瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近世史 > 近世讃岐の寺院

前回に続いて、今年の春に刊行されたばかりの「八栗寺調査報告書」を見ていきます。今回は、江戸時代の四国遍路の挿絵から八栗寺の伽藍の推移を見ていくことにします。
1 『四国編礼霊場記」(元禄2年(1689) 八栗寺図より

八栗寺 『四国編礼霊場記」(元禄2年(1689)

①五剣山を見ると、5つの峯が全部描かれています。このうち宝永地震で、一番左側の峯が崩落してしまうので、それ以前の五の峰が揃った姿ということになります。この峯々に何が祭られていたかを本文には次のように記します。

「中峰の峙つ三十余丈、是に蔵王権現を鎮祠し、北に弁才天、南ハ天照太神なり」

 一番高い中央の峰の頂上部に「蔵王」と記された祠が描かれていて、ここに蔵王権現が祀られています。ここからはこの地が修験者たちによって開かれた霊山であったことが分かります。
 また「是に七所の仙窟あり」とあり、山中には「聞持窟」「明星穴」「護摩窟」など、修験のための窟が描かれています。以前にも、お話ししたように古代の山林修行者が行場にやって来て、まずやらなければならないのは、雨風を凌ぐ生活空間を確保することでした。整備された寺院やお堂は、後になって形を見せるもので、古代にはそんなものはありません。空海も太龍山や室戸で窟籠もりを行っています。そして、洞窟は異界に通じる通路ともされていたことは以前にお話ししました。
「丈六の大日如来を大師 岩面に彫付給へり」
「中区に大師求聞持を修し給ふ窟あり、是を奥院と号す、寺よりのぼる事四町ばかり也、此窟中 大師御影を置」
意訳変換しておくと 
「丈六の大日如来を弘法大師は、岩面に彫付けた。」
「中央に大師が虚空蔵求聞持法を修した窟がある。これを奥院と呼ぶ。寺より登ること四町ばかりである。この窟中に、弘法大師の御影がある。」
蔵王堂直下には、空海が岩に掘ったという丈六の大日如来が大きく描かれています。
大日如来(八栗寺の行場)
また、その下には「聞持窟」があり、空海がここで虚空蔵求聞持法を行ったされ、窟中には弘法大師の御影が置かれていたと記されてます。弘法大師伝説が、この時代までには定着していたことが分かります。
 さらにその下の中央部に「観音堂」が南面して建ちます。
「大師千手観音を刻彫して―堂を建て安置し玉ひ、千手院とふ」
「本堂の傍の岩洞に不動明王の石像あり、大師作り玉ひて、此にて護摩を修し玉ふと也、窟中一丈四方に切ぬき、三方に九重の塔五輪など数多切付たり」
意訳変換しておくと
「弘法大師が千手観音を刻彫して、安置した一堂を千手院と云う」
「本堂の傍の岩洞には不動明王の石像がある。これも大師の作で、ここで護摩祈祷を行ったという。窟の中は一丈四方を刳り抜いたもので、三方に五輪塔が多数掘られている。
ここでは、もともとは千手観音が本尊だったことを押さえておきます。ちなみに今は聖観音です。
絵図には現在の聖天堂・護摩堂付近の場所に、簡易な建物が描かれていて、「護摩窟」と記されています。
八栗寺線刻五輪塔
線刻五輪塔(八栗寺)
ここで護摩祈祷が行われ、その周囲の壁には、多くの五輪塔が掘られていたようです。中世の弥谷寺でも、数多くの五輪塔が祖先供養のために掘られていました。ここからは中世の八栗寺にも多くの念仏聖や修験者たちがいて、祖先供養を行い、周辺の有力者の信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。また、「中世石造物の影には、修験者や聖あり」と言われるので、八栗寺も彼らの拠点寺院となっていたのでしょう。
 観音堂の下方には、現在と違った場所に鐘楼が描かれています。さらに絵図下方には「千手院」と記された建物が描かれています。千手院が周辺の子院のまとめ役として機能していたのでしょう。
次に「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800)の八栗寺を見ていくことにします。
八栗寺1800年

寛成年間に描かれた絵図なので、宝永地震で崩落した五峯がなくなって、四つの峰となった五剣山です。絵図下方に二天門があり、そこから正面に向かって五剣山を背に西面した本堂(観音堂)が描かれています。「本堂本尊聖観音御長五尺大師御作」とあるので、それまでの千手観音像から聖観音像へと変更されたようです。

八栗寺本尊聖観音2
八栗寺本尊 聖観音
 本堂の下方には、「聖天社」と記された聖天堂が南面して建ちます。
その屋根の上方には岩壁に刻まれた五輪塔が2基見えます。また聖天堂の下方の現在の通夜堂の場所、二天門の右上現在の茶堂の場所に、それぞれに建物が描かれています。通夜堂の場所にある建物については築地塀を挟んで二つの建物が並んで描かれています。また本文には「大師堂あり」と記されていますが、絵図中には描かれていないようです。鐘楼は「四国術礼霊場記」に描かれた場所と、変わりないようです。
この絵図と先ほど見た『四国編礼霊場記」(1689)を比較して見ると次のような変化点が見えてきます。
①五剣山の行場に関する情報が描かれなくなった。行場から札所への転換
②聖天堂が姿を現し、新たな信仰対象となっている 

『讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854)を見ていくことにします。
八栗寺 『讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854)

ここには江戸後期の八栗寺境内が描かれており、二天門、通夜堂、聖天堂、本堂、鐘楼は「四国遍礼名所図会」と同じ場所にあります。
①茶堂に隣接した後の御供所の場所に建物が描かれている
②本堂より南方の開けた場所には、石垣の上に大師堂
③石垣の手前、現在の地蔵堂の場所に小さいな建物
④大師堂の右手には大規模な客殿・庫裏の建物群
⑤聖天堂と本堂の間の岩壁には五輪塔が数基刻まれている
⑥境内に至る参道のひとつは、絵図左下、二天門に至る「七曲」と記された稜線を幾重にも折れ曲がった急峻な坂道
⑦もう一つは、大師堂と客殿・庫裡の間に至る「寺道」と記された谷筋沿いの道
ここからは、18世紀中に庫裡などの整備が進み、伽藍が大型化したことが見て取れます。信者たちの数を着実に増やしたのでしょう。

「讃岐国霊場85番札所 五剣山八栗寺之図」(19世紀中頃)を見ていくことにします。

五剣山八栗寺之図」(19世紀中頃)より

八栗寺所蔵の摺物で、年紀はありませんが建物の様子などから幕末期に作成されたものと研究者は考えています。『讃岐国名勝図会」の境内図との相違点としては、次のような点が挙げられます。
①鐘楼の位置が本堂と同じ石垣の上に移動
②「七曲」の参道から境内に至る道沿いに「七間茶や」と記された7軒の茶屋が描かれている
③聖天堂上方、五剣山麓に「中尉坊社」と記された堂が描かれている

「真言宗五剣山八栗寺之景」明治36年(1903)を見ていくことにします。
「四国八十五番霊場 真言宗五剣山八栗寺之景」明治36年(1903)

明治後期の八栗寺境内が詳細に描かれています。研究者は次のような点を指摘します。
①建物の位置は、現在とほぼ同じ。八栗寺は120年前から伽藍配置は変化していない
②絵図中の建物名称が、聖天堂が「歓喜天」、茶堂が「茶所」、二天門が「二王門」と現在と異なること
③五剣山の山頂付近に「蔵王権現」と記された祠が描かれているが、「四国偏礼霊場記」で描かれた峰とは違った峰になっていること
④「七曲道」から境内に至る参道沿いには旅館が描かれていて、「讃岐国霊場八十五番札所五剣山八栗寺之図」では7軒の平屋の茶屋であったのが、4軒の旅館(内2軒が2階建て)になっていること
⑤絵図右方には庫裡・客殿の建物群が詳細に描かれいて、その内に御成門がある。
八栗寺00

参考文献
芳澤直起 八栗寺の境内 八栗寺調査報告書(2024年)
関連記事

中世の志度道場は、修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼などの一大根拠地であった。

水戸黄門のお兄さんに当たる松平頼重が初代髙松城主としてやって来るのが1640年のことです。彼は、幼少期には水戸藩の嫡男として認められずに京都の寺院に預けられて、そこで成長します。僧侶としての知識と世界観と人脈をもっていた人物でした。そのため次のような興正寺と姻戚関係を持っていまし。

松平頼重の真宗興正派保護の背景

これ以外にも髙松藩と興正寺の間には、家老などの重臣との間にも幾重にも婚姻関係が結ばれて、非常に緊密な関係にあったようです。そのことをもって、松平頼重の興正寺保護の要因とする説もありますが、私はそれだけではなかったと考えています。政治的な意図があったと思うのです。
宗教政策をめぐる松平頼重の腹の中をのぞいてみましょう。
大きな勢力をもつ寺社は、藩政の抵抗勢力になる可能性がある。それを未然に防ぐためには、藩に友好的な宗教勢力を育てて、抑止力にしたい。それが紛争やいざこざを未然に防ぐ賢いやりかただ。それでは讃岐の場合はどうか? 抵抗勢力になる可能性があるのは、どこにあるのか? それに対抗させるために保護支援すべき寺社は、どこか?
 東讃では、髙松城下では? 中讃では?

もっとも手強いのは真言宗のようだ。その核になる可能性があるのは善通寺だ。他藩にあるが髙松藩にとっては潜在的な脅威だ。そのためには、善通寺包囲網を構築しておくのが無難だ。さてどうするか?

松平頼重の宗教政策

このような宗教政策の一環として、真宗興正派の保護が行われたと私は考えています。血縁でつながり信頼の置ける協力的な興正派の寺院を増やすことは、政治的な安定につながります。その方策を見ておきましょう。
まずは高松御坊を再興して真宗興正派の拠点とすることです。
御坊が三木から高松に帰ってくるのは、1589(天正17年)のことです。讃岐藩主となった生駒親正は、野原を高松と改め城下町整備に取りかかります。そのためにとられた措置が、有力寺院を城下に集めて城下町機能を高めることでした。その一環として高松御坊も香東郡の楠川河口部東側の地を寺領として与えられ、坊が三木から移ってきます。親正は寺領の寄進状に、この楠川沿いの坊のことを「楠川御坊」と記しています(「興正寺文書」)。ここにいう楠川はいまの御坊川のことだと研究者は考えています。そうだとすれば楠川御坊のあったのは、現在の高松市松島町で、もとの松島の地になります。
さらに1614(慶長19)年になって、坊は楠川沿いから高松城下へと移ります。

髙松屏風図 高松御坊
髙松屏風図絵

髙松城屏風図とよばれている4枚の屏風図です。水戸からやってきた松平頼重やそのブレーンは、この屏風図を見ながら城下町の改造計画を練ったのかもしれません。現在の市役所がある西寺町から東寺町にかけて東西にお寺ぶエリアが置かれていました。これは高松城の南の防衛ラインの役割を果たし、緊急事態の折には各侍達はどこの寺に集合するのかも決められていたと云います。

高松御坊3
讃岐国名勝図会(1854年)に描かれた高松御坊(勝法寺)
 幕末の讃岐国名勝図会には、東寺町(現在の御坊町)に高松御坊が描かれています。前の通りが現在のフェリー通りで、その門前に奈良から連れてきた3つの子院が並び、東側には真言の無量寿院の境内が見えます。寺町の通りを歩けば、建物を見るだけで真宗興正派の勢力が分かります。
 高松御坊は、水戸から松平頼重がやってきたときにはここにあったようです。頼重は、その坊舎を修繕し、150石を寄進して財政基盤を整えます。その際に創建されたのが奈良から移された勝法寺です。
そして高松御坊・興正寺代僧勝法寺として、京都興正寺派の触係寺とします。勝法寺は、京都の興正寺直属のお寺として高松御坊と一体的に運営されることになります。そして勝法寺を真宗の触頭寺とします。
興正寺末寺
高松藩の興正派末寺(御領分中寺々由来書)
「代僧勝法寺」が本末一覧表のトップに位置する。

このように勝法寺は髙松藩における真宗興正派の拠点寺院として創建(移転)されたのです。そのため興正寺直属で、京都からやってきた僧侶が管理にあったりました。しかし、問題が残ります。勝法寺は、讃岐に根付いた寺院ではなく、末寺もなく人脈もなく政治力もありません。そのためいろいろと問題が起こったようです。そこで松平頼重が補佐として、後から後見役としてつけたのが常光寺と安養寺でした。そのうちの安養寺は、それまでの河内原からこの地に移されます。後から移されたので、建設用地がなくて堀の外側にあります。こうして高松御坊と一体の勝法寺、それを後見する安養寺と、3つの子院という体制ができあがったのです。御坊町はこうして、真宗興正派の文教センターとなっていきます。
高松興正寺別院
現在の高松御坊(高松市御坊町)


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事


安楽寺の拠点寺院

前回までに阿波安楽寺の讃岐への教線拡大の拠点寺院となった3つの寺院を見てきました。中本寺としての安楽寺があり、三豊への布教拠点となった寶光寺、丸亀平野への布教拠点となったのが長善寺ということになります。今回は髙松平野の拠点となった安養寺見ておきましょう。

安養寺縁起3


 髙松藩に提出された由来を見ておきましょう。
意訳変換しておくと

安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、何代か後に河内原に道場を移転し、文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。


安養寺縁起5


①設立年代については、これを裏付ける史料がないのでそのまま信じることはできません。道場を開いたのは安楽寺からやってきた僧侶とされています。②「道場の場所は最初が安原村の東谷 その後、川内原に移転」とあります。いくつかの道場がまとめられ、惣道場となり、それが寺になっていくという過程がここでも見えます。地図で位置とルートを確認しておきます。安楽寺の真北が高松です。ここでも峠を越えてやってきたその途上に開かれた道場が末寺に成長して、里に下りていく過程がうかがえます。

③寺号許可は1595年とします。安養寺に下付された木仏が龍谷大学の真宗研究室にはあることが千葉氏の論文の中には紹介されています。木仏には1604年の年紀がはいっているようです。ここからは安養寺の寺号許可は17世紀初頭であることが分かります。本願寺が東西に分かれて、末寺争奪を繰り広げる時期です。この時期に、寺号を得た道場が多いようです。安養寺という重要な役割を果たした寺院でも寺号の獲得は、17世紀になってからだったことを押さえておきます。

安養寺末寺の木仏下付
本願寺の木仏下付日
安養寺の末寺リストを見ておきましょう。
寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
安養寺末寺リスト3

 安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)

安養寺末寺リスト2

ここからは次のような事がうかがえます。
①香川・山田郡の髙松平野を中心に、東の寒川方面にも伸びています。②注意しておきたいのは西には伸びていません。丸亀平野への教線拡大は、常光寺や安楽寺と棲み分け協定があったことがうかがえます。③一番最後を見ると天保4(1833)年3月の日付です。これは最初に見た常光寺の一覧表と同じ年なので、同時期に藩に提出されたもののようです。
ここには、髙松平野を中心に19寺が末寺として記されていますが、その多くがすでに離末しています。安養寺は安楽寺の末寺ながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院に成長していたことが分かります。まさに髙松平野方面への教線拡大の拠点センターであったようです。安養寺が髙松方面に教線を拡大できたのは、どうしてなのでしょうか。それには、次の二人の保護があったと私は考えています。

三好長慶と十河一存

真宗興正派を保護したのが、この兄弟がす。ふたりは姓は違いますが実の兄弟です。一人が三好長慶で、もうひとりが讃岐の十河家を継いだ十河一存(かずまさ)。この二人を見ていくことにします。

三好長慶と十河氏

美馬安楽寺に免許状を与え讃岐への教線拡大を保護したのは三好長慶でした。三好長慶は、天下人として畿内で活躍します。一方、弟たちは上図のように、阿波を実休、淡路を冬康・讃岐を十河一存が押さえます。そして、兄長慶の畿内平定を助けます。長慶が天下人になれたのも、弟たちの支援を受けることができたのが要因のひとつです。その末弟一存(かずまさ)は、讃岐の十河家を継ぎ、十河氏を名乗ります。十河氏は三好氏の東讃侵攻の拠点になります。また、三好・十河氏は、共通の敵である信長に対抗するために本願寺と同盟関係を結びます。「敵の敵は味方」というのは戦略のセオリーです。こうして安楽寺は三好一族の保護を得て、各地に道場を開いて教線を伸ばしていきます。それを史料で見ておきましょう。

十河氏の高松御坊への免許状

十河一存の後継者となった存保(実休の息子)が真宗興正派の高松御坊の僧侶達に出した認可状です。①の野原郷の潟(港)というのは、現在の高松城周辺にあった湊です。②高松にあった寺内町と坊を三木町の池戸(大学病院のあたり)の四覚寺原に再興することを認める。③ついては課税などを免除するという内容です。「寺内」となっているので、寺だけでなく信徒集団も含めた居住エリアがあったことがうかがえます。地図で見ると池戸の四覚寺原とは、現在の木田郡三木町井上の始覚寺周辺です。高松御坊が、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。それを十河氏が保護しています。ここで注目したいのは、新たに寺内町が作られることになった位置とその周辺です。近くには十河氏の居城十河城があります。そして、東には常光寺があります。ここからは常光寺や高松御坊が十河氏の庇護下にあったことがうかがえます。十河氏の保護を受けて常光寺や安養寺は髙松平野や東讃に教線ラインを伸ばしていたことがうかがえます。この免許状が出されたのは1583年で、秀吉の四国平定直前のことになります。三好長慶は、阿波の安楽寺に免許状をあたえ、十河存保は高松御坊に免許状をあたえています。
今までお話ししたことを、高松地区の政治情勢と絡ませて押さえておきます。

16世紀の髙松平野の情勢


①1520年の財田亡命帰還の際の三好氏の免許状で、安楽寺は布教の自由を得た。しかし、吉野川より南は、真言密教系修験者の勢力が強く、真宗興正派の布教は困難だった。

②そのような中で三好氏の讃岐侵攻が本格化する。香西氏など東讃武士団は、三好氏配下に組み入れられ上洛し、阿波細川氏の主力として活動するようになる。

③そこで堺で本願寺と接触、真宗門徒になり菩提寺を建立するものも出てきた。

④彼らに対して、本願寺は讃岐の真宗布教の自由を依頼。

⑤こうして、本願寺や真宗興正派は髙松平野での布教活動が本格化し、数多くの道場が姿を見せるようになる。それは16世紀半ばのことで、その拠点となったのが安養寺や常光寺である。

こうして、生駒氏がやってくるころには、讃岐には安楽寺・安養寺・常光寺によって、真宗興正派の教線がのびていました。それらの道場が惣道場から寺号を得て寺に成長して行きます。それを支えたのが髙松藩の初代藩主松平頼重という話になると私は考えています。今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事


真宗興正派の研修会でお話しした内容の3回目です。今回は、美馬・安楽寺の丸亀平野への教線ルートを見ていきたいと思います。最初に安楽寺の丸亀平野の末寺を挙げておきます。

安楽寺末寺 丸亀平野

これをグーグル地図に落とすと次のようになります。

安楽寺末寺分布図 丸亀平野

黄色いポイントが初回に見た三木の常光寺の末寺です。緑ポイントが安楽寺の末寺になります。右隅が勝浦の常光寺です。そこから土器川沿いに下っていくと、長尾氏の居城であった城山周囲のまんのう町・長尾・長炭や丸亀市の岡田・栗熊に末寺が分布します。これらの寺は建立由来を長尾氏の子孫によるものとする所が多いのが特徴です。
 また、土器川左岸では垂水に浄楽寺があります。

垂水の浄楽寺

ここには垂水の浄楽寺は、武士の居館跡へ、塩入にあった寺が移転し再建されたと伝えられます。これは垂水の檀家衆の誘致に応えてのことでしょう。ここからも山にあった真宗興正派の寺が里へ下りてくる動きがうかがえます。別の言葉で言うと、山にあるお寺の方が開基が古く、里にあるお寺の方が新しいといえるようです。

尊光寺・長善寺の木仏付与
 
讃岐の真宗寺院で本願寺から木仏が付与されているのは寛永18(1641)年前後が最も多いようです。その中で、安楽寺末寺で木仏付与が早いのが上の4ケ寺になります。この4ヶ寺を見ておくことにします。
安楽寺の丸亀平野の拠点は、勝浦の長善寺であったと私は考えています。

イメージ 2
かつての長善寺(まんのう町勝浦)
  「琴南町誌」は、長善寺について次のように記します。
 勝浦本村の中央に、白塀を巡らした総茅葺の風格のある御堂を持つ長善寺がある。この寺は、中世から多くの土地を所有していたようである。勝浦地区の水田には、野田小屋や勝浦に横井を道って水を引いていたが、そのころから野田小星川の横井を寺横井と呼び、勝浦川横井を酒屋(佐野家)松井と呼んでいる。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有していた。

 長善寺は浄土真宗の名刹として、勝浦はもちろん阿波を含めた近郷近在に多くの門信徒を持ち庶民の信仰の中心となった。昭和の初期までは「永代経」や、「報恩講」の法要には多勢の參拝借があり、植木市や露天の出店などでにぎわい、また「のぞき芝居」などもあって門前市をなす盛況であったという。

DSC00797
旧長善寺の鐘楼(鉦の代わりに石が吊されていた)
大川山に登るときには、よくこの寺を訪ねて縁側で、奥さんからいろいろな話を聞かせてもらったことを思い出します。檀家が阿波と讃岐で千軒近いこと、旧本堂は惣ケヤキ造りで、各ソラの集落の檀家から持ち寄られた檜材が使われたこと。阿波にも檀家が多いというのは、阿波にあった道場もふくめて、勝浦に惣道場ができ、寺号を得て寺院となっていたことが考えられます。


DSC00879現在の長楽寺
現在の長善寺(旧勝浦小学校跡)
次に長炭の尊光寺の由来を見ておきましょう。
DSC02132
尊光寺(まんのう町種子)

尊光寺中興開基玄正
上の史料整理すると
尊光寺中興開基玄正2

ここで確認しておきたいことは、安楽寺からやって来た僧侶によって開かれた寺というのはあまりないことです。開基者は、武士から帰農した長尾氏出身者というのが多いようです。

寛永21(1644)年の鵜足郡の「坂本郷切支丹御改帳」(香川県史 資料編第10巻 近世史料Ⅱ)には、宗門改めに参加した坂本郷の28ヶ寺が記されています。その中の24ケ寺は、真宗寺院です。これを分類すると寺号14、坊号9、看房名1になります。坊号9の中から丸亀藩領の2坊を除いた残り七坊と看坊一は次の通りです。
A 仲郡たるミ(垂水)村 明雪坊
B 宇足郡岡田村  乗正坊
C 南条郡羽床村   乗円坊
D 南条郡羽床村   弐刀
E 北条郡坂出村   源用坊
F 宇足郡岡田村   了正坊
G 那珂郡たるミ(垂水)村 西坊
H 宇足部長尾村   源勝坊

岡田村(綾歌町岡田)にはB乗正坊と、F了正房が記されています。
岡田の慈光寺
        琴電岡田駅北側に並ぶ慈光寺と西覚寺
現在、グーグル地図には岡田駅北側には、ふたつの寺が並んでいます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、岡田村正覚寺・慈光寺と記され阿州安楽寺末で、「由来書」にはそれぞれ僧宗円・僧玉泉の開基とあるだけで、以前の坊名は分かりません。讃岐国名勝図会の説明も同じです。しかし、慈光寺については、寛永18(1641)年に、まんのう町勝浦の長善寺と同じ時期に木仏が付与され寺号を得ています。坂本郷の宗門改めが行われたのは、寛永21(1644)のことです。この時には慈光寺は寺格を持った寺院として参加しています。つまり慈光寺以外にB乗正坊と、F了正房があったということです。ふたつの坊が、統合され西覚寺になったことが推測できますが、あくまで推測で確かなものではありません。

西本願寺本末関係
西本願寺の末寺(御領分中寺々由来)
羽床村にもC来円坊、Dの弐刀のふたつの坊が記されています。
ところが「國中諸寺拍」には、西本願寺末の浄覚寺(上図7)しか記されていません。「由来書」では天正年に中式部卿が開基したとされていますが、「寺之證拠」の記事はないようです。ここからはC来円坊とD弐刀という二つの念仏道場が合併して、惣道場となり、浄覚寺を名来るようになったことが推察できます。
この時期の真宗の教線拡大について、私は次のように考えています。
中世の布教シーン
 
世の村です。前面に武士の棟梁の居館が描かれています。秋の取り入れで、いろいろな貢納品が運び込まれています。それを一つずつ領主が目録を見て、チェックしています。武士の舘は堀や柵に囲まれ、物見櫓もあって要塞化されています。堀の外の馬に乗った巡回の武士に、従者が何か報告しています。
「あいつら今日もやってきていますぜ」
指さす方を見ると、大きな農家に大勢の人達が集まっています。拡大して見ましょう

中世の布教シーン2

後に大きな寺院が見えます。その前の家の庭に人々が集まっています。その真ん中にいるのは念仏聖(僧侶)です。聖は、定期市の立つ日に、この家にやって来て説法を行います。それだけでなく、お勤めの終わった後の常会では、病気や怪我の治療から、農作物や農学、さらにさまざまなアドバイを夜が更けるまで与えます。こうして村人の信頼を得ていきます。この家の床の間に、六寺名号が掲げられると、道場になります。主人は毛坊主になり、その息子は正式に得度して僧侶になり、寺院に発展していくという話になります。

蓮如の布教戦略を見ておきましょう。
蓮如は、まず念仏を弾圧する地頭・名主にも弥陀の本願をききわけるよう働きかけてやるべきだとします。そして
、村の坊主と年老と長の3人を、まず浄上真宗の信者にひきいれることを次のように指示しています。


「此三人サヘ在所々々ニシテ仏法二本付キ候ハヽ、余ノスヱノ人ハミナ法義ニナリ、仏法繁昌テアラウスルヨ」


意訳変換しておくと

各在所の中で、この三人をこちら側につければ、残りの末の人々はなびいてくるのが法義である。仏法繁昌のために引き入れよ


 村の政治・宗教の指導者を信者にし、ついで一般農民へひろく浸透させようという布教戦略です。
蓮如がこうした伝道方策をたてた背景には、室町時代後期の村々で起こっていた社会情況があります。親鸞の活躍した鎌倉時代の関東農村にくらべ、蓮如活躍の舞台となった室町後期の近畿・東海・北陸は、先進地帯農村でした。そこでは名主を中心に惣村が現れ、自治化運動が高揚します。このような民衆運動のうねりの中で、打ち出されたのが先ほどの蓮如の方針です。彼の戦略は見事に的中します。真宗の教線は、農村社会に伸張し、社会運動となります。惣村の指導者である長百姓をまず門徒とし、ついで一般の農民を信者にしていきます。その方向は「地縁的共同体=真宗門徒集団」の一体化です。そんな動きがの中で村々に登場するのが毛坊主のようです。

   岐阜県大野郡の旧清見村では、次のような蓮如の伝道方策が実行されます。

①まず村の長百姓を真宗門徒に改宗させ

②蓮如から六字名号(後には絵像本尊)を下付され

③それを自分の家の一室の床の間にかけ、

④香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の設備を整える。

⑤これを内道場または家道場という

⑥ここで長百姓が勧誘した村人たちと共に、念仏集会を開く。

⑦長百姓は毛坊主として集会の宗教儀礼を主宰する。

⑧村人の真宗信者が多くなると、長百姓の一室をあてた礼拝施設は手狭となる。

⑨そこで一戸建の道場が、村人たちの手によって造られる。これを惣道場と称する。

⑩この惣道場でも長百姓は毛坊主として各種の行事をリードする。

この長百姓の役割を果たしたのが、帰農した長尾氏の一族達ではなかったのかと私は考えています。
 長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。そのためか讃岐の大名としてやってきた生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、息子孫七郎も尊光寺に入ったようです。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだようです。長尾城周辺の寺院である長炭の善性寺 長尾の慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。

安楽寺の丸亀平野への教線ルートをまとめておきます
①勝浦の長善寺が拠点となった
②長尾氏が在野に下り、帰農する時期に安楽寺の教線ラインは伸びてきた
③仕官の道が開けなかった長尾氏は、安楽寺の末寺を開基することで地域での影響力を残そうとした。
④そのため阿野郡の城山周辺には、長尾氏を開基とする安楽寺の末寺が多い。
今回は、このあたりまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

真宗興正派 2024年6月28日講演
安楽寺(美馬市郡里)
吉野川の河岸段丘の上にあるのが安楽寺です。周辺には安楽寺の隠居寺がいくつかあり寺町と呼ばれています。中世には、門徒集団が寺内町を形成していたと研究者は考えています。後が三頭山で、あの山の向こうは美合・勝浦になります。峠越の道を通じて阿讃の交流拠点となった地点です。

 手前は、今は水田地帯になっていますが、近世以前は吉野川の氾濫原で、寺の下まで川船がやってきていて川港があったようです。つまり、川港を押さえていたことになります。河川交易と街道の交わるところが交通の要衝となり、戦略地点になるのは今も昔も変わりません。そこに建てられたのが安楽寺です。ここに16世紀には「寺内」が姿を現したと研究者は考えています。

安楽寺


安楽寺の三門です。赤いので「赤門寺」と呼ばれています。江戸時代には、四国中の100近い末寺から僧侶を目指す若者がやって来て修行にはげんだようです。ここで学び鍛えられた若き僧侶達が讃岐布教のためにやってきたことが考えられます。安楽寺は「学問寺」であると同時に、讃岐へ布教センターであったようです。末寺を数多く抱えていたので、このような建築物を建立する財政基盤があったことがうかがえます。

安楽寺2
安楽寺境内に立つ親鸞・蓮如像

八間の本堂の庭先には、親鸞と蓮如の二人の像が立っています。この寺には安楽寺文書とよばれる膨大な量の文書が残っています。それを整理し、公刊したのがこの寺の前々代の住職です。

安楽寺 千葉乗隆
安楽寺の千葉乗隆氏
先々代の住職・千葉乗隆(じょうりゅう)氏です。彼は若いときに自分のお寺にある文書を整理・発行します。その後、龍谷大学から招かれ教授から学部長、最後には学長を数年務めています。作家の五木寛之氏が在学したときにあたるようです。整理された史料と研究成果から安楽寺の讃岐への教線拡大が見えてくるようになりました。千葉乗隆の明らかにした成果を見ていくことにします。まず安楽寺の由来を見ておきましょう。

安楽寺 開基由緒
安楽寺由来
ここからは次のようなことが分かります。
①真宗改宗者は、東国から落ちのびてきた千葉氏で、もともとは上総守護だったこと
②上総の親鸞聖人の高弟の下で出家したこと
③その後、一族を頼って阿波にやってきて、安楽寺をまかされます。
④住職となって天台宗だった安楽寺を浄土真宗に改宗します。
その時期は、13世紀後半の鎌倉時代の 非常に早い時期だとします。ここで注意しておきたいのは、前回見た常光寺の由来との食違いです。常光寺の由来には「佛光寺からやってきた門弟が安楽寺と常光寺を開いた」とありました。しかし、安楽寺の由緒の中には常光寺も仏国寺(興正寺)も出てきません。ここからは常光寺由来の信頼性が大きく揺らぐことになります。最近の研究者の中には、常光寺自体が、もともとは安楽寺の末寺であったと考える人もいるようです。そのことは、後にして先に進みます。

 安楽寺の寺史の中で最も大きな事件は、讃岐の財田への「逃散・亡命事件です。

安楽寺財田亡命

 寺の歴史には次のように記されています。永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田に転じて宝光寺を建てた。これを深読みすると、次のような疑問が浮かんできます。ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜ伝来地に再建しなかったのか。その疑問と解く鍵を与えてくれるのが次の文書です。

安楽寺免許状 三好長慶
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)

三好千熊丸諸役免許状と呼ばれている文書です。下側が免許状、上側が添え状です。これが安楽寺文書の中で一番古いものです。同時に四国の浄土真宗の中で、最も古い根本史料になるようです。読み下しておきます。
文書を見る場合に、最初に見るのは、「いつ、誰が誰に宛てたものであるか」です。財田への逃散から5年後の1520年に出された免許状で、 出しているのは「三好千熊丸」  宛先は、郡里の安楽寺です。

 興正寺殿より子細仰せつけられ候。しかる上は、早々に還住候て、前々の如く堪忍あるべく候。諸公事等の儀、指世申し候。若し違乱申し方そうらわば、すなわち注進あるべし。成敗加えるべし。

意訳します。

安楽寺免許状2

三好氏は阿波国の三好郡を拠点に、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して畿内と四国を制圧します。信長に魁けて天下人になったとされる戦国武将です。安楽寺はその三好氏から課役を免ぜられ保護が与えらたことになります。
 短い文章ですが、重要な文章なのでもう少し詳しく見ておきます。

安楽寺免許状3


この免許状が出されるまでには、次のような経過があったことが考えられます。
①まず財田亡命中の安楽寺から興正寺への口添えの依頼 
②興正寺の蓮秀上人による三好千熊丸への取りなし
③その申し入れを受けての三好千熊丸による免許状発布
 という筋立てが考えられます。ここからは安楽寺は、自分の危機に対して興正寺を頼っています。そして興正寺は安楽寺を保護していることが分かります。本願寺を頼っているのではないことを押さえておきます。

 三好氏の支配下での布教活動の自由は、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えることを意味します。安楽寺が讃岐方面に多くの道場を開く時期と、三好氏の讃岐進出は重なります。

安楽寺免許状の意義

 先ほど見たように興正寺と安楽寺は、三好氏を動かすだけの力があったことがうかがえます。⑥のように「課税・信仰を認めるので、もどってこい」と三好氏に言わしめています。その「力」とは何だったのでしょうか? それは安楽寺が、信徒集団を結集させ社会的な勢力を持つようになっていたからだと私は考えています。具体的には「寺内」の形成です。

寺内町
富田林の寺内町
この時期の真宗寺院は寺内町を形成します。そこには多様な信徒があつまり住み、宗教共同体を形成します。その最初の中核集団は農民達ではなく、「ワタリ」と呼ばれる運輸労働者だったとされます。そういう視点で安楽寺の置かれていた美馬郡里の地を見てみると、次のような立地条件が見えて来ます。
①吉野川水運の拠点で、多くの川船頭達がいたこと
②東西に鳴門と伊予を結ぶ撫養街道が伸びていたこと
③阿讃山脈の峠越の街道がいくつも伸びていたこと
ここに結集する船頭や馬借などの「ワタリ」衆を、安楽寺は信徒集団に組み入れていたと私は考えています。
 周囲の真言系の修験者勢力や在地武士集団の焼き討ちにあって財田に亡命してきたのは、僧侶達だけではなかったはずです。数多くの信徒達も寺と共に「逃散・亡命」し、財田にやってきたのではないでしょうか。それを保護した勢力があったはずですが、今はよく分かりません。
  財田の地は、JR財田駅の下の山里の静かな集落で、寶光寺の大きな建物が迎えてくれます。ここはかつては、仏石越や箸蔵方面への街道があって、阿讃の人とモノが行き交う拠点だったことは以前にお話ししました。中世から仁尾商人たちは、詫間の塩と土佐や阿波の茶の交易を行っていました。そんな交易活動に門徒の馬借達は携わったのかも知れません。

安楽寺の財田亡命

安楽寺の讃岐への布教活動の開始は、財田からの帰還後だと私は考えています。つまり1520年代以後のことです。これは永世の錯乱後の讃岐の動乱開始、三好氏の讃岐侵攻、真言勢力の後退とも一致します。

どうして、安楽寺は讃岐にターゲットを絞ったのでしょうか?

安楽寺末寺分布図 四国


江戸時代初期の安楽寺の末寺分布を地図に落としたものです。

①土佐は、本願寺が堺商人と結んで中村の一条氏と結びつきをつよめます。そのため、土佐への航路沿いの港に真宗のお寺が開かれていきます。それを安楽寺が後に引き継ぎます。つまり、土佐の末寺は江戸時代になってからのものです。

②伊予については、戦国時代は河野氏が禅宗を保護しますので真宗は伊予や島嶼部には入り込めませんでした。また、島嶼部には三島神社などの密教系勢力の縄張りで入り込めません。真宗王国が築かれたのは安芸になります。
③阿波を見ると吉野川沿岸部を中心に分布していることが分かります。これを見ても安楽寺が吉野川水運に深く関わっていたことがうかがえます。しかし、その南部や海岸地方には安楽寺の末寺は見当たりません。どうしてでしょうか。これは、高越山や箸蔵寺に代表される真言系修験者達の縄張りが強固だったためと私は考えています。阿波の山間部は山伏等による民間信仰(お堂・庚申信仰)などの民衆教導がしっかり根付いていた世界でした。そのため新参の安楽寺が入り込む余地はなかったのでしょう。これを悟った安楽寺は、阿讃の山脈を越えた讃岐に布教地をもとめていくことになります。

讃岐の末寺分布を拡大して見ておきましょう。

安楽寺末寺分布図 讃岐


讃岐の部分を拡大します。

①集中地帯は髙松・丸亀・三豊平野です。

②大川郡や坂出・三野平野や小豆島・塩飽の島嶼部では、ほぼ空白地帯。

この背景には、それぞれのエリアに大きな勢力を持つ修験者・聖集団がいたことが挙げられます。例えば大川郡は大内の水主神社と別当寺の与田寺、坂出は白峰寺、三野には弥谷寺があります。真言密教系の寺院で、多くの修験者や聖を抱えていた寺院です。真言密教系の勢力の強いところには、教線がなかなか伸ばせなかったようです。そうだとすれば、丸亀平野の南部は対抗勢力(真言系山伏)が弱かったことになります。善通寺があるのに、どうしてなのでしょうか。これについては以前にお話ししたように、善通寺は16世紀後半に戦乱で焼け落ち一時的に退転していたようです。
 こうして安楽寺の布教対象地は讃岐、その中でも髙松・丸亀・三豊平野に絞り込まれていくことになります。安楽寺で鍛えられた僧侶達は、讃岐山脈を越えて山間の村々での布教活動を展開します。それは、三好氏が讃岐に勢力を伸ばす時期と一致するのは、さきほど見た通りです。安楽寺の讃岐へ教線拡大を裏付けるお寺を見ておきましょう。

東山峠の阿波側の男山にある徳泉寺です。
この寺も安楽寺末寺です。寺の由来が三好町誌には次のように紹介されています。


男山の徳泉寺
徳泉寺(男山)


ここからは安楽寺の教線が峠を越えて讃岐に向かって伸びていく様子がうかがえます。注目しておきたいのは、教順の祖先は、讃岐の宇足郡山田の城主後藤氏正だったことです。それが瀧の宮の城主蔵人に敗れ、この地に隠れ住みます。そのひ孫が、開いたのが徳泉寺になります。そういう意味では、讃岐からの落武者氏正の子孫によって開かれた寺です。ここでは安楽寺からのやってきた僧侶が開基者ではないことをここでは押さえておきます。安楽寺からの僧侶は、布教活動を行い道場を開き信徒を増やします。しかし、寺院を建立するには、資金が必要です。そのため帰農した元武士などが寺院の開基者になることが多いようです。まんのう町には、長尾氏一族の末裔とする寺院が多いのもそんな背景があるようです。
安楽寺の僧が布教のために越えた阿讃の峠は?

安楽寺の僧が越えた阿讃の峠
阿讃の峠

安楽寺の僧侶達は、どの峠を越えて讃岐に入ってきたかを見ておきましょう。各藩は幕府に提出するために国図を作るようになります。阿波蜂須賀藩で作られた阿波国図です。吉野川が東から西に、その北側に讃岐山脈が走ります。大川山がここです。雲辺寺がここになります。赤線が阿讃を結ぶ峠道です。そこにはいくつもの峠があったことが分かります。安楽寺のある郡里がここになります。
 相栗峠⑪を越えると塩江の奥の湯温泉、内場ダムを経て、郷東川沿いに髙松平野に抜けます。
三頭越えが整備されるのは、江戸時代末です。それまでは⑨の立石越や⑧の真鈴越えが利用されていました。真鈴越を超えると勝浦の長善寺があります。⑦石仏越や猪ノ鼻を越えると財田におりてきます。
そこにある寶光寺から見ておきましょう。

寶光寺4

 寶光寺(財田上)

寶光寺は、さきほど見たように安楽寺が逃散して亡命してきた時に設立された寺だと安楽寺文書は記します。しかし、寶光寺では安楽寺が亡命してくる前から寶光寺は開かれていたとします。

寶光寺 財田

開基は「安芸宮島の佐伯を名のる社僧」とします。そのため山号は厳島山です。当時の神仏混淆時代の宮島の社僧(修験者)が廻国し開いたということになります。そうすると寶光寺が安楽寺の亡命を受けいれたということになります。讃岐亡命時代の安楽寺は、僧侶だけがやってきたのではなく、信徒集団もやってきて「寺内町」的なものを形成していたと私は考えています。

先ほども見たように財田への「逃散」時代は、布教のための「下調べと現地実習」の役割を果たしたと云えます。そういう意味では、この財田の寶光寺は、安楽寺の讃岐布教のスタート地点だったといえます。

寶光寺2

寶光寺
寶光寺は今は山の中になりますが、鉄道が開通する近代以前には阿讃交流の拠点地でした。財田川沿いに下れば三豊各地につながります。この寺を拠点に三豊平野に安楽寺の教線は伸びていったというのが私の仮説です。 それを地図で見ておきます。

 

安楽寺末寺 三豊平野


安楽寺の三豊方面への教線拡大ルートをたどってみます。
拠点となるのが①財田駅前の寶光寺 その隠居寺だった正善寺、和光中学校の近くの品福寺などは寶光寺の末寺になります。宝光寺末に品福寺、正善寺、善教寺、最勝寺などがあり、阿讃の交易路の要衝を押さえる位置にあります。三好氏の進出ルートと重なるのかも知れません。②山本や豊中の中流域には末寺はありません。流岡には、善教寺と西蓮寺、坂本には仏証寺・光明寺、柞田には善正寺があります。。注意しておきたいのは、観音寺の市街にはないことです。観音寺の町中の商人層は禅宗や真言信仰が強かったことは以前にお話ししました。そのためこの時期には浄土真宗は入り込むことができなかったようです。

安楽寺の拠点寺院

ここからは寶光寺を拠点に、三豊平野に安楽寺の教線ルートが伸びたことがうかがえます。その方向は山から海へです。

今回はここまでとします。次回は安楽寺の丸亀方面への動きを見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

真宗興正派の研修会でお話ししたことをアップしておきます。

真宗興正派 2024年6月28日講演

讃岐は真宗寺院が多いと云われますが、その比率はどのくらいなのでしょうか。
それを最初に数字で押さえておきます。

四国寺院宗派別数


①最初に讃岐を見ておきましょう。真宗寺院が424 讃岐の寺院数910ケ寺の内、約47%約半分が真宗です。
これは思ったよりも少ない感じ。私の感覚では8割でもおかしくないのですが・・。分布に濃淡がありそうです。この中で約半分が興正派です。興正派の寺は全国は800程度と聞いているので、讃岐がその1/4をしめることになります。この背景には、何らかの歴史的な要因があるはずです。


②阿波については、真宗阿波では13%、真言が464で約7割になります。高越山や箸蔵山に代表されるように真言密教系の山伏寺の散在。庚申信仰など山伏たちの活動が活発だったこと。それを蜂須賀藩が保護したこと背景にあるようです。


③伊予ではわずか9%、真言も多いが、注目して欲しいのは臨済・曹洞宗の禅宗が両方を合わせると40%を越えることです。これは河野氏の保護によるようです。


④土佐は全体数がが358と他県に比べると半数以下です。お寺の数が少ないのが特徴です。明治の神仏分離が四国でもっとも過激に進められたのが土佐です。時の土佐藩は寺院廃止・統合政策を強力に進めました。その結果がこの数字です。その中では真言が多いようです。

⑤四国全体では、真宗寺院は700で23% 讃岐以外の各県では、真宗寺院の数は100以下、それが讃岐では400を越えます。この数字からも、讃岐で真宗寺院が多いこと、なかでも興正寺派が多いことが分かります。これはどうしてなのでしょうか。それを説明するために従来使われていた史料が三木の常光寺の縁起です。まず常光寺から見ておきましょう。

常光寺

常光寺
三木町の香川大学の農学部の南の方に常光寺というお寺があります。
この寺は銀杏が有名なようです。本堂前の碑文には、次のような縁起が記されています。 

常光寺縁起1

ここからは次のような事が分かります。


①開基年 1368年 
②開基者 生駒浄泉(泉州の城主の次男)  
③末寺が75 明治維新にも27の末寺 
④本堂が17世紀半ばのもの 



もう少し詳しい史料を見てみましょう。
江戸後半の18世紀になると、各藩では自藩の潜在能力を知るために地誌の出版がおこなわれるようになります。例えば丸亀藩が各村の庄屋に村の歴史と郷土の産物などを調べて提出させています。それに基づいて編纂されたのが西讃府誌です。髙松藩でも、その動きがあったようで各寺院へ由緒や現状などについてのレポート提出を求めています。次の縁起は幕末に髙松藩の求めに応じて、提出したレポートの一部です。

常光寺縁起

縁起を整理すると

常光寺縁起2

浄泉は泉州の城主の子孫でした。この寺歴で、常光寺が伝えたかったのは以下のことのようです
①開基が古いこと
②真宗布教の拠点が常光寺と安楽寺であること
③そのため多くの末寺を抱えていたこと。
この史料によって、讃岐への真宗伝播は語られてきました。 このレポートには、常光寺の末寺一覧表が添付されています。それも見ておきましょう。

常光寺末寺リスト1

常光寺末寺リスト その1

所在村名と寺名が示されたいます。最初に出てくるのは高松藩領内の末寺です。ここからは次のようなことが分かります。


①常光寺周辺の三木郡に多い。
②香川郡には少ない(阿波の安楽寺の末寺安養寺との棲み分け現象?)
③阿野郡西分村の善福寺(綾菊の南側)は、鴨村に末寺・正蓮寺などをもっている。
④那珂郡トップに登場するのが円徳寺も、3つの末寺を持っている。

常光寺末寺リスト 円徳寺


円徳寺をめぐる本末関係を図にすると次のようになります。

常光寺末寺リスト3 円徳寺 法照寺


ちょうと寄り道します。円徳寺の末寺の佐文の法照寺です。

佐文 法照寺

この寺の前には、金刀比・伊予土佐街道が通っています。かつては、金比羅参りの参拝客が数多くこの前を行き来していました。しかし、もともとここにあった訳ではないようです。丸亀藩に出された屋根の葺き替え申請書には次のように記されています。  
佐文 法照寺2

ここには次のような事が記されています。
①円徳寺の末寺として、生間に開基
②1722年に協議の末・佐文に移転
ここから分かることは18世紀になると村の間で、お寺の誘致合戦が展開されるようになっていることです。その背景には、お寺がないと不便なことがありました。戸籍登録、宗門改め、手形発行などは寺の仕事です。村に寺がないと、周辺のお寺に出向いて頼んでやってきてもらうことになります。そのために村にお寺のない所は、誘致運動を展開するようになります。佐文の法照寺も、とともとは生間にあったのが「誘致運動」で佐文にやってきたようです。その際に、寺だけでなく門徒も一緒についてくることもあったようです。本寺の円徳寺ももともとは、本目にあったと聞いています。お寺さんは、昔からそこに有り続けるモノと思っていましたが、そうではないようです。近世以前の寺院は、移動を繰り返していることを押さえておきます。
常光寺文書には離末寺のリストもあります。
かつては常光寺に属していたが、何らかの理由で離末した寺のリストです。


常光寺離末リスト


①2番目のまんのう町高篠の円浄寺は、享保10(1725)
②天領榎井村の玄龍寺は1813年、
③赤丸以後の7ケ寺は、文化十年に一斉に離末
その内の一番最初は、天領榎井村の玄龍寺、そして次の4ケ寺が多度郡、最後の2つが三豊郡の2寺です。その理由は、後で見ることにしてここでは一斉離末があったことを押さえておきます。これを見ると、全盛期には75の末寺をゆうしていたという由緒書きは、本当だったようです。次に視点を変えて末寺分布を見ておきましょう。

興正寺派常光寺末寺

常光寺末寺分布図(丸亀平野)



常光寺丸亀平野の末寺をグーグル地図に落としてみました。
黄色ポイントが末寺です。円徳寺が右隅です。その末寺が佐文の法照寺・造田の西福寺・垂水の西の坊です。東から伸びてきた教線ラインが円徳寺にやってきて、丸亀平野に下っていく動きが見えて来ます。
ここからは次のような事がうかがえます。

①②多度津丸亀など海岸線部や都市部にはない。

③三野平野に進出していない。

その理由として対抗勢力の存在が考えられます。三野平野は、中世に秋山氏によって開かれた法華宗の本門寺の強固な信徒集団がいました。また、その背後には、弥谷寺の修験・聖集団がいました。また観音寺には禅宗の寺院がありました。
④髙松藩や丸亀藩の藩を超えて教線がのびています。これは讃岐が2つの藩に分割される以前の生駒藩時代に、この本末関係ができたことを示しています。以上が、末寺リストから分かることです。今回は、このあたりにしておきます。
次回は阿波美馬の安楽寺を見ていくことにします。


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 関連記事

 丸亀平野にはこんもりと茂った鎮守の森がいくつもあります。これらの神社の由緒書きを見ると、その源を古代にまで遡ることが書かれています。しかし、実際に村社が姿を現すのは近世になってからのようです。中世には、郷社として惣村ひとつしかなく、各村々が連合して宮座を組織して祭礼を行っていました。その代表例が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)で、そこに奉納されていたのが各各組の念仏踊りです。これも幾つもの郷の連合体で、宮座で運営されていました。
 ここでは近世の村々が姿を現すのは、検地以後の「村切り」以後だったことを押さえておきます。。それでは、近世の村が、村社を建立し始めるのはいつ頃のことなのでしょうか。
また、それはどのようにして再築・修築・整備されたのでしょうか。このテーマについて、坂出の神社を例にして、見ておこうと思います。テキストは「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」です。
  坂出市史近世下には、神社の棟札から分かる建立や修築時期などについて一覧表が載せられいます。
坂出の神社建立再建一覧表1
坂出の神社建立再建一覧表2
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀までに創建されているのは、鴨葛城大明神・川津春日神社・神谷神社・鴨神社で、それぞれ再建時期が棟札から分かること。その他は「伝」で、それを裏付ける史料はないようです。

坂出地区の各村の氏神などの修繕や建て替え普請を見ていくことにします
坂出村の氏神は八幡神社です。
天保12(1842)年2月、坂出村百姓の伴蔵以下15名が「八幡宮拝殿 壱宇 但、梁行弐間桁行五間半瓦葺」とで拝殿の建替を、庄屋阿河征右衛門を通じて、両大政所の渡辺八郎右衛門と本条和太右衛門に申し出ています。
西新開の塩竃神社は 文政11(1838)年8月1日に、
地神社は      文政12年8月6日に創祀
東浜の鳥洲神社は  文政12年6月26日
どれも藩主松平頼の命によつて久米栄左衛門が創建し、西新開・東浜墾円・港湾の安全繁栄の守護神とされます。
 西浜の事比維神社も塩田開かれ沖湛甫が開港すると、船舶の海上安全のため、天保8(1837)年に沖湛南西北隅に創建されます。しかし、安政元(1854)年11月5日夜半の安政大地震で社殿が倒壊したため、その後現在地に移されます。(旧版『坂出市史』)、旧境内には、同社の性格を示す石造物が境内に残っています。たとえば、安政五年銘の鳥居には多くの廻船の刻宇、文久三年銘の常夜燈には「尾州廻船中」の刻宇、天保十一年銘の狛犬には「当浦船頭中」の刻字が刻まれています。

福江村鎮守の池之宮大明神については、1836(天保7)年12月の火事について、庄屋が藩に次のように報告しています。
一 さや 壱軒
但、梁行壱間半桁行弐間、屋祢瓦葺、
右者、昨朔口幕六ツ時分ニテも御鎮守池之宮大明神さや之門ヨリ煙立居申候段、村内百姓孫八と申者野合ョリ帰り掛見付、私方へ申出候二付、私義早速人足召連罷越候処、本社者焼失仕、さやへ火移り居申候二付、色々取防仕候得共、風厳敷御座候故手及不申候、右の通本社さや共焼失仕候二付、跡取除ケ仕セ候処、御神体有之何の損シ無御座候間、当郡西庄村摩尼珠院参リ当村氏神横潮大明神江御神納仕候、然ル後山中之義二付、乙食之者ども罷越焼キ落等御庄候テ出火仕候義も御座候哉と奉存候、尤御制札并所蔵近辺ニテも無御座候、此段御註進中上度如此御座候、以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎
十二月二日
渡辺八郎右衛門 様
本条和太右衛門 様
猶々、右之趣御役処へも今朝御申出仕候間、年恐御承知被成可被下候、己上、
意訳変換しておくと
一 さや 壱軒 梁行2間半 桁行2間、瓦葺、
 (1836)12月午後6時頃、池之宮大明神さやの門から煙が出ているのを百姓孫八が見つけ、私方(庄屋田中幸郎)へ知らせがあったので、早々に人足とともに消火に当った。しかし、風が強く手が着けられず、本殿とさやの門を焼失した。焼け跡を取り除いてみると御神体に損害はなかった。そこへ西庄の摩尼院がやってきて、福江村氏神の横潮大明神に御神納することになった。
 出火原因については、山中のことでよく分からないが、乙食たちがやってきて薪などをしていたのが延焼したのではないかとも考えられる。なお制札や所蔵附近ではないので、格段の報告はしません。以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎


焼失しなかったご神体が、西庄の摩尼院住職の助言で横潮大明神に一時避難されています。先ほどの年表を見ると、10年後の1846年に「福江村横潮大明神本殿 再建許可」とありますが、池之宮大明神の再建については記録がありません。池之宮のご神体は、横潮大明神に収められたままだったようです。火災で消えたり、小さな祠だけになっていく「大明神」もあったようです。

西庄村には2つの氏神があったようです。

西庄 天皇社と金山権現2

一つは白峰宮で、崇徳上皇を祀り崇徳天皇社と呼ばれていました。これが、西庄・江尻・福江・坂出・御供所の総氏神でした。そしてもうひとつが國津大明神です。
国津大明神では、1820(文政三)年正月、西庄村百姓の庄兵衛以下八名が拝殿の建替を次のように申し出ています。

「国津大明神幣殿壱間梁の桁行壱問半、拝殿町弐間梁之桁行一間、何も屋根瓦葺ニテ御座候所、及大破申候ニ付、此度在来之通建更仕度奉存畔候」

意訳しておくと
「国津大明神の幣殿は、壱間梁の桁行壱間半、拝殿は弐間梁の桁行一間、いずれも屋根は瓦葺です。すでに大破しており、この度、従来の規模での再建許可をお願いします。

申し出を受けた和兵衛は現地視察を行い「見分仕等と吟味仕候処、申出之通大破相成」、許可して同役の渡辺七郎左衛門へ同文書を送付しています。「従来の規模での再建許可」というのが許可申請のポイントだったようです。
1860(万延元)年2月には、西庄村などから崇徳天皇本社などの修築が提出されています。
   春願上口上
崇徳天皇本社屋祢葺更
但、梁行弐間 桁行三間桧皮葺、
一 同 拝殿屋祢壁損所繕
一 同 宝蔵堂井伽藍土壁右同断
一 同 拝殿天井張替
右者、私共氏神
崇徳天阜七百御年忌二付申候所、右夫々及大破難捨置奉存候間、在来之通修覆仕度奉願上候、右願之通相済候様宜被仰可被
下候、
本願上候、己上、
万延元年申二月  阿野都北西庄村百姓
現三郎
次太郎
          音三郎
次之介
善左衛門
次郎右衛門
助三郎
良蔵
同郡江尻村同  新助
善左衛門
                  瀧蔵
                     同郡福江村同 五右衛門
善七
与平次
同郡坂出村同  与吉之助
権平
  浅七
三土鎌蔵 殿
川円廣助 殿
安井新四郎 殿
阿河加藤次 殿
右之通願申出候間、願之通相添候様宜被仰上可被下候、以上、
西庄村庄屋 三土鎌蔵
坂出村同   阿河加藤次
福江村同   安井新四郎
江尻村同   川田廣助
六月
本条勇七 殿
右ハ同役勇七方ヨリ村継二而申来候、

この史料からは、次のような事が分かります。
①崇徳院七百年忌を控えて、西庄村の崇徳天皇社の本殿屋根などの修繕の必要性が各村々で共有されていたこと。
②その結果、西庄村百姓8名の他に、江尻村・福江村・坂出村の各3名、合計17名が発起人となり、各村の庄屋を通じて、大庄屋に願い出されたこと
③これらの村々で崇徳天皇社を自分たちの氏寺とする意識が共有されていたこと
ここには、崇徳上皇を私たちの氏神とする意識と崇徳上皇伝説の信仰の広がりが見えて来ます。

高屋村の氏神ある崇徳天皇社でも1819年12月、氏子の伊兵衛以下九名から拝殿の建替申請が出されています。
「崇徳天皇拝殿弐間梁桁行五間茸ニテ御座候所、及大破申候二付、在来之通建更仕度本存候」
申請を受けた政所綾井吉太郎は
「尤、人目の義者、氏子共ヨリ少々宛指出、建更仕候二付、村入目等二相成候義者無御座候」
意訳しておくと
「崇徳天皇拝殿は弐間梁で、桁行五間で、屋根は茸吹ですが、大破しています。つきましては、従来の規模で立て直しを許可いただけるようお願いし申し上げます。
申請を受けた政所の綾井吉太郎は、次のように書き送っています。
「もっとも人目があるので、氏子たちから寄進を募り、建て替えを行う時には、村入目からの支出はないようにする。」

ここからは大政所渡辺七郎左衛門・和兵衛に対して、その経費は氏子よりの出資であり、村人目にはならないことを条件に願い出て、許可されています。しかし、その修復は進まなかつたようです。
文政七年二月、同村庄屋綾井吉太郎は両人庄屋に窮状を次のように訴えています。
「去ル辰年奉相願建更仕候所、困窮之村方殊二百姓共懐痛之時節二付」
一向に修復が進まず、加えて「去年之大早二而所詮造作も難相成」
「当村野山林枝打まき伐等仕拝殿修覆料多足仕度由」
として同村の村林の枝打ちによる収益を修復に充てたいと願い出ています。しかし、藩は不許可としています。藩は村社などの建て替え費用に、村会計からの支出を認めていませんでした。あくまで、村人の寄進・寄付で神社は建て替えられていたことを、ここでは押さえておきます。



    五色台の麓の村々に白峰寺の崇徳上皇信仰が拡がって行くのは、近世後半になってからのようです。
その要因のひとつが、地域の村々の白峯寺への雨乞い祈祷依頼だったことは以前にお話ししました。文化2(1805)年5月に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いが白峰寺に出されています。そして、文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(白峰寺調査報告書312P)
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、白峰寺や崇徳上皇関係の施設に対する近隣の村々の支持や支援を受けることにつながって行きます。
ここらは「雨乞祈祷寺院としての高松藩の保護 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し、「民衆化」していることが見えてきます。19世紀前半から白峰寺への雨乞い祈願を通じて、農民達の白峰寺への帰依が強まり、その返礼寄進として、白峯寺や崇徳上皇関係の村社や郷社の建て替えが進んだという面があるように私は見ています。
例えば、1863(文久3)年8月26日に、崇徳上皇七百年回忌の曼茶羅供執行が行われています。回忌の3年前の万延元年6月に、高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままでした。そこで、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。それが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①近世になると各村の大明神は村社として、祠から木造の本殿や配電が整備されるようになった。
②整備された村社では、さまざまな祭礼行事が行われるようになり、村民のレクレーションの場としても機能し、村民の心のよりどころともなった。
③村民は、大破した村社を自らの手で修復・建て替え等を行おうとした。
④それに対して藩は、従来通りの規模と仕様でのみの建て替えを許し、費用は村人の寄付とし、村予算からの支出を認めなかった。
⑤19世紀後半になると、崇徳上皇信仰の高まりとともに、村社以外にも白峰寺や崇徳上皇を祀る各天皇社の建て替え・修復を積極的に行おうとする人々の動きが見えてくるようになる。
最後までありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」

中世から近世への神社の祭礼変化について、以前に次のようにまとめました。
神社の祭礼変遷

①中世は郷惣社に、各村々から組織された宮座が、祭礼行事を奉納していた。滝宮牛頭天王社へ奉納されていた北条組や坂本組の各組念仏踊りも、惣村で組織された宮座であった。
②検地で村切りが行われ、新たに登場した近世の村々は、それぞれが村社を持つようになる。
③近世半ばに現れた村社では、宮座に替わって若者組が獅子舞や太鼓台・奴などを組織し、祭礼運営の主導権をにぎるようになる。
④こうして中世の宮座による祭礼から、若者組中心の獅子舞や太鼓台が讃岐の祭礼の主役となっていく。
それでは江戸時代後半の各村々では具体的に、どんな祭礼が各村々の氏神に奉納されていたのでしょうか。これを今回は追ってみることにします。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ

テキストは、「神社の祭礼 坂出市史近世下151P」です。
  坂出市史は、最初に次のような見取り図を示します。
①江戸時代の村人たちは、神仏に囲まれて生活してたこと。村には菩提寺の他に、氏神・鎮守の御宮、御堂、小祠、石仏があり、氏神・鎮守の祭礼は、村人にとっては信仰行事であるとともに最大の娯楽でもあったこと。その祭礼を中心的に担ったのが若者たちだったこと。
②若者仲間が推進力となって、18世紀半ば以降、祭礼興行は盛んになり、規模が拡大すること。若者たちは村役人に強く求めて、神楽・燈籠・相撲・花火・人形芝居などの新規の遊芸を村祭りにとりこみ、近隣村々の若者や村人たちを招いて祭礼興行を競うようになること。
③これに対して、藩役人は「村入用の増加」「農民生活の華美化」「村外者の来村」などを楯にして、規制強化をおこなったこと。

若者達による祭礼規模の拡大と、それを規制する藩当局という構図が当時はあったことを最初に押さえておきます。

御用日記 渡辺家文書
御用日記 阿野郡大庄屋の渡辺家
  阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。
1841(天保12)年12月条の「御用日記」には、次のような規制が記されています。
一 神社祭礼之節、練物獅子奴等古来ョリ在来之分者格別、新規之義者何小不寄堅ク停止可被申付候。尤、獅子太鼓打の子供の衣類并奴のまわし向後麻木綿の外相用セ申間敷候
一 寺社開帳市立祭礼等の節、芝居見セ物同様の義相催候向も在之哉二相聞候、去年十二月従公儀被 御出の趣相達候通猥之義無之様可破申付候
意訳変換しておくと
一 神社祭礼については、練物(行列)や獅子舞・奴など古来よりのものは別にして、新規の催しについては、何者にも関わらず禁止申しつける。なお、獅子や太鼓打の子供の衣類や奴のまわしについては、今後は麻木綿の着用を禁止する。
一 寺社の開帳や市立祭礼の芝居や見せも同様に取り扱うこと。去年十二月の公儀(幕府)からの通達に従って違反することのないように申しつける。
ここからは、次のような事が分かります。
①旧来の獅子舞や奴に加えて「新規催し」が村々の祭礼で追加されていたこと
②藩は、それらを禁止すると共に従来の獅子舞などの服装にも規制していること
③幕府の天保の改革による御触れによって、祭礼抑制策が出されて、それを高松藩が追随していること

具体的に坂出地区の祭礼行事を見ていくことにします。 坂出市史は以下の祭礼記事一覧表が載せられています。
坂出の神社祭礼一覧
  これを見ると19世紀になると、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などさまざまな興行が行われていたことが分かります。

柳田国男は、『日本の祭』の中で、祭礼を次のように定義しています。
祭礼は
「華やかで楽しみの多いもの」
「見物が集まってくる祭が祭礼」
祭の本質は神を降臨させて、それに対する群れの共同祈願を行うことにあるが、祭礼では社会生活の複雑化の過程で、信仰をともにしながら見物人が発生し、他方では祭の奉仕者の専業化を生み出した。

祭礼が行われるときには、門前に市が立ちます。
上表の「1835(天保6)年2月、坂出塩竃神社」の祭礼と市立には、門前に約40軒もの店が立ち並び、約2100人が集まったという記録が残っています。天保7年の坂出村の人口は3215人なので、その約2/3の人々が集まっていたことになります。塩浜の道具市というところが塩の町坂出に相応しいところです。
この他にも市立ては、1839(天保十)の神谷神社(五社大明神)や翌年の鴨村の葛城大明神、松尾大明神でも、芝居興行とセットで行われています。
 芝居や見世物などの興行を行う人のことを香具師とよびました
香具師は、全国の高市(祭や縁日の仮設市)で活躍して、男はつらいよの寅さんも香具師に分類されます。その商売は、小見世(小店:露店)と小屋掛けに、大きく分けられます。小屋掛けとは、小屋囲いした劇場空間で演じられる諸芸や遊戯のことです。これはさらにハジキ(射的・ダルマおとしなどの景品引き)とタカモノ(芝居・見世物・相撲など)に分けられるようです。坂出では、どんな興行が行われていたのでしょうか。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
神谷村の神谷神社(五社大明神)の史料には、次のように記されています。
天保十年四月五日、「当村於氏神明六日五穀成就為御祈願市場芝居興行仕度段氏子共ョリ申出候」
尤、入目の儀氏子共持寄二仕、村入目等ニハ不仕」
意訳変換しておくと
1839(天保十)年四月五日、(神谷村の)氏神で明日六日、五穀成就の祈願のために市立と芝居を興行を行うと氏子たちから申出があった。なお費用は氏子の持寄りで、村入目(村の予算)は使わないとのことである」

と神谷村の庄屋久馬太から藩庁へ願い出ています。祭礼の実施も庄屋を通じて藩に報告しています。また、費用は氏子からの持ち寄りで運営されていたことが分かります。費用がどこから出されるかを藩はチェックしていました。

坂出 阿野郡北絵図
坂出市域の村々
鴨村の葛城大明神の祭礼史料を見ておきましょう。

鴨部郷の鴨神社
鴨村の上鴨神社と下鴨神社
1839(天保10)年4月7日と18日、葛城大明神社の地神祭のために「市場」「芝居興行」が鳴村庄屋の末包七郎から大庄屋に願い出られ、それぞれ許可・実施されています。この地神祭の時には「瓦崎者(河原者)」といわれた役者を雇って人形芝居興行が行われています。その際の氏子の申し出では次のように記されています。
「尤、同日雨入二候得者快晴次第興行仕度」
(雨の場合は、快晴日に延期して行う予定)」

雨が振ったら別の日に替えて、人形芝居は行うというのです。祭礼奉納から「レクレーション」と比重を移していることがうかがえます。

  林田村の氏神(惣社大明神)の史料を見ておきましょう。
林田 惣社神社
林田村の氏神(惣社大明神) 讃岐国名勝図会

惣社大明神では1845(弘化2)年8月19日に、地神祭・市場・万歳芝居興行の実施願いが提出されています。
以上のように、坂出の各村では、氏総代→庄屋→大庄屋→藩庁を通じて申請書が出され、許可を得た上で地神祭のために、市場が立ち、芝居や人形芝居の興行が行われていたことが分かります。その興行の多くは「タカモノ」と呼ばれる見世物だったようです。
  御供所村の八幡宮では、1834(文政七)8月12日に、翌々15日の松神楽興行ための次のような執行願が出されています。

然者、御供所村八幡宮二おゐて、来ル十五日例歳の通松神楽興行仕度、尤、初尾(初穂)之義者氏子共持寄村人目等二者不仕候山氏子共ヨリ申出候間、此段御間置可被成申候」

意訳変換しておくと
つきましたは御供所村の八幡宮において、きたる15日に例歳の松神楽の興行を行います、なお初穂費用については、氏子たちの持ち寄りで賄い、村人目からは支出しないとの申し出がありました。此段御間置可被成申候」

ここでも村費用からの支出でなく、「氏子共」の持ち寄りで賄われることが追記されています。
西庄 天皇社と金山権現2
西庄村の崇徳天皇社(讃岐国名勝図会)

西庄村の崇徳天皇社では、1834(文政7)年8月27日、湯神楽についての次の願書が出されています。
「然者、来月九日氏神祭礼二付、崇徳天皇社於御神前来月六日夜、湯神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出シ、尤、人目之義ハ村方ヨリ少々宛持寄仕候間、村入目者無御座候間、此段御間置日被下候」

意訳変換しておくと
つきましては、来月9日氏神祭礼について、崇徳天皇社の神前で6日夜、湯神楽を執行することが氏子より申出がありました。なお費用については村方より持ち寄り、村入目からの支出はありません。此段御間置日被下候」

 崇徳天皇社での湯神楽も費用は「村方ヨリ少々宛持寄仕候」で行われています。
湯立神楽(ゆだてかぐら)とは? 意味や使い方 - コトバンク
湯神楽

鴨島村の鴨庄大明神では、1858(安政5)年9月2日松神楽の執行についての次のような願書が出されています。

「然者、於当村鴨庄大明神悪病除為御祈薦松神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出、昨朔日別紙の通、御役所へ申出候所、昨夜及受取相済候二付、今日穏二執行仕せ度奉存候、此段御聞置被成可有候」

      意訳変換しておくと
「つきましては、当村鴨庄大明神で悪病を払うための祈祷・松神楽を行うことについて氏子から申出が、昨朔に別紙の通りありましたので、役所へ申出します。昨夜の受取りなので、今日、執行させていただきます。此段御聞置被成可有候」

 前日になって氏子達は、庄屋に申し出ています。庄屋はそれを受けて、直前だったために、本日予定通りに実施させていただきますと断りがあります。
林田村の惣社大明神でも、1860(万延元)年9月12日湯神楽の執行について次の願書が出されています。
「当村氏惣社大明神於御仲前、今晩湯神楽修行仕度段御役所江申出仕候、御聞済二相成候問」

ここからはその晩に行われる湯神楽について、当日申請されています。それでも「御聞済二相成候問」とあるので許可が下りたようです。ここからは祭礼の神楽実施については、村の費用負担でなく、氏子負担なら藩庁の許可は簡単に下りていたことがうかがえます。

祭礼一覧表に出てくる相撲奉納を見ておきましょう。
御用日記に出てくる角力奉納をまとめたのが次の一覧表です。
坂出の相撲奉納一覧
御用日記の相撲奉納一覧表
ここからは次のような事が分かります。
①1821年から43年までの約20年間で相撲奉納が7回開催されていたこと
②奉納場所は、鴨神社や坂出八幡宮など
③各村在住の角力取によつて奉納角力が行われたこと
④「心願」によって「弟子兄弟共、打寄」せで行われていたこと
⑤「札配」や「木戸」銭は禁止されていること。
近世後期の坂出周辺の村々に角力取がいて、彼らが「心願」で神社への奉納角力に参画していたことを押さえておきます。
  以上をまとめておきます。
①江戸時代後半の19世紀になると、坂出の各村々の祭礼では、獅子舞や太鼓台以外にも、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などのさまざまな行事が奉納されるようになっていた。
②これらの奉納を推進したのは中世の宮座に替わって、村社の運営権を握るようになった若者組であった。
③レクレーションとしての祭礼行事充実・拡大の動きに対して、藩は規制した。
④しかし、祭礼行事が村費用から支出しないで、氏子の持ち寄りで行われる場合には、原則的に許可していた。
⑤こうして当時の経済的繁栄を背景に、幕末の村社の祭礼は、盛り上がっていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    神社の祭礼 坂出市史近世下151P

         
前回までに飛騨では毛坊主によって道場が開基され、それが江戸時代に寺院化していくプロセスを見てきました。今回は、道場で毛坊主が行っていた教化法を見ていくことにします。テキストは、「千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」

 毎月の定例には、親鸞(28日)と本願寺前門主の命日に、村民はみな道場に集まって法会を行います。これが「お講」といわれ、十時ごろ道場に集まり、仏前で「正信偈(しょうしんげ)」「御文章」・説教の後、昼食の「お斎」を食べます。御飯は各自の持参ですが、お汁は「お講元」と呼ばれる当番(二名)が道場でつくります。

15.お正信偈を読む(2):拝読の方法(1) | 壽福寺だより
正信偈
正月元旦には、朝8時に村民全員が道場に集まり「おとそ」を飲みます。2月と9月の春秋の彼岸・お盆・11月の報恩講は、それぞれお勤めがあります。飛騨独特の行事としては夏期8月の別院回檀があります。
嘉念坊善俊 | がんでんの館
嘉念坊善俊
 飛騨の真宗は嘉念坊善俊によって開かれたとされます。
そのため道場80か寺は高山別院(照蓮寺)から輪番が供を連れ、毎年夏に嘉念坊の絵像を持つて、 一晩泊りで廻るしきたりとなっていたようです。
真宗大谷派高山別院照蓮寺(ひだご坊) - 高山市/岐阜県 | Omairi(おまいり)
高山別院(照蓮寺)

清見村の道場へは、8月の中旬から下旬にかけて、廻ってきます。お勤めは前夜と初夜の2回あって、嘉念坊の縁起を読んでいたようです。のちには教如・宣如等の本願寺門主の影像を開帳し、その消息を読むようになります。回檀には、村民が全員参加し、「御回檀餅」を供え、法会のあとには回檀踊りを踊ったと言います。この回檀の時に、本山や別院の経常費を村民から集めていました。
このような回檀は、中国地方の明光を開祖とする寺院でも行われているようです。
中国地方の備後・安芸・出雲・石見等には、相模国野比最宝寺の明光を開教の祖と仰ぐ寺が多く、これらの寺々へは明光の影像を持ち、回檀が行われていました。このように江戸時代には、本寺あるいは中本寺が配下の末寺を廻る、いわゆる回檀が各地で行われていたようです。しかし、近代になると、おこなわれなくなり、飛騨・美濃・越前・越中に残るだけになっています。
 毛坊主が行う宗教行事は、まず説教があります。
この説教のテキスト類が現在も各寺には残されています。これは浄上真宗の教義の解説が基本で、聞いていて面白いものではありません。こればかりだと、門徒は退屈し眠気を催すので、笑いをさそうような話を織りまぜながら仏法を説いたようです。長くなりますが、面白いのでその一例を見ておきましょう。
両度貴札辱拝見畢ル前文ハ皆略ス
当年ハ世界中飢饉ニテ、酒高直、肴高直。米・稗・豆。蕎麦・麦・塩・茶茂高直シ。其外蚕飼万作テ蛹高直、女沢山テ尻高直シ。万之物哉皆高直シ。下直イ物ハ一ツモ無シ。此節世上一同二、下直物者卜評判スルハ、鷹疾トヤラ云フ物チヤゲナ。
貴寺茂悴ヒ坊参故、其下直疾病於求メテ喜フ様二相聞へ申候。夏ノ瘡蓋ハ下直卜云フテモ甚タテケナイ物チヤゲナニ、早ヤイナシテ御仕マイナサレマセフ。
先ツ第一癌卜云フ物ニハ、甚毒立ノ有ル物チヤト云フ事チヤホトニ、早速二西芳佐トヤラ云フ医者ヲ頼テ来テ見テ貰フガヨロシウゴザロフ。西芳サンハ毒立ノ訳ケヲヨク知テゴザルホトニ、右西芳サン常ノ御咄二、癌ノ毒立テニハ、先ツ第一嫁二掛ル事ハ百ニナラヌ、其外ニハ酒ドク肴ドク念仏ドク寺参ドク餅ドク饂飩ドク后家ドク靭ドク、薬ナ物ハ一向スクナイトァル。其内貴寺ノ病ヒニヨイモノハ、人ノ嫁ヲ盗ム事、若ヒ娘ノ尻ヲツムコトガ第一ノ妙薬チヤト、日外御咄ヲ聞タコトカアル。貴寺モ大儀モ夜風ヲヒカヌャゥニ綿入ヲキテ夜釘テモナサレマセフoサウサイスルナレハ外ノ三角モ五卜鰻頭ノャゥニ成夕処モミナ/ヽナヲルナリ。
一 ニシンヲ送レト申サレ候二付、調ヘテイコシマスヶレトモ、ニシント申ス肴ハ、癌ニハ甚ダ毒クチャト云フ事ナレトモ、男根二大妙薬チヤト云コトュヘニ、少シイコシマス、此ニシンフ土鍋ニテョク煮、洒人毒ナレトモ、人ノ見ヌ処ニテヒャ酒テ二三盃呑テ臥テ、嫁二男根ノァタリフモマセルト、何ヤラ味ナ心地ガスルゲナト、昔シ咄シニアルコトチャホトニ、ヨクノ、御勘考ノ上、色々二味ヲツヶテ御療治ナサルベク候。
一 ヲレモ見マイニ来タケレト、嫁ノソバガハナレラレヌ故、先ユルンテ下ダサレ坊サマ。昼寝ノタワムレ御免/ヽ/ヽ/ヽ。貴寺寿命ノ妙薬チヤホトニ、御堂ノ脇へ持テ行キ御開クタサレカシク。
                                                                            前根物姪謹選
天保二年六月状
癌疾坊授与
  意訳変換しておくと
両度貴札辱拝見畢ル前文ハ皆略ス
今年は世界中が飢饉で、酒は高値、肴も高値。米・稗・豆・蕎麦・麦・塩・茶など、なにもかも高値。蚕飼も豊作で蛹が高値、女が沢山いて尻も高値。万物みな高値。値段が下がったものは一つもない。高値一辺倒の世情で、下値なのは、癌疾とやら云う物だけだ。
貴寺も坊参なので、その下値の疾病の流行を歓んでいるように聞いていますぞ。夏の癌は下値といっても、厄介なものなので早く治療されてしまいなされ。まず第一に癌と云うものには、毒が出るといわれますので、早速に西芳佐という医者を頼って、見てもらうのがよかろう。西芳さんは毒立(治療)をよくしっている。西芳さんがいつもしている話には、癌の毒立の第一は嫁に掛ル事は百日しない。その他に、酒ドク肴ドク念仏ドク寺参ドク餅ドク饂飩ドク后家ドク靭ドク、とあり薬になるものは少ないとある。そのうちでこの寺の病ひに効くのは、人の嫁を盗む事、若い娘の尻をつかむが第一の妙薬という、話を聞いたことがある。この寺の大儀も夜風をひかぬように綿入を着て夜釘でもなされませ。そうすれば外の三角も五卜鰻頭のようになったところも、たちどころに治癒します。
一 ニシンを送れというので、準備して贈りますが、ニシンという肴は、癌にははなはだ毒です。
男根に大妙薬というので、少し贈ります。このニシンを土鍋でよく煮て、洒大毒にして、人の見えないところで酒の二三盃も呑んで臥せ、嫁に男根のあたりを揉ませると、何やら味な心地がしてきます。昔の咄に出てくるように、よく考えた上で、色々に味をつけて療治したらよかろう。
一 私も見舞いにいきたいけれども、嫁の傍が離れられないので、許してくだされ坊さま。昼寝の御免 ごめん。この寺の寿命の妙薬なので、御堂の脇へ持ていってご開帳くだされ。
                                                                            前根物姪謹選
天保二年六月状
癌疾坊授与
なんとも下世話で猥雑な話ですが、毛坊主はこのような話を説教の合間にはさみながら、教化につとめたようです。教化の重点は、もちろん説教ですが、常に門徒の中にあって、共に耕し、供に楽しむという、生活を共にしながら仏法に生かそうとする毛坊主の姿が見えて来ます。門徒は、そのような毛坊主に共感を覚えて心のよりどころとしたのかもしれません。

しかし、村民が浄土真宗の教えをそのままにうけいれることは、なかなかできなかったようです。  
例えば浄土真宗では親鸞以来、呪術を強く否定してきました。これに対して、民衆の中には呪力への断ち難い思いがありました。それは、たえず生活にしのびより頭をもたげてきます。とくに天災地変や悪疫に打ちひしがれた弱々しい人心のすき間から、頭をもたげてきます。そのような村民の心情と、毛坊主の対応を史料で見ておきましょう。
差上申血誓之事
一 私共村方困窮打続、其上近年病身者数多出来、難渋仕候処、当夏山伏参申聞候ハ、当村二稲荷之社を建立して年々祭礼致シ皆々信仰仕候得者、病身者茂無病二相成、自然与村方富貴繁栄二相成可申与相勧メ候ニ付、不図相迷ひ候而、御手次様江茂相密シ、勿論本村方江茂深相包、稲荷のほこら新規二建立を相企、屋鋪ひき迄仕候処、被為及御間被仰聞候者、新地之寺社建立之義堅停止たるへし、惣而ほこら・念仏題目之石塔。供養塚。庚中塚・石地蔵之類、田畑・野林・道路之端二新規二一切取建間敷候。仏事・神事・祭礼等、軽執行之、新規之祭礼不可取立事。
右者公儀御法度之趣、前々より被仰渡候。東照神君様御取立之御厚恩不浅義二御座候得者、別而公儀御条目・御支配所御政法呼ク相守、禁奢家業を大切二相勤、微財之門徒迄御年貢所当不相怠様二心掛、現世之成行ハ前生の業因二一任して、後生之一大事者阿弥陀如来之本願、念仏之一行を正信して浄土往生を願ひ候外、別二諸仏・菩薩二追従不申、神明・仏陀江現世之寿福を不祈、依之札守等迄一切不致安置宗門故、万一心得違ひ候而神社等を軽蔑致シ候輩茂可有之哉と被為思召、 一切之諸神・諸仏を軽蔑不致、諸宗諸法を仮初二茂不可誹謗、第一王法を本与し、公儀之御掟を守、仁義五常を先与し、世間通途之義二随ひ、其外万御支配所江柳疎略之義無之様、常々教諭二およひ候様、兼而御本山る被仰渡候義二而、月毎之小寄会合二、右等之趣教誡致シ、御国政等堅相守、仏法・世法共無難二領受致シ、現当二世之要義心得違不申様、纏々致教諭候。其甲斐もなくと御利害被仰聞、 一言之申訳無御座奉恐人候。己後者小寄会合無憮怠相勤、御教誠被成下候通、急度心底相改可申候。万一心得違仕違犯之儀御座候ハヽ、仏祖之蒙冥罰未来者可堕獄者也。働而血誓之一札如件。
享和三癸亥年          楢谷村之内
七月十六日       麦島
四郎三郎(血判並二印)
久助(血判並二印)
権四郎(血判並二印)
長四郎(血判並二印)
忠助(血判並二印)
源四郎(血判並二印)
古十郎(血判並二印)

右之通心得違之意趣、今般御教誠之旨御請奉畏血誓仕処少茂違変無御座候。依之村役人奥印仕差上申候。以上。

楢谷村五人組 惣四郎(印)
孫重郎(印)
次郎兵衛(印)
四郎兵衛(印)
彦惣(印)

御手次
檜谷寺様
     意訳変換しておくと
一 私共の村は困窮が打ち続き、その上近年は病身者が数多く出て、難渋していました。そんな所へ、今年の夏に山伏が参りました。山伏は次のように勧めました。稲荷之社を建立して、年々祭礼を行えば、病身者はいなくなり、自然と村も富貴繁栄すると・・。その言葉に迷わされて、御手次様や本村にも相談せず、稲荷のほこらを新規に建立することにしました。祠が出来上がる段になって、毛坊主と名主から新地の寺社建立は禁止されていること、ほこら・念仏題目之石塔・供養塚・庚中塚・石地蔵之類などを、田畑・野林・道路の端に新規に建立することはできないこと。仏事・神事・祭礼などについても、新規の祭礼を執り行うこともできないことを伝えられました。
 これらは公儀の御法度で、以前から聞いていました。東照神君様の御取立の御厚恩は深いものがあり、公儀御条目・御支配所御政法を遵守するのは当然のことです。家業を大切に相勤め、微財の門徒に至るまで年貢担当を怠らず、現世の成行は前生の業因だとして、後生のことは阿弥陀如来の本願にまかせ、念仏一行を正信して浄土往生を願う。それ以外には、その他の諸仏・菩薩には目もくれずに、神明・仏陀へ現世寿福を祈らずに、宗門以外の札守なども一切安置しないこと。心得違から神社等を軽蔑する輩もいますが、一切の諸神・諸仏を軽蔑せず、諸宗諸法をかりそめにも誹謗せず、第一王法を遵守し、公儀の御掟を守、仁義五常を先与し、世間一般の義に従い、その他の支配所へ疎略のないように、常々教諭されてきました。御本山の「お講」である月毎の寄会では、以上の趣旨を承り、国政を堅く守り、仏法・世法ともに領受し、心得違のないようにと教諭を受けてきました。その甲斐もなくとこのようなことをしでかし、一言の申訳もございません。以後は、小寄や会合を、きちんと勤め、心底より改めます。万一心得違を犯すような場合には、仏祖の冥罰が末代まで及び堕獄者となることも覚悟します。働而血誓之一札如件。
以下略

この享和3年(1903)の証文からは、次のようなことが分かります。
①楢谷村檎谷地方では悪病が流行した時に、山伏がやって来て悪霊退散のために稲荷社建立を勧めたこと
②それを受けて真宗門徒達が麦島集落にひそかに稲荷社建立に動き始めたこと
③これを坊主と名主がききつけ、法令の上からも新規の寺社の建立は禁止されていることを申し聞かせたこと
④浄上真宗の教義からして祈蒔に類する行為は許されないこと
⑤この警告を受けて、血誓証文が作成されたこと。
  ここからは、19世紀になっても廻国の山伏の活動が行われていたことが分かります。門徒達にしてみれば、疫病が発生して多くの人が亡くなっているのに、真宗寺院は何もしてくれないという気持ちがあったのでしょう。だから、稲荷神社を建立して無病息災を祈ろうとしたのでしょう。これは、当時の都市部で展開されていた「流行神」信仰とおなじです。それぞれの神や仏は部門別に「分業体制」になっているので、専門の神仏を拝まないと効力はないと考えらるようになっていました。まさに「多神教」で、なんでも信仰の対象になっていたことは以前にお話ししました。
 しかし、別の視点から見ると村々での山伏の活動は、真宗寺院によって見張られていたことが分かります。村には稲荷神社を建立することはできなかったのです。確かに讃岐の農村部でも稲荷神社などが建立されている例は余り見ません。あるとすれば町屋の神社の中に摂社として建立されています。江戸時代には、新たな寺社の建立は農村部では厳しく規制されていたことを押さえておきます。
 これを讃岐の場合で見てみると、旱魃の際に真言宗は空海依頼の善女龍王への祈祷で雨乞いを行っています。
藩から雨乞いを公式に命じられていたのは、高松藩が白峯寺、丸亀藩が善通寺、多度津藩が弥谷寺だったことは以前にお話ししました。そんな中で、讃岐の真宗興正派の寺院が雨乞いに関わったという気配がありません。真宗寺院は「呪術」を否定していますから、雨乞い祈祷はできません。そこで、村人達が頼ったのが山伏ということになります。庄屋たちが村で雨乞い祈祷を行う際のリーダーは山伏が務めていることは以前にお話ししました。ちなみに、雨乞い踊りとされている「滝宮念仏踊り」は、「雨乞い成就のお礼踊り」であって、雨乞い踊りではないことは以前にお話ししました。佐文の綾子踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになるのは、近代になってからのことです。
  どちらにしても讃岐では、真宗寺院と山伏の間では「棲み分け」ができていたことをここでは押さえておきます。

江戸時代になり寺請制度が制度化されると、飛騨の毛坊道場も寺院化し、毛坊主が職業僧化していきます。
そうすると毛坊主の持っていた利点が、マイナスに働く場合も出てきたようです。そんな状況を伝える文書を見ておきましょう。
乍恐書付を以奉願上候
一私共組合之義者、古来より百姓株所持仕候二付、私共五ケ寺ハ村方頭役勤末候儀二御座候。然ル処右頭役相勤候得者、村内二故障有之候節、右役前二而利害中間事済仕候後、同行与不和二相成、難渋之筋も出来仕候而、甚以迷惑仕候間、御慈悲之上、向後村頭役相除候様被仰付被下候様、乍恐連印を以奉願上候。以上。

文化三寅年正月
小島郷
夏厩村 蓮徳寺
二本木村 西方寺
池本村  西正寺(印)
大谷村  西光寺(印)
高山御坊 御輪番所
意訳変換しておくと
私どもは、古来より百姓株を持っています。そのため村方頭役を勤めてまいりました。とろが頭役を勤める者は、村内で争論があった場合に、その役割として利害関係を明らかにして裁きを下さなければならない立場になります。その結果、不利な裁きを受けたと思われ、同行として不和になり、その後の運営に難渋し、迷惑を受けることが多くなりました。つきましたは御慈悲でもって、今後は村頭役を免除して頂けるように仰せつけ下さい。乍恐連印を以奉願上候。以上。

この文書は、小鳥郷の蓮徳・弘誓・西方・西正・西光の五か寺が連名で高山御坊に宛てた願書です。これら五か寺は古来から農業を営んでいたので百姓株を持ち、しかも名主など村の頭役を勤めていました。頭役を勤めていると自然と村民の紛争などの調停や裁断をしなければならない立場です。裁断者は、勝ち負けを決することになります。そうすると、敗れた村民は、裁定した毛坊主に反感をいだくようになります。これでは村民=門徒の教化がやりにくくなります。
 蓮如が村の長百姓をまず第一に門徒に引きいれようとしことは以前にお話ししました。
この時点では、農民が荘園領主の支配から脱れて地縁的自治体制(惣村)を築き上げようと、地域全住民が一丸となって、とりくんでいた時期でした。そのような社会運動の中で、村の長百姓は全住民の願いを束ね、彼等を代表する立場にありました。ところが近世封建制が確立すると、長百姓は村役人として権力支配の末端に位置づけられます。つまり、毛坊主が「権力の手先」という眼で見られるようになります。以前のように、「同志」や「先達」として見るよりも「手先」「管理者」としてみる住民を増えたようです。村の指導者と僧侶を兼ねる毛坊主は、微妙な立場に置かれることになっていたことが分かります。真宗寺院の性格が蓮如の時代からは、変化しています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」
関連記事


讃岐への真宗興正派の伝播を追いかけているのですが、その際の布教方法が今ひとつ私には見えて来ません。そんな中で出会ったのが   千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66Pです。

千葉乗隆著作集 (2) | 千葉 乗隆 |本 | 通販 | Amazon
飛騨の山村に、真宗教線が伸びていくときに重要な役割を果たしたのが「毛坊主」のようです。今回は、毛坊主と道場、その寺院化がどのように進められたのかを見ていくことにします。

笈埃随筆

江戸時代の飛騨の毛坊主について、百井塘雨の「笈埃(きゅうあい)随筆」には、次のように記されています。

「 当国に毛坊主とて俗人でありながら、村に死亡の者あれば、導師となりて弔ふなり。是を毛坊主と称す。訳知らぬ者は、常の百姓より一階劣りて縁組などせずといへるは、僻事(ひがごと)なり。此者ども、何れの村にても筋目ある長(をさ)百姓にして田畑の高を持ち、俗人とはいへども出家の役を勤むる身なれば、予め学問もし、経文をも読み、形状・物体・筆算までも備わざれは人も帰伏せず勤まり難し。」
意訳変換しておくと
「飛騨には俗人でありながら、村に死者が出ると導師として供養する毛坊主という者がいる。事情を知らない者は、普通の百姓よりも劣る階層で、これとは縁組などは行わないという者もいるが、これは、僻事(ひがごと)である。毛坊主は、どこの村でも筋目のある長(おさ)百姓で、普通以上の田畑を持つ。俗人とはいっても僧侶の役割を務めるので、学問もし、経文も読み、形状・物体・筆算までも身につけた教養人である。そうでなければ、門徒からの信望をえることはできず、務まるものではない。

ここからは、次のような事が分かります。
①毛坊主は剃髪することなく、家庭や社会を捨て去ることもなく、それまで通りの生活を送りながら仏道に生きる人たちだったこと
②しかも、毛坊主たちは、村の政治家・教育者・医者として積極的に地域社会をリードしようとする村々のリーダーでもあったこと
③同時に、彼らは教養人であり、社会事業者でもあったこと

 地域社会のリーダーが毛坊主となることは、本願寺蓮如の方針だったと研究者は指摘します。
もともとの毛坊主の源流は親鸞までさかのぼるようです。親鸞の教えは、家庭を捨て社会を離れ僧になって寺に入ることに、こだわりません。農民・猟師であろうと、官仕であろうと、念仏するものはみな等しく救われるという教えです。つまりそれまでの俗生活を送りながら、仏になる道が歩めました。
 親鸞は阿弥陀仏の救いの対象は、愚かな人たち、つまり凡夫であるとします。凡夫とは「行心、定まらず、軽毛の風に随って東西するが如し」と、世の苦しみ悩みにさいなまれ、羽毛が風にふかれるように、あてどなく右往左往する人間のことです。別の言葉で言うと、戒行を堅持して悟りを開こうという聖道教からは見放された人たちです。そのため、凡夫をめあてとする親鸞の門弟は、庶民階層とくに農民に信者が多かったようです。

 建長7年(1255)頃、念仏者に弾圧が加えられようとした時、親鸞は、次のように説きます。
念仏を弾圧する地頭・名主たちの行いは、釈迦の言葉にもあるように末世に起こる予想されたことである。彼等を怨むことなく、ふびんな人間であると、あわれみをかけよ。彼等のために念仏をねんごろにして、彼等が弥陀の本願のいわれをききわけ、救われるようにしてやれ。

この時点では、地頭・名主という地域社会の政治支配者は、念仏する農民にとっては、対立者としてとらえられています。しかし、もともと親鸞にとっては、どんな階層の人達も弥陀の救いの対象になり得る存在です。共に念仏する人は、貴族・武士・商人・農民みな同朋同行なのです。そこで布教戦略としては、まず念仏を弾圧する地頭・名主にも弥陀の本願をききわけるよう働きかけてやるべきだとします。
 これを受けて蓮如は、村の坊主と年老と長の3人を、まず浄上真宗の信者にひきいれることを次のように指示しています。

「此三人サヘ在所々々ニシテ仏法二本付キ候ハヽ、余ノスヱノ人ハミナ法義ニナリ、仏法繁昌テアラウスルヨ」

意訳変換しておくと
各在所の中で、この三人をこちら側につければ、残りの末の人々はなびいてくるのが法義である。仏法繁昌のために引き入れよ

 村の政治・宗教の指導者を信者にし、ついで一般農民へひろく浸透させようという布教戦略です。
蓮如がこうした伝道方策をたてた背景には、室町時代後期の村々で起こっていた社会情況があります。
親鸞の活躍した鎌倉時代の関東農村にくらべ、蓮如活躍の舞台となった室町後期の近畿・東海・北陸は、先進地帯農村でした。そこでは名主を中心に惣村が現れ、自治化運動が高揚します。このような民衆運動のうねりの中で、打ち出されたのが先ほどの蓮如の方針です。彼の戦略は見事に的中します。真宗の教線は、農村社会に伸張し、社会運動となります。惣村の指導者である長百姓をまず門徒とし、ついで一般の農民を信者にしていきます。その方向は「地縁的共同体=真宗門徒集団」の一体化です。そんな動きがの中で村々に登場するのが毛坊主のようです。
   毛坊主は、飛騨・美濃・越前・加賀などの山村の村々に、現在も生きつづけているようです。研究者が、その例として取り上げるのが岐阜県大野郡の旧清見村です。
清見村は広大な面積がありますが、人口はわずか2千人たらずで、17集落に分かれて点在します。各集落があるのは白川街道と郡上街道沿いで、地図のようにそれぞれに道場(寺)があります。
そこでは、次のような蓮如の伝道方策が実行されます。
①まず村の長百姓を真宗門徒に改宗させ
②蓮如から六字名号(後には方便法身の絵像本尊)を下付され
③それを自分の家の一室の床の間にかけ、
④香炉・燭台。花瓶などを置き、礼拝の設備を整える。
⑤これを内道場または家道場という
⑥ここで長百姓が勧誘した村人たちと共に、念仏集会を開く。
⑦その際、長百姓はいわゆる毛坊主としてその集会の宗教儀礼を主宰する。
⑧やがて村人の中に真宗信者が多くなると、長百姓の一室をあてた礼拝施設は手狭となる。
⑨そこで一戸建の道場が、村人たちの手によって造られる。これを惣道場と称する。
⑩この惣道場でも長百姓は毛坊主として各種の行事をリードする。

飛騨の毛坊主が蓮如に引見するときには、仲介の坊主が必要でした。
これを手次の坊主と云います。
飛騨の場合は、白川郷鳩谷の照蓮寺が手次を務めます。

照蓮寺(岐阜県高山市)】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
照蓮寺

照蓮寺は越後浄興寺の開祖善性の子善俊(嘉念坊)が創始したと伝えられる寺です。善俊は、はじめ美濃国白鳥に道場を構えますが、やがて北上して飛騨国鳩谷を拠点に布教したようです。

「草に風をくはふるが如く、人悉く集り、国こぞりて帰依し、繁昌日々に弥増て」

とあるので、多くの真宗門徒が結集し、「終に当国の真宗道場の濫腸」となったと伝えられます。
以上をまとめておくと、文明年間に飛騨国では、照蓮寺を手次に蓮如から本尊の授与をうけ道場を開設した者が多数います。清見村の道場もすべて照蓮寺を手次としていることが、それを裏付けます。これが後の時代には、中本寺の役割を果たすようになります。真宗興正派の讃岐布教センターとなった阿波の安楽寺や、三木町の常光寺が私にはイメージされます。

図026 野尻道場の平面見取図
野間道場の平面見取図

 惣道場が設立されると、この時点では全村民が真宗門徒となっていました。
そうなると道場の行事は、単なる宗教行事だけでなく、村の共同事業などすべて惣道場で相談して行われるようになります。惣道場は信仰だけでなく、村の議決機関としての役割も果たすようになったのです。
 こうして江戸時代中頃になると、惣道場は、本寺から木彫の阿弥陀仏像(木仏)を下付され、寺としての形態を整え、寺号を名乗るようになることは、まんのう町の尊光寺を例にして、以前にお話ししました。飛騨の真宗寺院が他と違うのは、寺を管理し儀礼を執り行うのは、相変わらず毛坊主だったことです。飛騨では、毛坊道場が寺院へ移行したあとも、毛坊主が門徒集団を指導していたことを押さえておきます。
福井県 浄土真宗唱える施設「道場さん」の現状とは 使われる建物、地域性豊か|北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ
越前の真宗道場
 この時期には、道場だけでなく有力門徒の中にも手次寺を通じて蓮如や実如の名号を授与されているものがいたことが残された各家に残された名号から分かります。

 以上をまとめておきます。
①道場とは、六字名号を掲げ、それを自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の施設を整えたもの。
②村人たちは、村長(むらおさ)を先達として正信偈をとなえ法話を聞く。この導師を毛坊主と称した。
③毛坊主は普段は百姓をしながら、村に葬儀や法事には導師をやっていた。
④江戸時代に本末制度が調えられると、本寺から六字名号や寺号を得て寺院化する所も現れた
⑤しかし、門徒の少ない所ではそのまま道場として存続した
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献         千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P
関連記事




   比叡山焼き討ちや、一向一揆殲滅作戦などから織田信長は「仏法の敵」とされてきました。しかし、これに対しては研究が進むにつれて異論が出されるようになっています。どんな所に光を当てて「信長=仏法の敵」説を越えて行こうとしているのかを今回は見ていくことにします。テキストは、「一向一揆の特質 躍動する中世仏教310P」です。
躍動する中世仏教 (新アジア仏教史12日本Ⅱ) | 末木文美士【編集委員】, 松尾剛次 佐藤弘夫 林淳 大久保良峻【編集協力】 |本 | 通販 |  Amazon

まず一向一揆についての定説を押さえておきます。
一向一揆は、幕府、守護大名、荘園領主など支配者層が応仁の乱によって弱体化した状況下で、民衆の宗教運動が一揆という形をとって現れたものされてきました。この見解は、次の二つの論拠に支えられています。
①その運動や武装蜂起が浄土真宗門徒を主たる担い手としていること
②一向一揆は、統一政権の担い手として登場した織田信長に弾圧され、解体された
①については、一向一揆の場合は真宗本願寺派という教団に属する武士や「百姓」が武装峰起の担手で、これを本山の本願寺僧侶が指導するというというのがパターンとされます。そのため阿弥陀信仰が団結の核となり、一揆の紐帯となっていたとします。
②については、織田信長によって解体されたとされます。一向一揆の場合は、信長が足利義昭を擁立して入京し、将軍に就任させて間もない元亀元(1570)年、浅井・朝倉など反織田勢力の大名に呼応して蜂起し、信長との断続的な交戦を展開します。そして石山戦争の末に天正8(1580)年、本願寺の本拠地大坂を引き渡して退去するという条件で信長と講和します。これが本願寺の実質的全面降伏で、一向一揆は解体された、というのが従来の説です。しかし、近年の研究は、一向一揆を中世ヨーロッパの異端運動になぞらえたような闘争モデルを下敷きとする従来の宗教一揆像に対して、批判・再検討を加えらっれてきました。
宗教一揆の場合、その原因には次の2つが考えられます
①信仰弾圧に対して信徒が一揆を結び蜂起した護教運動
②教祖の教義に基づく宗教王国を実現しようとした王国建国運動
この宗教運動の結果、起こされるのが宗教一揆と研究者は考えています。例えば島原の乱の場合は後者になります。宗教一揆は、このどちらかを指すのが普通です。しかし、一向一揆の場合は、どちらにもあてはまらないと研究者は指摘します。「一向宗」が戦国大名から「取り締り」を受けたことは事実です。しかし、取り締まりを行った動機は、政治的要因からの本願寺教団への介入か、山伏、下級神官、陰陽師、琵琶法師など呪術的民間宗教者に対する警戒かのいずれかです。宗旨そのものに対する弾圧はなかったと研究者は考えています。別の言い方をすると、真宗の教義そのものが戦国大名に危険視された事例はないということです。
 また一向一揆を②の宗教王国運動とみることもできないとします。本願寺教団の使っていた「仏法領」の語について、かつては「本願寺門徒が現世に実現することをめざした宗教王国」を指すとする研究者もいました。しかし、これに多くの研究者は否定的です。「仏法領」については、今では次のように説明されています。

現世を否定した宗教王国を指すものではなく、現世の秩序と併存する「仏法の領分」を指すものである。世俗法の支配する領域と棲み分けられた信仰活動の領域を指し、具体的には現実の本願寺教団を指す。この世ならぬ宗教王国の理想を現世で実現する意図は、戦国の本願寺教団には見出されていない。

蓮如像 文化遺産オンライン
蓮如
一向一揆が起きるのは、蓮如登場以後のことです。
それまでは、真言門徒が武装蜂起をした例はありません。最初の例は、応仁の乱の十年程前のことで、延暦寺のお膝元である近江国(滋賀県)で起きます。背景は本願寺の教線が、自分のお膝元に近江に及んでくるのに警戒心をもった延暦寺の衆徒の反発と過剰反応です。延暦寺衆徒は、京都東山にあった大谷本願寺を襲撃・破壊し、近江の門徒にも攻撃を加えます。これが「寛正の法難」です。近江門徒の一部は、金森に集結して衆徒らと戦います。これが最初の一向一揆とされています。つまり、最初の一向一揆は延暦寺の攻撃に対して武装防衛のために立ち上がったものと云うことになります。これまでは延暦寺衆徒による本願寺破却と近江門徒への攻撃は、「顕密仏教勢力による鎌倉新仏教への弾圧」という流れの中で捕らえられてきました。
しかし、「寛正の法難」からは、従来の説とは矛盾する次のような点があったことが分かります。
①比叡山衆徒から攻撃されたのは本願寺派だけであること。
②真宗高田派については、「本願寺派とは異なる」というその主張を受け入れて攻撃していない。
③仏光寺派は天台宗妙法院の庇護によって山門の政撃を免れている。
④山門衆徒と本願寺との停戦斡旋したのは本願寺を「候人」(保護下の存在)として庇護する大台宗三門跡の一つ青蓮院であったこと。
以上からは、この争いが「顕密仏教の天台宗と鎌倉新仏教の真宗との宗派対立」という見方では、とらえきれいないと研究者は判断します。
親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年記念企画展(第91回企画展)近江堅田 本福寺 | 大津市イベント情報集約サイト

16世紀の近江国堅田の真宗寺院本福寺の記録『本福寺跡書』を見ておきましょう。
『本福寺跡書』によると延暦寺の山門衆徒にとっては、宗旨が問題だったのではなく「礼銭(示談金)」をとることが目的であったと記します。そして最終的には、次のような協約でけりがつけられています。
①蓮如の嫡子順如が本願寺後継住持の地位を放棄し、五男実如を後継者とすること、
②本願寺は延暦寺山門西塔院末として「末寺銭」三十貫を納入すること
ここには宗教的なことは何も出てきません。両者の抗争原因が、宗旨問題ではないことが分かります。実態は、幕府要人の支持を背景に教線を伸ばした本願寺教団と、それに警戒を強めた山門延暦寺との私闘と研究者は判断します。延暦寺の本願寺攻撃は「顕密仏教勢力による鎌倉新仏教教団の弾圧」というモデルには、当てはまらないことを押さえておきます。そしてこれが最初の一向一揆の登場モデルなのです。


加賀一向一揆は、現地の政治対立に関わる一向一揆でした。
それに対して、幕府の権力争いにからんで一揆が起こった例もあります。将軍家が分裂して将軍候補者二人が並立し、また幕府内最大の勢力細川家もまた分裂して家督争いを繰り返すという政治状況が、16世紀になると続きます。このような中で将軍家や諸大名と密接な関係にあった本願寺は、これに頭を突っ込んでいきます。そして、諸国の門徒に武装蜂起を指令しています。信長との石山合戦も、このような一向一揆の一つのパターンと研究者は考えています。これらを石山合戦型一向一揆としておきます。
その一例が永正3(1506)年の、永正の争乱をめぐる一向一揆です。
これは細川政元後の将軍相続をめぐる抗争で、この中で香西氏などの多くの讃岐国人衆が没落していったことを以前にお話ししました。
本願寺は足利義澄を将軍として擁立する細川政元方に荷担して諸国の門徒に蜂起を命じます。越中、越前、加賀などの本願寺門徒が政元方として戦った他、河内、丹後、能登、美濃、三河などで本願寺門徒の蜂起や足利義澄方の軍勢の侵攻で、大量の戦死者が出ています(『東寺光明講過去帳』)
 これは本願寺門徒による大規模な武装蜂起でしたが、その要因は将軍家内の対立や、幕府有力者間の政治対立への介入です。これも教義や信仰とは無関係です。「仏法」のため以外の動員はしないという原則を、蓮如はもっていました。そのため「本願寺の危機=仏法の危機」という論理を持ち出して、門徒動員を行う必要があったと研究者は考えています。ここでは将軍家や幕府内部の政治抗争に、本願寺教祖が介入し、門徒が動員されたことを押さえておきます。

こうして見ると石山合戦も幕府をめぐる権力闘争の一コマということになります。
その一方の主役が織田信長で、もう一方の主役が前将軍・足利義昭と云うことになります。本願寺が最初に信長に対して峰起したのは元亀元(1570)年のことです。信長に擁立された将軍足利義昭と信長とが畿内を制圧します。一方、信長に追い出された三好三人衆も反政を開始します。これに近江六角氏、越前朝倉氏、近江浅井氏なども続いて蜂起します。本願寺顕如は、三好三人衆を支援する反信長勢力の一員として、諸国門徒を動員します。
どうして、本願寺顕如は信長との戦端を開いたのでしょうか?
 本願寺法主顕如は、門徒に対して信長が本願寺に無埋難題をふっかけ、遂に本願寺を破却するとの宣戦を行ったたために「本願寺防衛」のために戦うと訴えています。しかし、研究者はそうした史実は見当たらないとします。織田信長が本願寺教団に圧迫を加えたことはないというのです。それまでそのような素振りを見せなかった本願寺の突然の蜂起に、信長方は「仰大した」(『細川両家記』)と記します。そもそも顕如は、当初は足利義昭を擁立した信長の人京を歓迎する旨を信長に書き送っています。ここからは、両者の間には公然たる敵対関係はなかったことがうかがえます。
 本願寺が蜂起した時、義昭・信長の軍勢は大坂本願寺近くの野田・福島に籠る三好好三人衆を攻撃中でした。そのため信長側は、本願寺に対しては全く無防備でした。信長と浅井・朝倉両氏との抗争には、近江国の本願寺門徒が浅井軍を加勢しています。また伊勢国長島願証寺が蜂起し、信長の弟織田信興を攻めて自殺させるなど本願寺は、浅井・朝倉方に味方して戦っています。更に元亀3(1571)年後半になり、武田信玄が浅井・朝倉氏と通じ、信長に叛旗を翻し、足利義昭が信玄に呼応するようになります。このような反信長包囲網が完成し、信長が圧倒的不利と見られたときに、本願寺顕如はパワーゲームに参加したことになります。しかし、信玄の病死により武田軍は撤退し、義昭は信長に敗れ京都を去り、信長は浅井・朝倉氏を滅ぼします。同盟軍を失った本願寺は信長に和睦を申し入れます。信長は、この時も了承して天正元(1573)年には、和睦が成立しています。

 ところが翌年に越前で一向一揆が蜂起します。
一揆側は朝倉氏滅亡時に織田方に寝返り、越前の大名となっていた朝倉氏家臣前波長俊を滅ぼし、越前領国を制圧します。本願寺からは一揆集団支援のために、戦闘指導者が派遣されます。この時に本願寺顕如は、織田信長に対して再度蜂起します。これに対して信長は佐久間信盛、細川藤孝、明智光秀らを大坂方面に派遣して本願寺を攻撃させます。そして自らは軍勢を率いて伊勢国(三重県)長島の一向一揆を包囲し兵糧攻めにします。ここでは信長は長島一揆側の降伏の申出を許しません。殲滅作戦を行い、降参した一揆を欺し討ちにして無差別殺戮を行い、籠城した一揆衆を焼き殺すなど凄惨な殺戮の末に、伊勢長島一向一揆を殲滅します。それにとどまらず一揆の残党を捜索して皆殺しにし、本願寺門徒を同じ真宗高田派に強制改宗させます。これは門徒に対する信仰上の迫害には違いありません。しかし、高田派も真宗です。真宗の教義それ自体を信長が敵視したわけではないことを押さえておきます。進退窮った本願寺は和睦を乞い、信長も「赦免」します。前回に続き、2度目の本願寺の停戦要望に信長は同意しています。
念慶寺縁起(8)元亀騒乱④第1次信長包囲網と一向一揆 | 速水馨のブログ

天正4(1576)年、信長から畿内追放になった足利義昭は備後国鞆に亡命し、反信長包囲網形成に尽力します。

毛利氏の庇護を受けて自分の京都復帰を支援するようにとの書簡を各地の有力戦国大名に送っています。これを受けて越後国(新潟県)の上杉謙信、甲斐国(山梨県)武田勝頼、相模国(神奈川県)北条氏政が毛利氏に呼応し、反信長包囲網が形成されます。本願寺も義昭の呼びかけに応じて信長と三度目の交戦を開始します。諸国門徒も動員され大坂石山本願寺に籠城し、信長軍とあしかけ五年にわたる戦いを繰り広げます。これを「石山合戦」と呼びます。

織田信長の天下布武

天正七(1579)年末、劣勢に立った本願寺顕如に対し、信長が朝廷を動かして天皇から本願寺・信長の和睦が勧告されます。
これを受けて本願寺は寺地を手放して大坂を退去することを代償に、本願寺教団の存続を認めることが協定で約されます。それに対して、顕如の嫡子教如を担いだ抗戦続行派の抵抗もありましたが、結局は信長に屈し、前記協定の線で石山合戦は終息します。

このような石山合戦の経過をみて、気がつくのは交戦開始は、いつも本願寺顕如側にあることです。
元亀元(1570)年の開戦
天正三(1574)年の開戦
天正四(1576)年の開戦
すべて戦いは本願寺側から戦端が開かれています。これに対して信長側から事前に、本願寺教団への弾圧があったことを示す史料はないようです。
これと対照的なのは織田信長の和睦承認や本願寺に対する「赦免」です。
①天正元(1573)年の和睦も劣勢に立った本願寺に対し信長が停戦を承認したもの
②天正三(1575)年の和睦では伊勢長島、越前では徹底した皆殺し作戦をとっていますが本願寺に対しては穏やかな「赦免」
③天正八(1580)年には、わざわざ天皇の権威を持ち出し、本願寺教団の存続を認め、さらには教如を擁立した抗戦続行派の抵抗という事態にも、これを咎めることなく和睦
最後の和睦の際に信長が要求した大坂退去は、戦国大名同士の和平協約の際の「領土の一部割譲」と同じと研究者は評します。ここからは、信長は本願寺と本願寺教団を滅亡させるために戦っていたという説は成り立たないと研究者は判断します。
天正十(1582)年2月、本願寺顕如が拠点としていた紀伊国雑賀で、在地領主同士の紛争が起こります。調停しようとした本願寺が逆に巻き込まれて窮地に立ちます。この時に信長は「門跡(顕如)」の「警固」のために、家臣野々村三十郎を派遣しています。また諸国の本願寺門徒が、顕如のいる紀伊雑賀に参詣する際の通行安全も保障しています。
古書】正徳二年板本 陰徳太平記(全六巻)米原正義 東洋書院 www.thesciencebasement.org
陰徳太平記
 織田信長が本願寺を攻撃したのは、大坂の寺地を重要戦略拠点として獲得したいと信長が望んだためだという説があります。
これは17世紀末に成立した『陰徳太平記』に始めて書かれる見解です。これが世間では定説化されていきします。しかし、信長が大坂の寺地を望んだのなら、天正元年、天正三年の本願寺が劣勢に陥って和睦を乞うた時に、信長は寺地譲与を条件とするはずです。その時点では、石山からの退出は、停戦条件となっていません。信長が大坂の寺地を和睦の代償に要求したのは、天正八年の和睦になってからです。

むごい!戦国時代の壮絶な戦い3選(前編)・長島一向一揆編【ゆっくり解説】 - YouTube
壮絶な戦いにランキングされている長島一向一揆

 織田信長と一向一揆との敵対関係を示すものとして引き合いに出されるのは、伊勢長島一向一揆です。
しかし、近年の戦国史研究が明らかにしてきたことは、大量虐殺は戦国期の大名間の合戦では当たり前の戦術だったことです。例えば伊達政宗が天正十三(1585)年に大内定綱の軍勢が立て籠もる小手森城を攻略した際には城主・親類五百人余りを殺害し、女性、子供はもちろん犬まで無差別に殺傷しています。その結果、大内方の四カ所の城が降参し、他の四カ所は逃亡した、と政宗が戦果を誇っています。(『佐藤文右衛門氏所蔵文書』八月二十七日伊達政宗書状)、これは敵方の殲滅を意図したものではなく、戦術であり、敵方へのアピールだったと研究者は考えています。信長は一向一揆に対して降参の申し出を許したり、非戦闘員の赦免を指示したりしている事例もあります。 一向一揆との戦闘において総て皆殺しや大量殺数を指向してはいないと研究者は評します。
 また信長が無差別殺頷を行うのは、 一向一揆の場合のみならず、大名同士の合戦でもありました。ここでは、無差別殺戮戦術が信長の一向一揆対する唯一の対処法と考えるのは誤っていることを押さえておきます。ちなみに比叡山焼討も山門衆徒が、僧侶として遵守すべき中立を破り、密かに浅井・朝倉に味方したことへの報復です。宗教人や宗教集団であることが理由で行われたものではないと研究者は指摘します。
それならどうして信長が仏教を軽視し、否定的に扱ったという見解が生まれてきたのでしょうか。
確かに、信長が寺院を統制し、宗教団体や宗教勢力にある局面では敵対したこともあります。しかし一方で、仏教者や仏教寺院の特権を承認していた事例も数多くあります。当時の戦国大名は領国内で俗的支配と宗教者や宗教団体の存続との両立をめざしていました。信長の対応もその延長線上で考えるべきだと研究者は指摘します。信長は畿内の寺社領に対して、「守護不入」の特権を認め、寺院の自治を認めている例もあります。信長も、宗教者や宗教団体との共存を目指したいたと研究者は考えています。

イエズス会がみた「日本国王」: 天皇・将軍・信長・秀吉 (508) (歴史文化ライブラリー) | 和也, 松本 |本 | 通販 | Amazon

 信長が仏教に対して否定的だったという見解は、イエズス会宣教師の信長像によるところが大きいようです。
イエズス会は信長を自分たちの有力なパトロンとして宣教活動を進めていきます。そして、仏教諸勢力と対立し、キリシタン大名に働きかけて寺社を破壊させ、僧侶を迫害することも行っています。高山右近や小西行長の領土では、そのような動きがあったことを以前にお話ししました。そのため宣教師達は、本国への報告の際には、仏教を「偶像崇拝=迷信」と迫害する信長像のみが正義として強調されます。仏教を保護する信長の一面を伝えることはありませんでした。
   どちらにしても信長の仏教観や宗教政策は、江戸時代の仏教指導者や同時代のイエズス会の宣教師の目を通して記されたもので「色眼鏡」で見られていることを押さえておきます。織田信長が「一向一揆解体を目指して、抑圧的な姿勢で臨んだ」とされる通説には根拠がないと研究者は指摘します。

一向一揆が大名の軍勢と交戦したことも、その反権力性の証などではありません。本願寺が反信長包囲網の一員として参加したために、そのパワーゲームのメンバーとして軍事力を提供する義務が生じていたのです。同盟関係を結ぶと云うことは、義務を負わされると云うことです。政治的勢力となった本願寺顕如が取らざる得なかった外交政策の結果であるとみるほうが合理的です。
 一向一揆を反権力的で、中世ヨーロッパの異端運動とダブらせるような宗教一揆像は、どこから形成されたのでしょうか?
こうした一向一揆像は17世紀になってから歴史書に登場すると研究者は指摘します。つまり近世の創作物です。創作の要因は次の2点です。
①東西両本願寺派の正統性をめぐる論争
②江戸時代に本山が門徒たちに、先祖の篤信の物語として喧伝した石山合戦譚。
前者については、本願寺は江戸時代になって家康の宗教政策で東西両派に分裂します。その分裂要因の一つは、法主顕如とその嫡子教如との対立です。
教如: 東本願寺への道 | 大桑 斉 |本 | 通販 | Amazon


天正八(1580)年3月に、信長との講和に顕如とその子教如は同意します。
ところが直後に、教如はこの同意を翻し、大坂本願寺に留まり抗戦続行を諸国門徒に呼びかけます。紀伊国雑賀に退去した父顕如と、大坂に残留して信長への抗戦続行を叫ぶ教如とに教団は分裂します。この対立は、教如が信長に降伏し、顕如に詫びを入れて本願寺教団に復帰したことで収められます。しかし、教如は法主の地位を継ぐことができません。それが後の東木願寺創始につながります。こうして両本願寺が並び立ち、17世紀に東西両派はその正統性をめぐる論争を繰り広げます。
その際に、西本願寺側は教如を非難するために「鷺森(さぎもり)合戦」という事件を捏造します。その物語を見ておきましょう。
  天正十年(1582)6月2日未明の本能寺の変の時に、信長は子の信孝に鷺の森を制圧するよう命じていたという。『陰徳太平記』巻第六十七「紀州鷺森合戦並本願寺表裡分派事」に次のように記述されています。
 天正十年6月3日の早朝、織田勢先鋒の信孝殿の兵が「鷺の森」に押し寄せてきた。この地にとどまる門徒らは、如来の助けや祖師のご恩に報いるために、骨が砕かれ身が裂かれても惜しくはないと思っていた。恐れるものがないので、これが最後だと決心して大砲を構え、さんざん撃ちまくったところ、寄手は、踏ん張ったけれども楯や竹束が打ち壊され、たまらず数十町引き下がった。一息ついて、また敵が押し寄せるかと思っていると、巳の刻のころに寄手は陣を引き払って大坂に退いてしまった。だが、こんなに急に退くとは思わなかったので、後追いすることはしなかった。これほどの勢いで攻め寄せ、先鋒が鉄砲を突き付けておきながら急に引き返したことは、どうにも解せなかったが、後から聞くと、信長公が殺されたとの報告があったために、そうなったとのことだ。
こには教如の違約に遺恨をもった信長が、密かに本願寺を滅ばそうとして軍勢を派遣したという物語です。顕如上人は危機一髪のところを御仏の御加護により助かった、というオチです。これを事実として西本願寺は喧伝し、教如は本願寺教団を危機に陥れた張本人である批判・攻撃します(『本願寺表裏間答』)。
 この物語で研究者が注目するのは、次の二点です。
①本願寺に敵意のなかった信長が教如の違約を恨み本願寺職滅を企てたこと
②信長の怒りには顕如もまた共感を示して教如を非難したとして、教如の違約を批判していること
この物語を捏造した西本願寺側には、違約でもない限り信長が本願寺を敵視するはずがないと認識していたことが前提としてうかがえます。ところが反論する東本願寺も、再反論する西本願寺も、信長はもともと本願寺を敵視し、滅ぼす意図があったとの言説を論争の中で創り出していきます。信徒が求めていたのは、信長と戦う先祖門徒の活躍する英雄譚だったのです。そのために、「明智軍記』『陰徳太平記』など一般読者を対象とする軍記物に「鷺森合戦」が取り入れられるようになります。この過程で、本願寺門徒は言うに及ばず、世間的にも「本願寺に敵対的な信長像」が定着したと研究者は考えています。こうして、本山側が門徒に行う説教にも「信長=仏教破壊者・本願寺の敵」として流布されるようになり、唱導本にこの文脈で石山合戦譚が取り入れられます。こうして「本願寺潰滅を期す信長」という信長像は、東西本願寺の論戦を離れて一人歩きするようになります。両本願寺の門徒集団の中で「石山合戦は、法敵信長と篤信で本山に忠義な門徒との合戦物語」として語り継がれるようになります。
 軍記物に、篤信門徒の武装蜂起として「一向一揆」の言葉が登場するのは、18世紀になってからです。
こうして一向一揆像は、戦後歴史学でも十分な検討なしに受容されていきます。民衆の宗教運動である一向一揆の蜂起と、天下人・織田信長による圧殺という筋書は、こうして通説化します。信長の実像は、近世に伝えられた虚像のむこうにあります。その全貌はなかなか見えてこないようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
一向一揆の特質 躍動する中世仏教310P

 江戸時代の高松御坊と塩屋御坊は、つぎのような関係にありました。     
①高松御坊(高松藩)は、興正寺末の勝法寺が管理
②塩屋御坊(丸亀藩)は、西本願寺直轄で本山の輪番寺が管理
西本願寺と興正寺の間には、本末関係にありながら根深い対立があったことは以前にお話ししました。西本願寺は興正寺を自派の末寺と考えていたのに対して、興正寺は自ら本山と称していました。このような両者の対立は、明暦元年(1655)4月には、幕府によって興正寺19世准秀が越後へ流罪となるような事態も生みました。それでも興正寺は、別派を立てる運動をやめません。そのため興正寺別院の高松御坊(勝法寺)も、西本願寺に素直に従おうとはしなかったようです。高松御坊にすれば、三好実休以来の伝統があり、最近出来たばかりの丸亀の塩屋別院とは歴史も格もちがうという自負心もありました。それを高松藩が応援します。

高松藩藩祖の松平頼重は、興正寺との間に次のような姻戚関係がありました。
①興正寺18世准尊の娘良子が父頼房の側室に上がっていたこと、
②自分の娘万姫が20世良尊円超の養女となり、三男で21世を継いだ寂眠の室となったこと
このため興正寺や勝法寺を保護し、西本願寺との争いでも興正寺方に強く肩入れします。高松御坊からすれば、西本願寺のもとで新たに設置された丸亀藩の塩屋御坊は、自派に対しての切り崩し拠点のように見えたのかも知れません。そのため対抗的な姿勢を示します。それを高松藩も支援するという空気が生まれていきます。そのギクシャクした関係を見ておきましょう。

享保19(1734)年に、教法寺の住職が追放され、西本願寺の別院となったことは以前にお話ししました。
その際に、西本願寺は、御坊御請の御礼に高松に戒忍寺住職を派遣しています。彼は、高松藩へのあいさつを終わると、6月8日には高松勝法寺(高松御坊)へ出向いて塩屋御坊のことをよろしくおねがいしますと挨拶を済ませています。それ以前の6月5日付で、西本願寺からも高松の勝法寺へ次のような挨拶状が送られています。
一筆中さしめ候……然らば其の国丸亀領塩屋村教法寺儀、四年以来御本山え願い置かれ候処、今度、御領主え仰せ入れられ御許容の上 御坊に 仰せ付られ候間、万端御坊輪呑示し合さるべく候、触等の儀は在来の通りに候間、その意を得らるべく侯、不宣
六月五日                三人
高松 勝法寺
追啓 法中え 仰せ渡されの御使僧として戒忍寺御差下候間、左様心得らるべく候、以上
  意訳変換しておくと
一筆啓上奉り候……讃岐国丸亀領塩屋村教法寺について、先年以来、本山に対して別院化の願いがあった。そこで、丸亀藩主に願いでたところ許可が下りたので、正式に塩屋別院(御坊)とすることが認められ。ついては、万事について塩屋別院と協議しすること。なお、触頭等については従来の通りに行われるように、取り計らうように依頼する。不宣
六月五日            三人
高松 勝法寺
追伸 法中への仰せ渡しの使僧として戒忍寺を派遣して、以上のようなことを伝えたと、心得えていただきたい。以上

しかし、その後の経過を見ると、西本願寺が期待したようには、勝法寺と御坊輪番寺との関係はうまくいかなかったようです。
讃岐の真宗興正派の寺からは、丸亀藩の塩屋別院は西本願寺の讃岐への教勢拡大の拠点として設置された寺院で、自分たちの勢力圏に打ち込まれた布石とみられていたような気配がします。そのため塩屋御坊の活動については、非協力的な態度で臨みます。例えば塩屋御坊ができて4年後の元文2年(1737)には、次のような事件が起きています。
本願寺から御影が届きました | 浄泉寺
祖師(親鸞)御影
この年5月、塩屋別院に祖師御影が下付され、6月21日から28日まで開帳が行われることになります。そこで、開帳セレモニーへの参加を、讃岐の真宗寺院に呼びかけるために、塩屋別院の当時の輪番寺・弘願寺は「御遷座の節、法中・門中参詣の義」の触れ(通知)を出します。
 これに対して、丸亀城下の正玄寺(西本願寺末)から異議が出されます。それは高松藩の触頭寺は、高松御坊(勝法寺)であるので、その触れ(通知・指図)がなくては参詣できないと断ってきたのです。困った弘願寺は、西本願寺に経過報告するとともに、対処方を相談しています。これに対して西本願寺は、次のように答えています。

……是迄も御触・連署差し下し候節は、惣法中の触は正(勝)法寺え向け添状遣し正法寺より相触れ候、其御坊えは格別に別紙を以て御触の趣申し遣し候事に候、此度の儀も共の元より正法寺え向け連署相渡され正法寺より相触させ候えば、初発より御定の通りに相違致さずと中ものに候、其の元より直に触れられ候故、其の御坊の触下の様にも成るべきかと正法寺よりもこばみ候ものと推察せしめ候……

  意訳変換しておくと
 これまでも本山からの御触・連署を差し下す時には、真宗寺院の触頭寺である高松の正(勝)法寺へ送付し、それを正法寺から讃岐の各真宗寺院へと相触(連絡)するという方法をとってきた。これについては、以前に別紙で「触等の儀は在来(従来)の通り」と高松御坊(勝法寺)に伝えている。
 この度の件については、勝法寺へ連署を渡たし、勝法寺から相触(連絡)させれば、問題は起きなかったはずである。それが勝法寺を通さずに、丸亀別院(輪番寺弘願寺)から直接に、各寺委員への連絡通知をだしたことが、勝法寺の機嫌を損ねたのだろうと推察する…。
ここからは高松領、九亀領ともに真宗寺院への触れは高松の勝法寺から触れるのが筋道だと西本願寺でも承知していたことが分かります。それを守らなかった輪番の弘願寺に落ち度があるとも云わんばかりの内容です。これが慣例なのかもしれませんが、丸亀藩における連絡網としては、機能不全です。丸亀御坊が丸亀藩の真宗寺院に触れを出す場合にも、その都度高松御坊に依頼して出さなくてはならないということになります。これは、不便ですし、何より屈辱的です。

塩屋別院3
塩屋御坊(讃岐国名勝図会) 現在の本堂は安永4年のもの
安永4年(1775)の丸亀御坊の本堂上棟の時のことです。
30年余りの工期の末に、立派な本堂が完成します。その御書請待(セレモニーへの参加依頼書)が、藩主には西本願寺門主からの御書が、丸亀藩家老ヘは本山坊官からの連署が下されます。これに対して、興正寺末の金倉円龍寺と津森光善寺は「先例に従わないもの」と不承知の意思表明をします。そこで、丸亀御坊の当時の輪番寺だった善行寺は、丸亀藩の寺社役・安達覚左衛間、安藤貞右衛門、明石六太夫へ掛け合って、寺社役名で、門主の御書を受け取るように領内の末寺へ申し渡します。これは「特別措置」なのでお礼として、西本願寺は門跡から丸亀藩主に薫物と肴、家老と寺社役へは本山からそれぞれ羽二重と肴、加賀絹と肴が贈られています。「お手数をおかけしました」というお礼とお詫びの意味が込められていたのでしょう。
 しかし、西本願寺のこのような動きに対して、興正寺も黙っていません。
使僧桃源寺を丸亀に派遣して、これを先例としないように立ち働いたようです。その結果、翌(1777)年になって興正寺末の寺々からは不承知の旨が藩に対して出されます。藩では、それをも聞き入れて御書聴写猶予の触れを出しています。この当たりには、丸亀藩の高松藩に対する配慮ぶりがうかがえるように見えます。
 これに対して西本願寺はからは、次のような不満の書状が丸亀藩に送られてきます。
「……塩屋村掛所再建労に付き、御領中の末寺・門徒ども弥増しに法義相続候様に相示され候儀にて、 一国中におよひ候儀にて御座無く候故、寺法に差間と申す筋にては御座無く候……」

意訳変換しておくと

「……塩屋村掛所(御坊)の本堂再建の落慶法要について、御領中の末寺・門徒に対して法義に基づいて、通達連絡を行おうとしました。これについては讃岐一国のことではなく、丸亀藩内だけに関わることです。(どうして高松の勝法寺を通す必要があるのでしょうか。) 寺法を乱すものだという批判は、的外れです。」

しかし、丸亀藩の意向を変えることはできません。
このように京都の本山同士の争いが続いている間は、興正寺末の勝法寺やその他の諸院と塩屋御坊との関係は、決して円滑な者ではなく、ぎくしゃくとした関係だったようです。

以上をまとめておくと
①塩屋別院(御坊)は、もともとは赤穂からやって来た製塩集団を門徒たち建立した西本願寺を本寺とする寺だった。
②それが18世紀前半に、住職と門徒集団の争いで住職が追放され、西本願寺直属の御坊となっり、本山の僧侶が輪番で管理運営するようになった。
③しかし、讃岐の真宗寺院の触頭寺・勝法寺(高松御坊)からすると、宗派も異なり自分のテリトリーを犯す存在と写ったのか、反目が絶えなかった。
④こうして西本願寺別院としての塩屋御坊は、多数派の真宗興正派寺院からは冷たい眼で見られた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  まんのう町の「ことなみ道の駅」から県境の三頭トンネルを抜けて、つづら折りの国道438号を下りていったところが美馬町郡里(こおさと)です。「郡里」は、古代の「美馬王国」があったところとされ、後に三野郡の郡衙が置かれていたとされます。そのため「郡里」という地名が残ったようです。「道の駅みまの家」の南側には、古代寺院の郡里廃寺跡が発掘調査されていて、以前に紹介しました。

郡里廃寺跡 クチコミ・アクセス・営業時間|吉野川・阿波・脇町【フォートラベル】
郡里廃寺跡

この附近は讃岐山脈からの谷川が運んできた扇状地の上に位置し、水の便がよく古くから開けていきた所です。美馬より西の吉野川流域は、古代から讃岐産の塩が運び込まれていきました。その塩の道の阿波側の受け取り拠点でもあった美馬は、丸亀平野の古代勢力と「文化+産業+商業」などで密接な交流をおこなています。例えば、まんのう町の弘安寺跡から出土した白鳳期の古代瓦と同笵の瓦が郡里廃寺から見つかっています。讃岐山脈の北と南では、峠を越えた交流が鉄道や国道が整備されるまで続きました。

美馬市探訪 ⑥ 郡里廃寺跡 願勝寺 | 福山だより
郡里廃寺跡南側の寺町の伽藍群

 郡里廃寺の南側には、寺町とよばれるエリアがあって大きな伽藍がいくつも建っています。
それも地方では珍しい大型の伽藍群です。最初、このエリアを訪れた時には、どうしてこんな大きな寺が密集しているのだろうかと不思議に思いました。今回は郡里寺町に、大きなお寺が集まっている理由を見ていくことにします。その際に「想像・妄想力」を膨らましますので「小説的内容」となるかもしれません。
 地域社会と真宗 千葉乗隆著作集(千葉乗隆) / 光輪社 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」です。千葉氏は、郡里の安楽寺の住職を務める一方で、龍谷大学学長もつとめた真宗研究家でもあります。彼が自分の寺の「安楽寺文書」を整理し、郡里村の寺院形成史として書いたのがこの論文になります。
安楽寺3
河岸台地の上にある安楽寺と寺町の伽藍群
 寺町は扇状地である吉野川の河岸段丘の上に位置します。
安楽寺の南側は、今は水田が拡がりますが、かつては吉野川の氾濫原で川船の港があったようです。平田船の寄港地として栄える川港の管理センターとして寺は機能していたことが考えられます。
 この寺町台地に中世にあった寺は、真宗の安楽寺と真言宗の願勝寺の2つです。
寺町 - 願勝寺 - 【美馬市】観光サイト
願勝寺
願勝寺は、真言系修験者の寺院で阿波と讃岐の国境上にある大滝山の修験者たちの拠点として、大きな力を持っていたようです。天正年間(1575頃)の日蓮宗と真言宗の衝突である阿波法幸騒動の時には、真言宗側のリーダーとして活躍したとする文書が残されています。願勝寺は、阿波の真言宗修験者たちのの有力拠点だったことを押さえておきます。

安楽寺歴史1
安楽寺の寺歴
 安楽寺は、上総の千葉氏が阿波に亡命して開いたとされます。
千葉氏は鎌倉幕府内で北条氏との権力争いに敗れて、親族の阿波守護を頼って亡命してきた寺伝には記されています。上総で真宗に改宗していた千葉氏は、天台宗の寺を与えられ、それを真宗に換えて住職となったというのです。とすれば安楽寺は、かつては、天台宗の寺院だったということになります。それを裏付けるのが境内の西北隅に今も残る宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠です。中世には、天台・真言のお寺がひとつずつ、ここに立っていたことを押さえておきます。
 その内の天台宗寺院が千葉氏によって、真宗に改宗されます。
寺伝には千葉氏は、阿波亡命前に、親鸞の高弟の下で真宗門徒になっていたとしますので、もともとは真宗興正派ではなかったようです。そして、南無阿弥陀仏を唱える信者を増やして行くことになります。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
安楽寺の末寺分表

 安楽寺の末寺分布図を見ると、阿波では吉野川流域に限定されていること、吉野川よりも南の地域には、ほとんど末寺はないことが分かります。ここからは、当時の安楽寺が吉野川の河川交通に関わる集団を門徒化して、彼らよって各地に道場が開かれ、寺院に発展していったことが推測できます。
宝壷山 願勝寺 « 宝壷山 願勝寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

念仏道場が吉野川沿いの川港を中心に広がっていくのを、願勝寺の真言系修験者たちは、どのような目で見ていたのでしょうか。
親鸞や蓮如が、比叡山の山法師たちから受けた迫害を思い出します。安楽寺のそばには真言系修験者の拠点・願勝寺があるのです。このふたつの新旧寺院が、初めから友好的関係だったとは思えません。願勝寺を拠点とする修験者たちは、後に阿波法華騒動を引き起こしている集団なのです。黙って見ていたとは、とてもおもえません。ある日、徒党を組んで安楽寺を襲い、焼き討ちしたのではないでしょうか?
  寺の歴史には次のように記されています。

永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」

 ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜいままでの所に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか? その原因のひとつとして願勝寺との対立があったと私は考えています。

安楽寺文書
「三好千熊丸諸役免許状」(安楽寺)
  安楽寺の危機を救ったのが興正寺でした。
それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」には次のように記します。(意訳)
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える

この免許状の要点を挙げると
①「興正寺殿からの口添えがあり」とあり、調停工作を行ったのは興正寺であること
②内容は「帰還許可+諸役免除+安全保障」を三好氏が安楽寺に保証するものであること。
③「違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える」からは、安楽寺に危害を加える集団がいたことを暗示する
この「免許状」は、安楽寺にとっては大きな意味を持ちます。拡大解釈すると安楽寺は、三好氏支配下における「布教活動の自由」を得たことになります。吉野川流域はもちろんのこと、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えると云うことになります。安楽寺が讃岐と吉野川流域に数多くの末寺を、もつのはこの時期に安楽寺によって、数多くの念仏道場が開かれたからだと私は考えています。
 そして、安楽寺は調停を行ってくれた興正寺の門下に入っていったと私は考えています。
それまでの安楽寺の本寺については、本願寺か仏国寺のどちらかだと思います。安楽寺文書には、この時期の住職が仏国寺門主から得度を受けているので、その門下にあったことも考えられます。どちらにしても、最初から興正寺に属していたのではないような気がします。
 こうして、三好氏の讃岐支配の拡大と歩調を合わせるように安楽寺の教線ラインは伸びていきます。
まんのう町への具体的な教線ラインは、三頭・真鈴峠を越えて、勝浦の長善寺、長炭の尊光寺というラインが考えられます。このライン上のソラの集落に念仏道場が開かれ、安楽寺から念仏僧侶が通ってきます。それらの道場が統合されて、惣道場へと発展します。それが本願寺の東西分裂にともなう教勢拡大競争の一環として、所属寺院の数を増やすことが求められるようになります。その結果、西本願寺は惣道場に寺号を与え、寺院に昇格させていくのです。そのため讃岐の真宗寺院では、この時期に寺号を得て、木仏が下付された所が多いことは、以前にお話ししました。少し、話が当初の予定から逸れていったようです。もとに戻って、郡里にある真宗寺院を見ていくことにします。
近世末から寺町には、次のように安楽寺の子院が開かれていきます。
文禄 4年(1595)常念寺が安楽寺の子院として建立
慶長14年(1609) 西教寺が安楽寺の子院として建立
延宝年間(1675) 林照寺が西教寺の末寺として創立、
     賢念寺・立光寺・専行寺が安楽寺の寺中として創建
こうして郡里村には、真言宗1か寺、浄上真宗7か寺、合計8か寺の寺院が建ち並ぶことになり、現在の寺町の原型が出来上がります。

 安楽寺が讃岐各地に末寺を開き、周辺には子院を分立できた背後には、大きな門徒集団があったこと、そして門徒集団の中心は安楽寺周辺に置かれていたことが推測できます。どちらにしても、江戸時代になって宗門改制度による宗旨判別が行われるまでには、郡里にはかなりの真宗門徒が集中していたはずです。それは寺内町的なものを形作っていたかもしれません。郡里村の真宗門徒が、全住民の7割を占めるというというのは、その門徒集団の存在が背景にあったと研究者は考えています。
宗門改めの際に、郡里村の村人は宗旨人別をどのように決めたのでしょうか。つまり、どの家がどの寺につくのかをどう決めたのかを見ていくことにします。

寺町 - 常念寺 - 【美馬市】観光サイト
安楽寺から分院された常念寺(美馬市郡里)
「安楽寺文書」には、次のように記します。

常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」

意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」

ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家六百軒を分与されたことが分かります。先ほど見たように、安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。それから200年余りは無檀家の寺中あつかいだったことが分かります。
美馬町寺町の林照寺菊花展 - にし阿波暮らし「四国徳島の西の方」
林照寺
西教寺の末寺として創建された林照寺も当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです。それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。
②その後、安楽寺の子院が創建されると、その都度門徒は西教・常念・林照の各寺に分割された
こうして、岡の上に安楽寺を中心とする真宗の寺院数ヶ寺が姿を見せるようになったようです。
 以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧数多くの末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院をいくつも周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」
関連記事

安楽寺文書
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)
 真宗の四国への教線拡大を考える際の一番古い史料は、永正十七年(1520)の三好千熊丸(元長または 長慶)が安楽寺に対して、亡命先の讃岐財田から特権と安全を保証するから帰ってくるようにと伝えた召還状(免許状)です。これが真宗が四国に根付いていたことをしめすもっとも古い確実な史料のようです。
Amazon.com: 大系真宗史料―文書記録編〈8〉天文日記1: 9784831850676: Books

その次は「天文日記」になります。これは本願寺第十世證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けた日記です。『天文日記』に出てくる四国の寺院名は、讃岐高松の福善寺だけです。ここには16世紀前半には、讃岐高松の福善寺が本願寺の当番に出仕していたこと、その保護者が香西氏であったことが書かれています。
その他に讃岐の有力な真宗寺院としては、どんな寺院があったのでしょうか?
幻の京都大仏】方広寺2021年京の冬の旅 特別拝観の内容と御朱印 | 京都に10年住んでみた
秀吉が建立した京都方広寺の大仏殿
天正14(1586)年、秀吉は当時焼失していた奈良の大仏に代わる大仏を京都東山山麓に建立することにします。高さ六丈三尺(約19m)の木製金漆塗坐像大仏を造営し、これを安置する壮大な大仏殿を、文禄4(1595)年頃に完成させます。大仏殿の境内は,現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の3か所を含む広大なもので,洛中洛外図屏風に描かれています。現存する石垣から南北約260m,東西210mの規模でした。モニュメント建設の大好きな秀吉は、この落慶法要のために宗派を超えた全国の僧侶を招集します。浄土真宗の本山である本願寺にも、声がかかります。そこで本願寺は各地域の中本寺に招集通知を送ります。それが阿波安楽寺に残されています。大仏殿落慶法要参加のための本願寺廻状で、その宛名に次のような7つの寺院名が挙げられます。

阿波国安楽寺
讃岐国福善寺・福成寺・願誓寺・西光寺・正西坊、□坊

阿波では、真宗寺院のほとんどが安楽寺の末寺だったので、参加招集は本寺の安楽寺だけです。以下は讃岐の真宗寺院です。これらの寺が、各地域の中心的存在だったことが推測できます。ただ、常光寺(三木)や安養寺などの拠点寺院の名前がありません。安養寺は安楽寺門下ために除外されたのかもしれません。しかし、常光寺がない理由はよくわかりません。また、「正西坊、□坊」などは、寺号を持たない坊名のままです。
 この七か寺中について「讃岐国福成寺文書」には、次のように記されています。
当寺之儀者、往古より占跡二而、御目見ハ勝法寺次下に而、年頭御礼申上候処、近年、高松安養寺・宇多津西光寺、御堀近二仰付候以来、其次下座席仕候

意訳変換しておくと
当寺(福成寺)については、古くから古跡で、御目見順位は勝法寺(高松御坊)の次で、年頭御礼申上の席次は、近年は高松安養寺・宇多津西光寺に次いで、御堀に近いところが割り当てられています。

ここからは江戸時代には、讃岐国高松領内の真宗寺院の序列は、勝法寺(高松御坊)・安養寺(高松)・西光寺(宇多津)・福成寺という順になっていたことが分かります。先ほど見た安養寺文書の廻状に、福成寺・西光寺の寺名があります。ここからも廻状宛名の寺は、中世末期までに成立していた四国の代表的有力寺院であったことが裏付けられます。今回は、これらの寺の創建事情などを見ていくことにします。テキストは、千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」です。

千葉乗隆著作集 全5巻(法蔵館) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

まず宇多津の西光寺です。この寺の創建について「西光寺縁起」には、次のように記します。
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。

意訳変換しておくと
天文八年十一月、向専法師が、本尊の奇特を感じて西光寺を創建した。向専の父は進藤山城守で其手長兵衛尉宣絞という。子細あって、大谷の本願寺で、発心出家し、本願寺十代証知の弟子となり、法名向専を賜った。

ここには、天文年間に大和国の進藤宣政が本願寺証如の下で出家し、宇多津に渡り、西光寺を創始したと伝えます。これを裏付ける史料は次の通りです。
①『天文日記』の天文20年(1551)3月13日の条に「進藤山城守今日辰刻死去之由、後聞之」とあり、西光寺の開基専念の父進藤山城守は本願寺証如と関係があったことが分かる。
②西光寺には向専法師が下賜されたという証如の花押のある『御文章』が保存されている
③永禄十年(1567)6月に、三好氏の重臣で阿讃両国の実力者篠原右京進より発せられた制札が現存している。
以上から、「西光寺縁起」に伝える同寺の天文年間の創立は間違いないと研究者は判断します。
③の西光寺に下された篠原右京進の制札を見ておきましょう。
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
西光寺ではなく「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」とあります。鍋屋というのは地名です。その付近に最初に「念仏道場」が開かれたようです。それが元亀2年(1571)に篠原右京進の子、篠原大和守長重からの制札には、「宇足津西光寺道場」となっています。この間に寺号を得て、西光寺と称するようになったようです。

宇多津 讃岐国名勝図会2
宇多津の真宗寺院・西光寺(讃岐国名勝図会 幕末)
 中世の宇多津は、兵庫北関入船納帳に記録が残るように讃岐の中で通関船が最も多い港湾都市でした。そのため「都市化」が進み、海運業者・船乗や製塩従事者・漁民などのに従事する人々が数多く生活していました。特に、海運業に関わる門徒比率が高かったようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちでした。

6宇多津2135
中世の宇多津復元図 
西光寺は大束川沿いの「船着場」あたりに姿を現す。
 西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。それが「鍋屋道場」の名前になったと推測できます。どちらにしても手工業に従事する人々が、住んでいた中に道場が開かれたようです。それが宇多津の山の上に並ぶ旧仏教の寺院との違いでもあります。
東本願寺末寺 高松藩内一覧
17世紀末の高松藩の東本願寺末寺一覧
つぎに高松の福善寺について見ておきましょう。
福善寺という名前については、余り聞き覚えがありません。 上の一覧表を見ると、福善寺は7つの末寺を持つ東本願寺の有力末寺だったことが分かります。そして、この寺は最初に紹介したように讃岐の寺院としては唯一「天文日記」に登場します。天文12(1543)5月10日条に、次のように記されています。 
「就当番之儀、讃岐国福善寺、以上洛之次、今一番計勤之、非向後儀、樽持参

ここには「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあり、福善寺が本願寺へ樽を当番として持参していたことが記されています。本願寺の末寺となっていたのです。これが根本史料で讃岐での真宗寺院の存在を証明できる初見となるようです。
 この寺の創立事情について『讃州府志』には、次のように記されています。
昔、甲州小比賀村二在り、大永年中、沙門正了、当国二来り坂田郷二一宇建立(今福喜寺屋敷卜云)文禄三年、生駒近矩、寺ヲ束浜二移ス、後、寛永十六年九月、寺ヲ今ノ地二移ス、末寺六箇所西讃二在り、円重寺、安楽寺、同寺中二在リ

意訳変換しておくと
福善寺は、もともとは甲州の小比賀村にあった。それを大永年中に沙門正了が、讃岐にやってきて坂田郷に一宇を建立した。今は福喜寺屋敷と呼ばれている。文禄三年、生駒近矩が、この寺を東浜に移した。その後、寛永16年9月に、現在地にやってきた。末寺六箇寺ほど西讃にある。また円重寺、安楽寺が、同寺中にある。

ここにはこの寺の創建は、大永年中(1521~28)に、甲斐からやってきた僧侶によって開かれたとされています。

高松寺町 福善寺
高松寺町の真宗寺院・福善寺(讃岐国名勝図会)

それでは、福善寺のパトロンは誰だったのでしょうか?
天文日記の同年7月22日は、次のような記事があります。
「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」

ここには、讃岐の香西神五郎が始めて本願寺を訪れたとあります。香西一族の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたようです。つまり、16世紀中頃には、讃岐の武士団の中に真宗に改宗する武士集団が現れ、本願寺と結びつきを深めていく者も出てきたことが分かります。
三好長慶政権を支える弟たち
天下人の三好長慶を支える弟たち
どうして、香西氏は本願寺の間に結びつきができたのでしょうか?
 当時、讃岐は阿波三好氏の支配下にありました。そして、三好長慶は「天下人」として畿内を制圧しています。長慶を支えるために、本国である阿波から武士団が動員され送り込まれます。これに、三好一族の十河氏も加わります。十河氏に従うようになった香西氏も、従軍して畿内に駐屯するようになります。三好氏の拠点としたのは堺です。堺には本願寺や興正寺の拠点寺院がありました。こうして三好氏や篠原氏に従軍していく中で、本願寺に連れて行かれ、そこで真宗に改宗する讃岐武士団が出てきたと推測できます。

西本願寺末寺(仲郡)
願成寺は丸亀平野の農村部にある。

丸亀市郡家の願誓寺は、文安年中(1444~49)に蓮秀によって開かれたとされます。
周辺部には、阿波の安楽寺や氷上村の常光寺の末寺が多い中で、買田池周辺の3つの寺院は西本願寺を本寺としてきました。周辺の真宗寺院とは、創建過程がことなることがうかがえます。しかし、史料がなくて、今のところ皆目見当がつきません。

西本願寺本末関係
高松領内における西本願寺の末寺一覧(17世紀末)
20番が願誓寺で、末寺をもつ。



福成寺は天正末年(1590)に、幡多惣左衛門正家によって栗熊村に創立されたと伝えられます。
この寺も丸亀市垂水町の願誓寺とおなじで、丸亀平野の農村地帯にあります。眼下に水橋池が広がり、その向こうに讃岐山脈に続く山脈が伸びています。境内には寒桜が植えられていて、それを楽しみに訪ねる人も増えているようです。丸亀平野の終わりになる岡の上に伽藍が築かれています。農民の間にも、真宗の教線が伸びてきたことがうかがえます。しかし、その成立過程についてはよくわかりません。

 福成寺
   
以上、廻状宛名の讃岐国六か寺のうち四か寺についてみてきました。残りの正西坊と坊名不明の二か寺については、どこにあったのか分かりません。
ただ、正西坊については、伊予松山の浄念寺ではないかと研究者は考えています。
浄念寺はもともとは三河国岡崎にあった長福院と称する真言宗の寺でした。それが長享年間(1487―89)に、蓮如に帰依して真宗に転じます。そして永禄年間(1558~70)の二代願正のときに、伊予道後に来て道場を開きます。天正14(1586)年、3代正西のときに、本願寺から木仏下付を受けています。讃岐国では所在不明の正西坊は、この伊予国道後の正西坊だと研究者は推測します。その後、慶長年間に松山に移建したといわれています。
以上をまとめておくと
①真宗教団は四国東部の阿波・讃岐両国、とくに讃岐でその教線を伸ばした。
②その背景としては、臨済・曹洞の両教団が阿波、伊予ではすでにその教圏を確立していて、入り込む隙がなかったこと
③それに対して讃岐や土佐はは鎌倉仏教の浸透が遅く未開拓地であったこと。
④それが真宗教団の教線伸張の方向を讃岐・土佐佐方面に向けさせたこと
⑤四国における真宗教団の最初の橋頭堡は、阿波国郡里(美馬)の真宗興正派の安楽寺だったこと
⑤安楽寺は三好氏の保護を受けて、讃岐に教線を伸ばし有力な末寺を建てて、道場を増やしたこと⑦それが安楽寺の讃岐進出の原動力となったこと。
⑧讃岐には、三好氏や篠原氏に従軍して出向いた堺で、真宗に改宗し、菩提寺を建てるものも出てきたこと
⑨宇多津の西光寺のように、海上交易センターとして海運業者などの門徒によって建立される寺も現れたこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」
関連記事

  小松郷生福寺2
流刑先の小松庄・生福寺(まんのう町)法然の説法
        
浄土宗が四国に伝わるのは、承元元年(1207)に開祖源空(法然)が流罪先として讃岐に流されたときとされます。この時に、門下の幸西も阿波に流されていますが、彼の動向についてはまったく分からないようです。その後、幸西は嘉禄の法難(1327)によって、再び四国伊予に流されます。法然の讃岐流刑が、さぬきでの浄土宗布教のきっかけとする説もありますが、研究者はこれを「俗説」と一蹴します。例えば法然の「讃岐流刑」の滞在期間は、春にやってきて秋には流罪を許されて、讃岐を去っています。半年にも及ばない滞在期間です。「源空や幸西の流刑による来国は、浄土宗の流布という点では大した期待はもてない。」と研究者は考えているようです。

九品寺流長西教義の研究(石橋誡道 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

法然門下の九品寺流の祖・長西(
元暦元年(1184年) - 文永3年1月6日1266年2月12日は、伊予守藤原国明の子でした。

讃岐国で生まれ9歳のときに上洛し、19歳で出家して法然に師事します。京都九品寺を拠点にしたことから、九品寺流と呼ばれます。その教えは「念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願であり、諸行でも極楽往生は可能」というもので「諸行本願義」とも呼ばれるようです。長西は建長年間(1249~56)に、讃岐に西三谷寺を開いて教化につとめたとされます。しかし、それも短期間のことで、すぐに洛北の九品寺に移っています。その後、四国では浄土宗を伝道する者が現れません。「法然流刑を契機に浄土宗が讃岐に拡がった」という状況を、残された史料からは裏付けることはできないと研究者は指摘します。

4344102-55郷照寺

宇多津の時衆・郷照寺(讃岐国名勝図会)
 浄土宗の流れを汲む一遍の時衆は郷照寺などに、その痕跡を見ることができます。郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は

「おどりは(跳)ね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

で、一遍の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には、郷照寺が時宗の影響下にあったことを示す史料ともなります。
 滝宮念仏踊りの由来の中にも、「法然が伝えた念仏踊り」と書かれたものもりますが、実際には時衆の念仏踊りの系譜を引くものだと香川叢書は指摘しています。時衆のもたらした影響力は、讃岐の中に色濃く残っているはずなのですが、それを史料で裏付けることは今のところ出来ないようです。しかし、風流踊りの念仏系踊りにおおきな影響を与えているのは、法然ではなくて時衆門徒たちのようです。彼らによって、讃岐でも踊り念仏は拡げられたと研究者は考えています。それが、後世に法然の方に「接ぎ木」され換えたようです。

253 勝瑞城 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の居城 勝瑞

 戦国時代になって細川氏に代わって阿波の主導権を握ったのが三好氏です。三好氏の居城勝瑞でも、時衆が一時流行したことが「昔阿波物語」に次のように記されています。

昔阿波物語 | 日本古典籍データセット
昔阿波物語
勝瑞にちんせい宗と申て、門にかねをたゝき、歌念仏なと申寺を常知寺と申候、京の百万遍の御下り候て、談議を御とき候、その談議の様子ハ、浄土宗ハ南あミた仏ととなへ申候ヘハ、極楽へむかへとられ候か、禅宗真言宗ハなにとヽなへて仏になり候哉と御とき候て、地獄の絵をかけて見せ申候、……又極楽の体ハ、いかにもけつかうなる堂に、うちに仏には金仏にして見事也、念仏中ものハ、此ことくの仏になり、さむき事もあつき事もなく候と御とき候二付、勝瑞之町人ハ、皆浄宗になり申候、此時、禅宗真言宗ハたんなを被取めいわく……

意訳変換しておくと
勝瑞ではちんせい宗と呼ばれる宗派が、門で鉦をたたいて、歌念仏などを唱え、常知寺と称した。そして京の百万遍からやってきた僧侶が、説法を行った。その説法の様子は、浄土宗は南無阿弥陀仏と唱えて、極楽へ向かうが、禅宗真言宗は何を唱えて仏になるというのだろうかと説くことからはじまり、地獄の絵を掛けて見せた……又極楽の様子は、いかにも素晴らしい堂が描かれ、その内側には見事な金仏が描かれている。念仏するものは、このように総てが仏であり、寒さ暑さもない常春の楽園であると説く。これを聞いた勝瑞の町人は、皆浄土宗になったという。この時には、禅宗や真言宗は、大きな被害を受け迷惑な……

ここには、京の百万遍からやって来た僧侶によって、時衆が勝瑞を中心に信徒を増やし、一時は禅宗や真言宗を駆逐するほどの勢いであったことが記されています。ところがやがて「少心有町人不審仕候」とその教義に疑問を持つ町人も出てきて人々の信仰心が揺らぎます。その時に、きちんと説明・指導できる僧がいなかったようで、

「皆前々の如く禅宗真言宗になりかへり候二付、浄地寺と申寺一ヶ寺ハかりにて御座候なり」

時衆信徒の多くは、再び禅宗や真言宗にもどって、時衆のお寺は浄地寺ひとつになってしまったと記します。ここからは浄土宗は、四国において、その伝道布教等に人材を得ず、また領主・武士等の有力なパトロンを獲得することができず、大きな発展が見られなかったと研究者は考えているようです。
1 本門寺 御会式
本門寺 西遷御家人の秋山泰忠が建立
日蓮宗はどうだったのでしょうか。
東国からやって来た西遷御家人の秋山泰忠が、讃岐国三野郡高瀬郷に本門寺を開いたことは以前にお話ししました。泰忠は、讃岐にやって来る以前から日蓮門徒でした。高瀬郷での経営が安定すると、正応2年(1289)日興の弟子日華を招いて、領内郷田村に本門寺を造営します。これが西日本での日蓮宗寺院の初見になるようです。この寺は秋山一族をパトロンに、「皆法華」を目指して周辺に信徒を拡大していきます。今でも三野町は、法華宗信徒の比重が高いうようです。

もうひとつの法華宗の教宣ルートは、瀬戸内航路を利用した北四国各港への布教活動です。
本興寺(兵庫県尼崎市) クチコミ・アクセス・営業時間|尼崎【フォートラベル】
尼崎の本興寺
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
DSC08543
宇多津の本妙寺に立つ日隆像
日蓮死後、ちょうど百年後に生まれたのが日隆で、日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出し、その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。そして、次のような港湾都市に寺院が建立していきます。大阪湾岸の拠点港としては
材木の集積地であった尼崎
奈良の外港としての堺
勘合貿易の出発地である兵庫津
また讃岐の細川氏守護所のあったる宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行っています。その結果、創建されるのが宇多津の本妙寺になります。

宇多津本妙寺
日隆によって開かれた日蓮宗の本妙寺(宇多津)
細川氏・三好氏政権を「環大阪湾政権」と呼ぶ研究者もいます。
その最重要戦略が大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っていて、人とモノとカネが行き来する最重要拠点になります。それを支配下に入れていく際に、三好長慶が結んだ相手が法華宗の日華だったことになります。長慶は、法華信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗の寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、堺や兵庫などの港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。
三好長慶】織田信長に先立つ日本最初の天下人 – 日本史あれこれ

天下人・三好長慶の勢力範囲=「環大阪湾政権」

 三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を、本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためとも考えられます。ただ、それだけではないでしょう。堺は、信長や謙信などの諸大名がやって来る「国際商業都市」で、そこに拠点をおいて自らの宗教的モニュメント寺院を建立することは、三好氏の勢威を広く示すことにもなったと研究者は考えているようです。
こうして「三好一家繁昌ノ折ヲ得テ、彼檀那寺法華宗アマリニ移り」と記すように、三好氏の保護を得て、法華宗は教勢を大いに伸ばします。

天正初年、天文法華の乱によって京都を追われた日蓮宗徒は、三好氏の政治拠点である堺を根拠地として、阿波に進出しはじめます。
番外編04 三好氏家系図 - 戦え!官兵衛くん。
そのころの阿波・讃岐は、三好長治の勢力下にありました。長治(ながはる)は伯父・三好長慶が「天下人」として畿内での支配力を強めなかで、本国阿波を預かる重要な役割を担っていました。しかし幼少のため、重臣の篠原長房が補佐します。また、長治は熱心な日蓮宗信者であり、日蓮宗勢力を積極的に支援します。こうした中で天正3年(1575) 堺の妙国寺等から多数の日蓮宗徒が阿波にやってきて、阿波国内すべてを日蓮宗に改宗させようとする「宗教改革」を開始します。これは当然に真言宗徒と対立を引き起こし、阿波法華騒動をひきおこします。
その経緯を「昔阿波物語」は、次のように記します。
 天正三年に、阿波一国の生少迄壱人も不残日蓮宗に御なし候て、法花経をいたヽかせ候時、上郡の瀧寺と申ハ、三好殿氏寺にて候、真言宗にて候、其坊主にも、法花経いたゝかせて、日蓮宗に御なし候、郡里の願勝寺も真言宗にて候を、日蓮宗になり候へと被仰候を、寺をあけて高野へ上り被申候、是をさりとてハ、出家に似相たる事と申て、諸人ほめ申候、此時堺より妙国寺・経上寺・酒しを寺三ヶ寺くたられ候、同宿余(数)多下り、北方南方手分して、侍衆百姓壱人も不残御経いたゝかせ被成候二付而、阿波禅宗・真言宗、旦那をとられ、迷惑に及ひ候二付而、阿波一国の真言宗山伏二千人、持明院へ集り、御そせう申上候様ハ、仏法の事に付て、国中を日蓮宗に被成候儀二候ハヽ、宗論を被仰付候様にと被申上

意訳変換しておくと
 天正三(1575)年に、阿波一国の老弱男女に至るまで残らず日蓮宗に改宗させ、法華経を頂く信徒に改宗させることになった。この時に上郡の瀧寺は、三好殿の氏寺で真言寺院であったが、その寺の坊主にも、法華経を読経する日蓮宗への改宗を迫った。郡里の願勝寺も真言宗であったが、日蓮宗を強制されて、寺をあげて高野山へ避難した。この行道について、人々は賞賛した。
 日蓮宗改宗のために堺から妙国寺・経上寺・酒しを寺の三ヶ寺の日蓮宗の僧侶達が数多く阿波にやってきて、北方南方に手分して、侍衆や百姓などひとりも残さずに法華経を授け、改宗を迫った。阿波禅宗・真言宗は、旦那をとられたために、阿波一国の真言宗山伏二千人が持明院へ集り示威行動を起こした。その上で「仏法の事について、阿波国中を日蓮宗に改宗させることの是非ついて、宗論を開いて公開議論をおこなうべきた」と御奏上書を提出した。

こうして開かれた宗論の結果、真言宗側の勝利となり、日蓮宗側は堺に引き退いたようです。
  先ほど見たように細川氏や三好氏は「環大阪湾政権」とも呼ばれ、海運のからみから堺の商人と繋がりが深く、町屋の宗派と言われた法華宗を大事にします。当時の法華宗は京で比叡山や一向宗とのトラブルで法難続きでした。そこで「畿内で失った教勢を、阿波で取り返そう」という動きがでてきます。これにたいして、阿波・讃岐の支配者である若い長治は、法華宗へ宗教統一することで、人々の宗教的な情熱をかき立て阿波の一体性を高めようとしたのかもしれません。しかし、これは現実を知らない机上の空論で、「家臣や民衆の心理から外れた蛮行」と後世の書は批判的に記します。
千葉乗隆著作集 全5巻揃(千葉乗隆 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

千葉乗隆氏は「地域社会と真宗406P」で、法華騒動の結果引き起こされた後世への影響を次のように記しています。

「法華騒動による真言宗徒の勢力回復の結果、阿波国内の日蓮教線はまったく壊滅し、真宗教団の展開もブレーキをかけられた。阿波を橋頭堡として展開しつつあった真宗の教線もその方向を讃岐および土佐の両国に転ぜざるを得なかった。そしてまた、すでに展開を終わっていた禅宗教団も転寺・廃寺が続出したことは前述の通りである。

しかし、法華騒動の評価については近年新たな考え方が示されるようになりました。
例えば、 『昔阿波物語』を書いた鬼嶋道智は、十河存保に仕えて、後に蜂須賀氏に登用された人物です。彼は、徳島藩家老からの要請でこの書を書いています。つまり、この書は三好氏一族の十河氏であった家臣が、その後、登用された蜂須賀氏に近い立場で書いた軍記ものということになります。そのため三好氏を否定的に評価することが多いようです。
 例えば三好長治については、その無軌道ぶりや「失政」に重点が置かれます。それが三好氏の滅びる原因となったという論法です。今の支配者(蜂須賀氏)の正統性を印象づけるために、その前の支配者(三好氏)を否定的に描くというスタイルになります。具体的には、長治の失政が三好氏滅亡を招いたという記述です。勝利した側が、敗者を批判・攻撃し、歴史上から葬り去ろうとする際に用いられてきた歴史叙述の手法です。
 そういう点を含んだ上でもう一度、『昔阿波物語』の「法華騒動」を見てみると、
①真言宗山伏3千人が気勢をあげ、争論の場を設けるように主張したことを
②根来寺から円正が招かれて宗論となったこと
③篠原自遁の仲裁で、真言宗の勝ちだが、「日蓮宗をやめると有事なく諸宗皆迷惑に及ひ候」と結果は曖昧なこと。
 ここには、激しい武力抗争があったとは書かれていません。武力衝突なしの争論で、その結果として敗れたとされる日蓮宗も併存することになったと解釈できます。つまり「真言宗側の有利に解決された」とは読めません。以上から「騒動」ほどのものではなかったと考える研究者も出てきています。阿波における禅宗や日蓮宗の衰退を、法華騒動にもとめる説は再考が求められているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天野忠幸編「阿波三好氏~天正の法華騒動と軍記の視線

塩屋別院3
丸亀の塩屋御坊(讃岐国名勝図会)

 丸亀市の塩屋町には、塩屋別院(御坊)という大きな伽藍をもつ真宗寺院があります。讃岐の真宗寺院の中では飛び抜けて大きい伽藍で気になる存在です。今は西本願寺の四国教区の教務所として、四国の末寺292ケ寺を束ねる役割を果たしているようです。今回は、この寺の創建と江戸時代の運用について見ていくことにします。テキストは、「堀家守彦 丸亀市寺院名鑑  1995年」 です。
丸亀の塩屋別院の位置 昔の地形図より
丸亀塩田のすぐそばに創建された教法寺(戦前の地図)

この寺は、もともとは教法寺として創建されました。

創建したのは、元和元年(1615)、播州赤穂からやってきた二十数人の製塩集団です。彼らは赤穂でいたときにすでに本願寺の門徒になっていました。塩屋村へ移り、塩浜を開いたときにすぐに念仏道場をひらきます。寛永20年(1643)12月には、本山の西本願寺から木仏・寺号を許され、教法寺と号するようになります。この寺は讃岐の農村部の真宗興正派の寺とは、その創建経過が異なります。塩職人を中心とする門徒集団(講)の発言権が強く、住職との間がギクシャクとした関係にあったようです。
 そんな中で享保16年(1731)正月、三代目住職知観が死去すると、その家族と門徒との間に争いが表面化します。これに対して丸亀藩は、本山・西本願寺の指示を仰ぐように命じます。本山の裁きは、寺を本山へ召し上げるというものでした。こうして住職は追放され、本山の御堂衆の明円寺が当分の間、管理することになります。明円寺は本山門主の留守番役です。

DSC05927
塩屋御坊(山門)
 3年後の享保19(1734)年に、教法寺は本山の別院として塩屋御坊と呼ばれることになります。いわば本山の直轄管理寺院となったのです。ここまでを整理しておくと、塩屋御坊は当初は赤穂からやってきた製塩集団の念仏道場として開かれたものが、18世紀前半に西本願寺の別院になったという経緯があるようです。こうして別院にふさわしい寺格や伽藍が次のように整備されていくことになります。
享保18(1733)年 西本願寺一四代寂如の御絵下付
享保19(1734)年 教法寺を本山西本願寺の別院化
元文2年(1737)5月 等身の御影御絵が下付。
    (1738)年 御門と築地を建立、京都へ注文してあった釣鐘到着
寛保元年(1741) 台所完成
延享3年(1746) 勘定所完成
同 4年(1747) 二尊絵像の下付
寛延2年(1749)  本堂着工
安永四年(1775) 上棟式挙行
 現在の本堂は、18世紀半ばに着工し、完成までに30年近くの年月を要したようです。こうして塩屋別院には立派な伽藍が整備され「本院建築物の広大壮麗なる点は、郡内(仲郡)寺院中の第一位にあり」と仲多度郡史に記されるほどになります。

DSC05919
讃岐国名勝図会に載せられた塩屋御坊に着色したもの
ちなみに、これらの整備事業には多額の資金が必要です。例えば西本願寺の御影・真影の下付相場は、次のような金額でした。

西本願寺宝物の下付相場

その都度、本寺にはこれだけの奉納金が納められ、謝金以外にも式典などにも多額の資金が必要でした。これだけの資金を準備できる讃岐の真宗寺院は稀だったはずです。塩屋御坊は財政基盤が裕福だったことになります。その財政基盤はなんだったのでしょうか? それはまた後ほど考えることにして、次に進んで行きます。

DSC05908
塩屋御坊(山門から望む本堂)
 塩屋御坊は、先に見たとおり創建過程からして配下とか与力のない一本立ちの寺でした。そのため塩屋御坊講中の力が強く、輪番となった寺々と対立し、良好な関係が築けなかったようです。塩屋御坊のことを、輪番となった唯念寺は、天保12年(1841)正月3日付の手紙で、次のように本山へ報告しています。
……塩屋御坊所儀は御配下并に与力とてもこれ無く一本立の場所の上、時々輪番心配より国内にて講中・世話方と申す者相引立て、繁昌いたし候様に相成行き候に付ては、却て同坊講中共不機嫌に相成り中し候、夫と申すは、御坊勘定所の賄方、外へ相知れ候儀をば大にきらひ候所より和熟致さず候間、増々御坊所えは立入り申さず候様に相成り行き候に付き、塩屋村切りの御坊所に相成り居り申し候……
 
意訳変換しておくと
……塩屋御坊については、配下や与力などがない一本立の寺である。立地条件がいいので、輪番になった寺は讃岐国内から講中・世話方を引立てて、その才覚によって繁昌するようになった。これにたいしては同坊講中の中には、不機嫌な連中もいる。と云うのは、御坊の勘定所の賄方について、外部に知られることを嫌い、避けようとして融和が進まない。そのため外からの門徒が御坊へ立入ることがなくなり、塩屋村だけの御坊所になっている始末だ。

ここからは塩屋御坊が閉鎖的で、外部の講中に対して開かれた存在となっておらず、「塩屋村だけの御坊所」になっていると指摘しています。塩屋御坊は教宣センターとしての機能を果たしていなかったようです。

天保12(1841)年2月に、本山からの巡寺慈眼寺が提出した書簡を見ておきましょう。
一、塩屋御坊所之処在来御直門徒限二而万事御取持申上来候処、近来追々我意之振舞有之、輪番所賄向二不限、御作法向迄も差構候様相成、門徒気辺二不随候ハ交代等申立、且又御坊諸上納之処、御坊内御人少二而、賄向多分入不申、残何貫目と申程ハ村方門徒之処有二相成、且又於領方而も、塩運上之処御坊所有之候故、差寛めニ相成、是又村方之益二相成、格別外御坊とたかい
御殿之御恩を蒙居候。其弁もなく私欲かちに御座候ニ付、丸亀城下講中并高松同行も次第二不綺合二相成候処、当番所唯念寺殿、先般被  仰付候丸亀勘定元方講中を再取立勘定等為致候二就而者、御門御普請之運相成、町同行者勿論、東讃同行も追々帰状いたし、御繁昌二も及懸候処、村方直門徒以前之如く私欲難相成、且御上納金を以、是迄通り恣二酒食二取費候儀難相成候二付、当番番所并元〆講中世話方等相嫌、当輪番与不和合相企候基二御座候
  意訳変換しておくと
一、塩屋御坊の門徒について報告しておきます。この門徒達は、近頃ますます勝手な振舞が目立つようにようになっています。輪番所の賄向に限らず、御作法についても前例を無視することが多く、門徒たちの中には当番寺が従わないのなら、本寺へ交代を申立るべしと言い出す者も現れています。 又御坊が収めるべき上納物も、御坊内の用人が少くなり、賄向もかつてほどは入り用でないはずなのに、残何貫目と村方門徒の云うとおりに差配されています。さらに塩屋町は、塩運上所を御坊が所有しています。それも村方の利益となります。御坊は、格別に高い御殿(西本願寺住職)の御恩を受けています。ところがそれに応えることなく、私欲に走っているように見えます。そのため丸亀城下の講中や高松同行も、丸亀別院の講中のやり方について批判的なものが増えています。
 当番所の唯念寺殿は、先日次のように申しつけました。丸亀勘定元方講中を再取立てて勘定などの取り扱わせる。御門普請について、町同行はもちろん、東讃同行門徒にも寄進を募り、繁昌に見合うだけの寄進を行うなど、村方門徒も以前のように私欲なく、上納金を酒食に使うなどのことがないように、当番番所や元〆講中世話方が相嫌、当輪番与不和合相企候基二御座候

ここには丸亀御坊の講中は、御恩をわきまえずわがままばかりしているという評価が周りからでていることが報告されています。
DSC05907丸亀別院
塩屋御坊(別院)の山門と背後の本堂
これに対して、2ヶ月後の4月に塩屋御坊の講中は、本山からの使者石田小右衛門に口上書を差し出して、次のように反論しています。
一、塩屋村惣道場教法寺智観、自庵之企二付享保十六亥暦より三四ケ年之間村中騒動仕候而御領法御厄介二相成、
終二者
御本山依御慈悲二教法寺寺跡御取上御坊二被為仰候。其難有さの余り、大造之御堂御再建莫大之御借財二および、村中たばこを止め、正月の餅を不揚、心魂を砕しき御修覆相調申候処、去ル文化之頃、輪番最覚寺悪逆を企、大騒動二及、夫より暫く輪番中絶仕、留守居同様二相成居候処、講中共色々心痛仕漸々以前之通輪番被下候様相成申候処、又々唯念寺義最覚寺同様講中不和二相成、御坊廃亡仕候次第、誠二村中之老若男女児女童二至る道悲歎之涙にむせひ、此上は
御本山様へ愁訴歎願仕候あ外無御座与、村中一統決談仕罷在候
意訳変換しておくと
一、塩屋村の惣道場・教法寺の住職智観は、享保16(1731)年から村の講中と対立して、ついには騒動を起こして領法によって追放されました。そして、御本山の御慈悲で教法寺の寺跡は没収し、本山直属の御坊となりました。この措置に歓んだ門徒達は、御堂再建のために莫大な借金をして、そのために村中の門徒はたばこを止め、正月の餅を絶ち、心魂を砕いて修覆に身も心も捧げました。
 ところが文化年間(19世紀初頭)に、輪番寺の最覚寺が悪逆を企て、大騒動を引き起こしてしまいました。そのため輪番は中絶し、留守寺同様の有様になってしまいました。私たち講中はいろいろと心痛し、以前のような輪番制が復活するように申し入れてきました。ところが輪番制を務めることになった唯念寺が最覚寺と同じ様に講中と不和になってしまい、終には御坊は廃亡ということになりました。これについて村中門徒の老若男女児女童に至るまで悲歎の涙にむせんでいます。この上は御本山様へ愁訴歎願するしかないと、村中一統で決議してお願いする処断です。
ここには次のようなことが記されています。
①享保年間に、講中が住職と争い、住職が追放されて、寺は本山に取りあげられ別院となった。
②歓んだ講中は、西本願寺門主の御恩にこたえるために、伽藍整備にとりくんだ。そのため大きな借財ができたので、煙草も止め、正月のモチもつかない様であった。
このような塩屋門徒(講中)と、輪番各寺の両者の言い分には大きな開きがあるようです。
DSC05923
塩屋御坊本堂
 どちらにしても、丸亀御坊というのは丸亀藩における布教拠点となるべき寺院です。それが製塩集団の門徒と当番寺の間で諍いが続き、西本願寺の厄介な荷物になっていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 堀家守彦 丸亀市寺院名鑑  1995年

  前回に続いて龍谷大学図書館蔵の「讃岐國諸記」(写本41冊)を見ていくことにします。この書は西本願寺と讃岐国内の真宗末寺との間の往復書簡を年代順に写し取ったものです。41冊の内の6冊には、裏に「長御殿(ながごてん)」とあります。これは、西本願寺の中枢部、今で言えば総務部に当たる部署になるようです。「長御殿」の六冊は、上下三段に分かれていて、上段には本寺から末寺へ、下段には末寺から本山へ出した書簡が収められています。そしてその内容は、長御殿の配下の財務、庶務、講、免物など、それぞれの係の記録を整理したもので、「留役所」のものも、ある事件に関連した幾つかの書簡を一か所に集めるという風になっています。いまでいう項目毎にフォルダで整理するスタイルです。その中の嘉永4、5年ごろの書簡の中に、梶原藍水の「讃岐國名勝図会」をめぐる問題が記されています。今回は、それを見ていくことにします。テキストは 「松原秀明    資料紹介「讃岐國諸記」について    香川の歴史2号 1982年」です。

讃岐国名勝図会表紙
 「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854)刊行)
 嘉永4、5(1851)年ごろと云えば、梶原藍水の「讃岐國名勝図会」が出版される3年前になります。この「図会」の出版経緯については以前にお話ししましたので、ここでは省略します。父の残した資料や原稿を整理しながら、松岡調による挿絵も次々と仕上がり、この頃は原稿が出来上がってきます。そのため印刷に向けた動きが始まります。当時は、讃岐にはこのような書物を出版できる版元はなかったようで、京都の池田鳳卿に出版を頼んでいます。版下の確認・打合せののために、監水もよく上京していたようです。

4343285-02
  「讃岐国名勝図会 前編第1巻巻頭」(国立公文書館版)
そんな中で、池田鳳卿宅に出入りする西本願寺の用人藤田大学が「讃岐国名勝図会」の版下に目にとめます。中を見ると、記事の中に西本願寺の意に沿わない所があることに気がつきます。そこで上司に報告するとともに、自分の意見を讃岐の梶原藍水に書き送ります。その部分を要約すると、次のように記されています。
①「興正寺末 常光寺」とあるのを「本願寺御門跡御末寺」または「本願寺御門跡御末・興正寺御門跡下寺」とすること
②一向宗という呼び名は讃岐ではよく通じる称号かもしれないが、それを「浄上真宗」と改めること
などを版元の池田を通じて梶原藍水と掛け合っています。
西本願寺と興正寺
京都の西本願寺と興正寺
前回にもお話ししたように、興正寺は真宗寺院として、「雲上明覧」などには本願寺と並ぶ門跡寺として挙げられています。しかし、その本山である西本願寺では興正寺を自分の末寺としか認めず、讃岐国内の興正寺系統の寺々も、すべて西本願寺末だという態度を通します。そのような立場からすると「興正寺末 常光寺」という記述は認めがたいことになります。譲っても「本願寺御門跡御末・興正寺御門跡下寺」でなければならないという立場です。これを書き換えるなら、西本願寺による「一括大量購入」もありうるという話が持ちかけられたようです。今で云うなら出版に関する宗門の介入で、言論の自由に関わる問題になります。しかし、当時は本寺がこのような書物の内容に口出しするのは当たり前だったようです。
 これを聞きつけた東本願寺からは、宗号のことは二の次にしても、東西本願寺を同格に書くのならよいが、西が東より尊いという書き方になれば大きい問題になるとの申入れが入ります。さらに興正寺からは「今のままでよいではないか。それなら興正寺末の四千の寺へ一部ずつ買わせるようにする」と言ってきます。

4343290-32高松寺町
高松城下の寺町その1(讃岐国名勝図会)

 各寺からの申し入れを受けた藍水は、高松藩主や重役から言付けられたことで、自分の考えで書きかえは出来ないと初めは突っぱねます。しかし、西本願寺が末寺への配布のために「一括大量購入」という条件を見せると、書き直しに応じる姿勢を見せます。結局、その後の話し合いがうまくいかずに、記事は改めたものの、本は買ってもらえない結果になってしまったようです。

4343290-33
       高松城下の寺町その2(讃岐国名勝図会)
以上の経緯からは、次のような事がうかがえます。
①東西本願寺や興正寺の僧侶たちは、寺格や本末関係のささいなことまで気にとめていたこと。
②京都の大寺院は「○○国図会」などを大量購入し、全国の末寺に配布していたこと。つまりこの手の書籍のお得意さんは、京都の大寺院であったこと。
③幕末の讃岐では、大型の書籍を大量に印刷できる版元はおらず、京都の版元に依頼していたこと
④そのため書籍出版の打合せなどのために、知識人が京都を訪れ、相互の情報交換が活発に行われていたこと。これが幕末の各国ごとの図会出版の流れを生んだこと。

「讃岐国名勝図会」巻五の末尾
  讃岐国名勝図会 後編や続編の広告が載せられているが未完
 ちなみに讃岐國名勝図会は、前編7巻(大内郡から香川郡まで)だけが1854年に出版されます。その後も梶原藍水は、後編の出版に向けて準備を進め、原稿は出来上がっていきます。しかし、これが出版されることはありませんでした。原稿のまま明治を迎え、彼の死後に受け継いだ息子は、明治政府に原稿を献本しています。それが鎌田博物館に保存されていることは、以前にお話ししました。

4344097-05
讃岐国名勝図会後編の推薦文 安政4年となっている

 どうして原稿が出来上がっていたのに出版できなかったのか。
ひとつ推測できるのは資金難です。前編を出版し、その売上金を資金に後編を出版しようとしていたと思われますが、それが回収できなかったことが推測できます。大量購入先と思っていた西本願寺との交渉が行き詰まったことは先に述べました。それなら興正寺が買ってくれたのでしょうか、これもよくわかりません。讃岐国名勝図会は、各資料を参考にした考証的な性格で、挿絵も松岡調による緻密なもので後世の評価は高いものがあります。しかし、採算的ベーズには乗らなかったのかもしれません。それが、前編だけの出版に終わった原因としておきましょう。

4344097-09岩瀬尾八幡
高松の岩瀬尾八幡

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松原秀明    資料紹介「讃岐國諸記」について    香川の歴史2号 1982年」
関連記事

古本 興正寺年表 '91年刊 蓮教上人 興正寺 京都花園 年表刊行会編 永田文昌堂 蓮教上人 宗祖親鸞聖人 興正寺歴代自署 花押  印章付き(仏教)|売買されたオークション情報、yahooの商品情報をアーカイブ公開 - オークファン(aucfan.com)

讃岐の真宗寺院には東西本願寺の末寺は少なくて、興正寺の末寺が多いことは以前にお話ししました。これは高松藩の興正寺保護政策の成果という面もあります。高松藩がどうして興正寺を保護したかについては、藩祖松平頼重との次のような特別な関係がありました。
①頼重の娘万姫が興正寺へ養女にゆき、
②興正寺の子供超秀は頼重の猶子として1ヶ月、高松城内にいて、仏光寺の間跡となったこと
このような姻戚関係があったために頼重は、高松の興正寺別院(高松御坊)を保護し、御坊川のあたりの寺領を今里村に地替えし、百五十石の朱印地を与えています。高松御坊の代僧となったのが勝法寺です。この寺はもともとは大和国吉野にあった寺で、それが讃岐に移り、三好実休から寺領をもらって、生駒家の時に城下の現在地に移った寺です。それを頼重は高松御坊を修造し、勝法寺を北隣へ移して御坊を守らせることにしたことは以前にお話ししました。

高松御坊(興正寺別院)3
勝法寺と高松御坊(讃岐国名勝図会)

 興正寺は真宗寺院として、「雲上明覧」などには本願寺と並ぶ門跡寺として挙げられています。
しかし、その本山である西本願寺では興正寺を自分の末寺としか認めず、讃岐国内の興正寺系統の寺々も、すべて西本願寺末だという態度を通します。そのため西本願寺と興正寺とのあいだでは、諍いが何度もあり、指導者同士も反目し合っていたようです。そんな中で、興正寺直営の勝法寺は、高松藩における西本願寺の触頭を務めていました。
 西本願寺と興正寺の関係がギクシャクしているので、勝法寺は西本願寺の云うとおりには動かず、西本願寺は取扱に苦慮します。そんな一コマが見えてくる史料が西本願寺に残されています。それが龍谷大学図書館蔵の「讃岐國諸記」(写本41冊)です。これは、西本願寺と讃岐国内の真宗末寺との間の往復書簡を年代順に写し取ったもので、金毘羅宮の学芸員であった松原秀明氏が紹介しています。
この中に、天保12年(1841)11月、高松の勝法寺との関係改善のために使僧慈眼寺が高松に派遣されます。西本願寺に残された報告書がには、次のように記されています。

高松勝法寺殿是迄丸々 興門様味方、役寺講中ハ勿論之事二御座候、依之 御殿之庭悪軽二取成仕、尤 興殿役人よりも少々二而も 御本殿御取持之振候得者、相嫌ひ候様子二御座候。然ル処、此度拙寺罷越候之処、始者殊之外諸方悪敷取附嶋も無之段之儀二候。夫より段々御殿之御趣意を申話し候処、実二心底より改心二相成、巳来者急度御取持可申上与役寺両寺二いたる迄心底相改り申候。実二御高徳之顕与奉存候。右触頭さへ改り候ハゝ追々相開ヶ可中与奉存、たとへ此度巡寺は出来不申候とも触頭さへ右之心中二相成候ハゝ、國ハ追々と相開ケ可申儀二御座候。(下略)
 
意訳変換しておくと
高松勝法寺殿はこれまでは、興門様(興正寺)の味方で、役寺講中は勿論のこと、西本願寺に対しを軽視し悪し様に取り扱っていると思っていた。しかし、勝法寺は西本願寺に対してばかりでなく、興正寺役人にたいしても嫌悪感を持っていることが分かった。それは今回、私が実際に高松の勝法寺を訪問したところ、こちらに対する悪印象や態度を示さなかったことからもうかがえる。実際に会って膝を突き合わせ、西本願寺の御殿の御趣意を伝えた所、心底より改心した様子であった。そして、急ぎ与役寺の両寺を呼んで話をした所、これも心底から態度を変えると約束した。これはまさに西本願寺御殿の高徳のいたすところである。触頭寺である勝法寺の態度さえ改まれば、追々に道は開けてくる。たとへ今回は、高松藩内の寺々を巡寺出来なくとも、触頭寺を味方につけることができたので、讃岐については追々と相開けていくことが期待できる。(下略)

西本願寺に対して悪し様であった高松藩触頭寺の勝法寺の態度が、直接に出向いて話し合った結果、関係が改善される兆しが見えてきたことを使者は、西本願寺に報告しています。ところがそれは見込み違いだったようです。6年後の弘化4年(1847)には、触頭勝法寺への通達は、すべて興正寺の添書がないと讃岐の国内には通用しないと高松藩は言い出します。これは西本願寺が讃岐に出す通達について、興正寺の認可が必要だということです。興正寺を自分の末寺としか認めない西本願寺としては、認めがたい事態です。通達の許可を末寺の興正寺に求めなければならないのですから。

興正寺派と本願寺
本願寺と興正寺の関係
このような状況打開のために、西本願寺は動き出します。高松藩の家老・本村駄老が上京する時を捕らえて、次のような文書を出しています。
(前略) 右様御領方二於て御寺法用道之趣意御聞取無之候ハ而者難相成義哉、此段及御尋問申度、右者全新規之義二而、御寺法差支之次第二候得者、何卒先規仕来之通ニ而相済候様致度、興正寺御関迄も当本山御木寺之事故、前以御用向之御趣意柄申達候義ハ難相成筋二御座候。新規之義彼是御寺法差支二付、於其御領方、是非趣意柄御承知被成度義二御座候ハゝ、拙者共とも其度毎御家司中亦者寺社役中迄申入候義ハ格別、前件之次第二而者、何共差支候二付、貴様造□急度拙者共ども及内談候間、右辺之所御汲取、御領方之御振合預御聞繕度、尤拙者共両人掛り之義二付不得止事及御内談候事(下略)

  意訳変換しておくと
(前略)高松藩領内での今回の通達は、西本願寺の意向を聞取ることなく実施されたもので寺法に差し障りが生じ、大きな問題となっている。今回の通達は、まったく新規のことで、寺法に差支えがありますので、何卒、先規に従って興正寺の添書がなくても当本山(西本願寺)通達が出せるように、前々のように改めていただきたい。新規のやり方だと、当寺にとっては大きな差支がある。代案として高松藩領内の末寺への通達や連絡について、私どもはその度に毎回、高松藩の役人か、寺社役人へ申入れを行うことを提案する。この代案を受けて、以前通りの取扱としていただきたい。繰り返しになるが新規方法は、差支がある。このことについて、高松藩と拙者方で協議したい。以上を汲取っていただき、高松藩領内における西本願寺からの通達について聞き届け頂き、改善いただきたい。そのためにも拙者との内談の場を設けて欲しい(下略)

 ここからは西本願寺の担当者の悲鳴のような要請が聞こえてきます。通達のたびごとに、西本願寺から藩の役人、また寺社方へお断りするから、興正寺の添書をもらうことは勘弁して欲しい、そのためにも内談の場を設けて欲しいという内容です。しかし、家老の黙老は、本願寺からの内談要望が伝わってくると、京都見物にかこつけて留守を使い、容易に会おうとはしません。黙老自身が興正寺内の牧家の親類であるうえに、高松勝法寺へは二女が嫁いでいるという婚姻関係をもっていました。つまり、高松藩の家老は、興正寺や勝法寺の身内でもあったのです。初代藩主の松平頼重が幾重もの婚姻関係を興正寺と結んでいたことは以前にお話ししました。それを受けて、以後の高松藩の重臣達の中には、興正寺と婚姻関係を持つ者が多く、幾重にもそのネットワークは結ばれていたのです。高松藩には「興正寺応援団」が広く広まっていたようです。
西本願寺と興正寺
西本願寺と興正寺の伽藍 隣り合ってある
 興正寺は本寺である西本願寺に反発し、「独立」を目指しますが、幕府は「本寺からの勝手な独立は認めない」という原則を貫きます。このため江戸時代に興正寺の独立が適うことはありませんでした。それが実現するのは、明治になってからです。興正寺は全国の末寺を引き連れて「独立」しようとします。これに対して西本願寺は、引き留め運動を展開します。こうして、興正寺末寺は、興正寺に着いていくか、興正寺末寺を離れて西本願寺につくかの選択を迫られることになります。興正寺末寺の多かった讃岐は、この渦中に巻き込まれていきます。ここで大きな影響力を持ったのが、旧藩主の松平氏だったようです。高松藩と興正寺の親密な関係から、讃岐の興正寺末寺に対して、興正寺に残るようにと影響力を行使します。そのため高松藩では、全国から比べると興正寺末寺に残った寺の比率が高いようです。興正寺の独立を陰で支えた高松藩ということになるのかもしれません。

興正寺末寺
高松藩の興正寺末寺
御領分中寺々由来 17世紀後半 安楽寺末を除く)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

尊光寺木仏下付
尊光寺(まんのう町炭所)の木仏尊像御免書

西本願寺側の「木仏之留」に記された讃岐の真宗寺院を見ておきましょう。
『木仏之留』とは、本願寺が末寺に木仏などを下付したことの控えのために『御影様之留』という記録に、その裏書を書き写したものです。17世紀末成立の「高松藩御領分中寺々由来書」に出てくる真宗寺院で、西本願寺の「木仏之留」に名があるのは、香東郡安養寺など次の22ヶ寺のようです。
「木仏下付=寺号付与」はセットでしたので、本山側の記録に記録があるということは、その寺の寺号獲得時期が確認できる根本史料ということになります。西本願寺の「木仏之留」に記された讃岐真宗寺院21ヶ寺(明源寺を除く)を「寺々由来書」の配列通りに並べて、その下に「木仏之留」の記事を注記したのが次の表5になります。
真宗寺院の木仏付与時期
高松藩真宗寺院の木仏下付一覧表
ここからは、どんなことが見えてくるのでしょうか。まず気づくのは、寛永18(1641)年8月に木仏の授与を受けている寺が多いことです。寛永18年組と呼び、そのメンバーを見ていくことにします。

興正寺の中本寺・常光寺(三木町)の末寺である常満寺・常善寺・蓮光寺が「寛永18年」組です。

木仏下付 常光寺末寺
常光寺末寺の木仏下付寺院一覧
日付を見ると8月中頃に、2・3日の違いで「木仏下付=寺号承認」されています。これらの寺の「興正寺には孫末、常光寺には直末」という関係は、「寺々由来書」ができる延宝初(1673)年になっても変わりなく続いています。
 一方、福住寺・信光寺・西徳寺も寛永18年8月組です。
これらの寺は、木仏下付のあった寛永18年8月当時は常光寺の直末でした。それが「寺々由来書」が成立した17世紀後半には専光寺の末寺となっています。常光寺に対しては、直末でなく孫末ということです。この期間に、常光寺と三ヶ寺の間に専光寺が介在するようになったようです。
同じようなことが常光寺末の徳法寺にも観られます。
この寺の木仏下付も寛永18年8月です。その時に西本願寺では「興正寺直末」と記録しています。それが延宝初年までには、常光寺末寺の覚善寺の末になっています。この背景には何があったのでしょうか? 例えば、政治的な介入が考えられます。以前に「常光寺記録」には、松平頼重が常光寺から末寺を取り上げようとしたことが次のように記されていることを見ました。

 松平頼重は讃岐にやってくると、まず常光寺から末寺の専光寺を召し上げた。専光寺は末寺を13ヶ寺も持つ有力な寺であったが、この末寺13ヶ寺も合わせて差し出せ言って来た。常光寺は、それを断って3ヶ年の間お目見えせず無視していた。あるとき、頼重は「常光寺の言い分はもっともだ」と言って13ヶ寺を常光寺へ返えしてくれた

 松平頼重は常光寺から専光寺をとりあげて、自分の養子が門主となった京都の仏光寺の末寺としようとします。このように当時は、藩主などの政治的な思惑で本末関係が変更されることもあったようです。


安養寺末寺の木仏下付
安養寺末の養専寺と専福寺
安養寺末の養専寺と専福寺も木仏下付は寛永18年8月組です。
安養寺は安楽寺の末寺で、塩江から髙松平野に掛けての安楽寺の教線ライン伸張の拠点寺院だった寺院です。そのため末寺も多い有力寺院で、高松御坊を支えるために伽藍がその南に移されたことは以前にお話ししました。ここには「安楽寺下安養寺下」とあり、安養寺が阿州安楽寺下であったことが記されています。
「常光寺記録」には、安養寺のことが次のように記されています。
「殿様御通之節阿州安楽寺義途中二而無礼仕蒙御咎ヲ以来御国江出勤無用被抑付候右二付安楽寺(高松)御坊江出勤指支御座候故香川郡川内原村二罷在候安楽寺末寺安養寺,安楽寺代僧二御坊江指出申候」

  意訳変換しておくと
お殿様に対して阿州安楽寺は、無礼なことがあった。それを咎められて以後は、安楽寺は讃岐への出入りを禁止された。そのため安楽寺は(高松)御坊へ出向くことができなくなり、香川郡川内原村にある安楽寺末寺の安養寺を、安楽寺代僧として高松御坊へ出仕させた。

ここからも松平頼重治世のはじめには、中本寺の安楽寺に代わって安養寺が、高松御坊を支えるてらとなったことが記されています。安養寺の寺伝もそれを裏付けるものになっていることは以前にお話ししました。

尊光寺・長善寺の木仏付与
安楽寺末の木仏下付寺院

阿州安楽寺の末寺で、寛永18(1641)年8月組は慈光寺(岡田)・長善寺(勝浦)です。
西長尾城周辺の岡田や羽床には、長尾氏を祖とする系図をもつ真宗寺院が多いようです。その中でも、慈光寺(綾歌町岡田)・長善寺(まんのう町勝浦)が木仏を下付された時期がはやいようです。さらにそれよりも30年早い慶長19(1614)年8月に木仏を受けているのが尊光寺(まんのう町炭所)になります。尊光寺の由緒書きを見ると「興正寺下鵜足郡尊光寺」で、慈光寺・長善寺は「興正寺門徒安楽寺下」です。ここからは、当時の尊光寺が興正寺直末であったことがうかがえます。それがいつのころにか、阿波の安楽寺の末寺になったことになります。それは、いつからなのでしょうか。
  慶長12(1607)年に木仏を下付された安楽寺末の安養寺も、その頃は「興正寺下香東郡安原庄河内原村安養寺」とあります。ここからも慶長年代は、尊光寺と同じように興正寺の直末だったようです。それが寛永末(1644)年には「興正寺門徒安楽寺下安養寺」と記されるようになります。そして延宝初(1673)年には、また興正寺の直末と記されるようになります。ここからは17世紀前半の慶長から寛永にかけては、本末関係も坊号・寺号と同じように改変が頻繁に行われていたことがうかがえます。この背景には、何が考えられるのでしょうか。末寺と興正寺、中本寺・安楽寺との力関係や住職との関係で左右したのでしょうか。この当たりはよくわかりません。それが「寺々由来書」の成立時期の17世紀末は、固定化していくようです。
  以上をまとめておくと、
①讃岐の真宗寺院の「木仏下付=寺号付与」の時期は、本願寺の東西分裂後がほとんどである。
②特に木仏下付が集中するのが寛永18(1641)年8月である。
③寛永18年下付の寺々で、尊光寺や安養寺など下付の時には興正寺直末とされている。
④しかし、その後は中本寺の安楽寺末寺とされた寺もある。
⑤以上から17世紀中は、本末関係や寺名なども大きな変化があり、流動的であったことがうかがえる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
ます。

阿野郡の郷
鵜足郡坂本郷(現丸亀市飯山町+綾歌町+垂水町周辺)
寛永21(1644)年の鵜足郡の「坂本郷切支丹御改帳」(香川県史 資料編第10巻 近世史料Ⅱ)には、宗門改めに参加した坂本郷の28ヶ寺が記されています。その中の24ケ寺は、真宗寺院です。これを分類すると寺号14、坊号9、看房名1になります。坊号9の中から丸亀藩領の2坊を除いた残り七坊と看坊一は次の通りです。
A 仲郡たるミ(垂水)村 明雪坊
B 宇足郡岡田村 乗正坊
C 南条郡羽床村  乗円坊
D 南条郡羽床村  弐刀
E 北条郡坂出村  源用坊
F 宇足郡岡田村  了正坊
G 那珂郡たるミ(垂水)村 西坊
H 宇足部長尾村  源勝坊
これらの各坊が寺号を得て、その後になんという寺になったのかを探ってみることにします。
「由来書」には郡名だけで村名がないので、特定しにくいようです。それに対して、前回に紹介した鎌田共済会図書館所蔵の「國中諸寺拍」には村名まで書かれています。その内の那珂郡垂水村には、真宗寺院が五ヶ寺あって他宗の寺はありません。そのうち西坊については「常光寺末那珂郡円徳寺末西之坊」で、「Gの仲郡たるミ(垂水)村西坊」であることが分かります。

常光寺末寺 円徳寺
垂水の西坊をめぐる本末関係

それでは垂水村のもうひとつの「A明雲坊」は、どうでしょうか?
現在の垂水には、願誓寺・善行寺・西教寺(下表60)・浄楽寺があります。

真宗興正派常光寺末寺一覧
常光寺の高松藩内の末寺(高松藩御領分中寺々由来書)
このうち三木郡常光寺末の善行寺(上表59)は「僧明誓の開基」とあります。明誓と明雪は音が近いので、明誓坊が明雪坊なのではないかと想像できる程度です。明誓坊が善行寺になったかどうかの確証にはなりません。あとはよくわからないとしておきます。

岡田の慈光寺
        琴電岡田駅北側に並ぶ慈光寺と西覚寺

岡田村(綾歌町岡田)にはB乗正坊と、F了正房が記されています。
現在、上の航空図のように岡田駅北側には、ふたつの寺が並んでいます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、岡田村正覚寺・慈光寺と記され阿州安楽寺末で、「由来書」にはそれぞれ僧宗円・僧玉泉の開基とあるだけで、以前の坊名は分かりません。讃岐国名勝図会の説明も同じです。しかし、慈光寺については、寛永18(1641)年に、まんのう町勝浦の長善寺と同じ時期に木仏が付与され寺号を得ています。
尊光寺・長善寺の木仏付与
安楽寺末寺の木仏付与時期

坂本郷の宗門改めが行われたのは、寛永21(1644)のことです。この時には慈光寺は寺格を持った寺院として参加しています。
つまり慈光寺以外にB乗正坊と、F了正房があったということです。
ふたつの坊が、統合され西覚寺になったことが推測できますが、あくまで推測で確かなものではありません。

西本願寺本末関係
西本願寺の末寺(御領分中寺々由来)
羽床村にもC来円坊、Dの弐刀のふたつの坊が記されています。
ところが「國中諸寺拍」には、西本願寺末の浄覚寺(上図7)しか記されていません。「由来書」では天正年に中式部卿が開基したとされていますが、「寺之證拠」の記事はないようです。ここからはC来円坊とD弐刀という二つの念仏道場が合併して、惣道場となり、浄覚寺を名来るようになったことが推察できます。
E 北条郡坂出村の源用坊については、
「國中諸寺拍」には坂出村には教専寺が記されているだけです。それが「由来記」には教善寺、「本末帳」は教専寺になっています。この寺は寛永年中の開基で、「讃岐国名勝図会」では玄諦の草創と記します。玄諦のころには源用坊と呼ばれ、それが教善寺 → 教専寺と変化したことが推測できます。

長尾氏 居館
慈泉寺と超勝寺は長尾氏の居館跡と伝えられる
現在のまんのう町長尾には、西長尾城主の館跡とされる慈泉寺と超勝寺があります。17世紀末の「由来書」と幕末の「讃岐国名勝図会」ともに、次のように記します。
①慈泉寺は大永年中(1521~28)に僧祐善の開基、
②超正(勝)寺は永正年中(1509~31)僧玄了の開基
玄と源が同音だから玄了は源勝坊であったことが想像はできます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、長尾村には慈泉寺と超勝寺があり、共に阿州安楽寺末と記されています。 ここからは源勝坊が寺号を得て超勝寺になったことが推測できます。もしそうなら超勝寺が寺号を得たのは、17世紀半ば以降のことになりますが木仏付与の書類は残っていません。
真宗興正派安楽寺末寺
安楽寺末寺(17世紀末の御領分中寺々由来)

寛永21(1644)年の「坂本郷吉利支丹御改帳」に出てくる真宗の九坊を観てきました。
しかし、確かなことは何も分からないと研究者は考えているようです。ただ生駒騒動後に成立した高松藩や丸亀編では、この頃は真宗道場の寺院化がすすむなかで坊号・寺名の改変が頻繁に行われていたこと、そして、寺号を得て坊から寺へと成長して行くのも、この時期が多かったことはうかがえます。
真宗寺院の木仏付与時期
高松藩の真宗寺院に木仏付与された時期一覧
また、坂本郷で行われた宗門改めに寺号をもつ14ヶ寺と同じように、寺号を持たない各坊も参加してたことが分かります。本願寺からは寺号を許されない坊でも、高松藩は寺として認め、宗務に参加させていたようです。寛文・延宝期になっても、そのことに変わりがなかったことは「本末帳」に貼付された次の記事からも分かります。
寛文元年丑ノ壬八月吉□
山田郡林之郷吉利支丹御改出家帳
人数三人内    弐人男 壱人女 了遊 印
一 了遊    歳五拾五 
一 くりもり  年五十三
一 男子小大郎 歳十九
右之了遊家内男女共拙僧旦那二御座候以上
山田部十川村
真宗 高木坊 印
高木坊は「由来書」では安養寺末山田郡光清寺となり、「文明年中高木坊与申僧」の開基だと書かれています。寛文元年にも寺号はなく高木坊のままですが、宗門改を行っていることが分かります。ここに記された了遊も「一くりもり」という女と一緒に生活し、妻帯していて「拙僧旦那二御座候」とあるので高木坊の檀家であることを保証しています。高木坊が宗門改めに加わっていたことが分かります。

今回はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」

「寺々由来」の成立時期を探る手掛りを、研究者は次のように挙げていきます。
 この書には、松平家の御廟所法然寺のことが書かれていません。前回もお話ししたように仏生山法然寺は那珂郡小松庄にあった法然上人の旧蹟生福寺を、香川郡仏生山の地に移したものです。建設は寛文八(1668)年に始まり、2年後の正月25日に落慶供養が行われています。その法然寺がこの書には登場しないので、寛文十(1670)年より前に成立していたと推測できます。ところが、ここで問題が出てきます。それはこの時に創建されていたはずの寺でも、この書には載せられていない寺があるのです。それを研究者は次のように指摘します。
①「仏生山條目」の第23條に「頼重中興仁天令建立之間、為住持者波為報恩各致登山法夏可相勤之」と定められた浄上宗の國清寺・榮國寺・東林寺・真福寺。
②頼重が万治元年に寺領百石を寄進し、父頼房の霊牌を納め、寺領三百石を寄進して菩提寺とした浄願寺
③明暦四年に、頼重が百石寄進した日光門跡末天台宗蓮門院
④頼重が生母久昌院の霊供料として寛文八年に百石を寄進した甲州久遠寺末法花宗廣昌寺
このように頼重に直接関係する寺々が、この書には載せられていないのです。これをどう考えればいいのでしょうか? その理由がよく分りません。どちらにしても、ここでは、法然寺の記載がないからと言って、本書成立を寛文十年(1670)以前とすることはできないと研究者は判断します。

結論として、本書の成立は寛文十年よりやや遅れた時期だと研究者は考えているようです。
その根拠は、東本願寺末真宗寒川郡伝西寺の項の「一、寺之證檬(中略)十五代常如上人寺号之免書所持仕候」という記述です。ここに出てくる常如という人物は、先代琢如が寛文11年4月に没した後を受けた人になります。(「真宗年表」)。そうすると、この書が成立した上限は、それ以後ということになります。また下限は、妙心寺末禅宗高松法昌寺は延宝三年十一月に賞相寺と改められます(「高松市史」)。しかし、この書には、法昌寺の名で載っています。また、延宝四年に節公から常福寺の号を与えられて真宗仏光寺派に属した(「讃岐国名勝国合」)絲浜の松林庵が載っていません。ここからは延宝2年頃までに出来たことが推測できます。

鎌田博物館の「諸出家本末帳」と「寺々由来書」を比較してみて分かることは? 
高松藩で一番古い寺院一覧表①「御領分中寺々由来書」を観てきましたが、これと「兄弟関係」にあるのが鎌田共済会図書館の②「諸出家本末帳」です。この書は昭和5年2月、松原朋三氏所蔵本を転写したことを記す奥書があります。しかし、原本が見つかっていません。この標題の下に「寛文五年」と割書されているのは、本文末尾の白峯寺の記事が寛文五年の撰述であるのを、本書全体の成立年代と思い違いしたためで、本文中には享保二(1717)年2月の記事があるので、その頃の成立と研究者は判断します。成立は、「由来書」についで、2番目に古い寺院リストになります。両者を比べて見ると、内容はほとんど同じなので、同じ原本を書写した「兄弟関係」にあるものと研究者は考えています。両者を比べてみると、何が見えてくるのでしょうか? まず配列について見ていくことにします。

寺由来書と本末帳1
由来帳と本末帳の各宗派配列
上が①の由来書、下が②の本末帳で、数字は所載の寺院数です。
①大きい違いは、「由来書」では浄土・天台・真言・禅・法華・律・山伏・一向の順なのに、「本末帳」では、一向が禅宗の次に来ていること。
②真宗内部が「由来書」では西本願寺・東本願寺・興正寺・東光寺・永応寺・安楽寺の順なのに、「本末帳」では興正寺・安楽寺・東光寺。永応寺・西本願寺・東本願寺の順序になっていること
これは「本末帳」は一度バラバラになったものを、ある時期に揃えて製本し直した。ところが欠落の部分もあって、元の姿に復元できなかったと研究者は考えています。
③掲載の寺院数は、両書共に浄土8・天台2・律12・時宗1・山伏1です。真言は105に対して59、禅宗は7と5、 真宗は129に対して121と、どれも「本末帳」の方が少いようです。
④欠落がもっとも多いのは真言宗で、仁和寺・大覚寺とも「本末帳」は「由来書」の約半数しかありません。これも欠落した部分があるようです。
「由来書」と「本末帳」の由緒記述についての比較一覧表が次の表3です。
由来書と本末帳
「由来書」と「本末帳」の由緒記述の比較
上下を比べると書かれている内容はほとんど同じです。違いを見つける方が難しいほどです。ただ、よく見ると、仁和寺末香東郡阿弥陀院(岩清尾八幡別当)末寺六ヶ寺の部分は配列や記述に次のような多少の違いがあります。
①の円満寺については「由来書」にある「岩清尾八幡宮之供僧頭二而有之事」の一行が「本末帳」にはありません。
③の福壽院について「本末帳」には、「はじめ今新町にあり、寛文七年、中ノ村天神別当になった」と述べていますが「由来書」には、それがありません。
⑤の薬師坊について「由来書」には「原本では記事が消されている」と断書しています。「本末帳」では、そこに貼紙があり、「消居」というのはこの事を指すようです。
⑥の西泉坊については、「由来書」には記事がありますが、「本末帳」にはありません。
全般にわたって見ると、多少の違いがありますが、内容は非常ににていることを押さえておきます。

研究者は表4のように一覧化して、両者の異同を次のように指摘します。
由来書と本末帳3

①志度寺の寺領は江戸時代を通じて70石でした(「寺社記」)。ところが「由来書」は40石、「本末帳」は50石と記します。「由来書」成立の17世紀後半頃は、40石だったのでしょうか。
②真言宗三木郡浄土寺の本尊の阿弥陀如来について「由来書」は安阿弥の作と記します。「本末帳」は「安阿弥」の三字が脱落したために「本尊阿弥陀之作」となってしまっています。
④法花宗高松善昌寺について、「由来書」は「日遊と申出家」の建立、「本末帳」は「木村氏与申者」の建立と記します。建立者がちがいます。
⑤真宗南条郡浄覚寺は「由来書」は「開基」の記事だけですが、「本末帳」では「開基」とともに「寺之證檬」とあります。
⑥の真宗北条郡教善寺(「本末帳」は教専寺)、⑦の真宗高松真行寺の例を見ても、真宗寺院の記事は、ほとんど例外なく「開基」と「寺之證拠」の二項があります。
⑧真宗高松覚善寺、⑨の徳法寺ともに「本末帳」では「寺之證拠」が貼紙で消されています。なお真宗の部で、「由来書」では例外なく「一、開基云々」とあるのを「本末帳」では「一、寺開基云々」とし、また「由来書」では「以助力建立仕」を「本末帳」では「以助成建立仕」という表現になっています。以上から、州崎寺の本は鎌田図書館本の直接の写しではないと研究者は判断します。
以上をまとめておくと
①「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」は、寛文九(1668)年に高松藩が各郡の大政所に寺社行政参考のために同時期に書上げ、藩に提出させたものとされてきた。
②法然寺が載せられていないので、法然寺完成以前に成立していたともされてきた。
③しかし、法然寺完成時には姿を見せていた寺がいくつか記載されていない。それは、松平頼重に関連する寺々である。
④以上から法然寺完成の1670年以前に成立していたとは云えない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
関連記事

新編 香川叢書 全六巻揃(香川県教育委員会編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
香川叢書(昭和14年発行 昭和47年復刻)

私が師匠からいただいた本の中に「香川叢書」があります。久しぶりにながめていると「真福寺由家記」が1巻に載せられていました。それを読んでの報告記を載せておきます。
 香川叢叢書1巻18Pには、真福寺由末記の解題が次のように記されています。
仲多度郡紳野村大学岸上の浄土宗真福寺は、法然上人の配流地那珂郡小松庄での止住遺蹟と伝ふる所謂小松三福寺(四条村清福寺・高篠村生福寺)の一で、もとは同郡四條村にあつたが、寛永二年高篠村に移轄再興され、更に寛文二年藩主松手頼重が復興を計らせた。この記はその復興の成りしを喜び、寛文三(1663)年正月、松平頼重自ら筆執つて書いた由来記である。(同寺蔵)

高松藩藩祖の松平頼重自身の筆による由来記のようです。読んでみましょう。

讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)之遺跡、念佛弘通之道場也。蓋上人念佛興降之御、承元丁卯仲春、南北之強訴により、月輪禅定之厚意にまかせて、暫営寺に棲遅し、源信自から作る本尊を安置して、六時に礼讃ス。直に専念を行すれは、群萌随て化し、唯名字を和すれは、往生日こに昌なり。道俗雲のとくに馳、英虜星のごとくに集まる。而后、皇恩勅許之旨を奉し、阪洛促装,の節に及て、弟子門人相謂曰く。上人吸洛したまわは、誰をか師とし、誰をか範とせん。洪嘆拠に銘し、哀馨骨に徹す。依之上人手つから、諸佛中之尊像を割ミ、併せて極難値遇の自影をけつり、古云く、掬水月在手、心は月のこく、像は水のとしし誰か迄真性那の像にありと云はさらんや。而華より両の像を当寺に残して、浄土の風化盆揚々たり。中葉に及て、遺雌殆頽破す。反宇爰にやふれ、毀垣倒にたつ。余当国の守として、彼地我禾邑に属す。爰に霊場の廃せんとすると欺て、必葛の廣誉、あまねく檀越の信をたヽき、再梵堂宇を営す。予も亦侍臣に命して、三尊の霊像を作りて以寄附す。空師の徳化、ふたヽひ煕々と然たり。教道風のとくにおこり。黎庶草のとくにす。滋に法流を無窮に伝ん事を好んして、由来の縁を記す。乃ち而親く毫を揮て、以て霊窟に蔵む。維時寛文三歳次癸卯初春下旬謹苦。
     
  意訳変換しておくと
讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)の旧蹟で、念佛道場である。承元丁(1207)年卯仲春、南北之強訴により流刑となり、月輪禅定(九条良経)の荘園・小松荘にある当寺で、生活することになった。法然は自から彫った本尊を安置して、一日六回の礼讃を、専念して行っていると、高名を慕って多くの人々が集まってきて、名号を和するようになった。みるみるうちにいろいろな階層の人々が雲がたなびくように集まってきた。
 その後に、勅許で畿内へ帰ることを許さたときには、弟子門人が云うには「上人が京に帰ってしまわれたら、誰を師とし、誰を範としたらよいのでしょうか。」と嘆き悲しんだ。そこで上人は、自らの手で尊像を彫り、併せて自影を削った。古くから「掬水月在手、心は月のごとく、像は水のごとし 誰か迄真性那の像にあり」と云われている。このふたつの像を残して、法然は去られた。
 しかし、その後に法然の旧蹟は荒廃・退転してしまった。私は、讃岐の国守となり、この旧蹟も私の領地に属することになった。法然の霊場が荒廃しているのを嘆き、信仰心を持って、檀家としての責任として堂宇を再興することにした。家臣に命して、三尊の霊像を作りて、寄附する。法然の徳化が、再び蘇り、教道が風のごとくふき、庶民が草のごとくなびき出す。ここに法然の法流を無窮に伝えるために、由来の縁を記す。毫を揮て、以て霊窟に収める。
 寛文三(1663)年 癸卯初春下旬 謹苦。
内容を整理しておくと次のようになります
①那珂(仲)郡高篠村の真福寺は法然の讃岐流刑の旧蹟で、念佛道場で聖地でもあった。
②法然は、この地を去るときに、阿弥陀仏と自像のふたつの像を残した。
③松平頼重は、退転していた真福寺を再興し、三尊を安置し、その由来文書を収めた。
真福寺1
真福寺(まんのう町岸上 法然上人御旧跡とある)
少し補足をしないと筋書きが見えて来ません。
①については、残された史料には、小松荘で法然は生福寺(しょうふくじ)(現在の西念寺)に居住し、仏像を造ったり、布教に努めたといいます。当時、周辺には、生福寺のほか真福寺と清福寺の三か寺あって、これらの寺を法然はサテライトとして使用した、そのため総称して三福寺と呼んだと伝えられます。真福寺が拠点ではなかったようです。
小松郷生福寺2
 生福寺本堂で説法する法然(法然上人絵伝)

法然が居住した生福寺は、現在の正念寺跡とすれば、真福寺は、どこにあったのでしょうか?
満濃町史には「空海開基で荒れていたのを、法然が念仏道場として再建」とあります。真福寺が最初にあったとされるのはまんのう町大字四條の天皇地区にある「真福寺森」です。ここについては以前にお話したので省略します。
真福寺森から見た象頭山
四条の真福寺森から眺めた象頭山

松平頼重による真福寺の復興は、仏生山法然寺創建とリンクしているようです。
 法然寺建造の経緯は、「仏生山法然寺条目」の中の知恩院宮尊光法親王筆に次のように記されています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳すると
①浄土宗の開祖法然が、建永元年に法難を受けて土佐国へ配流されることになった。
②途中の讃岐国で。九条家の保護を受けて小松庄の生福寺でしばらく滞在した。
④その後戦乱によって衰退し、草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影だけが残っていた。
⑤それを源頼重(松平頼重)が高松藩主としてやってくると、法然上人の旧跡を興して仏生山へ移し、仏閣僧房を造営して新開の田地を寺領にして寄進した

 ここには頼重が、まんのう町にあった生福寺を仏生山へ移した経緯が記されています。これだけなら仏生山法然寺創建と真福寺は、なにも関わりがないように思えます。
ところが話がややこしくなるのですが、退転していた真福寺は、松平頼重以前の生駒時代に再建されているのです。
もう少し詳しく見ておくと、生駒家重臣の尾池玄蕃が、真福寺が絶えるのを憂えて、岸上・真野・七箇などの九か村に勧進して堂宇再興を発願しています。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったのです。生駒家の時代に真福寺は現在の西念寺のある場所に再建されたことを押さえておきます。
 その後、生駒騒動で檀家となった生駒家家臣団がいなくなると、再建された真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重ということになります。
頼重は、菩提寺である法然寺創建にとりかかていました。その創建のための条件は、次のようなものでした。
①高松藩で一番ランクの高い寺院を創建し、藩内の寺院の上に君臨する寺とすること
②水戸藩は浄土宗信仰なので、浄土宗の寺院で聖地となるような寺院であること
③場所は、仏生山で高松城の南方の出城的な性格とすること
④幕府は1644年に新しく寺院を建てることを制限するなどの布令を出していたので、旧寺院の復活という形をとる必要があったこと。

こうして、法然ゆかりの聖地にあった寺として、生福寺は仏生山に形だけ移されることになります。そして、実質的には藩主の菩提寺「仏生山法然寺」として「創建」されたのです。その由緒は法然流刑地にあった寺として、浄土宗門徒からは聖地としてあがめられることになります。江戸時代後半には、多くの信徒が全国から巡礼にやって来ていたことは以前にお話ししました。いまでも、西念寺(まんのう町羽間)には、全国からの信者がお参りにやって来る姿が見えます。

真福寺3

真福寺(讃岐国名勝図会)
 その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。
それが現在地の岸の上の岡の上になります。その姿については、以前にお話ししたのでここでは触れません。真福寺再建完了時に、松平頼重自らが揮毫した由来記がこの文章になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
真福寺由来記 香川叢書第1巻 446P

前回は17世紀末に高松藩で作られた寺院一覧表「御領分中寺々由来書」の東西本願寺の本末関係を見ました。この書では真宗の各派の順番は、西本願寺・東本願寺・興正寺・東光寺・永応寺・安楽寺の順になっています。今回は、真宗興正寺の本末関係を見ていくことにします。由緒書きを省略して本末関係に絞って一覧表化したのが次の表です。
興正寺末寺
高松藩の興正寺末寺(御領分中寺々由来書)

ここからは、つぎのようなことが分かります。
①(48)「代僧勝法寺」がトップに位置します。
この寺が現在の高松御坊(高松市御坊町)になります。高松藩藩祖の松平頼重が大和国にあった寺を讃岐に持ってきて、高松の寺町に高松御坊・興正寺代僧勝法寺(高松市御坊町)を再建(実質的な創建)します。これが、京都興正寺の触係寺として大きな役割を果たすようになることは以前にお話ししました。高松藩の興正寺末寺の管理寺院ともいえる寺なのでトップに置かれるのは納得できます。
高松御坊(興正寺別院)
高松御坊(勝法寺)と付属の3寺(讃岐国名勝図会)
興正寺代僧勝法寺の周辺に、寺中が三ヶ寺置かれます。勝法寺が大和からやってきた寺で、讃岐に地盤がなく政治力もなかったので、その支えのために常光寺や安養寺の末寺がその周囲に配されます。そのうちの(49)覚善寺は、常光寺(三木郡)末、(50)西福寺は安養寺(香東郡)末、(51)徳法寺は覚善寺末(常光寺孫末)です。そのため本寺から離れて勝法寺に続けて記載されています。
 どうして松平頼重は、興正寺を特別に保護したのでしょうか?
それは松平頼重と興正寺住職との間の次のような婚姻関係に求められます。
①興正寺18世門跡准尊の娘・弥々姫が、松平頼重の父頼房(水戸藩初代藩主)の側室に上っていたこと
②自分の娘万姫が20世門跡円超の養女となり、のち円超の四男寂眠と結婚したこと
このような婚姻関係があったために松平頼重は興正寺に強く加担したと研究者は考えています。そのため「御領分中寺々由来書」では、興正寺と西東本願寺は、並列関係に置かれています。興正寺の扱いが高いのです。
 松平頼重は京都の仏光寺とも深い関係にありました。
そのために仏光寺の末寺を藩内に作ろうとします。「常光寺記録」には次のように記されています。

 松平頼重は讃岐にやってくると、まず常光寺から末寺の専光寺を召し上げた。専光寺は末寺を13ヶ寺ももつ寺であったが、この末寺13ヶ寺も合わせて差し出せ言って来た。常光寺は、それを断って3ヶ年の間お目見えせず無視していた。あるとき、頼重は「常光寺の言い分はもっともだ」と言って13ヶ寺を常光寺へ返えしてくれた

どうして専光寺を差し出せと常光寺に要求したのでしょうか?
 ここにも頼重と、仏光寺の姻戚関係がからんできます。松平頼重は延宝2(1674)年7月、興正寺19世准秀の息子・雄秀(実は弟)を養子として、10月に高松へ迎え、11月には仏光寺へ入室させています。つまり、松平頼重頼重の子(養子)が仏光寺の第20世の随如となったのです。随如は法号を尭庸上人といい享保6年に81才で没しています。頼重は自分の養子となった随如が仏光寺門跡となったのに、讃岐に仏光寺の末寺がないのを遺憾に思い、常光寺から専光寺を取りあげて仏光寺末にしたというストーリーを研究者は考えています。どちらにしても後に現れる仏光寺末寺は、高松藩の宗教政策の一環として政策的に作り出されたもののようです。「由来書」の項目には、仏光寺末寺はありません。高松藩に仏光寺末寺は、もともとはなかったのです。
真宗興正派常光寺末寺一覧
常光寺の本末関係

(56)の常光寺(三木町)は、真宗興正派の讃岐教線拡大に大きな役割を果たした寺院です。
 常光寺の部分を拡大してみておきましょう。ここからは次のようなことが分かります。
①常光寺は高松藩に45ヶ寺の末寺・孫末寺があった。これに丸亀藩分を加えるとさらに増えます。
②東本願寺の寺院分布が高松周辺に限定されるのに対して、常光寺の末寺は、仲郡にまでおよぶ。
興正寺の本末表を見ての第一印象は、西東本願寺に比べて複雑なことです。
 直末のお寺の間に、(56)常光寺や(97)安養寺などの多くの末寺をもつ「中本寺」があります。常光寺の末寺である(70)専光寺(香東郡)や善福寺(南条郡)もその下にいくつかの末寺をもっています。これは興正派の教線拡大の拠点時となった安養寺や常光寺の布教活動との関連があるように私は考えています。このふたつの寺院は、丸亀平野や三豊平野に拠点寺院を設け、そこから周辺への布教活動を展開し、孫道場を開いていき、それが惣道場から寺院へと発展するという経緯を示しめすことは以前にお話ししました。
本願寺 (角川写真文庫) - NDL Digital Collections

 西本願寺には『木仏之留』という記録が残っています。

これは末寺に親鸞聖人の御影などを下付する際には、下付したことの控えとするため『御影様之留』という記録に、下付する御影の裏書を書き写したものです。「寺々由来書」の真宗寺院のうち「木仏之留」に名があるのは、香東郡安養寺など22ヶ寺です。そのうち寛永18年8月25日に木仏の下付を受けた宇多郡クリクマノ郷下村明源寺」は、その後の記録に出てこない謎の寺ですが、他はその後の消息がたどれます。例えば常光寺を見てみると、寛永17年正月15日に木仏を授与されたことが裏書(本願寺史料研究所所蔵「常光寺史料写真」)にから分かります。しかし、西本願寺側の寛永17年の「木仏之留」は、今のところ見付かっていないようです。両方があると、裏がとれるのでより信頼性が増すことになります。
「木仏之留」の記事と、「寺々由来書」の由緒書は、どんな風に関わっているか?
両書の記事が一致する例として、(68)常光寺末の常満寺(三木郡)があります。
  『木仏之留』
釈良如―
寛永一八年十巳八月十六日
願主常満寺釈西善
右木仏者興正寺門徒常光寺下 讃州三木郡平本村西善依望也             (取次)大進
  『寺々由来書』
一 開基寛正年中西正と申僧諸日一那之以助力建立仕候事
一 寺之證檬者蓮如上人自筆六字之名号丼寛永年中木仏寺号判形共二申請所持仕候事
由来には寛永十八年八月十六日という日付はありませんが、寛永年中として抑えています。これと同じような例が残る寺としては、次の寺が挙げられます。
西本願寺末  山田郡源勝寺
興正寺末   安養寺末山田郡専福寺
興正寺末常光寺末 専光寺末三木郡福住寺
同末同郡 信光寺
阿州東光寺末大内郡善覚寺
阿州安楽寺末宇足部長善寺(まんのう町勝浦)
同末同郡 慈光寺
22ヶ寺の中で、15寺までは木仏下付のことを寺の證拠として挙げていて、8ヶ寺までは授与された年代も正確に伝えています。下付された各末寺と、下付した側の本願寺の記録が一致するということは、「寺々出来書」の由緒の記事は、ある程度信頼できると研究者は判断します。
真宗興正派安楽寺末寺
安楽寺の末寺(寺々由来書)

『寺々由来書』を見て、不思議に思うのが阿波の安楽寺が興正寺の末寺に入っていないことです。安楽寺は、興正寺から独立した項目になっています。高松藩の安楽寺の末寺については、以前に次のように記しました。
①美馬の安楽寺から三頭峠を越えて、勝浦村の長善寺や炭所村の尊光寺など、土器川の源流から中流への教線拡大ルート沿いに末寺がある。
②長尾城跡の周囲にある寺は、下野後の長尾氏によって開かれたという寺伝をもつ。
③地域的に、土器川右岸(東)に、末寺は分布しており、左岸に多い常光寺の末寺と「棲み分け現象」が見られる。
④(123)超正寺は、現在の超勝寺

この本末関係図に、安養寺が含まれていないのはどうしてでしょうか。安養寺の寺伝には、安楽寺出身の僧侶によって開かれたことが記されていることは、以前にお話ししました。しかし、ここでは安養寺は安楽寺末寺とはされていません。安養寺が安楽寺から離末するのは18世紀になってからです。

  以上、まとまりがなくなりましたが、今回はこれで終わります。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
関連記事

  前回は17世紀後半に成立した高松藩の寺院一覧表である「御領分中寺々由来書」の成立過程と真言宗の本末関係を見ました。今回は浄土真宗の本末関係を見ていくことにします。テキストは「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」です。

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来2
 
「御領分中寺々由来書」に収められた高松藩の各宗派の寺数は、浄上8、天台2、真言115、禅宗7、法華12、 一向129、律宗・時宗・山伏各1の計376寺です。各宗本山の下に直末寺院があり、それに付属する末寺は直末寺院に続けて記されています。そして各寺院には簡単な由緒が書き添えられています。この表は、研究者がその中から由緒の部分を省いて、本末関係だけに絞って配置したものです。真宗については「西本願寺・東本願寺・興正寺・阿州東光寺・阿州安楽寺」が本山としてあげられいます。まず西本願寺の末寺を見ていきます。
 西本願寺本末関係
「御領分中寺々由来書」の西本願寺末寺リスト
東から西に末寺が並びます。そこに整理番号が振られています。西本願寺末の寺院が22あったことが分かります。例えば一番最後の(22)の西光寺には(宇足)と郡名が記されているので、宇多津の西光寺であることが分かります。この寺は信長との石山合戦に、戦略物資を差し入れた寺です。本願寺による海からの教宣活動で早くから開かれた寺であることは以前にお話ししました。しかし、他の宇足郡のお寺から離れて、西光寺だけが最後尾にポツンとあるのはどうしてなのでしょうか? よくわかりません。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺(讃岐国名勝図会)

仲(那珂)郡の3つの寺を見ておきましょう。
(17)正覚寺(善通寺市与北町)は、買田池の北側の岡の上にあるお寺です。末寺に(18)正信とあります。これは、寺号を持たない坊主の名前のようです。このような坊主名と思われるものが(2)(3)(4)(6)(11)(15)(18)と7つあります。正式な寺号を名のるためには、本山から寺号と木仏などを下付される必要がありました。そのためには、数十両(現在価格で数百万円)を本寺や中本寺などに奉納しなければなりませんでした。経済基盤が弱い坊などは、山号を得るために涙ぐましい努力を続けることになります。
(19)の源正寺は、如意山の東麓にある寺です。
(20)の願誓寺は旧丸亀琴平街道の垂水町にあるお寺で(21)の光教寺(まんのう町真野)を末寺としていたようです。

 阿波安楽寺に残された文書の中に、豊臣秀吉の大仏殿供養法会へ出勤するようにとの本願寺廻状があり、その宛名に次のような7つの寺院名が挙げられます。
「阿波国安楽寺、讃岐国福善寺・福成寺・願誓寺・西光寺・正西坊、□坊」

これらの寺が、讃岐の真宗寺院の中心的存在だったことが推測できます。願誓寺も西本願寺の拠点寺院として、早くからこの地に開かれたことがうかがえます。
仲郡の西本願寺末の3つの寺を地図に落としてみます。

 西本願寺末寺(仲郡)
西本願寺末寺の正覚寺・源正寺・願正寺
これをみると3つの寺が与北周辺に集中していることが分かります。丸亀平野の真宗教線ラインの伸張は、東から常光寺(三木町)、南から阿波美馬の安楽寺によって進められたこと、このエリアの東側の垂水地区にある真宗寺院は、ほとんどが常光寺末だったことは以前にお話ししました。それが与北の如意山の北側の与北地区には、西本願寺に属するお寺が17世紀後半には3つ姿を見せていたことになります。その始まりは願誓寺だったようです。ちなみに、この3つ以外には、高松藩領の仲郡には西本願寺末の寺はなかったということです。
正覚寺
西本願寺末寺の正覚寺

続いて宇(鵜)足郡の西本願寺末の5つの寺を見ておきましょう。
(12)東光寺は丸亀南中学校の東南にあります。寺伝には開基について次のように記します。
「清水宗晴(長左衛門尉、後に宗洽と改む)の次男釈清厳か讃州柞原郷に住居し本光寺を開基す」

祚原の三本松(今の正面寺部落)に本光寺を建てたとあります。それが、元禄のころに寺の東に光り輝く霊光を見て現在地に移され、名を東光寺と改めたとされます。

土器川旧流路
郡家・川西周辺の土地利用図 旧流路の痕跡が残り土器川が暴れ川だったことが分かる
 以前にもお話ししたように近世以前の土器川や金倉川(旧四条川)は、扇状地である丸亀平野の上を山田の大蛇のように何本もの川筋になって、のたうつように流れていました。そこに霞堤防を築いて川をコントロールするようになったのは、近世はじめの生駒藩の時代になってからです。西嶋八兵衛によってすすめられたとされる土器川・金倉川の治水工事で、川筋を一本化します。その結果、それまでは氾濫原だった川筋に広大な開墾可能地が生まれます。開発した者の所有となるという生駒家の土地政策で、多くの人々が丸亀平野に開拓者として入り込んできます。その中には、以前にお話ししたように、多度津町葛原の木谷家のように村上水軍に従っていた有力武将も一族でやってきます。彼らは資金を持っていたので、周辺の土地を短期間で集積して、17世紀半ばには地主に成長し、村役人としての地位を固めていきます。このように西讃の庄屋たちには、生駒時代に他国からやってきて、地主に成り上がった家が多いように思います。その家が本願寺門徒であった場合には、真宗の道場を開き、菩提寺として本願寺末に入っていったというストーリーは描けます。
 東光寺は丸亀南中学校の南東にありますが、この付近一帯は木や茅などの茂った未開の地で、今も地名として残っている郡家の原、大林、川西の原などは濯木の続く原野だったのでしょう。その原野の一隅に東光寺が導きの糸となって、人々をこの地に招き集落ができていったとしておきましょう。
(13)万福寺は、大束川流域にある富隈小学校の西側の田園の中にあるお寺です。
(14)福成寺は、アイレックス丸亀の東にある岡の上にあり、目の前に水橋池が拡がります。
(15)「先正」という坊主名がつく道場については、何もわかりません。以後、寺号を獲得してまったくちがう寺院名になっていることも考えられます。

まんのう町称名寺
称名寺(まんのう町造田:後は大川山)
(16)称名寺は、土器川中流のまんのう町造田の水田の中にあります。
このエリアは、阿波の安楽寺が南から北の丸亀平野に伸びていく中継地にあたります。そこに、17世紀という早い時期に、本願寺末のお寺があったことになります。寺伝には開基は「享徳2(1453)年2月に、沙門東善が深く浄土真宗に帰依して、内田に一宇を建立したのに始まる。」と記します。
讃岐国名勝図絵には、次のように記されています。

「東善の遠祖は平城天皇十三代の末葉在原次郎善道という者にて、大和国より当国に来り住す。源平合戦平家敗軍の時、阿野郡阿野奥の川東村に逃げ込み、出家して善道と改む。その子善円、同村奥の明神別当となり、その子書視、鵜足郡勝浦村明神別当となり、その子円視、同郡中通村に住居す。その子円空、同所岡堂に居す。その子善圓、造田村に来り雲仙寺と号す。その子善空、同所西性寺に居れり。東善はその子にして、世々沙門なり」

ここには次のようなことが記されています。
①称名寺の開基・東善の祖先は、大和国の人間で源平合戦の落人として川東村に逃げ込み出家。
②その子孫は川東村や勝浦村の明神別当となり、祭礼をおこなってきた
③その子孫はさらに山を下って、中通村や造田村に拠点を構えてきた
源平合戦の落人というのは、俄に信じがたいところもありますが、廻国の修験者が各地を遍歴した後に、大川信仰の拠点である川東や勝浦の別当職を得て、定住していく過程がうかがえます。その足跡は土器川上流から中流へと残されています。そして、造田に建立されたのが称名寺ということになるようです。しかし、山伏がどうして、真宗門徒になったのでしょうか。そして、安楽寺の末寺とならなかったのかがよくわかりません。

称名寺 まんのう町
称名寺(まんのう町造田)

中寺伝承には、次のように伝えられています。
「称名寺は、もともとは大川の中寺廃寺の一坊で杵野の松地(末地)にあった。それが、造田に降りてきた」

この寺が、「讃岐国名勝図絵」にある霊仙寺(浄泉寺)かもしれません。造田村の正保四年の内検地帳に、「りょうせんじ」という小字名があり、その面積を合わせると四反二畝になります。ここは、現在の上造田字菰敷の健神社の辺りのようです。この付近に霊仙寺があったと研究者は推測します。どうもこちらの方が私にはぴったりときます。
以上をまとめておくと、次のような「仮説」になります。
古代からの山岳寺院である中寺の一子院として、霊仙寺があった。いつしか寂れた無住の寺に廻国の修験者が住み着き住職となった。その子孫が一向宗に転宗し、称名寺を開基した。

西村家文書の「称名寺由来」(長禄三卯年記録)には、次のように記されています。
享徳2(1453)年3月、帯包西勝寺の子孫のものが、一向宗に帰依し内田村に二間四方の庵室を建て、朝夕念仏をしていた。人々はそれを念仏坊、称名坊と呼んだ。

 これが称名寺の開基のようです。とすれば、称名寺は「帯包西勝(性)寺の子孫」によって、開かれたことになります。
  称名寺は、寛文5(1665)年に寺号公称を許可、元禄14(1701)年に、木仏許可になっています。また文化年間(1804)の京都の本願寺御影堂の大修復の際には、多額の復興費を上納しています。その時から西本願寺の直末寺の待遇を受けるようになったといいます。

  ここで西本願寺末寺になっているからといって、創建時からそうであったとは限らないことを押さえておきます。
  17世紀中頃の西本願寺と興正寺の指導者は、教義や布教方法をめぐって激しく対立します。承応二年(1653)12月末、興正寺の准秀上人は、西本願寺の良如上人との対立から、京都から天満の興正寺へと移り住みます。これを受け、西本願寺は各地に使僧を派遣して、興正寺門下の坊主衆に今後は准秀上人には従わないと書いた誓詞を提出させています。この誓詞の提出が、興正寺からの離脱同意書であり、西本願寺への加入申請書であると、後には幕府に説明しています。つまり、両者が和解にいたる何年間は、西本願寺が興正寺の末寺を西本願寺の末寺として扱っていました。それはこの期間に西本願寺が下した親鸞聖人の御影などの裏書からも確認することができます。江戸時代、西本願寺は末寺に親鸞聖人の御影などを下付する際には、下付したことの控えとするため「御影様之留」という記録に、下付する御影の裏書を書き写していました。西本願寺と興正寺が争っていた期間に、興正寺の末寺に下された御影の裏書には興正寺との本末関係を示す文言が書かれていません。
 両者の対立は、和解後も根強く残ります。対立抗争の際に、興正寺末から西本願寺末とされ、その後の和解後に興正寺末にもどらずに、そのまま西本願寺末に留まった寺院もあったようです。つまり、興正寺末から西本願寺末へ17世紀半ばに、移った寺院があるということです。高松藩の西本願寺末の22ケ寺の中にも、そんな寺があったことが考えられます。開基当初から西本願寺末であったとは云えないことになります。
最後に、東本願寺の末寺を見ておきましょう。

東本願寺末寺 高松藩内一覧
東本願寺の末寺
①17世紀後半の高松藩「御領分中寺々由来書」には、東本願寺末の寺が24ヶ寺挙げられている。
②高松の福善寺が7ヶ寺の末寺を持っている。
③東本願寺の末寺は高松周辺に多く、鵜足郡や仲郡などの丸亀平野にはない
ここからは現在、丸亀平野にある東本願寺のお寺は、これ以後に転派したことがうかがえます。
 気になるのは(27)西光寺(西本願寺末香西郡)が、(26)竜善寺と(28)同了雲との間にあることです。
西光寺については由緒書に「寛文六年二月、西本願寺帰伏仕」とあります。もとは東本願寺の孫末であったのを、西本願寺に改派したときに、西本願寺直末になったようです。そうだとすると、前回見た真言宗大覚寺末の八口(八栗)寺が仁和寺孫末の安養寺と直末屋島寺との間にあるのは、もとは仁和寺末であったのを、大覚寺末に改派したためと研究者は推測します。
また②の高松の福善寺は阿波安楽寺文書の中の「豊臣秀吉の大仏殿供養法会へ出勤依頼廻状」に名前があるので、16世紀末にはすでに有力寺院だったことことが分かります。7つの末寺を持っていることにも納得がいきます。

  以上をまとめておくと
①17世紀末に成立した高松藩の「御領分中寺々由来書」には、西本願寺末寺として22の寺院が記されている。
②22の寺院の内訳は「寺号14、坊名1、道場主名7」で、寺号を得られていない道場がまだあった。
③丸亀平野には真宗興正派の常光寺と安楽寺の末寺が多い。
④その中で、仲郡の3つの西本願寺の寺院は、与北の如意山北麓に集中している。
⑤鵜足郡の西本願寺の5寺は、分散している。その中には他国からの移住者によって開基されたという伝承をもつ寺がある。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献

浄土真宗の讃岐での教線拡大について、三木の常光寺と阿波美馬の安楽寺が果たした役割の大きさについて以前にお話ししました。

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来

そんな中で先達から紹介されたのが「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として―四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」です。松原秀明は、金毘羅宮の学芸員として、さまざまな史料を掘り起こし、その結果として「金毘羅大権現に近世以前の史料はない」ことを明らかにしていった研究者でもあります。彼が30年以上も前に発表した文章になります。

ウキには「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」について、次のように記します。
成立 寛文九(1668)年 写本 木田郡牟礼町洲崎寺
高松藩が各郡の大政所に寺社行政参考のために書上げさせたもの。神社は所在地・由来・変遷・祭礼・別当寺・神宝・社地・末社、寺院は宗派・創建・変遷・本末関係・諸堂・本尊・宝物・寺地などを記している。写本は文政13年写。活字本 新編香川叢書史料篇
 「御領分中寺々由来書」は、高松藩の寺院一覧表としては最古のものになります。
これが新編香川叢書史料篇におさめられて以後は、近世前半の寺院の簡単な由緒を知る時の史料として、「町史」などにはよく引用されています。原本は、牟礼町州崎寺にあり、「御領分中宮由来」と合せて一冊になります。表紙の題は、「御□□宮由来 右同寺々由来」と読めるようです。扉の題は次のように記されています。

「御領分中宮由来 寛文九酉年郡々大政所書上 同寺々由来 久保停有衛門 蔵書」

「宮由来」には標題はありませんが、「寺々由来書」には「御領分中寺々由来書」と書かれています。ここで押さえておきたいのは、「御領分中寺々由来書」と「御領分中宮由来」は合せて一冊であったことです。
  
 この史料を最初に世に出したのは、松浦正一氏です。
松浦氏は、昭和13年1月、「寺々由来書」を翻字して孔版印刷で関係者に配布します。松浦氏が出版した孔版本の奥書は「文政十三寅冬写 久保博右衛門 蔵書」という原本の奥書に続いて、次のように記されています。
「昭和十三年一月片一日 以御城俊氏蔵本篤之畢 於高松市天神前表誠館 松浦正一」

 蔵書していた御城俊騨氏は、州崎寺の前々住職になるようです。洲崎寺の住職が保存していたものを、松浦正一氏が見せられて、重要性に気付き簡易的に出版したようです。松浦氏は「宮由来」と「寺々由来書」について、「香川史学第二号」(昭和47年11月発行)の「中世讃岐の信仰」で次のように記します。

「御領分中寺々由来」は次に述べる『御領分中宮由来』と題する、高松藩領内の神社の調査と同じころに調べが行なわれ、藩に報告されたものと思われる。その寺と宮との調査は当時の藩主頼重公の命令で、各郡大庄屋によって調べられ、書き上げたもの」

 これを受けて昭和54年2月に発行された「新編 香川叢書 史料」に翻刻されたときの解説にも次のように記します。

「初代高松藩主松平頼重が社寺行政の資料とするため、領内各郡の大庄屋に書上げさせた報告書である」

「各郡の大庄屋に書上げさせた報告書」という説は、その後に出版された各市町村史にも受け継がれているようです。
 この通説に対して、松原秀明氏は次のように疑いの目を向けます。

①「宮由来」は大内・寒川・三木・山田・南条・北条・鵜足・那珂の郡別になっていること
②それぞれの末尾には「右之通、村々社僧・神主吟味仕、書上け申所相違無御座候、依て如件」という文言があること。
③具体的には次の通り
大内郡 寛文九酉年二月十一日
大山太郎左衛門
日下佐左衛門
寒川郡 寛文九年西二月
寒河都鶴羽浦  真鍋専右衛門
同神前村 蓮井太郎三郎
三木郡 寛文九年酉ノニ月朔日
三木部井戸村   古市八五郎
同ひかみ村   山路与三大夫
山田郡 寛文九年酉二月五日
岩荷八郎兵衛
佐野弥二右衛門
南条郡 寛文八申年
花房九郎右衛門
植松長左衛門
北条郡 寛文九酉年 月朔日
北条郡加茂村   宮武善七
鵜足郡 寛文九年酉ノ
久米膝八
内海次右衛門
那珂郡 寛文九年西ノニ月九日
高 畑 甚 七
新名助右衛門

ここには日付と大庄屋の署名があるので、「社僧・神主吟味」した上で、大庄屋が藩へ提出した書上げであることは間違いありません。しかし、成立年紀については、疑問が残るとします。それはこの時点では、あくまで各郡大庄屋の書上げ段階だからです。これを集めて書物にして「御領分中宮由来」という題名を付けたのは、それから何ヶ月か何年か後になるはずです。その際に、各大庄屋が高松に集まって編集会議を行って相談のうえで書名を決めたというのは、非現実的です。実際には、書上げを受取った藩の役人か、あるいはこの方面の事に興味を持つ誰かが、書上げを清書して「宮由来」と命名したというのが現実的だと研究者は指摘します。
 なお、「宮由来」には高松城下・香東・香西の部が欠けています。これは何かの事情で書上げが提出されなかったか、まとめられるまでに散逸したかのどちらかでしょう。もし、後者ならば書き上げ提出から、それがまとめられるまでに相当の年月があったことがうかがえます。
次に「寺々由来書」の方を見てみましょう。     
①浄土・天台・真言・禅・法華・一向の各宗派に分けて、寺院を次のような本山別に分類しています。
真言は仁和寺・大覚寺・誕生院、
禅宗は妙心寺・能州紹持寺
法華は身延・京都妙蓮寺・京都妙覚寺・尼崎本興寺・備州蓮昌寺
真宗は西本願寺・東本願寺・興正寺・阿州東光寺・阿州安楽寺
②収められた各宗派の寺数は、浄上8、天台2、真言115、禅宗7、法華12、 一向129、律宗・時宗・山伏各1の計376寺
③記載様式の特徴は、各宗本山の下に直末寺院があり、それに付属する末寺は直末寺院に続けて挙げてあること
④各寺院には簡単な山緒が書き添えがあること
しかし、ここには「宮由来」のように各郡の大庄屋の名前は、どこにもありませんし、作成年月も記されていません。

例えば、真宗興正派の教線拡大の拠点寺となった常光寺(三木町)の末寺・孫末寺30ヶ寺を郡別に見てみましょう。

真宗興正派常光寺末寺一覧
興正寺末寺の常光寺(三木町)の末寺一覧
 「御領分中寺々由来書」の常光寺(56)の末寺・孫末寺は高松2・寒川2・三木6・山田4・香東3・北条1・南条6・那珂6となっています。この表を「大庄屋が取調べて藩へ提出した」とすると、どのようにして調べたのでしょうか。考えられるのは
①各郡に散在する末寺諸院を、どこかの大庄屋が一人で調査した
②各郡の大庄屋が情報を持ち寄って、常光寺の末寺・孫末寺の書上げを作って、だれかがまとめた。
しかし、孫末寺までの複雑な本末関係関係を、大庄屋の手で調査したというのは現実的でないというのです。各宗本山ごとに国内の頭取の寺院が調査するか、あるいは末寺・孫末寺から提出させた調書の記事
をもとにして寺社奉行で作成したと考える方が自然だとします。どちらにしても「大庄屋が取調べて藩へ提出した」というのは、考えられないとします。
 次に真言宗寺院について、由緒記事を省略して本末関係のみを示した一覧表を見ておきましょう。

真言宗本末関係
高松藩真言寺院の仁和寺末寺

真言宗仁和寺の讃岐末寺
大覚寺末寺
ここからは次のようなことが分かります。
①高松藩内の真言寺院は、ほとんどが仁和寺・大覚寺両本山に属する。その他の末寺は、善通寺誕生院以外にはない。
②志度寺・白峰寺・八国(栗)寺は、末寺を持たない。
③孫末寺院は、大内・寒川・三木・山田という東から西への順序に並べられている。
④大覚寺末の三木郡八口寺(八栗寺)が仁和寺末聖通寺末の安養寺と仁和寺末屋島寺の間に入っている。以前は八栗寺は、仁和寺末であったことが考えられる。
⑤仁和寺末香東郡大宝院(115)が、誕生院末四ヶ寺の後、真言宗としては最後尾に置かれている
どうしてこのような順番や配列になるのか、研究者にも理由が分らないようです。しかし、全体を見渡すと、各寺院の本末関係は一目瞭然で、よく分かります。本末関係を確認するには、いい史料です。
今回は、このあたりまでとします。次回は真宗の本末関係を見ていくことにします。

  以上をまとめておきます。
①「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」は、同一冊にまとめられていたために、どちらも各郡の大庄屋によって書き上げられたものを、まとめたものとされてきた。
②しかし、「寺々由来書」については、庄屋によって作成された書上げを、藩がまとめたとは考えにくい。
③「寺々由来書」の成立は、寛文九(1668)年以後のことと考えられ、高松藩最古の寺院一覧表である。
④「寺々由来書」は17世紀後半の高松藩の寺院の本末関係や簡単な由来を知る際の根本史料となる。
⑤この書が「新編香川叢書史料篇」に入れられることによって、各寺院の寺伝や本末関係を知る際には欠かせない史料となっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来2

関連記事

丸亀市垂水の西教寺さんで、「真宗興正派はどのようにして讃岐に伝えられたのか」でお話しさせていただきました。そのポイントを何回かに分けてアップしておきたいと思います。
 真宗興正派の讃岐での教線拡大については、三木の常光寺と阿波の安楽寺が大きな役割を果たしたことは以前にお話ししました。そのことについて両寺の寺史が、どのように記しているのかを見ておきましょう。
近世の讃岐真宗興正寺派 三木の常光寺の丸亀平野への教宣拡大ルート : 瀬戸の島から
三木の常光寺

三木の常光寺は、幕末に高松藩提出した報告書に次のように述べています。
 『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕 
   ①仏光寺(興正寺)了源上人之依命会二辺土為化盆、浄泉・秀善両僧共、②応安元年四国之地江渡り、③秀善坊者阿州美馬郡香里村安楽寺ヲー宇建立仕、④浄泉坊者当国江罷越、三木郡氷上村二常光寺一宇造営仕、宗風専ラ盛二行イ候処、阿讃両国之間二帰依之輩多、安楽寺・常光寺右両寺之末寺卜相成、頗ル寺門追日繁昌仕候、
これを要約すると次のようになります。
①1368年、佛光寺(興正寺)が、浄泉坊と秀善坊を四国に派遣
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺
③秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺
④讃岐の真宗寺院のほとんどがいずれかの末寺となり、門信徒が帰依
この寺歴で、常光寺が伝えたかったのは以下のようなことでしょう。
①常光寺の開基が真宗寺院の中では一番古いこと
②真宗布教の拠点が常光寺と安楽寺で、両寺は興正寺の末寺で同時に開かれた兄弟関係の寺院であること 
③両寺の布教活動によって多くの末寺が開かれたために興正派寺院が多いこと。
そして、添付資料として常光寺の末寺一覧表がついています。その中に、垂水の西教寺や善行寺、西の坊などは記されています。つまり三木の常光寺から讃岐の内陸部を西に進んだ教線ラインが丸亀平野の南部にまで届いていたことが裏付けられます。この史料によって、讃岐への真宗伝播について従来の市町村史など記されてきました。

安楽寺3
安楽寺(美馬市郡里)

 しかし、常光寺から「同時に開基された興正寺末の兄弟寺」と指名された安楽寺が藩に提出した寺史には、次のように記されています。

 安楽寺寺歴
安楽寺開基について
①先祖は上総守護だったと記されています。それによると、鎌倉幕府内での権力闘争で、北条氏に敗れた。
②そのため親鸞の高弟の下に逃げ込んで、真宗に入信した。
③そして、縁者の阿波守護をたよってやってきた。
④すると、安楽寺を任されたので真宗に改めた。
ここには、寺の開基者は東国から落ちのびてきた千葉氏で、その寺なので山号が千葉山になるようです。また、開基は鎌倉時代にまで遡り、四国で最も古い真宗寺院だという主張になります。先ほど見た常光寺が1368年ですから、それよりも100年近くはやいことになります。
この内容を常光寺由緒と比べておきましょう。
安楽寺と常光寺寺伝比較
常光寺と安楽寺の由緒比較
以上から分かることは次の通りです。
①常光寺文書には、常光寺と安楽寺は興正寺(旧仏光寺)から派遣された2人の僧侶によって開かれたとあるが、これは安楽寺の寺伝との間に食い違いがある。
②安楽寺はもともとは、興正派でなく本願寺末であったことが考えられる。
③常光寺の開基年代も1368年というのは、僧侶を派遣した仏光寺(後の興正寺)の置かれた時代背景などから考えても、早すぎる年代である。
④四国への真宗教線が伸びてくるのは、蓮如以後で堺などに真宗門徒が現れて以後である。
つまり、讃岐への教線ラインの伸張は、16世紀になってからと研究者は考えているようです。
以上、今回は常光寺と安楽寺は兄弟寺ではなく、安楽寺はもともとは本願寺末として成立していたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考史料
「橋詰茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力
 須藤茂樹 戦国時代の阿波と本願寺 「安楽寺文書」を読み解く
関連記事




18世紀頃になると中本山である安楽寺から離脱していく讃岐の末寺が出てきます。どうしてなのでしょうか。その背景を今回は見ていくことにします。
本寺と末寺(上寺・下寺)の関係について、西本願寺は幕府に対して次のように説明しています。
「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」
              「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)
 ここには下寺(末寺)は、本山より上寺(中山)に預け置かれたものとされています。そして下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要とされました。上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、かなり厳しい上下関係があったようです。そのため、上寺の横暴に下寺が耐えかね、下寺の上寺からの離末が試みられることになります。
 しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、上寺の非法があったとしても、下寺の悲願はなかなか実現することはありませんでした。当時の幕府幕令では、改宗改派は禁じられていたのです。
  ところが17世紀になると情勢が変わってきます。本末制度が形骸化するのです。その背景には触頭(ふれがしら)制の定着化があるようです。触頭制ついて、浄土宗大辞典は次のように記します。

江戸時代、幕府の寺社奉行から出された命令を配下の寺院へ伝達し、配下寺院からの願書その他を上申する機関。録所、僧録ともいう。諸宗派の江戸に所在する有力寺院がその任に当たった。浄土宗の場合は、芝増上寺の役者(所化役者と寺家役者)が勤めた。幕府は、従来の本末関係を利用して命令を伝達していたが、本末関係は法流の師資相承に基づくものが多く、地域的に限定されたものではなかった。そのため、一国・一地域を区画する幕藩体制下では、そうした組織形態では相容れない点があった。そこで、一国・一地域を限る同宗派寺院の統制支配組織である触頭制度が成立した。増上寺役者は、寛永一二年(一六三五)以前には存在していたらしい。幕府の命令を下すときは、増上寺管轄区域では増上寺役者から直接各国の触頭へ伝達され、知恩院の管轄区域では、増上寺役者から知恩院役者へ伝えられ、そこから各国の触頭へ伝達された。

幕府に習って各藩でも触頭制が導入され、触頭寺が設置され、藩の指示などを伝えるようになります。浄土真宗の讃岐における中本山は、三木の常光寺と阿波の安楽寺でした。この両寺が、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがった真宗ネットワークの中心でした。しかし、各藩毎に触頭と呼ばれる寺が藩と連携して政策を進めるようになると、藩毎に通達や政策が異なるので、常光寺は安楽寺は対応できなくなります。こうして江戸時代中期になると、本末制は存在意味をなくしていきます。危機を感じた安楽寺は、末寺の離反を押さえる策から、合意の上で金銭を支払えば本末関係を解消する策をとるようになります。つまり「円満離末」の道を開きます。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、その配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

 安楽寺の高松平野方面での拠点末寺であった安養寺の記録を見ておきましょう。
西御本山
京都輿御(興正寺)股御下
千葉山 久遠院安養寺
一当寺開基之義者(中略)本家安楽寺第間信住職仕罷在候所、御当国エ末寺門従数多御座候ニ付、右間信寛正之辰年 香川郡安原村東谷江罷越追而河内原江引移建立仕候由ニ御座候、然ル所文禄四年士辛口正代御本山より安養寺と寺号免許在之相読仕候。
意訳変換しておくと
安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から第間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、何代か後に内原に道場を移転し、文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。

整理すると次のようになります。
①寛正元年(1460)に安楽寺からやってきた僧侶が香川郡安原村東谷に道場をかまえた。
②その後、一里ほど西北へ離れて内原に道場を移転(惣道場建立?)
③文録四年(1595)に本山より安養寺の寺号が許可

①については、興正寺の四国布教の本格化は16世紀になってからです。また安楽寺が興正寺末寺となり讃岐布教を本格化させるのは、讃岐財田からの帰還後の1520年以後で、三好氏からの保護を受けてのことです。1460年頃には、安楽寺はまだ讃岐へ教線を伸ばしていく気配はありません。安楽寺から来た僧侶が道場を開いた時期としては早すぎるようです。
安養寺 安楽寺末
安楽寺と安養寺の関係

②については、「香川郡安原村東谷」というのは、現在の高松空港から香東川を越えた東側の地域です。安楽寺のある郡里からは、相栗峠を挟んでほぼ真北に位置します。安楽寺からの真宗僧侶が相栗峠を越えて、新たな布教地となる香東川の山間の村に入り、信者を増やし、道場を開いていく姿が想像できます。そして、いくつもの道場を合わせた惣道場が河内原に開かれます。これが長宗我部元親の讃岐侵攻時期のことであったのではないかと思います。
 以前に見たまんのう町の尊光寺由来に「中興開基」として名前の出てくる玄正は、西長尾城主の息子として、落城後に惣道場を開いたとあります。つまり、惣道場が開かれるのは生駒時代になってからです。
③には安養寺の場合も1595年に寺号が許されるとあります。しかし、西本願寺が寺号と木仏下付を下付するようになるのは、本願寺の東西分裂(1601年)以後のことです。ちなみに龍谷大学の史学研究室にある木仏には次のように記されたものがあるようです。

「慶長12(1609)年、讃岐国川内原、安養寺」

この木仏は西本願寺→興正寺→安楽寺→安養寺というルートを通じて、安養寺に下付されたものでしょう。「寺号免許=木仏下付」はセットで行われていたので、寺号が認められたのも1609年のことになります。
 どちらにしても安養寺は、安楽寺の末寺でありながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院として発展します。そのため初代高松藩主としてやってきた松平頼重は、高松城下活性化と再編成のために元禄2(1689)年に、高松城下に寺地を与えて、川内原より移転させています。以後は、浄土真宗の触頭の寺を支える有力寺になっていきます。寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
真宗興正派安養寺末寺
安養寺末寺

安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)
安養寺末寺一覧
安養寺の末寺
  以上から安養寺は安楽寺の髙松平野への教線拡大の拠点寺院の役割を担い、多くの末寺を持っていたことが分かります。それが髙松藩によって髙松城下に取り込められ、触頭制を支える寺院となります。その結果、安楽寺との関係が疎遠になっていたことが推測できます。安養寺の安楽寺よりの離末は、宝暦七(1757)年になります。離末をめぐる経緯については、今の私には分かりません。

DSC02132
尊光寺(まんのう町長炭東) 安楽寺の末寺だった
まんのう町尊光寺には、安楽寺が発行した次のような離末文書が残されています。

尊光寺離末文書
安永六年(1777)、中本山安楽寺より離末。(尊光寺文書三の三八)

一札の事
一其の寺唯今迄当寺末寺にてこれあり候所、此度得心の上、永代離末せしめ候所実正に御座候。然る上は自今以後、本末の意趣毛頭御座なく候。尤も右の趣御本山へ当寺より御断り候義相違御座なく候。後日のため及て如件.
阿州美馬郡里村
安永六酉年        安楽寺 印
十一月           知□(花押)
讃州炭所村
尊光寺
意訳変換しておくと
尊光寺について今までは、当安楽寺の末寺であったが、この度双方納得の上で、永代離末する所となった。つてはこれより以後、本末関係は一切解消される。なお、この件については当寺より本山へ相違なく連絡する。後日のために記録する。

安楽寺の「離末一件一札の事」という半紙に認められた文書に、安楽寺の印と門主と思われる知口の花押があります。これに対して安楽寺文書にも、次のような文書があり離末が裏付けられます。
第2箱72の文書「離末、本末出入書出覚」
「安永七年四月り末(離末)」
第5箱190の「末寺控帳」写しに
「安楽寺直末種村尊光寺安永七年四月り末(離末)」
  このような離末承認文書が安楽寺から各寺に発行されたようです。

興泉寺(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅
興泉寺(琴平町)

この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)が安楽寺から離末しています。
  その時には、離末料300両を支払ったことが「興泉寺文書」には記されています。興泉寺は繁栄する金毘羅大権現の門前町にある寺院で、檀家には裕福な商人も多かったようです。そのため経済的には恵まれた寺で、300両というお金も出せたのでしょう。  
 尊光寺の場合も、離末料を支払ったはずですが、その金額などの記録は尊光寺には残っていません。尊光寺と前後して、種子の浄教寺、長尾の慈泉寺、岡田の慈光寺、西覚寺も安楽寺から離末しています。
 以前にお話ししたように、安楽寺は徳島城下の末寺で、触頭寺となった東光寺と本末論争の末に勝利します。しかし、東光寺が触頭として勢力を伸ばし、本末制度が有名無実化すると、離末を有償で認める方針に政策転換したことが分かります。17世紀半ば以後には、讃岐末寺が次々と「有償離末」しています。

 そのような中で、長尾の超勝寺だけが安楽寺末に残こります。
長勝寺
超勝寺(まんのう町長尾)
超勝寺は、西長尾城主の長尾氏の館跡に建つ寺ともされています。周辺の寺院が安楽寺から離末するのに、超勝寺だけが末寺として残ります。それがどうしてなのか私には分かりません。山を越えて末寺として中本山に仕え続けます。しかし、超勝寺も次第に末寺としての義務を怠るようになったようです。
超勝寺の詫び状が天保9(1838)年に安楽寺に提出されています。(安楽寺文書第2箱72)
讃州長尾村超勝寺本末の式相い失い、拙寺より本山へ相い願い、超勝寺誤り一札仕り候
写、左の通り。
(朱書)
「八印」
御託証文の事
一つ、従来本末の式相い乱し候段、不敬の至り恐れ入り奉の候
一つ、住持相続の節、急度相い届け申し上げ候事
一つ、三季(年頭。中元。報思講)御礼、慨怠無く相い勤め申し上ぐ可く候事
一つ、葬式の節、ご案内申し上ぐ可く候事
一つ、御申物の節、夫々御届仕る可く候事
右の条々相い背き候節は、如何様の御沙汰仰せ付けられ候とも、毛頭申し分御座無く候、傷て後日の為め証文一札如件
讃岐国鵜足郡長尾村
            超勝寺
天保九(1838)年五月十九日 亮賢書判
安楽寺殿
意訳変換しておくと
讃岐長尾村の超勝寺においては、本末の守るべきしきたりを失っていました。つきましては、拙寺より本山へ、その誤りについて一札を入れる次第です。写、左の通り。
(朱書)「八印」
御託証文の事
一つ、従来の本末の行うべきしきたりを乱し、不敬の至りになっていたこと
一つ、住持相続のについては、今後は急いで(上寺の安楽寺)に知らせること。
一つ、(安楽寺に対する)三季(年頭・中元・報思講)の御礼については、欠かすことなく勤めること。
一つ、葬式の際には、安楽寺への案内を欠かないこと
一つ、御申物については、安楽寺にも届けること
以上の件について背いたときには、如何様の沙汰を受けようとも異議をもうしません。これを後日の証文として一札差し出します。
これを深読みすると、安楽寺の末寺はこのような義務を、安楽寺に対して果たしてきていたことがうかがえます。丸亀平野の真宗興正派の寺院は、阿讃の山を超えて阿波郡里の安楽寺に様々なものを貢ぎ、足を運んでいた時代があることを押さえておきます。

安楽寺の末寺総数83ケ寺の内の42ケ寺が安永年間(1771~82)に「有償離末」しています。讃岐で末寺して残ったのは超勝寺など十力寺だけになります。(安楽寺文書第2箱108)。離末理由については何も触れていませんが先述したように、各藩の触頭寺を中心とする寺院統制が整備されて、本山ー中本山を通して末寺を統制する本末制が有名無実化したことが背景にあるようです。

来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
常光寺(三木町)
このような安楽寺の動きは、常光寺にも波及します。
幕末に常光寺が藩に提出した末寺一覧表には、次の「離末寺」リストも添付されています。
安養寺末寺一覧
常光寺の高松藩領の離末リスト

これを見ると髙松藩では、18世紀前半から離末寺が現れるようにな
ります。
常光寺離末寺
常光寺の離末リスト(後半は丸亀藩領)

そして、文化十(1813)年十月に、多度・三豊の末寺が集団で離れています。この動きは、先ほど見た安楽寺の離末と連動しているようです。安楽寺の触頭制対応を見て、それに習ったことがうかがえます。具体的にどのような過程を経て、讃岐の安楽寺の末寺が安楽寺から離れて行ったのかは、また別の機会にします。
常光寺碑文
常光寺本堂前の碑文
常光寺本堂前の碑文には、上のように記されています。75寺あった末寺が、幕末には約1/3の27ヶ寺に減っていたようです。

以上をまとめておくと
①讃岐への真宗伝播の拠点となったのは、興正派の常光寺(三木町)と安楽寺(阿波郡里)である。
②両寺が東と南から讃岐に教線を伸ばし、道場を開き、後には寺院に格上げしていった。
③そのため讃岐の真宗寺院の半分以上が興正派で、常光寺と安楽寺の末寺であったお寺が多い。
④しかし、18世紀になると触頭制度が整備され、中本山だった常光寺や安楽寺の役割は低下した。
⑤そのような中で、中世以来の本末関係に対して、末寺の中には本寺に対する不満などから解消し、総本山直属を望む寺も現れた
⑥そこで安楽寺や常光寺は、末寺との合意の上で金銭的支払いを条件に本末関係解消に動くようになった。
⑦安楽寺を離れた末寺は、興正寺直属の末寺となって行くものが多かった。
⑧しかし、中にはいろいろな経緯から東本願寺などに転派するお寺もあった。
⑨また、明治になって興正寺が西本願寺から独立する際に、西本願寺に転派した寺も出てきた。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号

常光寺末寺1
常光寺の末寺一覧(高松藩領の一部)
前回は真宗興正寺派の中本山である常光寺(三木町)が、教線ラインを丸亀平野まで伸ばし、上表のように多くの末寺を支配下に納めていたことを見てきました。その中で19世紀になると、丸亀藩の末寺のほとんどが常光寺から離脱し「離末寺」となっていました。これは、阿波の安楽寺末の寺院にもいえることです。18世紀後半から常光寺や安楽寺などの中本寺と云われる有力寺院から末寺が離脱していく傾向が強まるようです。その背景には何があったのかを、今回は見ていくことにします。残念ながら讃岐には本末離脱を探れる史料がありません。

安楽寺1
安楽寺(美馬市郡里) 地元では「赤門寺」と呼ばれ興正寺派の中本山だった

あるのは阿波郡里の安楽寺です。安楽寺は先代の住持が大谷大学の真宗史の教授で、最後には学長も務めています。そして、安楽寺に残っていた文書を「安楽寺文書」として出版しています。今回は、美馬市の千葉山安楽寺に残る「安楽寺文書」の中に出てくる本末論争を見ていくことします。テキストは「須藤茂樹 近世前期阿波の本末論争―美馬郡郡里村安楽寺の「東光寺一件」をめぐって」です。
安楽寺末寺
安楽寺と讃岐布教の拠点となった末寺
 安楽寺については、以前にお話ししたように、阿讃山脈を越えて教線を伸ばし、丸亀平野や三豊平野に道場を形成し、それを真宗寺院に発展させ、多くの末寺とした中本寺です。そして、京都・本願寺-京都・興正寺-阿波国・安楽寺-末寺というネットワークの中に、讃岐の真宗寺院は組み込まれていきます。
寛永三年(1626)に安楽寺が徳島藩に提出した「末寺帳」 があります。
そこには、安楽寺末寺は阿波に18、讃岐に49、伊予4、土佐に8合計78ケ寺を数え、真宗の中本寺として四国最大の勢力を誇っていたことが記されています。徳島藩から寺領75石を宛がわれ、最盛期には末寺84ケ寺を誇るようになります。他にも郡里村にある勤番寺と隠居寺合せて8ケ寺を支配します。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
 安楽寺の阿波・讃岐の末寺分布図
東讃地区の末寺
光明寺(飯田)金乗寺(檀紙)安楽寺末東光寺下の光明寺(石田〉善楽寺(富田)西光寺(馬宿)善覚寺(引田)蓮住寺(鴨部)真覚寺(志度)

中讃地区
興泉寺(榎井)大念寺(櫛無)浄楽寺(垂水〉西福寺(原田)専立寺(富隈)超正寺(長尾)慈泉寺(長尾)慈光寺(岡田)西覚寺(岡田)専光寺(種)善性寺(長炭)寺教寺(種)長善寺(勝浦)   妙廷寺(常清)長楽寺(陶)
三豊地区
宝光寺(財田)品福寺(財田)正善寺(財団)善教寺(財団)最勝寺(財団〉立専寺(流岡)西蓮寺(同)仏証寺(坂本)光明寺(坂本〉善正寺(柞田)宝泉寺(円井)徳賢寺(粟井)

ところが18世紀頃から讃岐の末寺が安楽寺から離脱していく末寺が出てきます。
その原因となったのが本末論争とよばれる本寺と末寺の争論です。別の言い方をすれば「上寺・下寺との関係」です。これについては、「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)に、次のように記されています。
「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」

ここには、上寺の役目は下寺から本山へ寺号・木仏・絵像・法物・官職・住持相続等を願い出るとき取次ぎをしたり、下寺に違法がある場合、軽罪は上寺が罰し、重罪は本山に上申して裁断を仰ぐ、と規定されています。
 このように下寺は、本山より上寺に預け置かれたものとされ、下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要でした。そのための上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、かなり厳しい上下関係があったようです。そのため、上寺の横暴に下寺が耐えかね、下寺の上寺からの離末が試みられることになります。
 しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、上寺の非法があったとしても、下寺の悲願はなかなか実現することはありませんでした。当時の幕府幕令では、改宗は禁じられていましたが、宗派間の改派は認められていたので、下寺の離末・直参化の道はただ一つ、改派する以外にはありませんでした。つまり、興正寺派の場合ならば、西本願寺か東本願寺などの他の会派に転じるということです。しかし、これには、門徒の同意が必要になります。どちらにしても、本末論争は下寺にとって越えなければならない障害が多い問題だったようです。これだけの予備知識を持って、安楽寺と東光寺の本末論争を見ていくことにします。
東光寺 クチコミ・アクセス・営業時間|徳島市【フォートラベル】
東光寺(徳島市寺町)

天寿山東光寺は、徳島城下の寺町にある浄上真宗興正寺に属した寺院です。

寛永11年(1625)、本寺の安楽寺からの離脱を図りますが、結果的には離脱はかなわなかったようです。東光寺が安楽寺から離脱しようとした背景は、何なのでしょうか?
東光寺は、城下町徳島の寺町にあり、藩士や有力商人・豪商を門徒に数多く持っていたようです。そのため経済的にも豊かで、その財力によって本願寺教団内部での地位の向上を図り、寺格を高め、阿波での発言力を高めていったようです。そして、本寺である安楽寺からの離脱を早くから計ろうとします。その動きを史料で見ておきましょう。
(史料1)東光寺跡職に付一札(『安楽寺文書』上巻7頁) 
「東光寺講中から入院願之状」
以上
態令申候、乃而東光寺諸(跡力)職に付而、をねヽと正真坊を申含、東光寺之住寺二相定申候、若正信坊別心候ハゝ、当島之御もんと中をねゝ得付可申候、為後日一筆如件、
慶長六(1601)年拾月廿八日
青山積(勝力)蔵(花押)
梯九蔵
土田彦経兵衛(花押)
梯藤左衛門(花押)
馬渡市左衛門(花押)
森介三(花押)
東へや
藤左衛門(花押)
きの国や
与大夫(花押)
まふりや
四郎右衛門(花押)
天工寺や
善左衛門(花押)
ぬじやの
平十郎(花押)
しをや
惣有衛門(花押)
半回
与八郎(花押)
益田
橘右衛門(花押)
       東光寺講中
安楽寺様
まいる
  「史料1」慶長六年(1601)に東光寺講中が次期住持職の選任件について、本山安楽寺への報告した文書です。事前の承認を安楽寺に求めたりするものではなく、結果報告となっています。ここには東光寺講中14人の署名があります。その構成は、武士と商人がそれぞれ6人、その他2人となっています。特に商人たちは、徳島城下町の有力者たちだと研究者は指摘します。ここからは東光寺の門徒は、武士や有力商人層で、経済的に豊かであったことがうかがえます。そのため彼らを檀家に持つ東光寺の経済基盤はしっかりとしたものとなり、その財政基盤を背景に本願寺内部での地位向上を図るようになります。
 例えば、東光寺は寛永12(1625)年には余間一家(本願寺における着席の席次に基づく格式の一つ)の位を得ています。
 西本願寺では、院家・内陣・余間・廿四輩・初中後・飛檐(国絹袈裟)・総坊主の階層があり、それに応じて法会などでの着座順位が定まっていました。上位3つにの「院家・内陣・余間」は三官と呼ばれて、戦国期の一家衆に由来する高い階級でした。
 寺号免許や法宝物の下付、官職昇進については、本山への礼金や冥加金の納入が必要でした。西本願寺の場合、「公本定法録 上」(「大谷本願寺通紀」)には、その「相場」が次のように記されています。
木仏御礼     五両二分
木仏寺号御礼 十一両
開山(親鸞)絵像下付 二四両二分
永代飛檐御礼 三三両一分
永代内陣(院家)御礼金五〇〇両
内陣より院家への昇進 五〇〇両
官職の昇進に必要な冥加金のほか、定期的に年頭・中元・報恩講の御礼金を上納しなければなりません。東光寺は、城下町に立地する裕福な寺院として、冥加金や上納金を納めて寺格を高めていったようです。東光寺が任命された頃には、余間一家は全国でわずかに31ケ寺で、四国では東光寺以外にはありませんでした。こうして、東光寺は阿波真宗教団における発言権を強めるにつれて、安楽寺の末寺であることが窮屈になり、不満を持つようになります。
 寛永三年(1626)の「四ケ国末寺帳」に、東光寺は安楽寺の末寺として記されています。東光寺はこのことを不服として、寛永11年(1634)に安楽寺からの離脱を試みるようになります。
この動きに対して、安楽寺の尊正が本願寺の下間式部卿に宛てた書状を見てみましょう。
「史料2」東光寺一件に付安楽寺尊正書状草案(安楽寺文書)
尚々東光寺望之儀、其元隙人不申候様二奉頼候、以上、
東光寺被罷上候間、 一書致啓上候、上々様御無事二御座被成候哉、
承度奉存候、去年ハ讃州へ御下向被成候処、御無事二御上着被成之段、誠有難奉存候、
東光寺望二付被上候、如御存知私末寺代々事候条代々下坊主之事候間、其御分別被成候て、其元二而隙入不申候様二御取合奉頼候、担々御浦山敷儀御推量可被成候、不及申上候へ共、右之通可然様二奉頼候、何も乗尊近口可罷上之条、其刻委可申上候間不能多筆候、恐性謹言、
     安楽寺
寛永拾弐(1635)年 卯月十六日
進上
下間式部卿様
人々御中
意訳変換しておくと
東光寺が望んでいる(安楽寺からの末寺離脱の)件について、そのことについては、耳にしなかったことにしてお聞きにならないようにお願い致します。東光寺の件については、以前に文書を差し上げたとおりです。
 上々様は無事に職務を果たしていると承っています。昨年は讃岐へお出でになり、無事に京にお帰りになられたとのことで、誠にありがたく存じます。
東光寺の申出については、ご存じの通り代々、東光寺は私ども安楽寺の末寺です。下坊主の分別をわきまえて、本寺よりの離脱申請などには取り合わないようお願いします。
ここには、安楽寺は、東光寺の離脱願いを相手にしないで欲しい、はっきりと却下して欲しいと依頼しています。
 「昨年は讃岐へお出でになり、無事に京にお帰りになられたとのことで、誠にありがたく存じます。」というのは、讃岐の安楽寺の末寺を下間式部卿が視察訪問したことへのお礼のようです。安楽寺が本願寺に内部においても、高い位置にあったことが分かります。

はじめ東光寺は安楽寺と話し合いの上で本末関係を解消し、興正寺直参になろうとしたようです。
その経過がうかがえるのが次の「東光寺一件に付口上書草案」(『安楽寺文書』上巻です
(前欠)
可給、於左様ニハ、鐘を釣り寄進可仕と申候て、与兵衛と申東光寺家ノをとなヲ指越申候処二、中々不及覚悟二義、左様之取次曲事二之由申二付、与兵衛手ヲ失罷帰申候、末寺に□無之候ハ如何、
様之調仕候哉、
一其段東光寺申様、右同心於無御座ハ、副状被成可被下と申候故添状仕、式部卿様へ宜□申候処二、此状上不申由、式部卿様より被仰下驚入申候、か加様迄之不届義仕候二付、今度両度まて人を遣尋申処二、私ハ五年三年居申者二而御座候ヘハ万事不存候間、但方へ尋可有と両度之返事二而御座候条、左様二面ハ埒明不申故、先以西教寺ヲ致吾上候間、有体二被仰付可被下候、以上、
寛永十三(1636)年
二月二日                安楽寺
式部卿様
まいる
一部を意訳変換しておくと
東光寺は釣鐘を寄進する旨を、与兵衛と東光寺家がやってきて申し出てきました。しかし、末寺のそのような申し入れは受けられないと断わりました。与兵衛は為す術もなく帰りました。末寺の分際を越えた振る舞いです。

ここからは、東光寺が安楽寺への鐘を寄進するので、それと引き換えに本末関係を解消して欲しい旨を申し入れていることが分かります。しかし、安楽寺の拒絶によって話し合いは落着しなかったようです。そこで東光寺は、方針を変えて安楽寺の末寺ではないと申し立て、本末争論が始めます。
それが寛永十九(1642)四月晦日の安楽寺から本願寺の下間式部卿への書状から分かります。
(史料4)東光寺一件成敗に付願書控(「安楽寺文書」上巻17頁)
申上ル御事
先度双方被召寄、御吟味被成候へ共、否之義於只今不被仰付迷惑仕候、
一 理非次第二仰付可被下候哉、
一 東光寺せいし二被仰付候哉、但私せいし二被仰付候哉、
一 私国本之奉行方へ御状御添可被下候哉
右之通被仰上相済申様奉頼候、此度相済不申候ハゝ、下坊主・門徒之義不及申、世門(間)へつらいだし不罷成候、急度仰付可被下候、
         安楽寺
寛永十九(1642)四月晦日
下間式部卿様
意訳変換しておくと
下間式部卿に申し上げます
先日は、当方と東光寺の双方が京に呼び寄せられ、本末論争について吟味を受けました。しかし、東光寺の申し出を「否」とする決定が下されず、当方としては迷惑しております。、
一 白黒をはっきりと下していただいきたい
一 東光寺の誓詞が正しいのか、私共の誓詞が正しいのかはっきりと仰せつけ下さい、
一 徳島藩の奉行方へ、決定文を添えて書状をお送り下さい
以上についてお計らいいただけるようにお願い致します。この度の件については、下坊主・門徒に限らず、世間が注視しています。急ぎ結論を出していただきますよう。
         安楽寺
寛永十九(1642)四月晦日
下間式部卿様
京都の本山で安楽寺と東光寺双方が呼び寄せられ吟味がなされたようです。しかし、はっきりとした結論が出されなかったようで、これに対して「迷惑」と記しています。そして、今後の本願寺への要望を3点箇条書きにしています。本願寺内部でも、東光寺の内部工作が功を奏して、取扱に憂慮していたことがうかがえます。

それから1ヶ月後に、東光寺から安楽寺に次のような「証文」が送られています。
「史料5」東光寺一件裁許に付取替証文写(『安楽寺文書』)
端裏無之
今度其方と我等出入有之処二、興門様致言上、双方被聞召届、如前々之安楽寺下坊主なミニ東光寺より万事馳走可仕旨被仰付候、御意之趣以来少も相違有之間敷候、為後日如此候、恐々謹百、
寛永拾九(1642)年             東光寺
五月十四日             了 寂判
安楽寺殿
意訳変換しておくと
この度の安楽寺と我東光寺の争論について、本願寺門主様から双方の言い分を聞き取った上で、東光寺は従来通り安楽寺の下坊主(末寺)であるとの決定書を受け取りました。これについていささかも相違ないことを伝えます。恐々謹百、

 寛永19年(1642)五月に、本寺の興正寺の調停で、本末争論は終結し、両寺は約定書を交換しています。東光寺からの証書には、「東光寺は従前通り安楽寺の末寺」とされています。これは、幕府の「本末の規式を乱してはならない」という方針に基づいた内容です。東光寺の財力を背景にしての本末離脱工作は、この時点では敗訴に終わったようです。
 安楽寺はこれを契機に、末寺に対して本山興正寺に申請書を出すときは、必ず本寺安楽寺の添状を付して提出するように通達し、これについての末寺の連判を求めています。いわば末寺に対する引き締め政策です。これは讃岐の安楽寺の末寺にも、求められることになります。
本末制から触頭制へ
 東光寺はその経済力と藩庁所在地に位置しているという地理的条件の良さによって、触頭(ふれがしら)の地位を得ます。触頭制について、ウキは次のように記します。
触頭とは、江戸幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のこと。本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。
 寛永13年(1635年)に江戸幕府が寺社奉行を設置すると、各宗派は江戸もしくはその周辺に触頭寺院を設置した。浄土宗では増上寺、浄土真宗では浅草本願寺・築地本願寺、曹洞宗では関三刹が触頭寺院に相当し、幕藩体制における寺院・僧侶統制の一端を担った
 従来の本末制は安楽寺の場合のように、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがったネットワークで、いくつも藩を抱え込みます。藩毎に通達や政策が異なるので、本寺では対応できなくなります。これに対して触頭制は、藩体制に対応した寺院統制機構で、江戸時代中期以後になると、寺院統制は触頭制によって行われるようになります。触頭制が強化されるにつれて、本末制は存在意味をなくしていきます。危機を感じた安楽寺は、末寺の離反する前に、合意の上で金銭を支払えば、本末関係を解く道を選びます。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、安養寺配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

常光寺離末寺
常光寺の離末寺院一覧

 前回に三木の常光寺末寺の一覧表を見ました。その中に「離末寺」として挙げられているかつての末寺がありました。ここには高松藩以外の満濃池御領(天領)の玄龍寺や丸亀藩の多度郡・三豊の末寺が並んでいます。これらが文化十(1813)年十月に、集団で常光寺末を離れていることが分かります。この動きは、安楽寺からの離末と連動しているようです。安楽寺の触頭制対応を見て、それに習ったことがうかがえます。具体的にどのような過程を経て、讃岐の安楽寺の末寺が安楽寺から離れて行ったのかは、また別の機会にします。

以上をまとめておくと
①中世以来結ばれてきた本末関係に対して、末寺の中には本寺に対する不満などから解消し、総本山直属を望む寺も現れた
②しかし、江戸時代によって制度化され本末制度のなかでは離脱はなかなか認められなかった。
③それが触頭制度が普及するにつれて、本末制度は有名無実化されるようになった。
④そこで安楽寺は、末寺との合意の上で金銭的支払いを条件に本末関係解消に動くようになった。
⑤その結果、常光寺も丸亀藩や天領にある寺との末寺解消を行った。
⑥安楽寺を離れた讃岐の末寺は、興正寺直属末寺となって行くものが多かった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  須藤茂樹 近世前期阿波の本末論争―美馬郡郡里村安楽寺の「東光寺一件」をめぐって―  四国大学紀要
関連記事

  四国真宗伝播 四国の宗派別寺院数
四国各県の宗派別寺院数と真宗占有率
香川県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が真宗で、それは約47%になります。その中でも興正寺派の占める割合が非常に多いようです。その背景として、次のような要因が考えられることを以前にお話ししました。
①15世紀に仏光寺(後の興正寺)が教勢拡大拠点として三木に常光寺、阿波の郡里(美馬市)に安楽寺を開き、積極的な布教活動を展開したこと
②本願寺も瀬戸内海沿い教線拡大を行い、宇多津に西光寺などを開き、周辺への布教活動を行ったこと
③戦乱の中で衰退傾向にあった真言勢力に換わって、農民層に受けいれられたこと
④髙松藩が興正寺派と幾重もの姻戚関係を結び、その保護を受けたこと
讃岐の浄土真宗寺院分布図
浄土真宗寺院の分布図
この中の①の阿波の安楽寺の丸亀平野方面への教線拡大過程は以前に押さえましたが、常光寺のうごきについては見ていませんでした。そこで、今回は常光寺の教線拡大ルートを見ていきたいとおもいます。テキストは 「藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号」です。
来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
興正寺派の布教拠点となった常光寺(三木町)

江戸時代後半の19世紀前半に、常光寺が髙松藩に提出した由緒書きが残っています。それを見ると、常光寺というお寺の性格が分かります。
『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕(意訳)
 当寺の創建は、足利三代将軍義満の治世の時(1368年)とされます。泉洲大鳥領主で生駒左京太夫光治の次男政治郎光忠と申すものが発心し、法名浄泉と名前を改め、仏光寺で修行しました。その後、常光寺の号を与へられました。仏光寺門下に秀善坊という者がいて、安楽寺と号していました。
 あるときに仏光寺了源上人は、二人に四国への教線拡大を託します。浄泉と秀善のふたりは、ともに応安元年に四国へ渡り、秀善坊は、阿州美馬郡香里村安楽寺を創建しました。一方、浄泉坊は当国へやって来て、三木郡氷上村に常光寺を建立します。布教活動の結果、教えは阿讃両国の間にまたたくまに広がり、真宗に帰依する者は増えました。こうして安楽寺・常光寺の両寺の末寺となる寺は増え続け、日を追って両山門は繁昌するようになりました。
 開基の浄泉より百余年後の文明年中(1469~87年)、五代目の住侶浄宣のことです。仏光寺の経豪上人は本願寺蓮如上に帰依し、仏光寺を弟経誉上人に譲り、蓮如上人を戒師にして、その頼法名を蓮教と改名し、京都山科の口竹に小庵を構へました。その寺は、蓮如上人より興正寺と名付けられました。これを見て、蓮教を慕う当寺の浄定坊も仏光寺末を離れて、文明年中より興正寺蓮教上人の末寺となりました。こうして、応安元年に浄泉坊は当寺を建立しました。
22代の祖まで血脈は連残し、相続しています。
要約すると
①足利義満の時代に(1368)に、佛光寺(後の興正寺)了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣した。
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿波美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依した。
④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。

以上は、300年以上経た19世紀になってから常光寺で書かれた由緒書きなので、そのままを信じることはできないにしても、大筋は認められると研究者は考えているようです。
常光寺や安楽寺は14世紀後半に創建されたとされますが、それが教線を拡大していくようになるのは16世紀になってからになるようです。この報告書には、続きがあります。そこには、常光寺の末寺が次のように列挙されています。
常光寺末寺1
常光寺末寺 1(髙松藩領内)
常光寺末寺2
常光寺末寺(前半髙松藩 後半丸亀藩領内)

かつて末寺あった寺としてあげられているのが次の通りです。
(年号は離末した年)
常光寺離末寺
常光寺離末寺(末寺を離れた寺院)

ここからは次のようなことが分かります。
①常光寺は興正寺の中本山として、41ケ寺の末寺をその管理下においていたこと。
②最盛期には、豊田郡流岡村(観音寺市)や、三野郡麻(三豊市)にまで末寺があり、三豊まで教線を伸ばしていたこと
③離末していく寺が18世紀になって増え、文化10(1813)年には多度津以西の寺が集団で離末していること

丸亀平野の末寺に絞り込んで見ると次の通りです。
①那珂郡七ケ村 円徳寺
②      垂水村 善行寺
③      垂水村 西教寺
④      原田村 寶正寺
⑤垂水村 西 坊     (円徳寺末寺)
丸亀藩領
⑥那珂郡 田村  常福寺
⑦那珂郡 佐文村 法照時(円徳寺末)
⑧那珂郡 苗田村 西福寺(円徳寺末)
旧末寺
⑨那珂郡 榎井村 玄龍寺
⑩多度郡  吉田村 西光寺
⑪多度郡 下吉田村浄蓮寺
⑫多度郡 三井村 円光寺
⑬多度郡 弘田村 円通寺

興正寺派常光寺末寺
丸亀平野の常光寺末寺分布地図
この中で①の円徳寺(現まんのう町七箇照井)は、⑤⑦⑧の3つの末寺を持っていたようです。
円徳寺・法照寺本末関係
那珂郡南部の常光寺の本末関係

常光寺の教線拡大図に阿波・安楽寺の末寺を重ねてみましょう。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
阿波郡里の安楽寺の末寺分布図
興泉寺(榎井)大念寺(櫛無)浄楽寺(垂水〉西福寺(原田)専立寺(富隈)超正寺(長尾〉
慈泉寺(長尾)慈光寺(岡田)西覚寺(岡田)尊光寺(種)善性寺(長炭)寺教寺(種)長善寺(勝浦) 妙廷寺(常清)長楽寺(陶)
安楽寺も勝浦の長善寺などを拠点に、教線ラインを次第に「讃岐の山から里へ」と伸ばしていく様子が浮かび上がってきます。
常光寺と安楽寺の教線拡大ラインと比較すると次のようになります。
常光寺 
三木から三豊へと讃岐を東西に結ぶ内陸の農村部を中心にした教線拡大ライン
安楽寺
阿波郡里から讃岐山脈を越えて丸亀平野や三豊平野に下りていく、南から北への教線拡大ライン

クローズアップして、現在の丸亀市垂水の両寺の末寺を見てみます。

垂水の興正寺派末寺
丸亀市垂水の善光寺・正教寺・浄楽寺

 以前にお話ししたように垂水は古代においては、土器川の氾濫原で条里制施行の空白地帯だったエリアです。それが中世になって有力武士団などによって、治水灌漑が行われ耕地整備が進んだと研究者は考えているようです。それを示すかのように、現在でも土器川生き物公園は、土器川の氾濫寺の遊水池として近世には機能していました。いわば土器川氾濫原の中世の開発地区が垂水や川西地区だと私は思っています。この開拓への入植農民達への布教活動を活発に行ったのが真宗の僧侶達だったのではないでしょうか。宗教的な情熱に燃える真宗僧侶が東の常光寺から、南の阿波安楽寺からやってきます。そして、道場が開かれ寺に成長して行くという道をたどったようです。
例えば、垂水の善行寺と西教寺は、もともとは常光寺の末寺で、善行寺は寛文年中(1661~72)に、西教寺は寛永年中(1624~44)に木仏・寺号を許されたといいます。

一方、この両寺の間にある浄楽寺は、讃岐名所図会に次のように安楽寺末寺と記されています。
一向宗阿州安楽寺末寺 藤田大隈守城跡也 塁跡今尚存在せり

とあり、1502年に藤田氏の城跡に子孫が出家し創建したと伝えられています。また、まんのう町買田の恵光寺の記録には、次のように記されています。
(この寺はもともとは、(まんのう町)塩入の奥にあった那珂寺である。長宗我部の兵火で灰燼後に浄楽寺として垂水に再建された

 琴南町誌には、現在も塩入の奥に「浄楽寺跡」が残り、また檀家も存在することが記されています。 以上から、垂水の藤田大隅守の城跡へ、塩入にあった那珂寺が垂水に移転再建され浄楽寺と呼ばれるようになったようです。どちらにせよ安楽寺の教宣拡大戦線の丸亀方面の最前線に建立された寺院であるといえます。この寺は、寛永年中に寺号を許されたようで、後には安楽寺を離れて西本願寺末となります。

  垂水の真宗興正派の3つのお寺を見ると、まさに西に向かって伸びていく常光寺の教線ラインと、北に伸びていく安楽寺の教線ラインが重なったのが丸亀平野なのだと思えてきます。このようなふたつのルートの存在が互いのライバル心となり、さらに浄土真宗の丸亀平野での拡大にはずみをつけたのかも知れません。これが16世紀半ばから17世紀前半にかけてのことです。
 これを真言宗の立場から見てみるとどうなるのでしょうか。
例えば当時の真言勢力の拠点と考えられるのは、阿野北平野では白峰寺、丸亀平野では善通寺です。これらの寺院は中世には、いくつもの子院や別院を持ち、多くの伽藍を擁する大寺院に成長し、僧兵を擁していた可能性もあることは以前にお話ししました。しかし、戦国時代になると戦乱と西讃岐守護の香川氏などの周辺武士団の押領を受けて勢力を失っていきます。白峰寺や善通寺・弥谷寺なども16世紀後半には、それまでの伽藍の姿が大きく縮小し、子院の数も激減しているのが残された絵図からは分かります。讃岐の真言勢力は衰退の危機的な状態にあったと私は考えています。そういう中で、古い衰退していた寺を、真宗僧侶は中興し、真宗に宗派替えしていきます。
 浄土真宗への転宗寺院の一覧表を見てみましょう。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗転宗一覧
 ここからは、次のことがうかがえます。
①どの宗派から真宗に転宗した寺院が多いか
②どの郡に転宗寺院が多いか
①については、密教系修験者の山林寺院が多かった天台・真宗からの転宗が多いことが分かります。
②については、鵜足・那珂・多度郡など丸亀平野を中心とする中讃地域に多いことが分かります。
また、転宗時期は、天文年間以降に多く見られます。この表からも讃岐で真宗寺院が増加していくのは天文年間以後であったことが裏付けられます。
  
次の表は各史料に書かれた讃岐の浄土真宗の創建年代を、年代別に示したものです。
讃岐の真宗寺院創建年代
16世紀までの讃岐の真宗寺院創建年代

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐最初の浄土真宗のお寺は、暦応4年(1341)に屋島沖の大島に創建された法蔵院(現真行寺)
②14世紀中に設立されたとする32寺院について、常光寺のように史料的に裏付けられるものは少ないこと
③讃岐における浄土真宗寺院の増加は16世紀以後のことであること。
④16世紀半ば以後に、真言・天台の大寺が衰退し、その勢力が弱まったこと。具体的には修験者の活動が停滞したこと。
⑤その隙間を狙うように、真宗興正寺派の教宣ルートが丸亀平野に延びてきたこと。

上の讃岐における真宗寺院創建年代を、更に詳しく郡別に分けた次のような表を研究者は作成しています。
四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗創建年代一覧
讃岐真宗寺院創建年代一覧(郡別)
ここからは16世紀までに創建されたとされる真宗寺院は、香川・阿野(綾)・鵜足・那珂に多いことが分かります。
以上のデータから当時の常光寺や安楽寺の教宣拡大戦略を私なりに考えて見ると次のようになります。
①戦乱の中で今まで大きな力を持ていた白峰寺や善通寺が衰退している。
②そのため多くの修験者や聖達が離れて、農村部への布教活動もままならない状態となっている。
③丸亀平野では「宗教的空白地帯」が生まれている。
④これは我々にとっては大きなチャンスである。丸亀平野を真言から「南無阿弥陀仏」念仏に塗り替えるときがやってきた。
⑤我々の新天地は、丸亀平野に在り! 丸亀平野が我々の西方浄土である!
⑥この仏の与えたチャンスをいかすために、我々の教宣活動の中心を丸亀に向ける
このような戦略が16世紀前半には立てられ、それが実行に移され浄土真宗寺院の数が増え出すのが16世紀半以後と私は考えています。

 一方このような浄土真宗の拡大に危機感を持った真言僧侶もいたはずです。
その一人が西長尾城の城主の弟とされる宥雅です。彼は善通寺で修行を重ねていましたが、長尾氏の勢力下でも増え続ける照度真宗のお寺や道場、真宗僧侶の布教活動のようすを見て脅威や危機感を感じていたののではないでしょうか。その対応策として考えたのが、松尾寺の守護神として新たな流行神である「金毘羅神」を祀るということでした。私は金毘羅神は、丸亀平野での真宗拡大に対する真言側の対応の一つ出ないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号
関連記事

1 金刀比羅宮 講社看板

神仏分離以前の金毘羅大権現の祭神は「金毘羅神」でした。それが現在の金刀比羅宮の祭神は「大物主神」です。象頭山から金毘羅神は、追放されたようです。
ウキには次のように記されています。
  明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。明治の諸改革は王政復古をポリシーに掲げていたので、中世、近世の本尊は古代の神社登録資料にも沿う形で行われたので必ずしも出雲神への変更が的外れでなかった場合が多い。

    「大国主神=大物主」と説明される人もいますが、どうなのでしょうか?
 古事記では大物主について、詳しい説明はされていません。ただ、大国主命とは別の神であるとしています。一方『日本書紀』の異伝には、大国主神の別名としています。さらに異伝を記した「一書」では、国譲りの時に天津神とその子孫に忠誠を尽くすと誓って帰参してきた国津神の頭として、事代主神と並び大物主が明記されています。事代主神の別名が大物主神であったと張する研究者もいるようです。ここでは、大物主の由緒はよくわからないことを押さえておきます。 

 どちらにしても、それまで信仰していた金毘羅大権現を追放して、いままで聞いたことのない「大物主神」が祭神だと言い出しても、庶民たちは心の中では納得しにくかったようです。今でも金刀比羅宮は「海の神様」を売りにしているようですが、これを「大物主神」に関連づけて説明するのは苦しいようです。

さて本題に入ります。金刀比羅宮には、極彩色の「大国主神像」画があります。
この絵図は、幕末に宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年が奉納したもので、元雪筆とあります。大国主神は小さな金嚢を左手に握っています。大黒天の「大黒」と大国主神「大国」の音が同じなので、混交して同一視されることがよくあります。また、大黒天も大国主神も大きな袋を背負っているので、姿もよく似ています。これが混交して「大黒天像」が「大国主神像」とされるようです。金刀比羅宮の「大国主神像」も大国主神を描いたものでなく、大黒天を描いた「大黒天像」であると研究者は指摘します。 それがどうしてなのかを今回は見ていくことにします。テキストは「羽床正明  金刀比羅富蔵大黒天像について   ことひら61 平成18年」です。
大園寺の勝軍大黒天
        勝軍大黒天(目黒区大園寺)
前回見た勝軍大黒天の誕生背景を、もう一度整理して起きます。
①延暦寺の食厨の神として、片手に金嚢を持ち、片足を垂らして小さな台の上に座る大黒天
②大将軍八神社にある大将軍神
①②を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天であること。
勝軍大黒天の勝軍は、大将軍神の将軍と、音も同じです。「大黒天+大将軍神」=勝軍大黒天ということになること。
大国天 5
『覚禅抄』の大黒天
そして、勝軍大黒天の特徴としては、次のような4点が挙げられます。
①片手に金嚢を持つ、
②片手に宝棒を持つ
③冑か宝冠をかぶって甲(鎧)をまとう、
④臼の上に片足を垂らして座る、
この視点から金刀比羅宮の元雪筆の「大国主神像」を見てみましょう。
金刀比羅宮 元雪「大国主神像」画
元雪筆の「大国主神像?」
右手に金嚢を持ち、左手付け、臼の上に右足を垂らして座っています。『覚禅抄』の中に、左手に小さな金嚢を持ち、右手は拳を握り、台の上に右足を垂らして座る大黒天の図が掲載されています。また、観世音寺。松尾寺・興福寺南円堂脇納経所の大黒天は、左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握っています。拳を握るのは、大黒天の特徴です。  ①・③・④を満たしていまが、②の宝棒は持っていません。しかし、その他の特徴からして、これは大黒天(勝軍大黒天)であると研究者は考えています。
金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」を、岡田為恭が模写したものもあります。
為恭は、幕末 1860年、宥盛上人の250年祭の時に金毘羅大権現から招かれた金毘羅にやってきて、3月10日から19日まで滞在しています。その間にお守りの木札の文字が古くて型がくずれていたのを直したり、小座敷の袋戸棚に極彩色の絵を描いたり、宝物を調査・分類したりしています。こうした縁で為恭の作品が、金刀比羅宮に百余点残っているようです。しかし、その内の半分は明治になって奈良春日大社の伶人、富田光美がもたらしたものです。白書院の天丼の竜は、寸法を計って帰り、帰京後描いて翌年の文久元年(1861)6月18日に京都から献上使が預かってもち帰ったものです。
 金毘羅滞在中に模写したひとつが、元雪の「大国主神像」のようです。
大黒天模写
       為恭の「大国主神像」模写(着色なし)
研究者が注目するのは、為恭が模写した「大国主神像」の向かって右上の黒く塗りつぶした部分です。ここには、最初は「大国主神像」と書いたのが、為恭途中で「大国主神像」とすることに疑問を感じて、墨で黒く塗りつぶしたと研究者は推測します。つまり、為恭は「大国主神像」ではなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」であると知っていたことになります。同時に江戸時代末期には、この絵は金毘羅では「大国主神像」と名前が付けられていたことも分かります。

『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』
『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』

為恭は金毘羅大権現に滞在中、いくつかの作品を模写しています。
その模写した作品の中に、元雪筆「大国主神像」がありました。元雪は江戸時代の狩野派画家で、ふだんから勝軍大黒天を信仰していたようです。彼は勝軍大黒天に彼独自の工夫を加えています。例えば、それまでの勝軍大黒天.は黒い甲冑を着けていましたが、元雪はきらびやかな甲や宝冠をまとわせています。ある意味、新しい独自の勝軍大黒天像を描きだしたと研究者は評します。

金毘羅大権現の大黒天
金刀比羅宮の大黒天
 元雪の描いた勝軍大黒天像が、どのような経過をたどったかは分かりませんが、宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年の所有となり、金毘羅大権現に奉納されたようです。江戸時代後期には、「金毘羅大権現=大国主神(大物主神)」であるという俗説が広められていました。その影響を受けて勝軍大黒天像が大国主神(大物主神)として金毘羅大権現に奉納されようです。
金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名勝図会
弘化4年(18478)刊行の『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神について次のように記しています。
金毘羅大権現、祭神未詳、あるいは云ふ、三輪大明神、また素蓋烏尊、また金山彦神と云ふ.

『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神を未詳として、三輪大明神(大物主・大国主命)、素垂鳥尊、金山彦神の名をあげます。しかし、これらの三神は金毘羅大権現ではありません。金毘羅大権現は全毘羅坊(黒眷属金毘羅す)という天狗だったことは以前にお話ししました。
 金毘羅大権現=大物主神(大国主神)というのは俗説ですが、その俗説の影響を受け、勝軍大黒天像が金毘羅大権現に奉納されます。それは、大国主神と大黒天は混交して同一視されたからでしょう。
  以上をまとめておくと
①金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」がある。
②しかし、それは本当は「大国主神像」でなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」である。
③大国主神と大黒天は混交して、同一視された。
④大国主神と混交したのは大きな袋を背負った大黒天であって、小さな袋を持った大黒天ではなかった。
⑤金毘羅大権現では、誤って小さな金嚢を持つ大黒天像を、「大国主神像」とした
⑥これがただされることなく現在に至っている。
 金刀比羅宮所蔵「大黒天像」は、普通の大黒天のように黒い甲冑をまとったものでなく、きらびやかな甲(鎧)を着け、さん然と輝く宝冠を戴いた姿です。これは、他に類のない貴重なものです。正しい名前で呼んで、評価することが価値を高まることにつながると研究者は評します。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853年)
 白峯寺境内には多くの堂舎が立ち並び、札所寺院として独特の整った景観をみせています。これを幕末の讃岐国名勝図会と比べて見ると子院の一乗坊などは神仏分離で姿を消しましたが、白峯寺の伽藍には大きな変化はないことが分かります。白峯寺の特徴は、境内には崇徳天皇を祀る頓証寺殿があることです。そのため頓證寺と本来の白峯寺の2つのエリアに分けられ、西側に頓証寺殿、その北東の斜面に白峯寺の堂舎が立ち並びます。頓証寺殿は後小松天皇の扁額にもあるように、中世には頓証寺という寺号をもつ別の寺であったことを押さえておきます。

P1150677
白峯寺勅額門

今回は紫陽花の花見遊行の白峯寺で考えたことの最終版です。
本坊前を通って護摩堂で西に折れて参道を歩いて行くと、正面に勅額門が見えてきます。そこまでの参道の周囲に植え込まれた紫陽花が見頃でした。花に夢中になって、崇徳陵への入口を見逃してしまうほどです。そして、勅額門の前にやってきました。

P1150681
白峯寺勅額門 奧が頓證寺拝殿(頓證寺殿)
門には「第75代 崇徳上皇 白峯寺 頓證寺殿」と掲げられています。ここで疑問に思ったのがどうして「頓證寺殿」なのかということです。推測になりますが、中世には白峯山には、次のふたつの異なる寺院と、数多くの子院が存在していました。
①山林修行の拠点としての白峰寺
②崇徳上皇陵の慰霊管理のための頓證寺
これが次第に白峰寺に合体化されていきます。そのため頓證寺は白峰寺に属する「殿(建物)」と解釈します。
頓證寺の門である勅額門から見ていきます。

頓証寺殿勅額門 三間一戸八脚門、切妻造り、本瓦葺。
延宝8年(1680)建立(寺伝)

頓証寺の入口を飾る大規模な八脚門です。「勅額門」とよばれるのは、室町時代中期に後小松天皇震筆の額が掲げられていたからのようです。
白峯寺 頓證額
寺号額「頓證寺」
その扁額は重要文化財に指定され今は宝物館に保管されていますので、現在のものは複製になるようです。この門には、保元の乱で上皇として戦った源為義・為朝父子像を随身として安置しています。死後の世界では悔い改めて、崇徳上皇を守るという意思表明でしょうか?どちらにしても天皇を祀る「神社」的な色合いの濃い建物と云えそうです。県下の八脚門では国分寺・志度寺等に次いで古く保存もいい状態です。
 勅額門は八脚門としては「工夫のこらされた、特異な形式の門」だと研究者は指摘します。
工夫が凝らされている所を見てみましょう。まず棟通りの中央二本の柱が、両妻や正・背面の柱より高く作ってあります。そのためこの二本の柱と前後の柱とは、海老虹梁で繋ぎます。さらにその下には飛貫が通り、上には柱頂部と桁を繋ぐ虹梁が架かるので二本の柱と正・面の柱は、強固に繁がれることになります。

白峯寺 勅額門2
白峯寺 勅額門1

東通りの柱は虹梁形の頭貫で繋ぎ、台輪を載せ、これらは妻まで到達します。妻では棟通りの柱の上に三物を組激、妻飾の虹梁が載っていますが、上記虹梁形頭貫・台輪は妻の虹梁と組み合って、妻側へその鼻を突出させることになります。
白峯寺勅額門2
白峯寺勅額門東側
妻飾では棟木と行との中間に身舎桁を一本ずつ通しています。が、これは内部には通されておらず、いわば見せかけの構造となっています。正面両脇間の飛貫と頭貫の間には透かし彫りの欄間を入れ、中備は菊花として、随所に付けられた拳鼻や絵様肘木は多様な絵様繰形で飾られます。特に妻の雲紋・波紋を彫る絵様は見ていても楽しいものです。専門家は、勅額門を次のように評価しています。
構造形式の上でも意匠の面でも傑出した特色を持つ極めて質の高い八脚門
 
P1150682

この門からは、正面に拝殿が見えてきます。ここから見る拝殿(頓證寺殿)は、お寺の風情ではありません。まさに神社の拝殿のようです。そんな演出をプランナーでもあり、オーナーでもあった松平頼重は、狙っていたのかも知れません。拝殿の背後に崇徳上皇陵があるのですが、それは隠れて全貌は見えません。

P1150700
白峯寺頓證寺殿

  いろいろな種類の紫陽花を楽しみながら拝殿までやってきました。改めて見ると、お寺の建物とは違います。まさに神社の「拝殿」です。このお寺の性格が「神仏混淆」色を色濃く帯びていることが改めて分かります。この拝殿について見ておきましょう。

P1150684
白峯寺頓證寺殿

頓證寺拝殿 延宝八年(1680 棟札)
拝殿は桁行七間という規模で、正面と背面に三間の軒唐破風付向拝を付けた壮大な建物です。内部は両端から二間目に円柱二本ずつを立てて、それぞれ梁行に虹梁形飛貫で繋ぎ、その上を板壁として、中央三間と両脇二間ずつの空間に区分しています。しかし、建具を入れて仕切っているわけでもないようです。このような構成は、横長の平面の神社拝殿ではよく見られるようです。今は一間おきに3つに分けられて、祀られているのは
中央 崇徳天皇
向かって右側 本地仏(十一面観音)
向かって左側 相模坊(相模大権現の大天狗)
正面の向拝は頭貫木鼻を龍頭として、中備蟇股に透かし彫りの彫刻を入っています。これに対して背面の向拝では絵様・繰形付の木鼻、蟇股も板蟇股で、正面と背面で「格差」があるようです。向拝の繋ぎは海老虹梁を入れ、唐破風の菖蒲桁受けの組物の背後に手挟を入れています。(下の写真①)
白峯寺 頓證寺拝殿3
白峯寺頓證寺殿

本体の中備は正・側面の中央間が蟇股です。それ以外は人字形割束を用いています。桟唐戸の上部の入子板には輪違いや麻の葉等の幾何学模様を彫り込んでいます。装飾金具も各部に丁寧に打たれています。
見てきたように装飾に手が込んでいますが、決して派手にはならず、和様を基調とした端正な形式と意匠でまとめられています。「十七世紀後期の上質な建物で、背後の三殿と併せて、形式も特異な建物として極めて重要」と研究者は評価します。

さて、この拝殿の向こう側は、どうなっているのでしょうか?
つまり拝殿と崇徳陵の間には何があるのかというのが、私の素樸な疑問でした。

P1150690
崇徳陵遙拝所への通路
相模坊天狗の横から拝殿の後側に廻ってみます。西行像にお参りして、拝殿横を抜けて後に回り込みます。奧には崇徳陵の石垣とその上の玉垣は見えます。
P1150697
白峯寺遙拝所からみた頓證寺殿の背後
しかし、拝殿背後は本殿があるようなのですが、木々が茂っていてよく分かりませんでした。後日、図書館から借りだした「白峯寺調査報告書NO2」の中に、拝殿と附属建物の関係が描かれた次の平面図を見つけることが出来ました。
白峯寺 頓證寺殿拝殿平面図
頓證寺殿拝殿平面図(拝殿と崇徳上皇殿などの三棟は廊下でつながる)
 
 ここからは、拝殿は、背後に並び建つ崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所であったことが改めて分かります。そして、今は一間おきに背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。かつては、拝殿で崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して密教の修法が行われていたことがうかがえます。そういえば、前回に見たように善如龍王への雨乞祈祷も、この拝殿で行われていたと史料にあったのを思い出します。次に拝殿奥の3つの建築物を見ていくことにします。

白峯寺 頓證寺 金毘羅参詣名所図会
頓證寺拝殿と三社の関係図(金毘羅参詣名所図会1853年)

崇徳上皇殿 延宝八年(1680 棟札)一間社、隅本入春日造、鋼板葺    
頓証寺拝殿の中央後方約13mの所に立つ隅本入春目造の建物です。春日造としては規模が大きいようです。組物は出組を用いますので、背面の妻飾の虹梁は柱筋よリー手外へ持ち出されることになります。

白峯寺 頓證寺崇徳上皇殿
崇徳上皇殿の妻飾
頭貫木鼻と組物の拳鼻が上下に重なり、頂部にも拳鼻が上下二段に重なります。しかし、全体的には装飾の少ない端正な建物の印象を受けます。この社殿は、近世には崇徳天皇の御影を安置していたようで、頓証寺との寺号もありました。しかし、崇徳上皇殿は建築形式としては神社本殿の形式です。それなら、なぜ神社にせずに「頓證寺」なのでしょうか? その宗教的位置付けはよく分かりません。なお、延宝8年建立の棟札には「崇徳天皇御社」と記されています。

白峯寺 頓證寺殿十一面観音
本地堂の十一面観音堂(崇徳上皇の本地仏)
本地堂(十一面観音堂) (1680 棟札)
 面三間、側面二間、背面二間、宝形造、向拝一間、本瓦葺   
白峯寺拝殿の東より後方5mほどの所に立つ宝形造の仏堂です。
本地堂は十一面観音堂・十一面堂とも呼ばれており、崇徳天皇の本地仏十一面観音を祀る建物で、建築形式も仏堂の形態をとっています。
正面は柱間三間ですが、側・背面は二間なので、二間堂と呼ぶべきと研究者は指摘します。組物は出三斗と簡素ですが、肘本に笹繰を付けられ、壁から外へ出る肘木には拳鼻を載ります。小規模な仏堂ですが。「丁寧で気の利いた意匠」と研究者は評価します。
白峯寺 頓證寺本地堂
頓證寺殿 本地堂向拝見返し
 内部には柱がなく、背面柱筋に寄せて仏壇を設けています。

P1150686
頓證寺殿の相模大権現の額

白峯権現堂(鎮守堂)  一間社流造、鋼板葺    延宝八年(1680 棟札)
白峯寺拝殿の左奧後方3mほどの所に立つ流造の社殿です。組物はすべて連三斗、中備は蟇股、妻飾は虹梁大瓶束を用いた簡素な流造で、「特徴がないのが特徴」の社殿のようです。天鼻・拳鼻は、隣の崇徳上皇殿とよく似ています。また、浮彫の絵様を彫りだした懸魚、垂木先端に金具を打つ丁寧な仕事ぶりは、拝殿背後の三棟に共通していると研究者は指摘します。
白峯寺 頓證寺白峰大権現妻飾
白峯寺頓證寺殿 白峰大権現妻飾

怨霊化した崇徳上皇は大天狗となって祟りを振りまいたとされますが、その子分として活躍したの相模坊です。彼は天狗信仰の持ち主の修験者で、後世には白峰大権現として祀られるようになります。
P1150687
拝殿前の白峰大権現像
中世の白峰山は天狗信仰で有名でした。これを真似て象頭山金光院も金比羅を天狗信仰の中心地にしようとします。近世初頭の白峰も金比羅も天狗信仰(大権現)の拠点であったことが、このような形で残っているようです。崇徳上皇を祀った社殿とは違って、建築形式も最も一般的な神社本殿の形式を採っています。
以上からは頓證寺拝殿は、背後の崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所で、三棟で共用できる桁行の長い拝殿を建てたことが分かります。
現在は、三棟と拝殿は廊で結ばれていますが、そこに使われている材料からは近代になってから付け加えられたものと研究者は指摘します。それを19世紀に描かれた3つの絵図で確認してみましょう。

白峯寺 頓勝因拝殿変遷

一番上の寛政十二年(1800)刊行の「四国遍礼名所図会」にはそれらしいものが描かれています。真ん中の弘化四年(1847)刊行の「金毘羅参詣名所図会」や一番下の嘉永六年刊行の「讃岐国名勝図会」には、それらしいものは描かれていません。現在の廊が近代になって作られたことは、ある程度裏付けられるようです。
 どちらにしても、三棟を一間おきに拝殿に接続するプランで拝殿が建てられていることには違いありません。このように神仏を祀る複数の建物を、ひとまとめにするような拝殿はほとんど例がないようです。例としては、円教寺(兵庫県)鎮守の乙天社と若天社の二棟の護法堂の前には、桁行七間の拝殿がありますが頓証寺のような規格性は見られません。護法堂と拝殿との間も大きく開いています。頓証寺は全体の配置が極めて独特なのです。このような今までにないプランを指示できるのは、松平頼重しかいないように私には思えます。

17世紀末に造られた頓證寺拝殿は、どのように使われてきたのでしょうか?
今は一間おきに、背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。が、かつては崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して、密教の修法が行われていたことがうかがえます。しかし、それだけではなかったことを教えてくれる史料が残っています。慶応四年(1868)八月に勅使が来た際の堂内の荘厳を示す「頓証寺荘厳図」(白峯寺聖教宝蔵80-72)です。

白峯寺 頓證寺荘厳図2
「頓証寺荘厳図」

これを見ると、大壇は中央にのみ置かれ、両脇間の背面に寄せて三宝に載せた御供と御神酒が供えられています。西端の二間分には勅使の座が設えられています。おそらく崇徳上皇御忌日に勅使が参拝したものでしょう。この時には、三壇は置かれていません。
 再建以前の頓証寺本地堂は「六間四面」の建物であったのを四宇に分けたものと延宝七年(1679)本地堂再建棟札に記されています。また承応二年(1653)刊行の「四国遍路目記」にも、その内部について次のように記されています。
其傍二九間四面ノ堂ヲ立テ、中ニハ天皇ノ御影、是ハ御法体ノ時、仁和寺ニテ御震筆二遊シ絵像ナリ、前ニハノ御母義御持尊ノ阿弥陀ノ三尊在り、大壇ノ中央ニハ使者ノ鳶ヲ木像二造テ在、右ハ相模坊自作ノ像在、是ハ頭襟結袈裟スル袴ニテ、有ニハ剣ヲ持、左二念誦フトリ玉フ中々恐キ体也、其前二天皇御守本尊在、中ハ釈迦、左右二大師卜太子ノ像在り、前二相模坊、左右二不動毘沙門也、

意訳変換しておくと
その(白峯陵)傍らに九間四面の堂を建立し、中には崇徳天皇の御影が安置された。これは、御法体の時に仁和寺で御震筆二遊シ絵像である。そこには御母御持尊の阿弥陀三尊があり、大壇中央には使者の鳶木像で造ったものある。右には、相模坊自作の自像がある。その姿は頭襟結袈裟の袴姿で、右手には剣を持ち、左には念誦る姿で、恐しき姿である。その前に天皇御守本尊(十一面観音?)があり、真ん中に釈迦、左右に大師と太子の像がある。前に相模坊、左右二不動毘沙門が置かれている。


ここからは、中世には「崇徳上皇御影 + 阿弥陀三尊 + 鳶の木像 + 相模坊自作の自像 + 十一面観音 + 釈迦・太師・大師 + 不動明王・毘沙門天」などの多くの神仏が置かれていたことが分かります。これが中世の「白峰寺 + 頓證寺」をとりまく宗教的な環境とも云えます。まさに神仏混淆です。ここから拝殿の前身は、崇徳上皇の御影堂というべき建物だったと研究者は考えています。

江戸時代初期になって、中世の白峰寺の姿を描いたとされる「白峯山古図」には、この拝殿はどのように描かれているのでしょうか。
白峯寺古図 本堂への参道周辺

ここには、頓證寺には拝殿や三棟はありません。ただ一棟の「御本社」と勅額門が描かれているだけです。白峯寺古図については、以前にお話したように、絵図の中に描かれている2つの三重塔が発掘調査で確認されていて、その「情報信頼度」が高い絵図です。
ここからは中世には、頓證寺は「御本社」1棟のみで、崇徳上皇の御影堂的な性格であったことが裏付けられます。とすれば、1680年の再建で、頓証寺は大きく「変容」したことになります。つまり、この時に、御影・本地仏・相模坊などが、一堂にあったものを、それぞれを祀る建物と拝殿に分離したのです。この背景には何があったのでしょうか? そこには、近世の国学思想に基づく神仏分離の思想が背景にあったと研究者は考えています。
松平頼重の心の内を覗いて見ると、次のようなものだったと私は考えています。
白峯寺を崇徳上皇慰霊の聖地として復興させよう。そのためにまずは、慰霊施設となる頓證寺を再建させる。その際に、いまの「御本社」の状態は何とかしなければならない。御影とその他のものが一堂に秩序なく、並べられているのは恐れ多いことである。崇徳上皇の御影以外をすべて排除するのは、抵抗が大きく、白峯寺の僧侶たちの同意も得られないだろう。とすれば、崇徳上皇の化身である十一面観音と、相模坊信仰の白峰大権現は別の建物を建てて、そこに祀ろう。そして拝殿は共通にする。限りなく神式であるが運営は、僧侶たちが行う。そんな構想で頓證寺の整備計画を進めさせよう。

「応永十三年(1406)の奥書を持つ「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
建長五年(1253)に崇徳上皇の菩提を弔うために二十一日の供僧を定め、二十一口の供僧を定め、「十二時不断の法花の法」を修すこととし、翌六年からは法華会と称した

十六世紀後期に書写された「建長年中当山勤行役定」も「毎年八月法花会法事」と記します。
ここからは、次のようなことが分かります。
①中世には崇徳上皇の菩提は、仏事によって弔われていたこと。
②「法花会法事」を担った供僧二十一人は、中世末期の十六世紀の「八講人数帳」「恒例如法経結番帳」に記された院家数と一致すること。
天皇の菩提を弔う供僧が、そのまま寺院を構成する院家となって近世まで受け継がれる例は、京都鳥羽の安楽寿院にもあるようです。天皇の墓を核とした白峯寺でも、このような寺院組織の形成と継承が行われていたと研究者は推測します。そうだとすると崇徳上皇の墓が設けられる以前からあった白峰寺は、13世紀中期以降は頓証寺の供僧二十一口を構成メンバーとする新たな寺院に転換したとして、研究者は次のように指摘します。
頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)を継承し、近世にいたって、頓証寺の伽藍を再編し、白峯寺も再興した

と見ることもできると研究者は指摘します。そのような変容を経た姿が現在の頓証寺と白峯寺と云うのです。
以上をまとめておきます。
①白峯寺は経済的に藩の庇護を受けていただけではなく、藩お抱えの宮大工集団が派遣されて、堂宇の造営・修理に当たっていたことが棟札からは分かること。
②白峯寺と頓証寺の境内は、17世紀後期に松平頼重によって再興され、さらに19世紀前期までにいくつかの建物が改築され、現在に至ること。
③これらの建築物は、高い技術をもった大工集団の手によるもので、その質は高い。
④とくに頓証寺の堂舎は質的な高さに加えて、従来の中世以来の崇徳上皇を祀る施設を、機能毎に分離して近世的な施設に変容させた独特の建築構成を持っていること。
研究者は④を、建築史的に高く評価します。崇徳上皇殿などの三棟を後方に控える間口七間の拝殿は、松平頼重の宗教政策の中からうまれてきたプランの可能性が高いと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  山岸 常人 白峯寺の建造物  調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会

P1150748
白峯寺の善如龍王社(雨乞いの水神)
 白峯寺は真言系修験者と関係が深かったので、雨乞いを始め、数々の祈祷が行われていました。例えば、幕末の文久3(1863)年写の「御上並びに檀那御祈祷帳」の中には、「五穀御祈予壽御札守」を1・5・9月の15日に髙松藩の寺社役所へ差し出していることが記されています。ここからは、白峯寺が髙松藩の公認の下に、領内農業安定のための祈祷を定期的に行っていたことが分かります。

この祈祷帳には、次のような祈祷依頼者名(檀那名)が記されています。
①瀬居島太郎兵衛(塩飽瀬居島)、積浦(庄内半島)30軒、宮浦25軒
②正月15日に「長日護摩切札」と「五穀御札」を阿野郡北の13か村へ11255枚配布
③正月15日に、各村の政所には五穀大札を配布。
④京都諏訪加兵衛・大坂鴻池市兵衛からの祈祷依頼
⑤備前下津丼講組の紀ノ國屋利右衛門をはじめ18人へ、下津井大黒屋三次郎・三好屋祐十郎を介して御守を配布
ここからは地元の阿野郡北との関係だけでなく、瀬戸内海の島々や対岸の下津井などの人々からも信仰を集め、その依頼に応えて祈祷が行われたり、祈祷札を配布していたことが分かります。

P1150739
白峯寺大師堂

寛政4(1792)年の「大師堂再建勧進」の版木には、次のように記されています。
「大師堂のミ仮堂のままにして、いまた経営ならされは、もろ人に助力を乞て、今や建立なさん事を希のミ」

意訳変換しておくと
大師堂だけが未だに仮堂のままである。再興計画が進まないので、諸人に助力をお願いして、建立に向けて動き出すことになった。

 ここには、再建計画が進まない大師堂について、「もろ人に助力を乞」うて、勧進僧達が活動を進める決意が述べられています。こうして、太子堂建設に向けての勧進活動が始まったようです。
白峯寺 伽藍詳細図
白峯寺伽藍図
その約10年後の享和3(1803)年8月には、阿野郡北の氏子が次の修復を藩に願いでて許可されています。
①御成御門西手入口の塀重門
②同所の石垣際東西20間、
③同所東打迫より勅額門までの石垣を石の玉垣にすること
③の石垣についてはこれまで「参詣人群集之節者危キ義」となっているのが解消されるし、「他所者等罷候節、見込みも宜相成」ると、危険箇所の改善にもなるし、参拝者の評判もよくなるとして白峯寺も歓迎しています。
19世紀になると、金毘羅大権現では石段や玉垣が整備され、参道が石造化していきます。それを進めたのは、阿波や土佐などの讃岐以外の参拝者の寄進活動でした。それが、白峯寺にも及んできたようです。金毘羅大権現と違うのは、寄進者が地元の信者たちであるということです。
白峯寺に関心持って 重文指定記念事業スタート 散華シールや御姿札を授与 | BUSINESS LIVE

白峯寺の石造物などの整備状況を年表化してみると
文化2年(1805)  西浜の嘉助による官庫宝前の石階の築造
文政12年(1829)「当山講中共」から伽藍本堂南の空地への、高さ一丈ほどの宝塔造立
天保12年(1841) 橋下権蔵・安藤庄兵衛による白峯大権現本社・十王堂の再建
「民間資本」の導入によって伽藍整備が進められているのが分かります。前回見たように白峯寺は江戸時代中期までは、高松藩主である松平家の保護、援助を受けることで伽藍整備が進められました。それが19世紀になると地元の阿野郡北の村々や氏子、当山講中、丸亀講中など民衆の援助によって、白峯寺の運営が維持されるという面も増えてきます。これは、金毘羅大権現や弥谷寺をめぐる状況と共通点が多いようです。
白峯寺 頓證額
頓證寺額
白峯寺には、丸亀城下に白峰講が組織されていました。その働きぶりを見ておきましょう。
宝暦13年(1763)は、崇徳院の六百年回忌にあたっていました。
そのため藩の許可を得て、2月から4月に「開帳」が行われることになっていました。そのため白峯寺の九亀講中が正月に、丸亀と多度津の船着き場へ案内建札を立てます。これに対して金毘羅大権現の関係者からクレームがつきます。金昆羅参詣者たちが白峯寺参詣へ獲られて、参拝者が減るという抗議です。これについて対応したのは、白峰寺ではなく、白峰寺の九亀講中の人たちでした。彼らは丸亀の町年寄へ願い出て、丸亀城下町の善通寺誕生院の旅宿「里坊」から、九亀藩寺社奉行へ立札設置許可を願い出るという手を打ちます。その結果、「開帳建札」は、丸亀藩の許可を得て、次の箇所に設置されることになります。
丸亀城下が新京橋・船入橋・中部(府)の三か所
多度津は米屋七右衛門が持参して立てること
    金毘羅大権現関係者も、丸亀藩の公式許可をえたことに、これ以上口出しはできません。
これについて後日、白峯寺は斡旋仲介を行ってくれた丸亀講中の次の有力者にお礼を持参しています。(「白峯寺大留」7-2)。
丸亀通町大年寄能登屋
松屋町大年寄竜野屋
阿波屋甚蔵
三倉屋茂右衛門
阿波屋伊兵衛
南条町電壁長右衛門
ここからは、丸亀講中のような白峰寺信仰を持つ有力者の応援部隊が形成されて、白峰寺の活動に対して積極的に協力していたことがうかがえます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です。

P1150740
白峯寺本堂(松平頼重により再建)
白峯寺は近世初頭には生駒家、その後には高松藩の松平頼重の保護を受けて本堂などの再建を行っていったことを前回に見てきました。その後の伽藍整備は、どのように進められたのか、またその資金はどのように捻出したのかを今回は見ておこうと思います。テキストは
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です。

白峯寺の財政基盤は、以下の寺領120石です。
①60石は生駒藩初代藩主生駒親正より寄進
②10石は高松藩初代藩主松平頼重より千躰仏堂領として寄付  (青海村の1町2反1畝23歩)
③50石は林田村の海岸での白峯寺の「自分開発」

寺領120石というのは、高松藩主の墓所法然寺と、城下菩提寺の成願寺の300石に次いで多い数字になるようです。しかし、白峯寺は120石という財政基盤を、無視した「過剰設備投資」を繰り返します。それを、崇徳院六百年回忌を翌年に控えた宝暦12年(1762)の財政状況で見ておきましょう。

崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
讃岐国名勝図会(拡大図)
  白峰寺には、高松藩主第五代頼恭(よりたか)の名前の入った寛延3年(1750)の棟札が多いようです。この時には、賀茂社ほか8社の再建立、御滝蔵王社・華表善女竜王社の再興、十王堂・鐘楼堂の再上葺、諸伽藍の繕、崇徳院社幣殿・御本地堂廊下・相模坊社幣殿・御供所廊下・惣拝殿陵門の再上葺を行っています。さらに宝暦12年(1762)に客殿上門の再葺が行われています。ここからは、600年回忌に向けて、藩主頼恭が事前に各堂宇の修理・整備を計画的に行ってきたことがうかがえます。それでもまだ足りない部分があったようです。白峯寺は、本尊・諸宝物・寺修覆等の費用が不足するためとして、高松藩へ「拝借銀(借金)」を次のように願い出ています。
諸本尊再興残り・ 銀2貫500目
宝物御寄付物等再興 銀6貫目
御成門玄関・客殿玄関境露次門等 銀8貫500目
御成門御上段・ニノ間客殿貼付唐紙等諸造作 銀4貫目
以上、合計銀22貫目が必要経費として挙げられています。そのため銀20貫目の拝借とその返済として毎年25石の「上米」を行うことを藩に申し出ています。高松藩はこれを認めません。しかし、白峯寺は食い下がります。借金額が多くなっていて自力での費用確保できないとして、再度寺社奉行へ願い出ます。その結果、高松藩は銀8貫600目、毎年25石の上米で手を打とうとします。これに対し白峯寺は再再度、銀20貫目の拝借を願い出ています。最終的には拝借は、銀13貫500目、上米は35石で折り合いがついたようです。拝借銀の利子は1か年1割3歩、返済の上米は寺領米の中から35石を代官所へ毎年暮れに納めるということになります。

P1150725
白峰寺本堂裏の宝寿瓦
高松藩からの借金返済がどうなっているのかを見ておきましょう。
 崇徳院六百年回忌から約40年後の享和元年(1801)に、返済の上米35石が10石減らされています。高松藩と拝借銀をめぐっての値引き交渉があったようです。この年には、民間から銀札4貫500目を借用した証文写しがあります。藩ばかりではなく、民間の金貸業者からも白峯寺は借金していたことが分かります。証文には拝借人・白峯寺、加判(保証人)高屋村百姓佐一郎とあります。地元の有力者である「高屋村百姓」が白峰寺の保証人を務めていることに研究者は注目します。
 以上から、この頃の白峯寺は、旱魃や水害によって寺領米が思うように入らず、借金が重なり高利返済に追われていて、借入額が銀40貫にもなっていたようです。白峯寺の寺領収入は、先ほど見たように1年間当たり120石です。倹約してその内の60石で寺運営を行い、残りを借銀の返済に廻しています。しかし、これでは借金は減りません。金利払いのために借金を重ねるというという悪循環の中にあったようです。これは丸亀藩の善通寺と共通します。
P1150739
白峯寺大師堂
 そのような中で、最後に頼るのは髙松藩です。
高利の借金返済ににあてるため銀40貫目を拝借し、寺領米の中から年60石を返済財源とする財政建て直し案を、高松藩へ願い出ます。これが許されたら「去々年(寛政12)御金蔵二而、拝借仕元銀十貫目」の未納銀をも皆済するといっているので、これより以前にも藩から借り入れていたようです。そして髙松藩は、これを認めます。白峯寺は先にも触れた通り、髙松藩の祈祷寺でした。藩のオフィシャルな面を担う寺院だったので、放置して見放すわけにはいきません。

P1150690
頓證寺殿の看板
 ところが早くも2年後の文化元年には、返済に廻した残りの60石では、寺運営ができないので、返済米の半減と利子の減少を願い出ています。財政再建計画は、わずか2年で頓挫したようです。今度は髙松藩も認めません。3年後の文化5年になると、再度60石返納の半減願いが出されます。髙松藩は、妥協案として20石減らして40石の上納にすることを認めています。
崇徳院回忌650年が終わった文化10年11月には、回忌行事に要した諸経費や、本寺の御室御所や京都の公家衆の奉納物に対するお礼の上京などの費用のために、銀40貫目の借金を願い出ています。これは認められますが、拝借銀40貫目から、納め残りの22貫目を差し引いた17貫目を白峯寺へ渡しています。髙松藩もなかなかの対応ぶりです。(以上、「白峯寺諸願留」7-5).
P1150701
勅額門
4年後の文政元年には、拝借銀の5年間免除を次のように願い出ています。(「白峯寺大留 51」報告書309P)
口達之覚
拙寺義、古来より西新通町二而旅宿所持仕居申候処、先住時分より追々及大破候二付、修覆之義職人共江積せ候所、年占キ建前二而最早修覆二難相成由二付、建更積せも仕セ候処、余程之入用二相見、其上上打続種々物入多指支候二付、去ル酉年重キ拝借をも相願候所、銀四拾貫目御貸被下、毎歳御定之通、米六拾石ツ、無滞相納居申候二付、尚更普請手当無之、及延引居申候、右旅宿之義者、龍雲院様御入国以来於御城主御祈蒔執行被仰付、正五九月御城下江罷出候節、拙僧ならびに衆僧共多人数止宿仕来候、往占ハ諸役御免地之由二も伝承仕候得共、年古キ義二而書面二相記有之義二も無御座は成義ハ難相別、当時町並二相成居申候処、件之通、及大破居申候、其上時年之風雨二而所々崩れ止宿等も難相成候、
白峯権現之講席等茂難相勤候付、無拠法縁之義等願相勤候程之義二而、甚心配仕、色々相考申候得共、所詮難及自力、乍併前条中上候、先達而之拝借銀上納方二も年二寄指支候仕合、其上御時節柄と申、別段之拝借難相願、ゴ極当惑仕罷有候、依之近頃中上候兼候へ共、右拝借銀上納方何卒五ヶ午之間、御用捨被成下候様、本願度奉存候、左候ヘハ右御用捨米を引当旅宿普請手当仕度奉存候、呉々も御時節柄右様之願中出候段、奉恐入候、
御城内重御祈躊二罷出候義二付、拙僧井衆僧共多人数仮宅等二而ハ、指支候次第茂御座候間、不得止事御歎申上候、此段宜御賢慮被下候様、奉願候、
以上
寅十月     白峯寺
右之通御勘定所江願指出候所、同月下旬願之通相済、尤三ヶ年御用捨被下候、若林義左衛門殿より申来候、
意訳変換しておくと

口達之覚
白峯寺については、古来より髙松城下の西新通町に「旅宿所」を持っていますが、先代の頃から大破したままになっています。そこで、修復について大工職人と協議したところ、「建物自体が耐久年数を超えて、修復は困難」とされました。そのため建替の見積もりを依頼しようとしました。
 しかし、打続く種々の物入のために、4年前に多額の借金を次のような内容でにお願いしたばかりです。銀四拾貫目の借金に対して、毎年米60石を返済すること。
 「旅宿」については、龍雲院(松平頼重)様が讃岐入国以来、御城主から祈祷執行を白峯寺が仰せつかってきました。そのため、正月・五月・九月の三回、拙僧や衆僧などの多人数の僧侶たちが髙松城下に参った際の宿となってきました。(中略)
しかし、先述したとおり長年の風雨で、痛みがひどく宿泊も出来ない状態です。(後略)
ここには髙松城下の西新通町にある白峯寺の旅宿の普請に充てるために、借入金返済の免除を願いでています。白峯寺は初代藩主松平頼重以来、藩主祈蒔執行のため正月・五月・九月に、住職はじめ多数の僧が高松城下へ出かけていきます。そのため旅宿です。これは髙松藩の公式行事でもあるので、無碍にも断れません。髙松藩は拝借銀の免除期間を5年間から3年間に短縮して認めています。
 さらに3年後の文政4年に、大師堂について借金を申し出ます。

太子堂は仮堂でしたが、寛政のはじめに造営が認められて、造営が始まり上棟します。しかし、資金不足で、外回り囲い板、唐戸厨子が出来上がっていません。そこで諸国参詣者の印象も悪いため、大師堂造作と城下旅宿の造作費用にあてるため、さらに拝借銀上納の3か年免除を願い出ます。藩は2か年間免除に値切って認めています。大師堂は天保5年春に完成しますが、西新通町の白峯寺旅宿の修繕は意外と経費がかかり、15貫目の借財となります。そのため、15貫目の拝借を願い出、返済は寺領米の中から行うことにしています。
 白峯寺では「諸初穂賽銭二至迄減少」「御寺内暮方難立行」状態で、寺の財政がゆきずまっていることを藩に訴えています。
藩は銀15貫目の拝借は認め、その内の10貫目は寺領米の中から毎年30石、5貫目は持林の伐取代金から上納することになります。この時高松藩は、郡方より阿野郡北の大政所(大庄屋)渡辺七郎左衛門と本条和太右衛門へ白峯寺の財政状況を問い合わせています。両大政所は、白峯寺の寺領からの収納は60石で、近いうちには借銀も皆済することができると返答しています。これは、白峯寺寄りの見通しの甘い見解です。

P1150712
白峯寺薬師堂

 危惧したとおり天保7年には長雨による寺領収納の減少のため、拝借銀10貫目に充てる返済米30石の免除を願っています。また翌年にも免除を申し出ています。(以上、「白峯寺諸願留」7-9)

以上、宝暦から天保にかけての白峯寺の財政状況について見てきました。
ここからは、寺領120石の財政収入を大幅に超える支出があったことが分かります。所謂、収入に見合う寺社経営ではないのです。そのために借金が膨らみ、どうしようもなくなると藩に泣きつくということを繰り返しています。崇徳上皇の百年に一度の回忌行事に備えて伽藍整備は進みますが、多額の借金は積み増しされて行きます。整った堂宇の背後には、「過剰な設備投資」による「火の車の財政状況」があったようです。それを最後で支えていたのが髙松藩であるということになります。髙松藩の祈祷所として公的な性格を持つ白峯寺だからこそできた寺社運営かもしれません。

P1150713

 近世後期になると、白峯寺は「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」と名乗るようになったことは以前にお話ししました。ここには、崇徳天皇御廟所である白峰寺を髙松藩が見放すはずがないという「確信」もあったような気もしてきます。
 これは以前に見た善通寺と丸亀藩の関係とよく似ています。善通寺も寺社経営は財政的には火の車でした。それを丸亀藩からの借金で賄っていました。そして、その多くは返金されることはありませんでした。空海生誕地の善通寺を、丸亀藩が見放せるはずがないという確信が善通寺側にはあったようです。
P1150719

参考文献
  「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
関連記事


斉藤一博 on Twitter: "丸亀藩は現在の香川県丸亀市に置かれた藩。生駒氏が高松を治めその西部であったが、1641年に山崎家治が5万3,000石で入る。1658年に京極高和が播磨龍野より6万石で入る。1780年代から団扇の生産が盛んになり、1794年に藩校正明館が創立された  ...
生駒騒動後の讃岐分割
生駒藩がお家騒動で、幕府から所領を没収されたのが寛永17(1640)年のことです。その後の讃岐は、東の高松松平藩(12万石)と西の丸亀山崎藩(のちに京極藩)に分けられます。このうち白峯寺のある綾郡は、高松藩領に属することになります。白峯寺の西北にあった崇徳上皇陵の廟堂・頓證寺は、当時は荒廃していたようです。白峰寺自体が本堂などの伽藍の復興に精一杯で、崇徳上皇陵や頓証寺にかまっている余裕がなかったのかもしれません。

近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
松平頼重

そのような中で水戸藩からやって来た髙松藩初代藩主松平頼重は、独自の宗教政策を次々と打ち出し、「崇徳上皇慰霊の寺」である白峯寺にも手を差し伸べてきます。松平頼重の寺社保護政策を最初に挙げておきます。
①金毘羅大権現の保護と朱印地化 全国的な寺社への育成
②菩提寺法然寺の造営と社格確保 法然寺を頂点とする新たな寺院階層の形成
③金倉寺・長尾寺・根来寺などを、智証大師の天台宗への改宗と保護  真言勢力への牽制
④姻戚関係にある浄土真宗興正寺派の保護
有力な寺社を保護し、配下に置くことが治政安定につながることを知り尽くした上での「選択的寺社保護政策」です。そのような中で、松平頼重が白峯寺にどんな保護支援を与えたのかを年表化して見ておきます。
寛永20年(1643)  頓證寺の再興  崇徳上皇慰霊
万治 4年(1661)  千然阿弥陀堂を建立寄進。
維持料として北条郡(綾郡北部)の青海村の北代新田免10石を寄進。
延宝7年(1679) 御本地堂を再建立、
延宝8年(1680) 子・松平頼常とともに崇徳天皇社・相模坊御社・拝殿を再建立
元禄2年(1689)  崇徳院陵の前に、一対の石燈籠を献納(『松平頼重伝』)。
ここからは、松平頼重が白峯寺に対して継続的支援を行っていたことが分かります。これは金毘羅大権現や根来寺・長尾寺に対する頼重の支援ぶりと共通します。政治的意図を持って、継続的な支援が行われ、時と供に伽藍が整備されていきます。そして周囲の宗教施設に比べると、格段に立派な伽藍が姿を見せるようになるのです。そして次に、長尾寺や根来寺では、そこに安置する仏像群まで奉納しています。ただ寺領を寄進するのではなく、伽藍の完成形を見通した上での支援活動なのです。目に見える形での支援で、庶民の関心を惹きつけることになります。それが庶民の目を惹き、信仰心を集めることにもつながって行きます。これだけの伽藍が整備された寺院は当時はなかったのです。松平頼重の支援を受けた寺院は、一歩先んじた伽藍や堂宇を持ったことになったことを押さえておきます。

白峯寺には、歴代の高松藩藩主の残した棟札が数多く残されています。
その中で、初代の松平頼重に次いで多いのが五代藩主松平頼恭の棟札です。頼恭(よりたか)は、製塩・製糖などの殖産興業に尽力した高松藩中興の藩主とされます。彼は熊本藩主細川重賢と並ぶ博物大名の一人で、1760年代後期頃には、絵師三木文柳に『衆鱗図』(二帖)などの魚の図譜などの編集を平賀源内に命じたことでも有名です。
香川県立ミュージアム 春の特別展 「自然に挑む 江戸の超(スーパー)グラフィック-高松松平家博物図譜-」 |イベント|かがわアートナビ
松平頼恭の残した『衆鱗図』などの図版類
頼恭の名前の入った白峯寺の棟札は、寛延3年(1750)のものが多いようです。この時に、賀茂社ほか8社の再建立、御滝蔵工社・華表善女竜王社の再興、十王堂・鐘楼堂の再上葺、諸伽藍の繕、崇徳院社幣殿・御本地堂廊下・相模坊社幣殿・御供所廊下・惣拝殿陵門の再上葺があります。さらに宝暦12年(1762)に客殿上門の再葺が行われています。宝暦13年は崇徳院回忌600年に当たっていました。それにむけた伽藍整備計画が頼恭の支援の下に進められていたようです。この他にも、高松藩主の名前が棟札には見えるので、高松藩が白峯寺に対して一貫して保護を与えていたことはまちがいないようです。
 松平頼恭は、白峯寺に参詣も行なっています。
 崇徳院六百年回忌が行われる直前の宝暦13年(1763)2月には、それまでの伽藍整備の成果の確認のためでしょうか、白峯寺を参拝しています。この時には、林田村から登山し、崇徳上皇霊宝所・頓証寺・大権現を参拝しています。帰りは国分遍路坂を下って、国分寺へ立ち寄っています。その2年後にも参詣したといい、頼恭は頻繁に白峯寺を訪れたようです。そうしてみると先ほどの頼恭による一連の「白峰修復事業」は、崇徳院六百年回忌に向けた準備であったことが裏付けられます。
 このように白峯寺は高松藩との関係が深く、正月・五月・九月に高松城で高松藩主に対する「御意願成就」「御武運長久」の祈祷も行っています。高松藩の祈祷所として、白峯寺のほかに阿弥陀院(石清尾八幡宮別当)があり、高松城で大般若経の読誦を行っいまします。

 幕末の文久3年(1863)写の「御上丼檀那質祈千壽帳」には、江戸幕府将軍家、水戸藩、高松藩主、その他の大名たちや藩主一族、家臣たちの祈疇を行ったことが記されています。また藩主の厄年や、幕府から命じられた藩主の京都への使者の際にも、「安全之御祈疇」が行われています。
白峯寺境内の西北隅には、崇徳上皇の陵があります。
そのため崇徳院回忌の法要が古くから行われていたようです。その際に奉納された和歌・連歌・俳諧・漢詩などの文芸が白峯寺には、数多く残されています。
 近世に入ってからの崇徳院回忌と白峯寺との関係は、中期まではよく分かりません。六百回忌に際して、宝暦13年(1763)3月に、松平頼恭が崇徳上皇陵に石燈籠2基を寄付することになります。その場所について崇徳院回忌の行事の邪魔にならないようにと、高松藩と白峯寺の間で協議しています。その結果、初代藩主松平頼重が陵外の玉垣内に寄付していた石燈籠を、陵内へ移してその後に新しい石燈籠を立てることにしています。崇徳院回忌の行事の妨げにならないようにとあるので、それまでにも回忌法要が行われていたことがうかがえます。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1847年)2
白峯寺(讃岐国名勝図会(1853) 白峰寺西北の崇徳上皇陵

宝暦13年の崇徳院回忌六百年に向けた準備過程を見ておきましょう。
白峯寺は明暦4年(1658)に仁和寺の末寺となっていまします。そのため宝暦13年正月に次のことを仁和寺に願いでています。
①2月26日より本尊・霊宝等の「開帳」
②8月26日の法楽曼供執行
また前年10月には、寺社奉行へ2月26日から4月18日までの50日間の開帳を願い出ています。そして開帳の建札を次の場所に建てることが許可されます。
城下では西通町・常磐橋・塩屋町・田町・土橋の五か所
郷中では鵜足郡宇足津、那珂郡四条村・郡家村、三木郡平木村、寒川郡志度村の各往還
「閉帳」前の2月14日には高松藩主からの奉納物が届けられ、崇徳院の御宝前へ供えられます。

P1150616
高屋神社(旧崇徳天皇社 坂出市高屋町)
七百年回忌は、文久3年(1863)8月26日に曼茶羅供執行が行われています。
この時には回忌の3年前の万延元年6月に、同忌が近づいてきたのに高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままであるとして、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。これが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。
P1150619
高屋神社(坂出市高屋町)
 
崇徳院の旧地として、白峯寺が主張していた場所に鼓岡と雲井御所があります。

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図(江戸初期)に記された雲井御所と鼓丘

宝暦13年(1763)に、鼓岡の村方から提出された書付をみて白峯寺は、「御廟所同前之古跡」であるとして、鼓岡村の支配ではなく白峯寺による管理が望ましいとの意見を寺社方へ申し出ています。これから約70年後の天保5年(1834)には「府中鼓岡雲井御所由緒内存」を白峯寺は提出し、その中で「何分時節到来不仕」と再度提出しているので、白峯寺の主張は認められなかったようです。そのために「由緒内存」で、再び「当山支配」とすることを願い出たようです。ここからは江戸中期後に、白峯寺が「崇徳天皇御廟所 政所」としての自覚を高めていることがうかがえます。この結果、雲井御所の地については、免租となって番人を置くことになります。当時の9代藩主松平頼恕は、自ら碑文を書き、「雲井御所碑」を建てています。この時に鼓岡についても、何らかの措置がとられたようです。

2022年 雲井御所跡の口コミ・写真・アクセス|RECOTRIP(レコトリップ)
雲井御所碑(坂出市)
雲井御所
かつての雲井御所石碑と林田邸
後ろは林田氏邸宅、林田氏の本姓は綾氏で、生駒時代は林田村の小地頭、松平頼重の人国の時には、大政所。

 文化3年(1806)に頓証寺の境内が狭いため埋め立て造成計画が出されます。
「別而近年参詣人等多、混雑仕る」として、拝殿の西の御供所裏通りから南の番所にかけての約40間の長さに渡って5,6間の谷筋を埋立てる内容です。研究者が注目するのは、これを提案したのは白峰寺ではないことです。阿野郡北の氏子たちが農業の手隙に、ボランテイアで行いたいと願いでているのです。白峯寺はこれを、「参詣人群衆之節、混雑も不仕」と付帯して、寺社奉行へ取り次いでいます。
 しかし、この時には髙松藩の認めるところとはならなかったようです。そのため翌年には造った後の道の修覆も自力で行うとして、再度願い出ています。この道の修覆については「修覆留」が作成されているので、この時に道が造られたと研究者は考えています。(「白峯寺諸願留」7-5)。
崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
崇徳上皇陵と頓證寺と勅額門(讃岐国名勝図会部分拡大図)

 文政5年(1822)になると、頓証寺の勅額門の外手にある燈籠の前に、石燈籠を二基建立したいと申し出た「施主共」がいるとしてその建立願いがだされます。さらに10年後の天保4年(1833)には、同じく勅額門の外の獅子一対の建立願いが「心願之施主共」から出され、いずれも白峯寺は寺社方へ願い出て許可されています。(「白峯寺諸願留」7-9)。
 19世紀になると、十返舎一九の弥次喜多コンビの参拝記も出版され、金毘羅参拝客が急速に増加します。富裕な参拝者たちは、石段や玉垣、灯籠を奉納し、境内は石造物で埋まっていったことは以前にお話ししました。こんな景観を見たことのない庶民は、石の境内を見たさに金比羅を目指すようになります。そのような石造物寄進の流行が周辺寺院にも及ぶようになります。白峯寺もご多分に漏れず、19世紀になると富裕層が灯籠・狛犬などの石造物を寄進するようになります。
 白峯寺 六十六部の納経帳
 六十六部の納経帳に記された白峯寺の「肩書き」変遷
近世後期になると、白峯寺は納経帳にも自らの呼称を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」と記すようになります。
  自らの存立基盤を崇徳院陵とのつながりの中に求めようとする意識が白峰寺内部でも高まったことがうかがえます。もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししまします。しかし、これも白峰寺と頓證寺の一体化という視点で見れば、なんら不思議なことではないのかも知れません。
 同時に、このような白峰寺の教導の結果、周辺の「氏子」や「施主共」が積極的に頓証寺などの境内整備に参加するようになっていることが分かります。白峯寺への信仰、崇徳上皇信仰が民衆へ浸透していっていることを物語るものと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①髙松藩初代藩主松平頼重は、計画的継続的に白峰寺の伽藍整備を支援した
②5代藩主松平頼恭は、崇徳院六百年回忌を期に、白峯寺境内の伽藍整備を進め、自らその視察も行っている。
③髙松藩の支援を受けて、崇徳上皇回忌ごとに伽藍は整備された。
④そのような中で、白峯寺は自らの存立基盤を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」に求めるようになり、中世の故事をもとにさまざまな主張を行うようになる。
⑤周辺の庄屋や有力者も「崇徳天皇御廟所」である白峰寺を支援するようになり、崇徳上皇信仰は拡がりをみせるようになる。
ある意味これは、松平頼重のねらい通りのことだったのかもしれません。頼重の打った齣は、時を置いて大きな効果を持つようになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
関連記事

白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峰寺古図(江戸初期)には、多くの子院の堂宇が描かれている

 白峯寺関係の文章や絵図を見ていると、中世には多くの子院やあったことがうかがえます。例えば、寛文年中の『御領分中宮由来・同寺々由来』には、「真言宗 北条郡綾松山洞林院 白峯寺」とあり、洞林院を筆頭に古くは120坊があり、その内の21ヶ寺に補任状が出されてたと記します。この21ヶ寺が塔頭寺院だったと研究者は考えています。ところが、寛文年間には「寺中四ケ寺」とあり、4ヶ寺に激減しています。この時期は、中世末に衰退していた洞林院が別名によって復興する時期と重なります。
 数多くあった子院が激減するのは、 弥谷寺も同じでした。
弥谷寺も生駒藩の指示を受けた別名が兼帯して、運営権をにぎります。白峯寺と弥谷寺で子院が激減するのは、別名の「寺院経営」方針と何らかの関係があるのではないかと私は「妄想」しています。しかし、これも裏付史料がありません。そういえば、金毘羅大権現でも、金光院院主宥盛が辣腕を振るい、それまでの子院を排除・撃退し、金光院の優位性を確立していくのもこの時期です。それまでの白峯寺や弥谷寺には、中世の以来のさまざまな宗教者(熊野行者・高野聖・時衆念仏聖・修験者など)が子院の主として活動を展開していました。高野山が「真言原理主義」に建ち帰って、時衆念仏僧を排除したように、地方の有力寺院でも山内の異分子排除が行われたのかもしれません。さて話を元に戻します。
近世になっても存続した白峯寺の末寺を、見ておきましょう。
白峯寺所蔵の慶長9年(1604)から弘化2年(1845)までの江戸時代の棟札に記された子院名を一覧表にしたのが次の表です。
.白峯寺蔵棟札に記された子院
白峯寺の近世子院一覧
この表からは次のような事が分かります。
①慶長9年(1604)には、一乗坊、花厳坊、円福寺、西光寺、円乗坊の5ヶ寺があったこと
②延宝8年(1680)には、一乗坊、円福寺、宝積院、真蔵院、遍照院の5ヶ寺でメンバーが変わっていること
③その後は、この5ケ寺が天明7年(1787)まで確認できること
④その後の棟札には、これらの寺院名が記載されておらず、他の資料から円福寺は文化8年(1811)、真蔵院は文政3年(1820)まで確認できること
⑤現在まで残ったのは遍照院のみであること
これらの子院は、どこにあったのでしょうか?
白峯寺古図以来の各絵図に描かれている建物を一覧表にしたのが下図です。
白峯寺 建物変遷表
白峰境内建物変遷表

さらに、この絵図に記された建物を現在の平坦地に落とし込んでいったのが下図になります。
白峯寺境内建物分布図


ここからは、稚児川の両側には多くの平坦地や石垣が残っていることが分かります。これがかつて存在した21の子院の跡のようです。この中に、一乗坊、円福寺、宝積院、真蔵院などもあったことが分かります。しかし、遍照院はどこを探してもありません。
実は遍照院は、麓の高屋町にあります。

白峯寺 子院遍照院
慈氏山松浦寺遍照院(坂出市高屋町)
  慈氏山松浦寺遍照院は「遍照」という寺名からしても弘法大師(遍照金剛)信仰に深く関わるお寺であることが推測できます。本尊は阿弥陀如来、脇侍は弘法大師と弥勒菩薩です。庭に弘法大師が求聞持法を修したという求聞持石があります。
DSC04254
遍照院の求聞持石
やや離れた後夜谷という窟は、大師修行の地と伝えられ、その途中に弥陀橋がかかります。これは遍照院から大師が毎日修行のため、窟へ通う時にこの橋まで阿弥陀如来が来迎したと伝えられます。近くには高野四社明神が建立されていて、高野山との深い関係がうかがえます。「弘法大師と阿弥陀如来」が併せて祀られるというのは、今まで見てきたように「真言念仏」の特徴です。ここにも高野聖の痕跡が見えてきます。この寺の建立は「求聞持石銘」に刻まれている年号からする 元禄年間(1688~1704)以前にまで遡れるようです。

遍照院には『遍照院大留草紙』が残されていています。
そこには江戸時代初期の圭翁代から記録が残り、次のようにな記事があります。
神谷村石風呂之場所二古来より風呂守護之弘法大師石像安置之処。御厨子大破二付今年再建立。尤内へ年号筆記シ置志也。下地之厨子ノ裏書ニ曰 元亀二未年七月二七日遍照密院入寺瑞応建立云々.
彼ノ岩屋と申茂大師之御遺跡にして皆当寺二属次具地也。依之往古より当寺之支配にして散物等寺納之事.
意訳変換しておくと
神谷村の石風呂がある場所は、古来より風呂守護のために弘法大師石像が安置されていた。その厨子が大破したので、今年再建した。再建年号を筆記しようと厨子を見ると裏書に、次のように書かれていた 
元亀2(1571)未年7月27日 遍照密院入寺の瑞応が建立した。
この岩屋(石風呂?)と茂大師の御遺跡は当寺に属す者である。往古より当寺の支配する散物である。
ここからは、次のようなことが分かります。
①神谷村には石風呂があったこと
②石風呂の管理権を返照院が持っていて、周辺遺跡などの管理権も主張していたこと
③元亀2年(1571)には、遍照院が存在し、神谷村にまで影響力があったこと
次に遍照院が出てくるのは、以下の文章です
白峯寺より寄附田地之初発
白峯寺法印圭典代当郡林田村之内 
片山寺領地開地之時分当寺之
道心者道休法師日々罷出候而
開地之事此以奥□ヲ白峯寺より
寄進之順□致し貰候而永当
寺江附置候寛文十二子歳六月二十七日
道休法師致命終候可有永々回向等也
右ノ田地二付後代何分之勝手布之とも勿論売沸質物等二
入申問敷事白峯寺より寄進状/左之通所は飛石也
(以下略。/は改行)
意訳変換しておくと
白峯寺法印圭典の時代に、綾郡林田村にあった片山寺開山寺の寺領を、道心者道休法師に白峰寺から永代寄進した。寛文十二年六月二十七日に道休法師が亡くなると、代代回向を行い、この田地は後代に至るまで勝手に売買したり、質入れする事がないように、白峰寺からの寄進状にも書かれていた。なおこの寺領は飛石である。

 ここからは、白峰寺圭典法印の時に道休法師が寺領の提供を受けたこと、その面積は石高は、合わせて2反1畝12歩、石高は2石2斗2升4合であったこと。これを元にして現在の遍照院が建立されたことが分かります。
寺伝には歴代住職について次のようにも書かれています。
開基弘法大師
右開基以来より寛永年中迄之住職等相知不申候
一、中興  白峯寺宥賢弟子 圭翁
右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
寛文元年十月三日二病死仕候
意訳変換しておくと
開基は弘法大師
開基以来、寛永年中迄の住職等については不明である
中興は、白峯寺宥賢弟子の圭翁
圭翁の住職並に隠居した年号月日についても不明
寛文元年十月三日二病死仕候
歴代住職について不明というのは、お寺が存在しなかったとも読み取れます。中興とされますが実際の建立は、寛永年中(1624~44)の圭翁によるものなのでしょう。その後の住職は次の通りです。
一、二代  白峯寺増真弟子 圭算
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  宝永五子年正月五日病死仕候
一、三代  白峯寺圭典弟子 圭澄
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  元文二年七月十六日病死仕候
一、四代  白峯寺等空弟子 證寂
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  明和三戊十一月朔日病死仕候
一、五代  白峯寺離言弟子 大印
  右宝暦四年十二月十三日住職被仰付
  宝暦十四五月十八日大内部引田積善坊へ移転被仰付候
一、六代  白峯寺離言弟子 而真
  右ハ宝暦十四年中五月十八日住職被仰付候明和五年子二  月七日山田郡林村吉国寺江移転被仰不候
一、 七代  香川郡坂田村悉地院親旭弟子□□
  右明和五子年二月七日住職被仰付候
      天明二寅十二月隠居仕候
一、八代  白峯寺剛咋弟子 圭応
  右天明二寅年十二月十三日住職被仰付候
遍照院
右之通御座候以上
寛政四壬子二月
以上は『大留記』に書かれた歴代住職名ですが、よく分からないところが多いようです。
『大留記』には、その他にどんなことが記されているのでしょうか。
宝暦8年(1758)12月の「阿野郡高屋村遍照院由緒」の冒頭に、次のように記します。
当寺由緒之儀従公儀御尋有之候二付去ル貞享元年子年二書出申候控を以此度左之通指出申候
意訳変換しておくと
当寺の由緒については公儀の御尋があって、それに応えるために貞享元(1684)年に、書き出したものである。それをこの度は、左記の通り差し出します。

元々は、貞享元年(1684)に書き出した(書き写された)もののようです。この由緒を要約すると次のようになります。
「遍照院は弘法大師の開基の寺である。大師が42歳の厄歳に当山を訪れた時、大地が震動して大石が出現した。大師はこの石の上で求聞持法を修して、歳厄から遁れた。そこで、末世の人々の災難を除くため自影の像を彫刻して本尊とした。そのためこの石を求聞持石、本尊を厄除大師という。
 また当山は高野大明神が鎮座したところであるので「高野」ともいう。その後、弘法大師は紀州の高野山を開いた。弘法大師を遍照金剛というが、当寺を遍照院、紀州高野山を金剛峯寺と号し、讃岐高野、紀州高野と同名並び立つものとした。
ここから遍照院は弘法大師格別の遺跡、厄除大師安置の霊場で讃岐の高野と呼ばれ、古くから、3月19・20・21日の正御影供には、近隣の信者が多数参詣するようになった」
以上が『遍照院由緒」のあらましです。
本尊の厄除大師は、庶民の信仰を集めたようです。
毎年3月20・21日に「高屋大師市」が開かれ「百姓農具市立」が行われて賑わいました。
 また、宝暦7年(1757)に遍照院が火災となり、本堂を残して多くの堂字が焼失します。そこで、その復興資金を集める為に、高松地蔵寺で宝暦9年3月1日から4月10日まで、1ヶ月少々の期間、厄除け本尊弘法大師の出開帳が行われます。この時期は、善通寺も京都や江戸での出開帳を行い、それが成功裏に終わり、金堂や五重塔再建に大きく寄与した先例があります。遍照院もそれを見習ったのでしょう。この出開帳には、大群集が押しかけ、怪我人がでるほどであったと記します。4月10日の閉帳の時には、数千人の参拝者が涙を流し、別れを惜しんだとも記しています。遍照院本尊の42歳厄除大師の霊験は強く、庶民の信仰を集めていたことがうかがえます。その4年後の宝暦11年に庫裏の再建が行われているので、相当の金額が集まったようです。

  文化8(1825)年にも、遍照院から次のような開帳願いが出されています。「白峯寺所願留193」(白峯寺蔵)
口上
一当寺之義者、大師四拾弐歳御厄年彫刻之本尊、則弘仁年中四拾弐歳二御建立被成候寺二而由緒も御座候而、毎歳高屋大師市と申伝、百姓農具市立有之、二月廿日より廿一日迄本寺白峯寺井同末等於拙寺正御影供法会執行仕候、依之市立二付、右御公儀より御役人中も参来申候、然ル処当寺本堂三間半四面瓦葺二而御座候処、年久敷相成候二付、是迄時々修覆加へ候得共、最早及大破修覆難及助力、旦家も百軒斗御座候所、甚貧家之者二而自分渡世も難渋仕候二付、中々寺之修覆等馴手便も無御座、当君仕候間、本尊厄除之大師来申二月廿五日より二月廿五日迄開帳仕度奉願候、左候得者参詣人之散物フ以修覆相加へ申度奉存候、右願之通、被仰付被下候得者、御町口々郷中二而尤寒川郡志度村、香川郡仏生山、鵜足郡宇足津村、寺門前江建札仕度被存候、
右願之通、相済候様、宜奉願候以上、
文化八年         阿野郡北高屋村
十月            遍照院判
      白峯寺
右之通末寺遍照院願申出候間、右願之通相済候様、宜奉願候以上、
横倉与次右衛門殿
河合平之丞殿
意訳変換しておくと
口上
遍照院は、大師42歳の御厄年の時に自ら彫られた大師像を本尊とし、建立された寺院で、由緒もあります。毎年、高屋大師市が開かれ、百姓たちの農具市で賑わいを見せます。二月二十日から二十一日には、本寺の白峯寺や子院が列席して、当寺で正御影供法会が行われ、この時に市も開かれ。髙松藩からの御役人たちも参来します。
 当寺の三間半四面瓦葺の本堂は、建立から月日がたち、修繕を重ね維持してきました。しかし、大破寸前の状態となり。もはやこれ以上は修繕も困難になってきました。新たに建立したいのですが、檀家も百軒あまりの貧家ばかりで、渡世も難渋している状況です。そのため寺の修復までにはなかなか手がまわりません。そこで、当寺の本尊である厄除大師を2月25日から3月25日までご開帳することをお願い申し上げます。そして、参詣人の寄進・奉納を修覆費用に充ててたいと思います。この願いが許されるのであれば、髙松城下や郷中の寒川郡志度村、香川郡仏生山、鵜足郡宇足津村、寺門前に建札を掲げたいと思います。以上のこと、許可していただけるように申し出ます。奉願候以上、
ここには、本堂大破のための修覆が必要であるが、遍照院の檀家は百軒ほどと少なく、しかも「貧家」で費用を確保できないこと。その資金集めのために本尊厄除大師の開帳を行う事を願いでています。
 本堂の建て替えなどの多額の資金が必要となったときに、「厄除大師」などの庶民的な人気のある本尊を持つお寺では、「ご開帳による資金集め」という方法が行われていたことが分かります。同時に、開帳行事は各寺院の判断で勝手に行えるものではなく、藩の許可が必要だったようです。
 遍照院は、幕末の文久2年(1862)にも庫裏修覆のために、本尊弘法大師と霊室等の開帳を3月10日から4月10日まで行うことを願いでています。(「御用口記」)。
 このように厄除大師は「集客力」のある本尊で、遍照院の勧進活動にも大きく寄与しています。庶民の支持を得ていたとも言えそうです。同時に、開帳は開催通知の立看板を建てるだけで、人々が集まってくるものではありません。そこで集客のためのプロモートを行っていたのが山伏たちだったと私は考えています。山伏(修験者)たちのネットワークを利用することで、このような開帳行事も成功に導くことができたのです。そういう意味では、ご開帳を成功に導くために修験者たちのネットワークを持っていることが必要だったと、私は考えています。
幕末に遍照院の弟子が次のような四国巡拝の届出願いを、藩に提出しています。(「白峰寺大留」報告書310P)
文化十三子年  口上
一      高屋村末寺遍照院弟子 空間
右者宿願御座候而四国順拝二罷出候、尤十七日出立仕候間、此段御届申候、以上
二月十六日    白峯寺
寺社御役所
郷御役所 銘々
意訳変換しておくと
文化十三(1813)年  口上
一      高屋村の(白峯寺)末寺遍照院の弟子 空間
右者が宿願であった四国順拝を行うことになりました。つきましては、17日に出立することを御届申しあげます。
以上
二月十六日    白峯寺
寺社御役所
郷御役所 銘々
ここからは遍照院の弟子 空間が四国遍路を行っていることが分かります。帰国報告が4月9日に出されています。約2ヶ月弱の遍路の旅であったことが分かります。
 また、天保6年には遍照院主が四国遍路を50日ほどで行った帰国報告書が白峰寺から藩の寺社奉行に提出されています。この巡礼は、弟子や院主は、先達として参加していたことも考えられます。そうすると、遍照院は行場としての痕跡を残し、そこでは真言系修験者が院主などを務めていたことがうかがえます。ここにも修験道ネットワークの中に返照院があったことが推測できます。


DSC04253
       遍照院の虚空蔵石から眺めた白峰山方面
 遍照院は高野山と関係が深いようです。
高野山から直接、光明曼茶羅が届けられ、その前で諸人に説法したり、高野山の持明院の使僧が訪れて一宿したりして、「人とモノ」の交流が行われています。また灯篭の建立に高野山無量光院が世話人になるなど、江戸時代中~後期には高野山との交流が盛んであったことが分かります。もちろん白峯寺との関係も深く、歴代の住職の多くは白峯寺住職の弟子です。そして年中行事には、相互に行き来が行われています。ある意味では、白峯寺に忠実な子院であったことがうかがえます。これも弥谷寺と高野山、そして近世以後にその本山となる善通寺の関係とよく似ています。

DSC04255
       磐座「求聞持石」に座する弘法大師
巨石信仰の聖地が、行者たちの行場となります。そして、稚児の瀧や奥の院の毘沙門窟の行場を結んで「行道」が行われるようになっていきます。ここに立つと五色台自体が霊山で、その山中の行場が「中辺路」ルートとして結ばれていたこと。そこに、さまざまな宗教者がやってきて「修行」を行ったことが感覚的に分かるような気がします。その拠点が白峰寺や根香寺で、そのサテライト行場がこの「磐座」だったのでしょう。そこに、後世になってやってきた弘法大師信仰を持つ高野聖たちが、磐座の上に弘法大師像を建てたという風に私には思えます。
以上、白峯寺の子院のひとつである遍照院の歴史を眺めてみました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P



五色台 | 香川県高松市の税理士 べねふぃっと税理士のブログ

「五色台」には白峰山(336.9m)、青峰(449.3m)、黄ノ蜂(174.9m)、紅峰(245m)、黒峰(375m)などが建ち並んでひとつの山塊となっています。根香寺は、その中の青峰(標高449.3m)の東斜面の標高350m地点に位置し、北東方向には瀬戸内海に浮かぶ女木島、男木島、豊島、小豆島などの島々を望むことができます。青峰の東に勝賀山(364.lm)、南側には五色台で一番高い大平山(478.9m)が連なります。青峰の北側には、黄ノ峰、紅峰、串ノ山に挟まれた生島湾があり、現在は県営野球場となっていますが、江戸時代は塩田が広がっていたようです。

根香寺古図右 地名入り
根香寺古図(江戸時代後半)  
今回は根香寺の伽藍変遷を、江戸時代の絵図で追いかけて見ようと思います。テキストは「片桐孝浩 根香寺の空間構成  根香寺調査報告書     教育委員会版23P」です。
 
  まず研究者は、地形図で根香寺境内の置かれた位置を確認します。
根香寺は青峰の東側斜面、標高350mに位置しています。
根香寺 周辺地形
根香寺周辺地形


地形図で根香寺周辺の丘陵(尾根)筋を見てみましょう。
青峰の北側からは北方向に延びる丘陵A
北西方向に延びる丘陵B
東方向に延びる丘陵C
青峰の南に位置する山塊からは、つぎの2つの丘陵が伸びています。
北方向に延びる丘陵D
東方向に延びる丘陵E
これを見ると根香寺は、青峰と青堪北側から延びる丘陵B、丘陵Cと、青峰の南に位置する山塊から延びる丘陵Dに挟まれていることが分かります。ちょうど仁王門は、丘陵Dの先端付近に建っているようです。
 今度は谷筋を見ておきましょう。
青峰北側から延びる丘陵Bと丘陵Cとに挟まれた谷筋A、また青峰と丘陵Dに谷筋Bがあります。谷筋Aの奥側には、谷頭池の役割を果たす根香池があります。また谷筋Bは、東から仁王門と境内の間を縫って入り組むようになっています。仁王門の建つ平坦地の東側は、谷筋Bが急峻で深く、 しかも広くなっています。 谷筋Bの最奥部にも、谷頭池があり以前は水田もあったようです。仁王門の建つ平坦部と本堂、大師堂などの諸堂が建つ部分との間の一段低くなった部分が谷筋Bになります。つまり、根香寺の境内は谷部Bを挟んで、仁王門の建つ平坦地と諸堂が建ちならぶ平坦地で形成されていることになるようです。
現香寺周辺の地形について記述したものに、根香寺所蔵の『青峰山根香寺略縁起』があります。
この縁起は根香寺の住職俊海が記したものなので、18世紀前半のものと考えられます。「青峰山根香寺略縁起』には、その地形について次のように記します。
「其往古は南ハ後夜谷、中ハ蓮花谷、北ハ毘沙門谷とて山上三流にわかれて」、
「楼門ハ後夜谷の東南に聳へ、護世堂ハ北嶺に?たり、笠井郷の平賀に大門と称し伝ふるハ当山の惣門の跡なるのミ、蓮華谷の尾続を天神馬場と云伝ふるハ」
意訳変換しておくと
「昔は南は後夜谷、真ん中は蓮花谷、北は北は毘沙門谷と、山上は三流(3つのエリア)に分かれていた」、
「楼門は後夜谷の東南にあり、護世堂は北嶺にあり、笠井郷の平賀に大門と呼ばれる根香寺の惣門跡があった。蓮華谷の尾根続きは天神馬場と呼ばれていた」
ここからは江戸時代の根香寺は「後夜谷」「蓮華谷」「毘沙門谷」、の3つのエリアに分かれ、「北嶺」「天神馬場」と呼ばれていた場所があったことが分かります。
根香寺古図左 地名入り
青峰山根香寺略縁起を絵図化した根香寺古図(左部)

これを研究者は次のような手順で確定していきます
①「天神馬場」は、昔からの言い伝えで、根香池の南東部の丘陵Cであること
②縁起に「蓮華谷の尾続を天神馬場と云伝ふるハ」と、天神馬場に続く谷が丘陵Cの南側にある「谷部B=蓮華谷」
③「南ハ後夜谷、中ハ蓮華谷、北ハ毘沙門谷」とあるので、北側にある谷部Aが「毘沙門谷」
④南側の谷部Bの急峻な部分が「後夜谷」、
⑤谷部Bの奥側で、仁王門と諸堂の立ち並ぶ平坦との間にある谷部が「蓮華谷」
根香寺古図 根来寺伽藍
根香寺古図の伽藍部拡大

諸堂の配置変遷を、江戸時代に描かれた絵図で見ていきます。
比較する絵図は次の通りです
A 寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689))
B『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))
C『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))
D『讃岐国名勝図会』(嘉永6年(1853)


A寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)に描かれた堂宇は次の通りです
根香寺 四国辺路日記 
四国遍礼霊場記の根香寺
①中央に「観音」と書かれた本堂
②本堂に向かって右に「智證(証)堂」
③智証堂の前に鐘楼
④本坊千眼院には、中央に本堂、その向かって右に建物、左に桁行の長い建物
⑤白峰寺からの遍路道から延びる参道はには、石段あり
⑥階段際やその周囲には柵

B『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))
根香寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼名所図会の根香寺
左下に白峯寺からの遍路道が伸びて来ます。しかし、境内入口に門はありません。その代わりに、門の礎石と考えられる「○」がいくつか書き込まれています。数えてみると「○」は12あります。どうやらこれが2間×3間の門跡だと研究者は推測します。門跡の左右には、藁葺の建物が2棟あります。門からの参道は、周囲の樹木の描かれ方から一旦下って、さらに階段を上っていくと諸堂がある平坦地に着きます。正面には、
瓦葺で屋根が宝形造のやや大ぶりの建物
左右に瓦葺で宝形造のやや小ぶりの建物
手前右に鐘楼
茅葺の建物、小さい社
左側に建物が2棟あります。
左側奥の建物はかなり大きく、「庫裡」のようです。
「根来(香)寺」図の説明文には、「大師堂 本堂の側にあり、智証大師堂」と書かれているので、「大師堂」と「智証大師堂」を意識してかき分けていることが分かります。どうやら本堂の左右の堂が智証大師堂と弘法大師堂であったようです。

『金昆羅参詣名所図会』(1847年)では
根香寺 四国遍礼名所図会
金毘羅参詣名所図会の根香寺

仁王門が復活しています。仁王門の手前左側に茅葺の建物があり、縁側で休む参拝者か、遍路が描かれています。これが茶屋のようです。「仁王門」を入ると一段低くなり、もう一度石段を上ると本堂や諸堂のある平坦地になります。石段途中の右側平坦地には建物がありますが、これが説明文にある「茶堂」のようです。石段を上る平坦地の奥側、山際に「本堂」を中心に向かって右手に「大師堂」、左手に「不動堂」が並びます。どれも宝形造で、「本堂」と「不動堂」がやや大ぶりの建物で、大師堂はやや小ぶりの建物です。ここでは智証大師堂が消えていることを押さえておきます。「大師堂」手前には「鐘楼」があり、「不動堂」左手前には「本坊」がひときわ大きく描かれ、繁栄ぶりがつたわってきます。本堂のある平坦地も含め、平坦地の縁部は石垣であったことも分かります。

次に『讃岐国名勝図会』では、
根香寺 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の根香寺

本尊千手観世音を安置する「本堂」「護摩堂」「祖師堂」「鎮守社」「茶堂」「地蔵堂」があると書かれているだけで、これら建物についての記述はありません。描かれた絵図を見ると、「白ミ子(白峰)道」から仁王門前の平坦地となり、仁王門に向かって左側と手前に建物があります。これは、金昆羅参詣名所図会にも描かれていたので、茶屋でしょう。「仁王門」を入ると一段低くなり、二段に分かれた石段を上ると本堂や諸堂のある平坦地に着きます。石段途中の右側平坦地にある建物に「茶堂」と書かれています。その平坦地の奥側、山際に「本堂」を中心に向かって右手に「大師堂」、左手に「五大ソン(五大堂)」がびます。不動堂が四天名王と併せて五大尊になったので名前が変わっています。全て宝形造で、「本堂」がやや大ぶりの建物で、「五大ソン」、「大師堂」はやや小ぶりの建物に描かれています。「大師堂」の手前には「鐘楼」があり、「五大ソン」左手前には「書院」などの建物があります。「鎮守社」は「井びに境内にあり」、「地蔵堂」は「坂中にあり」とあります。
以上が江戸時代に描かれた絵図に書かれた建物配置状況でした。

次に、現在の根香寺の伽藍配置を見ておきます。

根香寺 伽藍配置
現在の根香寺伽藍配置図
かく堂宇のたつ境内の4つの平坦地について押さえておきます。
①「仁王門」のある平坦地
②「仁王門」から一段低くなった平坦地
③2段に分かれた石段途中の平坦地
④石段を上った「大師堂」「五大堂」などの平坦地
これらの平坦地は現在と変わりありません。平坦地の縁辺には石垣が築かれているのも江戸時代と同じです。また、本堂の位置は変わっていますが、それ以外の「五大堂」「大師堂」などの建造物は、そのままの位置にあります。宝形造という建物構造も江戸時代のままのようです。
根香寺 緒堂変遷表
根香寺建築物変遷表
現在の建築物を見ておきましょう
まず「仁王門」前にあった茶屋はなくなって、今は駐車場になっています。根香寺住職からの聞き取りでは、「仁王門」前には、昭和25年頃まで茶屋があり、その西側に遍路宿が昭和33年頃まであったことが報告されています。
讃岐五景にも選ばれています【第八十二番札所 根香寺】牛鬼伝説の寺 | 88OHENRO + シコクタビ
根香寺王門仁王門
「仁王門」を入ると一段低くなり、二段に分かれた石段を上ると「大師堂」と「五大堂」のある平坦地となります。石段途中の平坦地にあった茶堂も今はありません。代わって西側に「水かけ地蔵」、東側に「牛頭観音像」、「役行者像」があります。
根香寺 紅葉が美しい四国八十八ヶ所第82番札所 初詣 高松市 - あははライフ
役行者像(根香寺) 修験者の行場であったことを伝える
 石段の上の平坦地に、「大師堂」と「五大堂」が横に並び、「大師堂」手前に「鐘楼」、三大堂」左には「庫裡」、「客殿」などの建物があります。また、「大師堂」の東側には「龍官地蔵尊」、「延命地蔵尊」があります。「大師堂」と「五大堂」の中央から更に石段を上ると、一段高くなった平坦地に回廊を持つ本堂と回廊途中に阿弥陀堂があります。
根香寺 紅葉が美しい四国八十八ヶ所第82番札所 初詣 高松市 - あははライフ
根香寺本堂
本堂について
名勝図会等では、本堂を中心にして向かって左手に五大堂(五大尊・不動堂)、右手に大師堂の三堂が並ぶレイアウトでした。それが昭和45年(1970)の30年毎の本尊千手観音の開帳の際に、旧本堂の上の敷地を造成し、木造の回廊を巡らせて、本堂をその中央上部に移築しました。さらに背面に収蔵庫を建設して、そこに本尊の千手観音を安置するようになったようです。解体修理の際には柱の根継ぎや床廻り、天丼廻り、軒廻り等の板材が取り替えられているようです。

根香寺 本堂平面図
根香寺本堂平面図

各部材は良質な檜材が多く、背面にも同様の暮股を組むなど、全体の様式にも手抜きがないと専門家は評価します。木鼻の繰り型や蛙股の形状も17世紀の作であるとします。しかし、向拝については、差し肘木や海老虹梁、手挟み、向拝頭貫、木鼻、暮股などは、宝暦4年(1754)の修覆後のもののようです。
大師堂については、弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』や嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』を見ると、三方に縁が組まれており、前面には向拝もありませでした。しかし、現在は大きく姿を変えているようです。これを研究者は次のように指摘します。
近代の修理で柱をはじめ相当量の取替が行われており、前面の増築改造を含め建物の改変もあり、旧来の形式が失われたものと思われる。建立年代については、肘木の形状や虹梁文様から、本堂向拝や山門と同時期と考えられる。また大師像休座には「寛政十戊午年」(1798)ほかの陰刻銘があるという。

「五大堂」や「大師堂」は、近世以降に位置の変化はありませんが、本堂は、背後の一段高くなった部分に移転していること。しかし、新たに本堂を建てたものではなく、解体修理して、位置を変えただけであることを押さえておきます。
根香寺 五大堂平面図
根香寺大師堂平面図
以上をまとめておきます
①「本堂」「大師堂」「五大堂」「鐘楼」「仁王門」は、「本堂」が昭和41年に解体修理して移動している以外は、動いていない。
②「本堂」「大師堂」などの宝形造のスタイルも変わっていない。
③「大師堂」は、当初は「智証堂」で智証大師像を安置するものであったのが、江戸時代後期(1800年以降)には、弘法大師像を安置する大師堂に変化した
 根香寺は青峰の東斜面に位置し、谷部B(蓮華谷)を挟んで立地し、そこに建てられている堂宇は江戸時代前半からほとんど変化なく現在に受け継がれているようです

〔参考文献】
   「片桐孝浩 根香寺の空間構成  根香寺調査報告書     教育委員会版23P」
関連記事