「なよ竹物語」は、物語中で女主人公が読む和歌の文句を取って「くれ竹物語」とも呼ばれます。また後世には「鳴門中将物語」とも呼ばれるようになります。そのあらすじは
鎌倉後期、後嵯峨院の時代、ある年の春二月、花徳門の御壷で行われた蹴鞠を見物に来ていたある少将の妻が、後嵯峨院に見初められる。苦悩の末、妻は院の寵を受け容れ、その果報として少将は中将に出世する。人の妻である女房が帝に見出され、その寵愛を受け容れることで、当の妻はもとより、周囲の人々にまで繁栄をもたらす
しかし、「なよ竹物語」では、主人公の少将が、嗚門の中将とあだ名され、妻のおかげで出世できたと椰楡される落ちがついています。「鳴門」は良き若布(わかめ)の産地であり、良き若妻(わかめ)のおかげで好運を得た中将に風刺が加えられています。戦前の軍国主義の時代には、内容的にもあまり良くないと冷遇されていた気配がします。
この物語は人気を得て広く流布したようです。建長6年(1254)成立の「古今著問集』に挿人されたり、鎌倉時代末から南北朝期の「乳母草子」や二条良基の『おもひのまヽの日記」にその名が見えます。こうして見ると物語としては13世紀に成立していたことになります。絵巻は、現状では九段分の画面に分けています。今回は金刀比羅宮にある「重文・なよ竹物語」を見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」です。
確かに、冒頭、自然景の中での蹴鞠の場面では、堂々たる樹木の表現に比べて、人物たちは小振りでプロポーションも悪く、直線的な衣の線は折り紙を折って貼り付けたような固さと平面性をかもし出している。
しかしこれが、第三段の清涼殿南庇間における饗宴の場面や、第五段の最勝講の場、第七段の泉殿と思しき殿合で小宰相局が院に手紙の内容を説明する場面など、建築物の内部を舞台とする場面では、定規を用いた屋台引きの直線が作り出す空間の中で、直線を強調した強装束をまとった人物たちは、極めて自然な存在感をかもし出す。全体に本絵巻の作者は、建築物を始め、車輌や率内調度品などの器物の描写に優れ、やや太目の濃墨線で、目に鮮やかにくっきりとそれらの「もの」達の実在感を描き出す。
衣服の紋様表現や襖の装飾なども、神経質な細かさを見せており、直線的な強装束をまとった人物表現や、少々厚手で濃厚な色彩感などと相候って、全体としてグラフィカルな感覚を前面に強く押し出した画風を創出している。
なよ竹物語 第三段の清涼殿南庇間の饗宴場面(金刀比羅宮蔵)
なよ竹物語 第五段の最勝講の場
なよ竹物語 第九段
なよ竹物語 第五段の最勝講の場
なよ竹物語 第九段
一方で自然景のみを独立して見た場合、冒頭の蹴鞠の場の樹木表現や、第八段の遣水の表現など、この画家が自然の景物の描写についても決して劣っていなかったことが容易に分かる。院と少将の妻が語らう夜の庭に蛍を飛ばすなど、明けやすい夏の夜の風情を情感景かに盛り上げる叙情的なセンスも宿している。そのことはまた、両家が物語世界を深く理解していたことも示していよう。
このように評した上で金刀比羅宮の「なよ竹物語」と「狭衣物語絵」(東京国立博物館・個人蔵)を比較して次のように指摘します。
重要文化財 狭衣物語絵巻断簡 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館蔵
重要文化財 狭衣物語絵巻断簡 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館蔵
①人物のプロポーションや、殿上人の衣の縁を太目の色線でくくる表現などが「狭衣物語絵」(東京国立博物館・個人蔵)と共通
②第八段の男女の夜の語らいの姿を殿合の中央に開いた戸の奥に見せる手法は「狭衣物語絵」第五段の狭衣中将が女と契りを結ぶ場面と似ている
③「狭衣物語絵」の人物の顔貌が引目鉤鼻の形式性をよく残すのに対して、金刀比羅宮の絵巻の顔はより実人性を強く見せること
④「狭衣物語絵」の霞のくくりがより明確な線を用いていること
⑤ゆったりとした人物配置や空間のバランス感覚は、両者に共通
以上から両者が14世紀前半の近い時代に制作されたものと研究者は判断します。そうすると、なよ竹物語の成立は13世紀前半ですが、金刀比羅宮のものは、それより1世紀後に描かれた者と云うことになります。
⑤ゆったりとした人物配置や空間のバランス感覚は、両者に共通
以上から両者が14世紀前半の近い時代に制作されたものと研究者は判断します。そうすると、なよ竹物語の成立は13世紀前半ですが、金刀比羅宮のものは、それより1世紀後に描かれた者と云うことになります。
さてこの絵巻は、どんな形で金刀比羅宮にやってきたのでしょうか?
金刀比羅宮の「宝物台帳」は、この絵巻の伝来事情を次のように記します。
「後深草天皇勅納 讃岐阿野郡白峯崇徳天皇旧御廟所准勅封ノ御品ニテ 明治十一年四月十三日愛媛県ヨリ引渡サル」
意訳変換しておくと
「後深草天皇が讃岐阿野郡の白峯崇徳天皇の旧御廟所(頓證寺)に奉納した御品で、明治11年4月13日に愛媛県より(本社に)引渡された。」
ここからはこの絵巻が、白峰寺の崇徳天皇廟頓證寺に准勅封の宝物として大切に伝えられたもが、愛媛県から引き渡されたことが分かります。
それでは、白峰寺から金刀比羅宮に引き渡されたのはどうしてなのでしょうか?
明治11年に、次のような申請書が金刀比羅宮から県に提出されます。
ここでは②「抜け殻」になった頓證寺を③金刀比羅宮が管轄下におくべきだと主張しています。この背景には、江戸後期になって京都の安井金毘羅宮などで拡がった「崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説がありました。それが金毘羅本社でも、受け入れられるようになったことは以前にお話ししました。そして明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、一部で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用されることになります。こうして金刀比羅宮の祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられます。そして、崇徳上皇信仰拠点とするために目をつけたのが、廃寺になった白峰寺の頓證寺です。これを金刀比羅宮は摂社化して管理下に置こうとします。
申請を受けた県や国の担当者は、現地調査も聞き取り調査も行なっていません。
机上の書面だけで頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この瞬間から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。そして、その中に補完されていた宝物の多くが金刀比羅宮の所有となり、持ち去られます。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。これが明治11年4月13日のことです。「金毘羅庶民信仰資料 年表篇」には、これを次のように記します。
この経緯が、かつての金刀比羅宮白峰寺の説明版には次のように記されていました。
ここからは次のようなことが分かります。
机上の書面だけで頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この瞬間から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。そして、その中に補完されていた宝物の多くが金刀比羅宮の所有となり、持ち去られます。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。これが明治11年4月13日のことです。「金毘羅庶民信仰資料 年表篇」には、これを次のように記します。
阿野郡松山旧頓詮寺堂宇を当宮境外摂社として白峰神社創颯、崇徳天皇を奉祀じ御相殿に待賢門院・大山祇命を本祀する」
この経緯が、かつての金刀比羅宮白峰寺の説明版には次のように記されていました。
ここからは次のようなことが分かります。
①頓證寺が金刀比羅宮の境外摂社として
②敷地建物宝物等一切が金刀比羅宮の所有となったこと。③大正3年になって、白峯神社が金刀比羅宮の現在地に遷座したこと④現白峯神社の随神は、頓證寺の勅額門にあったものであること
こうして、明治になって住職がいなくなった白峰寺は廃寺になり、その中の頓證寺は金刀比羅宮の管理下に置かれて「白峯寺神社」となったことを押さえておきます。頓證寺にあった宝物は、金刀比羅宮の管理下に移されます。この時に、なよ竹物語などの絵画も、金刀比羅に持ちされられたようです。これに対して白峯寺の復興と財物の返還運動を続けたのが地元の住人達です。
高屋村・青海村を中心とする地域住民による「頓証寺殿復興運動」が本格化するのは、1896年8月ことです。その後の動きを年表化しておきます
1896年8月 「当白峯寺境内内二有之元頓証寺以テ当寺工御返附下サレ度二付願」を香川県知事に提出。この嘆願書の原案文書が青海村の大庄屋を務めた渡辺家に残っている。
1896年8月 「当白峯寺境内内二有之元頓証寺以テ当寺工御返附下サレ度二付願」を香川県知事に提出。この嘆願書の原案文書が青海村の大庄屋を務めた渡辺家に残っている。
1897年 松山村村長渡辺三吾と代表20名の連署で「頓證寺興復之義二付請願」を香川県知事に提出
1898年9月27日 香川県知事が頓証寺殿復旧について訓令。頓証寺殿は白峯寺に復するとして、地所、建物、什宝等が返還。
1899年2月 宝物返還を記念して一般公開などの行事開催。しかし、この時にすべての什宝が返還されたわけではなかったようです。
1899年2月 宝物返還を記念して一般公開などの行事開催。しかし、この時にすべての什宝が返還されたわけではなかったようです。
1906年6月27日に 白峯寺住職林圭潤や松山村の信徒総代等が「寺属什宝復旧返附願」を香川県知事小野田元煕に提出
これは3年後の1909年の「崇徳天皇七五〇年忌大法会」に向けての「完全返還」を求めての具体的な行動で、未だ返還されていない什宝返還を願い出たものだったようです。
当初、1878年に白峯寺から金刀比羅官に移された宝物総数は54件、延点数173点でした。
それが1898年に返還されたのは、24件、延点数67点にしか過ぎません。返還されたのは仏具など仏教関係のモノが中心で、その他のものは返還に応じません。この結果、半分以上のものが返還されないままだったのです。その代表が「なよ竹物語」です。そこで改めて「崇徳天皇七五〇年忌大法会」を期に「完全返還」を求めたのです。しかし、この願いは金刀比羅宮には聞き届けられません。その後も何度か返還の動きがあったようですが返還にはつながりません。
戦後の返還運動は「崇徳天皇八百年御式年祭(1964年)」後の翌年のことです。
この際は、松山青年団が中心となって1965年9月7日付けで、金刀比羅陵光重宛に「白峯山上崇徳天皇御霊前の宝物返還についてお願い」を提出しています。 これ対し金刀比羅宮は、1898(明治31)年に頓証寺堂宇を白峯寺に引き渡した際に、所属の宝物と仏堂仏式に属する什宅については同時に引き渡したと言う内容の回答を行っています。両者の言い分は次の通りです。
これは3年後の1909年の「崇徳天皇七五〇年忌大法会」に向けての「完全返還」を求めての具体的な行動で、未だ返還されていない什宝返還を願い出たものだったようです。
当初、1878年に白峯寺から金刀比羅官に移された宝物総数は54件、延点数173点でした。
それが1898年に返還されたのは、24件、延点数67点にしか過ぎません。返還されたのは仏具など仏教関係のモノが中心で、その他のものは返還に応じません。この結果、半分以上のものが返還されないままだったのです。その代表が「なよ竹物語」です。そこで改めて「崇徳天皇七五〇年忌大法会」を期に「完全返還」を求めたのです。しかし、この願いは金刀比羅宮には聞き届けられません。その後も何度か返還の動きがあったようですが返還にはつながりません。
戦後の返還運動は「崇徳天皇八百年御式年祭(1964年)」後の翌年のことです。
この際は、松山青年団が中心となって1965年9月7日付けで、金刀比羅陵光重宛に「白峯山上崇徳天皇御霊前の宝物返還についてお願い」を提出しています。 これ対し金刀比羅宮は、1898(明治31)年に頓証寺堂宇を白峯寺に引き渡した際に、所属の宝物と仏堂仏式に属する什宅については同時に引き渡したと言う内容の回答を行っています。両者の言い分は次の通りです。
政府や県の承認にもとづいて頓證寺の占有権を得たのであって、その時期に金刀比羅宮のものとなった宝物の返還の義務はないという立場のようです。こうして、百年以上経ったいまも金刀比羅宮蔵となってます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」