水間寺 千日隔夜宝篋印塔(享保十二年 1727年)
隔夜信仰(かくやそう)という言葉は、私は初めて聞きました。
隔夜信仰(かくやそう)という言葉は、私は初めて聞きました。
もともとは、空也上人の念仏行から来ているようです。
隔夜信仰は。『元亨釈書』には、空也上人が長谷に千日参拝の願立てして春日一夜、夜を隔てて泊まり、3年3月の間、念仏の流布を祈ったことに始まるとされます。当初は、奈良の春日大社と長谷寺への千日参詣で、春日に一夜、長谷に一夜、と夜を隔てて泊り交互に参拝を行うものだったようです。つまり、奈良と長谷寺を毎晩、提灯を灯し、念仏を唱えながら千日歩くという修行です。
前かがみ提灯を差し出し、念仏をとなえながら歩いたという隔夜僧
前かがみ提灯を差し出し、念仏をとなえながら歩いたという隔夜僧
『多聞院日記」の永禄九(1566)年五月二十二日の条には、次のように記します
ナラ、ハセ隔夜スル法師、南円堂より六道迄つれて雑談之処、彼者ハ当国片岡ノ生レ信貴山先達ノ所二九才ヨリ奉公了、奥州柳津虚空蔵二一年二百日参籠了、峯へ入事四十一度、京ニテ四十八度ノ百万返供養、高野大師卜当社トヘ片道三日ツツニテ、以上十一ケ年ノ間五百度参詣成就、ナラ、ハセ隔夜今年既二三年ニナル間、明年三月ニテ三年三月可有供養ム々、当年四十六才ナルニ申、扱モ/ヽノ事也
意訳変換しておきます
奈良と長谷を隔夜修行している法師と興福寺の南円堂より六道まで連れ添って歩いて雑談した。その時に聞いた話では、彼は大和国片岡の生まれで、信貴山先達の所で29才に奉公を終えて、奥州柳津の虚空蔵で1年2百日の参籠を行った。峯(吉野大峰?)へ入る事41度、その後、京都で48度の百万返供養を行い、高野大師(高野山)と当社(春日)とへ片道三日ずつ、以上11ケ年ノ間かけて五百度参詣を成就させた。奈良、長谷の隔夜修行も、今年で既に3年になるという。来年3月で供養も終わるようだ。当年46才になると云う。
ここからは隔夜修行を行っている僧侶について次のようなことが分かります。
①大和生まれで信貴山先達の所で29歳まで修行を行った。
→ 当山派修験者的性格②高野大師(高野山)と当社(春日)への11年かけて五百度参詣 → 真言僧侶で弘法大師信仰③そして隔夜修行者
この法師は、山伏であり、念仏僧であり、真言密教僧侶であり、弘法大師信仰も持ち、あるゆる修行を各地で積んでいる人物のようです。これが、室町時代末期の遊行僧の典型のようです。つまり現在のように「分業」ではなく、行者とはこうした多様性を持ち供えていたことがうかがえます。これも神仏混淆のひとつの形であったのでしょう。
「鳥取八幡宮、一千日隔夜供養、當寺観世音」とあり、鳥取八幡宮と水間寺の間で隔夜千日参詣が行われたことが分かります
ここで研究者が注意するのは、いろいろな修行の最後に目指したものが隔夜僧であることです。彼らは、夜に南無阿弥陀仏を唱えながら歩いたのです。強い阿弥陀信仰をもっていたようです。
隔夜僧の成就碑が四国霊場のお寺には、残っているようです。今回は、それを追いかけてみることにします。
最初に66番雲辺寺の隔夜念仏の石碑を見てみましょう。
天和三(1683)年五月二十八日の建立で、正面 「南無大明 慈悲阿弥陀如来 高照山濾峯寺正観世菩薩七宝山観音寺千手観世音菩薩巨鼈山雲辺寺」左側面「百日隔夜行脚信心 願主敬心 天和三癸亥綺五月二十八日」右側 「為現在当二世大安楽也 敬白」
これは、濾峯寺と七宝山観音寺と雲辺寺の三ヶ寺への百日隔夜念仏行の成就記念碑のようです。
観音寺と雲辺寺は札所です。まず雲辺寺から見ていきましょう。
雲辺寺公園からの三豊平野と観音寺
この寺は、讃岐山脈の西端の標高950mの三豊平野を見下ろす山上にあり、山岳仏教の拠点だったようです。しかし、熊野信仰の形跡は、史料からは見えてきません。ただ『阿波国摩尼珠山高越寺私記』の中に、次のように記されています。
①熊野・金峰・山王・白山・石鎚(五所権現)が勧請された
②山上には阿波坊を持法院、讃州坊を王蔵坊、伊予坊を善蔵坊、土佐坊を年行寺の四国坊が建てた
ここからは熊野権現が勧進されていることと、修験者たちがそれぞれ坊や子院を構えていたことが分かります。熊野信仰をもつ修験の寺であつたことはうかがえます。
次に、観音寺を見ておきましょう。
この寺は、鎮守は雲辺寺と同じ五所権現です。以前にお話したとうに、中世には七宝山のいくつかの行場を統括し、善通寺の我拝師山と結ぶ辺路ルートがあったようで、修験の寺でもあったようです。同寺所蔵の『弘化録』(弘化三年(1845)刊)には、貞享九年(1684)のこととして、次のように記されます
「仁王像彩色、願主木食恵浄、仮名本念」
ここからは、仁王像を彩色するに当たり、木食が恵浄が勧進活動を行ったことが分かります。これは、敬心が百日隔夜を行った翌年のことになります。その頃の観音寺周辺には、こうした遊行僧が活動していたことがうかがえます。中世の修験の寺は、外部からやって来た念仏聖などが生活しやすい環境にあったのでしょう。観音寺には、惣持院など六ケ寺の搭頭寺院がみられますが、これらの寺院に念仏聖などは寓居していたと研究者は考えているようです。
最後に濾峯寺という耳慣れないお寺です。
この寺は、観音寺から南に財田川(染川)を越えた約五〇〇メートルの所に、今は庵としてあるようです。江戸中期の火災で焼失し、その後に再建されたようで『西讃府志』には「廬峰寺、高照山号ク、禅宗興昌寺末寺、本尊阿弥陀仏、開山梅谷、四十六石八斗四升八合」とあります。現在は規模の小さな無住の庵となり、本尊は地蔵菩薩となっているようです。江戸時代前期に隔夜信仰と、どのように結びつくのかはわからないようです。
百日の隔夜行を行った敬心は、この3つのお寺に泊まりながら毎夜の参拝を続けたのでしょう。
しかし、私が不思議に思うのは、そうして雲辺寺と観音寺の間の札所である太興寺が選ばれなかったのかということです。
その理由として考えられる要因を挙げてみましょう。
しかし、私が不思議に思うのは、そうして雲辺寺と観音寺の間の札所である太興寺が選ばれなかったのかということです。
その理由として考えられる要因を挙げてみましょう。
①太興寺は江戸初期には荒廃していた②太興寺が念仏僧を嫌悪し排除する体制にあった。
今の私に想像できるのは、この程度です。今後の課題と云うことにしておきましょう。ただ、長期に渡る隔夜行が続けられるためには、支援体制が必要だったでしょう。雲辺寺や観音寺は、それに対して協力的だったのでしょう。だから、境内への記念碑の建立もできたのでしょう。
また、夜に歩くのですからある程度、道も整備されていなければなりません。参拝の道は、遍路の道が使われたことが考えられます。この隔夜行が行われていたのは真念が四国遍路を何回も回っていた時期と重なります。ある程度、遍路道も整備されていたのでしょう。
次に土佐室戸の行当岬の隔夜信仰を見てみましょう
太平洋に突き出た室戸には、2つの霊場が東西にあります。
東の室戸岬 最御崎寺(東寺=奥の院) 胎蔵界西の行当岬 金剛頂寺(西寺=本寺) 金剛界
平安時代は、東西のお寺を合わせて金剛定寺でした。その奥の院が室戸岬で、そこでは海に向かって火が焚かれる行場でもあったようです。後に分院されるのが現在の最御崎寺(東寺)です。
このふたつのお寺は10㎞ほど離れていますが、西寺と東寺を往復する行道が見つかっています。これが「中行道=中辺路」です。そして、金剛頂寺の下の海岸が「行当頭=行道岬」です。ここには、不動岩があり「小行道」と呼ばれる行者道がありました。
つまり、修験者たちの行場であったようです。地元では「空海が悟りを開いたのは、室戸岬ではない、こっちの行当岬だ これぞ まっこと空海」と云っています。
確かにここには、波が寄せているところに二つの洞窟があって、不動さんを祀っていて、今は波切不動に「変身」しています。
室戸の行当岬
つまり、修験者たちの行場であったようです。地元では「空海が悟りを開いたのは、室戸岬ではない、こっちの行当岬だ これぞ まっこと空海」と云っています。
確かにここには、波が寄せているところに二つの洞窟があって、不動さんを祀っていて、今は波切不動に「変身」しています。
金剛頂寺のある山が金剛界、室戸岬の最御崎寺の方が胎蔵界とされていたようす。密教では金胎両部一体ですので、行者たちは両方を毎日、行道します。例えば、円空は伊吹山の平等岩で行道したと記しています。「行道岩」がなまって「平等岩」となるので、正式には百日の「行道」を行ったのです。窟籠り、木食、高野聖など、中世の室戸周辺には行道修行する坊さんが数多くいたようです。まさに修行のメッカだったのです。
そのような行当岬に、つぎのような隔夜修行の祈念碑が残されています
元禄三(1690)庚午歳八月八日 願主(サク) 佐州(キリーク)三界万霊有縁無縁
隔夜五百日廻向 頼円法師
これは元禄三年の真夏に、五百日の隔夜修行が成就したことが記されています。多分、金剛頂寺と最御崎寺の間の隔夜修行だったのでしょう。この二つの寺を交互に念仏を唱えながら参拝したようです。これを行った頼円は、夜な夜な二つのお寺を南無阿弥陀仏を唱えながら通ったようです。強い念仏・阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。実は、彼はここにやって来る前にも隔夜修行を行っているようです。それは58番佐礼山仙遊寺にも、彼の記念碑が残されていることから分かります。そこには「隔夜」の字句はありませんが、阿弥陀三尊の種子や「三界万霊有縁無縁」などの文字は行当岬のものと共通します。
キリーク:阿弥陀(金剛界四仏の種子)
そして元禄二(1689)年二月一十八日という年月が刻まれています。ここからは、伊予の仙遊寺での修行を終えたあとに、続いて室戸岬にやって来て500日の隔夜修行を行ったことが分かります。
キリーク:阿弥陀(金剛界四仏の種子)
そして元禄二(1689)年二月一十八日という年月が刻まれています。ここからは、伊予の仙遊寺での修行を終えたあとに、続いて室戸岬にやって来て500日の隔夜修行を行ったことが分かります。
この碑のそばには、もうひとつ隔夜の石碑があります。
そこには「南無阿弥陀仏」の名号とともに「天和三年九月二十六日・天和四年正月六日、府中七ケ所」と刻まれています。行者名は上野国利根都沼円郷の浄雲とあります。研究者が注目するのは「府中七ケ所」です。それは国分寺・佐礼山・円明寺・三島(南光坊)・泰山寺・一之宮・八幡宮なのです。これらの寺院は、どれも四国霊場の札所寺院です。かれは、この7ヶ寺で隔夜行を行い、室戸にやってきているのです。ここに出てくる札所は、念仏の糸で結ばれていたことになります。念仏信仰の強い行者達が、どうして四国霊場の札所にやって来たのでしょうか。
そこには「南無阿弥陀仏」の名号とともに「天和三年九月二十六日・天和四年正月六日、府中七ケ所」と刻まれています。行者名は上野国利根都沼円郷の浄雲とあります。研究者が注目するのは「府中七ケ所」です。それは国分寺・佐礼山・円明寺・三島(南光坊)・泰山寺・一之宮・八幡宮なのです。これらの寺院は、どれも四国霊場の札所寺院です。かれは、この7ヶ寺で隔夜行を行い、室戸にやってきているのです。ここに出てくる札所は、念仏の糸で結ばれていたことになります。念仏信仰の強い行者達が、どうして四国霊場の札所にやって来たのでしょうか。
伊予松山の56番太山寺にも、2基の隔夜碑があります。
(向右) 五百日隔夜念仏廻向 谷上山願主河内国錦郡 徳誉清心正面 南無阿弥陀仏左 三界無縁法界萬霊 石手寺裏面 延宝四丙辰年八月二十五日太山寺
ここからは、延宝四年に太山寺 → 石手寺 →谷上山(伊予市宝珠寺)の3ケ所を結ぶ寺院で、河内出身の徳誉清心が五百日の隔夜念仏を行っていたことが分かります。太山寺と石手寺は、ともに八十八ケ所の札所になります。八十八ケ所寺院と熊野信仰・隔夜念仏がが重なりあうようです。
隔夜念仏の石碑が残る寺は、中世に真言念仏(密教系阿弥陀信仰=高野山系時宗念仏僧)が活動していた所が多いことを研究者は指摘します。江戸時代に活躍する隔夜僧も、中世に遡る念仏信仰の下地があるお寺を修行場として選んでやって来たようです。
阿波の十番切幡寺にも、次のような隔夜碑があります.
天和三□年 宗体奉修行従当山霊仙寺迄(ア)百日隔夜所願成就所 敬白六月二十一 日 常心
天和三(1683)年の建立で、雲辺寺や・仙遊寺・太山寺のものと同じ年になります。この頃に四国で、隔夜信仰が盛んになっていたようです。この碑で研究者が注目するのは「本修行、当山従り霊仙寺まで」とあることです。十番の切幡寺から一番霊山寺の間を修行していたことがうかがえます。これを「十里十ケ所」詣りと呼ばれるもので、これを一夜の間に念仏隔夜修行していたようです。
讃岐の善通寺を中心とする「七ケ所(寺)詣」や高松を中心とする「観音七ヶ寺詣」のように、中世の「中辺路」ルートをリニューアルした道が遍路道として使われるようになっていたのかもしれません。
隔夜僧は どうして修行場に四国霊場を選んだのでしょうか.
そこには念仏僧を引きつけるものあったからなのでしょう。隔夜僧の僧侶からすると「念仏信仰の寺」と見え、好ましいと写ったのでしょう。それが中世以来の念仏化した高野聖の「伝統」が残っている所だったのかもしれません。
四国内で隔夜念仏が行われたのは、江戸時代前期の延宝頃で、この時期は真念が四国辺路した時代と重なりあいます。真念は伊予や土佐の札所で、鉦を叩きながら念仏を唱える隔夜僧に出会ったはずです。
どちらにしても、真念が廻った17世紀後半の四国霊場は、南無阿弥陀仏を唱え参拝する念仏僧や、隔夜行で念仏を唱えながら夜の遍路道を参拝する人たちいたのです。まだまだ、念仏・阿弥陀信仰は霊場に根付いていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰