瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:三豊の歴史 > 観音寺市

讃岐の風流雨乞踊りの伝播について、私は次のような仮説を考えています。
滝宮念仏踊りの変遷

①滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)の別当寺である龍燈院滝宮寺の社僧達は、蘇民将来の札などを配布することで信仰圏を拡げた。
②その際に社僧達(修験者・聖)たちは、祖先供養として念仏踊りを伝えた。
③こうして滝宮周辺では郷を越えた規模で踊組が形成され、郷社などに奉納されるようになった。
④それが牛頭信仰の中心地である滝宮に奉納されるようになった。
⑤生駒藩は、これを保護奨励したために滝宮への踊り込みは、大きなレクレーションとして成長した。
⑥一方、高松初代藩主・松平頼重は、この踊りを統制コントロールし、「雨乞踊り」として整備した。
⑦そのため滝宮念仏踊りは、もともとは風流念仏踊りであったが、次第に雨乞い念仏踊りとされるようになった。

この中で史料がないのが②です。滝宮念仏踊りの由来には次のように伝えられています。
A 菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになった
B 法然上人が雨乞いのための念仏踊りを伝えた
これでは②の「社僧達(修験者・聖)たちが、祖先供養として念仏踊りを伝えた。」という仮説を裏付けることはできません。そこで「迂回ルート」として、滝宮周辺の念仏踊りや風流踊りについて調べています。今回は、讃岐西端の豊浜の和田・姫浜と大野原の田野々に伝わる風流系雨乞踊りを見ていくことにします。テキストは   「和田雨乞踊り・姫浜・田野々雨乞い踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
この3つの雨乞踊は、伝承系統が同じと研究者は考えています。
それはひとりの「芸能伝達者」によって伝えられたとされているからです。どんな人物が、この地にこれらの風流雨乞い踊りを伝えたのでしょうか。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町和田道溝(みちぶち)
和田の道溝集落の壬申岡墓地に、薩摩法師の宝医印塔と墓碑があります。そこには、次のように記されています。
往古夏大旱、和田村庶民之を憂ふ。法師をして祈らしむ。法師はもと薩摩の人。自ら踊り其の村民に教へて雨を祈り、壬生岡に念ずる頃、 これ天乃ち雨ふり、年則ち大いに熟す。

  意訳変換しておくと
昔、大旱魃で和田村の人達が苦しんでいると、薩摩の法師が人々に、踊りを教えて壬生岡で雨乞祈願すると、雨が降り、その年は豊作となった。

ここには薩摩法師が歌と踊りを村人に教えて、雨乞祈願させたのに始まるとあります。そして墓の建立世話人には和田、姫浜、田野々の人々の名前が連なっています。

和田・田野々
和田・姫浜・田野々
 以上からは、3つの雨乞踊りが薩摩法師という廻国聖によって運ばれて来たことが裏付けられます。ただ、この「芸能伝播者」が「薩摩法師」だったかどうかについては疑問があるようです。「薩摩法師」説は、歌の中に次のような「薩摩」という歌があることから来ています。
薩摩

内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。この歌詞を早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性を武田明氏は指摘します。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。どちらにしても、和田、田野々などの踊り歌は、遍歴の「芸能伝達者」によってもたらされたことになります。
①踊りの歌詞が共に、慶長年間に和田にやってきた薩摩法師が伝えたとされること。
②曲目も「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられること。
以上を押さえておきます。
和田風流踊り 西讃府誌
    和田雨乞い踊り(西讃府誌)
和田雨乞い踊りについて、西讃府誌は次のように記します。

姫濱和田ナドニモ雨乞ノ踊舞ァリ、姫濱ナルヲ屋形トイヒ、和田ナルフ雨花卜云、踊ノサマハカハリタルコトナケンド、歌ノ、同ジカラズ。其サマ太鼓扱打八人、花笠ヲカツキ、太鼓を胸二結付、蝶脚(ておい)絆ヲナシ、鞋ヲ着テ輪ヲナシテ廻リ立、コレガ間二音頭ノ者数人交リ立テ、鼓ノ曲節ノマヽニウタフ、サテ其外ノ廻リニ、編笠ヲカプキタルガ、数十人メグリ立テ踊ル。其外二童子敷十人、叉編笠ヲキテメグリ踊ナリ、
 
    意訳変換しておくと
姫浜と和田には雨乞踊りがあり、姫浜のものを屋形踊り、和田のものを雨花踊りと呼ぶ。両者の踊りに違いはないが、歌詞が異なる所はある。芸態は太鼓打8人で、花笠を被り、太鼓を胸二に結びつけ、蝶脚(ておい)絆を着けて、鞋を履いて丸く輪を作る。この間に音頭(歌歌い)数人が入って、太鼓に合わせて歌う。その外廻りには、編笠を被った数十人が囲んで踊る。その外に童子が数十人、編笠を着て踊る。

ここからは 太鼓打が八人、音頭の者数人が中央にまとまり、その外側に数十人が輪を作り、その外に子供たちがまた数十人めぐって、二重の円陣の踊ったことが分かります。これは隊形や歌詞などから、もともとは盆踊りとして踊られていたものであったことが分かります。

和田風流踊の歌詞は、近世初期の歌謡だと研究者は指摘します。
その多くが綾子踊と同じ系統の風流小歌踊の歌詞です。第1章「雨花」のなかには、次のように地元の地名が出てきます。
大谷山にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり。
伊吹の嶋にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり
ここには「大谷山」や「伊吹島」のような地元の地名が出てきて、郷土色を感じさせます。しかし、それ以外には讃岐や三豊の地域性を感じさせるものはありません。各地の港を廻遊する船頭の目から見た「港町ブルース」のような感じです。定住者の目ではなく「旅する者の意識」で歌われていると研究者は指摘します。以下を簡単に見ておくと
第8章の「濃紅」は、寺の小姓との衆道の情調
和田風流踊り 濃紅
第2章の「屋形」・第11章の「めてた」は、屋敷褒めの歌です。
和田風流踊り 11番目立度

「めてた」の中に、次のように「歌連歌」という言葉が出てきます。

こなたのお手いを見てあれは、諸国のさむらひ集りて、弓張りほふ丁、歌連歌、たいこのがくうつ人もあり。

武士が歌連歌に興ずるのは、室町か江戸初期の風俗です。ここからもこの歌詞の時代がうかがえます。また次のような句法は、江戸時代初期の歌謡によく使われたようです。
雨ばなをどりを一をどり一をどり、       (第二章「雨花」)
やかたのをどりを一をどり一をどり、    (第二章「屋形」)
四季のをどりをいぎをどろふや、           (第二章「四季」)
さつまのをどりを一をどり一をどり、    (第五章「薩摩」)
とのこのをどりを一をどり一をどり、    (第九章「御段」)
以上からは、和田の風流踊は中世末から近世にかけて歌われていた風流歌であると研究者は考えています。私が注目するのは、次の記述です。
   (和田の)雨花踊は、雨乞踊というよりも、それ以上に雨乞御礼踊としてよく踊られたという。舞踊の振に舞の手があるといわれ、また子供も交わって踊るはなやいだ気分のものであり、多くの盆踊りと同じく中央に歌い手と囃子がおり、その周囲を踊り手が廻る形である。
ここでは和田の雨花踊は、「①中世の風流踊り → 雨乞御礼踊(成就お礼踊) → 雨乞踊」と変遷してきたことを押さえておきます。

豊浜国友寺
国祐寺(豊浜町台山)
雨乞祈願が行われた国祐寺には、次のような記録が残っています。
第15世松樹院日豊(安永三丙午八月廿六日没)が書き残した「新宮両社建立諸記」に次のように記されています。
宝歴十二壬午五月十六ノ暁ヨリ十八日迄二夜三日台山龍王ニテ雨請ス
同五日廿二日雨請礼踊在之候依之廿日二村之五人頭岡之停兵衛使二而案内申来候而廿一日之昼ヨリ村人足二催領人岡伝兵衛相添寺内之掃除二参申候。(注記「躍子太鼓打昇り持ニハ握飯二ツナラシニ遣シ申候」)
宝歴十二年六月廿五日 雨請之踊在之廿二日之昼五人頭太四郎使二雨申来候掃除人足水打人足如前。
意訳変換しておくと
宝歴十二(1762)年5月16日の暁から18日まで2夜3日に渡って台山の龍王社で雨請を行った。5月22日に雨請成就のお礼踊が行われることになり、20日に五人頭の岡之伝兵衛が、21日昼より国裕寺の寺内の掃除を人足達と行う事を伝えにやってきた。注記、「踊子と太鼓打と幟持には握飯2つを配布すると云った」)
宝歴十二(1762)年6月25日 五人頭の太四郎が使者としてやってきて、雨請踊を22日昼に行う。ついては、掃除人足・水打人足については前例通りと告げた。
台山の龍王社に籠って、雨乞いをして、雨が降ると雨乞成就のお礼として、踊りが踊られています。
明和三戌六月七日雨請踊在之候急之儀二而躍子笠なしにてをどり申候此方二而者宮斗二而済申候八日昼時分より雨ふり申候得共少々斗に而在之候
十日雨請之礼躍在之候
同月十七日之暁より十九日迄ニ二夜三日之雨請也 富山之龍王江籠り申候
六月廿六日礼躍在之候
七月十八日より同廿日迄二夜三日雨請いたし申候―八日七ツ時台山にて躍諸役人中は直に宮江籠申
  意訳変換しておくと
明和三(1783)年6月7日雨乞踊が急遽行われることになり、踊り子の中には、笠がないままで踊った者もいたという。この時には翌日の8日昼頃から雨が降った。しかし、少量であった。
10日に雨乞成就のお礼踊りを行った
6月17日の暁から19日までの2夜3日、当国裕寺の龍王へ籠もり雨乞を行った。
6月26日 (雨が降ったので)お礼踊りを行った
7月18日から20日まで二夜三日、雨請祈願を行った。18日七ツ時に、台山で踊諸役人たちは宮(龍王社)へ籠った。

  ここからは次のような事が分かります。
①18世紀後半に豊浜の和田では、旱魃の時には台山の龍王祠で雨乞いが行われていた
②そして雨が降ると台山の国裕寺の境内で雨乞成就のお礼踊りが奉納されていた
この史料からは、宝暦、明和のころには、国祐寺での雨請祈祷に合わせて、雨乞踊やその御礼踊が盛んに行われいこたことを押さえておきます。

安政五年に脱稿したという丸亀藩の「西讃府志」に「屋形雨花」として歌詞とともに記録せられています。ここからは安政5年頃にも、和田ではこの踊りが盛大に踊られていたことが分かります。古老の話として伝えられる所によると、和田の風流踊は、もとは和田だけでなく、姫浜および田野々の三地区が一体となって、高尾山の龍王祠で行われたと云います。田野々は高尾山の裏側の大野原町五郷の集落になります。龍王を祀る山の裏と表の両方で、善女龍王信仰が根付き、そこで同じ風流踊りが雨乞いお礼踊りとして踊られていたことを押さえておきます。
  1977(昭和52)年11月23日に行われた香川県教育委員会主催の「ふるさとのつどい」の民俗芸能発表会に出演した記録が次のように残されています。
「奉祈雨元祖薩摩法師和田村道溝講中 ①昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟を先頭に押し立てて、青年団員に指導されて、四十名の小学生の踊り子達が一列に入場して来る。踊子の服装は、紺がすりに赤い欅、日本手繊ざあねさんかぶりをし、ボール紙て作ったたつころばちの形の笠をかぶる。そして赤い手おおいに、水色のきやはんをつけて、胸に締太鼓を掛け、二本の檸を持って、その太鼓を打ちつつ踊る。入場の時には、「宿入り」の歌に合わせて入る。歌い手は、ずっと青年団の者(西原芳正氏)が勤めた。先頭に立った幟持ちが、まず会場の中央に幟を持って立ち、その傍に台に乗せた太鼓を置き、一人の男の打手(青年団)が、二本の標を持って構える。その周囲を四十名の踊子達が円陣に並び、左の方へ右廻りに廻りつつ踊る。歌い手は、円陣の外側正面の所に立って歌う。踊りは、太鼓の、カンカン トコトン トントコトントコ トントコトンという一区切りごとに、同じ振りを繰り返してゆく。踊の歌は十二章まであるが、その一章ごとに踊の振りはかわってゆく。また曲打ちというのがあって、太鼓の曲だけとなりそれに踊を合わせるというところもある。
踊子は男女の子連に少し女子青年も交っていたが、昔は男だけで踊り、ゆかた禅がけでたっころばち(たからばち)も紙製ではなく、本物をかぶったという。歌い手も、円陣の外側に立つのではなく、円陣の中であった。
①「昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟」というのは、昭頭家和の大旱魃の年に、県の通達で雨乞祈祷や踊りを復活実施したときに、作られた幟でしょう。
それより前の大正の大旱魃があった大正12年8月には、御礼踊として、以下の順で奉納されています。
①和田浜の高尾山の龍王桐(八大龍王)の前
②台山の龍王祠(国祐寺の西)の前
③壬生(にぶ)岡墓地の薩摩法師宝筐印塔前
④和田小学校の校庭で総踊り
この四場所が踊の場所として昔から一般的だったようです。

  大正12年の大旱魃の時にも、県が雨乞踊りの復活実施を通達しています。そのため明治以来、踊られなくなっていた雨乞踊りが各地で復活したことは、以前にお話ししました。前回お話した山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りもこの時に復活したものです。

大正12年雨乞いの御礼踊に、少年として参加した蔦原寿男氏の言葉が次のように載せられています。
あの時も、たしか二重の輪の踊で、総踊というにふさわしいほどの大勢であった。和田地区は、その中央を流れる吉田川を境に、川東組(雲岡・長谷・道溝・梶谷の各部落)と川西組(太村・大平木・直場・岡の各部落)の二つに分れている。それぞれ60名位の組が、東西の龍王宮に参請し、踊を奉納して下山し、国祐寺で両組が合流し、その西の龍王祠(雨龍神社)に八大龍王の幟を建て、その大前で、踊を奉納、終りに今の豊浜南小学校の校庭で、大円陣を作って踊った。お礼踊であるから近郷近在からの見物人は、秋祭の人出をしのぐ程盛大であった。

  以上 和田風流踊りについてまとめておきます。
①和田・姫浜・田野々の風流踊りは、曲目や歌詞が同じであることから同一系のものであること
②それはどの由来も薩摩(琵琶)法師によって伝えられ、墓標が残されていることからも裏付けられる。
③ここからは廻国の薩摩法師が和田地区に住み着き、祖先供養を行い信者を増やしたこと
④その過程で芸能伝達者として、先祖供養の盆踊りとして風流踊りを伝えたこと。
⑤それが台山の龍王祠でも雨乞成就のお礼踊りに転用され、後には雨乞い踊りへと変化していったこと
風流踊り → 先祖供養の盆踊り → 雨乞成就の返礼踊り → 雨乞踊りへと変遷していく姿が見えてきます。これが財田のさいさい踊りなどをへ影響を与え、佐文綾子踊りへとつながるのではないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年
参考文献 「和田念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」

観音寺茂木町 地図
観音寺市茂木町
財田川河口から少し遡った 観音寺市の茂木町には、かつては何軒もの鍛冶屋が並んでいたようです。鍛冶屋の親方が、近郷の村々の馴染みの農民たちが使う農具や刃物を提供したり、修理を行っていました。茂木町は鍛冶屋町でもあったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市
鍛冶屋の風景(滋賀県長浜市)
親方たちは、農具を預かって修理を行うと同時に、農家の二男三男等を弟子として預かり、一人前に育てたようです。鍛冶屋の技術は江戸時代頃から親方のもとで技術を磨く徒弟制度の中ではぐくまれました。義務教育を終えて徒弟に入り、フイゴの火起こしの雑用から始めて、次第に難しい技術を身につけ、それを磨いてきます。技術習得には四、五年の年期がかかったようです。一人前になると、礼奉公の意味で半年か一年居候し、親方からの「年祝ひ」の手製の鍛冶道具をもらって、それぞれの地へ巣立っていったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市の鍛冶

 農具は鍛冶屋に注文し、鍛冶屋で何度も修理して長く使うというのが当たり前でした。モノによっては「一生モノ」もあったようです。農具は、使い捨てではなかったのです。

観音寺茂木町 鍛冶屋 (滋賀県)

戦前の茂木町の鍛冶屋の親方たちは、近郷の農家を年に何回か「出張営業」したようです。
 「日役」で「サイに寸をする」などの注文をその場で行います。これが「居職かじ」です。これを農民たちは「鍛冶屋を使う」と言いました。大百姓は単独で、小百姓は何軒か組んで鍛冶屋を雇ってくることもあったようです。
鍛冶屋
村の鍛冶屋 

「出張営業」の依頼を受けた親方は、小道具をフゴに入れて弟子に天秤捧をかつがせ農家を巡回します。一日の手間賃は、米五升ぐらいが通り相場だったようです。親方のもとで技術を磨いた近郷の二男三男達は、それぞれの自分の出身地に帰り、鍛冶屋を開きます。そのため親方への「出張営業」は減ってきます。そのため、製品を作り商いにその活路を見出すことを求められるようになります。
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岐阜関市の刃物市

 当時は神社仏閣の催しごとがイベントの中心で、人が集まりました。そこには昔から市が立ち、住民のいろいろな生活用品が売られてきました。農機具や刃物も、祭りの市で売られるようになります。茂木町の鍛冶屋が荷車を引いて「出店」した市は、次のようなものです。
本山寺
大野原の八幡宮
仁尾の覚域院
金刀比羅宮
これ以外にも、年に数回は寺社のお祭りで商いをしたようです。

鍛冶屋には「フイゴ祀り」という独自の祭りがありました。

箱フイゴ
箱フイゴ
フイゴは、鉄を加工するために欠かせない道具の一つでした。農具などの鉄製品を造るためには、まずは材料の鉄を加工しやすいように溶かさなければなりません。そのためには強い火力が必要であり、その火力を強める風を炉に送る道具がフイゴです。
 鍛冶屋でのフイゴ祭りのことが次のように記されています。

観音寺茂木町 フイゴ祀り
フイゴ祭り

  フイゴ(鞴)を使う鍛冶屋では、鍛冶屋の神様として守護神金山彦命(かなやまひこのみこと)と迦具土神(かぐつちのかみ)を御祭りしました。大正10年(1921年)頃の記録では、毎年11月8日には仕事を休みんで、フイゴ鞴場の清掃をして注連縄を張り餅等を供え、夕食時にはお祭りの料理を整えて、出入りの職人たちをを招き、家付きの徒弟等も交えて酒宴を催し、近所の子供達にも蜜柑を配ったりしたのでした。(中略)
観音寺茂木町 フイゴ3
黄色マーカーで囲んだのが箱フイゴ

 また近郷村への「日役」の際に、鍛冶屋が使った火口は牛小屋に吊すと、牛が病気をしない魔除けとして信じられていて珍重されたようです。
 三豊の農家の人たちを支えた鍛冶の活動は戦争によって、引き裂かれます。
総動員体制の「全てのモノを戦場へ」のかけ声の下に、鉄は国家統制の対象となり、鍛冶屋の親方や徒弟は軍事工場に徴用されます。鍬や鎌作りから武器作りへと国家によって「配置転換」されます。
 鍛冶屋が一番盛況を極めたのは、戦後復興の時期だと云います。
食糧生産のために開墾・開田が行われ、山の中まで満州帰りの開拓者たちが入った時です。彼らのとって、農具は生きるための生活必需品でした。鍛冶屋の鉄を打つ音が財田川沿いの鍛冶屋に響いたそうです。しかし、それもつかの間です。耕耘機が登場し、農機具が機械化されるようになると、鍬やとんがは脇に置かれ、出番は少なくなります。同時に鍛冶屋の仕事も減っていきます。幹線道路が広くなり、生まれ変わった茂木町の街並みの中に鍛冶屋の痕跡はなにもありません。しかし、ここでは、鉄を打つ音が高く響いていた時があるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

(瀬戸内海歴史民族資料館年報「西讃の鍛冶職人」(丸野昭善)参照)   観音寺市史874P

       
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大野の須賀神社(祇園さん) 
前回は年貢計算書でしたが、今回は手形決済です。年貢を手形決済で行ったのが大野荘です。大野荘は、財田川が山域から平野部に流れ出す三豊市山本町の扇状地に開けた地域で、洪水に苦しめられた所です。ここは京都祇園宮の社領でした。荘園ができると、本領の神々が勧進されるのが常でした。大野郷では京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)を産土神と勧進します。香川郡に大野があるので、これと区別するために西大野と呼ばれたようです
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大野郷の祇園神社
 貞享5(1688)年の当社記録『大埜村両社記』には
「古老相伝ヘテ曰夕、昔牛頭天皇アリ。光ヲ放チテコノ山上ノ北二飛ビ来タル。其所今現ニアリ、コレニヨリ宮殿ヲカマエ、コレヲ祀ル」

とあります。毎年京都の祇園宮への王経供養のための御料として指定されてからは、隆盛を極めたようです。

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『大埜村両社記』には
「大埜地五百石ヲ以テ社領二付シ、七坊ヲ割テ神事ヲ守ル。富栄知ル可キナリ。大社タルヲ以テ毎歳洛ノ祇園ヨリ燈料胡麻三解ヲ課ス
とあり、毎年本宮である京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。今も、この胡麻を収納したと思われる字上岡・字上川原・字南川原の三ヵ所に塚が残っています。
  この程度の予備知識を持って「八坂神社記録」を見てみましょう。
『八坂神社記録』(増補続史料大成) (応安五年(1372)十月廿九日条)
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。
 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。14世紀後半の南北朝時代の記録になります。一行目に
  「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」
とあります。ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。前回見た長尾荘が醍醐寺三宝院に納めていたのは、米麦の現物納入でしたから、こちらの方が進んでいたようです。
ぜに 

 銭一貫=銭千枚ですから納めるべき年貢は銭二万枚です。当時の銭は、日本では鋳造されずに中国の宋銭や明銭を海外交易手に入れて、国内で「流用」していました。そのため何種類もの中国製銅銭が流通していましたが、どれも同価値扱いでした。重さは、十円王より少し重くて一枚五グラム程度です。そうすると、2万枚×5グラム=100㎏になります。100㎏の硬貨を讃岐から都まで運ぶのは、現在でも大変です。
 そこ代銭納の登場です。これは年貢を現物で納めるのに対して、銭で納めることです。しかも、実際には実物の銭は動きません。手形決済システムなのです。
  伊予房という人物が出てきます。
この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来ています。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、自分で払うことになります。
「今年年貢当方」で、八坂神社に納められる分は二十貫。
「この内一貫在国根物」とあり、「根物」というのは必要経費です。つまり、食事をしたり、泊まったりというその必要経費に一貫を使いました。
「又一貫上洛根物に取ると云々。」 
これは上洛、つまり都に運ぶ費用になります。ですから合計二貫文が引かれ、都合十八貫文になります。その後に「この際符」という聞き慣れない言葉が出てきます。後に見ることにして先に進みます。

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」

近藤という人物が西大野荘の代官
です。近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符」で年貢を持参して一緒に、上洛することになったようです。ところが、
「今日近藤他行、明日問答すべきの由伊子房申す」
とあり、どうやら今は近藤氏がどこかへ行って不在であるので、明日協議を行うことになったといいます。
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ここまでを整理すると、
①この年は荘園領主の使が、十八貫の年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符」で、京都に持参することになった。
  さて「際符」とは、なんでしょうか?
「際符」は正式の名称は割符と書いて「さいふ」と読むそうです。「さきとる、さく」という意味で「さいふ」となります。符というのは札の意味で、今の為替と同じです。この時代は「加わし」と呼んでいたようで、それが「ためかえ」で、「かわせ」に変化していくようです。ここでは「際符=為替」としておきます。つまりは、「遠隔地取引に用いられる信用手形」=「手形決済」です。この時代すでに讃岐の西大野と都の間では、手形決済が行われていたことになります。
それでは、この手形は誰が発行したのでしょうか?
また、どうやって換金したのでしょうか?
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)

「際符」は、運送業者を兼ねた商人である問丸が地方の荘園で、米・麦などの年貢を購入し、代金相当の金額と京都・山崎・堺などの替屋(割符屋)の名を記した割符を荘官に発行します。荘官は、都の荘園領主のもとへ割符を届け年貢の決済を行うというシステムのようです。荘園領主は受け取った「際符」を替屋に持って行って支払日の契約を取決め、裏書を行い(裏付け)を行い現金化したようです。
 この時も讃岐財田大野で問屋が発行した「際符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやってきたのです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符」に書かれている内容は
①金額 銭十八貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
のみが書いてあったと研究者は考えているようです。ちなみに実物は、まだ見つかっていないそうです。このように代銭納というのは、実際に現金(大量の銅銭)を動かすのではなく手形決済という方法で行われたようです。確かに都まで、大量の銭を運ぶのは危険です。二十貫文=100㎏の銭は腹巻きにも入れられませんし、運ぶのは現実的ではありません。決済のためには責任者が都まで出向く必要はあったようです。
 大野荘でも代官を務める地元の近藤氏と、荘園領主の八坂神社との関係は悪化していきます。そこには、やはり「押領」があったからです。以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
次回は近藤氏が大野荘をどのように「押領」していったのかをもていきます。
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参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)

 

近世の三豊郡内では仁保(仁尾)港・三野津港・豊浜港が廻船業者の港として繁盛したようです。中でも仁保港は昔から仁尾酢、仁尾茶の産地で、造酒も丸亀藩の指定産地となっていました。そのため出入りする船も多く「千石船を見たけりや仁尾に行け」といわれたようです。
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湛甫があった観音寺裁判所前 
 仁尾に比べて、観音寺港はどうだったのでしょうか。
江戸時代の観音寺港の様子を見ていきます。
観音寺港は、財田川が燧灘に流れ込む河口沿いにいくつかの港が中世に姿を見せるようになることを前回は見ました。江戸時代の様子は「元禄古地図」を見ると、今の裁判所前に堪保(たんぽ=荷揚場)があり、川口(財田川)に川口御番所があったことが分かります。
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「官許拝借地」の境界碑が残る湛甫周辺
 各浦には、どのくらいの船があったのでしょうか
  上市浦  加子拾弐軒  舟弐艘
  中洲浦  加千  九軒 舟六艘
  仮屋浦  加千 廿七軒 舟六拾五艘
  下市分  加子  六軒 舟拾七艘
       加千  八軒 漁舟十五
  漁船の数も大小ふくめて総数九〇嫂程度で、その中の65隻は伝馬船であったようです。多い順に並べると仮屋の65隻がずば抜けて多いようです。仮屋は、現在の西本町にあたり、財田川の河口に近く当時の砂州の西端にあたる地域です。東側が「本町」で、漁師たちが作業用の仮屋を多く建てていたところが町場になった伝えられるところです。この地域に漁業や櫂取りなど海の仕事に携わる人々が数多くいたようです。
また、17世紀後半の元禄4年に琴弾神社の別当寺であった神恵院から川口番所に出された文章には次のようにあります。
 伊吹島渡海之事  
     覚
 寺家坊中並家来之者 伊吹嶋江渡海仕候節 
 川口昼夜共二御通可被下候 
 御当地之船二而参候ハ別者昼斗出船可仕候
   元禄四辛未三月     神恵院 印
      観音寺川口御番所中
 右表書之通相改昼夜共 川口出入相違有之門敷もの也
   元禄四年     河口久左衛門 判
           野田三郎左衛門 判
   観音寺川口御番所中

神恵院は、伊吹島の和蔵院を通じて伊吹八幡神社を管轄する立場にありました。伊吹島と観音寺の間には頻繁な人と物の交流が行われていました。その際にいつしか、財田川の河口の番所を通過しない船が現れれるようになってきます。室本港などが使われたのかもしれません。深読みすると、番所に分からないように、モノや人が動き出したことをうかがわせます。そのような動きを規制するためにこの「達し」は出されたようです。この「指導」により今後は番所を通過しなければならないことが確認されています。このように観音寺港に「舟入」を管理する番所が置かれていることは、交易船の出入りも頻繁に行われていたことがうかがえます。
それでは当時の伊吹島の「経済状況」は、どうだったのでしょうか
伊吹島の枡屋の先祖は北前船で財を成し、神社に随身門を寄付しています。弘化禄には
「1702年(元禄15)八月伊吹神門建立、本願三好勘右衛門、甚兵衛」
とあり、三好勘右衛門と甚兵衛の両人が伊吹島の八幡神社の門を寄進したと記します。二人は、後の枡屋一統の先祖に当たる人物で、二隻の相生丸を使って北前交易を行い財を成し、随身門を寄進したと子孫には語り継がれているようです。
この三好家には、寛保年間の文書が残っていて、取引先に越後(新潟)出雲崎の地名や、越後屋・越前屋・椛屋等の問屋名が記されています。 
出雲崎で伊吹島枡屋八郎が取引した商品
観音寺 港2
 
積み荷には、薩摩芋・黒砂糖・半紙・傘・茶碗等で、これらを売って、米を買い求めています。この米を大阪市場に運んでより高い利益を上げていたのでしょう。このように、当時の塩飽諸島が北前交易で栄えていたように、伊吹島も交易で大きな富を築く者が現れ「商業資本蓄積」が進んでいたと云えるようです。
 ちなみに枡屋一統というのは、伊吹島の三好家のグループで主屋・北屋・中等の諸家がこれに所属していたようです。この一族によって、昭和43年に島の八幡神社の随身門の修理が行われたと云います。
このような伊吹島の北前交易による繁栄を、対岸の観音寺も見習ったようです。18世紀半ばになると、観音寺船の北前航路進出を物語る史料が出てきます。
 
観音寺 港3
 浜田市外ノ浦の廻船問屋であった清水家に所蔵されている客船帳「諸国御客船帳」です。これには延享元年(1744)から明治35年(1902)の間に入港した廻船890隻が記載されています。国別、地域別に整理され次のような項目毎の記録があります。
出(だ)シ、帆印(ほじるし)及び船型、船名、船主、船頭名、船頭の出身地、入津日、出帆日、積荷、揚荷、登り、下り、出来事(論船、難破船、約束など)。この港に近づいてきた船の帆印を見て、この船帳で確認すれば、どこのだれの船で、前回はどんな荷を積んできたのかなど、商売に必要な情報がすぐに得られるようになっています。商売に関わる大切な道具なので、大事に箱に入れ保管されていました。
  この船帳には「観音寺港所属船」として6隻が記されています。
   (貨客船)   かんおんじ
住徳丸 近藤屋佐兵衛様  文化五辰五月十六日入津
            くり綿卸売・あし・干鰯卸買
     文右衛門様  同 二十一日出帆 被成候
西宝久丸 旦子屋彦右衛門様文政四巳四月廿二日入津   
伊勢丸 根津屋善兵衛様  弘化四未六月十七日登入津 
             大白蜜砂糖卸売
             十九日出船被成候
伊勢丸 瀬野屋伊右衛門様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売
天神丸 びぜん屋宇三郎様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売 
     宮崎屋利兵衛様
観音丸 あら磯屋忠治郎様  天保四巳三月廿八日下入津 くり綿売
 
ここからは次のような事が分かります。
①18世紀末の寛成年間から天保年間に岩見の浜田港に観音寺船籍の北前船が6隻寄港している
②同一の船主船が定期的に寄港してたようには見えない
③綿・砂糖・塩を売って何日かの後には出港している
④入港月は3月~6月で、讃岐から積んできた物産を販売している
⑤観音寺に北前交易に最低でも6人の船主が参加していた
   つまり、自前の船を持ち北前交易を行う商人達が観音寺にもいたことが分かります。彼らのもたらす交易の富が惜しげもなく琴弾神社や檀那寺に寄進され、観音寺の町場は整えられて行ったのでしょう。
観音寺 交易1

  19世紀になると、大阪と観音寺を結ぶ定期航路的な船も姿を見せます。京都・大阪への買付船につかわれた観音寺中洲浦の三〇石船
  この船は、漁船として登録されていますが三〇石船です。帆は六反から八反ものが多く、船番所で鑑札を受ける際に、帆の大きさによって税金(帆別運上)を納めることになっていました。税率は「帆一反に付銀三分」とされていたようです。
この船は、広嶋屋村上久兵衛と仮屋浦山家屋横山弥兵衛の共有船でした。1804年(享和4)、に大坂への航海がどんな風に行われたのかが記録として残っています。この時にこの船をチャターしたのは「観音寺惣小間物屋中」で、その際の記録と鑑札が、 観音寺市中新町の村上家に残っていました。
観音寺 舟1
表には
讃州観音寺中洲浦 船主久兵衛
漁船三拾石積加子弐人乗
享和四子年正月改組頭彦左衛門
とあり、船籍と船主・積載石30高・乗組員2名と分かります。
裏には
篠原為洽 印
戸祭嘉吉 印
享和四甲子年正月改
観音寺 舟
記録からは、
①観音寺小間物屋組頭格の下市浦の嘉登屋太七郎が音頭を取って
②下市浦から菊屋庄兵衛・塩飽屋嘉助・辰己屋長右衛門の三名、
③酒屋町から広嶋屋要助・広嶋屋惣兵衛の二名、
④上市浦から森田屋太兵衛・山口屋嘉兵衛・広嶋屋儀兵衛、荒物屋佐助の四名、
⑤茂木町から大坂屋林八二一野屋金助・大坂屋嘉兵衛・山口屋重吉の四名、
⑥計一五名が仕入・買積船としてチャターし、
⑦運賃や仕入買品物の品質責任・仕入支払金は現金で支払うこと
などを事前に契約しています。
つまり、小間物屋組合のリーダーが組合員とこの船を貸し切って、大阪に仕入れに出かけているのです。
同時代に伊吹のちょうさ組は太鼓台を大阪の業者に発注し、それを自分の船で引き取りに行っていたことを思い出しました。「ちょっと買付・買物に大阪へ」という感覚が、問屋商人の間にはすでに形成されていたことがうかがえます。
観音寺 淀川30石舟
淀川の30石舟

 当時は大阪からの金比羅船が一日に何隻もやってきくるようになっていました。弥次喜多コンビが金比羅詣でを行うのもこの時期です。民衆の移動が日常的になっていたことが分かります。
 ちなみに、この船も日頃は金毘羅船だったようです。現大阪市東区大川町淀屋橋あたりの北浜淀屋橋から出航し、丸亀問屋の野田屋権八の引合いで丸亀港に金毘羅詣客を運んでいたのです。丸亀で金毘羅客を降ろした後は、観音寺までは地元客を運んでいたのでしょう。丸亀と 観音寺の船賃は、200文と記されています。
80d5108c (1)
弥次・喜多が乗った金比羅船
   安芸・大島・大三島への地回り定期航路
 瀬戸内海の主要航路からはずれて、地廻り(地元の港への寄港)として伊吹島にやってくる北前船もあったようです。しばらく、地元での休養と家族との生活し、船の整備などを行った後に出港していきます。そのルートは、円上島・江ノ島・魚島の附近を通り、伯方島の木浦村沖を通り、大島と大三島の開から斎灘へ出るコースがとられたようです。

観音寺 舟5
 
地図を見ると仁尾や観音寺が燧灘を通じて、西方に開けた港であったことが分かります。このルートを逆に、弥生時代の稲作や古墳時代の阿蘇山の石棺も運ばれてきたのでしょう。そして、古代においては、伊予東部と同じ勢力圏にあったことも頷けます。
   このことを裏付ける難破船の処理覚書があります。
「難破船処理の覚書」1760年(宝暦10)11月30日です
一、讃州丸亀領伊吹嶋粂右衛門船十反帆 船頭水主六人乗去ル廿三日却 伊吹嶋出船 肥前五嶋江罷下り僕処 憚御領海通船之処同日夜二入俄二西風強被成 御当地六ツ峡江乗掛破船仕候 早速御村方江注進仕候得者 船人被召連破船所江御出被下荷物船具ホ迄 御取揚被下本船大痛茂無御座翌廿五日村方江船御漕廻シ被下私自分舟二而為差 荷物も無御座候故 何分御内証二而相済候様二被仰付 可被下段御願中上候処 御聴届被下候所 奉存候 積荷明小樽 菰少々御座候処 不残御取揚被下船具ホ迄少茂紛失無御候 船痛 所作事仕候而無相違請取申候得者 此度之破船二付 御村方江向 後毛頭申分無御座候以上
  宝暦十辰年十一月枡日
            水子 善三郎
            〃  忠丘衛
              ” 万三郎
              ” 太兵衛
              ” 藤 七
            船頭 粂右衛門
   木浦村庄屋 市右衛門殿
       御組頭中
意訳すると
讃岐丸亀藩伊吹島の粂右衛門所有の十反帆船(二百石船)が船頭水主6人を乗せて11月23日に伊吹島を出港して肥前五島列島に向けて航海中に、今治藩伯方島付近に差しかかったところ、突然に強い西風に遭い、座礁破船した。村方へ知らせ、積荷や船具は下ろしましたが、幸いにも船の被害は少なく、25日には付近の港へ船を廻航しました。自分の船でありますし、積荷も被害がありませんので、何分にも「内証」(内々に)扱っていただけるようお願いいたします。
 と船頭と船員が連名で木浦村の庄屋に願い出ています。
この書面を添付して、木浦村の庄屋は、
①難破船の船籍である伊吹島の庄屋
②今治藩の大庄屋と代官・郡奉行
に次のように報告しています

  右船頭口上書之通相違無御座候 以上
 橡州今治領木浦村与頭  儀丘衛 印
           同 伊丘衛 印
          庄屋 市右ヱ門印
   讃州丸亀御領伊吹嶋庄屋
        与作兵衛殿

右破船所江立合相改候処 聊相違無之
船頭願之通内証二而相済メ作事
出来二付OO同晦日 出船申付候 已上
         沖改 庄屋   権八 印
         嶋方大庄屋  村井 嘉平太印
辰十一月晦日
         嶋方代官手代 吉村 弥平治印
         郡奉行手附  木本五左衛門印
  伊吹嶋庄屋
      与作兵衛殿

このように、伊吹島の200石の中型船が九州の五島列島との交易活動を行っていたことが分かります。同時に海難活動について、国内においての普遍的な一定のルールがあり、それに基づいて救難活動や事後処理・報告がスムーズに行われていることがうかがえます。
 明治時代になっても地域経済が大きく変化することはありませんでした。鉄道が観音寺まで通じるのは、半世紀以上経ってからです。それまでは、輸送はもっぱら船に依存するより他なかったのです。そこで地元資本は海運会社を開設し、汽船を就航させ、大阪への新たな航路を開くのです。観音寺からも仁尾や多度津を経て大阪に向かう汽船が姿を現すようになります。
 鉄道がやってくるまでの間が観音寺港が一番栄えた時かもしれません。
 参考文献 観音寺市誌 近世編

13世紀半ばに、柞田荘が比叡山の日吉社領となり立荘されるまでの過程を見てきました。最後に、日吉神社がどのようにして、柞田荘を支配したのか、その拠点はどこにあったのかを探って見ることにします。

柞田荘 日吉神社2
  日吉神社が分祠される
有力貴族や神社に荘園化されると、その氏神が分祠されるのが通常です。例えば藤原氏は春日神社を、賀茂神社の社領となった仁尾には賀茂神社が分祠されます。柞田荘は日吉神社の社領となったので、当然日吉(枝)神社がやってくることになります。
 『香川県神社誌」には、
「当社は柞田荘が日吉社の社領となったことを契機として分祀された」と記します。編纂当時の氏子は、字下野・八町・油井・大畑・上出在家の390戸とありで、旧柞田村内の神社としては、式内社とみられる山田神社の915戸に次ぐ規模です。荘園化されて以後に荘政所が設けられたとすると、荘園領主である日吉社を分祀した山王の地が候補の第一となると考えるのは当然です。このため
荘政所の一番候補は、荘内の字山王に鎮座する旧村社日枝神社周辺とされてきました。
   国道11号から少し入った所に大きな樟が何本も繁った中に立派な社殿があります。となりには延命寺の境内が隣接します。本殿の裏が、お寺の本堂のようになっています。神仏習合時代は、延命寺が別当寺であったのでしょう。それが明治の神仏分離によって引き離された歴史が伝わってきます。
 神域の前には大きな広場があり、ここが祭礼の時には何台もの「ちょうさ(太鼓台)」が集まってくるのでしょう。この真ん中にある樟の下に「柞田駅」の道標(説明版)が立てられていました。
柞田荘 柞田駅

柞田駅跡と大きな字では書かれていますが、よく読むと「この付近にも柞田駅があったと伝えられます」と断定はしていません。どこにあったかは分かっていません。
しかし、南海道がどこを通っていたかは、次第に明らかになってきました。かつては「伊予街道=南海道跡説」が称えられていましたが、今では南海道は別のルートであったことが分かってきています。太点線が南海道推定ルートになります。高速道路よりもまだ東になります。
柞田荘 日吉神社
  次の候補は「公文明」という小字名です。
これは、日枝神社の北東で柞田川の北側になります。南海道には近い場所です。『香川県神社誌』には、字公文明には、荒魂神社が祀られていたと記します。現在の公文明神社が鎮座する所です。公文名とは、郷や荘などの官人である公文に職分として給付される給田畠からなる名(名田)の呼び名です。ここから、その近辺に公文が住んでいた館があったと研究者は考えているようです。
  13世紀の柞田荘で起きた殺人事件から分かることは?
 柞田荘が立荘されて約30年後の弘安6年(1283)、柞田荘で殺人事件が起きます。これを朝廷に訴えた文書が残っています(祝部成顕申状(『兼仲卿記』紙背文書)
 訴えた人   日吉社の祀官成顕
 訴えられた人 祀官成顕の兄・成貫
 罪状     兄成貫が柞田荘の地頭弘家と地頭代政行と「庄家」に乱入し、成顕の代官仏縁法師を斬り殺した
この殺人事件からは次のような事が分かります。
①近江の日吉社の祀官成顕は、代官仏縁法師を派遣して柞田荘を管理させていた
②代官仏縁法師は「庄屋」で「業務」を行っていた。庄屋が支配拠点であった
③加害者の「弘家」は、柞田荘の地頭。姓は不明。
④近江日吉神社から派遣されていた代官と地元の地頭の間での対立があった背景にある
 13世紀末には、地元「悪党」の台頭で次第に「正常な経営」ができなくなっていることがうかがえます。
 この殺人事件から約60年後のち、南北朝時代の貞和4年(1348)5 月27 日の讃岐守護細川顕氏遵行状には、柞田荘地頭の名前が記されています。そこには
岩田五郎頼国・同兵庫顕国
とあります。また嘉慶元年(1387)11月26日の細川頼有譲状(細川家文書)に
「くにたのちとうしき ゆわたのそうりやうふん」(柞田の地頭職岩田の惣領分)
という地頭の名前が見えます。殺人事件で訴えられた「地頭弘家と地頭代政行」も、この岩田氏の先祖になる人物かもしれません。
 どちらにしても、14世紀には柞田荘の地頭職を岩田氏が世襲するようになり「押領」が行われ、日吉神社の柞田荘経営は困難になっていったと研究者は考えているようです。

  殺人現場の「庄屋」は、柞田荘の「現地支配機関」の荘所・荘政所?
それでは殺人事件の現場となった「庄屋」は、どこにあったのでしょうか?それが先ほど第2候補に挙げた公文明神社です。ここは地図で見ると分かるように、南海道より1〜2坪の近い距離です。南海道と柞田川右岸に沿うことから、柞田駅はここにあったと考える研究者もいます。そして、柞田駅の建物が荘所に転用されたします。立荘後に、すでにあった屋敷を荘政所として使っていたという推察です。このためここが第2候補になるようです。
 ただ次のような問題が残ります。
柞田荘の東側の境界線がほぼ南海道と重なるのに「大路」・「作道」・「大道」などの表記はまったく残っていないことです。たとえば康治2年(1143)8 月19日の太政官牒案(安楽寿院古文書)には、寒川郡富田荘の四至に
「西は限る、石田郷内東寄り艮角、西船木河ならびに石崎南大路南」
弘長3 年(1263)12月日の讃岐国留守所下文写(善通寺文書)には、多度郡生野郷内善通寺領の四至に
「東は限る、善通寺南大門作道通り」、「北は限る、善通寺領五嶽山南麓大道」と、
南海道らしき道が出てきます。
しかし、柞田荘では巽の膀示を打った地点で、単に「道」とのみ書かれているだけです。つまり、南海道と見られる道が 柞田荘内に取り込められているのです。南海道が活発に利用されていたのなら、荘園に取り込まれることはなかったはずです。前回に柞田荘の東側の境界が推定南海道のルートであることを見てきましたが、実際には「南海道」をイメージさせる用語は出てきません。「紀伊郷界」などとしか記されていないようです。
これは何を意味するのでしょうか。
①現南海道推定ルートが間違っている
②南海道の主要機能は、この頃にはほかのルートへ移動していた
というところでしょうか。
南海道は多度・三野両郡境を大日峠で越えていますが、鎌倉時代末期以降、それとは別に両郡境を鳥坂峠で越える「伊予大道」が重要度を増したようです。そして、伊予大道が幹線道路として用いられるようになったことが考えられます。
 確かに母神山の西側の南海道推定ルートを辿ってみると、舌状に張り出した丘をいくつも越えていかなければならず高低差があったことが分かります。それに比べて、現国道11号に隣接して伸びる伊予街道は平坦です。利用者にとっては、伊予大道の方が数段便利だったと思います。直線をあくまで重視した南海道は、利用者の立場に立たない官道で、中世には使われなくなった部分がでてきていたようです。
  以上、柞田荘全体をまとめておくと以上のようになります。
①柞田荘の荘域は、中世的郷である柞田郷の郷域を受け継いだものである
②そのため耕地だけでなく燧灘の漁業権までも含みこんでいた。
③周辺の郷・荘との境界線は、郷界線がそのままつかわれている
④境界は、条里施行地域においては、里界線や官道が用いられている
⑤条里制外で、南方の姫江庄と接する地域においては別の基準線が用いられていた。
⑥柞田郷は、柞田荘の立荘で消滅し、その領域支配は柞田荘に引き継がれた。
⑤柞田荘の拠点である庄家(荘政所)は、「伊予大道」に面した日枝神社の近くの「山王」にあった。
⑥13世紀には南海道はすでに「廃道」状態になっていて、柞田荘に取り込まれている。
⑦南海道に代わって伊予大道が幹線として利用されるようになっていた。

    参考文献
 田中健二  日吉社領讃岐国柞田荘の荘域復元

 
柞田荘 四方標示

前回は柞田荘の立荘が、どんな人たちの手で進められたのかをみてきました。今回は、荘園の境界を見ていくことにします。この荘園は柞田郷がそのまま立荘されたようです。だから、柞田郷の境界が分かると荘園のエリアも分かることになります。
柞田荘 地図

それでは、まず柞田荘の「四至」をもう一度確認しておきましょう。
 注進言上す、日吉社領讃岐国柞田庄四至を堺し、膀示を打つこと。
 一、四至
東は限る、
 紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。
南は限る、
 姫江庄堺 西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。
北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。その堺東西行くの畷まさにこれを通す。
膀示四本                                             
一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならびに本郷・坂本郷・当庄四の辻これを打つ
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
   その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。
一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹島を限る。
   南は姫江庄内埴穴堺。北は当庄園生村堺。
一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。
   鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。
 次のような手順で境界が決められ、東西南北に膀示四本が打たれたことが分かります。
①東の境界線は「紀伊郷境」、北の境界線は「坂本境」で北と東の郷境線が交わる「艮(うしとら)角に「膀示」が打たれます。
②そして、この場所は苅田郡の条里制の「五条七里一坪」の「田地」の中だと記します。
三豊の条里制研究の成果は「五条七里一坪」が現在のどこに当たるかを教えてくれます。現在の柞田上出東北隅、西部養護学校の南側にあたります。地図に艮「五条七里一坪」を書き入れてみると次のようになります。
柞田荘 郡境12

 艮膀示は現在の西部養護学校の東側になります。
この地点の説明が
「紀伊郷並びに山本郷、坂本郷、営庄(柞田荘)、四の辻これを打つ」
です。ここは確かに辻(十字路)になっています。ここに膀示が建てられたのです。どんなものだったのかは分かりませんが、石造のかなり背の高いものだったと勝手に想像しています。

柞田荘 艮付近

艮膀示が打たれた場所は、南海道に面した地点であったようです。
四国の条里制については、次のようなプロセスで作られたことが分かっています
①南海道が一直線に引かれる。
②南海道に直角に郡郷が引かれる
③郡郷に沿って東から順番に条里制の条番が打たれる
④山側(南)から海側(北)に、里番打たれる
三豊においても南海道に直角に三野郡と苅田郡の郡郷が財田川沿いに引かれます。そして、この郡郷に平行に条里制工事は進められていったと研究者は考えているようです。どちらにしても南海道や条里制、そして郷の設置は、非常に人為的で「自然国境的」な要素がみじんも感じられません。

柞田荘 艮付近2
南海道が通過していた艮ポイントとは、どんな場所だったのか探ってみましょう。  
南海道は本山付近で財田川を渡ると、国道11号と重なるように南西へ進みます。国道はパチンコダイナム付近で向きを少し変えますが、南海道はあくまで一直線に進んでいき、現在の西部養護学校付近の艮ポイントまで続きます。地形的には東から伸びてくる舌状の丘陵地帯をいくつも越えて行くことになります。近世の新田開発やため池工事で南海道は寸断され、姿を消していきます。ただ、観音寺池と出作池の間の堤防は、かつての郡郷で南海道跡のようです。この堤防には鴨類が沢山やって来るので、よく鳥見に出かけた思い出があります。この堤防からの景色は素晴らしく、古代の三豊の姿を思い描くには最適の場所です。ここからは東に母神山がすぐそばに見えます。その裾野には、三豊総合運動公園の背の高い体育館があります。公園の中には、以前お話しした6世紀後半の前方後円墳・ひさご塚古墳や横穴式円墳の鑵子塚古墳を盟主とする多くの古墳群が散在するのです。仏教伝来以前の古墳時代の人たちは、死霊は霊山に帰り、祖霊になり子孫を守ると考えたようです。母神山もその霊山であったと私は思っています。
 一ノ谷の青塚 → 母神山のひさご塚・鑵子塚 → 大野原の3つ巨大横穴式古墳
は、同一系統上に考えられ、同一氏族によって造り続けられたと研究者は考えているようです。そうだとすれば、先祖の作った古墳を眺めるように南海道は母神山のすぐ側を通り、そして、大野原の3つの古墳の中を縫うようにルート設定が行われたことにもなります。
 この地域の南海道工事に関わった氏族として考えられるのは・? 現在の所最有力は、紀伊氏ということになりそうです。紀伊氏の先祖が造営してきた古墳に沿うように、南海道があることの意味を考える必要がありそうです。話が飛んだようです。ここでは柞田荘のエリア策定にもどります。

   東南コーナーは「巽(たつみ)角井下村」
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。

巽角は井下村の姫江荘との境の路に打った。路は柞田荘のものである。巽膀示が打たれた場所を上の地図で見てみましょう。分かりやすくするために近世の柞田村の境界線がと南海道が太線で入れてあります。なお、高速道路が出来る前の地図です。
柞田荘 巽

  土井池をぐるりと囲むように旧柞田村と旧大野原村の境界は引かれていたようです。しかし、古代の境界線は直線です。ここから北西の坤角に向かって伸びていきます。
柞田荘 境界3

  巽角(東南)の境は大野原十三塚と柞田の接する辺り

「その境路の巽角これを打つ」とは、どういう意味なのでしょうか。「路は営庄(柞田荘)内なり」と、道の内側に打った、つまりこの道が杵田荘のものだと主張しているようです。この「境路」とは、どんな道なのでしょうか。私は、艮角と同じように、南海道であったと思います。南海道が艮ポイントからからこの巽ポイントまで、真っ直ぐにつながっていて、これが紀伊郷との境界になったのではないでしょうか。南海道の外側に境界線を打てというのは、
南海道はこっち側だとの主張が通ったように思えます。
柞田荘 巽1

南海道は、ここから大野原の3つの古墳に向かってまっすぐに伸びていきます。
  乾(北西)膀示 浜辺にどうやって境界を引いたのか?
一本 乾(いぬい)角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を記しこれを打つ。
 乾(北西)膀示(北西コーナー)は、鈎洲浜に乾膀示を打たと記されます。鈎洲浜(カギノスハマ?)は、当時は何もない砂浜の上で海岸線だったようです。現在、ここがどこに当たるのかも分かりません。
柞田荘 乾20
ここは当時の海岸線だったようです。「海面は参里を限る」とあり、燧灘の海の領有権が認められています。一里がほぼ四キロですから三里で十ニキロでおおよろ伊吹島までになります。この記事から、作田荘は、沖へ三里まで領海を持ち、独占的な漁業が営めたことになります。
次の記述は私には意味不明でした
「ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。」
 研究者は次のように説明してくれます。
畷ナワテは、四条畷というように畦道のこと。浜上の鈎洲浜(カギノスハマ?)は、古作と呼ばれている昔耕作されていた田畑の海側にある。そのため坂本郷とこの荘園との境界に、標識を打ちたいが何も目印がない。そこで行ったのが、次の作業で
①艮膀示(本)と古作畷(末)は坂本郷と杵田荘の境界になっている。
②そこで、本末の両方で狼煙をあげる。
③そして鈎洲浜(カギノスハマ?)の海際を南北に歩く
④陸の方を見ながら移動するとふたつの狼煙の煙が重なりる地点がある。
⑤ここが艮膀示と古作畷の延長線上になるので、ここに乾榜示を打つ。
⑥こうして鈎洲浜に乾膀示が打たれた
この方法は「見通し」といわれて古墳時代にはすでに行われていた測量方法のようです。その「見通し」技法が使われたことが分かります。
   柞田荘は、海にも領有権を持っていた。
 四至では、
「西は限る、大海 海面は伊吹島を限る。」
とあります。乾については
「海面は三里を限る。」
と注記されて、西に広がる燧灘の沖合3里の伊吹島までの海面が立荘されています。
 さらに「実検田畠目録」には、9町余りと5町余りの「網代寄庭二所」が設定されています。ここから「地先水面が四至内として領有されていたこと。そこには「網代」=漁場が設定されていたと、研究者は考えているようです。そうだとすれば柞田は、燧灘に特権的な漁場を持っていたことになります。貢納品を日吉神社に運ぶには海路が使われたでしょうから湊も整備されていた可能性が出てきます。
 なお、伊吹島については、「八幡祀官俗官并所司系図」には、鎌倉時代には石清水社領となっていたことが記されています。さらに、燧灘に面して北から賀茂神社領の仁尾湊、琴弾神社の観音寺湊があったことが分かっています。これに加えて、日吉神社領の柞田湊が交易・漁労の拠点として機能していたことになります。
柞田荘 地図

  東西南北の「角石」(コーナーストーン)をもう一度確認しておきます
時計回りに見ると、①艮(北東)・②巽(南東)・③坤(南西)・④乾(北西)の4ポイントです。
①艮ポイントは、紀伊・山本・坂本3郷と柞田荘との四つ辻に当たる刈田郡5 条7里1坪に
②巽ポイントは、井下村のうち、姫江荘との境界となっている道のさらに東南の角に打たれている。
③乾ポイントは、北側の坂本郷と南側の柞田荘の境となった鈎洲浜に打たれた。
④坤ポイントは、姫江荘内埴穴と園生村との境となっている浜の上に打たれた。

柞田荘 境界
  坤は野都合辺りで埴穴(大野原花稲)と園生村(柞田油井)の境。

しかし、疑問がひとつ浮かんできます。
「東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。」
ここには「苅田川」と聞き慣れない川の名前が出てきました。和名抄に出てくる刈田郡と同じ名前です。しかし、今は苅田川という川はありません。あるのは柞田川です。どう考えればいいのでしょうか?
  研究者は次のように考えているようです。
 柞田川というのは、もとはその郡名にちなんで苅田河と呼ばれていた。しかし、平安時代末期成立の『伊呂波字類抄」に「刈田郡国用豊田字」と見え、「苅田郡」から「豊田郡」に郡名が変わった。そのため苅田郡という呼称が使われなくなると共に、「苅田河」も、いつの時代かに柞田川と呼ばれるようになった。
  つまり今、柞田町のど真ん中を流れている川が古代は苅田川だったということです。そして、この柞田川流域に、ほぼ真四角な形で柞田荘は広がっていたようです。もちろん海のエリアを除くとですが・・・
  以上をまとめておくと
①柞田荘は、古代の柞田郷の郷域を受け継いだものである
②そのため耕地だけでなく燧灘の漁業権までも含みこんでいた。
③周辺の郷・荘との境界線は、郷界線がそのままつかわれている
④境界は、条里施行地域内では里界線や官道が用いられている
⑤条里制外の姫江庄と接する地域においては別の基準線が用いられている。
⑥柞田郷は、柞田荘の立荘で消滅し、その領域支配は柞田荘に引き継がれた。



1大野原地形

讃岐の西の端で燧灘に面して柞田(くにた)荘という荘園が鎌倉時代にできます。その立荘プロセスを追ってみます。
 1 柞田荘はどこにあったの
  柞田町は観音寺市街の南側にあった町名です。古代の『和名抄』の刈田郡の中にあった柞田郷が荘園になった歴史を持ちます。そのために境界ラインが条里制を使って区分けされたようで、いまでも真っ直ぐなところが多いのが地図を見ると分かります。また、柞田郷全体が荘園化され柞田荘になったと研究者は考えているようです。
なお『和名抄』に見える刈田郡の6郡とは次の通りです。
①山本郷は三豊市山本町山本
②紀伊郷は観音寺市木之郷町
③柞田郷は同市柞田町
④坂本郷は同市坂本町
⑤高屋郷は同市高屋町
⑥姫江郷は旧大野原町中姫および旧豊浜町姫浜
  2 讃岐国柞田荘は、いつ、だれによって立荘されたの?
 建長8 年(1256)8 月29日の日吉社領讃岐国四至膀示注文(『続左丞抄』所収文書)に
「去る三月十四日 宣旨により、国使を引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわんぬ。」
とあるので、3 月14 日のことと分かります。そしてその年の夏8月に、讃岐の酷使(役人)立ち会いで、境界線を定め、その4角に膀示(コーナーストーン)を打ち終わったことが報告されています。
柞田荘 境界1

  3 日吉神社の荘園にされるいきさつは?
鎌倉時代末期の元応元年(1319)10月、日吉社領の由来と領主を書き上げた「日吉山工新記」(『続群書類従』に
「讃岐国柞田庄 二宮十禅師大行事長日御供。十禅師不断経二季大般若料所。後嵯峨院御寄付。」
とあります。この史料からは、柞田荘の領有を巡って争いがあり、最終的に後嵯峨上皇より日吉社へ寄付され、建長8 年3 月14 日の宣旨により立荘が公認されたようです。
 ところが、現実はもっと複雑です。実は、九条家の文書の中にも
「朴(柞)田庄 日吉申日御供に寄せらる」
とあるのです。讃岐国内には、「朴田」という地名は、他にはないので「柞田」の誤記と考えられます。とすると、後嵯峨上皇による日吉社への寄付以前に、柞田荘は九条道家より同社へ寄進されていたことになります。 承久の乱後の朝政を主導した九条道家は、当時の讃岐国の知行国主でもありました。彼が讃岐の知行国主であったのは寛喜元年(1229)より建長4 年(1252)に死去するまでの間で、その間に、興福寺領寒川郡神崎荘、石清水社領三野郡本山荘などの荘園を寄進・立荘しています。彼は、四条天皇の外祖父、鎌倉将軍頼経の父という立場で権勢を誇りますが、最終的には執権北条氏に幕府転覆の嫌疑を掛けられ失脚します。道家死去の翌年建長5年の正月、讃岐国は後嵯峨上皇の院分国とされました。このような情勢を見ると、九条道家による柞田荘の寄進・立荘は宣旨を得るなど正式な手続きを経たものではなく、知行国主としての私的なものであったと研究者は考えているようです。
道家の死後、日吉社より後嵯峨上皇に対し、柞田荘の社領としての存続が申請されます。そして、あらためて正式に寄進・立荘の手続きが取られたようです。
  4 荘園化の作業のためにどんな人がやってきたの?
 柞田荘の立荘が認可されると、今度は立券・荘号のための作業が行われます。そのために、日吉社の社家(社務の執行者)の使者が、太政官の担当事務官等とともに讃岐の国府にやってきます。南海道を陸路やって来たのか、瀬戸内海を海路で坂出の松山・林田港国府へやってきたのか興味がわきますが、それを明らかにする史料はありません。彼らは、地元の国府の在庁官人をお供にして現地へ向かい、収納使・惣追捕使・図師などを指揮して、立荘予定地の検地を行なったようです。
 こうした検地によって作られたのが「日吉社領讃岐国柞田庄四至膀示注文」(「続左丞抄』所収文書)と「実検田畠在家目録」になるようです。この2点の文書と添えられた「指図」(柞田荘の絵図)にもとづいて、柞田荘の立券・荘号を認可する手続きが取られました。
  5 どのようにして柞田荘の境界線がひかれたの?
「日吉社領讃岐国柞田庄四至膀示注文」を見てみましょう
 注進言上す、日吉社領讃岐国柞田庄四至を堺し、膀示を打つこと。
一、四至
 東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。
   以南は姫江庄堺。
   南は限る、姫江庄堺
   西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。
   北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。
   その堺東西行くの畷まさにこれを通す。
   膀示四本
一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならび
   に本郷・坂本郷・当庄四の辻これを打つ
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
   その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。
一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹島を限る。
   南は姫江庄内埴穴堺。
   北は当庄園生村堺。
一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。
   鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。
   田畠以下取張(帳)目録一通。
一、 右、去る三月十四日
   引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわんぬ。
   よって注進言上くだんのごとし。
  建長八年八月二十九日 国使散位布師
       散位藤原「朝臣資員」(裏花押)
       散位藤原「朝臣長知」(裏花押)
     官使右史生中原「久景」
     社家 
四至(シイシ)と読みます。東西南北の境界です。
膀示四本(ボウジヨンホン)と読みます。現在もあちこちにボウジという地名が残っています。榜示は境界標識です。これを4本打った場所が記されています。
地図に示すと次のようになるようです。
柞田荘 地図

6 最後に花押(サイン)しているのは、どんな人?
一番最後に「散位藤原朝臣資員」の名前と裏花押があります。ここだけ筆跡が違います。本人のサインです。その下の花押は裏側に書かれています。この藤原資員というのは讃岐の国の役人です。この人は綾氏系図の中に、新居氏として名前があるそうです、讃岐藤原氏は、古代豪族綾氏の系譜をひく一族が中世に武士化して讃岐藤原氏を名乗るようになったと云われます。讃岐では一番勢力のあった武士団ですが、その中に新居氏がいて、国分寺町の新居に地名が残っています。そこにいた豪族です。つまり、讃岐藤原氏の在庁官人が柞田に出向いて立ち会い、サインしているということになるようです。

柞田荘 立荘續左丞抄  国史大系所収000002
その下に散位藤原朝臣長知という名前もあります。
ここも本人のサインがあります。こちらも同じく綾氏系図に載っている人物で、羽床氏になります。綾川中流の滝宮から羽床に架けて勢力を張っていた武士団で羽床城が拠点でした。その羽床氏の先祖になるようです。新居氏も羽床氏も在庁官人として国府に務めながら武士団を形成していたようです。彼らは荘園を立てるときも讃岐の国の役人として出張し、これで間違いがないと二人がサインをしています。
 国府のある讃岐府中から観音寺の祚田までは、南海道を馬を飛ばしてやってきたのでしょうか。この時期には、帯刀していたのでしょうか。いろいろな疑問が沸きますが、それに答える史料はありません。
 下から二番目の「官使右史生中原久景」が京都からやって来た中央官僚になります。そして比叡山日吉神社からも役人がやって来て立ち会っています。一番最後に「社家」というのが見えます。日吉大社は比叡山の守護神ですので、神仏習合のもとでは比叡山の僧侶が管理しています。つまり柞田荘は比叡山の管理下に置かれたということになるのでしょう。やってきた「社家」は僧侶であったのではないかと私は考えています
   この境界線の確定作業につづいて、検地を行います。その際に、建長四年の検地による確定面積が借用されて使われたようです。それらを集計して土地台帳に当たる田畠在家目録が作成されます。
同実検田畠在家目録
 (朱)「この一紙各々破損す。」
 (注進す)建長八年田畠・(在)家・網代・荒野等目録)
 (合)
一、作田百二十三町二段百二十歩 去る建長四年匚
一、作畠四十二町二段百七十歩
  在家五十宇 上八宇 中六宇 下十七宇 下々十九宇 網代寄庭二所 
一所九町余り。
一所五町余り。
    荒野百余町 林野江海池溝淵河などなり。
このようにして、境界内の土地の耕作面積などが記されます。その上に、絵図も作成されています。しかし、この絵図は残念ながら伝わっていないようです。

柞田荘 四方標示

今回はこのくらいにします。次回に柞田荘の「四至」をもう少し詳しく見ていくことにしましょう。
参考文献 田中健二    日吉社領讃岐国柞田荘の荘域復元


 
Ⅰ大野原八幡神社
明治35年(1902)の『香川県讃岐國三豊郡大野原村 鎮座郷社八幡神社之景』です。ここには約120年前の大野原の八幡神社が描かれています。神社の建物、玉垣、石垣等の配置がよく分かりますが現在とあまり変わらないようです。本殿の後ろに碗貸塚古墳があるのですが、それを書き手は意識しているようには見えません。古墳の開口部のあたりを見ると、土塀巡らされて、石垣の中央部には縦長の巨石があるように見えるのが、今とちがうところでしょう。
この図中には「椀貸塚ノ縁由」として
「相傅ノ昔 塚穴二地主神在リテ 太子殿卜云フ 神霊著シキヲ以テ庶テ穴二入ルモノナシ・・」
と記されています。 ここには「椀貸伝説」とともに、横穴(古墳石室)が「奥の院」として神社の聖域とされ人々の信仰を集めてきたことが分かります。椀貸塚古墳は、大野原八幡神社の本殿の後に神域として祀られ続けて来たのです。そのために、近世の大野原開発の際にも破壊を免れたと言えます。しかし、無傷で残っているのではないようです。古墳と現在の建築物等の関係はどうなっているのか、測量図をみながら再度確認しておきましょう。
1碗貸塚古墳1

碗貸塚古墳の測量図を見て分かることを挙げておきます
①直径37.2mの大型円墳の墳丘高は現状値で9.5mあり、盛土築造である。
②墳丘周囲には二重の周濠と周堤がある。内濠と周堤の幅はほぼ同じで約8m。
③周濠を含めた墓域の直径は70mあり、その占有面積は約3,850㎡。
④石室は両袖式の大型横穴式石室。羨道十前室十玄室(後室)複室構造。
⑤石室規模は全長14.8m、玄室長6.8m、玄室最大幅3.6m 玄室高3.9m、玄室床面積24.6㎡。玄室空間容積は72.7㎡で、全国規模の容量をもつ。
⑥表面観察では葺石や段築は確認できない。
⑧東側には、後から作られた岩倉塚古墳がある。
⑨墳丘南側には大野原八幡神社の本殿、
③東側も応神社と小学校の校庭として削られている。
④北側の周壕は慈雲寺墓地となっている
大野原古墳群調査報告書Ⅰ」は、新たな発見として周堤・周壕をもつ古噴であったことを挙げています
中期古墳の前方後円墳では、伝応神陵や伝仁徳陵のように外堤がめぐり、水をたたえている姿をすぐに思い出します。大型の前方後円墳と周壕は、セットとして私たちにインプットされています。しかし、古墳後期になると外堤は姿を消していきます。逆に、古墳後期の大型円墳に周堤があるのは珍しくなるようです。数少ない周堤を持つ大型円墳に共通するのは、国造クラスの各地域の最有力者の墓に用いられているのです。椀貸塚古墳は、巨大な石室と周堤を持ちます。さて、どんな人物が葬られたのでしょうか?
  碗貸塚古墳の復元イメージは、こんな姿になるようです
1碗貸塚古墳2
 椀貸塚古墳は、複室構造の横穴式石室で、これは九州に系譜がたどれるようです。また周堤をもつ大型円墳は豊前や日向に多いようです。ここでも三豊の古墳は、九州との関係を濃密に漂わします。
復元イメージ図から私がすぐに思い出したのは、下の日向の西都原古墳群の鬼の舌古墳です。
1鬼の窟古墳

 こんな古墳が30年おきに3つ大野原の扇状地台地に並んで作られたのです。これは近くの南海道を通る人たちや瀬戸内海をゆく船からも見えたようです。まさに、三豊の新しいモニュメントだったのです。
1周堤古墳
この時期の後期首長墓で周堤をもつ古墳は、九州の西都原古墳群の大型横穴式石室を持つ206号墳のように国造クラスの抜きんでた首長の古墳に限定されます。そこから大野原の首長は「四国地域の大物」よ想定できるようです。
1大野原古墳 比較図

  碗貸塚古墳の次に作られたのは、平塚・角塚のどちらなのでしょうか? 報告書は
「玄室側壁の石積みの段数の変化では、椀貸塚古墳5段→平塚古墳4段→角塚古墳1段となり、段数の減少傾向が認められ、同時に使用石材の巨石化と壁面の平滑化が進行している。」など5つの点を挙げて、
築造順を「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」としています。
さらに、大野原古墳群のモデルになったのは母神山錐子塚古墳で、それを継承していると研究者は考えているようです。
それでは平塚から見ていきましょう。
 平塚は、八幡神社の御旅所で祭りの舞台にもなります。そのために神輿台や参拝道が作られ封土が削られて薄くなり、石室へ水が浸入しているようです。

1大野原古墳 平塚
①直径50.2mの大型円墳
②墳丘高は現状値で約7m。
③墳丘周囲には幅8.4mの周濠が廻り、それを含めた直径66.7m、その占有面積は約3,490㎡。
④墳丘の大部分は盛土で築造れ、段築・葺石・埴輪は見られない。
⑤両袖式の大型横穴式石室で、玄室の下半1/3程度は流土で埋没。石室規模は、全長は13.2m、玄室長6.5m、玄室最大幅3m玄室高2.6m、玄室床面積18.3㎡、玄室空間容積41.3㎡
次に角塚です。この古墳はその名の通り方墳であることが分かりました。
昭和30年頃に撮影された航空写真では円墳に見え、現在の噴丘表面の大部分は昭和の造成で作られたものであるため方墳か円墳か分かりませんでした。報告書はトレンチ調査から次のように方墳と判断しています。
①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長ヱ4mの規模であり、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳であること
大野原の3つの古墳群の特徴は、何なのでしょうか?
報告書は次のように指摘します。
「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」
さらに、次のような点を挙げます。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
どちらにしても、6世紀後半から7世紀前半にかけて椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と順番に首長墳が築造した大野原勢力の力の大きさがうかがえます。中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に、大野原を拠点とする勢力は讃岐という範囲に留まらず、四国地域内においても突出した存在であったようです。
四国最大規模の巨石墳群としての大野原古墳の他地域へ与えた影響は?
 讃岐で最初に横穴式石室を導入したのは丸山古墳です。しかし、それに続く盟主墳は採用していません。それが築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期に、重なるように横穴式石室墳が姿を見せるようになります。
 この時期の石室は、それぞれが特徴的で個性的な様式でモデルがなかったようです。石室用材は小形で、玄室床面積も10㎡を超えるものはありません。

1大野原古墳 比較図
 それが母神山の瓢箪塚古墳に続く盟主墳の錐子塚古墳に大型横穴式石室が採用されます。複室両袖型石室で、玄室床面積は12㎡を越え、玄門部と羨道部に立柱石を内側に突出させて配置するタイプです。このタイプの石室が大野原古墳群に引き継がれていきます。そして、使用石材の大型化、前室と羨道の一体化と連動した羨道規模の長大化などの流れができあがります。
「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」の変化の中で作られた様式が讃岐各地の石室に導入されていったと研究者は考えているようです。例えば、国府が築かれる綾川下流域では、痕跡化した複室構造を認める新宮古墳、前室と羨道は一体化するが羨道天井部を一段下げて高架した綾織塚古墳など、これらには大野原古墳群からの影響がうかがえます。新宮古墳や綾織塚古墳を経て、醍醐2号墳で「完成形」に至るのですが、それは大野原古墳群がたどったルートと同じです。このように讃岐各地の大型石室墳は、大野原の石室がモデルになっていると研究者は考えているようです
 また築造された当時は、椀貸塚、平塚は讃岐最大規模石室をもつ古墳でした。角塚古墳の築造段階も、この大きさの石室は他にはなかったようです。このように「讃岐における横穴式石室の構築、なかでも大型石室墳の構築は大野原古墳群が主導」したと評価することができるようです。
 ところが7世紀後半になると大野原勢力の活動が低調化します。
 確かに南海道が通過し、柞田駅や柞田郷の設置され、古代寺院である青岡大寺(安井廃寺)が建立されます。しかし、それまでのように讃岐の他地域に比べて突出した存在ではなくなります。
対照的に三豊北部の三野郡には、活発な活動を示す勢力が現れ、輝きを増していきます。四国最初の古代寺院・妙音寺を建立する勢力です。この勢力は妙音寺の岡の下を流れる二宮川流域を勢力としてした集団で、畿内型横穴式石室を持つ延命古墳を築いた後は、いち早く古代寺院建立に着手します。その際に必要な瓦生産を開始した宗吉瓦窯跡は、その後藤原宮瓦の生産を始め、官営工房としての役割を担うとともに、今は丸亀平野の池の中に塔石だけが残る宝憧寺にも提供するようになります。

1三豊の古墳地図
 つまり、大野原の勢力が角塚という末期古墳の築造を行っていたときに、三豊北部の勢力は古代寺院の建立を始めていたのです。それだけではなく中央政府の技術支援を受けて、最新鋭「宗吉瓦」工場を三野に誘致し操業を開始し、藤原京に送り出すという国家事業にも参加していたことになります。
 つまり、7世紀後半の「大化の改新」から「壬申の乱」に架けての時期に、三豊の中心は大野原から笠田・三野に移ったのです。蘇我氏へのクーデター、壬申の乱における天武派と天智派の対立などが地方政治にも影響を及ぼしたことが考えられますが、これ以上の深読みは控えておきましょう。
参考文献 大野原古墳群Ⅰ 観音寺遺跡発掘調査報告書15



 大野原古墳群がある三豊平野南部の地理的な概観を「復習」しておくためのメモと、前回の補足になります。
 
1大野原地形
大野原古墳から南を見ると雲辺寺山(911m)がゆるやかにそびえ、阿讃山系の連なる山脈の盟主の姿を見せます。この山に源を発する祚田川は、五郷の谷間を抜けると扇状地を形成します。その扇状地の中央部の標高30mに大野原古墳群は3つ並んであります。瀬戸内海燧灘の花稲の海岸線までは西方向へ約2.5km、扇状地がはじまる讃岐山脈の山麓部までも同じく約2.5kmで、扇状地のちょうど中間になります。
 祚田川水系に広がる五郷・萩原・紀伊・中姫地区や海岸線に沿う花稲地区は近世以前から開かれた地域のようです。特に花稲はこの地区の港として、瀬戸内海交易を古くから行ってきた記録が残っています。
 大野原地区は、江戸時代に生駒藩の西島ハ兵衛が井関池の築造し、それに引き継ぎ、近江からやって来た平田与一左衛門等が苦闘の末に、この地を拓き現在の美しい田園風景の礎を築いた土地です。讃岐期の小雨に加えて、扇状地であることからの水不足に苦労し、それを長年にわたる地域の人々の知恵と努力によって、現在のレタスやタマネギのブランド産地へと育ててきた歴史があります。
 大野原町の地質は、次の4層からなっています

1大野原地形3
①雲辺寺山など讃岐山脈を造る海底堆積物の和泉層群、
②五郷山公園や大谷池周辺の湖沼堆積物の三豊層群、
③山麓の丘陵及び台地を形成する洪積層、
④平野部の沖積層
 香川県全体の基盤である花岡岩類は、西南日本内帯の領家帯に属する古い岩石です。もともとは地下の深いところにある地層ですが、観音寺市母神山(池之尻町など)や琴弾山(八幡町・有明町)などのように地上に露頭しているところがあります。大野原では丸井北付近でわずかに見られるだけです。ちなみに、三豊では、讃岐岩質安山岩などの讃岐層群が地上に姿を見せていません。そのため飯野山のような「おむすび型」の山がありません。

 和泉層群が形成されたのは、中生代の終わり頃の白亜紀の後期(約7,000万年前)とされています。
この層は和泉山脈から淡路島の南端、阿讃の県境を走り愛媛県の高縄半島から松山に至るまで、中央構造線の北側に沿って300 kmにわたって続いています。讃岐山脈は、この層によってできていて、砂岩層と泥岩層が互い違いに重なった層を形成しています。そのため五郷ダムや豊稔池、井関池水門では、アンモナイトやイノセラムスなどの化石が出てきます。
  第三紀鮮新世(約700万年~200万年前)から第四紀の初め頃に湖が香川から大阪方面に及ぶ淡水湖が形成されていた時代に、三波層群が堆積します。
三豊層群は粘土、砂、礫などからなる軟泥で、花岡岩及び和泉層群の岩石からできています。図2の通り、三豊層群は、井関から丸井まで雲辺寺山麓に台地上に広がっています。ここからは、メタセコイヤの球果や葉の化石が出てきます。
  新生代・第4紀・洪積世(200万~1万年前)には、雲辺寺山を造る和泉層群が浸食され山麓に堆積した洪積層が形成されます。
 この地層が和泉層群及び三豊層群を不整合におおっていて、径2~5cmから人頭大の和泉砂岩、泥岩を主とした礫層からできています。この礫層は、礫の風化が進んだいわゆるくさり礫なので赤色土化しているところもあり、内野々、福田原、丸井のミカン畑あたりで多く見られます。
 大野原地域の平地部は沖積世(約1万年~現在)に、柞田川(全長16 km、流域面積61㎞)と唐井手川の堆積作用による扇状地が海岸近くまで達したものです。平地部の地下は沖積層(厚さ5~20m)、洪積吐堆積物(厚さ10~30m)、三豊層群(厚さ40~80m)、及び基盤の花岡岩からなっているようです。

 地質的なことを整理すると、改めて「大野原(おおのはら)」という地名がつけられた訳が分かるような気がしてきました。つまり、この地域は柞田川の扇状地の上にあり、水はけも良い地域なのです。そのため弥生人が瀬戸内海を西からやって来て、稲作を行うには不適な地域であったということになります。そのため近世に用水路がひかれるまでは「大きな野原」だったようです。
 三豊平野に海から最初にやって来た弥生人は、まず財田川河口の後背地で稲作を初め高屋地区に集落をつくり、そこを母集落として財田川の上流の微髙地や河岸段丘上に子集落を形成していったのでしょう。特に私が注目したいのは二宮川流域です。この源流には大水上神社が鎮座します。弥生の時代から信仰を集めた神社だと私は考えています。
さて、ここからは三豊平野の墓域変遷についての前回の補足です。
 ここまでは柞田川の北と南では弥生時代における開発発展のスピードが異なったことの背景を、地理的な要因から推察してきました。モノから考えても、弥生時代の青銅器祭儀である銅鐸・銅矛・銅剣が出てくるのは財田川・二宮川流域です。柞田川より南からは出てこないことは前回もお話ししました。
 いくつかの集団に分かれて「青銅器祭礼」を行っていた財田川流域の諸集団を、最初に統合したのは誰でしょうか?
それが三豊平野最初の前方後円墳である青塚古墳に眠る首長と私は考えています。そのパートナーが財田川河口の港を押さえた丸山古墳の首長だったのではないでしょうか。青塚と丸山古墳は、古墳時代中期の同時代に築かれたとされます。青塚は内陸部の前方後円墳、丸山古墳は財田が倭寇の港に位置する讃岐最初の横穴式石室を持つ円墳です。両者は、多度津と善通寺の関係のように「本拠点と外港」的に棲み分けて共存・補完関係にあったと推測します。
 同時に両者の古墳の石棺は、九州から運ばれてきた阿蘇石の石棺が使われるなど古墳築造に、九州的要素が強く見られます。背景には、宮崎の西都原や阿蘇を拠点とする勢力との緊密な関係があったのではないかと考えられます。もっと具体的に云うと「紀伊氏」の南瀬戸内海ルートの拠点地として、財田川河口は機能していたのではないかということです。
 その後、この勢力は青塚から母神山へ墓域を移動させて、前方後円墳のひさご塚古墳を築きます。
この古墳は「総合運動公園」の自由広場の南東の竹藪のなかにあります。この周辺には多くの円墳があり古墳群を形成します。いくつかの土盛りが見え隠れするような気配ですが、表示がなく特定の古墳を見つけ出すのは難しいようです。
 ひさご塚古墳は報告書によると「墳長44m/後円部径26m/高さ5.7mの前方後円墳で、長さ18mの前方部はくびれ幅16m/先端幅23mとバチ型。後円部・前方部とも2段築成。盾形周濠あり、円筒・朝顔形埴輪あり、葺石なし」と記されます。6世紀前半の築造が考えられていますが、この時代には古墳統制が緩和されたようで、一時停止されていた前方後円墳の築造が地方で復活する時期です。同時代の前方後円墳としては善通寺地区に「王墓山古墳」「菊塚古墳」、西隣の伊予・宇摩地域に「東宮山古墳」「経ヶ岡古墳」があります。王墓山や菊塚古墳は、横穴式の前方後円墳で石室構造などに九州的要素が漂います。このひさご塚も同じように横穴式石室を持っているのではないかと研究者は考えているようです。
 善通寺地区では以前お話ししたように、「善通寺の王家の谷」である有岡地区に数世代の前方後円墳がならびますが、母神山にある前方後円墳はこの古墳のみです。
 標高九ニメートルの母神山には、丘陵の西半分を中心に約50基、さらにその麓に数基単位で古墳が分布し、母神山古墳群とよばれ、三豊平野に現存する群集墳では最大規模のものです。古代、この山は先祖を祀る聖地だったから「母神山」と呼ばれるようになったのかもしれません。数多くある古墳の中に唯一の前方後円墳が、この瓢箪(ひさご)古墳です。大規模な円墳群に一基のみの前方後円墳があるのは、珍しいようです。
母神山に次に作られる首長墓は横穴式石室を持つ円墳の鑵子塚古墳になります。
この古墳も石室は、後の讃岐の巨石墳の石室のモデルになったとも考えられるようです。そして、まだ九州的な要素を多分に持つ古墳です。
 そして、次世代のリーダーは墓域を母神山から大野原の扇状地の中央に移す決断を行います。
そこに最初に姿を見せるのが碗貸塚古墳になります。
そして、三世代に渡って6世紀後半から7世紀半ばにかけて
「碗貸塚 → 平塚 → 角塚」
と3つの巨石墳を継続して築いていくことになります。それは、中央では蘇我氏が権力を握って行く過程と重なります。
 
 三豊平野の墓域の変遷をまとめると以下のようになります。
①古墳前期 財田川河口の鹿隅鑵子塚古墳が三豊平野最初の古墳
②古墳中期 財田川河口の丸山古墳(地区最初の横穴式)
      財田川中流の青塚古墳(地区最初の前方後円墳)
③古墳後期 母神山のひさご塚古墳(前方後円墳)
      母神山の鑵子塚古墳 (横穴式巨石墳の登場)
      大野原の碗貸塚古墳 (最大の横穴式石室)
④古墳末期 大野原の平塚
      大野原の角塚
⑤古代寺院の建立 青岡廃寺の建立(紀伊氏の氏寺?)

三豊平野を時計の針のように北から南へ回ってきて大野原にたどりついたことになります。
しかし、多くの謎は解けないままです。
①まず、この勢力が母神山から大野原に墓域(聖地)を移したのはどうして?
②東伊予勢力と一体化していたというこの勢力の基盤は?
③粟井地域に勢力を持っていたという忌部氏との関係は?



         
1高屋神社
            
 観音寺市は讃岐の西の端で、西に燧灘が開けています。古代は、その海から稲作も伝えられたようです。室本遺跡出土の「鋸歯重弧文壷」等からは、弥生時代の籾後がついた壺も出土しています。
 有明浜に上陸した弥生人は、財田川やその支流の二宮川などの流域に遡り、稲作農耕を初め集落を形成し、青銅器祭儀を行うようになります。
観音寺地区の青銅祭器分布を、見てみると次のようになります。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
ここからは、銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」がそろっているのが分かります。こんな地域は全国でも、善通寺と観音寺くらいで、非常に珍しい地域のようです。北エリアには3種の祭器を用いる3種の祭儀集団がいたことがうかがえます。
もうひとつは、青銅器が出ているのは柞田川の北側のエリアで、南側の大野原エリアからは見つかっていないことです。
さて、これらの集団の関係は「対抗的」か、「三位一体的連合体」の、どちらであったのでしょうか?
これを考えるために善通寺市の様子を見てみましょう。
善通寺・瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口と中細形銅矛1口が出土し、出土地は分かりませんが大麻山からは大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。
我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されたことから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀のあったと研究者は考えているようです。
 同じように三豊平野中央部北エリアにも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルが異なる3集団があり、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成して行ったと推測できます。
 一方、柞田川の南側の大野原エリアは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。ここでは、祭器を持たず北エリアに従属する集団があったようです。つまり、三豊平野では進んだ北側、遅れた南側(大野原)という構図が描けるようです。
   
 観音寺で最初の古墳は、鹿隈錐子塚古墳(高屋町)のようです。
  近年の考古学は、卑弥呼後の倭国では「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた、その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められたと考えるようになっています。国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けてヤマトや吉備を中心とする各勢力は手が結び、同盟下に入ります。讃岐に作られた初期の前方後円墳群は、その同盟に参加した首長達のモニュメントとも言えます。それは津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せます。中期になると平野を基盤にした豪族諸連合の統合が成立したことを象徴するように、各平野最大の前方後円墳が築造され、その後は善通寺市域を除いて前方後円墳の築造は終わります。前方後円墳は豪族の長の墓として始まり、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わると研究者は考えているようです。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、初期や前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、善通寺と同じテンポで後期に入っても前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、前方後円墳は終了し、それを継いで横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
   三豊では前方後円墳は古墳中期になって登場するのです。遅い登場です。
1青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が築造されるのは、青塚古墳です。
一ノ谷池の西側のこんもりとした鎮守の森が青塚古墳の後円部です。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、現在でも地域における「祭祀センター」の役割を果たしているようです。墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m/長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、前方部は失われました。後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡ていました。幅1.2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在しています。
 この青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。発掘調査がおこなわれていないため、埋葬施設は不明です。しかし、縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者が大和志向でなく、九州の勢力との密接な関係があったことをうかがわせます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと思われます。

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 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺の有明浜の円墳・丸山古墳です。
この古墳は初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在が見えてくるようです。

1母神山
 古墳後期に入ると北エリアの母神山に前方後円墳・瓢古(ひさご)塚古墳が現れます。
この古墳も青塚古墳と同じように周濠(幅3~4m)を巡らし、墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lmの規模で、同時期の首長墓とされます。母神山唯一の前方後円墳で、埋葬施設は不明ですが、同時期の善通寺市の王墓山古墳のような横穴式石室を持っているのではないかと研究者は考えているようです。周濠からは一般的な円筒埴輪のほが須恵質の円筒埴輪や須恵器片などが出土しています。
 位置的にも青塚古墳に近接するので、青塚古墳の首長権を継承するリーダーのものと研究者は考えているようです。
つまり、三豊平野においては、古墳中期になって青塚 → 瓢箪塚と続く前方後円墳群が形作られていたと考えられます
  母神山は、その名の通り母なる神の山で、祖霊の帰る山として信仰を集めていたようで、6世紀前半になると、50基を超える古墳群が作られ、県内屈指の後期古墳群になっていきます。
   そのような古墳群の中に、6世紀後半には円墳の錐子(かんす)塚古墳が築造されます。
  この古墳は「総合運動公園」のスポーツ・グラウンドに隣接する公園の中に整備・保存されています。梅の時期には、良い匂いが漂います。前方後円墳のひさご塚から200mほどしか離れていませんので、ひさご塚と同一の首長系列に属する盟主墳と見られ、6世紀後半の築造と考えられています。
 径48m/高さ6.5mの円墳で、全長9.82mの両袖型横穴式石室が南に開口していますが、入口は鍵がかかって入ることは出来ません。羨道・前室・玄室を備えた複式構造ですが前室は形骸化し、羨道[長さ1.2m×幅1.45]、玄室[長さ5.6m×幅2.55m×高さ3.2m]です。何回かの盗掘を受けていますが、出土遺物は豊富です。金銅製単鳳環頭太刀柄頭1、鞘口金具1、三葉環頭柄頭1、鍔1、鉄刀2、銅鈴6、飾り金具4、刀子1、鋤先1、鉄鏃・玉類・須恵器などです。
 石室については前室に短い羨道がつけられる構造であり、その祖形は山口県防府市の黒山三号墳に求められるようです。石室全体は「端整に構築され美しささえ感じられる」と研究者は云います。この石室こそが讃岐の後の横穴式石室のモデルになったと研究者は考えているようです。以上をまとめておくと
①三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
②三豊平野では前方後円墳の築造は、他地域よりもワンテンポ遅れて中期に始まる
③善通寺と同じテンポで後期に入っても前方後円墳を築造し続ける。
④6世紀中葉になって、前方後円墳は終了し、それを継いで横穴式石室を持つ円墳の築造が始まる。
⑤それが母神山・鑵子塚古墳
鑵子塚古墳は、後期の母神山古墳群の草分けとなります。
前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、三豊平野の北エリアの豪族長の墓域は母神山から動くことはなかったようです。しかし、この古墳に続く首長墓は、母神山からは姿を消します。そして、墓域は柞田川の南エリアである大野原に移ります。
錐子塚の次の首長墓は南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。
それまで豪族長の墳墓のなかった南エリアに周濠の径が70mもある県下最大の横穴式石室墳が突如出現します。それまで、大型古墳を築造できなかった後進エリアの大野原に碗貸塚が現れる背景は何なのでしょうか?
 かつては、柞田川の北側の大野原に突然現れた巨石墳は「ヤマト勢力が讃岐の西端に打ち込んだ楔」であり「ヤマトの屯倉」的な性格で、在地性ない中央勢力であると考えられたこともありました。しかし、考古学の立場から調査報告書は
「錐子塚→椀貸塚→平塚→角塚」
の順で、同一勢力の首長墓として築造されたと記します。
  つまり、母神山勢力に敵対的な勢力が突然に大野原に現れたのではないのです。母神山を自分たちの御霊が帰る霊山として信仰していた集団が、柞田川を越えて大野原に進出し、そこに巨大横穴式石室を持つ古墳を築き始めたのです。母神山勢力の発展拡大と研究者は考えているようです。
 そして、新天地の大野原の地に、次のような順に巨石古墳を築いていきます。
①貸椀塚古墳が6世紀後半、
②平塚が7世紀初め、
③角塚が7世紀の前半。
 特に、最初に作られた椀貸塚は、玄室の規模が、玄室長6.8m、最大幅3.6m、最大高約3.9mもあり、床面積は22.3㎡、容積では約80㎡になります。これを四国内の古墳と比べると、母神山錐子塚クラスが床面積10~12㎡程度で、貸椀塚は、倍の規模になっています。畿内中枢部の横穴式石室と比べて見ても床面積では、奈良見瀬丸山古墳(約30㎡)、石舞台古墳(27㎡)、吉備地域では例外的に巨大な横穴式万石室であるコウモリ塚占墳(28㎡)など、遜色がないことが分かります。
1大野原神社
 江戸時代初期の開墾が始まって間もない正保2年(1645)の『大野原開墾古図』です。古図の中心部には大野原八幡神社とその背後に描かれているのが椀貸塚古墳のようです。こんもりとした墳丘とそれを取り巻くような周濠らしきものが見えます。これが、紙資料で確認できる椀貸塚の初見のようです
 40年後の貞享2年(1685)の『御宮相績二付万事覚帳』に神社の修理を行った時の記録が残されています。その中の「地形之覚」には神社を拡張したことが次のように記されています。
「‥拾三間四尺 但塚穴の口きわより玉垣のきわまで 今までは塚穴石垣きわより玉垣まで拾弐間弐尺」、
「一 塚穴二戸仕ル筈・・」
「一 塚穴之左者廣ケ石垣も仕筈」
「一 右両方之堀り俎上者塚之両脇又者馬場の両脇小塚ノ上取申筈」
とあり神社にある塚穴=椀貸塚古墳の当時の状態がうかがえます。
「古今 讃岐名勝圖綸』にも次のような記載があります
  八幡幡社 大野原八幡宮の社後椀貸穴の上にあり 一説に或内なる於社なりと云いかか走手侍。」
「塚穴十一と其塚説 相傅此地開拓の時百七十蛉ある中今中の残るは柘貸平塚角塚豆塚。傅口椀塚は地主神を太子殿と称し穴へ入者なし 村人椀を得んことを乞へは倍せり 一時中姫人此塚上に在す感神祠に用あり食叛吾悉皆借て事足せり後に村人借て一箸を失せり 夫より止と云営時開墾の時此穴に入る人あり 神人告て八幡を祭れと依て 此穴を奥の院と云。」

  ここには「椀貸伝説」とともに、大野原開墾の際に古墳の横穴石室に入った人に「神人告て八幡を祭れ」「此穴を奥の院と云。」と記され、横穴が「奥の院」として神社の聖域とされ人々の信仰を集めてきたことが分かります。今も椀貸塚古墳は、大野原八幡神社の本殿の後に神域として祀られています。

 明治時代の資料には、明治35年(1902)の『香川県讃岐國三豊郡大野原村 鎮座郷社八幡神社之景』があり
神社の建物、玉垣、石垣等の配置が詳細に描かれています。椀貸塚古墳の開口部の付近は、土塀が設けられ、石垣のほぼ中央部には縦長の巨石が存在しているが現在と異なる点です。この図中には
「椀貸塚ノ縁由」として「相傅ノ昔塚穴二地主神在リテ太子殿卜云フ 神霊著シキヲ以テ庶テ穴二入ルモノナシ・・」
と記されます。
1碗貸塚古墳1

調査報告書の碗貸塚古墳の測量図は、いろいろなことを教えてくれます。分かることを挙げておきます
①碗貸塚古墳の横穴石室自体が「奥の院」とされ、信仰対象となっている。
②墳丘南側には大野原八幡神社の本殿、東側には応神社が設けられ、墳丘は開削されている。
③東側も応神社と小学校の校庭として削られている。
④墳形・規模直径37.2mの円墳で、外周施設として二重周濠と周堤があった。それを含めると範囲は径70mになり、占有面積は約3,850㎡の大きな古墳だった。
⑤碗貸塚古墳の東に、後から作られた岩倉塚古墳がある。
⑥表面観察では葺石や段築は確認できない。
1碗貸塚古墳2
  復元するとこんな姿になるようです。どこかでみたような姿です・・・
 
1鬼の窟古墳
宮崎県西都原古墳群 鬼の窟古墳
西都原でみたこの古墳が思い出されます。どちらにしても、ここに3つ並ぶ巨石墳のうちで最初に作られた碗貸塚古墳は九州的な要素が色濃く感じられます。それが平塚・角塚と時代を下るにつれてヤマト色に変わって行くようです。その社会的な背景には何があったのでしょうか?
それでは最後に、母神山から大野原に連綿と首長墓を築き続けて来た古代豪族は?・
大野原古墳群の被葬者像については、紀氏が想定されてきました。
周辺に「紀伊」「木の郷」の地名が残り、また『和名抄』に刈田郡紀伊郷や坂本郷(紀氏と同族の坂本臣との関係)が記されているからでです。そして、紀氏は、紀伊や和泉から西方、阿波や讃岐にひろく分布を広げていて、瀬戸内海の南岸ルートを押さえた豪族ともされます。
 大野原古墳群の最後の巨石墳墓である角塚古墳の被葬者が埋葬されたのち、孝徳朝の立評により刈田評が成立したというのが定説で、その子孫が評督、さらに郡領になったと研究者は考えているようです。その段階の紀伊氏の拠点は大野原古墳群から1km東北にあたる青岡廃寺の周辺にあったと推測されています。
次回は大野原の3つの巨石墳を見ていくことにします。
  
参考文献 大野原古墳群Ⅰ 観音寺遺跡発掘調査報告書15
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前回は、観音寺の本堂やお堂を見てみました。今回は、調査報告書を片手に各堂の仏達を見ていく事にします。
まず、仁王門です。ここには2mを超える阿・吽の仁王さんが迎えてくれます。
報告書には次のように記されます。
 肉身各部の誇張や妙な力みのさまによる破綻がなく、頭体腕足の均整に優れ、写実を自然にこなした彫りが感じられる。鎌倉時代に流行した仁王像の力感表現の伝統を引きながら、穏やかに敷街したかのようにみられる優品である。

観音寺仁王像1
 現在の仁王門については、宥英法印の宝永3年(1706)に再興されたことを記した棟札が残ります。しかし、仁王さんについてはもっと古く
「像表面の傷みに対して砥の粉を塗られるなど近世以降の修理を受けるものの、作風からすれば、享徳ころの制作と考えてもよい」
と報告書は記します。
神恵院本堂8

次はコンクリート製で近未来的な神恵院本堂に行ってみましょう。
ここの本尊は、琴弾八幡宮の本地仏であった来迎印相の木造阿弥陀如来立像です。近年修理されて、全身を金泥を塗り、漆箔金の照りを抑えて落ち着いた雰囲気にしあげられています。ここへやって来たのは「見仏記」的には脇檀にいらっしゃる毘沙門天立像にお会いするためです。報告書は次のように紹介します。

神恵院本堂仏5
 頭体を一木から彫成するもので、内刳りなく、面部を彫り直しているのは残念ではあるが、制作は平安時代中ごろではなかろうか。現状では両肩から先を後補されるようであり、足ホゾを作って岩座上に立つ。右手を挙げて戟を執り、左にやや腰を捻って屈腎して掌上に宝塔を提げる毘沙門天像としては通例の像容である。痩身の体部に甲冑を付けるが、その細部は省略されているものの像容は力強く、あるいは修理により像表に具材の古色を厚く掛けたものか。
 本像の岩座は後補となるが、その天板裏面銘によれば、もと西金堂(現・観音寺薬師堂)の四天王像の一体であると記す
 この毘沙門天は「平安の古像であり、四天王像の一体」のようです。
もともとは薬師堂の薬師如来をお守りしていた四天王さんのメンバーだというのです。そうだとすれば、西金堂(薬師堂)本尊の薬師如来像と同じ時期に作成されたと考えられます。しかし、この毘沙門天の連れ添い達は、薬師堂にはいないようです。今は本堂で本尊の観音様を護っているのです。かつては薬師堂で御薬師さんを護っていた四天王が、今は本堂の須弥檀の四隅に配されて本尊の観音さまをお護りしています。しかし、毘沙門天はメンバーから引き離されて、神恵院本堂にいらっしゃいました。
  調査書には次のように記されています。
観音寺本堂の四天王
 足下に踏み付ける邪鬼まで含んで、頭体幹部を一材から刻みだしたもので内刳りなく、ほほ等身大の像高をはかる。忿怒の形相や武具を振りかざす姿態などは、やや穏やかにあらわされているものの、古様な着甲の像容であり迫力にも富んでいる。邪鬼にのこる彩色の痕跡からして、当初は彩色仕上げとされていたものと考えられる。現状は、正面側の像表面の荒れを調整して古色仕上げとされている。
  一人ひとりを紹介するのでなく、四体まとめての紹介というのは、平安生まれの四天王に対して、礼を欠くような気もしますが・・・。

さて、もともと四天王が護っていた薬師如来は、どんなお姿なのでしょうか?
 薬師堂はかつて西金堂と呼ばれていたようです。今の巡礼者達は、本堂と太子堂にお参りして、薬師堂まで階段を登ってくる人はいません。人の訪れることのない薬師堂です。しかし、この薬師如来坐像は、丈六の大像でした。報告書を読んでみましょう。

観音寺薬師如来坐像1
 現状は古色仕上げを施される。三角材の木寄せの緩んだ三角材部分から体内と膝前材のようすを観察することができた。その結果、当初材には多孔質な木肌からクスを用いているものと推定され、体部材には内刳りを施し、基本的には前後に数材ずつ寄せており、現状は後世の鑓で各材を留めて峯郡を構成していることが確認され、頭部は耳後ろで前後二材をよせている。体内の首ホソから肩にかけては新補のマチ材が複数あてられており、判然としないが、おそらく三道下で割首仕様としているものとみられる。膝前材は内刳りを施した当初のクス材部分に新補材を寄せて結珈する脚部や衣文を彫り直しているようである。左半身の構造は確認できなかったが、手首は挿しこみとなっており、右上腕材元残存状況から当初材がのこされている可能性が高い。右前賢と両手は後補とみられる。
 本像の面部は、傷んだものか残念ながら彫り直しを受けており、当初の顔貌かを大きく損じていると思われる。しかし、耳の造形や螺髪の端正な割りつけと刻み方をみると当初のものとして良く、鉢を開かず細面とし、肉誓と地髪の段差を控え目にして、緩やかな繋がりをみせる頭部の形状は、平安時代中期乃天台系如来像に通じる特徴として指摘する意見があり、或いは本像もこれに連なる可能性がある。
報告書には「西金堂丈六薬師尊像」の修復を記した元禄6年(1693)銘の木札が発見され、新補材並びに古色仕上げは、この時の修理によるものとされます。そしてこの薬師如来坐像は平安時代中ごろに制作された可能性があるとのこと。元禄の大修理を受けたようです。江戸時代になり、観音寺は京極藩の保護を受けて、堂舎・仏像の再興活動がなされていたようです。それが、仏達を今に伝える事につながっています。

釈迦阿弥陀発遣来迎図
 琴弾八幡の本地仏を描いた阿弥陀如来来迎図 
 最後に神恵院十王堂を見てみましょう。ここには閻魔王像のほかに十王像がいます。
司命・司録の二官、奪衣婆像・赤・青の二鬼、さらには人頭檀荼憧までを備えた地獄差配する群像が並んでいます。『元禄六気葵酉四月 豊田郡坂本組寺社帳』(『観音寺市誌』1985年所収)の「神恵院」の条には、「十王堂」がみえるので、江戸時代初期には存在していたようです。
 木札裏面にみえる発願主の「大こ彦兵衛」の名は十王のうちの5体に、また、「萩田伝八」の名は閻魔王像の台座天板裏の銘文に「東高屋村萩田伝八安重」「同光輪恵照尼」「同家内中」として記されており、萩田氏の家族が願主です。
 木札裏面にみえる「仏師京都 田中弘教」の各像にも記されており、十四体は「大仏師 田中弘教」の作のようです。ただし、閻魔王像だけは、古材を修補していることがうかがえるので、室町時代以前まで遡る可能性があるようです。制作者の「大仏師 京 田中弘教」は江戸時代17世紀後半から活躍の知られる名代の仏師です。

神恵院3
 香川県においては、文化12年(1815)旧高瀬町勝造寺の吉祥天・善賦師童子雷を制作しています。そのほかにも四国霊場71番札所弥谷寺や、同65番札所三角寺にも弘化年間の作例があり、さらに、仏生山法然寺の二王像の首ホソにもその名が記されているようです。仏師田中家は讃岐の寺院からの依頼をよく受けていたようです。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行

観音寺境内図1
「四国霊場を世界遺産へ」というスローガンの下に、いろいろな取組がされているようです。「学術調査」の面でも予算が大幅に付けられて、霊場や遍路道などの調査が今までにない規模で行われています。その成果を示すように調査報告書が毎年、四国各県で出されています。
その中で、最近手元に入った68番神恵院・69番観音寺の調査報告書(2019年3月発行)を見てみることにします。
報告書は「1 建築物 2 石造物 3 美術工芸品 4 古文書 5 聖教 6 民俗資料」に分類して報告されています。ここには、古文書から始まり本堂の落書きに至るまでの史料も集められています。さて、
この報告書を手にして、観音寺を訪ねてみましょうか。
 観音寺は山頂に琴弾八幡宮が鎮座する琴弾山の東斜面にあります。
この寺が話題になるのは、68番札所である神恵院と同じ境内にあることです。
 まずは、境内に行って見ましょう。ちなみに銭形見学後にこの寺を訪ねると、寺の上から訪れる事になります。これは、便利ですが「正道」ではありません。できれば下から仁王門をくぐりてお参りすることをお勧めします。
1観音寺仁王門
    
 まずは仁王門から見ていくことにしましょう。
|構造形式】八脚門、切妻造、本瓦葺
1建立年代】寛政9年(1797年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 仁王門は階段を登った上にあります。報告書に書かれた専門家の説明を読みましょう。
 仁王門は切妻造、本瓦葺の八脚門で、中央間を四半敷の通路とし、両脇問正面側には金剛力士像2躯を祀る。宝永3年(1706)の棟札を残すが、後述する絵様や彫刻からこの時期の建物には見えず、『琴弾伽藍古録一覧』「仁王門」の項に、寛政9年(1797)「地形引直再興」の記事があり、絵様や彫刻から判断される建築年代と難敵はない。したがって、ここでは寛政9年の建築とみておく。
 同史料には、「施主当町富田氏世話人定右工門/大工萩田善右工門同栄治/大塚重三郎」とある。基壇は亀甲形の石積基壇で、最上段には後補の花尚岩切石の葛石を並べ、中央通路部分を聚き、上面をモルタルで仕上げている。基壇の規模は必ずしも仁王門の屋根と整合しない。
  中略
以上の構造および細部意匠から、建築的には18世紀後期~19世紀初頭頃の建立年代が想定でき、『琴弾伽藍古録一覧』に記された寛政9年(1797)再興は、信がおけるものと考える。2000年頃の修理時に部材の多くを取り替えているため、当初材は頭貫・台輪の一部・組物・桁・妻飾・彫刻で、垂木以上はほぽ新材だが、建物の規模や意匠に大きな変更はなく、往時の構造・意匠を保っている。
 全体として構造的には簡素であるが、随所に華麗な彫刻を配しており、特に棟通り中央間に集中する彫刻は立体的で躍動感があり、江戸後期の高い彫刻技術を示している。観音寺の正面を飾るにふさわしい建築と評価できるだろう。                   
 
観音寺仁王門

気になるのは「基壇の規模は必ずしも仁王門の屋根と整合しない。」の部分です。以前の基壇がそのまま使われているかもしれないというサジェスチョンなのでしょうか?。
  随所にあるという「華麗な彫刻」を探して「立体的で躍動感がある江戸後期の高い彫刻技術」を見る事にしましょう。

さて仁王門をくぐると、内側の参道沿いには、明治30年代の年代が刻まれた石灯寵が7基並んでいます。石造物については、また別の機会に見ていく事にして・・・先を急ぎます。
闘伽井を左手に見て緩い傾斜をもつ石敷きの参道を西へ真っ直ぐに進み、石段を上ると本堂や寺務所、庫裏などが建つ南北に細長い平坦地に出ます。
 仁王門からの石段を上りきると正面に巨大な楠が迎えてくれます。そして右手(北)に鐘楼が建ちます。

観音寺鐘楼1
 この鐘楼は彫刻がふんだんにされていて、見ていて楽しいものです
鸚造形式】桁行1間、梁間1間、一重、入母屋造、木瓦葺
1瞳さ年代】文化7年(1810年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 さて、ここでも報告書を開いて見ます。
 柱は上下に踪をもつ角欠きの面取角柱(一辺304mm、面内294mm)で、四方内転びとする。崖地の建つため、平坦面を造る石垣の上に切石を4段積んだ比較的高い基壇を築いている。西面には5曇の耳石付の石階を備え、基壇内側に若干切り込む。基壇上面はモルタル仕上げの土間とし、西面の階段葛分を除き縁辺部に高欄を施す。礎石は方形の切石で、その上に平面角形で側面をはらませた特徴的な礎盤を置き、柱を立てる。現在の基壇・礎石・礎盤は、屋根の葺き替えとともに、2000年頃に改修されたものという。
 中略
 顎貫・台輪・花肘木は、いずれも部材表面を覆いつくす雲や波の彫刻が施されている。台輪上の中備には四面とも力士像を置くが、各面で意匠が異なる。正面である西面のもの、両手で桁を支える。南北面のものは、外側に正対せずにやや正面側を向いているため、片手で桁を支えている 133)。また東面のものは、正対するものの肩で桁を受けている・・・・・中略
評価
 元禄9年(1696)の鐘楼堂の棟札が伝わるが、現存する鐘楼は意匠的にみてそこまでさかのぼりえない。鐘楼の建築年代は、彫刻の意匠からは19世紀前半と考えられ、『琴弾伽藍古録一覧』「鐘楼堂」の項にみえる文化7年(1810)再建の記事と整合するため、これを認めてよいだろう。
また『琴弾伽藍古録一覧』によると、「大工棟梁荻田栄治貞在/後見丸亀永井貞右工門道親/小工荻田嘉兵工良茂」とある。
 ところで、西面にかかる扁額には、「支那沙門雪珍書」の陰刻銘がある(写真139)。雪片(1649~1708)は黄聚宗の中国僧で、17世紀末~18世紀初頭に伊予国千秋寺の第4代住持であったことが知られる。裏面には「信主営町上町浦/岸氏仁右衛門」の陰刻銘がある。この扁額は、前身の鐘楼に掲げられていた可能性もあるが、鐘楼以外の建物に掲げられていたものかもしれず、現状では雪片と観音寺の関係を含めて明らかでない。なお、梵鐘は昭和22年(1947)のものである。
   刻まれた力士達の姿をいろいろな方向から眺めているだけで楽しくなります。また、最後の茶道の流れを日本にもたらす黄檗派の中国僧の扁額というのも気になります。というのも、これから見る本堂の内陣の大形厨子には禅宗様の要素が取り入れられているからです。
   さて、やっと本堂に正面から向き合います。
観音寺8

本堂(金堂)は、境内の北側に山を背負って南面します。
「構造形式」桁行3間、梁間4間、一重、寄棟造、向拝1問、本瓦葺
【建立年代】延宝5年(1677年/棟札/室町時代前期 前身堂を改造)
 この本堂は昭和34年(1959)に国の重要文化財に指定され、その後に解体修理工事がおこなわれています。その際の修理工事報告書には、次のように記されています
観音寺本堂3

①この堂は、もともとは南北朝時代に建設された方5間の「前身堂」であった
②それを万治年間(1658~1661)に大改修して現在の規模(桁行3間、梁間4間)にした
③しかし、この時の修理では完成せず、さらに大改造をおこなって、16年後の延宝5年(1677)に上棟した。
つまり、南北朝時代に方5間の規模で建立ものが、江戸寺の始めに大規模な改修を加え、今の形に生まれ変わったようです。この再建は、前身堂の両貿面および背面の各1間を取り除いたもので、柱間の変更、柱位置の入れ替え、軸部の構造の改変などをともなっています。つまり前身堂の「保守的な修理」ではなく、新たな建物に「前身堂の古材を用いた」と考えるレベルの改修規模だったようです。そのため、今の本堂は近世の建築形式・技術で建てられており、建立年代は延宝6年と専門家は考えているようです。その後、明和年間には内陣の厨子と須弥壇を改造して間口を拡大し、寛政13年(1801)には脇仏壇が増築されています。そして昭和35~37年の修理工事によって、脇仏壇が撤去されたのが現状のようです。
観音寺本堂1

 このように、この本堂は近世の建立とされますが、南北朝期の前身堂の部材を残し、改造はありますが中世の仏堂の雰囲気を残しているようです。前身堂の復原もある程度可能であり、中世における三豊地方の建築を知る上でも重要とされます。私の中で沸いてくる疑問は、もともと5間あったものを、どうして3間規模の建物に縮小したのか?です。しかし、報告書は、それには答えてくれません。ここの本堂は心地よい印象を受けます。私の中の「讃岐の霊場の本堂ベスト3」の中に入ります。ちなみに、あとの2つは本山寺・屋島寺です。
 
観音寺本堂しゃみだん
 本堂で私が注目したいのは内陣の大形厨子です。
これは、部分的に禅宗様の細部を取り入れられています。これは、本山寺本堂(国宝、1300年)と、よく似ていると修理工事報告書は指摘します。前回に述べたように、観音寺と本山寺が山号を共に七宝山と号して、不動の滝から稲積山の行場を共有する修験者の辺路ルートの拠点であったという仮説を補強する材料にもなります。
   また、本山寺に現在の本堂が姿を現したのを追いかけるように、観音寺でも方5間規模の「前身堂」が建立されていることになります。本山寺と観音寺はの関係は深かったことがうかがえます。
観音寺本堂2


 両寺の奥の院と考えられる興隆寺遺跡にのこされる大量の石塔群の作成年代は、鎌倉時代の後期から室町時代の末期に及ぶ約200年にわたるとされます。その期間が両寺が「真言密教の道場」として機能した時期なのかも知れません。そして、これらの宗教活動を支えた経済的な基盤は、観音寺の各港を拠点とする交易活動に求める事ができそうです。
観音寺太子堂
  本堂の次は・・・? 太子堂というのが常道でしょう。
【構造形式】正面3間、側面4間、一重、宝形造、向拝1間、本瓦葺
【建立年代】宝暦11年(1761年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 大師堂は仁王門をくぐり、参道の階段を登った正面左手に、愛染堂と並んで建ちます。
太子堂ですから本尊には、弘法大師が祀られています。「各部の虹梁絵様は18世紀中期の様相を示し、宝暦11年(1761)に再興」とあります。ちなみに、太子堂については、『琴弾伽藍古録一覧』に次のような再建記録があります。
①『弘化録』に長和2年(1013)に当堂の存在が確認できること、
②弘長3年(1263)の御影堂の棟札(木札資料6-6)、
③永禄9年(1566)の御影堂建立棟札(木札資料6-4)、
④慶長2年(1597)良海の代に再建されたことが記される。
⑤慶安元年(1648)の御影堂再興棟札(木札資料5-3)、
⑥延宝4年(1676)の弘法大師堂再興棟札(木札資料5-6)、
⑦延宝5年(1677)の御影堂再興棟札(木札資料5-7)
以上の史料が残るようです。①は史料としては不確実なものですが、②以下は棟札ですから、存在した可能性が高いと考えられます。戦国末期の混乱の中でも寺が機能存続していた事がうかがえます。
太子堂の「評価」について、報告書は次のように述べます 
当初より、背後に仏壇を突出させていたと考えられ、弘法大師を祀る正堂と、その前方の礼堂という構成をとる。礼堂にあたる主屋は正方形平面の内部に内陣を設けるが、内陣が中央になく背後に寄せて外陣の空間を確保している点が特徴である。
 ただし、当初は外陣の構えをもたず、内陣の周囲は間仕切りがなく、あたかも一間四面堂のような様相であったと考えられる。内部に改修はあるものの、当初形式をほぼ留め、天井画などの装飾性が豊かな点も特徴としてあげられるだろう。なかでも、内陣二重折上格天井など高い意匠性を認められ、虹梁絵様の意匠からも18世紀中期の仏堂と評価できる。
 足元まわりが、昭和51年の土砂崩れの被害を受け、花尚岩製の方形切石を入れてかさ上げされているが、外部の構造・意匠は概ね建立当初の形式を伝えている。社蔵記録から宝暦11年(1761)の再興が明かな点も、同時代の周辺地域における建築の建立年代を考えるうえで重要な意義をもっと考える。
 うーん。読んでいると頭がくらくらしてきます。情報を受け止めるだけの準備不足を感じてしまします。もう一軒行ってみましょう。
観音寺薬師堂1

さて次に向かうのは階段の上の薬師堂です。
 この建物は、『琴弾伽藍古録一覧』には、大同2年(807)に弘法大師が建立したと記されます。続いて、慶長9年(1604)の上棟、正保4年(1647)と元文4年(1739)の再建の記事があります。さらに
「随正和上代正徳四年寺社帳二ハ 四間四方トアリ、光巌和上代宝暦四年明細帳ハ 五間四方トアリ」
との朱書が記されています。これを信じれば、正保4年再建の堂が4間四方、元文4年の堂が5間四方であったようです。現在の薬師堂は大正時代の再建です。建立に関する資料としては、仏壇の南側の脇間に棟札が置かれているようです。その棟札には「再建西金堂」、[大正三年三月二十一日]、「大工棟梁 大塚竹治」などの字句がみえ、西金堂を再建するという意味で薬師堂を新築したということだそうです。

観音寺薬師堂2
  この建物は「西金堂=薬師堂」という性格をもつようです。
 このほか、正面石階の側面羽目石のほか、正面に点在する灯篭・香立て・花立てなどの石造物にも大正3年(1914)の銘を確認できます。また大工棟梁の大塚竹治は、昭和3年(1928)におこなわれた琴弾神社本殿(寛保3年=1743建立)の第37回遷宮(修理)の大工棟梁もつとめていることが、『琴弾八幡宮昭和流記』(1989年)から分かるようです。
この薬師堂の性格を一変させるのが明治の神仏分離令です。
廃仏毀釈運動の影響を受けて琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来が、この建物に遷ってくることになります。その結果、第68番札所の神恵院の本堂として使用される事になるのです。それは、2002年に現在のコンクリートの本堂が出来るまで続きました。その役目を終えて、現在は再び薬師堂と呼ばれるようになっています。
それでは報告書の薬師堂の「評価」を見てみましょう
 薬師堂は、正方形の内陣の四周に庇をめぐらせる基本的な平面をとりながら、内陣の床や天井を上げることで、正面側を外陣、両側面を脇陣とし、背後に寄せて仏壇を設けるといった平面的な特徴を備えている。正面側まわりと内陣柱との柱筋がそろわないため、内外で柱や束の立てる位置が異なり、また大虹梁側面から挿肘木を出して天井桁を支えるといった変則的な納まりとなるところがあるが、内陣の三方を虹梁で囲い、大きな本尊に対応した高い内陣の空間などが特徴的である。全体の意匠は、和様を基調として、台輪、柱の綜、花頭窓など禅宗様の構造や細部をとりいれ、側まわりを中心に彫刻などの意匠が豊富である。とりわけ向拝周辺の虹梁絵様や彫刻などは精緻で、大瓶東に二重虹梁を挿す構造的な面を含めて薬師堂のみどころの一つである。
 また、組物は柱上だけでなく、柱間の東上や柱間にも置くなど、詰組に近い構成となっている。向拝の丸桁や仏壇正面の貫状の水平材に施された地紋彫りは珍しく、彫刻技術の高さを示している。それゆえ、隅柱の内法長押や切目長押の納まりが正統的でないのが、やや不可解である。
 棟札により、建立年代や大工が明らかである点も特徴に挙げることができる。大きな改修を受けず建立当初の姿を伝えており、近世社寺の流れをくみながらも架構などに独特な点がみられる近代の仏堂と評価できる      
   
IMG_9761
疑問が残るのは、なぜ観音寺に薬師堂があり、古仏の薬師像が祀られているかです。
ここにはこの寺のもうひとつの成立由来が隠されているようです。
薬師如来は、中世の神仏習合の時代には熊野権現の本地仏として、密教修験者達に祀られてきた仏です。本堂の一段上に建ち、境内を見守るお堂はその歴史を静に伝えるもののように私には思えます。
IMG_9764
観音寺の境内のお堂等を丁寧にお参りしました。
さて、神恵院の本堂は、薬師堂の階段を一旦下りて、観音寺の大師堂と神恵院の大師堂の間を西に進んで、さらに石段を上った所にあります。最初に、この本堂の前に立った時の違和感をいまでもおぼえています。この本堂は、2002年に鉄筋コンクリートで新築された「未来的な建物で、未来的な宗教空間」なのです。これを建てた建築家にエールを送ります。
  このお寺の歩んだ歴史については、また別の機会に
   南無大師遍照金剛
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行

  どうして讃岐に阿蘇石の石棺が運ばれてきたのか。 

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観音寺の琴弾八幡神社の裏の山からは有明海をバックに寛永通宝の砂絵が松林の中に描かれているのが見えます。
 広がる海は、燧灘。古代にはこの海を越えて九州から、重い石棺がはこばれてきたようです。三豊と九州との関係を色濃く示す古墳を訪ねて見ましょう。 
  丸山古墳2
 丸山古墳(観音寺市室本)

丸山古墳は燧灘を見下ろす丸山(標高50m)の頂上にあります。
西側は燧灘が広がり、遠浅の有明浜が南北に長く続きます。この丘に立つと自然と西に開けた燧灘を意識します。
この丘の上に、明治になって丸山神社(当時は「山祇殿社」)の社殿が建設されることになり、墳丘の南半分が削平され、石室が破壊され、石棺が現われたようです。
concat

 調査が行われたのは戦後になってからで、一時は前方後円墳とも言われました。しかし、何回かの調査の結果、径35m、高さ3.5mの中期円墳で、讃岐で最初に横穴式石室を採用した古墳とされるようになりました。出土品は葺石があり、円筒・衣蓋埴輪のほか馬形・鳥形・偶蹄目の動物埴輪が出ています。
丸山古墳横穴式石室
丸山古墳の横穴式石室
 遺物には、鉄剣1、鉄刀1、鉄製品片(短甲片か?)があります。出土した円筒埴輪片から5世紀中葉~後半の築造が考えられています。
構造的には、扁平な板石や割石を小口積みで持ち送りした石室は南北方位で「現存長4m×推定幅3.7m×高さ2.5m以上」と讃岐のこの時期のものとしてはかなり大きいものです。
この古墳の特徴的なのは、九州の影響が色々なところに見られることです。
香川県観音寺市室本町 丸山古墳 | 古墳探訪記
丸山古墳の石棺
石室構造は肥後形に近く、複数人を埋葬する初期型の横穴式石室と考えられているようですが、その特徴である石障はありません。石棺は刳抜式舟形石棺(長さ192cm×幅105m)で、棺蓋は寄棟屋根型で短辺部の傾斜面にやや上向きの縄掛け突起が付いています。
九州には舟形石棺と肥後系の横穴式石室が共存する古墳は知られていないようです。そういう意味では「変な古墳」なのです。 

丸山古墳
丸山古墳 横穴式石室と石棺

この古墳の変わっている点は?

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刳り抜き式家型石棺(藤井寺市長持山古墳5C)・阿蘇溶結凝灰岩

この石棺は、讃岐の国分寺町の鷲の山石や津田火山石ではなく九州の阿蘇溶結凝灰岩が使われています。ちなみに当時の讃岐は、国分寺町の鷲の山石や津田火山石を用いた「石棺生産国」で、それを畿内や播磨・吉備にも「輸出」していました。ところがこの古墳の主は、讃岐産の石材ではなく阿蘇石製の石棺をわざわざ九州から運び込んで来ています。さらに、この古墳が作られた古墳時代中期半ばには、讃岐における石棺の製作は、ほぼ終わりかけています。いわば「流行遅れ」の石棺と最先端の横穴式石室という組み合わせになります。ヤマト政権よりも九州の同盟者を優先しているかのようにも思えます。この丸山古墳の被葬者と九州の勢力との関係とは、どんなものであったのか興味が湧きます。
次に三豊平野の青塚古墳を見に行きましょう。
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            青塚
三豊の古代条里制の起点になった菩提山(標高312m)から舌状に北に伸びてくる丘陵台地の末端に青塚はあります。近くには一ノ谷をせき止めて作られた一の谷池があります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられていて、地域における祭祀センターの役割を果たしてきたことが分かります。
 青塚古墳は香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。
その気配が現在の地形からも見て取れます。前方部は上半が削平されていていますが、水田となっている周濠から考えれば、短いもので帆立貝型だったとされます。現状からは、墳丘の全長44m、後円部径30m、周濠の幅9mの前方後円墳がが考えられます。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、盗掘にあっているようです。
問題は石棺で、丸山古墳と同じ阿蘇溶結凝灰岩が使われていることです。
この古墳は立地、墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造された古墳だとされます。とすると丸山古墳とは同時期になります。あちらは横穴式石室で円墳、こちらは前方後円墳の帆立型形式ですが、九州から同じ石材が同時期に運ばれてきていることになります。 
 屋島の先端の長崎鼻古墳(高松市屋島)も同じ阿蘇石が石棺に使われています。
「高松市 長崎の鼻古墳」の画像検索結果
  
この古墳は屋島の先端、長崎ノ鼻の標高50メートルにある全長45メートルの前方後円墳です。墳丘は3段に築成され、各段には墳丘が崩れないための葺石が葺かれています。目の前は瀬戸内海で、女木島や男木島がすごそばに見えます。立地から海上交通に関係の深い豪族の墓であろうと考えられていました。発掘するとまさに、その通りに後円部にある主体部から、阿蘇熔結凝灰岩製の舟形石棺が確認されました。これは観音寺市丸山古墳・青塚古墳に続く3例目となります。   
 この長崎鼻古墳は墳丘出土の遺物や舟形石棺の形状から、それよりも50年ほど古い5世紀初頭頃の古墳であるようです。ちなみに、この長崎鼻には幕末には高松藩によって砲台が築かれた場所でもあります。今もその砲台跡が古墳と共に残ります。 

このように讃岐の古墳に、九州の石棺が運び込まれています。

恐らく熊本県で作られて、それが讃岐に運ばれてきたということなのでしょう。どのような方法で、どんな人たちが、何のために九州からわざわざ石棺を運んできたのでしょうか。これらの古墳に眠る被葬者と、九州の勢力とはどんな関係にあったのでしょうか。いろいろな疑問が沸いてきます。

最初に見た丸山古墳と青塚古墳は、燧灘の西の端にあたります。両古墳のあたりは、『和名抄』の讃岐国刈田郡坂本郷や同郡紀伊郷の週称他の近くです。この「紀伊郷」との関係について岸俊男氏は次のように考えているようです。
 紀伊郷は紀氏との関係がある地名であること。紀氏とその同族が瀬戸内海の交通路を掌握して大和勢力の水軍として活躍した四国北岸の拠点の一つが紀伊郷である。

この説と九州から海路を運ばれた阿蘇の石による石棺を用いた丸山古墳や青塚が隣接するのです。
和歌山・大谷古墳
大谷古墳の九州阿蘇産の石棺

そして、室本丸山や青塚と同じ時期に、紀伊国の和歌山市大谷古墳でも九州阿蘇の石による石棺がはるばると運ばれて使用されているのです。大谷古墳は、和歌山県では有数の古墳で、副葬遺物に朝鮮半島との関係が深いとされる品物を数多くもっていたことで知られています。
大谷古墳 クチコミ・アクセス・営業時間|和歌山市【フォートラベル】

これらのことは、青塚と室本丸山古墳の被葬者が、海上の交通と深くかかわっていたことを物語っています。
 これと同じ石棺は、愛媛県の松山市谷町の蓮華寺にもあります。出土した古墳は分かりませんが、きっと近所から出たのでしょう。松山市といえば、のちに『日本書紀』や万葉の歌で熟田津とよばれる港が古代史の土で注目されるところです。そうした海上交通の拠点の地で、海上交通とかかわる痕跡を、五世紀後半の石棺は示していると研究者は考えているようです。

もう少し大きい視点からこの古墳が作られた5世紀を見てみましょう
  5世紀後半と言えば文献的には「倭の五王」、考古学的には「巨大古墳の世紀」と言われます。大王墓は大和盆地から河内平野の古市と百舌鳥の地へと移動し、大山古墳(現仁徳陵)、土師ミサンザイ古墳など、超巨大前方後円墳が出現する時代です。それはヤマトの王権が確立する時代とも言えます。 

 大和王権の「支配の正当性」は、何だったのでしょうか?

 そのひとつは、鉄をはじめとする必需物資や先進技術・威信財を独占し、それを「地方に再分配とする公共機能」です。この政策を進める中で、ヤマト政権は、各地の首長に対する支配力を強めていきます。

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 4世紀からの多数の倭人の渡航は、半島南部の支配のためではなく、半島側の要請にもとづく軍事援助や、その見返りとして供給されるヒトとモノを独占的に手に入れることでした。そのためには、優れた海上輸送能力や軍事力をもつ勢力と手を組むのが一番手っ取り早い手段です。ヤマト政権は吉備王国を初めとする勢力と手を組み「朝鮮戦略」を進めます。
 その際に、重要となるのが朝鮮半島への交通ルートの確保です。
朝鮮半島からの人と物の輸送ルートである瀬戸内海の重要性は5世紀になると一層高まり、それを担った吉備の力はますます大きいものとなります。吉備の王達は古市・百舌鳥の大王墓に劣らぬ造山古墳や作山古墳が造られます。
「吉備王国」の画像検索結果
 
   しかし、一方でヤマト政権は吉備勢力に頼らない次のような新たな瀬戸内海ルート開発も進めます。

大和(葛城氏) → 紀ノ川 → 和歌山(紀伊氏) → 瀬戸内海南岸(讃岐沖) → 松山(伊予) → 日向

 この新ルート開発をになったのが葛城氏配下の紀伊氏で、それに協力したのが日向の隼人たちではないかと考えられています。 

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 日向灘に面した西都原古墳群の示すものは?    

 5世紀には日向にも大形前方後円墳が次々と出現し、女狭穂塚古墳や男狭穂塚古墳が築造されます。女狭穂塚古墳は古市の仲ッ山古墳の3/5スケールの相似形の規格で、文献的にも応神の妃の一人に日向泉長姫が、仁徳の妃の一人に日向諸県君牛諸の娘髪長姫がいることを伝えています。
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 こうしたヤマト王権の日向重視の背景には、日向灘に開いた潟港を中継点として関門から豊後水道を南下し、南海道で畿内に至る新たな海上ルートの開拓があったようです。また、この地域独特の墳墓である地下式横穴からは、大量の鉄製武器類が出土します。ここからも彼らが朝鮮半島への軍事力の主力部隊であったことがうかがえます。控えめに見ても、ヤマト王権の半島侵攻に重要な役割を担っていたといえます。日向地域がもつ重要性とその勢力の王権への同盟・参画が、のちに天孫降臨や神武東征神話を生む背景となったのではないかと考えられます。

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こうして、五世紀のヤマト王権(河内大王家)は「朝鮮への道」を独占的にることで王権を強化していきます。
それまでの
都がヤマトとその周辺に置かれていた中で、古市・百舌鳥に造墓した仲哀は、はるか関門海峡の長門穴門豊浦に都を造営します。応神は大和軽嶋明宮のほか吉備や難波大隅宮にも都したと記紀は伝えます。仁徳の難波高津宮、反正の丹比柴耐宮と難波津周辺への宮の造営が伝えられるのも、瀬戸内ルートの整備や河内平野の開発と無関係ではないようです。 
瀬戸内海ルートで河内潟に入る外交使節や交易の船舶は、難波津や住吉津に近づくと右手に百舌の巨大な大王墓を目の当たりにします。難波宮京極殿の北西で発見された法円坂遺跡の立ち並ぶ巨大倉庫群は、まさに倭の五王時代の王権直轄のウォーターフロントの倉庫群といえます。川船で河内潟から大和川をさかのぼり、ヤマトを目指すと、今度は古市の大王墓群を通り抜けます。倭王の威容を海外に示すのに、これ以上の演出は当時はありません。

同時期に、三豊に九州からの石棺は運ばれてきます。

熊本で作られた石棺が讃岐に運ばれたのは瀬戸内海南岸ルートでしょう。そして、運ばれた豪族同士には「特別なつながり」があったことが考えられるます。その特別なつながりが何かと言えば、大和政権の「水軍の道」ではないでしょうか? それが「紀伊氏」の疑似血縁集団だったのかもしれません。どちらにしても、これらを結ぶ拠点には「大和政権の水軍を構成する集団」がいたことが考えられます。そして、三豊の被葬者の埋葬葬儀の際に九州の同盟勢力から古墳造営の技術者が派遣され、石棺も提供されたという推察が出来ます。また、同盟関係と言うよりも古代地中海における母都市と植民都市のような関係かもしれません。どちらにしろ「人や物」が瀬戸内海航路を用いて、活発に交流していたことを示す証です。
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以上をまとめておくと
①5世紀にヤマト政権は、紀伊氏による瀬戸内海南ルートの開発を進めた。
②これによって紀伊氏一族の水軍拠点が四国側に開かれた。
③三豊の紀伊郷もその名残りであることが考えられる。
④瀬戸内海南ルートは、日向の西都原の勢力を加えることによって大きな水軍力となった。
⑤この水軍力が対外的には、朝鮮半島との交易を有利に展開することにつながった。
⑥国内的には、同盟国であった吉備勢力の弱体化へつながった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



三豊の勢力は近畿よりも九州、そして朝鮮を向いていたのかもしれません。それが、その後の三豊の独自性につながる原点かもしれません。 九州から運ばれてきた石棺を見ながら、そんなことを考えました。




           雲辺寺-昔は四国坊とよばれる学問所のあった寺 

 
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香川県側からロープウエイで登る参拝者が多いので、香川の札所と思われていますが、阿讃県境の南側にあり行政的には徳島に属します。しかし、讃岐の霊場としてカウントされています。
 ここは、911㍍の讃岐山脈の山を越えたところにあって、北に向かうと讃岐の平野と瀬戸内海が見えます。南に向かうと阿波のほうは山また山です。

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 かつては大師堂があるところと千手院という現在の納経所とは、非常に離れていました。そして大師堂を中心に、その周辺にたくさんのお堂がありました。そのお堂は十二坊あるいは四国坊といったようです。昔は、阿波の者はここに泊まる、土佐の者はここに泊まるというように、それぞれの国の人が泊まるところが分かれていてたくさんの坊があったようです。しかも、一般の参拝者が泊まるところではなくて、ここへ集まって学問をする学問道場であり、別名四国高野とも呼ばれて、高野山と同じように学問をする場所だったようです。そのために十二坊があったのです。
 ところが歴史の中で千手院だけが残ったので、大師堂から離れた山頂近くに本坊ができたわけです。鐘楼と仁王門地もそこにありました。
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御詠歌は「はるばると雲の辺りの寺に来、月日を今は麗にぞ見る」はスケールの大きい歌です。

雲辺寺の縁起は?

この寺の縁起は『四国損礼霊場記』に出てくるもので、米収という武士が一匹の鹿を射て、血の跡を追ってこの山に入り一つの堂の前に出た。見ると弘法大師が作ったといわれる本尊に矢が当たった跡があったので、米或は発心して出家したという粉河寺式の縁起が載せられています。ただ、出家してのちのことは書いてありません。
 この本尊は寺の火災で見えなくなったけれども、のちに忽然として出現した。その間に何か物語があったか、少々説明不足です。

弘法大師が十六歳でこの山に登ったときに、本尊の千手観音を彫刻したというのは、弘法大師は十五歳から十八歳まで奈良の大学にいたから、つじつまがあいません。
さらに、大同二年(ハ○七)大師帰朝のときに登って、彫刻したともいっています。大同二年というと、大師が三十三歳のときです。たしかに弘法大師は大同二年に唐から帰ってきますが、京都に二年間入れませんでした。したがって、大同二年と三年はどこにいてもいいわけです。京都以外のどこかにいたことになりますから、その間ここにいたということになっていると考えておきましょう。
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 弘法大師は帰朝してから、自分は入唐してこれだけの勉強をした、これだけの典籍と密教の法具をもってきたという目録を作って朝廷に提出しました。しかし、留学期限を自分の判断で打ち切って勝手に帰国した空海に対して、時の政府は入京を許されませんでした。
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 弘法大師は行きは運よく遣唐大使と同じ船に乗りました。このことから空海を遣唐大使の通訳だったと推定する人もいます。昔の遣唐船は四隻です。新造船に遣唐大使が乗りました。伝教大師(最澄)は二の船に乗っています。ハ○四年の遣唐使の船は全部難破。第四船は行方不明になりますが、あとはそれぞれ漂着して肋かりました。新造船の第二船が、安全であったわけです。

この寺の山号は巨魁山です。

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 大きな亀という意味で、中国の伝説に出てくる大きな島を支えている亀のことで、海とのつながりがある信仰が見えてきます。この寺の讃岐側の山に立つと瀬戸内海を行き交う舟が見えます。辺路のお寺ですが海洋宗教に関係のあるお寺だということを示す山号です。
 大挙山の山上ヶ岳の行場の入口に、亀石という亀の形をした石があります。先達がお亀石をよけて通れよという意味の歌を歌います。踏んだりしてはいけないというので囲ってあるその石はは、那智の滝に通じている、海とのつながりのある山だということを暗示しています。
 つまり海とのつながりを暗示する亀石の存在から、この山号を得たのだろうとおもいます。このように、山号や寺号あるいは御詠歌は、その寺の歴史を調べるうえでの一つの手がかりになります。

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『四国損礼霊場記』は、『列子』という中国古代の文献に、海中の五山を巨贅という大きな十五の魚が支えているように、この山も巨瓶に支えられているようにそびえているから、巨瓶山と呼んだのだといっています。
 しかし、那智の滝に連なる亀石があるように、海に根が連なるという伝説をもつ亀石があったものとおもわれます。山頂から海が望まれることから、これも辺路信仰で名づけられたものです。辺路信仰で始まっているので、海に縁のある千手観音がまつられました。観音の性格として、千手観音は海に縁があり、十一面観音は山に縁があります。
 例えば、那智の海渡寺の本尊は如意輪観音ですが、那智大社のいちばん中心になる本地は千手観音です。千手観音がなぜ海の観音になるのかといいますと、千手観音が立っている像は、からだが帆掛け舟の帆柱で、手が帆のように見えるからとされます。ちなみに補陀落渡海をする人だちは、千手観音の像を岫先につけて船出しましたた。
 海に関係のある千手観音をまつる信仰に、大師信仰が加わって雲辺寺ができたと考えられないでしょうか。
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 山頂から四つの国が望まれるので、四国坊と呼ばれる四か寺ありとされ、そのいわれについて『四国損礼霊場記』は次のように述べています。
「其幡根四国にわたり、むかしは四国防とて四ケ寺ありとかや。今は此一寺に、阿州の城主より造立し給ひぬれど、讃岐の札所に古来属せり。本尊千手観音坐像長三尺三寸、脇士 不動、毘沙門、皆大師の御作なり。御影堂、千体仏堂、鎮守祠、伴社、鐘  楼、仁王門あり。境内高樹森々として絶塵世」

 山の根は四国にわたっているといっています。阿波と讃岐の境にあって、少し離れたところに伊予があり、もう少し行くと土佐があるので、大雑把にいうと、この山全
体が四国に当たらないこともありません。根っこが阿波・土佐・伊予・讃岐の四国にまたがっているので、昔は四国坊といって四か寺あった、阿波の城主の蜂須賀家が建てたと書かれています。
 水堂があるので、水源信仰があるのだろうとおもっていたら、近年になって篤志家が建立されたものでした。水源はずっと下の谷にあって、モーターで上げているのだそうです。


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長宗我部元親が土佐からこの寺に登って、四国統一の野望を固めた地とも伝わっています。四十八代住持の慶成和尚に戒められたにもかかわらず、ついに讃岐の地に攻め入り戦乱を起こします。その戦乱で寺も焼かれて、のちに阿波の蜂須賀氏によって再興されたわけです。
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この寺には寺には聖衆来迎図があります。
鎌倉時代の本尊の千手観音も毘沙門天も重要文化財です。
聖衆来迎図も鎌倉時代のものです。亀山天皇の御遺髪塔もあります。

参考文献 五来重:四国遍路の寺

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