前回までは金倉寺縁起上巻を見てきました。そこには、日本武尊・讃留礼王から綾氏・酒部氏・和気氏をへて、智証大師に至るまでの事績と金倉寺の前身寺院の伝が記されていました。今回は、中巻の前半部の円珍誕生から出家までを見ていくことにします。テキストは「 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 香川叢書 巻一 397P」です。
讚岐國鶴足山金倉寺縁起 巻中(NO1)
意訳変換しておくと当寺の初祖智證大師は、原田戸主長の和氣宅成の次男である。母は佐伯氏で、弘田郷領の出身で、弘法大師の姪である。嵯峨天皇の弘仁四年夏、母の夢の中で、日輪赫変が口に飛び入ってくるのを見て、授かった子である。そして翌年3月25日誕生した。生まれるときには、天中から声が聞こえ、南無大通智勝佛が唱えられ、眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆のようで、肉髪に似ていた。宅成公は、この姿を見て奇相と思い、廣雄と名付けた。二歳の時に麻田に遊び入ると廻りが光明を発して光り輝いた。隣の里の人々までもが驚嘆した。三歳の春二月には、弘法大師が円珍を見て、その母に「あの子は非凡である」と告げたという。これを軽々しく捨て置く事はできない言葉である。ある日には童子八人が天から下りてきて、円珍と遊んだ。円珍は幼くして老成の趣があった。見識のある者は異才と思った。五歳の時、訶利帝母が現れ、次のように告げた。汝は三光の中の明星となれ。あなたは天子の精で、虚空菩薩の権化(生まれ代わり)である。私はあなたと多くの契りを交わそう。あなたは将来、佛法を興すことになる人物である。私は、あなたの庇護者となろう。七歳の時には、雲衣童子が現れて次のように云った。私は文殊大士の指示で、あなたが生まれる前から見守り、保護してきたと。八歳の時には、父が云うには。内典の中に、過去や因果を記した経典があると聞く。願わくば吾をして、習わしめんと
ここには智証大師の母が弘法大師の姪とされています。
これが最初に登場するのは、『天台宗延暦寺座主円珍伝』です。円珍伝には、次のように記されています。
意訳変換しておくと
注意して欲しいのは、ここには円珍の母は「空海の妹」とは記されていないことです。「空海の姪」です。
田公を空海の父とし、円珍のことも記している『佐伯直系図』
しかし、後世になると「円珍の母=空海の妹」説となり、「円珍=空海の甥」説が生まれることは以前にお話ししました。どちらにしても、佐伯直氏にもいろいろな流れがあったようですが、田公の家系と和気氏(因支首氏)が婚姻関係にあり、ごく近い関係にあったことを金倉寺側は世間に伝えたかったようです。ある意味、弘法大師と善通寺を金倉寺は意識しています。
また生まれた時の姿を「眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆」と記します。円珍のトレードマークであった「卵頭」は生まれつきだったようです。そして円珍の守護神として訶利帝母が登場します。これも別の機会にお話しすることにして、先を急ぎます。

これが最初に登場するのは、『天台宗延暦寺座主円珍伝』です。円珍伝には、次のように記されています。
「A 母佐伯氏 B 故僧正空海阿閣梨之姪也」
意訳変換しておくと
「円珍の母は佐伯氏出身で、故僧正空海阿閣梨の姪である」
注意して欲しいのは、ここには円珍の母は「空海の妹」とは記されていないことです。「空海の姪」です。

しかし、後世になると「円珍の母=空海の妹」説となり、「円珍=空海の甥」説が生まれることは以前にお話ししました。どちらにしても、佐伯直氏にもいろいろな流れがあったようですが、田公の家系と和気氏(因支首氏)が婚姻関係にあり、ごく近い関係にあったことを金倉寺側は世間に伝えたかったようです。ある意味、弘法大師と善通寺を金倉寺は意識しています。
また生まれた時の姿を「眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆」と記します。円珍のトレードマークであった「卵頭」は生まれつきだったようです。そして円珍の守護神として訶利帝母が登場します。これも別の機会にお話しすることにして、先を急ぎます。

讚岐國鶴足山金倉寺縁起 巻中(NO2)
父親の願いを聞いて、驚くべきことにすぐに付箋をつけた。九歳の時に、師祖である伝教大師が亡くなられた。十歳の時、毛詩・論語。漢書・文選等を学び、多くの書物も読破し身につけた。十四歳の時、叔父の仁徳法師に従って上洛した。十五歳で叡山に登り、事座主義真和尚を師とした。和尚は円珍を見るなり、その器量を見抜き、心を尽くして善導した。そこで學んだのは、法華・金光明経などや天台宗章琉、などで、ほとんどを網羅したものであった。淳和天皇の天長九年、円珍十九歳で年分試を奉じ、三月十五日断髪、四月八日受戒し沙爾となった。その名は円珍。文字の意味は遠崖。この月二十一日に都を出て、二十八日に讃岐原田郷の自在王堂に還ってきた。留まること五ケ月で、深山山林原野の山林修行に入り、伽藍を造営し、仏像を彫った。。こうして道隆寺、宝幢寺、金剛寺、城山寺、白峰寺、根香寺、古水寺、鷲峰寺、千光寺などの伽藍を造営した。(注記)古記に曰わく、讃岐の智証大師開基の寺は17寺に及ぶと) 八月一日に讃岐を離れ、五日に入京。七日に叡山に帰った。
14歳の時に、叔父の仁徳法師に連れられて比叡山に赴いたとされています。仁徳については、円珍系図に以下のように記されています。
円珍系図 左の一番下の「広雄=円珍」 その上の「宅成=円珍の父」「宅丸=仁徳=円珍の叔父」
意訳変換しておくと
円珍系図 左の一番下の「広雄=円珍」 その上の「宅成=円珍の父」「宅丸=仁徳=円珍の叔父」
天長十年(833)3月25日付の「円珍度牒」(園城寺文書)に、次のように記されています。
沙弥円珍年十九 讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成戸口同姓広雄
意訳変換しておくと
沙弥円珍は十九歳、讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成の戸籍 広雄
ここからは、次のようなことが分かります。
①円珍の本貫が 那珂郡金倉郷であったこと②戸籍筆頭者が宅成であったこと③俗名が広雄であったこと
これは、円珍系図とも整合します。ここからは円珍の本貫が、那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵寺町一帯)にあったことが分かります。現在の金倉寺は因支首氏(和気公)の居館跡に立てられたという伝承を裏付け、信憑性を持たせる史料です。
円珍 「讃岐国名勝図会」 国会図書館デジタルアーカイブ
貞観十年(868)に54歳で、第五代天台座主となり、寛平三年(891)に亡くなるまで、24年間の長きにわたって座主をつとめます。その間には、園城寺を再興し、伝法灌頂の道場とします。また清和天皇や藤原良房の護持僧として祈祷をおこない、宮中から天台密教の支持を得ることに成功します。死後36年経た、延長五年(927)に「智証大師」の号を得ています。
一説によると、12年の籠山後、32歳の時に熊野那智の滝にて千日の修行をおこなったとされます。しかし、これは円珍の法灯を継ぐ天台寺門派の聖護院が、「顕・密・修験」を教義の中心に置き、熊野本山派の検校を寺門派が代々引き継ぐことによって、作り出された伝承とされます。ここからは京都の聖護院に属する本山派修験者たちが、円珍を「始祖」として、信仰対象にしていたことがうかがえます。それが後に天台系密教修験者たちの祖とされ、白峯寺や根来寺の開基にも関わったされるようになったと研究者は考えています。ある意味では、醍醐寺の開祖聖宝が真言系修験者たちから開祖とされ、いろいろな伝説が生まれてくるのと似ています。
円珍は、実際には15歳の上京以後は、讃岐の地を踏むことはなかったと研究者は考えています。
にもかかわらず円珍創建・中興とされる寺院が数多くあります。例えば「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場します。この縁起には、次のように記されます。
にもかかわらず円珍創建・中興とされる寺院が数多くあります。例えば「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場します。この縁起には、次のように記されます。
貞観二年(860)、円珍が五色台の山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられた。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺?)、白峯寺の四ヶ寺に納めた。
この縁起には、根来寺や白峰寺・国分寺の本尊の千手観音は円珍の自作とされています。当時の五色台は、本山派の天台密教に属する修験者たちの拠点であったようです。これに対して、聖通寺から沙弥島・本島には、真言密教の当山派(醍醐寺)の理源大師の伝説が残されています。瀬戸内海でもエリアによって両者が住み分けていたことがうかがえます。
白峯寺は今は真言宗寺院ですが、近年の調査で修禅大師義真像(円珍の師、鎌倉時代作)が伝わっていたり、他にも、天台大師像、智証大師(円珍)像、山王曼荼羅図が伝えられていることが報告されています。また、根香寺には、元徳三年(1331)の墨書銘がある木造の円珍坐像があります。
根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。八十七番札所の長尾寺も、松平頼重によって天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。
円珍信仰・伝説の背後には、聖護院の本山派修験者たちの存在が透けて見えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。八十七番札所の長尾寺も、松平頼重によって天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。
根来寺の智証大師像(松平頼重寄進)
金倉寺の智弁大師像(松平頼重寄進)
長尾寺の智弁大師像 (松平頼重寄進)円珍信仰・伝説の背後には、聖護院の本山派修験者たちの存在が透けて見えてきます。
参考文献
「 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 香川叢書 巻一 397P」
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