瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > 讃岐の昔話

                 
前回は、堀川碧星の「美合村」に収録された「甲瀬(高清)左衛門の話」に出てくる犬塚の地名由来について見ました。

中寺・犬塚・三つ頭の由来

この荒唐無稽な話は、「山伏による創作話」と思っていたのですが、そうとも云えないようです。
実は、高清左衛門の大蛇退治と同じような話が、もうひとつ伝わっています。
それが「畑恒信の大蛇退治」を記した犬塚の碑文です。これを見ておきましょう。(要約)

内田の犬塚
右が犬塚(1786年建立)、左が畑恒信の碑(1918年建立)
犬之塚在松字岡哉属鵜足郡内田村博者曰 永禄中畑氏之先有恒信避土乱入讃州畜犬従焉道過杵尾谷飢而億有大蛇襲後畜犬狂走吼其主弗已叱之益甚恒信怒挺剣斬其首首飛蛇喉蛇即逃去恒信大驚射蛇不及遂跡血抵蛇所殯諸猪之野後世因名其虎曰蛇壇其射蛇不及曰無念谷方言謂憤曰無念於是恒信深痛畜犬之非命埋其屍為建其塚云恒信有裔孫曰畑八造義直居香川太田焉謂余曰昔者吾遠祖時義仕新田将軍建勲延元之間時有若犬獅子出入敵城伺其虚実至恒信亦有若畜犬遂免大蛇之難畑氏世有異犬蕨功可勝道哉今将碑之子請銘之銘曰く
繋犬邪人邪 人而不淑 謂之何哉
繁人邪犬邪 犬而如斯 余莫以為犬也
天明六(1786)年歳次丙午春三月
菊池武周夫謹撰
杉野次定  書
意訳変換しておくと
犬の塚は、松字岡にあり、鵜足郡内田村に属する。ここには、次のような話が伝わっている。永禄(1558~70)中、畑氏の祖先に恒信という者がいたが、阿波の兵乱を避けて犬を連れて讃州にやってきた。杵尾谷を過ぎ、餓えと疲れで座り込んでいると、大蛇が後から近づいてきた。それに気がつかずにいると、犬が吼えた。制止すると、ますます吠えたてるので、恒信は怒って剣を抜いて犬の首を刎ねた。首は飛んで蛇の喉元に食らいついた。驚いた蛇は逃げた。恒信は大いに驚いて、蛇を射る間もなかった。そこで蛇が残した血を辿って行くと、猪の野(柞野?)に至った。
 後世になって、この地のことを「蛇壇」と呼ぶようになった。また蛇を射ることができなかったので、「無念谷」とも呼んだ。ここに恒信は、犬の非命を痛んで、その屍とを埋め、塚を建てたと云ふ。恒信には、香川の太田に子孫があって畑八造義直と云う。
 彼が私に次のように語った。「昔、我が遠祖の時義は、新田将軍に仕へて勲をたてた。延元(1336~1340)の間、大獅子の若のように敵城に出入して偵察活動を行っていた。恒信も獅子若のように犬を連れて、大蛇の難を免れた。畑氏には代々、異犬がおり功績を挙げてきた。今まさにこれを碑に刻むことにする。銘して曰く、
アアヽ・犬なるか人なるか、
人にして淑(ヨ)からざる、
之を何とか謂はん。
繋人なるか犬なるか、
犬にして斯(カク)の如し。
余以て犬と為すなきなりと。
天明六(1786)年歳次丙午春三月
菊池武周夫謹撰
杉野次定  書

ここからは次のような情報が読み取れます。
①大蛇退治をし、松字岡の塚に犬塚を建てたのは、阿波出身の畑恒信であったこと。
②つまり大蛇退治の主人公を畑恒信とすること
③天明六(1786)年恒信の子孫畑義直が、内田字天川の地に移し「犬の塚」を建てたこと
④物語は大蛇退治だけで終わっており、主人公が内田で撃ち殺されたこと=「村民による畑恒信虐殺事件」には触れていないこと
⑤碑文を書いた菊地武周夫(武矩)は高松藩の儒臣で、「祖谷紀行」などを残すなど名文家であったこと
つまり、この犬塚は畑池の祖先顕彰碑として1786年に建てられたものであることを押さえておきます。
まんのう町内田集落
内田の④畑恒信の碑と犬の塚
それから約130年後の大正7(1918)年に、畑恒信十三世の孫の畑吉次が「畑恒信碑」を建立しします。それを見ておきましょう。
畑恒信碑(造田字天川)
畑恒信阿波美馬人其先曰時能本出武蔵属南朝廃名顕世有畜犬甚書能偵敵状以是夜襲必勝事見史籍永禄中恒信避乱入讃岐亦有畜犬従焉至杵尾憩而睡篤大蛇所襲犬暴吠其主驚害怒叱益吠不己恒信斬其首首飛触蛇蛇骸走恒信始悟犬吠之為己也乃追射蛇於猪尾斃之時飢渇甚入民家求食衆以其状異謂篤狂也乃乱打之遂致死既而知其賓歎曰彼能殺蛇除此方害豊可不徳之哉彼畜犬又能護主亦云忠臭乃両葬之墓在内田内田人年修法会迄今三百六十年也明治初又祠恒信予天河祠芳其裔徒香川大田自第三世至第十一世世称畑八造第七世八造詳直義者千天明六年為犬建碑菊池高洲銘之第十三世曰吉次今戸主也為戸主則年往掃内田墓蓋家例云吉次以為犬雖有碑而先徳未顕乃来余乞銘余謂恒信事蹟半在犬碑半在日碑其裔又能念蕨祖良可嘉癸乃
為叙其事而銘之銘日
縄其祖武 克紹遺徳 据大入讃
使剣去國 時乎命乎 免大蛇口
命乎時乎 死野人手 野人悔過
弔之慰之 一時相尼 千載追思
大正七年一月 二等學正 赤松景福撰井書
意訳変換しておくと
畑恒信は、阿波美馬の人であり、その祖先を時能と云う。もともとは武蔵出身であったが、阿波にやって来て南朝に属して、その名が知られるようになる。その飼犬は非常に賢く、敵情偵察などにすぐれた情報を提供し、それに基づいて夜襲すると必勝であったことが史書に見える。
 永禄(1558~1570)中、恒信は乱を避けて讃岐に入った。犬もこれに従った。柞尾(柞野)に入って、座り込んで寝ていたところ、大蛇が近づいてきた。犬が吠えて危険を知らせようとするが、危険に気がつかずに犬を制止しようとする。それでも犬は吠え立てるので、怒りにまかせて恒信其は犬の首を刎ねた。首は飛んで蛇に触れた。大蛇は驚いて逃げた。恒信は、犬が危険を知らせるために吠えていたことを知った。大蛇を追って、猪尾(柞野)で射て倒した。その安堵感で空腹を覚えた畑恒信は、民家に入りて食事を求めた。これを見た村人たちは、その異様な姿を見て怪しみ、これを乱打して撃ち殺した。しかし、事実を知って次のように嘆いた。
 畑恒信は蛇を殺して、その害を除いてくれた。まさに我々にとっては徳ある恩人である。彼の犬も、主を護った忠犬である。こうして、村人たちは主人とその犬を葬った。その墓は内田にある。内田の人達は、今に至るまで360年間、毎年法会をして供養している。そして明治の初めに、改めて恒信を天河(川)祠のそばに祀った。
 畑氏の子孫は、香川の大田に移った。第三世より第十一世に至るまで、代々にわたって畑八造と称した。第七世の八造(諱:直義)が、天明6(1786)年に、犬の為に碑を建て、菊池高洲之が文章を書いた。第十三世は吉次で、今の戸主である。戸主とは毎年、内田にやってきてその墓を清掃する。これが家訓だという。吉次は、犬の碑はあるが、私たち先祖の徳はいまだに顕彰されていない。そこで、顕彰碑の建立を思い立ち、私に銘を書くことを依頼した。私が思うに、恒信の事蹟は、半ばは犬の碑に書かれていて、その半ばは人々の伝承として伝えられている。彼の子孫は、祖先のことをよく供養し念じている。これはまことに喜ばしいことである。このことを述べて顕彰碑の銘文としたい。
銘に曰く、
其の祖の武を誉め
よく遺徳を継ぐ
犬を携べて讃(讃岐)に入り
剣によって国を去る。
時なるか命なるか
大蛇の口を免∧マヌカ∨れ
命なるか時なるか
野人の手に死す
野人過を悔い
之を弔ひ之を慰む。
一時の相尼するも
千載追思せん
翡犬之塚碑(造田字天川)
 大蛇退治のストーリーは、ほぼ同じなのですが、主人公がちがいます。こちらの主人公は畑氏の先祖だとします。そして、犬の顕彰碑はあるのに先祖の顕彰碑がないので、1918年になって改めて顕彰碑を建立したと、その建立動機が記されています。また、犬塚にはなかった「村民による畑恒信虐殺事件」が記されています。こうして、天川集落の人々は現在も畑恒信の碑や犬の塚に毎月一日に参って花や線香を供えています。また12月1日には、神官をまねきお祭りが行われていたとします。これで大蛇退治の主人公と、そのふたつの碑文については「捜査終了」のように思えました。
 しかし、問題はここからです。

 前回見たように「堀川碧星 美合村」に載せられている大蛇退治の話の主人公は「甲瀬(高清)左衛門」と書かれていました。
畑氏ではないのです。つまり、同じようなストーリーですが、主人公が異なる話が2つあるということになります。そこで研究者は、高清村(半田町)の左衛門の子孫であるという篠原家を訪ねます。そして、そこに保存されたいた古文書に出会います。それが宝暦12(1762)年に、阿波藩からの御尋ねにより、藩に提出した「高清左衛門家筋先祖書」(控え)です。これは、高清左衛門から六代後の九左衛門の書いたものになります。その大要を見ておきましょう。
  御尋二附乍恐申上覚(大意)               琴南町誌 1070P
一、私の先祖は麻植郡川島の上桜城主篠原弾正道休と申す者で、もともと細川家に仕えていましたが、後に三好長慶様に随うようになりました。畿内においてたびたび軍功をたてたので、摂州豊島部を下され、嫡子右京進をその地に居らせて、道久は上桜に居り、のちに入道して篠原紫雲と名乗るようになりました。私家の家祖高清左衛門は、この紫雲の次男で、篠原左衛門と言い、上桜に父と同居していました。しかし、上桜城が長宗我部元親の侵攻で落城すると、諸国を流浪し、のち川島に帰り居住するようになります。そのような中、天正13(1585)年に脇町城主宗心様に召し出され、西山猟師頭に取立てられ、狩のお供や狩場のご用を勤めるようになりました。
一、宗心様が半田山へ御狩をなされた折、お供をして、鹿・猪等多数射止めてご覧に入れました。その褒美として刀を下された上に、半田山の内高清一帯を勝手に開き取ってよいという御墨付を下され、以後名を高清左衛門と改めるようおおせつけられました。

ここまでを要約しておくと
①大川山で大蛇を退治した高清左衛門の先祖は、麻植郡川島の上桜城主篠原弾正道休だった。
②篠原道久の次男が、家祖高清(篠原)左衛門で、長宗我部元親の侵攻後に諸国を流浪した。
③後に川島に帰り、脇町城主宗心様に召し出され、西山猟師頭に取立てられた。
④半田山での御狩の褒美として、半田山の高清一帯を勝手に開き取ってよいという御墨付をもらった。

次の一項は、キーポイントなので原文のまま掲げます。
一、高清左衛門儀 讃州宇多郡山中江殺生罷越天間川(天川)与申所一宿仕居申所 同村内田之郷侍大勢フ相擁シ不時こ口論仕掛候こ附 無拠合人之者共数十人切殺シ候 而則其所二而自殺仕候 其後相祟り 其上讃州之御殿様江 夢中二高清左衛門自殺之次第奉告候二附 御上ョリ一社御建立被為仰八幡之神号フ御贈り被レ為レ遣成居申候御事。天間川氏神二被レ為二仰附一今以御普譜罷
意訳変換しておくと
一、高清左衛門が讃岐国宇多郡の山中に入っていたところ、天間川(あまがわ:天川)で一宿していたところ、内田郷の侍大勢と口論になり、よんどころなく数十人を切殺して、その場で自殺し相果てました。その後、高清左衛門の祟りが内田郷へ下るようになりました。その上に讃州の殿様(生駒正親?)の夢中に高清左衛門の自殺の次第が出てきました。そこでお上から一社を御建立し、八幡の神号をいただき天川の氏神とするべしと仰せ附つかり、御普譜が行われました。

一、高清の居住地にも左衛門の霊を祀り高清明神と称するようになりました。なお讃州天川神社へは年に一度は参詣するよう神誼が私共先祖にあり、今もって毎年お参りしています。

一、高清左衛門は、手飼の犬を連れて阿讃山脈に入っていました。天川で左衛門が死んだとき、その犬が左衛門の足の親指をかみ切り、これを半田山へ持ち帰り、家族共の前にこれを置き涙を流したので、家人は左衛門の身に変事のあったことを知りました。そこで、犬に案内させ讃岐へ参ったところ、既に御役人の検分も終わり、事は一通り済んでいたのでそのまま帰ってきました。この時の犬は天川で自分から食を断って死にました。この犬の情をあわれみ犬の墓が、天川の地に建てられ今も残っています。また犬が持ち帰った左衛間の指は、鈴に入れな居宅の向かいの所に埋め「すずみどの」と呼び習わしています。供養に使ったものと思われる経石のようなものが多数もり掛けていること。(以下中略)
半田山高清名五人組 九左衛門
宝暦十弐(1762)年二月七日
大谷次二郎様
(裏書)
高清左衛門より六代目 九左衛門代書之
高清左衛門家筋先祖書
宝暦十二十年二月七日御尋仕候押書
以上が高清左衛門の伝説にかかわる文書として半田町の篠原家に残されていました。この文書は阿野藩の問い合わせに対して答えた準公文書にあたるものです。その意味では信頼性が高いと考えられます。こうしてみると高清左衛門は天正年間から慶長年間(1573~1615)に実在した人物と推察できます。そして彼が内田で、喧嘩に巻き込まれ自決した事件があったことがうかがえます。それを裏付けるように、上内田字天川の檜が丘には、高清左衛門とその奥さんの墓といわれる五輪塔が二基祀られています。その横に七人侍の墓という自然石の墓もあります。
 こうしてみると「高清左衛門の大蛇退治 犬塚伝説」は、まったくのフィクションではなかった可能性が出てきます。事実である「高清左衛門の喧嘩・自決」に、大蛇退治が「接ぎ木」された話として捉えることができます。そして、この伝説が語られるようになったのは、17世紀になってからのことだったのでしょう。物語が生まれるまでの経緯を年表化してみます。
①阿波高清村(半田村)の高清左衛門は天正年間から慶長年間(1573~1615)の実在の人物であること。
②生駒藩時代に、讃岐領内に入って狩猟中に、地元の人間と騒動を起こし自害したこと。
③高清左衛門の怨霊は、祟り神となって禍をもたらしたので、神として祀られることになった。
④この史実に、山伏たちが尾ひれを付けて「大蛇退治」伝説を創作し、これが広まったこと
⑤1762年になって阿波藩は、その確認のために高清家に経緯の報告書提出を命じたこと。
⑥1786年に犬塚が畑氏によって建立され、主人公が「高清左衛門」から「畑恒信」に書き換えられたこと
⑦1918年に、畑恒信十三世の孫の畑吉次が「畑恒信碑」を建立し、畑氏の顕彰碑としたこと

こうして、大蛇退治伝説は「高清左衛門」から「畑恒信」に株取りされて、後世に語り継がれていくことになったと私は考えています。

なおこの「犬塚」というのは、形を少しづつ変えながら周辺の土地で語り継がれてきたようです。そのため各地に「犬塚」が残っています。例えば「高清左衛門」の半田町では次のように語られています。
   
高清左衛門と犬の墓(郷土研究発表会紀要第38号 半田町の伝説)
戦国の世、上桜城主篠原紫雲の一族に高清左衛門という部将がいた。臂力共に人に優れ、武芸特に砲術をよくした。上桜城落城により、一族は散りぢりに落ちのびた。高清左衛門は愛犬を連れて、半田山の高清谷へ身を潜ませ難をのがれた。その後時勢を待って、狩りをして暮らしていた。ある日、3匹の愛犬を連れて重清から真鈴を越え、阿讃国境に近い雨川(天川)の辺りで深山に入り野宿をした。その夜、1匹の犬がしきりに吠えたて安眠できない、制してもきかない、狂犬になったのかと1刀のもとに首を落とした。ところがその首は大蛇の鎌首に食いついた。左衛門は大蛇めがけて鉄砲を撃ち込むが大蛇は逃げていった。翌日山を下って、雨川に愛犬を埋め石を立て供養した。これが犬の墓として残っている。その晩、左衛門は庄屋で泊めて貰おうと立ち寄ると、お婆さんが1人いろりにあたっている。それはお婆さんを呑んで化けている大蛇だったので射殺した。これを見た村人は、庄屋の隠居を殺したと向かってきた。いくら化けた大蛇であることをいっても信じてくれず、多勢に無勢、左衛門は殺されてしまった。
 主をなくした愛犬は、左衛門の親指をかみ切って帰ってきた。これを見た妻は、主人の異変を直感し犬について雨川へ来た。村人は左衛門が大蛇を退治してくれたことを知ったが遅かった。妻に深く詫び、犬の墓も丁寧に祀った。妻は高清に帰ると、夫の親指を鈴の実として封じ、向かいの丘に祠を建て祀った。それが現存する鈴実さんの祠である。なお、高清左衛門の犬の墓というのが一宇村にもあり、香川県にも同じような伝説があるそうである。   (白川隆市さん・黒川浅市さん談)」((https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/38/3821.html

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
堀川碧星 甲瀬(高清)左衛門の話 美合村収録
大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P


 以前にお話しした西村市太夫が髙松藩に報告した殿様の「鷹狩りルート」の絵図中に、「中寺」と「犬頭」という地名がありました。

西村家文書 柞野絵図2
まんのう町造田の柞野周辺の絵地図(中寺・犬塚・三つ頭が見える)

中寺は中寺廃寺跡のことで、19世紀前半の地元の庄屋がここに寺院があったことを知っていた史料として意味があることをお話ししました。もうひとつの「犬頭(塚)」については、その由来を物語る伝説が琴南町誌の中にあります。今回は「大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P」を見ていくことにします。髙松藩は殿様の鷹狩りの際に、造田村庄屋・西村市太夫へ「ルート上の名所旧跡を報告せよ」と命じています。それに対しての報告書が以下の文書です。(意訳変換)
一 鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、その子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋には別紙のような墓も建てられました。格別子細も伝承していないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
「末寺の岡 犬の墓」が地図上の「犬頭」のようです。そうだとすると、位置的には中寺の手前のピークあたりになります。
犬塚については、堀川碧星の「美合村」に収録された「甲瀬(高清)左衛門の話」(琴南町誌1068P)を、少し長いですが全文を見ていくことにします。

甲瀬は甲瀬村にて此甲瀬の左衛門なるに付世人甲瀬左衛門と言ふ。初め大川山の怪物が居るとの事を聞き打ち取らんとて尋ね来りしが居らざりしかば造田村の柞木野(柞野)に来り松字ケ岡と言へる山の上にて一つの大松の根本に腰打ちかけ疲労の為居眠りなし居りたり。然るに連れ来りし一匹の大が突然大声にて吠へて止まず。左衛門目覚めいくら静止なしたれども其効なく左衛門の心持よき眠りを醒し尚且静上をきかぎれば大いに怒り持ちたる刀を抜きて犬の首を切りたり。首飛びて後の大松に飛び行けり。左衛門ふり返り眺むれば一匹の三つ頭ある大蛇其大松の枝に跨り目は違々と輝き大なる口をあけ火の如き赤き舌を出し今にも左衛門に飛びかヽらんとする気配なり。左衛門驚きよく眺むれば件の犬の首大蛇の喉に食ひ付きゐるなり。左衛門直に鉄砲のねらひ定めよく撃ちたり。然れども大蛇は死さずして傷き何処へか逃げ行きたり。
 
  若しこの時犬吠へざれば左衛門の命はなかりしなり。左衛門初めてその犬の吠へて止まざりし所以を知り深く憐み厚くその地に葬りたり。即ち犬は主人の危難を救ひて身代りとなりて死したるなり。これ三つ頭にある犬の塚俗称犬の墓にして大蛇の頭三つありたるに付この地を三つ頭と言ふ。又その近くに蛇のくぼ(窪)と言へる所あり。こゝに大蛇が棲み居しなり。これ中寺と言へる山の下にしてこの山最もこの辺にては高く山上に一つの寺ありたればこの山を中寺と言ひ又下の谷にかねのくばと言へる所あり、この寺の鐘を埋めたりければこの地をかねのくば(鐘の窪)と今も言ふなり。その大蛇は俗称猫また山猫の年古りて人を食ひ人をばかすものがばけたるものなりしなり。

意訳変換しておくと
阿波の甲瀬村に甲瀬左衛門という狩人がいた。大川山に怪物が現れると聞いて、探索したが見つけられず、造田村の柞野の松字ケ岡というる山の上の大松の根本に腰を下ろして、疲れ果てて眠り込んでしまった。ところが連れて来た2匹の犬が突然、吠へたてた。左衛門は目覚めて、静止させるが云うことを聞かない。左衛門は眠り覚まされた上に、云うことを聞かないことに激怒して、刀を抜きて犬の首を切った。首は後の大松に飛んだ。左衛門が、ふり返ると三つ頭がある大蛇がその大松の枝に跨り、目を輝かせ、大きな口をあけ、火のような赤き舌を出しで。今にも左衛門に飛びかかろうとしていた。左衛門は驚きながらよく見ると、切り落とした犬の首が大蛇の喉にくらいついている。そこで左衛門はすぐに、鉄砲のねらいを定め撃った。しかし、大蛇は傷つきながら果てず何処へか逃げ去った。

もし、犬が吠へなければ左衛門の命はなかったはずだ。左衛門は、犬の吠へ止まなかったことの理由を知って、深く憐んで厚くその地に葬った。犬は主人の危機を救って身代りとなりて死んだことになる。これが三つ頭にある犬の塚(俗称犬の墓)で、現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。その近くには「蛇のくぼ(窪)」と云うところもある。ここが大蛇が棲みついていたところである。これは中寺と呼ぶ山の下にあたる。中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。また、下の谷に「かねのくぼ」という所がある。ここは、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる。その大蛇は「猫また」と呼ばれ、山猫が年老いて怨霊となり、人を食ひ、人をばかすようになったものが化身したものだったという。

ここには地名の由来について、次のように記されています。
①現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。
②三つ頭には犬の塚(俗称犬の墓)がある
③犬塚の近くには大蛇が住み着いていた「蛇のくぼ(窪)」がある
④「蛇の窪」は、中寺と呼ぶ山の下にあたる。
⑤中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。
⑥下の谷の「かねのくぼ」は、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる
続いて見ていきますが、以下は意訳のみを挙げたおきます。

 左衛門は、討ち逃した大蛇の傷口から点々と落ちた血の跡を道々追いかけて造田村柞野の大家までやってきた。すると、大蛇はその家の老婆を食ひ老婆に化けていた。左衛門はこの老婆こそが魔物の化け物と見抜いて、一気に打ちとろうとした。しかし、当家の者たちは、我が家の老婆に何をする。老婆は魔物ではないと左衛門を留めた。そこで左衛門は、この老婆は夜中に便所へ行ったかどうかと訊ねた。すると家人は行ったと答えた。その時に魔物に食われ、魔物が老婆となりて化けているにちがいないと云って、直ちに老婆を打ち殺した。家人は大いに驚き怒り、集まってきた附近の者と、手に手に棒刃物等を持って左衛門をたたき殺そうとした。左衛門は、これ魔物の化けたるものだ。今は夜なれば二十四時間待てば、必ずその正体あらはすと説明したが、聞き入れられずに大勢にたたき殺されそうになった。左衛門は一目散に逃げて上内田まで逃れた。しかし。経緯を聞いた近隣の者達が大勢集まり、左衛門を大川(土器川)で石こづめにして殺した。

 石こづめとは、川へ追ひ込み四方より石を投げつけて埋め殺すことである。昔は鹿などをこのやり方で捕えたいたと云う。左衛門は死に際に、「我を殺せば必ず将来この上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し、怨み死んだ。「門倉たてさゝぬ」とは、資産家を輩出させないことで、俗に言ふ「はんじょうさヽぬ」である。そのため、左衛門の霊が祟っているためか上内田の地には今も資産家が現れない。今までにも財産家が現れ門倉が建ち始めると、その家に災難が起り、「門倉のたちたる家なし」と云う。

ここまでを要約しておくと
①大蛇は、三つ頭から里の造田村柞野に逃げ、老婆を喰らい老婆に化けた
②左衛門はそれを見抜いて老婆を撃ち殺した。
③しかし、家族や住民の怒りを受けて、上内田まで逃げてきた。
④上内田の住民たちは、 左衛門を土器川で「石こずめ」にして殺した。
⑤左衛門は、祟りとなって「上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し怨み死んだ。
続いて、もう一匹の犬のその後を追います。
 二匹いた犬の内で、一匹は松字岡にて大蛇の首に食らいついて死んだ。残りの一匹の犬は、主人の死を阿波国甲瀬村の留守宅へ知らせようとした。左衛門の足の指は一本曲っていたが、これを印にするために噛み切って口に咥えて一目散に走りだした。造田村上内田から美合村中通の下木戸、西桜、本村、本名、野口、皆野の地を過ぎ川東村淵野まで帰ろうとした。このルート上には皆野と淵野の界に土器川があり、ここには橋がなかった。加えて大雨の後で増水し、川幅が広くなっていてた。渡れそうな所を探して、犬は行きつ戻りつを繰り返した。ここが今は「犬の馬場」と呼ばれるようになった。そして、橋を犬の馬場橋と言ふ。犬はついに意を決し濁流の土器川に飛び込み水流に流されながらも、辛うじて向岸へたどり着いた。そして、堀田、尾井手、明神を経て勝浦村を越えて阿波国甲瀬村の留守宅へたどり着いた。
 留守を守りし左衛門の妻は、犬が咥えて持ち帰った曲がった指を見て、主人の身に起こったことを悟った。悲しみながらも主人の最期を確認しようと犬を連れて、造田村上内田の地へ向かった。土地の者に、事件の顛末を聞きいて、大いに悲しみ髪をそり尼となりて左衛門の石こづめにされたる土器川の支流天川に飛び込み主人の後を追った。そのためこの川を尼の川(尼川)と呼ぶようになった。されが転じて天の川(天川)となった。また、この時の犬の墓が、上内田の犬の塚(俗称上内田の犬の墓)である。つまり、犬の塚は三つ頭と上内田と二箇所にあることになる。


こうして見るとこの物語は、次のような地名の由来説きの役割を果たしていることに気がつきます。

中寺・犬塚・三つ頭の由来

この物語を聞くと、地元の地名の由縁がストンと心の中にしまい込まれていく気がします。これを語ったのはどんな人達だったのでしょうか?「地名説き説話」は、全国各地にある物語で、遍歴の聖や修験者がその土地に定着して語ったとされます。庚申講などでは、夜明けまで「日待ち」として、いろいろな話が語られました。その主役となったのは各地を遍歴して「民話収集」していた山伏たちです。荒唐無稽の驚く話も山伏が得意とする所です。そして、大川山周辺には、山伏たちが数多く定着していた痕跡があります。集められた旧琴南町の昔話に出てくる山伏たちの活動も、それを裏付けます。

以上をまとめておくと
①甲瀬(高清)左衛門の話として、大川山周辺に出没した大蛇退治の伝説が語られていた。
②この伝説には、「地名由来説話」としての側面があり、中寺や犬塚などの地名が大蛇退治とともに語られている。
③これを創作して語ったのは山伏たちと考えられる
④同時に、江戸時代後半になっても古代の山岳寺院中寺の記憶は、地元の人達に残っていたことが分かる。
実は、伝説と思われていたこの物語には実在の人物がいたことが、研究者の現地調査により分かります。次回は、史実としての「大蛇退治」を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献




善通寺と空海 : 瀬戸の島から

弘法大師伝説のなかに、「弘法清水」や「大師井戸」とよばれる涌泉伝説があります。
まんのう町真鈴峠に伝わる「大師井戸」については、以前紹介しました。この伝説について民俗学の研究者達は、どんな風に考えているのかを見ていくことにします。テキストは「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」です
この伝承は、民間伝承と太子伝に載せられているものの二つがあります。最初に太子伝に載せられた「大師井戸」を追いかけてみましょう。
1弘法大師行状記

  一番古いのは寛治一年(1089)の『弘法大師行状集記』〔河内国龍泉寺泉条第七十七〕で、次のように記されています。
この寺は蘇我大臣の大願で、寺を建設するのにふさわしい所が選ばれて伽藍が建立された。ところがこの寺に昔からある池には悪龍が住むと伝えられ、山内の池に寄りつく人畜は被害を受けた。そこで大臣は冠帯を着帯して爵を持ち、瞬きもせずに池底を七日七夜の間、凝視し続けた。すると龍王が人形として現れて次のように伝えた。大臣は、猛利の心を発して祈願・誓願した、私は仏法には勝てないので、他所に移ることにする。そうつげると元の姿に復り、とどろきを残して飛び去った。
 その後、池は枯渇し、山内には水源がなくなってしましった。伽藍は整備されたが、水源は十数里も遠く離れた所にしかなく、僧侶や住人は難儀を強いられた。そこで大師が加持祈誓を行うと、もともと棲んでいた龍が慈心になって池に帰ってきた。以後、泉は枯れることなく湧きだし続け絶えることがない。そこで寺名を改めて龍泉寺とした。

ここからは、次のような事が分かります。
①もとから龍が住むという霊地に、寺が建立されたこと
②そのため先住者の龍は退散したが、泉も枯れたこと
③弘法大師が祈祷により、龍を呼び戻したこと。そして泉も復活したこと
寛治一年(1089)の文書ですから、弘法大師が亡くなって、約150年後には弘法清水の涌出伝説は出来上がっていたことが分かります。
和漢三才図会 第1巻から第6巻 東洋文庫 寺島良安 島田勇雄 竹島淳夫 樋口元巳訳注 | 古本よみた屋 おじいさんの本、買います。

後の『和漢三才図会』は、この清水を龍穴信仰とむすびつけて、次のように記します。
昔此有池、悪龍為害、大臣(蘇我大臣)欲造寺、析之、龍退水渇建寺院、後却患無水、弘法加持
涌出霊水、今亦有、有一龍穴常以石蓋ロ、如旱魃祈雨開石蓋忽雨 (『和漢三才図会』第七十五、河内同龍泉キ村龍泉寺)
意訳変換しておくと
昔、この寺には、悪龍が害をなす池があった。蘇我大臣が寺を作ることを願い、龍を退散させると水が涸れた。寺院はできたが、水がなく不自由していた。そこで、弘法大師が加持しすると霊水が涌き出した。今でもこの寺には、龍穴があるが、日頃は石で蓋をしている。旱魃の時には、この石蓋を開けるとたちまちに雨が降る。

ここには、後半に旱魃の際の際の雨乞いのことが付け加えられています。どちらにしても、弘法清水伝説は、水の神の信仰と関係あると研究者は指摘します。

☆駅長お薦めハイク 大淀町散策(完)弘法大師井戸と薬水駅 : りんどうのつぶやき

  槙尾寺の智恵水の伝承の三段変化
  『弘法大師行状集記」の〔槙尾柴千水条第―五〕には、槙尾山智恵水のことが次のように記されています。まずホップです。
此寺是依為出家之砌、暫留住之間、時々以檜葉摩浄手、随便宜投懸椿之上 其檜葉付椿葉、猶彼種子今芽生、而椿葉生附檜木葉、或人伝云、大師誓願曰く、我宿願若可果遂者、此木葉付彼木葉
意訳変換しておくと
この寺では弘法大師が出家する際に、しばらくここに留まり生活した。その時に、ときどき檜葉を揉んで手を浄めた。それを、椿の木に投げ置いた。すると檜葉がそこで成長して、椿葉の上に檜が茂るようになった云う。これは弘法大師の誓願に、「我、願いが適うものなら、この木葉をかの木葉につけよ」からきているのかもしれない

ここには、檜葉を揉んで手を浄めたことはでてきますが、湧水や井戸のことについてはなんら触れられていません。それが約20年後の永久、元永ごろ(1113)の『弘法大師御伝』では、次のように変化します。  これがステップです。
和泉国槇尾山寺、神呪加持、平地
、此今存之、号智恵水、又以木葉按手投棄他木、皆結根生枝、今繁茂也
  意訳変換しておくと
和泉国の槇尾山寺には、神に願って加持すれば、平地から清泉が涌きだすという。これを智恵水と呼んでいる。又木葉を手で揉んで他の木に付けると、生枝に根を付けて繁茂する。

ここでは「智恵水」が加えられています。うけひの柴手水が弘法清水に変化したようです。
それが『塵添墟嚢妙』巻十六の〔大師御出子受戒事〕になると次のように「成長」していきます。ジャンプです。
空海が槙尾寺に滞在していた時に、住持がこの寺には泉がないことを嘆いた。そこで弘法大師は次のように云われた、悉駄太子が射芸を学んで釈種とその技量を争われた。弦矢が金鼓を貰ぬいて地に刺さると、そこから清流が湧きだし、水は絶えることなく池となった。それを人々は箭泉と呼ぶようになった。と
 ならば私もと、空海が密印を結んで加持を行うと、清泉が湧きだだし、勢いよく流れ出した。これを飲むと、精神は爽利になるので智恵水と名付けられた。

  ここにはインドの悉駄太子の射芸のことまで登場してくるので、民間伝承ではありません。当時の高野山の僧侶達の姿が垣間見れるようです。
整理すると板尾山智恵水とよばれる弘法清水は、次のように三段階の成長をとげていることが分かります。
①檜葉を揉んで、手を浄めそれを椿の上に投げっていた。これはうけひの柴手水の段階
②そこへ智恵水が加えられ
③智恵水のいわれがとかれるようになる
これが槙尾寺の弘法清水の形成過程のようです。
以上からは、弘法清水の伝説は11世紀末には大師伝に載せられるようになり、ある程度の成長をとげていたことをが分かります。しかし、「弘法大師伝」という制約があるので、自由に改変・創造して発展させることはできなかったようです。大師伝の編者たちは、大師の神変不可思議な出来事に驚きながらも、おっかなびつくりこれを載せていた気配がします。
大師の井戸 - 橋本市 - LocalWiki

次に、民間伝承で伝えられてきた「大師井戸」を見てみましょう。
 民衆のあいだに広がった大師井戸伝説は、大師の歴史上の行動にはまったくお構いなしに、自由にのびのびと作られ成長していくことになります。
  寛永年(1625)刊の「江戸名所記』にのせられた谷中清水稲荷の弘法清水伝説は、この種の伝説の1つのパターンです。見てみましょう。
谷中通清水のいなりは、むかし弘法大師御修行の時此所をとをり給ひしに、人に喉かはき給ふ。
一人の媼あり。水桶をいたゞき遠き所より水を汲てはこぶ。大師このうばに水をこひ給ふ。媼いたはしくおもひ本りて水をまゐらせていはく、この所更に水なし。わが年きはまりて、遠きところの水をはこぶ事いとくるしきよしをかたり申しけり。又一人の子あり。年ころわづらひふせりて、媼がやしなひともしく侍べりと歎きければ、大師あはれみ給ひ、独鈷をもつて地をほり給へば、たちまちに清水わき出たりしその味ひ甘露のごとく、夏はひやヽかに冬は温也‐いかなる炎人にもかはくことなし。大師又みづからこの稲荷明神を勧請し給ひけり。うばが子、此水をもつて身をあらふに病すみやかにいへたり。それよりこのかた、この水にてあらふものは、よくもろもろのやまひいへずといふことなし、云々
  意訳変換しておくと
谷中通の清水の稲荷は、昔に弘法大師が御修行の際に通られた所です。その時に喉が渇きました。すると、一人の媼が水桶を頭に載せて、遠くから水を汲んで運んできます。大師は、この媼に水を乞いました。媼は、不憫に思い水を差し出しながら次のように云います。「ここには水がないのです。私も年取って、遠くから水を運んでくるのは難儀なことことで苦しんでいます。」「子どもも一人いるのですが、近頃患い伏せってしまい、私が養っています」と歎きます。
 これを聞いて、大師は憐れみ、独鈷で大地を掘りました。するとたちまちに清水が湧き出します。その味は甘露のようで、夏は冷たく冬は温かく、どんな日照りにも涸れることがありません。そして大師は、この稲荷明神を勧請しました。媼の子も、この水で身を洗うと病は、たちまち癒えました。以後、この水で洗い清めると、どんな病もよくなり、癒えないことがないと云います。
弘法大師ゆかりの湧水!大阪・四條畷「照涌大井戸」 | 大阪府 | LINEトラベルjp 旅行ガイド
ここからは次のようなことが分かります。
①親切な女性の善行が酬いられて清水が涌出したこと、
②この女性には、病気の子どもがいること
③大師が独鈷をもって清水を掘り出すこと、
④この清水に医療の効験あり、ことに子供の病を癒すこと、
⑤ここに稲荷神が勧請されていること、
この「タイプ1」弘法清水は、女性の善行が酬いられて泉が涌出する話です。ここでは弘法大師が慈悲深き行脚僧として登場します。これに似た伝説として、上野足利郡三和村大字板倉養源寺の「弘法の加治水」(加持水)を研究者は挙げます。

往昔、婦人が赤子を抱き、乳の出が少ないのを嘆きながらたたずんでいた。そこに、たまたま行脚の僧が通りかかり、その話を聞いた。僧侶が杖を路傍に突き立てて黙疇すると水が噴出した。旅僧は「この水を飲めば、乳の出が多くなる」と告げた。飲んでみるとその通りであった。この旅僧こそ弘法大師であった

  『能美郡誌」には次のように記されています。
能登の能美郡栗津村井ノ口の「弘法の池」は村の北端にある共同井戸であり、昔はここに井戸がないために遠くから水を汲んでいた。ある時、大師が来合わせて、米を洗っている老婆に水を乞うたのでこころよく供養した。すると大師は旅の杖を地面に突き立てて水を出し、たちまちにこの池ができたという。
 
これらの説話では、大師が使うのは、杖になっています。
「錫杖や独鈷、三鈷などとするのは、仏者らしい作為をくわえた転移」と研究者は考えているようです。もともとは、杖で柳の木だったようです。
勝道上人の井戸と弘法大師』 - kuzuu-tmo ページ!

四国の伊予および阿波の例を見てみましょう
伊予温泉郡久米村高井の西林寺の「杖の淵」、阿波名西郡下分上山村の「柳水」など、いずれも大師に水を差し上げた女性の親切という話は脱落していますが、大師が杖によって突き出されたという清水です。阿波の柳水の話には、泉の傍に柳の柳が繁っていたというから、その杖は柳だったようです。 (『伊予温故録』阿州奇事雑話)。

女性の親切に大師の杖で酬いた説話の中で、涌出した泉が温泉であったという話もあるようです。上野利根那川場村の川場温泉につたわる弘法清水伝説です。この温泉は「脚気川場に療老神」といわれるほどの脚気の名湯とされてきたようです。それにはこんな伝説があるからです。
 昔、弘法大師巡錫してこの村に至り行暮れて宿を求めた。宿の主人は、大師をむかえて家に入れたが洗足の湯がなかった。すると大師は主人のために杖を地に立てて湯を涌かした。それでこの湯は脚気に効くのであり、風呂の傍に弘法大師の石像をたてて感謝しているのだという(『郷土研究』第2編)

研究者が注目するのは、次のポイントです
①大師に洗足の湯を出すこと
②この温泉が脚気に効くということ、
③大師が水を求めるのでなく宿をかりること
これは大師伝説の弘法大師が、「行路神」の性格や祭の日に家々をおとずれる「客人神」の要素をもっていたと研究者は考えているようです。
以上のように、この「タイプ1」に属する説話に共通の特色は、
①大師が行脚の途次水を求め、これを与えた女性の親切が酬いられて泉が涌き出したこと、
②大師は杖を地面に突き立てて泉を出したこと、
次にタイプ2「  弘法大師を粗略に扱い罰を受ける」を見てみましょう。 大師にたいして不親切な扱いをしたために、泉を封じられた話です。
会津耶麻郡月輪村字壺下の板屋原は、古くは千軒の繁華なる町であった。ところが、昔、弘法大師がこの地を通過した際に、ある家に立ち寄り水を求めた。家の女がたまたま機を織っていて水を持参しなかった。大師は怒って加持すると水は地下にもぐって出なくなった。さしもの繁華な町もほろびたとつたえている
(『福島県耶麻郡誌』)。

   常陸西茨城郡北山村字片庭には姫春蝉という鳴き声が大きな蝉がいます。これも大師に関係ありと、次のように伝えらます。
昔、一人の雲水が片庭に来って、家の老女に飲水を乞うた。老女は邪怪にも与えなかった。然るにこの僧が立ち去るや否や老女の家の井戸水は涸れ、老女は病を得て次第に体が小さくなって、ついに蝉になってしまった。これがすなわち姫春岬で、その雲水こそ弘法大師であった
(『綜合郷上研究』茨城県下巻
「水一杯のことで、そこまでするのか? 弘法大師らしくない」というのが、最初の私の感想です。道徳観や倫理観などがあまり感じられません。何か不自然のように感じます。

若狭人飯郡青郷村の関犀河原は、比治川の水筋なのに水が流れません。もとはこの川で洗濯もできたのに、ある洗濯婆さんが弘法大師の水乞に応じなかったため、大師は非常に立腹せられて唱え言をしたので、川水は地下を流れるようになってしまった。(若狭郡県志』)。
 阿波名西郡上分上山村字名ケ平の「十河原」には、弘法大師に水を与えなかったため、大師が杖を河原に突き立てると水は地中をくぐって十河原になったと伝えます「郷土研究」第四編)。
  「大師の怒りにふれて井戸を止められた」という話は、自分の村や祖先の不名誉なことなのではないのでしょうか。それを永く記憶して、後世に伝えると云うのも変な話のように私には思えます。どうして、そんな話が伝え続けられたのでしょうか。

次の弘法清水伝説は「タイプ1+タイプ2」=タイプ3(複合バージョン)です 
 ここでは善人と忠人が登場してきて、それぞれに相応した酬いをうけます。ここでも悪人への制裁は過酷です。それは、弘法大師にはふさわしくない話とも思えてくるほどです。
 弘法清水分布の北限とされる山形県西村山郡川十居村吉川の「大師井戸」をみてみましょう
 大師湯殿山を開きにこの村まで来られたとき、例によって百姓家で水を求められた。するとそこの女房がひどい女で、米の磨ぎ汁をすすめた。大師は黙って、それを飲んで行かれた。ところが驚いたことには、かの女房の顔は馬になっていた。
 大師はそれから三町先へ行って、また百姓の家で水を所望された。ここの女房は気立てのやさしい女で、ちょうど機を織っていたがいやな顔もせずに機からおりて、遠いところまで水を汲みに行ってくれた。大師はそのお礼として持ったる杖を地面に突き立て穴をあけると、そこから涌き出た清水が現在の大師井戸となったという。
この説話の注目ポイントを確認しておきましょう
①邪悪な女房が大師にたいして不親切に振舞ったため禍をうけ
②親切な女房が大師に嘉せられて福を得たこと、
③大師に米の磨ぎ汁をすすめたこと
④邪悪な女房の顔が馬になったということ
⑤善良な女房が機を織っていたこと
これらについて研究者は次のように指摘します。
①については、弘法大師伝説の大師と、古来の「客人神」との関係がうかがえる
②米の磨き汁も、大師講の信仰に連なる重要な暗示が隠されている
③馬になった女房は、東北地方に多い馬頭形の人形、すなわちオシラ神との関係が隠されている

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  常陸鹿島郡白鳥村人字札「あざらしの弘法水」も同村人字江川と対比してつたえられています。
この話では江川の女は悪意でなく仕事に気をとられて水を与えなかったとなっていますが、それにたいしても大師は容赦しません。去って次の集落に入ると、杖を地に突きさして清水を出します。その結果、札集落には弘法水があり、江川集落は水が出ないのだと伝えられます。(『綜合郷L研究』茨城県)

どうしてこんな厳しい対応をする弘法大師が登場するのでしょうか?
現在の私たちの感覚からすると「そこまでしなくても、いいんではないの」とも思えます。一神教信仰のような何か別の原理が働いているようにも思えます。これについて研究者は次のように述べます。

わが民族の固有信仰における神は常に無慈悲と慈悲、暴威と恩寵、慣怒と愛育、悪と善の二面をもち、祭祀の適否、禁忌の履行不履行によって、まったく相反する性格を人間の前にあらわされるものだからである。

確かに「古事記』『風土記』等に出てくる客人神は、非常に厳しい神々で曖昧さはありません。それが時代が下るにつれて「進化=温和化」(角が取れた?)し、次第に慈悲と恩寵の側に傾いていったようです。古き神々は人を畏怖させる力を持っていて、それを行使することもあったのです。インドのインデラやユダヤ教のエホヴァ(ヤーベ)と同じく怒れる神になることもあったようです。その神々に弘法大師が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説に生まれ変わっていくようです。
 ここにみえる二重人格のような弘法大師は、古来の「客人神」の台木の上に接ぎ木されています。それが複合型伝説というタイプの弘法大師伝説となっていると研究者は考えているようです。
井戸寺:四国八十八箇所霊場 第十七番札所 – 偲フ花
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」


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     綾川のしらが渕 ここで綾川は大きく流れを変える。向こうの山は堤山

綾川のしらが渕の伝説を見ておきましょう。

山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。

祇園信仰 - Wikipedia
牛頭天王

さて、奈良時代のことです。
島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天王社におこもりをしました。
祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。
おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。
すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。
白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。
龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。
しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。
大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。
ここからは次のようなことが推測できます。
①滝宮神社は牛頭天王社であったこと
②牛頭龍王社の祭神は白髪老人で牛頭龍王であった
③牛頭龍王に灯を捧げたのが龍王で、その場所が龍灯石であったこと
④牛頭龍王が現れるのは、みたらが渕で霊地として信仰されていたこと
どんがん岩というのもあります。
どんがんは、大きな亀ということで泥亀が、この淵のヌシだとも伝わっています。洪水のとき、ごうごうと流れる水音にまじって、こんな声も聞こえてきます。
「お―ん、お―ん」
泣き声のようです。
お―ん、お―ん、と、悲しそうな泣き声なのです。 
一体、誰が泣いているのでしょう。

綾川シラガ淵

北西に向かって流れてきた①綾川は、④シラガ淵で流れを東に変えて滝宮を経て、府中に流れ出しています。しかし「河川争奪」が行われて流路が変更されたのではないかと、研究者は考えているようです。
綾川シラガ渕
綾川としらが淵
  かつては綾川は堤山の北側を経て栗熊・富隈を経て、大束川に流れ込み、川津で海に流れ出していたというのです。そうだとすれば現在は小さな川となっている大束川も「大河」であったことになります。その痕跡がうかがえるのが堤山と国道32号の間に残された「渡池」跡だと研究者は考えています。渡池は、綾川から取水して、大束川水系に水を供給していました。その水利権を持っていたことになります。それが昔話では、次のように伝わっています。

滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。」

滝宮の牛頭天王とは、何者なのでしょうか?

滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

 河川変更の土木工事を行った「犯人捜し」をしてみましょう。
その際に、真っ先に気になるのはかつての流路を見下ろすかのように造られている「快天山古墳」です。
古墳商店 a Twitter: "【香川・快天山古墳】丸亀市にある古墳 時代前期の前方後円墳。全長98.8m。埋葬施設は後円部に3か所あり、すべて刳抜式割竹形石棺を有する。国内最古の割竹形石棺がある古墳。讃岐型と畿内型双方の前方後円墳築造様式の特徴がみられる。  https://t ...
快天塚古墳
ここに眠る王は、大束川水系と綾川水系を統一した王のようです。
そこに使われている石棺からは鷲の山産ですので、その辺りまでを支配エリアにしていたと首長と研究者は考えているようです。その王の統一モニュメントが、この前方後円墳でなかったのかというのがひとつの仮説です。

綾川の大束川流れ込み
しらが淵周辺の古墳群

シラガ渕で流路が変更されることによって起こった変化を挙げると
①大束川水系の拠点は川津遺跡で郡衛性格も古代にはあったが、大束川の河口で洪水の危機に悩まされていた。
②そこで綾川流れを羽床のシラガ渕で変更することで、川津を守ろうとした。
③同時に周辺や飯山の島田、栗熊などの氾濫原や湿地の開拓を進めることを狙いとした。
④一方、綾川では水量が増え河口から滝宮までの河川交通が開けた。
⑤それを契機に羽床より上流地域の開発が進んだ。
⑥それを進めたのは、ヤマト政権の朝鮮政策に従い半島で活躍した軍人化した豪族達である。また、戦乱を逃れた渡来人達も数多く讃岐に入ってきた。
⑦流路変更工事を主導したのはシラガ渕(新羅系渡来人)たちではなかったのか。
⑧それは周辺古墳から出てくる遺物からも推測ができる。
以上は、古代に中国のように大規模な治水・灌漑が行われていたと考えられていた時代のことです。以前にお話したように、丸亀平野や髙松平野からは大きな用水路は出てきませんし。大規模灌漑の跡も出てきません。古代に人為的に流れが変えられたという説に多くの考古学者は同意しないようです。
現在は、綾川の流路変更は、河川争奪の結果だと次のように説明されています。

綾川中流域では綾川町滝宮の中位段丘を下刻して坂出市府中へ流下していますが、滝宮付近の渓谷ができる前は、堤山の北側を西方に流下し、土器川に合流したと推定されます。約 10 万年前の土器川の扇状地が段丘になった岡田台地(丸亀市飯山町から綾歌町)の北縁の崖は、南東から北西に流れた古綾川によって侵食された段丘崖です。
 綾川が現在の流路に河川争奪された原因としては、府中湖付近から成長した谷が綾川流域に達したことと共に、西側の流路を妨げる出来事が起こっていた可能性があります。この出来事としては、大高見峰からの大規模土石流による河道閉塞などが考えられます。

以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
 
北条令子 さぬきの伝説
 
讃岐ジオパーク推進準備委員会「讃岐ジオガイド 綾川と堤山」

香川県|かがわの水 - 香川の水の伝説

釜が淵は、塩入からさらに財田川の源流を遡った清らかな谷水が流れている山あいの深淵です。
雨乞い祈願は、ここで行われます。
里人は、コマゴエを十三荷半と、ゴボウの種を用意します。
コマゴエは、堆肥のことです。
稲藁を、細かく切って積み上げて造ります。
田圃に入れると、とてもいい肥料になりました。
田圃の肥料である堆肥を、なぜ、釜が淵へ持って来るのでしょうか。
おまけに、ゴボウ種まで持って・・・?

里人がやって来た後から、山伏もやって来ました。
 山伏が雨降らせたまえと祈願をします。
すると、里人たちは持って来た堆肥を、釜が淵のなかへ振り込みはじめました。
十二荷半の堆肥を、残らず淵へ放りこんだからたまりません。
おかしな臭いが、あたりへただよいます。
清らかな淵水は、茶色く濁って流れもよどみがち。
そして、この上から、ゴボウの種を蒔きます。
ゴボウの種は、ぎざぎざでとても気味の悪い形をしています。
指でつまむと、ゴボウの種が指を刺すように感じます。
堆肥十三荷半、ゴボウ種を投げ込んで終わったのではありません。
今度は、長い棒で淵のなかを、かきまぜます。
何度も、何度も、棒でかきまぜます。もう、無茶苦茶です。
釜が淵の水は、濁ってしまいました。

この、釜が淵の清らかな水のなかには、龍神さまがいらっしゃるというのに、水は濁ってし
まいました。きっと龍神さまは、お腹立ちのことでしょう。
そうなのです、それが目的なのです。
龍神さまを、しっかり怒らすのです。
怒ると、雨が降るというのです。
お気に入りの釜が淵の清水が、べとべとに濁ってしまいました。
これはたまらないと、龍神さま雨を降らせて不愉快なものを、すべて流します。
でも、いいかげんな雨では流れないと、激しい大雨を降らせてさっぱりと洗い流します。
ああ、きれいになったと龍神さまも大よろこび。里人も、念願の雨が降ったと大満足。
しかし、まあ、讃岐の人たちはすごいですね。
龍神さまを強迫して、雨をいただくのですから。
龍神さまも、これを楽しんでいらっしゃるのかもしれません。
本当は、仲良しなのでしょうか。


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真鈴(ますず)峠は、香川県から徳島県への山越えのみち。峠近くの高尾家の屋敷内には、泉があります。こんこんと水の湧き出る泉には、こんな話が語り伝えられています。

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真鈴峠への道
むかし、日照りが何日も何日も続きました。
山の奥、それも少々高所なので水には不自由していました。
とても暑い日に、お坊さまが来られました。
汗とほこりで、べとべとです。

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勝浦の四つ足峠
高尾家のおばあさんは、
「まあ、おつかれのご様子、一体みなさいませ」
と、声をかけ、お茶をさしあげました。
汗をふ拭きおえたお坊さまは、
「すまんことだが、水を一[祢いただけないものかな」
と、おばあさんに頼みます。
「このごろは日照り続きで、水も少ないのだけどお坊さまが飲むくらいの水はあるわな」
「そんなに水が、不自由なのかい」
「はい、峠の下まで汲みに行きます」

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真鈴の民家
お坊さまは、お水をおいしそうに飲んだあと、杖をついて屋敷のまわりを歩きます。
歩きながら、しきりに地面を突いているではありませんか。
何度も杖で地面を突くと、ふしぎなことに水がにじみ出てきます。
「おばあさん、ここ掘ってみい、水が出るぞ」
おばあさんは、水が湧いてくるという地面を、一升ますの大きさくらい手で掘ってみました。
すると、たちまち水はいっぱいになります。
おばあさん、こんどは一斗ますくらいの大きさに土を掘ります。
たちまち水は、いっぱいになってあふれ出ます。
近所の人たちを呼んできて、さらに大きく掘ってみました。
水は、ますますあふれるように流れ出るではありませんか。
「これは、枡水じゃ、増水じゃ」
と、人々はおおよろこびです。
おばあさんは、お坊さまにお礼を申さねばとあたりを探しましたが、お姿は見えません。
「ありがたいことじや、ふしぎなことだ」
おばあさんは、よろこびのあまり水に手を入れてみました。すると、
「ちろん、ちろん」
と、音がします。お坊さまが持っていた鈴のような音がして、水が湧き出てきます。
「ちろん、ちろん…」
と湧き出る水に人々は「真鈴の水」と名付けました。

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真鈴の民家
隣村から、少し水を分けてもらえないかと言ってきました。
おばあさんは、水のないのは不自由なことだと快く承知しました。
隣村といっても県境、阿波から水をもらいに来たのです。
    水を、にないに入れ一荷にして、県境を越えて帰って行きます。
お礼は、蕎麦一升。水と、蕎麦とを交換して、仲良く暮らした山の村でした。
真鈴の水は、今日も、ちろんちろんと湧き出ています。

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真鈴の地名由来には、次の2つの説があるようです。
A 真水と鈴から、真鈴とつけた
B 阿波の大星敷から水が不足すると真鈴に水をもらいに来た。そのお礼に大豆やそばを枡に入れて持って来たので、この地を「枡水(ますみず)呼んだ。それが後に誂って真鈴になった

真鈴の開拓者にも、2つの説があるようです。
C 矢野と名乗るものがこの地に来て開拓
D 長尾氏の子孫・高尾家による開拓
C説は、矢野氏が開き、野鳥野獣の害を防ぐため、建御名方命を勧請して城村神社を建てたと、この神社の社記に記されています。
D説は、西長尾城の長尾大隅守一族が、一族が分散して各地にかくれ、あるいは仏門に入るものもいました。この時に長尾氏一族の長尾高敦が、真鈴の地に入り姓を高尾と改めこの地を開拓したというものです。当時、真鈴には六戸しかありませんでしたが、周囲を開き同族も増え真鈴集落は大きくなっていきます。現在の真鈴の高尾家は、その子孫だと言われ、その本家には近年まで甲冑や武具等が伝えられていました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町誌

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  大川山の姫神
大川山は讃岐で2番目に高い山で、大川神社が祀られている。
雨乞いの神として知られているが、安産を祈願する神としても知られている。土器川下流の飯山町あたりからこの山を望む所にも祠が建てられ、信仰を集めている。大川の姫神は三つ子を産んだ神として知られており、その絵姿は三つ子を胸に抱いている姿となっている。

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ここではこんな話も伝えられている。
この大川神社の神官が山道を通っていると、山道で一人の女が苦しんでいる。
わけをたずねると子供を出産するとのことであった。が、男はお産に立ち会うべきでないと見すてて、そこを通り過ぎようとした。ところがあまりの苦しみようにふりかえり、自分の弁当行李をあけ食べ物を与えようとしたが、中はからであった。
わずかに残った米粒を与え、たちまち元気をとりもどし、無事子供を出産した。
こうしたことでこの神社が安産の神として崇められるようになったという
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中熊地区にある山熊神社の神様は、大川神社の神様と姉妹だという。
二人の美しい姫が仲良く手まりをついて遊んでいるのを見たという人もあり、ともに安産の神として知られている。山熊さんの社殿に結びつけてあるたすきをもらって、腹帯と一緒に巻いておくとよい。
それで安産できると、二本のたすきにして返すのだという。

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また、社殿の左の玉垣をめぐらせている所に沢山の小石があるが、ここは神域で立ち入りを禁じている。この石をいただいて帰ると、自分の思いがかなうと伝えている。
かつて戦争中、この小石を持って出征し、無事帰還した者もいるとか。
ところがその石をお返ししないと、石が鳴ったり腹痛を起こしたりするという。

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 四つ足地蔵
町指定有形文化財“四つ足堂” | Until I return to the moon - 楽天ブログ

 四つ足堂について、琴南町誌は次のように記します。

明神から真鈴峠を越える旧道に、通行人が一休みする茶堂がある。そこにはお地蔵さんがまつられている。これを四つ足堂という。阿波十力寺参りや借耕牛の通る道で、かつてはにぎわっでいた。

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この地蔵を粉ひき地蔵とも言う。この尊像の台座の石は川石であるが、四本の筋目が刻まれており、ひき臼に模しているようである。こんなところから粉ひき地蔵の名がついている。高さ二尺くらいのものであるが、かつては大川山の神社と神事場の間にあったものが一夜のうちにころがり落ちてきたので、ここに祀ったと伝えられている。ところが、この道が大川神社への山尾根であるため、ころげ落ちる所としてはふさわしぐないところから、力持ちの男が運んだとも伝えている。

四つ足堂は、真鈴谷と八峯谷との合流点の旧真鈴越の路傍にあるお堂です、二間四方の広さで、三方は壁がなく吹き抜けになって、四すみに柱だけが立っているだけでした。そのためか「四つ足堂」と呼ばれてきました。お堂の北側には、お地蔵さんを祀っています。このお地蔵さんは臼を台座にしているので「粉ひき地蔵」とも呼ばれます。これについては次のような昔話が伝わっています。

 昔、ここは大きな木が生え茂り、近くに淵がある恐ろしいところであった。化け物がよく出て、旅人が通りかかると「角力をとらんか」と言ってしがみついてくる。そんな時、知らん顔をして通り過ぎればよいが、もし相手になれば、 へとへとになるまで負かされて動けなくなってしまう。
 ある朝、村人がここを通りかかると、道端に一体のお地蔵さんが転げ落ちて来ていた。よく見ると大川さんのお地蔵さんである。これはもったいないと大川山まで担ぎ上げた。すると翌朝また転がり落ちて来ている。人々は、これはここにお出になりたいのだと思い、お堂を建ててお祀りした。それからは、お化けも出なくなったと言うことである。

昔、建っていた茶堂は四本柱でした。それが、明治初年に火事で焼け、近くに生えていた大きなガヤの木を切り八本の柱と床材を取り、八本柱、高床の今の建物に再建されます。しかし入母屋で古いお堂の形を残しているので1975年国の民俗文化財記録保存に指定されました。
 ここは真鈴越の街道沿いに辺り、金昆羅参りの旅人や、借耕牛の人々の休憩所になった所です。夏はお堂の下の清流で口をすすぎ、冬は茶堂のいろりで暖をとりました。彼岸とお盆の十五日には、近くの人々によって供養が行われ、当番の家が握り飯や茶菓子を準備して、参詣者に接待していました。

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 また、茶堂のあたりはスモトリ坊がいて、小さい子供の姿となって、そこを通る人かあると、
「すもうををとらんか」と誘いをかける。
通行人は子供だとあなどってとりかかると、なかなか手強い相手だという妖怪であった。
ちょうどこのあたりはいくっかの谷の水が集まっている渕となっているため、川女郎も出て来るという。また節分の日には阿波の国からヤンギョウサンという首切馬が峠を越えてこの四つ足堂までやって来る。このようにこの四つ足堂のあたりは異霊の集まる場所であった。

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   飛鉢上人
 大川山の北西の谷に、中寺というところがある。
かつて修験の道場として七つの坊があったと伝え、その跡も発見されている。
この中寺に飛鉢の法を使う上人がいて、瀬戸内海を通る船をめがけて、鉢を飛ばして船をどこまでも追いかける。船頭がその鉢に白米を入れると、再び帰ってくる。何も入れないとその鉢が燃え、火を吹きながらどこまでも船を追いかけて行く、という。屋島寺縁起に似た伝承も残っている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町誌
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阿波から嫁入って来た女も、美合で生まれて美合へ嫁入った女も秋の取り入れがすむと必ずおはたの用意をした。お正月までには子ども達の晴れ着も織らなければならないし、年寄りの綿入れも用意しなければと気もそぞろ。
糸はガス糸や紡績糸を買ってきた。
内田の紺屋で染めてきた糸は、祖母ゆずりの縞わりのままに糸の計算をする。
木綿糸の縞のはしにはスジ糸(絹糸)を入れると、縞がきわ立って美しい。
布をのべる日は、風のない静かな日を選び、
四間の戸障子をあけひろげ座敷いっぱいに糸を伸ばして経糸の用意。
四尺ごとにスミをつける、四尺が七ひろあると一反分の布となる。
糸はチキリに巻いてカザリに通すが、カザリロは上手にあけなければならない。
チキリに巻いた糸は機にまきあげて巻く。
オサイレは糸を1すじずつ通してから固定させる。
アゼをつまむのがむつかしいと言うが、丁寧にやればこともない。
緯糸は、竹のクダに巻いておく。
マキフダとも呼ばれる
クダは、おなご竹を十巧打くらいに切り揃え、かわらで絞って水分をぬいておく。
このクダに、ただ糸を巻けばいいというのではないのだ。
ツムノケで糸をまくのだが上手に巻かないとホゼてくるし、巻きすぎると糸がくずれてしまう。

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明日は小学校1年生の長女に織らせてみるつもり
器用ものの長女は見ようみまねで上手に糸をあつかうので、きっといい織り手になることだろう。
夜、しまい風呂で長女といっしょに髪を洗う。
はたを織り始める日は別に決まった日はないが、髪の汚れをとり、ひとすじの乱れもかいように髪を結いあげた。

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やや小柄の長女は、機にあがったものの踏み板に足がとどかない。
冬でも素足で機は踏むものなので、長女の素足に木の枕を結びつける。
母さんもこうやっておはたにあがったの、機を踏みきっていると足はほこほこしてきたものだと、長女をさとす。
 布は、織りはじめがすぼまないように藁を1本人れたが嫁入った家では、織りけじめにシンシをはる。竹の両端に針がついているのが伸子なのだが、一寸ばかり織ってばシンシを少しずつずらして打ちかえる。
 トンカラトンカラ、根気のよい長女は上手に布を織りすすめる。
モメンは一日一反、ジギヌは一日四尺しかのびない。
オリコンは、ヒトハ夕で二反分の糸を機に巻き上げて二反続けて織っていた。
 織りしまいには、カザリの開ヘヒが入らなく々るまで織るのだが、ハタセが短かくなって手まりが出来なくなるのが心配で、早く織りじまいにしようとしても、なかなか織りじまいにはしてもらえかかった。

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 師走女に手をさすな という諺のとおり、夜の目もねずにに女は機を織り家族の衣管理を一手に引き受けていた。それでも月のもののときは機にあがらず、糸を巻いたり繰ったりわきの仕事をするのがならいだった。
  お正月がすんでからもハルハタを織った。
縁側などの明るいところで機を織っていると、家のすぐ前の街道が気にとってしようがない。
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阿波から讃岐へ峠を越えてやってくるデコまわし、とりたててにぎにぎしく来るわけでもないのだけど、気もそぞろに機の糸をさってしまう。
細い糸がうまくつなげないと泣き出しそうになる。
そうこうするうちに、デコまわしの一行は通り過ぎてけってしまった。
昼食になり、機をおりると隣の家の苗床でデコまわしが三番叟(さんばそう)を舞うというのだ。
もうお機も昼食も放ったらかして隣家まで、走って行った。
苗床や、苗代のまわり、田植えの早苗を束ねる藁などもご祈祷してもらうと、虫がつかず豊かな稔りが約束されていたのだ。こんなことより、年端のゆかない織り子さんにとって、デコ使いが珍らしくて仕方がなかった。
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 デコまわしが通り、傘売りさんも通った。
夏近くになると借耕牛の群れが、りんりんと鈴を鴫して峠道を降りていった。
雨の日も、風の日も、街道のざわめきを聞きながら女は機を織り続けた。
 戦後、衣生治の変化は急速におとずれ、女の管理下におかれていた機織りも忘れられようとしている。それでも老女は、お正月がくると必ずおはたに鏡餅を供えたとか、
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虫か食いはしめた機は、とうとう川へ流されることになった。
 機は、いわれのあるものだから焼いてはならない。
流れ川に流して七夕さまにお返しするのだという信仰を、
老女はがんとして守り通して、機は流されていった。
 そして、「女はテスキになってしもうて」と、テレビの前に座る老女山背で呟いた。

 北條令子 琴南町美合 民俗探訪日記より 
                                

 
淵野(ふちの)というところは、むかしから淵や沼の多いところでした。
沼を開墾して、田圃にしていましたが、田が深いので農作業は大変でした。
特に、田植えのときは吸いこまれそうになるので梯子を置いて苗を植えたといいます。
この淵野のお寺で、働く娘さんがいました。
とってもよく働く娘さんは、夜ぐっすりと眠ります。
よく眠っている娘さんのもとへ、若い男が通って来るようになりました。
若い男は、とても色が自く背もひょろりと高いそうです。
若い男はあまり話もせずに、夜が明けると帰って行きます。
毎晩、通ってくるのはいいのですけどあまりにも肌が冷たく気味が悪くなりました。
体中が、水のなかから出てきたようにひんやりしています。
娘さんは、お母さんに相談してみました。
「どこの人ですか。お名前は」
「わかりません。黙って帰りますもの」
「それじゃ困ります。どこのお人かたしかめましょう」
「でも、名前を言ってくれなかったら…」
「それじゃ、こうしましょう」
お母さんと、娘さんはひそひそと話しあいます。
「糸を長く通した針を、男の着物の裾につけるのです。糸は、くるくるとけるようにしておく
のですよ」
「はい」
「男に、知られないように針を刺すのです」
「はい。わかったわ」
「くれぐれも、気をつけて…」
娘さんは、お母さんに教えられたとおり男の着物の裾に針を刺しました。
翌朝、お母さんは娘の寝室から延びている糸をたどって行きました。
糸は、屋敷の外まで続いています。
そして、まだまだ長く延びているではありませんか。
田を越え、沼を越え、淵のなかへ入っています。
深い淵は、土路が淵です。
お母さんは、土路が淵の中をのぞきこみました。
すると、ぼそぽそと話す声が聞こえてきました。
「正体をさとられてしまったな。もう、通ってはいけないぞ」
「でも、娘の腹には子が宿っているワ」
色の白い男と思ったのは、土路が淵の蛇だったのです。
娘さんは、妊娠しているというのです。
それも、蛇の子を宿してしまったというので、お母さんはびっくりしてしまいました。
でも、お母さんは、あわてません。
なおも、聞き耳をたてていました。
「しかしな、人間というものは利口なものだ。菖蒲の酒を飲むと、子はおりてしまう…」
土路が淵の蛇の親子の話し声です。
お母さんはこれはいいことを聞いたと、いそぎ足で帰ってきました。
菖蒲の酒とは、五月五日の節旬の菖蒲を浸したものです。
同じように二月三日の、酒も効果があるといいます。

「お前は、たいへんなことになっています。はやく、菖蒲のお酒を飲みなさい」 
一ぱい、二はい、もう一ぱいと娘さんは菖蒲の酒を飲みました。
ほどよく菖蒲酒が身体にいきわたったころ娘さんは、お腹が痛くなりました。
つきあげてくるような、ものすごい痛さです。
痛さにうずくまっていた娘さんは、驚いなたことに蛇の子を産みました。
盥に、七たらい半、蛇の子を産んだのです。
蛇の子を産んだあと、娘さんはは亡くなりました。
もちろん、蛇の子も死にました。
  沼や淵の多い淵野には、娘さんのお墓がひりと建ててあります。
そして、節句の酒は、飲むものだと言い伝えられています。

                            北条令子 さぬきの伝説 より

三頭峠の谷あいに、権兵衛さんと二人の娘さんが住んでいました。
権兵衛は、谷川の流れをせき止めて、田を造ろうと思うのですがなかなかの難工事です。
何度、造っても流されてしまいます。
「谷をせき止められたら、いいのになあ。
堤を築いてくれたら、わしの娘を嫁にやってもいい…」
権兵衛のひとりごとを、山の猿が聞いていました。
山の大猿が、聞き耳をたてていたのです。
大猿は、さっそく猿どもを呼び集めて堤を築きはじめました。
権兵衛がいくら努力しても築くことのできなかった堤を、大猿はこともなく成し遂げました。
ある夜のこと、権兵衛の家の戸をほとほとた たくものがいます。出てみると、大猿です。
「お約束のものを、いただきにきました」
「なに、約束とな…」
「谷をせき止めました」
「えっ…」
権兵衛は、びっくりしました。でも、谷をせき止め田ができるというのはうれしいことです。
あれほどの難工事を成し遂げてくれたのだから、約束は守らなければなりません。
さっそく、二人の娘に聞いてみました。
「堤を築いてくれたら、娘を嫁にやると約束をした。おまえ、猿の嫁さまになってくれるか」
「いやです。そんなこと絶対にいやです」
一番上の姉娘は、絶対にいやだといいます。
今度は、二番目の娘に聞いてみました。
「猿の嫁さまに行ってくれぬか」
「勝手に約束したのでしょ。私は知りませんわ。
猿の嫁さまなんて死んだって、いやよ」
二番目の娘も、死んでもいやだと、いいます。
二番目、末の娘に聞いてみました。
「猿の嫁さまに…」
権兵衛は、もうあきらめていました。
末の娘も、いやだというにちがいないと思っていました。ところが、
「お父さんが約束したのだから、私が嫁に行きましょう」
「なに、行ってくれるのか…」
「はい。持って行きたいものがありますから用意してください」
権兵衛は、涙を流してよろこびました。そして、末の娘が欲しいというものを整えました。
それは、水がめと綿。
綿を、水がめに詰めます。
それと、かんざし。きれいなびらびらかんざしを、髪にさして猿の嫁さまになるというのです。
婿殿の大猿が、嫁さまを迎えにやってきました。
末娘は、綿を詰めた水がめを婿殿に背負ってもらい、びらびらかんざしをゆらしてついてゆきます。大猿は、ふりかえっては嫁さまをたしかめます。
末娘は、にっこり笑っては花かんざしをゆらします。
山の風が、嫁入り唄を歌ってくれます。
谷の流れがきらきらとかがやき、小鳥たちも嫁さまの美しさに見ほれているようです。
山の道を登り、淵のほとりへ来かかりました。
末娘は、きものを直すふりをして、かんざしを淵へ投げこみました‥
「あ―れ、私の大事なかんざしが滞へ落ちました。早く拾っておくれ、早く、早く…」
嫁さまの悲鳴に、大猿は大あわて。嫁さまの大事なかんざしを、早く拾おうと淵へ飛びこみ
ました。水がめを背負ったまま、淵へ飛びこんだのです。水がめのなかには、綿がぎっしり詰
められているので、水を吸った綿はだんだん重くなってきます。
大猿は淵へ飛び込んだまま、いくら待っても姿を現わしませんでした。淵の流れの音は、いつもと同じように響いているのに、猿の婿殿は帰ってきません。
末娘は、ふたたび権兵衛の家へ戻ってきました。
でも、人々は、末娘のことを「猿後家」と呼びました。
三頭峠のあたりで、猿後家は住んでいましたが、現在はどこへ行ったのかわかりません。

琴南町史より

 三角は、するどい角をもった崖山がそそりたっているところから、名付けられました。三つの角を持った岩石の底を流れる渓流は、とびっきり美しく冷たい流れ、清らかな流れは、龍神さまもお好きと見え、三角の淵には、龍神社がお祀りされてあります。
さて、三角の地名は、かって「御門」とも「御帝」とも呼ばれていました。そして、「三霞洞」となり、現在は「美霞洞」。温泉は「三角の美霞,洞温泉」と呼ばれ親しまれています。
さて、この淵の話は数えきれないほどたくさんあります。
そのひとつ、三角の淵と大蛇のお話をはじめましょう。
むかし、戦国時代も終わりのころ、武田八郎という武士が、三角までやってきました。
そのころ三角の集落では、人々がおそれおののいていました。
淵の大蛇が、通行人や山里の人を襲うというのです。
武田八郎は大蛇の話を聞き、人々を苦しめる大蛇を退治しようと考えました。
山中の小屋にたてこもって、矢を作りはじめました。
ある日のこと、美しい女が訪ねてきました。
「矢を、作っているのですね。矢は、何本作るのでしょうか」
武田八郎は、あやしい女が来たものだと思いながら答えました。
「ああ、矢を作っている。ここは、女の来るところではない。早く帰れ」
「あの―、矢は何本作っているのですか」
女は、何度も聞きます。そこを、動こうともしません。
八郎は、少しめんどうになってきました。
「矢は、九十九本だ」
  八郎が答えると、女はどこへともなく姿を消してしまいました。
矢の用意が整ったので日も暮れてから、八郎は三角の淵へやってきました。
大蛇の現れるのを、待つつもりです。
草木も眠る丑三刻、なんともいえない生臭い風が吹いてきました。
淵の底から、ご―お―と音がしたかと思うと、淵の水が泡だちもりあがってきます。水しぶきがあがり、水が、あふれはじめます。
ものすごい音です。
もりあがった水の中から、なにかが迫ってきます。
武田八郎、弓に矢をつがえてよくよく見ると、
淵の真ん中に立ちあがった大蛇は、頭にすっぽりと鐘をかぶっているではありませんか。 
一の矢を、力いっぱい放ちました。
第二矢、第二矢、いくら矢を射ても、矢はカーン、カーンと、はねかえされてしまいます。
九十九本の矢は、たちまち射うくしてしまいました。
すると大蛇は、かぶっていた釣鐘をはねののけ炎のような舌を出して、武田八郎をひとのみにしようと襲つてきます。
八郎は、かくし持っていた一本の矢を必死で射ました。
矢は、大蛇の喉首を見事射ぬくことができました。
八郎は、矢を百本持っていたのです。
今まで盛り上がっていた淵の水が急に引きはじめ、
大蛇の姿は淵の底へ底へと沈んでいきました。

こんなことがあってから、三角の淵の大蛇は二度と人を襲うことはなくなりました。
人々に害を加えることがなくなったばかりか、逆に日照り続きの早魃の年には三角の淵の雄淵に筏を浮かべて雨乞いのお祈りをすると、必ず雨を降らせてくれます。
また、遠くの人たちは三角の淵へ、水をもらいにやってきます。
淵の水を汲んで帰り祈願をこめると、必ず雨が降りだします。
三角の淵は、雨乞いの淵としても有名になりました。

琴南町史より

  大干魃の年は龍神様にお祈りをして、雨を乞う雨乞い神事が行われた。八峯龍神にも、阿波と讃岐の両農民が集って三・七・二十一日の願をこめて祈ったものである。これは八峯にある大池小池で雨乞いをした時のできごとで、古老から聞かされた話である。

 二十一日の間、昼夜の別なく、神楽火をたき神に祈ったが一粒の雨も降らなかった。当時の神職は悪気はなかったが
「これ程みながお願いしているのに、今だに雨の降る様子がない、龍神の正体はあるのか、あるなれば見せてみよ」と言った
ところ、言い終ると一匹の小蛇が池の廻りを泳いでいた。

「それが正体か、それでは神通力はないのか」と言った。
すると急にあたりがさわがしくなり、黒い雲が一面に空を覆い、東の空から「ピカピカゴロゴロ」という音がしたかと思うと、池の中程に白い泡が立ち、その中から大きな口を開き、赤い炎のような舌を出した大蛇が、今にも神職をひと飲みにしようと池の中から出て来た。

これを見た神職は顔色は真青になり、一目散に逃げ帰った。
然し大蛇は彼の後を追いかけて来たものの疲れたのか、その場にあった一本の松の木の枝に首をかけてひと休みしたと伝えられる。
 今もその松を首架松といわれている。池からその松の所までは百五十米もあるが、大蛇の尾が池に残っていたというのだから大きさに驚かされる。
 神職は家に帰ったが家内のものには何も話さず、一室にとじこもったまま高熱を出して、数日後に家族が心配していたが、この世を去って行ったとのことである。
 彼は死を目前にして家族のものを集め、今後一切八峯大池小池には近よらない様にと遺言したそうな。
                讃岐の人々編集事務局所収
 
九頭龍大神 ⑤ 弁財天と如意宝珠 : 追跡アマミキヨ

  ○ 川女郎の泣き声
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声をひそめるように語る老女は、
爺から聞いたがもうおそろしゅて、はばかりへもたてなかった。
と言いながら記憶をたぐりよせてくれる。
 土器川の上流、清い流れの音が聞えるあたりに住まいを持つ人々は、
四季おりおり川の流れを見て暮らした。
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川女郎が泣いて大声をあげるようになると、川が氾濫するという。
川岸の岩と岩との間へ、川女郎は子をもうけてある。
流れがおだやかな日はいいのだが、水があふれそうになると、
大事な赤ちゃんが流されてしまうと泣くのだという。
まるで、人間が哀しむような泣き声の川女郎はさばえ髪をして、
人にゆき逢うものならさばえ髪の頭でふりかえる。
にっこり笑ったつもりの川女郎の唇からは馬鍬のこのような歯が見えた。
ゆき逢った人は、悲鳴をあげて逃げてゆく。
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あんまりわるさはしなかりた池いう川女郎に、逢った人は意外と多い
「川女郎の赤ちゃんのお父さんは誰なの」
と老女に質問すると
「それは聞かんだわ、今度合ったらきいておくわな」
と老女はスマしている。
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トウダイツノの鹿は大川神社のお使い姫
この川をどんどんのぼっていくと山と山のはざまの谷に至る。
谷川に水を飲みに来る鹿が住んでいった。
狩りをする人のことをセッショウニンと呼んでいたが、
山漁の達人だったおじいさんが炭焼きに行って鹿の尾角を拾ったことがある。
二年叉、三年又の見事な鹿の角が落ちていたと言うのだ。
この鹿の角を拾ってかえり、笛を作る。
手造りの角を吹くと、雄がケンケン寄ってくるそうな。
ケンヶン寄ってくるの雉は雄の雉。
そうすると、落角の笛は雉の雌の鴫き声ということになるのか。
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美合の山では、鹿の夫婦が山々をかけめぐり、恋の季節をたのしむ雉も住んでいた。
しかし、「鹿は、やたらに射るものでない」と、戒められていた。
トウダイツノの鹿は大川神社のお使い姫だとも教えられていた。
 ある日のこと、大川山へ出かけて行った山伏が、灯台角の鹿と出逢った。
これはいい獲物とばかり、鹿を射殺してしまった。
ところが翌朝のこと、鹿を射殺した山伏は野田小屋の桜の木のまたに吊りあげられていたと言うのだ。山伏が吊るされたという桜の古木は枯れてしまったが、古株は残されている。
 そして、野田小屋にある社のご神体はみつまたの灯台角だと伝えられている。
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「相撲をとらんか」とこわっぱが誘う
 峠を越えると山の細道は、下り坂となる。
つんのめるように降りるきんま道は谷川の流れに沿って、ぐんぐんくだる。
谷川の水がより集まって落ちこむところが渕となり、水音が急に高くなる。
山の尾が寄りあい、谷川の水が流れ込む。
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 雨降りあげくの日も暮れかかるころ渕のほとりを通りかかると、
小さな子供が出てきて
  「相撲をとらんか」と、いう。
こわっぱが相撲をとらんか言うて生意気な、
一手で負かしてやろうと相手になるともうおしまい。
へとへとになるまで相撲をとらされる。
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相手になるなと古老に戒められているのに、あんまりこんまい子なので、
つい負かしてやろうと取りはじめて動けなくなった者が多い。
あれは、子供でなくてマモノなのだ。
変化のものなのだと、
雨降り後水かさの増した渕の側はおそろしくて通ることができない
北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より
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まんのう町の旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。そこには、妖怪が住んでいたらしくいくつもの妖怪の話が伝わります。
その中からとっておきの妖怪を紹介します。
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炭焼き小屋を訪ねてくるオオブロシキ
深山の静けさの中にいると、急に燈台角の鹿が現れても不思議がないような木立の茂みだ
このあたり、炭焼き小屋の跡が転々と散在している。
この小屋を訪れる妖怪も多かった。
炭を焼くときには、夜通し山に籠もるので寝起きをする小屋を造る。
小屋の中で茶もわかすし、飯も炊く。
そして腹持ちのよい餅も焼いた
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餅を焼くと芳ばしい匂いが山の隅々へまでただよってゆくとみえ、
人り口に吊るしたむしろを持ちあげてにゅうと、爺が入ってきた。
囲炉裏のほとりで、だまって火にあたって帰ってゆく。
黙って火にあたっているうちはいいのだが、餅を一つおくれとばかり手を出す。

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餅を焼き始めると爺がやってくる。
そして、火にあたりながら金玉をひろげはじめた。
なんぼでも広げる。
こりゃ包まれたら大変と、
山小屋の主はその広げたもの中へ焚木のもえかぶをほうりこんだ。
「キャキャッ」と泣き声をたて、山の奥へ爺は逃げこんでいった。
オオブロシキという妖怪だそうで、
広げたものの中へ人間をつつみこんでしまうともいう。
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炭焼き小屋には、ショウペンノミもやってきた。
小屋の外へたんごを置き、その中へ用を足していたのだが、
その小便をきれいに飲むものがいた。
塩気を欲するオオカミさんだとも言っていたが、
あからさまにしないところがおもしろい。
しかし、オオカミさんがいかって鴫く夜は山小屋で震えあがったと話してくれた。

 小さな蜘蛛が人間を捕まえる話。
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 瀬戸の浜辺でとれた塩を峠を越えて阿波に運ぶ塩売さんから聞いた話
里から塩売りさんが渕のほこりの樹陰で一休み、
よほどつかれていたとみえ塩売りさんはうとうとうたたねをはじめた。
すると木の枝からするすると降りてきた蜘蛛が、男の足の親指へ糸をかけはじめた。
行ったり来たり、何度も往復してしっかり糸をからませる。
寝たふりをして見ていると蜘蛛はまだしきりに行ったり来たり、
男は親指の糸を木の伐株にひょいとかけなおした。
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もう十分に糸は掛け終えたものとみえ、
蜘蛛は底のしれない渕のあたりへ降りていった。
と、木の伐り蛛がものすごい音とともに渕の底へ引つぱりこまれた。
塩売りさんは、すっくりと立ちあがり軽々と荷をになって、
すたすたと去って行ったというはなし。
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その他、タオリバアとかタカンボさんとか山の妖怪には限りがありません。
祀られなくなった神の零落した姿が妖怪だといわれますが、よくは分かりません。
山の住人は、こんな妖怪たちにも恐ればかりでなく、
親しみを持って暮らしていたようすが伝わって来ます。
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参考文献
北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より

まんのう町美合に伝わるお堂のお話
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まんのう町の南部の旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。
そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。
そこに伝わるお堂の話を紹介します。

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阿波から峠を越えてきた旅人が、水にのまれてしまった。
近所の子供が谷川へ落ちそうになった。
しかし、いくら恐しくてもこの道を通らなければならないと、
村人が困りはてているところへ山からまくれ落ちてきたものがある。
ころころ山から落ちてきたのは、石のお地蔵さん。
ありゃ、これは大川のお地蔵さんではないか。
はよ、もとの場所へお返ししとかんと、と村人はもとのところへお返しした。
ところが、翌朝行ってみるとまた一夜のうちにころころまくれ落ちてきている。
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村の人々は、おだやかなお地蔵さまのお顔を見ながら話しあった。
「これは、ここがお好きなのじゃ」
じゃここへお祀りすることにしようと衆議は一決。
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裏のおじいさんは、栗の木を伐ってきた。桜の丸太も持ってきた。
檜の柱も、床を張る杉板も集まった。
藁を一束、繩も
 一往、
竹藪でぼんぼん竹を伐る人。屋根ふきの達者が竹の長さを指図する。
小麦藁で葺いた屋根の厚みが整然と美しい。
茶堂は東向き、二間四面の大和天井、三方開け放しの一方へ、
ころがり落ちてきたお地蔵さんを安置した。
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むかいの婆が縫ってきた赤い前かけが、まるでお地蔵さまの晴れ着のよう。
三方壁なしの茶堂の前で、
だれから山仕事に行く人も、田畑を打ちにゆく人も、たちどまって掌を合わす。
陽ざしがきつい峠道を越えてきた旅人が、一休みして汗を拭く。
谷川の流れで手足を洗い、昼寝をたのしむ人もいる。
あけびを山龍いっぱいつんで帰る悪童が、お地蔵さまの前ヘーつ供えた。
一つ供えたあけび敲をそのままに、水の澄んだ流れに入りこみ魚を追っかけはしめた。
お地蔵さまは、にこにこにこにあけび龍の番。
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手も足も泥だらけの童が板の間へあがりこんで、供物を盗んでも知らぬ顔。
童ばかりか、山から降りてきた小猿も山犬もお供えを無断でいただく。
今年も秋の取り入れが終わるとお地蔵さまの前で‘お接待がはじまる。
めぐってくる遍路の中にはお大師さまがいらしゃるかもしれないと毎年、お接待をかかしたことはがない。
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秋の取り入れがすむと、茶堂でお接待をすることになっていました。
茶堂が、もとのかたちのままで残されたきた背景には、素朴な信仰が根強く生き続けているからのようです。


北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より
                                

満濃池をこわした国司の物語(『今昔物語集』巻三十一より)

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昔むかし、讃岐の国のいなかに、満濃の池という、それは大きな池がありました。土地には水が少なく、満足に米もとれずに、みんなつらい暮らしをしておったとか。
 そのころ、高野山に、弘法人師さまというえらいお坊さまがおってのう、みんなのなんぎを聞いて、たいそう心をいためられたそうな。「かわいそうになあ。これでは、みんな、ごはんを食べられなくなってしまう」
 そこで弘法人師さまは、何かしてやれることはないかと知恵をしばったそうな。
「おお、そうじゃ! ひとつ、この上地に人きな池をつくってやろうか!」 思いたつと、方々から人を集めなさったと!・
 弘法人師さまのおやさしい人柄をしたって、それはもう、たくさんの人が集まってきたそうじゃ。

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こうしてできた池の大きいこと。堤も、それはそれは高く作られました。
  とても池とは思えんのう
   こりゃあ、海ではないかい
  土地の人々はみんなうわさしあったそうな。
あまりに大きくて向こう岸がぼーっとかすんではっきり見えません。みんな大喜びで大事に使うことにしました。
 それまでは、日照りが多く、田柚えどきには水不足に泣かされていましたが、この池のおかけで、どこのたんぼも、水を引くことができ、ぶじにうるおうことができたとか。
 朝廷からも、たくさんの川をつなぐ力をいただき、絶えることがなかったそうな。

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池の中には、大きいのやら、小さいのやら、いろんな魚が住んでいて、みんなどんどん魚をとっていました。でも、魚はいくらでもおったので、どれだけとってもいなくなることはありません。
あるとき、領主様が、この国の人々やら、館の人々やらをおおぜい集めて、お話をなさったとか。
 そのおりにも、満濃の池の話でもちきりだったそうな。
「なんと! 満濃の池には、いろんな魚がいっぱいおるそうじゃと!三尺の鯉でもおるじやろう」
 だれがいうたか、そのことが領主様の耳にはいってしまいました。
 「それは、ぜひとも欲しいものよ」
 領主様は思いたって、おいいつけなさった。
 「この池の魚をとる! 用意いたせ!」
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ところが、池の深いこと、深いこと。       
 下りていって網をしかけることもできぬほど。
そんならどうしたらよかろうかと、みんなで頭をひねっていたら、
 「この池の堤に大きな穴をあけよ’・
 そこから出る水の落ちるところにしかけをせよ
流れでる魚をとるのじや」
 家来衆がいうとおりにするとぱーつと勢いよく水が吹き出し、出るわ、出るわ、次々とたくさんの魚が出てきました。
 「やったあ! 大漁じゃあ」
   ところがその後、穴をふさごうとしましたがものすごい勢いで水が吹き出し、どうしてもふさぐことができません。
 そこに堤をつくり、木の樋を打ちつけ、少しずつ水を流すようにしたところ、池はそのおかげでなんとかもたせることができました。
「しかしまあ、この穴は、堤をぶちぬいてできた穴だもんな。
しかもこんなに大きい穴、大丈夫かいな」
  みんな、ほんに考えこんだそうな。
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  はたして梅雨がきて、どしゃぶりの雨がつづき、たくさんの川に水があふれ、それが全部、この池に流れこみはじめました。
さあ、たいへんです。
ゆき場のない水が、出口をもとめていっきに穴をめがけて押し寄せたのでもうたまりません。あれよあれよというまに、堤はこわれてしまい、池の水は残らず流れ出てしまいました。    
  「助けてくれ! 流される」
   おらんとこの、家も田んぼも畑も、めちゃめちゃじゃあ
  泣いても、叫んでも、もうどうにもなりません。
  みんな、何もかもなくしてしまいました。

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国の人たちは、これにすっかりこりて、池は小さく造ろうと考えました。
 そんなわけで、小さな池をなんぼでもつくったものの、池はすぐにひからびてしまい水は残りません。池のあった跡さえ、判らないようになってしまいました。
 悪いのは、なにがなんでも三尺の鯉が欲しいというたご領主様じゃ。ご領主様のせいで、あの生き仏様が、弘法大師さまが、土地の衆をかわいそうに思うて、せっか く造ってくたさった池をなくしてしもうた。ばちあたりなことはかりしれんわ。この池の崩れたことでたくさんの人が家を壊され、たんぼや畑をなくしてしまいました。
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 それもこれも、みんな、ご領主様のせいじゃ」
 だれもがそういうたとか。
 「池のなかの魚を、ちょっととりたいばっかりに、池をこわしてしまうとは、なんたるこっちや」
 [大きなむだじゃ。しょうのないご領主様じゃ]
 そう言って、みんな怒り、嘆きました。

 まあそういうことで、人間は欲張ってはいけません。
 他国の人々までも、今にいたるまで、ご領主様の悪口を言っているとか。
 その池の跡は今もまだ残っているそうな。

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