根香寺納経帳(明治38年)
根香寺の歴史を見てきましたが、もうひとつ踏み込んだ説明が欲しいなあと思っていると、報告書の最後に「考察」部がありました。ここに私が疑問に思うことに対する「回答」がいくつかありましたので紹介しておきたいと思います。テキストは「上野進 古代・中世における根香寺 根香寺調査報告書 香川県教育委員会2012年版127P」です。 根香寺の開創は、縁起にどのように書かれているのか
根香寺の縁起としては『根香寺略縁起』(1)と『青峰山根香寺記』(2)があります。前者は住職俊海が著したもので、俊海の住職期間が享保17年(1732)~寛保元年(1741)なので、その頃に書かれたようです。後者は延享3年(1746)に次の住職である受潤が著したもので、開基円珍の事跡を物語風に延べ、寺歴も詳細に記されています。このふたつの縁起が近接して書かれた背景には、直前の大火があったようです。この時の大火でほとんどを消失いた根香寺は再建と同時に、失われた縁起などの再作成が課題となったのでしょう。それに二人の住職は、それぞれの立場で応えようとしたようです。
『青峰山根香寺略縁起』:
当山は円珍が初めて結界した地で、円珍が七体千手のうち千眼千手の像を安置し、さらに山内鎮護のために不動明王を彫り、安置した
根香寺は円珍の創立で、中国から帰国し、讃岐国原田村の自在王堂に円珍が数か月逗留した際、しばしば山野をめぐり、訪れた青峰において老翁(山の主である市瀬明神)と遊遁し、この老翁から「当地が観音応化の地で三谷があり、蓮華谷に金堂を造立して本尊を安置せよ」と告げられた。そこで円珍は香木で造った千手千眼の観音像を当山に安置し、また不動明王像も自作し安置した。神が現れた地には祠を立て、鎮守として祀った
どちらも「根香寺=円珍単独開創説」をとります。
円珍は金倉寺が誕生地で、母は空海の佐伯家から嫁いできていた伝えられます。唐から帰国後の円珍が讃岐に滞在する時間はあったのでしょうか。『讃岐国鶏足山金倉寺縁起』には、天安2年(858)9月、円珍が大宰府から平安京に向かう途中で、金倉寺の前身である道善寺に逗留したと伝えます。しかし、これを事実とみるのは難しいと研究者は考えています。ただし、3年後の貞観3年(861)、円珍が道善寺の新堂合の落慶斎会に招かれたとの寺伝があるようです。 この頃、円珍が故郷に帰省していた可能性はあると考える研究者もいるようです。
寛文9年(1669)の『御料分中宮由来。同寺々由来』にも根香寺が「貞観年中智証大師の造立」とあり、貞観年間(859~877)に円珍が根香寺を開創したとという認識があったことがうかがえます。しかし、円珍による根香寺開創を史料的に裏づけることは難しく、伝承の域を出ないと研究者は考えています。
円珍は金倉寺が誕生地で、母は空海の佐伯家から嫁いできていた伝えられます。唐から帰国後の円珍が讃岐に滞在する時間はあったのでしょうか。『讃岐国鶏足山金倉寺縁起』には、天安2年(858)9月、円珍が大宰府から平安京に向かう途中で、金倉寺の前身である道善寺に逗留したと伝えます。しかし、これを事実とみるのは難しいと研究者は考えています。ただし、3年後の貞観3年(861)、円珍が道善寺の新堂合の落慶斎会に招かれたとの寺伝があるようです。 この頃、円珍が故郷に帰省していた可能性はあると考える研究者もいるようです。
寛文9年(1669)の『御料分中宮由来。同寺々由来』にも根香寺が「貞観年中智証大師の造立」とあり、貞観年間(859~877)に円珍が根香寺を開創したとという認識があったことがうかがえます。しかし、円珍による根香寺開創を史料的に裏づけることは難しく、伝承の域を出ないと研究者は考えています。
『根香寺略縁起』は、本尊千手観音の「複数同木説」を採ります。
これに対して後から書かれた『青峰山根香寺記』は、円珍と老翁(市瀬明神)の出会いに重点が置かれます。このちがいは、どこからきているのでしょうか?このことを考えるうえで参考となるのが、前札所の第81番札所白峰寺の『白峯寺縁起』(1406年)だと研究者は指摘します。『白峯寺縁起』には、次のように記されています。
これに対して後から書かれた『青峰山根香寺記』は、円珍と老翁(市瀬明神)の出会いに重点が置かれます。このちがいは、どこからきているのでしょうか?このことを考えるうえで参考となるのが、前札所の第81番札所白峰寺の『白峯寺縁起』(1406年)だと研究者は指摘します。『白峯寺縁起』には、次のように記されています。
空海が五色台に地を定め、貞観2年に円珍が山の守護神の老翁に会い、十体の仏像を造立し、49院を草創した。そして十体の仏像のうち、4体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置された。
青峰山根香寺記を絵図化した根香寺古図 右下に円珍と明神の出会い
これに対して『青峰山根香寺記』は、複数同木説を採りません。
しかし、円珍と老翁の出会いをスタートにする点では『白峯寺縁起』と似ています。『青峰山根香寺記』は、老翁を地主市瀬明神として登場させることによって独自性を出そうとしているようにも見えます。ここからは『青峰山根香寺記』が作成された時期の根香寺が、独自な縁起を必要としていたことがうかがわせると研究者は指摘します。
これに対して『青峰山根香寺記』は、複数同木説を採りません。
しかし、円珍と老翁の出会いをスタートにする点では『白峯寺縁起』と似ています。『青峰山根香寺記』は、老翁を地主市瀬明神として登場させることによって独自性を出そうとしているようにも見えます。ここからは『青峰山根香寺記』が作成された時期の根香寺が、独自な縁起を必要としていたことがうかがわせると研究者は指摘します。
以上のように、古代の根香寺について具体的に明らかにできることは少ないのですが『根香寺略縁起』と『青峰山根香寺記』は『白峯寺縁起』との類似性が認められること、そして前者は複数同木説を採用し、『白峯寺縁起』にみえる伝承を受け継いでいることを押さえておきます。
次に、山岳寺院としての根香寺を見ていくことにします
『白峯寺縁起』のなかに十体の仏像を造立し、このうち4体の千手観音を、白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置したとありました。ここに出てくる根来寺以外の3つの寺院を整理しておきます。
白峯寺は「五色台」の西方、白峯山上に位置する山岳寺院吉水寺は近世に無住となったが、白峯寺と根香寺の間に位置した山岳寺院白牛寺は、白牛山と号する国分寺のことで、「五色台」のすぐ南の平地にあること。
古代の根香寺は、白峯寺・吉水寺と同じように「五色台」の山岳寺院の一つとで、山林修行の行場であったと研究者は考えています。
僧侶の山林修行の必要性は早くから国家も認めていました。古代の支配者が密教に求めたものは、「悪霊から身を守ってくれる護摩祈祷」でした。空海の弟真雅は、天皇家や貴族との深いつながりを持つようになりますが、彼の役割は「天皇家の専属祈祷師」として「宮中に24年間待機」することでした。そこでは「霊験あらたかな法力」が求められたのであり、それは「山林修行」によって得られると考えられました。そのため国家や国府も直営の山林寺院を準備するようになります。
それが讃岐では、まんのう町の大川山の山中に姿を現した中寺廃寺になつようです。
中寺廃寺復元図(まんのう町)
ここにはお堂や塔も造られ、高級品の陶器や古代の独古なども出土しています。設立には、国衙が関わっていると報告書は記します。 同じような視点で国分寺を見てみましょう。
『白峯寺縁起』には、白牛寺(国分寺)の名が、「五色台」の山林寺院と並んであげられていました。これは、平地部の国分寺が五色台の山岳寺院とセットとなっていたことを示すと研究者は推測します。
七宝山の中辺路ルートと山林寺院
例えば、三豊の七宝山は観音寺から曼荼羅寺までの「中辺路」ルートの修行コースで、そこに観音寺や本山寺などの拠点があったことは以前にお話ししました。善通寺の五岳も曼荼羅寺から弥谷寺への「中辺路」ルートであった可能性があります。同じように国分寺の背後の五色台にも、「中辺路ルート」があり、その行場の近くに根香寺は姿を見せたと私は考えています。根香寺の山林寺院としての古代創建説を裏付ける文献史料はありませんが、次のような状況証拠はあるようです。
①根香寺に近い勝賀山北東麓に位置する勝賀廃寺は、白鳳期に創建された寺院跡とされます。根香寺が勝賀廃寺と同じ頃に草創された可能性はあります。
②根香寺の本堂裏の「根香寺経塚」の存在です。ここからは浄土教が広まり、仏縁を結んで救済されようとした人々がいたことが分かります。あるいは青峯山が修験の行場としての性格をもっていたのかもしれません。経典を写経し、周辺行場で修行し、それが終わると次の聖地に廻国していく修験者の姿が見えてきます。
四国遍路の成立については、近年の研究者は次のように段階的に形成されてきたと考えるようになっています。
①平安時代に登場する僧侶などの「辺路修行」を原型とし、②その延長線上に鎌倉・室町時代のプロの修験者たちによる修行としての「四国辺路」が形成され③江戸時代に八十八カ所の確立されてからアマチュア遍路による「四国遍路」の成立
つまり中世の「辺地修行」から近世の「四国遍路」へという二段階成立説が有力なようです。中世の「四国辺路」は、修行のプロによる修行的要素が強く残る段階です。「辺路修行を」宗教民俗学者の五来重は、行場をめぐる「大中小行道」の3つに分類します。
①海岸沿いに四国全体を回る「大行道(辺路)」②近隣の複数の聖地をめぐる「中行道(辺路)」③堂宇や岩の周りを回る「小行道(辺路)」
ここから海を望む「四国遍路」誕生を発想しました。例えば例として示すのが室戸岬の金剛頂寺(西寺)と最御崎寺(東寺)との関係です。近世の「遍路」は順路に従って、お札を納めて朱印を頂いて行くだけです。しかし、中世の行者たちは岩に何日も籠もり、西寺と東寺を毎日往復する行を行い、同時に西寺下の行道岩の周りをめぐったり、座禅を行ったりしていたようです。これが②③になります。それも一日ではなく、満足のいくまで繰り返すのです。それが「験(げん)を積む」ことで「修行」なのです。これをやらないと法力は高まりません。ゲーム的にいうならば、修行ポイントを高めないと「ボスキャラ」は倒せないのです。
どちらにしても中世のプロの行者たちは、ひとつの行場に長い間とどまりました。
そのためには、拠点になる建物も必要になります。こうしてお堂が姿を現し、「空海修行の地」と云われるようになると行者も数多くやって来るようになり、お堂に住み着き定住化する行者(僧)も出てきます。それが寺院へと発展していきます。これらの山林寺院は、行者によって結ばれ、「山林寺院ネットワーク」で結ばれていました。これが「中辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
そのためには、拠点になる建物も必要になります。こうしてお堂が姿を現し、「空海修行の地」と云われるようになると行者も数多くやって来るようになり、お堂に住み着き定住化する行者(僧)も出てきます。それが寺院へと発展していきます。これらの山林寺院は、行者によって結ばれ、「山林寺院ネットワーク」で結ばれていました。これが「中辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
そこを拠点にして、弥谷寺のように周辺の里に布教活動を行う高野聖のような行者も現れます。当然、そこには浄土=阿弥陀信仰が入ってきて、阿弥陀仏も祀られることになります。それが七宝山や五岳、五色台では、同時進行で進んでいたと私は考えています。
以上から古代の根香寺については、「五色台」の山岳寺院の一つとして「中辺路」ルートの拠点寺となっていたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「上野進 古代・中世における根香寺 根香寺調査報告書 教育委員会2012年版127P」
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