瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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善通寺と空海 : 瀬戸の島から

弘法大師伝説のなかに、「弘法清水」や「大師井戸」とよばれる涌泉伝説があります。
まんのう町真鈴峠に伝わる「大師井戸」については、以前紹介しました。この伝説について民俗学の研究者達は、どんな風に考えているのかを見ていくことにします。テキストは「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」です

この伝承は、民間伝承と太子伝に載せられているものの二つがあります。最初に太子伝に載せられた「大師井戸」を追いかけてみましょう。
1弘法大師行状記

  一番古いのは寛治一年(1089)の『弘法大師行状集記』〔河内国龍泉寺泉条第七十七〕で、次のように記されています。
この寺は蘇我大臣の大願で、寺を建設するのにふさわしい所が選ばれて伽藍が建立された。ところがこの寺に昔からある池には悪龍が住むと伝えられ、山内の池に寄りつく人畜は被害を受けた。そこで大臣は冠帯を着帯して爵を持ち、瞬きもせずに池底を七日七夜の間、凝視し続けた。すると龍王が人形として現れて次のように伝えた。大臣は、猛利の心を発して祈願・誓願した、私は仏法には勝てないので、他所に移ることにする。そうつげると元の姿に復り、とどろきを残して飛び去った。
 その後、池は枯渇し、山内には水源がなくなってしましった。伽藍は整備されたが、水源は十数里も遠く離れた所にしかなく、僧侶や住人は難儀を強いられた。そこで大師が加持祈誓を行うと、もともと棲んでいた龍が慈心になって池に帰ってきた。以後、泉は枯れることなく湧きだし続け絶えることがない。そこで寺名を改めて龍泉寺とした。

ここからは、次のような事が分かります。
①もとから龍が住むという霊地に、寺が建立されたこと
②そのため先住者の龍は退散したが、泉も枯れたこと
③弘法大師が祈祷により、龍を呼び戻したこと。そして泉も復活したこと
寛治一年(1089)の文書ですから、弘法大師が亡くなって、約150年後には弘法清水の涌出伝説は出来上がっていたことが分かります。
和漢三才図会 第1巻から第6巻 東洋文庫 寺島良安 島田勇雄 竹島淳夫 樋口元巳訳注 | 古本よみた屋 おじいさんの本、買います。

後の『和漢三才図会』は、この清水を龍穴信仰とむすびつけて、次のように記します。
昔此有池、悪龍為害、大臣(蘇我大臣)欲造寺、析之、龍退水渇建寺院、後却患無水、弘法加持
涌出霊水、今亦有、有一龍穴常以石蓋ロ、如旱魃祈雨開石蓋忽雨 (『和漢三才図会』第七十五、河内同龍泉キ村龍泉寺)
意訳変換しておくと
昔、この寺には、悪龍が害をなす池があった。蘇我大臣が寺を作ることを願い、龍を退散させると水が涸れた。寺院はできたが、水がなく不自由していた。そこで、弘法大師が加持しすると霊水が涌き出した。今でもこの寺には、龍穴があるが、日頃は石で蓋をしている。旱魃の時には、この石蓋を開けるとたちまちに雨が降る。

ここには、後半に旱魃の際の際の雨乞いのことが付け加えられています。どちらにしても、弘法清水伝説は、水の神の信仰と関係あると研究者は指摘します。
☆駅長お薦めハイク 大淀町散策(完)弘法大師井戸と薬水駅 : りんどうのつぶやき

  槙尾寺の智恵水の伝承の三段変化
  『弘法大師行状集記」の〔槙尾柴千水条第―五〕には、槙尾山智恵水のことが次のように記されています。まずホップです。
此寺是依為出家之砌、暫留住之間、時々以檜葉摩浄手、随便宜投懸椿之上 其檜葉付椿葉、猶彼種子今芽生、而椿葉生附檜木葉、或人伝云、大師誓願曰く、我宿願若可果遂者、此木葉付彼木葉
意訳変換しておくと
この寺では弘法大師が出家する際に、しばらくここに留まり生活した。その時に、ときどき檜葉を揉んで手を浄めた。それを、椿の木に投げ置いた。すると檜葉がそこで成長して、椿葉の上に檜が茂るようになった云う。これは弘法大師の誓願に、「我、願いが適うものなら、この木葉をかの木葉につけよ」からきているのかもしれない

ここには、檜葉を揉んで手を浄めたことはでてきますが、湧水や井戸のことについてはなんら触れられていません。それが約20年後の永久、元永ごろ(1113)の『弘法大師御伝』では、次のように変化します。  これがステップです。
和泉国槇尾山寺、神呪加持、平地
、此今存之、号智恵水、又以木葉按手投棄他木、皆結根生枝、今繁茂也
  意訳変換しておくと
和泉国の槇尾山寺には、神に願って加持すれば、平地から清泉が涌きだすという。これを智恵水と呼んでいる。又木葉を手で揉んで他の木に付けると、生枝に根を付けて繁茂する。

ここでは「智恵水」が加えられています。うけひの柴手水が弘法清水に変化したようです。
せいざんしゃ.com / [仏教百事問答]塵添壒嚢鈔―抄訳
それが『塵添墟嚢妙』巻十六の〔大師御出子受戒事〕になると次のように「成長」していきます。ジャンプです。
空海が槙尾寺に滞在していた時に、住持がこの寺には泉がないことを嘆いた。そこで弘法大師は次のように云われた、悉駄太子が射芸を学んで釈種とその技量を争われた。弦矢が金鼓を貰ぬいて地に刺さると、そこから清流が湧きだし、水は絶えることなく池となった。それを人々は箭泉と呼ぶようになった。と
 ならば私もと、空海が密印を結んで加持を行うと、清泉が湧きだだし、勢いよく流れ出した。これを飲むと、精神は爽利になるので智恵水と名付けられた。

  ここにはインドの悉駄太子の射芸のことまで登場してくるので、民間伝承ではありません。当時の高野山の僧侶達の姿が垣間見れるようです。
河野忠研究室ホームページ 弘法水

整理すると板尾山智恵水とよばれる弘法清水は、次のように三段階の成長をとげていることが分かります。
①檜葉を揉んで、手を浄めそれを椿の上に投げっていた。これはうけひの柴手水の段階
②そこへ智恵水が加えられ
③智恵水のいわれがとかれるようになる
これが槙尾寺の弘法清水の形成過程のようです。
以上からは、弘法清水の伝説は11世紀末には大師伝に載せられるようになり、ある程度の成長をとげていたことをが分かります。しかし、「弘法大師伝」という制約があるので、自由に改変・創造して発展させることはできなかったようです。大師伝の編者たちは、大師の神変不可思議な出来事に驚きながらも、おっかなびつくりこれを載せていた気配がします。
大師の井戸 - 橋本市 - LocalWiki

次に、民間伝承で伝えられてきた「大師井戸」を見てみましょう。
 民衆のあいだに広がった大師井戸伝説は、大師の歴史上の行動にはまったくお構いなしに、自由にのびのびと作られ成長していくことになります。
  寛永年(1625)刊の「江戸名所記』にのせられた谷中清水稲荷の弘法清水伝説は、この種の伝説の1つのパターンです。見てみましょう。
谷中通清水のいなりは、むかし弘法大師御修行の時此所をとをり給ひしに、人に喉かはき給ふ。
一人の媼あり。水桶をいたゞき遠き所より水を汲てはこぶ。大師このうばに水をこひ給ふ。媼いたはしくおもひ本りて水をまゐらせていはく、この所更に水なし。わが年きはまりて、遠きところの水をはこぶ事いとくるしきよしをかたり申しけり。又一人の子あり。年ころわづらひふせりて、媼がやしなひともしく侍べりと歎きければ、大師あはれみ給ひ、独鈷をもつて地をほり給へば、たちまちに清水わき出たりしその味ひ甘露のごとく、夏はひやヽかに冬は温也‐いかなる炎人にもかはくことなし。大師又みづからこの稲荷明神を勧請し給ひけり。うばが子、此水をもつて身をあらふに病すみやかにいへたり。それよりこのかた、この水にてあらふものは、よくもろもろのやまひいへずといふことなし、云々
  意訳変換しておくと
谷中通の清水の稲荷は、昔に弘法大師が御修行の際に通られた所です。その時に喉が渇きました。すると、一人の媼が水桶を頭に載せて、遠くから水を汲んで運んできます。大師は、この媼に水を乞いました。媼は、不憫に思い水を差し出しながら次のように云います。「ここには水がないのです。私も年取って、遠くから水を運んでくるのは難儀なことことで苦しんでいます。」「子どもも一人いるのですが、近頃患い伏せってしまい、私が養っています」と歎きます。
 これを聞いて、大師は憐れみ、独鈷で大地を掘りました。するとたちまちに清水が湧き出します。その味は甘露のようで、夏は冷たく冬は温かく、どんな日照りにも涸れることがありません。そして大師は、この稲荷明神を勧請しました。媼の子も、この水で身を洗うと病は、たちまち癒えました。以後、この水で洗い清めると、どんな病もよくなり、癒えないことがないと云います。
弘法大師ゆかりの湧水!大阪・四條畷「照涌大井戸」 | 大阪府 | LINEトラベルjp 旅行ガイド
ここからは次のようなことが分かります。
①親切な女性の善行が酬いられて清水が涌出したこと、
②この女性には、病気の子どもがいること
③大師が独鈷をもって清水を掘り出すこと、
④この清水に医療の効験あり、ことに子供の病を癒すこと、
⑤ここに稲荷神が勧請されていること、
この「タイプ1」弘法清水は、女性の善行が酬いられて泉が涌出する話です。ここでは弘法大師が慈悲深き行脚僧として登場します。
これに似た伝説として、上野足利郡三和村大字板倉養源寺の「弘法の加治水」(加持水)を研究者は挙げます。
往昔、婦人が赤子を抱き、乳の出が少ないのを嘆きながらたたずんでいた。そこに、たまたま行脚の僧が通りかかり、その話を聞いた。僧侶が杖を路傍に突き立てて黙疇すると水が噴出した。旅僧は「この水を飲めば、乳の出が多くなる」と告げた。飲んでみるとその通りであった。この旅僧こそ弘法大師であった

  『能美郡誌」には次のように記されています。
能登の能美郡栗津村井ノ口の「弘法の池」は村の北端にある共同井戸であり、昔はここに井戸がないために遠くから水を汲んでいた。ある時、大師が来合わせて、米を洗っている老婆に水を乞うたのでこころよく供養した。すると大師は旅の杖を地面に突き立てて水を出し、たちまちにこの池ができたという。
 
これらの説話では、大師が使うのは、杖になっています。
「錫杖や独鈷、三鈷などとするのは、仏者らしい作為をくわえた転移」と研究者は考えているようです。もともとは、杖で柳の木だったようです。
勝道上人の井戸と弘法大師』 - kuzuu-tmo ページ!
四国の伊予および阿波の例を見てみましょう
伊予温泉郡久米村高井の西林寺の「杖の淵」、阿波名西郡下分上山村の「柳水」など、いずれも大師に水を差し上げた女性の親切という話は脱落していますが、大師が杖によって突き出されたという清水です。阿波の柳水の話には、泉の傍に柳の柳が繁っていたというから、その杖は柳だったようです。 (『伊予温故録』阿州奇事雑話)。

女性の親切に大師の杖で酬いた説話の中で、涌出した泉が温泉であったという話もあるようです。上野利根那川場村の川場温泉につたわる弘法清水伝説です。この温泉は「脚気川場に療老神」といわれるほどの脚気の名湯とされてきたようです。それにはこんな伝説があるからです。
 昔、弘法大師巡錫してこの村に至り行暮れて宿を求めた。宿の主人は、大師をむかえて家に入れたが洗足の湯がなかった。すると大師は主人のために杖を地に立てて湯を涌かした。それでこの湯は脚気に効くのであり、風呂の傍に弘法大師の石像をたてて感謝しているのだという(『郷土研究』第2編)

研究者が注目するのは、次のポイントです
①大師に洗足の湯を出すこと
②この温泉が脚気に効くということ、
③大師が水を求めるのでなく宿をかりること
これは大師伝説の弘法大師が、「行路神」の性格や祭の日に家々をおとずれる「客人神」の要素をもっていたと研究者は考えているようです。
以上のように、この「タイプ1」に属する説話に共通の特色は、
①大師が行脚の途次水を求め、これを与えた女性の親切が酬いられて泉が涌き出したこと、
②大師は杖を地面に突き立てて泉を出したこと、
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次にタイプ2「  弘法大師を粗略に扱い罰を受ける」を見てみましょう。 大師にたいして不親切な扱いをしたために、泉を封じられた話です。
会津耶麻郡月輪村字壺下の板屋原は、古くは千軒の繁華なる町であった。ところが、昔、弘法大師がこの地を通過した際に、ある家に立ち寄り水を求めた。家の女がたまたま機を織っていて水を持参しなかった。大師は怒って加持すると水は地下にもぐって出なくなった。さしもの繁華な町もほろびたとつたえている
(『福島県耶麻郡誌』)。

   常陸西茨城郡北山村字片庭には姫春蝉という鳴き声が大きな蝉がいます。これも大師に関係ありと、次のように伝えらます。
昔、一人の雲水が片庭に来って、家の老女に飲水を乞うた。老女は邪怪にも与えなかった。然るにこの僧が立ち去るや否や老女の家の井戸水は涸れ、老女は病を得て次第に体が小さくなって、ついに蝉になってしまった。これがすなわち姫春岬で、その雲水こそ弘法大師であった
(『綜合郷上研究』茨城県下巻
「水一杯のことで、そこまでするのか? 弘法大師らしくない」というのが、最初の私の感想です。道徳観や倫理観などがあまり感じられません。何か不自然のように感じます。

若狭人飯郡青郷村の関犀河原は、比治川の水筋なのに水が流れません。もとはこの川で洗濯もできたのに、ある洗濯婆さんが弘法大師の水乞に応じなかったため、大師は非常に立腹せられて唱え言をしたので、川水は地下を流れるようになってしまった。(若狭郡県志』)。
 阿波名西郡上分上山村字名ケ平の「十河原」には、弘法大師に水を与えなかったため、大師が杖を河原に突き立てると水は地中をくぐって十河原になったと伝えます「郷土研究」第四編)。
  「大師の怒りにふれて井戸を止められた」という話は、自分の村や祖先の不名誉なことなのではないのでしょうか。それを永く記憶して、後世に伝えると云うのも変な話のように私には思えます。どうして、そんな話が伝え続けられたのでしょうか。
浜島の人たちは昔から、海辺の近くに住んでいたので井戸が少なく、たいへん水に不自由をしていました。 また、井戸があっても海が近いのでせっかく掘った井戸水も塩からかったりすることがあったのです。  今から、二百年も前のある年に、長い間日照りが ...

次の弘法清水伝説は「タイプ1+タイプ2」=タイプ3(複合バージョン)です 
 ここでは善人と忠人が登場してきて、それぞれに相応した酬いをうけます。ここでも悪人への制裁は過酷です。それは、弘法大師にはふさわしくない話とも思えてくるほどです。
 弘法清水分布の北限とされる山形県西村山郡川十居村吉川の「大師井戸」をみてみましょう
 大師湯殿山を開きにこの村まで来られたとき、例によって百姓家で水を求められた。するとそこの女房がひどい女で、米の磨ぎ汁をすすめた。大師は黙って、それを飲んで行かれた。ところが驚いたことには、かの女房の顔は馬になっていた。
 大師はそれから三町先へ行って、また百姓の家で水を所望された。ここの女房は気立てのやさしい女で、ちょうど機を織っていたがいやな顔もせずに機からおりて、遠いところまで水を汲みに行ってくれた。大師はそのお礼として持ったる杖を地面に突き立て穴をあけると、そこから涌き出た清水が現在の大師井戸となったという。
この説話の注目ポイントを確認しておきましょう
①邪悪な女房が大師にたいして不親切に振舞ったため禍をうけ
②親切な女房が大師に嘉せられて福を得たこと、
③大師に米の磨ぎ汁をすすめたこと
④邪悪な女房の顔が馬になったということ
⑤善良な女房が機を織っていたこと
これらについて研究者は次のように指摘します。
①については、弘法大師伝説の大師と、古来の「客人神」との関係がうかがえる
②米の磨き汁も、大師講の信仰に連なる重要な暗示が隠されている
③馬になった女房は、東北地方に多い馬頭形の人形、すなわちオシラ神との関係が隠されている
大垣市湧き水観光:十六町の名水 弘法の井戸 : スーパーホテル大垣駅前支配人の岐阜県大垣市のグルメ&観光 ぷらり旅
  常陸鹿島郡白鳥村人字札「あざらしの弘法水」も同村人字江川と対比してつたえられています。
この話では江川の女は悪意でなく仕事に気をとられて水を与えなかったとなっていますが、それにたいしても大師は容赦しません。去って次の集落に入ると、杖を地に突きさして清水を出します。その結果、札集落には弘法水があり、江川集落は水が出ないのだと伝えられます。(『綜合郷L研究』茨城県)

どうしてこんな厳しい対応をする弘法大師が登場するのでしょうか?
現在の私たちの感覚からすると「そこまでしなくても、いいんではないの」とも思えます。一神教信仰のような何か別の原理が働いているようにも思えます。これについて研究者は次のように述べます
わが民族の固有信仰における神は常に無慈悲と慈悲、暴威と恩寵、慣怒と愛育、悪と善の二面をもち、祭祀の適否、禁忌の履行不履行によって、まったく相反する性格を人間の前にあらわされるものだからである。

確かに「古事記』『風土記』等に出てくる客人神は、非常に厳しい神々で曖昧さはありません。それが時代が下るにつれて「進化=温和化」(角が取れた?)し、次第に慈悲と恩寵の側に傾いていったようです。古き神々は人を畏怖させる力を持っていて、それを行使することもあったのです。インドのインデラやユダヤ教のエホヴァ(ヤーベ)と同じく怒れる神になることもあったようです。その神々に弘法大師が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説に生まれ変わっていくようです。
 ここにみえる二重人格のような弘法大師は、古来の「客人神」の台木の上に接ぎ木されています。それが複合型伝説というタイプの弘法大師伝説となっていると研究者は考えているようです。
井戸寺:四国八十八箇所霊場 第十七番札所 – 偲フ花
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」


DSC04801
     綾川のしらが渕 ここで綾川は大きく流れを変える。向こうの山は堤山

山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。

祇園信仰 - Wikipedia
牛頭天王

 さて、奈良時代のことです。島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天王社におこもりをしました。
祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。
おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。
すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。
白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。
龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。
しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。
大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。

どんがん岩というのもあります。
どんがんは、大きな亀ということで泥亀が、この淵のヌシだとも伝わっています。洪水のとき、ごうごうと流れる水音にまじって、こんな声も聞こえてきます。
「お―ん、お―ん」
泣き声のようです。
お―ん、お―ん、と、悲しそうな泣き声なのです。 
一体、誰が泣いているのでしょう。

綾川シラガ淵

 北西に向かって流れてきた①綾川は、④シラガ淵で流れを東に変えて滝宮を経て、府中に流れ出しています。しかし「河川争奪」が行われて流路が変更されたのではないかと、研究者は考えているようです。
綾川シラガ渕
綾川としらが淵
  かつては綾川は堤山の北側を経て栗熊・富隈を経て、大束川に流れ込み、川津で海に流れ出していたというのです。そうだとすれば現在は小さな川となっている大束川も「大河」であったことになります。その痕跡がうかがえるのが堤山と国道32号の間に残された「渡池」跡だと研究者は考えています。渡池は、綾川から取水して、大束川水系に水を供給していました。その水利権を持っていたことになります。それが昔話では、次のように伝わっています。

滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。」

滝宮の牛頭天王とは、何者なのでしょうか?

滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

 河川変更の土木工事を行った「犯人捜し」をしてみましょう。
その際に、真っ先に気になるのはかつての流路を見下ろすかのように造られている「快天山古墳」です。
古墳商店 a Twitter: "【香川・快天山古墳】丸亀市にある古墳 時代前期の前方後円墳。全長98.8m。埋葬施設は後円部に3か所あり、すべて刳抜式割竹形石棺を有する。国内最古の割竹形石棺がある古墳。讃岐型と畿内型双方の前方後円墳築造様式の特徴がみられる。  https://t ...
快天塚古墳
ここに眠る王は、大束川水系と綾川水系を統一した王のようです。
そこに使われている石棺からは鷲の山産ですので、その辺りまでを支配エリアにしていたと首長と研究者は考えているようです。その王の統一モニュメントが、この前方後円墳でなかったのかというのがひとつの仮説です。

綾川の大束川流れ込み
しらが淵周辺の古墳群

シラガ渕で流路が変更されることによって起こった変化を挙げると
①大束川水系の拠点は川津遺跡で郡衛性格も古代にはあったが、大束川の河口で洪水の危機に悩まされていた。
②そこで綾川流れを羽床のシラガ渕で変更することで、川津を守ろうとした。
③同時に周辺や飯山の島田、栗熊などの氾濫原や湿地の開拓を進めることを狙いとした。
④一方、綾川では水量が増え河口から滝宮までの河川交通が開けた。
⑤それを契機に羽床より上流地域の開発が進んだ。
⑥それを進めたのは、ヤマト政権の朝鮮政策に従い半島で活躍した軍人化した豪族達である。また、戦乱を逃れた渡来人達も数多く讃岐に入ってきた。
⑦流路変更工事を主導したのはシラガ渕(新羅系渡来人)たちではなかったのか。
⑧それは周辺古墳から出てくる遺物からも推測ができる。
こんな「仮説(妄想)」を考えている今頃です。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
 
北条令子 さぬきの伝説 

香川県|かがわの水 - 香川の水の伝説

釜が淵は、塩入からさらに財田川の源流を遡った清らかな谷水が流れている山あいの深淵です。
雨乞い祈願は、ここで行われます。
里人は、コマゴエを十三荷半と、ゴボウの種を用意します。
コマゴエは、堆肥のことです。
稲藁を、細かく切って積み上げて造ります。
田圃に入れると、とてもいい肥料になりました。
田圃の肥料である堆肥を、なぜ、釜が淵へ持って来るのでしょうか。
おまけに、ゴボウ種まで持って・・・?

里人がやって来た後から、山伏もやって来ました。
 山伏が雨降らせたまえと祈願をします。
すると、里人たちは持って来た堆肥を、釜が淵のなかへ振り込みはじめました。
十二荷半の堆肥を、残らず淵へ放りこんだからたまりません。
おかしな臭いが、あたりへただよいます。
清らかな淵水は、茶色く濁って流れもよどみがち。
そして、この上から、ゴボウの種を蒔きます。
ゴボウの種は、ぎざぎざでとても気味の悪い形をしています。
指でつまむと、ゴボウの種が指を刺すように感じます。
堆肥十三荷半、ゴボウ種を投げ込んで終わったのではありません。
今度は、長い棒で淵のなかを、かきまぜます。
何度も、何度も、棒でかきまぜます。もう、無茶苦茶です。
釜が淵の水は、濁ってしまいました。

この、釜が淵の清らかな水のなかには、龍神さまがいらっしゃるというのに、水は濁ってし
まいました。きっと龍神さまは、お腹立ちのことでしょう。
そうなのです、それが目的なのです。
龍神さまを、しっかり怒らすのです。
怒ると、雨が降るというのです。
お気に入りの釜が淵の清水が、べとべとに濁ってしまいました。
これはたまらないと、龍神さま雨を降らせて不愉快なものを、すべて流します。
でも、いいかげんな雨では流れないと、激しい大雨を降らせてさっぱりと洗い流します。
ああ、きれいになったと龍神さまも大よろこび。里人も、念願の雨が降ったと大満足。
しかし、まあ、讃岐の人たちはすごいですね。
龍神さまを強迫して、雨をいただくのですから。
龍神さまも、これを楽しんでいらっしゃるのかもしれません。
本当は、仲良しなのでしょうか。


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真鈴峠は、香川県から徳島県への山越えのみち。
峠近くの高尾家の屋敷内には、泉があります。
こんこんと水の湧き出る泉には、こんな話が語り伝えられています。

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真鈴峠への道
むかし、日照りが何日も何日も続きました。
山の奥、それも少々高所なので水には不自由していました。
とても暑い日に、お坊さまが来られました。
汗とほこりで、べとべとです。

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勝浦の四つ足峠
高尾家のおばあさんは、
「まあ、おつかれのご様子、一体みなさいませ」
と、声をかけ、お茶をさしあげました。
汗をふ拭きおえたお坊さまは、
「すまんことだが、水を一[祢いただけないものかな」
と、おばあさんに頼みます。
「このごろは日照り続きで、水も少ないのだけどお坊さまが飲むくらいの水はあるわな」
「そんなに水が、不自由なのかい」
「はい、峠の下まで汲みに行きます」

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真鈴の民家
お坊さまは、お水をおいしそうに飲んだあと、杖をついて屋敷のまわりを歩きます。
歩きながら、しきりに地面を突いているではありませんか。
何度も杖で地面を突くと、ふしぎなことに水がにじみ出てきます。
「おばあさん、ここ掘ってみい、水が出るぞ」
おばあさんは、水が湧いてくるという地面を、一升ますの大きさくらい手で掘ってみました。
すると、たちまち水はいっぱいになります。
おばあさん、こんどは一斗ますくらいの大きさに土を掘ります。
たちまち水は、いっぱいになってあふれ出ます。
近所の人たちを呼んできて、さらに大きく掘ってみました。
水は、ますますあふれるように流れ出るではありませんか。
「これは、枡水じゃ、増水じゃ」
と、人々はおおよろこびです。
おばあさんは、お坊さまにお礼を申さねばとあたりを探しましたが、お姿は見えません。
「ありがたいことじや、ふしぎなことだ」
おばあさんは、よろこびのあまり水に手を入れてみました。すると、
「ちろん、ちろん」
と、音がします。お坊さまが持っていた鈴のような音がして、水が湧き出てきます。
「ちろん、ちろん…」
と湧き出る水に人々は「真鈴の水」と名付けました。

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真鈴の民家
隣村から、少し水を分けてもらえないかと言ってきました。
おばあさんは、水のないのは不自由なことだと快く承知しました。
隣村といっても県境、阿波(徳島県)から水をもらいに来たのです。
    水を、にないに入れ一荷にして、県境を越えて帰って行きます。
お礼は、蕎麦一升。水と、蕎麦とを交換して、仲良く暮らした山の村でした。
真鈴の水は、今日も、ちろんちろんと湧き出ています。

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  大川山の姫神
大川山は讃岐で2番目に高い山で、大川神社が祀られている。
雨乞いの神として知られているが、安産を祈願する神としても知られている。土器川下流の飯山町あたりからこの山を望む所にも祠が建てられ、信仰を集めている。大川の姫神は三つ子を産んだ神として知られており、その絵姿は三つ子を胸に抱いている姿となっている。

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ここではこんな話も伝えられている。
この大川神社の神官が山道を通っていると、山道で一人の女が苦しんでいる。
わけをたずねると子供を出産するとのことであった。
が、男はお産に立ち会うべきでないと見すてて、そこを通り過ぎようとした。
ところがあまりの苦しみようにふりかえり、自分の弁当行李をあけ食べ物を与えようとしたが、中はからであった。

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わずかに残った米粒を与え、たちまち元気をとりもどし、無事子供を出産した。
こうしたことでこの神社が安産の神として崇められるようになったという。
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中熊地区にある山熊神社の神様は、大川神社の神様と姉妹だという。
二人の美しい姫が仲良く手まりをついて遊んでいるのを見たという人もあり、ともに安産の神として知られている。
山熊さんの社殿に結びつけてあるたすきをもらって、腹帯と一緒に巻いておくとよい。
それで安産できると、二本のたすきにして返すのだという。
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また、社殿の左の玉垣をめぐらせている所に沢山の小石があるが、ここは神域で立ち入りを禁じている。
この石をいただいて帰ると、自分の思いがかなうと伝えている。
かつて戦争中、この小石を持って出征し、無事帰還した者もいるとか。
ところがその石をお返ししないと、石が鳴ったり腹痛を起こしたりするという。
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 四つ足地蔵
 明神から真鈴峠を越える旧道に、通行人が一休みする茶堂がある。
そこにはお地蔵さんがまつられている。
これを四つ足堂という。阿波十力寺参りや借耕牛の通る道で、かつてはにぎわっでいた。
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この地蔵を一名粉ひき地蔵とも言う。
この尊像の台座の石は川石であるが、四本の筋目が刻まれており、ひき臼に模しているようである。こんなところから粉ひき地蔵の名がついている。
高さ二尺くらいのものであるが、かつては大川山の神社と神事場の間にあったものが一夜のうちにころがり落ちてきたので、ここに祀ったと伝えられている。
ところが、この道が大川神社への山尾根であるため、ころげ落ちる所としてはふさわしぐないところから、力持ちの男が運んだとも伝えている。
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 また、茶堂のあたりはスモトリ坊がいて、小さい子供の姿となって、そこを通る人かあると、
「すもうををとらんか」と誘いをかける。
通行人は子供だとあなどってとりかかると、なかなか手強い相手だという妖怪であった。
ちょうどこのあたりはいくっかの谷の水が集まっている渕となっているため、川女郎も出て来るという。また節分の日には阿波の国からヤンギョウサンという首切馬が峠を越えてこの四つ足堂までやって来る。このようにこの四つ足堂のあたりは異霊の集まる場所であった。
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   飛鉢上人
 大川山の北西の谷に、中寺というところがある。
かつて修験の道場として七つの坊があったと伝え、その跡も発見されている。
この中寺に飛鉢の法を使う上人がいて、瀬戸内海を通る船をめがけて、鉢を飛ばして船をどこまでも追いかける。
船頭がその鉢に白米を入れると、再び帰ってくる。何も入れないとその鉢が燃え、火を吹きながらどこまでも船を追いかけて行く、という。屋島寺縁起に似た伝承も残っている。


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阿波から嫁入って来た女も、美合で生まれて美合へ嫁入った女も秋の取り入れがすむと必ずおはたの用意をした。お正月までには子ども達の晴れ着も織らなければならないし、年寄りの綿入れも用意しなければと気もそぞろ。
糸はガス糸や紡績糸を買ってきた。
内田の紺屋で染めてきた糸は、祖母ゆずりの縞わりのままに糸の計算をする。
木綿糸の縞のはしにはスジ糸(絹糸)を入れると、縞がきわ立って美しい。
布をのべる日は、風のない静かな日を選び、
四間の戸障子をあけひろげ座敷いっぱいに糸を伸ばして経糸の用意。
四尺ごとにスミをつける、四尺が七ひろあると一反分の布となる。
糸はチキリに巻いてカザリに通すが、カザリロは上手にあけなければならない。
チキリに巻いた糸は機にまきあげて巻く。
オサイレは糸を1すじずつ通してから固定させる。
アゼをつまむのがむつかしいと言うが、丁寧にやればこともない。
緯糸は、竹のクダに巻いておく。
マキフダとも呼ばれる
クダは、おなご竹を十巧打くらいに切り揃え、かわらで絞って水分をぬいておく。
このクダに、ただ糸を巻けばいいというのではないのだ。
ツムノケで糸をまくのだが上手に巻かないとホゼてくるし、巻きすぎると糸がくずれてしまう。

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明日は小学校1年生の長女に織らせてみるつもり
器用ものの長女は見ようみまねで上手に糸をあつかうので、きっといい織り手になることだろう。
夜、しまい風呂で長女といっしょに髪を洗う。
はたを織り始める日は別に決まった日はないが、髪の汚れをとり、ひとすじの乱れもかいように髪を結いあげた。

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やや小柄の長女は、機にあがったものの踏み板に足がとどかない。
冬でも素足で機は踏むものなので、長女の素足に木の枕を結びつける。
母さんもこうやっておはたにあがったの、機を踏みきっていると足はほこほこしてきたものだと、長女をさとす。
 布は、織りはじめがすぼまないように藁を1本人れたが嫁入った家では、織りけじめにシンシをはる。竹の両端に針がついているのが伸子なのだが、一寸ばかり織ってばシンシを少しずつずらして打ちかえる。
 トンカラトンカラ、根気のよい長女は上手に布を織りすすめる。
モメンは一日一反、ジギヌは一日四尺しかのびない。
オリコンは、ヒトハ夕で二反分の糸を機に巻き上げて二反続けて織っていた。
 織りしまいには、カザリの開ヘヒが入らなく々るまで織るのだが、ハタセが短かくなって手まりが出来なくなるのが心配で、早く織りじまいにしようとしても、なかなか織りじまいにはしてもらえかかった。

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 師走女に手をさすな という諺のとおり、夜の目もねずにに女は機を織り家族の衣管理を一手に引き受けていた。それでも月のもののときは機にあがらず、糸を巻いたり繰ったりわきの仕事をするのがならいだった。
  お正月がすんでからもハルハタを織った。
縁側などの明るいところで機を織っていると、家のすぐ前の街道が気にとってしようがない。
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阿波から讃岐へ峠を越えてやってくるデコまわし、とりたててにぎにぎしく来るわけでもないのだけど、気もそぞろに機の糸をさってしまう。
細い糸がうまくつなげないと泣き出しそうになる。
そうこうするうちに、デコまわしの一行は通り過ぎてけってしまった。
昼食になり、機をおりると隣の家の苗床でデコまわしが三番叟(さんばそう)を舞うというのだ。
もうお機も昼食も放ったらかして隣家まで、走って行った。
苗床や、苗代のまわり、田植えの早苗を束ねる藁などもご祈祷してもらうと、虫がつかず豊かな稔りが約束されていたのだ。こんなことより、年端のゆかない織り子さんにとって、デコ使いが珍らしくて仕方がなかった。
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 デコまわしが通り、傘売りさんも通った。
夏近くになると借耕牛の群れが、りんりんと鈴を鴫して峠道を降りていった。
雨の日も、風の日も、街道のざわめきを聞きながら女は機を織り続けた。
 戦後、衣生治の変化は急速におとずれ、女の管理下におかれていた機織りも忘れられようとしている。それでも老女は、お正月がくると必ずおはたに鏡餅を供えたとか、
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虫か食いはしめた機は、とうとう川へ流されることになった。
 機は、いわれのあるものだから焼いてはならない。
流れ川に流して七夕さまにお返しするのだという信仰を、
老女はがんとして守り通して、機は流されていった。
 そして、「女はテスキになってしもうて」と、テレビの前に座る老女山背で呟いた。

 北條令子 琴南町美合 民俗探訪日記より 
                                

 
淵野(ふちの)というところは、むかしから淵や沼の多いところでした。
沼を開墾して、田圃にしていましたが、田が深いので農作業は大変でした。
特に、田植えのときは吸いこまれそうになるので梯子を置いて苗を植えたといいます。
この淵野のお寺で、働く娘さんがいました。
とってもよく働く娘さんは、夜ぐっすりと眠ります。
よく眠っている娘さんのもとへ、若い男が通って来るようになりました。
若い男は、とても色が自く背もひょろりと高いそうです。
若い男はあまり話もせずに、夜が明けると帰って行きます。
毎晩、通ってくるのはいいのですけどあまりにも肌が冷たく気味が悪くなりました。
体中が、水のなかから出てきたようにひんやりしています。
娘さんは、お母さんに相談してみました。
「どこの人ですか。お名前は」
「わかりません。黙って帰りますもの」
「それじゃ困ります。どこのお人かたしかめましょう」
「でも、名前を言ってくれなかったら…」
「それじゃ、こうしましょう」
お母さんと、娘さんはひそひそと話しあいます。
「糸を長く通した針を、男の着物の裾につけるのです。糸は、くるくるとけるようにしておく
のですよ」
「はい」
「男に、知られないように針を刺すのです」
「はい。わかったわ」
「くれぐれも、気をつけて…」
娘さんは、お母さんに教えられたとおり男の着物の裾に針を刺しました。
翌朝、お母さんは娘の寝室から延びている糸をたどって行きました。
糸は、屋敷の外まで続いています。
そして、まだまだ長く延びているではありませんか。
田を越え、沼を越え、淵のなかへ入っています。
深い淵は、土路が淵です。
お母さんは、土路が淵の中をのぞきこみました。
すると、ぼそぽそと話す声が聞こえてきました。
「正体をさとられてしまったな。もう、通ってはいけないぞ」
「でも、娘の腹には子が宿っているワ」
色の白い男と思ったのは、土路が淵の蛇だったのです。
娘さんは、妊娠しているというのです。
それも、蛇の子を宿してしまったというので、お母さんはびっくりしてしまいました。
でも、お母さんは、あわてません。
なおも、聞き耳をたてていました。
「しかしな、人間というものは利口なものだ。菖蒲の酒を飲むと、子はおりてしまう…」
土路が淵の蛇の親子の話し声です。
お母さんはこれはいいことを聞いたと、いそぎ足で帰ってきました。
菖蒲の酒とは、五月五日の節旬の菖蒲を浸したものです。
同じように二月三日の、酒も効果があるといいます。

「お前は、たいへんなことになっています。はやく、菖蒲のお酒を飲みなさい」 
一ぱい、二はい、もう一ぱいと娘さんは菖蒲の酒を飲みました。
ほどよく菖蒲酒が身体にいきわたったころ娘さんは、お腹が痛くなりました。
つきあげてくるような、ものすごい痛さです。
痛さにうずくまっていた娘さんは、驚いなたことに蛇の子を産みました。
盥に、七たらい半、蛇の子を産んだのです。
蛇の子を産んだあと、娘さんはは亡くなりました。
もちろん、蛇の子も死にました。
  沼や淵の多い淵野には、娘さんのお墓がひりと建ててあります。
そして、節句の酒は、飲むものだと言い伝えられています。

                            北条令子 さぬきの伝説 より

三頭峠の谷あいに、権兵衛さんと二人の娘さんが住んでいました。
権兵衛は、谷川の流れをせき止めて、田を造ろうと思うのですがなかなかの難工事です。
何度、造っても流されてしまいます。
「谷をせき止められたら、いいのになあ。
堤を築いてくれたら、わしの娘を嫁にやってもいい…」
権兵衛のひとりごとを、山の猿が聞いていました。
山の大猿が、聞き耳をたてていたのです。
大猿は、さっそく猿どもを呼び集めて堤を築きはじめました。
権兵衛がいくら努力しても築くことのできなかった堤を、大猿はこともなく成し遂げました。
ある夜のこと、権兵衛の家の戸をほとほとた たくものがいます。出てみると、大猿です。
「お約束のものを、いただきにきました」
「なに、約束とな…」
「谷をせき止めました」
「えっ…」
権兵衛は、びっくりしました。でも、谷をせき止め田ができるというのはうれしいことです。
あれほどの難工事を成し遂げてくれたのだから、約束は守らなければなりません。
さっそく、二人の娘に聞いてみました。
「堤を築いてくれたら、娘を嫁にやると約束をした。おまえ、猿の嫁さまになってくれるか」
「いやです。そんなこと絶対にいやです」
一番上の姉娘は、絶対にいやだといいます。
今度は、二番目の娘に聞いてみました。
「猿の嫁さまに行ってくれぬか」
「勝手に約束したのでしょ。私は知りませんわ。
猿の嫁さまなんて死んだって、いやよ」
二番目の娘も、死んでもいやだと、いいます。
二番目、末の娘に聞いてみました。
「猿の嫁さまに…」
権兵衛は、もうあきらめていました。
末の娘も、いやだというにちがいないと思っていました。ところが、
「お父さんが約束したのだから、私が嫁に行きましょう」
「なに、行ってくれるのか…」
「はい。持って行きたいものがありますから用意してください」
権兵衛は、涙を流してよろこびました。そして、末の娘が欲しいというものを整えました。
それは、水がめと綿。
綿を、水がめに詰めます。
それと、かんざし。きれいなびらびらかんざしを、髪にさして猿の嫁さまになるというのです。
婿殿の大猿が、嫁さまを迎えにやってきました。
末娘は、綿を詰めた水がめを婿殿に背負ってもらい、びらびらかんざしをゆらしてついてゆきます。大猿は、ふりかえっては嫁さまをたしかめます。
末娘は、にっこり笑っては花かんざしをゆらします。
山の風が、嫁入り唄を歌ってくれます。
谷の流れがきらきらとかがやき、小鳥たちも嫁さまの美しさに見ほれているようです。
山の道を登り、淵のほとりへ来かかりました。
末娘は、きものを直すふりをして、かんざしを淵へ投げこみました‥
「あ―れ、私の大事なかんざしが滞へ落ちました。早く拾っておくれ、早く、早く…」
嫁さまの悲鳴に、大猿は大あわて。嫁さまの大事なかんざしを、早く拾おうと淵へ飛びこみ
ました。水がめを背負ったまま、淵へ飛びこんだのです。水がめのなかには、綿がぎっしり詰
められているので、水を吸った綿はだんだん重くなってきます。
大猿は淵へ飛び込んだまま、いくら待っても姿を現わしませんでした。淵の流れの音は、いつもと同じように響いているのに、猿の婿殿は帰ってきません。
末娘は、ふたたび権兵衛の家へ戻ってきました。
でも、人々は、末娘のことを「猿後家」と呼びました。
三頭峠のあたりで、猿後家は住んでいましたが、現在はどこへ行ったのかわかりません。

琴南町史より

 三角は、するどい角をもった崖山がそそりたっているところから、名付けられました。三つの角を持った岩石の底を流れる渓流は、とびっきり美しく冷たい流れ、清らかな流れは、龍神さまもお好きと見え、三角の淵には、龍神社がお祀りされてあります。
さて、三角の地名は、かって「御門」とも「御帝」とも呼ばれていました。そして、「三霞洞」となり、現在は「美霞洞」。温泉は「三角の美霞,洞温泉」と呼ばれ親しまれています。
さて、この淵の話は数えきれないほどたくさんあります。
そのひとつ、三角の淵と大蛇のお話をはじめましょう。
むかし、戦国時代も終わりのころ、武田八郎という武士が、三角までやってきました。
そのころ三角の集落では、人々がおそれおののいていました。
淵の大蛇が、通行人や山里の人を襲うというのです。
武田八郎は大蛇の話を聞き、人々を苦しめる大蛇を退治しようと考えました。
山中の小屋にたてこもって、矢を作りはじめました。
ある日のこと、美しい女が訪ねてきました。
「矢を、作っているのですね。矢は、何本作るのでしょうか」
武田八郎は、あやしい女が来たものだと思いながら答えました。
「ああ、矢を作っている。ここは、女の来るところではない。早く帰れ」
「あの―、矢は何本作っているのですか」
女は、何度も聞きます。そこを、動こうともしません。
八郎は、少しめんどうになってきました。
「矢は、九十九本だ」
  八郎が答えると、女はどこへともなく姿を消してしまいました。
矢の用意が整ったので日も暮れてから、八郎は三角の淵へやってきました。
大蛇の現れるのを、待つつもりです。
草木も眠る丑三刻、なんともいえない生臭い風が吹いてきました。
淵の底から、ご―お―と音がしたかと思うと、淵の水が泡だちもりあがってきます。水しぶきがあがり、水が、あふれはじめます。
ものすごい音です。
もりあがった水の中から、なにかが迫ってきます。
武田八郎、弓に矢をつがえてよくよく見ると、
淵の真ん中に立ちあがった大蛇は、頭にすっぽりと鐘をかぶっているではありませんか。 
一の矢を、力いっぱい放ちました。
第二矢、第二矢、いくら矢を射ても、矢はカーン、カーンと、はねかえされてしまいます。
九十九本の矢は、たちまち射うくしてしまいました。
すると大蛇は、かぶっていた釣鐘をはねののけ炎のような舌を出して、武田八郎をひとのみにしようと襲つてきます。
八郎は、かくし持っていた一本の矢を必死で射ました。
矢は、大蛇の喉首を見事射ぬくことができました。
八郎は、矢を百本持っていたのです。
今まで盛り上がっていた淵の水が急に引きはじめ、
大蛇の姿は淵の底へ底へと沈んでいきました。

こんなことがあってから、三角の淵の大蛇は二度と人を襲うことはなくなりました。
人々に害を加えることがなくなったばかりか、逆に日照り続きの早魃の年には三角の淵の雄淵に筏を浮かべて雨乞いのお祈りをすると、必ず雨を降らせてくれます。
また、遠くの人たちは三角の淵へ、水をもらいにやってきます。
淵の水を汲んで帰り祈願をこめると、必ず雨が降りだします。
三角の淵は、雨乞いの淵としても有名になりました。

琴南町史より

  大干魃の年は龍神様にお祈りをして、雨を乞う雨乞い神事が行われた。八峯龍神にも、阿波と讃岐の両農民が集って三・七・二十一日の願をこめて祈ったものである。これは八峯にある大池小池で雨乞いをした時のできごとで、古老から聞かされた話である。

 二十一日の間、昼夜の別なく、神楽火をたき神に祈ったが一粒の雨も降らなかった。当時の神職は悪気はなかったが
「これ程みながお願いしているのに、今だに雨の降る様子がない、龍神の正体はあるのか、あるなれば見せてみよ」と言った
ところ、言い終ると一匹の小蛇が池の廻りを泳いでいた。

「それが正体か、それでは神通力はないのか」と言った。
すると急にあたりがさわがしくなり、黒い雲が一面に空を覆い、東の空から「ピカピカゴロゴロ」という音がしたかと思うと、池の中程に白い泡が立ち、その中から大きな口を開き、赤い炎のような舌を出した大蛇が、今にも神職をひと飲みにしようと池の中から出て来た。

これを見た神職は顔色は真青になり、一目散に逃げ帰った。
然し大蛇は彼の後を追いかけて来たものの疲れたのか、その場にあった一本の松の木の枝に首をかけてひと休みしたと伝えられる。
 今もその松を首架松といわれている。池からその松の所までは百五十米もあるが、大蛇の尾が池に残っていたというのだから大きさに驚かされる。
 神職は家に帰ったが家内のものには何も話さず、一室にとじこもったまま高熱を出して、数日後に家族が心配していたが、この世を去って行ったとのことである。
 彼は死を目前にして家族のものを集め、今後一切八峯大池小池には近よらない様にと遺言したそうな。
                讃岐の人々編集事務局所収
 
九頭龍大神 ⑤ 弁財天と如意宝珠 : 追跡アマミキヨ

  ○ 川女郎の泣き声
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声をひそめるように語る老女は、
爺から聞いたがもうおそろしゅて、はばかりへもたてなかった。
と言いながら記憶をたぐりよせてくれる。
 土器川の上流、清い流れの音が聞えるあたりに住まいを持つ人々は、
四季おりおり川の流れを見て暮らした。
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川女郎が泣いて大声をあげるようになると、川が氾濫するという。
川岸の岩と岩との間へ、川女郎は子をもうけてある。
流れがおだやかな日はいいのだが、水があふれそうになると、
大事な赤ちゃんが流されてしまうと泣くのだという。
まるで、人間が哀しむような泣き声の川女郎はさばえ髪をして、
人にゆき逢うものならさばえ髪の頭でふりかえる。
にっこり笑ったつもりの川女郎の唇からは馬鍬のこのような歯が見えた。
ゆき逢った人は、悲鳴をあげて逃げてゆく。
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あんまりわるさはしなかりた池いう川女郎に、逢った人は意外と多い
「川女郎の赤ちゃんのお父さんは誰なの」
と老女に質問すると
「それは聞かんだわ、今度合ったらきいておくわな」
と老女はスマしている。
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トウダイツノの鹿は大川神社のお使い姫
この川をどんどんのぼっていくと山と山のはざまの谷に至る。
谷川に水を飲みに来る鹿が住んでいった。
狩りをする人のことをセッショウニンと呼んでいたが、
山漁の達人だったおじいさんが炭焼きに行って鹿の尾角を拾ったことがある。
二年叉、三年又の見事な鹿の角が落ちていたと言うのだ。
この鹿の角を拾ってかえり、笛を作る。
手造りの角を吹くと、雄がケンケン寄ってくるそうな。
ケンヶン寄ってくるの雉は雄の雉。
そうすると、落角の笛は雉の雌の鴫き声ということになるのか。
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美合の山では、鹿の夫婦が山々をかけめぐり、恋の季節をたのしむ雉も住んでいた。
しかし、「鹿は、やたらに射るものでない」と、戒められていた。
トウダイツノの鹿は大川神社のお使い姫だとも教えられていた。
 ある日のこと、大川山へ出かけて行った山伏が、灯台角の鹿と出逢った。
これはいい獲物とばかり、鹿を射殺してしまった。
ところが翌朝のこと、鹿を射殺した山伏は野田小屋の桜の木のまたに吊りあげられていたと言うのだ。山伏が吊るされたという桜の古木は枯れてしまったが、古株は残されている。
 そして、野田小屋にある社のご神体はみつまたの灯台角だと伝えられている。
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「相撲をとらんか」とこわっぱが誘う
 峠を越えると山の細道は、下り坂となる。
つんのめるように降りるきんま道は谷川の流れに沿って、ぐんぐんくだる。
谷川の水がより集まって落ちこむところが渕となり、水音が急に高くなる。
山の尾が寄りあい、谷川の水が流れ込む。
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 雨降りあげくの日も暮れかかるころ渕のほとりを通りかかると、
小さな子供が出てきて
  「相撲をとらんか」と、いう。
こわっぱが相撲をとらんか言うて生意気な、
一手で負かしてやろうと相手になるともうおしまい。
へとへとになるまで相撲をとらされる。
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相手になるなと古老に戒められているのに、あんまりこんまい子なので、
つい負かしてやろうと取りはじめて動けなくなった者が多い。
あれは、子供でなくてマモノなのだ。
変化のものなのだと、
雨降り後水かさの増した渕の側はおそろしくて通ることができない
北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より
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まんのう町の旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。そこには、妖怪が住んでいたらしくいくつもの妖怪の話が伝わります。
その中からとっておきの妖怪を紹介します。
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炭焼き小屋を訪ねてくるオオブロシキ
深山の静けさの中にいると、急に燈台角の鹿が現れても不思議がないような木立の茂みだ
このあたり、炭焼き小屋の跡が転々と散在している。
この小屋を訪れる妖怪も多かった。
炭を焼くときには、夜通し山に籠もるので寝起きをする小屋を造る。
小屋の中で茶もわかすし、飯も炊く。
そして腹持ちのよい餅も焼いた
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餅を焼くと芳ばしい匂いが山の隅々へまでただよってゆくとみえ、
人り口に吊るしたむしろを持ちあげてにゅうと、爺が入ってきた。
囲炉裏のほとりで、だまって火にあたって帰ってゆく。
黙って火にあたっているうちはいいのだが、餅を一つおくれとばかり手を出す。

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餅を焼き始めると爺がやってくる。
そして、火にあたりながら金玉をひろげはじめた。
なんぼでも広げる。
こりゃ包まれたら大変と、
山小屋の主はその広げたもの中へ焚木のもえかぶをほうりこんだ。
「キャキャッ」と泣き声をたて、山の奥へ爺は逃げこんでいった。
オオブロシキという妖怪だそうで、
広げたものの中へ人間をつつみこんでしまうともいう。
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炭焼き小屋には、ショウペンノミもやってきた。
小屋の外へたんごを置き、その中へ用を足していたのだが、
その小便をきれいに飲むものがいた。
塩気を欲するオオカミさんだとも言っていたが、
あからさまにしないところがおもしろい。
しかし、オオカミさんがいかって鴫く夜は山小屋で震えあがったと話してくれた。

 小さな蜘蛛が人間を捕まえる話。
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 瀬戸の浜辺でとれた塩を峠を越えて阿波に運ぶ塩売さんから聞いた話
里から塩売りさんが渕のほこりの樹陰で一休み、
よほどつかれていたとみえ塩売りさんはうとうとうたたねをはじめた。
すると木の枝からするすると降りてきた蜘蛛が、男の足の親指へ糸をかけはじめた。
行ったり来たり、何度も往復してしっかり糸をからませる。
寝たふりをして見ていると蜘蛛はまだしきりに行ったり来たり、
男は親指の糸を木の伐株にひょいとかけなおした。
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もう十分に糸は掛け終えたものとみえ、
蜘蛛は底のしれない渕のあたりへ降りていった。
と、木の伐り蛛がものすごい音とともに渕の底へ引つぱりこまれた。
塩売りさんは、すっくりと立ちあがり軽々と荷をになって、
すたすたと去って行ったというはなし。
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その他、タオリバアとかタカンボさんとか山の妖怪には限りがありません。
祀られなくなった神の零落した姿が妖怪だといわれますが、よくは分かりません。
山の住人は、こんな妖怪たちにも恐ればかりでなく、
親しみを持って暮らしていたようすが伝わって来ます。
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参考文献
北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より

まんのう町美合に伝わるお堂のお話
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まんのう町の南部の旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。
そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。
そこに伝わるお堂の話を紹介します。

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阿波から峠を越えてきた旅人が、水にのまれてしまった。
近所の子供が谷川へ落ちそうになった。
しかし、いくら恐しくてもこの道を通らなければならないと、
村人が困りはてているところへ山からまくれ落ちてきたものがある。
ころころ山から落ちてきたのは、石のお地蔵さん。
ありゃ、これは大川のお地蔵さんではないか。
はよ、もとの場所へお返ししとかんと、と村人はもとのところへお返しした。
ところが、翌朝行ってみるとまた一夜のうちにころころまくれ落ちてきている。
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村の人々は、おだやかなお地蔵さまのお顔を見ながら話しあった。
「これは、ここがお好きなのじゃ」
じゃここへお祀りすることにしようと衆議は一決。
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裏のおじいさんは、栗の木を伐ってきた。桜の丸太も持ってきた。
檜の柱も、床を張る杉板も集まった。
藁を一束、繩も
 一往、
竹藪でぼんぼん竹を伐る人。屋根ふきの達者が竹の長さを指図する。
小麦藁で葺いた屋根の厚みが整然と美しい。
茶堂は東向き、二間四面の大和天井、三方開け放しの一方へ、
ころがり落ちてきたお地蔵さんを安置した。
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むかいの婆が縫ってきた赤い前かけが、まるでお地蔵さまの晴れ着のよう。
三方壁なしの茶堂の前で、
だれから山仕事に行く人も、田畑を打ちにゆく人も、たちどまって掌を合わす。
陽ざしがきつい峠道を越えてきた旅人が、一休みして汗を拭く。
谷川の流れで手足を洗い、昼寝をたのしむ人もいる。
あけびを山龍いっぱいつんで帰る悪童が、お地蔵さまの前ヘーつ供えた。
一つ供えたあけび敲をそのままに、水の澄んだ流れに入りこみ魚を追っかけはしめた。
お地蔵さまは、にこにこにこにあけび龍の番。
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手も足も泥だらけの童が板の間へあがりこんで、供物を盗んでも知らぬ顔。
童ばかりか、山から降りてきた小猿も山犬もお供えを無断でいただく。
今年も秋の取り入れが終わるとお地蔵さまの前で‘お接待がはじまる。
めぐってくる遍路の中にはお大師さまがいらしゃるかもしれないと毎年、お接待をかかしたことはがない。
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秋の取り入れがすむと、茶堂でお接待をすることになっていました。
茶堂が、もとのかたちのままで残されたきた背景には、素朴な信仰が根強く生き続けているからのようです。


北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より
                                

満濃池をこわした国司の物語(『今昔物語集』巻三十一より)

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昔むかし、讃岐の国のいなかに、満濃の池という、それは大きな池がありました。土地には水が少なく、満足に米もとれずに、みんなつらい暮らしをしておったとか。
 そのころ、高野山に、弘法人師さまというえらいお坊さまがおってのう、みんなのなんぎを聞いて、たいそう心をいためられたそうな。「かわいそうになあ。これでは、みんな、ごはんを食べられなくなってしまう」
 そこで弘法人師さまは、何かしてやれることはないかと知恵をしばったそうな。
「おお、そうじゃ! ひとつ、この上地に人きな池をつくってやろうか!」 思いたつと、方々から人を集めなさったと!・
 弘法人師さまのおやさしい人柄をしたって、それはもう、たくさんの人が集まってきたそうじゃ。

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こうしてできた池の大きいこと。堤も、それはそれは高く作られました。
  とても池とは思えんのう
   こりゃあ、海ではないかい
  土地の人々はみんなうわさしあったそうな。
あまりに大きくて向こう岸がぼーっとかすんではっきり見えません。みんな大喜びで大事に使うことにしました。
 それまでは、日照りが多く、田柚えどきには水不足に泣かされていましたが、この池のおかけで、どこのたんぼも、水を引くことができ、ぶじにうるおうことができたとか。
 朝廷からも、たくさんの川をつなぐ力をいただき、絶えることがなかったそうな。

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池の中には、大きいのやら、小さいのやら、いろんな魚が住んでいて、みんなどんどん魚をとっていました。でも、魚はいくらでもおったので、どれだけとってもいなくなることはありません。
あるとき、領主様が、この国の人々やら、館の人々やらをおおぜい集めて、お話をなさったとか。
 そのおりにも、満濃の池の話でもちきりだったそうな。
「なんと! 満濃の池には、いろんな魚がいっぱいおるそうじゃと!三尺の鯉でもおるじやろう」
 だれがいうたか、そのことが領主様の耳にはいってしまいました。
 「それは、ぜひとも欲しいものよ」
 領主様は思いたって、おいいつけなさった。
 「この池の魚をとる! 用意いたせ!」
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ところが、池の深いこと、深いこと。       
 下りていって網をしかけることもできぬほど。
そんならどうしたらよかろうかと、みんなで頭をひねっていたら、
 「この池の堤に大きな穴をあけよ’・
 そこから出る水の落ちるところにしかけをせよ
流れでる魚をとるのじや」
 家来衆がいうとおりにするとぱーつと勢いよく水が吹き出し、出るわ、出るわ、次々とたくさんの魚が出てきました。
 「やったあ! 大漁じゃあ」
   ところがその後、穴をふさごうとしましたがものすごい勢いで水が吹き出し、どうしてもふさぐことができません。
 そこに堤をつくり、木の樋を打ちつけ、少しずつ水を流すようにしたところ、池はそのおかげでなんとかもたせることができました。
「しかしまあ、この穴は、堤をぶちぬいてできた穴だもんな。
しかもこんなに大きい穴、大丈夫かいな」
  みんな、ほんに考えこんだそうな。
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  はたして梅雨がきて、どしゃぶりの雨がつづき、たくさんの川に水があふれ、それが全部、この池に流れこみはじめました。
さあ、たいへんです。
ゆき場のない水が、出口をもとめていっきに穴をめがけて押し寄せたのでもうたまりません。あれよあれよというまに、堤はこわれてしまい、池の水は残らず流れ出てしまいました。    
  「助けてくれ! 流される」
   おらんとこの、家も田んぼも畑も、めちゃめちゃじゃあ
  泣いても、叫んでも、もうどうにもなりません。
  みんな、何もかもなくしてしまいました。

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国の人たちは、これにすっかりこりて、池は小さく造ろうと考えました。
 そんなわけで、小さな池をなんぼでもつくったものの、池はすぐにひからびてしまい水は残りません。池のあった跡さえ、判らないようになってしまいました。
 悪いのは、なにがなんでも三尺の鯉が欲しいというたご領主様じゃ。ご領主様のせいで、あの生き仏様が、弘法大師さまが、土地の衆をかわいそうに思うて、せっか く造ってくたさった池をなくしてしもうた。ばちあたりなことはかりしれんわ。この池の崩れたことでたくさんの人が家を壊され、たんぼや畑をなくしてしまいました。
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 それもこれも、みんな、ご領主様のせいじゃ」
 だれもがそういうたとか。
 「池のなかの魚を、ちょっととりたいばっかりに、池をこわしてしまうとは、なんたるこっちや」
 [大きなむだじゃ。しょうのないご領主様じゃ]
 そう言って、みんな怒り、嘆きました。

 まあそういうことで、人間は欲張ってはいけません。
 他国の人々までも、今にいたるまで、ご領主様の悪口を言っているとか。
 その池の跡は今もまだ残っているそうな。

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