瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:三豊の歴史 > 三豊市山本町

山本町大野
大野村(三豊市山本町大野)
       
西讃府誌には、佐文綾子踊の後に、豊後小原木踊が次のように紹介されています。
大野村の豊後踊り
大野村の雨乞い踊り「豊後・小原木踊」
「大野村ノ人雨ラ祈ルニ踊リナス。村人上組下組とニツニワカレ、上ナルヲ豊後、下ナルフ小原木卜琥ク」
「先八幡宮、次に樋盥(ひだらい)、次に澱醸(よどしこ)、次に役場と凡そ六処一日になすと云」
ここからは次のようなことが分かります。
①「村人が上組と下組の二つに分かれ」、それぞれが「豊後、小原木」と呼ばれる2組の踊組があったこと
②大野村の八幡宮、樋盥(ひだらい)、澱醸(よどしこ)、役場などの6ヶ所で踊られたこと
 この踊りについては「西讃府志」が完成した1859(安政6年)頃までは、踊られていたことが分かります。しかし、その後いつころまで続いたかなどは分かりません。西讃府誌に残るだけの謎の雨乞踊のようです。
   西讃府誌に載せられている「豊後踏舞(踊り)」の歌を見ていくことにします。

大野村の豊後踏舞
豊後踏舞(西讃府誌)
大野村の豊後踏舞2
              豊後踏舞
大野村の豊後踏舞 佐渡島2

歌詞の内容から、綾子踊、さいさい踊、和田の雨乞踊と同じ系統に属するもので、江戸時代初期までさかのぼると、研究者は考えているようです。
次のように「何々をどりは一をどり」という形式の文句が各歌詞に出てきます。
「豊後のをどりは一をどり」
「札所をどりは一をどり」
「佐渡島をどりは一をどり」
「泉水をどりは一をどり」
「忍びのをどりは一をどり」
「天笠をどりは一をどり」
「小笹をどりは一をどり」
「鐘巻をどりは一をどり」
「本蔵をどりは一をどり」
この形式句は、近世初期の歌謡に良く出てくるスタイルです。
また「うらうら(浦々)」には、
あれに見えしはどこ浦ぞ、音に間えし堺が浦よ、
堺が浦へおし寄せて、ひいめがはかをつもろふよ、
いくさのはかをつもろふよこれ
と同じ形式で讃岐の浦、八嶋の浦が歌われいます。瀬戸内海の繁栄する港町の様子がいくつも歌い込まれています。
 構成・扮装・芸態について、「西讃府志」は次のように記します。

  大野村の豊後踊り 西讃府誌
     「豊後・小原木踊」の芸態について(西讃府誌)
  上文を意訳変換しておくと
(芸態は)3の輪を作り、第一輪の中心に傘宮という大きな傘の上に宮を置いて、そこに造花などを飾って。これを数人が持って立つ。第一輪には「花受」と呼ばれる、7・8歳の童子、40人ほどが花笠を被って、扇を持って、化粧し廻りに立つ。その外側の第二輪には、小踊と呼ばれる12歳から15歳ほどの童子が、麻衣の振袖を着て、女帯を結んで、菅笠に小さな赤い絹地を着けたものを被って、扇子を持って40人ほどが輪になって立つ。その外側の第三輪には、警護として20歳ほどの男数十人が、羽織を着て刀を指して大きな団扇を持って周りに立つ。第二輪と第三輪の間には、太鼓打4人、鉦打2人、出音頭4人、付音頭4人が立つ。太鼓と鉦打は、共に陣笠を被り、半臀(はんひ)の裾に鈴が付いたものを着て、草鞋(わらじ)を履いて脚絆を結ぶ。太鼓は胸に結付けて、両手にバチを持って、歌の曲節に合わせて、輪の周りを走り廻リながら打ち鳴す。音頭(芸司)は、金銀の紙で縁どった大きなハ団扇を持って、その傍らに並立つ。先ず音頭(芸司)が謡い出し、
大野村の豊後踊り3
    「豊後・小原木踊」の芸態について・その2(西讃府誌)
上文を意訳変換しておくと
付音頭も第二句から声を合せて共に歌う。 
 踊り初めの時、「先番板」という踏舞(踊り)の次第を書付けた板を会場に立てる。次に追払(ついはらい)という長刀を持った男二人が進みでて、その場を清め開く。次に、修験者三人が法螺貝を吹き、花受・小踊・警護の手引が一人づつ入場する。中には花受ではあるが兜を被り、上下を着、団扇を持ったものがいる。その時に手引の者は、先に入場して、それぞれの位置を定める。踊り終ると、修験者の法螺貝を合図に退場する。最初に八幡宮、次に樋盥、次に換醜、次に役場、など六ケ所を一日で廻ると云う。
これを見ておどろかされるのは、その編成規模です。
①三重の輪踊りで、「花受40人+子踊40人+警固60人=140人」+芸司・太鼓・鉦・芸司・法螺貝吹きなどを合わせると、150人を越える大編成部隊になります。滝宮に踊り込んでいたい念仏踊りの各組の編成規模と同規模です。風流小歌踊系の雨乞踊としては、最も規模の大きなものであったようです。
②「西讃府志」の説明分量も、佐文綾子踊りと同じくらいの記述分量があります。西讃の風流小歌系雨乞踊として、綾子踊と同じ規模と認識されたいことがうかがえます。

讃岐雨乞い踊り分布図

もういちど讃岐の風流雨乞い踊りの分布図を見ておきましょう。
上図を見ると、讃岐の風流雨乞い踊りが三豊南部に集中していること。その東端が佐文綾子踊であることが分かります。ここからは綾子踊の成立には、三豊の風流踊りがおおきな影響を与えていることがうかがえます。
 以前にお話したように、佐文は「七箇念仏踊り」の主要な一員として、芸司や子踊りも出していました。それが19世紀になると次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞い踊りを取り入れながら、新たな踊りを「創作」したのではないかというのが、今の私の仮説です。

大野の小原木踏舞.J 鐘巻PG

大野の小原木踏舞.2J 鐘巻PG

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 豊後・小原木踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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6大興寺 明治の伽藍図

前回までは、大興寺の歴史や伽藍変遷について見てきました。今回は、報告書を見ながら実際に諸堂を廻ってみたいと思います。その前に「復習」しておくと
①太興寺は白鳳期の古代寺院からスタートしている
②中世期は、熊野権現の別当寺として修験者達の拠点でもあった
③戦国期に衰退し、江戸時代になって現在地に移転してきて伽藍整備が進んだ
④それを勧めたのは現在の房号となっている山伏寺の泉上坊である。
⑤よって、建造物は江戸時代後期のものがほとんどである。
⑥仏像も近世以後のものが多いが一部平安期に遡るものもある。
以上の予備知識を頭の中に入れて「見仏記」を始めましょう。

6大興寺2
まず駐車場から下りて迎えてくれるのは仁王門です。
 この仁王門には棟札が残されていて、寛政8年(1796)に再興されたことがわかります。報告書には、その特徴を次のように指摘します。
「建物の各様式は、江戸時代中夜期の特徴をよく現し、後期の装飾性の高い建物への移行を検討する指標になる建物]
「禅宗様を多分に取り入れた折衷様式が18世紀以降盛んに使われて定形化していく過程の位置基準」

 仁王門前には寛政元年(1789)の銘のある石造物に、
「再興 仁王尊像井門修覆為廻国中供養」とあり、仁王門の修覆記念碑と考えられます。
ここからはこの仁王門が、寛政元年に長崎廻国の大助が中心となり、仁王門の修覆に取り掛かり、8年後の寛政8年に完成したとものと考えることができます。全国を廻国する勧進者のネットワークの力で二百年以上前に建立されたもののようです。

6大興寺8
仁王門の阿吽の金剛力士像に、御挨拶します。報告書には次のように紹介されています
力感にあふれた写実的な造形は、鎌倉時代中ごろの制作とみられよう。
本像にみる塊量性の強さは、当代に流行した慶派風の引き締まった体躯の力士像とは異質であり、やや古風な趣きのあることが指摘されよう。寛政2年(1790)に彩色がなされ、門の修理がなされたことは木札2と門前の石碑から知られ、肥前長崎の安藤大助が本願主とする廻国行者たちの助力によるものであった。現状は彩色がほとんど剥落しているが、吽形の鼻孔内には朱彩が残る。
6大興寺9

つまり、この仁王さん達は、大興寺が現在地にやって来る前の古い伽藍にあった仏達ということになります。戦火の中で仁王門は焼かれても、僧侶達によって運び出され隠されていたのかもしれません。「古風な趣」の仁王さんと評されていますが、確かにボデービルダーのような筋肉隆々感はありません。そして、作られた鎌倉時代には朱で彩られていたようです。
6大興寺3
仁王門をくぐると正面に三段の石段が迎えてくれます。
報告書は、この石段についても「調査」しています。その石段にお付き合いします。仁王門から真っ直ぐに本堂に登って行く上図の黒く塗られた部分が凝灰岩が用いられている石段です。3つの石段の内、下段と上段が凝灰岩製の切石、中段が花岡岩の切石を使用していようです。下段の凝灰岩は、よく見ると風化が進み、ひび割れたりすり減ったりして、歴史を感じさせてくれます。
6太興寺切石

さて、ここから専門家の分析を聞いてみましょうです。
 この石段に使用されている凝灰岩には、
小豆島の西の豊島(てしま)で産出される「豊島石」
三豊と仲多度の境にまたがる天霧山で切り出された「天霧石」
の2種類が確認できる。
この2種類の石材の特徴は、
「豊島石」が「含有する黒っぽい安山岩が均質で、長石を含む」
「天霧石」が「含有する灰色っぽい安山岩が不均質で、長石が少なく、火山灰が多い」特徴を持つ。
 この特徴から、石段を詳細にみると、下段は左側に砂岩製の耳石を確認するが、ほとんどが「豊島石」であることが解る。また、上段は左右に「豊島石」の縁石及び耳石を確認するが、これ以外は「天霧石」であることが解る。
 県内の石塔などの石造物に使用する石材として、「豊島石」は15世紀後半から使用が確認でき、以降多用される。一方、「天霧石」は鎌倉中・後期からの使用が確認でき、17世紀に盛行することが確認されている。  大興寺の石段も当初は「豊島石」を使用していたが、のちに「天霧石」を使用したことが伺われる。
つまり、大興寺で諸堂が相次いで建立され、伽藍整備が進んだ17世紀後半に、ちょうど「豊島石」「天霧石」が石造物に多用されていると指摘します。この下段と上段の石段の整備は、本堂・大師堂の建立に伴い、境内の整備の一環として、構築されたものと研究者は考えています。
 大興寺境内では、この他にも、次のような所に凝灰岩の切石が使われています
仁王門の基壇前面の縁石
弘法大師堂の基壇右側の縁石
天台大師堂の基壇前面の縁石
庫裡門の基壇前後の縁石
の4ヶ所で、これらは全て「豊島石」の凝灰岩です。この4ヶ所以外は、花崗岩の切石を使用されています。
6大興寺16

報告書では、さらに話を進めて花崗岩の切石で境内を整備した時期がいつなのか探ります。
棟札からは寛保元年(1741)に本堂を再建、天保15年(1844)に屋根の修復を行ったことが分かります。江戸時代後半のこの時期に、風化した凝灰岩に替えて、花岡岩の切石で補修したと研究者は考えているようです。
 何気なく踏んで歩いている石段にまで、研究者は「調査研究」の視線を注いでいるようです。あらためて二百年ほど前に、瀬戸内海の島で切り出され、ここまで運ばれてきた石段の上を歩いているのだと、言い聞かせながら石段を登って行きます。
6大興寺18弘法大師堂.jezupg

石段の下の段を上って辺りを見回して欲しいのです。このあたりは平地になっています。
前回見てもらった僧寂本によって書かれた『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)の太興寺です。この平地に、この時点では大興寺があったことが分かります。また、太子堂や天台堂がここに下りてきた時期もありました。今は何もなくなって参道のみとなっています。
6大興寺1.本堂jpg

階段を登り切ると正面に本堂が迎えてくれます。
○本堂は、以下のような建立・改修を経てきた事が残された史料から分かります。
慶長2年(1597)に仮堂を建立して以来、承応2年(1653)を経て、
寛文9年(1669)に本堂を建立し、
寛保元年(1741)に、薬師堂(本堂)が再建
天保15年(1844)に屋根の修復
  しかし、調査報告書は「寛保元年(1741)の、薬師堂(本堂)再建説」に「異議あり!」として、次のような見解を示します。
  本堂の細部の様式をみると、寛政8年(1789)に再建された仁王門の頭貫や大斗の木鼻と酷似しており、安直に寛保再建を肯定することはできない。天保棟札にあるように、屋根勾配の緩い箇所や、日当たりの悪い面の修理が行われたこと、同時に仁王門や鐘楼堂の瓦修理も行われたこと、さらに江戸後期の瓦の品質があまり良くないことを考慮すると天保15年の50~60年前に再建されたものと考えられる。
  つまり、仁王門の修理と同じ時期の寛政8年(1789)に再建説を唱え、再建時期を50年遅らせるべきだとしています。どちらにしても、約四百年前の仮堂建立から現在まで、本堂の位置はほとんど動いてないようです。
6大興寺1
 報告書は本堂の総合所見を次のように述べます    
 内部については、内陣・後陣境の組物等に改修の痕跡がある。(中略)
中央来迎壁上部の天女の彫刻が江戸末期のものと推測できることから、弘法大師堂が建設された慶応元年頃に大きな改造が行われたと考える。
 平面形式では、一正面柱間は中央間から外へ柱間を落とし、側面は正面一間通りを礼堂的な外陣、内竃部分二間は床を上げて、建具で仕切り、柱間を外陣よりやや広くしている。後陣は外部からは半丸柱で二間とするが、内部は一間扱いとなり、外観上は五間堂であるが、梁間の空間は四間と考えられることから、密教建築の流れといえなくもない。どういった意図でこの平面計画としたかは定かではないが、興味深いところである。
 当本堂は、県下でも数少ない五間堂の遺構で、内部空間の扱いも密教系仏堂の流れがあり、内陣廻に改造がみられるものの、細部の様式も含め近世後期の特徴ある建物の一つに数えることができる。
次の3ポイントを頭の中に入れておきます
①江戸末期の弘法大師堂建設の際に、大きな改造が行われている
②内部空間に密教的な流れが感じられる
③五間堂は県下でも数少ない近世後期本堂である
さていよいよ本尊様にお会いしたいのですが・・・
残念ながらこの寺の本尊は秘仏という事で、お会いする事は出来ないようです。
6大興寺本尊薬師如来
大興寺本尊薬師如来坐像
写真と報告書で本尊にお会いしに行く事にします。
 薬師如来坐像が本尊です。報告書の所見を読みます
 (前略)
 右肩部から先の腕部は別材を寄せ、腹前で膝前部の横一材を寄せ付ける。左手首は体亙に差し込み、薬壷を掌上に置く。現状の仕上げは体部金泥衣部漆箔かとみられるが、仔細に観察すると大衣部には赤みが感じられるので、朱彩色の名残りとすれば、当初は朱衣金体像であった可能性がある。
 本像の造形は肩張り緩やかに肥痩なく均整良くまとめられ、全体に彫りの抑揚は少なく穏やかなで優美な印象が強い。この作風は平安時代に流行した、いわゆる定朝様に範をとったものといえる。等身で像ながら割り首としない一木割矧造の技量や、また、頭体の一材共木観をも伝えるものとしても興味深い作例といえる。
 定朝様は、平安時代中後期において全国的に風廊するが、木像面部にみる瞼の柔かな盛り上がり方や眼嵩の特徴ある窪み、あるいは豊かに張る頬の様子や整えられた衣文などからすれば、その制作年代は定朝活躍の時期に近い11世紀中後半ころかと推測される。
 この寺にある仏像は、平安時代3点、鎌倉時代4点、室町時代1点、江戸時代29点で、金銅製の神仏習合時代の懸仏中尊1点以外は、すべて木彫と報告書は記します。
平安期の仏さんのひとつで「11世紀中頃の定朝様の観音坐像」です。
6大興寺薬師本尊2g
 なぜ、お薬師さんがこの寺の本尊なのでしょうか?
 それは、まずここには熊野権現が勧進され、熊野神社が鎮座したからです。
神仏習合の時代には、熊野権現の本地仏は薬師さまでした。そこで熊野権現を勧進した行者は、この地の有力者の保護を受けつつ、熊野神社を建立し、別当寺として太興寺を建て、社僧として別当職を勤めるようになったというのが私の想像です。この仏も仁王さまと同じく戦果を逃れて、太興寺がここに遷た以後は、この本堂に秘仏として座っていらっしゃるのでしょう。 
  観音坐像の脇士として、両脇に立っているのが毘沙門天と不動明王です
報告書を見てみましょう。
6太興寺HPTIMAGE
不動明王立像は両眼開目して、

牙上出し、巻毛、頂蓮をつける。右手を垂下して剣を執り、左手は屈劈して絹索を握る。着衣の彫りは浅く、忿怒相も控えめであり、制作は平安時代後期期とみられるものである。

6太興寺
毘沙門天立像は、
現状では後世の修理を受けて粗い彫り口を呈する状態にあるが、頭部天冠台に遺された、列弁の内側に花弁型の飾りをあしらう形式は、平安時後期の特徴的な意匠であり、本像の制作年代を示しているものとみられよう。
中尊の左右に不動明王と毘沙門天天像を配する形式は、比叡山横川の観音堂に起源するとされるが、薬師如来が朱、衣金体であることころと併せて尊像構成も天台の系譜をひくものかと推測される。
本尊の薬師さんを、修験者の守護神である不動さんと毘沙門さんがお守りするというのも、いかにも密教修験者の寺らしい取り合わせだと思います。
この他に本堂には、江戸期の十二神将やかつて焔魔堂に祀られていた閻魔十王と奪衣婆の十一体も同居していて、にぎやかな雰囲気です。
6大興寺7 地蔵堂前
 報告書が気にしているのは「正面外陣に安置される地蔵菩薩立像」のようです。
 ほぼ等身大の地蔵さまについて次のように記します
作風と構造から江戸時代中ごろ以降とみられる。外陣に安置されることは客仏である可能性が高く、旧所在が不明なのは大いに不審である。像高からしてあるいは中世に所在した旧大興寺の本尊であった可能性もあるのではなかろうか。
 
私は、近世の絵図に仁王門前に描かれている「地蔵堂」に祀られていたお地蔵さまではないかと思っています。近世には地蔵信仰が庶民に広がり、新たに地蔵を祀る地蔵堂が霊場にも姿を見えるようになります。
6大興寺13

境内を歩いて感じる事は、直線的で近世近代的な伽藍配置であることです。それは、この寺が近世後半になって新しい場所で新しい伽藍が作られていったのですから当然かも知れません。しかし、江戸時代後半に出来上がった本堂には、平安期の観音様と不動様・毘沙門様がいらっしゃいました。
  以上、本堂まで見てきましたが今回はここまで
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
6大興寺5弘法大師

参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年
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6大興寺 明治の伽藍図

これは今から約120年ほど前の大興寺の伽藍図です。
日露戦争直前の明治末にあたる時代で、神仏分離を経た境内の姿が描かれています。これを見ると中央に本堂、本堂から見て右に大師堂、左に天台堂があります。大師堂前には茶堂、手洗が、天台堂前には地蔵菩薩立像、鐘楼が描かれています。
さらに左に客殿、庫裡などの建物があります。伽藍配置は、本堂と大師堂、天台堂が横一線に並び、前側に茶堂、手洗、鐘楼が並んでいます。階段を下ると右側に護摩堂があり、左側は竹藪です。また、仁王門前の境内外には地蔵堂が描かれています。
6大興寺15
この明治35年の絵図と現在の大興寺境内の建物配置は、基本的には同じことが分かります。この百年間は伽藍配置は大きく変わっていないようです。ただ現在は茶堂、護摩堂、地蔵堂がなくなっています。例えば、現在の仁王門の川の向こう側に立っていらっしゃる地蔵さまは、この絵図の右下地蔵堂にあったものかも知れません。
6大興寺13
かつての地蔵前に立つお地蔵さん
私が、気になるは本堂の左の社です。
明治の神仏分離の跡なので、境内の外にあるようにも見えますが、この社が熊野権現です。鳥居があるのが分かります。この社は熊野権現が勧進されもので、その別当寺を勤めていたのが大興寺だったことは前回にお話ししたとおりです。そういう意味では、この寺の原点はこの熊野権現の社であったともいえます。それは、蔵王権現の本地仏が薬師如来で、このお寺の本尊として祀られていることからも分かります。推測を交えて言うのなら、かつては熊野権現は北面して鎮座し、それに仕えるように北へ延びる参道の西側に本堂や太子堂・天台堂が並んでいたとも考えられます。
6大興寺2.熊野権現
一番上の段に鎮座する熊野神社
 戦国から近世、そして神仏分離後の近代までのこのお寺の伽藍配置を今回は見ていきたいと思います。
 中世の大興寺は、往時真言24坊、天台12坊の合計36坊が萱を連ね、真言天台二宗が兼学したという珍しい性格のお寺として隆盛を極めたと伝えられていますが、資料的な裏付けはありません。しかし、現在の大興寺境内にはは本堂に向って左側に弘法大師堂があり、右側には天台宗第三祖の智顎を祀る天台大師堂が並んであります。また、研究者は
「本尊脇侍が不動明王と毘沙門天と天台様式であり、真言天台二宗の兼学の名残を留めている」
と、その可能性は残します。

6大興寺2
そして報告書は、太興寺の伽藍変遷を追いかけます。
頼りにする史料は、棟札と紀行文です
①慶長2年(1597)の棟札には
「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」「諸堂大破 而瑕(仮)堂建立」
とあります。ここからは末寺の「泉上坊」と「乗林坊」が願主となり、生駒家が讃岐領主になって世情が安定した時期に「仮堂」を建立したことが分かります。
②僧澄禅によって書かれた『四国遍路日記』(承応2年(1653)には
 大興寺は「小松尾寺」と記され、説明文は「本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。」とあります。戦国時代の混乱で衰退したこのお寺は、江戸時代に入っても、仮堂状態で「寺は小庵」だったことが分かります。

6大興寺18弘法大師堂
 ちなみに澄禅は、荒廃していた周辺の霊場を次のよう挙げています。( )内は霊場番号
出釈迦山(我拝師山、十三番出釈迦寺=曼荼羅寺の奧の院)が「吹崩」
崇徳天皇(白峯宮、現在の七十九番高照院天皇寺はが「退転」
大窪寺(八十八番、)が「本坊ばかり」
金蔵寺(七十六番金倉寺)や道隆寺(七十七番)は「昔は七堂伽藍」として衰微したことをにおわせてはいますが、「荒廃」しているとは書いていません。ここからは、讃岐の霊場が土佐や伊予などに比べると、領主の保護政策によって戦乱からの復興が早かった事が分かります。
 その中でも大興寺は、復興が遅れたようで「小庵」と記されています。つまり、この寺は領主の保護寄進を受けるようなランクの寺ではなかったことを物語ります。
この報告書には
「慶長2年(1597)~承応2年(1653)までの56年間大興寺は、諸堂が大破した後、主要な建物として仮の本堂「薬師」のみの小庵のような状態であった」
と述べます。
「遺跡略記」には、
「今の薬師堂(本堂)建立は寛文九己酉年、塩飽島において、奉加の力を得、二間半四方建立成就せしものなり」
とあります。ここからは、澄禅が訪れた16年後の寛文9年(1669)に薬師堂が塩飽衆の寄進によって建立されたことが記されます。

6大興寺17.jpg鐘楼脇から本堂の右手に天台大師堂
 さらに「今の御影堂は寛文十一辛亥年二間四方、真価、自分建立す」とあり、薬師堂(本堂)建立に続いて2年後の寛文11年(1671)に御影堂が建立されたようです。
 以上をまとめると次のようになります。
慶長2年(1597)~寛文8年(1668)  瑕(仮)堂(小庵)
寛文9年(1669)~寛文10年(1670)  薬師堂(本堂)建立
寛文11年(1671)            御影堂建立
 元禄年間を前に、世の中が落ち着くにつれて、薬師堂(本堂)と御影堂が建ち並ぶ伽藍配置に復興していったことが分かります。しかし、そのレイアウト配置については報告書は「不明」とします。

 それから16年後に、この寺を参拝した僧真念の『四国辺路道指南』(貞享4年(1687))には、
「六十七番小松尾山東向き。豊田郡辻村。本尊薬師 坐長二尺五寸、大師御作」
と記すのみです。ここには薬師堂(本堂)・御影堂など、諸堂についての記述はありません。本堂についてのみ、今と同じ「東むき」の建物配置であったことが分かります。
さらに2年後に、僧寂本によって書かれた『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)には
「小松尾山大興寺、此寺大師弘仁十三年に開聞し玉ふとなり。そのかみは七堂伽藍の所、いまに堂塔の礎石あり其隆なりし時は、台密二教講学の練衆蝗のごとく群をなせりとなん。豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。
 本尊薬師如来、脇士不動毘沙門立像長四尺、皆大大師の御作。十二神各長三尺二寸、湛慶作なり。
本堂の右に鎮守熊野権現の祠
左に大師の御影堂、大師の像堪慶作なり。
天台大師の御影あり、醍醐勝覚の裏書あり。大興寺とある額あり、従三位藤原朝臣経朝文永四丁卯歳七月廿二日丁未書之、如此うら書あり。是経朝は世尊寺家也、行成八世の孫ときこゆ。むかしのさかえし事をおもひやる。ちかき比まで宝塔・鐘楼ありとなり。」
と、以下の挿絵と共にまとまった記述を残してくれています。

6大興寺18弘法大師堂.jezupg
この挿絵を見ながら内容を確認していきます。
①弘法大師開祖で、かつては七堂伽藍の大寺でいまに礎石が残る
②隆盛を極めた時代には、台密二教(天台・真言)の学徒が蝗(いなご)のごとく群をなして、この寺にやってきて学んだ=学問寺であった。
③本堂の右(本堂に向って左側)に鎮守熊野権現の祠、
④本堂は左(本堂に向って右側)に御影堂と並んで建っていた。
別当寺の本興寺は本堂の下の段にあった
伽藍配置は、現在と変わっていない事が挿図からも分かります。ただし、仁王門はありません。
 次に、110年後の『四国遍礼名所図会』(寛政12年1800)を見てみましょう。
当院も大師の御建立也。本尊薬師、脇士仏各大師の御作なり。
詠歌 植おきし小松尾寺をながむれば法のおしえの風ぞふきける
本堂本尊薬師如来坐像、脇士不動明王御長四尺、毘沙門天各大師御作、十二神御長三尺弐寸、湛慶の作、相生の松本堂の前に有、大師堂本堂より石だん下り、仁王門。」
と記します。
6大興寺garann
ここでも挿絵を見ながら諸堂を確認していきましょう。
①本堂右(本堂に向って左側)に鎮守熊野権現の社が一段高い所にあります。
②本堂(薬師堂)には薬師の脇士として不動明王と毘沙門天が祀られます。これは、修験道系の山岳信仰の寺院に共通することです。ここからは、このお寺が「山伏寺」的な性格を持っていた事がうかがえます。
③本堂左(本堂に向って右側)には建物が描かれていません。今まであった大師堂は石段を下り、右に描かれています。
④参道の左側には入母屋造の建物と茅葺の細長い建物が描かれています。
⑦表記や挿図から、仁王門、鐘楼、茶堂が確認することができます。
明治以後の百年間には、伽藍には大きな変化がなかったようです。しかし、それ以前の江戸時代には復興過程を通じて、伽藍配置は大きく変わって来た事がうかがえます。

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最後にQUESTION? 
大興寺は、いつ、誰の手によって現在地に移動してきたのでしょうか?
これについては、既に示した史料から推察する事が出来ます。
①慶長2年(1597)の棟札の「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」「諸堂大破而瑕 (仮)堂建立」とありました。ここからは「諸堂大破した後に瑕堂を建立」したことが記されています。そして、その願主は末寺の「泉上坊」と「乗林坊」です。
②前回示した周辺に残る古い地名で「泉上坊」がどこにあったかを探すと、それは大興寺の現在地周辺にあります。
つまり、近世初頭に大興寺の復興を担ったのが「泉上坊や乗林坊」で、その拠点近くに仮堂を建立したと私は考えています。つまり、古代中世の大興寺が現在地へ遷ってきたのは、近世初頭なのだと思います。
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 「移転」を行った「泉上坊」と「乗林坊」とはどんな性格の宗教者だったのでしょうか?
さらに推測を重ねますが、それを考える材料は
①「近世の太興寺が萩原寺の末寺に属し、現在は真言宗善通寺派に属していること」
②「雲辺寺との関係の深さ」
です。ここからは、真言系密教寺院の色合いが感じられます。「泉上坊」と「乗林坊」は、修験者のお寺だったと私は考えています。同時期に象頭山で金比羅を勧進して、金毘羅大権現を生み出していったような修験者がここにもいたのかもしれません。
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最後に、このお寺の伽藍配置の変遷を推察して終わりとします
①熊野行者によって勧進された熊野権現が一番高い所に社として祀られた。
②熊野権現の本地仏である薬師如来をまつる薬師堂が本堂として、一段下の壇に建立された。
③本堂両脇に弘法大師と天台宗の御影堂が並んだ
④さらに一段下に、別当寺である太興寺があった。
⑤さらにその一段下の小川に石橋が架けられ仁王門が姿を現した。
⑥一段下にあった大興寺が本堂の北側に庫裡と共に移動した
⑦仁王門前に地蔵堂が建立された。
以上、長い間、お付き合いいただいてありがとうございました。
次回は伽藍配置の変遷を、残された木札、石造物から確認して行きたいと思います。
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参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年
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地元では小松尾寺と呼ばれているこの四国霊場。
前後の雲辺寺や観音寺・本山寺・弥谷寺などに比べると、私には、もうひとつこの霊場の性格が見えてこないのです。別の言葉で言うと特色がないというか、印象に残らない札所です。立地条件も由来もよく分からないというのが正直な所でした。そんな中で、正式な調査報告書が近年に出ましたので、読んでみる事にします。お付き合いください。
まずは太興寺の歴史についてです
 このお寺は、四国八十八ヶ所霊場第67番札所の寺院で、真言宗善通寺派に属し、山号は小松尾山、院号は不動光院、坊号は泉上坊とします。本尊は薬師如来で、弘法大師の作とされます。
現在配られている『説明書』には次のように記されています。
「天平14年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1km北西に建立され、延暦11年(792)大師(空海)の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(822)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられています。」
 一方、大興寺所蔵の『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』には
「当山は七堂伽藍の霊跡で、弘仁13年(822)に弘法大師によって草創された」とあります。
どちらも弘仁13年の弘法大師の関与を記します。
 
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太興寺周辺の字切図
また、字切図に「大興寺」の小字名や、隣接して「鐘鋳原」の小字名が残り、その周辺から古瓦が出土しています。このことから『説明書』にあるように、元の大興寺は現在地よりも約1km北西にあったことがうかがえます。元の大興寺と推定される周辺からは、十三葉細素弁蓮華文軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦などの古瓦や鴎尾も出土していて、時期は白鳳期とされています。
お寺や神社は、古くからその地にあって動かないという意識が私の中にはありました。しかし、いろいろな史料を読んでいく内に、お寺は頻繁に動いていることが分かってきました。
現在の「学校」が町村合併の跡で、頻繁に統合移転を繰り返している姿とダブってきます。
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 このような言い伝えや縁起、出土遺物から研究者は次のように考えているようです。
①現在地よりも、北1キロに古代の大興寺は建立された
②弘法大師の創建か、再興かは別にして弘法大師と係わりのある寺院であること
③「大興寺」の小字名が残る区画白鳳期の古瓦が出土していることから、白鳳期に大興寺が建立されていた。
④これを裏付ける資料としては、平安時代後期(11世紀中後半頃)の作とされている割首としない一木割矧造の本尊薬師如来坐像がある。
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これを読んで初めて知ったのが、この地から白鳳期の瓦が出土していた事です。
まず私の興味は、「その古代寺院を建立したのは何者か? なぜこの地建立したのか?」という点に向かいます。
この地は、阿讃山脈の手前にそびえる菩提山(標高312.0m)から舌状に三豊平野に延びる低い丘陵上にあります。ちなみに菩提山は、条里制の基準線になった古代からの霊山でシンボル的な山だと考えられます。
 この付近の古代豪族として名前が挙がるのは、まずは讃岐忌部氏です。
忌部氏については、以前に述べましたので詳しくは、そちらをご覧ください。ここでは、忌部氏の氏神が粟井神社であること、母神山の群集墳の一部も忌部氏のものと考えられていることです。そして、古代苅田郡の南部は忌部氏によって開発されてきたとされています。その忌部氏の氏寺と考えることができそうです。粟井神社ー母神山ー太興寺というトライアングル地帯が忌部氏のテリトリーではなかったかとも思えてきます。
 そして、そこから見上げる菩提山、さらに上にある雲辺寺は霊山として信仰の対象であったという想像も生まれます。その霊山の行場をやってきた熊野行者が廻り始める。それは、観音寺から七宝山 → 弥谷寺寺 → 我拝師山(五岳) → 善通寺への辺路行道とつながっていく。その四国辺路を行道する若き日の空海の姿があったのかもしれません。想像力が私の中では、生まれ育っていきます。妄想をたくましくして「忌部氏の古代寺院 空海の辺路修行」という言葉をインプットしておくことにします。
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 太興寺の出発点となった古代寺院は、現在地ではなかったようです。
「元の大興寺は現在地よりも約1km北西」ということで、地図で確認しておきましょう。現在の場所で言うと、国道377号の南側の丘陵の突端になります。現在はここに、小さな庵が建っています。ロケーションは最高です。一ノ谷池の向こうに三豊の平野が広がり、その向こうには七宝山の連なりが望めます。
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古代太興寺跡周辺に建つ庵
ここは古代寺院の建立地としては納得のいくロケーションです。
太興寺に関する中世の資料は、あまりありません。  中世の遺品は次の通りです。
①鎌倉時代後期文永4年(1267)銘のある藤原経朝筆の「寺号扁額」
②建治2年(1276)の銘のある「木像天台大師像」「木像弘法大師像」、
③鎌倉時代末期康永3年(1344)6月26日の銘のある「青蓮院尊円親王の書状」
①の「寺号扁額」は木額で、正面に「大興寺」と刻み、背面には「文永四年丁卯七月二二日丁亥書之従三位藤原朝臣経朝」と刻まれており、1267年に藤原経朝が奉納したものです。鎌倉時代には京まで、このお寺の名声伝わっていたのかも知れません。『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』や『寺格昇格勧進之序』に「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍を誇った」とあるのも誇張とばかりは思えません。

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これ以外の中世史料はないのですが、前後の時代から次のような「状況証拠」は得られます。
 まず最初に紹介したこの寺の説明書には、次のように記していました。

「熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として・・・ 建立」

ここからはこの寺が、熊野権現の別当寺として建立されたことが記されています。それを裏付けるように、現在の本尊の薬師如来は熊野権現の本地仏でもあります。 さらに『四国偏礼宣揚記』の挿絵では、石段正面に薬師堂があって、大師堂と熊野権現並んで祀られています。太興寺は、その石段の下にあります。ここからも熊野権現が本尊で、その本地仏を祀る別当寺が太興寺だったことがうかがえます。中世の太興寺は、熊野社と本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が集まり住む僧侶集団全体が大興寺と呼ばれたようです。どちらにしても、太興寺も神仏習合のお寺で、初期には熊野行者の役割が大きかったのではないでしょうか。
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もうひとつ太興寺で、注目しておきたいのが菩提山です。
粟井村誌(昭和24年)の「粟井村有名地図」によると、菩提山頂上に「無量寺跡」、「佐々木神社跡」があったと次のように記します。
「無量寺跡」については、粟井町竹成にある薬師堂の沿革に「菩提山無量寺は元天台宗であったが天正の乱にかかりお堂をはじめ全部焼けてしまい、本尊と脇立(行基菩薩の作)を寺よりやっと持ち出すことが出来た。その後天和三年竹成薬師堂を建ててここにおまつりした。」とある。
また、廃寺の跡として菩提山無量寺は、「菩提山の上にあり、其の開いたはじめははっきりしない。別荘(土佛庵)の釈迦像、竹成の薬師像(薬師堂)はこの寺にまつってあったものといわれる。徳賢寺由緒の中に合田小三郎、年をとって天台宗の菩提山無量寺に入って僧となり重海という。その子善阿は徳賢寺を開いた人である。その後土佐の長宗我部元親によって焼きはらわれた。」とある。
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現在の菩提山の頂上について、報告書は次のように記します。
東西幅が約142.0m、南北幅約20.0mの東西に長い平坦地があり、やや西寄引こ北方向に東西幅約15.0m、南北幅約10.0mの突出部を持つような、ちょうど凸状を呈する平坦地が確認できる。(中略)
 しかし、礎石や瓦片などの「無量寺跡」と結びつく痕跡は確認できなかった。
 大興寺から菩提山間及び菩提山山頂で明確な遺構を確認していないが、「寺岡」から続く「蓮花」「れんごう」「奥蓮花」「菩提」などの小字名や「無量寺」が天台宗であったことから、大興寺との関係が推測できる。
報告書は、菩提山頂上には、長宗我部元親の侵入によって焼かれたと伝わる天台宗の無量寺の存在を裏付けています。この寺の存在は、太興寺の役割や性格を考える上で重要な意味を持っていると私は思っています。
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    本日はこれまで。中世まで太興寺のまとめです
①太興寺の起源は、白鳳期の古代寺院にまで遡れる可能性がある
②古代寺院の建立地は現在地よりも北西へ1㎞
③中世には天台・真言のふたつの学問寺として「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍」を誇った総合寺といわれるほど隆盛をきわめたとされるが資料的な裏付けはない。
④中世の太興寺は、熊野権現の別当寺であり、修験道の社僧達の拠点でもあった。
次回は、近世の伽藍復興について見ていこうと思います。

                       
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 金毘羅大権現の別当である金剛院院主を世襲化し、金毘羅領の封建的領主となる山下氏。
その菩提寺として山下氏が建立したのが宋運寺です。
私はこのお寺が金毘羅信仰を三豊の地に根付かせていく際に、大きな働きをしたのではないかと思っています。山下氏と宋運寺の関係を見ていきましょう。
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山下氏の菩提寺宋運寺の境内
 山下氏は長宗我部元親の讃岐侵攻時に従軍してきた一族といわれます。
長宗我部元親の讃岐進駐と土佐人の入植活動をみて見ましょう。
長宗我部氏の事跡を記した『土佐国朧簡集』という史料があります。
この中には三豊市にある地名がいくつか記されています。天正九年八月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の讃岐占領ともなって土佐からきた人物のようです。彼に与えられているのは、
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」
の地域にある土地で、それまで式内社の大水上神社の領地であった土地です。つまり、大水上神社が所有していた土地が、没収されて従軍していた土佐の人々に論功行賞として与えられたと考えられます。
この他にも、天正9年3月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、
天正10年5月には「財田・麻岩瀬村」で6か所が、土佐の従軍者に与えられています。
土佐軍が最も早く占領下に置いたのが三豊地方でした。
三豊の地は論功行賞により分配が行われ、土佐の「一領具足」たちの「入植」と「移住」が進められた地域なのです。そこには、近代の北海道の屯田兵や満蒙開拓団的な意味合いもあったのかもしれません。これを裏付けるかのように、高瀬町の矢大地区には土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、ここにある浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。
 北海道や満州への開拓団が地域のシンボルとして創建したのが神社でした。
移住者の精神的な紐帯を作り上げるために、元親は土佐から神社を勧進し新たな神社を建立します。その例が高瀬町上勝間にある日吉神社の元摂社、土佐神社です。この神社は長宗我部元親が矢ノ岡に創祀したと伝えられていて、新たな入植地での精神的支柱とするために創設したと考えられます。この神社は延宝三年(1676)に日枝神社境内に遷座されたようです。
 また、長尾氏出身の宥雅によって建立された琴平の金毘羅堂は、従軍修験者たちによって讃岐支配のための宗教的センターとして整備され、権力者を補佐する機能を持つようになります。後に入ってくる生駒氏や松平氏が金毘羅さんに注目し、保護した理由のひとつは長宗我部時代に作られた領主権力との関係に求めることができるのではないかと私は考えています。
このように、土佐からの入植者により原野が開発され、新たな村落が形成されていく姿が戦国末期の三豊の地には見られたのです

 しかし、土佐軍の占領支配は長くは続きませんでした。5年後に秀吉軍の「四国平定」で、長宗我部元親は讃岐を放棄・退却し、土佐一国のみの支配を許されます。この時に、三豊に「入植定住」していた土佐の武士団はどのような動きを見せたのでしょうか?
ここが面白い所だと私は思います。讃岐では、ここのところが軽く扱われています。讃岐にいた土佐武士団のとるべき道としては
①元親とともに、土佐に帰る
②讃岐で、入植した土地で「百姓」として生きる道をとる
①は、帰るべき土地と領土がある武士達はこの道を選ぶこともできたでしょう。しかし、四国平定の過程で論功行賞であらたな土地を手に入れた新参者達にとっては、入植地に残って生きる以外に道はなかったのではないでしょうか。新たな領主の生駒氏のもとで、いったんは刀や槍を隠し、武士から百姓へと姿を変えながら讃岐で生きることを選んだ「土佐一領具足」の人々もいたはずです。そして、残った土佐の領主層は、三豊の地に多く見られるようです。山下一族もこのような「土佐武士残留組」の一員であったと私は考えています。
  讃岐の地に「陸封」され、この地で生きることを選んだ山下氏の動きを見てみましょう。史料は山下家が建立した宋運寺と、琴平の山下家にあります。
元禄十一年(1698)山下本家五代目船江(山下)盛継の由緒書に記された山下家の出自を要約すると次のようになります
①藤原姓宇都宮流で、筑後国山下郡を知行したため山下姓を名乗るようになった。
②後に大友家に仕え、さらに土佐中村の一条家に仕えたが、長宗我部元親に主家が滅ぼされて、天正元年(一五七三)ごろ讃岐にやってきた
③財田西ノ村と河内村の境にある三王山を居城にして財田西ノ村を支配した。
 しかし、この記事には疑問点がいくつもあり、事実を伝えているとは言いがたいと「町史ことひら」は指摘しています。私は、先述した通り「長宗我部軍に従軍」してきた一領具足の一員とみています。17世紀後半になると、山下家は長宗我部との関係には触れられたくなかった訳があったようです。山下家とついては、別の機会で述べましたので、詳細は別校をご覧ください。要約すると・・
① 「占領軍たる長宗我部軍の在地化」した勢力のひとつが財田の山下氏
②財田の山下盛郷が讃岐山下氏の始祖
③二代目が盛勝で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になる。
④三代目が盛久で、父と同様に西ノ村郷司として、周辺の開発を積極的に行う。
この三代目盛久が晩年に出家して宗運と号します。これが現在の宋運寺(三豊市山本町)です。つまり、宋運寺は山下家の菩提寺として創建されたお寺なのです。
ちなみに盛久にはオナツという妹と盛光という弟がいました。
妹のオナツは生駒家2代目の一正の側室に上がり、左門という男子を産みます。左門は成長して殿様の息子として禄高5000石を支給される身になります。これは当時の生駒家では2番目高いサラリーでした。こうして、オナツとその子左門を中心に、閥族が形成されて行き、山下家は「外戚」として藩政に大きな影響力を持つようになります。それが後の生駒事件につながると考える研究者もいます。
 一方、オナツの弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この時期の山下家は、周辺の開発を積極的に行い、分家を増やし、勢力を拡大していったことがうかがえます。さて、河内村に分家した盛光の息子が宥睨が、金毘羅金光院の院主となるのです。つまり、生駒藩の殿様の寵愛を受けるオナツと、金光院院主・宥睨は「甥と叔母」という関係にあったわけです。こうして「生駒家(妹・オナツ)ー 山下家・宋運寺(盛久)ー 金毘羅大権現(甥・宥睨)」というオナツの系譜ができあがります。このような中で山下家の菩提寺として建立された宋運寺は、藩主の保護を受けながら寺勢を伸ばしていくことになります。

  山本町辻の背後には小高い丘があります。
そこに宋運寺と天満神社があり、神仏分離以前は一体でした。
天神神社から見ていきましょう。
天神とあるからには「天満」で、菅原道真を祭神と今はしています。
『生駒記』には「財田大野村天満宮は菅公の曽遊の地なり」
『西讃府志』にも「大野という名称は菅公の名付けたり、当時下大野は一九軒ばかりにて…」
とあり、菅原道真との関連を記します。
しかし、もともとこの神社が御神体としていたのは財田西字前山下の「岩神社」の磐座=巨石信仰でした。そのため「山の神」と呼ばれ、次第に豊作を祈願して農業神を祀る信仰を集めるようになっていったようです。
『西讃府志』には、それを裏付けるように
「岩神祠、上村にあり、石あり菅公影向の石とて上に駒の蹄あり」
とあります。この「岩神」に道真が国内巡行の際に参詣し、人々は巨大な石を「駒の石」と呼んでいると記しています。天満神社は、もともとはこの「岩神」が前身で、天神思想が「流行神」として広がるとともに天神社を併せ祀るようになり、現在地に移ってきたようです。中世に関する史料はないのですが、近世については正確な資料が残っています。
隣接する宗運寺を建立した山下家の文書や由来が残っているのです。
先にも述べた通り、山下家は江戸時代には金毘羅さんの金光院を世襲化することになります。その由来記よると、次のように記されています。
藤原氏の後裔、山下盛久が隠居して宗運と称し、土佐より財田に居宅を移し、寺院を建立すると同時にその守護神として慶長十一年、当天満宮を建立した
と記されています。長宗我部に従い征服者としてやって来た山下家が建立したお寺と神社なのです。その後、山下家は生駒家藩主の側室(オナツ)を出し、手厚い保護を受けるようになり、元和年間には、オナツが男の子を産んだ褒美として、藩主によって社殿が再建されます。その時の建造物としては本殿・拝殿・神輿庫・社務所があり、宝物は書(元和六年、生駒熊丸筆)棟札二点、扁額(承応四年)と記されています。
 また『西讃府志』には
「天満宮祭祀八月二十五日、社林二町余、神田三反九畝(三九町)或郡内ノ総社卜称シテ三十三年毎二開扉アリ」
とあり、三豊地域の国内の人々の深い信仰を集め、聖廟として尊敬されていたことが分かります。
 こうして、この天神神社はこの地区の氏神様という性格を越えて、三豊各地から信仰をい集める神社であったようです。その神社を別当として管理していたのが宋運寺で、山下家ということになります。

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 天神神社の奉納競馬について
  最初にこの神社の境内に入っていく時に違和感を抱いたことを覚えています。南側から長い長い参道が拝殿に向けて伸びているのです。何のために?と疑問に思いました。
 調べてみると、この神社の祭りの行事には奉納競馬が行われていたようです。
江戸時代初期には、専門的な馬術士が数多く参加して、この馬場で互いに馬や騎術を競ったのです。『西讃府志』によると
「西の村(財田西)の畜産、牛六〇馬三〇
とあります。財田村に30頭の馬がいたというのです。財田上の村の34頭についで丸亀以西の第2位です。
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天神神社 拝殿

なぜ、この村には馬が多くいたのでしょうか。
 地図を見ると分かるのですが、ここは財田側川の屈曲点に当たり、阿波からの道が財田を抜けて平野部への出口となる交通の要衝にあたります。伊予土佐からの金毘羅街道と財田猪の鼻を経て箸蔵・池田を結ぶ街道との分岐点にもなります。そのため、人やモノの集積地点として駄賃馬・駄賃車など馬借・車借が多かったようです。生駒家の保護以外にも、地理的な要因も奉納競馬を盛んにする原因と考えられます。
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 古老の伝えるところでは、昔は遠く徳島県からも専門馬や騎手が集まり、またこの行事を見物するために数千人の参拝者が集まり、祭日は郡内屈指の盛況であったといいます。
江戸時代にこの祭りに参加した人々は、天神神社の別当が山下氏であり、金毘羅大権現の金光院と深いつながりにあることは知っていたはずです。ある意味、宋運寺と金毘羅大権現は一体として捉えられていたかもしれません。
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それを物語るかのように宗運寺と金光院の住職の交流は頻繁に行われています。例えば、山下家出身の金光院宥常が寄進した本尊厨子・須弥壇がこの寺には残っています。そして生駒・京極両家ともに西讃の大寺院としての格付けを許したと、山下家宝録に記されています。
 しかし、明治の神仏分離政策で天神神社の別当寺として役割を奪われた後は、苦しい境遇に襲われたようです。古記録・什宝・什器も散逸したといいます。わずかに残った帝釈天の木像だけが、藤原時代の名作として寺歴を物語っています。また、本尊の聖観音像は応現変化したのでしょうか、帝釈天の姿を示しています。製作年代は、十一世紀ごろの藤原時代と推定され、香川県にある天部像の中では優れた仏像とされ、県の文化財に指定されています。
 寺の本堂の南側の一画に鳥居を建て不動明王の石造を祀っています。ここからは、もともとはこの寺はかつての「岩神社」の巨石信仰を行場とする修験者達の痕跡ではないかという気がします。
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このように藩政下の神仏混交の下では、天神神社と宋運寺は一体として別当職の山下家にあり、金毘羅神をまつる金毘羅大権現とも深い関係にあったことを述べてきました。これを背景にして、宋運寺は三豊地区の各地区で金毘羅信仰の伝播のための「こんぴらさん」設置を進めたのではないでしょうか。そして、その実働部隊は江戸時代は象頭山の修験者で、明治後は箸蔵の修験者達だったと私は考えています。
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 「こんぴらさん」札入は、、中讃には見られない信仰施設です。それが三豊の旧山本町や旧大野原町周辺のみに見られるのはどうしたかと考えるときに、三豊にあって中讃地区にないものは「宋運寺」の存在です。「宋運寺 + 山下家 + 修験者(山伏)」という関係が「こんぴらさん」札入設置の推進力になったと、今は推測しています。
 そして、中讃では設置運動が進まなかったのは、浄土宗興正寺派の「講」を通じた信仰集団の結びつきの強さがあったために、それが阻害要因としてして働き、設置が進まなかったと考えています。しかし、資料的な裏付けはありません。

本山寺の本堂・仁王門の折衷様式は、どこからもたらされたのか

文化財協会の研修で改修が終わったばかりの本山寺の五重塔と善通寺の五重塔を見に行くことになりました。明治以後に作られた讃岐の五重塔を実際に見て、登って内部まで身近に観察し、ふたつの塔を比較しようとする企画です。しかも、案内してくれるのは改修工事を進めた設計事務所の責任者の方です。ホイホイと付いていくことにしました。
 また、本山寺には香川県では2つしかない国宝建築物の本堂と重文の仁王門、さらに登録文化財に指定されている建物が境内には並びます。それらも新たな目で見てみましょう。
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まずやってきたのは、本山寺。迎えてくれるのは仁王門です。
 近世の大形化した仁王門に見慣れていると小さく感じるかもしれません。見所はと聞かれると
「いろいろな様式が取り入れられ、瀬戸内の寺院らしい折衷様式の仁王門」
と言うことになるようです。詳しく見てみましょう。
イメージ 2
柱は円柱で前列・中列・後列にそれぞれ四本づつ合わせて十二本の使われています。まん中の柱が本柱で、前後別の柱は控柱で八本あり入脚門と呼ばれます。控柱には天竺様式の粽があります。切妻造、本瓦葦、軒は二重繁垂木、組物は和様三ツ斗です。
肘木の両端には禅宗様式の象鼻に似た絵様繰形があります。
木鼻の上には天竺様(大仏様式ともいう)の特色である皿斗が見られます。和様、唐様や天竺様の手法を多く取り入れて、それを大胆奇抜に組合せていています。

「宮大工の腕が存分に発揮されている」とも言えますが、私には良い意味で「遊んでいる」とも思えます。
 その「折衷感=ごちゃ混ぜ感」が全国的にも類例がなく貴重だと言われているようです。

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なぜ、全国でも珍しい折衷様式の門や本堂がここに建てられたのでしょうか?
 ある宮大工は、次のように瀬戸の寺を勧めます
 国宝、重要文化財というと、まず頭に浮かぶのが奈良、京都ですが「鎌倉、室町時代」という中世の建築を見るのなら、瀬戸内をお奨めします。
兵庫県小野市の浄土寺浄土堂から始まって、山陽道の福山の明王院・尾道の浄土寺などの中世のいいお寺がいくつもあります。播磨の浄土寺浄土堂は、東大寺大仏殿を再建した重源が残した数少ない天竺様の建物です。尾道の浄土寺の本堂は東大寺大工が奈良からやってきて造っています。
 尾道の浄土寺本堂に残っていた棟札には、大工藤原友国、藤原国貞という名前が残っていて、藤原という立派な姓まである東大寺大工のようです。この二人が奈良から呼ばれて、はるばる尾道までやってきて、浄土寺本堂を建てたのです。
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その仕事ぶりを専門家は次のように評します。
東大寺の真似をしないで、自由な発想で仕事をしている。東大寺を真似したようなところはまったくない。やればできたはずなのに、していない」
というのです。しかも、和様の中に天竺様を取り入れた折衷様にして、実によく整った姿の本堂を造っています。この本堂と、その隣にある阿弥陀堂の軒反りは「中世建築を代表するほどの美しい」と言われます。
二人の大工は、なぜ、東大寺の真似をしなかったのでしょうか。
 現在の宮大工の一人は次のよう推理します
奈良からはるかに離れた尾道の地に来たことで、普段の枠を離れて仕事をできたからではないか。格式が高く、何かと規制も厳しかった奈良から離れて、尾道にやって来たことが規制から離れて、自由な発想で仕事をできたのではないか
 職人にとって一番幸せなのは、思う存分に仕事ができることでしょう。しきたりや決め事から離れて、思う存分に瀬戸内海の港町で仕事をしたのではないでしょうか。それが新しい折衷様式を生み出す原動力になったのかもしれません。
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 仁王門の中には木造金剛力士立像(県指定重要文化財 平成9年5月23日)指定がにらみを効かせています。

   本山寺の本堂についても見ておきましょう。
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「桁行五間に梁間五間の規模で、屋根は本瓦葺きの一重寄棟造。正面に三間の向拝がつけられた中世密教本堂の典型
もともと、この本堂は正応年間京極近江守氏信の寄進にと伝えられてきました。しかし、昭和28年2月からの解体修理の際に、礎石に
「為二世恙地成就同観房正安二年三月七日」(1300年)
という墨書銘が発見され、鎌倉時代後期の正安2年(1300年)に建てられた事が分かりました。そして修理が完了した昭和30年に国宝指定がされました。
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 その際に、墨書銘より「末清および国重」という二人の宮大工によって建てられた事が分かりました。その後の研究で、この二人は奈良の宮大工で、奈良の霊山寺本堂や、西の京の薬師寺東院堂を手がけていることも分かってきました。
 ちなみに、本山寺の本堂は尾道の浄土寺に40年近く先行することになります。最初、私は尾道の浄土寺の動きが先行し、本山寺が影響を受けたのだろうと考えていました。しかし、それは逆なのです。可能性としては、本山寺の方が浄土寺に影響を与えたと考えるべきなのです。その意味でもこの本堂は「折衷様遺構の最古」と言えるようです。
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 今は海は人々を隔てるものと写ります。しかし、当時の瀬戸内海は、人々を隔てる物ではなく人と物を結びつけるものだったのです。三豊と福山・尾道は廻船を通じて海でつながっていました。仁尾の港と尾道の数多くの船が行き来していたことが資料からも明らかになっています。
 ここからは私の想像ですが、今までにない不思議な形をした本堂が讃岐の本山寺に現れたという噂は、尾道にも伝わっていたかもしれません。それを聞いて、浄土寺の住職や奈良きた棟梁がこの三豊の地まで見学に訪れる。そして「うちも本山寺のように折衷でやってください。おまかせします」なんて言ったかも・・・・
そんなストーリを考えると楽しくなります。

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 そのような流れの中で、この寺の本堂・仁王門を考えて見たときに「瀬戸内海式の和唐折衷様式」というのは納得のいく話です。 

本堂の外陣で住職から次のような話を伺いました

昭和の解体修理の時は「建設当時の姿にもどす」というのが原則でした。そのため内陣に置かれていたいろいろな付属品などは取り払いすっきりしました。
当時の住職が、修理終了間際に「外陣の畳はいつ入るのですか」と問うと、「鎌倉時代の寺院には畳はありません」と言われたそうです。その後、寺のお金で畳は用意したということです。
外陣が当時の真言のお寺さんとしては広いようで、そこに鎌倉時代の「仏教の庶民化」という流れが出ているそうです。
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時間が来てしまいました。
今日はここまでです。
五重塔については、また次回に

参考文献 松浦昭次 宮大工と歩く千年の古寺

小松尾寺は、天台・真言の合同学問所だった?

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『四国領礼霊場記』は、小松尾山大興寺と呼んでいますが、俗称は小松尾寺です。
本尊は薬師如来。
ご詠歌は「うゑおきし小松尾寺を眺むれば 法の教への風ぞ吹きぬる」です。
植えると小松を掛けて、吹く風に法の教えの遺がついたと詠んでいます。小松を弘法大師が植えておいたという意味だとおもいますが、弘法大師お手植えと伝えられる松があります。

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縁起は平凡です。

 弘法大師が弘仁十三年(822)に、嵯峨天皇の勅命によって熊野三所権現鎮護の霊場として建立し、本尊薬師如来を彫刻したという縁起です。熊野三所権現のなかでは、新宮大社が薬師如来を本地としていますが、本末は阿弥陀如来です。しかも、三尊がそろっていないと熊野三所権現とはいえません。
 小松尾寺は熊野三所権現を移したというよりは、むしろ阿須賀神社を移したのだろうとおもいます。ですから薬師如来が本尊としてまつられているのです。
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『四国損礼霊場記』に、「台密二教漢学の練衆、朧のごとく群をなせりとなん」とありますから、盛んなときは鹿のように群れをなして学問をする者がいたわけです。
そして、非常に珍しいことに、このお寺は天台宗寺院と真言宗寺院の両方から成り立っていたことが分かります。大和の当麻寺のように、真言宗と浄土宗が一つになったお寺はよくあります。真言宗が加持祈祷をし、浄土宗が亡くなった方の供養と「分業」している例です。しかし、天台と真言が一寺を形成したというのは、きわめてまれな例です。そこで両宗が教学を競うように、講学練達の学僧がが集まったのだとおもわれます。
 雲辺寺も「四国高野山」と呼ばれる教学の寺だと伝わりますので、山上と里に僧侶達の学問所が並立していたことになります。

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もとは真言宗の寺院が二十四坊、天台宗の寺院が十二坊あって、本堂の左右に並んでいたそうです。『四国損礼霊場記』には、
「天台大師の御影あり。醍醐勝覚の裏書あり」と書いているので、天台大師の像は雨像だとおもわれます。
 弘法大師の遺跡としては、お手植えの樟と称する大木があります。

この寺の歴史は、むしろ鎮守の熊野権現の別当寺が大興寺だったので札所になったのでしょう。

本尊の薬師如来も熊野権現の本地仏です。
『四国偏礼宣揚記』の挿絵では、石段正面に薬師堂があって、大師堂があり熊野権現が描かれています。石段の下に大興寺あり。ここからも本来は熊野権現が本尊で、その本地仏が薬師ですから、二にして一なるものです。「小松尾寺図」は、熊野社と本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が大興寺であったことを示しています。

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 この寺は鎌倉時代には京都にまでも聞こえていたらしくて、「大興寺」の額は京都の世尊寺家で藤原行成第ハ世の孫の藤原経朝が書いています。額には「従三位藤原朝臣従朝文末四年即成七月計二日 丁末書之」という裏書があります。
 室町時代には三十六坊が並んでいたといいます。しかし、讃岐の神社仏閣の例に漏れず天正年間の長宗我部の兵火に焼かれ、慶長年間にに再建されました。その時に現在地点に移ってきたといわれます。旧寺地は1キロほど北西だったようです。
江戸時代の記録には、次のように記します。
本尊薬師如来、脇士不動、毘沙門立像長四尺、皆大師の御作、十二神将各員三尺三寸、
堪(湛)座作なり。本堂の右に鎮守熊野権現の祠、左に大師の御影堂、大師の像堪座作なり
 こう見てくると村の中のお寺で、熊野権現がなければ札所になるのは考えられないようなお寺です。民家がすぐ前に建っている絵図を見ますと、昔から民家の間にあったようです。
 
 参考文献 五来重:四国遍路の寺

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