先ツ当寺ノ開基鑑真和尚也。和尚来朝ノ時、此沖ヲ通り玉フカ、此南二異気在トテ、 此嶋二船ヲ着ケ見玉テ、何様寺院ヲ可建立霊地トテ、当嶋ノ北ノ峯二寺ヲ立テ、則南面山ト号玉フ。是本朝律寺ノ最初也。(中略)其後、大師(弘法大師)当山ヲ再興シ玉フ時、北ノ峯ハ余り人里遠シテ、還テ化益難成トテ、 南ノ峯二引玉テ、嵯峨ノ天皇ノ勅願寺トシ玉フ、 山号ハ如元南面山尾嶋寺千光院ト号、千手観音ヲ造、本堂二安置シ玉フ、大門ノ額ヲハ、遍照金昭三密行所当都率天内院管門ト書玉フ。
意訳変換しておくと
屋島寺の開基は鑑真和上である。①鑑眞が唐からやって来たときに、屋島沖を通過した。その際に、南に異常な気配を察して、屋島に船を着けて見てみると、寺院建立に最適の霊地だったので、屋島北峯に寺を立て、南面山と号した。つまり、屋島寺は、日本における最初の律宗寺院である。(中略)その後、②退転していたのを弘法大師が再興する際に、北峯は人里遠く布教には適していないとして、南峯に移した。そして、嵯峨天皇の勅願寺とし、南面山屋島尾千光院と号した。千手観音を造り、本堂に安置した。大門の額には、「遍照金剛三密行所当都率天内院管門」と書いた。
ここに書かれていることを要約しておくと
①屋島寺の開基は鑑眞で、日本で最初の律宗寺院を屋島北嶺に建立した②退転して屋島寺を弘法大師が復興し、南嶺に移し、自作の千手観音を本尊として安置した
ここには、屋島寺は勧進和尚が屋島北嶺に建立した寺院で、それを空海が南嶺に移したと記されています。つまり、屋島寺のスタートは北嶺にあったというのです。そして、北嶺には「千間堂」という地名が残り、ここに本堂が建立されたとされてきました。しかし、千間堂についての詳しいことはよく分かっていませんでした。近年になって、千間堂跡が発掘されて調査報告書が出されています。発掘から分かったこと、新たに生まれた謎について見ていくことにします。
①2間×3間の南面する東西建物で土壇を持つ②周辺部には目立った遺構がないこと③土壇中からは多口瓶が3点出土したこと
北嶺から出てきた建物が2間×3間の規模でした。この規模は、古代の大寺院では鐘楼や経蔵規模の建物か付属雑舎程度です。しかし、周辺調査からは、これ以上の規模の建物跡はでてきませんでした。この規模のものが、本当に本堂だったのかという疑問が湧いてきます。その際に参考になるのが前回お話しした山林寺院・中寺廃寺(まんのう町)の仏堂跡です。

初期の山林寺院の仏堂としては、この規模のものが普通だったようです。この建物が千間堂の仏堂と研究者は考えています。寺伝をそのまま信用するならば、ここに普賢菩薩が安置されていたことになります。
調査前には、金堂や僧房・塔などの大規模な伽藍跡が出てくるのではないかという期待もあったようです。しかし、それは期待外れに終わって、出てきたのは建物遺構は2棟だけでした。ここからは、北嶺千間堂の伽藍配置は、土壇をもつ礎石建物跡(千間堂)を中心に、小規模な掘立柱の建物遺構が点在する伽藍配置だったと研究者は判断します。それが当時の地方の山林寺院の姿であったとしておきます。中寺廃寺の仏堂と塔(復元想像図)
中寺廃寺の仏堂跡と塔跡(仏堂は三間×二間 塔は三間×三間)
中寺の仏堂跡も本尊を安置すれば、空間がなくなる「お堂」的な存在でした。また下図のように、この規模の建物を本堂とする山林寺院は、他にもあります。
初期の山林寺院の仏堂としては、この規模のものが普通だったようです。この建物が千間堂の仏堂と研究者は考えています。寺伝をそのまま信用するならば、ここに普賢菩薩が安置されていたことになります。
千間堂跡の土壇からは、須恵器多口瓶が3点出土しています。

屋島寺千間堂跡出土の多口瓶
多口瓶は仏具とされるので、この建物が寺跡であることが裏付けられます。全体像が復元できたのは3点です。径の大きさからすると、綾歌郡飯山町法勲寺から出てきた多口瓶の大きさと似ていると研究者は指摘します。屋島寺の周辺から出てきた多口瓶は次の通りです。ちなみに、中寺廃寺では西播磨産の多口瓶が出てきていることは以前にお話ししました。
屋島寺周辺の多口瓶
この中で法勲寺(香川県綾歌郡飯山町)のものと共有点が多いと研究者は次のように指摘します。その特徴をまとめておくと
① 古代豪族綾氏の氏寺:法勲寺跡の大窪谷川の南側護岸から出土
② 白鳳期~室町時代の瓦に混じって出土したもので、注口部から胴部上半の破片。
③ 胎土に砂粒を多く含み、内面には接合痕があること
④ 突帯の接合方法も上部は撫でられているが、下部は接合痕が認められること
⑤ 以上から、千間堂のものと同じ工人・窯跡産のものである可能性が極めて高い。
それでは、千間堂跡と法勲寺跡から出土した多口瓶は、どこで作られたのでしょうか
以前にお話したように、十瓶山窯跡群は綾氏によって作られた最新鋭の窯業地帯で、そこには国衙が管理する官営工場もありました。研究者は、陶の官営工場でこの多口瓶は焼成されたと推察します。しかし、十瓶山窯跡群からは、多口瓶は出てきていません。特殊な器種であることから生産数が限られ、窯場に残らなかったとしておきます。
中寺廃寺の多口瓶出土状況
多口瓶は何のために、どのような役割のために用いられたのでしょうか?
それを知る手がかりを見ていくことにします。
それを知る手がかりを見ていくことにします。
①倉吉市大御堂廃寺では講堂基壇から多口瓶が出土していますが、ひとつの多口瓶の破片が周辺に広がっていたこと②姫路市播磨国分寺から出土した多口瓶も金堂の再堆積土から破片で出土していること。以上から基壇を造る際に、地鎮として仏具である多口瓶を破砕し、基壇造成土に埋め込んだことが推測できます。③明日香村の川原寺の塔の場合は、無文銀銭と金銅円板が版築土中から発見されていること。④西大寺東塔では、基壇完成までに銭播地鎮が少なくとも三回にわたって行われたこと
以上からは、作壇の際には、仏具である多口瓶を破砕し、土壇に破片を埋納する地鎮を行いながら、作壇作業が行われたことがうかがえます。
屋島寺縁起には、鑑真が日本にやってきた754年前後に北嶺千間堂は創建されたとされていました。しかし、8世紀にまで遡れる遺物は、千間堂跡からは出てきませんでした。北嶺で遺物が出てくるのは9世紀になってからです。そして出土量は10~ 11世紀にかけて多くなります。この時期は、中寺廃寺と比べると、開始は少し遅れますが、ほぼ活動時期が重なることを押さえておきます。
多口瓶や本尊について研究者が注目するのは次の点です。
多口瓶や本尊について研究者が注目するのは次の点です。
①平底をもつ多口瓶の製作年代は10世紀前半②他の2つは、寺に伝世していたものを10世紀の前半に土壇をもつ礎石建物を構築するために破砕したもの③北嶺に「本堂(千間堂)」が建てられた時期に先行して本尊の千手観音坐像が制作④寺の記録には空海自らが彫り千光院に安置したとあるが、空海時代のものではない。⑤屋島寺は鑑真が北嶺に開基した時の本尊は普賢菩薩だった。⑥それは1391年(明徳21年)の西大寺末寺帳に「屋島普賢寺」という寺名が見え、寺名は普賢菩薩に由来するとある。
北嶺で出土する遺物が11世紀代を境に減少します。一方、南嶺ではこの時期から遺物が増加します。ここからは、11世紀末から12世紀初頭には寺が南嶺に移ったと研究者は判断します。この移動の大きな原因を報告書は次のように記します。
この頃から四国霊場八十八箇所巡りが始まったことにより、参拝に不便な北嶺(修験の場)から、平野に近い南嶺(世俗化)に移した結果である。
これには次のような異議が出されます。プロの修験者による辺路修行からアマチュア信者による四国遍路へと、姿を変えるのは近世になってからです。変遷理由を四国霊場の成立に求めるには無理があるように私には思えます。
どちらにしても南嶺に移って以後、寺域は急速に拡張されていきます。それは次のような史料で裏付けられます。
①梵鐘に記載された銘文から1223年((貞応二年)讃岐国住人蓮阿弥陀仏の勧進によって梵鐘鋳造
②血の池とは一連の池であったと想定される貯水池推定地の調査で、堆積土の中から炭・焼土とともに多くの瓦が出土
③第6層からは焼土・炭や火を受けた木材などが多く出土する
④ここからは、この時期(13世紀の中頃)に、寺の一部が焼失し、その廃品・廃材を血の池の南に投棄した
⑤その後、本堂は鎌倉時代末頃に再建された。
また寺名については、次のような変化が見られます。
A 明徳21年 (1391年)の西大寺末寺帳には「屋島普賢寺」B 永享 8年 (1436年)の 「西大寺坊坊寄宿諸末寺帳」には「讃岐國屋嶋寺」
この末寺帳の記述からは、次のような事が分かります。
①屋島寺が、14世紀末には西大寺真言律宗の寺になっていたこと②Aでは寺名が本尊に由来する普賢寺 それまでの本尊は普賢菩薩③Aから50年ののBでは、屋嶋寺に変化
かつては、屋島寺は奈良西大寺の律宗集団の影響下に置かれていたことが裏付けられます。それが屋島寺縁起の中に「鑑眞が、日本で最初の律宗寺院を屋島北嶺に建立」と記される背景のようです。

ここで西大寺の勧進活動と讃岐国分寺の関係について触れておきます。

屋島寺本尊の十一面観音
ここで西大寺の勧進活動と讃岐国分寺の関係について触れておきます。
13世紀末から14世紀初頭は、元寇の元軍撃退祈祷への「成功報酬」として幕府が寺社建立を支援保護した時期であることは以前にお話ししました。そのため各地で寺社建立や再興が進められます。このような中で西大寺律宗の叡尊の後継者となった信空・忍性は朝廷から諸国の国分寺再建(勧進)を命じられます。こうして西大寺は、各地の国分寺再興に乗り出していきます。そして、奈良の般若寺や尾道の浄土寺を末寺化した手法で、国分寺を末寺として教派の拡大に努めます。
江戸時代中期萩藩への書状である『院長寺社出来』長府国分寺の項には、「亀山院(鎌倉時代末期)が諸国国分寺19ケ寺を以って西大寺に寄付」と記しています。別本の末寺帳には、1391(明徳2)年までに讃岐、長門はじめ8カ国の国分寺は、西大寺の末寺であったとされます。
1702(元禄15)年完成の『本朝高僧伝』第正十九「信空伝」には、鎌倉最末期に後宇多院は、西大寺第二代長老信空からの受戒を謝して、十余州国分寺を西大寺子院としたと記されています。この記事は、日本全国の国分寺が西大寺の管掌下におかれたことを意味しており、ホンマかいなとすぐには信じられません。しかし、鎌倉時代終末には、讃岐国分寺など19カ寺が実質的に西大寺の末寺であったことは間違いないと研究者は考えているようです。
どちらにしてもここで押さえておきたいのは、元寇後の14世紀初頭前後に行われる讃岐国分寺再興は西大寺の勧進で行われたことです。そして、屋島寺普賢寺から屋島寺への寺名変更や、普賢菩薩から千手観音への本尊変更もこの時期と重なります。つまり、寺名や本尊変更には、末寺化した西大寺の布教方針があったと私は考えています。
これとリンクするのが以前にお話した「髙松七観音ルート」の形成です。高松周辺の次の四国霊場の七ヶ寺は観音様を本尊としています。
これとリンクするのが以前にお話した「髙松七観音ルート」の形成です。高松周辺の次の四国霊場の七ヶ寺は観音様を本尊としています。
国分寺 → 白峰寺 → 根来寺 → 屋島寺 → 八栗寺 → 志度寺 → 長尾寺
この「髙松七観音巡礼」を進めた宗教勢力があったはずです。それも西大寺律宗の布教活動が背後にあるのではないかという仮説につながります
江戸時代になると龍厳の勧進に始まり、歴代の藩主の加護を受け、屋島寺は急速に復興します。
屋島寺の末寺は、四天門前にあった南泉寺の他、一乗坊・善賢院・宝積坊・霊厳坊・比之坊・元久坊・東景坊・長崎坊の八坊が山上や近くにあったようです。ここからは、屋島寺が弥谷寺や白峰寺と同じく、廻国の修験者や聖たちの共同運営に拠っていたことがうかがえます。しかし、これらも江戸時代の中期までに退転します。
これを中寺廃寺と比較すると、中寺廃寺は古代から中世への移行期に退転し、姿を消して行きました。それに対して屋島寺は、西大寺律宗の西国への強勢拡大の拠点として、南嶺に復興され存続する道が開けたということにしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
屋島北嶺 千間堂跡発掘調査報告書
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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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屋島北嶺 千間堂跡発掘調査報告書
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