天長元年(824)に空海が平安京の神泉苑で祈雨祈祷を行い、それによって少僧都に任じられたことが史料に最初に登場するのは、寛平七年(895)の『贈大僧正空海和上伝記』です。それでは、それ以前の「仏教的祈雨」とは、どんなものがあったのでしょうか。研究者は次の4つを挙げます。
①諸大寺での読経②大極殿での読経③東大寺での読経④神泉苑での密教的な修法
この中で先行していたのは、①諸大寺での読経と②大極殿での読経のふたつでした。ふたつの中でも②の大極殿での祈雨の方が有力だったようで、頻繁に行われています。例えば『続日本後紀』を年代順に挙げておくと、承和十二年(845)5月1日、5月3日には2日間延長し、5月5日にはさらに2日間延長して祈雨読経が行われていますいます。この頃は、大極殿で行う事が定着し、他の祈雨修法は見られません。それが約30年ほど続きます。
大極殿での祈雨に参加するのは天台・真言のほか七大寺を含めた諸宗派の僧でした。
この時期は祈雨について宗派間の抗争が生じることはなく、平穏な状態で行われていました。それが破られるのは、貞観十七年(875)のことです。『三代実録』には同年6月15日の条に、次のようにあります。
(前略)屈六十僧於大極殿 限三箇日 転読大般若経 十五僧於神泉苑 修大雲輪請雨経法 並祈雨也。 (後略)
意訳変換しておくと
(前略)六十人の僧侶が大極殿で三日間、大般若経の転読を行った。一方、十五人の僧侶が神泉苑 で大雲輪請雨経法を修法して祈雨した。(後略)
ここで初めて大極殿以外の神泉苑で大雲輪請雨経法が15人の僧侶によって修法されています。祈雨に請雨経法が出てくるのは、正史ではこの記事が初見のようです。ここからは、一五人の僧侶は新しい祈雨の修法を持って登場し、その独自性を主張したことが考えられます。これを鎌倉中期成立の『覚禅抄』では、空海の弟である真雅が行ったことにしています。しかし、それよりも速い永久五年(1117)頃の『祈雨日記』には、次のように記します。
貞観年中種々祈雨事。但以神事無其験云々。僧正真雅大極殿竜尾壇上自不絶香煙祈請。小雨降。
意訳変換しておくと
貞観年中には、さまざまな祈雨が行われた。但、神事を行ってもその効果はなかったと云う。(空海の弟である)僧正真雅は大極殿の竜尾壇上で香煙を絶やさず修法を行った。その結果、小雨があった。
ここには真雅は大極殿での祈雨に参加していて、神泉苑での祈雨のことは何も触れられません。神泉苑での修法は、この時が初めてで、祈雨の中心はあくまでも大極殿での読経であったようです。そうだとすると当時の東密の第一人者であった真雅は、大極殿への出席を立場上からも優先させるはずです。それがいつの間にか、神泉苑での東密による祈雨の方が次第に盛になります。そのために、この時の修法が真雅の手によるものであったと伝承が変わってきたと研究者は考えています。
貞観17(875)年の15人の僧による神泉苑での修法が、宗派間に波紋を投げかけたようです。
これを契機に、さまざまな祈雨法が各宗派から提案されるようになります。『三代実録』同年6月16日の条には、次のような記事があります。
申時黒雲四合。俄而微雨。雷数声。小選開響。入夜小雨。即晴。先是有山僧名聖慧。自言。有致雨之法 或人言於右大臣即給二所漬用度紙一千五百張。米五斗。名香等聖慧受取将去。命大臣家人津守宗麻呂監視聖慧之所修。是日宗麻呂還言曰。聖慧於西山最頂排批紙米供天祭地。投体於地 態慰祈請。如此三日。油雲触石。山中遍雨。
意訳変換しておくと
祈雨修法が行われると黒雲が四方から湧きだし、俄雨が少し降り、雷鳴が何度かとどろいた。次第に雷鳴は小さくなり、夜になって小雨があったが、すぐに晴れた。ここに聖慧という山僧が云うには、雨を降らせる修法があると云う。そこで右大臣は、すぐさま祈祷用の用度紙一千五百張。米五斗、名香などを聖慧に与えた、家人の津守宗麻呂に命じて、聖慧の所業を監視するように命じた。 宗麻呂が還って報告するには、聖慧は西山の頂上に紙米を天地に供え、五体投地して懇ろに祈願した。その結果、この三日間。雨雲がわき上がり、山中は雨模様であった。
ここからは6月15日の15人の僧侶が神泉苑で祈雨修法に、それに対抗する形で山僧の聖慧が祈雨修法を行っていたことが記されています。
これに続いて、6月23日の条には次のように記されています。
古老の言うには、神泉苑には神竜がいて、昔旱勉の時には水をぬいて池を乾かし、鐘太鼓を叩くと雨が降ったという。その言葉に従って、神泉苑の水をぬいて竜舟を浮かべ、鐘・太鼓を叩いて歌舞を行った。
このように、古老の言い伝えによる土俗的方法までも、朝廷は採用しています。効き目のありそうなものは、なんでも採用するという感じです。そこまで旱魃の被害が逼迫していたとも言えそうです。
以上のように、この年はこれまでになく新たな祈雨修法が行われた年でした。それは、長い厳しい旱魃であったこともありますが、その動きを開いたのは、一五僧による神泉苑での祈雨がきっかけを作ったものと研究者は指摘します。
2年後の元慶元年(877)も、旱魃の厳しい年でした。
そのためこの年も種々の修法が提案され、様々な方法が取り上げられています。それを『三代実録』で見ておきましょう。
そのためこの年も種々の修法が提案され、様々な方法が取り上げられています。それを『三代実録』で見ておきましょう。
まず初めは、6月14日のことです。
(前略)是日。左弁官権使部桑名吉備麿言。降雨之術。請被給香油紙米等試行之。三日之内。必令有験。於是給二香一斤。油一斗。紙三百張。五色細各五尺。絹一疋。土器等
意訳変換しておくと
(前略)この日、左弁官権使部の桑名吉備麿が自ら、私は降雨之術を会得しているので、香油紙米らを授けて試行させたまえ、されば三日の内に、必ずや験がありと云う。そこで、香一斤・油一斗・紙三百張・五色細各五尺・絹一疋・土器を授けた。
桑名吉備麿は、自分が降雨の術を持つことを売り込んでいるようで、それに必要な物を要求しています。
さらに6月26日には、次のように記します。
屈伝燈大法師位教日於神泉苑 率廿一僧。修金麹鳥王教法。祈雨也。
意訳変換しておくと
伝燈大法師が神泉苑で、21人の僧侶を率いて。金翅鳥王教法を修法し、祈雨を祈願した。
「金翅鳥王教法」という祈雨修法は、初見です。神泉苑で、それまでにない修法が行われています。しかし、雨が降ったとはありません。これが駄目なら新しい祈雨の登場です。翌日の6月27日には、次のように記します。
遣権律師法橋上人位延寿。正五位上行式部大輔兼美濃権守橘朝臣広相於東大寺大仏前 限以三日‐修法祈雨。遂不得嘉満
意訳変換しておくと
権律師法橋上人位の延寿をして、正五位上行式部大輔兼美濃権守橘朝臣広相が東大寺大仏前で 三日間に限って 祈雨修法を行うが、効果はなかった。
この後には、7月7日から5日間、紫宸殿で百人の僧による大般若経の転読が行われますが、これも、効果はありません。そこで7月13日から、また異なった方法で祈雨が次のように行われます。
先是。内供奉十禅師伝燈大法師位徳寵言。弟子僧乗縁。有呪験致雨之術 請試令修之。但徴乗縁於武徳殿 限以五日 誦呪祈請。是日。未時暴雨。乍陰乍響。雨沢不洽。
意訳変換しておくと
内供奉十禅師の伝燈大法師位・徳寵が云うには、弟子僧の乗縁は祈雨の術に優れた術を持っていることを紹介して、試しにやらせてくれれと申し入れてきた。そこで、武徳殿で五日に限って修法を行わせたところ 暴雨になり雨は潤沢に得た。
ここでも、新たな祈雨法が武徳殿で行われています。これまでは、祈雨と言えば大極殿で大般若経を転読するものと決まっていました。それが一五僧の請雨経法が神泉苑で行われた後は、自薦他薦による新しい修法の売込み合戦とも言うべき様相となっていたことが分かります。これは当然の結果として、祈雨修法をめぐって宗派間の対立・抗争を生み出します。その際に研究者が注目するのは、この時点では神泉苑での祈雨修法が、真言東密だけの独占とはなっていなかったことです。そのために様々な祈雨修法が採用され、実施されたのです。
『三代実録』元慶四年五月二十日の条には、次のように記します。
(前略)有勅議定。始自廿二日、三ケ日間。於賀茂松尾等社 将修二濯頂経法 為祈雨也。(後略)
意訳変換しておくと
(前略)勅議で22日から三ケ日間、賀茂松尾等社で「濯頂経法」が修法され、祈雨が行われた。(後略)
ここにも「濯頂経法」というこれまでにあまり聞かない祈雨修法が行われています。この後、大雨となりすぎて、逆に神泉苑で濯頂経法を止雨のために修法しています。これらを見ると、この時も祈雨修法のやり方が固定化していなかったことがうかがえます。
貞観17年から元慶4年にかけての混沌とした様相の後、約十年にわたって仏教的祈雨の記事が出てこなくなります。この間は比較的天候が順調だったのでしょう。次に仏教的祈雨が見られるのは、寛平3年(891)になります。『日本紀略』同年六月十八日の条に、次のように記します。
極大極殿 延屈名僧 令転読大般若経 又於神泉苑 以二律師益信 修請雨経 同日。奉幣三社
意訳変換しておくと
大極殿で延屈名僧によって大般若経が転読されるとともに、神泉苑で東寺の律師益信によって請雨経法が修せられ、三社に奉納された。
ここでは、それまでのようないろいろな修法を試すという状況は、見られません。そして、この後は、神泉苑での祈雨は、東密によって独占されていきます。891年に、益信が祈雨を行った時には、すでに神泉苑での祈雨が東密の行うものであるという了解のようなものが、ほぼできあがっていたと研究者は考えています。
これと関連する史料である寛平7(883)年成立の『贈大僧正空海和上伝記』には、次のように記します。
天長年中有早災 皇帝勅和上 於神泉苑令祈膏雨 自然傍詑。乃賀其功 任少僧都
意訳変換しておくと
天長年間に旱魅があり、天皇の命により空海が神泉苑で祈雨を行って雨を降らし、その功によって少僧都に任じられた
ここからは、この記事が書かれた寛平7年には、もうすでに空海請雨伝承が成立していたことが分かります。寛平7年は、益信の祈雨より4年後のことになります。伝承成立が、益信の祈雨以前であったと研究者は考えています。真言側は、この空海請雨伝承でもって、自らの神泉苑での祈雨の正当性を朝廷に訴えていったのでしょう。
しかし、ここではこの時点での伝承の内容は、空海が神泉苑で祈雨を行いそれによって少僧都に任じられたということだけで、それ以上のものではなかったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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