瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:三豊の歴史 > 観音寺市

  尾池薫陵が京都遊学で学んだものは何だったのでしょうか? 今回は、このテーマを「18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 町泉寿郎(二松学舎大学) 香川短期大学紀要 第45巻、15~28(2017)」をテキストにして見ていくことにします。
薫陵が京都遊学で学んだものを知る手がかりは、彼が残した医学書の写本です。僧侶が経典を写経することが修行のひとつであったように、当時の医学生は、自分の学ぶ医書を書写していました。そのため薫陵がのこした医学書の写本をみれば、彼が興味を持っていた医学分野見えてきます。それらを並べて見ると次のようになります。
①師の後藤一『一隅』・艮山医学の要点をまとめたもので、「医原(養庵先生遺教)」「艾炙」「泉浴」「肉養」「薬療」
②宝暦7年(1757)、加藤暢庵録の後藤艮山の遺著を筆写
5月18日に『師説筆記』136条
10月10日に『病因考』2巻
10月16日に『(先生手定)薬能』『薬能附録』の筆写終了
 ここからは、薫陵が修得した医学は、湯液と灸と温泉浴を中心とした後藤艮山の治療学で、古方系処方と灸治を併用した独特な古方医学であったことがうかがえます。
18世紀の医学界の動きを、研究者は次のように考えています。
①京都など西国の医家の多くは、古方派の医学理論と処方学を基盤にしていた。
②それを基盤に、それぞれ専門科目の医術を付け加えていた
③新たに付け加えられて専門科目とは、1800年頃には荻野元凱の腹診術、華岡流外科、池田流治痘術などで、
④1830年頃になると賀川流産科術、小石元俊らの蘭方であった。
⑤古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学んでいた。
⑥こうした学び方が、「漢蘭折衷」と言われる医学の普通に見られるスタイルであった
そのような医学界の動きの中で、讃岐の尾池家はどのような対応をしていたのでしょうか?
それも残された資料からうかがうことができるようです。結論から言うと「漢方から漢蘭折衷へ」の移行が見えてくると研究者は指摘します。
尾池家の場合は、次のような傾向があります。
①医業を創始した立誠が京都で後藤艮山に学んでいること。
②その後継者たちが長く後藤艮山流をベースにした医学・医療を行ていたこと。
③尾池薫陵の養子となった桐陽が後藤艮山の外孫であるともされ、京都の古方派諸家と長年にわたって結びつきが深かったこと。
こうした中で従来の後世方医学に代わって新たに古方医学がどのように京都の医学界で台頭してきたのか、それが瀬戸内地域にどのように伝播していったかを知る貴重な史料だと研究者は考えています。

 この頃の京都医学界では新思潮が勃興していたようです。
そのため薫陵は、5年間で学んだ成果にすぐに満足できなくなります。遊学を終えて帰郷した翌年の宝暦9年(1759)7月に、薫陵は京都に再遊しています。この時の京都滞在は30日程度でしたが、その成果を大野原に戻ってから立誠門の先輩である備中総社の赤木簡に宛てて次のような長文の書簡にしたためています。
②尾池薫陵書簡―宝暦9年(1759)10月12日、赤木要蔵宛―(赤木制二氏所蔵)
赤木要蔵様   常
(前略)
御聞及被下候通、小生義兼々大望御座候ニ付、初秋上京仕、古方家先生方へ相見、疑問仕候而得鴻益、大悦御察可被下候。山脇・吉益・松原三家とも豪傑ノ先生ニ而、各所長御座候。傷風寒治療、山脇ハ承気湯類ニ長シ、松原ハ真附・四逆・附子湯ニ長シ候様ニ相見へ申候。何分、三家中ニ而ハ山脇先生術ニ長シ申候様ニ相見へ申候。専ラ艮山先生称シ、古方ノ今日ニ弘リ候も全ク後藤先生輙被レ藉レ口申候。依之、小生義束脩之力也ト、動仕入門仕候。京都ニも三十日斗留滞仕候。晝夜とも山脇家へ相通イ、其暇ニ吉益・松原へ相通、論説とも承申候。扨々面白敷義ニ御座候。傷寒論讀方とも違イ申候義とも御座候。見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難行ハ、術ノコトニ御座候。(後略)
    意訳変換しておくと
お聞きおよびの通り、小生には大望があます。ついては、私は初秋に上京し、古方医学の先生方をお訪ねして、かねより疑問に思っていたところを問い、それに親しく答えていただきました。山脇・吉益・松原三家とも豪傑の方々で、それぞれに長所をお持ちです。傷風寒の治療に関しても、山脇先生は承気湯類に詳しく、松原先生は真附・四逆・附子湯に長じているように思えました。その三家中では山脇先生に一日の長があるように見えます。山脇先生は後藤艮山先生を尊師として仰ぎ、古方医学の今日の隆盛も後藤先生のお陰手であると云います。これを聞いて、小生もその下で学びたいと思い入門いたしました。
 京都には三十日ばかり滞在しました。昼夜なく山脇家へ通い、その間にも吉益・松原先生方も訪ね、お話しをうかがうことができました。その話の内容は、私にとっては興味深いものでした。傷寒論の読み方(解釈)もそれぞれが異なります。
冒頭の「小生義兼々大望御座候ニ付、初秋上京」という言葉が、薫陵の強い修学意欲を伝えています。
この上京に時には薫陵は、山脇東洋(1706~62)・吉益東洞(1702~73)・松原一閑斎(1689~1765)らの古方派諸名医を歴訪して各人の医説の吸収に努めています。そして東洋・東洞・一閑斎をいずれ劣らぬ豪傑と評価して、各人について論評します。とりわけ山脇東洋が医術に長じ、また艮山流の古方医学に最も忠実である点に敬服して、7月18日に正式に入門します。一か月間、昼夜とも山脇塾に通学し、あいまに東洞と一閑斎にも音信を通じています。『傷寒論』の読み方にも三者三様の相違があることなどに強く興味を惹かれています。この書簡からは薫陵の興奮に満ちた修学状況が伝わってきます。
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山脇東洋

                  山脇東洋の『蔵志』
     この時に師事した山脇東洋は、禁制とされてきた人体解剖を幕府の医官として日本で初めて行った人物で、その記録「親試実験」として公表します。彼は日本近代医学の端緒を打ち立てた人物と評され、古方派の五大家(後藤艮山、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞、松原一閑斎)のひとりに挙げられています。薫陵が京都に滞在したこの秋には、山脇東洋が『蔵志』を、吉益東洞が『医断』という画期的な両著が刊行されます。東洋の刑屍解剖による日本初の観臓は、薫陵が初めて京都遊学した同年同月の宝暦4年(1754)閏2月のことになります。その興奮が京都の医学界に拡がっていた中に薫陵はいたことになります。

 帰郷後の薫陵は、古方医学に基づく医術の実践に格闘しています。それを次のように記します。

「見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難キハレ 行ハ術ノコトニ御座候」
「宋後之書一向読ミ不申候様ニと受レ教ヲ申候。然とも先入為レ主候而、後世方用度所存萌シ出テコマリ申候。宋後之書ナキ世トアキラメ、古方書ノミニテ済シ申度コトニ御座候」

意訳変換しておくと
「見識については諸先生の力で見立てができても、帰郷に見立てに応じた治療方法をどうおこなうのかが難しいのです」
「中国の宋以後の医学書を読んで、教えを受けたことを伝えています。しかし、先の教えと、後世の教えに矛盾が出てきて困っています。宋以後の書はないものとしてして、古方書の教えだけを伝えるようになりました。」
   薫陵は大野原では塾生を抱える立場でした。そのために治療だけでなく、門人に医学を教えなければなりません。「教えることは学ぶこと」で、自分も講義用のノートなどを作っておく必要があったかもしれません。そのような中で、何を教え、何を教えないかの取捨選択に悩んでいたことがうかがえます。ここからは古方医学の斬新さと薫陵が置かれていた模索状態をよく伝えています。
 山脇塾では「吐方」という新しい治療法も学んでいましたが、副作用が強くなかなか実行できなかったようです。書簡の追伸に述べられている処方と生薬に関する記述も、薫陵が吸収に努めた新知識の多さを示していると研究者は評します。
 こうした薫陵の研鑚はすぐに近隣の評判となり、この年から薫陵への入門者が増加します。それを次のように記します。
当夏より隣村及ヒ金毘羅より門人両生石川林之介、三木市太郎投塾、御存之通ノ矮屋、恰如有舟中、紛々罷在候。依之小屋相構申候而、屋敷北ノ方へ結構仕候。二間四間余。大方成就仕候。自今以後、御渡海も被成候ハヽ、御投宿被成候ニも可然ヤトハ御噂申事ニ御座候。当秋より門前観音堂ニ而三 八ノ夜、論語開講仕候処、近隣風靡、聴衆も大勢有之、悦申候。何トソ打續ケかしと所祈御座候。傷寒論も不絶讀申候而、此間より金匱要畧讀申候。上京之節、後藤・香川両家へも相尋申候。両家とも無異事、後藤家繁昌之體ニ相見へ、門生も七人投塾罷在候。香川家も不相替候。
 
意訳変換しておくと
この夏から隣村や金毘羅から門人の石川林之介、三木市太郎が塾生となり、通ってくるようになりました。わが家はご存じの通り、小さな家などで手狭で、まるで舟中にいるがような狭さです。そこで、屋敷の北方へ二間四間の離れを増築しました。今後は、わが家に投宿したときには、お使いいただきたいと思います。
 この秋から門前観音堂で、3日と8日の夜に、論語の購読を開講しました。それが近隣の噂となり、多くの人々がやって来るようになり喜んでいます。これが続いていくことを願っています。傷寒論も何度も読み返し、行間からさまざまなことを学んでいます。上京の節には、後藤・香川両家へも伺いました。両家とも繁昌のようすで、門生も七人抱えています。香川家も変わりありません。

ここからは、塾生を迎えて塾舎を新築していたことが分かります。
また門前の観音堂を会場にして3・8日の夜に『論語』の講義を始めたところ、近郷近在から聴衆が詰めかけます。医者が在村知識人として、社会教育的な役割を果たしていたことがうかがえます。
 記録からは薫陵への入門者は、宝暦9年から明和6年(1759~69)までの間に26人を数えるようです。また明和6~8年(1769~71)には、備中惣社の赤木家7代の浚が大野原に遊学しています。その時に浚が筆写した本に、尾池立誠『傷寒論聴書』、尾池薫陵『経穴摘要』、香川修庵『一本堂行餘医言』等が残っていて、尾池塾における基本的な修学内容がうかがえます。
 薫陵の研鑚の原動力のひとつに、隣村の和田浜の合田求吾の存在があったようです。
 合田求吾(1723~73)は和田浜(観音寺豊浜町)で代々医を業とする家に生れます。
30才のころ京都に遊学し、さらに数年後江戸へ出ます。その際に、参勤交代で長崎から江戸に出て来たオランダ商館長に随行する商館医から和蘭の医療について話を聞く機会を得ます。その話の中に長崎の大通詞で蘭書が解読出来るばかりでなく、医療の経験ももっている吉雄耕牛が彼の家でオランダの医療について講釈してくれることを聞き知ります。これを聞いて、長崎への遊学を決意したようです。
  一旦讃岐に帰った求吾は宝暦12年(1762)になって長崎遊学を実行に移します。そして吉雄耕牛の家塾で毎日時間を決めて、内科を中心にオランダ医療について原書からの和訳を聞きとり、その内容を筆録する日課を続けます。それを二ヶ月半ほどの滞在中に、五冊の冊子にまとめてその第一冊の題目を「紅毛医言」とします。
紅毛医言 合田強

合田 強(通称:求吾  「紅毛医言」 講義録第三巻の解剖図
合田 強(通称:求吾 ) 「紅毛医言」 講義録第三巻の解剖図

 それまでオランダの医療は、外科ばかりと思われていたようです。そんな中で内科も秀でていることを伝えたことは、重要なことでした。しかし、残念ながらこの冊子は幕末に至るまで刊行されることはありませんでした。求吾の周囲、周辺で読まれるだけだったようです。
 オランダ内科の詳細が知られるようになったのは津山藩医の宇田川玄随(1755~94)の「西説内科撰要」(寛政五:1799年刊)以後のことなので、この「紅毛医言」が草稿として纒められたのは、その30年前のことになります。そして昭和初期に呉秀三氏よって、はじめて陽の目を見るようになったようです。合田家に所蔵されていた「紅毛医言」は、今は新設された香川県立歴史博物館(高松市)に寄託保管されているようです。

 「紅毛医言」が著された同時期に、尾池薫陵も古方医学の立場から新著『素霊正語』を著しています。薫陵は、その序文を合田求吾に求めています。求吾は長崎からの帰郷後、名医としてその名が人々の間に知られようになり、遠くからも病人が訪れるようになります。また、自身の知識を伝えようと大勢の弟子も受け入れています。
豊浜墓地公園の合田求吾の墓碑銘には次のように記されています。

和田浜(観音寺市豊浜町)の畏友合田求吾(1723~73)
合田求吾(1723~73)の墓碑(豊浜墓地公園)

「先生は天資温和にして人の善を賞揚し、よく父母につかえ、仁術をもって皆をよろこばせ、郷里の人々によく学問を教えた」

このような合田求吾の姿を追いかけたのが、薫陵だったのかもしれません。ふたりの遊学状況と講学内容(共通点と相違点)からは、互いに切磋琢磨する姿が見えてきます。薫陵編の『諸家文集』には、求吾が諸家から送られた尺牘を多数収録しています。ここからも、両者の交流の深さと薫陵の求吾への関心の高さがうかがえます。
以上をまとめておきます。
①18世紀半ばの京都では、各派は古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学ぶ「漢蘭折衷」だった。
②薫陵が5年間の京都遊学で修得した医学は、湯液と灸と温泉浴を中心とした後藤艮山の治療学だった
は古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学んでいた。
③薫陵が遊学を終えた頃には、山脇東洋が『蔵志』を、吉益東洞が『医断』という画期的な医書が刊行された。
④大野原に帰郷しても豊浜の合田求吾に刺激されて、薫陵の探究心や向上心は衰えなかった。
⑤門下生を受けいれる一方で、地域では論語購読を行うなど社会教育にも貢献した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 町泉寿郎(二松学舎大学) 香川短期大学紀要 第45巻、15~28(2017)」

 江戸時代に讃岐三豊で医業を営んだ尾池家は、丸亀藩医となった尾池薫陵やその養嗣子で漢詩人として知られた尾池桐陽などを輩出しています。また独自の尾池流針灸術の一派を形成したことでも知られています。その縁戚の中澤家(香川県三豊市詫間)には、尾池家の蔵書や文書が数多く残されているようです。今回は、その史料を見ていくことにします。テキストは「町泉寿郎(二松学舎大学 文学部)  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)」です。
                                                                                        
  まず『尾池氏系譜』を「年表化」して、尾池家の歴史を見ておくことにします。
①室町幕府の将軍足利義輝が永禄の変(1565)に没したとき、懐妊中であった烏丸大納言の女が讃岐に難を逃れ、誕生した義輝の遺子義辰は讃岐の土豪尾池氏に身を寄せ、尾池姓を名乗ったところから始まる。
②尾池氏は讃岐領主となった生駒氏に仕えたが、1640年に生駒騒動により生駒氏は城地没収。
③その時に義辰とその子息たちは浪人となり各地に離散。義辰(通称玄蕃:別号道鑑)は88歳(1566~1653)で没した。
④義辰の子孫は、官兵衛義安(法号意安)→ 仁左衛門(1616~88、法号覚窓休意)→森重(1655~1739) → 久米田久馬衛門、法号遊方思誠)と継承
⑤森重の代に、大野原(現観音寺市大野原)に住みついた。
森重の子が医業を興した立誠(1704~71)で、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学び、加藤暢庵・足立栄庵らと並ぶ艮山門の高弟に数えられた
⑦立誠は、讃岐に帰郷して大野原に開業する傍ら、艮山流古方医学を講じ、讃岐だけにとどまらず瀬戸内各地から遊学する者が多く訪れた。
⑧立誠は四男四女をもうけたが、長男・二男が早く亡くなったため、門人谷口氏を養子とし、二女楚美を娶わせた。
⑨立誠の著書には『医方志『耻斎暇録』『恭庵先生口授』『恭庵先生雑記』等がある。
⑩大野原の菩提寺慈雲寺にある墓碑は、大坂の儒者三宅春楼(艮山と交流のあった三宅石庵の男で
懐徳堂の教授)が撰文
⑪薫陵(1733~84)は、祖父を谷口正忠、父は正直で、16歳(1748)で立誠に入門。
⑫才能を見込まれて21歳(1753)で尾池家の養子となり、京都に5年間遊学(1754~59)し、尾池家を継承。
⑭帰讃後は、邸内に医学塾寿世館を営み、学びに来る者が多かった。
⑮49歳(1781)で丸亀藩主京極高中から侍医として召し出され、丸亀城下に移った。
⑯薫陵の著書に『経穴摘要』『古今医変』『素霊正語(素霊八十一難正語)』『試考方』『古今要方』『痘疹証治考』『脚気論』『医方便蒙』『薫陵方録』『薫陵雑記』『薫陵子』『大原雑記』等がある。
⑰丸亀の菩提寺宗泉寺にある薫陵の墓碑は後藤敏(別号慕庵、艮山の二男椿庵の庶子)の撰文
⑱薫陵が丸亀城下に別家を建てたのち、大野原の尾池家は立誠の三男義永(1747~1810)が継承した。
⑲義永の後、義質(?~1837、号思誠) → 平助泰治(?~1863) → 平太郎泰良(1838~94)と代々医業を継承。
⑳義雄(1879~1941、ジャーナリスト、青島新聞主幹)は、義質の長兄允は尾藤二洲に学んで儒者となり、江戸で講学した。
㉑薫陵が立てた丸亀藩医尾池家は、その門人村岡済美(1765~1834)が薫陵の二女を娶って継承した。
㉒済美の父は丸亀藩士村岡宗四郎景福で、母は村岡藤兵衛勅清の長女で、『尾池氏系譜』に済美を後藤艮山の孫とする。ここからは宗四郎景福は、艮山の血縁者とも推定される。
㉓済美は大坂の中井竹山や京都の皆川淇園に学び、菅茶山・頼山陽・篠崎小竹らとも詩文の交流があった。著書に『桐陽詩鈔』等がある。
㉔済美の長男静処(1787~1850)は、丸亀藩医を継承し『傷寒論講義』『静処方函』『治痘筆記』等の医書を残しています。
㉕静処の弟松湾(1790~1867)は、菅茶山に学び、父桐陽の文才を継いで詩文によって知られた。編著書に『梅隠詩稿』『梅隠舎畳韻詩稿』『蠧餘吟巻』『松湾漁唱』『穀似集(巻1桐陽著、巻2静処著、巻3松湾著)』『晩翠社詩稿』、(京極高朗著)『琴峰詩集』等がある。松

最初の①には、室町幕府の将軍義輝の遺子義辰が讃岐の尾池家の姓を名乗ったとあります。
この話は、どこかで聞いたことがあります。以前にお話しした生駒藩重臣の尾池玄蕃の生い立ちについて、「三百藩家臣人名事典 第七巻」には次のように記します。

永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。

この話と一緒です。ここからは、尾池玄蕃につながる系譜を持っていたことが分かります。後で見る史料にも次のように記します。
一 尾池玄蕃君、諱道鑑、承應二年卒。是歳明暦ト改元ス。
一 休意公ハ玄蕃君ノ季子也。兄二人アリ。是ハ後ニ玄蕃君肥後ヘツレユケリト。定テ肥後ニハ後裔アラン。
ここでは、尾池家では尾池玄蕃と祖先を同じくするとされていたことを押さえておきます。その後、生駒家にリクルートしますが、生駒騒動で禄を失い一家離散となったようです。その子孫が三豊の大野原に定住するようになるのが⑤⑥にあるように、17世紀後半のことです。大野原の開発が進められていた時期になります。そして、立誠(1704~71)の時に医師として開業します。立誠は、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学んだ後に、讃岐に帰郷して大野原に開業したようです。艮山流古方医学を講じ、他国からの遊学者も数多く受けいれています。その後、⑪⑫にあるように薫陵が谷口家から尾池家の養子となったのは宝暦3年(1753)、21歳の時です。
その経過を白井要の『讃岐医師名鑑』(1938 刊)は次のように記します。

尾池恭庵(?~1771)は後藤艮山の門人で,実子の義永と義漸が共に早世した。そこで寛延元年(1748)に 16才で入門してきた谷口正常(1733~1784)が秀抜だったため、やがて娘を配した.この養嗣が尾池薫陵で、字は子習という。現存する父子の著述は全て写本で、父の『恭庵先生雑記―方録之部―』(1810 写)、子の『試効方』(1753 自序)・『経穴摘要』(1756自序)・『素霊八十一難正語』(1763自序)・『医方便蒙』(1810写)・『古方要方』・『脚気論治』が残っている。

養子として尾池家を嗣ぐことになった薫陵は京都遊学します。その際のことを『筆記』と題された日記に次のように記します。
①尾池薫陵『筆記』(中澤淳氏所蔵)
一 宝暦三癸酉六月廿五日、有故、師家之義子ト成。(中略)
一 宝暦四甲戌閏二月九日宿本發足。金毘羅へ廻り丸亀ニ而一宿。十日丸亀より乗船、即日ニ下津井へ着、一宿。十一日岡山ニ一宿。十二日三ツ石ニ一宿。十三日姫路ニ一宿。十四日明石ニ一宿。十五日西宮一宿。十六日八ツ時大坂へ着。北堀江高木屋橋伊豫屋平左衛門方ニ逗留。十九日昼船ニ乗、同夜五ツ時、京都三文字屋へ着。同廿七日、香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。同廿四日平田氏東道へ發足

  ここまでを意訳変換しておくと
一 宝暦3癸酉6月25日、故あって私(薫陵)は、師家の義子となった。21歳の時である。(中略)
一 宝暦四(1754)年2月9日に宿本を出発し、金毘羅廻りで丸亀で一宿。
10日に丸亀より乗船し、下津井へ渡り一宿。
11日 岡山で一宿。
12日 三ツ石で一宿。
13日 姫路に一宿。
14日 明石ニ一宿。
15日 西宮一宿
16日 八ツ時大坂着。北堀江高木屋橋の伊豫屋平左衛門方に逗留。
19日(淀川の高瀬舟に)昼に船に乗船し、五ツ時、京都の三文字屋へ着。
27日 香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。
28日 平田氏が江戸へ出発。
私が興味があるのは、瀬戸内海を行き交う船の便で、それを当時の人々がどのように利用していたかです。
尾池家の養子となった9か月後、宝暦4年(1754)閏2月9日に薫陵は京都遊学に出発します。その際の経路が記されているので見ておきましょう。伊予街道を東に向かい金毘羅宮に祈願し、丸亀から乗船しています。船で下津井に渡り、岡山、三石、姫路、明石、西宮で宿泊しながら、16日に大坂に達し、19日に淀川を上る川船で京都に到着しています。どこにも寄り道せずに、一直線に京都を目指しています。京都まで10日の旅程です。ここで注意しておきたいのは、丸亀=大阪の金比羅船の直行便を利用していないことです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々
大坂と丸亀の船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していたことは以前にお話ししました。金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。そのため冬期は丸亀ー下津井ルートが選ばれたようです。海路ではなく陸路・山陽道を利用していることを押さえておきます。
京都到着後、すぐの2月27日に香川修庵に入門しています。
そして、艮山の子孫が運営する中立売室町の後藤塾に寄宿したようです。艮山の四子のうち医者として名前が知られていたのは、二男椿庵(1697~1738、名省、字身之、通称仲介)と四男一(名督、通称季介・左一郎)でした。このうち椿庵はすでに亡くなっていたので、薫陵が師事したのは一でした。薫陵が後藤一のもとでの修学したことを、薫陵は「在京之日、後藤一先生賜焉」と記します。
一 三月十一日夜より時疫相煩、段々指重り申候處、新蔵様・宗兵衛様、但州御入湯御出被成ニ付御立寄被下。右御両人様にも様子見捨難、御介抱被成被下候。右御両所より國本へ書状被遣、國本よりも両人伊平治・久五郎、四月十七日罷登り申候。伊平治ハ同廿日帰シ申候。段々快復仕ニ付、御両人様とも四月廿一日京都御發足、但州御出被成候。五月朔日ニ久五郎帰シ申候。
一 右病気ニ付、三月廿七日より外宿。油小路竹屋町下ル所、嶋屋傳右衛門裏座敷にて保養申候。四月廿六日ニ後藤家帰り申候。
一五月十二日平田氏関東より出京被成候。旅宿竹屋町三条上ル所ニ御滞留。六月廿三日京地御發足。
一惣兵衛様、但州にて六月一日より水腫御煩被成候所、段々指重(2a)、同十四日ニ棄世被成候。
拙者も右不幸ニ付、六月廿八日發足、平田氏と大-21坂より同船にて七月二日乗船。同五日ニ帰郷申候。又々同十八日和田濱より出船致候所、時分柄海上悪敷、同廿二日ニ明石より陸ニいたし、廿三日大坂へ着。北堀江平野屋弥兵衛ニ逗留。廿七日夜船乗、廿八日上京仕候。
一八月十三日京都發足、河州真名子氏へ参、逗留仕。十四日夜、八幡祭礼拝見。同十八日ニ帰京。
一九月廿五日、南禅寺方丈拝見。
一十月四日、高尾・栂尾・槙野楓拝見、且菊御能有之候(2b)。
一亥正月十  紫宸殿拝見
一同十七日  舞御覧拝見
一同廿三日  知恩院方丈拝見
一二月五日  今熊野霊山へ見物
一香川先生二月七日御發駕、播州へ御療保ニ被成、御帰之節、丹州古市にて卒中風差發、御養生不相叶、翌十三日朝五ツ時御逝去(3a)被遊候。
同十四日、熊谷良次・下拙両人、丹州亀山迄御迎ニ参申候。
十四日ニ御帰宅、同廿五日御葬送。
一 三月九日、國本より養母病気ニ付、急申来、發足。同十四日帰郷。
意訳変換しておくと
一 3月11日 夜より疫病に患う、次第に容態が重くなり、後藤家の新蔵様・宗兵衛様が但州の温泉治療に向かうついでに立寄より、診断していただいた。その結果、放置できないと診断され、御両所から讃岐の国本へ書状を送った。それを受けて讃岐から伊平治・久五郎が4月17日に上京した。伊平治は20日は帰した。次第に回復したので、御両人様も4月21日京都を出立し、但州へ温泉治療に向かわれた。5月朔日に久五郎も讃岐へ帰した。
一 この病気静養のために、3月27日から、油小路竹屋町下ルに外宿し、嶋屋傳右衛門の裏座敷にて保養した。それも回復した4月26日には後藤家にもどった。。
一5月12日平田氏が関東より京都にやってきて、竹屋町三条上ルの旅宿に滞留。6月23日に京を出立した。
一惣兵衛様が但州で6月1日より水腫の治療のために温泉治療中に、様態が悪化し、14日に亡くなった。拙者もこの際に、国元で静養することにして、6月28日に京を出立し、7月2日に平田氏と供に大坂より乗船。5日に帰郷した。そして、18日には和田濱から出船したが、折り悪く海が荒れてきたので22日に明石で上陸し、陸路で23日に大坂へ着き。北堀江の平野屋弥兵衛に逗留。27日夜の川船に乗、6月28日に上京した。
一8月13日京都出立し、河州真名子氏へ参拝し逗留。14日夜は、八幡祭の礼拝を見学。18日帰京。
一9月25日、南禅寺の方丈拝見。
一10月4日、高尾・栂尾・槙野の楓見物。菊御能有之候。
  宝暦5年(1755)一正月10日 紫宸殿拝見
一同 17日 舞御覧拝見
一同 23日 知恩院方丈拝見
一2月 5日 今熊野霊山へ見物
一香川先生が2月7日に発病され、播州へ温泉治療に行って、その帰路に丹州古市で卒中風が襲った。看病にもかかわらずに、翌13日朝五ツ時に逝去された。被遊候。
同  14日、熊谷良次と私で丹州亀山に遺骸をお迎えに行った。
   24日 御帰宅、同25葬送。
一 3月9日、讃岐の国本から養母病気について、急いで帰るようにとの連絡があり、14日帰郷。

 後藤塾での生活が始まって1ヶ月も経たない3月11日に薫陵は病気になります。
一時はかなり重病で、心配した後藤家の家人が国元に手紙を出すほどだったようです。4月末には、病状回復しますが、静養のためか一旦帰郷して再起を期すことになったようです。6月28日に京都を発し7月5日に帰郷しています。この時の経路については何も記しません。最速で、京都・三豊間が一週間前後で往来できたようです。讃岐で2週間ほど静養し、7月18日に、今度は和田浜より乗船し明石に上陸して、23日大坂到着。28日に京都に戻っています。この時期には、和田浜と大阪を結ぶ廻船が頻繁にあったことは以前にお話ししました。
 体調の回復した薫陵は、毎月京都とその近郊の名所見物に出かけるなど、遊学生活を十分に楽しんでいます。そんな中で師事した香川修庵が、宝暦5年(1755)2月7日に播磨国姫路での病気療養に出かけ、逝去します。73歳のことでした。翌日、薫陵は同門の熊谷良次とともに丹波亀山まで師の遺体を出迎え、修庵の遺体と共に京都に戻り、25日に葬儀が営まれます。結局、師を失った修庵への従学期間は、1年に満たずして終わってしまいます。
 3月には尾池の養母が急病という連絡が入り、14日に一旦帰郷します。国元の岐阜から一旦帰国するように義父から命じられたのかも知れません。しかし、4ヶ月の滞在で、7月には3度目の上京を果たしています。その時の上京のようすを見ておきましょう。
七月六日 國本發足、同九日讃ノ松原ノ海カヽリ、白鳥大明神へ参詣。同日夜俄大風、殊之外難義。翌十日、松原上リ教蓮寺隠居ニ一宿。同所香川家門人新介方ニ一宿。
十四日朝、大坂へ着。
十七日ニ大坂發足、渚ニ一宿。
十八日八幡へ寄、同日晩方京着。
七月廿七日、芬陀院へ尋、即東福寺方丈幷
見。其時、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
同廿八日、嵯峨へ先生墓参。
八月四日、與二石原氏一、之二(4a)。黄檗及菟道一。途中遇雨
八月十日、與吉田元・林由軒、之鞍馬及木舟。
同十三日、嵯峨墓参。
同廿四日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。
廿二六日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山へ行、唐崎遊覧、大津ニ一宿。
廿七日、石山遊行而返ル
八月廿二日、要門様御上京。
九月九日、藤蔵同道、妙心寺方丈拝見。
同廿七日、義空師上京。同廿九日、牧門殿預御尋、
直ニ同道、芬陀院へ参、一宿。
十月四日、歌中山清眼寺へ行。
同六日、養伯子發足。東福寺中ノ門迄見立。東福寺
南昌院へ尋ル。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢
候。
十月十五日、義空師關東へ下向。
同十九日、菊御能拝見。
同廿一日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
十一月廿一日、河州へ下ル。同廿四日、上京。
同廿六日、御入内。
同廿八日、御上使御着。
十二月四日、御参内。
同七日、 兵馬子帰郷。
同八日、 御上使御發足。
宝暦6年(1756)子正月卅日、鹿苑院金閣寺拝見。
二月一日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝見。
四月十九日、入湯御發足。六月十九日、御帰家。
戊寅二月一日、平井順安老、丸亀迄渡海。即日観音
寺浮田氏へ着、滞留。
同九日、丸亀より乗船、帰郷
意訳変換しておくと
 7月6日 ①大野原を出立し、9日に讃岐の松原の海(津田の松原)を抜けて、白鳥大明神へ参詣。その夜に俄に大風が吹き、殊の外に難儀な目にあった。
翌 10日、(津田)松原から教蓮寺隠居で一宿。同所香川家門人新介方で一宿。
  14日朝、大坂着。
  17日に大坂出立、渚で一宿。
  18日に、岩清水八幡に参拝して、同日の晩方に京着。
7月27日 芬陀院を訪問し、即東福寺方丈幷山門拝拝観。、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
  28日、嵯峨へ香川先生の墓参。
8月 4日、與二石原氏一之二 黄檗及菟道一。途中遇雨
8月10日、與吉田元・林由軒、鞍馬及木舟(貴船)見学。
  13日、嵯峨墓参。(香川先生)
  24日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。(愛宕山参り)
  26日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山参拝、唐崎を遊覧、大津に一宿。
  27日、石山遊行。
8月22日、要門様御上京。
 9月9日、藤蔵同道、妙心寺の方丈を拝見。
  27日、義空師が上京。
  29日、牧門殿預御尋、直に同道、芬陀院へ参拝し一宿。
10月4日、歌中山の清眼寺へ参拝。
   6日、養伯子へ出発。東福寺中ノ門まで見立。東福寺南昌院を訪問。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢候。
10月15日、義空師關東へ下向。
   19日、菊御能拝見。
   21日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
11月21日、河州へ下ル。同24日、上京。
   26日、御入内。
   28日、御上使御着。
12月 4日、御参内。
    7日、兵馬子が帰郷。
    8日、御上使御發足。
  宝暦6年(1756)正月30日、鹿苑院金閣寺拝見。
  2月1日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝観。
 4月19日、入湯(温泉治療)に出立。
 6月19日、温泉治療から帰宅。
戊寅2月1日、平井順安老、丸亀まで渡海。即日観音寺浮田氏へ着、滞留。
    9日、丸亀より乗船、帰郷
 ①には、7月6日に三豊を出発して、津田の松原を眺めて白鳥神社に参拝し、同門の香川家門人宅に泊まったと記します。門人が各地に散在していて、その家を訪ねて宿としています。幕末の志士たちが各地の尊皇の有力者を訪ね歩いて、情報交換や人脈作りを行ったように、医者達も「全国漫遊の医学修行」的なことをやっています。小豆島の高名な医者のもとには、全国から医者がやってきて何日も泊まり込んでいます。それを接待するのも「名医」の条件だったようです。江戸時代の医者は「旅する医者」で、名医と云われるほど各地を漫遊していることを押さえておきます。そして、彼らは漢文などの素養が深い知識人でもあり、詩人でもありました。訪れたところで、漢詩などが残しています。若き日の薫陵も「旅する医者」のひとりであったようです。

金毘羅航海図 加太撫養1
「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻並播磨名勝附」
 白鳥神社参拝後は、引田港からの便船に乗ったことが考えられますが、はっきりとは書かれていません。引田港は古代・中世から鳴門海峡の潮待ち港として、戦略的にも重要な拠点でした。秀吉に讃岐を任された生駒親正が最初に城下町を築いたのも引田でした。引田と紀伊や大坂方面は、海路で結ばれていました。その船便を利用したことが考えられます。

『筆記』は、その後も宝暦6年(1756)2月頃まで、京都周辺の名所見物の記事が続きます。
しかし、その後は遊学生活にも慣れたのか記事そのものが少なくなります。そして宝暦8年(1758)2月帰郷したようです。ここで気になるのが「9日、丸亀より乗船、帰郷」とあるこです。その前に、丸亀には帰ってきて「滞留」しています。そうだとすると丸亀から船に乗って、庄内半島めぐりで三豊に帰ってきたことになります。急いでなければ、財布にゆとりのある人は金毘羅街道を歩かずに、船で丸亀と三豊を行き来していたことがうかがえます。
こうして尾池薫陵は、3度の帰郷を挟んで足掛け5年に及ぶ京都遊学を終えることになります。そういえば尾池家で医業を興した立誠の京都遊学も五年間でした。義父との間に、遊学期間についても話し合われていたのかもしれまん。それでは、薫陵が京都遊学で学んだものは、なんだったのでしょうか? それはまたの機会に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 町泉寿郎  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考―讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)
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井関池
                  井関池

  前回は大野原新田開発に、そのシンボルとして井関池が登場するまでを追いかけてみました。完成後の井関池は、次のように決壊と復旧をの繰り返します。
①正保元年(1644年)2月に7ヶ月の突貫工事で井関池完成
②同年8月に堤防決壊
③翌年正保2年(1645)2月に復旧したものの、7月の大雨で再び決壊
④慶安元年(1648年)に決壊
こうしてみると数年で3回も決壊しています。工法に問題があったのと、余水吐けの排水能力が不足していたようです。井関池は、柞田川に直接に堤防を築いています。そのために台風時などの大雨洪水になると、東側のうてめだけでは余水が処理しきれなくなり、堤防の決壊を繰り返したようです。その結果、修復費用がかさみ資金不足のために復旧に目途が立たず、入植した百姓達の中には逃げ出すものも出てきます。大野原開発の危機です。
 これに対して平田家は、次のように対応策を打ちだします。
①丸亀藩に対して井関池復興事業を藩普請で行うように求めて同意を取り付けたこと
② 洪水時の流下能力向上のために、うてめ(余水吐け)の拡張工事を行う事
③明暦(1656)年11 月に平田与一左衛門が亡くなった後は、二代目与左衛門源助が本拠を京
から大野原に移して腰を据えて新田開発に取り組む姿勢を見せたこと
こうしてようやく平田家の開墾新田は軌道に乗っていきます。
そのような中で、井関池の改修がどのように行われたのかを、尾池平兵衛覚書で見ていくことにします。テキストは観音寺市文化財保護協会 尾池平兵衛覚書に見る江戸前期の大野原」です。

尾池平兵衛覚え書



尾池平兵衛覚え書11~15

「12 東宇手目(うてめ)は地蔵院の寺領を所望せし事」45P
解読文 12
東宇手目(うてめ)ヨリ横井キハ迄生山ヲ堤二仕候分ハ、
地蔵院寺領之内ヲ、山崎様御代二御所望被成、
池堤二被仰付候。
   
ため池の構造物
          ため池の構造物  宇手目(うてめ)=余水吐け

  意訳変換しておくと
東うてめ口から横井の際までは、山を堤として利用している。この山については、もともとは地蔵院寺の寺領であったものを、山崎家にお願いして池堤として利用できるようになった。

大野原開墾古図 1645年(井関池周辺)
         大野原開墾古図(1645年) 井関池周辺の部分図

大野原開墾古図 1645年(部分)
                    上記のトレス図

地図を見ると井関池の東側には、地蔵院(萩原寺)が見えます。中世にはこの寺は非常に大きな寺勢を有した寺でした。現在の井関池の東側までは地蔵院の寺領だったようです。そこで藩主に願いでて払い下げてもらって、堤として利用したと書かれています。その尾根を切通して「うてめ(余水吐け)」を作るというプランだったことが分かります。井関池は西嶋八兵衛が底樋を設置するまで工期が進んでいたとされるので、この堰堤位置を決定したのは西嶋八兵衛の時になるのかも知れません。西嶋八兵衛が築造した満濃池のうてめ(余水吐け)を見ておきましょう。

満濃池遊鶴(1845年)2
           満濃池遊鶴図 池の宮の東につくられた「うてめ」
満濃池のうてめも堅い岩盤を削ってつくられている。
②井関池の「うてめ」拡張工事について、「尾池平兵衛覚書10 井関池東宇手目(うてめ)を十間拡げた事」44Pには次のように記します。
大野原之義井関池ハ川筋ヲ築留申二付、東
宇手目幅四間岩ヲ切貫候故、水大分参候時ハ本
堤切申二付、毎年不作仕及亡所二、最早中間
中も絶々二罷成候。然処ヲ柳生但馬様ヲ頼上、
山崎甲斐守様江御歎ヲ被仰被下二付テ、山崎様
ヨリ高野瀬作右衛門殿と申三百石取フ為奉行、御鉄
胞衆弐百人斗百十日西(東力)宇手目拾間廣被下候。
以上拾四間二候。夫ヨリ以来堤切申義無之候。
意訳変換しておくと

  大野原の井関池は、柞田川の川筋に堤防を築いているために、幅四間の岩を切り貫ぬいたうてめ(余水吐け)では、洪水の時には堤防を乗り越えて水が流れ、決壊した。毎年、不作が続き「中間」中でも資金が足りなくなってきた。そこで、柳生但馬様を通じて、丸亀藩の山崎甲斐守様へ藩の工事としてうてめ拡張工事を行う嘆願し、実現の運びとなった。山崎様から高野瀬作右衛門殿と申三百石の奉行が鉄胞衆200人ばかりを百十日動員して、東のうてめを10間拡げた。こうしてうてめは14間に拡張し、それより以後は堤が切れることはない。

  ここからは、もともとのうてめは幅4間(1,8m×4)しかなかったことが分かります。それが堤防決壊の原因だったようです。拡張工事を行ったのが、丸亀藩の鉄砲衆というのがよく分かりません。火薬による発破作業が行われたのでしょうか? 

現在の井関池の余水吐けを見ておきましょう。

井関池のうてめ

井関池のうてめ.2JPG
        井関池の東うてめ(余水吐け) 固い岩盤を切り通している

余水吐けの下は「柱状節理」で、固い岩盤です。これを切り開いて余水吐としています。満濃池もそうですが、うてめは岩盤の上に作られています。土だとどんなに堅く絞めても、強い流水で表面が削り取られていきます。柱状節理や岩盤の尾根を削って余水吐けを作るというのは、西嶋八兵衛が満濃池で採用しているアイデアです。また、西嶋八兵衛が井関池建設に着工していたとすれば、金倉川と同じように柞田川の大雨時の流入量も想定していたはずです。幅4間の狭い余水吐けで事足りとはしなかったはずです。平田氏は池普請にどのような土木集団を使ったのでしょうか? その集団が未熟だったのでしょうか。このあたりのことが、もうひとつ私には分かりません。
次に「11 井関池東の樋を宮前の樋と申し伝える由来(45p)」を見ておきましょう。
 大野原請所卜成、東宇手ロキハノ堤ノ上弁才天
池宮ヲ立置候処二、戸マテ盗取候二付、今慈雲寺
引小社之ノ中ノ弐間在之力、先年ノ井関二在之社二候。
然故、井関東ノ樋ヲ宮ノ前ノ樋卜今二言博候。
意訳変換しておくと
大野原が平田家の請所となって、東の宇手目(うてめ:余水吐)の堤上に弁才天池宮を勧進した。ところが宮の戸まで盗まれてしまった。今は慈雲寺に二間ほどの小社があるが、これは井関池にあった弁才天社をここに遷したものである。この由来から井関池の東樋を「宮の前の樋」と今でも呼んでいる。

  もういちど大野原開墾古図を拡大して見てみましょう。

大野原古図 井関池拡大
大野原開墾古図 井関池拡大
この図からは尾根を切り通した「うてめ」の西側に「弁才天」が見えます。そこまでが「山」で、ここを起点に堤が築かれたことが分かります。池の安全と保全、そして大野原開発の成就を願って、ここに弁才天が勧進され小社が建立されたようです。それが後に、慈雲寺に遷されますが「宮の前の樋」という名前だけは残ったと伝えます。

東うてめ拡張以前のことについて「13 新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)には、次のように記されています。

尾池平兵衛覚書13新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)
               「13 新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)
解読文
新樋卜申ハ先年東宇手目四間ニテハ水吐不申
ニ付、彼新樋ノ所ヲ幅八間ノ宇手ロニ仕候。堤ヲ宇手目
ニ仕候ヘテ、中之水ニテ洗流二付、下地へ篠ヲ敷其上ヲ
拾八持位ノ石ヲ敷、又其上ヲ篠ヲ敷其上ヲ真土ニテ
固メ、其上ヲ大石ヲ敷宇手ロニ仕候得共、洪水ニハ
切毎年不作仕候。其時分ハ今ノ小堤西南ノ角フ又
堤二〆、四尺斗之樋ヲ居裏表二鳥居立二仕、宇手目    .
吐申時ハ東小堤へ方へ水不参様二仕、用水ノ時ハ戸ヲ明候。
扱大井手下ノ高ミノキハ二四尺四方ノ臥樋ヲ居、宇手目  一
吐中時ハ戸ヲ指、宇手目水ヲ今ノ大河内殿林中へ落し候。
其臥樋今ノ慈雲寺門ノ橋二掛在之候。
大野原古図 井関池拡大
            大野原開墾古図 井関池拡大図の「うてめ」

意訳変換しておくと
新樋というのは、先年に東うてめ(余水吐)四間だけでは充分に洪水時の排水ができないので、幅八間のうてめを新たに堤に設置したもののことである。堤から流れ落ち流水で下地が掘り下げられるのを防ぐために、下に篠を敷いてその上に10人で持ち上げられるほどの大きな石を強いて、さらにその上に篠をしいてその上に真土で堅め、その上に大石をおいてうてめ(余水吐け)とした。しかし、洪水には耐えることができなかった。その頃は今の小堤の西南のすみに堤を築いて閉めて、四尺ばかりの鳥居型の樋を建てた。東のうてめから水が流れ出しているときには、東の小堤へ方へ水が行かないように閉めて、用水使用時には戸を明けた。大井手の下の高ミノキは四尺四方ノ 竪樋で、うてめが水を吐いているときには戸を指し、うてめ水を大河内殿林側へ排水した。その底樋が今の慈雲寺門の橋となっている。

ここからは、東のうてめの拡張工事の前に、西側に8間の新しい「うてめ(余水吐け)」を堤防上に開いていたことが分かります。先ほども述べましたが、うてめは強い流水で表面が削り取られていきます。そのためにコンクリートなどがない時代には、岩盤を探して築かれていました。そのための工法が詳しく述べられています。それでも洪水時には堪えることが出来なかったようです。土で築いた堤防上に「うてめ」を作ることは、当時の工法では無理だったようです。そこで池の西南隅に別のうてめを作ったようです。以上から井関池では洪水時の排水処理のために次の3つの「うてめ」が作られていたことが分かります。
①東のうてめ(幅4間で岩盤を切り抜いたもの)
②堤防上に「新うてめ」(8間)
③西南のうてめ
④東のうてめの拡張工事(8間)

東うてめの拡張工事後の対応について「14 ツンボ樋の事」は、次のように記します。
尾池平兵衛覚え書14
解読文
右之宇手目数度切不作及亡所二候故、御断申
宇手目ノ替二壱尺五寸四方ノ新樋ヲ居、池へ水参ル
時ハ立樋共二抜置、池二水溜不申様二仕候。然共洪水ニハ
中々吐兼申二付、東宇手目拾間切囁今拾四間ノ宇
手ロニ成候。右之新樋ハ東方ノ石樋潰ツンホ樋ト
名付、少も用水ノタリニ不成候二付、右之新樋ヲ用
水樋二用末候。
意訳変換しておくと
  右の宇手目(うてめ)は、数度に渡って決壊し使用されなくなったので、うてめの替わりに壱尺五寸四方の新樋を設置した。そして大雨の時に池へ水が流れ込む時には、立樋と共に抜いて放流し、池に水が貯まらないように使用した。ところが洪水の時には、なかなか水が吐けなかった。そこで東うてめを10間を新たに切り開いて、併せて14間の「うてめ」とした。そのため新樋は東方の石樋完成によって使われなくなり「ツンホ樋」と呼ばれ、まったく要をなさないものになった。そのため新樋を水樋に使用した。

③の西南のうてめも数度の決壊で使用不能となっています。そこに1尺5寸(50㎝)四方の底樋を埋めて新樋とします。そして大雨時の排水処理に使おうとしたようですがうまくいきません。結局、東うてめの拡張工事が終わると無用のものとなり「ツンボ樋」と呼ばれるようになったようです。
ここからも東うてめ拡張以前に、いろいろな対応工事が行われていたことが分かります。

今回は「尾池平兵衛覚書」の井関池のエピソードから分かることを見てきました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「観音寺市文化財保護協会 尾池平兵衛覚書に見る江戸前期の大野原」
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前回は大野原新田の着工までの動きを以下のように見てきました。

大野原新田着工まで


着工に先だって、平田・備中屋・米屋・三嶋屋は「仲間(請負連合)」を形成し、次のように契約を書面にしたためています。
①開発費用はすべて平田が一旦立替えて出すこと
②目処が立った後で備中屋などの三者は、3人で経費の半分を負担すること
③新田開発の利益の1/6を備中屋・米屋・三嶋屋が取り、残りの6分の3を平田が受け取ること
 

こうして「中間」たちは中姫村庄屋・四郎右衛門宅に逗留して、新田開発を進めます。そして、つぎのような作業を同時並行で進めていきます。
A 藩の役人や近隣の村役人立会いの下、請所大野原エリアの確定
B 開拓者の募集
C 自分たちの土地・屋敷を整えること
D 郷社の建設
E 井関池の築造
この中でも最重要課題は井関池の築造でした。大野原は、雲辺寺を源流として流れ出す柞田川の扇状地の扇央部にあります。そのため土砂が厚く堆積して、水はけが良く地下水脈が深く、水田には適さない土地です。この地を美田とするためには、大きなため池と用水路が不可欠です。井関池築造について、「尾池平兵衛覚書」にどのように記されているかを見ていくことにします。テキストは「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」です。

尾池平兵衛覚え書


尾池平兵衛覚書
尾池平兵衛覚書

「尾池平兵衛覚書(10番)」は、井関池築造について次のように記します。
尾池平兵衛覚書10井関池築造の事

上記を解読すると(「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」(44P)
生駒様御代二、西嶋人兵衛殿と申役人、無隠案
者ノ見立テ井関池ヲ築立、井関村ハ大野原カ
福田原江百姓御出シ、浪指ハ落相、宇手ロハ東ハ
地蔵院山ノタリ西ハ鋳師岡ヲ水吐二〆、大野原
不残田地二〆万石も可在之積、靭ハ杵田邊観音寺
迄ヘモ用水二可遣トノ積ニテ、樋御居(据?)サセ被成候。樋尻
東江向有之候.然処二生駒様御落去以後打
捨在之、山崎様へ願銭持ニテ池二築立候。樋初ハ
弐ケ所在之候。壱ケ所ハ石樋二仕、長三十三間蓋迄
石ニテ仕二付、堤ノ土ニテシメ割、役二不立二付、京極様
御代二成御断申埋申候.猫塚池下掛樋二石樋
有之蓋石壱つハ中間入口門ノ跡石二成候。此コトク
成石樋二候。今ニテも入用二候得ハ堤ノ裏方堀候得ハ何
程も在之候。今ノ東方樋ヨリ七八間西方二候堤前ノ本槙木ノ樋二候。

意訳変換しておくと
生駒様の御代に、西嶋人兵衛殿という役人が、井関池築造に取りかかった。井関村や大野原・福田原へ百姓を動員し作業を始めた。計画では、宇手ロ(うめて:余水吐口)は東の地蔵院山で、堤は西の鋳師岡までくもので、大野原だけでなく、杵田・観音寺へも給水を行う計画であった。しかし、底樋の樋尻を東へ向けて設置したところで、生駒様は御落去となって以後は打捨てられた状態になっていた。そこで、丸亀藩山崎家に対して「銭持(町人請負)」での池の築造計画を願いでた。
 樋は最初は、2ケ所に設置した。1ケ所は石樋で、長さ33間(1間=1,8m)の石造であったが、堤の土の重さに耐えきれずに割れてしまったので、京極様の許可を得て堤防の中に埋めた。そこで猫塚池の下掛樋に石樋蓋石があったが、これは中間入口門の跡石であった。これがコトク成石樋二候。今でも必要であれば、堤の裏方を堀ればでてくるはずである。現在の東方の樋から8間西に堤前のものは本槙木製の樋である。

ここには生駒時代の西嶋八兵衛による築造計画が記されています。
西嶋八兵衛

西嶋八兵衛と治水灌漑工事
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況
寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任
1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。
1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ
1631年、満濃池の再築完了。
1635年、神内池を築く。
1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。
     高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。
1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
西嶋八兵衛は、慶長元(1596)年遠州浜松に生まれで17歳の時に父が使えていた伊勢津藩主藤堂高虎の小姓になります。藤堂高虎は「城造りの名手」で、若き日の西嶋八兵衛は、近習として天下普請である京都二条城の築城や大阪城の修築に従事して、築城・土木・建築技術を学びます。その後、藤堂家と生駒藩との姻戚関係で、客臣(千石待遇・後には五千石の家老級)として生駒藩に西嶋八兵衛やって来ます。そして、うち続く旱魃で危機的な状態にあった生駒藩救済策として。数々の総合開発計画を進めます。その一環が満濃池などのため池築造であったことは以前にお話ししました。
 ここには西嶋八兵衛が築こうとした井関池の規模を「大野原だけでなく柞田から観音寺までも潤す満濃池にも劣らないほどの大規模なもの」で、東は地蔵院山,西は鋳い物師岡の谷を山の高さで柞田川を堰き止める」計画だったと記します。しかし、底樋の石を設置した段階で、生駒藩が転封となったために放置状態になったようです。
  西嶋八兵衛による井関池築造が挫折した後を受けて、これに乗り出したのが平田与一左衛門と備中屋籐左衛門,三島屋叉左衛門,松屋半兵衛」の近江と大坂の商人連合(仲間)でした。 ここでは、石造の底樋のことが記されています。しかし、石造底樋については数々の問題があったことは、以前に「満濃池の底樋石造化計画」でお話ししました。

次に「尾池平兵衛覚書NO69:井関池外十三ケ所の池の事」73Pを見ておきましょう。

尾池平兵衛覚え書.69 井関池
                尾池平兵衛覚書NO69

一、井関池 南請 但生駒様御代二堤形有之
        山崎様御代大野原より願銭持ニテ
        築立ル
寛永弐拾未年二
請所申請候。正徳六申年迄七拾四年二成ル。井関築
立二現銀弐百貫目余入、大阪ョリ銭ヲ積下シ観音寺方
牛車ニテ毎日井関マテ引上ル。牛遣ハ大津方抱参候
久次郎と申者、右之車外今中間明神様御社之
下二納在之候。其時分観音寺る海老済道ハ在之候
得共、在郷道二候ヘハ幅四五尺斗之道ニテ、杵田川方ハ
北岡岸ノ上江登り、善正寺ノキハヲ天王江取付候。牛車
通不申二付御断申上、川原ヨリ天王宮ノ下今ノ道へ、
新規二道幅も井関迄弐間宛仕候.井関池下二町
並二小やヲ立、酒肴餅賣居申。又四国ハ不及申
中国ョリも、讃岐二池ノ堤銭持在之候卜間俸、妻
子召連逗留日用仕候。堤ハ東と西方筑真中ヲ
川水通、此川筋一日二築留申日、前方方燭ヲ成
諸方方大勢集、銭フイカキニ入置握り取二仕候。
毎日ノ銭持ハ土壱荷二銭五歩札壱銭札ヲ持せ、十荷
廿荷と成候時ハ十文札五十文札二替手軽キ様二仕候。
其時二桜ノ小生在之ヲ、今ノ中間へ壱荷二〆銭百文ニ
買四本並植候。老木二成枯(漸今壱本残ル。
意訳変換しておくと
一、井関池   生駒様の御代に堤の形はあったが、山崎様の御代に大野原から願い出て、町人受で資金を拠出して築造した。寛永20年(1643)に、(新田開発)の請所を申請し、正徳6年(1716)まで74年の年月を経て完成した。①井関池築造のために銀二百貫目余りを投入した。②銭は大坂から船便で、観音寺まで送り、そこから牛車で毎日井関まで運んだ。牛遣いは、大津の時代から平田家に仕えていた久次郎という者にやらせた。その頃の観音寺から井関までは海老済道(阿波道?)があったが、途中までは幅四・五尺ほどの狭い在郷道だった。そこで杵田川から北岡・岸ノ上で上がって、善正寺(川原)から天王宮下を通り、井関まで二間ほどの道を新規につけて運んだ。
  ③井関池の下には多くの小屋が建ち並び町並みを形成するほどであった。そこでは酒や肴・餅などを売る店まで現れた。 ④井関池工事に行けば「銭持普請」(毎日、その日払いで銭を支払ってくれた)で働けることを伝え聞いて四国だけでなく、遠く中国地方からも多くの人足が妻子連れで長逗留の準備をして集まって来た。
堤は東と西より土をつき固めていき、真ん中は山からの川水を通すため開けておき、最後に一気に川筋を築き留めるという工事手順だった。そのため最後の日は前々から周知し、銭を篭に入れて、労賃を握り取るという方法で大勢の人足をかき集めてた。
 ⑤毎日の労賃の支払いは土一荷(モッコに二人一組で、土を入れ運んだ?)に銭5歩札の札を与え、10荷、20荷単位で十文札、50文札に替えて銭と交換した。堰堤が完成したときには、桜の苗を4本買って植えた。それも老木になって枯れていまい、壱本だけ残っている。
ここから得られる情報をまとめておきます。
①井関池は、平田家が銀二百貫目余りを投下する私的な単独事業として行われた。
②銭(資金)は大坂から船便で観音寺まで運ばれ、そこから牛車で毎日井関まで運んだ。
③労賃支払いは「銭持普請」(毎日現金払い)のために、遠くからも多くの人足が妻子連れでやってきた。
④そのため井関池の下には多くの小屋が建ち、酒や肴・餅などを売る店まで現れた。
⑤毎日の労賃支払方法は、土一荷(モッコ一籠)について銭5歩で、現金払いであった。
ここで押さえておきたいのは、池の築造は近江の豪商平田与一左衛門が丸亀藩に願い出て町人普請として着手されたことです。大野原新田開発は、井関池関係だけでも銀200貫を要しています。工事全体では全体720貫の額に膨れあがったようです。そのため当初の「中間(仲間:商人連合)」の契約では、完成までの費用は平田家単独で支出するが、工期終了時には平田家3/6、他の3家は1/6毎に負担する契約でした。しかし、工事資金が巨額になって支払いに絶えられなくなった3家は「仲間」を脱退していきます。以後の大野原開発事業は、平田家の単独事業として行われていくことは前回お話しした通りです。どちらにしても、井関池が寛永20年8月から翌年2月までのわずか半年間で築かれたこと、その費用は、すべて平田家によって賄われたことを押さえておきます。

こうして出来上がった井関池の規模と構造物について、「尾池平兵衛覚書」は次のように記します。

尾池平兵衛覚え書.69 井関池の規模と構造物jpg
        「尾池平兵衛覚書NO69:井関池外十三ケ所の池の事」73P
 堤長弐百拾間(約282m)、根置(堤の底面幅)30間(約55m)、樋長22間(約66m)、
高6間(約11m)、馬踏(堤の上部幅)3間(約5・5m)で、所によって2間半もある。
水溜りは、新樋は四間五尺で、土俵三俵二水溜リテ□
(上の文書はここから始まる)
東の古樋は八寸五分二九寸で、櫓三つでスホンは三穴五寸
新樋は壱尺五寸二壱尺六寸で、櫓三スホン六櫓一ニ二宛
              スホン上ノ穴八寸 宛下ハ六寸
仮樋は八寸四方で、櫓一つで鳥居立一スホンニ穴五寸宛
              此樋自分仕置候
樋尻の小堤は長さ七拾六間
池之内の面積は、十二町壱反
池の樋取り替えは、延宝七未年、仮樋も同年に行った。。
正徳六申迄三十八年六月ヨリ工事を始め、12月21日に成就した。

ここに出てくる「スホン」は樋穴を塞ぐスッポンのことです。満濃池の櫓樋とスッポンを見ておきましょう。

P1240778
  讃岐国那珂郡七箇村満濃池 底樋 竪樋図(樋櫓から下にのびているのがスッポン)
  水掛かりについては、次のように記します。
  池の水掛については①大分木(大分岐)水越九尺
  内
壱尺        萩原          田拾六町此高百六拾石
壱尺         中姫          田四拾町此高四百石
            
壱尺   杵田四ケ      田十三町高弐百汁石       黒渕
田五拾九丁                  田拾五町高百五拾石       北岡村
高五百汁石                  田拾壱町高百拾石 大畑ケ
           田拾町高七拾石 山田尻
六尺 大野原  田百拾町高七百七拾石
水掛畝〆弐百弐拾五町 高〆千人百六拾石
右之通ノ水越寸尺ニテ候処、先年方三分古地方七分
大野原申偉、則御公儀上り帳面二も其通仕候。

大野原開墾古図 1645年(部分)
   大野原開墾古図(1645年)トレス図(部分) 黒い部分が井関池の堤防 

 ①の大分木(大分岐)は、井関池本樋の250mほど下流に設けられた最初の分岐のことです。
この大分木について研究者は次のように解説しています。

「大分木を越えていく水が幅にして九尺分あるとすると、その内一尺分を萩原の田へ引くようにする。同様に一尺分は中姫へ、同じく一尺分の水は杵田四カ村(黒渕・北岡。大畑。山田尻)へ、そして大野原へは幅6尺分の水を流すようにする。」

つまり井関池本樋から流れて来た水を、「大分木」で次のように配分します。
3/9は、萩原・中姫・杵田へ、
6/9は、大野原へ
これは開拓に取り掛かる際に丸亀藩と交わした「1/3は古地へ、2/3分は大野原新田へ」という水配分の約束に従っていることが分かります。「大分木」で大野原への用水路に流された水は、さらに約800m南西へ下った所にある「鞘分木」で、小山・下組・上之段へ行く3つの水路に分けられ、大野原の新田を潤します。
観音寺市立中央図書館に「大野原開墾古図」という、和紙を貼り合わせた縦横が5×4mほどの大きな古地図があります。

大野原開墾古図
                  大野原開墾古図
開発が始まって2年目の正保二(1645)年9月に作成されたもので、ここには井関池から伸びる用水路がびっしりと描き込まれています。ここに描かれた用水路は、基本的には現代のものと変わりないと研究者は評します。

大野原古図 17世紀
大野原開墾古図(1645年) 縦横に用水路が整備されている
大野原開墾古図1645年(トレス図)
            大野原開墾古図(トレス図)

  こうして工期7ヶ月の突貫工事で、正保元年(1644年)2月に、大野原新田開発のシンボルとして井関池は姿を見せます。その年の4月には18,6kmの灌漑用水網も出来上がり、126haの開墾用地に62軒の農家が入植しました。ところがその年の8月には堤防が決壊します。工事を急いだ突貫工事であったことや工法に問題があったことが考えられます。翌年の正保2年2月に復旧したものの、7月の大雨で再び決壊、さらに慶安元年(1648年)にも決壊するなど、わずか数年で3回も決壊しています。このため平田家と仲間の負担は限度を超え、資金不足のために3回目の復旧は目途が立たず、入植した百姓達の中には、逃げ出すものも出るようになります。このような危機をどう切り抜けたのでしょうか。それはまた次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 観音寺市文化財保護協会 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原
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尾池平兵衛覚え書

尾池平兵衛覚書 四国新聞
 
図書館の新刊書コーナで、「大野原開基380年記念 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」という冊子を見つけました。手に取ると久保道生氏が「観音寺市古文書研究会」のメンバーとの読み込み活動の成果として「大野原開基380年」に出版されたものです。原本史料の下に印字文が書かれていて、古文書を読むテキストにも最適です。
1大野原地形

  大野原は雲辺寺の五郷から流れ下る柞田川の扇状地で、砂礫の洪積台地で地下水が深く中世までは水田化が進まなかったことは以前にお話ししました。そのため近世初頭までは「大きな野原=おおのはら」のままの状態だったようです。「大野原総合開発事業」が開始されるのは、生駒騒動後に讃岐が2つに分割され、山崎家が丸亀城主としてやって来るのと同時期のことで、寛永20(1643)年のことになります。昨年が380周年になるようです。
 開発の主役は京都の商人・平田与一左衛門で、巨費を投じて新田開発に着手します。そのことを書き留めたのが、平田家の手代・尾池平兵衛です。彼は開墾10年目にの11歳で丸亀から大野原新田にやってきて享保元年(1716)まで60年に渡って、新田開発に関わった人物です。その彼が残した史料を採録し、解説したものがこの書になります。
最初に尾池家について記した部分をまとめておきます。
①尾池平兵衛(1654~1720)の祖父・尾池官兵衛は、生駒家に仕える武士。
②『西讃府志』の「生駒家分限帳」に、生駒将監の組内に、高二百石の尾池官兵衛の名あり。
③生駒騒動(1640)年で、官兵衛は領主について改易地の矢島へ行くが、すぐに丸亀へ帰郷。
④その息子が平兵衛の父・尾池仁左衛門(1666~88)で、「仁左衛門 町年寄相勤申」とあり町年寄を務めていた。
「町年寄」とは、町奉行の下で町の令達・収税を統括役する役割です。町人ですが公儀向の勤めを立場であったことが分かります。ここからは、生駒騒動後の身の振り方として、祖父は主君に従って一旦は改易地にいきますが、すぐに状況を見て帰讃して、武士を捨てたようです。父は山崎藩の下で塩飽町の町年寄りを務めるようになっています。塩飽町の町年寄とあるので、旅籠的なものを営んでいたのではないと思います。それは、京都の平田家が丸亀来訪時の常宿に尾池家をしているからです。
このくらいの予備知識を持って「尾池平兵衛覚書」を最初から読んでいくことにします。

尾池平兵衛覚書
                  尾池平兵衛覚書
01 大野原開墾と仲間のこと
尾池家と大野原新田開発との関わりを、「覚書」は次のように記します。 
尾池平兵衛覚書1
         尾池平兵衛覚書01ー1「大野原開墾と仲間の事」
  平兵衛大野原江被曜申由緒ハ、山崎甲斐守様丸亀御拝知被為成、御居城御取立入札被仰付候。依之京都平田与市左衛門様銀本ニテ、手代木屋庄二郎、大坂備中屋藤左衛門殿、同所米屋九郎兵衛子息半兵衛、同所三嶋屋亦左衛門右四人連ニテ下り、塩飽町同苗仁左衛門宅ヲ借り逗留候。御城入札ハ何茂下り無之内二埒明申二付、折角遠方ヲ下り此分ニテハ難登候。相應之義ハ有之間鋪哉卜仁左衛門へ被尋候。仁左衛門答ハ自是三里西二高瀬村卜申所二余程之入海在之候。是ヲ築立候ハヽ新田二可成と望手も有之候得共、未熟談無之と申候ヘハ、ゐと不案内二候。乍大義同道頼度との義二付、仁左衛門同道彼地一覧被仕、成程新田ニモ可成候得共、連望申上ハ此場所ヨリ廣キ所ハ有之間鋪哉と評判申候処へ、何方トモナク出家壱人被参、各々ハ何国方被参候哉と被申候ヘハ、右之子細申聴候。
意訳変換しておくと
尾池平兵衛が大野原開発に関わるようになった由縁は次の通りである。
①山崎甲斐守様が天草から藩主としてやってきて、丸亀城の改修工事の入札を行うことになった。②入札に参加するために京都の平田与一左衛門様を元締にして、平田家手代の木屋庄三郎、大坂の備中屋藤左衛門、同所米屋九郎兵衛の子の半兵衛、同じく大坂の三島屋亦左衛門の四人が連れ立って丸亀にやって来た。③そして丸亀塩飽町の尾池仁左衛門宅を借りて逗留し、入札への参加を企てたがすでに終わってしまっていた。④そこで四人は『せっかく遠方からやって来たのに、このままでは帰れない。どこか相応の物件はないものか』と仁左衛門に尋ねた。これに対して『ここから三里西へ行ったところに高瀬村という所があります。そこに広い入海(三野湾?)があります。そこに堤を築き立てれば新田になる』と答えます。
 四人は地理に不案内なので仁左衛門に案内を乞い、高瀬村へやって来た。しかし三野湾は確かに新田にはなるが余りにも狭い。もっと広い所は無いものかと、あれこれ話していた。そこへどこからともなく一人のお坊さんがやって来た。そのお坊さんに、どこからやってきた客人か?などと聞かれるままに事の次第を話した。
これらを関連年表の中に落とし込んでおきます。
1628年 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
1641年 幕府は生駒藩騒動の処分として生駒高俊を、出羽国矢島1万石に移す.
   同年 肥後天草の山崎家治に西讃5万石を与えられ、城地は見立てて決定するよう命じられる
1642年 ①幕府より丸亀の廃城を修築し居城にすることを許され、入札開始(小規模改修)
   同年 ②入札参加のために平田与一左衛門の手代等が丸亀にやってきたが入札はすでに終了。
      ③その際に宿したのが塩飽町の町役人の尾池家
1643年 ④尾池家の案内で大野原視察し、開発開始。井関池着工
1645年 大野原開墾古図作成。
1663年 二代目平田源助(与左衛門正澄)が京都から大野原へ本拠地移動
1665年 尾池平兵衛が11歳で大野原へやってくる。
私がここで気になったのは、ここでは丸亀城の改修工事の入札のために、京都の平田氏を中心とする大商人の手代達がやってきたとあることです。そうだとすると、山崎藩はお城の普請工事を大商人に請け負いさせていたことになります。
続いて尾池平兵衛覚書を見ていきます。
 
尾池平兵衛覚書2
 尾池平兵衛覚書01ー2「大野原開墾と仲間の事」
彼僧被申ハ、是ヨリ三里西二壱里四方之野原在之候。此場所生駒様御時代二、新田二被仰付トテ谷川ヲ池二築掛在之候。御落去以後、打捨り居申候。今日被参候テ見分可然と申、兎哉角評判申内彼僧行衛不知候。末々二至テ考申ハ、平田家筋ハ法花(華)宗高瀬二法花寺在之候。芳以祖師之御告ニテ可在之と申博候。

 右教ノ□其日中姫村迄参庄屋ヲ尋候ヘハ、四郎右衛門ト申此宅二何茂一宿仕、四郎右衛門案内ニテ及見有、荒給固二書丸亀へ帰宅申、新田ニモ望候ハヽ請所二可被仰付哉と宿仁左衛門ヲ頼、甲斐守様御役人衆へ内窺仕候。其働甲斐様御一家二山崎主馬様卜申テ、此御方ョリ仁左衛門内方ヲ筆娘二被成候由緒と申、仁左衛門町年寄相勤申二付御公儀向勤、亦則右之旨内窺申上候ヘハ、成程請所二願候様二
と被仰二付、
京都へ相達候得ハ重畳ノ義二候、御城普請ハ営分縦利潤在之テも末々難斗候。新田卜申ハ地一期子孫二相博候得ハ、万物二勝タル田地ノコト、随分御公儀向宿仁左衛門ヲ頼願叶次第、瑞左右可申越と申末候。然故新田願書指上ケ、首尾能相叶候新田成就之時ハ、六ツニ〆三ハ与市左衛門様、残三ヲ右二人卜〆取申極。然共始終ノ銀子入目ヲ元利与市左衛門様へ返済無之候テハ、右之配分無之極之書物二候。
意訳変換しておくと
するとお坊さんは次のように云った。①『ここから三里西に、一里四方の野原がある。ここは生駒様の時代に新田にしようと、谷川をせき止め池を築こうとしていたのだが、生駒様御落去で打ち捨てられ今日に至っている』とのことであった。それを聞いてとにかく行ってみようと相談しているうち、ふと気がつくと、お坊さんはいなくなっていた。後々になって思い至ったのは、②『平田家は法華宗であり、高瀬には大きな法華寺院(本門寺)があるので、これは日蓮祖師のお導き違いない』と申し伝えられている。」

 教えの通りにその日のうちに五人は中姫村へ行き、庄屋の四郎右衛門の家に一泊し、翌日には四郎右衛門の案内で原野を視察した。③それを直ぐに「荒絵図」に描き記し、仁左衛門を通じて新田開発願いを藩の役人に提出した。なお仁左衛門の奥方は藩主・山崎甲斐守の一族・山崎主馬の娘を、頼まれて筆娘にした懇ろな関係にあったことや、仁左衛門が町年寄を務めるなど公儀の役目にあったこともプラスに働いたようだ。

 この視察報告を受けた京都の平田与一左衛門は、「大変結構な事である。御城普請は一時の利益に過ぎないが、新田開発は末々まで価値を生む田地を子孫に残す万事に勝る」との快諾の返事を寄した。こうして、新田開発が首尾良く成就した際には、3/6は平田与市左衛門様、残りを備中屋・米屋・三嶋屋で分与すること。但し備中屋・米屋・三嶋屋は平田が立替えた費用の自己負担分を元利合わせて返済した場合のみ、6分の1の配分に関わる権利を有すること約した。但し、最初に平田家が立替えた銀子費用の返済がなければ、これは適用されないという契約内容を文書で交わした。

ここには次のような事が記されています。
①僧侶は生駒藩時代の新田開発候補地として「大野原」を勧めた。
平田家は法華宗なので、法華衆の高瀬本門寺の宗祖日蓮の導きにちがいないとした。
③大野原を新田開発の適地として、山崎藩に申し出ると問題なく認可が下りた。
④着工に先だって、平田・備中屋・米屋・三嶋屋は「仲間」を形成した。
⑤そして開墾にかかる費用はすべて平田が一旦立替えて出すこと、そこから上がる利益の1/6を備中屋・米屋・三嶋屋が取り、残りの6分の3を平田が受け取ることが約された。


尾池平兵衛覚書02
 02尾池仁左衛門長男に庄大郎と命名したこと

右之由緒ニ付、仁左衛門子共之内壱人ハ大野原江囃当国之支配ヲモ頼可然と、新田取立前後評判在之候処二、幼少二付大野原へ可預ケ様無之と打捨置候。併讃岐新田鍬初之時分ヨリ宿と言、御公儀然願ハ仁左衛門被致候ヘハ、子共ノ内責テ為由緒名成共付置候得と、与市左衛門様ヨリ手代庄二郎へ被仰越、則仁左衛門惣領男子ヲ庄三郎ョリ庄太郎卜名ヲ付被申候。其時分仁左衛門ヨリ庄二郎然へ頼申手筋ニテ無之候得共、与市左衛門様御名代二庄二郎と従御公儀御證文ニも書載申程ノ庄三郎二候ヘハ、右之首尾二仕候処ニ庄太郎死去申候。右之由緒二付大野原開発ヨリ今二至迄宿卜成候。

意訳変換しておくと
この関係について、尾池仁左衛門の子供の内の一人は平田家へ奉公に出して、後々には大野原新田の経営に当たらせるという話が当初からあった。しかし、仁左衛門の子供はまだ幼少だったので、打ち捨てられて具体的な話は進まなかった。これと併せて、新田開発当初から尾池仁左衛門宅は平田家の定宿となり、讃岐支社の様相を呈し、丸亀藩へとの連絡業務は仁左衛門を通じて行われていて、両者の関係はますます深くなった。そこで京都の平田与一左衛門は、手代の庄三郎に対して「両家の深い付き合いの手始めに、仁左衛門の惣領男子の名付け親になるように」と命じた。(この時(与一左衛門の子・与左衛門(大野原平田家の祖)は、まだ大野原へは来ていなかった)。そこで庄三郎は、自らの「庄」の字を取って仁左衛門の長男に庄太郎と名付けた。こうして将来は庄太郎が大野原へ来るものと皆思っていた。ところが庄太郎が病死してしまった。そこで寛文年間(1661~73)に、庄太郎の代わりに平兵衛が大野原へ来ることになった。

ここからは次のような事が読み取れます。
①当初から尾池仁左衛門の子供の一人を平田家へ奉公にだすことが約されていたこと
②尾池仁左衛門が新田開発について藩とのとの仲介を果し、京都の平田家との関係が深まったこと
③尾池仁左衛門の長男が死去したため、次男の平兵衛(14歳)が大野原に送り込まれたこと

尾池平兵衛覚書03・04

03 尾池平兵衛が大野原に参りたる次第
平兵衛義、家ノ惣領二候得共、庄太郎替リニ大野原開発指越旨、山中親五郎右衛門殿ヲ以平田源助様ヨリ被仰聞何分可任仰と答、則御公儀へも惣領之義二付町年寄ヲ頼御願申上候ヘハ、聞停候処古キ馴染之手筋二候間、勝手次第二仕候得と被仰渡候。

意訳変換しておくと
   平兵衛は、尾池家ノ惣領ではないが、長男の庄太郎に替って大野原開発に関わっていくこととなった。これについては、山中親五郎右衛門殿に対して平田源助様から事前に相談すると、丸亀藩としては、惣領として塩飽町の町年寄を継いで欲しいが、大野原開発に携わるのなら、古い馴染の手筋でもあるので、勝手次第にせよと許可が出た。


NO4 平田与左衛門が源助と改名した次第
平兵衛十一才ノニ月十一日ニ大野原へ罷越申候。其時分ハ源助様ヲ平田与左衛門様と申候へ共、御郡奉行二山路与左衛門様之御名指相申ニ付、源助と御改被成候。

意訳変換しておくと
こうして尾池平兵衛は11才の2月11日に大野原へやってきた。その時分は平田家の源助様は与左衛門と名乗っていた。ところが郡奉行が山路与左衛門様という御名の方になったために、源助と改名した。以後、平田与左衛門は平田源助となった。

尾池平兵衛覚書5・6・7

NO5  平田源助様(与左衛門正澄)と尾池平兵衛が大野原に参る

一、寛文三卯年二源助様ハ京都ヨリ御引越御下り被成候。平兵衛ハ寛文五巳年二参候。

意訳変換しておくと
寛文3年(1663)に平田源助様(与左衛門正澄)は京都から大野原へ移住してきた。平兵衛が大野原へ来たのは、その2年後の寛文5年のことである。

NO6 当時の手代のこと
其時分、手代ニハ山中五郎右衛門殿御公義被勤候。内證手代ハ多右衛門と申仁、夫婦台所賄方勤ル。廣瀬茂右衛門二も内證手代二候得共、五郎右衛門殿指合之砌ハ公用被勤候。
意訳変換しておくと
「その時分、手代は3人いた。一人は、御公儀向きの勤めをする山中五郎右衛門(備中屋藤左衛門の二男)、もう一人は、奥向きの台所賄いなどの仕事をする多右衛門夫婦、も一人は、広瀬茂右衛門で、台所賄い方や財政に関する仕事をしながら時には五郎右衛門が多忙な時には、公儀向きの仕事も助けた。

そこへ11歳の平兵衛がやって来ます。最初は見習いでしたが次第にめきめきと力を発揮し、やがて公儀向きの重要な仕事を任されるようになります。

  07 平田源助 吉田浄庵老の娘と結婚のこと
  先源助様之奥さま、嵯峨吉田浄庵老申御仁之御娘子、弐十四才二て寛文六午年四月二御下リ御婚礼。今之源助様御惣領奥様ハ、角蔵(角倉:すみのくら?)与市殿御親類先。角蔵与市殿ハニ子宛出生。以上廿四人在之由。十七人目ノ孫子ヲ吉田浄庵老御内室二被成候。其御内室様二も当地へ御下り二年御滞留、御名ハ寿清さまト申候。
  意訳変換しておくと
先の平田源助様の奥さまは、嵯峨吉田浄庵老と申す御仁の御娘子で、寛文六年(1666年4月2に大野原にお輿入れになった。今の源助様の惣領の奥様は、角蔵(角倉:すみのくら?)与市殿の親類から輿入れた方で、角蔵与市殿は子沢山で、24人に子どもが居たがその17人目ノ孫子が吉田浄庵老御内室になられた。その御内室様も当地へ御下りになり2年滞留された。名前は御名ハ寿清さまと申す。

尾池平兵衛覚書8JPG

NO8 仲間解散し、大野原を平田家が片づけることになった次第
 寛文之頃、先年之大野原請所中間(仲間)備中屋藤左衛門、米屋九郎兵衛、前方与市左衛門 取替申銀子指引も被致候。大野原も如何様各々評判被致候様二と催促申候ヘハ、右両人取替銀之返弁撫と申ハ不寄存候。然上ハ大野原ハ与左衛門殿へ片付候間、向後可為御進退と大野原不残与左衛門様へ片付候故、寛文頃方百姓方諸事之證文二平田与左衛門同市右衛門と為仕候。三嶋屋亦左衛門ハ、先年大野原ヲ欠落九州へ参候様二風間仕候。市右衛門様京都米沢や西村久左衛門殿二御掛り、東国へ御商賣二御下リ
 意訳変換しておくと
  寛文年間頃に、大野原開発の「中間(仲間)=開発組合」であった備中屋藤左衛門・米屋九郎兵衛・前方与市左衛門に対して、平田家が立て替えている費用の納期期限が近づいているので、支払いの用意があるかどうかの意向確認を行った。これに対して三者は、支払いは行わないとの返事であった。こうして三者が「仲間」から手を引いたので、今後の大野原開発は平田与左衛門殿が単独で行うことになった。寛文年間頃には百姓方諸事の證文には平田与左衛門と市右衛門の名前が見える。三嶋屋亦左衛門は、先年に大野原を欠落して九州へ云ったと風の噂に聞いた。市右衛門様
京都米沢や西村久左衛門殿二御掛り、東国へ商売のために下った。

「大野原総合開発事業」は平田家・備中屋・米屋・前方の四者が「中間(仲間)=商人連合体」を形成してスタートしました。その初期費用は、平田家が単独で支払うという内容でした。ちなみにこの事業に平田家がつぎ込んだが負担した費用は、借銀だけで約二百貫目に達します。最初の契約では、平田家が立替えた諸費用の半分を、備中屋たち3者が後に支払うことになっていました。
これについて『西讃府志』(667~668P)には、次のように記します。

「明暦三年十二月に至リテ、彼ノ三人ノ者与一左衛門ヨリ借レル銀、七百二十一貫ロニナレリ、是二於テ終二償フコトヲ得ズ、開地悉ク与一左衛門二譲り、翌ル年ヨリ与一左衛門ノ子与左衛門一人ノ引請トナリシカバ、与左衛門京師ヨリ家ヲ挙テ移り来り、遂二其功ヲトゲテ、世々此地ノ引受トナレリ」

意訳変換しておくと
「明暦三年(1657)12月になって、「仲間=開発組合」の借入銀は、721貫に達した。ここに至って、三者は借入金の1/6を支払うことができずに開発地の総てを平田与一左衛門に譲渡することになった。そうして翌年には与一左衛門の子である与左衛門が引請者として京都から一家で大野原にやってきた。こうして大野原は平田家の単独引受地となった。

ここから開墾開始から14年後の明暦3(1657)年には、「仲間三者」が手を引いて、大野原は平田一人の請所となり、仲間は解散してしまったことが分かります。

11歳で大野原へやって来た平兵衛(幼名:文四郎)の果たした役割は大きいと研究者は評します。
そのことについて「NO40 平兵衛功労のこと」で、自分の労苦を次のように記します。
14歳で年貢の請払という仕事の手伝いを始めた。17歳で元服し「平兵衛」を名乗るようになってからは、山中五郎右衛門の補佐をしながら丸亀勘定方との交渉役を勤めるようになった。平田家手代の中心であった五郎右衛門が亡くなると、もう一人の手代である広瀬茂右衛門とともに、大野原開発の全ての仕事を担うようになった。
 開発が軌道に乗るのは、延宝時代になってからで、大方の田畑が姿を見せ、新しく来た百姓たちも居付きはじめた。その頃、藩による検地が行われたが、私(平兵衛)はずっと一人で検地役人の相手を勤めた。そのうえ夜になると測量した野帳の間数や畝数、坪数を改めて清書し、検算した。それを私一人で行った。当時は19歳だった」
「今、考えてみるに、14歳から年貢方の請払いで大庄屋所の寄合に出席したり、知行新田の興賃の取り引きや稲の作付に関することの交渉をやってきた。17歳からは御公儀向きの仕事にのみ従事するようになった。私は相手が年長の旦那方であっても、何とか百姓たちが大野原に居付いてくれるように、一人で交渉し話し合ってきた。今になっては、我ながらよく勤めたものだと思っている」

若くして重要な仕事を任され、大人たちに交じって夢中で勤めを果し、一定の成果をあげてきたという平兵衛の自負が強く感じられると研究者は評します。
今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

「大野原開基380年記念 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」


 
碗貸塚古墳石室2 大野原古墳群

碗貸塚古墳 石室実測図

大野原古墳群の石室タイプは、九州中北部から西部瀬戸内に拡がっている複室構造石室に由来するというのが定説です。
それでは「複室構造の横穴式石室」とは、なんなのでしょうか、それを最初に押さえておきます。

副室化石室

                複室構造の横穴式石室
①5世紀代に北・中九州で採用された横穴式石室は、腰石の使用や石室が大型化する。
②6世紀前半になると、肥前・筑前・筑後・肥後の有明海沿岸部の地域で、玄室と羨道の間に副室(前室)が設けられる複室構造の横穴式石室が新たに出現する。
③初期の複室構造ものは、はっきりした区画は見られず、閉塞(へいそく)石や天井石を一段高くするなどして区分化している。
④その後、側壁に柱石を立てるようになると、前室としての区画がはっきりと見えてくる
⑤筑前・豊前・豊後などの北東九州では少し遅れてれ、6世紀中頃の桂川町の王塚古墳に羨道を閉塞石で区画した原初的な複室構造が出現する。
 6世紀中頃の横穴式石室の単室から複室化への変化の背景を、研究者は次のように記します。

514年の百済への四県割譲や、562年に任那が新羅と百済によって分割、滅亡し、ヤマト政権が半島政策の放棄した結果、動乱を逃れて渡来した下級技術者たちが北九州の有力首長層の下に保護され、高句麗古墳にみるような中国思想を導入した日月星辰(せいしん)、四神図、それに胡風に換骨奪胎(かんこつだったい)した生活描写を生み出したり、複室構造の横穴式石室を構築したのではないかと考えられる(小田富士雄「横穴式石室古墳における複室構造の形」『九州考古学研究 古墳時代篇』1979年)。

このような複式構造の石室を大野原古墳群は採用してます。そして複式石室導入以後、次のような改変を進めます。
①使用石材の大型化志向
②羨道の相対的な長大化
③羨道と玄室一体化
石室形態の変化から大野原古墳群諸古墳と母神山錐子塚古墳の築造順を、研究者は次のように考えています。
  ①母神山錐子塚古墳 → ②椀貸塚古墳 → ③岩倉塚古墳 → ④平塚古墳 →⑤角塚古墳

 大野原三墳の築造時期は次の通りです。
①貸椀塚古墳が6世紀後半、
②平塚が7世紀初め、
③角塚が7世紀の前半。
大野原古墳の比較表


最後に登場するのが讃岐最大の方墳で、最後に造られた巨石墳である角塚になります。角塚は、その石室様式が「角塚型石室」と呼ばれ、瀬戸内海や土佐・紀伊などへも広がりを見せていることは前回お話ししました。
角塚式石室をもつ古墳分布図
                  角塚型石棺をもつ古墳分布

今回は「角塚型石室」について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」です。        
大野原古墳群と母神山錐子塚古墳は、断絶したものではなく継続したものと研究者は考えています。
ここでは4つの古墳の連続性と変化点を、挙げておきます。
①母神山錐子塚古墳と椀貸塚は、玄室の前方に羨道とは区別される明確な一区画を設ける。これが複室構造石室における前室に相当する。
②平塚古墳、角塚古墳ではこれがなくなり、前室区画と羨道の一体化する。
③平塚古墳では羨道前面の天井石架構にその痕跡がうかがわれ、前室区画の解消=羨道との一体化の過程を指し示すものがある。
①については、母神山錐子塚古墳の段階で後室相当区画(玄室)や前方区画(玄室)は長大化しています。
1大野原古墳 比較図
母神山錐子塚古墳と大野原古墳群の石室変遷図
その後は前室区画は、羨道と一体化してなくなってしまいます。複室構造石室では前後室の仕切り構造は、前後壁面より突き出すように左右に立柱石を据え、その上部に前後から一段低く石を横架します。これが母神山・鑵子塚古墳、椀貸塚古墳では、はっきりと見えます。そして前方区画(前室)と羨道の間にも同じような構造になっているようです。さらに平塚古墳・角塚古墳では、この部分の上部構造の変容がはっきりと現れています。
 こうして見ると、大野原に3つ並ぶ巨石墳のうちで最初に作られた碗貸塚古墳は九州的な要素が色濃く感じられます。それが平塚・角塚と時代を下るにつれてヤマト色に変わって行くようです。その社会的な背景には何があったのでしょうか?
角塚型石室のモデルである角塚古墳を見ておきましょう。
角塚古墳 石室実測図
角塚古墳 石室実測図
①玄室(後室)長約4,5m、玄室幅約2、6m、床面積は12㎡弱、三室長幅比は1,8
②玄室(奥室)平面形は、長幅比がやや減じるが4つの古墳の間で、大きな開きはない。
③もともとの複室構造の後室形態と比較すると、玄室長が同幅の約2倍の長大な平面形。
平塚古墳 石室
平塚古墳 石室実測図
平塚古墳と角塚古墳を比較すると、前室区画と羨道が一体化し長大化が進んでいることが分かります。
①平塚は長約5,9mで玄室長と同程度で、角塚は約7mと玄室長よりも長い。
②羨道幅は、平塚が玄室幅の77%、角塚が92%
③玄室に匹敵するほどに前室と一体化した羨道が発達する。
④平塚古墳では羨道最前方の天井石を一段低く架構し、この形は羨道と一体化した前室部区画の痕跡
 平塚古墳は、玄門上の横架石材が両側立柱のサイズにそぐわないまでに巨大化します。

平塚古墳 石室.玄門部の支え石
平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」右側

平塚古墳 石室.玄門部の支え石 左
              平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」左側

その荷重を支えるために、玄室の両側壁第二段を内方に突き出すように組んでいます。これと立柱石で巨大な横架石材を支える構造です。また横架石材は一枚の巨石で玄門上部に架橋し、これに直接玄室天井石が載っています。こうして見ると、椀貸塚古墳までの典型的な楯石構造は、平塚では採用されていません。
 さらに角塚古墳になると、両側立柱上部の石材は、前後の天井石とほとんど同じ大きさで整えられています。平塚古墳石室に見えた羨道天井石との段差はなくなり、玄室天井石との間もわずか10 cm程度の痕跡的な段差がかろうじて見られるだけです。
 次に研究者は、各古墳の玄室(後室)壁面の石積状態と使用石材サイズについて次のように整理します。 角塚は石室規模は小型化しますが、そこに組まれている石は大形化します。その特徴を見ておきましょう。
角塚古墳 立面図
角塚古墳 石室立面図
①玄室奥壁と左側壁は一枚の巨石で構成
②右側壁も大形材一段で構成し、不足分に別材を足す。
③奥壁材は最大幅2,5m以上、高さ2、3m以上の一枚巨石
④右側壁には幅3,4m高さ2,4mの石材。左奥壁に据えた玄室長に達する幅4,5m高さ2m以上の石材が最も大きい。
⑤玄室架構材は2,3m×2,88m以上、1,7m×2,7m以上。
⑥羨道部壁面は左右とも二段構成で右側壁下段に長2,5m、左側壁下段に3,5m以上の大形材を使用
 角塚石室の使用石材サイズと石積みを押さえた上で、それまでの石室変遷を見ておきます。
まず母神山錐子塚古墳と椀貸塚古墳には近似点が多いと研究者は次のように指摘します。

碗貸塚古墳石室 大野原古墳群
碗貸塚古墳の石室立面図

平塚古墳 石室立面図
平塚古墳の石室立面図 

①石室規模の飛躍的に大きくなっているのに、椀貸塚古墳では用材サイズには変化がみられない
②用材大形化は、椀貸塚古墳と平塚古墳の間にで起こっている。
研究者が注目するのは、平塚古墳の巨大な玄室天井石と左側壁第二段の巨大な石材です。大形材の使用という点では、巨石だけで玄室を組んでいる角塚古墳がぬきんでます。しかし、平塚古墳にも角塚に負けないだけの巨石が一部には使用されています。角塚古墳の石室は、母神山錐子塚以来の系統変化の終点に位置づけられます。ここでは、その角塚古墳石室と平塚古墳石室とでは形態・構造面ではよく似ているのですが、大形石材の利用能力には格差があったことを押さえておきます。
6世紀末には、観音寺の豪族連合の長は柞田川を越え、大野原の地に古墳を築くようになります。
これは盟主古墳の移動で、三豊地方の母神山(柞田川北エリア)から大野原(南エリア)へ「政権移動」があったことがうかがえます。

1碗貸塚古墳2
大野原椀貸塚は、柞田川の両側を勢力下に置く三豊平野はじめての「統一政権の誕生」を記念するモニュメントとして築かれたとも言えます。それは百年前の5世紀後半に、各地の豪族統合のシンボルとして各平野最大の前方後円墳が築かれたのと同じ意味を持つものだったのかもしれません。椀貸塚の70mに及ぶ二股周濠、県下最大の石室は、富田古墳や快天塚古墳と同じ、盟主墳を誇示するには充分なモニュメントで政治的意味が読み取れます。
以上を整理してまとめておきます
①柞田川の北エリアでは、6世紀前半に母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が築造される。
②6世紀後半になると円墳で横穴式の錐子塚古墳が、それに続く
③7世紀前半に中位・下位クラス墳群である千尋神社支群、黒島林支群、上母神支群が形成される。
④北エリアの豪族連合長の豪族のほとんどが、母神山を墓域としていることから、この山が霊山だったことがうかがえる。
⑤6世紀末に、大野原に椀貸塚、7世紀はじめには平塚、7世紀半ばに角塚が築造される。
⑥大野原3墳を中心にして、7世紀前半には古墳小群が柞田川の流れに沿うように作られるようになる⑦これらの中小勢力によって、柞田川周辺の開発が進められた
⑧大野原では大野原3墳と、対になるように観音堂古墳、町役場古墳、若宮(石砂)古墳がかつてはあったが、江戸初期の新田開発によって失われてた。
⑨大野原3墳は、これらの墳墓群と墓域を共用していた
以上から、6世紀末に観音寺エリアの墓域が、母神山から大野原に移ったことを押さえておきます。つまり、大野原墳墓群の組織化は始祖の統一、同族関係の確立と捉えることができると研究者は指摘します。言い換えれば、6世紀末に三豊平野の豪族の族的統合が行われたこと、その政治的なモニュメントの役割を果たしたの大野原3墳ということになります。これは三豊平野の内部の動きです。それ以外に、外部の力もこの動きを推進したと研究者は考えています。
それは次のようなヤマト政権内部での抗争との関連です。
①朝鮮半島経営に大きな力を持つ葛城氏
②葛城氏の下で、瀬戸内海南ルートの交通路を押さえた紀伊氏
③瀬戸内海南ルートを押さえるために紀伊氏が勢力下に置いた拠点
④そのひとつが母神山古墳群勢力 
⑥葛城氏・物部氏の没落後に台頭する蘇我氏
⑦蘇我氏の支持を取り付けて、台頭する大野原勢力
⑧大野原への盟主古墳の移動と3世代に渡る碗貸塚古墳→平塚→角塚の造営
⑨角塚は、讃岐最大の方墳であり、讃岐最後の巨石墳であること
以上からヤマト政権内部の蘇我氏の政権獲得と、大野原古墳群の出現はリンクしているという説になります。そういえば蘇我氏は、巨石墳の方墳が好きでした。いわばヤマト政権の「勝ち馬」に載った勢力が、地域の盟主にのぼりつめることができたことになります。
 前回お話ししたように角塚の石室モデル(角塚型石室)が瀬戸内海各地や土佐・紀伊にも拡大していること、讃岐の巨石墳のモデルになったのが大野原古墳群であったことなどが、それを裏付けることになります。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大野原古墳の比較一覧表
                 大野原古墳群の比較一覧表
参考文献
「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」
関連記事






大野原古墳群1 椀貸塚古墳 平塚古墳 角塚古墳 岩倉塚古墳
大野原古墳群 (時代順は碗貸塚 → 平塚 → 角塚)

観音寺市の大野原には、大きな石室を持つ3つの古墳が並んでいます。この3つの古墳群は、それまで古墳がない勢力空白地帯の大野原に、突然のように現れます。この背景には、あらたな新興勢力がこの地に定着したと考えられています。その中でも一番最後に築かれた角塚は、その石室が「角塚型石室」と呼ばれて、6世紀後半に台頭する新興勢力の古墳に共通して採用されているようです。今回は、「角塚型石室」を採用する巨石墳を見て、その背景を考えて行きたいと思います。テキストは「清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳」です。

1大野原古墳 比較図
大野原古墳の変遷

まず、大野原の3つの古墳群の特徴を報告書は、次のように記します。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
④6世紀後半から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が、椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と3世代順番に築造されていること。

そして、今回取り上げる角塚の石室を見ておきましょう。 

角塚
                    角塚平面図

①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長さ4mの規模で、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳

角塚石室展開図
   大野原古墳の角塚石室展開図
     
  西日本の横穴式石室を集成した山崎信二氏は、大野原古墳群について次のように記します。
大野原古墳群は、石室構造の変遷から椀貸塚→平塚→角塚の順で造られたとされます。そして、各古墳の石室構造の特徴は次の通りです。

大野原古墳の比較表

ここからは、母神山の鑵子塚古墳と大野原で最初に造られた椀貸塚古墳は、九州色が強く連続性があること、それに対して平塚・角塚は、複室構造から単室構造への変化など、畿内色が強くなっていることが分かります。この背景については、次のようなことが考えられます。
①瀬戸内海交易の後ろ盾の変化、つまり九州勢力から畿内勢力への乗り換え
②畿内勢力内部での権力抗争(葛城氏や物部氏 VS 蘇我氏)にともなう三豊郁での勢力関係の変化
これについては、また別の機会にして先を急ぎます。
山崎氏は、角塚古墳を典型例として「角塚型石室」の拡大について次のように記します。
①瀬戸内海沿岸各地で角塚と同じタイプの石室が造られているので、その典型例である角塚をもって角塚型石室とする。
②角塚型石室が造られるようになるプロセスは、地方豪族と中央有力豪族との疑似血縁関係が強化され、同族意識が生まれてくる時期と重なる
③角塚型石室は玄門立柱を保持し、平塚からの形態変化を追うことができる
④吉備以東の石室は、急激な畿内型化するが、讃岐以西についてはヤマト政権との一元的な従属関係におかれず、九州との関連を強く持ち、なお相対的自立性を保持していた

角塚式石室をもつ古墳分布図
           角塚型石室をもつ古墳分布図
A 7世紀初頭 広島県梅木平古墳・愛媛県宝洞山1号墳
B 7世紀前半 山口県防府市岩畠1号墳
C 7世紀中期 角塚(大野原)、愛媛県川之江市向山1号境
D 7世紀後半 広島県大坊古墳
造営時期は、7世紀初頭から後半までで、約40年程度の年代差があるようです。
角塚型石室は「九州からの系譜をひきつつ、複室構造石室が瀬戸内で独自に変化した石室」(中里2009)とされます。
その分布を見ると瀬戸内海を中心に分布していることが分かります。特に観音寺周辺に集中しています。また、これらの古墳は離れていても、平面規格や構築方法に共通点があります。つまり、石室築造についての情報が共有されていたことが分かります。それは同系列の技術者集団によって、同じ設計図から作られたということです。
     
それでは角塚型石室を持つ高知平野西端の朝倉古墳を見ていくことにします。

土佐の首長墓の移動
高知平野の盟主古墳の移動 小連古墳から朝倉古墳に7世紀前半に移動
朝倉古墳は高知平野の西端にあって、仁淀川を遡るとて瀬戸内へ抜けるルートがあったようです。それは現在の国道194号と重なりあうルートで、西条市や四国中央市に繋がるものだったことが考えられます。
 7世紀前半の小連古墳から朝倉古墳への盟主古墳の移動を、研究者は次のように考えています。
① 小蓮古墳は四万十市の古津賀古墳や海陽町大里2号墳と石室が類似している。
② 小蓮古墳の被葬者は、太平洋沿岸のルートを掌握していた。
③ その後、太平洋ルートよりも瀬戸内沿岸交流がより重視されるようになる。
④ そんな情勢下で小蓮勢力から、瀬戸内との繋がりの強い朝倉の勢力が盟主的首長の地位を奪取した。
⑤ そして盟主的首長墳は高知平野西端の朝倉吉墳に移動する。
朝倉古墳石室 角塚型石室
朝倉古墳の角塚タイプの横穴式石室
この図からは朝倉古墳について、読み取れることを挙げておきます。
①整った形状の大形石材を多用されている。
②玄室長に対して短縮化した羨道という先行要素を持っている
③上部架構材を含めて、玄門構造は大野原古墳群と類似する。
④奥壁一段、玄室左右側面二段の石積みは角塚古墳に似ている
⑤横架材は巨大化し、左右の玄門立柱で支持する構造は平塚古墳の玄門構造よりも古い
以上から朝倉古墳は、大野原古墳群の角塚と同じような石室を持っていることが分かります。
造営年代は、大野原の平塚や角塚と同時代のものと研究者は考えています。角塚型は先ほど見たように、角塚古墳をモデルとした瀬戸内を中心に分布する石室型式です。そうすると朝倉吉墳の石室は、瀬戸内の影響を受けて成立した可能性が高いことになります。ここからは朝倉古墳が瀬戸内の勢力と結びついて、畿内や瀬戸内海の政治的変動と連動して土佐の盟主的首長墳の移動が行われたとことがうかがえます。
高知平野の盟主墓の築造変遷をまとめておきます。
①土佐の古墳は、前期後半に幡多地域に出現する。
②中期前葉には幡多地域での首長墳築造は途絶え、新たに高知平野に古墳が築造される。
③後期になると横穴式石室墳が高知平野を中心として展開し、古墳数が増加する。
④後期後半から終末期にかけて伏原大塚古墳→小蓮古墳→朝倉吉墳と高知平野の盟主的首長墳は
築造場所を移動する。
⑤朝倉古墳は角塚型石室を持ち、この石室は瀬戸内の勢力と関係し、近畿の勢力にも通じる。
⑥小蓮古墳から朝倉古墳への盟主権の移動は、畿内勢力の動向が影響を及ぼしている。
 
角塚型石室の標識となる角塚古墳は、観音寺市の大野原古墳群の最後の大型巨石墳で、最大の方墳とされます。

角塚古墳 平面測量図
角塚平面図

三豊地域では椀貸塚・平塚・角塚という巨石墳が続いて3つ築造され、他地域と比較しても突出した勢力がいたことは最初に見た通りです。ところが三豊地域は、前期には前方後円墳もなく、後期前半までは首長墳らしいものはありませんでした。それが後期後半になると、突然のように大型巨石墳が姿を現します。これはそれまでの勢力とは異なる「新興の勢力」の登場と、研究者は考えています。そして、次の段階には、他地域で大型古墳群は作られなくなります。その中で角塚だけが造られます。

三豊に隣接する伊予の宇摩郡(現四国中央市)でも同じような現象が見られます。

宇摩向山1号墳 角塚式石室
宇摩向山1号墳の石室

「角塚型石室」を持つ宇摩向山1号墳は1辺70m×55mの巨大方墳です。宇摩地域は古墳時代後期に東宮山古墳や経ヶ岡古墳という首長墳が築かれ始めます。これは、この地域の新参者で向山1号墳という伊予の盟主的首長墳を登場させます。ここで押さえておきたいのは、讃岐・伊予・土佐では6世紀以降に台頭し、盟主的位置を奪取した首長墳は、角塚型石室を採用しているという共通点があることです。
さらに研究者が注目するのは角塚型石室や角塚型と関係を持つ石室が紀伊にもあることです。
紀伊・有田川町の天満1号墳からは、TK209型式~TK217型式の須恵器が出てきます。
天満1号墳石室
紀伊・有田川町の天満1号墳
奥壁は大きな正方形の鏡石を置き、天丼石までの間に補助的な石材を積んでいたようです。玄門は、立柱石が羨道側にせり出し楯石があります。これまで天満1号墳は、岩橋型石室の変容型とされてきました。これに対して、研究者は「角塚型との類似点」として、角塚型の影響と捉えます。

岩内1号墳 - 古墳マップ

岩内1号墳
                   御坊市・岩内1号墳
御坊市・岩内1号墳も、奥壁や玄室平面形などの類似から天満1号墳の変化形の石室と研究者は考えています。これらの古墳は、紀ノ川流域ではありません。前者は有田川、後者は日高川流域で「紀中」になります。紀中は古墳時代を通して首長墳が築かれなかったエリアで、それまでは「権力の空白地帯」でした。古墳時代後期の紀伊では、岩橋千塚古墳群のように、首長墳は紀ノ川流域に築造されています。その岩橋千塚古墳群が6世紀末には衰退します。それに代わるように紀中に天満1号墳や岩谷1号墳が現れるのです。この2つの古墳は直径約20m。1辺19mと決して大きくはありません。そのため紀伊の盟主的首長墳とするには、無理があるかもしれません。しかし、6世紀代に隆盛を誇った岩橋千塚古墳群の勢力が衰退し、その後に出現した新興勢力であることは言えそうです。こうして見ると角塚型石室の拡散は、四国だけでなく紀伊や近畿の勢力にも及んでいたことが分かります。以上をまとめておくと次の通りです。
①他エリアで首長墳が造られなくなる時期に、新たに台頭してきた新興勢力が盟主的地位を獲得した。
②そうした新興勢力は、角塚型石室の巨石墳を採用した
③ここには首長系譜の変動が瀬戸内から紀伊にかけて連動して見られる
④土佐では、その動きが少し遅れて現れること

7世紀になると紀伊の岩橋千塚古墳群が衰退します。
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                    岩橋千塚古墳群
岩橋千塚古墳群は紀氏の奥津城であったと考えられています。
瀬戸内海の紀伊氏拠点
また、紀氏はヤマト政権下では、瀬戸内航路を掌握した氏族とされます。それに代わるように新興勢力が紀伊から瀬戸内の盟主的位置を占めるようになります。この背景には、交通の大動脈である瀬戸内の交通路の掌握について、紀伊氏に替わる新興勢力が登場してきたことが推測できます。瀬戸内の交通路は、ヤマト政権成立以来の「生命線」でした。そこに新興勢力が台頭してくることは、どんなことを意味しているのでしょうか? これはヤマト政権内部の抗争と無関係ではないはずです。そういう目で見ると、角塚型石室墳を採用した首長系譜の拡大は、ヤマト政権内部の権力抗争とリンクしていたことになります。その背景を推察すれば、朝鮮半島経営に大きな力を持っていた葛城氏の没落と蘇我氏の台頭が考えられます。
 研究者が注目するのは、角壕とほぼ同じ時期に築造された奈良県桜井市市卯基古墳と次のように類似点が多いことですです。
①側壁が一枚石であること
②玄室の長さ・幅・高さが角塚とほぼ同じであること。
③平面形が長方形状で、角壕が長辺:短辺が54m:45 mで、押基が28m:22mで、相似形であること。
④墳丘に段をもたず方錐形であること
ここからは、両古墳が同じ設計図・技術者によって造られた可能性が出てきます。平塚・角塚は、九州色から畿内色へと石室内部が変化していることは、先ほど述べた通りです。その角塚の設計図が大和櫻井の古墳に合って、その設計図と技術者集団によって、角塚は造られたという説も出せそうです。そうだとすれば、大野原勢力の後にいたのは、ヤマト政権中枢部の権力者ということになります。想像は膨らみますが、今回はこのあたりでやめます。

角壕は讃岐における最後の巨石墳です。讃岐でも7世紀中葉ごろに、地方豪族の大墳墓造営は終わります。ところが角壕は、他の地域の盟主の大型古墳が造営を停止した後に方墳として造られたものです。その規模からみても終末段階の古墳の規模としても存在意味は、大きいものがあります。その存在は、さまざまな謎を持っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 古清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳 「古墳時代政権交替論の考古学的再検討」所収
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大野原の3つの古墳群の特徴を、調査報告書(2014年)は、次のように指摘します。

「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」

6世紀後半から7世紀前半にかけて「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」と首長墳が築造し続けた大野原勢力の力の大きさがうかがえます。この時期は、中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に当たります。そして、築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期にも重なります。今回は、大野原に巨大古墳が造られる以前の観音寺エリアの動きを見ていくことにします。テキストは「丹羽佑一 大野原3墳(椀貸塚・平塚・角塚)の被葬者の性格 大野原古墳群1調査報告書2014年87P」です。

 まず、その前史として観音寺エリアの弥生時代の青銅器の出土状況を押さえておきます。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏

ここからは、三豊地区からは銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」が祭礼に用いられていたことが分かります。つまり、それぞれのグループで別々の祭儀方法だったということは、その伝来も別々の地域から手に入れたことになります。さらに云えば、観音寺北エリアには「3種の祭器」で別々の祭礼を行う3つの祭儀集団が混住していたことがうかがえます。ひとつのエリアに「3種の祭器」集団というのは、善通寺と観音寺くらいで全国的にも珍しいようです。ここでは、観音寺エリアでは弥生時代から多角的な交易関係が結ばれていたことを押さえておきます。
それでは、これらの集団の関係は「対抗的」だったのでしょうか、「三位一体的」だったのでしょうか?
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況
善通寺市の青銅器出土地

 善通寺市の瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口・中細形銅矛1口が同時に出土しています。出土地は分かりませんが大麻山からは、大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されていることから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀が行われていたと研究者は考えています。

旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡
道鏡に継承される銅剣・銅鐸
 同じように三豊平野中央部北エリア(財田川中流域)にも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルがちがう3集団がいたことが分かっています。これらの集団は、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成していたと研究者は考えているようです。
 一方、南エリアでは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。彼らはこの時点では、祭器を持つことが出来ずに北エリアに従属する小集団であったようです。ここでは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であったことを押さえておきます。
古墳編年 西讃

次に、観音寺エリアの古噴時代前半の展開を見ておきましょう。
 南エリア東縁の小丘陵にある赤岡山古墳群の第3号墳は、高さ3・5m、直径24mの墳丘規模で、入念な施工です。葺石、大型の天井石の竪穴式石室で、副葬品は彷製鏡1点の出土していますが、須恵器がないので、前期円墳に研究者は分類しています。しかし、この時期には北エリアには古噴は、まだ現れません。

青塚 財田川南の丘陵に位置
財田川の南側の丘陵地帯にある青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が現れるのは、中期の青塚古墳です。

青塚古墳2
青塚古墳(観音寺市)古墳中期

一ノ谷池の西側のこんもりとした岡があり、小さな神社が鎮座しています。そこが青塚古墳の後円部になります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、地域における「祭祀センター」のようです。

青塚古墳旧測量図
青塚古墳測量図(観音寺市誌)

青塚古墳測量図
                     青塚古墳測量図(調査報告書)
①墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m、長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、今は前方部は失われている。
②後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡っていた。
③幅1、2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在
 青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者がヤマト志向でなく、九州勢力との密接な関係がうかがえます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと研究者は考えています。

 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺・有明浜の円墳・丸山古墳です。

丸山古墳 石棺
                   丸山古墳の石室と石棺

初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。

丸山古墳測量図

丸山古墳石室実測図2
丸山古墳の石室測量図
 三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在がうかがえます。
母神山古墳群 三谷地区 瓢箪塚古墳

後期に入ると三豊総合公園のある母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が現れます。
①盾形周濠(幅3~4m)を巡らし、
②墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lm
③瓢箪塚古墳は、中期の青塚古墳を継承する首長のもので、青塚 → 瓢箪塚と続く北エリア前方後円墳群の形成です。
④同時期の前方後円墳が善通寺市の王墓山古墳(墳長約46m)や菊塚

 近年の考古学は、ヤマト政権の成立を次のように考えるようになっています
①卑弥呼死後の倭国では、「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた
②その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められた。
③そして、国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けて手が結ばれた。
④そこでは、吉備も讃岐もその同盟下に入った。
そうすると早い時期に造られた前方後円墳群は、「ヤマト連合政権同盟」に参加した首長達のモニュメントとも言えます。
A 古墳時代初期 讃岐では瀬戸内海沿いに東から、津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せる
B 古墳墳中期  内陸部に進出し、平野を基盤にした豪族諸連合の統合が進む。そのモニュメントとして各平野最大の前方後円墳が築造される。
C 古墳後期   善通寺市域を除いて前方後円墳の築造が終わる。
つまり、前方後円墳は地域の豪族の連合を代表する首長墓として造られ始め、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わるというのが現在の定説です。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、後期になっても善通寺と同じテンポで前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、やっと前方後円墳は終了します。それに続いて横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
それが北エリアの母神山の三豊総合公園の中にある錐子塚古墳です。

母神)鑵子塚古墳 - 古墳マップ
鑵子塚古墳(古墳後期)
この古墳は、後期母神山古墳群の草分けとなります。前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、北エリアの豪族長の墓域は変わらなかったようです。
 ところが突然のように、墓域が南エリア(大野原)に移ります。錐子塚の次の首長墓は南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。それまで豪族長の墳墓のなかった南エリアに周濠の径が70mもある県下最大の横穴式石室墳が突如出現します。
それまで、大型古墳を築造できなかった後進エリアの大野原に碗貸塚が現れる背景は何なのでしょうか?
 三豊平野では母神山に錐子塚が築造されたのを先駆けとして、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られ始めます。

1大野原古墳 比較図

 その中心が大野原3墳です。研究者は、横穴式石室の形式の展開と時間的・空間的位置関係(変遷と分布)を見ていくことで、その社会的性格を明らかにしていきます。  それは、次回に紹介します
以上をまとめておきます
①青銅器の出土状況からは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であった
②観音寺地区に前期前方後円墳は現れない。ヤマト連合国家の形成に関わっていない?
③最初の中期前方後円墳は青塚で、阿蘇溶結凝灰岩の石棺が使用されており九州色が強い、
④丸山古墳は、初期横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されている。
⑤丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓で、共に九州色が強い。
⑥古墳後期になると讃岐では善通寺地区の王墓山・菊塚以外には前方後円墳が造られなくなる
⑦ところが北エリアの母神山丘陵に青塚古墳を継承する首長糞として前方後円墳・瓢箪塚古墳が造られる。
⑧瓢箪塚古墳は、後期母神山古墳群の草分けで、以後は母神山が観音寺地区の墓域となり、有力者の墓が、前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へとスタイルを変えながら作り続けられる。
⑨それが6世紀後半になると、中央の蘇我氏の台頭と呼応するかのように、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐の風流雨乞踊りの伝播について、私は次のような仮説を考えています。
滝宮念仏踊りの変遷

①滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)の別当寺である龍燈院滝宮寺の社僧達は、蘇民将来の札などを配布することで信仰圏を拡げた。
②その際に社僧達(修験者・聖)たちは、祖先供養として念仏踊りを伝えた。
③こうして滝宮周辺では郷を越えた規模で踊組が形成され、郷社などに奉納されるようになった。
④それが牛頭信仰の中心地である滝宮に奉納されるようになった。
⑤生駒藩は、これを保護奨励したために滝宮への踊り込みは、大きなレクレーションとして成長した。
⑥一方、高松初代藩主・松平頼重は、この踊りを統制コントロールし、「雨乞踊り」として整備した。
⑦そのため滝宮念仏踊りは、もともとは風流念仏踊りであったが、次第に雨乞い念仏踊りとされるようになった。

この中で史料がないのが②です。滝宮念仏踊りの由来には次のように伝えられています。
A 菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになった
B 法然上人が雨乞いのための念仏踊りを伝えた
これでは②の「社僧達(修験者・聖)たちが、祖先供養として念仏踊りを伝えた。」という仮説を裏付けることはできません。そこで「迂回ルート」として、滝宮周辺の念仏踊りや風流踊りについて調べています。今回は、讃岐西端の豊浜の和田・姫浜と大野原の田野々に伝わる風流系雨乞踊りを見ていくことにします。テキストは   「和田雨乞踊り・姫浜・田野々雨乞い踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
この3つの雨乞踊は、伝承系統が同じと研究者は考えています。
それはひとりの「芸能伝達者」によって伝えられたとされているからです。どんな人物が、この地にこれらの風流雨乞い踊りを伝えたのでしょうか。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町和田道溝(みちぶち)
和田の道溝集落の壬申岡墓地に、薩摩法師の宝医印塔と墓碑があります。そこには、次のように記されています。
往古夏大旱、和田村庶民之を憂ふ。法師をして祈らしむ。法師はもと薩摩の人。自ら踊り其の村民に教へて雨を祈り、壬生岡に念ずる頃、 これ天乃ち雨ふり、年則ち大いに熟す。

  意訳変換しておくと
昔、大旱魃で和田村の人達が苦しんでいると、薩摩の法師が人々に、踊りを教えて壬生岡で雨乞祈願すると、雨が降り、その年は豊作となった。

ここには薩摩法師が歌と踊りを村人に教えて、雨乞祈願させたのに始まるとあります。そして墓の建立世話人には和田、姫浜、田野々の人々の名前が連なっています。

和田・田野々
和田・姫浜・田野々
 以上からは、3つの雨乞踊りが薩摩法師という廻国聖によって運ばれて来たことが裏付けられます。ただ、この「芸能伝播者」が「薩摩法師」だったかどうかについては疑問があるようです。「薩摩法師」説は、歌の中に次のような「薩摩」という歌があることから来ています。
薩摩

内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。この歌詞を早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性を武田明氏は指摘します。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。どちらにしても、和田、田野々などの踊り歌は、遍歴の「芸能伝達者」によってもたらされたことになります。
①踊りの歌詞が共に、慶長年間に和田にやってきた薩摩法師が伝えたとされること。
②曲目も「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられること。
以上を押さえておきます。
和田風流踊り 西讃府誌
    和田雨乞い踊り(西讃府誌)
和田雨乞い踊りについて、西讃府誌は次のように記します。

姫濱和田ナドニモ雨乞ノ踊舞ァリ、姫濱ナルヲ屋形トイヒ、和田ナルフ雨花卜云、踊ノサマハカハリタルコトナケンド、歌ノ、同ジカラズ。其サマ太鼓扱打八人、花笠ヲカツキ、太鼓を胸二結付、蝶脚(ておい)絆ヲナシ、鞋ヲ着テ輪ヲナシテ廻リ立、コレガ間二音頭ノ者数人交リ立テ、鼓ノ曲節ノマヽニウタフ、サテ其外ノ廻リニ、編笠ヲカプキタルガ、数十人メグリ立テ踊ル。其外二童子敷十人、叉編笠ヲキテメグリ踊ナリ、
 
    意訳変換しておくと
姫浜と和田には雨乞踊りがあり、姫浜のものを屋形踊り、和田のものを雨花踊りと呼ぶ。両者の踊りに違いはないが、歌詞が異なる所はある。芸態は太鼓打8人で、花笠を被り、太鼓を胸二に結びつけ、蝶脚(ておい)絆を着けて、鞋を履いて丸く輪を作る。この間に音頭(歌歌い)数人が入って、太鼓に合わせて歌う。その外廻りには、編笠を被った数十人が囲んで踊る。その外に童子が数十人、編笠を着て踊る。

ここからは 太鼓打が八人、音頭の者数人が中央にまとまり、その外側に数十人が輪を作り、その外に子供たちがまた数十人めぐって、二重の円陣の踊ったことが分かります。これは隊形や歌詞などから、もともとは盆踊りとして踊られていたものであったことが分かります。

和田風流踊の歌詞は、近世初期の歌謡だと研究者は指摘します。
その多くが綾子踊と同じ系統の風流小歌踊の歌詞です。第1章「雨花」のなかには、次のように地元の地名が出てきます。
大谷山にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり。
伊吹の嶋にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり
ここには「大谷山」や「伊吹島」のような地元の地名が出てきて、郷土色を感じさせます。しかし、それ以外には讃岐や三豊の地域性を感じさせるものはありません。各地の港を廻遊する船頭の目から見た「港町ブルース」のような感じです。定住者の目ではなく「旅する者の意識」で歌われていると研究者は指摘します。以下を簡単に見ておくと
第8章の「濃紅」は、寺の小姓との衆道の情調
和田風流踊り 濃紅
第2章の「屋形」・第11章の「めてた」は、屋敷褒めの歌です。
和田風流踊り 11番目立度

「めてた」の中に、次のように「歌連歌」という言葉が出てきます。

こなたのお手いを見てあれは、諸国のさむらひ集りて、弓張りほふ丁、歌連歌、たいこのがくうつ人もあり。

武士が歌連歌に興ずるのは、室町か江戸初期の風俗です。ここからもこの歌詞の時代がうかがえます。また次のような句法は、江戸時代初期の歌謡によく使われたようです。
雨ばなをどりを一をどり一をどり、       (第二章「雨花」)
やかたのをどりを一をどり一をどり、    (第二章「屋形」)
四季のをどりをいぎをどろふや、           (第二章「四季」)
さつまのをどりを一をどり一をどり、    (第五章「薩摩」)
とのこのをどりを一をどり一をどり、    (第九章「御段」)
以上からは、和田の風流踊は中世末から近世にかけて歌われていた風流歌であると研究者は考えています。私が注目するのは、次の記述です。
   (和田の)雨花踊は、雨乞踊というよりも、それ以上に雨乞御礼踊としてよく踊られたという。舞踊の振に舞の手があるといわれ、また子供も交わって踊るはなやいだ気分のものであり、多くの盆踊りと同じく中央に歌い手と囃子がおり、その周囲を踊り手が廻る形である。
ここでは和田の雨花踊は、「①中世の風流踊り → 雨乞御礼踊(成就お礼踊) → 雨乞踊」と変遷してきたことを押さえておきます。

豊浜国友寺
国祐寺(豊浜町台山)
雨乞祈願が行われた国祐寺には、次のような記録が残っています。
第15世松樹院日豊(安永三丙午八月廿六日没)が書き残した「新宮両社建立諸記」に次のように記されています。
宝歴十二壬午五月十六ノ暁ヨリ十八日迄二夜三日台山龍王ニテ雨請ス
同五日廿二日雨請礼踊在之候依之廿日二村之五人頭岡之停兵衛使二而案内申来候而廿一日之昼ヨリ村人足二催領人岡伝兵衛相添寺内之掃除二参申候。(注記「躍子太鼓打昇り持ニハ握飯二ツナラシニ遣シ申候」)
宝歴十二年六月廿五日 雨請之踊在之廿二日之昼五人頭太四郎使二雨申来候掃除人足水打人足如前。
意訳変換しておくと
宝歴十二(1762)年5月16日の暁から18日まで2夜3日に渡って台山の龍王社で雨請を行った。5月22日に雨請成就のお礼踊が行われることになり、20日に五人頭の岡之伝兵衛が、21日昼より国裕寺の寺内の掃除を人足達と行う事を伝えにやってきた。注記、「踊子と太鼓打と幟持には握飯2つを配布すると云った」)
宝歴十二(1762)年6月25日 五人頭の太四郎が使者としてやってきて、雨請踊を22日昼に行う。ついては、掃除人足・水打人足については前例通りと告げた。
台山の龍王社に籠って、雨乞いをして、雨が降ると雨乞成就のお礼として、踊りが踊られています。
明和三戌六月七日雨請踊在之候急之儀二而躍子笠なしにてをどり申候此方二而者宮斗二而済申候八日昼時分より雨ふり申候得共少々斗に而在之候
十日雨請之礼躍在之候
同月十七日之暁より十九日迄ニ二夜三日之雨請也 富山之龍王江籠り申候
六月廿六日礼躍在之候
七月十八日より同廿日迄二夜三日雨請いたし申候―八日七ツ時台山にて躍諸役人中は直に宮江籠申
  意訳変換しておくと
明和三(1783)年6月7日雨乞踊が急遽行われることになり、踊り子の中には、笠がないままで踊った者もいたという。この時には翌日の8日昼頃から雨が降った。しかし、少量であった。
10日に雨乞成就のお礼踊りを行った
6月17日の暁から19日までの2夜3日、当国裕寺の龍王へ籠もり雨乞を行った。
6月26日 (雨が降ったので)お礼踊りを行った
7月18日から20日まで二夜三日、雨請祈願を行った。18日七ツ時に、台山で踊諸役人たちは宮(龍王社)へ籠った。

  ここからは次のような事が分かります。
①18世紀後半に豊浜の和田では、旱魃の時には台山の龍王祠で雨乞いが行われていた
②そして雨が降ると台山の国裕寺の境内で雨乞成就のお礼踊りが奉納されていた
この史料からは、宝暦、明和のころには、国祐寺での雨請祈祷に合わせて、雨乞踊やその御礼踊が盛んに行われいこたことを押さえておきます。

安政五年に脱稿したという丸亀藩の「西讃府志」に「屋形雨花」として歌詞とともに記録せられています。ここからは安政5年頃にも、和田ではこの踊りが盛大に踊られていたことが分かります。古老の話として伝えられる所によると、和田の風流踊は、もとは和田だけでなく、姫浜および田野々の三地区が一体となって、高尾山の龍王祠で行われたと云います。田野々は高尾山の裏側の大野原町五郷の集落になります。龍王を祀る山の裏と表の両方で、善女龍王信仰が根付き、そこで同じ風流踊りが雨乞いお礼踊りとして踊られていたことを押さえておきます。
  1977(昭和52)年11月23日に行われた香川県教育委員会主催の「ふるさとのつどい」の民俗芸能発表会に出演した記録が次のように残されています。
「奉祈雨元祖薩摩法師和田村道溝講中 ①昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟を先頭に押し立てて、青年団員に指導されて、四十名の小学生の踊り子達が一列に入場して来る。踊子の服装は、紺がすりに赤い欅、日本手繊ざあねさんかぶりをし、ボール紙て作ったたつころばちの形の笠をかぶる。そして赤い手おおいに、水色のきやはんをつけて、胸に締太鼓を掛け、二本の檸を持って、その太鼓を打ちつつ踊る。入場の時には、「宿入り」の歌に合わせて入る。歌い手は、ずっと青年団の者(西原芳正氏)が勤めた。先頭に立った幟持ちが、まず会場の中央に幟を持って立ち、その傍に台に乗せた太鼓を置き、一人の男の打手(青年団)が、二本の標を持って構える。その周囲を四十名の踊子達が円陣に並び、左の方へ右廻りに廻りつつ踊る。歌い手は、円陣の外側正面の所に立って歌う。踊りは、太鼓の、カンカン トコトン トントコトントコ トントコトンという一区切りごとに、同じ振りを繰り返してゆく。踊の歌は十二章まであるが、その一章ごとに踊の振りはかわってゆく。また曲打ちというのがあって、太鼓の曲だけとなりそれに踊を合わせるというところもある。
踊子は男女の子連に少し女子青年も交っていたが、昔は男だけで踊り、ゆかた禅がけでたっころばち(たからばち)も紙製ではなく、本物をかぶったという。歌い手も、円陣の外側に立つのではなく、円陣の中であった。
①「昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟」というのは、昭頭家和の大旱魃の年に、県の通達で雨乞祈祷や踊りを復活実施したときに、作られた幟でしょう。
それより前の大正の大旱魃があった大正12年8月には、御礼踊として、以下の順で奉納されています。
①和田浜の高尾山の龍王桐(八大龍王)の前
②台山の龍王祠(国祐寺の西)の前
③壬生(にぶ)岡墓地の薩摩法師宝筐印塔前
④和田小学校の校庭で総踊り
この四場所が踊の場所として昔から一般的だったようです。

  大正12年の大旱魃の時にも、県が雨乞踊りの復活実施を通達しています。そのため明治以来、踊られなくなっていた雨乞踊りが各地で復活したことは、以前にお話ししました。前回お話した山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りもこの時に復活したものです。

大正12年雨乞いの御礼踊に、少年として参加した蔦原寿男氏の言葉が次のように載せられています。
あの時も、たしか二重の輪の踊で、総踊というにふさわしいほどの大勢であった。和田地区は、その中央を流れる吉田川を境に、川東組(雲岡・長谷・道溝・梶谷の各部落)と川西組(太村・大平木・直場・岡の各部落)の二つに分れている。それぞれ60名位の組が、東西の龍王宮に参請し、踊を奉納して下山し、国祐寺で両組が合流し、その西の龍王祠(雨龍神社)に八大龍王の幟を建て、その大前で、踊を奉納、終りに今の豊浜南小学校の校庭で、大円陣を作って踊った。お礼踊であるから近郷近在からの見物人は、秋祭の人出をしのぐ程盛大であった。

  以上 和田風流踊りについてまとめておきます。
①和田・姫浜・田野々の風流踊りは、曲目や歌詞が同じであることから同一系のものであること
②それはどの由来も薩摩(琵琶)法師によって伝えられ、墓標が残されていることからも裏付けられる。
③ここからは廻国の薩摩法師が和田地区に住み着き、祖先供養を行い信者を増やしたこと
④その過程で芸能伝達者として、先祖供養の盆踊りとして風流踊りを伝えたこと。
⑤それが台山の龍王祠でも雨乞成就のお礼踊りに転用され、後には雨乞い踊りへと変化していったこと
風流踊り → 先祖供養の盆踊り → 雨乞成就の返礼踊り → 雨乞踊りへと変遷していく姿が見えてきます。これが財田のさいさい踊りなどをへ影響を与え、佐文綾子踊りへとつながるのではないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年
参考文献 「和田念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」

追記 15世紀に仁尾では、風流踊りが踊られていたことが史料からわかるようです。
覚城院文書の文明14年(1482)の細川元国(政国)禁制に次のように記されています。

「於当院門前、風流・庭堀土事」

ここに記された風流とは風流踊りのことです。それが覚城院の門前では禁止されています。風流踊りは、平安時代末期から始まり、鎌倉時代にかけて京都で流行し、次第に全国の町場に広かっていきます。最盛期を迎えるのが安土・桃山時代であったようです。風流とは、元来華美な衣装を着て、囃子・歌・かけ声を発しながら踊るもので、室町時代になると華やかに仮装した踊り子たちが、風流傘を中心に周りを囲み笛・太鼓など楽器や小道具を使った伴奏に興じて踊るようになります。京都では、仁治元年(1240)に最初の風流禁止令が出されますが、庶民の流行を止めることはできません。こうした中で応仁の乱後の仁尾の覚城院門前では、人々が風流踊りに興じていたことが分かります。その踊りがどんなものであったについては、何も分かりません。一遍上人の「踊り念仏」が風流化し、念仏踊りや念仏を伴わない盆踊りとして、背後の三豊の村々に伝わり、それが雨乞い踊りなどと習合したり 影響しあって伝承されてきたと研究者は考えています。
ちなみに、この覚城院の禁制には「江尻覚城院」と書かれています。覚城院は、賀茂神社の別当寺院で、もともとは、江尻川の河口にあったとされます。『仁尾村誌』に 「仁尾城天正四年現在ノ覚城院ノ地」とあるので、覚城院は、戦国時代にあったとされる仁尾城の跡地に、移転したと研究者は考えています。

観音寺茂木町 地図
観音寺市茂木町
財田川河口から少し遡った 観音寺市の茂木町には、かつては何軒もの鍛冶屋が並んでいたようです。鍛冶屋の親方が、近郷の村々の馴染みの農民たちが使う農具や刃物を提供したり、修理を行っていました。茂木町は鍛冶屋町でもあったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市
鍛冶屋の風景(滋賀県長浜市)
親方たちは、農具を預かって修理を行うと同時に、農家の二男三男等を弟子として預かり、一人前に育てたようです。鍛冶屋の技術は江戸時代頃から親方のもとで技術を磨く徒弟制度の中ではぐくまれました。義務教育を終えて徒弟に入り、フイゴの火起こしの雑用から始めて、次第に難しい技術を身につけ、それを磨いてきます。技術習得には四、五年の年期がかかったようです。一人前になると、礼奉公の意味で半年か一年居候し、親方からの「年祝ひ」の手製の鍛冶道具をもらって、それぞれの地へ巣立っていったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市の鍛冶

 農具は鍛冶屋に注文し、鍛冶屋で何度も修理して長く使うというのが当たり前でした。モノによっては「一生モノ」もあったようです。農具は、使い捨てではなかったのです。

観音寺茂木町 鍛冶屋 (滋賀県)

戦前の茂木町の鍛冶屋の親方たちは、近郷の農家を年に何回か「出張営業」したようです。
 「日役」で「サイに寸をする」などの注文をその場で行います。これが「居職かじ」です。これを農民たちは「鍛冶屋を使う」と言いました。大百姓は単独で、小百姓は何軒か組んで鍛冶屋を雇ってくることもあったようです。
鍛冶屋
村の鍛冶屋 

「出張営業」の依頼を受けた親方は、小道具をフゴに入れて弟子に天秤捧をかつがせ農家を巡回します。一日の手間賃は、米五升ぐらいが通り相場だったようです。親方のもとで技術を磨いた近郷の二男三男達は、それぞれの自分の出身地に帰り、鍛冶屋を開きます。そのため親方への「出張営業」は減ってきます。そのため、製品を作り商いにその活路を見出すことを求められるようになります。
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岐阜関市の刃物市

 当時は神社仏閣の催しごとがイベントの中心で、人が集まりました。そこには昔から市が立ち、住民のいろいろな生活用品が売られてきました。農機具や刃物も、祭りの市で売られるようになります。茂木町の鍛冶屋が荷車を引いて「出店」した市は、次のようなものです。
本山寺
大野原の八幡宮
仁尾の覚域院
金刀比羅宮
これ以外にも、年に数回は寺社のお祭りで商いをしたようです。

鍛冶屋には「フイゴ祀り」という独自の祭りがありました。

箱フイゴ
箱フイゴ
フイゴは、鉄を加工するために欠かせない道具の一つでした。農具などの鉄製品を造るためには、まずは材料の鉄を加工しやすいように溶かさなければなりません。そのためには強い火力が必要であり、その火力を強める風を炉に送る道具がフイゴです。
 鍛冶屋でのフイゴ祭りのことが次のように記されています。

観音寺茂木町 フイゴ祀り
フイゴ祭り

  フイゴ(鞴)を使う鍛冶屋では、鍛冶屋の神様として守護神金山彦命(かなやまひこのみこと)と迦具土神(かぐつちのかみ)を御祭りしました。大正10年(1921年)頃の記録では、毎年11月8日には仕事を休みんで、フイゴ鞴場の清掃をして注連縄を張り餅等を供え、夕食時にはお祭りの料理を整えて、出入りの職人たちをを招き、家付きの徒弟等も交えて酒宴を催し、近所の子供達にも蜜柑を配ったりしたのでした。(中略)
観音寺茂木町 フイゴ3
黄色マーカーで囲んだのが箱フイゴ

 また近郷村への「日役」の際に、鍛冶屋が使った火口は牛小屋に吊すと、牛が病気をしない魔除けとして信じられていて珍重されたようです。
 三豊の農家の人たちを支えた鍛冶の活動は戦争によって、引き裂かれます。
総動員体制の「全てのモノを戦場へ」のかけ声の下に、鉄は国家統制の対象となり、鍛冶屋の親方や徒弟は軍事工場に徴用されます。鍬や鎌作りから武器作りへと国家によって「配置転換」されます。
 鍛冶屋が一番盛況を極めたのは、戦後復興の時期だと云います。
食糧生産のために開墾・開田が行われ、山の中まで満州帰りの開拓者たちが入った時です。彼らのとって、農具は生きるための生活必需品でした。鍛冶屋の鉄を打つ音が財田川沿いの鍛冶屋に響いたそうです。しかし、それもつかの間です。耕耘機が登場し、農機具が機械化されるようになると、鍬やとんがは脇に置かれ、出番は少なくなります。同時に鍛冶屋の仕事も減っていきます。幹線道路が広くなり、生まれ変わった茂木町の街並みの中に鍛冶屋の痕跡はなにもありません。しかし、ここでは、鉄を打つ音が高く響いていた時があるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

(瀬戸内海歴史民族資料館年報「西讃の鍛冶職人」(丸野昭善)参照)   観音寺市史874P

近世の三豊郡内では仁保(仁尾)港・三野津港・豊浜港が廻船業者の港として繁盛したようです。中でも仁保港は昔から仁尾酢、仁尾茶の産地で、造酒も丸亀藩の指定産地となっていました。そのため出入りする船も多く「千石船を見たけりや仁尾に行け」といわれたようです。
DSC07201
湛甫があった観音寺裁判所前 
 仁尾に比べて、観音寺港はどうだったのでしょうか。
江戸時代の観音寺港の様子を見ていきます。
観音寺港は、財田川が燧灘に流れ込む河口沿いにいくつかの港が中世に姿を見せるようになることを前回は見ました。江戸時代の様子は「元禄古地図」を見ると、今の裁判所前に堪保(たんぽ=荷揚場)があり、川口(財田川)に川口御番所があったことが分かります。
DSC07205

「官許拝借地」の境界碑が残る湛甫周辺
 各浦には、どのくらいの船があったのでしょうか
  上市浦  加子拾弐軒  舟弐艘
  中洲浦  加千  九軒 舟六艘
  仮屋浦  加千 廿七軒 舟六拾五艘
  下市分  加子  六軒 舟拾七艘
       加千  八軒 漁舟十五
  漁船の数も大小ふくめて総数九〇嫂程度で、その中の65隻は伝馬船であったようです。多い順に並べると仮屋の65隻がずば抜けて多いようです。仮屋は、現在の西本町にあたり、財田川の河口に近く当時の砂州の西端にあたる地域です。東側が「本町」で、漁師たちが作業用の仮屋を多く建てていたところが町場になった伝えられるところです。この地域に漁業や櫂取りなど海の仕事に携わる人々が数多くいたようです。
また、17世紀後半の元禄4年に琴弾神社の別当寺であった神恵院から川口番所に出された文章には次のようにあります。
 伊吹島渡海之事  
     覚
 寺家坊中並家来之者 伊吹嶋江渡海仕候節 
 川口昼夜共二御通可被下候 
 御当地之船二而参候ハ別者昼斗出船可仕候
   元禄四辛未三月     神恵院 印
      観音寺川口御番所中
 右表書之通相改昼夜共 川口出入相違有之門敷もの也
   元禄四年     河口久左衛門 判
           野田三郎左衛門 判
   観音寺川口御番所中

神恵院は、伊吹島の和蔵院を通じて伊吹八幡神社を管轄する立場にありました。伊吹島と観音寺の間には頻繁な人と物の交流が行われていました。その際にいつしか、財田川の河口の番所を通過しない船が現れれるようになってきます。室本港などが使われたのかもしれません。深読みすると、番所に分からないように、モノや人が動き出したことをうかがわせます。そのような動きを規制するためにこの「達し」は出されたようです。この「指導」により今後は番所を通過しなければならないことが確認されています。このように観音寺港に「舟入」を管理する番所が置かれていることは、交易船の出入りも頻繁に行われていたことがうかがえます。
それでは当時の伊吹島の「経済状況」は、どうだったのでしょうか
伊吹島の枡屋の先祖は北前船で財を成し、神社に随身門を寄付しています。弘化禄には
「1702年(元禄15)八月伊吹神門建立、本願三好勘右衛門、甚兵衛」
とあり、三好勘右衛門と甚兵衛の両人が伊吹島の八幡神社の門を寄進したと記します。二人は、後の枡屋一統の先祖に当たる人物で、二隻の相生丸を使って北前交易を行い財を成し、随身門を寄進したと子孫には語り継がれているようです。
この三好家には、寛保年間の文書が残っていて、取引先に越後(新潟)出雲崎の地名や、越後屋・越前屋・椛屋等の問屋名が記されています。 
出雲崎で伊吹島枡屋八郎が取引した商品
観音寺 港2
 
積み荷には、薩摩芋・黒砂糖・半紙・傘・茶碗等で、これらを売って、米を買い求めています。この米を大阪市場に運んでより高い利益を上げていたのでしょう。このように、当時の塩飽諸島が北前交易で栄えていたように、伊吹島も交易で大きな富を築く者が現れ「商業資本蓄積」が進んでいたと云えるようです。
 ちなみに枡屋一統というのは、伊吹島の三好家のグループで主屋・北屋・中等の諸家がこれに所属していたようです。この一族によって、昭和43年に島の八幡神社の随身門の修理が行われたと云います。
このような伊吹島の北前交易による繁栄を、対岸の観音寺も見習ったようです。18世紀半ばになると、観音寺船の北前航路進出を物語る史料が出てきます。
 
観音寺 港3
 浜田市外ノ浦の廻船問屋であった清水家に所蔵されている客船帳「諸国御客船帳」です。これには延享元年(1744)から明治35年(1902)の間に入港した廻船890隻が記載されています。国別、地域別に整理され次のような項目毎の記録があります。
出(だ)シ、帆印(ほじるし)及び船型、船名、船主、船頭名、船頭の出身地、入津日、出帆日、積荷、揚荷、登り、下り、出来事(論船、難破船、約束など)。この港に近づいてきた船の帆印を見て、この船帳で確認すれば、どこのだれの船で、前回はどんな荷を積んできたのかなど、商売に必要な情報がすぐに得られるようになっています。商売に関わる大切な道具なので、大事に箱に入れ保管されていました。
  この船帳には「観音寺港所属船」として6隻が記されています。
   (貨客船)   かんおんじ
住徳丸 近藤屋佐兵衛様  文化五辰五月十六日入津
            くり綿卸売・あし・干鰯卸買
     文右衛門様  同 二十一日出帆 被成候
西宝久丸 旦子屋彦右衛門様文政四巳四月廿二日入津   
伊勢丸 根津屋善兵衛様  弘化四未六月十七日登入津 
             大白蜜砂糖卸売
             十九日出船被成候
伊勢丸 瀬野屋伊右衛門様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売
天神丸 びぜん屋宇三郎様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売 
     宮崎屋利兵衛様
観音丸 あら磯屋忠治郎様  天保四巳三月廿八日下入津 くり綿売
 
ここからは次のような事が分かります。
①18世紀末の寛成年間から天保年間に岩見の浜田港に観音寺船籍の北前船が6隻寄港している
②同一の船主船が定期的に寄港してたようには見えない
③綿・砂糖・塩を売って何日かの後には出港している
④入港月は3月~6月で、讃岐から積んできた物産を販売している
⑤観音寺に北前交易に最低でも6人の船主が参加していた
   つまり、自前の船を持ち北前交易を行う商人達が観音寺にもいたことが分かります。彼らのもたらす交易の富が惜しげもなく琴弾神社や檀那寺に寄進され、観音寺の町場は整えられて行ったのでしょう。
観音寺 交易1

  19世紀になると、大阪と観音寺を結ぶ定期航路的な船も姿を見せます。京都・大阪への買付船につかわれた観音寺中洲浦の三〇石船
  この船は、漁船として登録されていますが三〇石船です。帆は六反から八反ものが多く、船番所で鑑札を受ける際に、帆の大きさによって税金(帆別運上)を納めることになっていました。税率は「帆一反に付銀三分」とされていたようです。
この船は、広嶋屋村上久兵衛と仮屋浦山家屋横山弥兵衛の共有船でした。1804年(享和4)、に大坂への航海がどんな風に行われたのかが記録として残っています。この時にこの船をチャターしたのは「観音寺惣小間物屋中」で、その際の記録と鑑札が、 観音寺市中新町の村上家に残っていました。
観音寺 舟1
表には
讃州観音寺中洲浦 船主久兵衛
漁船三拾石積加子弐人乗
享和四子年正月改組頭彦左衛門
とあり、船籍と船主・積載石30高・乗組員2名と分かります。
裏には
篠原為洽 印
戸祭嘉吉 印
享和四甲子年正月改
観音寺 舟
記録からは、
①観音寺小間物屋組頭格の下市浦の嘉登屋太七郎が音頭を取って
②下市浦から菊屋庄兵衛・塩飽屋嘉助・辰己屋長右衛門の三名、
③酒屋町から広嶋屋要助・広嶋屋惣兵衛の二名、
④上市浦から森田屋太兵衛・山口屋嘉兵衛・広嶋屋儀兵衛、荒物屋佐助の四名、
⑤茂木町から大坂屋林八二一野屋金助・大坂屋嘉兵衛・山口屋重吉の四名、
⑥計一五名が仕入・買積船としてチャターし、
⑦運賃や仕入買品物の品質責任・仕入支払金は現金で支払うこと
などを事前に契約しています。
つまり、小間物屋組合のリーダーが組合員とこの船を貸し切って、大阪に仕入れに出かけているのです。
同時代に伊吹のちょうさ組は太鼓台を大阪の業者に発注し、それを自分の船で引き取りに行っていたことを思い出しました。「ちょっと買付・買物に大阪へ」という感覚が、問屋商人の間にはすでに形成されていたことがうかがえます。
観音寺 淀川30石舟
淀川の30石舟

 当時は大阪からの金比羅船が一日に何隻もやってきくるようになっていました。弥次喜多コンビが金比羅詣でを行うのもこの時期です。民衆の移動が日常的になっていたことが分かります。
 ちなみに、この船も日頃は金毘羅船だったようです。現大阪市東区大川町淀屋橋あたりの北浜淀屋橋から出航し、丸亀問屋の野田屋権八の引合いで丸亀港に金毘羅詣客を運んでいたのです。丸亀で金毘羅客を降ろした後は、観音寺までは地元客を運んでいたのでしょう。丸亀と 観音寺の船賃は、200文と記されています。
80d5108c (1)
弥次・喜多が乗った金比羅船
   安芸・大島・大三島への地回り定期航路
 瀬戸内海の主要航路からはずれて、地廻り(地元の港への寄港)として伊吹島にやってくる北前船もあったようです。しばらく、地元での休養と家族との生活し、船の整備などを行った後に出港していきます。そのルートは、円上島・江ノ島・魚島の附近を通り、伯方島の木浦村沖を通り、大島と大三島の開から斎灘へ出るコースがとられたようです。

観音寺 舟5
 
地図を見ると仁尾や観音寺が燧灘を通じて、西方に開けた港であったことが分かります。このルートを逆に、弥生時代の稲作や古墳時代の阿蘇山の石棺も運ばれてきたのでしょう。そして、古代においては、伊予東部と同じ勢力圏にあったことも頷けます。
   このことを裏付ける難破船の処理覚書があります。
「難破船処理の覚書」1760年(宝暦10)11月30日です
一、讃州丸亀領伊吹嶋粂右衛門船十反帆 船頭水主六人乗去ル廿三日却 伊吹嶋出船 肥前五嶋江罷下り僕処 憚御領海通船之処同日夜二入俄二西風強被成 御当地六ツ峡江乗掛破船仕候 早速御村方江注進仕候得者 船人被召連破船所江御出被下荷物船具ホ迄 御取揚被下本船大痛茂無御座翌廿五日村方江船御漕廻シ被下私自分舟二而為差 荷物も無御座候故 何分御内証二而相済候様二被仰付 可被下段御願中上候処 御聴届被下候所 奉存候 積荷明小樽 菰少々御座候処 不残御取揚被下船具ホ迄少茂紛失無御候 船痛 所作事仕候而無相違請取申候得者 此度之破船二付 御村方江向 後毛頭申分無御座候以上
  宝暦十辰年十一月枡日
            水子 善三郎
            〃  忠丘衛
              ” 万三郎
              ” 太兵衛
              ” 藤 七
            船頭 粂右衛門
   木浦村庄屋 市右衛門殿
       御組頭中
意訳すると
讃岐丸亀藩伊吹島の粂右衛門所有の十反帆船(二百石船)が船頭水主6人を乗せて11月23日に伊吹島を出港して肥前五島列島に向けて航海中に、今治藩伯方島付近に差しかかったところ、突然に強い西風に遭い、座礁破船した。村方へ知らせ、積荷や船具は下ろしましたが、幸いにも船の被害は少なく、25日には付近の港へ船を廻航しました。自分の船でありますし、積荷も被害がありませんので、何分にも「内証」(内々に)扱っていただけるようお願いいたします。
 と船頭と船員が連名で木浦村の庄屋に願い出ています。
この書面を添付して、木浦村の庄屋は、
①難破船の船籍である伊吹島の庄屋
②今治藩の大庄屋と代官・郡奉行
に次のように報告しています

  右船頭口上書之通相違無御座候 以上
 橡州今治領木浦村与頭  儀丘衛 印
           同 伊丘衛 印
          庄屋 市右ヱ門印
   讃州丸亀御領伊吹嶋庄屋
        与作兵衛殿

右破船所江立合相改候処 聊相違無之
船頭願之通内証二而相済メ作事
出来二付OO同晦日 出船申付候 已上
         沖改 庄屋   権八 印
         嶋方大庄屋  村井 嘉平太印
辰十一月晦日
         嶋方代官手代 吉村 弥平治印
         郡奉行手附  木本五左衛門印
  伊吹嶋庄屋
      与作兵衛殿

このように、伊吹島の200石の中型船が九州の五島列島との交易活動を行っていたことが分かります。同時に海難活動について、国内においての普遍的な一定のルールがあり、それに基づいて救難活動や事後処理・報告がスムーズに行われていることがうかがえます。
 明治時代になっても地域経済が大きく変化することはありませんでした。鉄道が観音寺まで通じるのは、半世紀以上経ってからです。それまでは、輸送はもっぱら船に依存するより他なかったのです。そこで地元資本は海運会社を開設し、汽船を就航させ、大阪への新たな航路を開くのです。観音寺からも仁尾や多度津を経て大阪に向かう汽船が姿を現すようになります。
 鉄道がやってくるまでの間が観音寺港が一番栄えた時かもしれません。
 参考文献 観音寺市誌 近世編

    
観音寺湊 復元図1

中世の観音寺湊の復元図です。この湊が河口に浮かぶ巨大な中洲に展開していたことが分かります。
琴弾八幡宮とその別当寺・観音寺の門前町として発展した港町
 観音寺は讃岐国の西端の苅田郡(中世以降は豊田郡に改称)に属し、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世には町場が形成されていたようです。
観音寺琴弾神社絵図
鎌倉後期の「琴弾宮絵縁起」には、琴弾八幡宮が海辺に浮かぶ聖地として描かれています。聖地は人の住むところではないようです。この絵図には、集落は描かれていません。今回は、川のこちら側の人の住む側を見ていくことにします。
観音寺地図1
 財田川と手前の一ノ谷川に挟まれた中洲には、いくつかの浦があり、それぞれに町場をともなって港湾機能をもっていたようです。中洲と琴弾神社と、財田川に架かる橋で結ばれます。この橋から一直線に伸びる街路が町場の横の中心軸となります。そして、中洲上を縦断する街路と交差します。中洲上には「上市や下市」と呼ばれる町場ができています。

観音寺 琴弾神社放生会
 享徳元年(一四五二)の「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(資料21)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。放生会の祭には、各町場の住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたようです。町場を越えて人々を結びつける役割を、琴弾神社は果たしていたようです。
そして各町場は、財田川沿いにそれぞれの港を持ちます。
 文安二年(1455)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記されています。財田川の背後の耕作地から集められた物資がここから積み出されていたことが分かります。そして、いつの頃からかこの中洲全体が、観音寺と呼ばれるようになります。
 かつて財田川沿いには、船が何隻も舫われていたことを思い出します。その中には冬になると広島の福山方面からやって来て、営業を始める牡蠣船もありました。裁判所の前の河岸も、かつては船の荷揚場であったようで、それを示す境界石がいまでも残っています。その側に立つのが西光寺です。立地ロケーションからして、町場の商人達の信仰を一番に集めていたお寺だったことがうかがえます。
 中世の宇多津や仁尾がそうであったように、中核として寺院が建立されます。寺院が、交易・情報センターとして機能していたのです。そういう目で観音寺の財田川沿いの町場を歩いてみると、お寺が多いのに気がつきます。さらに注意してみると、西光寺をはじめ臨済宗派の寺院がいくつもあるのです。気になって調べてみると、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)に属するようです。私にとって、初めて聞く言葉でした。
「聖一派」とは? 
またどうして、同じ宗派のお寺がいくつも建立されたのでしょうか?  国史辞典で開祖を調べてみると
弁円(諡・聖一国師)が京都東福寺を中心に形成した顕密禅三教融合の習合禅
②弁円は駿河国(静岡県)に生まれ,5歳のときに久能山に入り教典,外典の研鑽に努める
③22歳で禅門を志し,上野長楽寺に臨済宗の栄朝を訪ね
④嘉禎1(1235)年4月34歳で入宋。臨済宗大慧派の無準師範に7年間参学,
⑤帰国後,寛元1(1243)年,九条道家の帰依を得て、道家が建立した東福寺の開山第1世となる。
⑥入院後、後嵯峨,亀山両上皇へ授戒を行い、東大寺,天王寺の幹事職を勤める
 当時の朝廷・幕府・旧仏教へ大きな影響力を持った禅僧だったようです。さらに、東山湛照,白雲慧暁,無関玄悟など,のちの五山禅林に関わる人たちに影響を与える弟子を指導しています。この門流を彼の諡から聖一派と呼んでいるようです。
  ここでは教義内容的なことには触れず、弁円の「交易活動」について見ておきましょう。
淳祐二年(1242)、宋から帰国して博多に留まっていた彼のもとに、留学先の径山の大伽藍が火災で焼失した知らせが届きます。彼は直ちに博多商人の謝国明に依頼して良材千枚を径山に贈り届けています。弁円から師範に材木などの財施がなされ、師範からは円爾に墨蹟その他の法施が贈られています。ここには南宋禅僧が仏道達成の証しになるものをあたえると、日本僧が財力をもってその恩義に報いるというパターンがみられます。
 日本僧が財力を持って入宋している例は、栄西や明全・道元らの場合にも見られるようですが、円爾にもうかがえます。彼の第1の保護者は、謝国明ら博多の商人たちで、その支援を受けて中国留学を果たしたのです。そして、資力に任せて最先端の文物を買つけて帰国します。その中には仏典ばかりではく流行の茶道具なども最先端の文物も数多くあったはずです。大商人達たちに布教を行うと同時に、サロンを形成するのです。同時に、彼は博多商人の宋との貿易コンサルタントであったと私は考えています。これは、後の堺の千利休に至るまで変わりません。茶道は、交易業者のたしなみになっていくのです。博多商人の船には、弁円の弟子達が乗り込み宋への留学し、あるときには通訳・医者・航海祈祷師としての役割も果たしたのではないでしょうか。それは、宋王朝に対する対外的活動だけではなく瀬戸内海においても行われます。
 こうして、円爾弁円(聖一国師)を派祖とする聖一派は、京都東福寺や博多を拠点として、各港町に聖一派の寺院ネットワークを形成し、モノと人の交流を行うようになります。観音寺が内海屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の禅僧が博多商人の船に乗ってやって来て、信者を獲得し寺院が創建されていったと考えられます。
 これは、日隆が宇多津に本妙寺を開くのと同じ布教方法です。
日隆は、細川氏の庇護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立しています。いずれも内海屈指の港町であり、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動が行われています。お寺が日宋貿易や瀬戸内海交易のネットワークの中心になっていたのです。その中で僧侶の果たす意味は、宗教的信仰を超え、ビジネスマン、コンサルタント、情報提供など雑多な役割を果たしていたようです。
伊予への弁円(聖一国師)の門下による聖一派の布教を見てみましょう。弁円の師弟関係が愛媛県史に載っています。

観音寺 弁円

①山叟恵雲は
正嘉二年(1258)入宋、円爾門十禅師の一人で正覚門派祖、東福寺五世で宇摩郡土居町関川東福寺派大福寺は、弘安三年(1280)に彼によって開かれたと伝えられます。
②弁円の高弟癡兀(ちこつ)大恵は、
平清盛の遠孫で、東福寺九世で没後仏通禅師号を賜わっています。彼は保国寺(西条市中野、東福寺末)の中興開山とされ、その坐像は重要文化財に指定されています。伊予に巡回してきた禅師を迎えて開山としたと伝えられます。しかし、禅師の伊予来錫説については否定的見解が有力で、臨済宗としての中興開山は二世とされる嶺翁寂雲であると研究者は考えているようです。
③孫弟子に鉄牛継印は、
観念寺(東福寺末、東予市上市)の開祖とされます。もとは時宗による念仏道場だったようですが、元弘二年(1332)元から帰朝して間もない鉄牛を迎えて中興し禅寺としたと伝えられます。鉄牛は諱を継印、越智郡の菅氏の生まれです。晩年の祖師弁円に学んだ後、元王朝に渡り帰朝しています。
④悟庵智徹(ごあんちてつ)近江の人で、
豊後を中心に九州に布教の後で、宇和島にやってきて正平20年(1365)に、西江寺を開きます。また、西光寺も同じような由来を伝えます。
⑤伊予に最も深い関係をもつのは弟子南山士雲の法系のようです。
彼は北条・足利両氏の帰依を受けた当時のMVPです。伊予の河野通盛が遊行上人安国のすすめで南山士雲の下で剃髪して善恵と号したと云われます。この剃髪によって河野通盛は、足利尊氏の知遇を得て、通信以来の伊予の旧領の安堵されたと『予章記』には、次のように記されています。
 建武三年(1336)、通盛は自己の居館を寺院とし、南山士雲の恩顧を重んじてその⑥弟子正堂士顕を長福寺から迎えて善応寺(現東福寺派、北条市河野)を開創した。ちなみに、正堂士顕は渡元して無見に参じて印可を受け、帰国後当時長福寺(東予市北条)にあった。善応寺第二世はその法弟南宗士綱である。
 河野通盛は、足利尊氏への取りなしの御礼として、建立したのが北条市の善応寺のようです。しかし、正堂士顕が長福寺にいたことを記すのは『予章記』のみのようです。同寺の縁起には、河野通有が、弘安の役に戦死した将兵を弔うため、士顕の弟子雲心善洞を開山として弘安四年(1281)に開創したと伝えますが、年代があいません。
⑥正堂士顕を招請開山として応永二一年(1414)に中興したと伝えるのが宗泉寺(美川村大川)です。しかし、正堂士顕の没年は応安六年(1373)とされますので、これも没後のことになります。
⑦南山士雲の弟子中溪一玄は、暦応二年(1339)開創の仏城寺(今治市四村)の開山に迎えられています。さらに、河野通盛によって中興したとされる西念寺(今治市中寺)は、南山士雲を勧請開山としますが、事実上の開山はその法孫枢浴玄機のようです。
 このように中世の伊予には、弁円(聖一国師)の弟子達が多くの寺院を開いたことが分かります。
1高屋神社
高屋神社から望む観音寺市街
讃岐の西端で燧灘に面する観音寺は、西に向かって開かれた港で、古代以来、九州や伊予など瀬戸内海西部との関係が深かった地域です。伊予での禅宗聖一派ネットワークの形成が進むにつれて、その布教エリア内に入ったのでしょう。それが観音寺町場に、聖一派の禅宗寺院が建立された背景と考えられます。
 しかし、なぜいくつもの寺院が必要だったのでしょうか。
宇多津の日蓮宗寺院は本妙寺だけです。しかし、伊予の場合を見ていると、宇和島や今治・北条市などには、複数の聖一派寺院が建立されています。周辺部への拡大とも考えられますが。観音寺では、各町場毎に競い合うように建立されたのではないかと私は考えています。
観音寺の旧市街の狭い街並みを歩いていると、瀬戸の港町の風情を感じます。
観音寺 アイムス焼き

古くから続く乾物屋さんには、伊吹のいりこをはじめ、酒のつまみになるいろいろな乾物があります。アイムス焼き物や山地のカマボコ、路地の中の柳川うどんなどを味わいながらの町場歩きは楽しいものです。そんな町場の荷揚場に面して禅宗聖一派の西光寺はあります。ここがかつての伊予の同宗派の拠点の一つで、ここに禅僧達がもたらす情報やモノが集まっていた時代があったようです。
 以上、これまでのことをまとめておきます。
①中世の財田川と一ノ谷川に挟まれた中洲に、琴弾神社の門前にいくつかの町場が形成された
②定期市から発展した上市・下市・今市などの町場全体が観音寺と呼ばれるようになった。
③各町場は、それぞれ港を持ち瀬戸内海交易を展開した。
④中世には各宗派のお寺が建立されるようになるが、臨済宗聖一派のお寺がいくつかある
⑤これは開祖弁円(聖一国師)の支援者に博多商人が多かったためである。
⑥博多商人の進める日宋貿易や瀬戸内海交易とリンクして聖一派の布教活動はすすめられた。
⑦伊予は開祖弁円の弟子達が活発に布教活動を進め、各港に寺院が建立された。
⑧そのような動きの中で燧灘に開かれた観音寺もそのネットワークに組み込まれ、商人達の中に信者が増えた
⑨それが観音寺にいくつもの聖一派のお寺が作られる背景である

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。

13世紀半ばに、柞田荘が比叡山の日吉社領となり立荘されるまでの過程を見てきました。最後に、日吉神社がどのようにして、柞田荘を支配したのか、その拠点はどこにあったのかを探って見ることにします。

柞田荘 日吉神社2
  日吉神社が分祠される
有力貴族や神社に荘園化されると、その氏神が分祠されるのが通常です。例えば藤原氏は春日神社を、賀茂神社の社領となった仁尾には賀茂神社が分祠されます。柞田荘は日吉神社の社領となったので、当然日吉(枝)神社がやってくることになります。
 『香川県神社誌」には、
「当社は柞田荘が日吉社の社領となったことを契機として分祀された」と記します。編纂当時の氏子は、字下野・八町・油井・大畑・上出在家の390戸とありで、旧柞田村内の神社としては、式内社とみられる山田神社の915戸に次ぐ規模です。荘園化されて以後に荘政所が設けられたとすると、荘園領主である日吉社を分祀した山王の地が候補の第一となると考えるのは当然です。このため
荘政所の一番候補は、荘内の字山王に鎮座する旧村社日枝神社周辺とされてきました。
   国道11号から少し入った所に大きな樟が何本も繁った中に立派な社殿があります。となりには延命寺の境内が隣接します。本殿の裏が、お寺の本堂のようになっています。神仏習合時代は、延命寺が別当寺であったのでしょう。それが明治の神仏分離によって引き離された歴史が伝わってきます。
 神域の前には大きな広場があり、ここが祭礼の時には何台もの「ちょうさ(太鼓台)」が集まってくるのでしょう。この真ん中にある樟の下に「柞田駅」の道標(説明版)が立てられていました。
柞田荘 柞田駅

柞田駅跡と大きな字では書かれていますが、よく読むと「この付近にも柞田駅があったと伝えられます」と断定はしていません。どこにあったかは分かっていません。
しかし、南海道がどこを通っていたかは、次第に明らかになってきました。かつては「伊予街道=南海道跡説」が称えられていましたが、今では南海道は別のルートであったことが分かってきています。太点線が南海道推定ルートになります。高速道路よりもまだ東になります。
柞田荘 日吉神社
  次の候補は「公文明」という小字名です。
これは、日枝神社の北東で柞田川の北側になります。南海道には近い場所です。『香川県神社誌』には、字公文明には、荒魂神社が祀られていたと記します。現在の公文明神社が鎮座する所です。公文名とは、郷や荘などの官人である公文に職分として給付される給田畠からなる名(名田)の呼び名です。ここから、その近辺に公文が住んでいた館があったと研究者は考えているようです。
  13世紀の柞田荘で起きた殺人事件から分かることは?
 柞田荘が立荘されて約30年後の弘安6年(1283)、柞田荘で殺人事件が起きます。これを朝廷に訴えた文書が残っています(祝部成顕申状(『兼仲卿記』紙背文書)
 訴えた人   日吉社の祀官成顕
 訴えられた人 祀官成顕の兄・成貫
 罪状     兄成貫が柞田荘の地頭弘家と地頭代政行と「庄家」に乱入し、成顕の代官仏縁法師を斬り殺した
この殺人事件からは次のような事が分かります。
①近江の日吉社の祀官成顕は、代官仏縁法師を派遣して柞田荘を管理させていた
②代官仏縁法師は「庄屋」で「業務」を行っていた。庄屋が支配拠点であった
③加害者の「弘家」は、柞田荘の地頭。姓は不明。
④近江日吉神社から派遣されていた代官と地元の地頭の間での対立があった背景にある
 13世紀末には、地元「悪党」の台頭で次第に「正常な経営」ができなくなっていることがうかがえます。
 この殺人事件から約60年後のち、南北朝時代の貞和4年(1348)5 月27 日の讃岐守護細川顕氏遵行状には、柞田荘地頭の名前が記されています。そこには
岩田五郎頼国・同兵庫顕国
とあります。また嘉慶元年(1387)11月26日の細川頼有譲状(細川家文書)に
「くにたのちとうしき ゆわたのそうりやうふん」(柞田の地頭職岩田の惣領分)
という地頭の名前が見えます。殺人事件で訴えられた「地頭弘家と地頭代政行」も、この岩田氏の先祖になる人物かもしれません。
 どちらにしても、14世紀には柞田荘の地頭職を岩田氏が世襲するようになり「押領」が行われ、日吉神社の柞田荘経営は困難になっていったと研究者は考えているようです。

  殺人現場の「庄屋」は、柞田荘の「現地支配機関」の荘所・荘政所?
それでは殺人事件の現場となった「庄屋」は、どこにあったのでしょうか?それが先ほど第2候補に挙げた公文明神社です。ここは地図で見ると分かるように、南海道より1〜2坪の近い距離です。南海道と柞田川右岸に沿うことから、柞田駅はここにあったと考える研究者もいます。そして、柞田駅の建物が荘所に転用されたします。立荘後に、すでにあった屋敷を荘政所として使っていたという推察です。このためここが第2候補になるようです。
 ただ次のような問題が残ります。
柞田荘の東側の境界線がほぼ南海道と重なるのに「大路」・「作道」・「大道」などの表記はまったく残っていないことです。たとえば康治2年(1143)8 月19日の太政官牒案(安楽寿院古文書)には、寒川郡富田荘の四至に
「西は限る、石田郷内東寄り艮角、西船木河ならびに石崎南大路南」
弘長3 年(1263)12月日の讃岐国留守所下文写(善通寺文書)には、多度郡生野郷内善通寺領の四至に
「東は限る、善通寺南大門作道通り」、「北は限る、善通寺領五嶽山南麓大道」と、
南海道らしき道が出てきます。
しかし、柞田荘では巽の膀示を打った地点で、単に「道」とのみ書かれているだけです。つまり、南海道と見られる道が 柞田荘内に取り込められているのです。南海道が活発に利用されていたのなら、荘園に取り込まれることはなかったはずです。前回に柞田荘の東側の境界が推定南海道のルートであることを見てきましたが、実際には「南海道」をイメージさせる用語は出てきません。「紀伊郷界」などとしか記されていないようです。
これは何を意味するのでしょうか。
①現南海道推定ルートが間違っている
②南海道の主要機能は、この頃にはほかのルートへ移動していた
というところでしょうか。
南海道は多度・三野両郡境を大日峠で越えていますが、鎌倉時代末期以降、それとは別に両郡境を鳥坂峠で越える「伊予大道」が重要度を増したようです。そして、伊予大道が幹線道路として用いられるようになったことが考えられます。
 確かに母神山の西側の南海道推定ルートを辿ってみると、舌状に張り出した丘をいくつも越えていかなければならず高低差があったことが分かります。それに比べて、現国道11号に隣接して伸びる伊予街道は平坦です。利用者にとっては、伊予大道の方が数段便利だったと思います。直線をあくまで重視した南海道は、利用者の立場に立たない官道で、中世には使われなくなった部分がでてきていたようです。
  以上、柞田荘全体をまとめておくと以上のようになります。
①柞田荘の荘域は、中世的郷である柞田郷の郷域を受け継いだものである
②そのため耕地だけでなく燧灘の漁業権までも含みこんでいた。
③周辺の郷・荘との境界線は、郷界線がそのままつかわれている
④境界は、条里施行地域においては、里界線や官道が用いられている
⑤条里制外で、南方の姫江庄と接する地域においては別の基準線が用いられていた。
⑥柞田郷は、柞田荘の立荘で消滅し、その領域支配は柞田荘に引き継がれた。
⑤柞田荘の拠点である庄家(荘政所)は、「伊予大道」に面した日枝神社の近くの「山王」にあった。
⑥13世紀には南海道はすでに「廃道」状態になっていて、柞田荘に取り込まれている。
⑦南海道に代わって伊予大道が幹線として利用されるようになっていた。

    参考文献
 田中健二  日吉社領讃岐国柞田荘の荘域復元

 
柞田荘 四方標示

前回は柞田荘の立荘が、どんな人たちの手で進められたのかをみてきました。今回は、荘園の境界を見ていくことにします。この荘園は柞田郷がそのまま立荘されたようです。だから、柞田郷の境界が分かると荘園のエリアも分かることになります。
柞田荘 地図

それでは、まず柞田荘の「四至」をもう一度確認しておきましょう。
 注進言上す、日吉社領讃岐国柞田庄四至を堺し、膀示を打つこと。
 一、四至
東は限る、
 紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。
南は限る、
 姫江庄堺 西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。
北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。その堺東西行くの畷まさにこれを通す。
膀示四本                                             
一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならびに本郷・坂本郷・当庄四の辻これを打つ
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
   その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。
一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹島を限る。
   南は姫江庄内埴穴堺。北は当庄園生村堺。
一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。
   鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。
 次のような手順で境界が決められ、東西南北に膀示四本が打たれたことが分かります。
①東の境界線は「紀伊郷境」、北の境界線は「坂本境」で北と東の郷境線が交わる「艮(うしとら)角に「膀示」が打たれます。
②そして、この場所は苅田郡の条里制の「五条七里一坪」の「田地」の中だと記します。
三豊の条里制研究の成果は「五条七里一坪」が現在のどこに当たるかを教えてくれます。現在の柞田上出東北隅、西部養護学校の南側にあたります。地図に艮「五条七里一坪」を書き入れてみると次のようになります。
柞田荘 郡境12

 艮膀示は現在の西部養護学校の東側になります。
この地点の説明が
「紀伊郷並びに山本郷、坂本郷、営庄(柞田荘)、四の辻これを打つ」
です。ここは確かに辻(十字路)になっています。ここに膀示が建てられたのです。どんなものだったのかは分かりませんが、石造のかなり背の高いものだったと勝手に想像しています。

柞田荘 艮付近

艮膀示が打たれた場所は、南海道に面した地点であったようです。
四国の条里制については、次のようなプロセスで作られたことが分かっています
①南海道が一直線に引かれる。
②南海道に直角に郡郷が引かれる
③郡郷に沿って東から順番に条里制の条番が打たれる
④山側(南)から海側(北)に、里番打たれる
三豊においても南海道に直角に三野郡と苅田郡の郡郷が財田川沿いに引かれます。そして、この郡郷に平行に条里制工事は進められていったと研究者は考えているようです。どちらにしても南海道や条里制、そして郷の設置は、非常に人為的で「自然国境的」な要素がみじんも感じられません。

柞田荘 艮付近2
南海道が通過していた艮ポイントとは、どんな場所だったのか探ってみましょう。  
南海道は本山付近で財田川を渡ると、国道11号と重なるように南西へ進みます。国道はパチンコダイナム付近で向きを少し変えますが、南海道はあくまで一直線に進んでいき、現在の西部養護学校付近の艮ポイントまで続きます。地形的には東から伸びてくる舌状の丘陵地帯をいくつも越えて行くことになります。近世の新田開発やため池工事で南海道は寸断され、姿を消していきます。ただ、観音寺池と出作池の間の堤防は、かつての郡郷で南海道跡のようです。この堤防には鴨類が沢山やって来るので、よく鳥見に出かけた思い出があります。この堤防からの景色は素晴らしく、古代の三豊の姿を思い描くには最適の場所です。ここからは東に母神山がすぐそばに見えます。その裾野には、三豊総合運動公園の背の高い体育館があります。公園の中には、以前お話しした6世紀後半の前方後円墳・ひさご塚古墳や横穴式円墳の鑵子塚古墳を盟主とする多くの古墳群が散在するのです。仏教伝来以前の古墳時代の人たちは、死霊は霊山に帰り、祖霊になり子孫を守ると考えたようです。母神山もその霊山であったと私は思っています。
 一ノ谷の青塚 → 母神山のひさご塚・鑵子塚 → 大野原の3つ巨大横穴式古墳
は、同一系統上に考えられ、同一氏族によって造り続けられたと研究者は考えているようです。そうだとすれば、先祖の作った古墳を眺めるように南海道は母神山のすぐ側を通り、そして、大野原の3つの古墳の中を縫うようにルート設定が行われたことにもなります。
 この地域の南海道工事に関わった氏族として考えられるのは・? 現在の所最有力は、紀伊氏ということになりそうです。紀伊氏の先祖が造営してきた古墳に沿うように、南海道があることの意味を考える必要がありそうです。話が飛んだようです。ここでは柞田荘のエリア策定にもどります。

   東南コーナーは「巽(たつみ)角井下村」
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。

巽角は井下村の姫江荘との境の路に打った。路は柞田荘のものである。巽膀示が打たれた場所を上の地図で見てみましょう。分かりやすくするために近世の柞田村の境界線がと南海道が太線で入れてあります。なお、高速道路が出来る前の地図です。
柞田荘 巽

  土井池をぐるりと囲むように旧柞田村と旧大野原村の境界は引かれていたようです。しかし、古代の境界線は直線です。ここから北西の坤角に向かって伸びていきます。
柞田荘 境界3

  巽角(東南)の境は大野原十三塚と柞田の接する辺り

「その境路の巽角これを打つ」とは、どういう意味なのでしょうか。「路は営庄(柞田荘)内なり」と、道の内側に打った、つまりこの道が杵田荘のものだと主張しているようです。この「境路」とは、どんな道なのでしょうか。私は、艮角と同じように、南海道であったと思います。南海道が艮ポイントからからこの巽ポイントまで、真っ直ぐにつながっていて、これが紀伊郷との境界になったのではないでしょうか。南海道の外側に境界線を打てというのは、
南海道はこっち側だとの主張が通ったように思えます。
柞田荘 巽1

南海道は、ここから大野原の3つの古墳に向かってまっすぐに伸びていきます。
  乾(北西)膀示 浜辺にどうやって境界を引いたのか?
一本 乾(いぬい)角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を記しこれを打つ。
 乾(北西)膀示(北西コーナー)は、鈎洲浜に乾膀示を打たと記されます。鈎洲浜(カギノスハマ?)は、当時は何もない砂浜の上で海岸線だったようです。現在、ここがどこに当たるのかも分かりません。
柞田荘 乾20
ここは当時の海岸線だったようです。「海面は参里を限る」とあり、燧灘の海の領有権が認められています。一里がほぼ四キロですから三里で十ニキロでおおよろ伊吹島までになります。この記事から、作田荘は、沖へ三里まで領海を持ち、独占的な漁業が営めたことになります。
次の記述は私には意味不明でした
「ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。」
 研究者は次のように説明してくれます。
畷ナワテは、四条畷というように畦道のこと。浜上の鈎洲浜(カギノスハマ?)は、古作と呼ばれている昔耕作されていた田畑の海側にある。そのため坂本郷とこの荘園との境界に、標識を打ちたいが何も目印がない。そこで行ったのが、次の作業で
①艮膀示(本)と古作畷(末)は坂本郷と杵田荘の境界になっている。
②そこで、本末の両方で狼煙をあげる。
③そして鈎洲浜(カギノスハマ?)の海際を南北に歩く
④陸の方を見ながら移動するとふたつの狼煙の煙が重なりる地点がある。
⑤ここが艮膀示と古作畷の延長線上になるので、ここに乾榜示を打つ。
⑥こうして鈎洲浜に乾膀示が打たれた
この方法は「見通し」といわれて古墳時代にはすでに行われていた測量方法のようです。その「見通し」技法が使われたことが分かります。
   柞田荘は、海にも領有権を持っていた。
 四至では、
「西は限る、大海 海面は伊吹島を限る。」
とあります。乾については
「海面は三里を限る。」
と注記されて、西に広がる燧灘の沖合3里の伊吹島までの海面が立荘されています。
 さらに「実検田畠目録」には、9町余りと5町余りの「網代寄庭二所」が設定されています。ここから「地先水面が四至内として領有されていたこと。そこには「網代」=漁場が設定されていたと、研究者は考えているようです。そうだとすれば柞田は、燧灘に特権的な漁場を持っていたことになります。貢納品を日吉神社に運ぶには海路が使われたでしょうから湊も整備されていた可能性が出てきます。
 なお、伊吹島については、「八幡祀官俗官并所司系図」には、鎌倉時代には石清水社領となっていたことが記されています。さらに、燧灘に面して北から賀茂神社領の仁尾湊、琴弾神社の観音寺湊があったことが分かっています。これに加えて、日吉神社領の柞田湊が交易・漁労の拠点として機能していたことになります。
柞田荘 地図

  東西南北の「角石」(コーナーストーン)をもう一度確認しておきます
時計回りに見ると、①艮(北東)・②巽(南東)・③坤(南西)・④乾(北西)の4ポイントです。
①艮ポイントは、紀伊・山本・坂本3郷と柞田荘との四つ辻に当たる刈田郡5 条7里1坪に
②巽ポイントは、井下村のうち、姫江荘との境界となっている道のさらに東南の角に打たれている。
③乾ポイントは、北側の坂本郷と南側の柞田荘の境となった鈎洲浜に打たれた。
④坤ポイントは、姫江荘内埴穴と園生村との境となっている浜の上に打たれた。

柞田荘 境界
  坤は野都合辺りで埴穴(大野原花稲)と園生村(柞田油井)の境。

しかし、疑問がひとつ浮かんできます。
「東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。」
ここには「苅田川」と聞き慣れない川の名前が出てきました。和名抄に出てくる刈田郡と同じ名前です。しかし、今は苅田川という川はありません。あるのは柞田川です。どう考えればいいのでしょうか?
  研究者は次のように考えているようです。
 柞田川というのは、もとはその郡名にちなんで苅田河と呼ばれていた。しかし、平安時代末期成立の『伊呂波字類抄」に「刈田郡国用豊田字」と見え、「苅田郡」から「豊田郡」に郡名が変わった。そのため苅田郡という呼称が使われなくなると共に、「苅田河」も、いつの時代かに柞田川と呼ばれるようになった。
  つまり今、柞田町のど真ん中を流れている川が古代は苅田川だったということです。そして、この柞田川流域に、ほぼ真四角な形で柞田荘は広がっていたようです。もちろん海のエリアを除くとですが・・・
  以上をまとめておくと
①柞田荘は、古代の柞田郷の郷域を受け継いだものである
②そのため耕地だけでなく燧灘の漁業権までも含みこんでいた。
③周辺の郷・荘との境界線は、郷界線がそのままつかわれている
④境界は、条里施行地域内では里界線や官道が用いられている
⑤条里制外の姫江庄と接する地域においては別の基準線が用いられている。
⑥柞田郷は、柞田荘の立荘で消滅し、その領域支配は柞田荘に引き継がれた。



1大野原地形

讃岐の西の端で燧灘に面して柞田(くにた)荘という荘園が鎌倉時代にできます。その立荘プロセスを追ってみます。
 1 柞田荘はどこにあったの
  柞田町は観音寺市街の南側にあった町名です。古代の『和名抄』の刈田郡の中にあった柞田郷が荘園になった歴史を持ちます。そのために境界ラインが条里制を使って区分けされたようで、いまでも真っ直ぐなところが多いのが地図を見ると分かります。また、柞田郷全体が荘園化され柞田荘になったと研究者は考えているようです。
なお『和名抄』に見える刈田郡の6郡とは次の通りです。
①山本郷は三豊市山本町山本
②紀伊郷は観音寺市木之郷町
③柞田郷は同市柞田町
④坂本郷は同市坂本町
⑤高屋郷は同市高屋町
⑥姫江郷は旧大野原町中姫および旧豊浜町姫浜
  2 讃岐国柞田荘は、いつ、だれによって立荘されたの?
 建長8 年(1256)8 月29日の日吉社領讃岐国四至膀示注文(『続左丞抄』所収文書)に
「去る三月十四日 宣旨により、国使を引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわんぬ。」
とあるので、3 月14 日のことと分かります。そしてその年の夏8月に、讃岐の酷使(役人)立ち会いで、境界線を定め、その4角に膀示(コーナーストーン)を打ち終わったことが報告されています。
柞田荘 境界1

  3 日吉神社の荘園にされるいきさつは?
鎌倉時代末期の元応元年(1319)10月、日吉社領の由来と領主を書き上げた「日吉山工新記」(『続群書類従』に
「讃岐国柞田庄 二宮十禅師大行事長日御供。十禅師不断経二季大般若料所。後嵯峨院御寄付。」
とあります。この史料からは、柞田荘の領有を巡って争いがあり、最終的に後嵯峨上皇より日吉社へ寄付され、建長8 年3 月14 日の宣旨により立荘が公認されたようです。
 ところが、現実はもっと複雑です。実は、九条家の文書の中にも
「朴(柞)田庄 日吉申日御供に寄せらる」
とあるのです。讃岐国内には、「朴田」という地名は、他にはないので「柞田」の誤記と考えられます。とすると、後嵯峨上皇による日吉社への寄付以前に、柞田荘は九条道家より同社へ寄進されていたことになります。 承久の乱後の朝政を主導した九条道家は、当時の讃岐国の知行国主でもありました。彼が讃岐の知行国主であったのは寛喜元年(1229)より建長4 年(1252)に死去するまでの間で、その間に、興福寺領寒川郡神崎荘、石清水社領三野郡本山荘などの荘園を寄進・立荘しています。彼は、四条天皇の外祖父、鎌倉将軍頼経の父という立場で権勢を誇りますが、最終的には執権北条氏に幕府転覆の嫌疑を掛けられ失脚します。道家死去の翌年建長5年の正月、讃岐国は後嵯峨上皇の院分国とされました。このような情勢を見ると、九条道家による柞田荘の寄進・立荘は宣旨を得るなど正式な手続きを経たものではなく、知行国主としての私的なものであったと研究者は考えているようです。
道家の死後、日吉社より後嵯峨上皇に対し、柞田荘の社領としての存続が申請されます。そして、あらためて正式に寄進・立荘の手続きが取られたようです。
  4 荘園化の作業のためにどんな人がやってきたの?
 柞田荘の立荘が認可されると、今度は立券・荘号のための作業が行われます。そのために、日吉社の社家(社務の執行者)の使者が、太政官の担当事務官等とともに讃岐の国府にやってきます。南海道を陸路やって来たのか、瀬戸内海を海路で坂出の松山・林田港国府へやってきたのか興味がわきますが、それを明らかにする史料はありません。彼らは、地元の国府の在庁官人をお供にして現地へ向かい、収納使・惣追捕使・図師などを指揮して、立荘予定地の検地を行なったようです。
 こうした検地によって作られたのが「日吉社領讃岐国柞田庄四至膀示注文」(「続左丞抄』所収文書)と「実検田畠在家目録」になるようです。この2点の文書と添えられた「指図」(柞田荘の絵図)にもとづいて、柞田荘の立券・荘号を認可する手続きが取られました。
  5 どのようにして柞田荘の境界線がひかれたの?
「日吉社領讃岐国柞田庄四至膀示注文」を見てみましょう
 注進言上す、日吉社領讃岐国柞田庄四至を堺し、膀示を打つこと。
一、四至
 東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。
   以南は姫江庄堺。
   南は限る、姫江庄堺
   西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。
   北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。
   その堺東西行くの畷まさにこれを通す。
   膀示四本
一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならび
   に本郷・坂本郷・当庄四の辻これを打つ
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
   その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。
一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹島を限る。
   南は姫江庄内埴穴堺。
   北は当庄園生村堺。
一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。
   鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。
   田畠以下取張(帳)目録一通。
一、 右、去る三月十四日
   引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわんぬ。
   よって注進言上くだんのごとし。
  建長八年八月二十九日 国使散位布師
       散位藤原「朝臣資員」(裏花押)
       散位藤原「朝臣長知」(裏花押)
     官使右史生中原「久景」
     社家 
四至(シイシ)と読みます。東西南北の境界です。
膀示四本(ボウジヨンホン)と読みます。現在もあちこちにボウジという地名が残っています。榜示は境界標識です。これを4本打った場所が記されています。
地図に示すと次のようになるようです。
柞田荘 地図

6 最後に花押(サイン)しているのは、どんな人?
一番最後に「散位藤原朝臣資員」の名前と裏花押があります。ここだけ筆跡が違います。本人のサインです。その下の花押は裏側に書かれています。この藤原資員というのは讃岐の国の役人です。この人は綾氏系図の中に、新居氏として名前があるそうです、讃岐藤原氏は、古代豪族綾氏の系譜をひく一族が中世に武士化して讃岐藤原氏を名乗るようになったと云われます。讃岐では一番勢力のあった武士団ですが、その中に新居氏がいて、国分寺町の新居に地名が残っています。そこにいた豪族です。つまり、讃岐藤原氏の在庁官人が柞田に出向いて立ち会い、サインしているということになるようです。

柞田荘 立荘續左丞抄  国史大系所収000002
その下に散位藤原朝臣長知という名前もあります。
ここも本人のサインがあります。こちらも同じく綾氏系図に載っている人物で、羽床氏になります。綾川中流の滝宮から羽床に架けて勢力を張っていた武士団で羽床城が拠点でした。その羽床氏の先祖になるようです。新居氏も羽床氏も在庁官人として国府に務めながら武士団を形成していたようです。彼らは荘園を立てるときも讃岐の国の役人として出張し、これで間違いがないと二人がサインをしています。
 国府のある讃岐府中から観音寺の祚田までは、南海道を馬を飛ばしてやってきたのでしょうか。この時期には、帯刀していたのでしょうか。いろいろな疑問が沸きますが、それに答える史料はありません。
 下から二番目の「官使右史生中原久景」が京都からやって来た中央官僚になります。そして比叡山日吉神社からも役人がやって来て立ち会っています。一番最後に「社家」というのが見えます。日吉大社は比叡山の守護神ですので、神仏習合のもとでは比叡山の僧侶が管理しています。つまり柞田荘は比叡山の管理下に置かれたということになるのでしょう。やってきた「社家」は僧侶であったのではないかと私は考えています
   この境界線の確定作業につづいて、検地を行います。その際に、建長四年の検地による確定面積が借用されて使われたようです。それらを集計して土地台帳に当たる田畠在家目録が作成されます。
同実検田畠在家目録
 (朱)「この一紙各々破損す。」
 (注進す)建長八年田畠・(在)家・網代・荒野等目録)
 (合)
一、作田百二十三町二段百二十歩 去る建長四年匚
一、作畠四十二町二段百七十歩
  在家五十宇 上八宇 中六宇 下十七宇 下々十九宇 網代寄庭二所 
一所九町余り。
一所五町余り。
    荒野百余町 林野江海池溝淵河などなり。
このようにして、境界内の土地の耕作面積などが記されます。その上に、絵図も作成されています。しかし、この絵図は残念ながら伝わっていないようです。

柞田荘 四方標示

今回はこのくらいにします。次回に柞田荘の「四至」をもう少し詳しく見ていくことにしましょう。
参考文献 田中健二    日吉社領讃岐国柞田荘の荘域復元


 
Ⅰ大野原八幡神社
明治35年(1902)の『香川県讃岐國三豊郡大野原村 鎮座郷社八幡神社之景』です。ここには約120年前の大野原の八幡神社が描かれています。神社の建物、玉垣、石垣等の配置がよく分かりますが現在とあまり変わらないようです。本殿の後ろに碗貸塚古墳があるのですが、それを書き手は意識しているようには見えません。古墳の開口部のあたりを見ると、土塀巡らされて、石垣の中央部には縦長の巨石があるように見えるのが、今とちがうところでしょう。
この図中には「椀貸塚ノ縁由」として、次のように記します。

「相傅ノ昔 塚穴二地主神在リテ 太子殿卜云フ 神霊著シキヲ以テ庶テ穴二入ルモノナシ・・」

 ここからは「椀貸伝説」とともに、横穴(古墳石室)が「奥の院」として神社の聖域とされ、人々の信仰を集めてきたことが分かります。椀貸塚古墳は、大野原八幡神社の本殿の後に神域として祀られてきたために、近世の大野原開発の際にも破壊を免れたと言えます。しかし、無傷で残っているのではないようです。古墳と現在の建築物等の関係はどうなっているのか、測量図をみながら再度確認しておきましょう。
1碗貸塚古墳1
碗貸塚古墳の地形測量図

碗貸塚古墳の測量図を見て分かることを挙げておきます
①大型円墳で、直径37.2m、墳丘高は9.5mの盛土築造である。
②墳丘周囲には二重の周濠と周堤がある。内濠と周堤の幅はほぼ同じで約8m。
③周濠を含めた墓域の直径は70mあり、その占有面積は約3,850㎡。
④石室は両袖式の大型横穴式石室。羨道十前室十玄室(後室)複室構造。
⑤石室規模は全長14.8m、玄室長6.8m、玄室最大幅3.6m 玄室高3.9m、玄室床面積24.6㎡。玄室空間容積は72.7㎡で、全国規模の容量をもつ。
⑥表面観察では葺石や段築は確認できない。
⑧東側には、後から作られた岩倉塚古墳がある。
⑨墳丘南側には大野原八幡神社の本殿、

測量図を見ると、東側も応神社と小学校の校庭として後世に削られていること。また北側の周壕は。慈雲寺墓地となっていることが分かります。
大野原古墳群調査報告書Ⅰ」は、新たな発見として周堤・周壕をもつ古噴であったことを挙げています
中期古墳の前方後円墳では、伝応神陵や伝仁徳陵のように外堤がめぐり、水をたたえている姿をすぐに思い出します。大型の前方後円墳と周壕は、セットとして私たちにインプットされています。しかし、古墳後期になると外堤は姿を消していきます。逆に、古墳後期の大型円墳に周堤があるのは珍しくなるようです。数少ない周堤を持つ大型円墳に共通するのは、国造クラスの各地域の最有力者の墓に用いられているのです。椀貸塚古墳は、巨大な石室と周堤を持ちます。さて、どんな人物が葬られたのでしょうか?
  碗貸塚古墳の復元イメージは、こんな姿になるようです
1碗貸塚古墳2
 椀貸塚古墳は、複室構造の横穴式石室で、これは九州に系譜がたどれるようです。また周堤をもつ大型円墳は豊前や日向に多いようです。ここでも三豊の古墳は、九州との関係を濃密に漂わします。
復元イメージ図から私がすぐに思い出したのは、下の日向の西都原古墳群の鬼の舌古墳です。

1鬼の窟古墳
西都原古墳群の鬼の舌古墳

 こんな古墳が30年おきに3つ大野原の扇状地台地に並んで作られたのです。これは近くの南海道を通る人たちや瀬戸内海をゆく船からも見えたようです。まさに、三豊の新しいモニュメントだったのです。
1周堤古墳

この時期の後期首長墓で周堤をもつ古墳は、九州の西都原古墳群の大型横穴式石室を持つ206号墳のように国造クラスの抜きんでた首長の古墳に限定されます。そこから大野原の首長は「四国地域の大物」よ想定できるようです。

1大野原古墳 比較図

  碗貸塚古墳の次に作られたのは、平塚・角塚のどちらなのでしょうか? 報告書は次のように記します。
「玄室側壁の石積みの段数の変化では、椀貸塚古墳5段→平塚古墳4段→角塚古墳1段となり、段数の減少傾向が認められ、同時に使用石材の巨石化と壁面の平滑化が進行している。」

築造順を「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」としています。

さらに、大野原古墳群のモデルになったのは母神山錐子塚古墳で、それを継承していると研究者は考えているようです。
それでは平塚から見ていきましょう。
 平塚は、八幡神社の御旅所で祭りの舞台にもなります。そのために神輿台や参拝道が作られ封土が削られて薄くなり、石室へ水が浸入しているようです。

1大野原古墳 平塚
①直径50.2mの大型円墳
②墳丘高は現状値で約7m。
③墳丘周囲には幅8.4mの周濠が廻り、それを含めた直径66.7m、その占有面積は約3,490㎡。
④墳丘の大部分は盛土で築造れ、段築・葺石・埴輪は見られない。
⑤両袖式の大型横穴式石室で、玄室の下半1/3程度は流土で埋没。石室規模は、全長は13.2m、玄室長6.5m、玄室最大幅3m玄室高2.6m、玄室床面積18.3㎡、玄室空間容積41.3㎡
次に角塚です。この古墳はその名の通り方墳であることが分かりました。
昭和30年頃に撮影された航空写真では円墳に見え、現在の噴丘表面の大部分は昭和の造成で作られたものであるため方墳か円墳か分かりませんでした。報告書はトレンチ調査から次のように方墳と判断しています。
①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長ヱ4mの規模であり、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳であること
大野原の3つの古墳群の特徴は、何なのでしょうか?
報告書は次のように指摘します。
「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」

さらに、次のような点を挙げます。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
どちらにしても、6世紀後半から7世紀前半にかけて椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と順番に首長墳が築造した大野原勢力の力の大きさがうかがえます。中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に、大野原を拠点とする勢力は讃岐という範囲に留まらず、四国地域内においても突出した存在であったようです。

それでは、大野原の地に巨石墳が築造された理由は、なんなのでしょうか?
6世紀末には、観音寺の豪族連合の長は柞田川を越え、大野原の地に古墳を築くようになります。その中で椀貸塚は、三豊平野史上はじめての「統一政権の誕生」を記念する記念碑です。広い意味では、5世紀後半の各地の豪族統合のシンボルとして出現する各平野最大の前方後円墳と同じ意味を持つと考えることも出来ます。椀貸塚の70mに及ぶ二股周濠、県下最大の石室は、富田古墳や快天塚古墳と同じ、盟主墳を誇示する政治的意味があったのかもしれません。
 大野原3墳には、畿内文化の介入や畿内政権のコントロールがあったと研究者は考えています。その痕跡は、椀貸塚の後に造られた平塚に現れます。ここからは、統合は三豊平野北エリアの豪族連合が進めたものですが、平塚築造に先立ってヤマト政権によってコントロールされていたというのです。それは、有力墓と中位クラス墳、下位クラス墳の区分表示からも分かるようです。ここからは三豊平野の豪族達は、ヤマト政権の身分制度下に組み入れられていたことがうかがえます。それを研究者は「三豊平野の豪族の統合による統一政権は、畿内政権を中枢にした中央政府の三豊支部に位置づけられる」と表現します。

四国最大規模の巨石墳群としての大野原古墳の他地域へ与えた影響は?
 讃岐で最初に横穴式石室を導入したのは観音寺市の有明浜の丸山古墳です。しかし、それに続く盟主墳は横穴式石室を採用していません。それが築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期に、重なるように横穴式石室墳が再び姿を見せます。この時期の石室は、それぞれが特徴的で個性的な様式でモデルがなかったようです。石室用材は小形で、玄室床面積も10㎡を超えるものはありません。

1大野原古墳 比較図

 それが母神山の瓢箪塚古墳に続く盟主墳の錐子塚古墳になると大型横穴式石室が採用されます。
複室両袖型石室で、玄室床面積は12㎡を越え、玄門部と羨道部に立柱石を内側に突出させて配置するタイプです。このタイプの石室が大野原古墳群に引き継がれていきます。そして、使用石材の大型化、前室と羨道の一体化と連動した羨道規模の長大化などの流れができあがります。こうして、「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」の変化の中で作られた様式が讃岐各地の石室に導入されていったと研究者は考えているようです。
 例えば、国府が築かれる綾川下流域の以下の古墳には、大野原古墳群からの影響がうかがえます。
痕跡化した複室構造の新宮古墳
前室と羨道は一体化するが羨道天井部を一段下げて高架した綾織塚古墳
新宮古墳や綾織塚古墳を経て、醍醐2号墳で「完成形」に至るのですが、それは大野原古墳群がたどったルートと同じです。このように讃岐各地の大型石室墳は、大野原の石室がモデルになっていると研究者は考えているようです
 また築造された当時は、椀貸塚、平塚は讃岐最大規模石室をもつ古墳でした。角塚古墳の築造段階も、この大きさの石室は他にはなかったようです。このように「讃岐における横穴式石室の構築、なかでも大型石室墳の構築は大野原古墳群が主導」したと評価することができるようです。
 ところが7世紀後半になると大野原勢力の活動が低調化します。
 確かに南海道が通過し、柞田駅や柞田郷の設置され、古代寺院である青岡大寺(安井廃寺)が建立されます。しかし、それまでのように讃岐の他地域に比べて突出した存在ではなくなります。
対照的に三豊北部の三野郡には、活発な活動を示す勢力が現れ、輝きを増していきます。四国最初の古代寺院・妙音寺を建立する勢力です。この勢力は妙音寺の岡の下を流れる二宮川流域を勢力としてした集団で、畿内型横穴式石室を持つ延命古墳を築いた後は、いち早く古代寺院建立に着手します。その際に必要な瓦生産を開始した宗吉瓦窯跡は、その後藤原宮瓦の生産を始め、官営工房としての役割を担うとともに、今は丸亀平野の池の中に塔石だけが残る宝憧寺にも提供するようになります。

1三豊の古墳地図
 つまり、大野原の勢力が角塚という末期古墳の築造を行っていたときに、三豊北部の勢力は古代寺院の建立を始めていたのです。
それだけではなく中央政府の技術支援を受けて、最新鋭「宗吉瓦」工場を三野に誘致し操業を開始し、藤原京に送り出すという国家事業にも参加していたことになります。こうして見ると7世紀後半の「大化の改新」から「壬申の乱」に架けての時期に、三豊の中心は大野原から笠田・三野に移ったようです。蘇我氏へのクーデター、壬申の乱における天武派と天智派の対立などが地方政治にも影響を及ぼしたことが考えられますが、これ以上の深読みは控えておきましょう。

参考文献 大野原古墳群Ⅰ 観音寺遺跡発掘調査報告書15



 大野原古墳群がある三豊平野南部の地理的な概観を「復習」しておくためのメモと、前回の補足になります。
 
1大野原地形
大野原古墳から南を見ると雲辺寺山(911m)がゆるやかにそびえ、阿讃山系の連なる山脈の盟主の姿を見せます。この山に源を発する祚田川は、五郷の谷間を抜けると扇状地を形成します。その扇状地の中央部の標高30mに大野原古墳群は3つ並んであります。瀬戸内海燧灘の花稲の海岸線までは西方向へ約2.5km、扇状地がはじまる讃岐山脈の山麓部までも同じく約2.5kmで、扇状地のちょうど中間になります。
 祚田川水系に広がる五郷・萩原・紀伊・中姫地区や海岸線に沿う花稲地区は近世以前から開かれた地域のようです。特に花稲はこの地区の港として、瀬戸内海交易を古くから行ってきた記録が残っています。
 大野原地区は、江戸時代に生駒藩の西島ハ兵衛が井関池の築造し、それに引き継ぎ、近江からやって来た平田与一左衛門等が苦闘の末に、この地を拓き現在の美しい田園風景の礎を築いた土地です。讃岐期の小雨に加えて、扇状地であることからの水不足に苦労し、それを長年にわたる地域の人々の知恵と努力によって、現在のレタスやタマネギのブランド産地へと育ててきた歴史があります。
 大野原町の地質は、次の4層からなっています

1大野原地形3
①雲辺寺山など讃岐山脈を造る海底堆積物の和泉層群、
②五郷山公園や大谷池周辺の湖沼堆積物の三豊層群、
③山麓の丘陵及び台地を形成する洪積層、
④平野部の沖積層
 香川県全体の基盤である花岡岩類は、西南日本内帯の領家帯に属する古い岩石です。もともとは地下の深いところにある地層ですが、観音寺市母神山(池之尻町など)や琴弾山(八幡町・有明町)などのように地上に露頭しているところがあります。大野原では丸井北付近でわずかに見られるだけです。ちなみに、三豊では、讃岐岩質安山岩などの讃岐層群が地上に姿を見せていません。そのため飯野山のような「おむすび型」の山がありません。

 和泉層群が形成されたのは、中生代の終わり頃の白亜紀の後期(約7,000万年前)とされています。
この層は和泉山脈から淡路島の南端、阿讃の県境を走り愛媛県の高縄半島から松山に至るまで、中央構造線の北側に沿って300 kmにわたって続いています。讃岐山脈は、この層によってできていて、砂岩層と泥岩層が互い違いに重なった層を形成しています。そのため五郷ダムや豊稔池、井関池水門では、アンモナイトやイノセラムスなどの化石が出てきます。
  第三紀鮮新世(約700万年~200万年前)から第四紀の初め頃に湖が香川から大阪方面に及ぶ淡水湖が形成されていた時代に、三波層群が堆積します。
三豊層群は粘土、砂、礫などからなる軟泥で、花岡岩及び和泉層群の岩石からできています。図2の通り、三豊層群は、井関から丸井まで雲辺寺山麓に台地上に広がっています。ここからは、メタセコイヤの球果や葉の化石が出てきます。
  新生代・第4紀・洪積世(200万~1万年前)には、雲辺寺山を造る和泉層群が浸食され山麓に堆積した洪積層が形成されます。
 この地層が和泉層群及び三豊層群を不整合におおっていて、径2~5cmから人頭大の和泉砂岩、泥岩を主とした礫層からできています。この礫層は、礫の風化が進んだいわゆるくさり礫なので赤色土化しているところもあり、内野々、福田原、丸井のミカン畑あたりで多く見られます。
 大野原地域の平地部は沖積世(約1万年~現在)に、柞田川(全長16 km、流域面積61㎞)と唐井手川の堆積作用による扇状地が海岸近くまで達したものです。平地部の地下は沖積層(厚さ5~20m)、洪積吐堆積物(厚さ10~30m)、三豊層群(厚さ40~80m)、及び基盤の花岡岩からなっているようです。

 地質的なことを整理すると、改めて「大野原(おおのはら)」という地名がつけられた訳が分かるような気がしてきました。つまり、この地域は柞田川の扇状地の上にあり、水はけも良い地域なのです。そのため弥生人が瀬戸内海を西からやって来て、稲作を行うには不適な地域であったということになります。そのため近世に用水路がひかれるまでは「大きな野原」だったようです。
 三豊平野に海から最初にやって来た弥生人は、まず財田川河口の後背地で稲作を初め高屋地区に集落をつくり、そこを母集落として財田川の上流の微髙地や河岸段丘上に子集落を形成していったのでしょう。特に私が注目したいのは二宮川流域です。この源流には大水上神社が鎮座します。弥生の時代から信仰を集めた神社だと私は考えています。
さて、ここからは三豊平野の墓域変遷についての前回の補足です。
 ここまでは柞田川の北と南では弥生時代における開発発展のスピードが異なったことの背景を、地理的な要因から推察してきました。モノから考えても、弥生時代の青銅器祭儀である銅鐸・銅矛・銅剣が出てくるのは財田川・二宮川流域です。柞田川より南からは出てこないことは前回もお話ししました。
 いくつかの集団に分かれて「青銅器祭礼」を行っていた財田川流域の諸集団を、最初に統合したのは誰でしょうか?
それが三豊平野最初の前方後円墳である青塚古墳に眠る首長と私は考えています。そのパートナーが財田川河口の港を押さえた丸山古墳の首長だったのではないでしょうか。青塚と丸山古墳は、古墳時代中期の同時代に築かれたとされます。青塚は内陸部の前方後円墳、丸山古墳は財田が倭寇の港に位置する讃岐最初の横穴式石室を持つ円墳です。両者は、多度津と善通寺の関係のように「本拠点と外港」的に棲み分けて共存・補完関係にあったと推測します。
 同時に両者の古墳の石棺は、九州から運ばれてきた阿蘇石の石棺が使われるなど古墳築造に、九州的要素が強く見られます。背景には、宮崎の西都原や阿蘇を拠点とする勢力との緊密な関係があったのではないかと考えられます。もっと具体的に云うと「紀伊氏」の南瀬戸内海ルートの拠点地として、財田川河口は機能していたのではないかということです。
 その後、この勢力は青塚から母神山へ墓域を移動させて、前方後円墳のひさご塚古墳を築きます。
この古墳は「総合運動公園」の自由広場の南東の竹藪のなかにあります。この周辺には多くの円墳があり古墳群を形成します。いくつかの土盛りが見え隠れするような気配ですが、表示がなく特定の古墳を見つけ出すのは難しいようです。
 ひさご塚古墳は報告書によると「墳長44m/後円部径26m/高さ5.7mの前方後円墳で、長さ18mの前方部はくびれ幅16m/先端幅23mとバチ型。後円部・前方部とも2段築成。盾形周濠あり、円筒・朝顔形埴輪あり、葺石なし」と記されます。6世紀前半の築造が考えられていますが、この時代には古墳統制が緩和されたようで、一時停止されていた前方後円墳の築造が地方で復活する時期です。同時代の前方後円墳としては善通寺地区に「王墓山古墳」「菊塚古墳」、西隣の伊予・宇摩地域に「東宮山古墳」「経ヶ岡古墳」があります。王墓山や菊塚古墳は、横穴式の前方後円墳で石室構造などに九州的要素が漂います。このひさご塚も同じように横穴式石室を持っているのではないかと研究者は考えているようです。
 善通寺地区では以前お話ししたように、「善通寺の王家の谷」である有岡地区に数世代の前方後円墳がならびますが、母神山にある前方後円墳はこの古墳のみです。
 標高九ニメートルの母神山には、丘陵の西半分を中心に約50基、さらにその麓に数基単位で古墳が分布し、母神山古墳群とよばれ、三豊平野に現存する群集墳では最大規模のものです。古代、この山は先祖を祀る聖地だったから「母神山」と呼ばれるようになったのかもしれません。数多くある古墳の中に唯一の前方後円墳が、この瓢箪(ひさご)古墳です。大規模な円墳群に一基のみの前方後円墳があるのは、珍しいようです。
母神山に次に作られる首長墓は横穴式石室を持つ円墳の鑵子塚古墳になります。
この古墳も石室は、後の讃岐の巨石墳の石室のモデルになったとも考えられるようです。そして、まだ九州的な要素を多分に持つ古墳です。
 そして、次世代のリーダーは墓域を母神山から大野原の扇状地の中央に移す決断を行います。
そこに最初に姿を見せるのが碗貸塚古墳になります。
そして、三世代に渡って6世紀後半から7世紀半ばにかけて
「碗貸塚 → 平塚 → 角塚」
と3つの巨石墳を継続して築いていくことになります。それは、中央では蘇我氏が権力を握って行く過程と重なります。
 
 三豊平野の墓域の変遷をまとめると以下のようになります。
①古墳前期 財田川河口の鹿隅鑵子塚古墳が三豊平野最初の古墳
②古墳中期 財田川河口の丸山古墳(地区最初の横穴式)
      財田川中流の青塚古墳(地区最初の前方後円墳)
③古墳後期 母神山のひさご塚古墳(前方後円墳)
      母神山の鑵子塚古墳 (横穴式巨石墳の登場)
      大野原の碗貸塚古墳 (最大の横穴式石室)
④古墳末期 大野原の平塚
      大野原の角塚
⑤古代寺院の建立 青岡廃寺の建立(紀伊氏の氏寺?)

三豊平野を時計の針のように北から南へ回ってきて大野原にたどりついたことになります。
しかし、多くの謎は解けないままです。
①まず、この勢力が母神山から大野原に墓域(聖地)を移したのはどうして?
②東伊予勢力と一体化していたというこの勢力の基盤は?
③粟井地域に勢力を持っていたという忌部氏との関係は?



         
1高屋神社
            
 観音寺市は讃岐の西の端で、西に燧灘が開けています。古代は、その海から稲作も伝えられたようです。室本遺跡出土の「鋸歯重弧文壷」等からは、弥生時代の籾後がついた壺も出土しています。
 有明浜に上陸した弥生人は、財田川やその支流の二宮川などの流域に遡り、稲作農耕を初め集落を形成し、青銅器祭儀を行うようになります。
観音寺地区の青銅祭器分布を、見てみると次のようになります。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
ここからは、銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」がそろっているのが分かります。こんな地域は全国でも、善通寺と観音寺くらいで、非常に珍しい地域のようです。北エリアには3種の祭器を用いる3種の祭儀集団がいたことがうかがえます。
もうひとつは、青銅器が出ているのは柞田川の北側のエリアで、南側の大野原エリアからは見つかっていないことです。
さて、これらの集団の関係は「対抗的」か、「三位一体的連合体」の、どちらであったのでしょうか?
これを考えるために善通寺市の様子を見てみましょう。
善通寺・瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口と中細形銅矛1口が出土し、出土地は分かりませんが大麻山からは大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。
我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されたことから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀のあったと研究者は考えているようです。
 同じように三豊平野中央部北エリアにも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルが異なる3集団があり、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成して行ったと推測できます。
 一方、柞田川の南側の大野原エリアは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。ここでは、祭器を持たず北エリアに従属する集団があったようです。つまり、三豊平野では進んだ北側、遅れた南側(大野原)という構図が描けるようです。
   
 観音寺で最初の古墳は、鹿隈錐子塚古墳(高屋町)のようです。
  近年の考古学は、卑弥呼後の倭国では「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた、その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められたと考えるようになっています。国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けてヤマトや吉備を中心とする各勢力は手が結び、同盟下に入ります。讃岐に作られた初期の前方後円墳群は、その同盟に参加した首長達のモニュメントとも言えます。それは津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せます。中期になると平野を基盤にした豪族諸連合の統合が成立したことを象徴するように、各平野最大の前方後円墳が築造され、その後は善通寺市域を除いて前方後円墳の築造は終わります。前方後円墳は豪族の長の墓として始まり、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わると研究者は考えているようです。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、初期や前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、善通寺と同じテンポで後期に入っても前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、前方後円墳は終了し、それを継いで横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
   三豊では前方後円墳は古墳中期になって登場するのです。遅い登場です。
1青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が築造されるのは、青塚古墳です。
一ノ谷池の西側のこんもりとした鎮守の森が青塚古墳の後円部です。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、現在でも地域における「祭祀センター」の役割を果たしているようです。墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m/長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、前方部は失われました。後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡ていました。幅1.2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在しています。

青塚古墳測量図
青塚古墳
 この青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。発掘調査がおこなわれていないため、埋葬施設は不明です。しかし、縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者が大和志向でなく、九州の勢力との密接な関係があったことをうかがわせます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと思われます。

 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺の有明浜の円墳・丸山古墳です。

丸山古墳 石棺
この古墳は初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在が見えてくるようです。 

古墳後期に入ると北エリアの母神山に前方後円墳・瓢古(ひさご)塚古墳が現れます。

母神山古墳群 三谷地区 瓢箪塚古墳
前方後円墳の瓢箪(ひさご)塚古墳と、円墳の鑵子塚古墳
この古墳も青塚古墳と同じように周濠(幅3~4m)を巡らし、墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lmの規模で、同時期の首長墓とされます。母神山で唯一の前方後円墳です。埋葬施設は不明ですが、同時期の善通寺市の王墓山古墳のような横穴式石室を持っているのではないかと研究者は考えているようです。周濠からは一般的な円筒埴輪のほが須恵質の円筒埴輪や須恵器片などが出土しています。位置的にも青塚古墳に近接するので、青塚古墳の首長権を継承するリーダーのものと研究者は考えているようです。
つまり、三豊平野においては、古墳中期になって青塚 → 瓢箪塚と続く前方後円墳群が形作られていたと考えられます
  母神山は、その名の通り母なる神の山で、祖霊の帰る山として信仰を集めていたようで、6世紀前半になると、50基を超える古墳群が作られ、県内屈指の後期古墳群になっていきます。
   そのような古墳群の中に、6世紀後半には円墳の錐子(かんす)塚古墳が築造されます。
  この古墳は「総合運動公園」のスポーツ・グラウンドに隣接する公園の中に整備・保存されています。梅の時期には、良い匂いが漂います。前方後円墳のひさご塚から200mほどしか離れていませんので、ひさご塚と同一の首長系列に属する盟主墳と見られ、6世紀後半の築造と考えられています。
 径48m/高さ6.5mの円墳で、全長9.82mの両袖型横穴式石室が南に開口していますが、入口は鍵がかかって入ることは出来ません。羨道・前室・玄室を備えた複式構造ですが前室は形骸化し、羨道[長さ1.2m×幅1.45]、玄室[長さ5.6m×幅2.55m×高さ3.2m]です。何回かの盗掘を受けていますが、出土遺物は豊富です。金銅製単鳳環頭太刀柄頭1、鞘口金具1、三葉環頭柄頭1、鍔1、鉄刀2、銅鈴6、飾り金具4、刀子1、鋤先1、鉄鏃・玉類・須恵器などです。
 石室については前室に短い羨道がつけられる構造であり、その祖形は山口県防府市の黒山三号墳に求められるようです。石室全体は「端整に構築され美しささえ感じられる」と研究者は云います。この石室こそが讃岐の後の横穴式石室のモデルになったと研究者は考えているようです。以上をまとめておくと
①三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
②三豊平野では前方後円墳の築造は、他地域よりもワンテンポ遅れて中期に始まる
③善通寺と同じテンポで後期に入っても前方後円墳を築造し続ける。
④6世紀中葉になって、前方後円墳は終了し、それを継いで横穴式石室を持つ円墳の築造が始まる。
⑤それが母神山・鑵子塚古墳
鑵子塚古墳は、後期の母神山古墳群へと継承されていくことになります。
前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、三豊平野の北エリアの豪族長の墓域は、母神山から動くことはなかったようです。しかし、この古墳に続く首長墓は、母神山からは姿を消します。そして、墓域は柞田川の南エリアである大野原に移ります。これは三豊の盟主拠点が母神山周辺から大野原に移動したと考えられます。「三豊における政権交替」としておきます。
錐子塚の次の盟主墓は、南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。
三豊の大型石室をもつ後期古墳は、次の順で築造されたとされます。
母神山錐子塚 → (大野原へ移動) → 椀貸塚 → 平塚 → 角塚」

 大野原三墳の築造時期は次の通りです。
①貸椀塚古墳が6世紀後半、
②平塚が7世紀初め、
③角塚が7世紀の前半。
 最初に作られた椀貸塚は、玄室の規模が、玄室長6.8m、最大幅3.6m、最大高約3.9mもあり、床面積は22.3㎡、容積では約80㎡になります。これを四国内の古墳と比べると、母神山錐子塚クラスが床面積10~12㎡程度で、碗貸塚は、倍の規模になっています。畿内中枢部の横穴式石室と比べて見ても床面積では、奈良見瀬丸山古墳(約30㎡)、石舞台古墳(27㎡)、吉備地域では例外的に巨大な横穴式万石室であるコウモリ塚占墳(28㎡)など、遜色がないことが分かります。

1大野原神社
 江戸時代初期の開墾が始まって間もない正保2年(1645)の『大野原開墾古図』です。古図の中心部には大野原八幡神社とその背後に描かれているのが椀貸塚古墳です。こんもりとした墳丘とそれを取り巻くような周濠らしきものが見えます。これが、紙資料で確認できる椀貸塚の初見のようです
 40年後の貞享2年(1685)の『御宮相績二付万事覚帳』に神社の修理を行った時の記録が残されています。その中の「地形之覚」には神社を拡張したことが次のように記されています。
「‥拾三間四尺 但塚穴の口きわより玉垣のきわまで 今までは塚穴石垣きわより玉垣まで拾弐間弐尺」、
「一 塚穴二戸仕ル筈・・」
「一 塚穴之左者廣ケ石垣も仕筈」
「一 右両方之堀り俎上者塚之両脇又者馬場の両脇小塚ノ上取申筈」
とあり神社にある塚穴=椀貸塚古墳の当時の状態がうかがえます。
「古今 讃岐名勝圖綸』にも次のような記載があります。

八幡幡社 大野原八幡宮の社後椀貸穴の上にあり 一説に或内なる於社なりと云いかか走手侍。」
「塚穴十一と其塚説 相傅此地開拓の時百七十蛉ある中今中の残るは柘貸平塚角塚豆塚。傅口椀塚は地主神を太子殿と称し穴へ入者なし 村人椀を得んことを乞へは倍せり 一時中姫人此塚上に在す感神祠に用あり食叛吾悉皆借て事足せり後に村人借て一箸を失せり 夫より止と云営時開墾の時此穴に入る人あり 神人告て八幡を祭れと依て 此穴を奥の院と云。」

意訳変換しておくと
 大野原八幡宮の社は、椀貸穴塚古墳の上にある於社は、どんな由緒があるのか?」
「塚穴十一と其塚説について、伝え聞くところによると、大野原開拓の時には百七十もの古墳があった。それが(開拓で消滅し)、今残っているのは碗貸塚・平塚・角塚・豆塚だけである。椀貸塚は、その地主神を太子殿と呼んでいて、その穴へ入る者はいない。村人はお椀などが必要な時には、地主神にお願いしてお借りする。ある時に、中姫の住人がこの塚上にある感神祠で食事の際に、碗など一式を借りたことがある。村人が碗などを借て一箸を亡くしてしまって以後は、この風習もなくなったと云う。開墾時代に、この穴に入った人が「八幡を祭れ」という神の声を聞いた。そこで、八幡神を古墳の前に祀ったので、この穴を奥の院と云う。」

  ここには「椀貸伝説」とともに、大野原開墾の際に古墳の横穴石室に入った人に「神人告て八幡を祭れ」「此穴を奥の院と云。」と記されています。横穴が「奥の院」として神社の聖域とされ人々の信仰を集めてきたことが分かります。それが後世になって、八幡神が勧進されて、奥に追いやられたようです。今も椀貸塚古墳は、大野原八幡神社の本殿の後に神域として祀られています。

 明治時代の資料には、明治35年(1902)の『香川県讃岐國三豊郡大野原村 鎮座郷社八幡神社之景』があり
神社の建物、玉垣、石垣等の配置が詳細に描かれています。椀貸塚古墳の開口部の付近は、土塀が設けられ、石垣のほぼ中央部には縦長の巨石が存在しているが現在と異なる点です。この図中には、次のように記されています。

「椀貸塚ノ縁由」として「相傅ノ昔塚穴二地主神在リテ太子殿卜云フ 神霊著シキヲ以テ庶テ穴二入ルモノナシ・・」

意訳変換しておくと

「椀貸塚の縁由」として「伝え聞くところに由ると、塚穴には地主神が居て、太子殿と云う。神霊が強く、そのため人々は横穴に入ることはない


1碗貸塚古墳1

調査報告書の碗貸塚古墳の測量図は、いろいろなことを教えてくれます。分かることを挙げておきます
①碗貸塚古墳の横穴石室自体が「奥の院」とされ、信仰対象となっている。
②墳丘南側には大野原八幡神社の本殿、東側には応神社が設けられ、墳丘は開削されている。
③東側も応神社と小学校の校庭として削られている。
④墳形・規模直径37.2mの円墳で、外周施設として二重周濠と周堤があった。それを含めると範囲は径70mになり、占有面積は約3,850㎡の大きな古墳だった。
⑤碗貸塚古墳の東に、後から作られた岩倉塚古墳がある。
⑥表面観察では葺石や段築は確認できない。
1碗貸塚古墳2
  復元するとこんな姿になるようです。どこかでみたような姿です・・・
 
1鬼の窟古墳
宮崎県西都原古墳群 鬼の窟古墳
西都原でみたこの古墳が思い出されます。どちらにしても、ここに3つ並ぶ巨石墳のうちで最初に作られた碗貸塚古墳は九州的な要素が色濃く感じられます。それが平塚・角塚と時代を下るにつれてヤマト色に変わって行くようです。その社会的な背景には何があったのでしょうか?
それでは最後に、母神山から大野原に連綿と首長墓を築き続けて来た古代豪族は?・
大野原古墳群の被葬者像については、紀氏が想定されてきました。
周辺に「紀伊」「木の郷」の地名が残り、また『和名抄』に刈田郡紀伊郷や坂本郷(紀氏と同族の坂本臣との関係)が記されているからでです。そして、紀氏は、紀伊や和泉から西方、阿波や讃岐にひろく分布を広げていて、瀬戸内海の南岸ルートを押さえた豪族ともされます。
 大野原古墳群の最後の巨石墳墓である角塚古墳の被葬者が埋葬されたのち、孝徳朝の立評により刈田評が成立したというのが定説で、その子孫が評督、さらに郡領になったと研究者は考えているようです。その段階の紀伊氏の拠点は大野原古墳群から1km東北にあたる青岡廃寺の周辺にあったと推測されています。
次回は大野原の3つの巨石墳を見ていくことにします。
  
参考文献 大野原古墳群Ⅰ 観音寺遺跡発掘調査報告書15
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前回は、観音寺の本堂やお堂を見てみました。今回は、調査報告書を片手に各堂の仏達を見ていく事にします。
まず、仁王門です。ここには2mを超える阿・吽の仁王さんが迎えてくれます。
報告書には次のように記されます。
 肉身各部の誇張や妙な力みのさまによる破綻がなく、頭体腕足の均整に優れ、写実を自然にこなした彫りが感じられる。鎌倉時代に流行した仁王像の力感表現の伝統を引きながら、穏やかに敷街したかのようにみられる優品である。

観音寺仁王像1
 現在の仁王門については、宥英法印の宝永3年(1706)に再興されたことを記した棟札が残ります。しかし、仁王さんについてはもっと古く
「像表面の傷みに対して砥の粉を塗られるなど近世以降の修理を受けるものの、作風からすれば、享徳ころの制作と考えてもよい」
と報告書は記します。
神恵院本堂8

次はコンクリート製で近未来的な神恵院本堂に行ってみましょう。
ここの本尊は、琴弾八幡宮の本地仏であった来迎印相の木造阿弥陀如来立像です。近年修理されて、全身を金泥を塗り、漆箔金の照りを抑えて落ち着いた雰囲気にしあげられています。ここへやって来たのは「見仏記」的には脇檀にいらっしゃる毘沙門天立像にお会いするためです。報告書は次のように紹介します。

神恵院本堂仏5
 頭体を一木から彫成するもので、内刳りなく、面部を彫り直しているのは残念ではあるが、制作は平安時代中ごろではなかろうか。現状では両肩から先を後補されるようであり、足ホゾを作って岩座上に立つ。右手を挙げて戟を執り、左にやや腰を捻って屈腎して掌上に宝塔を提げる毘沙門天像としては通例の像容である。痩身の体部に甲冑を付けるが、その細部は省略されているものの像容は力強く、あるいは修理により像表に具材の古色を厚く掛けたものか。
 本像の岩座は後補となるが、その天板裏面銘によれば、もと西金堂(現・観音寺薬師堂)の四天王像の一体であると記す
 この毘沙門天は「平安の古像であり、四天王像の一体」のようです。
もともとは薬師堂の薬師如来をお守りしていた四天王さんのメンバーだというのです。そうだとすれば、西金堂(薬師堂)本尊の薬師如来像と同じ時期に作成されたと考えられます。しかし、この毘沙門天の連れ添い達は、薬師堂にはいないようです。今は本堂で本尊の観音様を護っているのです。かつては薬師堂で御薬師さんを護っていた四天王が、今は本堂の須弥檀の四隅に配されて本尊の観音さまをお護りしています。しかし、毘沙門天はメンバーから引き離されて、神恵院本堂にいらっしゃいました。
  調査書には次のように記されています。
観音寺本堂の四天王
 足下に踏み付ける邪鬼まで含んで、頭体幹部を一材から刻みだしたもので内刳りなく、ほほ等身大の像高をはかる。忿怒の形相や武具を振りかざす姿態などは、やや穏やかにあらわされているものの、古様な着甲の像容であり迫力にも富んでいる。邪鬼にのこる彩色の痕跡からして、当初は彩色仕上げとされていたものと考えられる。現状は、正面側の像表面の荒れを調整して古色仕上げとされている。
  一人ひとりを紹介するのでなく、四体まとめての紹介というのは、平安生まれの四天王に対して、礼を欠くような気もしますが・・・。

さて、もともと四天王が護っていた薬師如来は、どんなお姿なのでしょうか?
 薬師堂はかつて西金堂と呼ばれていたようです。今の巡礼者達は、本堂と太子堂にお参りして、薬師堂まで階段を登ってくる人はいません。人の訪れることのない薬師堂です。しかし、この薬師如来坐像は、丈六の大像でした。報告書を読んでみましょう。

観音寺薬師如来坐像1
 現状は古色仕上げを施される。三角材の木寄せの緩んだ三角材部分から体内と膝前材のようすを観察することができた。その結果、当初材には多孔質な木肌からクスを用いているものと推定され、体部材には内刳りを施し、基本的には前後に数材ずつ寄せており、現状は後世の鑓で各材を留めて峯郡を構成していることが確認され、頭部は耳後ろで前後二材をよせている。体内の首ホソから肩にかけては新補のマチ材が複数あてられており、判然としないが、おそらく三道下で割首仕様としているものとみられる。膝前材は内刳りを施した当初のクス材部分に新補材を寄せて結珈する脚部や衣文を彫り直しているようである。左半身の構造は確認できなかったが、手首は挿しこみとなっており、右上腕材元残存状況から当初材がのこされている可能性が高い。右前賢と両手は後補とみられる。
 本像の面部は、傷んだものか残念ながら彫り直しを受けており、当初の顔貌かを大きく損じていると思われる。しかし、耳の造形や螺髪の端正な割りつけと刻み方をみると当初のものとして良く、鉢を開かず細面とし、肉誓と地髪の段差を控え目にして、緩やかな繋がりをみせる頭部の形状は、平安時代中期乃天台系如来像に通じる特徴として指摘する意見があり、或いは本像もこれに連なる可能性がある。
報告書には「西金堂丈六薬師尊像」の修復を記した元禄6年(1693)銘の木札が発見され、新補材並びに古色仕上げは、この時の修理によるものとされます。そしてこの薬師如来坐像は平安時代中ごろに制作された可能性があるとのこと。元禄の大修理を受けたようです。江戸時代になり、観音寺は京極藩の保護を受けて、堂舎・仏像の再興活動がなされていたようです。それが、仏達を今に伝える事につながっています。

釈迦阿弥陀発遣来迎図
 琴弾八幡の本地仏を描いた阿弥陀如来来迎図 
 最後に神恵院十王堂を見てみましょう。ここには閻魔王像のほかに十王像がいます。
司命・司録の二官、奪衣婆像・赤・青の二鬼、さらには人頭檀荼憧までを備えた地獄差配する群像が並んでいます。『元禄六気葵酉四月 豊田郡坂本組寺社帳』(『観音寺市誌』1985年所収)の「神恵院」の条には、「十王堂」がみえるので、江戸時代初期には存在していたようです。
 木札裏面にみえる発願主の「大こ彦兵衛」の名は十王のうちの5体に、また、「萩田伝八」の名は閻魔王像の台座天板裏の銘文に「東高屋村萩田伝八安重」「同光輪恵照尼」「同家内中」として記されており、萩田氏の家族が願主です。
 木札裏面にみえる「仏師京都 田中弘教」の各像にも記されており、十四体は「大仏師 田中弘教」の作のようです。ただし、閻魔王像だけは、古材を修補していることがうかがえるので、室町時代以前まで遡る可能性があるようです。制作者の「大仏師 京 田中弘教」は江戸時代17世紀後半から活躍の知られる名代の仏師です。

神恵院3
 香川県においては、文化12年(1815)旧高瀬町勝造寺の吉祥天・善賦師童子雷を制作しています。そのほかにも四国霊場71番札所弥谷寺や、同65番札所三角寺にも弘化年間の作例があり、さらに、仏生山法然寺の二王像の首ホソにもその名が記されているようです。仏師田中家は讃岐の寺院からの依頼をよく受けていたようです。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行

観音寺境内図1
「四国霊場を世界遺産へ」というスローガンの下に、いろいろな取組がされているようです。「学術調査」の面でも予算が大幅に付けられて、霊場や遍路道などの調査が今までにない規模で行われています。その成果を示すように調査報告書が毎年、四国各県で出されています。
その中で、最近手元に入った68番神恵院・69番観音寺の調査報告書(2019年3月発行)を見てみることにします。
報告書は「1 建築物 2 石造物 3 美術工芸品 4 古文書 5 聖教 6 民俗資料」に分類して報告されています。ここには、古文書から始まり本堂の落書きに至るまでの史料も集められています。さて、
この報告書を手にして、観音寺を訪ねてみましょうか。
 観音寺は山頂に琴弾八幡宮が鎮座する琴弾山の東斜面にあります。
この寺が話題になるのは、68番札所である神恵院と同じ境内にあることです。
 まずは、境内に行って見ましょう。ちなみに銭形見学後にこの寺を訪ねると、寺の上から訪れる事になります。これは、便利ですが「正道」ではありません。できれば下から仁王門をくぐりてお参りすることをお勧めします。
1観音寺仁王門
    
 まずは仁王門から見ていくことにしましょう。
|構造形式】八脚門、切妻造、本瓦葺
1建立年代】寛政9年(1797年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 仁王門は階段を登った上にあります。報告書に書かれた専門家の説明を読みましょう。
 仁王門は切妻造、本瓦葺の八脚門で、中央間を四半敷の通路とし、両脇問正面側には金剛力士像2躯を祀る。宝永3年(1706)の棟札を残すが、後述する絵様や彫刻からこの時期の建物には見えず、『琴弾伽藍古録一覧』「仁王門」の項に、寛政9年(1797)「地形引直再興」の記事があり、絵様や彫刻から判断される建築年代と難敵はない。したがって、ここでは寛政9年の建築とみておく。
 同史料には、「施主当町富田氏世話人定右工門/大工萩田善右工門同栄治/大塚重三郎」とある。基壇は亀甲形の石積基壇で、最上段には後補の花尚岩切石の葛石を並べ、中央通路部分を聚き、上面をモルタルで仕上げている。基壇の規模は必ずしも仁王門の屋根と整合しない。
  中略
以上の構造および細部意匠から、建築的には18世紀後期~19世紀初頭頃の建立年代が想定でき、『琴弾伽藍古録一覧』に記された寛政9年(1797)再興は、信がおけるものと考える。2000年頃の修理時に部材の多くを取り替えているため、当初材は頭貫・台輪の一部・組物・桁・妻飾・彫刻で、垂木以上はほぽ新材だが、建物の規模や意匠に大きな変更はなく、往時の構造・意匠を保っている。
 全体として構造的には簡素であるが、随所に華麗な彫刻を配しており、特に棟通り中央間に集中する彫刻は立体的で躍動感があり、江戸後期の高い彫刻技術を示している。観音寺の正面を飾るにふさわしい建築と評価できるだろう。                   
 
観音寺仁王門

気になるのは「基壇の規模は必ずしも仁王門の屋根と整合しない。」の部分です。以前の基壇がそのまま使われているかもしれないというサジェスチョンなのでしょうか?。
  随所にあるという「華麗な彫刻」を探して「立体的で躍動感がある江戸後期の高い彫刻技術」を見る事にしましょう。

さて仁王門をくぐると、内側の参道沿いには、明治30年代の年代が刻まれた石灯寵が7基並んでいます。石造物については、また別の機会に見ていく事にして・・・先を急ぎます。
闘伽井を左手に見て緩い傾斜をもつ石敷きの参道を西へ真っ直ぐに進み、石段を上ると本堂や寺務所、庫裏などが建つ南北に細長い平坦地に出ます。
 仁王門からの石段を上りきると正面に巨大な楠が迎えてくれます。そして右手(北)に鐘楼が建ちます。

観音寺鐘楼1
 この鐘楼は彫刻がふんだんにされていて、見ていて楽しいものです
鸚造形式】桁行1間、梁間1間、一重、入母屋造、木瓦葺
1瞳さ年代】文化7年(1810年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 さて、ここでも報告書を開いて見ます。
 柱は上下に踪をもつ角欠きの面取角柱(一辺304mm、面内294mm)で、四方内転びとする。崖地の建つため、平坦面を造る石垣の上に切石を4段積んだ比較的高い基壇を築いている。西面には5曇の耳石付の石階を備え、基壇内側に若干切り込む。基壇上面はモルタル仕上げの土間とし、西面の階段葛分を除き縁辺部に高欄を施す。礎石は方形の切石で、その上に平面角形で側面をはらませた特徴的な礎盤を置き、柱を立てる。現在の基壇・礎石・礎盤は、屋根の葺き替えとともに、2000年頃に改修されたものという。
 中略
 顎貫・台輪・花肘木は、いずれも部材表面を覆いつくす雲や波の彫刻が施されている。台輪上の中備には四面とも力士像を置くが、各面で意匠が異なる。正面である西面のもの、両手で桁を支える。南北面のものは、外側に正対せずにやや正面側を向いているため、片手で桁を支えている 133)。また東面のものは、正対するものの肩で桁を受けている・・・・・中略
評価
 元禄9年(1696)の鐘楼堂の棟札が伝わるが、現存する鐘楼は意匠的にみてそこまでさかのぼりえない。鐘楼の建築年代は、彫刻の意匠からは19世紀前半と考えられ、『琴弾伽藍古録一覧』「鐘楼堂」の項にみえる文化7年(1810)再建の記事と整合するため、これを認めてよいだろう。
また『琴弾伽藍古録一覧』によると、「大工棟梁荻田栄治貞在/後見丸亀永井貞右工門道親/小工荻田嘉兵工良茂」とある。
 ところで、西面にかかる扁額には、「支那沙門雪珍書」の陰刻銘がある(写真139)。雪片(1649~1708)は黄聚宗の中国僧で、17世紀末~18世紀初頭に伊予国千秋寺の第4代住持であったことが知られる。裏面には「信主営町上町浦/岸氏仁右衛門」の陰刻銘がある。この扁額は、前身の鐘楼に掲げられていた可能性もあるが、鐘楼以外の建物に掲げられていたものかもしれず、現状では雪片と観音寺の関係を含めて明らかでない。なお、梵鐘は昭和22年(1947)のものである。
   刻まれた力士達の姿をいろいろな方向から眺めているだけで楽しくなります。また、最後の茶道の流れを日本にもたらす黄檗派の中国僧の扁額というのも気になります。というのも、これから見る本堂の内陣の大形厨子には禅宗様の要素が取り入れられているからです。
   さて、やっと本堂に正面から向き合います。
観音寺8

本堂(金堂)は、境内の北側に山を背負って南面します。
「構造形式」桁行3間、梁間4間、一重、寄棟造、向拝1問、本瓦葺
【建立年代】延宝5年(1677年/棟札/室町時代前期 前身堂を改造)
 この本堂は昭和34年(1959)に国の重要文化財に指定され、その後に解体修理工事がおこなわれています。その際の修理工事報告書には、次のように記されています
観音寺本堂3

①この堂は、もともとは南北朝時代に建設された方5間の「前身堂」であった
②それを万治年間(1658~1661)に大改修して現在の規模(桁行3間、梁間4間)にした
③しかし、この時の修理では完成せず、さらに大改造をおこなって、16年後の延宝5年(1677)に上棟した。
つまり、南北朝時代に方5間の規模で建立ものが、江戸寺の始めに大規模な改修を加え、今の形に生まれ変わったようです。この再建は、前身堂の両貿面および背面の各1間を取り除いたもので、柱間の変更、柱位置の入れ替え、軸部の構造の改変などをともなっています。つまり前身堂の「保守的な修理」ではなく、新たな建物に「前身堂の古材を用いた」と考えるレベルの改修規模だったようです。そのため、今の本堂は近世の建築形式・技術で建てられており、建立年代は延宝6年と専門家は考えているようです。その後、明和年間には内陣の厨子と須弥壇を改造して間口を拡大し、寛政13年(1801)には脇仏壇が増築されています。そして昭和35~37年の修理工事によって、脇仏壇が撤去されたのが現状のようです。
観音寺本堂1

 このように、この本堂は近世の建立とされますが、南北朝期の前身堂の部材を残し、改造はありますが中世の仏堂の雰囲気を残しているようです。前身堂の復原もある程度可能であり、中世における三豊地方の建築を知る上でも重要とされます。私の中で沸いてくる疑問は、もともと5間あったものを、どうして3間規模の建物に縮小したのか?です。しかし、報告書は、それには答えてくれません。ここの本堂は心地よい印象を受けます。私の中の「讃岐の霊場の本堂ベスト3」の中に入ります。ちなみに、あとの2つは本山寺・屋島寺です。
 
観音寺本堂しゃみだん
 本堂で私が注目したいのは内陣の大形厨子です。
これは、部分的に禅宗様の細部を取り入れられています。これは、本山寺本堂(国宝、1300年)と、よく似ていると修理工事報告書は指摘します。前回に述べたように、観音寺と本山寺が山号を共に七宝山と号して、不動の滝から稲積山の行場を共有する修験者の辺路ルートの拠点であったという仮説を補強する材料にもなります。
   また、本山寺に現在の本堂が姿を現したのを追いかけるように、観音寺でも方5間規模の「前身堂」が建立されていることになります。本山寺と観音寺はの関係は深かったことがうかがえます。
観音寺本堂2


 両寺の奥の院と考えられる興隆寺遺跡にのこされる大量の石塔群の作成年代は、鎌倉時代の後期から室町時代の末期に及ぶ約200年にわたるとされます。その期間が両寺が「真言密教の道場」として機能した時期なのかも知れません。そして、これらの宗教活動を支えた経済的な基盤は、観音寺の各港を拠点とする交易活動に求める事ができそうです。
観音寺太子堂
  本堂の次は・・・? 太子堂というのが常道でしょう。
【構造形式】正面3間、側面4間、一重、宝形造、向拝1間、本瓦葺
【建立年代】宝暦11年(1761年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 大師堂は仁王門をくぐり、参道の階段を登った正面左手に、愛染堂と並んで建ちます。
太子堂ですから本尊には、弘法大師が祀られています。「各部の虹梁絵様は18世紀中期の様相を示し、宝暦11年(1761)に再興」とあります。ちなみに、太子堂については、『琴弾伽藍古録一覧』に次のような再建記録があります。
①『弘化録』に長和2年(1013)に当堂の存在が確認できること、
②弘長3年(1263)の御影堂の棟札(木札資料6-6)、
③永禄9年(1566)の御影堂建立棟札(木札資料6-4)、
④慶長2年(1597)良海の代に再建されたことが記される。
⑤慶安元年(1648)の御影堂再興棟札(木札資料5-3)、
⑥延宝4年(1676)の弘法大師堂再興棟札(木札資料5-6)、
⑦延宝5年(1677)の御影堂再興棟札(木札資料5-7)
以上の史料が残るようです。①は史料としては不確実なものですが、②以下は棟札ですから、存在した可能性が高いと考えられます。戦国末期の混乱の中でも寺が機能存続していた事がうかがえます。
太子堂の「評価」について、報告書は次のように述べます 
当初より、背後に仏壇を突出させていたと考えられ、弘法大師を祀る正堂と、その前方の礼堂という構成をとる。礼堂にあたる主屋は正方形平面の内部に内陣を設けるが、内陣が中央になく背後に寄せて外陣の空間を確保している点が特徴である。
 ただし、当初は外陣の構えをもたず、内陣の周囲は間仕切りがなく、あたかも一間四面堂のような様相であったと考えられる。内部に改修はあるものの、当初形式をほぼ留め、天井画などの装飾性が豊かな点も特徴としてあげられるだろう。なかでも、内陣二重折上格天井など高い意匠性を認められ、虹梁絵様の意匠からも18世紀中期の仏堂と評価できる。
 足元まわりが、昭和51年の土砂崩れの被害を受け、花尚岩製の方形切石を入れてかさ上げされているが、外部の構造・意匠は概ね建立当初の形式を伝えている。社蔵記録から宝暦11年(1761)の再興が明かな点も、同時代の周辺地域における建築の建立年代を考えるうえで重要な意義をもっと考える。
 うーん。読んでいると頭がくらくらしてきます。情報を受け止めるだけの準備不足を感じてしまします。もう一軒行ってみましょう。
観音寺薬師堂1

さて次に向かうのは階段の上の薬師堂です。
 この建物は、『琴弾伽藍古録一覧』には、大同2年(807)に弘法大師が建立したと記されます。続いて、慶長9年(1604)の上棟、正保4年(1647)と元文4年(1739)の再建の記事があります。さらに
「随正和上代正徳四年寺社帳二ハ 四間四方トアリ、光巌和上代宝暦四年明細帳ハ 五間四方トアリ」
との朱書が記されています。これを信じれば、正保4年再建の堂が4間四方、元文4年の堂が5間四方であったようです。現在の薬師堂は大正時代の再建です。建立に関する資料としては、仏壇の南側の脇間に棟札が置かれているようです。その棟札には「再建西金堂」、[大正三年三月二十一日]、「大工棟梁 大塚竹治」などの字句がみえ、西金堂を再建するという意味で薬師堂を新築したということだそうです。

観音寺薬師堂2
  この建物は「西金堂=薬師堂」という性格をもつようです。
 このほか、正面石階の側面羽目石のほか、正面に点在する灯篭・香立て・花立てなどの石造物にも大正3年(1914)の銘を確認できます。また大工棟梁の大塚竹治は、昭和3年(1928)におこなわれた琴弾神社本殿(寛保3年=1743建立)の第37回遷宮(修理)の大工棟梁もつとめていることが、『琴弾八幡宮昭和流記』(1989年)から分かるようです。
この薬師堂の性格を一変させるのが明治の神仏分離令です。
廃仏毀釈運動の影響を受けて琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来が、この建物に遷ってくることになります。その結果、第68番札所の神恵院の本堂として使用される事になるのです。それは、2002年に現在のコンクリートの本堂が出来るまで続きました。その役目を終えて、現在は再び薬師堂と呼ばれるようになっています。
それでは報告書の薬師堂の「評価」を見てみましょう
 薬師堂は、正方形の内陣の四周に庇をめぐらせる基本的な平面をとりながら、内陣の床や天井を上げることで、正面側を外陣、両側面を脇陣とし、背後に寄せて仏壇を設けるといった平面的な特徴を備えている。正面側まわりと内陣柱との柱筋がそろわないため、内外で柱や束の立てる位置が異なり、また大虹梁側面から挿肘木を出して天井桁を支えるといった変則的な納まりとなるところがあるが、内陣の三方を虹梁で囲い、大きな本尊に対応した高い内陣の空間などが特徴的である。全体の意匠は、和様を基調として、台輪、柱の綜、花頭窓など禅宗様の構造や細部をとりいれ、側まわりを中心に彫刻などの意匠が豊富である。とりわけ向拝周辺の虹梁絵様や彫刻などは精緻で、大瓶東に二重虹梁を挿す構造的な面を含めて薬師堂のみどころの一つである。
 また、組物は柱上だけでなく、柱間の東上や柱間にも置くなど、詰組に近い構成となっている。向拝の丸桁や仏壇正面の貫状の水平材に施された地紋彫りは珍しく、彫刻技術の高さを示している。それゆえ、隅柱の内法長押や切目長押の納まりが正統的でないのが、やや不可解である。
 棟札により、建立年代や大工が明らかである点も特徴に挙げることができる。大きな改修を受けず建立当初の姿を伝えており、近世社寺の流れをくみながらも架構などに独特な点がみられる近代の仏堂と評価できる      
   
IMG_9761
疑問が残るのは、なぜ観音寺に薬師堂があり、古仏の薬師像が祀られているかです。
ここにはこの寺のもうひとつの成立由来が隠されているようです。
薬師如来は、中世の神仏習合の時代には熊野権現の本地仏として、密教修験者達に祀られてきた仏です。本堂の一段上に建ち、境内を見守るお堂はその歴史を静に伝えるもののように私には思えます。
IMG_9764
観音寺の境内のお堂等を丁寧にお参りしました。
さて、神恵院の本堂は、薬師堂の階段を一旦下りて、観音寺の大師堂と神恵院の大師堂の間を西に進んで、さらに石段を上った所にあります。最初に、この本堂の前に立った時の違和感をいまでもおぼえています。この本堂は、2002年に鉄筋コンクリートで新築された「未来的な建物で、未来的な宗教空間」なのです。これを建てた建築家にエールを送ります。
  このお寺の歩んだ歴史については、また別の機会に
   南無大師遍照金剛
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行


観音寺・神恵院調査報告書2019.jtdcの画像
中世讃岐のある港町の復元イメージ図だそうです。
ふたつの河が分流し海に注ぎ込んでいます。その中州に走る街道沿いに集落が形成されています。引田でも宇多津でもなく・野原(高松)・松山林田でもなく、観音寺だそうです。
地図上に地名を落としてみると次のようになります。
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 家々が集中するのは、財田川の河口に浮かぶ巨大な中洲です。そして、画面手前側は急速に陸地が進み、手前の川は小さな支流(現一ノ谷川)になっていきます。人々の居住区の向こうには、財田川をはさんで琴弾山があります。これは古代からの甘南備山で、頂上には琴弾八幡宮が鎮座します。川の向こう側が聖なる地域であったようです。
 聖域の琴弾八幡には、早くから橋(原三架橋)が架かっていたようです。参道から財田川に架かる三架橋を経て、真っ直ぐに中州に伸びてくる街路が町の中心軸となっています。このセンターラインの街路と交差する道が何本か伸びて、集落化しています。
 「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(享徳元年(1453)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。そして放生会の祭には、住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたことが分かります。それだけの経済力を持った港町に成長していたようです。その背景は、瀬戸内海交易への参加です。絵図からは町場がそれぞれの港を持っている様子が分かります。(絵図の湊1~3)この港は漁港としての機能だけでなく交易港としての機能も果たしていました。
 例えば、文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記録されています。財田川河口の港を拠点に、活発な交易活動を展開する各港は、まとめて「観音寺」と呼ばれました。
 各町場には、中核として寺院、なかでも臨済宗派寺院が多く建ち並び、港や流通に深く関わっていたようです。注目したいのは室町期以降に増加する興昌寺・乗蓮寺・西光寺などの臨済宗聖一派の寺院です。円爾(聖一国師)を派祖とする聖一派では、京都東福寺や博多を拠点として各港町の聖一派の寺院でネットワークを築き、相互に人的交流を行っていました。観音寺が三豊屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の寺院が創建されていったようです。
  専門家達はこのイメージ絵図のように観音寺は、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世からすでに町場が形成されていたとみています。

琴弾宮絵縁起

 琴弾神社に八幡さんは、どのようにして招来されたのでしょうか。
それを語るのが「琴弾宮絵縁起(ことびきのみやええんぎ)」(重文)です。
観音寺に所蔵されるこの絵は、琴弾山周辺の景観を描いた掛幅であり、琴弾宮草創縁起の一部が絵画化されたものです。
さて、それではこの絵図を縁起と突き合わせながらみてみましょう。
  この絵図を最初に見て、これが琴弾神社を描がいたものとは思えませんでした。
琴弾山が有明海に向かって立っている姿なのでしょうが、「デフォルメ」されすぎています。研究者は
「そこには本図に社寺の縁起を絵画化する縁起絵としての側面と共に、琴弾宮一帯を浄土とみなす礼拝図としての側面も含まれている」
といいます。なるほど「琴弾宮一帯を浄土」として描いているのです。リアルではく「宗教的な色眼鏡」を通して描かれていると理解すればいいようです。
 一方でこの絵からは琴弾宮周辺の景観を意識したと要素が見て取れるといいます。例えば、井戸や巨石など指標物の位置が現在のものとほぼ一致しているようです。
琴弾宮絵縁起3
下を右から左に流れるのが財田川です。
財田川に赤い橋(三架橋?)が掛かり、参道が一直線に山頂に伸びます
頂上には本殿や数多くの建物が並び立っています
財田川には河床に張り出した赤い建物が見えます。何の用途の建物かは分かりません。
川にせり出した建物と広い広場を向かい合って、山を背に社殿が建ちます。
  簡単に言えば、両縁起文を絵図化して「説法」用に使用したのがこの「琴弾宮絵縁起」のようです。
 『四国損礼霊場記』に従って、どんな事件が起きたのかを見てみましょう
①この宮は文武天皇の御宇、大宝三年、宇佐の宮より八幡大神爰に移りたまふといへり。
其時三ケ日夜、西方の空鳴動し、黒霊をほひ、日月の光見えず。国人いかなる事にやとあやしみあへる処に、②西宮の空より白霊虹のごとくたなびき、当山にかかれり。
③この山の麗、梅腋脹の海浜に一艘の怪船が流れ着いた。中に琴の宮ありて、共宮美妙にして、嶺松に通ひはり。
④この山に上住の上人あり。名を日証といひけり。
⑤日証上入が船に近づきて
「いかなる神人にてましますや。何事にか此にいたらせ玉ふ」ととひければ、
「我はこれ八幡大菩薩なり。帝都に近づき擁護せんがために、宇佐から上り出たが、この地霊なるが故に、此にあそべり」
とのたまへり。
⑥上人又いはく
「疑惑の凡夫は異端を見ざれは信じがたし。ねがはくは愚迷の人のために、霊異をしめし給へ」と。
⑦共夜の内に海水十余町が程、緑竹の茂藪となり、又沙浜十歩余、松樹の林となれり。人皆此奇怪を感嵯せずといふ事なし。
⑧上人郡郷にとなへ、十二三歳の童児等の欲染なきもの数十人を集め、此山竹の谷より御船を峰上に引上げ斎祀して、琴弾別宮と号し奉る。御琴井に御船いまに殿内に崇め奉る。
琴弾宮絵縁起1

簡単に意訳すると・・
 天変地異の如く、黒雲が月日を隠しています。そこへ 「②西の空より白霊虹のごとくたなびき」大分の宇佐神宮から琴の宮に「③一艘の白い怪船」が流れ着きます。
⑤怪しんだ日証上人が「誰何」すると、神は「八幡大菩薩」と名乗り、「帝都に近づき擁護」するたの途上であると答えます。そこで日証上人は「凡夫は奇蹟をみないと信じられません、何か奇蹟を起こして見せてください」と云います。すると、その夜に海水に浸かっていた湿地に竹が生え、砂浜は松林に変わります。奇蹟が起きたのです。これを見て人皆、この神の尊さを知ります。
琴弾宮絵縁起2
 上人は村々を回ってお説経をし、まだ欲を知らない無垢な童見数百人を集めて、
⑧竹の谷から御舟を山上に引き揚げ祀り、これを琴弾別宮と号して祀るようになりました。この時の神舟は、今でも殿内にあり祀られています。
  ここにはもともとの地主神である琴弾神の霊山である琴弾山に、海を越えたやって来た客神の八幡神が「別宮」として祀られるようになった経緯が示されます。つまり、琴弾神と八幡神が「神神習合」して「琴弾 + 八幡」神社となっていく姿です。
 さて、この宗教的イヴェント(改革)を進めた日証上人とは何者なのでしょうか?
  日証上人についての史料はありません。
  観音寺寺の由来には次のように記します。
大宝三年(703)、法相宗の高僧日証(證)上人が琴弾山山頂に草庵を結んで修行をしていた折、宇佐神宮から八幡大菩薩が降臨され、海の彼方には神船が琴の音と共に現れた。上人は、里人と共に神船と琴を引き上げて、
①山頂に琴弾八幡宮を祀り、
②神宮寺を建立して、当山は仏法流布、
③神仏習合の霊地
と定められた。
 時は平安の世に移り、唐より帰朝された弘法大師が、大同二年(807)に当山に参籠。八幡大菩薩の御託宣を感得され、薬師如来・十二神将・聖観世音菩薩・四天王等の尊像を刻み、七堂伽藍を建立。
④山号を七宝山、寺号を観音寺と改められ、八幡宮の別当に神恵院をあてられた。大師はしばしの間、当山に留まられ第七世住職を務められたと寺伝にある。以後、
⑤真言密教の道場として寺門は隆盛を極めた。
  観音寺の設立年代や、空海伝説は脇に置いておくとして、ここからは次のような情報があります。
①②③琴弾八幡宮の別当寺神宮寺(旧観音寺)を建立し神仏習合の霊地となった。
④空海が山号を七宝山観音寺に改めた
真言密教の道場として隆盛した。
 まず山号が琴弾山ではなく七宝山であることに注目したいとおもいます。そして「真言密教の道場」だったというのです。
琴弾神社9 金毘羅参詣
 ちなみに四国霊場の本山寺も山号は七宝山です。そして、その奥の院は七宝山山中の興隆寺跡です。この伽藍跡には花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在しています。 寺の縁起や記録などから、この石塔群は修験道の修行者の行供養で祈祷する石塔であったようです。一番下の壇には不動明王(座像)の磨崖仏を中央にして、状態のいい五輪塔約30基が並びます。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 3
 つまり、ここから不動の滝、そして高室神社に架けては行場が点在する修験者にとっての聖地だったのです。本山寺が修験者の活動の拠点寺院であったように、観音寺もおなじように真言修験道の拠点であったと私は考えています。観音寺と本山寺は、行場である七宝山を共有し行者達が行き交うような関係にあったのではないでしょうか。それはひとつの「辺路修行」であり、それが四国遍路へとつながって行くのかもしれません。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 4

『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿建立精舎
とあます。ここには、弘法大師が創始した「七宝山修行」があったと記されています。そして観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から五岳の山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼といっても良いかもしれませんが、これが
観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルート
でなかったのかと想像しています。これはもちろん現在の遍路道とは、ちがいます。
DSC01330
神恵院・観音寺の成立について、今までのべてきたことをまとめておきましょう。
① 神恵院・観音寺は元々、琴弾八幡宮の別当寺として機能した神宮寺であった。
② 琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を本尊とし、神恵院は弥勒帰敬寺と称され、観音寺も、当初は神宮寺宝光院と称されていた。
③ 平安時代初期になって、神恵院とともに七宝山観音寺と改称された。
④ 財田川河口は、中世には港町として知られ「兵庫北関入船納帳」にも「観音寺」からの船舶が塩や干魚などを納めていた。この港を管理していた寺社が琴弾八幡宮であった。別当寺である神恵院・観音寺が港の庶務を管理していた。
⑤ 琴弾八幡宮や観音寺の境内には、中世の石造物である層塔や宝塔、五輪塔などが残っていて、中世・通じて琴弾八幡宮の別当寺として神恵院・観音寺が隆盛を誇っていたことをうかがわせる。
⑥このような状況は、宇多津や志度などにおいても、同じような状況が見える。
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⑦この状況は明治維新によって一変します。
 明治維新後、新政府の神仏分離政策により、神宮寺は神社から分離されます。神恵院も、琴弾八幡宮からの分離を余儀なくされ、明治4年(1871)に本尊の阿弥陀如来画像(琴弾八幡宮本地仏)を観音寺の西金堂に移し、神恵院の本尊とします。そして観音寺の西金堂を神恵院の本堂とし、ここを七宝山神恵院と称するようになります。現在の観音寺の「一境内二札所」は、こうして成立します。
DSC01329

  どうして讃岐に阿蘇石の石棺が運ばれてきたのか。 

「銭形砂絵」の画像検索結果

観音寺の琴弾八幡神社の裏の山からは有明海をバックに寛永通宝の砂絵が松林の中に描かれているのが見えます。広がる海は、燧灘。古代にはこの海を越えて九州から、重い石棺がはこばれてきたようです。三豊と九州との関係を色濃く示す古墳を訪ねて見ましょう。 

  丸山古墳2
 丸山古墳(観音寺市室本)

丸山古墳は燧灘を見下ろす丸山(標高50m)の頂上にあります。
西側は燧灘が広がり、遠浅の有明浜が南北に長く続きます。この丘に立つと自然と西に開けた燧灘を意識します。
この丘の上に、明治になって丸山神社(当時は「山祇殿社」)の社殿が建設されることになり、墳丘の南半分が削平され、石室が破壊され、石棺が現われたようです。
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 調査が行われたのは戦後になってからで、一時は前方後円墳とも言われました。しかし、何回かの調査の結果、径35m、高さ3.5mの中期円墳で、讃岐で最初に横穴式石室を採用した古墳とされるようになりました。出土品は葺石があり、円筒・衣蓋埴輪のほか馬形・鳥形・偶蹄目の動物埴輪が出ています。
丸山古墳横穴式石室
丸山古墳の横穴式石室
 副葬品には、鉄剣1、鉄刀1、鉄製品片(短甲片か?)があり、円筒埴輪片から5世紀中葉~後半の築造が考えられています。構造的には、扁平な板石や割石を小口積みで持ち送りした石室は、南北方位で「現存長4m×推定幅3.7m×高さ2.5m以上」と讃岐のこの時期のものとしてはかなり大きいものです。

丸山古墳石室実測図2
丸山古墳石室実測図
この古墳の特徴的なのは、九州の影響が色々なところに見られることです。
例えば石室構造は肥後形に近く、複数人を埋葬する初期型の横穴式石室のようですが、その特徴である石障はありません。
丸山古墳 石棺
丸山古墳の石棺と石室
石棺は刳抜式舟形石棺(長さ192cm×幅105m)で、棺蓋は寄棟屋根型で短辺部の傾斜面にやや上向きの縄掛け突起が付いています。九州には舟形石棺と肥後系の横穴式石室が共存する古墳はないようです。そういう意味では「変な古墳」なのです

この古墳の変わっている点は?

 「阿蘇溶結凝灰岩 石棺」の画像検索結果
         刳り抜き式家型石棺(藤井寺市長持山古墳5C)・阿蘇溶結凝灰岩

この石棺は、讃岐の国分寺町の鷲の山石や津田火山石ではなく九州の阿蘇溶結凝灰岩が使われています。ちなみに当時の讃岐は、国分寺町の鷲の山石や津田火山石を用いた「石棺生産国」で、それを畿内や播磨・吉備にも「輸出」していました。ところがこの古墳の主は、讃岐産の石材ではなく阿蘇石製の石棺をわざわざ九州から運び込んで来ています。さらに、この古墳が作られた古墳時代中期半ばには、讃岐における石棺の製作は、ほぼ終わりかけています。いわば「流行遅れ」の石棺と最先端の横穴式石室という組み合わせになります。ヤマト政権よりも九州の同盟者を優先しているかのようにも思えます。この丸山古墳の被葬者と九州の勢力との関係とは、どんなものであったのか興味が湧きます。
青塚 財田川南の丘陵に位置
財田川の南の丘陵にある青塚古墳

次に三豊平野の青塚古墳を見に行きましょう。
「観音寺市 青塚古墳」の画像検索結果
                     青塚
三豊の古代条里制の起点になった菩提山(標高312m)から舌状に北に伸びてくる丘陵台地の末端に青塚はあります。近くには一ノ谷をせき止めて作られた一の谷池があります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられていて、地域における祭祀センターの役割を果たしてきたことが分かります。

青塚古墳測量図
青塚古墳測量図

 青塚古墳は香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。
その気配が現在の地形からも見て取れます。前方部は上半が削平されていていますが、水田となっている周濠から考えれば、短いもので帆立貝型だったとされます。現状からは、墳丘の全長44m、後円部径30m、周濠の幅9mの前方後円墳がが考えられます。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、盗掘にあっているようです。
問題は石棺で、丸山古墳と同じ阿蘇溶結凝灰岩が使われていることです。
この古墳は立地、墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造された古墳だとされます。とすると丸山古墳とは同時期になります。あちらは横穴式石室で円墳、こちらは前方後円墳の帆立型形式ですが、九州から同じ石材が同時期に運ばれてきていることになります。 
 屋島の先端の長崎鼻古墳(高松市屋島)も同じ阿蘇石が石棺に使われています。  
この古墳は屋島の先端、長崎ノ鼻の標高50メートルにある全長45メートルの前方後円墳です。墳丘は3段に築成され、各段には墳丘が崩れないための葺石が葺かれています。目の前は瀬戸内海で、女木島や男木島がすごそばに見えます。立地から海上交通に関係の深い豪族の墓であろうと考えられていました。発掘するとまさに、その通りに後円部にある主体部から、阿蘇熔結凝灰岩製の舟形石棺が確認されました。これは観音寺市丸山古墳・青塚古墳に続く3例目となります。   
 この長崎鼻古墳は墳丘出土の遺物や舟形石棺の形状から、それよりも50年ほど古い5世紀初頭頃の古墳であるようです。ちなみに、この長崎鼻には幕末には高松藩によって砲台が築かれた場所でもあります。今もその砲台跡が古墳と共に残ります。 

このように讃岐の古墳に、九州の石棺が運び込まれています。

恐らく熊本県で作られて、それが讃岐に運ばれてきたということなのでしょう。どのような方法で、どんな人たちが、何のために九州からわざわざ石棺を運んできたのでしょうか。これらの古墳に眠る被葬者と、九州の勢力とはどんな関係にあったのでしょうか。いろいろな疑問が沸いてきます。

最初に見た丸山古墳と青塚古墳は、燧灘の西の端にあたります。両古墳のあたりは、『和名抄』の讃岐国刈田郡坂本郷や同郡紀伊郷の週称他の近くです。この「紀伊郷」との関係について岸俊男氏は次のように考えているようです。


 紀伊郷は紀氏との関係がある地名であること。紀氏とその同族が瀬戸内海の交通路を掌握して大和勢力の水軍として活躍した四国北岸の拠点の一つが紀伊郷である。

瀬戸内海の紀伊氏拠点

瀬戸内海における紀伊氏関係図
三豊の坂本郷や紀伊郷は、紀伊氏の瀬戸内海ルートの支配と関係があると研究者は考えています。         紀伊氏は、早くから瀬戸内海の要衝に拠点を開き、交易ネットワークを形成して、大きな勢力を持っていたこと、特に吉備氏牽制のために、瀬戸内海南ルートの讃岐や伊予に勢力を培養し、朝鮮半島からの交易ルートを握っていたこと、空海の生家である善通寺の佐伯直氏も弘田川を通じて外港の多度津白方を拠点に、紀伊氏の下で海上交易を行っていたという説は以前にお話ししました。 こうして見ると「紀伊の紀直氏=善通寺の佐伯直氏=三豊の紀伊氏=肥後のX氏」は、海上交易ネットワークで結ばれたという仮説が出せます。このルートに乗って、先ほど見た阿蘇の石棺は運ばれてきたと私は考えています。

和歌山・大谷古墳
大谷古墳(和歌山市)の九州阿蘇産の石棺

そして、室本丸山や青塚と同じ時期に、紀伊国の和歌山市大谷古墳でも九州阿蘇の石による石棺がはるばると運ばれて使用されています。大谷古墳は、和歌山県では有数の古墳で、副葬遺物に朝鮮半島との関係が深いとされる品物を数多くもっていたことで知られています。

大谷古墳 クチコミ・アクセス・営業時間|和歌山市【フォートラベル】

これらのことは、青塚と室本丸山古墳の被葬者が、海上の交通と深くかかわっていたことを物語っています。
 これと同じ石棺は、愛媛県の松山市谷町の蓮華寺にもあります。出土した古墳は分かりませんが、近所から出たのでしょう。松山市といえば、のちに『日本書紀』や万葉の歌で熟田津とよばれる港がでてきます。そうした海上交通の拠点地を経て、船で肥後から讃岐にもたらされたとしておきます。五世紀後半の阿蘇山の石棺は、そんな瀬戸内海交易を伺わせてくれます。

もう少し大きい視点からこの古墳が作られた5世紀を見てみましょう
  5世紀後半と言えば文献的には「倭の五王」、考古学的には「巨大古墳の世紀」と言われます。大王墓は大和盆地から河内平野の古市と百舌鳥の地へと移動し、大山古墳(現仁徳陵)、土師ミサンザイ古墳など、超巨大前方後円墳が出現する時代です。それはヤマトの王権が確立する時代とも言えます。 

 大和王権の「支配の正当性」は、何だったのでしょうか?

 そのひとつは、鉄をはじめとする必需物資や先進技術・威信財を独占し、それを「地方に再分配とする公共機能」です。この政策を進める中で、ヤマト政権は、各地の首長に対する支配力を強めていきます。

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 4世紀からの多数の倭人の渡航は、半島南部の支配のためではなく、半島側の要請にもとづく軍事援助や、その見返りとして供給されるヒトとモノを独占的に手に入れることでした。そのためには、優れた海上輸送能力や軍事力をもつ勢力と手を組むのが一番手っ取り早い手段です。ヤマト政権は吉備王国を初めとする勢力と手を組み「朝鮮戦略」を進めます。
 その際に、重要となるのが朝鮮半島への交通ルートの確保です。
朝鮮半島からの人と物の輸送ルートである瀬戸内海の重要性は5世紀になると一層高まり、それを担った吉備の力はますます大きいものとなります。吉備の王達は古市・百舌鳥の大王墓に劣らぬ造山古墳や
作山古墳が姿を見せます。
   しかし、一方でヤマト政権は吉備勢力に頼らない次のような新たな瀬戸内海ルート開発も進めます。

大和(葛城氏) → 紀ノ川 → 和歌山(紀伊氏) → 瀬戸内海南岸(讃岐沖) → 松山(伊予) → 日向

 この新ルート開発をになったのが葛城氏配下の紀伊氏で、それに協力したのが日向の隼人たちではないかと考えられています。 

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 日向灘に面した西都原古墳群の示すものは?    

 5世紀には日向にも大形前方後円墳が次々と出現し、女狭穂塚古墳や男狭穂塚古墳が築造されます。女狭穂塚古墳は古市の仲ッ山古墳の3/5スケールの相似形の規格で、文献的にも応神の妃の一人に日向泉長姫が、仁徳の妃の一人に日向諸県君牛諸の娘髪長姫がいることを伝えています。

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 こうしたヤマト王権の日向重視の背景には、日向灘に開いた潟港を中継点として関門から豊後水道を南下し、南海道で畿内に至る新たな海上ルートの開拓があったようです。また、この地域独特の墳墓である地下式横穴からは、大量の鉄製武器類が出土します。ここからも彼らが朝鮮半島への軍事力の主力部隊であったことがうかがえます。控えめに見ても、ヤマト王権の半島侵攻に重要な役割を担っていたといえます。日向地域がもつ重要性とその勢力の王権への同盟・参画が、のちに天孫降臨や神武東征神話を生む背景となったのではないかと考えられます。

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こうして、五世紀のヤマト王権(河内大王家)は「朝鮮への道」を独占的にることで王権を強化していきます。
それまでのヤマト政権の
都はヤマトとその周辺に置かれていました。ところが古市・百舌鳥に造墓した仲哀は、はるか関門海峡の長門穴門豊浦に都を造営します。応神は大和軽嶋明宮のほか吉備や難波大隅宮にも都したと記紀は伝えます。仁徳の難波高津宮、反正の丹比柴耐宮と難波津周辺への宮の造営が伝えられるのも、瀬戸内ルートの整備や河内平野の開発と無関係ではないようです。 
 瀬戸内海ルートで河内潟に入る外交使節や交易の船舶は、難波津や住吉津に近づくと右手に百舌の巨大な大王墓を目の当たりにします。難波宮京極殿の北西で発見された法円坂遺跡の立ち並ぶ巨大倉庫群は、まさに倭の五王時代の王権直轄のウォーターフロントの倉庫群といえます。川船で河内潟から大和川をさかのぼり、ヤマトを目指すと、今度は古市の大王墓群を通り抜けます。倭王の威容を海外に示すのに、これ以上の演出は当時はありません。

同時期に、三豊に九州からの石棺は運ばれてきます。

熊本で作られた石棺が讃岐に運ばれたのは瀬戸内海南岸ルートでしょう。そして、運ばれた豪族同士には「特別なつながり」があったことが考えられるます。その特別なつながりが何かと言えば、大和政権の「水軍の道」ではないでしょうか? それが「紀伊氏」の疑似血縁集団だったのかもしれません。どちらにしても、これらを結ぶ拠点には「大和政権の水軍を構成する集団」がいたことが考えられます。そして、三豊の被葬者の埋葬葬儀の際に九州の同盟勢力から古墳造営の技術者が派遣され、石棺も提供されたという推察が出来ます。また、同盟関係と言うよりも古代地中海における母都市と植民都市のような関係かもしれません。どちらにしろ「人や物」が瀬戸内海航路を用いて、活発に交流していたことを示す証です。
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以上をまとめておくと
①5世紀にヤマト政権は、紀伊氏による瀬戸内海南ルートの開発を進めた。
②これによって紀伊氏一族の水軍拠点が四国側に開かれた。
③三豊の紀伊郷もその名残りであることが考えられる。
④瀬戸内海南ルートは、日向の西都原の勢力を加えることによって大きな水軍力となった。
⑤この水軍力が対外的には、朝鮮半島との交易を有利に展開することにつながった。
⑥国内的には、同盟国であった吉備勢力の弱体化へつながった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

三豊の勢力は近畿よりも九州、そして朝鮮を向いていたのかもしれません。それが、その後の三豊の独自性につながる原点かもしれません。 九州から運ばれてきた石棺を見ながら、そんなことを考えました。




           雲辺寺-昔は四国坊とよばれる学問所のあった寺 

 
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香川県側からロープウエイで登る参拝者が多いので、香川の札所と思われていますが、阿讃県境の南側にあり行政的には徳島に属します。しかし、讃岐の霊場としてカウントされています。
 ここは、911㍍の讃岐山脈の山を越えたところにあって、北に向かうと讃岐の平野と瀬戸内海が見えます。南に向かうと阿波のほうは山また山です。

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 かつては大師堂があるところと千手院という現在の納経所とは、非常に離れていました。そして大師堂を中心に、その周辺にたくさんのお堂がありました。そのお堂は十二坊あるいは四国坊といったようです。昔は、阿波の者はここに泊まる、土佐の者はここに泊まるというように、それぞれの国の人が泊まるところが分かれていてたくさんの坊があったようです。しかも、一般の参拝者が泊まるところではなくて、ここへ集まって学問をする学問道場であり、別名四国高野とも呼ばれて、高野山と同じように学問をする場所だったようです。そのために十二坊があったのです。
 ところが歴史の中で千手院だけが残ったので、大師堂から離れた山頂近くに本坊ができたわけです。鐘楼と仁王門地もそこにありました。
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御詠歌は「はるばると雲の辺りの寺に来、月日を今は麗にぞ見る」はスケールの大きい歌です。

雲辺寺の縁起は?

この寺の縁起は『四国損礼霊場記』に出てくるもので、米収という武士が一匹の鹿を射て、血の跡を追ってこの山に入り一つの堂の前に出た。見ると弘法大師が作ったといわれる本尊に矢が当たった跡があったので、米或は発心して出家したという粉河寺式の縁起が載せられています。ただ、出家してのちのことは書いてありません。
 この本尊は寺の火災で見えなくなったけれども、のちに忽然として出現した。その間に何か物語があったか、少々説明不足です。

弘法大師が十六歳でこの山に登ったときに、本尊の千手観音を彫刻したというのは、弘法大師は十五歳から十八歳まで奈良の大学にいたから、つじつまがあいません。
さらに、大同二年(ハ○七)大師帰朝のときに登って、彫刻したともいっています。大同二年というと、大師が三十三歳のときです。たしかに弘法大師は大同二年に唐から帰ってきますが、京都に二年間入れませんでした。したがって、大同二年と三年はどこにいてもいいわけです。京都以外のどこかにいたことになりますから、その間ここにいたということになっていると考えておきましょう。
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 弘法大師は帰朝してから、自分は入唐してこれだけの勉強をした、これだけの典籍と密教の法具をもってきたという目録を作って朝廷に提出しました。しかし、留学期限を自分の判断で打ち切って勝手に帰国した空海に対して、時の政府は入京を許されませんでした。
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 弘法大師は行きは運よく遣唐大使と同じ船に乗りました。このことから空海を遣唐大使の通訳だったと推定する人もいます。昔の遣唐船は四隻です。新造船に遣唐大使が乗りました。伝教大師(最澄)は二の船に乗っています。ハ○四年の遣唐使の船は全部難破。第四船は行方不明になりますが、あとはそれぞれ漂着して肋かりました。新造船の第二船が、安全であったわけです。

この寺の山号は巨魁山です。

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 大きな亀という意味で、中国の伝説に出てくる大きな島を支えている亀のことで、海とのつながりがある信仰が見えてきます。この寺の讃岐側の山に立つと瀬戸内海を行き交う舟が見えます。辺路のお寺ですが海洋宗教に関係のあるお寺だということを示す山号です。
 大挙山の山上ヶ岳の行場の入口に、亀石という亀の形をした石があります。先達がお亀石をよけて通れよという意味の歌を歌います。踏んだりしてはいけないというので囲ってあるその石はは、那智の滝に通じている、海とのつながりのある山だということを暗示しています。
 つまり海とのつながりを暗示する亀石の存在から、この山号を得たのだろうとおもいます。このように、山号や寺号あるいは御詠歌は、その寺の歴史を調べるうえでの一つの手がかりになります。

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『四国損礼霊場記』は、『列子』という中国古代の文献に、海中の五山を巨贅という大きな十五の魚が支えているように、この山も巨瓶に支えられているようにそびえているから、巨瓶山と呼んだのだといっています。
 しかし、那智の滝に連なる亀石があるように、海に根が連なるという伝説をもつ亀石があったものとおもわれます。山頂から海が望まれることから、これも辺路信仰で名づけられたものです。辺路信仰で始まっているので、海に縁のある千手観音がまつられました。観音の性格として、千手観音は海に縁があり、十一面観音は山に縁があります。
 例えば、那智の海渡寺の本尊は如意輪観音ですが、那智大社のいちばん中心になる本地は千手観音です。千手観音がなぜ海の観音になるのかといいますと、千手観音が立っている像は、からだが帆掛け舟の帆柱で、手が帆のように見えるからとされます。ちなみに補陀落渡海をする人だちは、千手観音の像を岫先につけて船出しましたた。
 海に関係のある千手観音をまつる信仰に、大師信仰が加わって雲辺寺ができたと考えられないでしょうか。
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 山頂から四つの国が望まれるので、四国坊と呼ばれる四か寺ありとされ、そのいわれについて『四国損礼霊場記』は次のように述べています。
「其幡根四国にわたり、むかしは四国防とて四ケ寺ありとかや。今は此一寺に、阿州の城主より造立し給ひぬれど、讃岐の札所に古来属せり。本尊千手観音坐像長三尺三寸、脇士 不動、毘沙門、皆大師の御作なり。御影堂、千体仏堂、鎮守祠、伴社、鐘  楼、仁王門あり。境内高樹森々として絶塵世」

 山の根は四国にわたっているといっています。阿波と讃岐の境にあって、少し離れたところに伊予があり、もう少し行くと土佐があるので、大雑把にいうと、この山全
体が四国に当たらないこともありません。根っこが阿波・土佐・伊予・讃岐の四国にまたがっているので、昔は四国坊といって四か寺あった、阿波の城主の蜂須賀家が建てたと書かれています。
 水堂があるので、水源信仰があるのだろうとおもっていたら、近年になって篤志家が建立されたものでした。水源はずっと下の谷にあって、モーターで上げているのだそうです。


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長宗我部元親が土佐からこの寺に登って、四国統一の野望を固めた地とも伝わっています。四十八代住持の慶成和尚に戒められたにもかかわらず、ついに讃岐の地に攻め入り戦乱を起こします。その戦乱で寺も焼かれて、のちに阿波の蜂須賀氏によって再興されたわけです。
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この寺には寺には聖衆来迎図があります。
鎌倉時代の本尊の千手観音も毘沙門天も重要文化財です。
聖衆来迎図も鎌倉時代のものです。亀山天皇の御遺髪塔もあります。

参考文献 五来重:四国遍路の寺

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