描いたことが想像できます。報告書の記述を見てみましょう。
本図は釈迦如来の描写も含めて、明快な墨線と彩色で描かれるのが特徴である。釈迦如来や岩山などの描写にやや形式化した硬さも認められることから、制作時期は十六世紀、室町時代後期と推定される。紙背の墨書から、仏涅槃図と同じ時期に修復が行われていることがわかる。
威徳院荒神像

⑧ 荒神像 縦70,2㎝ 横38、8㎝  室町時代(十五世紀)
 荒神は、仏教経典の中に出てきません。神仏習合思想や俗信的信仰の中から生まれたものです。荒神には、次の3つタイプがいます
A 相好柔和な如来荒神、
B 八面八(六)腎の夜叉羅刹形である三宝荒神
C 宝珠と宝輪を持つ俗体形で子島寺の真興が感得したという子島荒神
この荒神は、B三宝荒神を描いたもののようです。報告書を見てみましょう。
 本面の左右に脇面、頭上に五面を戴いた八面で、いずれも怒髪の忿怒形で怒る姿が描かれている。第一手は胸前で合掌し、第二手は左手に宝輪、右手に羂索、第三手は左手に弓、右手に矢、第四手は左手に三叉戟、右手に三鈷戟を持ち、火焔を背にして荷葉座に坐す。
荒神の肉身は朱で塗り、輪郭は肥痩のある墨線で描く。持物の一部や座具の縁には截金を施し、頭髪や眉を金泥で筋描きするほか、装身具や衣の文様なども金泥で描く。粗い目の画絹に素朴だが伸びのある描線で描かれており、火焔などの彩色には細やかな輦しも見られる。制作時期は、室町時代、十五世紀前半と考えられ、県内でも類例がほとんど見られない中世の荒神画像として貴重である。

  威徳院に伝わる中世仏画を見てきました。ここから推測できることを挙げておきます
①江戸時代の威徳院の住職は、高野山のお寺と兼帯する者が増え。その関係からか高野山からの伝来を伝えるものがいくつかある。
②「十三仏図」「仏涅槃図」「弘法大師像」「荒神像」「十一面観音像」などは、年間の宗教行事の「開帳」のために必要なもので、後世に必要に応じて購入伝来した可能性が高い
③「不動明王二童子像」「愛染明王像」などは、密教系修験道に関係するもので、威徳院の本源的な姿を伝えている。

   以上から威徳院に残された中世仏画類が威徳院の中世の歴史を伝えるものとは、必ずしもいえないことがうかがえます。「威徳院近世出現説」を葬り去ることはできません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 威徳院勝造寺の調査報告書が平成11年に出ています。この調査書を見ながら威徳院の歴史を見ていきたいと思います。報告書は最初に次のことを予備知識として確認しています
①威徳院は山号を七宝山、寺号を勝造寺
②江戸時代は大覚寺派で、その後東寺真言宗で現在は真言宗善通寺派の寺院
③江戸時代初めの生駒藩時代には、讃岐十五箇院の一つ
④澄禅の記した『四国遍路日記』(1653年)では讃岐六院家の一つとされる
⑤本尊は十一面観音で、中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えている。

寺号が七宝山とあることに注意しておきたいとおもいます。七宝山は、このエリアの霊山で行場の続く「小辺路」があった山です。観音寺縁起には、観音寺から始まって仁尾まで7つの行場があり、五岳の我拝師山と結ばれる「小辺路」があったことが記されていました。中世にはここを多くの修験者たちが行き交った形跡が残ります。行場近くには、寺院ができます。それが時代ととともに里に下ってきます。その典型が本山寺です。本山寺もかつては七宝山の山中にあったお寺が、14世紀前後に現在地に移り本堂伽藍を構えました。七宝山から里下りしてきた寺には山号を「七宝山」とする所が多いようです。これはかつては、七宝山を霊山として、奥社がそこにあった痕跡だと私は考えています。もしかしたら威徳院も、そのような性格をもっていたのかもしれません。
 
 威徳院勝造寺の寺暦を『七賓山威徳院由来』(天和元年(1682)で見ていきます。
ここには威徳院開基について二説が併記されています。
一つは弘仁12年(822頃)に空海が四国巡遊のおりに草坊があって、そこにとどまり修行をしたのが始まりというものです。
もう一つは寛平元年(889)、弘法大師有縁の地に三間四面の堂宇を建立したのを始まりとするものです。
しかし、その後257年間は不詳とします。
 どちらにしても真言宗のお寺らしく空海伝説を創建説話に持ちます。
久安二年(1146)秋に浄賢法印が威徳院住職となったと記し、その後、良尚をはじめ何人かの住職の名前を挙げますが、その後は
「二百三十四年間ノ史実、住職ノ人林不分明

とします。つまり、威徳院は、創建から南北朝期から天正期までの「歴史は不詳」なのです。
ところが良尚が、一次資料に別の時代に登場するのです。
威徳院と関係の深い本山寺の聖教の中の奥書に、次のような記録が残されています。
「永正十二年乙亥正月二十一日讃州勝蔵寺威徳院住持良尚法印書写本悉破損故今住侶慧丁写之」

また威徳院にある聖教の奥書にも、次のような書き込みがあります。
「永正十二年乙亥正月廿一日於勝蔵寺書之自萩原地蔵院此本申請或人書写之以後令苦労写之也右筆良尚」)

ここからは永正十二年(1515)に威徳院住持として良尚という人物がいたことが分かります。
また良尚は「本山寺龍響血脈」には、慶長二年(1597)に威徳院住職となったとされる秀憲の2代前の人物としても登場します。ここからは良尚は16世紀後半頃の戦国時代の人物の可能性が高いと研究者は考えているようです。つまり「威徳院由来」に13世紀末~14世紀初の人として登場した良尚は、威徳院の歴史を古く見せるための作為だったようです。

 こうしてみてくると威徳院には、古代中世の歴史はなく、16世紀後半になって姿を現してきた「新興寺院」の可能性があることになります。しかし、最初に⑥で見たように、この寺には中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えています。これをどう考えればいいのでしょうか。これはまた別の機会に考えることにして、先を急ぎます

  威徳院は、どのようにしてこの地に姿を現したのでしょうか。
   威徳院由来に実在が信じられる住職名が並び出すのは天正十年(1582)の良田法印からです。その後、慶長二年(1592)からは秀憲法印が住職になったと記します。
『威徳院由来』には良田・秀憲について、次のように述べています。
道隆寺ヨリ当院ヲ兼帯ストモ云ヘリ」

 突然に、ここで道隆寺が登場します。道隆寺とは四国霊場で、当時は中世の多度郡港である堀江湊の「港湾管理センター + 修学センター」としても機能していました。海の向こう側の児島五流の影響を受けて、塩飽諸島や詫間・庄内半島などの多くの寺社を末寺として、備讃瀬戸への教線ライン伸ばしていた寺院です。その道隆寺の僧侶が、威徳院の住職を「兼帯」していたというのです。にわかには信じられませんでした。

  ところが『道隆寺温故記』を見ると、良田・秀憲の二人の住職が実在していたことが分かります。そして、次のような行事に登場しています。(良田は田と表記されている)
永禄十一戌辰年(1568)冬十月廿六日、雄(秀雄)、入寂。良田、補院主焉。
天正三乙亥年(1575)春三月十八日、塩飽正覚院本堂入仏供養導師、田(良田)、執行焉。
天正拾壬午年(一五八二)夏卯月廿七日、鴨大明神、田、遷宮導師執行畢焉。
天正十六戊子年(一五八八)春三月十九日、多度津観音堂入仏導師、田、修之。
天正十六戊子年秋九月五日、多他須。宮遷宮導師、田、執行焉。
天正十七己丑年(一五八九)秋九月十七日、堀江春日大明神、田、遷宮導師墨 焉。
天正十八庚寅年(一五九〇)冬十月廿一日、葛原八幡宮、田、遷宮導師畢焉。
天正廿壬辰年(一五九二)夏六月十五日、白方海岸寺大師堂入仏導師、田、令執行畢。
文禄元壬辰年(一五九二)冬十一月日、田、移住塩飽正覚院兼帯常寺。
文禄五丙申年(一五九六)、(中略)于時、田、捕白方八幡宮神鉢破壊、即彫夫 木、厳八躯尊像、以擬旧記、令安坐、開眼導師畢。
文禄五丙申暦夏六月八日、鴨大明神遷宮導師、田、執行焉。
慶長一于酉年(一五九七)秋八月八日、金倉寺本堂薬師如来開眼供養導師同前。
慶長四己亥年(一五九九)秋八月十四日、下金倉八幡宮、田、遷宮導師令執行畢焉。
慶長六辛丑年(1602)夏五月十四日、堀江弘演八幡宮、遷宮導師同前。
慶長十乙巳年(1605)春二月廿二日、粟嶋(粟島)常社大明神遷宮導師、田、令執行畢。
慶長十乙巳稔冬十二月十六日、田、於塩飽終焉。同月廿二日、秀憲、補道隆寺院主焉。
慶長十二丁未暦(1607)秋八月十三日、葛原郷八幡宮遷宮導師、憲(
秀憲)、執行焉。
慶長十五庚戌年(1610)秋九月九日、堀江弘漬八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
慶長十六辛亥暦(1611)冬十月宿曜日、憲、入院濯頂焉。
元和二丙辰年(1616)秋八月吉日、堀江八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳年(1617)秋八月九日、粟嶋八幡遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳暦秋八月九日、粟嶋聖徳太子入仏導師、憲、令執行畢焉。
元和三丁巳年秋九月廿日、津森村天神、憲、遷宮令執行畢焉。
元和六庚申年(1623)夏卯月廿六日、憲、白方海岸寺大師堂入仏導師令執行焉。
元和九発亥年(1623)閏八月朔日、葛原八幡宮、憲、遷宮導師令執行畢焉。
寛永二乙丑(1625)九月、葛原八幡宮釣殿、供養導師秀憲修行。
寛永四丁卯年(1627)三月廿三日、憲、入寂
ここからは次のようなことが分かります。
①永禄11戌辰年(1568)に雄(秀雄)が亡くなり、代わって良田が道隆寺の住職に就任。
②道隆寺と本末関係を結ぶ寺社が島嶼部では塩飽や粟島、内陸では下金倉・葛原八幡までのびている。海に伸びる教線ラインを道隆寺は持っていた
③末寺の寺社の遷宮や供養には、良田が自ら出掛け、導師を勤めている。
④良田が導師を勤めているのは1605年までで、以後は秀憲に代わっている
⑤道隆寺側の資料には、良田・秀憲が威徳院を兼帯していたことは触れられていない

ここで良田の道隆寺住職の在任期間を確認しておきます。
良田は永禄11年(1568)に道隆寺三十世となって、慶長十年(1605)に亡くなっています。威徳院由来には良田の在職期間は天正十年(1582)から慶長二年(1592)までとなっていました。在任期間にズレはありますが、良田が道隆寺の住職を16世紀後半に務めていたことは史料から裏付けられます。

 良田の名は、天正頃の人として古刹島田寺(丸亀市飯山町)十二世としても名前が見えます。この人物については、よく分かりませんが生駒親正によって再興された弘憲寺(高松市)開祖良純につながる人物で、高野山金剛三昧院に縁のある人と研究者は考えているようです。これも同一人物の可能性があります。
 
本島の正覚院に伝わる『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。
天正三年(1575)二月十八日  道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏
供養導師を勤める。
天正十八年(1590)年    秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年  道隆寺の良田が正覚寺に移り、道
隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日  良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は、物流センターの塩飽への参入拡大です。そのために本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し、本島で生活するようになったというのです。

以上を整理すると良田は、道隆寺の住職で、飯山の島田寺・本島の正覚寺・威徳院を兼帯していたことになります。つまり、後の記録に「兼帯」していたことをこれだけ記録されているのですから人望のある僧侶であったことがうかがえます。同時に、良田の時代に道隆寺の寺勢が急速に拡大したようです。道隆寺の教線拡大政策の一環として、その教勢ラインが三野郡の勝間郷にもおよぶようになったのが良田の時代だった、そして、道隆寺の支援で、威徳院が下勝間の地に姿を現すようになったとしておきます。

  16世紀後半の威徳院をとりまく三野郡の情勢は激変期でした。
天霧城主香川氏家臣→長宗我部元親→生駒親正→生駒一正と支配者が交替していきます。秋山・三野文書からは1560年代の三野地方は、天霧山城主の香川氏に対して、阿波三好勢力が伸びてきて、一時的に香川氏は天霧城を退城したことが分かります。それでも香川氏は、三野氏や秋山氏に感状をだし、土地給付も行っています。ここからは、香川氏が滅亡したわけではなく、一定の勢力をもってとどまっているたことがうかがえます。1577年には秋山帰来氏への土地給付をおこなってるので、この頃までには香川氏の勢力が回復していたようです。
 この時期は、阿波三好氏側に麻や二宮の近藤氏がついていました。そのため香川氏の家臣団である秋山氏などとの間で小競り合いが続いていたことが史料からは分かります。三好氏の勢力範囲は麻から佐俣・二宮ラインまで及んでいたことになります。そのため各武士団の氏寺は、小競り合いの際に焼き討ちの対象となったかもしれません。三野氏の菩提寺とされる柞原寺も、このような中で一時的には衰退したことが考えられます。その宗教的な空白地に道隆寺は進出してきたとしておきましょう。
 道隆寺の教線の伸張ルートとして考えられるのは、以下の2つです。
①道隆寺 → 白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院
②道隆寺 → 白方海岸寺 → 粟島  → 三野湾 → 威徳院
 その原動力はなんでしょうか。
経済的には、瀬戸内海の交易の富でしょう。道隆寺は、堀江港の管理センターの役割を果たし、本島や粟島、庄内半島の末寺もネットワークに組み込んでいました。そこから上がる富がありました。
人的なエネルギーはなんでしょうか。これは児島五流修験の人的パワーだったと私は考えています。児島五流の布教戦略については、何度もお話ししましたのでここでは省略します。
 五流修験(新熊野)と道隆寺は強い結びつきがあったようです。
五流修験の影響を受けた道隆寺やその末寺であった白方海岸寺、仏母院などは、空海=白方誕生説を近世初頭には流布していたことは以前にお話ししました。ここからは高野山系の弘法大師伝説とはちがう別系譜のお話が伝わっていたことが分かります。善通寺と道隆寺は中世には、別系統に属する寺院であったことを押さえておきます。

  道隆寺グループを率いる良田の課題は、新しい支配者である生駒氏との間に、良好な関係を取り結ぶことでした。
それに良田は成功したようです。
天正十五(1587)年に、生駒親正が藩主としてやって来ると、国内安定策の一環として、以下の真言宗の古刹寺院を「讃岐十五箇院」を定めてを保護します。
一、虚空蔵院与田寺 (東束かがわ市) 
二、宝蔵院極楽寺 (さぬき市) 
三、無量寿院随順寺 (高松市) 
四、地蔵院香西寺 (高松市) 
五、千手院国分寺 (国分寺町) 
六、洞林院白峰寺 (坂出市) 
七、遍照光院法薫寺(飯山町) 
ハ、宝光院聖通寺 (宇多津町) 
九、明王院道隆寺 (多度津町) 
十、威徳院勝造寺 (高瀬町) 
十二 持宝院本山寺(豊中町) 
十二、延命院勝楽寺(豊中町) 
十三、覚城院不動護国寺 (仁尾町) 
十四、伊舎那院如意輪寺 (財田町) 
十五、地蔵院萩原寺 (大野原町)

ここには、道隆寺も威徳院も含まれています。
このリストを見て感じるのは、三豊の寺院の比率が高いことです。
6/15が三豊の寺院です。それがどうしてなのか、今の私には分かりません。この中に威徳院も含まれています。また、威徳院と住職が兼帯することになる本山寺や延命院・伊舎那院も含まれています。
もうひとつ気づくのは、普通は寺院の名称は山号・寺号・院号の順序で表記されます。ところが上の表記では、寺号と院号を入れ替えて山号・院号・寺号の表記になっています。院号が重視されているようです。
  
  そして、関ヶ原の戦いの翌年には、新領主となった一正から、威徳院は寺内林を持つことが認められます。
戦国時代末期の激変期に、良田は道隆寺住職として、兼務する寺や末寺の経営を担当し、その中で生駒家の保護を受けることに成功しています。そこには一正の信頼を得て奉行として働いていた三野郡出身の三野氏の存在が大きかったのではないかと思います。三野氏が地元の威徳院の保護を何らかの形で一正に進言したことは考えられます。
 しかし、 先ほども見たように『威徳院由来』は、良田ではなく秀憲を威徳院中興(創建)と位置づけ、高く評価します。逆に良田を「過小評価」したいようです。
 威徳院には、浄賢からはじまり勢深、勢胤、賢真、亮賢、良尚、宥尚秀憲の八人の肖像を描いた画幅「威徳院住職図」一幅があります。そこには、それぞれの命日が以下のように記されます。
中興開山浄賢七月廿九日
勢深二月五日
勢胤四月朔日
賢真五月廿八日
亮賢十月廿七日
良尚八月八日
宥尚九月六日/
秀憲三月廿三日」
ここにも良田は描かれていません。
  良田の後を継いだ秀憲を見てみましょう
道隆寺の記録に、秀憲は、多度郡堀江村の生まれで、慶長十(1605)年に道隆寺31世となり、寛永四年(1627)に入寂とあります。威徳院の記録には、
「威徳院・明王院(道隆寺)兼帯。堀江村出身、加茂にて命終」

と記します。ここからは、良田に続く秀憲も、道隆寺との兼帯です。
分かりやすく云うと「末寺」であったのでしょう。
その後の威徳院の動きを見ておきましょう。
慶長十六(1611)年には、生駒藩が高松に19か寺を集めて行った論議興行に、威徳院の寺名があります。このころには西讃地域での地位を確立したようです。
 丸亀藩山崎家からも寛永十九(1642)年に、生駒家寄進の寺領高20石が安堵されています。この高は西讃では一番多く、次に来る興昌寺が6石6斗のなので、当時の威徳院の寺勢が強さがうかがえます。そして、前回お話ししたように下勝間の新田台地の開発を着々と進めて寺領を増やして行きます。元禄十二(1699)には43石の寺領を持ち、最終的には寺領高150石に達します。これが威徳院の隆盛の経済的な基盤となります。
 
萬治二年(1659)に住職となったのが宥印法印です。
彼は金毘羅の金光院からやってきたようです。 金比羅神を祀る金光院の僧侶は「宥」の字をもらい受けます。慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金毘羅大権現の金光院の院主を勤めた宥睨のもとで修行し、高野山で学んだようです。金光院の院主たちは、山下家の出身地である財田周辺の才ある若者を預かり、見所有りと見抜くと高野山に送り込み学ばせて、人材を育成したようです。そのひとりが宥印だったのでしょう。有印は、出身地の中ノ村伊舎那院(三豊市財田町)と高野山善性院を兼務し、貞享元年(1684)高野山の善性院で入寂しています。
 高野山善性院は讃岐出身の僧侶と関わりが深かったようで、文政~天保頃の本山寺聖教にも本山寺住職体円などがこの寺と関係があったようです。高野山のお寺と兼帯する僧侶は、讃岐には他にも数多く見られます。
『威徳院由来』は宥印法印の口述を、弟子の宥宣が記したものです。その中で宥宣は、宥印を威徳院興隆の人としています。
それを裏付けるために、周辺の末寺の寺社の棟札銘などに残る宥印の名前を探してみましょう。
寛文三年(1663)八月九日 熊岡八幡宮「再興正八幡宮」棟札銘
「遷宮供養導師本寺勝同村威徳院権大僧都法印宥印
寛文五年(1665)九月二十三日 「建立大明神」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
同年同月             「建立八幡宮」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
寛文六年(1666)四月五日「建立新田大明神拝殿幣殿」棟札銘
   「遷宮導師勝間威徳院住持権大僧都法印宥印
寛文七年(1667))三月  「建立大瞬神宮」棟札銘
   「遷宮導師権大僧都法印宥印」(24)。
寛文七年(一六六七)    詫間村善性院「天満宮」棟札銘
   「遷宮井供養導師勝同村威徳院住持権大僧都法印宥印
ここからは威徳院の住職が周辺の神社の導師を勤めていることが分かります。地域における地盤も固まってきたようです。また、『威徳院由来』には宥印について、次のように記されています。
「当院住職中、的場寺大池及西谷上池ヲ新二掘り築ケリ」

的場の寺大池や西谷上池などの新しいため池築造も行っています。これは新田開発とセットになったものです。

  また有印以後は、威徳院は高野山との関係を強めていきます。
それと反比例するかのように道隆寺との関係が薄くなっていきます。これをどう見ればいいのでしょうか。
 これと同じような動きを見せるのが弥谷寺でした。弥谷寺は、近世初頭までは白方の仏母院などと「空海=白方誕生説」を流布していたのですが、高野山との関係が深まるにつれて、善通寺寄りの立場を取るようになります。同じような動きが威徳院にもあったのかもしれません。その切り替えを行ったのが高野山で学んだ有印だったのではないでしょうか。

以上をまとめておくと
①威徳院には、古代・中世に遡る歴史はない。
②威徳院は16世紀後半に道隆寺の教線拡大策として、三野郡に新たに建立(再興)された寺院である。
③道隆寺は「海に伸びる寺」として備讃瀬戸の島々の寺社を末寺に置き、そこから海上交易の富を吸い上げるシステムを作り、隆盛期を迎えていた。
④道隆寺はその経済力と、五流修験の人材で、白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院 → 本山寺と教線ラインを伸ばした。
⑤旧香川氏の重臣で、生駒家にリクルートされた三野氏を通じて、道隆寺は生駒家に食い込むことに成功し、関係する威徳院や本山寺などを生駒家の保護下に置くことに成功した
⑥威徳院は、下勝間の新田台地の開発を積極的に行い多くの寺領を拓いた。これが近世の威徳院の経済基盤となった。
⑦道隆寺の末寺として建立された威徳院は、17世紀半ば以降に高野山との関係を深めるにつれて、道隆寺との関係を清算していく。そして本山寺や延命園との関係を深めながら三豊地区の真言衆の中心センターとしての役割を果たすようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   威徳院調査報告書 田井 静明威徳院について  香川県ミュージアム紀要NO2


  DSC02784
大水上神社奥社 
二宮三社(大水上神社)は、長宗我部元親による破壊の後、「今に大破の儘にてこれ有り」と縁起にあることを前回は見てきました。ここからは社殿以外にも、2つあった神宮寺も消えたことがうかがえます。丸亀藩に提出された縁起書自体が、社殿の再興を願うものでした。この時期、二宮三社は小祠として存続していたようです。
しかし、元和五(1619)年の記録には、次のように記されています。
「佐股天神二て神楽執行につき二宮太夫差配のことで出入りに及んだ」
佐股天神社の祭礼の神楽をめぐって、勝間の大夫(神職)が近所であるという理由から佐股村で雇って神楽を踊らせます。これに対して佐俣の本社である二宮の太夫が反発して、「俺のテリトリーで勝手なことをするな」と、騒動になったようです。ここからは、二宮には太夫(神職)が存在し、神社組織が復活していたことがうかがえます。
 約40年後の寛文八(1668)年にも、再び佐股天神で行われた湯立神楽をめぐって二宮の大夫との間でもめごとが起こっています。さらに、延宝六(1678)年の「居林検地帳」には「長三百間 横三百拾間 〆九万三千坪」と居林(神社の所有林)のことがが記されています。ここからは、この時期には社林が確保され社殿なども整っていたことがうかがえます。
一方、龍花寺が別当寺として復活して活動を始めているのが史料からは分かります。この寺は、宮川を下った所にある延命院の末寺であったようです。こうして二宮三社は、神仏混淆の下に龍花寺の社僧と太夫らの努力によつて社殿の整備が進んだようです。

 二宮社の史料に、本地仏に関する記事があります。  373P
神仏習合下の二宮三社には、本尊(仏像)が置かれ信仰されていました。1714年9月に、大林徳左衛門の母が、二宮社に本地仏を寄進したことが、次のように記されています。
「二宮先寺龍花寺宥仁師御進メニ寄り 羽方村徳左衛門母より三尊の内弐体御寄進仕り置き候、則ち宥仁より下され候書付別紙に相添え御目に懸け申し候、徳左衛門覚中尊一体は右宥仁古仏(中略)
再興の上ニて三尊二成らるべき由、右中尊宥仁御物語ハ神田羽方左又撫も義進ヲ進メ、其の料物もらい取り立て申し度旨御噂承り候」
「右の仏体御宮内二置き申し度と申す義少しも御座無く侯、元来宥仁御進メ本地堂時節ニより二世安楽の為寄進候様二付き、致し置き候」

意訳変換しておくと
「二宮の龍花寺の宥仁師の勧めで、羽方村徳左衛門の母より三尊の内、2体の仏像寄進があった。そこで宥仁から下された書付別紙に相添えて、ご覧いただいた。徳左衛門の中尊一体は宥仁の古仏(中略)本殿再興の際に、三尊が安置された。中尊は宥仁が神田羽方左又(佐俣)で寄進を進め、それで集まった料物をもらい受けたもので・・」
 
ここからは別当寺である龍華寺の社僧宥仁の働きかけで、三尊仏の内の二体が寄進され、残りの一体を各村々の氏子たちの寄進で揃えたことが記されています。二宮神社の祭神と本地仏をもういちど確認しておきましょう。二宮文書には次のようにありました。
敬白上棟第二宮
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月評日子時御安座
ここに出てくる三尊とは、これらの祭神の本地物を指しているようです。羽方村徳左衛門母より三尊の内のふたつが寄進され、その後、もう一体も寄進活動で集まった資金でそろえることができたというのです。ここからは、社殿の中に本地仏三尊が安置されていたことが分かります。龍花寺の社僧と太夫が二人三脚で、二宮三社を復興させていたことがうかがえます。

 ところが18世紀になると、龍花寺の社僧と太夫との関係がぎくしゃくするようになります。
全国的にみて、この時期は、神道吉田家が地方の神社との関係を強める時期でもあります。吉田家の説く神道イデオロギーが浸透し、太夫達が別当寺との対立を引き起こす事件が多発するようになります。そのような時代の空気が、二宮三社にも及んでくるようです。
 事件は享保五(1720)年に、延命院が呼びかけ神田村六左衛門の寄付で、釣鐘を鋳造したことから始まります。
この鐘の銘文については、神主名は入れないままに鋳造されることが決まっていました。ところが出来上がってみると、銘文には「別当延命院」と鋳られていたのです。太夫達からすれば、延命院は龍華寺の本寺ではありますが別当寺ではありません。しかも、自分たちの名前は入れていないのです。そこで抗議して「別当」の字を削ったといういきさつがあります。他にも
1 棟礼に神主の名が入っていたために、延命院が龍花寺に命じて焼却させた。
2 龍花寺が二宮林の木を勝手に切り取って持ち帰った。
3 拝殿の鍵は延命院が管理していたが、勝手に取り扱っており、太夫が大晦日に供え物を献じに来ても、社殿の扉が閉まっていたこともあった。
 これは神社側の後の裁定での言い分なので、一方的批判になりますが、拝殿の鍵を延命院が管理していることをどう考えればいいのでしょうか。
①土佐軍の兵火で小さな祠だけになった二宮三社を、延命院が管理するようになっていた。
②新たに再建された神宮寺の龍花寺も延命院の援助の下に再建された。そのため延命院の末寺となった。
③そのような中で、近藤家の末裔達による神社復興も進み、近藤家の一族が太夫を務めるようになった。
その結果、近藤一族を背景とする力が復活するにつれて、拝殿を管理する延命院との対立が激化するようになった。こうして、近藤家の神主 VS 延命院=龍花寺の別当社僧という対立の溝が深くなっていったと高瀬町史は推測します。祭礼中止という事態も、このような対立が背景にあったようです。そして、対立は頂点に達します。

事件は文三(1738)年に起きました。その経過を、見ておきましょう。
 元文三(1738)年8月6日、本寺延命院からその末寺で二宮の社僧を勤めている龍花寺に指示書が届きます。そこには、去年のように物言いが起こらないように早く二宮の祭礼に出かけるようにとの指導内容です。物言いとは、神前の掃除などを行う御前人という役を勤めていた佐股村庄屋の瀬兵衛と延命院から出されていた次の2点の抗議です。
①御前人が宮中へ入ること
②神輿へ入れる幣について村の特定があるということ
①については、解決していましたが、②の幣については神輿への入れ方をめぐって延命院と太夫(神職)との間で対立がありました。三人の太夫は幣を拵え一本ずつ神輿へ入れると主張するのに対し、延命院はそうではないとします。祭礼ができなくなることを危惧した瀬兵衛は、三村の庄屋が一本ずつ入れるという妥協案を出しますが、収拾できずに双方物別れとなり、ついには、旅所に向けた御幸(パレード)が出来なくなってしまいます。以後、宝暦元(1753)年に最終決着を見るまで、十五年間は御幸は行われいままになります。

 これを嘆かわしく思った佐股・下麻・神田・羽方の四カ村の庄屋などが、寄合いを何度も重ね、協議し、新たなルールを作り出していきます。これが次の「覚書」です。
大水上神社祭礼覚え書き1

意訳変換しておくと
二宮三社神社の祭礼について、15年前から神輿へ御幣を入れる、入れないをめぐって、別当寺と神職の間で争論となり、御幸ができない状態となっていた。氏子達はこれを嘆かわしく思い、新たなルールを作成して寺社の和解を図るものとする。
1 幣は、太夫や社僧が行うのではなく、御前人が神輿に入れる、
2 祭りの時は龍花寺(別当)・太夫・御前人・神主が立ち会って、早朝より神輿三体を事前に幣殿に飾っておく、
3 龍花寺は祝詞と金幣をあげる、
4 三人の太夫は、神楽をあげる
5 神楽は名代が行う事は認めない。

 龍花寺の社僧と、太夫(神主)の間で分業がきちんとされる内容になっています。この取り決めを作成するために各村で寄り合いが開かれ、それを持ち寄り村役人による協議が何度も行われていたことが残された史料からは分かります。上から試案がだされて、これでいいかというものではなく、下から積み上げていく丁寧な試案作りです。時間と手間をかけた話し合いが行われています。そして、最後は村の戸主の一人ひとりの印をとっています。当時の村々をまとめて行くには、これだけの手間暇が必要だったのでしょう。同時にそれが村々の底力となったことがうかがえます。
 祭礼分担は、これで解決したようです。これが明治の神仏分離まで続くことになります。

そして御旅所までの御幸行列の順番が次のように示されています
先頭に榊神具、次に鉾をもって神田村の角左衛門が従い、行列の以下は次の通りです。
大水上神社祭礼2

これを見ると神輿の前に、社僧がきます。そして、神輿の後に神主や太夫が位置します。また、祭礼パレードのことだけではなく、瓦葺きなどの遷宮の時の導師は、延命院が務めることや、御神体は、別当寺の龍花寺が保持することなど、問題になりそうなことが事前に協議されています。そして、最後には各村々の代表者が署名しています。現在の祭礼ルールは、このような先人達の取り決めの上にあるようです。
  それでは、以後はこのメンバーによって祭礼が行われたのかと思っていると、そうではないようです。ルールができてこれにて落着かと思うと、丸亀藩は、関係者たちを厳しく裁定します。
 祭礼復活から5年後に、丸亀藩は祭礼中断を招き、藩や村に対する迷惑をかけたことに対する責任追求を開始します。その吟味は宝暦七年から九年にかけて行われています。
「宝暦七年 二宮寺社出入御吟味之次第覚書」は、その取調記録です。これは『高瀬町史史料編』の「大水上神社社人・別当出入一件」(高瀬町史資料編408P)に次のように載せられています。
大水上神社祭礼吟味1

  まずは羽方村の龍花寺と庄屋などの関係者を呼び出し、調書を取ることから始まっています。関係者一人ひとりの取り調べ調書が残されています。二宮三社神社をめぐる騒動は、当時の大事件になっていたことがうかがえます。3年間の取り調べの後に、藩の下した裁定は次の通りでした。
1 羽方村庄屋銀元郎は役目を十分に果たしていなかったことで「重々不届きニ付き閉門」
2 神田村庄屋近藤又左衛門も「閉門」
3 二宮神主の小十郎も「閉門」
4 社僧龍花寺は諸事の対応に「社僧に似合わざる不埓の至り」につき「両御領分御構い成られ追去」を命じられ、丸亀・多度津両藩領内にはいられなくなった。更に延命院からも勘当され、牛屋口から追放された。
5 延命院も「閉門」
6 二宮の太夫三人については篠原兵部と篠原因幡が追放、黒嶋子庫は神職取り上げの処分。
そして、二宮三社神社の新たな太夫には、麻部神社の太夫遠山氏と勝間の太夫藤田氏が任じられることになりました。こうして見ると、別当寺関係も神職関係もすべて追放され新たな体制となったことが分かります。いわゆる喧嘩両成敗の裁定です。
 ただ、社僧龍花寺が追放された後にあらたな別当が入ってきた気配はありません。また、延命院は閉門を契機に、二宮三社への影響力を弱めたことが考えられます。そうだとすれば、新たな太夫達による運営体制が整えられて行ったのかもしれません。拝殿の鍵を誰が持つようになったかは分かりません。

 江戸時代の中頃までは、寺院と神社の間で、領分が分けられ、権益が重ならないように調整され、「棲み分け」が行われていたようです。ところが江戸時代後半になると寺社のそれぞれが「新法」を主張し、それまでの「棲み分け」領分への「侵犯」が始まります。ここからいろいろな争いが起きるようになります。そのひとつの形が大水上神社には史料として残されています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献 高瀬町史

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  讃岐国二宮である大水上神社に伝来する縁起を読んでみます。
大水上神社は、延喜式内社の一つで「二宮」さんなどと地元では呼ばれています。財田川の支流である宮川の源流にあって、本殿の横には「竜王淵」があり、いまは鰻伝説が伝わり雨乞いの霊地だったようです。羽方遺跡からは銅鐸や平形銅剣も出土していますので、弥生時代から水神として祭祠したようです。
 最初に「天正三(1574)年頃に書かれたものを、徳川中期に書き写した」とあります。しかし、文中に「士農工商」などの表現がでてきたり、用字用語上の解析から江戸時代中期に編纂されたものと研究者は考えているようです。当時は「二宮三社」と自称していたようです。この縁起を書いた人物の歴史観を考えながら読んでみることにします。
 二宮三社之縁起(大水上神社所蔵)    高瀬町史史料編131  P
大水上神社縁起1
  意訳変換しておくと
「讃岐国三野郡神田村二宮三社之縁起
この延喜は天正三(1575)年頃に作成されたものを、徳川中期に写したものである。讃岐国三埜(野)郡神田村 二宮三社之縁記の目次は次の通りである
一 八幡大神が当国に渡来し、近藤正光と対面する場面
  大水上大明神と三嶋神と竜神社を二宮三社として祀り繁昌していること
一 元暦元年の源平両家の奉願書について
一 三社の御詫宣について
一 源氏が上矢を神納し、敵を滅ぼし会稽の雪辱を晴らしたこと
一 応永三十四年 御宮が破損したときに、今上皇帝が造営費を負担したこと
箱書に「二宮三社之縁起」とあります。三社とは大水上大明神・八幡大神・三島竜神の三神をいうと記されます。もともと祀られていた水神に、中世になって客神として八幡神や・三島竜神が祀られるようになったことが分かります。丸亀藩に納めたとあるので、最初に目次が付けられています。最初に記されるのは八幡神です。この三社の中で、当時の中心は八幡神にあったようです。
縁起は、八幡神の成り立ちを次のように記します。

大水上神社縁起2
意訳変換しておくと
一 八幡大神が当国に渡来し、近藤正光と対面する場面
 讃岐国三野郡神田村に鎮座する二宮三社とは、八幡大神と大水上大明神と三嶋竜神のことである。
 八幡大神は、人皇十六代応神天皇のことである。その父仲哀天皇の母は神功皇后になる。皇后が三韓を征伐して凱旋した後に、その冬十二月に筑紫の蚊田でお生まれになった。これからあやしきことが続いた。皇后の治天三年に応神は四歳で皇太子と成り、71歳で帝位についた。在位41年2月15日大和国の軽(かる)の嶋明の宮で110歳で崩御した。 

人皇三十代欽明天皇の時に肥後国菱形の池乃辺の民家の子に憑依して次のようにおっしゃった。「我は人皇十六代誉田の八幡麻呂である。諸州において神明と垂跡(混淆)する。そのために、今ここに現れた」と。朝廷では勅使を下して豊前国菟狭郡に移して鎮坐し、ここから諸方に勧請伝導を行い、人々もそれを受けいれた。八幡とは八正道の幡を立て八方・衆生に利益をもたらす神号で、その霊験の強さは、古今から例証されている。
 当時流布されていた「八幡神=応神」説がそのまま記されています。次が八幡神が二宮に現れ、近藤氏の祖先と出会う場面です

80歳を越えたあるときに、八幡大神武士の姿をした老翁に出会った。翁は「汝何人ぞ」と問うと、武士はこう答えた。 
「我は八幡大神なり。この国の士農工商を守護するために、弓を帯びている」と 
翁は大いに驚いて次のように云った。
「私は、この地の領主である。まず我宅においでください。」と
 正光の館には藤樹があったが、この老武士がやって来てからは、その藤は大いに繁茂していろいろな花を咲かせるようになった。紫藤は棟となり、白藤は壁となり、青藤はハマカキと成り、黄藤は屋根を覆て、まさに不思議な館となった。そのため正光を藤樹公と呼ぶようになったと伝えられる。
  大水上神社 八幡武神
八幡神武人姿
 家は栄え、遠くまで藤の木のことは知られるようになった。藤樹の枝を折って並べると、風雨火水の難に合わないと伝えられ多くの人々が参拝するようになった。藤の花は弥生の頃に花開いて、林鐘(旧暦6月)の頃まで落花せす、霜月の雪中でも落葉しないので「常磐の藤」と云われるようになった。これもみな八幡の神力である。正光の子孫は、長きに渡ってこの地を領し、後には当社の代々の社司となった。その俗名は又十郎 官名は美濃守但馬守である。子孫代々がこの名を相続してきた。
ここに記されていることをまとめておきましょう。
①二宮の領主近藤正光のもとに八幡大神が現れた。
②近藤正光は、八幡大神を館に祀った。
③館は藤の花で彩られ、正光は藤樹公と呼ばれるようになった
④館は神社となり多くの人が参拝するようになった
⑤二宮三社の代々の社司は近藤家が勤めてきた。
書かれた内容から書き手の一番伝えたかったことを推察してみましょう。
それは、この地に現れた八幡神を祀り、維持してきたのは近藤家であるということのようです。丸亀藩に提出するために書かれたものであったすれば、それは当然なことでしょう。

もうひとつ指摘できるのは、延喜式以来の二宮神社が祀ってきたのは水神であったはずです。八幡神は後からやって来た「客神」です。本来の水神よりも、宮司の近藤氏にとっては八幡神の方が重要であったようです。二宮三社の当時の主神は八幡神であったことがうかがえます。
DSC02792

次に記されるのが水神です。

大水上神社縁起4
二宮三社には岩清水の清き流があり、
その下流には大な池(淵)があって、竜神が住むと伝えられる。旱魃の時にも池の水が枯れることはない。この竜神の身体は、一月十日に白・黄・赤の三色に変わるので三嶋竜王と号する。一説には、竜身が白黄赤の三色なのでこう名付けられたという説もある。
 
 大水上大明神の尊号について考えてみると、水徳成就の水神で、天一水を生して五行思想の本源でもある。そのため五穀豊饒を守護する神号であろう。神代の昔より、この地に鎮坐してきたと伝えらる。延喜式神名帳に、当国二十四座之内三野郡一座大水上神社とある。人皇十二代景行天皇の皇子(神櫛王)が宇多津の沖で悪魚退治を行った恩賞に当国を賜り、香河郡に城郭を築いて住むようになった。当社も神櫛王の信仰を得て、正五九月に参拝され、 三野豊田両郡を大水上神社の社領とし、三神を二宮三社と名付けた伝えられる。
 八幡武士の姿で二月丑之日に正光の家にやって来たからので、昔は毎年この日に百手の興行を行い、八月十二日十三日は三嶋竜王の祭 十四日十五日は八幡の祭 十六日十七日は水上大明神之祭、初終六日が行われていた。遠国近国より多くの人々が、毎年祭礼を行っていた。天下泰平 国土安穏 万民繁昌の御神とされていた。
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ここで龍神伝説がでてきます。三色に変化するので「三嶋竜王」だと云います。
善通寺の影響を受けた威徳院(高瀬)や本山寺(豊中)は、善女龍王信仰が伝わっています。いろいろな形で雨乞いが行われていたようです。注目したいのは、二宮三社神社で、この縁起が書かれた頃には雨乞いは龍神伝説だったことです。それがいつの間にか現在の「鰻淵の大鰻伝説」に変わっています。今は、ここに龍が住むとは伝えられず、鰻が住むとされています。龍から鰻への交替がいつ頃のことだったのか、これも知りたいところです。また三島竜神は、どこへいったのでしょうか?
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最後に登場するのが「大水上大明神」です。
ここで延喜式以来の歴史が記されますが、その分量は
八幡神と近藤家の関係に比べるとわずかです。また、この縁起を書いた近藤家の宮司からすれば、それは遠い昔の話で、直接的には関係のないことだという思いがあったようにも感じます。
 古代の二宮社を語るときに神櫛王の悪魚退治伝説を登場させています。そして、国司となった神櫛王によって、三野・豊田の両郡が社領として寄進されたと大風呂敷を広げます。ここからは、宮司近藤家には、古代から中世の大水上神社の史料や歴史は伝わっていなかったことがうかがえます。

DSC02776

 ここからは、次のような事が推察できます。
①古代に律令国家の保護の下にあった大水上神社は国家や有力豪族の保護下にあった。
②それらが衰退した後に、国人の近藤家が八幡神を合祀し二宮三社とした
③中世には近藤家の保護下のもとで、2つの神宮寺による神仏混淆体制下で神社経営は行われた。
④近世には、八幡神がもっとも信仰を集める神となっていた。

そして、縁起編纂者は空海を登場させます

大水上神社縁起5
一 弘法大師入唐の際に、当社に立ち寄られ詣法行い、次のような和歌を詠した。
はるばると詣きゑれば三の神
力をそへてまもりたまへや
五月雨ややまゑ思ひに旅の空
いとま恋しくまいる我なり
  八幡大神御返可
我はたゝいまも弓前の神としれ
もろこしまても守護じめくまん
両神御返歌
上之句   大水上大明神
往来は心やすかれそらの海
下之句   三嶋竜神
水上清きわれハ竜神

これが延暦弐十三年五月十八日のことと伝えられる。 これから大師は観音寺へ行って、琴弾社に参拝した。そして八幡大神と対面し、その夜は十二人の児達の琴を聞、翌日出帆していった。

一 額之字
華標之額 二宮八幡大神
拝殿之額 大水上大明神
    八播大菩薩
三嶋竜神
これらの額は大師が帰朝した後に寄進された大師真筆のものである。
大水上神社 空海入唐図
空海の入唐ルート

空海が唐に出発したのは、延暦23(804)年7月6日のことです。遣唐使船が難波宮を出発します。
5月12日唐に留学(遣唐使)のため難波津出港
7月 6日肥前国田浦を出発。
8月10日赤岸鎮に漂着。海賊と間違われる。

 遣唐使に選ばれた空海が讃岐にやって来て、二宮三社神社に立ち寄って、三社の神々と歌のやりとりをしたのちに、観音寺に向かい琴弾社に参拝し、翌日に出帆していったと云うのです。その日付を「延暦弐十三年五月十八日のこと」とします。入唐の前に、遣唐使船を離れた空海は善通寺に里帰りして、父母に挨拶したことは善通寺縁起にも伝えられます。九州から遣唐使船が出港していく前に、讃岐に里帰りしていたという空海伝説のひとつのパターンです。遣唐使の一員である以上、そんなことはできません。事実ではありません。
 ここからは縁起を書いた人物が「八幡信仰 + 弘法大師信仰」の持ち主であったことがうかがえます。この縁起は八幡信仰の上に、弘法大師伝説が接ぎ木されています。このパターンは観音寺縁起と同じです。観音寺縁起では、弘法大師は八幡神の権化で化身と記されているのは、以前に見たとおりです。何かしら観音寺縁起の影響を受けて、この縁起は書かれているような印象を受けます。とすると、真言密教系の僧侶達の中世三豊のネットワークの中に二宮三社の神宮寺の別当社僧達もいたのかもしれません。

 元暦元(1184)年の源平両家の奉願書について
 目次に挙げられた2つめのテーマは、源平合戦の際に、源氏と平氏がそれぞれ願文を奉納したということについて記されています。
大水上神社6源氏願書

 最初に記されるのが源氏願書です。その筆頭は頼朝、次に義経の名前があります。
 日本六十余州を悩ます悪臣登場する。数ケ国を奪い取り、誠に持って前代未聞の悪逆である。天子を称し、公卿大臣之位官を奪い、庶民にあたえる非道ぶりである。 保元に為義為朝源氏之一属を滅し 平治ニ義朝一家を誅す (以下略)

と平家の非道ぶりが指弾され、討伐の正当性が主張されています。そして奉納者のメンバーを見ると源平合戦で活躍する名前が目白押しです。
 それに対して平家願書はどうでしょうか。

大水上神社7 平家願書
敬白御立願状
この度の戦いの利運は、当社の霊力にかかっている。氏神を奉崇し、神力の功あるものは四海魔王の報恩を国家のためになすべし 願文如件

こうして二宮三社は源平の両方から願文を受け取ります。
それにどう対応したのかが次に書かれています。それを意訳して見ましょう
大水上神社8 源平願書
意訳変換しておくと

一 藤樹翁は代々に渡って近藤但州藤原朝臣国茂迄禁裏に仕えてきたが、元暦の戦の時には、源平両家から出兵の依頼があった。そこで神田治部少輔貞家は御湯立を行い、源平両家からの願状を占った。

その時に、三社は十二三歳の乙女に憑依して次のような託宣を下した。
「神は非礼を受けず、祈心の正しくない者の願いを叶えることはできない。躰を引き裂かれようとも霊験は得られない。ましてや正直慈悲の心があれば「不祈」とてしても神は守るであろう。」このように神は云うと、乙女は倒れた。その後、躰を震わせ持っていた鈴を鳴して「人は城 人は石垣 人は堀 情は味方 離は大敵」と言い続けた。神が乙女に憑依して、乙女の口を通じて語らせのだ。賤き乙女が神の尊言を伝えたことについて、人々はおおいに驚嘆した。
 それから神懸かりとなった乙女は、神前の御幣を振って、拝殿を三度廻り内陣へ飛入って、人々を招いて次のように神託した。
「天の時は地の利に如かず。地の利は人の化に如かず。人の恨深き方、軍に負ケ、人の祝多き方必勝利を得べし、力をもって利を得ようとするならば必ず利は得られない。これは古来より軍に勝つ法である。神の答えは以上であると両家へ伝えよ」と言い終わると乙女は内陣に三日の間、閉じこもった。その後に御戸を開いて出てきた乙女は、十七日絶食後に朝粥を少し食べた。その姿は狂人のようであったと云う。誠に三社の御神が乙女に乗り移り霊験を著した不思議なことであった。

  神が乙女に憑依して、神の宣告を伝えることがドラマチックに書かれています。なぜ、源平合戦なのでしょうか。これは当時の二宮三社神社の次のような立ち位置にあったように思います。
①八幡神を主神として祀る武門の神社であったこと
②この縁起(由緒書)が丸亀藩に提出されることを前提に書かれたものであること
そのためには、源平合戦において源平両家の請願を受けたというエピソードが入れられたのでしょう。そして、神の声が乙女に憑依して伝えられたとしていることは、興味深く思えます。中世らしい神社の姿を伝えているように思います。しかし、これも事実であったとは云えません。
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次に出てくるのが建久九(1198)年とされる社領目録です。

大水上神社10寺領

大水上神社11寺領

この度荒乱につき、この巻を誦じ、すわわち神力で氏子の難苦を遁れることは、社僧の度々の広恩によるものである。一家の喜びは小さいことで、神領の永続を願うものである。
建久九午成年二月日 散位秦支守法
摂津守大平忠
別当弁実聖人
別当圭如法印
先ほどの大水上神大明神について触れられた所では、「神櫛王の信仰を得て、三野豊田両郡を大水上神社の社領とし、三神を二宮三社と名付けた」とありましたが、ここでは社領は総合計200町と記されます。その内訳は「修理領+祝言領+燈明領+御供領=177町で、総合計とはあいません。
 また、中世の寺社の寺領は荘園領主や地頭などの有力者から寄進される場合が多いのですが、それは寺院年間行事のイヴェント運営のための寺領が多く、こんな簡単なものでないことは以前にお話しした通りです。これはこの縁起を書いた江戸時代中期の社僧の「常識」が反映されている内容です。中世の寺社の寺領構成を伝えるものではないようです。
 ここで興味深いのは、前回もお話ししましたが「別当清澄寺36町、別当神宮寺36町」と記るされていることです。この社領面積をそのまま信じることはできませんが、2つの別当寺があったことはたしかなようです。それを裏付けるように、境内には古い瓦が出土する2ヶ所あります。
①一つは鐘楼(かねつき堂)跡と伝えられるところで、宮川を挟んで社殿の反対側の尾根上
②もう一つは、社殿の北側で、浦の坊というところ
そのどちらかの社僧によって、この縁起は書かれたと私は考えています。
  どちらにもして中世の二宮三社神社は、近藤家の保護下にあって、神仏混淆下に社僧によって運営されていたことが分かります。
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    今回はここまでにしておきます。以上をまとめておくと
①「二宮三社之縁起」は、江戸時代中頃に丸亀藩に提出するために、当時の二宮三社神社の別当寺の社僧が書いたものと推測できる
②三社とは「八幡大神と大水上大明神と三嶋竜神」のことであるが、当時は八幡神が主神とされていた。
③八幡神を合祀したのが近藤正光で、近藤氏が二宮信者の正統な継承者であることがはじめに書かれている。
④二宮三社神社のもともとの主神は、水神であったが中世に客神の八幡神に取って替わられている。
 これを進めたのが近藤氏と思われる。
⑤中世の寺領目録には、2つの神宮寺のことが書かれているので、神仏混淆下で神宮寺の社僧による神社運営が行われていたことがうかがえる。
⑥八幡信仰に空海伝説が附会されていることから密教系僧侶の存在がうかがえる。
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  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史資料編134P 二宮文書 

三野町大見地名1
太実線が中世三野津湾の海岸線

古代中世の三野湾は大きく湾入していて、
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと
②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
などは、以前にお話しました。海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。
 今回は旧三野湾周辺のお寺やお堂に残る中世の仏像を訪ねてみることにします。テキストは「三野町文化史1 三野町の文化財」 三野町教育委員会 平成17年」です。訪ねるのは次の5つです
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)
②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像
③宝城院の毘沙門天立像
④汐木観音堂の観音菩薩立像
⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
 まず三野湾を眺め下ろす天霧山の中腹に位置する弥谷寺です。
この寺は西讃岐守護代で天霧城主であった香川氏の保護を受けて中世は栄えていたようですが、香川氏の滅亡と共に伽藍を焼失したとと伝えられます。そのためか古い仏像はほとんど残っていませんが、平安前期十世紀に遡る一木造の吉祥天立像と、鎮守堂に寺の守護神として祭られてきた異仏が中世に遡るようです。
異仏とは、蔵王権現と伝えられてきましたが、どうもそうではないことが分かってきたようです。

弥谷寺 深沙大将椅像

吠えるように大きく口を開け、両目を見開き、髪を逆立て、そこから七匹の赤い蛇が頭をもたげ、左手を前に、右手は、やや後ろに引いて岩の上に坐しています。そして手首・足首には蛇が巻きつき、首には欄骸が飾られた、極めて異形の像です。この像こそ、はるか昔、唐の玄実三蔵(三蔵法師)が仏典を求めてインドヘ行く途中、砂漠の中で難渋していた時、出現し三蔵法師を救ったという深沙大将なのです。ヒノキ材、寄木造り、彫眼の像で彩色が施されています。

弥谷寺 蛇王権現の足

頭部と体部を同じ木から造り出すことや力強い表現など、この像が平安時代中期(十一世紀初期)に作られたことが考えられます。
 旧三野町の報告書はこれを深沙大将像とします
弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

そして全国でも数体しか残っていないもので、さらにそれらの像はすべて立像で、岩座に坐るのは本像だけという極めて珍しい像とします。しかし、その後の県の調査報告書は「蛇王権現」とされています。それについては、以前お話ししましたので省略します。
この仏像については専門家は次のように評価しています。
弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)

忿怒の異形相にもかかわらず、全体に優美に彫り整えられた作風は中央仏師のそれをうかがわせる。十一世紀初の作品で当時、中央の造仏界を取り仕切った仏師康尚、もしくはその周辺の手になると思われる。康尚は、日本の彫刻崚上もっとも著名な仏師の一人である定朝の父もしくは師匠と伝えられ、平安時代後期における同寺の中央との直接的つながりを物語る。

 中央の仏師によって造られたものが弥谷寺に安置され、今に伝わったもののようです。

釈迦如来坐像  定朝様式の釈迦如来 西福寺
弥谷寺から流れ出す小川を下って行くと、大見に大屋敷という集落があります。このあたりは、中世に西遷御家人・秋山氏によって開発されたと考えられる地域であることは以前にお話ししました。ここに小さな御堂があります。かつては西福寺という寺があって、それを引き継いだようです。この御堂の本尊として祀られるのが、釈迦如来坐像です。
三豊市西福寺 阿弥陀如来像
定朝様式の釈迦如来 西福寺
両手の指は繊細でしなやかさが感じられます。指先まで当初のものとみられるようです。右手を施無畏印(せむいいん)、左手は与願(よがた)を示した釈迦如来坐像です。
 頭髪部には螺髪が細やかに刻まれ、お顔は優しい目とふっくらとした頬など静やかに表されています。肩部はなだらかな曲線を帯び、膝の高さは低くし、そこに浅く流れるような衣文が劾まれています。このように優美な仏像は、平安時代後期に大仏師・定朝一によって確立されたものです。
定朝が造った著名な仏像に、平等院続鳳凰堂の丈六(一丈六尺)の阿弥陀如来坐像があります。この仏像は「仏の本様」といわれ、平安時代後には同じような姿の仏像が全国的に数多く造られました。
 西福寺の釈迦如来像も、この定朝様を踏襲したものです。制作時期は、平安時代末期(十二世紀)で、像高53㎝、ヒノキ材の寄木造り、彫眼の像で、それほど大きくはありませんが均斉のとれた見事な像です。
  この仏像も中央の工房で造られたものが三野津湾を拠点に活動する交易船によてもたらされたと考えることができそうです。なお台座裏の墨書により‐江戸時代前期、貞享五(1688)年に修理されたことが判明します。それ以前から、ここに安置されていたことになります。
三豊市西福寺 誕生仏
釈迦誕生仏(西福寺蔵)
もうひとつ西福寺像として、伝えられているのがこのブロンズ像です。
右手で天、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えたという、釈迦誕生を表しています。誕生釈迦仏立像は9、1㎝の小さな仏像でスリムですが、胸から上に厚みがあります。柔和な表情に白鳳仏の趣があると専門家は評します。白鳳か天平時代のもので、非常に珍しいもののようです。
こんな小さな仏がお寺に安置されて信仰の対象となっていたのでしょうか?
どうもそうではないようです。個人の持仏だったようです。
 古くから、四月八日のお釈迦様の誕生日に、小さな釈迦誕生仏を季節の椛で飾り、甘茶を潅いで釈迦の誕生を祝う「花まつり」が行われた来ました。その時の主役が、誕生仏だったようです。
もう一度、像を見てみると、右手の親指、人差指、中指を伸ばし、左手の指を全て真っ直ぐ伸ばすこと、蓮肉と本体を共鋳すること、細身の体型であることなど、古代の誕生仏の特徴を示しているようです。疑問になってくるのは、その頃に、このあたりにで古代寺院が建てられていたのでしょうか。前方後円墳も大型石室を持つ古墳もない旧三野湾エリアでは考えられません。後世になって伝来した可能性が高いようですが、詳しいことはよく分からないようです。

    毘沙門天立像(宝城院蔵) 
次にやってきたのは貴峰(とみね)山の麓の宝城院です。
この寺はすぐそばの日吉神社を、はじめ周辺神社のいくつかの別当寺を務めていたようです。そのため明治維新の神仏分離の廃仏毀釈を逃れて避難してきた仏像がいくつか集まってきています。
 宝城院(本尊・毘沙門天)の寺号は、多聞寺です。多聞とは仏教世界の北方を守護する多聞天のことで、別名を毘沙門天とも呼ばれます。多聞寺の寺名は、本尊が毘沙門天に由来するようです。
 毘沙門天は古代インドでは暗黒界の悪霊の長とされましたが、ヒンズー教に取り入られ財宝・福利を司る善神となり、さらに仏教にも加わりました。悪神が後に、善神に転じて信仰の対象になることはよくあることです。菅原道真や崇徳上皇の怨霊が後には、天神や天狗として祭られるようになるのと同じなのでしょう。毘沙門天は仏教に取り入れられてからは、四天王のひとつとして、北方の守護神となり、やがて七福神のメンバーにもなります。そして、独り立ちしてもやっていける「集客力」を持った天部の仏に成長していきます・

それでは、宝城寺の本尊である毘沙門天を見てみましょう。
三豊市  毘沙門天立像(宝城院蔵)

なにかしらずんぐりむっくりした印象を受けます。鎌倉期の写実的で動的な天部の様相を見なれているので、最初は違和感を感じます。専門家の言葉をもう一度読み直しながら見てみます。

高78、8㎝でカヤと思われる一木造りカヤ材の一本からほりだされている。直立した姿形や宝冠を共木で彫出するなど古様な造りで、やや寸詰まりであるが、その比較的太造りの体型に十一世紀後半から十二世紀初頃の傾向がうかがえる。直立し右手に戟(欠失)、左手に宝塔(後補)を持つ毘沙門天、平安時代後期に遡る古像。両手や右一肩などに後補がみられ、また各所一に虫・損がみられる。

この動きのないむっくり感が鎌倉以前の天部の「古用」の特徴のようです。

汐木観音堂の観音菩薩像
高瀬川河口の西側には汐木山があります。古代・中世を通じて、この山の周辺では製塩が行われていたようで、その薪確保の権利が保障されていた山だとされています。また、近世以後に三野津湾が干拓された後には、この地に汐木湊が造られ、年貢米の集積・積出港として繁栄したエリアです。その面影が大きな灯籠(灯台)や背後の荒魂神社に残っています。
 ここには汐木観音堂というお堂が残っていて、そこに鎌倉期十三世紀中頃の観音菩薩像が安置されています。
三豊市 汐木観音堂の観音菩薩像

この仏像も観音様にしては、私が見なれた観音とは何かしら印象が異なります。しかし、専門家は次のように評します。
 宝冠の文様や頭髪の毛筋など細部をゆるがせにしない製作態度、およびその甘さをふくむ端正な顔立ちに秀逸さをみせ、中世金銅仏のなかでも特に優れた作例のひとつといえる。腹前で右手を下にし、その上に左手を乗せた姿も珍しい。
頭部に戴いた宝冠の正面に如来形は、信濃・善光寺の本尊である阿弥陀三尊の観音菩薩に見いだすことができる。
と云います。どうやらこの観音様は信濃・善光寺の阿弥陀三尊の様式の脇仏のようです。善光寺の阿弥陀三尊は、鎌倉時代になり全国的な流行になったようで、それを模した像が数多く造られます。その多くは鋼製で阿弥陀如来が像高を約一尺六寸、両脇侍は約一尺弱のタイプが多かったとされます。この観音菩薩も、その広がりの中で鎌倉時代後期に造られた善光寺式の阿弥陀三尊のひとつのようです。元来は鍍金され金色に輝く姿で、勢至菩薩とともに阿弥陀如来をお守りする三尊だったのでしょう。
長野市の善光寺で御開帳始まる/前立本尊に参拝者ら感嘆 | 御開帳で姿を現した本尊の分身仏「前立本尊」=5日午前、長野市の善光寺 | 四国新聞社
善光寺の前立 阿弥陀三尊
 しかし、なぜこの観音菩薩だけが、ここに残されているのでしょうか。詳しいことは分かりません。分かっているのは「仏像」たちも旅をし、移動することです。戦国の戦乱の中で焼け出された仏たちは、旅の修行僧に背負われ安息地を求めて移動します。遠くの港に出向いた梶取り(船長)は、実入りのいい航海の時には立ち寄った港にある衰退したお寺から仏像を買い求め、生国にお土産として持ち帰り、信仰するお寺に寄進することもありました。どちらにしても寺勢のあるお寺には仏さんたちが集まってくるようです。

最後は正本観音堂の十一面観音像です
  現在の正本観音堂は、かつて宝宮寺という寺院であったといいますが、詳しい寺歴は分かりません。  まずは専門家の評価を見てみましょう
三豊市 正本観音堂の十一面観音像
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)

像塙107、3㎝でヒノキ材による寄木造り、かつ素木仕上げからなる檀像仕立ての像である。下半身にまとう腰布、腰帯などを複雑に折りたたむ形式、および頂上仏面の、清涼寺式釈迦のそれと同じ髪形はいわゆる「宋風」の影響を想わせる。現在は左上瞼が欠けるためその印象をやや損ねるが、総じて彫技は鋭く、また流麗である。年代も十三世紀前半を下らず、同期造像中の逸品とみて異論はないだろう。


先ほどの汐木観音と同時代の作品ですが、見なれた感じで親近感の持てる観音様です。頭部に10面の面があるので11面観音と分かります。左手に水瓶を持ち、右手はすっと下に下ろし、スラリとした姿が印象的です。
三豊市 正本観音堂の十一面観音像2
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)
卵形のお顔に、キリリとした目の表現やキュツと結んだ目元など引き締まった感じで、「美形やな」と呟いてしまいます。

以上、旧三野津湾沿岸に残る白鳳から鎌倉期におよぶ仏像を見てみました。伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているような気が改めてしてきました。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「三野町文化史1 三野町の文化財」 三野町教育委員会 平成17年」

 
「讃州剣五山弥谷寺一山之図」宝暦10年(1760)には、18世紀後半の弥谷寺の繁栄ぶりが描かれています。
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺一山図1 」

仁王門から大師堂、そして一番上の本堂までの参道に堂舎が立ち並び、石造物が迎えます。金毘羅詣でにやってきた参拝客たちが善通寺を経てわざわざ弥谷寺を訪れたというのも分かるような気がします。それだけの施設や霊場としての雰囲気を供えた空間が、この時期までに整備されていたようです。
 しかし、弥谷寺は戦国末期には兵火で焼失したと伝えられます。その後の復興は、どのように展開されたのでしょうか。それを残された絵図から見ていくことにします。

IMG_0102天霧城の香川氏
天霧城
弥谷寺背後の天霧山には、天霧城がありました。
この城は讃岐守護代として中・西讃を支配した香川氏の居城とされます。貞治元年(1362)の白峰合戦で、南朝方の細川清氏を討ち取って、三野・豊田・多度の3郡を領地とし、天霧山に城を築いたのが始まりです。その後、管領細川氏の守護代として讃岐11郡のうち6郡を治め守護代から戦国大名への成長を遂げていきます。 
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弥谷寺から天霧城への道
その天霧城の中腹にあるのが弥谷寺です。
香川氏は弥谷寺の檀家として、この寺を保護したと云われます。それを裏付けるように、香川氏の墓石である五輪塔が弥谷寺の境内には、いくつか確認できます。中世の弥谷寺の繁栄は、守護代香川氏の保護が背景にあったようです。
弥谷寺 九品浄土1
  浄土信仰の中心部・九品浄土にある生駒一正の墓石

 香川氏は、天正年間(1579)の、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に際しては、いち早く降伏し同盟関係を結び、土佐軍の先兵として讃岐平定に活躍します。しかし、それもつかの間、天正11年(1585)の豊臣秀吉による四国征伐を前に、元親はなすすべなく敗退し、香川氏も土佐に落ち延びます。

弥谷寺 生駒一正の石塔
生駒一正の石塔(弥谷寺本堂下)
 天霧城は破棄され、弥谷寺もこの時に消失して荒廃したといいます。そしてわずかに本尊と鎮守の神体だけが残ったと伝えられます。確かに、現在の弥谷寺に中世に遡る仏像は3体のみです。建造物も近世以後のものです。弥谷寺は戦国末期に伽藍が焼け落ちたようです。
  『大見村誌』には、正徳四年(1714)宥洋法印の記録として、香川氏没落以後の弥谷寺について、以下のように記しています。 
その後戦乱平定するや、僧持兇念仏の者、当山旧址に小坊を営み、勤行供養怠たらざりき、時に慶長の初め、当国白峰寺住職別名法印、当山を兼務し、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立す。
 慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正より、田畑山林を寄付せられ、其証書今に存せり。別名法印遷化後、直弟宥慶法印常山後住となり執務中、図らすも藩廳に対して瑕径あり。爰に住職罷免され、善通寺に寄託される、その後の住職は善通寺僧徒、覚秀房宥嗇之に当り寛永十二年営寺に入院し、法務を執り堂塔再建に腐心廿り、
意訳しておきましょう 
その後、戦乱が平定されると、修験者や念仏行者が弥谷寺の旧址に小坊を営み、勤行供養を行うようになった。慶長年間の初めに、白峰寺住職別名法印が生駒親正の信認を受けて、当山を兼務するようになった。彼は堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立した。慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正(親正の子)より、田畑山林を寄付せられた。その証書は今に伝わっている。別名法印が亡くなると、直弟宥慶法印が後を継いで後住となり執務を行ったが、図らすも藩廳に対して瑕径があり、宥慶は住職罷免された。その後、この寺は善通寺に寄託され、善通寺の僧徒である覚秀房宥嗇之が寛永十二年営寺に就任し、法務を執り堂塔再建に腐心した。

    この史料は、次のようないろいろな情報を提供してくれます。
①弥谷寺焼失後は、「念仏行者」が小坊を建てて布教活動の拠点となった
②白峰寺住職別名法印が、当山を兼務し、堂舎再建に努めた
③生駒親正の子・一正より、田地の寄進を受けた
④別名法印死後、直弟の宥慶法印は生駒氏の怒りを受け住職を罷免された。
⑤その後、弥谷寺は善通寺に寄託され、善通寺僧徒が住持となり、そのもとで堂塔再建が進んだ。
  ここからは、近世はじめには念仏行者の活動拠点となっていたことが分かります。そして、生駒家の保護の下に再建が進められますが、当時の住持が罷免され、善通寺の影響下に置かれたようです。
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弥谷寺参道の石仏

17世紀後半に「遍路」として「四国巡礼」を行った僧侶たちが残した3つの案内記を見ていきましょう。
まず、エリート学僧の澄禅の「四国遍路日記」(承応2(1653)年の記述です。彼の日記からは弥谷寺には「二王門」「持仏堂」「鐘楼」「護摩堂」「本堂」「蔵王権現ノ社」の5つの堂があったことが分かります。

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弥谷寺仁王門
坂の登り口には仁王門があったようですが、これは寛永年中(1624~1648)に大破します。澄禅が見た「二王門」は「二天門」だったようです。この「二王門」から続く参道の上の「高き石面」(断崖)には、彫り付けられた「仏像」や「五輪塔」が数え切れないほどあるといいます。中世以来の宗教活動の成果なのでしょう。自然石を切り出した階段を上ると「寺ノ庭に上がる」とあります。

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現在の百八階段

この「寺ノ庭」は、諸堂の立ち並ぶ平坦地で、現在の本坊、寺仏殿、寺務所、蔵などが立ち並ぶ平坦地のようです。
  「持仏堂」は、
「西向二厳ニ指カリタル所ヲ、広サニ間半奥ヘハ九尺、高サ人ノ頭ノアタラヌ程ニ イカニモ堅固二切入テ、仏壇間奥へ四尺二是モ切入テ左右二五如来ヲ切付玉ヘリ。中尊ハ大師ノ御影木像、左右二藤新大夫夫婦像二切玉フ。」

とあり、岩盤の窟内に五如来を陽刻しているとあるので、現在の「大師堂」、「獅子之岩屋」のようです。ここには、「大師ノ御影木像」の左右に藤新(とうしん)大夫夫婦像」があったといいます。藤新(とうしん)大夫夫婦像は、「空海=多度津白方生誕地説」で、空海の父母とされる人物です。この時点までは、弥谷寺は「空海=多度津白方生誕地説」を流布していたことになります。

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「鐘楼」は、「庭ヨリー段上リテ」とあります。

現在の鐘楼も寺の平坦地より、約1m程度高い位置にあるので合致します。

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弥谷寺護摩堂

「護摩堂」は、「鐘楼」から

「又一段上リテ護摩堂在、広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ、戸ヲ仕合ソノ内ニハ本尊不動其外ノ仏像何モ石也」

とあり、護摩堂も岩盤の窟内で、本尊が不道明王なので、現在の「岩窟の護摩堂」なのでしょう。
「護摩堂」から本堂への参道には
「少シ南ノ方へ往テ水向(水祭)在り、石ノ面三二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付玉ヘリ、廻リハ円相也。 ・・其下二岩穴在、爰ニ死骨ヲ納ル也。 ・・・
 其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付玉フ事幾千万卜云数不知。又一段上リテ石面二阿弥陀ノ三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛 六ツ彫付玉り、 ・・・又一段上リテ本堂在、」
意訳すると
「岩窟の護摩堂」から少し行ったところからの岩面には、五輪塔が彫られており、灰岩製の切石の石段を上ると「水場所」、「納骨所」があり、その左には「ア(種字)」が彫られ、そこから石段を上れば、岩面には「阿弥陀三尊」、「南無阿弥陀仏の六字名号」が彫られている。
とあり、ここが九品浄土で、中世の阿弥陀=浄土信仰の中心的な場所であったようです。
弥谷寺 九品浄土1

更に石段をあがると本堂です。本堂は岩面に接するように建てられ、その岩面には五輪塔が多数彫り込まれていいます。現在の「本堂」の位置と変わりません。
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弥谷寺本堂
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本堂磨崖に彫られた五輪塔

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弥谷寺本堂からの眺め
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本堂内部の磨崖仏や五輪塔
また「蔵王権現ノ社」|は、「其近所二」とあることから、「岩窟の護摩堂」の上方にある現在の「鎮守堂」であったようです。
以上が澄禅の『四国遍路日記』に書かれた承応2(1653)年の弥谷寺境内の諸堂の様子です。
 弥谷寺は、戦国末に兵火で焼失したとされますが、寛永十二(1635)年以後の善通寺からやってきた住持のもとで、生駒氏の支援を受けて堂塔再建が進んだと記されていました。確かに澄禅も、「退転=荒廃」した姿でなく再建が進む境内の様子を伝えています。退転したままだった阿波の霊場よりも、讃岐の霊場は立ち直りが早かったことがここからもうかがえます。
次に、やって来るのは真念です。彼の『四国辺路道指南』(貞享4年(1687)を見てみましょう
「七十一番弥谷寺 南むき。」
「まんだら寺ヘハニ王門より左リヘゆく。」
と記述は非常に少ないのです。ここから解るのは、本堂が「南むき」であつたことと、ちょうど「仁王門」を出て左に行けば、第72番曼荼羅寺への遍路道となることだけです。
最後にやって来るのが寂本です。彼の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689))には、
彼の案内記の特徴は、スケッチが挿入されていることです。これは非常に役に立ちます。まずそのスケッチで境内を見ていきましょう。
弥谷寺 伽藍図

 スケッチの①二王(二王門)手前で分岐し、右へ行くのが曼荼羅寺への辺土道で道で、②「薬師窟」、③「岩松窟」(弥谷坊)が描かれています。「仁王」から左へ進み道弥谷寺参道で、多数の石仏の間を抜け坂道を登ると平坦地にある④「千手院」(本坊)に着きます。この上部には⑤「聞持窟」(現大師堂)があり、参道は右方向に延び、左右に⑥「鎮守」⑦「鐘楼」⑧「二尊」(籠堂)⑨「護摩窟」⑩「弁財天」と上り、そして⑪「観音堂」(本堂)へと続きます。

  本文には次のように記されます
「山南にひらけ、三染の峰北西に峙てり。其中軸に就て大師岩屋を掘、仏像を彫刻し玉ふ_|
「本堂岩屋より造りつづけて、欄干雲を帯、錦帳日をいる」
「護摩の岩屋二間四方、石壇の上に不動,弥勒・阿弥陀の像まします。其脇の石壇に高野道範阿閣梨の像あり。」
 
「聞持窟(大師堂)は九尺に二間余、内のまわり岩面には五仏・虚空蔵・地蔵等切付られたり。・・・又大師の御影もあり、いにしへは木像にてありけるを、石にて改め作り奉る。其岩窟の前四六間の拝堂南むきにかけ作りにこしたり」

ここには約30年前の澄禅が訪れたときには「大師像」の両脇に置かれていた藤新大夫夫婦像は姿を消しています。この期間に弥谷寺は「空海=多度津白方生誕説」の流布を止めたようです。

 本文からはは本堂(観音堂)・「護摩の岩屋(護摩窟)」「聞持窟」「鐘楼」「住坊」「二王門「石窟薬師堂」の7つの堂舎があったことが分かります。さらに先ほど見たスケッチには「岩松窟」「鎮守」「二尊」「弁財天」の4つの堂舎が描かれていますので合計11の堂舎があったことになります。30年で着実に境内整備は進んでいます。金毘羅大権現に次ぐ規模だったのではないでしょうか。弥谷寺が多くの信者を擁し、経済力を持っていたことがうかがえます。
次に、残されているのが弥谷寺所蔵の版木「讃州剣五山弥谷寺一山之図」です。
この版木は裏面に「大阪北久弐 細工中澤彦四郎」と刻銘があり、「大坂」ではなく「大阪」とあることから、明治以降に復刻されたもののようです。しかし、使われている版木は宝暦10年(1760)のものと研究者は考えているようです。この版画絵を見ていきます。
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺一山図1 」

  この絵図も弥谷寺の境内は、「二王門」から始まります。
仁王門までの参道には、「フジ橋」「大門奮(旧)跡」「石橋」があり、両側には墓石、供養塔と考えられる石造物がたくさん並んでいます。「二王門」手前で遍路道が右に分岐し、次の札所である曼荼羅寺方向と、「穴薬師」が描かれています。
「二王門_|を抜けると左に「南無阿弥陀仏」と書かれた「船ハカ(墓)」があり「手掛岩」→「法雲橋」→「独古坊跡」→「大日」と続きます。参道の左右に五輪塔が描かれており、岩面には数多くの磨崖五輪塔があります。「大日」も磨崖仏として彫られているようです。
「大日」から茶道下の坂道を登ると、平坦な地点に着き、ここに緒堂が並びます。寂本のスケッチには「千手院(本坊)」とあった所です。この正面に「奥院(大師堂)」「求聞持窟」「茶堂」「方丈」(本坊)、
右手に「中之院」「三十三番」「十三堂」「鐘楼」などです。今は「茶堂」「中之院」「三十三番」「十王堂」などはありませんが、それ以外はほぼ同じ所にあります。さらにこの平坦地から「十王堂」と「鐘楼」の間の坂道を登れば、正面に「護摩岩屋」が見えてきます。
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護摩の窟内部
階段を登りきった護摩堂前で参道は左右に分かれます。

右に行けば「天神」「比丘尼谷」「東院旧跡」「権現社」へ
左に行けば「一正石塔」、「観経文」「三尊弥陀」のある九品浄土を経て、「本堂」に続きます。今は「六本杉_|はありませんが、「籠所」を今の薬師堂と考えれば、ほぼ同じ所に諸堂が建っていることになります。現在の弥谷寺の緒堂の空間配置は、この時には出来上がっていたことになります。

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弥谷寺磨崖仏の位置

元禄2年(1689)の『四国遍礼霊場記』から70年近く建った宝暦10年(1760)には、緒堂がさらに増え、境内が整えられていることが分かります。

  「讃州剣五山弥谷寺一山之図」刊行から9年後の「多度津公御領分寺社縁起」(明和6年(1769)の中の「讃州三野郡 剣五山弥谷寺故事譚」には、次のように記されています。
開基は行基で、当初「東ノ御堂亦伝東院」「多宝塔名中尊院」「両ノ御堂又伝西院」を中心伽藍として、「遍明院」「和光院」「青木坊」「其師坊」「納涼坊亦伝籠所」「功徳院」「弥之坊」、「谷之坊」「独古坊」「竜花坊「安養坊」「海印坊」の十二坊があった。それが天正年間に天霧城主香川氏の退城後に、兵火にり仏閣僧坊が灰儘に帰し、その後生駒氏の命を受け白峯寺の住持別名法印が弥谷寺を兼帯し、伽藍再興に東とりかかった。弥谷寺はその後も生駒氏、京極氏の庇護を受け、伽藍再興が進んだ。
 
当時の境内にある堂舎の建立者と年月日が次のように記されています。
大悲心院(本堂)一宇 享保十二未年、幹事宥雄法印
納涼坊   幹縁宥沢法印
十王堂  享保七壬寅十一月七日 宥雄法印代」
鐘楼  大和三壬戌年 幹営宥澤法印
奥院    岩窟也(求聞持窟)
前段(大師堂)延宝九年酉九月吉日幹事宥沢法印
鎮守社  貞享五辰九月吉日  幹造宥沢法印
青木堂   明和六年四月吉日   同人
与手院            幹営宥沢法印
寂光院   岩屋也(護摩窟)
前殿  明和元年五月吉日  幹事瑞応法印
止観院 延享三寅五月廿六日 瑞応法印代(三十三所)
弁財社 宝暦二年中九月令甲 幹営菩提林
天神社 同年         同人
愛宕社 明和六丑六月
泰山附君社  同五千九日吉  卓令事菩提林権律師
接待所  享保十巳施主宇野浄智宥雄法印代
中門  延宝九百六月吉日 卓全縁宥沢法印
とあり、着実に堂舎建立が進み、18世紀中葉までには境内の伽藍整備が終わったようです。特に宥沢の時代に、多くの堂宇が建立されたことが分かります。
次に『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800)を見てみましょう。

弥谷寺 四国遍礼図絵1800年

一番高いところにある①本堂から見ていきましょう。
挿図からは、本堂が片入母屋造で妻入りの建物であることが分かります。描く技術も格段に進歩しています。本堂から4つの石段を下った平坦部のほぼ中央部に④「護摩の窟」があり、③「弁天社」⑤「権現社」「天神社」の位置には変わりがありません。
弥谷寺 九品浄土1

 ここで気づくのが②阿弥陀三尊の下の南無阿弥陀仏の六字名号が小さくなっているような気がします。この「九品浄土」は中世の阿弥陀=浄土信仰の中心部であったのですが、真言密教観と弘法大師伝説の「流行」に押されて、その役割を終えようとしているようにも見えます。

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護摩堂

 「護摩の窟」の前の正面石段を下ると平坦部となり、正面に鐘楼、右手には「十王堂」と「観音堂」が並びます。十王堂は入母屋造り、観音堂は宝形造りのようです。その平坦部の端には「奥院大師堂」、「求聞持の窟」「茶堂」があり、以前と変わりません。

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一段高い所にある十王堂

 「茶堂」より石段を下ると右手に「独鈷坊古跡」があったようですが、この絵図には最初の平坦部に石塔2基が描かれ、次の平坦部には多角形の線が描かれている。今はここに「金剛拳菩薩」が立っています。
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金剛拳菩薩

「金剛拳菩薩」は、寛政3年(1791)から文化8年(1811)の間に造られたことが紀年銘から確認できます。ちょうどこの絵図が描かれたいた頃に建立中だったようです。多角形の線は、金剛拳菩薩の台座の部分のみの表現と研究者は考えているようです。
 
  「讃州剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10年(1760))と『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))を比較すると、「中之院」は無くなっていますが、境内の諸堂や配置には大きな変化はありません。
しかし、小さな変化が2点あるようです。
一点目は、境内参道の一部が石段になっていることです。
①「二王門」前、
②「独鈷坊古跡」から茶堂へ
③「十三堂」から「護摩の窟」さらに本堂への参道
が石段として表現されています。18世紀後半には金毘羅さんでも石段化が始められ、19世紀前半には全域の石段化が完了します。さらに石畳化や玉垣・灯籠整備へと進みます。弥谷寺の石段整備はそのような流れと合致します。
  2つ目は「法雲橋」から「茶堂」への参道の付け替えです。
弥谷寺 参道変遷
弥谷寺の参道変遷

「讃州剣五山弥谷寺一山之図」では、「法雲橋」を渡り、参道は磨崖五輪塔が描かれた岩の向こう側を通り、右に「大日」、左に「独鈷坊跡」見て、「茶堂」坂道を上るように描かれていました。
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潅頂川にかけられた現在の法雲橋
ところが『四国遍礼名所図会』では、「法雲橋」を渡り、参道は磨崖五輪塔が描かれた岩の手前を通り、「独鈷坊古跡」を左手に、若干上り右に「大日」を見て、「茶堂」への坂を上るように描かれています。この間に参道の変更があったようです。
 どうしてでしょうか。金毘羅さんの参道も、「戦略」的に何度か付け替えられています。それは、当時新しく造られた建造物やシンボルモニュメントを参拝者に印象づけようとする意図があったことは以前に見ました。
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金剛拳菩薩
そういう視点で、弥谷寺を見ると新たなシンボルといえば、金剛拳菩薩です。旧道では、完成したばかりの金剛拳菩薩が参道から視野に入ってきません。石段を登ってくる参拝者を上から慈悲の視線で金剛拳菩薩迎えるように参道が付け替えられたと私は考えています。
最後に幕末の、「讃州剣御山弥谷寺全図」を見ておきましょう。
この版木は弥谷寺に残されたもので裏面に天保十五年(1844)の墨書があり、製作年代が分かります。金毘羅さんの旭社完成し、玉垣や石畳などの周辺整備が進められ参拝者が爆発的に増えた時期です。それに、併せるように新たな絵図が制作され弥谷寺への参拝客の呼び込みを行ったことがうかがえます。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」

 この絵図を見ると弥谷寺境内は今までのように、「二王門」から始まります。しかし、ちがうのは「二王門」までの参道に次のような院房が並んで描かれています。

①「大門跡」「和光院跡」「安養院アト」「遍明院アト」「青木院跡」「功徳院跡」「龍花院跡」

 往時の境内が今よりもかなり広かったようです。これらの子院は中世には、念仏行者や山岳修験者として活動していた下級僧侶たちの拠点だったのかもしれません。それがいつの時代に衰退し、破棄されていったのでしょうか。考えられるのは金毘羅大権現のいろいろな宗教施設が別当金光院により統制・排除されていく動きや、白峰寺の一院化と同じ頃ではなかったのかと私はおぼろがながら考えています。何かしらの「政治的な力」が働いた結果だと思うのですが・・・。今はよく分かりません。
「大門跡」は柵で囲われており、「大門跡」と書かれた高札が設置されています。
また「大門跡」の外側には、 3間×4間の入母屋造りの建物、
②「功徳院跡」と書かれた部分には、 2間×2間の入母屋造りの建物が描かれています。これらの子院跡を抜けると十字路の交差点です。右は曼荼羅寺への道、左は西入口となります。この交差点から右に「穴薬師」「薬師院」、左に茅葺の建物を見て、二王門が迎えます。
 ③「二王門」は3間×3間の二層入母屋造りで、土塀を廻らし、かなり立派です。
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二天門(現仁王門)の上の参道横に立つ「船墓」

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船墓

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船墓(レーザー撮影)

「仁王門」を抜けると右手に「南無阿弥陀仏」の名号が描かれた④「船ハカ」(墓)があります。これも中世の弥谷寺が荒野の念仏聖(時宗)の活動拠点であったことを示すモニュメントのようです。
これを過ぎると「潅頂川」に⑤「法雲橋」が係っています。これもアーチ状で、欄干がある石橋で、かなり立派なものになっています。これも参拝者が喜びそうです。
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「法雲橋」を過ぎると、今までなかった⑦「丈六金佛(金剛拳菩薩)」が正面に現れます。
「天金佛」から坂道を上ると諸堂の立ち並ぶ平坦地になる。左手に「茶堂」、「本坊」、正面に「大師堂「獅子窟」があります。本堂へは、右に折れ左手に「大塔」「三十三所」「十王堂」を見ながら、右手「鐘楼」で、左に折れ、さらに坂道を上ります。坂道を上れば、正面に「護摩堂」があり、参道は左右に分岐します。
右に行けば「天神」「比丘尼谷」「東院堂アト」⑧「蔵王権現」へ、
左に行けば「納涼院」、⑨「前讃岐守生駒一正石塔」、⑩「九品浄土」を経て、「本堂」に至ります。今は「六本杉」はありませんが、「納涼院」を薬師堂とすれば、ほぼ同じ所に各お堂があることになります。金毘羅大権現のように、神仏分離で大きく変化したと云うこともありません。
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)と「讃州剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10年(1760))を比べてみましょう。
「中之院」はなくなっていますが「二天門」、「丈六金佛」、「大塔」、「経蔵」などあたらしいお堂やモニュメントが姿を見せ、さらに伽藍の整備が進んでいます。特に「法雲橋」「二天門」「丈六金佛」は、参拝者に喜ばれたことでしょう。それが評判となってさらなる参拝者を招き入れるという発展らせん階段を弥谷寺は上っていきます。
  ここにも金毘羅さんと同じように、惜しみなく資本投資を行い伽藍整備を進め参拝客を増やし続けるという経営戦略を見る思いがします。
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献

修験道の成立と蔵王権現の登場
まず、弥谷寺縁起を見ていくことにします。
 弥谷寺の歴史を伝えるものは、江戸時代中期の元文(1737)年に版木印刷発行した「讃州纒御山涌谷寺略縁起」しか残ってないようです。この略縁起は、八栗寺(牟礼町)の縁起と非常に似ていることが研究者からは指摘されています。
 その背景には、江戸時代前期に讃岐を訪れた浄厳の存在があるようです。彼は、讃岐各地の寺々で求めに応じて銘文や縁起を書いています。そのためよく似た縁起が数多くあって「行基開祖、空海再建」にパターン化します。弥谷寺の由来もこのパターンです。空海由縁の遺跡を訪れた浄厳の原稿をベースに、八栗寺や弥谷寺の縁起は書かれた可能性があるようです。

 弥谷寺略縁起を要約すると、次のようになります。
弥谷寺は、行基が東西の峯に各七間の梵宇を建て自ら造像の阿弥陀・釈迦仏を安置し、寺名を①蓮華山八国寺と称した。それは、弥谷山からの眺望が周囲八つの国々を見渡せることに因んで名付けられた。
 次いで、略縁起は、空海が泉州槙尾山寺での修行のことを特記します。そして、②空海が弥谷寺伽藍を再興し千手観音を本尊として剣五山千手院と改称した。
  ここからは次のようなことが分かります。
①弥谷寺は当初は、蓮華山八国寺と呼ばれていた
②空海が弥谷寺伽藍を再興し、千手観音を本尊として剣五山千手院と改称した。
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
⑧が鎮守堂(蔵王権現) ⑩九品浄土  ③ 仁王門

『略縁起』は、「蔵王権現」と弥谷寺の関連を次のように記します
①唐から帰朝した空海が自ら岩窟を穿って求聞持の秘法を行った求聞持窟=獅子窟のこと
②「五柄の利剣」が空から降り、金色の光の中から「金剛蔵王大神」が現われたこと
③大師に千手観音を造仏し、伽藍を再興するなら、 自らは鎮守の守護神となると蔵王権現が云ったこと
①は現在の大師堂の岩窟のことで、ここで空海は求聞持法を行ったとされるようです。②は弘法大師伝説の中に描かれる五柄の利剣が出てきます。

1五柄の利剣

③そして、登場するのが守護神としての蔵王権現です。

①求聞持窟=獅子窟 
五柄の利剣 
③蔵王権現
3つが弥谷寺の縁起の中核のようです。
弥谷寺 蔵王権現社
金毘羅参拝名所図会 弥谷寺の(蔵王)権現社

この蔵王権現のことは、寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年1689)には、次のように記されています。

「大師登臨の時 蔵王権現示現し玉ひ、即鎮守とす。其像大師御作、御長七八尺、もとより畏る可しの形ちなり」

ここには、蔵王権現を鎮守とし、空海がその像を作ったとして大きさや形も記しています。
 蔵王権現とは、どんな姿なのでしょうか
『金峯山秘密伝』延元2年(1337)の中に、次のように由来が説明されています。

役小角が大峯の岩窟で守護仏を祈請するとまず釈迦如来、次いで千手観音、弥勒菩薩が現れたが小角は満足しない。最後に現れたのが蔵王権現で、小角はこれこそ自分に相応しい仏と感じて、金峯山の守護神としたという仏神である。

弥谷寺 吉野山蔵王権現

 その像容は、一面三眼二膏、青黒身、忿怒相で、頭部に三鈷冠を頂き、右手に剣印を結び、左手を腰に据え、左脚は磐石を踏み、右脚は空に構える姿勢です。

石鎚 蔵王権現
石鎚山頂に運び上げられる蔵王権現

蔵王権現は役行者や吉野山の山岳信仰と結びつけられ、全国の霊山に勧進されていきます。
石立山と呼ばれていた石鎚山の頂上にも、かつては蔵王権現が祀られていました。そして、四国各地に石鎚山信仰の修験者たちいたようです。弥谷寺に蔵王権現が祀られていたのなら、開祖である役行者(役小角)と共にその祀り手は修験・山伏ということになります。弥谷寺は、寂本が指摘しているように、第85番札所の五剣山観自在院八栗寺と同じ修験者(山伏)の寺院ということになりますが・・・。どうもそうとは云えないようです。

修験道の成立と蔵王権現の登場

 それでは弥谷寺に伝えられる「蔵王権現」とは、どんな姿なのでしょうか。
弥谷寺 深沙大将椅像
         弥谷寺の蔵王権現は「蛇王権現 → 深沙大将 → 蔵王権現」と変遷 
これが弥谷寺の鎮守堂に蔵王権現として祀られてきた像です。しかし、私たちが見慣れた蔵王権現の姿とは違います。「蔵王権現」とされてきたこの像は、近年の三野町史には「深沙大将(じんじゃだいしょう」の侍坐形式木像とされています。
しかし、今回の調査報告書には、次のように述べられています。
作成時期については「穏やかな彫りから本像は、制作年代を平安時代中期 11世紀ころ」と推定します。その構造については、

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)
「頭体を一材から彫り出して頚部で割首とするものか、背面から体部と頭部に内材を施して背板状の材を当てているとみられる。腕は両肩から先を別材として寄せ、膝前は横一材として腹前に矧ぎ付けるようであり、ほぼ通例的な木寄せとみられるが三角材の使用は不明である。炎髪部から姿をあらわす蛇形は当初のものとみられるが本像に特徴的なものである。

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

 右耳から後方の地髪部には大きな修理が加えられており、書の形にも後の手が入るようである。首周りの燭骸の嬰塔は全て後補であり、ひとつ亡失している燭骸部の下にみえる体部材には彫出した痕跡は確認されない。また、深沙大将の図像に特有なものとされる腹部にあらわす童子面も本像にはみられず、かつて彫出あるいは添付をなされたようにはみられない。
 椅坐の形式は当初からのものとみられるが、深沙大将図像の特徴に上げられる象頭の袴をあらわす両足の膝頭部から下方の足先指にいたるまでは、体部に比して保存状態も良好であり胸部の彫りに比べるとやや硬く後補とみられること、
 さらに同様な蛇の巻き付く両腕部は、天衣の一部をあらわす左上腕部だけは当初の可能性があるものの、ほかは天衣とともに後補とみられる。
現状にみる体部表面の彩色も古色風に塗りなおされた可能性が高く、修補時に深沙大将像の図容として燭悽の理塔と象頭の袴などを調えた可能性を否定できない。像表面にみる胡粉下地を厚く整えた様子から推測すれば、一時期、かなり傷んだ状態にあったのではなかろうか。」
ここからは次のようなことが分かります。

弥谷寺 高野山深沙大将
高野山の深沙大将
①深沙大将に特有な腹部の童子面がない
②後世の修理の際に、深沙大将像の特徴である燭悽の理塔と象頭の袴などを後に調えた可能性
③首周りの燭骸の嬰塔は全て後補
④頭髪部の「七匹の蛇」も、当初は蛇に関わる夜叉神像が、後に深沙大将に似せられた可能性がある
つまり、この像は深沙大将でもないと調査書は指摘しています。蔵王権現でも深沙大将でもないとすれば、この像のもともとの姿は何だったのでしょうか。

弥谷寺 蛇王権現

その答えは、鎮守堂に掛けられた扁額にあるようです。
そこには「蛇王大権現」と記されているのです。「蛇王大権現」とすると頭に載せた「蛇は龍」とも読み替えることができます。どうやらこの像は「蛇王大権現=龍冠の夜叉神」として作られ、いつの時代かに「深沙大将像」とされ、山岳信仰や石鎚信仰の山伏たちによって「蔵王権現」へと「変身」させられてきたようです。蛇王権現と蔵王権現の言葉の響きもよく似ています。
 
 それではこの像が「蛇王大権現=龍冠の夜叉神」とすると、弥谷寺にあることをどう考えればいいのでしょうか
  上田さち子氏は、本来山に棲む龍神が寿命の神であり、仏教と習合することで蛇王菩薩となったのではないかと次のように述べます。

「寿命の神である夜叉神は山に棲み、あるいは自力で天に昇る。彼らは、仏教の四天王をおそれ、僧形の蔵王菩薩に使われるようすを見れば、土俗的な存在といえる。生命を司る土俗の神が棲むゆえに、高山は他界となり、極楽往生を願う聖が山に登るようになったと私は考える。」

 水分神として山に棲むと考えられたのが龍(蛇)形の夜叉神です
この神は、生活になくてはならない水を供給する一方で、自然災害を発生させる危険な側面を持ちます。それと同時に人間の生命や寿命を司る神でした。それが仏と習合することで彼らが棲む山が浄土化し、大勢の聖や行人を惹きつけていったとされます。蛇王権現は、平安時代のこのような状況下で産み出された仏神のようです。この説は、柳田民俗学の「古より死者の霊魂は里に程近い山に籠る」という祖霊観への疑義でもあります。

蔵王権現と蛇王権現の目指した違いを見ておきます。
①蔵王権現は、忿怒の降魔神として、修行としては山中科檄を行い、即身成仏を目指した。
②蛇王権現は、山中浄土観を保持し、無言断食や一心念仏による籠行(こもりぎょう)、磨崖仏や磨崖五輪を刻み、民衆の葬儀や死者供養などにも積極的に関わった。
②を信じた念仏行は、後の法然や親鸞の絶対的な阿弥陀如来を前提とした専修念仏とは少し違います。苦行によって直接的に浄土に迫ろうとする自力の口称念仏でした。しかし、彼らもまた「修験」であることに変わりはありません。両者の関係を整理すると
A 役小角系の修験で、「陽」の修験 ハードな山岳修行指向
B 念仏系行人集団で、「陰」の修験 ソフトな念仏聖集団
Bの集団の信仰のひとつの象徴的な仏が「蛇王権現」のようです。これは金剛蔵王権現に対して、胎蔵蔵王権現の姿であるのかもしれません。Bの行人タイプの代表例が、阿弥陀聖、市聖とも称された空也(902頃―973)です。京都の六波羅蜜寺の彫像が有名です。
東京国立博物館 - 展示・催し物 展示 本館(日本ギャラリー) 特別展「空也上人と六波羅蜜寺」
                     空也像

首から鉦を下げ、撞木と鹿角の付いた杖を持ち、草履履きで歩く姿です。空いた口から「南無阿弥陀仏」の六字名号が六体の化仏として表現されています。平安末期に編まれた『梁塵秘抄』(巻第二)に

「聖の好むもの 木の節鹿角鹿の皮 蓑笠錫杖木彙子(もくれんじ)) 火打笥岩屋の苔の衣」

と歌われた姿そのままです。彼こそ「山の聖」から様々な活動を経て都市に下り、「市の聖」に転換した宗教者の象徴人物と研究者は考えています。彼が最期を迎えた六波組蜜寺は、元は西光寺と呼ばれました。その場所は鳥辺野と呼ばれる葬地であり、京都の中では最も死者との関係が濃厚な場所でした。空也は、典型的な遊行宗教者でしたが、四国との直接的関係はあまりないようです。
若い頃、阿波と土佐の間の海中の島で苦行したという話がありますが、これは伝説に過ぎないようです。ただ愛媛県の第79番札所、西林山三蔵院浄土寺には、天徳年間(957~61)に滞在し、布教活動を行った形跡があります。

木造空也上人立像 1躯 松山市公式ホームページ PCサイト
               第79番札所、浄土寺の空也
本堂の厨子には、六波羅蜜寺と同等の牢也像が納められていて、作年代代も鎌倉時代のもので国の重要文化財にも指定されています。浄土寺はもともとは法相宗で、隆盛期には六十六房を擁したとされるので、念仏型や行人の活動拠点であったと研究者は考えています。
 空也と弥谷寺を結ぶ直接の関係はありません。しかし、今まで見てきたことの延長線上には、弥谷にも空也と同じような念仏聖・行人集団がいたことが見えて来ます。

弥谷寺の行人

彼らが善通寺の別所「弥谷」の行人集団であったとすれば、寺院組織の中では地域民衆と交わることの多い、「寄人」して周辺の寺院に寄宿することも多かったでしょう。行人層は、日々の糧を保障された存在ではありませんでした。日々の生活は托鉢行で賄わなけらばなりません。その中には行基や空也のように、土木集団を組織して、橋を架け、水を引くなどの活動を行ったり、病気に苦しむ者がいれば看病し、調剤を行い、死人が出れば供養にも積極的に関わっていったことでしょう。そうした活動の中で、分かりやすい口称念仏を広め、その結果として、弥谷が浄土である「弥谷=阿弥陀浄土信仰」が定着していったと研究者は考えています。
 しかし、この系譜は鎌倉新仏教興隆の波に飲まれ、真言宗の大師信仰に吸収されていきます。歴史の表に立つことはなかったのです。弥谷寺の磨崖に彫られた阿弥陀三尊像や五輪塔、そして蔵王権現として鎮守堂に祀られてきた「蛇王権現」は、弥谷寺を拠点とした念仏行者たちが残した痕跡なのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。(2024年11月19日改訂版)
参考文献
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
「白川琢磨  顕密のハビトウス 木星社 2018年

  前回は民俗学が標榜した
「弥谷寺=古代からの死霊が集まる山=イヤダニマイリ」説

に対して、歴史学から疑義が出されていること。そして、弥谷寺の祖霊信仰は中世の宗教勢力によって形作られたという説が出されたことを見てきました。それでは、祖霊信仰形成の仕掛け人とは、どんな人たちだったのか、またどんな組織を持っていたのかを見ていくことにします。

98歳の義父とダンナと3人で行く、、(今回は悩んだ末) ~~ 四国八十八 ...
弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏

承応2年(1653)に弥谷寺を訪れた澄禅は
「山中石面ハーツモ不残仏像ヲ切付玉ヘリ」

と、断崖一面に仏像が彫られていたことを報告しています。
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弥谷寺の磨崖仏分布地図

その30年後の元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』(寂本)には次のように記されています。

「此あたり岩ほに阿字を彫、五輪塔、弥陀三尊等あり、見る人心目を驚かさずといふ事なし。此山惣して目の接る物、足のふむ所、皆仏像にあらずと言事なし。故に仏谷と号し、又は仏山といふなる。」

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磨崖に彫られたキリク文字

意訳しておくと
この当たりの岩には南無阿弥陀仏の六字名号が至る所に彫りつけられ、その中に五輪塔や弥陀三尊もある。これを見る人の目と心を驚かせる。この山全体が目に触れる至る所に仏像が掘られ、足の踏み場もないほど仏像の姿がある。故に「仏谷」、あるいは「仏山」と呼ばれる。

ここからは江戸時代の初めには、この寺にはおびただしい磨崖仏、石仏、石塔で埋め尽くされていたことが分かります。それは、中世を通じて掘り続けられた「成果」なのかもしれません。この磨崖・石仏群こそが弥谷信仰を担った念仏阿弥陀宗教者の「痕跡」だと研究者は考えているようです。
弥谷寺 九品浄土1
金毘羅参拝名所図会 弥谷寺九品浄土の六号名字

元文2年(1738)の弥谷寺の智等法印の「五剣御山爾谷寺略縁起」には、本堂下の阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯が「九品の浄土」と呼ばれてきたと記します。弥谷寺の水場の近くの岩壁に南無阿弥陀仏の名号が九つ彫られ、九品の意味があるというのです。さらに、その下部に

門々不同八万四為滅無明果業因利剣即是阿弥陀一称正念罪皆除

と、唐の善導大師の謁が彫られていたと記します。しかし、今はこの文字を見つけ出せないほど、岩壁は摩耗しています。
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 阿弥陀三尊の横には「南無阿弥陀仏」の名号が彫られていました。今は摩耗して見えません。しかし、「心」で見ていると南無阿弥陀仏が浮かび上がってくるような気がします。かすかに痕跡が見えています。
弥谷寺 九品の阿弥陀
九品阿弥陀来迎図

 「九品の弥陀」(くぼんのみだ)とは、九体の阿弥陀如来のことです。この阿弥陀たちは、往生人を極楽浄土へ迎えてくれる仏たちで、最上の善行を積んだものから、極悪無道のものに至るまで、九通りに姿をかえて迎えに来てくれるという世界観がありました。
弥谷寺 九品往生jpg

そのため、臼杵の石仏のように、この空間には印相を変えた9つの阿弥陀仏の代わりに南無阿弥陀仏が9つ掘られていたようです。

弥谷寺 九品来迎図jpg

さらに『多度津公御領分寺社縁起』(明和6(1769年)には、次のように記されています。

「東院本尊撥遣釈迦、西院本尊引摂阿弥陀

東院の本尊は釈迦如来で、西院の本尊は阿弥陀であったというのです。阿弥陀信仰が強かったことがうかがえます。また本堂下の墓石群の中には、次のように刻まれたものがあります。

「延宝四」丙辰天 八月口口日大見村竹田念仏講中二世安楽也」

ここからは弥谷寺の里の大見村竹田には念仏講が組織されていたことが分かります。これも阿弥陀=浄土信仰と念仏聖の活動を示すものです。この石碑とよく似たものが白方の仏母院(寛文13年(1773)年にあります。念仏講が建てたもので、白方と弥谷寺が念仏聖たちによって結びつけられていたことがうかがえます。

阿弥陀信仰を担い、このような空間を弥谷寺に作り上げていった宗教者たちとは、どんな宗教者たちだったのでしょうか?
その前に平安~鎌倉時代の中央の寺院組織は、どんな階層性があったのかを見ておきましょう。
お寺というと住職さんがひとりいて、すべてを取り仕切っている姿を私は思い浮かべていました。しかし、古代や中世のお寺は現在のお寺とはちがいます。まず、東大寺や国分寺をイメージすると分かるように、ここにいる僧侶たちは厳しい試験を通過した上級国家公務員です。中には貴族たちの師弟も数多く含まれています。同時に寺院は、大学・病院・図書館・研究施設・出版局などを兼ねた大施設でもありました。そこには、僧侶を教授に例えるなら数多くの「専門職員」がいました。彼らなくしては、寺院の運営は成り立たなかったのです。そのため畿内の大寺社では、次のような厳しい階層性がありました。

寺じゃ勢力の組織
①統率者として別当、座主、検校長者などが位置し、
②寺務管理の役職として三綱・(上座・寺主・都維那(ついな)があり、
③その下に政所や公天所といった寺務局が置かれた。
④寺院に属する上級僧侶全体は、大衆(だいしゅう)、あるいは衆徒(しゅうと)と呼ばれた。
寺社構成者

彼らの役割は「学(学解・学問)と行(修行・禅行)」で次のようにふたつに分かれていました。
①学に携わる場合は学衆・学侶(がくりょう)・学生(がくしょう)
②行に携わる場合は行者・禅衆(ぜんしゅう)・行人(ぎょうにん)
 中世の「四国辺路」を考える際に、重要となるのが行人のようです。行人を辞書で調べると?
①修行僧。行者。
②延暦寺で、寺の雑役をする人。堂衆。
③高野山で雑役に従事した下級の僧。中世以後、学侶・聖(ひじり)とともに高野三方(こうやさんかた)の一として真言密教修学のかたわら、大峰・葛城(かつらぎ)などの山々で修験の行を行なった。
④諸方を巡り経文を唱えるなどして金品を請う僧。
⑥江戸時代、18世紀後半に白衣に白股引と手甲を着け、白木綿で頭を包み、菅笠で鉦鼓(しょうこ)をたたいて遊行し、銭などを乞うた者。〔随筆・只今御笑草(1812)〕
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。
しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいました。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。
中世の寺院組織を見ていると、とまどうことがよくあります。例えば「行人」という言葉が出てくると、
①衆徒に属する中核組織の行人(=現在の大学の教授層)なのか、
②寺院末端の堂社に属する行人なのか、
私には区別できません。大まかに「…寺」という組織の中に、「学」と「行」という二本の柱があったとしておきましょう。
さて、この組織図を讃岐の中世寺院である善通寺に当てはめて考えて見ます。
善通寺は京都の東寺の末寺でしたが、その経済力や規模から見て東寺のような組織を持っていたとは考えられません。が、基本的には共通点があったでしょう。当時の文書には、寺領の共通性からなのか、曼荼羅・善通寺は一体として捉えられています。その曼荼羅寺のエリアには当然、出釈迦寺及び奥之院も含まれ、組織的には善通寺として統括されていたようです。
 『流浪記』で道範は、寛元元年(1243)九月十五日に宇足津から善通寺に移ってきます。
その6日後には「大師の御行道所」を訪ねています。現在の出釈迦寺の奥の院の行場で、大師が捨身行を行ったと伝えられる聖地です。「世坂」と呼ばれる「行道」を人に助けられて登り、

「五岳の中岳の我拝師山の西の山由(みね)」の「行道所」

に立っています。ここは地元では「禅定」とも呼ばれていている聖地です。そこに自分に身を置いてみたいという願いが強かったことが分かります。後に、西行もここで修行を行っています。
 我拝師の捨身ケ岳は、弘法大師伝説の中でも一級の聖地でした。そのため善通寺の「行者・禅衆・行人」方の拠点でもあったようです。ちなみに、現在の出釈迦寺は近世になって曼荼羅寺から独立して出来た新しいお寺です。それまでは、霊山我拝師山の遙拝所であったようです。空海が捨身を行ったと伝えられる「行道所」(行場)を、中世に管理していたのは曼荼羅寺になります。そしてこの寺は、善通寺の「行者」の拠点センターの機能を持っていたことになります。

中世善通寺の組織を考える上で参考になるのが、建治2年(1276)の蒙古人誅伐の祈祷に関する文書です。
鎌倉幕府の求めに応じて、各地の寺院で行われた祈祷ですが、そこには毎日三回行う祈祷の分担が次のように記されています。

中世善通寺の組織(蒙古撃退祈祷の分担)
①「五檀法」(調伏護摩)」は「御影堂衆」と「金堂衆」と「法花堂衆」が担い
②大般若経の不退転読は八幡社に関わつた「供僧分」が行い
③仁王経の長日読誦は「職衆分」
④薬師経・観音経は「交衆分」
⑤尊勝陀羅尼・千手陀羅尼は「行人」が担う
とされています。ここからは、祈祷が単にエリートの学僧たちだけで行われていたのではないことが分かります。面白いのは、護摩祈祷を行える僧侶が階層性のランクが高く、それも管理する堂毎に分類されていることです。各堂が現在の大学の学部・学科の分類のように私には見えてきます。やはり今と同じように、堂同士の反目や派閥争いがあったのかもしれません。それより下の僧侶はランクに応じた聖教が割り当てられています。まさにお寺は階層社会です。目に見える形で、所属と自分の階層が分かるシステムです。
 ③の職衆(しきしゅう・色衆)は、法会で梵唄や散華など担う僧侶です。④の交衆(こうしゅう)が学僧になるようです。ここにも、学と行、神と仏の軸が交差する組織のありようが見えてくると研究者は考えているようです。
南海流浪記- Google Books
 
讃岐に流刑となった道範から見た鎌倉時代初期の善通寺を見ておきましょう。
道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えたことが考えられます。道範が著した、宝治2年(1248)道範が著した『行法肝葉抄』の下巻の奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。
書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
  ここには「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されています。上人とは高僧に対する尊称です。ここからは次のような疑問が沸いてきます。
①どうして個人名ではなく、弥谷の上人という言い方が使われているのか
②弥谷寺ではなく地名としての弥谷しか記されていないのか
③上人は代表者なのか。また、多数の宗教者なのか。
④だれが学僧道範に修行法のテキスト執筆を依頼したのか、
ここにも中世寺院組織を当てはめてみましょう。
 注目するのは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちの存在です。彼らを弥谷ノ上人と記しているようです。「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることに再度注意します。そうすると、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったかもしれないとも思えてきます。この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺=曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」で行場として、そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたとも考えられます。

  弥谷ノ上人が道範に『行法肝葉抄』を依頼した背景は?
 仏道念仏修行に情熱を注いだ別所の行人集団が、道範に対して、彼らが勧進で得た資材で行法の注釈書を依頼します。敬意をもってそれを受けた道範は老いた身で、しかも配流先の身の上で参照すべき書籍等のない中で専ら記憶に頼って完成させたのが『行法肝葉抄』です。この奥書に書かれた「弥谷ノ上人」とは、そんな背景がしめされているようです。『流浪記』からは、 こうしたタイプの宗教者と道範は交流していたことがうかがえます。

 道範と阿弥陀信仰の僧侶との交流がうかがえる記述が『南海流浪記』の中にはもうひとつあります
宝治2年(1248)11月17日に、まんのう町(旧仲南町)春日に位置する「尾背寺」(廃寺)を訪ね、翌日18日、善通寺への帰途、大麻山の麓にあった「称名院」に立ち寄っています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」

意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
  「九の草の庵りと 見しほどに やがて蓮の台となりけり」
後日、念々房からの返歌が5首贈られてきます。その最後の歌が
「君がたのむ 寺の音の 聖りこそ 此山里に 住家じめけれ」

です。このやりとりの中に出てくる
「九品(くほん)の庵室・持仏堂・九の草の庵り・蓮の台」

には、称名院の性格がうかがえます。称名院の院主念々房は、浄土系の念仏聖だったようです。
   江戸時代の『古老伝旧記』には、称名院のことが次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 地元では、阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。念々房は、念仏僧として善通寺周辺の行場で修行しながら、象頭山の滝寺の下の氏神様の庵に住み着いていたのかもしれません。善通寺周辺には、このような「別所」がいくつもあったことが想像できます。そこに住み着いた僧侶と道範は、歌を交換し交流しています。こんな念仏僧が善通寺の周辺の行場には、何人もいたことがうかがえます。

こんな念仏僧を「阿弥陀聖、市聖」ともよばれる空也(903-972年)と研究者はダブらせます。
弥谷寺 空也
空也
空也は、京都の六波羅蜜寺の彫像が有名です。首から鉦を下げ、撞木と鹿角の付杖を持ち、草軽履きで歩く姿で、空いた口元から「南無阿弥陀仏」の六字名号が六体の化仏として表現されています。平安末期の『梁塵秘抄』には
「聖の好むもの 木の節 鹿角 鹿の皮 蓑笠 錫杖 木簗子 火打笥 岩屋の苔の衣」

と歌われた聖の典型的な姿が現されています。
彼こそ「山の聖」から都市に下り、「市の聖」に転換した象徴的人物と研究者は評します。彼が最後を迎えた六波羅蜜寺は、元は西光寺と呼ばれました。その場所は。鳥辺野と呼ばれる葬地であり、京都の中では最もあの世に近い場所でした。空也は、遊行宗教者で若い頃、阿波と土佐の間の海中の島で苦行したという伝説があります。

愛媛県の第79番札所浄土寺には、行基が天徳年間(957-961)に滞在し、布教活動を行った形跡があるといいます。
空也ゆかりの浄土寺で地名や和歌の墨書確認 中世の巡礼者記す 松山 | 毎日新聞
浄土寺の空也像(重文)

本堂の厨子には、六波羅蜜寺と同じ頃に作られた空也像があり国の重要文化財にも指定されています。浄土寺は、もともとは法相宗で隆盛期には66房があり、念仏聖や行人の活動拠点であったことがうかがえます。
 残念ながら空也と弥谷寺を結ぶ直接の関係はありません。しかし、弥谷にも空也と同じような念仏聖・行人集団がいて、修行をはじめいろいろな活動を行っていたことは考えられます。彼らが「別所の行人集団」であったとすれば、寄人として周辺地域の他のお寺にに寄宿することもあったかもしれません。
弥谷寺の行人

行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりませんでした。そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。そして、弥谷が浄土であることを伝えて行きます。こうして、弥谷寺は浄土空間として整備されていくことになります。それが「九品の浄土」とよばれてきた、現在の阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯と研究者は考えています。

  浄土信仰を受けいれるようになった庶民は、次には浄土往生の保証を求めるようになります。そのために霊場とされる寺院の過去帳に名前を残し、確実に「結縁」するようになります。
そのためのひとつの方法として、弥谷寺には、日牌・月牌と称される永代供養のやり方が伝わります。これが江戸時代の日牌・月牌を忌日別にまとめた「忌日別過去帳」で、法名・没年・俗名・施主の住所・施主名などが記されています。寛文(1661-73)年間から始まり、幕末の慶応年間(1865-68)の過去帳には、1冊で約150人、全部で延べ4500人が記されています。その施主の住所について、報告書は次のように述べています。

「中・西讃地方の三野郡・多度郡・那珂郡・鵜足郡・豊田郡・阿野郡・塩飽諸島の村落名が中心であり、いわゆる東讃地方はほとんどみられない」

これが、弥谷信仰のエリアだと研究者は考えています。そして、浄土信仰を担った弥谷の聖・行人集団の活動範囲でもあるというのです。特に死後まもなくして「弥谷参り」をする習俗は、弥谷に隣接するエリアの永代供養以前の形式と推測します。
そして研究者は。最後に次のように指摘します。

  どちらにしても、歴史的に先行するのは中世の聖・行人集団の「浄土信仰」である。そうした宗教者の活動を考慮することなく、民衆から自然発生的に成立した死霊・祖霊信仰から説明しようとした所に民俗学の問題点があったのではなかろうか。

中世の弥谷寺を中心に阿弥陀信仰=浄土観を広めたのは、念仏行者と云われる下級の僧侶たちだったようです。
彼らは弥谷寺だけでなく善通寺周辺の行場に拠点(別所)を置き、民衆に浄土信仰を広めると同時に、聖地弥谷寺への巡礼を誘引したのかもしれません。それが、中讃の「7ヶ所詣り」として残っていると考えることも出来そうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

1 善通寺伽藍図

善通寺は東院と誕生院の2つのエリアから現在は構成されています。古代に佐伯氏の氏寺として建立されたのは、五重塔や本堂の建つ東院です。それに対して誕生院は、空海の生家があった場所とされ、空海誕生の聖地とされています。こちらは弘法大師伝説が広まった中世に成って生まれた宗教施設です。
1 善通寺 仁王門

誕生院に入口に立つのが仁王門です。この仁王門を真っ直ぐに進んでいくと御影堂に至ります。ここで悪霊や魑魅魍魎たちの侵入を防ぐために立っているのが金剛力士像です。
向かって右は、口を開き、肩まで振り上げた手に金剛杵をとる阿形像です。
1 善通寺 金剛力士阿形

阿像は左足に重心をかけて腰を左に突き出し、顔を右斜め方向へ振っています。
1 善通寺 金剛力士吽形

  一方、左が口を一文字に結び、右手は胸の位置で肘を曲げ、掌を前方に向けて開く吽形像です。こちらは右足に重心をかけて腰を右に突き出して、顔を左斜め方向に振っています。
 小さいときに、この阿吽像の間を通って「お大師さん(おだいっさん)=善通寺」に、お参りするときには、両方の仁王さんから睨まれるようで恐かった思い出があります。そして、鉄人28号のように、もっと大きく感じたものです。実際どのくらいの大きさだったのかとデータを見ると、
「像高(阿形)193、2㎝(吽形)190、5㎝」

とあります。 この数値を見ると意外な感じがします。もと大きいはずと感じてしまいます。このくらいの身長なら今ではスポーツ選手には数多くいます。等身大よりかは、はるかに大きいというイメージでした。確かに阿吽像は、土で築いた壇(高さ約70㎝)上に立っています。そのためいつもは、見上げるように見るため大きく感じていたのかもしれません。
 いつもは仁王門の中にいて、下半身は柵でよく見えないのですが、こうして写真で見て気付くのは、下半身に重量感があるということです。下半身にまとう服は裾が長くボリュームがあります。いったい何をまとっているのかと思います。また、阿吽のふたつを並べてみると、左右対比性をもつてバランスを考えて作られていることに改めて気付かされます。

   さて、この仁王さんたちは、いつからここにいるのでしょうか?
  かつて、この仁王さんたちは江戸時代(十七世紀)の製作と聞いたように記憶していました。ところが現在では、14世紀の南北朝まで遡るとされています。一体何があったのかを、まずは見ておきましょう。
金剛力士像の製作年代の決定に大きな役割を果たしたのは、善通寺の学芸員の方です。平成21年の春ごろに、善通寺の建造物群の修理履歴を調べるため、近年の寺務書類を整理・確認していた時のことです。真言宗善通寺派の機関紙に、この金剛力士像の修理に関する記事が載せられていたというのです。(『宗報』第九号昭和51年1月発行)。そこには、修理後の写真とともに、
「応安三年(1370)に作られたもの」、
その修理は「京都東山の佐川仏師」によって行われた
ことが記されていました。つまり、昭和50(1975)年に、修理が行われた際に体内墨書が発見されていたのです。しかし、当時は注目もされずに、そのまま忘れ去られることになったようです。そのことを再発見したのが学芸員の松原 潔氏です。そこで、彼は修理にあたった仏師・佐川中定氏と連絡を取り、一枚の写真を手に入れます。
それが、この写真のようです。ここには修理解体時の時に見つかった次のような像内墨書銘が写されています。

1 善通寺 金剛力士像内墨書jpg
大願主金剛佛子有覺
右意趣者為営寺繁唱
郷内上下□□泰平諸人快楽
□□法界平等利益故也
應安三(1370)年頗二月六日

ここからは次のような事が分かります。
①1行目に仁王像製作の発願者が有覺であること
②2~4行目に、寺と地域の繁栄・仏法の興隆を願う文言が記されていること
③5行目に応安三(1370)年の年記があること
  確かに、この墨書の年代は決定的な史料となります。こうしてそれまで江戸時代後半の作品とされていたものが、一気に400年近くも遡り、南北朝時代の仁王さんと評価されるようになったのです。しかし、この墨書銘が阿吽両像のどちらに書かれているのか、また、像内のどこに記されたものかは分からないようです。また、発願者の有覺という僧侶についても、作った仏師についても現在のところは分かりません。そこで、同時代の全国の仁王像と比べてみましょう

全国の鎌倉時代後期から南北朝期の製作年代のはっきりしている金剛力士像は?
①大阪・法道寺像  円慶・慶誉作  弘安六年(1283)
②高知・禅師峰寺像 定明作     正応四年(1291)
③神奈川・称名寺像 大仏師法印院興・法橋院救・法橋長
          賢・法橋快勢作元亨三年 (1323)
④兵庫・満願寺像  南都仏師康俊作 嘉暦年間
                   (1326~28)
⑤奈良・金峯山寺像 康成作     延元四年(1339)
などが挙げられるようです。
同じ四国霊場である②の定明作と比べてみると、様態は似ていますがイメージはまるで違います。
1 金剛力士
 高知・禅師峰寺像 定明作 正応四年(1291)
おなじ系統状のものとは思えません。
③の神奈川・称名寺像はどうでしょうか? 

1 金剛力士称名寺jpg

「ぼってり感が③の称名寺像と共通する感覚をもつ」と、研究者は云いますが、そうですかとしか私には答えられません。

香川県内の中世の金剛力士像を挙げると次の通りです。
  本山寺像・志度寺像・大興寺像・屋島寺像・國分寺像
 吉祥院像・伊舎那院像
  仁王の吉祥院像と財田の伊舎那院以外は、四国霊場のお寺さんになるようです
f:id:nobubachanpart3:20110624193641j:image
伊舎那院の金剛力士像阿形

運慶作の金剛力士像 - 三豊市、大興寺の写真 - トリップアドバイザー
大興寺金剛力士像吽形

ただ、本山寺(三豊市)の二天(持国天・多聞天)像には
「仏師当国内大見下総法橋」
「絵師善通寺正賢法橋」

の製作名と製造年の正和二年(1213)が記されているようです。
ここからは、この時代には善通寺や三豊に、在地の仏師や絵仏師がいて、その工房があったことがうかがえます。善通寺の仁王たちも讃岐の仏師の手によって作られた可能性もあります。

 仁王さんが善通寺に、やってくる背景を見ておきましょう。
仁王門が建つ誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたとされてきました。誕生院は、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院でした。創建は建長元年(1249)で、高野山の学僧・道範(1178~1252)によって行蓮上人造立の弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 この時期の誕生院は、東寺の末寺です。東寺から派遣された別当が住持を務め善通寺全体を監督していました。それが、元亨年間(1321~24)に後宇多天皇の遺告で、善通寺は大覚寺が本寺となります。その結果、本末の争いが起き、暦応四年(1341)に光厳上皇の院宣が出されるまで続きます。そして、善通寺は東寺長者も兼任する随心院門跡の管理下に入ります。
こうしたなか誕生院住持となったのが宥範(1270~1352)です。
宥範が住持になった頃は、善通寺は中世の混乱で衰退期でした。平安中期に大風により五重塔は、倒壊し失われたままでした。このような中で、諸堂の再建・修理に勤め、伽藍整備おこなったのが宥範です。 また、教学上でも真言密教の諸法流のうち三宝院流慈猛方や安祥寺流などを学んで、小野三十六流善通寺方(宥範方)を確立し、独自教学の発展と自立的経営の基礎を築いたとされるようです。そのため彼は「善通寺中興の祖」とされるのです。
 仁王門の金剛力士像が造られた翌年の応安四年(1371)には、宥範から誕生院住持職を譲られた弟子の宥源の上表によって、宥範に僧正位が追贈されています。宥源にとっては、師匠の宥範と共に目指した誕生院整備の締めくくりとして迎えたのが、この阿吽の仁王さまたちだったのかもしれません。
1 善通寺伽藍図.2jpg


善通寺に仁王たちがやってきて約二百年後の永禄元年(1558)に、阿波三好氏配下の讃岐武士団が天霧城の香川氏を攻めます。

その際に、善通寺は三好氏の本陣となります。両者の和議が成立し、三好軍が撤退した後に善通寺は炎上します。この際に、東院の本堂や五重塔は燃え落ちたとされますが、誕生院については次の2つの説があります。
①誕生院も兵火に係り燃え落ちた
②燃え落ちたのは東院のみで、誕生院は残った
 この論争に対して「金剛力士が中世に作られた」という事実は、②の説に有利に作用すると考えられます。「仁王門は、延焼を免れたから仁王さまは生き延びた」と考えるのが自然です。戦国期においても善通寺は壊滅的な打撃を受けたわけではないようです。東院は瓦礫の山になったかもしれませんが、誕生院は寺院のとしての機能を維持していたとしておきましょう。

善通寺には宝永五年(1708)の「金剛力士堂」再建の棟札が残っているようです。
戦国期に兵火にあった東院の五重塔や本堂が再建されるのは、17世紀末のことです。棟札には願主・光胤(1651~1732)と大工竹内十右衛門の名前があります。宮大工の竹内十右衛門は、元禄十二年(1699)上棟の金堂再建にも参加していたことが棟札から分かります。
 東院の再建と一緒に、「金剛力士堂」(仁王門)も、同じ宮大工によって再建されたようです。この棟札の裏面には「力士修補」とあります。このときに修理された力士像が、現在の仁王門に立っている阿吽像になるようです。阿吽像は永禄の兵火をくぐり抜け、660年近くにわたって善通寺を守護し、参拝者を迎え続けてきたようです。

  最後に仁王さまに敬意を表しながら、その姿を紹介する研究者の文章を紹介したいと思います。

善通寺金剛力士像 阿形

阿形像は髻(もとどり)【(頭頂で結った髪の束)を結い、その正面には上辺が三角の飾りをつけ、元結紐の先端を右上方へ翻す。目を怒らせ、開口して上下歯と舌を見せる。下半身には折り返し付のくんを着け、体側を天衣がめぐる。左手には金剛杵を握り肘を屈して振り上げ、右手は全指をのばし掌を外側にむけ体側に垂下する。右斜め下方を向いて、腰を左に強くひねり右足を踏み出して、手斧目の方座上に立つ。

善通寺金剛力士吽形
吽形像は阿形と同様に髻を結うが、その正面の飾りは花弁形にあらわす(元結紐は亡失)。
目を瞑らせて閉口する。左手は肘を張って体側に垂下させてこぶしをつくり、右手は肘を側方に張って全指を立てて掌を正面に向ける。左斜め下方を向いて、腰を右に強くひねり左足を踏み出して立つ。その他はおおむね阿形像のかたちに準じる。
善通寺仁王像 (2)


針葉樹材(ヒノキか)による寄木造。表面の彩色や補修のために構造の詳細は不明だが、頭体は別材製とおもわれる。頭部は耳の前後で矧ぐ三材製で、日には水晶製の玉眼を嵌め込み首下で体幹部に差し込む。体幹部は前後三材製で、腰に着けた祐は前後左右から別材を矧ぎつけるか。このほか、阿形像は両肩・左肘。両足先に、咋形像は両肩。右肘。両足先に矧ぎ目があり、それぞれそれ以下に別材を矧ぎつける。また、天衣も別材を矧ぎつけている。台座は広葉樹材製(ケヤキか)で複数材を矧ぎ合わせている。

善通寺仁王像 (3)

激しい怒りをあらわす面貌や引き締まった肉身にみられる抑揚の強い表現、肩を後方に引き頭部と腹部を前に突き出して創り出す前後の動勢は鎌倉時代初頭に活躍した運慶一派が完成させた写実的な新様式を踏襲するものだが、一方で、体幹部や腕などの角ばった造形や補にみられる厚ぼったい衣の表現などには様式の形骸化が見てとれる。

善通寺仁王像 (4)

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 松原 潔    善通寺の金剛力士像(仁王)について
                  空海の足音 四国へんろ展 香川県立ミュージアム所収

前回は、途中から金毘羅さんの方へ話が進んでしまって、仏生山のことが尻切れトンボになってしまいました。仏生山門前町の発展に素麺屋さんが大きく寄与していることに前回は触れました。これは、私には面白い話なので、今回はもう少し追いかけて見ます。
    仏生山の素麺業者の願いをうけて享保13年に、法然寺が郡奉行へ出した次のような要望書があります。
門前町人共五拾九年前素麺の座下し置かれ候、近年別而困窮に及び候得共、是れを以て渡世の基二仕り、只今迄取続き罷り在り、偏えに以て開祖君御源空(法然)の程愚寺に於ても在り難く存じ奉り候、然ルニ近年出作村下百相村二而素麺致す二付き、町人共難儀の筋(中略)
申し出候、右隣村の義、近年乍ら致し来たり杯と名付け捨て置き候而、畢竟、龍雲院様(松平頼重)成し置かされ候御義相衰え候段、千万気の毒二存じ奉り候、其の上町人共末々門前居住も仕り難き由の申し立て、尤も以て黙正し難き趣二候段、則ち町人共願書(下略)
意訳すると
①仏生山門前では、59年前に素麺座をつくり共存を図ってきたが近年困窮化している。
②素麺業は藩祖松平頼重のお陰で発展してきたもので、その素麺業が衰えてしまっては困る
③原因は出作村や下百相村での新たな素麺業者の競合
④仏生山素麺業の継承、発展のための保護をお願いしたい
 郡奉行の方では、法然寺や門前素麺業者の意向をくんで、近隣業者の水車のひとつを運転停止にするという措置で、紛争を収めています。この史料からは、いろいろなことがうかがえます。
①まずは、素麺業者の数の増加ぶりです。
59年以前から素麺座があったと云います。しかし、それは寛文十年に当たり、松平頼重によって法然寺が建立された年です。建立当初から素麺座があったとは考えられません。まあ、城下から四・五人の素麺屋を仏生山に移住させて座をつくらせたと考えておきましょう。それが、約60年後には、50人に増加しています。10倍強の増大ぶりで、頼重の「仏生山特区振興策」のたまものかもしれません。同時に座を作り、ギルド的な規制で新規参入者を入れないという動きも見えます。50軒という数字は、幕末まで変わらないことがそれをうかがわせます。
② 次に注目すべき点は、「近年出作村下百相村七川素麺致す」と書かれている所です。
出作村も下百相村も仏生山門前に隣接する村です。とくに下百相村からは平池の水掛りをうけています。隣接する村が仏生山門前の素麺業の活況を見て、新規に参加してきたのです。この動きに対して素麺座の方は、ギルド的閉鎖性から法然寺の力を借りて抑圧する方向に動いていたことが分かります。
 約120年後の天保十三年(1842)に、今度は平池水掛り村々の百姓と素麺業者との間で紛争が起きます。
その決着の際に、浅野村の水車持主三人(素麺業者)が出した詫び状の一札をみて見ましょう。
       一札の事
 平池用水ヲ以て私共渡世致し候義、本掛り衆中丿故障等者之れ無き義与相心得、種々身勝手二趣不束の義致し候所、用水御指支えの趣、卯七月願書の通り、夫々御願い出二付き、水車御指し留め御封印御附け置き成され候上、御役人中様御入り込み、達々御吟味仰せ付けられ、平池用水の義者御収納(水田)第一の義二付き、御普請等仰せ付けられ候義二而、水車の用水与申す義者毛頭之れ無き段、尚、達々仰せ聞かされ二付而者、前件の趣二言の御申し訳相立ち申さず、不調法至極恐れ入り奉り後悔致し罷り在り候、然ル所、本掛り衆中丿水車取り除ケ候様御願い出二付、甚心配仕り候趣、達々御願い申し上げ候所、此の度、岡村庄屋丸岡富三郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿、右始末、本掛り衆中江御掛合下され候所、取除ケ御願いの義者、御扱い人衆中様江御任せ下され候由、在肛難き仕合せ二存じ奉り候、左の条以来相守り申すべく候(下略)

これをみると、「御取調べの節御指し留めに相成」りとして、これ以前の文化年間にも紛争が起きていたようです。その時は、水車がひとつだけ運転停止になったと記します。
意訳すると、
「私どもは平池の水を使って渡世(稼業)いたしてきました。そのことが本掛りの方々に大層迷惑をかけていたとも知らずに水車を動かしていたわけですが、用水に支障がおこっているため水車の封印を願うという天保十四年七月の本掛りの方々の願書で、役人衆が見分に来ました。その際の吟味で平池用水は年貢収納第一のためのものであって水車の用水ではないことが十分にわかり、これまでのことについては誠に申しわけなく後悔いたしております。
 ですが、本掛り衆の願い出ている水車撤去については困ったことと心配しておりましたところ、岡村庄屋丸岡富一二郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿が掛け合い、取り除いていただきました事について、まことにありがたき幸せと感じ入り、以後は取り決めを遵守していく所存であります。

素麺業者の「違法行為」を認めた上での詫び状的な内容です。
「平池水掛り衆が水車の取り除ヶを訴える程の一種々身勝手』とあり、百姓の中には水車の撤去を主張する者もいたようです。そこまで百姓を怒らせた背景には、素麺業者の中に
①水車の大きさを次第に大きくしていったり、
②新しい井手を勝手に作って水を流したり、
③水車を新しく建てる際に道を勝手に潰したり、
④ひどいものは、用水を水車小屋の中へ引き込む形にして水車を廻したりする者がいた
からのようです。
   素麺の需要増大と用水問題の発生
 これを逆に考えれば、水車稼働能力を高め小麦粉の増産を求められていたことになります。そこまでして、生産しなければ需要に追いつかないという実情があったのでしょう。その傾向は、文化年間ごろあたりから始まったようです。
 先ほど見た享保十三年の紛争の際には、水車の一つが運転を停止するといった形で妥協したわけですが、その後は素麺業者にとって有利な状況が続いていたようです。その背景には、前回に見たように、松平頼重が門前を繁栄させるために素麺業者を呼びよせたという「始祖物語」と、法然寺の素麺業者保護という背景があったからでしょう。そして素麺需要の増大に対し、素麺業者らは「種々身勝手」なやり方で、その生産量を増やしていきます。

4344098-05仏生山
仏生山
 どうして文化年間ごろから素麺需要が伸びたのでしょうか?
まず、考えられるのは法然寺への参拝者の増加です。文政五年の開帳では、「御触」の中に次のように記されています。
「此の度、仏生山開帳二付き、参詣人多く之れ在るべく候、就中、他国ぶも参詣人之れ在り、貴賤群衆致すべく候」
「先年御開帳の節なども右場所二而一向参詣ノ衆中休足も仕らず模寄々々二至り恰」
と、開帳のたびに以前にまして、参詣人が増えていったことがうかがえます。また、開帳時以外のふだん時でも、参詣者が多くなっていたことが次のように記されています。
 金比羅石燈篭建立願願い上げ奉る口上
 私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、之れに依り申し合わせ、少々の講結び取り御座候而、何卒道印石燈篭建立仕り度存じ奉り候、則ち、場所・絵図相添え指し出し候間、願いの通り相済み候様、宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、已上
 文化七午年十月 香川郡東大野村百姓 半五郎
                   政七
    政所 文左衛門殿
これは仏生山から一つ村を隔てた大野村の百姓半五郎と金七が連名で提出した道印「石燈篭建立願い」です。その建立理由には、
家近くに仏生山から金毘羅への街道があるが、遠方の旅人がよく迷い込んで難渋している様子をよく見る。そこで、講をつくり、その基金で道標・石燈篭を建てて旅人が迷わないようにしたい
というものです。
 仏生山から金毘羅へむかう参詣者・旅人が増えていることを示す史料です。ちなみに、この石燈篭は今でも建っているそうです。
 金毘羅や法然寺などの寺社への参詣の増加という風潮
18世紀後半頃から湯治、伊勢参り、西国巡礼、四国八十八力所巡拝など、庶民が旅行に出るという風潮が広がります。法然寺も「聖地巡礼」のひとつになっていたようです。それは「法然上人遺跡二十五箇所巡拝」と関係します。この巡拝は、18世紀半ばの宝暦年間にはじまります。法然の五百五十回忌が宝暦11年(1762)にあたることから、それを記念する事業として始められたようです。「遺跡二十五箇所巡拝」の25という数字は、『仏教大辞典』によると
「源空(法然)示寂の忌日たる正月二十五日、或は念仏来迎の聖衆たる二十五菩薩などの数に因みたるものなるべし」
とあります。この25霊場は、
一番 作州誕生院 
二番 讃州仏生山法然寺 
三番 播州高砂十輪寺
と続いて、以下摂州→摂津国→大坂→紀州→大和→京都と各浄土宗の寺を巡拝し、第二十五番に大谷知恩院で完了するというルートです。法然寺は、この二番目の霊場に当たるようです。
 宝暦ごろからはじまった法然霊場巡りは、19世紀の文化年間ごろに、最も賑わいを見せるようになります。この頃は、四国八十八ヵ所の霊場巡拝や金毘羅参りも盛んになる時代です。これらの聖地を行楽を兼ねて巡拝することが、全国的に盛んになったのでしょう。そのような中で、法然寺門前も急速に繁栄していき、素麺業も発展します。その結果が
①素麺材料の小麦の増産
②水車の稼働率の向上と大型化
③用水の確保 
④平池の農業用水の権利侵犯と争論発生
という流れとなって現れたようです。
仏生山の繁栄は、周囲の出作村や百相村に波及していきます。
天保五年(1834)百相村の内の桜の馬場・出作村の下モ町(両町とも仏生山門前の続き)との氏子惣代が提出した口上書です。
  願い上げ奉る口上
私共氏神膝大明神定例九月十三日御祭日二而御座候、右祭礼の節者神勇のための檀尻二而花笠踊、仏生山町続き百相村の内桜ノ馬場、出作村の内下モ町二而都合二つつゝ古年仕成二御座候処、(中略)
右下モ町・桜ノ馬場与申す場所者 仏生山町同様二而店々商イ等の義茂御免遊ばされ、尚又桜ノ馬場二於て人形廻シ万歳芸等古年者御願済み二而土地賑いのため春秋仕来たり居り申し候、(中略)
且右場所町並二居り申し候者共商イ等仕り、当時相応の渡世も出来、一統御国恩の程在り難く存じ奉り候、尚又町内障り無く相暮らシ居り申し候義、全く氏神の御与刄奉り候聞、祭礼の節、神勇のため檀尻踊の義御免遊ばされた・・
「仏生山町続き」に注意しながら意訳してみましょう
①神膝大明神定例祭には、仏生山町続きの百相村の内桜ノ馬場出作村の内下モ町も参加してきた。
②このふたつの町は仏生山と同じように商いの特権を与えられてきた
③そのため「賑わい創出」のために人形回しや演芸なども春秋に行っている
④ふたつの村は仏生山と共に商いを行い、発展してきた
と「仏生山との一体性」を強調します。
この口上書には「付札」があり、それには本文に続いて次のように記します。
仏生山同様与申す義者、恐れ乍ら龍雲院様(松平頼重)仏生山御建立の節、百相村の内新開地仏生山江御寄附遊ばされ、当時仏生山町の場所汪居宅等仕り候者者御年貢諸役等御免二仰せ付けられ候由、下モ町桜ノ馬場同様二仰せ付けられ候哉の御模様二而兎角土地祭茂仕り候様二与御趣意二而、本文申し上げ候通り、桜ノ馬場二人形廻シ井万歳芸等土地賑いの為め、御免遊ばされ、庄屋御取り上げ下され候、土地の由申し伝え候間、何卒格別ヲ以て加文、願いの通り相済み候様宜しく願い上げ奉り候
この内容は、
①下モ町と桜ノ馬場は法然寺建立の際に頼重が寄進した新開地に含まれている
②仏生山門前同様に年貢諸役が免除された土地である
③だから人形廻し・万歳芸なども土地賑いのために許されていたのである
という主張展開になっています。そのままこれが事実であるとは云えないようですが、仏生山の影響を受けて享保十三年に「出作村下百相村」で素麺を始めたというのは、この付近なのかも知れません。寛文年間以降、仏生山の門前が次第に拡大し、祭礼を通して周辺の町並との一体化の風潮が進んでいったようです。

以上をまとめると
①松平頼重は仏生山の門前町作りについてもプランを持っていた。
②門前町形成のパイオニアとなったのは素麺業者である。
③彼らは松平頼重の保護を受け、急速にその数を増やし座を形成し特権擁護を図った
④急速な素麺業の発展の背後には、庶民の参拝熱の高揚があった
⑤周辺にも素麺業を始める者が現れ、門前町の拡大が始まる
⑥その際に周辺の商人も特権確保のために昔から仏生山の一員であったと主張するようになる
⑦こうして、周辺地域の仏生山化が進む
4344098-06仏生山法然寺
法然寺
讃岐の門前町は、藩の保護の下で発展していった例が多いようです。特に、高松藩初代藩主松平頼重の貢献は大きかったことが仏生山からも分かります。
参考文献     
丸尾 寛  近世仏生山門前町の形成について

 
1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重は、下館藩主を経て高松にやって来てきます。その際に、新たな国作りの構想を既に持っていたような気配がします。高松城の天守閣の造営、石清尾神社や法然寺の建立などは、基本構想として彼の頭の中には早い時期にあったのではないでしょうか。それは
「讃岐全体を安泰に統治していくためにはどんな仕掛けが必要なのか」
という政策課題に沿ったものだったのでしょう。例えば、
①天守閣造営は領民に対しての藩主としての権威を示す統治モニュメント
②石清尾神社や法然寺の建立は鎮護国家を目的にした神道・仏教の宗教モニュメント
とも見えます。また、金毘羅へも多大の寄進を行ったり、諸々の保護を与えたりしているのも政治的な意味が漂います。
高松 仏生山1
高松松平藩の菩提寺 仏生山法然寺
 松平家は法然寺・金毘羅・白鳥神社に厚い保護を加えます。
そのため、この三つは寺社として讃岐で屈指の門前町に発展します。門前町というのは、お寺や神社に奉仕する人々のためのモノや人が集まり、お参りする人々へいろいろな物やサービスを提供するために職人・商人などが集まってできあがった町です。金毘羅さんを見れば分かるように、その施設が広がり・参詣人が増えることで、町の規模は大きくなっていきます。これらの宗教政策と同時進行で、高松城下の整備も進められていきます。

仏生山13
法然寺は、松平頼重によって出来上がったお寺です。
頼重は、法然寺を松平家の菩提寺とし造営に取りかかり、寛文八年に着工し2年後に完成させています。この寺は頼重の宗教政策の大きな柱となるべくつくられたと研究者は考えているようです。
たとえば、この寺の寺格を上げるためにいろいろ工作しています。
その一つが「一本寺」という格です。
どこの寺にもつかず、法然寺そのものが本山であるということです。そのために、まんのう町の子松庄にあった生福寺というお寺を探し出します。この寺は、その昔、法然上人が京都で流罪になり、まず塩飽に流されて、そこでしばらく過ごした後、子松の庄に流されて住んだという寺です。ここで法然上人は教えを広めていたわけです。浄土宗の中では、ひとつの「聖地」です。
4344098-06仏生山法然寺
法然寺
法然寺建造の経緯は、「仏生山法然寺条目」の中の知恩院宮尊光法親王筆に次のように記されています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳すると
①浄土宗の開祖法然上人が建永元年に法難を受けて土佐国(現在の高知県)へ配流されることになった。
②途中の讃岐の国で九条家の保護を受けて塩飽庄から小松庄でしばらく滞在する。
③小松庄に寺が建てられ念仏三昧の道場となった。
④その後戦乱によって衰退し、わずかに草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影ばかりが残っていた。
⑤寛永年中に松平頼重が東讃岐に入部して高松藩が成立する。
⑥頼重は法然上人の旧跡を興して仏生山へ移し、仏閣僧房を造営して新開の田地を寺領にして寄進した
ということになるようです。移転前は生福寺と呼ばれていましたが移転後の跡地には後に寺が建てられ現在に至っています。
頼重公は、まんのう町にあった生福寺を仏生山へ移すプランを実行に移します。

仏生山11
 どうして浄土宗の寺が選ばれたのでしょうか?
それは徳川宗家の菩提寺増上寺が、浄土宗だからでしょう。本家の水戸家も浄土宗です。ですから高松松平家も浄土宗のお寺を菩提寺にしなければいけないのです。 その意味で、頼重公は浄土宗・法然の跡にこだわったようです。
 同時に、高松藩の菩提寺である以上、讃岐にそれまであった寺よりもはるかに寺格は高くなければならなかったのです。菩提寺をそれまでにない寺格の寺にすることで、松平家を頂点とする寺のヒエラルヒーが形作られることになります。これも封建社会においては重要な宗教政策だったのでしょう。
  「讃州城誌」には
国中之れ在る仏作ノ仏像御集め遊ばされ候間、寺御指し置き遊ばされ候」
とあり、讃岐中の優れた仏像を集めて法然寺に置くことも、頼重は行ったとあります。頼重の法然寺に対する思い入れの深さがうかがえます。
 享和二年(1802)の「寺格帳」には、浄土宗寺院のランク表が載せられています。
NO1 芝増上寺
NO2 京都の知恩院、京都黒谷の金戒光明寺、浄華院
NO3 仏生山法然寺
となっていて、全国でNO3というランクです。
仏生山4

もう一つ法然寺の格の高さをあらわすのに「常紫衣」があります。
お坊さんの着る衣は格で決められているそうですが、紫の衣が着られるのは一番格が高いようです。法然寺の僧はいつも紫衣を着てよいとされていました。さらに寺格を高めるものとして、「朱印状」が与えられています。そして将軍へのお目見えが許されていました。
 頼重は法然寺を、このいうな「格」でランクアップを図り、全国NO4のランクにまで高めていたようです。このように、法然寺は頼重の宗教政策の一環として建立され、育成されたのです。
 ちなみに、法然寺建立より前の1644年に新しく寺院を建てることを制限するなどの布令が幕府より出されます。その令が出されて二ヵ月後に造営に取りかかっています。

仏生山12
造営に当たって、頼重はじめ家臣達が造営地をめぐってもめています。
「御霊屋御建ナサレ候ニツキ 仏生山や船岡ヤ両所者可然卜御評議有之 仏生山お究只今ノ通御普請仰せ付け」
とあり、仏生山の地に建てるか、船岡山の所へ建てるかでもめたようです。結局、仏生山という名前から仏生山に決まったことになっています。本当でしょうか?別の理由があったんではないでしょうか。

4344098-05仏生山
仏生山 
考えられるのは交通の要地、地理的戦略価値です。
江戸時代には仏生山の近くに阿波へ抜ける、阿波本道があったのではないかといわれています。そうだとすると、船岡山より仏生山の方が交通の上からは重要な位置にあったといえます。寛政年間の「御用留」(別所家文書)の中には、讃岐に来た阿波の商人が仏生山の宿屋に泊まっている事例がかなりあります。文政年間に仏生山には宿屋が5軒にあったので、そこに泊まったのでしょう。このことも仏生山の交通上の重要な位置を示す一つといえるかもわかりません。
仏生山法然寺十王堂

   頼重公のころ、讃岐と阿波では「走り人」という現象が時々おこっていたようです。
「走り人」というのは、困窮し逃散や流人した農民をさしたようです。高松藩二代目頼常の時に、阿波との間で取り交わした「走り人」についての処置マニュアルが残っています。阿讃の間に緊張感のようなものがあったようです。そういった人々を監視するには、やはり街道沿いの交通の便がよい仏生山の方がいいという判断があったのではないでしょうか。阿波を意識した要地なのです。

仏生山法然寺2
法然寺から高松城の常磐橋まで御成街道が作られます。
法然寺は北側から見ると、お墓が並んでいて、お寺そのものです。しかし、阿波からやって来る人から見える南側は、石垣が積まれお城のように見えます。つまり阿波から見ればお城になり、防御の役割を担います。一方、高松城は水城ですので、海からの防御を果たします。海からの防御高松城の新たに出来上がった天守閣と阿波からの防御法然寺、そしてこの間を御成街道が結ぶという一本の戦略ラインが引かれたことになります。ほとんど同じ時期に完成した天守閣と法然寺の間には、頼重の中では強い政治的関連があったように思います。
「讃州城誌」には、「仏生山法然寺 御代々ノ御寿城、英公御築き遊ばされ候」とあり、頼重は、法然寺を高松藩の南方方面の出城と考えていたよいう説は、私には説得力があります。
仏生山10
 
 頼重は仏生山門前町の育成のために何をしたか? 
頼重は、法然寺に次のような寄進を行います。
①朱印地        300石
②法然寺師弟家来賄料  250石
③鎮守膝宮入目     200石
などで合計750石を寄進しています。さらに、「法然寺條目」の中にみられるように
「当山霊宝等諸人拝見所望之れ有らば之れを拝せしむべし、其の香花代は住持受納すべき事」
として他の収入、散銭などによる収入も認めています。こうして寺野家財政的な基礎を作った上で、門前町の整備を進めます。
 「法然寺條目」の中には次のように記されています。
「門前町屋敷は地子等之れを免許す、諸事方丈より支配の町年寄両人に申し付け、町の儀万事私曲無き様相計らうべき事」
とあるように、門前の住人は税を免除し、すべての事が不正がないよう取り計えと、門前への住居奨励を行っています。
 しかし、門前町への人々の移住は進まなかったようです。
頼重の時から約200年近く経った天保十四年(1843)に仏生山町の素麺業者が連名で提出した口上書の中に次のような記述があります。
 恐れ乍ら私共家業の義素麺仕り(中略)
右素麺職の義 御当山御建立の最初御門前町並家造り仰せ付けられ候得共、其の頃は今の町並の地 野原二而御座候ヲ新た二右の土地高下ヲ切りならし候迄二而今此の所ハ船着き候与申す二も之れ無く渡世仕るべき便り一向御座無く候二付き、当所江参る人一切之れ無く(下略)
  意訳すると
①法然寺造営が始まったころは今の町並はなくて野原であった
②土地の高低を切りくずして平らにした野原で、しかも船を着けるところもないため(荷物の運搬にも不自由で)商売をする方便もない
③法然寺へ参拝する人は、全くないといった状況だった。
 それを頼重がいろいろと考えて、次のような手を打ったと記します
御上様(頼重)二も御苦労二思召され 幸イ素麺所二遊ばされ度御目論見二而御山の鎮守ヲも三輪三嶋春日三社ヲ御勧請遊ばされ候与申すも是れ何れも素麺所の御門前繁昌の事ヲも思召され候由」
  然ル所当所素麺屋御座無く候二付き、御城下二罷り有り候素麺屋四五人引越し仰せ付けられ、右の者共ヲ頭取二成され、諸人江相勧メ難渋の者江ハ元手ヲも御貸し下され、其の上右素麺屋の義 御領分中御指し当り二相成り素麺ヲ家業二仕り候義 仏生山限り候旨仰せ付けられ候間、御城下ヲ始め近郷の諸人御門前二住居相望み候者共多く相成り、尚又、素麺粉の義 浅野村平池尻三冊水車御願い申し上げ候処、速々御免仰せ付けられ下され素麺粉右の車二而挽き立てさせ候二付き、至而弁利二相成り候間、益諸人思い付き宜しく、夫丿連年打ち続き土地繁昌仕り候(下略)
意訳すると。
①そこで頼重公が素麺業者を4,5軒寄せ集めた。
③さらに素麺所の神様、三輪三嶋春日の三社を勧請した
④さらには、資金不足の者には貸付援助もおこなった
素麺粉は浅野村の牛池尻で水車を利用する許可が下りて技術革新がすすんだ
⑥これを契機に
、素麺産業は繁盛するようになった
⑥その結果、次第に仏生山に住むことを望む者が増えた。
と、自分たち素麺業者が仏生山発展の原動力であったと主張しています。ここからは、仏生山の地域発展のために頼重が素麺産業の移住定着事業を行い、素麺にゆかりの深い三輪神社を勧進するなどの「地域振興策」や優遇策がとられたことがうかがえます。
 このような門前町への「移住奨励策」は金毘羅にも見られます。讃岐藩主となった仙石秀久は、門前に商人を集めるために税金をただにしたりして、町を賑わわせる政策をとっています。

この他にも、道路工事に関しても、頼重は次のような指示を出しています。
「町幅六間与仰せ付けられ候も、左右ノ弐間宛の目板ヲ出し、中弐間往来ヲ明け置き、人馬通し申すべきため」
ということで、門前町の大通りを作り時に、道幅六間の内左右から弐間ずつ目板を出して、残りの二間を人馬が通る往来としておくようにといった指示もなされています。これが、仏生山のその後の発展に大きく寄与することになります。
 法然寺を支える組織は?
 この寺の組織は、住職の方丈、その下に天台・真言・浄土宗などの各宗派から召し抱えた道心(ここまでが僧侶)が十二人いて、さらに用人・小姓・医師などで構成されております。これが「寺役人」です。しかし、寺だけでは経営が成り立たたないので、周りに商人などを置いて、経営が成り立つような仕組みを作っていくことになります。それが門前町が発達していく原動力になります。
 
仏生山6

 素麺業の成立は、17世紀後半の寛文・延宝年間のころのようです。その後、享保十二年(1728)ころに、今度は素麺業者が訴えられます。素麺業というのは、うどんと同じでかなりの水を必要します。そのため近くの平池から引いた水を使っていたようです。周囲の村々も、法然寺が朱印地ということや寺のもつ高い格式などからあまり抗議はしなかったようです。しかし、日照りの時にも遠慮せずに水を使うことに、周辺の百姓も我慢できなくなったようで、両者の問に争論が起こります。その争論に際して、素麺業者側から出されこの訴状が残っています。その中で素麺業者は
「我々は法然寺とともに発展した由緒正しいものであるから、水は勝手に使ってよい」
と主張しています。この時には、素麺業者の数は50軒と記されています。 半世紀ほどの間に、10倍に増えたことになります。この数は、幕末くらいまでほとんど変わっていません。門前町に賑わいをもたらす「重要産業」に育っていたようです。
高松 仏生山2
仏生山の「にぎわい創出事業」ひとつとして、松平頼重は涅槃会と彼岸会の時に芝居興業を許したようです。
その上演のために「芝居土地」と呼ばれる「除地(空地)」が設定されています この土地は、
①上町に南北四十八間、東側・西側とも奥行きが三十間ずつ
②中町に南北百十六間、東側・西側とも奥行きが三十間ずつ
との二か所あったようです。どちらもかなり大きなものです。しかし、この敷地全体に芝居小屋が建っていたのではないようです。幕末の弘化二年(1845)の「御用留」(片岡家文書)の中に芝居小屋の平面図があります。そこには「十八間に二十間」と書かれていますから、小屋掛けした舞台のみの面積で、客席は野外という感じだったようです。金毘羅の金丸座が出来る以前の公演方法と同じやり方のようです。
  芝居以外にも見世物興行も行われていたようです。
文政四年(1807)の見世物興行興業の様子については法然寺の「御開帳記録」(『香川県史 近世史料』収載)にも載せられています。そこには、
西横町で薬売り人形廻し、物まね、軽業で、小屋の大きさは五間と六間から十間で七十二間
と記されています。
 芝居小屋が常設的に作られて賑わいを増すのは文化・文政期以後のことのようです。ただ、幕末ころからは、秋祭りなどで檀尻芝居の興業が盛んに行われるようになります。これは、太平洋戦争前まで続いていました。

仏生山8
 仏生山法然寺門前に商店は何軒くらいあったのでしょうか?
 片岡家文書の中から拾い出した史料には、文政十年ころの時点で、
①法然寺に関係した役人の家が28軒
②素麺業者が五〇軒以上、
③薬屋が一軒
④米屋11軒
⑤木綿屋4軒
⑥太物関係四軒
⑦宿屋五軒
⑧筆・墨屋一軒
⑨酒屋一軒
⑩油屋一軒
で合計106軒になるようです。100軒を越える商店が軒を並べる門前町だったのが分かります。そこに何人暮らすんでいたのかは猪熊家文書「御寺領人別改指出帳」の寛政三年(1792)のものには、法然寺領の人口が合計で434人と記されています。
 法然寺門前は、町ですので単婚家族が多いく一家族の平均がだいたい4人と考えると、
人口434人÷世帯人数4人=約百世帯
という数値になります。これは、先ほどの史料に現れた店数にほぼ一致します。ここから200年前の19世紀前後のころの法然寺門前は、人口が400人以上で家屋は百軒程度のまちであったと研究者は考えているようです。
 松平頼重が法然寺を建立したときには、高松に続く新道が作られ、その周囲は野原や田んぼが続いていた所が、四・五軒の素麺業者を誘致することから始まって、百数十年後には百軒を越える町へと発展していたことになります。これは。自然発生的に起きたことではなく、政策として作り出した成果と云えます。

仏生山14
拡大・延長する門前町仏生山
 19世紀前半の天保三年の別所文書には
「檀笠三万花笠吊リ 仏生山町続き百相村之内桜之馬場出作村之内下モ及ブ」
と書かれています。ここからは仏生山の町続きである百相村の桜之馬場と出作村二つ仁生山の門前と同じように、花笠を吊るようになっていると記されます。つまり仏生山と一体化して同じ様な行事を行うようになっているのです。門前町が街道沿いに「点」から「線」と伸びていく様子が分かります。
さらに「附札」の所には、次のように記されています。
龍雲院様(松平頼重)仏生山御建立之節、百相村之内新開地仏生山江御寄附遊ばされ、当時仏生山町之場所に居宅等仕り候者者御年貢諸役等御免二仰せ付けられ候由、下モ町桜之馬場同様二仰せ付けられ哉之御模様二而」
意訳すると
①松平頼重が仏生山を建立したときに、百相村の新開地を仏生山に寄付した
②仏生山に居宅を構える者には年貢諸役の免除を行った
③以前はそうではなかったが、いつのまにか仏生山の町続きとして、百相村と出作村が仏生山同様に免除扱いをうけるようになった
 ここには「仏生山=年貢諸役免除」と「免税特区」にされたために、時代と共に周辺地域もそのエリアに入り特権を手に入れていく過程がうかがえます。つまり「周辺エリアの仏生山化」が税制においても起きていたようです。
このプロセスを法然寺の開帳という視点から見てみましょう。
別所家文書「文政六年御用留」の中には、次のようにありますす。
「此の度仏生山御開帳二付き、参詣人多く之れ有るべく候、就中他国よりも参詣人之れ有り、貴賤群集致すべく…」
ここからは他国からの参拝者を含めて、非常に大勢の人が集まってきている事がわかります。研究者は、文政六年(1826)という年に注目します。この年は例年より大きな催し物が前年から年を跨いで進められたようです。そのため金毘羅の方まで案内の立札(高札)が立てられ、大規模に行われたようです。
 高松城下の京浜で町年寄を勤めた鳥屋の「触帳」(難波家文書)の中には
「二万人から三万人の人々が開帳参詣に来るので、火の用心や盗賊などの用心をするように」
といった触れがあったと記されています。
 19世紀前半には、金毘羅大権現や善通寺などでも定期的に「ご開帳」が行われるようになり、何万人もの人々が参拝に訪れるようになります。つまり、寺社は大イヴェントの場になり、そのプロモターの役割も果たすようになるのです。そして、この開帳で集まった寄進の金品が寺社運営の重要財源となっていくのです。そのため、門前町にはイヴェント時だけに使われる空間や建物が準備されるようになります。その代表が小屋掛けの芝居小屋です。これが「イヴェントの恒常化」と共に、金毘羅に金丸座が登場するように、常設小屋へと発展していきます。「讃岐名所図絵」に描かれている仏生山は、そんな賑わいを見せるようになった幕末の姿のようです。
人々は何を求めてご開帳にやってきたのでしょうか
それは「信仰」のためでしょう。しかし、それだけとは、私には思えないのです。確かに法然寺の宝物の公開を許可する条目もあるので、参詣の人々が宝物を拝観し、その霊験にあやかることで病気平癒などを願ったことは間違いありません。
DSC01329
しかし、元禄時代の「金毘羅祭礼図屏風」の高松街道から参詣に来た人々の流れを見ていると、別のものも見えてきます。
①まず新町の鳥居をくぐり、
②さらにその先の金倉川に架かる鞘橋のたもとで沫浴をして精進潔斎

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③前夜は酒も飲まずに潔斎
④翌朝宿を出発して、仁王門のところからは裸足になって本殿まで登り参拝

そして参拝後は「精進落とし」なのです。宿で大宴会です。花街へ繰り出す人たちもいます。
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内町の背後の金山寺町には歌舞伎や人形浄瑠璃・見世物小屋が小屋を広げています。まさにエンターテイメントのオンパレードです。日頃は、体験できないことが見聞きできるアミューズメント施設でいっぱいです。神聖で禁欲的な参拝だけなら庶民がこれほど金比羅詣でを熱望したとは思えません。参拝後の精進落としを楽しみにやってきた人たちも多かったと私は思います。その意味で、 近世の門前というものは「癒し」の場であったと研究者は考えているようです。
 寺社の神域そのものが浄化の作用の場であり、その中で門前町は宿泊はもちろん、精進潔斎し、さらに「精進落とし」をするという機能を持っていたのです。もっとオーバーな言い方が許されるなら門前町全体で、輪廻転生、再生という循環機能を果たすシステムが出来上がっていたのかもしれません。
 ある意味、現代人が
「四国霊場巡りの後は、道後温泉に入って・・・」
と願うのと同じような行動パターンが形作られていたような気がします。
 こうして「信仰+精進落とし」という願望をかなえることが門前町や寺社に求められるようになります。その充実度を高め参拝客を呼び込むための「産地間競争」が繰り広げられるようになります。その要求に最もうまく応え続けたのが金毘羅さんであったと私は考えています。
参考文献     丸尾 寛  近世仏生山門前町の形成について

   

CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

明治維新の御一新のスローガンとともに、こんぴらさんに嵐をもたらした「神仏分離」政策。その結果、
金毘羅大権現は金刀比羅宮へ、
象頭山は琴平山へと名前を変え、
その姿も仏教伽藍から神社へと
姿を変えていきました。こうして、仏号であった金毘羅大権現はお山から「追放」されます。しかし、このような「宗教改革」に対して反発を感じている人たちも数多くいたようです。その中から従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きもあったようです。今回は琴平山(旧象頭山)と峰続きの大麻山の麓の大麻村での「金毘羅大権現」復活計画の動きを見てみましょう。
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  現在の琴平町榎井には長法寺というお寺があります。
このお寺は、鎌倉時代に善通寺の復興に活躍した宥範僧正が隠棲のために建立されたと伝えられ、もともとは丸亀市亀水町とまんのう町の境にある上池の南西にあったようです。広い伽藍を持っていたとされ、『仲多度郡史』には南門から現在の高篠小学校に至る県道が門前町であり、付近からときどき古瓦などを掘り出すと記されています。
 しかし、1579年 天正合戦で土佐から侵入してきた長宗我部元親軍と長尾氏の戦いで灰燼に帰したとされます。現在も、上池の池底には石碑が建っていて、碑面には(俗世)アビラウソナソの梵字が刻まれているようです。その後、榎井の地に再建されて現在地にあるようなのです。しかし、その寺伝には
「故ありて明治16年2月大麻村字上の村に移転し、同28年再び元の地に復せり」
という気になる記述があります。明治の時代に、12年間ほど隣村の大麻村に移動していたというのです。なぜでしょうか?
長法寺の金毘羅大権現復活の試み
 神仏分離に伴う狂信的な廃仏毀釈運動も熱が冷めてきた頃、象頭山の麓の榎井や大麻では、仏教徒を中心に金毘羅大権現の信仰を守り、かつての繁栄を回復しようとする動きが出てきます。そこには
「新たに生まれた金刀比羅宮は、本来の神である金毘羅大権現を追い出した後に、大国主命とし迎えた神社である。本来の金毘羅大権現を祀る仏式の宗教施設を自分たちの手で作りたい」
という願いがあったようです。
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 その中心となったのが長法寺の檀家の有力者達です。
彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考えます。そのためには、信仰対象となる金毘羅大権現像とそれを納める礼拝施設(お堂)が必要になります。こうして長法寺は、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。
  長法寺の檀家指導者達が、先ず取り組んだのが祈りの対象となる金毘羅大権現像を迎える事でした。当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても、各方面の許可が必用でした。そのため金毘羅大権現像の安置・勧進を求める長法寺と本山や県のやりとりをめぐる文書が残されています。それを見てみましょう。
   護法神勧請之義二付御願
当寺本堂二於テ金比羅童子 威徳経儀軌 併せて大宝積経等々煥乎仏説有之候 金毘羅神ヲ安置シ金毘羅大権現卜公称シ鎮護ヲ祈り 利済ヲ仰キ人法弘通之経路ヲ開キ申度蓋シ大宝積経三十六巻 金毘羅天授記品 及金毘羅童子威徳経 二名号利益明説顕著ナリ
今名号ノツ二ツヲ挙レバ 時金毘羅即以出義告其衆云云 
又曰時二金毘羅与其部徒云云 又曰金毘羅浄心云云 
其他増一阿含経大般若経大日経等之説所不少 
且ツ権現之儀モ義説多分ナレトモ差当り 金光明最勝王経第二世学金剛体権現 於化身云云如此説所分明ナル上ハ 仏家二於テ公称勧請仕候テ 毫モ異論無之儀卜奉存候 勿論去ル明治十五年一月四日附 貴所之布教課御告諭之次第モ有之 旁以テ御差悶無之候得ハ速二御免許被成下度此段奉伏願候也
 愛媛県讃岐国多度郡大麻村 長法寺 住職 三宅光厳印
   同県同国郡那珂郡琴平村  信徒総代塩谷太三郎印
   同郡榎井村檀徒総代    斎藤寅吉印
   同郡 同村檀徒総代    斎藤荒太郎印
 明治十八年一月十一日
 本宗管長 三条西乗禅殿
   明治十八年十月二十一日付で当時の長法寺住職の三宅光巌、信徒総代、増谷太三郎、檀徒総代、斎藤寅吉の連名で、本宗管長の三条西乗禅宛「護法神勧請之儀二付御願」と題する文書が提出されています。当時は香川県は愛媛県に併合されていたので「愛媛県讃岐国」となっています。さて内容は、
「金毘羅神を安置して金毘羅大権現と呼んで信仰活動を行いたい。それが人々を救い世の中を栄えさせることにつながる」として金毘羅神についての「神学問答」が展開されます。
そして、金毘羅大権現を仏教徒が勧進信仰しても、何ら問題はないと主張します。しかし、先年明治15年の神祇官布告もあるので、問題が生じた場合は直ちに停止するので、認めていただきたい。
という内容です。このあつかいについては、本寺との間に長い協議があったようです。本寺からの正式の回答は6年後の明治24年に出されています。ふたつの条件付で、真言宗法務所名で「護法善神」としての礼拝を許されます。二つの条件について見ておきましょう。
     内  諭
長法寺住職 三宅 栄厳
護法神金毘羅大権現勧請之義 御聞置相成候二付ハ左之条々ヲ遵守スベシ此段相達候事
           真言宗 法務所印
  明治廿四年一月廿六日
   第壱条
 金毘羅大権現者仏家勧請之護法神タリト雖モ 従前象頭山金毘羅大権現卜公称之神社アリシヨリ 目下金刀比羅神社卜同一ノ物体ナリト意得ノ信徒等有之候 テハ却テ護法神勧請ノ本旨二背馳シ
神仏混淆廃止ノ朝旨ニモ戻り 甚夕不都合二候 宝前二於いて法式ヲ執行シ信徒之為メニ祈祷等ヲナサント欲セハ必ス先本宗ノ経軌ニヨリテ事務シ 毫モ神社前二紛敷所為など供物等不相備様屹度可致事
  第貳条
本堂内二勧請之尊体ハ固ヨリ 経説ニヨリテ彫刻スベキハ勿論 萬一他二在来ノ尊体ヲ招請スル訳ナレバ授受ノ際 不都合無之様注意シ 尚地方廳エハ順序ヲ践テ出願シ 其許可ヲ得テ 該寺シ内務省ヘモ可届出筋二付 此旨相意得疎漏之取計方無之様可致候事 以上
第一条では、金毘羅大権現は仏教の「護法神」ではあるが、以前は金毘羅大権現を公称する神社もあったので、そこと混同されるおそれがある。そうなると「護法神」の本旨にも背き、また「神仏分離」という政府の政策にも背くことになる。そのために法式や祈祷を行うときには、神前と異なることにくれぐれも留意しておこなうこと
第二条では
尊体(金毘羅大権現像)を迎えるに当たっての注意で、什宝帳への記載や郡庁や県丁への出願手続きに遺漏がないように求めています。
 この時期に、長法寺は本山の推薦で新住職を迎えています。
 明治二十三年十月一日付で、新たな住職として兵庫県武庫郡良元村、西南寺住職、権大僧都、筧光雅を迎えます。「兼務」ですので、長法寺には常駐することはなかったようですが、トップが変わることで体制づくりは進んだようです。そして、新住職の就任を祝うかのように本山から金毘羅大権現像が長法寺に寄付されます。
   寄 附 状 (写)
讃岐国多度郡麻野村 長 法 寺
 金毘羅大権現   木像 壱躯
  右令寄附畢
 明治廿四年三月十日
       大本山仁和寺門跡
       大僧正 別處 栄厳
  こうして待ちに待った金毘羅大権現さまが寺にやってきたのです。しかし、当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても許可が必用でした。そこで檀徒惣代、安部長太郎と連名で麻野村長、渋谷丑太郎の副申を添え、香川県知事、谷森真男宛に兼務住職届と、同時に金毘羅大権現木像の什物帳編入願いが提出されます。  
御管内多度郡麻野村大字大麻長法寺儀 
別紙願面三通 金毘羅大権現木像壱躯 什物帳へ編入之義 
出願事実相違無之候
条右御聴許相成度此段副伸候也
    京都葛野郡花園村御室
     仁和寺門跡大僧正別處栄厳代
      権少僧正 鏝  瓊 憧
 明治廿四年五月十六日
香川県知事 谷森 真男 殿
これには仁和寺門跡、真言宗長者の副中と麻野村長渋谷丑太郎の次の添書が付けられていました。
御管下多度郡麻野村大字大麻長法寺 
明細帳へ金毘羅大権現木像壱体編入之儀 
別紙願出之通事実相違無之候条副申候也
  明治廿四年五月十九日
      真言宗長者  大僧正 原  心猛印
 香川県知事 谷森 真男殿
   しかし、県はこれを認めませんでした。
 そこで、翌年に、住職筧光雅は不在なので代理人の吉祥寺(高篠村)住職三輪慈長と外檀信徒惣代六名の連署を付けて、再度、金毘羅大権現像の什物編入を願い出ます。
今度は副中書(別掲)に詳しく補足説明を付けています。しかし、これも県は却下します。
 そこで、長法寺は次の手立てとして「仏体寄附ヲ受ケタル届書進達之義二付具申書」を那珂多度郡長高島光太郎に提出して、この一件についての理解と、とりなしを請願します。
 郡長高島光太郎が、出願に当たっての今までの不備を指摘、指導を加えた文書が残っています。こうして、明治二十五年七月三十日付文書は、郡長の指導を受けて作成したもので、三度目の県知事宛の願書を提出します。様式などに問題が無かったので、県も受けいれざる得なかったのでしょう。この結果、九月二十日付で、金毘羅大権現木像外四躯の仏像が宝物古器物古文書目録への編入を許されました。
 しかし、金毘羅大権現勧請については許可が下りませんでした。そればかりか、今までは許されていた明細帳に載せられた本尊以外の仏像の勧請や信者の参拝についても、その都度の許可が必用とされるようになります。これは常識的には考えられません。お寺にある仏像を拝むのに、いちいちその都度許可を求める内容です。
県が頑なに金毘羅大権現の復活を拒む理由は何だったのでしょうか?
大国主命を祭神として祀る金刀比羅宮としてリニューアルされた金刀比羅宮にとっては、足元の大麻村に金毘羅大権現が復活する事は、面白い事ではなかったはずです。
そして、金刀比羅宮の禰宜を勤めていたのは、以前に紹介した松岡調です。彼は明治維新期の讃岐の神仏分離政策を担った神道家であり研究者でもありました。彼が当時の香川県の宗教政策に影響力を持っていたことは、延喜式神社の指定選考過程にも見られます。
  また、当時の神道の教学・指導の宗教行政の中心は金刀比羅宮の中にありました。境内にあり廃寺となった3つの脇坊の建物が利用されていたのです。これらの神道組織を指導するのも松岡調の仕事の一つでした。つまり、当時の彼は県の宗教行政に大きな影響力を行使できるポストにあったのです。
 度重なる長法寺の金毘羅大権現像をめぐる動きに、県が許可を下ろそうとしなかったのは、松岡調の意向に「忖度」してのことだったのかもしれません。

 しかし長法寺は諦めません。
明治二十八年二月十四日に「金毘羅大権現木像勧請之義二付御願」なる書面を県に提出します。しかし、これも新任の小畑知事と、その側近によって一蹴されます。
  そこで長法寺は戦略を転換します。県を相手にするのではなく、国を相手にしたのです。
明治二十九年五月十四日、長法寺は「本堂建築願」を内務大臣板垣退宛てに提出します。ここにはかねてからの目論見である鎮守堂(護法善神としての金毘羅大権現堂)を中心とした千六百坪に及ぶ境内に本堂、書院、庫裏等の配置伽藍建設案が示されており、仏教中心のこんぴら信仰の復活を目指そうとするものでした。

長法寺の新伽藍工事始まるが・・・・
 そして、この願いは明治政府によって認められるのです。長法寺は、香川県の敷いた障害を越えたかのように思えました。関係者の喜びは大きかったでしょう。
 ところが建立工事が始まると、勧進資金が思うように集まりません。そのため資金不足で新伽藍建設は思うように進まなかったようです。その上に、台風が襲いかかり、建設途中の建物は大きな被害を受けました。こうして新伽藍の工事は中断したままで、工事資金をめぐる勧進の進め方についても信徒間での意見が対立するようになります。長い対立の後に、明治39年になって建設断念派が推す住職が就任し、お寺を元の榎井村にもどして新築する次の申請が県に出されます
  長法寺移転二付境内建物明細書
   寺院移転ノ儀二付願
 香川県仲多度郡善通寺町大字大麻
   真言宗御室派 長 法 寺
右寺儀今般檀徒及ビ信徒ノ希望二依り旧寺地ナル 仝那榎井村参蔭参拾番地へ移転致度候
条御許可被成下度 別紙明細書及図面相添へ此段上願仕候也
    右寺法類
     龍松寺住職 長谷 最禅
     圓光寺住職 出羽 興道
こうして金毘羅大権現信仰復活の拠点として、建設が目指された長法寺の新伽藍計画は、あっけなく幕を閉じることになります。
いままでのことを、最後にまとめておきましょう
I 金毘羅さんは金毘羅大権現と呼ばれ「寺院」として信仰されてきた。ところが明治政府の神道国教化の有力拠点としての思惑から仏教的な金毘羅大権現は追放され、代わって大国主命を祭神とする金刀比羅宮に生まれ変わった。
2 これに対して、金毘羅大権現の復活をはかる動きが地元で起きたが、県の「妨害・阻止」もあり、スムーズには新伽藍の建設は進まなかった。
3 神仏分離から30年近くたって新伽藍の建設工事の許可が下りたが、時流は金刀比羅宮に流れ、金毘羅大権現の伽藍建設を支援する募金活動は広がらずに、資金不足で中断に追い込まれた。
4 そして、長法寺はもとの榎井の地に新伽藍を小規模で建立し、現在に至っている。

ここから分かることは金毘羅大権現から金刀比羅宮への素早い「変身」ぶりに反感を覚え、古い形のこんぴら信仰を残そうとする動きが地元にあったということは、記録に留めて置くべき事のように私は思います
 
参考史料 榎井の長法寺について ことひら 昭和63年所収

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