瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の四国霊場 > 弥谷寺

15・16世紀には、瀬戸内海に多くの石造物を供給していた弥谷寺石工たちは、17世紀になると急速に衰退していきます。その背景には、軟らかい凝灰岩から硬い花崗岩への石材変化があったことを以前にお話ししました。もうひとつの原因は、ライバルとしての豊島の石工集団の成長があったようです。今回は、豊島石工たちがどのように成長し、弥谷寺石工達から市場を奪っていったのかを見ていくことにします。テキストは「松田朝由  豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年」です。

豊島の加工場左
豊島の石工作業場(日本山海名産名物図会)
前回は「日本山海名産名物図会」(1799年刊行)に紹介されている豊島の石切場と石造物について見ました。豊島石製品として「水筒(⑤⑧⑨)、水走(⑥)、火炉、へっつい(小型かまど④)などの類」とありました。さまざまな石造物が制作されているのですが、燈籠や五輪塔については触れられていませんし、挿絵にも燈籠③が一基描かれているだけでした。この図会が出版された18世紀末になると、豊島でも五輪塔の生産は、終わっていたようです。
豊島石の五輪塔は近世(江戸時代)になると、形を大きく変化させ独特の形状になります。これを豊島型五輪塔と呼んでいます。豊島型五輪塔は香川県、岡山県の広域に流通するようになり、それまでの天霧石の石造物から市場を奪っていきます。

豊島型五輪塔2
豊島型五輪塔

豊島型五輪塔の特徴を、研究者は次のように指摘します
①備讃瀬戸を跨いで香川、岡山の両県に分布する
②中世五輪塔と比較すると、他よりも大型である
③宝医印塔の馬耳状突起に似た突起をもつ特異な火輪が特徴である
②風輪と空輪が別石で構成される
④少数ではあるが正面に方形状の孔を穿った地輪がある、
⑤地輪の下に台石をおく
⑥塔内部が彫られて空洞になっている

具体的な検討は省略し、形態変遷から明らかとなった点だけを挙げます。
豊島型五輪塔編年図
豊島型五輪塔編年図
Ⅰ期 豊島型五輪塔の最盛期
Ⅱ期 花崗岩の墓標や五輪塔、宝筐印塔の普及により衰退時期へ
Ⅲ要 かろうじて島外への搬出が認められるものの減少・衰退過程
Ⅳ期 造立は島内にほぼ限定され、形態的独自性も喪失した、
それではⅠ期の「豊島の五輪塔の最盛期」とは、いつ頃なのでしょうか。
豊島型五輪塔が、出現した時期をまずは押さえます。造立年代が推定される豊島産の石造物は24例で、高松以東が14例、高松から西が10例になるようです。各世紀毎に見ると次の通りです。
15世紀段階では、高松以東では豊島石が2例、豊島石以外が4例で、豊島石が多いとはいえない。この時代の石材の多くは「白粉石」と呼ばれる火山の凝灰岩で、スタイルも豊島型五輪塔独特の要素はまだ見られず、その萌芽らしきものだけです。
16世紀 3例中の2例が豊島石。形態は地蔵と板碑。
17世紀初頭 生駒家当主の墓は超大型五輪塔でつくられるが、石材は豊島石ではなく、天霧石が使われている。
一方、高松から西の地域の状況は次の通りです。
15世紀 豊島石石造物は見つかっていない。
16世紀 6例あるも、豊島石ではなく在地の凝灰岩。
17世紀初頭 在地の凝灰岩使用

次に豊島石の搬出開始時期について見ていくことにします。
香川県内において年号の確認できる初期の豊島石石造物は次の通りです。
①高松市神内家墓地の文正元年(1466)銘の五輪塔
②長尾町極楽寺円喩の五輪塔(1497年)
②豊島の家浦八幡神社鳥居(1474年)銘
これらは五輪塔に軒反りが見られないので、15世紀中頃の作成と研究者は推測します。ここからは、豊島型五輪塔が作られるようになる約150年前から豊島石の搬出は、行われていたことが分かります。
つまり、豊島石工集団の活動は15世紀中頃までは遡れることになります。
五輪塔 火輪変化
火輪のそりの変化による年代判定
それでは、中世後半段階に豊島石石造物は、県内でどの程度拡がっていたのでしょうか。
高松市中山町の原荒神五輪塔群
高松市香西の善光寺五輪塔群
芝山五輪塔群
宇佐神社五輪塔群で数基
屋島寺や下田井町、木太町など
ここからはその流通エリアは高松市内に限られることがうかがえます。木田郡から東は火山石など凝灰石を用いた石造物が多く、豊島石はほとんどありません。また、高松市から西にも、豊島石はみられず、天霧石など凝灰岩がほとんどです。
 かつては、豊島石は天霧石によく似ていて、その違いは「豊島石は礫の大きさが均一で、黒く、白色の礫である長石が目立つ点」です。また、「日本山海名産名物図会」に「讃岐の石材はほとんどが豊島石」と記されたために、天霧石の存在が忘れられていた時期があります。そのため白峰寺の十三重塔(西塔)も、豊島石とされてきたことがありました。しかし、その後の調査で豊島石ではなく、天霧石であることが分かっています。今では、香川県西部に豊島石石造物はないと研究者は考えています。
  ここでは、次のことを押さえておきます。
  ①中世後半段階において豊島石は高松市を中心とした局地的な分布であり、それ以外の地域への供給はなかったこと。
  ②高松市内においても、弥谷・天霧山からの凝灰岩が多数派で、豊島石は少数派であったこと。
豊島石は高松地域のみで使用されていたようです。

白峯寺 讃岐石造物分布図
天霧系・火山系石造物の分布図(中世前期に豊島石は存在しない)

次に生駒3代当主と豊島型五輪塔との関わりを見ていくことにします。
 高松市役所の裏にある法泉寺は、生駒家三代目の正俊の戒名に由来するようです。
讃岐 生駒家廟(法泉寺)-城郭放浪記
法泉寺生駒氏廟
この寺の釈迦像の北側の奥まった場所に小さな半間四方の堂があります。この堂が生駒廟で、生駒家二代・生駒一正(1555~1610)と三代・生駒正俊(1586~1621)の五輪塔の墓が並んで安置されいます。
龍松山 法泉寺 : ひとりごと
        生駒一正と三代・生駒正俊の五輪塔
これは弥谷寺の五輪塔に比べると小さなもので、それぞれ戒名が墨書されています。天霧石製なので、弥谷寺の採石場から切り出されたものを加工して、三野湾から船で髙松に運ばれたのでしょう。
まず2代目一正の五輪塔から見ていきます。
彼はは1610年に亡くなっているので、これらの五輪塔は、それ以後に造られたことになります。

讃岐 生駒家廟(法泉寺)-城郭放浪記
生駒家二代生駒一正(左)と三代・生駒正俊の五輪塔(右)
火輪は豊島型五輪塔の形態で、空輪、風輪もその特徴を示します。ところが空輪や水輪のスタイルは、豊島型五輪塔とはちがう要素です。同じ水輪スタイルとしては、仁尾町金光寺にある細川頼弘墓を研究者は挙げます。細川頼弘は1579年に亡くなっているので、一正の五輪塔の水輪の特徴は、16世紀の時代的な特徴とも考えられます。
 このように一正の五輪塔は、全体的には豊島型五輪塔と云ってもいい属性を持っています。ところが問題は、石材が豊島石ではないのです。この石材は、天霧山麓の碑殿町の牛額寺奥の院に新しく開かれた石切場から切り出されたものであることが分かっています。これをどう考えればいいのでしょうか?

次に隣の生駒正俊(1621年没) の五輪塔を見ておきましょう。
 火輪は、一正五輪塔と同じ豊島型五輪塔のスタイルです。空輪、風輪も豊島型五輪塔の属性をもちます。全体的に、一正の五輪塔よりも、より豊島型五輪塔の特徴を備えているようです。しかし、この正俊塔も石材は豊島石ではなく、碑殿町の天霧石が使われています。
このように宝泉寺生駒廟のふたつの五輪塔は、豊島型五輪塔Ⅰ期古段階に位置付けることができます。しかし、台石がないことと、石材が豊島石でないという問題点があります。
 生駒家当主の墓のスタイル変遷から見ると、次の系譜の先に豊島型五輪塔が姿を見せると研究者は考えているようです。

①志度寺の生駒親正墓→ ②法泉寺の生駒一正供養塔 → 
③法泉寺の生駒正俊供養塔

これら生駒家の五輪塔は、今見てきたように形は豊島型ですが、石材はすべて天霧山からの採石です。

研究者が注目するのは、四国霊場弥谷寺(三豊市三野町)にある2代生駒一正の五輪塔です。
生駒一正五輪塔 弥谷寺
生駒一正五輪塔(弥谷寺)
弥谷寺は、生駒一正によって菩提寺とされ再興された寺院です。そして天霧石の採石場が境内にありました。弥谷寺と、生駒家には深い関わりがあったのです。
弥谷山と天霧山の関係については、以前に次のようにまとめました。    
①弥谷寺は、西讃岐守護代だった香川氏の菩提寺で、その五輪塔創立のために採石場があり、石工集団がいた。
②弥谷寺境内には、凝灰岩の露頭や転石に刻まれた磨崖五輪塔が多数あること
③弥谷山産の天霧石五輪塔は、県内を越えて瀬戸内海全域に供給されたこと
④長宗我部元親の讃岐占領、その後の秀吉の四国平定で、香川氏が没落して弥谷寺も一時的に衰退したこと
⑤讃岐藩主となった生駒氏の菩提寺として、弥谷寺は復興したこと。そこに、超大型の五輪塔が藩主墓碑として造立されたこと。
⑥その際に弥谷寺採石場に替わって、天霧山東側の牛額寺奥の院に新たに採石場がつくられたこと
こうして天霧山周辺には、弥谷寺境内と、牛額寺奥の院というふたつの採石場ができます。
弥谷寺磨崖五輪塔と、牛額寺奥の院の磨崖五輪塔を比べると、次のような相違点が見られます。
①火輪の軒隅が突出している
②空輪が大型化している
③水輪が扁平化している
特に①②は近世的変化点で、違いの要因は時期差であると研究者は考えます。つまり、磨崖五輪塔は「弥谷山(弥谷寺) → 天霧山(牛角寺)」への変遷が推測できます。ここからも、牛額寺奥の院が新たに拓かれた採石場であることが裏付けられます。
 どうして、時期差が現れたのでしょうか           
 採石活動の拠点が、弥谷山から天霧山へ移ったと研究者は考えています。中世には採石は、弥谷山でも天霧山でも行われていたようです。しかし、最初に採石が行われるようになったのは、弥谷山でした。それは、磨崖五輪塔が弥谷寺本堂周辺に集中していることから推測できます。弥谷山には、天霧城主で西讃守護代とされる香川家の歴代墓が今も残っています。弥谷寺は香川氏の菩提寺でもありました。ここからは、香川氏など有力者に提供する五輪塔製作のために、周辺で採石が行われていたことが考えられます。それが次第に販路を広げていくことになります。一方、天霧山は天霧山がある山で、城郭的性格が強く採石場としては弥谷山よりも規模は小さかったと研究者は考えます。
 こうした中、16世紀後葉の阿波三好氏の来襲によって、香川氏は一時的に天霧城退場を余儀なくされています。この時に、菩提寺の弥谷寺も荒廃したようです。戦国末期の混乱と、保護者である香川氏をなくして弥谷寺は荒廃します。それを再興したのが生駒家二代目の一正で、「剣御山弥谷寺略縁起」には、次のように記されています。

『武将生駒氏、当国を鎮ずる時、当時の廃絶ぶりを見て悲願しに勝ず、四隣の山峰を界て、当寺の進退とし玉ひ、住侶別名再興の願を企てより以来、吾先師に至て中興暫成といへども、住古に及ぶ事能はず』(香川叢書第一)

意訳変換しておくと

『生駒氏が当国を支配することになった時、当寺の廃絶ぶりを見て復興を決意して、周囲の山峰の境を決めて、当寺の寺領を定めた。僧侶たちも再興の願の元に一致協力し、先師の時代に中興は、あらかた成った。しかし、かつての隆盛ぶりには及ばない』

  ここからは、生駒一正による再興が行われ、それまでの弥谷寺の景観が一新されたことがうかがえます。信仰の場として弥谷寺の伽藍再整備が進む中で、境内にあった採石場の天霧山東麓への移転が行われたと研究者は考えているようです。逆に言うとそれまでは、弥谷寺境内の中で採石や五輪塔への加工作業が行われていたことになります。 
 その石造物製品は、お参りにきた信者の求めに応じて、彼らの住む地域に「発送」されたかもしれません。また、弥谷寺には多くの高野聖たちや修験者が布教活動の拠点としていました。彼らによって、石造物建立が行われる場合には、弥谷山の採石場に注文が入ったことも考えられます。突っ込んだ言い方をすると、弥谷寺が採石場を管理していたということになります。石工たちも、その経営下にあったとしておきます。
それが近世になって生駒氏による再興の折に、信仰と生産活動の分離が行われ、採石場は天霧山東南麓の碑殿町に移されたという説になります。
七仏薬師堂 吉原 弥谷寺 金毘羅参詣名所図会
吉原大池から望む天霧山(金毘羅参詣名所図会)
これらの材質が天霧山南斜面の牛額寺の奥の院(善通寺市碑殿町)で採石されていることが分かっています。
碑殿町の石材は、地元で「十五丁石」と呼ばれていて、丸亀市本島宮本家墓や善通寺歴代住職墓に使用されていること、それに加えて、超大型五輪塔はすべてが碑殿産(十五丁石)が用いられていることが分かっています。ここからは、中世末に姿を現す超大型の五輪塔が墓観念や姿形からして、豊島型五輪塔と深く関係していると研究者は考えているようです。
 そして超大型五輪塔の出現背景には、藩主生駒家が深く関わっているとする裏付けは次の通りです。
生駒親正夫妻墓、生駒一正供養塔など、超大型五輪塔10基のうちの4基が生駒家のものです。超大型五輪塔ではありませんが高松市法泉寺の生駒廟に安置されている生駒家二代正俊の五輪塔は、スタイルは豊島型五輪塔です。
 ここには、生駒家の関わりがうかがえます。このような生駒家の五輪塔から影響を受けて、登場するのが豊島五輪塔だと研究者は考えています。それは豊島型五輪塔の祖型いうべき要素が、弥谷寺の五輪塔には見られるからです。例として挙げるのが、弥谷寺の磨崖五輪塔には地輪に方形状の孔が穿たれたものがあります。この孔からは、遺骨が確認されています。ここからは五輪塔が納骨施設として使用されていたことがうかがえます。弥谷寺の納骨孔が、豊島型五輪塔の地輪にもある方形状の孔に系譜的につながると研究者は考えています。

以上のように「超大型五輪塔 + 生駒家歴代当主墓」が最初に姿を現す弥谷寺や天霧山の石切場には、豊島型五輪塔の祖形を見ることができます。これらの要素は、中世豊島石の五輪塔にはありません。以上を図示化すると以下のようになります。

豊島型五輪塔系譜
豊島型五輪塔の系譜

豊島型五輪塔の成立背景を、まとめておきます。
①中世豊島石の五輪塔系譜の上に、生駒氏が弥谷寺で作らせた大型五輪塔のインパクがあった
②それを受けて豊島型五輪塔が高松地区で姿を現す
③その際に豊島の石工集団に対して、生駒藩が何らかの「介入・保護」があった
④県内の石切場の終焉と豊島型五輪塔の広域搬出は、時期が一致する。
③④については、「生駒氏という新しい領主による社会秩序形成を目的とした政治的側面」があったと研究者は指摘します。具体的には、生駒氏が政治的にも豊島の石工集団を保護下において、生産流通に特権を与えたということです。
豊島型五輪塔が出現するのは、案外遅くて17世紀初頭になるようです。そして、急速に天霧石の五輪塔を駆逐し、市場を占有していきます。こうして天霧山の石造物は忘れ去られ、近代にはそれが豊島産と誤解されるようになっていきます。

以上をまとめておくと
①14・5世紀には、弥谷寺石工達が瀬戸内海各地に石造物を提供するなど活発な生産活動を行っていた
②その背後には、西讃守護代としての香川氏の保護があった。
③16世紀末の長宗我部元親の侵攻と、秀吉の四国平定の戦乱の中で香川氏は滅亡し、弥谷寺も衰退する
④それを救ったのが生駒氏で、弥谷寺を菩提寺としてそこに超大型の五輪塔を造立する。
⑤生駒氏は天霧山東麓の牛額寺奥の院に新たに採石場を設けて、高松に天霧石を供給させる。
⑥その際に、加工を命じられたのが豊島石工で、天霧石を使った豊島型五輪塔が高松に登場する。⑦それまで高松地区にだけに石造物を提供するだけだった豊島石工集団は、生駒氏の保護育成を受けて、天霧石石造物を駆逐する形で、瀬戸内海への流通エリアを拡大していく。
⑧しかし、それも長くは続かずに花崗岩産の石造物へと好みが変化すると、豊島石工達は豊島石の特長を活かして、石カマドや、石筒、火鉢などの製品開発を行うようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松田朝由  豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年」
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  石造物とは、地蔵さんなど、石で造られた仏・塔・仏像・橙籠・鳥居・狛犬・磨崖仏などを含めて「石造物」と呼んでいるようです。中世の讃岐西部で活発な活動を行っていたのが弥谷寺の石工達でした。彼らの活動については、研究者は次のように時代区分しています。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の中世墓地に五輪塔造立
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内への石仏・宝筐印塔・五輪塔などの活発な造立
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の搬入と弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が活発に造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
以上から分かる事は次の通りです。
①弥谷寺での石造物生産活動はI~Ⅳ期
②Ⅱ期は、保護者であった天霧城城主の香川氏の退城で終わりを迎える。
③生産活動が再開されるのは、1587年に生駒氏がやって来て新たな保護者となって以後のこと
④生駒氏は弥谷寺を保護し、伽藍復興が進むようになり、境内にも石造物が造営されるようになる。
⑤Ⅲ期の代表作が、1601年の香川氏の宝筐印塔4基、1610年以後の生駒一正の巨大五輪塔
⑥再開時に、善通寺市牛額寺薬師堂付近に新たな採石場が開かれた。
⑦しかし、競争相手として豊島産石造物が市場を占有するようになり、かつてのように瀬戸内海エリアに供給されることはなかった。
⑧Ⅳ期(17世紀後半)には外部産石造物が搬入されるようになり、弥谷寺での石造物生産活動は衰退・終焉
⑨Ⅳ~Ⅵ期になると、寺檀制度確立に伴い弥谷寺周辺の人々によって境内に墓標造立開始
⑩Ⅵ期の衰退期の背景は、村々の共同墓地に墓標が建てられるようになったから

以上で弥谷寺の石工達の活動状況は分かるのですが、これが瀬戸内海エリアの石造物造営の動きと、どう関連していたのかは掴みきれません。今回は視野を広くとって、瀬戸内海全体の石工達の活動を、大まかに押さえておこうとおもいます。テキストは「市村高男 瀬戸内の石造物と石工    瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会」です。

畿内では12世紀から中世の層塔の先駆けになるものが造られ始めます。明日香村の於美阿志神社の層塔や葛城市営麻の当麻北墓五輪塔などは、その代表的な事例です。
於美阿志(おみあし)神社 十三重石塔
 於美阿志神社層塔(奈良県明日香村)

讃岐にも12世紀後半とされる凝灰岩製の石塔があります。

海女の墓 中世初期の宝塔(志度寺、
 海女の墓と伝えられる中世初発期の宝塔(志度寺)
その1つが志度寺の「海女の墓」と伝えられる石塔で、京都の藤原氏による寄進とも云われますが、詳しい事は分かりません。いずれにせよ、中世石塔を生み出す動きは、畿内が牽引役となって進んで讃岐にももたらされるようになったとと研究者は考えています。

そのような中で、今までにない新しいタイプの石造物が12世紀末に奈良・東大寺に現れます。
東大寺の南大門の主役は金剛力士像ですが、その裏側(北側)に背中合わせの形で安置されているのが石造獅子像一対あります。

石造獅子像(東大寺 重文)
大仏殿方向の向かって前脚をピンと伸ばした獅子が陣取っています。石獅子は雄と雌の2体で、両方とも口を開いた獅子像です。

獅子台座

獅子の姿や、台座の文様、天女・蓮華・牡丹なども唐風です。それもそのはずで、この獅子像は、中国人石工の手によって作られた事が分かっています。
 どんな経緯で南宋の石工集団が東大寺にやってきたのでしょうか?
 東大寺の再建責任者・重源は宋の文化に詳しく、大仏殿再建にも宋風を取り入れます。そのために伽藍再建の総合プランナーとして招いたのが南宋の陳和卿(ちんなけい)でした。彼は自分の技術者集団を率いて来日します。その中の石工集団の責任者が伊行末(いぎょうまつ)と彼の石工集団でした。
「東大寺造立供養記」には、次のように記されています。
中門獅々。堂内石脇士。同四天像。宋人字六郎等四人造之。若日本国石難造。遣価直於大唐所買来也。運賃雑用等凡三千余石也。

「建久7(1196)年に宋人・字六郎など4人が、中門の石獅子、堂内石脇士、四天王石などを造る。石像は日本の石では造り難いので、中国で買い求めて日本に運んだ。輸送費は雑費を含めて3000石であった。」

彼らの本来の仕事は、大仏殿の石段造営でしたが、その工事終了後に大仏殿を守護する中門に、この狛犬像を奉納したようです。
般若寺】南都を焼き打ちの平重衡が眠る奈良のお寺
般若寺(奈良市)境内の「笠塔婆」

東大寺の北にある般若寺(奈良市)境内の「笠塔婆」に、伊行末の息子・伊行吉が次のような銘文を残しています。
父 伊行末 文応元(1260)年 没

般若寺の寺伝にも、伊行吉が父伊行末の没後の一周忌に、この卒塔婆を奉納したと記されています。ちなみに、これに並ぶようにもう1本あるのは、母親の延命長寿を祈願して造立されたものです。
 ここからは伊行吉は、南宋に帰らずに日本に残ったことが分かります。
「伊派の石工」
南宋石工集団伊派の系譜

彼は従う中国人の石工集団をまとめ上げ、「伊派」と呼ばれる中国の先端技術を持つ石工集団の基礎を作りあげます。彼らは数々の技術革新をもたらしますが、そのひとつが花崗岩を石材とした新しいタイプの石塔類を次々と世に送り出したことです。
12世紀末に東大寺南大門の石獅子をつくったのは、中国からやって来た石工たちでした。
彼らの中には、作業終了後に帰国した者もいましたが、畿内に定着した者もいました。
奈良市 般若寺十三重石塔 - 愛しきものたち
般若寺の十三重石塔
伊行末の作品は数多く知られ、般若寺の十三重石塔などもその内の一つです。その他にも、宇陀市大蔵寺の十三重石塔や大野寺の弥勒摩崖仏なども残しています。さらに東大寺境内にも伊行末の作品を見ることができます。石獅子のみならず、法華堂(三月堂)の古びた石燈籠も伊行末の作と伝わります。石工たちの代表者が伊行末という人の子孫だったので、「伊派の石工」と呼ばれています。
 彼らは、それまでの日本では使われなかった硬質の花崗岩を加工する技術を持っていました。その技術で、13世紀後半以降には、たくさんの石塔・石仏・燈籠などをつくります。その作品が西大寺律宗の瀬戸内進出とともに拡がっていきます。その伝播経路を追ってみましょう。

山陽地域では、兵庫県六甲山麓周辺、広島県尾道、山口県下関、四国では愛媛県今治などに、花崗岩を石材とした石造物をつくる石工集団がいたようで、花崗岩製の石造物製造の中心となりました。特に尾道にはたくさんの石工が集まっていたようで、対岸の今治とともに、瀬戸内沿岸第一の石造物製造の拠点となっていました。研究者が指摘するのは、瀬戸内地域の石塔類は、畿内の石塔造りの影響を強く受けながらも、それぞれの地域の嗜好に合わせて独自性を生み出していたことです。
浄土寺の越智式宝筐印塔(広島県尾
尾道・浄土寺の越智式宝筐印塔
その例が、越智式と呼ばれる独自な形をした宝筐印塔です。これは尾道を中心に、安芸島嶼部に今でも数多く見られます。浄土寺も西大寺の安芸における布教拠点のひとつでした。

山陽側で花崗岩製の石造物が数多く作られるようになっても、四国では今まで通りの凝灰岩が使われています。
特に、讃岐では一貫して地元産の凝灰岩を使って石塔類をつくり続けます。その中心は、西讃では天霧山の天霧石、東讃ではさぬき市の火山で切り出される火山石を使って、五輪粁宝塔・層塔などがつくられていました。今でも13~14世紀前半に讃岐の火山石で作られた石塔が、徳島県北半に数多く残されています。これは讃岐からの移入品になります。伊予松山市を中心とする地域でも、伊予の白石と呼ばれる凝灰岩を石材とした石塔類がつくられていました。こうした凝灰岩製の石塔群は、畿内から伝えられた花崗岩とはちがう技術系統で、それぞれの地域色を強く持っていると研究者は評します。

  讃岐の中世石造物の代表作品と云えば 「白峯寺の東西ふたつの十三重石塔」(重要文化財、鎌倉時代後期) になるようです。
P1150655
白峰寺の東西の十三重塔 

この二つの塔は、同時に奉納されたものではありません。東塔は畿内から持ち込まれたものです。そして西塔は東塔を模倣して、讃岐で天霧山の石材と使って造られたものだということが分かってきました。これを製作したのが弥谷寺の石工かどうかは分かりません。石材だけが運ばれた可能性もあります。しかし、弥谷寺の石工たちは畿内で作られた東塔を見上げながら、いつか自分たちの手で、このような見事な塔を作りたいと願い、腕も磨いていたことは考えられます。

瀬戸内海をめぐる石造物とその石材地について、研究者は次のように概観しています。
近畿から四国・九州を貫く中央構造線の南側に三波川変成帯があります。そこには結品片岩の岩帯があり、中世から様々に利用されてきました。徳島県の吉野川・鮎喰川流域では、13世紀後半から板状にはがれる石の性格を利用し、板碑が盛んに造立されました。愛媛県では伊子の自石や花崗岩が採取できたため、結晶片岩を石塔・石仏などに使う文化は発展しませんでした。江戸期以降、住居の囲い石積みや寺社の石垣として利用されるにすぎません。
6. 県指定有形文化財(考古資料)
 市楽の板碑(徳島県徳島市)

大分県でも阿蘇の溶結凝灰岩が採れるため、石塔には使われませんでした。長崎県の大村湾沿岸地域では、13世紀後半からこの石材で五輪塔・宝筐印塔がつくられ、板碑をつくる文化は発展しませんでした。同じ石材でも地域ごとに使われ方に違いがあったのです。

 高知県のように中世初期には石造物があまり見られない地域もあります。14世紀初頭になって六甲花崗岩(御影石)製の五輪塔が幡多郡を中心に運び込まれると、六甲山麓から瀬戸内海を西回り宇和海経由で石塔類が搬入されるようになり、西日本一の御影石製石塔類の集中地域となりました。徳島県南部も15世紀になると多数の御影石製石塔が瀬戸内海を東回りで運び込まれ、島根県西部にも瀬戸内海・玄界灘を経て運び込まれていました,
土佐の石造物・棟札: 加久見氏五輪塔(土佐清水市)
       加久見の御影石製石塔群(高知県土佐清水市)

15世紀になると、花崗岩製の石塔が瀬戸内地域で広く見られるようになります。そのような中でも、讃岐では相変わらず地元産の凝灰岩で石塔がつくられ続けます。天霧石の石塔生産は発展し、岡山・広島・兵庫県南部から徳島県西北部・愛媛県全域にまで販路を拡大していきます。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
天霧石の石造物分布図

それまで石造物を地元で生産していなかった高知県でも、地元産の砂岩を利用し、花崗岩製石塔のコピーを造り始め、しだいに独自な形を生み出していきます。愛媛県でも花崗岩製石塔の進出の一方、砂岩製の石造物が登場し、徐々に地域色を持つものをつくるようになります。このような石造物の広域流通が、瀬戸内海沿岸地域で広く見られるようになるのがこの時代の特徴です。
  この時代は花崗岩製のブランド品の搬人と同時に、地域での石造物生産が本格化し、地域色のある製品が各地で生産されるようになったと研究者は指摘します。

この時代のもうひとつの特徴は、一石五輪塔と呼ばれる小型の五輪塔が現れ、16世紀から爆発的に増加することです。
古童 - 一石 五輪塔 | 古美術品専門サイト fufufufu.com

一石五輪塔とは50㎝前後の一石で造られた小型の五輪塔です。15世紀になると町や村に仏教が浸透するようになった結果、需要が増大し、石工たちが工房で大量生産を開始するようになったようです。
この現象は、庶民上層部も一石五輪塔を墓塔や供養塔として使うようになったことが背景にあります。これを研究者は「仏教の地域への定着に対応した石塔類の大衆化」と評します。
 一石五輪塔の登場は、庶民が死者を手厚く葬り、供養するようになったことを示します。
それが17世紀になると、石塔全体が墓塔・墓碑として性格を変化させ、17世紀後半になると船形の塔が増加し、立方体の基礎の上に竿と呼ばれる塔身を乗せた墓石も急増します。これらの需要増大に対応して、石工達も大量生産体制を整えたことを意味します。
そして、使用される石材も変化します。
この時期には、城郭石垣の建設による採石・加工技術が一気に進化した時代です。小豆島や塩飽などにも石垣用の安山岩の切り出しや加工のために多くの石工達が各藩に集められて、キャンプ生活を送っていたことは以前にお話ししました。大阪城完成で石垣用石材の需要がなくなった後の彼らの行く末を考え見ると、自分の持っている石工技術の転用を計ったことが推察できます。こうして、硬質で持ちがよい花崗岩を多用した墓石や燈籠・鳥居などさまざまな石造物を需要に応じて生産するようになります。
 こうしたなかでも瀬戸内地域の石工の中心は、引き続き尾道でした。尾道には多くの石工がいて、石造物製作の中心地として各地に石造物を提供していました。
  かたくなに天霧山凝灰岩で石塔を造り続けていた弥谷寺の石工達も、花崗岩製石造物という時代の波に飲み込まれていきます。
生駒騒動で生駒氏が讃岐を去った後の17世紀後半になると、弥谷寺境内には、地元産の石造物が見られなくなります。そして、外から搬入した石造物が姿を見せるようになります。
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山崎氏墓所の五輪塔3基(弥谷寺本堂西側)
外から運び込まれた初期のものは、本堂西の山崎氏墓所の3つの五輪塔です。これらは17世紀中頃の花崗岩製で、天霧石で造られたものではありません。外から運び込まれたことになります。そこで使用されている石材を見ておきましょう。
山崎氏墓所の3つの五輪塔の石材は、
①左右の塔が兵庫県御影石製で
②中央の山崎志摩守俊家のものだけが非御影石の花崗岩製
これまでの支配者たちである香川氏一族や生駒一正の五輪塔などは天霧石製で、弥谷寺の石工集団によって造られていました。それが外部から持ち込まれた花崗岩製五輪塔が使われてるようになります。その背景には、花崗岩製墓標の流行があったようです。新たに丸亀藩主となった山崎氏は、地元の天霧石を使う弥谷寺の石工たちに発注せずに、花崗岩製の五輪塔を外部に注文していたことになります。天霧石製の石造物は、時代遅れになっていたのです。
こうして17世紀半ば以後には、弥谷寺や牛額寺の採石場は閉鎖され、石工達の姿は消えます。そして、墓石は庶民に至るまで花崗岩製になっていきます。

以上をまとめおくと
①阿弥陀信仰の聖地であった中世の弥谷寺境内には、磨崖五輪塔を供養のために彫る石工集団がいた。
②西遷御家人の香川氏が弥谷寺を菩提寺にしたため数多くの五輪塔が造立された。
③白峰寺子院に、崇徳上皇供養のために中央から寄進された十三重塔(東塔)を真似て、弥谷寺石工は天霧石で西塔を造立するなど、技術力を高めた。
④生産体制が整った弥谷寺石工集団は、大量生産を行い瀬戸内海エリアに提供・流通させた。
⑤一方、東大寺再建の際にやってきた南宋の石工集団「伊派」は、花崗岩を使用し、デザイン面でも大きな技術革新を行った。
⑥「伊派」は西大寺律宗と組む事によって、瀬戸内海沿岸の寺院に多くの石造物を造立した。
⑦しかし、この時点では地域の石工集団の地元に定着した市場確保を崩すことはできず、ブランド品の「伊派」の花崗岩石造物と、地方石工集団の凝灰岩産石造物の並立状態が続いた。
⑧それが大きく変化するのは、大規模城郭整備が終了し、花崗岩加工の出来る石工達の大量失業と、新たな藩主たちの登場がある。
⑨大阪城に石垣用の安山岩を切り出していた石工達は、新たに石造物造立に参入する。
⑩こうして従来の凝灰岩産の石造物を作っていた弥谷寺石工集団は姿を消す

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
市村高男 瀬戸内の石造物と石工    瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会市村高男編『中世の御影石と流通』高志書院、2009年
山川均『中世石造物の研究一石工・民衆・聖』日本史史料研究会、2008年


  以前に中世の弥谷寺には、どんな「僧」たちがいたのかをお話ししたことがあります。それを振り返っておくと次のようになります。
①行人・聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、行場が中心で善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかった
②弥谷(寺)は、善通寺の「別所」で、阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいた
③行人層は、自分の生活は自分で賄わなければならなかったので、周辺のムラで托鉢行や布教活動も行った。
④治病や死者供養にも関わり、わかりやすい言葉で口称念仏を広めた。
⑤弥谷寺や白峯寺は高野聖たちの阿弥陀信仰の布教拠点となった。
 地方の有力寺院の僧侶は、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていました。
学侶(学頭)は、僧侶身分の最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する学頭も中央の大きな寺院にはいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。それに対して、ほとんどは「衆徒(堂衆)」だったと研究者は考えています。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般に衆徒は武装し、僧兵としても活動する者も多かったようです。中世の白峯寺や善通寺に僧兵がいたことは充分に考えられます。
 13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②「勤行次第」を書いた薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③「勤行次第」は、重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
A白峰寺の子院の多くが高野聖などの修験者が管理運営者であったこと
B子院やそこに集まる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。類は類をよぶで、廻国の宗教者たちにとっては、人気のある行場があり、しかも立ち寄りやすい施設がいくつもあったのでしょう。

白峯寺 別所拡大図
白峯寺古図に描かれた「別所」

 中世の白峯寺には「別所」と呼ばれるエリアがあったことは、以前にお話ししました。
「別所」は、本寺とは離れて修行者の住む宗教施設で、後には念仏信仰の聖たちの活動拠点となります。白峯寺の別所も「浄土=阿弥陀信仰」の念仏聖たちの活動拠点であった可能性があります。ちなみに白峯寺の別所は、かつての行場で現在は奥の院に最も近い位置にあったことが分かっています。

白峯寺 別所3
白峯寺の本堂と別所跡
このような別所や子院では、衆徒に奉仕する行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。
白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成していたことが考えられます。そして、衆徒の中にも行人と一緒に修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、その区分も曖味だったようです。また、彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったようです。そのために、雲辺寺・小松尾寺・金倉寺などは、中世には真言と天台の両方の「学問寺」であったと伝えられます。
観音寺山を愛する会
伊吹山観音寺の伽藍図(明治29年)
長浜城主であった羽柴秀吉が鷹狩りで立ち寄った際に、寺の小僧をしていた石田三成を「三碗の才」で見出したことで有名な話です。この舞台となった伊吹山観音寺は、修験道の拠点の一つでした。その僧侶構成を見てみましょう。
①学僧(清僧すなわち独身者)・
②衆徒(妻帯)・
③承仕・
④聖(本堂聖・鎮守聖・太鼓聖・鐘撞聖・灯明聖)
④の聖とは堂衆にあたる職掌です。ここの出てくる学僧以外は、妻帯者でした。修験道の拠点寺院では、衆徒たちの多くは妻帯し、社僧などもしばしば妻帯していたことを押さえておきます。
   伊吹山観音寺の1303(乾元2)年の文書には、次のように記されています。
「(衆徒集団が)寄進地の坊領や修正行、大師講などの宗教活動のための料田としての配分や分米等を掌握」

 こうした事例からすると、中世の白峰寺や弥谷寺なども、衆徒にあたる人々が中心に運営が行われていたと考えるのが自然のようです。中央の門跡寺院や本山クラスの大寺とちがって、清僧の学侶を多数置く必要性がありません。「白峰陵の護持」が存在理由だったとすれば、学侶がいなくてもなんら不都合はないはずです。むしろ、バイタリティのある衆徒達が意思決定権を持っている方が、中世の時代に自力で維持運営をするには好都合だったかもしれません。
以上をまとめておくと
①中世の讃岐の山岳寺院は、学僧的な僧侶はほとんどいなかった。
②寺院は子院の連合体で、集団指導体制であった。
③その院主達は、衆徒出身で修験者にかぎりなく近く、妻帯しているものも多かった。
④また彼らは武装している入道も多く僧兵としても働いた。 
④については中世の善通寺には、武装した僧侶がいたことを以前にお話ししました。

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弥谷寺 四国遍礼名所図会1800年jpg
弥谷寺 四国遍礼名所図会(1800年)

 弥谷寺は、四国八十八ヶ所霊場71番札所です。伽藍の一番高いところに、磨崖に囲まれるように①本堂があり、諸堂も岩山に囲まれるように配されています。境内の磨崖や岩肌には数え切れないほどの五輪塔や梵字、名号などが刻まれています。中には納骨された穴もあって「死霊の集まる山」として民俗学では、よく知られた寺院です。
弥谷寺は江戸時代の「弥谷寺略縁起』には、次のように記されています。
行基が弥陀・釈迦の尊像を造立し、建立した堂宇にそれらを安置して蓮花山八国寺と号した」
「その後、弘法大師空海が虚空蔵求聞持法を修したこころ、五鈷の剣が天から降り、自ら千手観音を造立して新たに精舎を建立し、剣五山千手院と号した」
「行基=空海」の開基・中興というのは、後世の縁起がよく語るところで、開創の実態については史料がなく、よく分かりません。ただ岩山を穿って獅子之岩屋や磨崖阿弥陀三尊が作られる以前の平安時代に、修行者や聖といった人々が修行の場を求めて弥谷山に籠ったことが、この寺の成立の基礎となったことはうかがえます。
 平安時代末期には、四国の海辺の道を修行のためにめぐり歩く聖や修験者らがいました。彼らの修行の道や場として「四国辺地」が形成され、それがベースとなって四国遍路の祖型が出来上がっていきます。弥谷山の修行者や聖たちも、そうした四国遍路の動きと連動していたようです。
仁治4年(1243)に、高野山の党派抗争の責任をとらされて讃岐に流された高野山僧の道範は、宝治2年(1248)に善通寺の「大師御誕生所之草庵」で『行法肝葉抄』を書いています。その下巻奥書には、この書が「弥谷上人」の「勧進」によって記されたと記されています。これが「弥谷」という言葉の史料上の初見のようです。弥谷寺ではなく「弥谷上人」であることに、研究者は注目します。
「弥谷上人」とは、弥谷山周辺で活動した修行者や聖のような宗教者の一人と考えられます。
 ここからも鎌倉時代の弥谷山は、聖たちの修行地だったことがうかがえます。それを裏付けるもうひとつの「証拠」が鎌倉時代末期に作られた本堂の東にある阿弥陀三尊の磨崖仏です。
弥谷寺 阿弥陀三尊像
弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏
この阿弥陀三尊像は、弥谷山を極楽浄土に見立てる聖たちが造立したものです。また仁王門付近にある船石名号の成立や磨崖五輪塔にみられる納骨風習の成立には、時衆系高野聖の関与があったと研究者は考えています。
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船石名号(弥谷寺 仁王門上部)

当時の高野山は、一山が時衆系の念仏聖に占領されたような状態で、彼らは各地の聖山・霊山で修行を行いながら熊野行者のように高野山への信者の誘引活動を行っていました。弥谷山も「死霊の集まる山」として祖先慰霊の場とされ、多くの五輪磨崖物が彫られ続けます。これが今でも境内のあちらこちらに残っている五輪五輪塔です。ここでは中世の弥谷寺は、浄土阿弥陀信仰の聖地で、弘法大師の姿は見られないことを押さえておきます。
IMG_0017弥谷寺磨崖仏
磨崖五輪塔(弥谷寺)

 細川氏の守護代であった香川氏は天霧城に城を構えます。そうすると、天霧城と山続きの弥谷寺には香川氏の五輪塔が墓標として造立され続け墓域を形成していきます。守護代の香川氏の菩提寺となることで、その保護を受けて伽藍整備が進んだようです。同時に、この時期は弥谷寺境内から切り出された天霧石で作られた石造物が三野湾から瀬戸内海各地に向けて運び出された時期でもありました。
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香川氏のものとされる五輪塔(弥谷寺西院跡から移動)

   弥谷寺に弘法大師信仰が姿を見せるようになるのは、近世になってからのようです。今まで語られたことのなかった弘法大師伝説が、弥谷寺には伝えられます。
承応2年(1653)に澄禅が記した『四国遍路日記』には、次のように記されています。
   弥谷寺・劔五山千手院は、坂口に仁王門があり、ここから上の参道沿いの石面には仏像や五輪塔が数しれず彫付られている。自然石を切りつけた階段で寺の庭に上っていく。寺は南向していて、西向きに持仏堂(現大師堂 旧奥の院)がある。磨崖の壁に指が架かるところを選んでつたい登っていくと、広さニ回半奥に、九尺、天井は人の頭が当たらないほどの高さに、堅固に掘り抜いた岩屋(獅子の岩屋)がある。そこに仏壇一間奥へ四尺ほど切り開いて左右に5つの如来を彫りだしている。また、そこには中尊大師(弘法大師)の御木像と、その左右に藤新太夫夫婦(弘法大師の父母)の石像がある。北の床は位牌壇で、正面の床の脇には護摩木棚が二段ある。東南のニ方に敷居・鴨居を入れて戸が入るようにしてある。(後略)

ここには現在の大師堂には、木像の弘法大師と石像の藤新大夫(とうしんだゆう)夫婦が安置されていたことが記されています。高野山関係の史料には、空海の父母は古くから弘法大師の父は佐伯氏、母は阿刀氏の女とされてきました。ところがここでは、空海の父母は、藤新大夫夫婦で父は「とうしん太夫」、母は「あこや御前」とされていたことが分かります。ここからは、江戸時代初期の弥谷寺では、高野山や善通寺とはちがうチャンネルの弘法大師伝が作り出されて、流布されていたようです。「空海の父母=藤新大夫夫婦」説は、近世初頭には四国遍路の開創縁起として、かなり広く流布されていて、多くの人たちに影響を与えていたようです。これに対して「正統的な弘法大師信仰者」の真念は、「愚俗のわざ」として痛烈に批判しています。

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現在の獅子の岩屋の配列 弘法大師の横には佐伯田公と記されている

 こうした異端的な弘法大師伝が生まれた背景には、弥谷寺やその近辺で活動する高野聖の存在が考えられます。それをたどると、多度津の海岸寺・父母院から道隆寺、そして児島五流修験や高野聖が関わっていたことが浮かび上がってきます。そういう意味でも、四国遍路の成立過程はひとつの流れだけではなく、何本もの流れがあったことがうかがえます。それが弥谷寺からは見えてきます。

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獅子の岩屋 空海の横には母玉依御前

戦国時代に兵火で焼失した弥谷寺は、近世の生駒家の下で復興が始まります。
本堂焼失後に仮堂を建立し、残された本尊千手観音や鎮守の神像等をおさめて伽藍の再興がはかられます。そして、17世紀後半には境内整備が進展して伽藍が復興されます。また近世の弥谷寺は、生駒家に続いて丸亀藩・多度津藩の祈躊寺として位置づけら、五穀成就や雨乞いの祈躊を執行するなど、丸亀・多度津両藩の保護を受ける特別な寺となります。
弥谷寺 一山之図(1760年)
弥谷寺一山之図(1760年)
 同時に民衆にとっても中世以来の「死霊の集まる山」で先祖供養にとして重要な存在でした。承応2年(1653)の『四国遍路日記』には、弥谷寺の境内には岩穴があり、ここに死骨を納めたとあります。江戸時代前期の弥谷寺は、中世に引き続いて死者供養の霊場として展開していたことが分かります。
 弥谷寺の年中法会の中で重要なものとされる光明会が、 日牌・月牌による先祖供養の法会として整備されていきます。近世の弥谷寺は檀家を持っていませんでしたが、この光明会によって死者供養、先祖回向の寺として、広範囲にわたって多くの人々の信仰を集め続けます。また、修行者や聖などの宗教者の修行地とされていた弥谷寺には、彼らが拠点とした院房が旧大門(八丁目大師堂)から仁王門にかけて、十を越えて散財していました。それが姿を消します。これは、白峰山の変貌とも重なり合う現象です。
弥谷寺 八丁目大師堂
院坊跡が潅頂川沿いにいくつも記されている

 修験者や聖たちに替わって、弥谷寺を訪れるようになったのは遍路たちです。そして、弥谷寺も遍路ら巡礼者に対応した札所寺院に脱皮・変貌していくことになります。それが例えば遍路接待のための施設設置です。
正徳4年(1714)までは、寺内の院坊の一つである納涼坊が遍路ら参詣者の接待所を兼ねていました。しかし、享保10年(1725)に財田上の大庄屋・宇野浄智惟春が接待所(茶堂)を、現在の大師堂の下に寄進設置しています。
弥谷寺 茶堂
金毘羅参詣名所図会に描かれた茶堂
この接待所は弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』などにも描かれていて、ここで接待が行われていたことが分かります。

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「永代常接待碑」
現在は、この接待所の跡地に、永代にわたって接待することを宇野浄智が記した「永代常接待碑」(享保10年2月銘)が建っています。またその2年後には宇野浄智から「永代常接待料田畑」が寄進されています。この他、弥谷寺の門前には、ある程度の店も立ち並んでいたようで、遍路ら参詣者を迎え入れる札所寺院として整備されていったことが窺えます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
             「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」明治初年

 しかし、江戸中期以降の弥谷寺への参拝者の増加は、四国遍路よりも金毘羅詣りの参拝者の増加とリンクしたものでした。金毘羅さんにお参りした客を、弥谷寺に誘引しようとする動きが強まります。そのため丸亀に上陸した参拝客に「七ヶ所詣り」の地図が手渡され、善通寺方面から弥谷寺への誘引をはかります。そのために寺へ通じる沿道の整備が進められます。
 弥谷寺は、鳥坂越手前で伊予街道から分岐する遍路道を整備します。そして寛政4年(1792)に分岐点近くの碑殿村の上の池の堤防横に接待所を設置し、往来の参拝客に茶を施したいと願い出て、多度津藩から許可されています。この接待所は「茶堂庵」と称され、講中によって維持されていきます。同時に、この接待所には弥谷寺に向けたスタート・モニュメントとして大地蔵を建立されます。
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善通寺市碑殿町の大地蔵

ここから弥谷寺境内の法雲橋へ至る道に、10の仏像を安置する計画が立てられ、ゴールの境内では寛政3年(1791)、金剛挙菩薩像(当初は大日如来)の造立に取りかかっています。このように弥谷寺は周辺地から境内へ至る道の整備を進め、増加しつつある参詣者を誘致に務めています。
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金剛拳菩薩(弥谷寺)
 近代の弥谷寺は、明治5年(1872)に山林が上地処分によって官有地として没収されます。これによって経済的な打撃を受けますが、明治39年に「上地林」は境内に再び編入されます。諸堂の整備も引き続き行われ、明治11年には大師堂が再建されます。また江戸時代以来の接待所(茶堂)は、通夜堂ともよばれ、近代でもにおいて遍路の宿泊施設としても機能します。しかし、これも昭和50年代に廃絶したようです。

弥谷寺 西院跡
 弥谷寺の現存建造物としては、次のようなものがあります。
明治11年 大師堂
弘化5年(1848)再建の本堂
天保2年(1831)再建の多宝塔
大正6年(1917)再建の観音堂
大正8年再建の十王堂
残された絵図を見ても本堂や大師堂など中心的な伽藍の配置は、江戸時代から大きな変更はありません。境内とそれを取り囲む岩山は、遍路や参拝者が行き交った近世の札所霊場の景観を伝えるものと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①弥谷寺は中世まで修行者や聖などの修行地であった。
②彼らは弥谷寺を浄土阿弥陀信仰の聖地として信者たちを誘引し、その結果磨崖五輪塔が造立された。
③中世から近世への移行期に高野山との交流によって、弘法大師信仰が定着した。
④近世前期には、中世同様に死者供養の霊場として参詣者の間に浸透していった。
⑤近世中期以降、さらに多くの民衆が金比羅詣りや遍路として訪れるようになり、接待所が設置されるなど、弥谷寺は遍路ら参詣者を迎え入れる開放的な空間として整備されていった。
⑥境内へ至る沿道についても整備が進められ、不特定多数の人々にも開かれた場へと展開していった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
        参考文献 弥谷寺調査報告書 2015年 香川県教育委員会

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道隆寺
四国霊場第77番札所の桑田山明王院道隆寺は、中世には海に開けた寺院で、数多くの寺社を影響下に入れていました。道隆寺明王院が遷宮や供養に導師として参加している記録を一覧表にしたものが次の表です。
道隆寺の末寺

  神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も一緒になっていますが例えば次のような寺社が見えます
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382) 白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482) 粟島八幡宮導師務める。
ここからは西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社や寺院を道隆寺が掌握していたことがうかがえます。近世になって書かれた『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。
「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた」

ここからは、中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、三野郡や瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。
道隆寺明王院が導師を勤めた寺院として、弥谷寺の名前も見えます。
正安元年(1299)の6月17日、道隆寺明王院主が
「爾谷寺(弥谷寺)観音堂入佛導師」
応永15年(1408)6月17日にも、再び
「爾谷寺観音堂入佛導師」とあります。
ここからは13世紀末から15世紀初頭に掛けて、弥谷寺は道隆寺と関係が深く、もしかしたら本寺としていたことがうかがえます。
 この時期は以前にお話しした「弥谷寺石造物の6時代区分」で見ると、第1期で阿弥陀三尊像に代表される磨崖仏が姿を現し、境内に磨崖五輪塔が活発に作られ続けた時期にあたります。同時に、寺院組織も整い、学と行が活発化したことを、弥谷寺に伝わる膨大な聖教類から研究者は推測します。ここでは、中世の弥谷寺が多度津の道隆寺と深い関係にあったことを押さえておきます。     
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道隆寺本堂
当時の弥谷寺西方の三豊地域の修験者の動きを見ておきましょう。
四国霊場68・69番札所の七宝山神恵院観音寺に、徳治2年(1307)に第41世蓮祐が書家を雇って書写させた『讃州七宝山縁起』があります。
七宝山縁起 行道ルート
         『讃州七宝山縁起』
意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手)で大師勧進。
第三宿は経ノ滝
第四宿は興隆寺で号は中蓮
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山である。
七宝山縁起 行道ルート3


ここには、観音寺をスタートとして三十三日をかけて七宝山を行場として修行する「中辺路ルート」があり、「峯中の宿」があったことが分かります。
 興隆寺は、第70番札所七宝山持宝院本山寺の江戸中期の『縁起』には、本山寺の奥之院とされています。興隆寺には、25段の岩窟があり、種字が刻まれた石が敷かれていたと記されますが、近世期には二段しかなくなり、本堂や仁王門も礎石が残るだけになっていたようです。現在でも多くの五輪塔が山中に眠るように並んでいるのは、以前に紹介したとおりです。
経の瀧は、現在は「不動之瀧」と呼ばれ、毎日三回「威怒尊王」が現れると伝えられる瀧です。ここも行場としては相応しいところです。
 第六宿の神宮寺は、『道隆寺温故記』にも登場します。
さきほどの道隆寺の院主が導師を勤めた一覧表の中に、文保2年(1318)8月に「三野郡生里之神宮寺大明神」の「遷宮導師」を務めていることが記されています。これが荘内半島の生里浦で、生里に神宮寺があったと研究者は考えています。
 荘内半島の積浦には、かつて山麓に「船積寺」と称する中世寺院があったようです。
天保11年(1840)に庄屋の陶山氏が藩に提出した書上帳の中に、船積寺の寺院ネットワーク5寺が次のように記されています。
岡本村 不動瀧、
比地村 岩屋寺
下高野村 興隆寺
生里浦 神正院
積浦 船積寺
 中世の神宮寺が近世の神正院の前身であったとすると、観音寺の中世縁起の中に書かれた「峯中宿」とほぼ一致することになります。船積寺には役行者伝承が色濃く残されていて、修験者との関係が深かったようです。
 以上にのように中世には、これらの行場や寺院は「七宝山中辺路」ルートで結ばれていて、修験者や念仏聖などの行人集団の行き来があったと研究者は考えています。彼らが歩んだ道は、また修行の道でもあったのです。
 近藤喜博氏は、四国遍路と西国巡礼との最も大きな違いは、遍路には「修行の道」という意味合いが強く込められている云います。それは、辺地(へち)を巡る行道の旅でした。中世行人集団の行道修行が四国遍路の「道ならし」の役割を果たしたと云えるのかも知れません。
 ところが、「七宝山辺路ルート」の行場や寺院で札所となったのは、観音寺と本山寺の2カ寺だけです。

弥谷寺と道隆寺の関係を、もう一度見ておきましょう。
 道隆寺は、信仰面でも弥谷寺に大きな影響を与えてきたようです。道隆寺は以前にお話したように、中世には多度津の堀江湊の管理センターの役割を担っていたようで、紀伊の根来寺との関係が深かったようです。海に開かれた瀬戸内の寺院として、塩飽諸島や庄内半島をの寺社を配下に組織していたことも先ほど見てきた通りです。
弥谷寺 深沙大将椅像
弥谷寺の蛇王権現

 弥谷寺には従来は蔵王権現とされてきた「蛇王権現」があります。弥谷寺以外に「蛇王権現」があるのは、讃岐では聖宝理源大師の生誕の地といわれる沙弥島の小さな神輿堂だけのようです。このふたつの「蛇王権現」を結ぶ役割を道隆寺が果たした可能性を研究者は指摘します。
道隆寺と弥谷寺をつなく民俗として現在に残っているのが「七ヶ所参り」だと研究者は指摘します。
七ヶ所参りを、近世後期の写し霊場とか、八十八ヵ所の短縮版とみる考えもあります。しかし、今見てきたように、中世の丸亀平野の宗教状況を考えると、曼荼羅・善通寺をはじめ、智証大師円珍の生誕の地である天台寺門宗の金倉寺、道隆寺や弥谷寺が、無関係にばらばらに存在したとは思えません。『道隆寺温故記』には、中世における寺社間の活発な協同や協力が記されています。
 修行面か見ると、『七宝山縁起』の七宿の「七宝山中辺路ルート」のような七カ寺の行道ルートがあっても自然のように思えてきます。
七ヶ所詣り
七ヶ所詣りのお寺
中讃には近世になっても「七ヶ寺参り」の風習が残っていました。
それは戦後まで続いていたようです。丸亀や多度津からのルートは、春の彼岸に、まず道隆寺に参拝します。そして金倉川沿いに金倉寺(76)を経て、善通寺(75)で一服して、甲山寺(74)、出釈迦寺(73)・曼荼羅寺(72)を経て、午後頑張って弥谷寺(71)へ登り、接待を受けるというものだったようです。そして帰りは、天霧山を越えて海岸寺(番外)に下っていきます。このれ今からみると、「逆うち」です。しかし、「七ケ所参り」のメインは善通寺ではなく、あくまで「弥谷さんにお参りする」ことがメインテーマで、弥谷寺が「結願」であったようです。そうだとすれば、この順路がもともとの参拝順だったことになります。
 三豊の七宝山の七宿は、ほとんどが廃絶してしまいました。しかし、中讃の七ヶ所参りは八十八ヵ所遍路と重なることで今まで存続してきたのかもしれません。ある意味、四国遍路以前の「四国辺路」ルートの痕跡が残っているといえます。この民俗の根底には、弥谷寺を阿弥陀浄土信仰の聖地として、ここに信者たちを誘引し続けた中世の念仏聖や高野聖たちの残した活動痕跡かもしれません。
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道隆寺本堂
     以上をまとめておくと
①弥谷寺は中世には、念仏聖などによって阿弥陀浄土信仰の聖地として信者が誘引され、多くの磨崖五輪塔が彫られた。
②中世の弥谷寺は孤立した存在ではなく、多度津の道隆寺の影響下にあった。
③中世の道隆寺は、海岸寺から庄内半島、塩飽の島々の寺社を配下に入れて海に開けた寺院として繁栄していた。
④道隆寺は塩飽を通じて、備中児島の五流修験の影響を受けていていた。
⑤そのため道隆寺の影響下にあった海岸寺や弥谷寺には、五流修験者に誘引された信者たちを海を越えて参拝にくることもあった。
⑥五流修験=道隆寺の影響下にあった海岸寺や弥谷寺は、戦国末には弘法大師=海岸寺生誕説を流布するなど、善通寺や高野山とは別派的な動きを見せたときもあった。
⑦江戸時代になって、弥谷寺は善通寺から院主を向かえるようになって、善通寺と本末関係を結ぶようになり、道隆寺との関係は薄くなっていった。
⑧弥谷寺は中世以来の「イヤダニマイリ」の聖地であり、周辺寺院と「中辺路ルート」で結ばれていた。
⑨近世になって、行を伴う修行者の「四国辺路」から、お参りだけの「四国遍路」に移り替わって行く際に、「七宝山中辺路」ルートは消えたが、中讃の「弥谷寺七ヶ寺」ルートは遍路道として存続した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
白川琢磨   弥谷寺の信仰と民俗 弥谷寺調査報告書 香川県教育委員会 2015年
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弥谷寺本堂
弥谷寺本堂については、私は次のような「仮説」を考えていました。
①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていた。
②それが、いつの時代かに磨崖仏は信仰の対象ではなくなった。
③その結果、磨崖と本堂の間に壁が作られるようになった。
その根拠となるのが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)の弥谷寺本堂について次の記録です。(意訳)
(前略)
さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。

 ここには、弥谷寺本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。

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弥谷寺本堂の正面壁と磨崖

 現在の本堂は背面が壁で閉じられているので、岩壁に彫られた仏像や五輪塔は見えません。礼拝の対象外になっています。つまり岩壁に彫られた仏像とは全く無関係に、現在の本堂は建てらたことになります。

弥谷寺 本堂平面図
弥谷寺本堂平面図

岩壁を覆うように仏堂を建てるのは、岩壁に彫られた仏像に対する儀式を行う場を設けるためと考えられています。その例として、研究者は次のような仏堂を挙げます。
弥谷寺 龍岩寺奥院礼堂(大分 弘安九年 重要文化財)

龍岩寺奥院礼堂(大分 弘安九年 重要文化財)

龍岩寺奥院礼堂は岩窟に祀られた木彫の薬師・阿弥陀・不動明王の三尊の前に儀式空間の礼堂が設けられています。
弥谷寺 不動寺本堂(滋賀 南北朝 重要文化財)
不動寺本堂(滋賀 南北朝 重要文化財)

不動寺本堂は、岩盤の竃に厨子を置いて、本尊を安置しその前に岩壁に接した仏堂が設けられています。
これらの例のように弥谷寺本堂も18世紀中頃までは、磨崖の本尊を覆うような形で建てられていたと考えるのが自然のように思えます。
今のように壁によって隔てられる前の本堂の姿は、どんなものであったのでしょうか。しかし、それ以上は絵図資料からは分かりません。そこで研究者は屋根形式の変遷をさぐるために、磨崖のレーザー実測図を手がかりにしながら、岩壁の穴や窪みを見ていきます。

弥谷寺 本堂と磨崖
弥谷寺本堂背面岩壁の痕跡
上図を見ると本堂裏の磨崖には、数多くの五輪塔と四角い穴が彫られていたことが分かります。これが今は本堂によって隠されていることになります。東側(右)に五輪塔が密集しています。「四国遍路日記」の「阿弥陀三尊本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。」という記述通りの光景が広がります。西側に四角い穴が3つ見えます。

研究者は、この写真を詳しく検討して本堂は、複数回の建て替えが行われていること、それに伴なって屋根形式も変更されていることを次のように指摘します。
①第42図左下部のAの部分には、地面から3mの高さまで角柄穴が一列に並んでいる。
②地面近くでその1m西に柄穴2個がある。
③これらはこの前に立っていた建物の柱と繋ぐためのもので、前者は間渡しの柄穴、後者は縁葛の柄である。
④この位置は現在の本堂の柱筋とほぼ一致する。
⑤現在の本堂には岩壁へ向かって壁が設けられていた痕跡がないので、岩壁の痕跡はこれ以前の建物のものである。
⑥前身建物の西側の側柱は、現在の建物と同じ位置になる。
以上から次のような事を研究者は推測します。
⑦古くは岩壁に彫られた籠E・F・G・Hを利用して本尊が祀られていた。
⑧その前に儀式の場である本堂が設けられていた
⑨その場合、本堂は現状よりやや西に寄っており、C1~C3がその屋根跡で、今より2mほど低くなる。
⑩屋根葺材もCOや C1は、Bの現在の屋根の傾きから比べると勾配が緩いので、檜皮葺きか板葺と推定できる。
⑪以上から絵図「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年のに本堂は瓦葺ではなく、檜皮葺か柿葺と考えられる。

以上をまとめておくと、この磨崖には四角穴に尊像が彫り抜かれていて、そこにC1~C4までの4回の屋根が改修再建がされたことになります。確かにEは、C期の本堂の中心軸に位置します。そして、その周囲をFが取り囲む配置になります。この棚状の所に、何体かの尊像が安置されていたのでしょう。C期には、磨崖右側の五輪塔は本堂の外にあったことになります。
 Cにあった屋根がBになって大型化するのが18世紀中頃になります。それが「讃岐剣御山弥谷寺全図」天保十五(1844)年に描かれた天守閣のような本堂なのでしょう。ここでは、本堂が1720年の焼失で建て替えられ、それ以後は現状に近い「入母屋造妻入」のスタイルになったこと、その時に本堂は磨崖から切り離されたことを押さえておきます。
弥谷寺 本堂と磨崖

現本堂の棟より下にみえる溝状の痕跡Cを、もう少し詳しく見ていきます。
これも屋根が取り付いていた痕跡のようです。現在の屋根や痕跡Bより低い位置にあり、少なくともCl・C2。C3の三時期分の屋根の痕跡と研究者は考えています。またそれにつながると見られる水平の痕跡COoやC4もあります。これを研究者は次のように推察します。
①COとCl、 C4とC3がそれぞれ一連の屋根の痕跡である。
②COとCl、 C4とC3に向かつて正面側と右側に流れがあるから、寄棟造、平入の屋根が設けられていた可能性が高い。
③これが澄禅が「四国遍路日記」(承応二年=1653)の中で、「片ハエ作」と呼んだ屋根かもしれない。
④C2は、これに連なる痕跡がないので、切妻造か寄棟造かは分からない。

以上の屋根の痕跡から見て、C群の屋根の時期の本堂の中軸は、今より西にあった。
COとC1は2m以上
C4・C3は約1m以上、
C2は0,5m
  本堂は次第に東に移動していったようです。

もういちど第42図にもどり。今度はBの屋根跡を見ていきます。
Bには現在の本堂の屋根よりほんの少し高い所に残った、漆喰の埋められた山形の溝の用です。漆喰の大部分の表面は、黒く塗られています。これは切妻造の屋根が岩盤に突き当たっていた証拠だと研究者は指摘します。屋根と岩盤の取り合い部分を塞ぐために、漆喰を塗ったと云うのです。
 Bの東・西の、それぞれの屋根の流れは現在よりわずかに短いようです。 ただし西側(左側)では漆喰のある部分よりも西まで、その傾斜を延長する位置に岩盤の彫り込みが延びています。この一部は仏竃の上部も彫り込んでいて、漆喰がはがれた痕跡もあるようです。またBの東側(右)では、軒の先端(東端)に反りのある屋根形状に合わせた彫り込みが見えます。これらの漆喰や彫り込みも、前身建物の屋根の痕跡のようです。そうするとBの漆喰部分は、現本堂の屋根とほぼ重なり合うことになります。つまり、規模と傾きが一致する屋根で、表面の黒塗りから屋根は瓦葺だったと研究者は推察します。
それに対して、東側(右)で見られる反りのある彫り込みは、檜皮葺か瓦葺でも中世的な技法の屋根と推察します。以上から同じ位置で2期分の痕跡があることになります。それは、いずれも現本堂とほぼ同じ幅の屋根です。ここからは、現本堂の再建前に、同規模の屋根を持つ本堂が檜皮葺と瓦葺でそれぞれ1回ずつ建てられていたことになります。

弥谷寺 建築物推移表
上表は明和6年(1769)の「弥答寺故事謂」と、昭和6年(1931)の史料(年鑑)に載っている弥谷寺の建築物を、研究者が年代順に並べて整理したものです。
これを見ると、寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立されています。(「年鑑」)
この建物は、大見村庄屋の大井善兵衛をはじめ上高瀬・下高瀬・麻・三井・今津村などの三野郡3か村、多度郡2か村、那珂郡1か村の庄屋クラスの村役人たちの尽力によって建てられたもので、弥谷寺で最も古い建築物になるようです。
その約40年後の宝永6(1709)年にも、本堂(千手観音堂)が建てられています。これはどうも改修再建のようです。この時の千手観音堂(本堂)は、11年後の享保5年(1720)の春に焼失します。
 この時に弥谷寺は、大庄屋上ノ村の字野与三兵衛へ次のように願いでています。
「貧寺殊二無縁地二御座候得は、再興仕るべき方便御座無く迷惑仕り候、これに依り御領内、御表万う御領分共二村々廻り、相対二て少々の勧化仕り度存じ奉り候」
意訳変換しておくと
「我が寺は貧寺で、檀家も持たない無縁地ですの、再興の術がなくほとほと困っています。つきましては多度津御領内、だけでなく丸亀藩の御領分の村々をも廻り、少々の勧進寄付を行いたいと思いますので、許可していただけるように、多度津藩に取り次いでいただけないでしょうか。

 弥谷寺は、多度津藩だけでなく本藩丸亀藩にも、村々を回つて寄附を募ることを、願い出ています。(「奉願正三之覚」、文書2-116-2)。これは藩には認められなかったようです。勧進寄付活動は認められなかったようですが「本尊観音堂」の建立は認められたようです。それは本尊が千手観音の大悲心院が再建されていることから分かります。ここでは、本尊観音堂の建立を「本堂建立」と記しています。つまり、千手観音堂とは本堂のことだと研究者は指摘します。私は、千手観音堂は現在の観音堂のことだと思っていましたがそうではないようです。
本堂(千手観音堂)は近世後期にも焼失し、弘化5(1848)年に再建されています。(「年鑑」)。これが現在の本堂になるようです。
 これを先ほどの本堂裏の磨崖面の屋根跡とつきあわせると、次のようになります。
①寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立(「年鑑」)  →C群のどれか 
②宝永6(1709)年、本堂(千手観音堂)の改修再建。(「年鑑」)、→Bの茅葺き
③18世紀半ばに本尊千手観音の大悲心院(本堂)が再建  →近世後期に焼失 →Bの瓦葺き
④弘化5(1848)年に再建(現本堂)
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弥谷寺本堂東側磨崖の五輪塔
この本堂裏の磨崖には、どんな仏たちが安置されていたのでしょうか。
現在の本堂には、木造彫刻の千手観音・不動・毘沙門が安置されています。本尊千手観音は、弘化四年(1847)の作であることが分かっています。弘化の本堂の再建に併せて、本尊も造られたようです。「元禄霊場記」「寛政名所図会」などにも、本尊は、同じ仏像であった事が記されています。
「元禄霊場記」には弘法大師の事績として、次のように記されています。
三柔の峰東北西に峙てり、その中軸に就て大師岩屋を掘、仏像を彫刻し玉ふ、本堂岩屋より造りつゝ゛けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。

意訳変換しておくと
三柔の峰は東北西に伸びていて、その中軸に大師が岩屋を掘り、仏像を彫刻した。本堂岩屋より造り続けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。

ここには大師が岩屋を掘って仏像を彫刻し、本堂はその岩屋に続いていたと伝えらていたことがうかがえます。この記事は延宝5年(1677)の「玉藻集」(『香川叢書』第二 所収)の記事を引用したようのなので、延宝五年以前には岩壁の磨崖仏が弘法大師作で貴重なものであるという認識があったようです。それが次第に忘れられ、手作りでつたなく見える石仏造物よりも、プロ職人の作った木像仏が本尊として迎えられ、同時に磨崖と本尊は壁で隔てられたというストーリーが描けそうです。
磨崖の尊像たちは、どのように安置され礼拝されていたのでしょうか。
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「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」(弥谷寺大師堂)

その疑問に答える鍵を、研究者は現在の大師堂の獅子の岩屋内の「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」に求めます。この2枚の扉は、岩屋の向かって右側に立てかけられた形で安置されています。

この扉には慶長9(1609)年に作られた高さ120~130㎝の扉の残欠です。
「讃州三野郡剣五山弥谷寺故事謂」『新編香川叢書 史料編一』所載 「明和故事諄」と略記)には、次のように記されています。
一、大悲心院 一宇 享保十二年未年、幹事宥雄法印
本尊 千手観音  弘法大師御作
脇士鉄扉 右 不動明王
銘云、鋳師河内国(略)
同 鉄扉 左 毘沙門天王
銘云、奉寄進(略)

ここからは次のようなことが分かります。
①大悲心院(本堂)の本尊が千手観音で弘法大師作であったこと。
②右の鉄扉に不動明王
③左の鉄扉に毘沙門天王
つまり、「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」は、もともとは大悲心院(本堂)にあったのです。それでは、鉄扉はどのように使用されていたのでしょうか。研究者が注目するのは42図の四角穴Eです。Eは、屋根がC群にあった時期には、本堂のちょうど中央にあった穴になります。Eには、扉の軸摺穴が残っていることを研究者は指摘します。鉄扉がここに填まっていたとすれば、Eに本尊千手観音が安置されていたことになります。この位置は屋根の痕跡COの位置とほぼ揃います。慶長の頃には、Eに本尊を祀り、その前に本堂の建物が取り付いて、不動明王・毘沙門天王が浮彫にされた鉄扉を開けると本尊の千手菩薩を拝むことができたことになります。
正徳四年(1714)の「弥谷寺由来書上」(寺蔵文書1-17-8)には、次のように記されています。
一、当山本尊千手観音堂、炎焼以後者壱丈二五間之片廂仮屋二鎮守権現・千手観音、不動・毘沙門 ハ左右之鉄扉脇士ノ尊像也、弥陀・釈迦・地蔵菩薩一所二安置セリ、然に延宝年中二仮堂大破に及たり、建立之願を発し、遠近の門戸を控、微少の施財を集、三間四面之観音堂建立功畢、参拾餘に及て大地震二、大石堂二落懸り、堂已二大破せり、依之再建造営ノ願、止事なしといへとも、前之堂所ハ、不安穏の地なれは、後代無愁之所を択定、往昔中尊院屋敷江引越、奥行四間、表五間に造営建立、其功令成就畢、
意訳変換しておくと
弥谷寺の本尊千手観音堂は、(天正年中の)戦禍で焼失以後は壱丈二五間之片廂仮屋で、そこに鎮守権現・千手観音を安置し、不動・毘沙門天は左右の鉄扉の脇士尊像であった。つまり、弥陀・釈迦・地蔵菩薩を仮堂の一ケ所に安置していた。ところが延宝年中(1673年~81年)に仮堂も大破してしまった。そこで、再建願いを藩に出たが、大規模な寄進活動は行わず、限られた募金活動で、わずかばかりの施財を集め、三間四面の規模で観音堂(本堂)を再建することにとどめた。 ところがこれも30年ばかり後に大地震に見舞われ、磨崖の上から大石が本堂に落ちてきて、本堂は大破してしまった。再建造営願を藩に提出し、再建に向けて動き出した。その際に、今までの本堂が建っていた所は、再び落石の危険があるので、後代に愁いの無いところへ移して再建されることになった。奥行四間、表五間の規模で造営建立された。其功令成就畢、

ここからは次のようなことが分かります。
①戦国末期の天正年中の兵火で本堂も焼失
②その後は片庇の仮堂を建てて、本尊やその他の尊像を安置していた
③ところがこの仮堂も、延宝年中に大破した。
④そこで、限られた寄進活動で三間四面の小規模な規模で観音堂(本堂)を再建した
⑤ところが約30年後に地震で大石が落ちてきて、これも大破
⑥そこで安全なところに場所を移して奥行四間、表五間の規模で再建された。

これ以外にも「剣五山弥谷日記」(弘化三年 寺蔵文書2-20-1)には、享保五年の本堂火災等の記事もあることは先ほど見たとおりです。
岩壁崩壊後に場所を移動して建てられた本堂が屋根跡C→Bを示すのかも知れません。しかし、どの程度移動したのかはよく分かりません

以上をまとめておくと
①弥谷寺本堂裏の磨崖には、尊像を安置した四角穴が4つほど穿たれている。
②ここには弘法大師作とされる尊像が安置されていた。
③そのためこの尊像が安置された四角穴を覆うように、屋根が被せられそれが本堂とされてきた。
④その本堂は現在のものよりも小型で、現在の位置よりも西へ2mほどよった所に建てられていた。
⑤それが江戸時代中期になると本堂は焼失や落石などで大破し、再建されることが続いた。
⑥その結果、江戸時代後半には参拝客の増加とともに本堂も大型化し、瓦葺きとなっていった。
⑦本尊も弘法大師作という石仏からプロ職人の木像仏へと代わり、磨崖仏との間に壁がつくられるようになった。
⑧磨崖物の本尊千手観音を守っていた脇士の不動明王と毘沙門天の鉄扉像は役割を終えて、現在は太子堂内の獅子の岩屋に収められている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  山岸 常人 弥谷寺の建築の特質     弥谷寺調査報告書263P  香川県教育委員会

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弥谷寺本堂

四国霊場のお寺は、もともとは山林寺院だった所が多く、本堂の奧に奥の院や大師堂があるのが普通です。ところが弥谷寺は、本堂が一番上にあります。獅子の岩屋があるのが「大師堂」です。ちなみに大師堂と呼ばれるようになったのは、この寺が江戸時代に善通寺の末寺となってからのことです。この寺に弘法大師信仰がはいってくるのは近世以後だったことがうかがえます。これについては、また別の機会にふれるとして、先を急ぎます。
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阿弥陀三尊磨崖物

 本堂が一番上にあるのは、ここが一番大切な所であったからでしょう。それは何かと云えば、本堂下の磨崖に彫られた阿弥陀三尊像だと私は思っています。鎌倉時代に弥谷山を拠点とした高野聖や念仏聖たちが信仰したのは阿弥陀さまです。それが彼らの修行場であり、聖なる磨崖に彫られて本尊として信仰されるようになります。後に本尊は観音さまに交代しますが、弥谷寺のスタートは阿弥陀信仰です。そして、この上に本堂は建立されることになります。

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弥谷寺本堂軒下の磨崖に置かれた石仏

 弥谷寺本堂は伽藍の最上段に岩盤を削って建てられています。
その西側面と背面には岩盤が垂直に迫ってきて、背面には人が彫った窪みや磨崖五輪塔がいくつも穿たれています。本堂はこの岩盤に接するように建てられ、背面切り妻屋根はそのまま岩盤に繋がれています。
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弥谷寺本堂西側の磨崖五輪塔
 この本堂を最初に見たときに思ったのは、断崖に囲まれた岩窟寺院という印象でした。まわりの断崖の中に、すっぽりと本堂が入り込んでいるような感じです。その後、中国の敦煌や竜門などの石窟寺院を見て、改めてこの本堂を見ると腑に落ちないことがいくつかでてきました。それは、弥谷寺でも磨崖に仏像が彫られ、それが本尊として信仰対象となっていたはずです。それなのに、今の本堂は断崖との間に壁があるのです。
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仏が彫られた磨崖側の本堂の壁(弥谷寺)
これでは、本尊を拝むことは出来ません。私の仮説は、次のようなものです。
①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていたい
②それが、いつの時代かに磨崖物は信仰の対象ではなくなり、磨崖との間に壁のある本堂が建てらた。
しかし、素人の悲しさで、これ以上のことは分かりませんでした。どうして壁が作られたのか、また、それがいつ頃のことなのか疑問のままでした。それに答えてくれたのが、「山岸 常人 弥谷寺の建築の特質  弥谷寺調査報告書263P」です。今回は、これをテキストに弥谷寺本堂の謎に迫っていきたいとおもいます。

まず、研究者が押さえるのが弥谷寺が描かれた次の絵画史料です。
①「四国編礼霊場記」 (元禄2(1689)年
②「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年
③「四国遍礼名所図会」 (寛政十二(1800)年
④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年、
⑤「金毘羅参詣名所図会」 (弘化4(1847年 )

これらの絵図で弥谷寺本堂を見ていきましょう。
弥谷寺 四国編礼霊場記
 ①「四国編礼霊場記」では、「観音堂」とあるのが本堂です。
先ほど述べたように伽藍の中で一番高い所にあり、その周辺には、多くの磨崖物や五輪塔が描かれています。本堂(観音堂)は平入の仏堂のように描かれていて、岩壁に接しているようには見えません。現在の本堂は、正面入母屋造、妻入の建物ですが、背面は切妻造になっていて、背面側は土壁で開じられています。背面と向かって左側面に岩壁があり、それらに接するように本堂が立っています。
「四国編礼霊場記」は写実性に乏しいとされるので、すぐに17世紀の本堂の建築形式が今とは違っていたと判断することはできないと研究者は考えています。本堂の右側に描かれているの阿弥陀三尊の磨崖物です。
弥谷寺 一山之図(1760年)
②「剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10(1760)年です。
  本堂は、「正面入母屋造、妻入の建物」ですが、背面は切妻造ではないようです。ここからも本堂が磨崖に接しているようには見えません。本堂周辺部を見ると、山崎家の3つの五輪塔が描かれています。しかし、現在は本堂のすぐ西側にあるので位置が違うような気もします。山崎家五輪塔は、後世に現在地に移動された可能性があります。また、天霧城主の香川氏の五輪塔が100基以上もかつては西院跡にはあったとされますが、それも描かれています。香川氏と山崎氏の墓域であったことを強調しているようにも思えます。現在の大師堂は「奥の院」と標記されています。大師堂と呼ばれるようになるのは弘法大師信仰が強まる江戸後半以後のようです。
弥谷寺 四国遍礼名所図会

③「四国遍礼名所図会」(寛政十二(1800)年の本堂です。
 「正面入母屋造、妻入で、背面は切妻造」の現在の姿に近いようです。背後も磨崖に接しているように見えます。この絵図は、他の絵図と比べても最も写実的な要素が強いようなので「本堂=磨崖設置説」を裏付ける資料にはなりそうです。また、本堂前の坂道が石段化されています。この時期は、曼荼羅寺道なども整備され接待所が置かれ、大地蔵や金剛拳菩薩などの建立が進められていた時期になります。進む境内の整備状況を描いたとも考えられます。金毘羅さんでも見ましたが、境内整備が進むとそれをアピールして、さらに参拝客を増やそうとする「集客作戦」を、当時の大きな寺社は展開していました。このプロモート作戦が功を奏してか、十返舎一九の描くやじ・きたコンビも金毘羅詣でのついでに、弥谷寺にお参りしているのは、以前に紹介しました。この時期から参拝客が激増します。しかし、それは四国霊場の「集客力」ではなく、「金毘羅+善通寺+七ケ所廻り」という誘引戦略のおかげだと私は考えています。

弥谷寺 「讃岐剣御山弥谷寺全図」
④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年です。
この時期は、金毘羅に歌舞伎小屋や旭社が姿を見せ始め金比羅詣客がピークに達した時期になります。それに連れて、弥谷寺参拝客が最盛期を迎える頃になります。そのためか伽藍整備も進んで本堂も天守閣のような立派な建物になっています。旧奥の院も大師堂と名前を変えて、堂々とした姿を見せています。
 本堂西側に山崎氏の五輪塔が集められて墓域を形成しています。この時期に本堂の西側に移された可能性があります。

弥谷寺 金毘羅参拝名所図会
⑤次が「金毘羅参詣名所図会」です。
この本堂や大師堂を見ると「????」です。先ほど見た④と比べて見ると3年しか建っていないのに、描かれている建物がまったくちがいます。それに「大師堂」が「奥の院」の表記に還っています。これはいったいどうしたのでしょうか。火事で全山焼失し、新たな建物となったということもなさそうです。
研究者は⑤の描く本堂や奥の院が②「剣五山弥谷寺一山之図」と、非常によく似ていることを指摘します。つまり⑤は出版に際して、現地を見ずに②を写した可能性があると研究者は考えているようです。今では考えられないようなことですが、当時は現地を訪れずに絵図が書かれることもあったようです。とすると⑤「金毘羅参詣名所図会」は、資料としては想定外となると研究者は判断します。
四国遍路関連古書

絵図はこれだけですが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)には、次のように記されています。
 剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師(弘法大師)の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切王フ、北ノ床位牌壇也、又正面ノ床ノ脇二護摩木棚二段二在り、東南ノニ方ニシキ井・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ、
 拉、寺ノ広サ庭ヨリー段上リテ鐘楼在、又一段ヒリテ、護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ戸ヲ仕合タリ、
内二本尊不動其ノ外仏像何モ石也、夫ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル巾二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、又一段上テ本堂在、岩屋ノロニ片軒斗指ヲロシテ立タリ、片エ作トカヤ云、本尊千手観音也。其廻りノ石面二五輪ヒシト切付玉ヘリ、其近所に鎮守蔵王権現ノ社在り。
意訳変換しておくと
弥谷寺・劔五山千手院は、坂口に仁王門があり、ここから上の参道沿いの石面には仏像や五輪塔が数しれず彫付られている。自然石を切りつけた階段で寺の庭に上っていく。寺は南向していて、西向きに持仏堂がある。磨崖の壁に指が架かるところを選んでつたい登っていくと、広さニ回半奥に、九尺、天井は人の頭が当たらないほどの高さに、堅固に掘り抜いた岩屋(獅子の岩屋)がある。そこに仏壇一間奥へ四尺ほど切り開いて左右に5つの如来を彫りだしている。また、そこには中尊大師(弘法大師)の御木像と、その左右に藤新太夫夫婦(弘法大師の父母)の石像がある。北の床は位牌壇で、正面の床の脇には護摩木棚が二段ある。東南のニ方に敷居・鴨居を入れて戸が入るようにしてある。
 寺の広い庭から一段上ると鐘楼在、また一段上がると護摩堂がある。これも広さ九尺斗二間に岩を切り開いて戸をつけてある。その中には、本尊の不動の他に、何体もの仏像があるが、全て石仏である。ここから少し南の方へ行くと水向(岩から染み出す水場)がある。ここの磨崖には二寸五歩もる刷毛で書かれたキリク文字の阿字が彫付られている。文字の廻は円相で、今風の朴法骨多肉少の筆法で書かれている。
その下に岩穴があるが、ここは死骨を納めるところである。水向のキリク字が彫り込まれた脇に空海の名前もある。このあたりの磨崖には、五輪塔が無数に彫り込まれていて数えられないほどである。さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。
 さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。

 ここには、17世紀中頃の弥谷寺の様子が詳しく書かれていて貴重な一級資料です。本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。どちらにしても澄禅は、弥谷寺本堂は、片流れの屋根であったと記しています。この記事は十七世紀中期には本堂の屋根が、いまのような入母屋造妻入でなかったことを教えてくれます。片流れ屋根なら磨崖仏を本尊とする本堂には相応しいものになります。

それでは本堂が「片流れの屋根」から「入母屋造妻入」姿を変えたのはいつのことなのでしょうか?
本堂が焼失した記録は、享保5(1720)にあります。また18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」

と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。ここからは1720年に焼失した本堂が18世紀半ばまでには、新たに再建されたことが分かります。先ほど見てきた絵図が書かれた時代をもう一度見てみると、次のようになります。
澄禅の「四国遍路日記」承応二(1653)年   片流れ屋根
①「四国編礼霊場記」 元禄2(1689)年 平入の仏堂
②「剣五山弥谷寺一山之図」宝暦10(1760)年   入母屋造妻入の本堂
ここからは17世紀には、片流れの屋根であったのが、1720年の焼失後に再建されたときに、入母屋造妻入の本堂になったと考えることが出来そうです。元禄年間前後に屋根形式の変更があった可能性を押さえておきます。

しかし、これだけでは本堂が本尊とされる磨崖仏の上に被せるように屋根があったことは証明できません。それを研究者はレーザー透視で撮られた写真をもとに解明していきます。それはまた次回に・・・
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弥谷寺本堂背後の磨崖仏や五輪塔

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  山岸 常人 弥谷寺の建築の特質     弥谷寺調査報告書263P  香川県教育委員会
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         P1120863
弥谷寺本堂西側の山崎家の墓域
17世紀中頃の丸亀藩藩主・山崎家治の代に、弥谷寺の麓での田地開発が許可されたことが、郡奉行から大見村庄屋又大夫に伝えられた史料に残されています。この史料からは弥谷寺が畑6反3畝の土地を開発し、伽藍修理料としての「御免許」(年貢免除)を得たことが分かります。これが「御免許地」、つまり田畑の税を免除された最初の寺領になるようです。(「御免許山林田畑之事」、文書2-106-19)
 さらに山崎家断絶の後に入封してきた京極藩の高和の代に、郡奉行へ新開地1町5反を、大庄屋上の村の新八、下高瀬村宇左衛門、大見村庄屋七左衛門を通して「御免許地」として願い出ています。そこには、「開地漸く七反余開発仕り、用水池を構えた」とあります。ため池築造とセットで、新田開発が引き続いて行われていたことがうかがえます。
 元禄7年(1694)に、丸亀藩の支藩として多度津京極藩が成立します。
2多度津藩石高
多度津藩の石高
前回お話ししたように弥谷寺のある大見村は、多度津藩に属します。そのため多度津藩の領地決定まで土地開発は一時中断したようです。多度津藩の領地が決定すると、改めて1町5反の開発を、大見村庄屋善兵衛が大庄屋三井村の須藤猪兵衛、上ノ村宇野与三兵衛へ申し出て、大庄屋の二人から代官に願い出ています。そして正徳4年(1714)3月に、次のような証文を得ています。

弥谷寺格別の儀二思し召され、後代堂塔修理料として、開田畑壱町五反御免許

こうして5月には、この田畑1町5反(田2反9畝、畑1町2反1畝)が御免許地とされます。これを山崎家時代に認められていた6反3畝と併せると御免許地は2町1反3畝になります。

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大見から見た弥谷山(真ん中 右が天霧山)
これらの弥谷寺の寺領は、どこにあったのでしょうか?
  弥谷寺の下に広がる大見の地は、中世に秋山氏によって開かれたとされます。秋山氏の一族である帰来秋山氏は、竹田に舘を構えていました。近世になると三野湾が大規模に干拓されていきます。そのような中で弥谷寺に続く斜面も開墾され、その上部の谷頭にため池を築造することで棚田状の新田を開発したことが推測できます。

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現在の八丁目太子堂付近 左が旧遍路道

 現在の八丁目太子堂辺りに、かつては大門があったことは以前にお話ししました。この太子堂の裏には谷頭に作られたため池があります。
弥谷寺 遍路道
八丁目大師堂(大門跡)の南に残る「寺地」

太子堂から本山寺に続く遍路道を下りていくと旧県道と交わる辺りに「寺地」という地名が残ります。江戸時代に、弥谷寺が開発し、「御免許地」となったは2町1反3畝の水田は、この辺りにあったと私は考えています。この土地は、弥谷寺にとっては伽藍維持や日常的な寺院経営にとっての経済基盤となったはずです。
弥谷寺 八丁目大師堂 大門跡
弥谷寺の寺地周辺
 また、4月には大見村の鳥坂原で、新開畑5反5畝が弥谷寺分として認められています。この地については「当夏成より定めの通り上納仕るべき者なり」とあるので、「夏成」(夏年貢)を納める必要があったようです。(以上、「御免許山林田畑之事」、文書2-11「19、「弥谷寺由来書上」、文書1-17-8)。

弥谷寺は、自らの手による新田開発以外にも、有力者からの田畑の寄進を受けています。
弥谷寺に残された田畑等の寄進証文を、研究者が年代順に整理したのが次の表です。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田畑等の寄進証文一覧表

これを見ると一番古いのは「1の元禄12年の三野郡上高瀬村の田中清兵衛」によるもので、精進供料とし田畑5畝(高2斗5升が寄進されています。この時期は、弥谷寺境内に多くの墓標が造立され始めたころで、18世紀中頃にかけて急速にその数が増えていきます。墓標を弥谷寺境内に建てると同時に、追悼供養として寄進が始まったようです。
弥谷寺 紀年名石造物の推移
弥谷寺の墓標造立数の推移表
2は、先ほど見た大見村寺地組の有力者で深谷家の当主です。新田として開発された周辺の土地が寄進されたのかも知れません。3~5は、大見村の属する「上の村組」の大庄屋である宇野家によるものです。宇野家は大庄屋として、多度津藩が命じて弥谷寺で行われる大般若経の転読や雨乞祈願などの行事には、上の村組の庄屋たちのトップとして臨席する立場にありました。ある意味、宇野家にとっては弥谷寺は慰霊の地であるとともに「ハレの場」でもあったのです。そこに、「観音堂修理料」の名目で、土地が3ケ所寄進されています。その後の田畑寄進者の名前を見ると、宇野家を見習うように大見村土井家、大見村庄屋大井家や、大見村内の有力者の名前が続きます。
 生駒氏や松平氏が新興の金毘羅神を保護し、金光院に多くの土地を寄進しました。それを真似るように、この時代になると庄屋や有力者が田畑を寺社に寄進するようになります。弥谷寺への土地寄進の先頭を切ったのは、大庄屋の宇野家で、これを見習うように庄屋たちが続いていきます。その背後には、彼らが弥谷寺を死霊の集まる山として霊山信仰をもち、そこに墓標を建てるようになったことがあります。

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弥谷寺の墓標
その中で6の正徳3年の5月と翌年3月に、美作の久米南条郡金間村平尾次郎兵衛が、岩谷奥院灯明料を寄進しています。
その理由は研究者にも分からないようです。ただ、近世以前の弥谷寺は、善通寺の影響下に入らずに、白方の海岸寺や父母院と同じ山伏(修験者・聖)たちとともに「空海=白方誕生説」を流布してたことは以前にお話ししました。そして、その源は多度津の道隆寺を経て、海を渡って備中児島の五流修験者たちとのつながりが見て取れます。五流の修験者の中には、海岸寺や弥谷寺を空海生誕の聖地として、先達なって信者たちを誘引していた時期があります。その名残がこの背景にはあるのではと、私は推測しています。

弥谷寺に寄進地された土地は、あまり広い田畑はないようです。
一番広いのが田畑5反3畝25歩の享保12年9月の上ノ村の大庄屋三野(宇野)浄智(与三兵衛)です。その次が寛延3年6月の田畑3反2畝27歩の宇野清蔵(宇野浄智の一族と思われる)になります。寄進目的としては精進供料、本尊仏倉向備、観音堂修理料、岩屋奥院三尊前言明料、石然地蔵尊仏倉向備、観音堂供灯明料、常灯明料・護摩供支具料・地蔵尊敷地・寺地普請などが記されています。
 宇野浄智の場合は常接待料・接待堂・常接待石碑となっており、遍路のための参詣者や接待堂建設のための寄進もあることに研究者は注目します。
弥谷寺 Ⅲ期の地蔵菩薩
弥谷寺の地蔵刻印の墓標


これらの寄進地は、その土地からの収入がすべて弥谷寺の収入となったわけではありません。
作徳米(藩へ年貢)を納めた後の収納米が弥谷寺の収入になります。たとえば一番古い元禄12年の田中兵衛の寄進状には、次のように記されています。
大見村小原にて田畑五畝、此の高弐斗五升の田畑買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料二事二仕る処なり、尤も御年貢諸役等其の方二て御勤め、其の余慶を以て御精進供御備え願い奉る者なり、右の意趣は両親のため、現世安穏後生善くする所なり
意訳変換しておくと
大見村小原で田畑五畝、石高弐斗五升の田畑を買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料として寄進する。もちろん御年貢諸役などを納めたあとの余慶を、御精進供御備するものである。この意趣は両親のため、現世安穏・後生を善くするためである。

ここからは次のようなことが分かります。
①寄進地は、従来から持っていた田畑ではなく、新たに弥谷寺周辺の田畑を買い求めたものであること。
「弘法大師の御精進供料」と弘法大師信仰がみられること
③「御年貢諸役等其の方二て御勤め」とあるように、年貢やその他の藩への負担である諸役は弥谷寺から納め、残った分を「其の余慶を以て御精進供御備え」に充てるとあること
この「余慶」が作徳米になります。つまり田畑の寄進を受けたとはいっても、それが「御免許地」のように藩への年貢貢等税が免除された寺領という性格ではなかったことを押さえておきます。
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弥谷寺本堂下の磨崖に彫られた五輪塔とその前に並ぶ墓標

弥谷寺への土地の売り渡し・質入れ証文が残っているのは、どうして?
享保11年(1726)から、幕末の嘉永元年(1848)までに20通を数える売り渡し・質入れ証文があります。どうして個人の証文が弥谷寺に残っているのでしょうか。研究者は次のように考えています。享保11年と同12年の大庄屋宇野浄智の売り渡し証文は、計田5反3畝25歩です。これは寄進地の第22表8番目の三野郡財田上ノ村宇野浄智と一致します。また宝暦6年2月の「利助取次」が宛名になっています。畑4畝12歩は、さらに大見村庄屋の大井平左衛門宛となっています。これは寄進地の13番目の宝暦6年12月大井平左衛門の田畑6畝5歩と同一の田畑だと研究者は指摘します。ここから大庄屋の宇野家や大見村庄屋の大井平左衛門は、質流れで手に入れた土地を、自分のものとするのではなく弥谷寺へ寄進したとことが分かります。この頃の庄屋は自分の利益だけを追い求めていたのでは、村役人としてやっていけなかった時代です。質流れの抵当として手に入れた土地は、寺社に奉納するという姿勢を見せておく必要があったのかもしれません。
以上をまとめておくと
①17世紀の弥谷寺は、八丁目大師堂の下あたりの斜面を開墾し、谷頭にため池を築造し新たな田畑を開いた。
②これは藩から「御免許地2町1反3畝」として無税の寺領として認められた。
③一方、18世紀になると大庄屋の宇野家など、境内に墓標を建てた有力者たちから先祖供養代などとして土地寄進が行われるようになった。
④その土地には「質流れ担保」で、庄屋たちの多くは自分のものとせずに弥谷寺に寄進する道を選んだ。
前回は大般若経の転読や雨乞い祈祷などの宗教行事を通じて、地域の有力者が弥谷寺と深く関わっていたことを見てきました。今回は、大庄屋などの有力者が経済的に弥谷寺をどのように支えてきたのかを見たことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書
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   多度津藩の初代京極高通は、正徳2年(1713)年4月19日に、将軍徳川家宜から多度津領知の朱印状を授けられます。幕府からの朱印状の石高は次のようになっています。
       公儀より京極高通への御朱印状          
讃岐国多度郡之内拾五箇村、三野郡之内五箇村
高壱万石(目録在別紙)事充行之屹依正徳之例領知之状如件
享保二年八月十一日
  京極壱岐守どのへ
こうして多度津藩は丸亀藩の支藩として成立します。その石高は以下の通りです。
2多度津藩石高
多度津藩の石高(多度郡+三野郡)

多度津藩の石高1万石は、多度郡が7130石余(15か村)、三野郡が2869石余(5か村)でした。その内で三野郡5か村は大見村・松崎村・原村・神田村・財田上ノ村で、その石高は次の表の通りです。

2多度津藩石高変化
多度津藩各村毎の石高推移

三野郡では宝暦年間は、大見村の石高一番多く、少ないのが原村だったことが分かります。それが明治4年には、神田や財田上(上の村)の石高が倍増しています。山間部での水田開発が継続して行われていたことがうかがえます。
弥谷寺 大見村と上の村組
多度津藩の三野郡5ケ村の位置

上の地図のように前者の3ケ村は三野郡の北部で、後者の神田村(山本町)・財田上ノ村(財田町)は、三野郡の南部になります。ふたつは離れた飛び地でした。環境の違うふたつのグループをまとめていくことは、なかなか大変だったことが予想されます。どちらにしても、弥谷寺のある大見村は、三野郡5か村で構成される上ノ村組に属していました。
上ノ村組の大庄屋は、財田上の宇野家が務めていたようです。
正徳1(1711)年に、神田村に隣接する羽方村(高瀬町)が多度津領に追加されます。その2年後の正徳3(1713)年4月に、上の村組大庄屋の宇野与惣兵衛が観音堂修理料として弥谷寺に田5畝を寄進しています。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田地寄進一覧表
 宇野家は大庄屋を代々務め、多度津藩の湛甫建設が本格化する天保7(1836)年3月まで、宇野弥三左衛門の名前は大庄屋として確認できます。一方、大見村の庄屋は、近世初期の元和6年(1620)以降、明治まで、大井家がずーっと継承しています。(『新大見村史』)
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弥谷寺の本坊
字野家や大井家と、弥谷寺はどんな関係だったのでしょうか?
その関係を垣間見える資料を研究者は2つ挙げています。ひとつは、享保19年(1734)に、弥谷寺住職智等が隠居願いを本寺の善通寺誕生院へ提出しています。それと同時に,大見村庄屋大井平左衛門と連名で大庄屋の宇野与三兵衛へも提出しています。しかし、これは認められなかったようです。
 2つ目は、隠居願いが認められなかった住職智等は、3年後の元文2(1737)年に、有馬温泉への入湯願いが出されています。このほかにも住職の高野山への登山や、本山善通寺の造塔のための大坂行についても承認伺いが庄屋や大庄屋に出されています。ここからは弥谷寺の願書は、直接に多度津藩の寺社奉行に提出され、その結果が直接に弥谷寺へ伝えられるという形式ではなく、庄屋・大庄屋の承認を受けて後に、藩に取り次がれるという仕組みになっていたことが分かります。それだけ弥谷寺の維持、運営に大庄屋・庄屋が深く関わっていたようです。
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弥谷寺本坊
次に弥谷寺の住職の後継者決定手続きを見てみましょう。
寛政11(1799)年暮れに住職蜜範が病死し、後継者を決めることになります。その際の記録に「法春並びに村役人共打ち寄り評議仕り候」とあります。法春とは同一宗門を修行する仲間のことで、弥谷寺の住職の決定には「法春」とともに村役人が「評議」して、その承認が必要であったことが分かります。蜜範の後継者には、松崎村の長寿院が転住して住職となっています。この時は大見村宝城院と大見村庄屋玉三弥源太連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願い出ています。(「諸願書控」、文書2-104-3)。

 その次の後継者選びは、文政9年(1826)に住職霊熙が病気隠居し、後任者に大見村の宝城院が兼帯することを願い出ています。この時も弥谷寺と大見村後見大井勇蔵の連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願書を提出しています。このことは善通寺誕生院へも伝えられ、多度津藩では「願書二誕生院よりの添翰を以て願い出」ているので、これを認めています。(「奉願口上之覚」、文書2-116-11)
 幕末の嘉永5年(1852)に弥谷寺では住職智量が隠居したため、後継者を決めることになります。この時も寛政11年の時の「法春井びに村役人共評議仕り」との同じような文言があります。ここからは弥谷寺の後継者決定にも、大見村の村役人が深く関わっていたことが分かります。村役人と弥谷寺の関係の強さがうかがえます。
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弥谷寺十王堂

弥谷寺の住職は多度津藩の陣屋が出来るまでは、藩主が在国している時には、年頭に丸亀城で丸亀藩主・多度津藩主にお目見えをしていたようです。また、正・五・九月には丸亀城内で、般若経の転読や祈祷を行っています。ここからは、弥谷寺は丸亀藩・多度津藩の祈祷寺だったことが分かります。(「弥谷寺故事謂」)

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弥谷寺十王堂からのながめ

 明和7(1770)年はこの年は不作で、丸亀藩では農民に対し、「夫喰」(食料米)の貸与を行っています。これに対して5月に、多度津藩・寺社奉行は弥谷寺と道隆寺を呼んで、次のように命じていることが「五穀成就民安全祈祷控」に記されています。(要約)

藩主・京極高文様が近年の旱魃という領内不幸に、「百姓貧殺イタセシ事」を深く悲しんでおられる。そのために正月に「五穀豊熟民安全」を祈って、藩主自らが大般若経の「御札」を書き、その版木を道隆寺へ奉納することになった。そこで、多度津藩内の道隆寺と弥谷寺に大般若経の転読を命じ、祈祷料として銀5枚、領内へ配る御札用の料紙として杉原一束が渡された。祈祷料と御札紙のことは、弥谷寺から地元の「上の村組中」へも伝えらた。

 大般若経とは、正式な名前を「大般若波羅蜜多経」といいます。
 唐の時代に三蔵法師玄奘侶が16年のインド(天竺)留学から持ち帰り、その後4年を費やして翻訳(漢訳)します。小品般若、大品般若、金剛般若、文殊般若、秘密般若、理趣般若などさまざまな般若部経典の大全集で、その数は600巻にもなるようです。内容は、「般若波羅密」と訳される”悟りに至る智恵”を説く諸経典を集成したもので、「色即是空 空即是色」、一切の存在はすべて空であるという空間思想を説いているとされています。
2020年8月 – 三方石観世音
大般若経600巻

   しかし、中世の村々の寺社では、災異や疫病の流行を鎮め豊作を祈るための祈願行事となります。村々では日々の安寧を祈るため、大般若経を手に入れて祈願するようになります。導師が説草を唱える合間に、大般若経600巻を複数の僧侶で転読し、藩内の安全、五穀豊穣、また地区住民の厄災消除、家内安全を祈願するものです。

大般若経転読法要: 薬師寺日記
大般若経の転読(薬師寺)
しかし、600巻もあるお経を読むのも、長い巻物を巻くのも大変です。そのため、お経の形は5センチくらいの幅で蛇腹折りにした「折本」の形に変えられ、これを片手から片手へパラパラと落とし受けられるようにし、これでお経を読んだことにする「転読」が広く行われるようになりました。村のお経は、共同体の拠りどころである神社の宮座に置かれたので、仏教の経典が神社に伝わるという保管状況になっていたところが多いようです。それが、神仏分離で神社からお寺に移され、保管されてきたようです。
大般若シリーズ【3】 転読 その1新米和尚の仏教とお寺紹介

 経本を1巻1巻正面で広げ流し読むことで、それによって清らかな”般若の風”が起き、疫病や災害が吹き飛ばされるとされます。それぞれの僧侶が、1巻1巻「大般若波羅蜜多経 巻第○○(巻数) 唐三蔵法師玄奘奉詔訳ー!!」と、大音声で経巻数を唱え、最後に「調伏一切大魔最勝成就!」と唱え締めくくります。
このような転読会が多度津藩主から弥谷寺と道隆寺には命じられていたようです。
この時の弥谷寺の大般若経の転読には、代拝使として寺社奉行と寺社取次・代官奈良井藤右衛門らがやってきています。そして三野郡大庄屋字野十蔵を初めとする、大見村など4ヶ村の庄屋や村々の長百姓、組頭らも弥谷寺へやってきます。これは、多度津藩上ノ村組の大庄屋・庄屋・村役人のフルメンバーになります。そこに大勢の見物人もやってきます。その前で、弥谷寺住職によって大般若経の転読が行われています。一大イヴェントです。ここからは、弥谷寺が「上の村組」の重要な宗教的センターの役割を担っていたことが分かります。弥谷寺は、藩の保護を受けた特別なお寺と地元では認識されるようになります。ちなみに、この転読には弥谷寺のほかに、宝城院・長寿院・牛額寺・萬福寺・吉祥寺ら11人の僧が参加しています。その頂点に立つのが弥谷寺住職ということを目に見える形で、地元の人たちに知らしめる機会にもなります。
それから半世紀近く経った文化12年(1815)に、弥谷寺と道隆寺へ御紋幕が下賜されています。
その下賜理由は、次のように記されています。(要約)
「昨年秋の旱魃では、多度津領内は「一統困窮」した。そこで今年の夏は「五穀成就 民安全の御祈祷」を命じた。その結果、秋には領内全体に「作り方宜しく 村々より冥加米等献上」されている。これを祝して紋幕一対を下賜するので今後も、「五穀成就 民安全の祈念」をするように」とのことであった。
文化12年10月「御紋幕御寄附之控」、文書2-106-3=裏竃.

5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善如龍王(男神像)
幕末の頃には「雨乞執行(祈祷)」が弥谷寺で行われています。
丸亀藩が日照りの時に、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。また、三野郡の威徳院(高瀬町)や本山寺(豊中町)では、善女龍王信仰による雨乞祈願が早くから行われていたことは、以前にお話ししました。それを見て多度津藩でも幕末になると「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。この時の雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。
 また年は分かりませんが18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」

と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。本堂が焼失した記録は享保5(1720)にありますので、この頃のことのようです。
P1120840
生駒一正のものとされる五輪塔(弥谷寺)
以上をまとめておくと次のようになります
①弥谷寺は中世は、高野聖などの念仏僧によって阿弥陀浄土信仰の拠点となっていた。
②そのために周辺の有力な信者たちが磨崖五輪塔を建立し、納骨するなど慰霊の聖地となった。
③守護代の香川氏は天霧城を拠点とすると、弥谷寺を菩提寺として、西院周辺に墓域を設け五輪塔を造立し続けた
④戦国時代末に藩主としてやってきた生駒氏も、ここに五輪塔を造立するとともに、弥谷寺で作った五輪塔を墓碑として各地の寺院に造立した
⑤丸亀藩主の山崎氏も本堂の西側に、藩主のものを含めて五輪塔3基を造立した。
⑥18世紀になると香川氏・生駒氏・山崎氏の墓標がならぶ弥谷寺境内に、それに習うかのように周辺の有力者が墓標を造立するようになる。
⑦境内に墓標を建てた有力者は、弥谷寺の保護者となり寺院経営に協力していくことになった。

それが本堂改築の資金調達であったり、以前にお話した金剛拳菩薩建立のための資金調達であったようです。
P1120790
金剛拳菩薩(弥谷寺)
このように弥谷寺は多度津藩の有力寺院として公的な行事を行う中で寺格を上げていきます。同時に後継者決定には、大庄屋や庄屋たちを関わらせることで、地域の有力者の寺院経営への参加意識を高め、伽藍整備に関わる資金調達をスムーズに行うシステムを作り上げていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書
                                                      

P1150333
弥谷寺の墓標

前回の弥谷寺境内の作られた年紀が入っている石造物数の推移グラフをを、もう一度見てみましょう。
弥谷寺 紀年名石造物の推移
         弥谷寺の石造物数の推移グラフ
①1651年に最初の紀年名石造物である丸亀藩藩主の山崎志摩守祖母の五輪塔が本堂横に設置される。
②弥谷寺の紀年名石造物の多くは墓標で、地蔵刻出の占める割合が多い。
③その推移は18世紀初頭から急増し、世紀中頃にピークを迎える。
④石造物数は、1761年~70年に半減じ、その後持ち返すが19世紀中頃には激減する。
1830年代以後になると墓標以外に石造物が設置されることはなくなっていきます。
しかし、これは弥谷寺だけの動きのようです。讃岐全体の展開では、1830年代以降に墓標の大型化と多量造立という墓標の最盛期を迎えます。墓標正面に俗名や先祖代々の銘を刻む事例が増加し、一方で梵字や地蔵刻出墓標下部の蓮華坐は省略されていくようになります。墓標に「墓」の字が多くなるのもこの頃です。墓標が家の記念碑的なもへと変化していく時期です。墓標の大型化とともに戒名における院号・居士号の増加、葬式の大規模化などが見られるようになります。そのため天保2年(1831)には幕府によって墓石の大きさを制限するなどの禁令が出されるほどでした。一般的には、「墓標の増加・大型化」という動きの中で、弥谷寺では、1830年代以後に激減していきます。これはどうしてなのでしょうか?

P1150332
弥谷寺の墓標
 前回見たようにV期に、数多くの弥谷寺を建てていたのは弥谷寺周辺の人々でした。そこで、研究者は弥谷寺周辺地域の大門、久保谷、国広、西大見、浅津、田所、落合、大屋敷、南原等14ヶ所の共同墓地の墓標の展開を調査します。その対象は1910年までの823基に及んだようです。
次の表21は上が弥谷寺境内の石造物の推移、下が弥谷寺周辺共同墓地の墓標の推移です。
弥谷寺
弥谷寺境内の石造物と周辺集落の共同墓地の墓標推移表

このグラフからは次のようなことが分かります。
①弥谷寺の石造物造立が減少と反比例するように共同墓地の墓標造立が著しく増加していること
②共同墓地に墓標が現れるのは1680年代
③弥谷寺においても1680年代以降に墓石は増加していて、寺檀制度確立に伴う墓標造立の開始期であること。
④弥谷寺境内では1760年代までは造立が盛んで、共同墓地14ヶ所の墓標総数よりも多い。
⑤共同墓地の墓標が増加していくのは1770年代からで1830~60年代にピークを迎える。
⑥この時期の共同墓地のピーク時で、弥谷寺の衰退期と重なる。
⑦共同墓地でも1870年代以降になると減少傾向に転じる
⑧この背景には、明治期になると1基の墓標に刻まれる戒名数が増えていて、個人墓標から家墓へ変容したことが推測される。
以上から、弥谷寺境内における墓標衰退と弥谷寺周辺の共同墓地の墓標増加には、密接な関係があったことが分かります。共同墓地にお墓を建てることが一般化して、それまで弥谷寺に建てていた周辺の人々たちも集落周辺の共同墓地にお墓を建てるようになったようです。確かに、弥谷寺境内には近代の墓標はあまり見かけません。
 弥谷寺境内の墓標は1830年以後に数を減らし、立てられなくなります。しかし、位牌を収める風習は忌日過去帳に見る限り大きな変化は見られないようです。
弥谷寺に最も近い四房の共同墓地の調査の結果を、研究者は次のように報告しています。
①四房墓地は、19世紀前半期には天霧石製墓標が多く、20世紀初頭まで天霧石製が使われていたこと
②ここから19世紀になって再び弥谷寺近くて採石が行われるようになった可能性があること。
③明治初めまで石塔を作る石屋が近くに住んでいたという伝承があること。
④19世紀の絵図や記録には、弥谷寺で石造物生産を行っていたような記録ないので、外部で生産された可能性が強いこと。
西大見の共同墓地については
①他の墓地に比べて地蔵刻出墓標が多く、墓標144基の中で84基にあたること。
②戒名から多くは子墓ではなく大人の墓標としての使用されていて、弥谷寺との密接な関係が見られること
③一番古いのは元禄13年(1700)銘で、18世紀段階では49基中42基が地蔵刻出墓標であること
③の時期は、弥谷寺でも地蔵刻出墓標造立の最盛期で、19世紀になると西大見共同墓地でも他の集団墓地とおなじように地蔵刻出墓標以外の墓標が多くなります。ただ、地蔵刻出墓標も少数派になりますが作られ続けます。その後、明治期になると地蔵刻出墓標の割合が減って1880年代以降は一部に留まるようになります。この動きについて、研究者は次のように記します。
「西大見共同墓地からは墓地形成以降18世紀までは弥谷寺墓標の強い影響下にあったが、19世紀になって各地で墓標造立が普及するようになると、次第に各地の墓地と同じように刻出墓標以外の墓標が選択されるようになる。」

 弥谷寺に近い西大見地区では、弥谷寺信仰の影響力が強く、地蔵刻出墓標を選ぶ人たちが多かったのが明治後半になると、弥谷寺の影響力を脱して、一般的な墓標を建てることになっていったようです。

最後にもう一度研究者がまとめた弥谷寺石造物の時期区分を見ておきます。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の中世墓地に弥谷寺内部産の五輪塔の造立
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所にで弥谷寺内部産の石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが活発に造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が活発に造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
弥谷寺での石造物生産活動はI~Ⅳ期で、Ⅳ期には外部産石造物が搬入されるようになり、石工たちはいなくなり、弥谷寺での石造物生産活動は衰退・終焉します。弥谷寺に石造物を建てた階層はⅡ~Ⅳ期では弥谷寺を菩提寺とした香川氏や寺院再興をした生駒氏、墓塔を造立した山崎氏など権力者たちでした。それがⅣ~Ⅵ期になると、寺檀制度の確立に伴い弥谷寺周辺の人々によって墓標造立が始まります。藩主などの権力者がやっていたことを、有力者たちが真似出すのです。 
 Ⅵ期の衰退期の背景としては、弥谷寺周辺の共同墓地に墓標が建てられるようになったからです。弥谷寺よりも自分の住む集団墓地の吸引力の方が強くなったようです。その一方で、Ⅵ期は尾州、備前など讃岐外部の人々が弥谷寺に墓標を建てるようになります。
 最後に研究者が、弥谷寺の特徴としてあげるのが納骨施設と地蔵菩薩です。

P1120867
本堂西側の磨崖五輪塔の横の方形孔(弥谷寺)
弥谷寺では納骨施設として、鎌倉時代の磨崖五輪塔に方形孔が開けられ、そこに埋葬されていました。以後に生産される層塔・宝塔・五輪塔も、内部を空洞にして納入孔を設けたものが数多く見られます。また、近世になると水場が納骨処として使われていたことが宝暦11年(1761)の灯籠銘文からうかがえます。
P1150238
磨崖の水場
 これまで大日如来や薬師如来とされてきた平安時代末期~鎌倉時代の磨崖仏が、実は地蔵菩薩である可能性を研究者は指摘します
また、弥谷寺産の層塔・宝塔の塔身には地蔵の像容の刻まれたものが多いようです。さらにⅢ期なると、境内各所に地蔵坐像が生産され置かれるようになります。V期には、外部産の地蔵刻出墓標を搬入され造立されています。以上から納骨施設と地蔵さまが弥谷寺の石造物の特徴と研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年) 香川県教育委員会」
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P1120781
賽の河原の地蔵尊(弥谷寺)

 Ⅴ期は、石造物の紀年銘から1700年~1830年頃に当たります。この時期は、地蔵が彫られた「地蔵刻出墓標」が外部から運び込まれ、境内に設置され続けた時代のようです。
弥谷寺の地蔵刻出墓標には、次の3あります。

弥谷寺 地蔵墓標
①舟形光背の中に地蔵立像が陽刻された舟形光背型(写真116)
②丸彫型(写真117)
③櫛形や方角柱形の正面上部に地蔵を刻出したタイプ(写真118)

P1150281
舟形光背型(弥谷寺)
①は舟形地蔵の背後に船の形をした飾りを背負わせた地蔵菩薩です。②③は、そこから船形がなくなったもので、丸彫り地蔵や姿地蔵などがあります。地蔵さまは子供が好き、あるいは守ってくれるという考え方から水子地蔵として墓域内に建てられることががあるようです。
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墓標地蔵刻出型(弥谷寺)

讃岐でも地蔵刻出墓標の多くは子墓ですが、弥谷寺では大人の戒名が見られ、大人の墓標として地蔵刻出墓標が使われているのが特徴のようです。
弥谷寺 紀年名石造物の推移

  弥谷寺の年代が分かる石造物を、その形態毎に分類したのが次のグラフです。
このグラフから次のようなことが分かります。
①弥谷寺の最初の紀年名石造物は、1651年に造られた丸亀藩藩主の山崎志摩守祖母の五輪塔である。
②弥谷寺の紀年名石造物の多くは墓標で、地蔵刻出の占める割合が多い。
③その推移は18世紀初頭から急増し、世紀中頃にピークを迎える。
④石造物数は、1761年~70年に半減じ、その後持ち返すが19世紀中頃には激減する。

ここからも舟形光背型の地蔵刻出墓標がよそから運び込まれ、境内に増えていったことが分かります。現在の境内の地蔵さまたちは、この時期に設置されたようです。それが18世紀初頭から19世紀半ばのV期の特徴になります。
P1120780
賽の河原の参道沿いの地蔵尊(弥谷寺)

ここからは次のような疑問・課題が浮かんできます。
Q1 どうして18世紀になって、弥谷寺境内に数多くの墓標が建てられるようになったのか?
Q2 弥谷寺に建てられた墓標のスタイルが「子供用」とされる地蔵刻出の比率が高いのはどうしてか?
Q3 19世紀中頃になると、弥谷寺境内に墓標が造立されなくなるのはどうしてか?

Q1については、18世紀初頭は寺檀制度の確立が背景にあるようです。
仏性とは?捉われた心を解放する、迷いの窓と悟りの窓。源光庵 | Niwasora にわそら

寺檀制度の整備によって、広い階層の人たちが墓標を建てるようになります。「墓標造立エネルギー」が高まったのです。
弥谷寺の墓標の銘文には、次のような俗名や地名が刻まれています。
俗名称「滝口、鳥坂、藤田、入江、三谷、落合、佐野、神原」等
地名「本村、西大見、大見、宮脇、長田、多度津、丸かめ」
これらの名称や地名から弥谷寺に墓標を建てたのは三野・多度・那珂郡の人々だったことが分かります。自分の家の周辺や集落の中に墓標を建てるのではなく、弥谷寺に建てるというのは、中世以来の弥谷寺周辺の人々の葬送習俗から来ていると研究者は考えています。

弥谷寺 大山の石積石塔
伯耆大山の賽の河原の石積石塔 
弥谷寺と同じように「死霊のおもむく山」とされたのが伯耆大山です。
大山では、里の人々は四十九日に大川寺の金門の上の「さいの河原」で石を積みます。これも霊をともらう積善行為です。三十三年目の弔いあげには、大山寺の阿弥陀堂で小さな塔婆を作ってもらい、河原で石を積んでから川に流します。盆の時に阿弥陀堂に参詣したり、盆花を採りに大山を訪れる人もでてきます。死者の着物を持って大山寺に参り、附近の地蔵に着せると死者に逢えるとか、供養になるといわれるようになります。とくに幼児の死んだ場合には、御利益があるされました。

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潅頂川にかかる法雲橋周辺の磨崖五輪塔

 創立期の弥谷寺では、阿弥陀如来と地蔵菩薩が主役だったことは以前にお話ししました。
弥谷寺の境内を流れる灌頂川は「三途の川」で、仁王門からこの川に架けられた法雲橋までの参道や川縁の全域が「賽の河原」とされてきました。そこでは大山と同じように、石が積まれてきたのです。そして裕福な人たちは、磨崖五輪塔を周辺の磨崖や岩に彫りつけ、遺骨や遺品をおさめたのです。それを先祖供養だと説いたのは高野聖たちでした。こうして、中世以後、連綿と磨崖五輪塔が彫り続けられ、それが五輪塔へ変わり、さらに地蔵さまを伴う墓標へと移り替わって行きます。
P1120772
賽の河原の地蔵尊(弥谷寺)

V期において弥谷寺は墓標が建てられるだけではなかったようです。
納骨の場でもあり続けたようです。水場の横にある宝暦11年(1762)灯籠には「弥谷寺納骨処」とあります。この時期には水場の洞窟が納骨所となっていたことがうかがえます。

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水向の洞窟 近世には納骨所となっていた

澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)には、弥谷寺が次のように記されています。
 (前略)護摩堂ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル巾二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、(後略)

意訳変換しておくと
護摩堂から少し南の方へ行くと水向(岩から染み出す水場)がある。ここの磨崖には二寸五歩もる刷毛で書かれたキリク文字の阿字が彫付られている。文字の廻は円相で、今時の朴法骨多肉少の筆法で書かれている。その下に岩穴があるが、ここは死骨を納めるところである。水向のキリク字が彫り込まれた脇に空海の名前もある。このあたりの磨崖には、五輪塔が無数に彫り込まれていて数えられないほどである。さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。

 ここからは水向の岩穴は「死骨」を葬る場所になっていたことが分かります。中世には磨崖五輪塔の中に納骨するという風習は、五輪塔が彫られなくなった近世になっても、形を変えて脈々と引き継がれていたようです。阿弥陀如来三尊磨崖仏の「九品の浄土」などに、祖先の墓を建て納骨することが祖先慰霊のための最善の供養だと人々は考えていたのでしょう。そのために、弥谷寺に墓標を運び込み、納骨して亡くなった人たちの慰霊としたのでしょう。こうして、寺檀制度の確立とともに、墓標を建てる風習が広がると、多くの人たちが「死霊のおもむく山」である弥谷寺を選ぶようになります。家の集落の周辺に墓標を建てるよりも、その方が相応しいと考えたのでしょう。こうして、18世紀なると弥谷寺には、墓標が急増することになります。

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 磨崖の阿弥陀三尊像(弥谷寺)

 弥谷寺に墓を建て納骨した人たちは、弥谷寺の寺院経営にも協力していくことになります。
 弥谷寺境内に建てられた金銅制の金剛拳菩薩は、20年間の勧進活動の末に1811年頃に完成しています。その際に、建立方法として一口一両以上を集める寄進活動を行っています。その募金活動の成果が次の表です。
弥谷寺 金剛拳菩薩趣意書
 一番多いのは地元の大見村の77人前、
次いで隣村の松崎村の42人前で、
郡ごとでは三野郡が190人前と多いようです。
全体で271人前となっています。
施主1人前金1両とされていたので、金271両の寄附があったことになります。大日如来(金剛拳菩薩)の建立には地元の大見村や松崎村をはじめとして、多度津藩。丸亀本藩領内、またそれ以外の各地の人々の支援によって行われていたことが分かります。彼らの多くは、弥谷寺に墓標を建てている人たちと重なり合うことが考えられます。

P1120790
金剛拳菩薩(弥谷寺)

 弥谷寺の本堂改築の寄付依頼文(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)には、次のように記されています。
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」

意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、」

ここには境内に墓所のある人たちに、本堂改築寄進を依頼しています。本堂が焼失した記録は享保5(1720)にあるようです。そうだとすれば、弥谷寺境内に周辺農村の有力者が墓を建て始めたころになります。弥谷寺は檀家は持ちませんでしたが、墓を弥谷寺に造立した有力者は有力は保護者となったことがうかがえます。

墓標の他に、弥谷寺と周辺の人々との関係を示すものが弥谷寺に残された位牌です。研究者は近世の位牌をまとめた忌日過去帳から被供養者の没年推移数を次のようにグラフ化しています。

弥谷寺 過去帳推移

ここからは次のようなことが分かります。
①1680年代から数を増し、1710年に年代に倍増すること
②1711年~20年の10年間で、その数がまた倍増すること。
これは先ほど見た墓標の数と連動しているようです。しかし、忌日過去帳に見る戒名と墓標の戒名が一致する事例は少ないようです。墓標138基中で、忌日過去帳と同一戒名だったのは、わずか27基だけのようです。檀家に伝えた戒名と過去帳に書かれた戒名が異なると云うことです。これは何を意味するのでしょうか?  

 Q2について、考えていきます。地蔵刻出墓標は一般的には水子墓などのように子供用の墓として建てられることが多かったようです。
ところが、弥谷寺の場合には大人用の墓の半数以上に地蔵刻出墓標が使われています。その背景について、研究者は弥谷寺周辺の集落の共同墓地を調査します。その結果、集落の墓地では大人の墓標の多くが一般的な櫛形・廟形・方角柱形で、地蔵刻出墓標は少数に留まっていると報告します。ただ、弥谷寺に近い西大見集落の共同墓地では多量の大人の戒名の刻まれた地蔵刻出墓標が見つかっています。これは弥谷寺境内と同じ傾向で、両者には密接な関わりがうかがえます。
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  地蔵菩薩は墓地の入口に六地蔵を建てたり、葬送の時に六地蔵をまつる習いは今でも広く見られます。 
「死霊のおもむく山」とされてきた弥谷寺と「地蔵信仰」は、相性のいい関係だったことは先述したとおりです。Ⅰ期の鎌倉時代末に彫られた獅子の岩屋(現大師堂)の磨崖仏の10体の内の8体までは、地蔵菩薩でした。地蔵菩薩は、弥谷寺では祖先慰霊のシンボル的な仏像とされてきたようです。
  弥谷寺の「賽の河原」とされた潅頂川に沿った参道には、六道にさまよう衆生の救済をする地蔵菩薩の石像がたくさん祀られています。賽の河原は西院河原ともいわれていて、法華経方便品には子供がたわむれに砂をあつめて仏塔をつくると、この子供は仏道を成就したことになると説きます。このような弥谷寺の説く死生観に基づいて、地蔵を刻んだ墓石を信者たちは建てたのでしょう。彼らは、次の供養として高野山に参ることを勧められるようになります。高野山は、日本中の霊が集まるところと説かれていました。そこにお参りするのが何よりの供養ですということになります。

 弥谷寺周辺で地蔵刻出墓標が大人用にも選択された要因として研究者は次のように推察します。
①Ⅲ期に多量に天霧石製の地蔵坐像が造立され、それが慣例化していたこと。
②弥谷寺では、平安末期~鎌倉時代の獅子窟磨崖仏など地蔵さまが古くから造られ境内に設置され、見慣れていたこと
これは弥谷寺の伝統的信仰・風習なのかもしれません。

P1120779

Q3 19世紀中頃になると、弥谷寺境内に墓標が造立されなくなるのはどうしてか?
これについては、また次回に見ていくことにします。今回はこれまでです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年) 香川県教育委員会」
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P1120862
弥谷寺本堂からの眺め
弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地で弥谷寺産の天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
Ⅳ期は、生駒騒動で生駒氏が讃岐を去った後の17世紀後半になります。
この時期は、弥谷寺で石造物が造られなくなり、外から搬入が始まります。つまり、弥谷寺での採石活動が衰退・終焉する時期になります。

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弥谷寺本堂西側の山崎氏墓所五輪塔群

 外から運び込まれた初期のものは、本堂西の山崎氏墓所五輪塔群と法雲橋西にある墓標です。
これらは17世紀中頃の花崗岩製で、天霧石で造られたものではありません。外から運び込まれたことになります。

P1120865
中央が慶安4年(1651)没の山崎藩2代目の志摩守俊家のもの

丸亀藩藩主の山崎家墓所五輪塔群の3基を見ていくことにします。
①右が寛永14年(1637)没の山崎志摩守祖母
②中央が慶安4年(1651)没の山崎志摩守俊家
③左が慶安4年(1651)没の大宮四郎衛門尉
①の山崎志摩守祖母の塔が弥谷寺最古の紀年銘資料で、同時に最初の外部産石造物になるようです。年号は没年で、造られた年ではありません。山崎氏は生駒騒動後に讃岐がふたつに分けられた後の寛永18年(1641)に、丸亀城に入封します。そのためそれ以後に造立されたものになります。

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③の慶安4年(1651)没の大宮四郎衛門尉の五輪塔

ここで研究者が注目するのは、この3つの五輪塔の石材です。
石材は左右の①③塔が兵庫県御影石製で、中央②の山崎志摩守俊家のものだけが非御影石の花崗岩製のようです。ここからは、これらの五輪塔が弥谷寺で造られたものでなく、外部から持ち込まれたことが分かります。前回にⅢ期には、香川氏一族の宝筐印塔や生駒一正の五輪塔など天霧石製で、弥谷寺の石工集団によって造られたことを見ました。
P1150309
山崎藩の家紋
 17世紀後半になると花崗岩製墓標が流行するようになります。
そんな中で、山崎藩は凝灰岩製をの天霧石を使う弥谷寺の石工たちに発注せずに、花崗岩製の五輪塔を外部に注文していたことになります。天霧石製の石造物は、時代遅れになりつつあったことがうかがえます。

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         山崎志摩守祖母の五輪塔
 一番早く造られたと考えられる山崎志摩守祖母塔の特徴を、研究者は次のように挙げています。
①は、空輪と風輪間に首部が見られないこと
②空輪の突起下端部に下位との明瞭な屈曲点があること。
③基壇の反花坐が和泉石石造物からの系統を引くモチーフであること
以上から寛永期の特徴を備えているので、入封して間もない寛永年間(1640年代)に造立されたと研究者は考えています。②③の2基は、空輪と風輪の間に首部が形成され、基壇の反花坐は17世紀後半に多いモチーフなので、17世紀中頃~後半の造立とします。
 山崎藩2代藩主の志摩守俊家は1651年10月に35歳で、丸亀で亡くなっています。山崎家の墓所は京都瑞光院で、俊家の本墓もここにあります。弥谷寺や高野山竜泉院にあるものは供養塔と研究者は考えています。そのため弥谷寺の五輪塔建立は、高野聖が活動拠点としてきた弥谷寺が建立を勧め、死後何年か後になって、祖母の五輪塔が建てられた弥谷寺本堂横に建てらたものかもしれません。その際にも、弥谷寺の石工には発注されていません。
次に法雲橋西の墓標(第56図)を見ておきましょう。  

弥谷寺 法雲橋西の墓標

この墓標は、上半部が欠損した竿石残欠です。竿石下端部にはホゾが見られ、17世紀以前の特徴がうかがえます。正面掘り窪め内に銘文が見られ、上の拓本には次のように記されています。

「宗祐 承応四年(1655)二月廿二日 妙意逆修善根」

忌日過去帳に被供養者の記載が弥谷寺に残っていて、宗祐は「桂月宗祐信士」で施主が笠蔦屋藤右衛門母とあります。一方、妙意は「一月四日」の月日と「自覚妙意信女」の戒名があり、施主が円(丸)亀笠嶋屋清左衛門室とあります。墓標の形式は戒名・年号のある掘り窪めの下部にさらに方形の掘り窪めを設け、中に蓮華坐を表現しています。これは塩飽本島を中心に分布する人名墓の系譜を引く墓標のスタイルだと研究者は指摘します。
 以上から、「円(丸)亀笠嶋屋」の銘を持つこの墓標は、塩飽本島の笠島の人名の墓であることがうかがえます。石材は本島の花崗岩の可能性が高いようです。本島は徳川幕府による大阪城再築の際に、採石場が何カ所かに開かれたことを以前にお話ししました。そこには石工集団が残っていたのかも知れません。海を越えて三野湾に運び込まれた墓標が弥谷寺に運び上げられたことになります。同時に塩飽の人名たちの中にも、弥谷寺信仰を持つ人たちがいたことが分かります。
豊島石 : 男のロマンは女の不満
豊島石花崗岩

17世紀後半になると、豊島石製が搬入されはじめます。
運び込まれた豊島石製の石造物には墓標、ラントウ・櫛形墓標があります。
P1150269
櫛形墓標(弥谷寺)
天霧石製はⅢ期に中心であった地蔵坐像、宝筐印塔の生産はストップし、ラントウだけがかろうじて継続生産されている状況です。

弥谷寺 ラントウ
ラントウ(家形墓) 徳島県海部町鞆浦

そして、18世紀になると、弥谷寺での石造物の生産は見られなくなります。石工集団が姿を消したのです。ここでは、17世紀後半になると、中世以来の弥谷寺の石工集団は衰退・解体されたことを押さえておきます。
 しかし、善通寺市側の天霧山周辺では別の石工集団が採石を行なっていたようです。前回に紹介した善通寺市牛額寺薬師堂付近では、この時期にも活動していた痕跡があります。
P1120493
牛額寺薬師堂(善通寺市)
17世紀後半は讃岐各地で花崗岩製石造物が広がり、天霧石など中世以来の凝灰岩石造物は急速に衰退していった時期になるようです。その背景として研究者は次の2点があると考えているようです。
①寺檀制度の成立による墓標需要の増大
②新たな石工(豊島)の勃興
①の寺檀制度の成立は、寺院の境内に多量の墓標造立をもたらすようになります。それが大きなうねりとなるのが次のV期です。Ⅳ期はその始まりになるようです。そのようなうねりの中で、弥谷寺の石工集団は時代の流れに飲み込まれていったようです。
以上をまとめておくと
①生駒騒動で生駒藩が取り潰された後の17世紀後半は、花崗岩製の石造物が流行になる
②そのため凝灰岩製の天霧石製石造物は時代遅れとなり、注文が激減するようになる。
③弥谷寺本堂東の丸亀藩主山崎家の五輪塔も播磨から持ち込まれ石材で造られたものある。
④法雲橋西墓標は、塩飽本島の笠島の人名のものと考えられるが、これも本島産の花崗岩の可能性が高い。
⑤17隻後半になって境内に姿を見せる墓標も花崗岩製で外から持ち込まれたものである。
⑥以上のように、弥谷寺で中世以来活動してきた石工集団は時代に取り残され、姿を消して行くことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年) 香川県教育委員会」
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弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地で弥谷寺産の天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退

Ⅱ期までの境内への石造物の造立は、特定の限られたエリアだけでした。それがⅢ期は境内の至る所に石仏など石造物の配置が本格化するようです。Ⅲ期は戦国時代末期から江戸時代で、秀吉の命で生駒氏が讃岐藩主としてやって来る時期と重なります。
Ⅲ期の特徴ついてて、研究者は、次のような点を指摘します。
①Ⅱ期の五輪塔に替わって石仏・宝筐印塔が中心になること
②祠形をしたラントウが17世紀初頭に姿を現すこと
③大師堂前の岩壁にも磨崖五輪塔が彫られるようになること。
 この中で①の石仏は地蔵坐像がほとんどで、抽象的な表現で頭部と腕の目立つ特異な形態です。記銘のある石仏の類例と比較して、弥谷寺境内に地蔵坐像が姿を現すのは16世紀前半~17世紀前半と研究者は考えているようです。
P1150257
弥谷寺Ⅲ期の地蔵菩薩

さらに弥谷寺石仏の形態を、研究者は次のように分類しています
弥谷寺 Ⅲ期の地蔵菩薩
弥谷寺Ⅲ期の地蔵菩薩
①背後に円形或いは舟形光背を表現した上図1・2
②像と光背の境界の不明瞭な上図6・7
③両者の中間的なスタイルの上図3~5
①の簡略形が②③と研究者は考えているようです。
 17世紀後半になると花崗岩・砂岩製で船形光背に収まるように立像を表現したものが主流になります。そのため②の上図の6・7は17世紀後半よりの時期に位置づけられますが、その像容は中世以来の抽象化したモチーフを留めていると研究者は指摘します。そのため17世紀後半まで下ることはないようです。これもほぼ生駒期と重なります。
弥谷寺 Ⅲ期の宝筐印塔
弥谷寺Ⅲ期の宝筐印塔
Ⅲ期の宝筐印塔は、阿弥陀如来磨崖仏下の「九品浄土」エリアに、香川氏のものが4基あります
NO9-37 慶長6年(1601)、「順教院/微摂/妙用」「詫間住則包娘俗名一月妻
NO9-38 慶長6年、「大成院/続風/一用」「俗名香川備後景高」
NO9-39は「浄蓮院/証頓/妙咬」「山城大西氏娘」
NO9-40は「寂照院/較潔/成功」「俗名香川山城景澄
9ー40の「香川山城景澄」は、西讃の守護香川氏の筆頭家老で山城守、讃岐国高谷城主であった香川元春のようです。9ー37の慶長6年の「則包娘俗名一月妻」の花崗岩製台石組みの宝筐印塔笠部(上図12)は、8の笠部に比べて軒が厚くなっています。厚くなるのは17世紀初頭の五輪塔に共通する要素で、形態的には慶長6年頃のものとしても違和感はないと研究者は指摘します。以上から宝筐印塔の年代も、石仏と同じ、16世紀後半~17世紀前半のものとされます。

嘉永7年(1854)の「香川氏・生駒氏両家石碑写去御方より御尋二付認者也」には、次のように記されています。
「九品浄土の前二幾多の五輪石塔あり、古伝へて香川氏一族の石塔なりと云、銘文あれここ漫滅して明白ならす、今払苔磨垢閲之、纏二四箇之院号を写得たり」

意訳変換しておくと
九品浄土(阿弥陀三尊磨崖仏の前)には数多くの五輪塔があるが、これは香川一族の石塔と伝承されてきた。この中には、銘文の見られるものがあるがよく分からないので、苔をおとして判読を行い。4つの院号を描き写した」

文書に記載された銘文と花崗岩製台石の銘文は、ほぼ一致するようです。しかし、花崗岩製台石に月日は刻まれていないなどの相違点もありますが、これらが香川氏のものであることは確かなようです。ただ、香川氏は1585年に同盟関係にあった長宗我部元親が秀吉に屈服し、土佐に引き上げた際に行動を共にして、天霧山を退いています。家老職級の一族の中には、1601年になっても、讃岐に留まり、それまで通り、死者を菩提寺の弥谷寺に埋葬していたことが分かります。しかし、その墓標の形は、それまでの五輪塔ではなく宝筐印塔に姿を変えています。ちなみに、これ以後は、香川氏のものらしき五輪塔や宝筐印塔はないようです。香川氏の一族は、その消息が辿れなくなっていきます。
 同時期に阿弥陀如来三尊磨崖仏の下に姿を現すのが讃岐最大の五輪塔です。
P1120840
生駒一正の墓(弥谷寺)
これは、組合せ五輪塔は、高さ352cmで生駒一正の墓とされます。この五輪塔は直線的な立ち上がりの空風輪、軒が強く傾斜し軒厚の火輪、筒形の水輪等などの特徴があります。この特徴は、生駒家の石造物として県内に点在する天霧石製五輪塔に共通します。


弥谷寺 Ⅲ期の五輪塔
 上図1・2は弥谷寺にある組合せの五輪塔です。1は大師堂前の108段の階段の下にあるものです。筒型化した水輪や直線的な立ち上がりの風輪など香川氏代々の墓にみる五輪塔よりも、一段階新しスタイルと研究者は考えています。2の火輪は、さらに形態変化の進んだ事例で四隅が突起状になっています。

  高松市役所の裏にある法泉寺は、生駒家三代目の正俊の戒名に由来するようです。
弥谷寺 宝泉寺の生駒一正五輪塔
生駒一正・正俊の五輪塔(法泉寺)

この寺の釈迦像の北側の奥まった場所に小さな半間四方の堂があります。この堂が生駒廟で、生駒家二代・生駒一正(1555~1610)と三代・生駒正俊(1586~1621)の五輪塔の墓が並んで安置されいます。これは弥谷寺の五輪塔に比べると小さなもので、それぞれ戒名が墨書されています。天霧石製なので、弥谷寺の採石場から切り出されたものを加工して、三野湾から船で髙松に運ばれたのでしょう。一正は1610年に亡くなっているので、これらの五輪塔は、それ以後に造られたことになります。
  私は、弥谷寺は1585年に香川氏が天霧城を退城し、土佐に移った後には保護者を失い、一時的な衰退期を迎えたのではないかと思っていました。しかし、石造物の生産活動を見る限りは、その復活は思ったよりも早い感じがします。弥谷寺は香川氏に代わって、新たに讃岐の主としてやって来た生駒氏の保護を受けるようになっていたようです。
 香川氏の重臣であった三野氏の一族の中には、生駒氏に登用され家老級にまで出世し、西嶋八兵衛と生駒藩の経営を担当する者も現れます。三野氏も弥谷寺と何らかの関係があったことは考えられます。三野氏を通じて生駒氏は、弥谷寺に2代目の墓碑として巨大な五輪塔を造らせたのかも知れません。それは、いままでの香川氏が造らせていたものよりもはるかに大きなもです。時代が変わったことを、印象づける効果もあったでしょう。

讃岐の武将 生駒氏の家老を勤め、生駒騒動の原因を作り出した三野氏 : 瀬戸の島から
生駒一正の五輪塔(弥谷寺)

次にラントウを見ておきましょう
讃岐のラントウは17世紀前半では全て天霧石製で、17世紀後半になると豊島石製が見られるようになります。名称の由来は伽藍(がらん)の塔とする説、墓地を示すラントウバにあるとする説がるようですがよくわからないようです。漢字では蘭塔、藍塔、卵塔、乱塔と様々な時が当てられます。墓石の一種でとして、17世紀に流行しますが、18世紀以降になって墓標が現れると姿を消して行きます。龕部は観音扉で、正面の両軸部に被供養者の没年月日が刻まれます。龕部の奥は五輪塔や墓標が彫刻されることが多いようです。
P1150279
弥谷寺のラントウ
天霧石製と豊島石製のラントウの違いを、研究者は次のように指摘します。
①天霧石製は紀年銘が入ったものがないが、豊島石製には紀年銘が入ったものが比較的多い
②天霧石製は形態が稚拙でシンプル
③豊島製の屋根上端部の鬼瓦の表現、屋根下端部の削り抜き、祠部正面下端部の突出など複雑で手が込んでいる
ラントウの変遷は屋根が上方に細長く延びてく変化があるようです。
弥谷寺 ラントウ
弥谷寺と豊島産のラントウ

そこに注意すると、第54図1は17世紀初頭、図2は17世紀中頃、第54図3の豊島石製は18世紀前後頃になるようです。第54図1の祠部奥の石仏の下半身の上端部が両端に反り上がる類例は1599~1620年の豊島石製ラントウ内に彫刻された石仏に見られ、第52図1の石仏とも共通します。天霧石製ラントウは17世紀前半に登場したようです。
弥谷寺 石造物の流通エリア
天霧石製石造物の分布エリア
室町期のⅡ期には、天霧石製石造物が瀬戸内海で広域流通しましたが、Ⅲ期になると急速に衰退します。
その背景には、16世紀後半の阿波の三好勢力の侵入による香川氏との抗争激化があったようです。以前にお話したように三好勢の侵入により香川氏は、天霧城を落ち延び、毛利氏を頼って安芸に一時的に亡命しています。このような混乱の中で三好氏の乱入を受け、弥谷寺も退転し、石工たちも四散したのかもしれません。ここで弥谷寺における石造物の生産は一時的な活動停止に追い込まれたようです。注意しておきたいのは、この混乱が阿波の三好氏によるものであり、土佐の長宗我部元親によるものではないことです。

弥谷寺において石造物の生産活動が再開されるのは、16世紀末になってからです。
香川氏の宝筐印塔4基は1601年のものです。つまり、先ほど見たように生駒氏の登場と保護によって、荒廃した弥谷寺の再興が開始され、同時に石造物の生産活動も再開されたと考えられます。
P1120493
      牛額寺薬師堂(善通寺市)お堂の後が採石場跡
 この再開時に新たな採石場として拓かれたのが善通寺市牛額寺薬師堂付近だったようです。
これは弥谷寺の採石場からの「移動」ではなく、「分散化」だったと研究者は考えているようです。弥谷寺境内にはⅢ期になっても天霧石製石造物が活発に造られ続けています。採石活動が継続していたことがうかがえます。Ⅲ期に弥谷寺に造立された天霧石製石造物の多くは、天霧Cです。天霧Bが中心であったⅡ期と比べると石材選択の変化が見られます。牛額寺薬師堂には天霧Cの転石が多く見られます。

P1120516
牛額寺薬師堂裏の転石

同じように弥谷寺境内にも生駒一正五輪塔から磨崖阿弥陀三尊像にかけて天霧Cの露頭があります。Ⅲ期に造立された石造物は、これらからの石を使って製作されていたと研究者は考えているようです。 しかし、弥谷寺産の天霧石で造られた石造物が瀬戸内海エリアに広く積み出され供給されるということは、もはやなかったようです。

以上をまとめておくと
①弥谷寺石造物生産活動のⅡ期は、保護者であった天霧城城主の香川氏の退城で終わりを迎える。
②再び生産活動が再開されるのは、1587年に生駒氏がやって来て新たな保護者となって以後のことになる。
③生駒氏は弥谷寺を保護し、伽藍復興が進むようになり、境内にも石造物が造営されるようになる。
④Ⅲ期の代表作としては、1601年の香川氏の宝筐印塔4基、1610年以後に作成された生駒一正の巨大五輪塔などが挙げられる。
⑤再開時に、善通寺市牛額寺薬師堂付近に新たな採石場が開かれた。
⑥しかし、競争相手としてて豊島産石造物が市場を占有するようになり。弥谷寺産の石造物が瀬戸内海エリアに供給されることはなかった。

P1150282
弥谷寺のラントウ

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地で弥谷寺産の天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退

前回はⅠ期に、鎌倉時代に弥谷寺の聖地に、磨崖仏や磨崖五輪塔が造られ続けたことを見てきました。それは、浄土=阿弥陀信仰にもとづく祖先の慰霊のためのものでした。しかし、室町時代になると、磨崖五輪塔が作られなくなります。それと入れ替わるように、登場するのが石造物です。これがⅡ期の始まりになります。今回は室町時代の弥谷寺の石造物を見ていくことにします。テキストは   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」です。
弥谷寺 西院跡
弥谷寺全図(1760年)西院跡と香川氏墓域が見える

  Ⅱ期の石造物のほとんどは五輪塔です。その五輪塔が設置されたのが西院周辺です。
   前回お話ししたように、中世の弥谷寺には東の峰に釈迦如来、西の峰に阿弥陀如来が安置され、二尊合わせて「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」と考えられていました。弥谷寺の伽藍の中で、釈迦と阿弥陀の置かれている位置は、時衆の「二河白道図」を現実化したもになっています。弥谷寺は、中世の時衆思想に基づいて伽藍が作られていたと研究者は考えています。そうすると灌頂川が「水火の河」で、その東方の山に現世としての釈迦、そして現在の本堂や阿弥陀三尊がある西方が極楽浄土と見立てていたことになります。つまり、西院は極楽浄土につながる聖地とされていたのです。そのために、この磨崖に阿弥陀如来三尊や南無阿弥陀仏の六文字名号が彫られ、その周辺に磨崖五輪塔が造られ続けたようです。

P1120876
弥谷寺から天霧城への道標
 ここを墓域として、墓標としての五輪塔を設置するようになったのが細川氏の守護代としてやってきた香川氏です。
香川氏は天霧城を拠点に守護代として勢力を伸ばし、後には戦国大名化していきます。弥谷寺の東院の道を登り詰めると、1時間足らずで天霧城のあった天霧山頂上にたどり着けます。弥谷寺の裏山が天霧山で、香川氏はそこに山城を築いたことになります。

3 天霧山4
弥谷寺の裏山が天霧城のある天霧山
 管領細川氏の守護代として讃岐にやってきた香川氏と弥谷寺との関係がどんなものであったかを知る文書史料はないようです。しかし、弥谷寺を拠点に活動していた高野山の念仏聖たちは浄土=阿弥陀信仰を説き、香川氏を信者としたようです。それは、香川氏が弥谷寺の西院に残した大量の五輪塔から分かります。香川氏は弥谷寺を菩提寺としていたのです。周辺の人々が西院の「九品の浄土」に、磨崖五輪塔を彫って骨をおさめたように、香川氏は立体的な五輪塔を製作し、西院周辺に安置するようになります。この時期の石造物は、ほとんどが五輪塔で、西院周辺以外の場所には見当たらないようです。
弥谷寺 一山之図(1760年)
弥谷寺全図(一山之図)の拡大図

大正6年(1917)の『大見村史』には、次のように記されています。
本堂ノ前面石段ヲ降リテ天霧城主香川信景祖先ヨリノ石塔多数アリ

本堂前の石段を下りていくと、天霧城主香川信景の祖先の石塔(五輪塔)が多数あるというのです。

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現在の香川氏の墓域
しかし、現在の香川氏の墓は十王堂の下にあります。
これは近年になって、弥谷寺によって移されたもので、もともとは西院跡にあったようです。西院跡には今でも、近世石仏から上の傾斜面に五輪塔の残欠が多数埋もれています。研究者が表面に現れているものを数えると「空風輪1点、火輪22点、水輪35点、地輪14点、宝筐印塔笠部1点、基礎1点」で、ほとんどが五輪塔だったと報告しています。西院跡の墓域は、傾斜面下方に2段の帯状の長いテラス、最上位には石垣があり、その間は斜面を段々に区画造成した5段程度の小テラスがあったようです。石造物残欠は各テラスに散在しています。露出している石造物残欠からは百基近い造塔数があったと研究者は考えているようです。土中の中に埋もれているものもあるので、その数はさらに多くなるようです。この区画は中世墓地と研究者は考えています。

P1120816
西院跡から移された五輪塔
この時期の五輪塔のスタイルの変化を見ておきましょう
まず十王堂下、鐘楼西に移転された香川氏代々の墓に移された五輪塔です。これは西院の墓域で倒れて埋もれかけていた部位を移築して組み上げたものもあるので、製作当初のまんまの形ではないようです。そのためパーツに分解して、分析する必要があります。研究者は部位を見て、空風輪2点、空輪4点、風輪5点、火輪51点、華40点、地輪30点を報告しています。また、五輪塔以外は宝筐印塔塔身の可能性のある1点と笠塔婆笠部の可能性のある1点のわずか2点だけです。

弥谷寺 五輪塔変遷図
弥谷寺五輪塔
形に注目すると上図7の火輪が古く、中型で軒反りが見て取れます。
軒の厚さから14世紀後半頃と研究者は考えています。図8~10は、軒反が見られますがやや小型化しているので、14世紀末~15世紀前半を想定します。石材は図7~9が天霧A、図10が天霧Bになるようです。図11~20は軒反りが見られないので、15世紀後半以降のものとされます。屋根の下りが直線的となり、隅が突出気味になる変化が見て取れます。
図19は屋根が直線的に下り、鎌倉時代以来再び軒が厚くなった形で17世紀初頭の生駒親正五輪塔につながるタイプで、16世紀後半頃が想定されます。石材は天霧Cです。
図29~31は西院跡に残されている残欠です。図29は唯一の宝筐印塔笠部で、小型で段形は3段に省略されています。軒の傾斜は弱く垂直気味に立ち上がり、境内に多く見られる宝筐印塔よりも先行する形態で、16世紀前半頃のものとされます。五輪塔は15世紀後半~16世紀が想定されます。
以上から西院の墓地に五輪塔が数多く作られた時期は、14世紀後半から16世紀後半で、その多くは15世紀後半以降であることが分かります。
これは香川氏が讃岐守護代として天霧城を拠点に活動した時期とほぼ重なります。
石造物群が香川氏代々の墓と伝えることと矛盾しません。石造物群全てが香川氏関連のものと断定することはできませんが、西院の中世墓地に香川氏を中心とする供養塔群が14世紀後半~16世紀後半にかけて連綿と造立され続けたことが分かります。弥谷寺は、祖先の慰霊の寺として守護代香川氏の菩提寺になり、その保護を受けて発展していくことになります。
弥谷寺 香川氏の宝筐印塔
香川氏の四基の宝筐印塔
香川氏の墓について安政5年(1858)の『西讃府志』には、次のように記されています。
「香川氏ノ墓、弥谷寺ニアリ、皆五輪塔ナリ、寂照院咬潔成成俗名山城景澄浄蓮院証頓妙販山城妻大西氏娘大成院続風一用、慶長六年二月二十一日、俗名香川備後景高順教院徴摂妙用、慶長六年五月二十一日、詫間住則包娘俗名需妻此他多カレト、文字分明ナラズ」

意訳変換しておくと
「香川氏ノ墓は弥谷寺にあって、全て五輪塔である。
寂照院咬潔成成俗名山城景澄浄蓮院証頓妙販 山城妻大西氏娘大成院続風一用、慶長六年二月二十一日、俗名香川備後景高順教院徴摂妙用、慶長六年五月二十一日、詫間住則包娘俗名需妻などの銘が見える。この他にも墓は数多くあるが、文字が消えて読み取れない」
ここに記されている香川氏の墓で記銘があるものは、阿弥陀三尊磨崖仏の宝筐印塔4基のようです。そこに刻まれている文字を調査書は次のように報告しています。(番号は調査報告書による)
NO9-37は慶長6年(1601)、「順教院/微摂/妙用」「詫間住則包娘俗名  一用妻」
NO9-38は、同じく慶長6年、「大成院/続風/一用」「俗名香川備後景高」銘
NO9-39は「浄蓮院/証頓/妙咬」「山城大西氏娘」
NO9-40は「寂照院/較潔/成功」「俗名香川山城景澄」
どれも基礎部分に刻銘されています。NO9ー40の「香川山城景澄」は、西讃の守護香川氏の筆頭家老で山城守、讃岐国高谷城主であった香川元春が比定されます。凝灰岩で造られていますが基礎だけが花崗岩製です。気になるのは『西讃府志』が「全て五輪塔である」としていることです。実際には。これらは宝筐印塔です。
嘉永7年(1854)の「香川氏・生駒氏両家石碑写去御方より御尋二付認者也」【文書2-106-1】には、次のように記されています。
「九品浄土の前二幾多の五輪石塔あり、古伝へて香川氏一族の石塔なりと云、銘文あれここ漫滅して明白ならす、今払苔磨垢閲之、纏二四箇之院号を写得たり」

「九品浄土」とは磨崖阿弥陀三尊像の下に刻字された六字名号のことなので、元々はこのあたりにも五輪塔があったことがうかがえます。ここでは「五輪石塔」と記されていますが、実は宝筐印塔で、嘉永の頃には刻字銘が分からなくなっていたようです。「香川氏一族の石塔」と伝られる宝筐印塔のうち、4基については花崗岩製の基礎部分を後に追加したと研究者は考えています。香川氏・生駒氏両家石碑写去御方より御尋二付認者也」から4年を経過して編纂された『西讃府志』で取り上げられているものも、銘によれば同じ4基です。しかし、翻刻された銘文が微妙に異なっているようです。
脇道に逸れてしまいました。この香川氏の宝筐印塔は、Ⅱ期のものではありません。次のⅢ期になります。Ⅲ期には五輪塔から宝筐印塔に墓標が変化していくようです。確認しておくと 室町時代の弥谷寺では西院以外には、石造物はほとんどないようです。大師堂北の岩壁や参道沿い、水場付近に五輪塔の残欠が見られますが、境内に造立されている石造物群の大多数は次のⅢ期に造立されたものです。

P1150060
穴薬師堂(弥谷寺)
その中の例外が曼荼羅寺道分岐近くにある穴薬師堂の石造物です。
穴薬師堂には石仏を中央に、その左右に五輪塔が並んでいます。長い間、石窟内や堂内に保管されていたためか保存状態は極めて良好です。
P1150062
穴薬師堂の石造物(弥谷寺)

中央の石仏は薬師さまとして信仰されているようですが、頭部が円頂の縦長であること、両手に宝珠を持つことなどから形態的には地蔵菩薩と研究者は指摘します。左右の五輪塔の空輪は最大幅が上位にあり、直線気味に立ち上がるスタイルなので15世紀前半の特徴が見られます。火輪の軒反りはほぼ消滅し、地輪には簡略された如来像が刻まれています。また、火輪の軒が四隅で突出気味になるなど15世紀後半以降の特徴も見られます。種子は薬研彫でしっかりと刻まれていますが、その表現方法には一部独自色があります。
弥谷寺 穴薬師
弥谷寺の穴薬師

これらを総合して、年代は15世紀後半頃のものと研究者は考えているようです。中央の石仏もほぼ同時期のものとします。Ⅱ期の良好な石造物史料と研究者は評価します。
弥谷寺 穴薬師2
穴薬師は現在の仁王門下と曼荼羅寺道との分岐の間にある。(弘法)大師七歳の時に造られたとされてきたことが分かります。

 15世紀後半と云えば、弥谷寺の麓の三野エリアでは、秋山氏の氏寺として建立された本門寺が勢力を拡大し、各坊を増やしていく時期にあたります。本門寺と弥谷寺の関係も興味あるところですが、それにかかわる史料はないようです。

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仁王門上の船石名号(船バカ)
仁王門をくぐってすぐ上にある船石名号(船バカ)も、この時期のものとされます。
 船石名号(船バカ)は仁王門の上に建つ高さ約2mの凝灰岩製の船形の石造物です。江戸時代後の「剣五山弥谷寺一山之図」の刷物には、二王門の近くに「船ハカ」(墓)とあり、船形の表面には「南無阿弥陀仏」と記されています。以上から研究者はこの石造物を、舟形の名号石と判断します。「船ハカ」(墓)の表面には「南無阿弥陀仏」の六名名号と五輪塔が彫られていたようです。以前にお話したので詳しくは触れませんが、この舟石名号も中世に弥谷寺が念仏信仰の拠点であったことを示す貴重な史料です。

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         仁王門の上の船石名号(船バカ)

今は、風化して名号は見えず、五輪塔の配置もよく分かりませんが、五輪塔の形はかろうじて確認できます。
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        船石名号(船バカ)のレーザー透視撮影
空風輪の形は、Ⅲ期に位置付けられる太子堂前の磨崖五輪塔(第55図2・3)に先行し、善通寺市牛額寺薬師堂の磨崖五輪塔にやや後出すると研究者は指摘します。16世紀後半のⅢ期に位置付けることもできますが、石材がⅢ期には少ない天霧Bでやや先行する要素があるので、研究者はⅡ期のものとします。

弥谷寺 船形名号
舟石名号と磨崖五輪塔との比較

以上、穴薬師堂や「船ハカ」以外にはⅡ期になっても、西院以外の境内に石造物は姿を見せないようです。
最後にⅡ期の採石・流通活動との関連を見ておきましょう。
Ⅰ期の鎌倉時代には、数多くの磨崖仏や磨崖五輪塔が凝灰岩の岩の上に彫られました。このために専属の職人集団が弥谷寺にいたことがうかがえます。境内に磨崖五輪塔などを彫りだす音が響いていたのです。彼らは周辺の山々を歩き、採石に適した露頭も見つけたはずです。
弥谷寺 天霧石使用の白峰寺西塔
白峯寺十三重石塔 西塔
「白峯寺十三重石塔 西塔(重要文化財、鎌倉時代後期 元亨四年 1324年、角礫質凝灰岩、高さ 562Cm)」は、天霧石が使われているようです。東塔は畿内から持ち込まれたものですが、西塔は東塔を模倣して、讃岐で造られたものと研究者は考えています。そうだとするとその石材は弥谷寺で採石され、三野湾から松山港へ船で運ばれた可能性が高くなります。これを製作したのが弥谷寺の石工かどうかは分かりません。石材だけが運ばれた可能性もあります。しかし、弥谷寺の石工たちは磨崖五輪塔を彫ながら、次への飛躍を準備していたようです。そして、香川氏という強力な庇護者の登場を受けて五輪塔を造るようになり、それが宝筐印塔へとつながていきます。

弥谷寺 石造物の流通エリア
天霧石製石造物の流通エリア

天霧石製石造物はⅡ期になると瀬戸内海各地に運ばれて広域に流通するようになります。
かつては、これは豊島石産の石造物とされてきましたが、近年になって天霧石が使われていることが分かりました。弥谷寺境内の五輪塔需要だけでなく、外部からの注文を受けて数多くの石造物が弥谷寺境内で造られ、三野湾まで下ろされ、そこから船で瀬戸内海各地の港町の神社や寺院に運ばれて行ったのです。そのためにも弥谷寺境内で盛んに採石が行われたことが推測できます。ただ、後世の寺院整備のためか採石の痕跡は、あまり分かりません。

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賽の河原の参道沿いにある転石

しかし、次のような手がかりはあります
 ①現在の法雲橋の付近に多量の転石があること
 ②そこから北東に延びる谷に作業場に適した安定したテラスがあること
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石切場と考えられる法雲橋の東側斜面上方のテラス

以上から法雲橋の東側斜面の上方のテラスが石切場で作業所があったと研究者は推測します。ただ、未成品はまだ確認されていないようです。
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仁王門上の階段状に採石された遺構
採石痕は、仁王門を入って右側の岩壁に階段状に採石された遺構が見られます。ここからも石が切り出されていたようです。


以上をまとめておくと
①磨崖五輪塔の生産ストップと同時期に、五輪塔が弥谷寺に姿を見せるようになる。
②これは西讃岐守護代の香川氏の墓標として造られたもので、弥谷寺は香川氏の菩提寺になった。
③香川氏の墓域とされたのは阿弥陀如来が安置されていた西院周辺で、百基を越える五輪塔が造られ続けた。
④同時に弥谷寺の石工集団は、瀬戸内海各地からの石造物需要に応えて製品を造り出し供給するようになる
⑤香川氏という強力な庇護者を迎えて、弥谷寺は「慰霊の聖地」として発展していく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」


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弥谷寺下の八丁目大師堂
本山寺から弥谷寺への遍路道の最後の上り坂に八丁目大師堂があります。この大師堂には、台座裏面には寛政10年(1798)の墨書銘がある弘法大師坐像が安置されています。

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八丁目大師堂の弘法大師座像

坐像が造られた18世紀末と云えば前回お話ししたように、弥谷寺が参拝客誘致のために周辺の遍路道を整備し、接待所を設け、そこに大地蔵などのモニュメントを設置していた時期とかなさります。「弥谷寺周辺整備計画」の一環として大師堂が建立され坐像が安置されたようです。
弥谷寺 遍路道
大師堂付近は「大門」の地名が残る

 私が気になるのは、この大師堂一体に「大門(だいもん)」の小字名が残っていることです。かつての弥谷寺の大門がこのあたりにあったと伝えられています。そうだとすれば当時の弥谷寺境内は、このあたりから始まっていたことになります。さらに、この坂を県道まで下りていった辺りは「寺地」と呼ばれています。弥谷寺の寺領と考えられます。明治の神仏分離に続く寺領没収以前には、、かなり広い範囲を弥谷寺は有していたようです。
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八丁目大師堂からの遍路道
今回は、弥谷寺の八丁目大師堂付近にあったという大門について探ってみたいと思います。テキストは「弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会」です。P1150049
八丁目大師堂より上の道 かつては両側に子院が並んでいた
『多度津公御領分寺社縁起』(明和6年(1769)には、次のように記されています。
「上古は南之麓に大門御座候て、仁王之尊像を安鎮仕候故、深尾より祈祷地への通ひ道を仁王道と申し候、然る所寛永年中(1624~1643) 大門致大破候故、仁王之尊像をは納涼坊へ移置候、於干今大門之旧跡御座候て、其所をは大門と名つけ、礎石等相残居申候、先師達、大門之営興之念願御座候得共、時節到来不仕候、其内有澤法印延宝九年(1681)、先中門に再建仕候て二王像を借て本尊と仕候て、諸人誤て仁王門と申候得共、実は中門にて御座候、往古は中門に大師御作之多聞・持国を安鎮仕候、其二天は今奥院に有之候」

意訳変換しておくと
「昔は南の麓に大門があり、そこに仁王尊像を安置していたので、深尾より祈祷地への道を仁王道と呼んでいた。ところが寛永年中(1624~1643)に大門が大破し、仁王像は納涼坊へ移された。以後は大門跡なので、大門と呼んでいた。礎石などは残っていたので、先師達は、いつか大門再建を願っていたが、その機会は来なかった。そうしている内に、有澤法印が延宝九年(1681)、先に中門を再建し、二王像を向かえて本尊とした。そのため人々は、誤ってここを仁王門と呼ぶようになった。実はここは中門で、往古は大師御作とされる多聞・持国天が安置されていた。その二天は今は奥院におさめられている。」

ここからは次のようなことが分かります。
①本来の大門には二王像が安置されていたので仁王門と呼ばれていたが寛永年間に大破したこと、
②大門はそれ以降再建しておらず、「大門」の地名だけが残ったこと
②中門が再建され「仁王像」が安置されたので、「中門」が仁王門と呼ばれるようになったこと。

それでは大門はどこにあったのでしょうか。
 「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には「大門跡」が描かれています。

弥谷寺全図(1844年)2
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)

この絵図が書かれた時期の金毘羅さんを見ると、丸亀や多度津に新港が整備され金比羅参拝客が激増します。その機運の中で3万両と資金を集め、巨大な金堂(現旭社)が完成間近になっていました。それに併せるように石段や玉垣なども整備され、芝居小屋も姿を見せるなど、参拝客はうなぎ登りの状態でした。そのような中で当寺の弥谷寺の住職も、金毘羅詣での客を自分の寺にどのように誘引するかを考えたようです。それが前回お話しした曼荼羅寺道の整備であり、伊予街道分岐点近くの碑殿上池への接待所設置であり、ここを初地(スタート)とするシンボルモニュメントである初地地蔵菩薩の建立でした。

弥谷寺 初地菩薩
初地菩薩(現在の碑殿上池の大地蔵)からの曼荼羅寺道
そしてゴールの弥谷寺境内には現在の金剛拳菩薩が姿を現し、その前には二天門が新たに建立されたことは前回お話ししました。

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ゴールの金剛拳菩薩(建立当初は大日菩薩)
 そして、この絵図を見るといくつもの堂宇が山の中に建ち並んでいる姿が見えます。18世紀末から整備されてきた弥谷寺のひとつの到達点を描いた絵図とも云えます。金毘羅詣でを終えて、善通寺から弥谷寺にやってきた参拝客もこの伽藍を見て驚き満足したようです。善通寺よりも伽藍に対する満足度は高かったと言われます。
 さて本題にもどります。大門跡付近を拡大してみましょう。

弥谷寺 八丁目大師堂
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)の大門跡付近拡大

絵図の右下隅に「南入口」とあり「是ヨリ/本堂へ八丁」とあります。その先に「大門跡」の立札があります。「是ヨリ/本堂へ八丁」とあるので、八丁目大師堂のあたりに大門があったことが裏付けられます。ちなみに大門跡前の坂道を参拝客が登る姿が描かれています。その下の参道左側にお堂が描かれています。これが現在の「八丁目大師堂」の前身だと研究者は推測します。その根拠は「八丁目大師堂」の弘法大師坐像の台座裏面に記された寛政10年(1798)の墨書銘です。この坐像が安置された大師堂も、同時期に建立されたはずです。それから約50年後の天保15(1844)年の「讃岐剣御山弥谷寺全図」に、「八丁目大師堂」が描かれていても不思議ではありません。現在の大師堂も参道の左側にあります。ここに描かれた建物が現在の八丁目大師堂だとすると、大門はその青木院跡前の参道の右側付近にあったことになります。

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八丁目大師堂から上の参道 子院が並んでいた周辺

この絵図を見ていて私が驚いたのは、参道両側に仁王門に至るまでいくつもの「院房アト(跡)」が記されていることです。ここからは、これだけの僧侶が弥谷寺を中心に活動していたことが分かります。その中には修験者や高野聖・念仏僧などもいたはずです。彼らが周辺の郷村に、念仏講を組織し、念仏阿弥陀信仰を広めていたことが推測できます。彼らは村の鎮守祭礼のプロデュースも果たすようになります。そして、都で流行していた風流踊りや念仏踊りを死者を迎える盆踊りとして伝え広めていきます。
 その成果として弥谷寺に建てられているのが、仁王門の上に建っている「船墓(ハカ)」です。
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仁王門上に建つ船ハカ
この船形の石造物は、今は摩耗してかすかに五輪塔が見えるだけです。
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しかし、この絵図には「南無阿弥陀仏」と刻まれていたことが分かります。これは念仏阿弥陀信仰の記念碑であることは以前にお話ししました。
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船ハカ(レーザー撮影版)左に五輪塔が浮かび上がる
これを建てる念仏阿弥陀信仰者の講があり、それを組織した念仏僧が弥谷寺にいたことが分かります。今は弥谷寺は四国霊場の札所で空海の学問所とされています。しかし、中世には郷村へ念仏阿弥陀信仰を広める拠点で、人々は磨崖に五輪塔を彫り、そこに舎利をおさめ念仏往生を願ったのです。この寺の各所に残る磨崖五輪塔は、その慰霊のモニュメントだったようです。そこに近世になって弘法大師伝説が「接ぎ木」されたことになります。

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本堂横の磨崖に彫られた五輪塔 穴にはお骨がおさめられた
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会
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鳥坂峠の上池(右)と大池(左) 背後は我拝師山
鳥坂峠は古来から丸亀平野と三野平野を結ぶ重要な峠です。鳥坂峠の手前で、伊予街道と分かれて弥谷寺に伸びる遍路道が分岐して、歓喜池(上池)の堤防を北に伸びていきます。

善通寺市デジタルミュージアム讃岐遍路道 曼荼羅寺道 - 善通寺市ホームページ

上池の堤防を渡りきった所に、かつての遍路宿があり、その庭に大きな地蔵さんが立っています。

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上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)
初めてこの地蔵に出会った時には、びっくりしました。大きいのです。讃岐の中では一番大きな地蔵さまのように思います。なんで、こんなところにこんな大きな地蔵さんが立っているの?という最初の出会いで思った疑問でした。
なかなかこの答え見つけられずにいたのですが、弥谷寺調査報告書2015年を読んでいると、この謎がやっと解けてきました。そこには、弥谷寺の経営戦略があったようです。今回は、どうして碑殿町の歓喜池(上池)のほとりに大きな地蔵が建てられたのかを見ていくことにします。
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 上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)

碑殿の上池に大地蔵は、いつ、だれによって建てられたのでしょうか?
寛政2年(1790)2月に、碑殿村の片山半左衛門は、次のような寄進状を残しています。
「上池之北山下畑の分畝有、残らず右地蔵尊御敷地、永代差し上ケ申し候」(「片山半左衛門寄進状」、文書1-15-55)、

意訳変換しておくと
「上池の北山下の畑地は、残らず地蔵尊御敷地として、永代寄進いたします。」

ここからは大地蔵の敷地を1790年に、片山半左衛門が寄進したことが分かります。このころから地蔵尊建立のための準備が進められていたようです。3年後の寛政5年に弥谷寺へ、常住寺から「上池尻石樋の西東」にある田1畝27歩(高3斗1升3合)が「永代譲り渡す田地」として、次のような文書が提出されています。

「此の度地蔵田二成され度思し召し二て、御所望の由仰せ聞かされ、至極御尤もの御儀二付き、早速御譲り申す」

ここからは弥谷寺の要望によって「地蔵田」が寄附されていることが分かります。この地蔵田に課せられる藩からの「諸役掛り物」は、弥谷寺が納めることになっています。以上から寛政5(1793)年には石地蔵菩薩は、現在地に姿を見せていたと研究者は考えています。

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大地蔵の台座側面

地蔵菩薩立像は花崗岩製で、高さが約3m、台座・台石と合わせると約4,9mになります。台石には次のように記されています。
(正面) 歓喜墜
(左面) 五名の戒名 泊浦宮本清二郎
(右面) 六名の戒名 与島岡崎
ここからは塩飽本島の泊浦の宮本氏と坂出市与島の岡崎氏が、この大地蔵を奉納したことが分かります。彼らは塩飽の有力人名衆になるようです。
 この地蔵菩薩立像は、『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))に、次のように記されています。
「穴薬師堂門を出て左手にあり、是より左へ山路を行。石地蔵尊 長二丈斗の石仏麓にあり」

弥谷寺 初地菩薩
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には、地蔵菩薩立像が描かれていて、右横に「東入口初地菩薩 石像御長一丈六尺」と記されています。
この「初地」とは、菩薩の修行段階である十地(じゅうじ)の第一位のことで、十地とは「歓喜地・離啓地・発光地・焔慧地・難勝地・現前地・遠行地・不動地・善慧地。法雲地」で、「初地」とは、「歓喜地(かんぎじ)」のことになるようです。
また「弥谷寺全図」に描かれた「初地菩薩」の横に3間×4間の入り母屋造りの建物が見えます。よく見ると、正面には2間の扉が描かれているように見えます。お堂や庵のようにも見えますが、これが弥谷寺が建てた接待所だったようです。

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なお現在、地蔵菩薩立像(大地蔵)の横にある建物は、地元での聞き取りからは、旧雨峯小学校であったことが分かっているようです。私は遍路宿とばかり思っていましたが先入観でした。

この地蔵菩薩立像の前には、灯籠が1基建てられています。
灯籠竿部に刻銘文があり、寛政12年(1800)に亡くなった真蓮栄範信士の供養灯籠で、享和元年(1801)に造立されています。刻銘文には、「弥谷寺現住無縛代」とあり、無縛は弥谷寺中興第八世(1807寂)です。ここからは18世紀後半には、弥谷寺の影響範囲がここまで及んでいたことがうかがえます。

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この大地蔵は、単独で作られたものではなく、新たな接待所のシンボルモニュメントとして建立されたようです。
寛政4(1792)年3月に、碑殿村の上池尻に接待所を設置することが弥谷寺から多度津藩に願いでられています。
「往来の四国辺路え茶施し申し願い出」(「続故事謂」、「諸願書控。文書2-104-4)

とあるので、弥谷寺が参拝者へのサービス提供のために、遍路道の整備や接待所などの設置などに務めていたことがうかがえます。その接待所の前に設置されたのが大地蔵になるようです。接待所の敷地に課せられる年貢は、弥谷寺から納めることになっています。接待所と大地蔵の建立は弥谷寺の手で進められたことが分かります。
 接待所と大地蔵が建てられてから60年近く経った安政4年(1857)になると、その管理と世話が問題となります。そこで弥谷寺住職の維那は、碑殿村役所と茶堂庵講中へ次のような依頼をしています。「地蔵守之書付入」、文書1-17-40)。
上池の「大仏地蔵尊」は先の住職菩提林が造立し、碑殿村の勘蔵に田地を譲って「香華」の世話させていた。ところが田地を売り払って年を経るに随って世話が疎かになっている。そこで、このたび弥谷寺が管理することにする。就いては、その世話を「同所茶堂庵講中」に世話を頼みたいたい」

ここからは、安政4(1851)年頃には、接待所は茶堂庵と呼ばれて、それを維持するために「茶堂庵講中」が組織されていたことが分かります。
この背景には18世紀末ころから金毘羅大権現の伽藍整備が進み、東国からの金毘羅詣で急増することがあります。金毘羅船で丸亀港にやってきた参拝客は金比羅を往復するだけでなく、善通寺や弥谷寺・海岸寺など「七ケ寺めぐり」をするのが一般的になります。これには巧みな参拝者誘引のための手法があったことは、以前にお話ししました。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
丸亀港にやってきた参拝客に配布された案内図

 18世紀末から金比羅船で丸亀や多度津港にやってくる金比羅詣客は急増していきます。その参拝客を金比羅だけでなく自分の所へも導いてこようと周辺の寺社は、あの手この手の広報戦略を駆使します。例えば、丸亀港に降り立った参拝客に配布された案内図は「金比羅参拝図」とは記されていません。「丸亀・金比羅・善通寺・弥谷寺参拝」と表題が書かれ、この4つの社寺をめぐるルートが描かれています。
丸亀街道 E27 ことひら5pg

 この案内地図を手にして金比羅詣でにやって来た弥次喜多コンビも弥谷寺に参拝しています。そして、天霧山を下って海岸寺・道隆寺を経て丸亀港から帰路に就いています。 また、東北からやって来た人の中には「伊勢神宮 + 高野山 + 金比羅 + 宮島厳島神社 + 西国三十三ヶ寺巡礼」という参拝の旅を行っている人も多かったようです。今のように目的地だけを目指すというものではなく、「金比羅詣でも四国巡礼も宮島もこの際ついでに、まとめて参拝」という感じなのです。そのような庶民の参拝気質を見込んで、「呼び物」と「参拝道」を整備すれば、人はやってくるというのが当時の寺社の広告戦略です。それを弥谷寺の住職たちは見抜いていたといえるかもしれません。

善通寺・弥谷寺
五重塔があるのが善通寺 そこから弥谷寺への遍路道が見える

 金比羅までやってきた参拝客をいかにして、自分の所まで誘引するのか。それがあらたな名所作りであり、シンボルモニュメントを登場させることであったようです。その一環として弥谷寺の住職が取り組んだのが、伊予街道から分岐する遍路道の整備であり、その分岐点近くに弥谷寺直営の接待所を設置し、そこに大きな地蔵をモニュメントとして建立するというプランだったようです。このプランはこれだけでは留まりません。さらに大きな仕掛けを考えていたようです。

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弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ曼荼羅寺道

天保11(1840)年の「続故事諄」には、次のように記されています。
「東、碑殿坂を以て十地の位に当たる、今此の盤石上の石仏を安置する所なり、則ち初地歓喜の像なり」
意訳変換しておくと
「東の碑殿坂が十地の位に当たる。今、この盤石上には石仏が安置されている、それが初地歓喜の地蔵菩薩である」

ここには碑殿の上池は弥谷寺まで「十地の位」に当たる場所なので、ここにスタート地点として「石像地蔵菩薩(初地歓喜像)」が造立されていると記されています。

また「剣五山弥谷寺記」には、次のように記されています。
「前住菩堤林及び法嗣霊苗、嘗つて行基の意を原ね、碑殿歓喜池の上の石像地蔵より、法雲橋頭に至るまど、離垢発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す、(中略)、
僅かに第十地に金剛拳菩薩を建て、以て其の梗概を示すのみ、二天門内丈六の鋳像、即ち此れなり」
意訳変換しておくと
「弥谷寺の前住職・菩堤林とその法嗣霊苗は、かつての行基の意を汲んで、碑殿歓喜池(上池)の石像地蔵より、弥谷寺境内の法雲橋頭に至るまで、離垢発光等の諸位の仏像を遍路道の路傍に安置して、十地の道しるべにしようと考えた。(中略)、しかし、第十地に金剛拳菩薩を建てただけに終わった。二天門内の丈六の鋳像がそれである。」
ここからは弥谷寺の住職によって、碑殿の石像菩薩から弥谷寺境内の法雲橋までの間の遍路道に、十の仏像を安置するプランがあったことが分かります。しかし「剣五山弥谷寺記」の書かれた弘化3年(1846)には、弥谷寺の境内の第十地に金剛拳菩薩(丈六の鋳像)が残されているだけだと記します。丈六の鋳像が、現在の金剛拳菩薩のようです。

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潅頂川にかかる法雲橋(弥谷寺)

つまり上池の大地蔵は、弥谷寺境内にある金剛挙菩薩とセットで建立されたものだというのです。
それをまとめてみると
①上池の巨大地蔵(石地蔵菩薩)から弥谷寺までの遍路道に、十の仏像を安置する計画があった
②そのスタート(初地)が歓喜池(上池)で、第十地(ゴール)が弥谷寺境内の金剛拳菩薩である。

これは鳥坂峠で伊予街道と分かれた遍路道の整備計画でもありました。今に残る金剛挙菩薩と石地蔵菩薩とは、その計画のスタート地点とゴール地点に立っていることになります。しかし、なぜこんなの大きな仏像を建立したのでしょうか?                      
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金剛挙菩薩
次に弥谷寺境内の金剛挙菩薩を見てみることにしましょう。
この菩薩は「大日如来」として建立されたものが、いつの間にか金剛挙菩薩とされてしまったようです。その理由はよく分かりません。とにかく建立に向けた動きを追ってみます。

「銘曰く、寛政三辛亥起首願主先師菩堤林文化八辛来年成就幻住法印零苗代、鋳物師紀州住人蜂屋薩摩塚源政勝、右年号並びに時代、仏像の脇これそ記すなり」

とあって、住職菩堤林が寛政3年(1791)に建立のための募金活動に取りかかり、20年ほど後の、文化8年(1811)に完成したことが分かります。

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金剛拳菩薩(最初は大日如来として建立された)

弥谷寺には、寛政元年(1789)の 「灌頂仏募縁疏」の版木が残っています。
これは住持の菩提林によって書かれた大日如来造立のための募金趣意書に当たります。そこには次のように記されています。

弥谷寺の灌頂川の法雲橋の西の大岩の上には、かつては一丈六尺の金銅の大日如来があった。それを「第十地ノ菩薩」として再建を行いたい

 この再建のために、菩堤林と講中が勧進を行おうとした趣意書の版木です。この版木には寛政元年正月と記されているので、大日如来の造立の動きは寛政元年に始まっていたことが分かります。

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              金剛拳菩薩
また「五山弥谷寺記』には、次のように記されています


「碑殿歓喜地の上より法雲橋の頭に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す。」
意訳変換しておくと
「碑殿の歓喜池が初地にあたり、弥谷寺の法雲橋に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を遍路道沿いに安置し、十地の階級を示したい。」

「讚岐剣御山弥谷寺全図」には「東入口初地菩薩石像一丈六尺」とあります。
弥谷寺 初地菩薩
「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた初地菩薩

初地は別名「歓喜地」で、そこから第十地「法雲地」に至るまでに、十地各地に仏像を安置する計画があったことになります。しかし、今あるのは先ほど見た「初地」として碑殿の上池に「初地菩薩」、第十地「法雲地」とされる「法雲橋」の金剛拳菩薩だけです。

弥谷寺 金剛拳菩薩jpg
「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた丈六金仏(金剛拳菩薩)
 「金剛拳菩薩」は寛政3年(1791)に募金活動が始まり、完成したのは、文化8年(1811)ですから22年かかっています。
ふたつの間には仏像が造立された気配はないので、十仏像を設置するという計画は頓挫したようです。また、「法雲橋_|と「金剛拳菩薩」の間にあった「二天門」は、昭和6年(1931)の「諸堂建立年鑑」によれば文政12年(1829)に再建されています。この計画の一環として建立された可能性を研究者は指摘します。
弥谷寺 参道変遷
金剛拳菩薩の出現で変更された参道 

 「金剛拳菩薩」は、もともとは大日菩薩として建立されたことが資料で確認できます。
完成前年の8年の「灌頂仏再建三百人講」や、文政2年(1819)の「四国巡拝日記」では、大日如来と記しています。ところがそれから約30年後の弘化3年(1840)の記録には「金剛拳菩薩」と記されています。つまり大日如来として作られたが、その後に金剛拳菩薩へと変更されたことになります。その理由については、私にはよく分かりません。
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弥谷寺に残された史料の中に、「灌頂仏再建三百人講」があります。これは文化7年8月に弥谷寺の維綱がまとめたもので、大日如来(金剛拳菩薩)建立の経緯が次のように記されています。
「丈六の金仏を再建せんと思へとも、衣鉢乏しく少なくして自力に及びかたし、故に善男善女を勧進して、三百人講をいとなみ、此の浄財を以て大日尊を再建し奉らんと希ふ」(中略)
「此の尊に帰依して浄財を郷ち、早く再建の願いを遂げ、万代不朽の巨益を成就せしめん輩ハ、現世にハ子孫繁昌し福徳豊穣にして、快楽自在ならん、当来にハ摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率任意往生せん、猶又施主家の姓名先祖の法名等大日尊の蓮座に彫り付け、永代毎歳の灌頂に廻向するなり」
意訳変換しておくと
「丈六の金仏(大日如来)を再建したいと願っても、資金に乏しく自力ではできない。そこで善男善女を勧進して三百人講を組織し、その寄付で大日尊を再建しようと計画した」(中略)
「この大日尊に帰依して浄財を寄進し、再建の願いが実現したあかつきには、万代不朽の巨益を手にした者達は、子孫繁昌し福徳豊穣で、快楽自在となろう。そして来世では摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率で必ず往生する。さらに施主家の姓名先祖の法名などを大日尊の蓮座に彫り付け、永代に渡って毎年、灌頂廻向を行うことを約束する」
ここからは、三百人の寄附によって「丈六の金仏」を再建すること、寄附者の現世の御利益を説くとともに、その名を大日如来の「蓮座」に記すとしています。この大日如来の再建には銀25貫600目が必要であったようです。この序文に続けて大見村から始まって、多度津藩・丸亀藩の村々からの寄進者の名が記されています。施主一人前で金1両です。一番多いのは大見村庄屋の大井助左衛門の7人前で、次いで4人前の大見村の三谷恒右衛門。同三谷甚之丞。同三谷源六。同辻市郎右衛門となっています。その他はほとんどが一人前であり、二人で一人前の場合もあります。これらを郡ごと、村ごとに施主人前に整理したのが下表です。

弥谷寺 金剛拳菩薩趣意書
一番多いのは地元の大見村の77人前、次いで隣村の松崎村の42人前で、郡ごとでは三野郡が190人前と多いようです。全体で271人前となっています。施主1人前金1両とされていたので、金271両の寄附があったことになります。「三百人講」だったので、目標金額は300両です。それには達しなかったようですが、目標の9割を越える金額を集めています。大日如来(金剛拳菩薩)の建立には地元の大見村や松崎村をはじめとして、多度津藩。丸亀本藩領内、またそれ以外の各地の人々の支援によって行われていたことが分かります。
 完成した大日如来の像や蓮弁等には、先ほど見たように寄進者の名前等が刻まれています。
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以上をまとめておきます。
①18世紀末に、弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ遍路道の整備が行われ、伊予街道との分岐点近くに接待所と大地蔵が姿を現した。
②ここには仏像造立という宗教意味だけでなく、弥谷寺の経営戦略があった。
③それは金比羅参りの参詣者を、善通寺を経て弥谷寺へ誘導するという広報戦略の一環だった。
④その広報戦略の目玉として考えられたのが、上池をスタートとしてゴールの弥谷寺までに十の仏像を安置するプランであった。
⑤そのスタートに初地地蔵、ゴールに金剛拳菩薩が建立された。
⑦金銅制の金剛拳菩薩は、三野郡を中心とする富裕層の寄付金によって建立された。
⑧しかし、残りの仏像は資金難で建立されることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 弥谷寺調査報告書2015年 香川県教育委員会
関連記事

 
「讃州剣五山弥谷寺一山之図」宝暦10年(1760)には、18世紀後半の弥谷寺の繁栄ぶりが描かれています。
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺一山図1 」

仁王門から大師堂、そして一番上の本堂までの参道に堂舎が立ち並び、石造物が迎えます。金毘羅詣でにやってきた参拝客たちが善通寺を経てわざわざ弥谷寺を訪れたというのも分かるような気がします。それだけの施設や霊場としての雰囲気を供えた空間が、この時期までに整備されていたようです。
 しかし、弥谷寺は戦国末期には兵火で焼失したと伝えられます。その後の復興は、どのように展開されたのでしょうか。それを残された絵図から見ていくことにします。

IMG_0102天霧城の香川氏
天霧城
弥谷寺背後の天霧山には、天霧城がありました。
この城は讃岐守護代として中・西讃を支配した香川氏の居城とされます。貞治元年(1362)の白峰合戦で、南朝方の細川清氏を討ち取って、三野・豊田・多度の3郡を領地とし、天霧山に城を築いたのが始まりです。その後、管領細川氏の守護代として讃岐11郡のうち6郡を治め守護代から戦国大名への成長を遂げていきます。 
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弥谷寺から天霧城への道
その天霧城の中腹にあるのが弥谷寺です。
香川氏は弥谷寺の檀家として、この寺を保護したと云われます。それを裏付けるように、香川氏の墓石である五輪塔が弥谷寺の境内には、いくつか確認できます。中世の弥谷寺の繁栄は、守護代香川氏の保護が背景にあったようです。
弥谷寺 九品浄土1
  浄土信仰の中心部・九品浄土にある生駒一正の墓石

 香川氏は、天正年間(1579)の、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に際しては、いち早く降伏し同盟関係を結び、土佐軍の先兵として讃岐平定に活躍します。しかし、それもつかの間、天正11年(1585)の豊臣秀吉による四国征伐を前に、元親はなすすべなく敗退し、香川氏も土佐に落ち延びます。

弥谷寺 生駒一正の石塔
生駒一正の石塔(弥谷寺本堂下)
 天霧城は破棄され、弥谷寺もこの時に消失して荒廃したといいます。そしてわずかに本尊と鎮守の神体だけが残ったと伝えられます。確かに、現在の弥谷寺に中世に遡る仏像は3体のみです。建造物も近世以後のものです。弥谷寺は戦国末期に伽藍が焼け落ちたようです。
  『大見村誌』には、正徳四年(1714)宥洋法印の記録として、香川氏没落以後の弥谷寺について、以下のように記しています。 
その後戦乱平定するや、僧持兇念仏の者、当山旧址に小坊を営み、勤行供養怠たらざりき、時に慶長の初め、当国白峰寺住職別名法印、当山を兼務し、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立す。
 慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正より、田畑山林を寄付せられ、其証書今に存せり。別名法印遷化後、直弟宥慶法印常山後住となり執務中、図らすも藩廳に対して瑕径あり。爰に住職罷免され、善通寺に寄託される、その後の住職は善通寺僧徒、覚秀房宥嗇之に当り寛永十二年営寺に入院し、法務を執り堂塔再建に腐心廿り、
意訳しておきましょう 
その後、戦乱が平定されると、修験者や念仏行者が弥谷寺の旧址に小坊を営み、勤行供養を行うようになった。慶長年間の初めに、白峰寺住職別名法印が生駒親正の信認を受けて、当山を兼務するようになった。彼は堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立した。慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正(親正の子)より、田畑山林を寄付せられた。その証書は今に伝わっている。別名法印が亡くなると、直弟宥慶法印が後を継いで後住となり執務を行ったが、図らすも藩廳に対して瑕径があり、宥慶は住職罷免された。その後、この寺は善通寺に寄託され、善通寺の僧徒である覚秀房宥嗇之が寛永十二年営寺に就任し、法務を執り堂塔再建に腐心した。

    この史料は、次のようないろいろな情報を提供してくれます。
①弥谷寺焼失後は、「念仏行者」が小坊を建てて布教活動の拠点となった
②白峰寺住職別名法印が、当山を兼務し、堂舎再建に努めた
③生駒親正の子・一正より、田地の寄進を受けた
④別名法印死後、直弟の宥慶法印は生駒氏の怒りを受け住職を罷免された。
⑤その後、弥谷寺は善通寺に寄託され、善通寺僧徒が住持となり、そのもとで堂塔再建が進んだ。
  ここからは、近世はじめには念仏行者の活動拠点となっていたことが分かります。そして、生駒家の保護の下に再建が進められますが、当時の住持が罷免され、善通寺の影響下に置かれたようです。
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弥谷寺参道の石仏

17世紀後半に「遍路」として「四国巡礼」を行った僧侶たちが残した3つの案内記を見ていきましょう。
まず、エリート学僧の澄禅の「四国遍路日記」(承応2(1653)年の記述です。彼の日記からは弥谷寺には「二王門」「持仏堂」「鐘楼」「護摩堂」「本堂」「蔵王権現ノ社」の5つの堂があったことが分かります。

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弥谷寺仁王門
坂の登り口には仁王門があったようですが、これは寛永年中(1624~1648)に大破します。澄禅が見た「二王門」は「二天門」だったようです。この「二王門」から続く参道の上の「高き石面」(断崖)には、彫り付けられた「仏像」や「五輪塔」が数え切れないほどあるといいます。中世以来の宗教活動の成果なのでしょう。自然石を切り出した階段を上ると「寺ノ庭に上がる」とあります。

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現在の百八階段

この「寺ノ庭」は、諸堂の立ち並ぶ平坦地で、現在の本坊、寺仏殿、寺務所、蔵などが立ち並ぶ平坦地のようです。
  「持仏堂」は、
「西向二厳ニ指カリタル所ヲ、広サニ間半奥ヘハ九尺、高サ人ノ頭ノアタラヌ程ニ イカニモ堅固二切入テ、仏壇間奥へ四尺二是モ切入テ左右二五如来ヲ切付玉ヘリ。中尊ハ大師ノ御影木像、左右二藤新大夫夫婦像二切玉フ。」

とあり、岩盤の窟内に五如来を陽刻しているとあるので、現在の「大師堂」、「獅子之岩屋」のようです。ここには、「大師ノ御影木像」の左右に藤新(とうしん)大夫夫婦像」があったといいます。藤新(とうしん)大夫夫婦像は、「空海=多度津白方生誕地説」で、空海の父母とされる人物です。この時点までは、弥谷寺は「空海=多度津白方生誕地説」を流布していたことになります。

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「鐘楼」は、「庭ヨリー段上リテ」とあります。

現在の鐘楼も寺の平坦地より、約1m程度高い位置にあるので合致します。

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弥谷寺護摩堂

「護摩堂」は、「鐘楼」から

「又一段上リテ護摩堂在、広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ、戸ヲ仕合ソノ内ニハ本尊不動其外ノ仏像何モ石也」

とあり、護摩堂も岩盤の窟内で、本尊が不道明王なので、現在の「岩窟の護摩堂」なのでしょう。
「護摩堂」から本堂への参道には
「少シ南ノ方へ往テ水向(水祭)在り、石ノ面三二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付玉ヘリ、廻リハ円相也。 ・・其下二岩穴在、爰ニ死骨ヲ納ル也。 ・・・
 其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付玉フ事幾千万卜云数不知。又一段上リテ石面二阿弥陀ノ三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛 六ツ彫付玉り、 ・・・又一段上リテ本堂在、」
意訳すると
「岩窟の護摩堂」から少し行ったところからの岩面には、五輪塔が彫られており、灰岩製の切石の石段を上ると「水場所」、「納骨所」があり、その左には「ア(種字)」が彫られ、そこから石段を上れば、岩面には「阿弥陀三尊」、「南無阿弥陀仏の六字名号」が彫られている。
とあり、ここが九品浄土で、中世の阿弥陀=浄土信仰の中心的な場所であったようです。
弥谷寺 九品浄土1

更に石段をあがると本堂です。本堂は岩面に接するように建てられ、その岩面には五輪塔が多数彫り込まれていいます。現在の「本堂」の位置と変わりません。
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弥谷寺本堂
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本堂磨崖に彫られた五輪塔

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弥谷寺本堂からの眺め
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本堂内部の磨崖仏や五輪塔
また「蔵王権現ノ社」|は、「其近所二」とあることから、「岩窟の護摩堂」の上方にある現在の「鎮守堂」であったようです。
以上が澄禅の『四国遍路日記』に書かれた承応2(1653)年の弥谷寺境内の諸堂の様子です。
 弥谷寺は、戦国末に兵火で焼失したとされますが、寛永十二(1635)年以後の善通寺からやってきた住持のもとで、生駒氏の支援を受けて堂塔再建が進んだと記されていました。確かに澄禅も、「退転=荒廃」した姿でなく再建が進む境内の様子を伝えています。退転したままだった阿波の霊場よりも、讃岐の霊場は立ち直りが早かったことがここからもうかがえます。
次に、やって来るのは真念です。彼の『四国辺路道指南』(貞享4年(1687)を見てみましょう
「七十一番弥谷寺 南むき。」
「まんだら寺ヘハニ王門より左リヘゆく。」
と記述は非常に少ないのです。ここから解るのは、本堂が「南むき」であつたことと、ちょうど「仁王門」を出て左に行けば、第72番曼荼羅寺への遍路道となることだけです。
最後にやって来るのが寂本です。彼の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689))には、
彼の案内記の特徴は、スケッチが挿入されていることです。これは非常に役に立ちます。まずそのスケッチで境内を見ていきましょう。
弥谷寺 伽藍図

 スケッチの①二王(二王門)手前で分岐し、右へ行くのが曼荼羅寺への辺土道で道で、②「薬師窟」、③「岩松窟」(弥谷坊)が描かれています。「仁王」から左へ進み道弥谷寺参道で、多数の石仏の間を抜け坂道を登ると平坦地にある④「千手院」(本坊)に着きます。この上部には⑤「聞持窟」(現大師堂)があり、参道は右方向に延び、左右に⑥「鎮守」⑦「鐘楼」⑧「二尊」(籠堂)⑨「護摩窟」⑩「弁財天」と上り、そして⑪「観音堂」(本堂)へと続きます。

  本文には次のように記されます
「山南にひらけ、三染の峰北西に峙てり。其中軸に就て大師岩屋を掘、仏像を彫刻し玉ふ_|
「本堂岩屋より造りつづけて、欄干雲を帯、錦帳日をいる」
「護摩の岩屋二間四方、石壇の上に不動,弥勒・阿弥陀の像まします。其脇の石壇に高野道範阿閣梨の像あり。」
 
「聞持窟(大師堂)は九尺に二間余、内のまわり岩面には五仏・虚空蔵・地蔵等切付られたり。・・・又大師の御影もあり、いにしへは木像にてありけるを、石にて改め作り奉る。其岩窟の前四六間の拝堂南むきにかけ作りにこしたり」

ここには約30年前の澄禅が訪れたときには「大師像」の両脇に置かれていた藤新大夫夫婦像は姿を消しています。この期間に弥谷寺は「空海=多度津白方生誕説」の流布を止めたようです。

 本文からはは本堂(観音堂)・「護摩の岩屋(護摩窟)」「聞持窟」「鐘楼」「住坊」「二王門「石窟薬師堂」の7つの堂舎があったことが分かります。さらに先ほど見たスケッチには「岩松窟」「鎮守」「二尊」「弁財天」の4つの堂舎が描かれていますので合計11の堂舎があったことになります。30年で着実に境内整備は進んでいます。金毘羅大権現に次ぐ規模だったのではないでしょうか。弥谷寺が多くの信者を擁し、経済力を持っていたことがうかがえます。
次に、残されているのが弥谷寺所蔵の版木「讃州剣五山弥谷寺一山之図」です。
この版木は裏面に「大阪北久弐 細工中澤彦四郎」と刻銘があり、「大坂」ではなく「大阪」とあることから、明治以降に復刻されたもののようです。しかし、使われている版木は宝暦10年(1760)のものと研究者は考えているようです。この版画絵を見ていきます。
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺一山図1 」

  この絵図も弥谷寺の境内は、「二王門」から始まります。
仁王門までの参道には、「フジ橋」「大門奮(旧)跡」「石橋」があり、両側には墓石、供養塔と考えられる石造物がたくさん並んでいます。「二王門」手前で遍路道が右に分岐し、次の札所である曼荼羅寺方向と、「穴薬師」が描かれています。
「二王門_|を抜けると左に「南無阿弥陀仏」と書かれた「船ハカ(墓)」があり「手掛岩」→「法雲橋」→「独古坊跡」→「大日」と続きます。参道の左右に五輪塔が描かれており、岩面には数多くの磨崖五輪塔があります。「大日」も磨崖仏として彫られているようです。
「大日」から茶道下の坂道を登ると、平坦な地点に着き、ここに緒堂が並びます。寂本のスケッチには「千手院(本坊)」とあった所です。この正面に「奥院(大師堂)」「求聞持窟」「茶堂」「方丈」(本坊)、
右手に「中之院」「三十三番」「十三堂」「鐘楼」などです。今は「茶堂」「中之院」「三十三番」「十王堂」などはありませんが、それ以外はほぼ同じ所にあります。さらにこの平坦地から「十王堂」と「鐘楼」の間の坂道を登れば、正面に「護摩岩屋」が見えてきます。
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護摩の窟内部
階段を登りきった護摩堂前で参道は左右に分かれます。

右に行けば「天神」「比丘尼谷」「東院旧跡」「権現社」へ
左に行けば「一正石塔」、「観経文」「三尊弥陀」のある九品浄土を経て、「本堂」に続きます。今は「六本杉_|はありませんが、「籠所」を今の薬師堂と考えれば、ほぼ同じ所に諸堂が建っていることになります。現在の弥谷寺の緒堂の空間配置は、この時には出来上がっていたことになります。

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弥谷寺磨崖仏の位置

元禄2年(1689)の『四国遍礼霊場記』から70年近く建った宝暦10年(1760)には、緒堂がさらに増え、境内が整えられていることが分かります。

  「讃州剣五山弥谷寺一山之図」刊行から9年後の「多度津公御領分寺社縁起」(明和6年(1769)の中の「讃州三野郡 剣五山弥谷寺故事譚」には、次のように記されています。
開基は行基で、当初「東ノ御堂亦伝東院」「多宝塔名中尊院」「両ノ御堂又伝西院」を中心伽藍として、「遍明院」「和光院」「青木坊」「其師坊」「納涼坊亦伝籠所」「功徳院」「弥之坊」、「谷之坊」「独古坊」「竜花坊「安養坊」「海印坊」の十二坊があった。それが天正年間に天霧城主香川氏の退城後に、兵火にり仏閣僧坊が灰儘に帰し、その後生駒氏の命を受け白峯寺の住持別名法印が弥谷寺を兼帯し、伽藍再興に東とりかかった。弥谷寺はその後も生駒氏、京極氏の庇護を受け、伽藍再興が進んだ。
 
当時の境内にある堂舎の建立者と年月日が次のように記されています。
大悲心院(本堂)一宇 享保十二未年、幹事宥雄法印
納涼坊   幹縁宥沢法印
十王堂  享保七壬寅十一月七日 宥雄法印代」
鐘楼  大和三壬戌年 幹営宥澤法印
奥院    岩窟也(求聞持窟)
前段(大師堂)延宝九年酉九月吉日幹事宥沢法印
鎮守社  貞享五辰九月吉日  幹造宥沢法印
青木堂   明和六年四月吉日   同人
与手院            幹営宥沢法印
寂光院   岩屋也(護摩窟)
前殿  明和元年五月吉日  幹事瑞応法印
止観院 延享三寅五月廿六日 瑞応法印代(三十三所)
弁財社 宝暦二年中九月令甲 幹営菩提林
天神社 同年         同人
愛宕社 明和六丑六月
泰山附君社  同五千九日吉  卓令事菩提林権律師
接待所  享保十巳施主宇野浄智宥雄法印代
中門  延宝九百六月吉日 卓全縁宥沢法印
とあり、着実に堂舎建立が進み、18世紀中葉までには境内の伽藍整備が終わったようです。特に宥沢の時代に、多くの堂宇が建立されたことが分かります。
次に『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800)を見てみましょう。

弥谷寺 四国遍礼図絵1800年

一番高いところにある①本堂から見ていきましょう。
挿図からは、本堂が片入母屋造で妻入りの建物であることが分かります。描く技術も格段に進歩しています。本堂から4つの石段を下った平坦部のほぼ中央部に④「護摩の窟」があり、③「弁天社」⑤「権現社」「天神社」の位置には変わりがありません。
弥谷寺 九品浄土1

 ここで気づくのが②阿弥陀三尊の下の南無阿弥陀仏の六字名号が小さくなっているような気がします。この「九品浄土」は中世の阿弥陀=浄土信仰の中心部であったのですが、真言密教観と弘法大師伝説の「流行」に押されて、その役割を終えようとしているようにも見えます。

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護摩堂

 「護摩の窟」の前の正面石段を下ると平坦部となり、正面に鐘楼、右手には「十王堂」と「観音堂」が並びます。十王堂は入母屋造り、観音堂は宝形造りのようです。その平坦部の端には「奥院大師堂」、「求聞持の窟」「茶堂」があり、以前と変わりません。

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一段高い所にある十王堂

 「茶堂」より石段を下ると右手に「独鈷坊古跡」があったようですが、この絵図には最初の平坦部に石塔2基が描かれ、次の平坦部には多角形の線が描かれている。今はここに「金剛拳菩薩」が立っています。
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金剛拳菩薩

「金剛拳菩薩」は、寛政3年(1791)から文化8年(1811)の間に造られたことが紀年銘から確認できます。ちょうどこの絵図が描かれたいた頃に建立中だったようです。多角形の線は、金剛拳菩薩の台座の部分のみの表現と研究者は考えているようです。
 
  「讃州剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10年(1760))と『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))を比較すると、「中之院」は無くなっていますが、境内の諸堂や配置には大きな変化はありません。
しかし、小さな変化が2点あるようです。
一点目は、境内参道の一部が石段になっていることです。
①「二王門」前、
②「独鈷坊古跡」から茶堂へ
③「十三堂」から「護摩の窟」さらに本堂への参道
が石段として表現されています。18世紀後半には金毘羅さんでも石段化が始められ、19世紀前半には全域の石段化が完了します。さらに石畳化や玉垣・灯籠整備へと進みます。弥谷寺の石段整備はそのような流れと合致します。
  2つ目は「法雲橋」から「茶堂」への参道の付け替えです。
弥谷寺 参道変遷
弥谷寺の参道変遷

「讃州剣五山弥谷寺一山之図」では、「法雲橋」を渡り、参道は磨崖五輪塔が描かれた岩の向こう側を通り、右に「大日」、左に「独鈷坊跡」見て、「茶堂」坂道を上るように描かれていました。
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潅頂川にかけられた現在の法雲橋
ところが『四国遍礼名所図会』では、「法雲橋」を渡り、参道は磨崖五輪塔が描かれた岩の手前を通り、「独鈷坊古跡」を左手に、若干上り右に「大日」を見て、「茶堂」への坂を上るように描かれています。この間に参道の変更があったようです。
 どうしてでしょうか。金毘羅さんの参道も、「戦略」的に何度か付け替えられています。それは、当時新しく造られた建造物やシンボルモニュメントを参拝者に印象づけようとする意図があったことは以前に見ました。
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金剛拳菩薩
そういう視点で、弥谷寺を見ると新たなシンボルといえば、金剛拳菩薩です。旧道では、完成したばかりの金剛拳菩薩が参道から視野に入ってきません。石段を登ってくる参拝者を上から慈悲の視線で金剛拳菩薩迎えるように参道が付け替えられたと私は考えています。
最後に幕末の、「讃州剣御山弥谷寺全図」を見ておきましょう。
この版木は弥谷寺に残されたもので裏面に天保十五年(1844)の墨書があり、製作年代が分かります。金毘羅さんの旭社完成し、玉垣や石畳などの周辺整備が進められ参拝者が爆発的に増えた時期です。それに、併せるように新たな絵図が制作され弥谷寺への参拝客の呼び込みを行ったことがうかがえます。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」

 この絵図を見ると弥谷寺境内は今までのように、「二王門」から始まります。しかし、ちがうのは「二王門」までの参道に次のような院房が並んで描かれています。

①「大門跡」「和光院跡」「安養院アト」「遍明院アト」「青木院跡」「功徳院跡」「龍花院跡」

 往時の境内が今よりもかなり広かったようです。これらの子院は中世には、念仏行者や山岳修験者として活動していた下級僧侶たちの拠点だったのかもしれません。それがいつの時代に衰退し、破棄されていったのでしょうか。考えられるのは金毘羅大権現のいろいろな宗教施設が別当金光院により統制・排除されていく動きや、白峰寺の一院化と同じ頃ではなかったのかと私はおぼろがながら考えています。何かしらの「政治的な力」が働いた結果だと思うのですが・・・。今はよく分かりません。
「大門跡」は柵で囲われており、「大門跡」と書かれた高札が設置されています。
また「大門跡」の外側には、 3間×4間の入母屋造りの建物、
②「功徳院跡」と書かれた部分には、 2間×2間の入母屋造りの建物が描かれています。これらの子院跡を抜けると十字路の交差点です。右は曼荼羅寺への道、左は西入口となります。この交差点から右に「穴薬師」「薬師院」、左に茅葺の建物を見て、二王門が迎えます。
 ③「二王門」は3間×3間の二層入母屋造りで、土塀を廻らし、かなり立派です。
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二天門(現仁王門)の上の参道横に立つ「船墓」

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船墓

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船墓(レーザー撮影)

「仁王門」を抜けると右手に「南無阿弥陀仏」の名号が描かれた④「船ハカ」(墓)があります。これも中世の弥谷寺が荒野の念仏聖(時宗)の活動拠点であったことを示すモニュメントのようです。
これを過ぎると「潅頂川」に⑤「法雲橋」が係っています。これもアーチ状で、欄干がある石橋で、かなり立派なものになっています。これも参拝者が喜びそうです。
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「法雲橋」を過ぎると、今までなかった⑦「丈六金佛(金剛拳菩薩)」が正面に現れます。
「天金佛」から坂道を上ると諸堂の立ち並ぶ平坦地になる。左手に「茶堂」、「本坊」、正面に「大師堂「獅子窟」があります。本堂へは、右に折れ左手に「大塔」「三十三所」「十王堂」を見ながら、右手「鐘楼」で、左に折れ、さらに坂道を上ります。坂道を上れば、正面に「護摩堂」があり、参道は左右に分岐します。
右に行けば「天神」「比丘尼谷」「東院堂アト」⑧「蔵王権現」へ、
左に行けば「納涼院」、⑨「前讃岐守生駒一正石塔」、⑩「九品浄土」を経て、「本堂」に至ります。今は「六本杉」はありませんが、「納涼院」を薬師堂とすれば、ほぼ同じ所に各お堂があることになります。金毘羅大権現のように、神仏分離で大きく変化したと云うこともありません。
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)と「讃州剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10年(1760))を比べてみましょう。
「中之院」はなくなっていますが「二天門」、「丈六金佛」、「大塔」、「経蔵」などあたらしいお堂やモニュメントが姿を見せ、さらに伽藍の整備が進んでいます。特に「法雲橋」「二天門」「丈六金佛」は、参拝者に喜ばれたことでしょう。それが評判となってさらなる参拝者を招き入れるという発展らせん階段を弥谷寺は上っていきます。
  ここにも金毘羅さんと同じように、惜しみなく資本投資を行い伽藍整備を進め参拝客を増やし続けるという経営戦略を見る思いがします。
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献


今回は、弥谷寺縁起には、どのように記されているのか見ていくことにします。
 弥谷寺の歴史を伝えるものは、江戸時代中期の元文(1737)年に寺が版木で印刷発行した「讃州纒御山涌谷寺略縁起」(以下、略縁起)しか残ってないようです。この略縁起は、八栗寺(牟礼町)の縁起と非常に似ていることが研究者からは指摘されています。
 その背景には、江戸時代前期に讃岐を訪れた浄厳の存在があるようです。彼は、讃岐各地の寺々で求めに応じて銘文や縁起を書いています。そのため寺の由来には「行基開祖、空海再建」というパターンが多くなります。弥谷寺の由来もこのパターンです。空海由縁の遺跡を訪れた浄厳の原稿をベースに、八栗寺や弥谷寺の縁起は書かれた可能性があるようです。

  略縁起を要約すると、次のようになります。
弥谷寺は、行基が東西の峯に各七間の梵宇を建て自ら造像の阿弥陀・釈迦仏を安置し、寺名を蓮華山八国寺と称した。それは、弥谷山からの眺望が周囲八つの国々を見渡せることに因んで名付けられた。
 次いで、略縁起は、空海が泉州槙尾山寺での修行のことを特記します。そして、空海が弥谷寺伽藍を再興し千手観音を本尊として剣五山千手院と改称した。
  ここからは次のようなことが分かります。
①弥谷寺は当初は、蓮華山八国寺と呼ばれていた
②空海が弥谷寺伽藍を再興し、千手観音を本尊として剣五山千手院と改称した。
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
⑧が鎮守堂(蔵王権現) ⑩九品浄土  ③ 仁王門

『略縁起』は、「蔵王権現」と弥谷寺の関連を次のように記します
①唐から帰朝した空海が自ら岩窟を穿って求聞持の秘法を行った求聞持窟=獅子窟のこと
②「五柄の利剣」が空から降り、金色の光の中から「金剛蔵王大神」が現われたこと
③大師に千手観音を造仏し、伽藍を再興するなら、 自らは鎮守の守護神となると蔵王権現が云ったこと
①は現在の大師堂の岩窟のことで、ここで空海は求聞持法を行ったとされるようです。②は弘法大師伝説の中に描かれる五柄の利剣が出てきます
1五柄の利剣

③そして、登場するのが守護神としての蔵王権現です。
①求聞持窟=獅子窟 ②五柄の利剣 ③蔵王権現
3つが弥谷寺の縁起の中核のようです。
弥谷寺 蔵王権現社
金毘羅参拝名所図会 弥谷寺の(蔵王)権現社

この蔵王権現のことは、寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年1689)には、
「大師登臨の時 蔵王権現示現し玉ひ、即鎮守とす。其像大師御作、御長七八尺、もとより畏る可しの形ちなり」

と、蔵王権現を鎮守とし、空海がその像を作ったとして大きさや形も記しています。

 蔵王権現とは、どんな姿なのでしょうか
『金峯山秘密伝』延元2年(1337)の中に、次のように由来が説明されています。
役小角が大峯の岩窟で守護仏を祈請するとまず釈迦如来、次いで千手観音、弥勒菩薩が現れたが小角は満足しない。最後に現れたのが蔵王権現で、小角はこれこそ自分に相応しい仏と感じて、金峯山の守護神としたという仏神です。

弥谷寺 吉野山蔵王権現

 その像容は、一面三眼二膏、青黒身、忿怒相で、頭部に三鈷冠を頂き、右手に剣印を結び、左手を腰に据え、左脚は磐石を踏み、右脚は空に構える姿勢です。
石鎚 蔵王権現
石鎚山頂に運び上げられる蔵王権現

蔵王権現は役行者や吉野山の山岳信仰と結びつけられ、全国の霊山に勧進されていきます。
石立山と呼ばれていた石鎚山の頂上にも、かつては蔵王権現が祀られていました。そして、四国各地に石鎚山信仰の修験者たちいたようです。この弥谷寺にもそのような行者(山伏)がいて、大きな力を山内で持っていたことがこの縁起からはうかがえます。
 弥谷寺に蔵王権現が祀られていたのなら、開祖である役行者(役小角)と共にその祀り手は修験・山伏ということになります。弥谷寺は、寂本が指摘しているように、第85番札所の五剣山観自在院八栗寺と同じ性格の寺院ということになりますが・・・。どうもそうとは云えないようです。

 弥谷寺に伝えられる「蔵王権現」とは、どんな姿なのでしょうか。
弥谷寺 深沙大将椅像

これが弥谷寺の鎮守堂に蔵王権現として祀られてきた像です。しかし、私たちが見慣れた蔵王権現の姿とは違います。「蔵王権現」とされてきたこの鬼神形像は、近年の旧三野町の調査では「深沙大将(じんじゃだいしょう」の侍坐形式木像とされています。
しかし、今回の調査報告書には、次のように述べられています。
作成時期については「穏やかな彫りから本像は、制作年代を平安時代中期 11世紀ころ」と推定します。その構造については、

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)
「頭体を一材から彫り出して頚部で割首とするものか、背面から体部と頭部に内材を施して背板状の材を当てているとみられる。腕は両肩から先を別材として寄せ、膝前は横一材として腹前に矧ぎ付けるようであり、ほぼ通例的な木寄せとみられるが三角材の使用は不明である。炎髪部から姿をあらわす蛇形は当初のものとみられるが本像に特徴的なものである。

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

 右耳から後方の地髪部には大きな修理が加えられており、書の形にも後の手が入るようである。首周りの燭骸の嬰塔は全て後補であり、ひとつ亡失している燭骸部の下にみえる体部材には彫出した痕跡は確認されない。また、深沙大将の図像に特有なものとされる腹部にあらわす童子面も本像にはみられず、かつて彫出あるいは添付をなされたようにはみられない。
 椅坐の形式は当初からのものとみられるが、深沙大将図像の特徴に上げられる象頭の袴をあらわす両足の膝頭部から下方の足先指にいたるまでは、体部に比して保存状態も良好であり胸部の彫りに比べるとやや硬く後補とみられること、
 さらに同様な蛇の巻き付く両腕部は、天衣の一部をあらわす左上腕部だけは当初の可能性があるものの、ほかは天衣とともに後補とみられる。
現状にみる体部表面の彩色も古色風に塗りなおされた可能性が高く、修補時に深沙大将像の図容として燭悽の理塔と象頭の袴などを調えた可能性を否定できない。像表面にみる胡粉下地を厚く整えた様子から推測すれば、一時期、かなり傷んだ状態にあったのではなかろうか。」
ここからは次のようなことが分かります。

弥谷寺 高野山深沙大将
高野山の深沙大将
①深沙大将に特有な腹部の童子面がない
②後世の修理の際に、深沙大将像の特徴である燭悽の理塔と象頭の袴などを後に調えた可能性
③首周りの燭骸の嬰塔は全て後補
④頭髪部の「七匹の蛇」も、当初は蛇に関わる夜叉神像が、後に深沙大将に似せられた可能性がある
つまり、この像は深沙大将でもないとこの調査書は指摘しています。
蔵王権現でも深沙大将でもないとすれば、この像のもともとの姿は何だったのでしょうか。

弥谷寺 蛇王権現

その答えは、鎮守堂に掛けられた扁額にあるようです。
そこには「蛇王大権現」と記されているのです。「蛇王大権現」とすると頭に載せた「蛇は龍」とも読み替えることができます。どうやらこの像は「蛇王大権現=龍冠の夜叉神」として作られ、いつの時代かに「深沙大将像」とされ、山岳信仰や石鎚信仰の山伏たちによって「蔵王権現」へと「変身」させられてきたようです。蛇王権現と蔵王権現の言葉の響きもよく似ています。
 
 それではこの像が「蛇王大権現=龍冠の夜叉神」とすると、弥谷寺にあることをどう考えればいいのでしょうか
  上田さち子氏は、本来山に棲む龍神が寿命の神であり、仏教と習合することで蛇王菩薩となったのではないかと次のように述べます。
「寿命の神である夜叉神は山に棲み、あるいは自力で天に昇る。彼らは、仏教の四天王をおそれ、僧形の蔵王菩薩に使われるようすを見れば、土俗的な存在といえる。生命を司る土俗の神が棲むゆえに、高山は他界となり、極楽往生を願う聖が山に登るようになったと私は考える。」

 水分神として山に棲むと考えられたのが龍(蛇)形の夜叉神です
この神は、生活になくてはならない水を供給する一方で、自然災害を発生させる危険な側面を持ちます。それと同時に人間の生命や寿命を司る神でした。それが仏と習合することで彼らが棲む山が浄土化し、大勢の聖や行人を惹きつけていったとされます。蛇王権現は、平安時代のこのような状況下で産み出された仏神のようです。
  この仏神の形成を明らかにすることは、柳田民俗学の「古より死者の霊魂は里に程近い山に籠る」という祖霊観への疑義にもなります。

蔵王権現と蛇王権現の目指した違いを見ておきます。
①蔵王権現は、忿怒の降魔神として、修行としては山中科檄を行い、即身成仏を目指した。
②蛇王権現は、山中浄土観を保持し、無言断食や一心念仏による籠行(こもりぎょう)、磨崖仏や磨崖五輪を刻み、民衆の葬儀や死者供養などにも積極的に関わっていきます。
②を信じた念仏行は、後の法然や親鸞の絶対的な阿弥陀如来を前提とした専修念仏とは少し違います。苦行によって直接的に浄土に迫ろうとする自力の回称念仏でした。しかし、彼らもまた「修験」であることに変わりはありません。
 役小角系の修験を「陽」の修験とするなら、彼らは「陰」の修験の系譜に位置づけられる念仏系行人集団だと研究者は考えています。そうした集団の信仰の一端を示すのが、弥谷寺の「蛇王権現」のようです。これは金剛蔵王権現に対して、胎蔵蔵王権現の姿であるのかもしれません。
 しかし、この系譜は鎌倉新仏教興隆の波に飲まれ、真言宗の大師信仰に吸収されてしまいます。歴史の表に立つことはなかったのです。
 蔵王権現として鎮守堂に祀られてきた仏像を、蛇王権現として読み替えることで、弥谷寺を拠点とした念仏行者たちの活動が少し見えてきたような気がします。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」です。

  前回は民俗学が標榜した
「弥谷寺=古代からの死霊が集まる山=イヤダニマイリ」説

に対して、歴史学から疑義が出されていること。そして、弥谷寺の祖霊信仰は中世の宗教勢力によって形作られたという説が出されたことを見てきました。それでは、祖霊信仰形成の仕掛け人とは、どんな人たちだったのか、またどんな組織を持っていたのかを見ていくことにします。
98歳の義父とダンナと3人で行く、、(今回は悩んだ末) ~~ 四国八十八 ...
弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏

承応2年(1653)に弥谷寺を訪れた澄禅は
「山中石面ハーツモ不残仏像ヲ切付玉ヘリ」

と、断崖一面に仏像が彫られていたことを報告しています。
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弥谷寺の磨崖仏分布地図

その30年後の元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』(寂本)には次のように記されています。

「此あたり岩ほに阿字を彫、五輪塔、弥陀三尊等あり、見る人心目を驚かさずといふ事なし。此山惣して目の接る物、足のふむ所、皆仏像にあらずと言事なし。故に仏谷と号し、又は仏山といふなる。」

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磨崖に彫られたキリク文字

意訳しておくと
この当たりの岩には南無阿弥陀仏の六字名号が至る所に彫りつけられ、その中に五輪塔や弥陀三尊もある。これを見る人の目と心を驚かせる。この山全体が目に触れる至る所に仏像が掘られ、足の踏み場もないほど仏像の姿がある。故に「仏谷」、あるいは「仏山」と呼ばれる。

ここからは江戸時代の初めには、この寺にはおびただしい磨崖仏、石仏、石塔で埋め尽くされていたことが分かります。それは、中世を通じて掘り続けられた「成果」なのかもしれません。この磨崖・石仏群こそが弥谷信仰を担った念仏阿弥陀宗教者の「痕跡」だと研究者は考えているようです。
弥谷寺 九品浄土1
金毘羅参拝名所図会 弥谷寺九品浄土の六号名字

元文2年(1738)の弥谷寺の智等法印の「五剣御山爾谷寺略縁起」には、本堂下の阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯が「九品の浄土」と呼ばれてきたと記します。弥谷寺の水場の近くの岩壁に南無阿弥陀仏の名号が九つ彫られ、九品の意味があるというのです。さらに、その下部に

門々不同八万四為滅無明果業因利剣即是阿弥陀一称正念罪皆除

と、唐の善導大師の謁が彫られていたと記します。しかし、今はこの文字を見つけ出せないほど、岩壁は摩耗しています。
P1120849
 阿弥陀三尊の横には「南無阿弥陀仏」の名号が彫られていました。今は摩耗して見えません。しかし、「心」で見ていると南無阿弥陀仏が浮かび上がってくるような気がします。かすかに痕跡が見えています。
弥谷寺 九品の阿弥陀
九品阿弥陀来迎図

 「九品の弥陀」(くぼんのみだ)とは、九体の阿弥陀如来のことです。この阿弥陀たちは、往生人を極楽浄土へ迎えてくれる仏たちで、最上の善行を積んだものから、極悪無道のものに至るまで、九通りに姿をかえて迎えに来てくれるという世界観がありました。
弥谷寺 九品往生jpg

そのため、臼杵の石仏のように、この空間には印相を変えた9つの阿弥陀仏の代わりに南無阿弥陀仏が9つ掘られていたようです。

弥谷寺 九品来迎図jpg

さらに『多度津公御領分寺社縁起』(明和6(1769年)には、次のように記されています。
「東院本尊撥遣釈迦、西院本尊引摂阿弥陀

東院の本尊は釈迦如来で、西院の本尊は阿弥陀であったというのです。阿弥陀信仰が強かったことがうかがえます。また本堂下の墓石群の中には、次のように刻まれたものがあります。
「延宝四」丙辰天 八月口口日大見村竹田念仏講中二世安楽也」

ここからは弥谷寺の里の大見村の竹田には念仏講が組織されていたことが分かります。これも阿弥陀=浄土信仰と念仏聖の活動を示すものです。この石碑とよく似たものが白方の仏母院(寛文13年(1773)年にあります。念仏講が建てたもので、白方と弥谷寺が念仏聖たちによって結びつけられていたことがうかがえます。

阿弥陀信仰を担い、このような空間を弥谷寺に作り上げていった宗教者たちとは、どんな宗教者たちだったのでしょうか?
平安~鎌倉時代の寺院組織は、どんな階層性があったのでしょうか。
お寺というと住職さんがひとりいて、すべてを取り仕切っている姿を私は思い浮かべていました。しかし、古代や中世のお寺は現在のお寺とはちがいます。まず、東大寺や国分寺をイメージすると分かるように、ここにいる僧侶たちは厳しい試験を通過した上級国家公務員です。中には貴族たちの師弟も数多く含まれています。同時に寺院は、大学・病院・図書館・研究施設・出版局などを兼ねた大施設でもありました。そこには、僧侶を教授に例えるなら数多くの「専門職員」がいました。彼らなくしては、寺院の運営は成り立たなかったのです。そのため畿内の大寺社では、次のような厳しい階層性がありました。
①統率者として別当、座主、検校長者などが位置し、
②寺務管理の役職として三綱・(上座・寺主・都維那(ついな)があり、
③その下に政所や公天所といった寺務局が置かれた。
④寺院に属する上級僧侶全体は、大衆(だいしゅう)、あるいは衆徒(しゅうと)と呼ばれた。

彼らの役割は「学(学解・学問)と行(修行・禅行)」で次のようにふたつに分かれていました。
①学に携わる場合は学衆・学侶(がくりょう)・学生(がくしょう)
②行に携わる場合は行者・禅衆(ぜんしゅう)・行人(ぎょうにん)
  中世の「四国辺路」を考える際に、重要となるのが行人のようです。行人を辞書で調べると?
①修行僧。行者。
②延暦寺で、寺の雑役をする人。堂衆。
③高野山で雑役に従事した下級の僧。中世以後、学侶・聖(ひじり)とともに高野三方(こうやさんかた)の一として真言密教修学のかたわら、大峰・葛城(かつらぎ)などの山々で修験の行を行なった。
④諸方を巡り経文を唱えるなどして金品を請う僧。
⑥江戸時代、18世紀後半に白衣に白股引と手甲を着け、白木綿で頭を包み、菅笠で鉦鼓(しょうこ)をたたいて遊行し、銭などを乞うた者。〔随筆・只今御笑草(1812)〕
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。
弥谷寺 大衆

しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいたようです。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。
中世の寺院組織を見ていると、とまどうことがよくあります
例えば「行人」という言葉が出てくると、
①衆徒に属する中核組織の行人(=現在の大学の教授層)なのか、
②寺院末端の堂社に属する行人なのか、
私には区別できません。大まかに「…寺」という組織の中に、「学」と「行」という二本の柱があったとしておきましょう。
さて、この組織図を讃岐の中世寺院である善通寺に当てはめて考えて見ます。
善通寺も本末関係で言えば、京都の東寺の末寺ですが、その経済力や規模から見て東寺のような組織を持っていたとは考えられません。が、基本的には共通点があったでしょう。当時の文書には、寺領の共通性からなのか、曼荼羅・善通寺は一体として捉えられています。その曼荼羅寺のエリアには当然、出釈迦寺及び奥之院も含まれ、組織的には善通寺として統括されていたようです。
 『流浪記』で道範は、寛元元年(1243)九月十五日に宇足津から善通寺に移ってきます。
その6日後には「大師の御行道所」を訪ねています。現在の出釈迦寺の奥の院の行場で、大師が捨身行を行ったと伝えられる聖地です。「世坂」と呼ばれる「行道」を人に助けられて登り、
「五岳の中岳の我拝師山の西の山由(みね)」の「行道所」

に立っています。ここは地元では「禅定」とも呼ばれていている聖地です。そこに自分に身を置いてみたいという願いが強かったことが分かります。後に、西行もここで修行を行っています。
 我拝師の捨身け岳は、弘法大師伝説の中でも一級の聖地でした。そのため善通寺の「行者・禅衆・行人」方の拠点でもあったようです。ちなみに、現在の出釈迦寺は近世になって曼荼羅寺から独立して出来た新しいお寺です。それまでは、霊山我拝師山の遙拝所であったようです。空海が捨身を行ったと伝えられる「行道所」(行場)を、中世に管理していたのは曼荼羅寺になります。そしてこの寺は、善通寺の「行者」の拠点センターの機能を持っていたことになります。

「善通寺文書」の中に、建治2年(1276)の蒙古人誅伐の祈祷に関する文書があります。
幕府の求めに応じて、各地の寺院で行われた祈祷ですが、そこには毎日三回行う祈祷の分担が次のように記されています。
①「五檀法」(調伏護摩)」は「御影堂衆」と「金堂衆」と「法花堂衆」が担い
②大般若経の不退転読は八幡社に関わつた「供僧分」が行い
③仁王経の長日読誦は「職衆分」
④薬師経・観音経は「交衆分」
⑤尊勝陀羅尼・千手陀羅尼は「行人」が担う
とされています。ここからは、祈祷が単にエリートの学僧たちだけで行われていたのではないことが分かります。面白いのは、護摩祈祷を行える僧侶が階層性のランクが高く、それも管理する堂毎に分類されていることです。各堂が現在の大学の学部・学科の分類のように私には見えてきます。やはり今と同じように、堂同士の反目や派閥争いがあったのかもしれません。
 それより以下の僧侶はランクに応じた聖教が割り当てられています。まさにお寺は階層社会です。目に見える形で、所属と自分の階層が分かるシステムです。
 ③の職衆(しきしゅう・色衆)は、法会で梵唄や散華など担う僧侶です。④の交衆(こうしゅう)が学僧になるようです。ここにも、学と行、神と仏の軸が交差する組織のありようが見えてくると研究者は考えているようです。
南海流浪記- Google Books
 
讃岐に流刑となった道範です。しかし、高野山で高位にあった彼をを善通寺やその周囲の僧侶たちが放って置かなかったようです。
道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えたことが考えられます。
道範が著した、宝治2年(1248)道範が著した『行法肝葉抄』の下巻の奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。
書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
  ここには「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されています。上人とは高僧に対する尊称です。ここからは次のような疑問が沸いてきます。
①どうして個人名ではなく、弥谷の上人という言い方が使われているのか
②弥谷寺ではなく地名としての弥谷しか記されていないのか
③上人は代表者なのか。また、多数の宗教者なのか。
④だれが学僧道範に修行法のテキスト執筆を依頼したのか、
ここにも中世寺院組織を当てはめてみましょう。
 注目するのは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちの存在です。彼らを弥谷ノ上人と記しているようです。「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることに再度注意します。そうすると、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったかもしれないとも思えてきます。この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺ー曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」で行場として、そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたとも考えられます。

  弥谷ノ上人が道範に『行法肝葉抄』を依頼した背景は?
 仏道念仏修行に情熱を注いだ別所の行人集団が、道範に対して、彼らが勧進で得た資材で行法の注釈書を依頼します。敬意をもってそれを受けた道範は老いた身で、しかも配流先の身の上で参照すべき書籍等のない中で専ら記憶によって要点を記した『行法肝葉抄』を完成させます。この奥書に書かれた「弥谷ノ上人」とは、そんな背景がしめされているようです。『流浪記』で道範は、 こうしたタイプの宗教者と関係を持っていたことがうかがえます。

 道範と阿弥陀信仰の僧侶との交流がうかがえる記述が『南海流浪記』の中にはもうひとつあります
宝治2年(1248)11月17日に、まんのう町(旧仲南町)春日に位置する「尾背寺」(廃寺)を訪ね、翌日18日、善通寺への帰途、大麻山の麓にあった「称名院」に立ち寄っています。
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」

意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
  「九の草の庵りと 見しほどに やがて蓮の台となりけり」
後日、念々房からの返歌が5首贈られてきます。その最後の歌が
「君がたのむ 寺の音の 聖りこそ 此山里に 住家じめけれ」

です。このやりとりの中に出てくる
「九品(くほん)の庵室・持仏堂・九の草の庵り・蓮の台」

には、称名院の性格がうかがえます。称名院の院主念々房は、浄土系の念仏聖だったようです。
   江戸時代の『古老伝旧記』には、称名院のことが次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 地元では、阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。念々房は、念仏僧として善通寺周辺の行場で修行しながら、象頭山の滝寺の下の氏神様の庵に住み着いていたのかもしれません。善通寺周辺には、このような「別所」がいくつもあったことが想像できます。そこに住み着いた僧侶と道範は、歌を交換し交流しています。こんな念仏僧が善通寺の周辺の行場には、何人もいたことがうかがえます。

こんな念仏僧を「阿弥陀聖、市聖」ともよばれる空也(903-972年)と研究者はダブらせます。
弥谷寺 空也

空也は、京都の六波羅蜜寺の彫像が有名です。首から鉦を下げ、撞木と鹿角の付杖を持ち、草軽履きで歩く姿で、空いた口元から「南無阿弥陀仏」の六字名号が六体の化仏として表現されています。平安末期の『梁塵秘抄』には
「聖の好むもの 木の節 鹿角 鹿の皮 蓑笠 錫杖 木簗子 火打笥 岩屋の苔の衣」

と歌われた聖の典型的な姿が現されています。
彼こそ「止の聖」から都市に下り、「市の聖」に転換した象徴的人物です。彼が最後を迎えた六波羅蜜寺は、元は西光寺と呼ばれました。その場所は。鳥辺野と呼ばれる葬地であり、京都の中では最もあの世に近い場所でした。空也は、遊行宗教者で若い頃、阿波と土佐の間の海中の島で苦行したという伝説があります。

愛媛県の第79番札所浄土寺には、行基が天徳年間(957-961)に滞在し、布教活動を行った形跡があるといいます。本堂の厨子には、六波羅蜜寺と同等の空也像があり、同じ頃に作られたもので国の重要文化財にも指定されています。浄土寺は、本来は法相宗で、隆盛期には66房があったれ、念仏聖や行人の活動拠点であったことがうかがえます。
 残念ながら空也と弥谷寺を結ぶ直接の関係はありません。しかし、弥谷にも空也と同じような念仏聖・行人集団がいて、修行をはじめいろいろな活動を行っていたことは考えられます。彼らが「別所の行人集団」であったとすれば、寄人として周辺地域の他のお寺にに寄宿することもあったかもしれません。

行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりませんでした。そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。
 そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。そして、弥谷が浄土であることを伝えて行きます。こうして、弥谷寺は浄土空間として整備されていくことになります。それが「九品の浄土」とよばれてきた、現在の阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯なのではないでしょうか。

  浄土信仰が展開していくと、在家の庶民が浄土に往生する保証を得ようとすれば、霊場とされる寺院の過去帳に名前を残し、確実に「結縁」することが求められるようになります。

弥谷寺には、日牌・月牌と称される永代供養のやり方が伝わります。今回の調査報告書には、江戸時代の日牌・月牌を忌日別にまとめた「忌日別過去帳」の分析が行われています。ここには法名・没年・俗名・施主の住所・施主名などが記されています。寛文(1661-73)年間から始まり、幕末の慶応年間(1865-68)で終わっています。1冊で約150人、全部で述べ4500人が記されています。その施主の住所は

「中・西讃地方の三野郡・多度郡・那珂郡・鵜足郡・豊田郡・阿野郡・塩飽諸島の村落名が中心であり、いわゆる東讃地方はほとんどみられない」

と報告書は述べます。これが、弥谷信仰のエリアだと研究者は考えているようです。そして、浄土信仰を担った弥谷の聖・行人集団の活動範囲でもあるようです。中でも、死後まもなくして「弥谷参り」をする習俗は、比較的弥谷に近い地域に残った、永代供養以前の形式のようです。
研究者は最後に次のように指摘します。
  どちらにしても、歴史的に先行するのは中世の聖・行人集団の「浄土信仰」である。そうした宗教者の活動を考慮することなく、民衆から自然発生的に成立した死霊・祖霊信仰から説明しようとした所に民俗学の問題点があったのではなかろうか。

中世の弥谷寺を中心に阿弥陀信仰=浄土観を広めたのは、念仏行者と云われる下級の僧侶たちだったようです。
彼らは弥谷寺だけでなく善通寺周辺の行場に拠点(別所)を置き、民衆に浄土信仰を広めると同時に、聖地弥谷寺への巡礼を誘引したのかもしれません。それが、中讃の「7ヶ所詣り」として残っていると考えることも出来そうです。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

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阿弥陀三尊の磨崖仏(弥谷寺本堂下)

四国霊場第71番札所の弥谷寺は、死霊が赴く「イヤダニマヰリ」の習俗が残る寺として紹介されてきました。昭和の時代に弥谷寺を紹介した記事には、どれも死霊が生者に背負われて弥谷に参る様子が描かれ、NHKの新日本紀行にも取り上げられていた記憶があります。私にとっては
「弥谷寺=死霊の集まる山=イヤダニマヰリ(詣り)」

という図式が刷り込まれていました。
 ところが最近の弥谷寺を紹介した記事には、「イヤダニマヰリ」に触れたものが殆ど見られません。これも「流行」なのかなと思っていると、どうもそうではないようです。「イヤダニマヰリ」そのものの立場が揺らいでいるようです。

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イヤダニマイリをめぐって、何が問題になっているのかを見てみることにしましょう。
テキストは「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」です。
  柳田民俗学は
「死者の霊魂は里に程近い山に籠る」
という祖霊観を掲げています。
このテーゼを証明するための数多くの民俗学的な調査が各地で行われてきました。そのような中で戦後の1950年代に、死霊の集まる山=「イヤダニマヰリ」として中央学界に紹介したのが地元、多度津町の民俗学者、武田明氏です。この研究は、柳田民俗学の死霊・祖霊観を立証する例として評価されるようになります。

Amazon.co.jp: 日本人の死霊観―四国民俗誌: 武田明: 本
  1999年刊行の『日本民俗大辞典』には「「イヤダニマヰリ」として、次のように解説されています。
「香川県西部に行なわれる、死者の霊を弥谷山に送って行く習俗。弥谷山は香川県三豊郡三野町と仲多度郡多度津町にまたがる標高382メートルの山で、300メートル付近に四国八十八ヵ所の第71番札所、剣五山弥谷寺(真言宗)がある。この山は香川県西部、ことに三豊郡・仲多度郡・丸亀市およびそれに属する島嶼部一帯で死者の行く山と考えられており、葬送儀礼の一環として弥谷参りが行なわれた。
 特に近年まで盛んだったのは荘内半島(三豊郡詫間町)である。同地の例では、葬式の翌日か死後三日目または七日目に、血縁の濃い者が偶数でまずサンマイ(埋め墓)へ行き、『弥谷へ参るぞ』と声をかけて一人が死者を背負う格好をして、数キロから十数キロを歩いて弥谷寺へ参る。境内の水場で戒名を書いた経木に水をかけて供養し、遺髪と野位牌をお墓谷の洞穴へ、着物を寺に納めて、最後は山門下の茶店で会食してあとを振り向かずに帰る。この間に喪家でヒッコロガシと呼ぶ竹製四つ足の棚を墓前につくり、弥谷参りから帰って来た者が鎌を逆手にもってこれを倒すという詫間町生里などの集落もある。
 山中を死者の行く他界と考え、登山し死者供養を行う例は各地にあるが、死亡後まもない時期に死霊を山まで送る儀礼を実修するところに、この習俗の特色がある。近年は弥谷寺で拝んでもらい、再び死者を負うてサンマイに連れ帰るとするところも多く、弥谷寺ではなく近くの菩提寺ですます習俗も広まっている。なお、イヤダニやイヤを冠した地名(イヤガタニ、イヤノタニ、イヤンダニ、イヤガタキ、イヤヤマなど)は古い葬地と考えられ、弥谷山にもその痕跡がみられる。」
弥谷寺が祖霊参りの山として定着したかのような中で、「異議あり」と名乗りを上げる研究者が出てきます。
日本民俗学 第233号 Bulletin of the Folklore Society of Japan NIHON ...

2003年『日本民俗学』誌上に発表された森正人の研究ノートです。
森氏は、「イヤダニマイリ」の習俗がこれだけきちんと分かるのなら、どうして今までの研究書は触れてこなかったのかという疑問から始めます。確かに戦前の『香川縣史第二版』(1909年)や中山城山の『國諄 全讃史』(1937年)、また弥谷寺の地元、三豊郡大見村の『大見村史』(1917年)には、「イヤダニマイリ」の記述は何も載せられていません。
 その理由を、それまでは地元ではなかったものを「死霊の集まる山」にアレンジして発表したからだと、次のように指摘します。

「この習俗は香川県の民俗学者である武田明が発見し、民俗学界にその存在を発表したから」

 そして、武田氏の民俗学者としての成立過程、研究史、調査記録、中央学界との関わりと地方学会(香川民俗学会)における権威化、関係者の証言、さらに現地調査まで含めて詳細に検討していきます。その結果として、弥谷に参る習俗の存在は認めるものの「イヤダニマイリ」という民俗概念はなかったと結論づけます。
  そして、柳田民俗学の祖霊観を実証するために、様々なデータが組み合わされた作為的な研究であると指摘します。これは弥谷参りだけでなく、他の事例も含めた民俗学全体の研究方法への批判も含んでいました。
日本村落信仰論( 赤田 光男 著) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の ...

このような批判の上に、新たな視点から弥谷参りに取り組んだのが赤田光男氏です。
もともと、武田氏の弥谷参りの研究は両墓制との関連が重要ポイントでした。両墓制とは、
「死体を埋葬する墓地とは別の場所に、石塔を建てる墓地を設ける墓制」

のことで、一般に前者を「埋め墓」、後者を「詣り墓」と呼び、弥谷参りがみられる荘内半島の生里、積、大浜などの集落、仁尾町、高見島、志々島、栗島といった島嶼部一帯に見られます。この地域では、埋め墓を「サンマイ」、詣り墓を「ラントウ」と呼びますが、両墓制が強く残る地域でした。
  武田説を、簡潔にまとめておくと次のようになります。
古来、この地域一帯の村々では「埋め墓」しかなく、霊魂祭祀の場が弥谷山であったのであり、その祭祀行為の残存が「弥谷参り」ではなかったか。そしてその後、弥谷山信仰が衰えていくに連れて村内に「詣り墓」が形成されていったのではないか
 
これに対して、赤田光男は
「弥谷山のすぐ下の大門、大見あたりであればこのことがいえるかもしれないが、両墓制地帯の荘内半島や粟島、志々島のような離れた所が、古くから弥谷山を唯一の霊魂祭祀場としていたか疑問が多い」

としてます。そして、荘内半島の箱集落(約225戸)について平成3年(1991)に両墓制と弥谷参りを中心にした全戸調査を行います。その結果、次のような事を明らかにします。
①初七日に死霊を弥谷山に連れて行くことを「オヤママイリ」、永代経の時(旧2月13から15日)に弥谷山に行くことを「イヤダニマイリ」と呼んで区別していること、
②オヤママイリ(弥谷参り)については、詣り墓が設けられている村内の菩提寺(香蔵寺)の勧めもあって昭和25,6年(1950,1)頃、廃止され、その後は香蔵寺がオヤママイリの対象となった
弥谷寺 九品浄土1
弥谷寺の九品浄土に彫られた南無阿弥陀仏

 一方で、武田説には欠けていた弥谷寺の歴史的研究も進めます。そして境内の祭祀場や宗教遺跡の検討も進め、中世以来弥谷寺を崇敬し保護してきた戦国時代の領主、香川氏や生駒氏、その後の山崎氏との関わりも考察していきます。
結局、荘内半島・箱集落の霊魂祭祀の場の変遷は、
①原始古代においては紫雲出山ないし家の盆正月に臨時に作られる霊棚
②中世においては、浦島太郎の墓伝説をともなう惣供養碑的残欠五輪塔、さらに香蔵寺、弥谷山
③近世においてはラントウ内の家型石厨子や詣墓石碑
④明治以降においてはサンマイのオガミバカ(拝墓)
の4段階を経ていることを明らかにします。
 この赤田説では、弥谷山は「中世」に霊魂祭祀の場として登場してきたことになります。その背景を次のように指摘します。

「香川氏は天霧山に貞治元年(1362)頃に城を築き、またこの頃に弥谷寺の檀越となり、山内に一族の墓地を作って菩提寺とし、弥谷山信仰を高め、そのことが庶民のイヤダニマイリを拡大、助長したと推定される」

ここには南北朝時代以後に讃岐守護代として天霧城を拠点に勢力を野伸ばした香川氏と関係を持ち、その菩提寺となることによって弥谷寺は寺勢を伸ばしたと、在地勢力との関係を重視します。
以上から赤田説をまとめると
①弥谷参りと両墓制は、分離して取り扱うべきである
②弥谷参りという習俗の背後に、天霧領主・香川氏の影響力があった
つまり、武田氏の示したように弥谷寺詣りは古代からの祖先神祀りに、仏教が後からやって来て組織化されたものではなく、弥谷寺が中世に作り出したものであるとします。
ここまで来ると、次の射程に入ってくるのが「死霊、さらにそれが浄化された祖霊は、里近くの山に籠る」という柳田民俗学の命題そのものです。このテーゼは、柳田國男が戦後直後(1946年)に「先祖の話」で定式化したものです。
柳田國男著「新訂 先祖の話」

これに対して歴史学者の中には
「定式ではなく、仮説として捉えなおし、再考すべきだ」

という考えも出てきているようです。
 例えば、赤田氏は次のように述べています。
「身体から離脱した霊魂が、身体が朽ちてもなおどこかに住み続け、時々わが家を訪れて子孫の生活を守護するという考えがまさに祖霊信仰の根幹をなすものであり、そうした宗教意識がいつ頃発生したのか明確な答えは今のところない。」

控えめな指摘ですが、ここには柳田民俗学の祖霊信仰が古代に遡るという命題への疑義がうかがえます。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」

佐藤弘夫は、この問題に正面から答えようとして、次のように指摘します
「柳田國男が論じ、多くの研究者が祖述してきた山に宿る祖霊のイメージは、けっして古代以来の日本の伝統的な観念ではない。人々が絶対者による救済を確信できなくなり、死者が他界に旅立たなくなった近世以降(17世紀~)に、初めて形成される思想だった」

 山に祖霊が宿るというのは古代以来のものではないと、柳田民俗学への疑義をはっきと打ち出した上で、それが近世以降の歴史的なものであると主張します。
 佐藤氏の到達した地点からは、次の新たな課題が見えてきます。
弥谷寺の祖霊信仰が古代まで遡るものでないとすれば、それでは中世の弥谷信仰とは何であったのかという疑問です。
この疑問に応えようと現在の研究者は、調査研究を続けているようです。
今後の弥谷寺研究の課題の方向性を探ると次のようになるようです。
①中世に祖霊信仰を広げた宗教勢力とはなんであったのか。
②その宗教者たちと弥谷寺の関係は、どうであったのか
③どのような過程を経て、祖霊信仰の霊山から真言密教の霊場へと弥谷寺は変身をとげたのか
 ここには、武田氏によって戦後華々しく打ち出された古代以来の祖霊信仰の霊山としての弥谷さんの姿はないようです。ひとつの仮説が
研究によって批判・検証され克服されていく姿がここにはあります。
それが歴史学の発展につながるようです。

参考文献テキスト
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
関連記事

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
③仁王門 ⑩九品浄土
承応2年(1653)、澄禅は弥谷寺を訪れ、境内の様子を「四国遍路日記」に次のように書きとどめています。
剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切玉フ (後略)

意訳しておきましょう
剣五山千手院(弥谷寺)は、坂の登口に仁王門があり、ここから少し上がった石面に仏像や五輪塔が数知れず彫りつけられている。自然石を掘った階段を上って寺の庭に上がっていく。寺は南向きで持仏堂は西向きで、岩穴に差し掛かって建っている。奥の穴は九尺、高さは人の頭が当たらないくらいで、非常に強固に作られている。仏壇の一間奥に四尺ほど彫り込んで、五つの如来を掘り出している。中尊大師の木造の左右には、藤新太夫夫婦(空海の父母)を石像で切り出している。

ここからは持仏堂に「空海=多度津白方生誕説」で、空海の父母とされる藤新太夫夫婦の石像が安置されていたことが分かります。この寺では、「空海=多度津白方生誕説」を流布していたようです。
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多度津白方屏風ヶ浦 鎮守の森は熊手八幡神社

弥谷寺の参拝を終えた、澄禅は天霧山を越えて多度津の屏風ヶ浦に下って行きます。白方は、弥谷寺の奥社で海の修行場(補陀洛渡海)であったと伝えられます。そこで、次のように記します。

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此浦ハ白砂汗々タルニー群ノ松原在り、其中二御影堂在り、寺ハ海岸寺卜云。門ノ外に産ノ宮トテ石ノ社在、洲崎に産湯ヲ引セ申タル盥トテ外は方二内ハ丸切タル石ノ盥在。波打ギワニ御年少テオサナ遊ビシ玉シ所在。(中略)
夫ヨリ五町斗往テ藤新大夫ノ住シ三角屋敷在、是大師御誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲ八幡山三角寺仏母院卜云。(後略)
意訳すると
この白方の浦は、白砂敷き詰められたような上に松林が続き、その中に御影堂が建つ。この寺を海岸寺と云う。門の外には、産ノ宮として石の社がある。(空海出生の際に)の産湯を使ったという盥(たらい)は、外側は方形で、内側は遠景の石の盥であった。白方の波打際は、空海が年少の時によく遊んだと伝えられている。(中略)
それより五町(500m)いくと藤新大夫が住んでいた三角屋敷がある。ここが弘法大師誕生地であり、御影堂がある。童形像は、十歳の時の姿だと云う。この寺を八幡山三角寺仏母院という。(後略)
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と記しています。ここには、白方屏風ヶ浦には弘法大師が産湯をつかった盥や幼少期の大師が遊んだという海岸寺があり、さらに近くの三角寺仏母院が藤新大夫の屋敷で、そこが大師の誕生地であるというのです。
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澄禅が弥谷寺や海岸寺を訪れた17世紀半ばには
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説

が、この地域で流布されていたことが分かります。

 一方、善通寺は誕生院が空海の生誕地で、父は佐伯氏、母は阿刀氏の女としてきました。
善通寺の存在証明のひとつが「空海=善通寺誕生院」生誕説です。それに真っ向から挑戦するかのような異説が、目の前の白方や弥谷寺で流布されていたことになります。そして、日記の内容からみて、澄禅自身も真面目に、そのことを信じていたように思えます。

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仏母院

 「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説は、いつころから誰によって、ひろめられていたのでしょうか。
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を説く弘法大師伝は、次の3つです。
1、『弘法大師空海根本縁起』(個人蔵)
2、説経『苅萱』「高野巻」
3、版本『奉弘法大師御伝記』(善通寺蔵)
この内、もっともよく知られているのが『説経苅萱』「高野巻」で、内容は次の通りです。
弘法大師の母御と申は、此の国の人にてましまさず、国を申さば大唐本地の帝の御娘なるが、余なる帝に御祝言あるが、三国一の悪女とあつて、父御の方へお送りある。本地の帝きこしめし、空船に作り籠め、西の海にぞお流しある。日本を指いて流れ寄り、爰に四国讃岐の国、白方屏風が浦、とうしん太夫と申す釣人が、唐と日本の潮境、ちくらが沖と申すにて、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女なり。とうしん太夫が養子におなりあつたと申、又は下の下女にお使ひあつたと申、御名をばあこう御前と申すなり。
奇想天外な話で、修験者の山伏が語りそうな内容ですが意訳すると
弘法大師の母上は、実はこの国人ではありません。唐の皇帝の娘に当たる人なのです。一度は結婚しますが「三国一の悪女」と評されて、父の皇帝の下へ送り返されます。父はこれを知り、空船を作って娘を載せて、西の海(東?)に流しました。船は日本を指して流れ寄り、四国讃岐の国、白方屏風が浦に漂着します。それを、釣人のとうしん太夫がみつけ、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女が乗っていたのです。二人は夫婦になり、妻の名前はあこう御前と呼ばれるようになります。

この後は、男の子をもうけ金魚丸(空海のこと)と名付けられます。しかし、夜泣きが激しく七浦七里に迷惑がかかるので、あこう御前とともに四国辺路に出ます。
「その数は八十八所とこそ聞こえたれ、さてこそ四国辺土(辺路)とは、八十八か所とは申すなり」

ここには霊場の数が88と明記されています。これが「四国辺路八十八ケ所」の文言の最古礼では四国辺路の研究では、注目されるところです。それ以前に「88ヶ所」は出てこないということは、88ヶ所霊場の成立は、この書の書かれた寛永8年(1631)からそんなに遡らないと研究者は考えているようです。
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 この説経『苅萱』には、次のような伝本があるようです
1、絵入写本「せつきやうかるかや」(サントリー美術館蔵)
2、寛永8年(1631)刊。しやうるりや喜衛門版「せつきやうかるかや」
3、寛文初年頃刊。江戸版木屋彦右衛門版「かるかや道心」
そして、この3つを比較検証すると「空海=多度津白方生誕説」を説く『苅萱』「高野巻」の成立以前に、四国には弘法大師伝記がすでにあったようです。それが『弘法大師空海根本縁起』(以下、『根本縁起』)です。この縁起は元禄12年(1699)、高野山千手院谷西方院の真教が写したものが伝わっていて、次のような文章から始まります。
四国讃岐の多度郡白方屏風が浦に藤新太夫と申す猟師有り、其の内に阿こやと申す女人座り、未四十歳のいんに入迄、子なき事を悲しみ、俄かに善根を為さばやと思い、我心をすくわし、すぐ成る針に餌をさし、縁に任て魚を釣る、万のものに代をかえ、貧なるを供養し、或は堂社仏閣を建立し、則此願成就し、津の国中山寺に参り三七日籠り、男子二而も女子二而も、子種を壱人授てたひ給ヘと深く祈誓を申したる、(後略)

ここでは「あこや御前=唐の皇帝娘」には触れられずに、
藤新太夫が夫婦で、讃岐国白方屏風ケ浦で空海が誕生した。その後、夜泣きが激しくせんゆうが原に捨てられるが、善通寺の徳道上人に拾われ、修行し、そして唐に渡り恵果和尚に出会う。やがて天竺にも行くが、 ここで文殊菩薩との長い問答が繰返されます。修行の後、唐の国から讃岐国屏風ケ浦に帰り着く。

ここまでは「高野巻」とよく似た所が多く、両者の間に深い関係が見て取れます。続いて弘法大師帰朝後のことについて、「高野巻」は弘法大師の母のことに話が移りますが、これは『慈専院縁起』の踏襲です。
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 一方、『根本縁起』は
四国辺路を弘法大師が建立し、辺路を三十三度、中辺路を七度巡り、そして讃岐の大名香川氏(弥谷寺に近い天霧城主)も元結を切って、中辺路を二十一度行い、最後には極楽浄土に往生したと云います。さらに伊予の右衛門三郎も二十一度の辺路を行い、望み通り川野(河野)の家に生まれることができたと記します。そして縁起の末尾には、四国辺路を巡る功徳を有り難く説いています。
 この最後に次のように記します
「此縁起を一度聴聞すれば高野山ヘー度の参詣にあたる也。これを聴聞する輩は毎日南無大師遍豪金剛と唱れば、現世あんおん後生善三世の師、七世の父母迄も成仏する事無疑。」

研究者はここに出てくる「聴聞」という文言に注目し、この縁起が「語りもの」の台本であると指摘します。この「根本縁起』は、弘法大師の一代記と四国辺路の功徳を説いた「語りもの」で、四国辺路の開創縁起ともいえるようです。

それでは、この『根本縁起』の制作に関わったのはどんな人たちなのでしょうか。
①中山寺や徳道上人のことなどがみられ、西国三十三所縁起との関係も密接である
②善通寺や讃岐の大名香川氏、伊予の右衛門三郎など四国のことが詳しくしるされている
③高野山との関係がうかがえる。
④阿弥陀如来・極楽・念仏に関することも記述が多い。
以上のような「状況証拠」から、まず第一候補は、四国在地(弥谷寺や白方周辺)の高野山系の念仏聖が挙げられます。

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熊手八幡神社
第2候補は、高野山系の修験者たちです。
中世多度津の堀江湊の港湾管理センターの役割を果たしていたとされる道隆寺の『道隆寺温故記』(47)には、白方の熊手八幡官(文禄5年(1596)に関する次のような記事があります。
大師入定之後、熊手自慕大師之徳、途跨海波逆流川、留慈尊院。今南山巡院々、朝日護摩薫煙無絶。遠期三会、衛護密教云々。

ここには、熊手神社の熊手が大師の徳を慕って瀬戸内海を渡り、紀川を遡り、慈尊院へ留まり、さらに高野山の寺々を巡っているというのです。
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白方の熊手八幡神社
『高野春秋』元禄5年(1692)8月7日には、次のようにあります。
行人順寺八幡在此寺。少々奉仰御立寄。紀公云、八幡者何乎。答日。熊手二而候。」

ここからは熊手は行人方(修験者・山伏)の管掌するところであったことが分かります。なお熊手八幡は今も白方に鎮座しています。そして、この神社の別当寺が仏母院であったようです。
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仏母院

 仏母院は寺伝では、永禄頃に大善坊という山伏(修験者)によって再興されたと伝えられ、山伏寺で修験者との関係が濃い寺です。ここからは、白方屏風ヶ浦と高野山との交流は念仏聖(時衆系高野聖)にだけでなく行人(山伏)グループによっても行われていたことがうかがえます。 
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仏母院
では、この『根本縁起』は、いつ作られたのでしょうか。
戦国時代頃の弥谷寺周辺をみると、永禄元年(1558)に善通寺の伽藍が焼失し、善通寺の東院は灰塵に帰します。この火災により、善通寺の勢力は一時的にせよ寺勢を失ったようです。この間隙をぬって、白方屏風ケ浦や仏母院、熊手八幡、さらに弥谷寺周辺の念仏聖や山伏などが弘法大師誕生地を白方屏風浦とし、とうしん太夫とあこや御前を両親とする異端の弘法大師伝(『根本縁起』)を作り上げたと研究者は考えているようです。
 その状況証拠資料として、『道隆寺温故記』には、次のような動きが記されています。
①天正20年(1592)には「白方海岸寺大師堂入仏供養」
②文禄5年(1596)には弘法大師が創建したと伝えられる白方(熊手)八幡を再興
ここからは、生駒藩支配下のこの頃に白方屏風ケ浦周辺で新たな弘法大師信仰が興ったことがうかがえます。その中心的な寺院が弥谷寺であったと研究者は考えているようです。弥谷寺には、中世から続く時衆系高野聖や高野山と関わりを行人(山伏)などが各院坊にいたことは、前回に見た通りです。

 そして、弥谷寺を中心に作られていた『根本縁起』の一部(弘法大師伝)が説経『苅萱』に取り込まれ、「高野巻」が成立すると研究者は考えているようです。
以上をまとめておくと次のようになります。
①永禄~天正年間頃、弥谷寺や白方屏風ケ浦周辺の念仏聖や行人(山伏)など高野関わりを持つ人物によって異端の弘法大師伝(『根本縁起』)が作られた。
②高野山系の念仏行者や山伏は、それを各地で語り、弘法大師の偉大さと四国辺路の功徳を広めた
③その中心的役割を果たしたのは、とうしん太夫夫婦が安置された弥谷寺であった。
④当時の弥谷寺は、時衆系高野聖が活発な活動を展開していた
 
それでは 澄禅が訪れた17世紀半ばに持仏堂に安置されていた藤新太夫夫婦の石像は、その後どうなったのでしょうか。
その後の真念などの案内記には、この石造について触れたものはありません。17世紀末までには、取り除かれたようです。どうやら弥谷寺は異端である「空海多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を破棄し、正統派の「空海善通寺誕生院生誕説」をとるようになったことがうかがえます。その「路線変更」には、どんな背景があったのでしょうか?
 以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 テキストは「 武田和昭  弥谷寺と四国辺路 弥谷寺調査報告書」所収

 
弥谷寺2
弥谷寺仁王門
四国霊場第71番札所・弥谷寺は八十八ケ所霊場の中でも、霊山らしい雰囲気がするお寺です。ここには大師が修行したと伝えられる窟があり、岩壁には阿弥陀三尊像をはじめとして南無阿弥陀仏の六字名号、五輪塔、梵字などが数多く刻まれています。
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阿弥陀三尊(弥谷寺本堂下の磨崖仏)
さらに近世初頭には異端の弘法大師伝を流布するなど、善通寺とは別系統の僧侶集団がいたことがうかがえます。その僧侶集団は、以前お話しした宇多津の郷照寺と同じ、高野山の時衆念仏系の高野聖たちであったようです。
弥谷寺 九品浄土1
阿弥陀三尊の磨崖仏の下には「南無阿弥陀仏」の六文名号
彼らの弥谷寺での活動ぶりを追ってみることにしましょう。
テキストは「 武田和昭  弥谷寺と四国辺路 ―室町時代後期から江戸時代初期の展開―弥谷寺調査報告書」所収です。

弥谷寺の古代の仏たちが語るものは
弥谷寺の寺名が史料で確認されるのは鎌倉時代に入ってからですが、仏像の中には、それよりも古いものがいくつかあります。
まず木造吉祥天立像
弥谷寺 吉祥天立像
(像高59.1センチメートル)はヒノキ材による一本造りで、10世紀末期ころとされ最古のものです。
 『大見村史』掲載の地蔵菩薩立像(2)(像高不明)も10世紀後半頃まで遡る古像ですが、造立当初から弥谷寺にあったかどうかは分かりません。仏像は移動するものなのです。寺勢の強い寺には、自然に仏像の方から集まってくることは以前お話ししました。
次に古いのが鎮守とされている11世紀前半頃の深沙大将椅像です。

弥谷寺 深沙大将椅像
深沙大将椅像
像高138.5㎝のほぼ等身の像で、全国的にも珍しい像容の深沙大将像として注目されます。しかし、この像は、どうした訳か近代になるまで蔵王権現として伝えられてきたようです。蔵王権現は、弥谷寺の縁起に登場し深く関わる権現さんです。山岳信仰の拠点として、蔵王権現を祀るのは当然のことだったのでしょう。吉野山や石鎚山に関わりのある後世の山岳修験者の関与があったとしておきましょう。

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)

 なお深沙大将像の信仰は、水と関わり祀られることが多いようです。おそらく弥谷寺鎮守とともに三野平野を潤す水源を守る意味をも兼ねそなえていたのかもしれません。弥谷寺の下流の大見地区は、西遷御家人として甲斐からやってきた秋山氏の所領として、中世に開発が進んだ所です。秋山氏はこの弥谷寺を見上げながらも、自らは法華信仰に基づいて本門寺を開いて行ったことになります。
弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

これらの古代の仏像たちから、弥谷寺の創建は平安時代中期、10世紀後半頃と考えられ、その後、古代寺院として整備されるのが11世紀に入ってからのようです。ただ当初の本尊千手観音が現存しないことや建物の遺構などが明確でないことから、これ以上のことは分かりません。しかし、本尊が千手観音であったことや讃岐という地域性を考慮すれば、真言系の密教寺院として創建されたことは間違いないようです。注意したいのは、創建に善通寺勢力の関わりは見られないという点です。

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磨崖に彫られたキリク文字(弥谷寺本堂下)

次に文献史料から弥谷寺を見てみましょう。
南海流浪記- Google Books
南海流浪記
鎌倉時代前期、仁治4年(1243)高野山のエリート僧であった道範が、内部抗争で罪を問われ讃岐に流されてきます。彼は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えたことが考えられます。例えば善通寺に近い三豊市高瀬町麻地区の法蓮寺の本尊阿弥陀三尊立像は、宝治2年(1248)に造立されています。状況から見て、道範の影響があったと考えられているようです。

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弥谷寺磨崖に彫られた石仏や五輪塔(レーザー撮影)
 弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄』に「弥谷上人」とあるものの詳しいことは分かりません。本堂下の磨崖阿弥陀三尊像が鎌倉時代の制作とするなら、これも道範の影響かもしれません。どちらにしても弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。

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弥谷寺本堂下の磨崖

 時衆と阿弥陀信仰、南無阿弥陀仏は関連性が強いこと、それを担ったのが高野山の時衆系高野聖たちであったことを以前にお話ししました。
時衆思想の痕跡が弥谷寺に、どのような形で残されているのでしょうか。
まず(1)六字名号(南無阿弥陀仏)です。

弥谷寺 時衆の六字名号の書体
時衆の六字名号の書体

弥谷寺本堂の周辺は凝灰岩がむき出して、大きな壁面がいたるところにあります。ここに阿弥陀三尊仏像が半肉彫りされ、その周辺に「南無阿弥陀仏」の六字の名号が彫られていたようです。しかし、柔らかい凝灰岩のため風蝕が激しく、その多くが読み取れなくなっています。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
⑩が九品浄土で釈迦三尊の下に南無阿弥陀仏が9つ彫られていた

研究者は、ここに刻まれた六字名号を、さらに深く見ていきます。
まず、その書体ですが弥谷寺の六字名号と同じような書体が、徳島県の名号板碑にも見られるようです。板野郡辻見堂の名号板碑(正和4年 1315)は、蓮台の上に南無阿弥陀仏の名号が楷書体で力強く刻まれています。名号板碑には名号、阿弥陀仏号、一仏房号を刻んだものが多いようですが、この種のものは時衆に関わるもので時衆系板碑と呼ばれるようです。
IMG_0017弥谷寺磨崖仏

 また絵画では滋賀・高宮寺の他阿上人真教像の傍らには同様の書体の名号が書かれています。ここからこれらの書体は「時衆二祖真教様」と称され、時衆の二祖真教上人が始めたものとされています。弥谷寺のものも、時衆の六字名号の書体と研究者は考えているようです。
 以上から弥谷寺の六字名号は、時衆に関わる人物の手になるとみて間違いないようです。香川県内にはこの種の遺品は、わずかに出釈迦山捨身ケ嶽と屋島寺参道に自然石の「時宗二祖真教様」の六字名号がだけが残されているようです。

続いて、時衆の二河白道思想と弥谷寺の関係です。                         
明和6年(1769)の『多度津公御領分寺社縁起』の「讃州三野郡。剣五山弥谷寺故事譚」には、次のような記事があります。
一-、御願堂之事
東ノ御堂 亦云東院  本尊撥遣釈迦  行基作
多宝塔  名中尊院  本尊盧舎那仏  同作
西ノ御堂 又云西院  本尊引阿弥陀  同作
(中略)
此地に就て弥陀・釈迦二仏の尊像を造して、撥遣引接の教主として東西の峯におゐて、各七間の梵宇構へて二仏を安置し、蓮華山八国寺と号して、一夏の間、菩薩愛に安居し玉ふ、(以下略)
山内現在之堂社仏像等の事
一、大悲心院 一宇 享保十二未年、幹事宥雄法印
ここからは、かつての弥谷寺には東の峰に釈迦如来、西の峰に阿弥陀如来が安置され、二尊合わせて「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」と考えられていたことが分かります。そして、その仏像が戦国時代の争乱から逃れて本堂に安置されていたと読み取れます。
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弥谷寺本堂からの東の峰
残念ながら、この釈迦と阿弥陀の二尊は今はありませんが、江戸時代中期頃まではあったことが分かります。この「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」については、中国・吾時代の善導大師の『観経四帖疏』「散善義」(『大正蔵』37巻。272頁)に次のように説かれているようです。

弥谷寺 時衆二河白道図
 旅人(往生者)が西に向かって百千里の旅をすると、まもなく水火の二河に至る。水の河は衆生の憎しみに、火の河は衆生貪愛に喩えられます。やがて幅四、五寸の細い白道があるが、道には水火が押し寄せ、そして後ろからは群賊悪獣が追いかけてくる。旅人はためらうが、東岸に釈迦、西岸に阿弥陀がおり、白道を渡るようにとの励ます声がある。旅人はその声を信じ白道をわたり往生できた。」

これを法然上人が『選択本願念仏集』(『大正蔵』83巻・11頁)で引用したことから、浄土宗では特に重視されるようになります。これを絵画化したものが、いわゆる「二河白道図」です。
 これが、やがて一遍上人の目に留まります。文永8年(1271)春、信濃の善光寺に参詣した際に二河白道図に出会い、以後はこれを本尊として、日々を送ったと伝えられます。
 『遍上人語録』によれば、
「水と火の二河は我々の心である。二つの河に犯されることがないのは名号である。白道は南無阿弥陀仏のことである。」

と説いています。一遍上人は、伊予窪寺で二河白道図を掲げ、三年間の念仏を行い「十一不二掲」を感得します。ここからも分かる通り、この教えは時衆の根幹をなすもので、その後の時衆に大きな影響をあたえるようになります。そして
「現世における撥遣釈迦、来世における来迎阿弥陀」

の思想は、時衆の中で重要な教えになります。
弥谷寺の伽藍の中で、釈迦と阿弥陀の置かれている位置は、まさに二河白道図を現実化したものといえます。その上に、先ほど見た六字名号と重ねると、弥谷寺は時衆思想に基づいて伽藍が作られていたと研究者は考えています。

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潅頂川にかかる橋

 現在の境内で、灌頂川と称されている細い川が「水火の河」で、その東方の山に現世としての釈迦、そして現在の本堂や阿弥陀三尊がある西方が極楽浄土と見立てていたと研究者は考えているようです。
 この思想がいつ頃、弥谷寺に伝わったのかは、『多度津公御領分寺社縁起』の記事から、戦国時代以前であることは間違いないようです。もう少し絞り込むと、六字名号などから推察して室町時代前期以降と研究者は考えているようです。室町時代の弥谷寺は、時衆思想の下に阿弥陀信仰の影響下に置かれたお寺で、運営は高野山と直接関係のある高野聖たちによって為されていたようです。

時衆の影響を伝える船石名号 
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
④が南無阿弥陀仏が彫られた舟形名号                       
弥谷寺境内には鎌倉時代から現在に至るまで塔や墓石などが数多く造られて、境内全体が仏の世界を表しています。その中で、仁王門の近くに建立されている高さ約2mの凝灰岩製の船形の石造物に研究者は注目します。
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仁王門の上の「船墓(舟石名号)」
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舟形名号
私が見ると表面は剥落して、原型も分からない石に見えます。レーザー撮影された写真が次のものです。
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             舟形名号
確かに五輪塔が浮かび上がっています。形式からみて、室町時代頃と研究者は考えています。 この石造物については寛成12(1800)年の『四国遍礼名所図会』には、次のように記されています。
船石名号 長一丈斗の石にあり。六字名号ほり(彫)給う」

さらに江戸時代後の「剣五山弥谷寺一山之図」の刷物には二王門の近くに「船ハカ」(墓)とあり、船形の表面には「南無阿弥陀仏」と記されていることが確認できます。以上から研究者はこの石造物を、舟形の名号石と判断します。つまり「船ハカ」(墓)の表面には五輪塔の右側に「南無阿弥陀仏」の六名名号が彫られていたようです。
 「船石名号」という呼び方は耳慣れない言葉ですが、これについては説経『苅萱』「高野巻」につぎのような記事があります。空海が入唐に際し、筑紫の国宇佐八幡に参詣した時のことです。
社壇の内が震動雷電つかまつり、火炎が燃えて、内よりも六字の名号が拝まるる。空海は「これこそ御神体よ」とて、舟の船杜に彫り付け給ふによって、船板の名号と申なり。

とあり、留学僧として唐に渡る時に、宇佐八幡に航海安全を祈願し参拝した時に「南無阿弥陀仏」の六字名号が降されます。空海はこれを御神体として船に彫りつけたことから「船板名号」と呼ばれるようになったというのです。船形の名号は「船板名号」と呼ばれ、弘法大師と深く関わるもののようです。県下の天福寺には版本船板名号が残されています。

弥谷寺 板本船板名号

大きな蓮台の上に、やはり「時衆二祖真教様」の六字名号が船形光背とともにみられ、「空海」と御手判があり、その上下にキリークとアの梵字と掲があります。これらの遺品は、空海筆銘六字名号として、弘法大師信仰と念仏信仰が混じり合ったもので真言宗寺院に残されていることが多いようです。
以上から、弥谷寺の船石名号の石造物は、「高野巻」に記される船板名号を石造に代えて建立した物のようです。
今は、六字名号は見えなくなっていますが、書体は本堂横の壁面と同様に「時衆二祖真教様」であったのでしょう。そしてかすかに見える五輪塔は真言(密教)と念仏の混淆を表し、そこには弘法大師信仰がうかがえます。これも時衆思想がこの寺に大きな影響を与えていた痕跡のひとつのようです。
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弥谷寺本堂横の磨崖に彫られた五輪塔
 弘法大師信仰と阿弥陀信仰の念仏を一体化させたのは、どんな僧侶たちだったのでしょうか? 

弥谷寺 高野聖

『説経苅萱』「高野巻」については、時衆系の高野聖が関わったことが分かってきているようです。弥谷寺の船石名号も時衆系高野聖の活動の痕跡と考えられるようです。
  次の3つは、出現時期が室町時代末期に重なり合います。
①弥谷寺の船石名号
②愛媛県・観自在寺の船板名号の版木
③「高野巻」
ここからは、研究者は次のように考えています。

この頃に弘法大師空海作の船板名号が時衆系高野聖の手によって創作されたこと、さらに、それが弥谷寺の石造船石名号に「発展」した。

ここにも時衆の影響が濃厚に見られます。そして、弘法大師信仰と念仏信仰の両方を持った存在として、時衆系高野聖が浮かび上がってきます。室町時代の弥谷寺には、時衆系高野聖がいて、高野山との直接的な関係があったことが推察されます。
弥谷寺 高野聖2
一遍と弟子たち
それではいつ頃、弥谷寺に時衆思想が伝わってきたのでしょうか
 阿波の板碑が正和4年(1315)頃に作られているので、14世紀前半には阿波には時衆思想が及んでいるようです。また高野山奥院の康永3年(1344)の名号板碑は阿波から運ばれたと考えられています。それを行ったのは高野聖だとされていて、四国と高野山との間には時衆思想の交流があったことが分かります。

また、弥谷寺のある天霧山周辺から採掘された石材(天霧石)を用いて鎌倉時代末期の石造層塔(35)が高野山に建立されています。これは、讃岐(弥谷寺)と高野山との人とモノの直接的交流があったことを示します。
紀伊天野社多宝塔
高野四社明神図
 逆に、弥谷寺には室町時代初期の絹本著色高野四社明神図が伝来されています。高野四社明神とは高野山の鎮守四神(高野・丹生・気比・厳島)で、高野山独自のものであり弥谷寺には関係のないものです。この図が何時、誰によって持ち寄られたのかは分かりません。しかし、状況証拠はこの明神図をもたらしたのも高野聖であることを示しているようです。物の動きからは、高野山と弥谷寺が深く結ばれていたことがうかがえます。
 古くから高野聖は、高野山に納骨を信者に勧めました。

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弥谷寺水場近くのキリク文字
 澄禅の『四国辺路日記』には弥谷寺について次のように記されています。
「其下二岩穴在、爰に死骨ヲ納ル也。水向ノ舟ハ中ニキリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」

 ここからは近世以前から納骨の風習があったことが分かります。ここには「キリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」と阿弥陀如来と空海が結びつけられています。つまり念仏信仰と弘法大師信仰が結合されているのです。これも、時衆系高野聖の「流儀」です。


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本堂横磨崖の五輪塔 穴は納骨場所でもあった
 弥谷寺の磨崖五輪塔については、三輪塔の地輪や水輪部に方形の穴を穿つて、死骨を納めたことが澄禅の記事に出てきます。
これがいつの時代に始まるのかは、高野の聖たちが弥谷寺を拠点に活動を始めたのがいつなのか、とリンクすることのようです。
以上から弥谷寺における納骨の風習も、高野山の時衆系高野聖がもたらしたのではないかと研究者は考えているようです。それを最後にまとめておきましょう
①平安時代中期に真言密教の寺院として弥谷寺が創建され、以後鎌倉時代末期頃まで密教寺院として存在した。
②その後、南北朝時代頃に、高野山との直接的な交流が行われるようになった
③室町時代になり弘法大師信仰と念仏信仰を併せ持つ時衆系高野聖の影響から浄土教的寺院(念仏信仰)へと変貌していく。
④そして二河白道思想などを元にして、現世と来世の世界を現出し、弥陀浄土が作られ、死霊が集まる霊地としての信仰が形成されていく
⑤納骨の風習もこうした浄土教的な霊地として展開する中で行われた

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
武田和昭  弥谷寺と四国辺路  弥谷寺調査報告書

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仁王門(弥谷寺)

「空海=多度津白方生誕説」が、いつ、どこで、誰の手によって、どんな目的で創り出されたのかをみてきました。最後に、白方の背後の天霧山中にある弥谷寺を見ていくことにしましょう。
 弥谷寺は佐伯真魚(空海の幼年名)が修行した地と「高野大師行状図画」にも伝えられ、古くから空海の修行場として信じられてきました。現在、十世紀末から十一世紀初期ころの仏像が確認できるので、そのころにはこの寺が活動していたことが推察できます。
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弥谷寺仁王門
 その後、鎌倉時代の初めには道範が訪れたことが「南海流浪記」に記されています。また本堂横の岩壁に阿弥陀三尊や南無阿弥陀仏の名号が彫られていて、その制作年代は鎌倉時代末期のものと言われます。
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阿弥陀三尊磨崖仏(本堂下)

 戦国時代には讃岐の守護代であり、天霧城の城主・香川氏の菩提寺とされ、香川氏一族の墓といわれる墓石も数多く残されています。なお寺伝では、香川氏の滅亡とともに寺は衰退したと伝えます。その後、生駒氏・山崎氏・京極氏などの保護の下に徐々に復興がなされたようです。
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天霧城主香川氏の代々の墓とされる石造物

澄禅『四国遍路日記』で、江戸時代初期のこの寺の様子を見てみましょう
剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇I間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切玉フ、北ノ床位牌壇也、又正面ノ床ノ脇二護摩木棚二段二在り、東南ノニ方ニシキ井・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ、寺ノ広サ庭ヨリー段上リテ鐘楼在、又一段上リテ、護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ戸ヲ仕合タリ、内二本尊不動其ノ外仏像何モ石也、
夫ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル中二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、又一段上テ本堂在、岩屋ノ口ニ片軒斗指ヲロシテ立タリ、片エ作トカヤ云、本尊千手観音也。其廻りノ石面二五輪ヒシト切付玉ヘリ、其近所に鎮守蔵王権現ノ社在り。
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弥谷寺案内図
意訳変換しておくと
剣五山千手院は、坂口に二王門があり、ここからは参道沿いの磨崖には、仏像や五輪塔が数知ず彫付られている。自然石に階段が掘られて、寺の庭に上っていく。
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寺(現大師堂)は南面して、持堂は西向の巌がオバーハングしている所を、広さニ回半、奥へ九尺、高は人の頭が当たらないくらいに掘り切って開かれている。
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仏壇は、一間奥へ四尺に切入って左右に如来を切付ている。ここには中尊大師の御木像と、その
左右に藤新太夫夫婦の石像が掘りだされている。
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 北の床は位牌壇となっている。また正面の床の脇には護摩木棚が二段あって、東南の方に敷居・鴨居などが入れられて戸を立てるようになっている。

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獅子の岩屋
庭よりー段上って鐘楼があり、又一段上がると護摩堂がある。これらも広さは九尺ほどで二間に岩を切り開いて入口に戸を付けている。その内には、本尊不動明王と、何体もの仏像があるがすべて石仏である。
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護摩堂(弥谷寺)

ここから少し南の方へ行くと水場がある。周囲の磨崖には、多くの真言阿字が彫付られて、その廻りは円で囲まれている。この字体は、今時朴「法骨多肉少:の筆法である。その下に岩穴があり、ここには死骨が納められている。水場周辺の磨崖にはキリク文字が掘られ、脇には空海と刻まれている。この辺りの赤面には、数多くの五輪塔が掘り込まれている。
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水場周辺
その一段上の磨崖には、阿弥陀三尊が掘られ、その
脇には六字名号が3セット×3つ=9彫りつけられている。九品の心持ちを示している。さらに一段登ると本堂在、岩屋に突き刺すように片軒の屋根が覆っている。「片エ作」と呼んでいる。本尊は千手観音で、その廻りの石面には五輪塔が数多く彫りつけられている。この近くに鎮守蔵王権現の社がある。

以上から江戸時代初期の弥谷寺の様子が分かります。ここで
注目したいのは次の2点です。
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本堂下の磨崖仏

まず1点は坂口に仁王門があり、そこから参道沿いの岩面の至る所に仏像や五輪塔が数知れず彫り込まれていることです。
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弥谷寺の磨崖仏の位置



「自然石を彫り刻み石段として寺の庭にあがると、寺は南面し持仏堂がある。この持仏堂に「空海=多度津白方生誕説」で、空海の父母とされる藤新太夫夫婦の石像が安置されていた記されています。この寺でもこの時期には、「空海=多度津白方生誕説」が信じられていたようです。
 ところが、その後に真稔が巡礼した時には、この夫婦の石像はなくなり、阿弥陀と弥勒の石像になっていたというのです。つまり、この間に藤新太夫夫婦の石像が消えたことになります。どうしてでしょうか?
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弥谷寺の五輪塔
 2つ目は次の部分です。
「水場から一段上ると磨崖に阿弥陀三尊と、その脇に六字名号が三クダリ宛六ツ彫付玉リ」

本堂下の水向けの所の岩穴には死骨が納められ、その周辺には阿弥陀三尊やと「六字の名号」(=南無阿弥陀仏)が彫られていたとあります。
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阿弥陀三尊像
  弥谷寺周辺の山は死者心霊がこもる山として、祖霊信仰がみられことが民俗学からは指摘されてきました。イヤダニマイリという葬式の翌日には、毛髪や野位牌などを弥谷寺に納める習俗があったというのです。そこには祖先信仰にプラスして、浄土系の阿弥陀信仰が濃厚に漂います。

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本堂下の磨崖仏

 さらに、現在この寺で行われている永代経という日月聘供養、経木塔婆、水供養という先祖供養形式が高野山で行われる供養の形式と非常に似ていると言われます。
 それは道範以来、高野山と弥谷寺との関係が深くなり、戦国時代末期以降になると、高野山や善通寺と関係の深い僧侶が住職となます。その結果、江戸時代中期から末期にかけて高野山方式の先祖供養形式が確立したと研究者は考えています。弥谷寺と高野山とは、何かしらの関係がある時期からできたようです。
 民俗学の立場からは次のように指摘されきました。
「弥谷寺一帯は、古くは、熊野の神話が物語るごとき死霊のこもるところ、古代葬送の山、「こもりく」であったかも知れぬが、中世、一遍につながる熊野系の山伏、念仏聖、比丘尼、巫女などの民間宗教者たちの手によってでき上がった山寺である」

 以上の説を総合すると、次の2点が見えてきます。
①弥谷寺は高野山との関係、
②高野聖など念仏系の僧の存在
そのわずかに残る痕跡を現在の弥谷寺に探ってみましょう。
弥谷寺 九品浄土1

弥谷寺本堂下の岩壁には南無阿弥陀仏の名号が九つ彫られています。いまは摩耗してほとんど見えなくなっています。しかし、かつてはその名号の下部には、次のような唐の善導大師の謁が彫られていて、かつては見ることが出来たと言います。

門々不同八万四為滅無明果業因利剣即是阿弥陀一称正念罪皆除

さらに本堂下の墓石群の中には、次のような念仏講の石碑が建立されています。
「延宝四二六七六」丙辰天 八月口口日大見村竹田 念仏講中二世安楽也」
江戸時代前期とやや時代が下るものの、念仏聖となんらかの関係を示す遺品です。この石碑は先日紹介した多度津白方の、仏母院に見られた念仏講のものと形状が良く似ており、両者に関係がありそうだと研究者は指摘します。

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弥谷寺の磨崖仏

  
 戦国時代に弥谷寺の上の天霧城主だった香川氏一族は、長宗我部元親と姻戚関係を結びます。そして、土佐軍の撤退と共に香川氏も土佐へ亡命します。天霧城は破棄され、弥谷寺も荒廃したといいます。弥谷寺のその後について、『大見村誌』正徳四年(1714)は宥洋法印の記録として、以下のように記しています。 
その後戦乱平定するや、僧持兇念仏の者、当山旧址に小坊を営み、勤行供養怠たらざりき、時に慶長の初め、当国白峰寺住職別名法印、当山を兼務し、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立す。
 慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正より、田畑山林を寄付せられ、其証書今に存せり。別名法印遷化後、直弟宥慶法印常山後住となり執務中、図らすも藩廳に対して瑕径あり。爰に住職罷免され、善通寺に寄託される、その後の住職は善通寺僧徒、覚秀房宥嗇之に当り寛永十二年営寺に入院し、法務を執り堂塔再建に腐心廿り、
 意訳変換しておくと
江戸時代になって戦乱が平定すると、念仏僧侶が弥谷寺の境内の中に小坊を営み、勤行供養を怠たらずに務めた。慶長年間の初めに、白峰寺住職別名法印が当山を兼務することになり、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立した。
 慶長五年十二月十九日には、高松城主の生駒讃岐守一正から、田畑山林を寄付された。その寄進状は当寺に今も残る。別名法印が亡くなった後は、直弟の宥慶法印が後住となったが、生駒藩への過失があり住職を罷免された。そのため当寺は、善通寺に寄託されることになった。その後は、善通寺の覚秀房宥嗇之が、寛永12年に住職となり、法務を執り堂塔再建に腐心することになった。
 ここからは戦国時代に香川氏が土佐に落ち延びて、保護者を失って、寺が荒廃したことがうかがえます。その時に、念仏行者が境内の旧址に小坊を営み寺に住んでいたというのです。境内に残るいくつかの石造物からは、念仏信仰を周辺の村々に広げ念仏講を組織していた僧侶の存在が見えてきます。彼らは、時宗系の高野聖であったと研究者は考えています。
 そして、生駒氏の時代になってから白峯寺から別名法印が住職を兼務したといいます。別名法印については詳しいことは分かりませんが、海岸寺所蔵の元和六年(1620)の棟札に「本願弥谷寺別名秀岡」とあります。ここからはこの時期には、海岸寺と弥谷寺とが深い関係にあったことが分かります。ちなみに、弥谷寺の海浜の奥社が海岸寺だったようです。ここでは補陀落渡海の修行場で、弥谷寺との間は小辺路ルートで結ばれていたとも言われます。
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生駒一正の墓碑とされる塔
 このように弥谷寺は、もともとは阿弥陀信仰を中心とする念仏系の寺院であったことが透けて見えてきます。
中世から戦国末期には、修験者+熊野行者+高野聖+念仏行者の活動拠点で、境内に彼らの「院房」があったのです。そこに住んでいた僧の中には、時宗念仏系の僧侶がいて弥谷寺を拠点に布教活動をおこなっていたいたようです。
また「剣五山弥谷寺一山之図」には、東院旧跡の近くに「比丘尼谷」という地名があります。ここからは、弥谷寺に比丘尼が生活していたこともがうかがえます。

さて、この寺院の檀那たちはどこにいたのでしょうか?
 慶長五年(1600)四月吉日に、この寺に寄進された本尊の鉄扉は次のように記されています。

「備中国賀那郡四条 富岡宇右衛門家久」
寛永八年(1632)正月寄進の鐘の檀那は
「備前国岡山住井上氏」

ここからは白方の仏母院の信者は、瀬戸内海を挾んだ対岸の備前地方の人々の信仰を集めていたことが分かります。しかし、それがどのような理由で繋がっていたかを示す史料はありません。
 最後に、備中・備前の人たちが海岸寺や弥谷寺の有力な檀家となっていた背景を想像力を羽ばたかせて考えて見たいと思います。
①五流山伏と小豆島の関係のように、小豆島を聖地として修験者先達が、信者を引率して参拝させるシステムが海岸寺や弥谷寺でも機能していた。
②そのため海岸寺は、補陀洛信仰の聖地として海の向こうの吉備の信者たちの信仰を集めるようになった。
③そこに大師信仰が広がると、当時流布されるようになった「空海=白方生誕説」を採用し、寺院運営をおこなうようになる。
④それは、吉備から海を越えてやって来る信者たちへのセールスポイントともなった。
しかし、争論の結果「空海=白方生誕説」は認められなかった。そこで弥谷寺は「空海=幼年修行地説」にセールスポイントを変えて、寺社経営を行うようになります。それが、金毘羅大権現の隆盛と相まって、四国にやって来た金毘羅詣での参拝者は、善通寺と弥谷寺にはよって帰るというコースを選ぶようになり、寺は栄えるようになります。この寺も弘法大師伝説は、近世になって付け加えられたようです。
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弥谷寺


 
参考文献    武田 和昭      『弘法大師空海根本縁起』について

                            

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