瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の四国霊場 > 大興寺

四国遍礼霊場記

寂本の『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)には、大興寺が次のように記されています。
「小松尾山大興寺、此寺(弘法)大師弘仁十三年に開聞し玉ふとなり。そのかみは七堂伽藍の所、いまに堂塔の礎石あり。其隆なりし時は、台密二教講学の練衆蝗のごとく群をなせりとなん。豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。
 本尊薬師如来、脇士不動毘沙門立像長四尺、皆大大師の御作。十二神各長三尺二寸、湛慶作なり。
本堂の右に鎮守熊野権現の祠、
左に大師の御影堂、大師の像堪慶作なり。
天台大師の御影あり、醍醐勝覚の裏書あり。大興寺とある額あり、従三位藤原朝臣経朝文永四丁卯歳七月廿二日丁未書之、如此うら書あり。是経朝は世尊寺家也、行成八世の孫ときこゆ。むかしのさかえし事をおもひやる。ちかき比まで宝塔・鐘楼ありとなり。」
意訳変換しておくと
小松尾山大興寺は、弘法大師によって開かれとされる。古くは七堂伽藍がそろっていたが、現在は礎石のみが残っている。かつては天台・真言密教の兼宗で、隆盛を極め学僧が蝗のように群をなして集まったという。豊田郡小松尾村に寺があるので、小松尾寺とも呼び、山号としている。
 本尊は薬師如来、脇士は不動と毘沙門立像で長四尺、これらは皆、弘法大師の御作である。
熊野十二神の本地仏はそれぞれ長三尺二寸で、湛慶作。
本堂の右に鎮守である熊野権現の祠、
左に弘法大師の御影堂、大師像は堪慶作。
ここに天台大師の御影もあり、醍醐勝覚の裏書がある。
大興寺と書かれた扁額は、従三位藤原朝臣経朝が文永四丁卯歳七月廿二日丁未に書いたもので、裏書もある。経朝は世尊寺家でm行成八世の孫と伝えられる。ここからは、かつてのこの寺の繁栄ぶりを垣間見ることができる。近頃までは、宝塔・鐘楼もあったという。

  内容を要約しておきます。
大興寺 四国遍礼霊場記

A 弘法大師開祖で、かつては七堂伽藍の大寺でいまに礎石が残る
B 隆盛を極めた時代には、数多くの学僧が学んだ台密二教(天台・真言)の学問寺であった。
C 本堂の右(本堂に向って左側)に鎮守である②熊野権現の祠、
D 本堂の左(本堂に向って右側)に③御影堂(大師堂)
E 大師堂には弘法大師と天台大師の両像が安置。
F 別当寺の④本興寺は、本堂(薬師堂)の下の段にあった

熊野権現とその本地仏・薬師如来を安置する①本堂(薬師堂)が上の段にあって、別当寺(大興寺)は、一団低い所にあります。ここからは、太興寺の社僧たちが、熊野権現に奉仕する宗教施設であったことがうかがえます。ここでは、神仏混淆下の中世の大興寺が熊野権現を中心とする宗教施設であったことを押さえておきます。

 さて、今日は③の大師堂(御影堂)に安置されている弘法大師と天台大師のふたつの像について見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭  熊野信仰と弘法大師像」  四国へんろの歴史33P」です。

まずは天台大師坐像(像高73、9㎝)から見ていくことにします。
大興寺 天台大師
天台大師坐像(大興寺)
天台大師とは?
天台大師智顗(ちぎ)は、中国のお釈迦さまと云われ、隋の煬帝から深く尊敬され、「智者」の名を贈られた僧侶です。浙江省の天台山で修行し、そこで亡くなったので、天台大師とも呼ばれます。天台とは、天帝が住んでいる天の紫微宮(しびきゅう)〈北極星を中心とした星座〉を守る上台、中台、下台の三つの星を意味し、天台山は聖地として信仰されていました。
 天台大師は、インドから伝えられた膨大な経典を、ひとつひとつ調べて整理し、その中で法華経が一番尊く、すべての人々を救うことができるお経であるとします。法華三大部は鑑真和尚によって日本に伝えられ、最澄の目にとまります。最澄は、桓武天皇の許可を得て遣唐使と共に中国に渡り、天台山を尋ねて、研鑽を深め帰国後に日本天台宗を開きます。天台宗では、天台大師を高祖、最澄(伝教大師)を宗祖と呼んで、仏壇に二人の画像をかかげます。
この天台大師坐像の胎内には、次のような墨書が記されています。

建治弐年□子八月 
大願主勝覚 
金剛仏子 
大檀那大夫公 
    房長 
大仏師法橋
    仏慶
次に、弘法大師座像(像高72、5㎝)を見ていくことにします。
6大興寺5弘法大師
弘法大師座像(大興寺)
弘法大師像にも、次のような墨書があります。
体部背面の内側部
建治弐年丙子八月日
大願主勝覚生年□
大檀那広田成願□
大仏師法橋仏慶
 東大寺末流

讃州大興寺
別の箇所
建治式年歳次丙子八月二日大願主勝覚
生年四拾五  山林斗藪修行者 金剛仏子
大檀那讃岐国多度郡住人 広田成願房
(体部前面材の内側部)
丹慶法印弟子
大仏師仏慶
東大寺流
 讚岐国豊田郡大興寺
ここからは次のようなことが分かります。
①造立は鎌倉時代後期の建治二年(1276)で、両像は一緒に作られたセット像であること、そのため像高も同じ大きさ。
②大願主は勝覚
③仏師は東大寺流を名乗る大仏師仏慶、
④大檀那は天台大師像は房長、弘法大師像は広円の成願
 両像の発注者(大願主)の勝覚とは、何者なのでしょうか?
彼の「肩書き」は、「山林斗藪修行者金剛仏子」とあります。山林斗藪修行者とは、山伏(修験者)のことです。つまり、ふたつの像の発注者の金剛仏子勝覚は、「金剛仏子」という言葉から熊野系の山伏だったことがうかがえます。そうだとすると、勝覚は「弘法大師信仰 + 熊野信仰」の持ち主で、彼の中でこの二つの信仰が融合されていたことになります。
 ここで確認しておきたいのは、「弘法大師信仰」と「熊野信仰」が、この寺にやって来たのは、どちらが先なのかと云うことです。それは、今まで見てきたように、大興寺は中世に、熊野神社の別当として、熊野行者達によって再興された別当寺です。信仰の中心にあったのは熊野信仰で、熊野行者達がそれを担っていました。
ここでは、大興寺に最初に入ってきたのは熊野信仰だった押さえておきます。熊野行者は、もともとは天台系の修験者でした。その後の出現順は、次の通りです

①熊野行者(天台系修験者)
②天台・真言の両宗兼備の修験者(聖)
③真言系の熊野行者(修験者)

 天台系の熊野行者から真言系の熊野行者への移行が大興寺でも行われたことがうかがえます。
 寂本の『四国徊礼霊場記』の中には、次のようにありました。

「大興寺が隆盛を誇った時代には、数多くの学僧が学んだ台密二教(天台・真言)の=学問寺であった。」

願主の勝覚は「台密二教(天台・真言)の=学問寺(大興寺)」で学んだと考えるのが自然です。しかし、「金剛仏子勝覚」とあります。「金剛」は真言系僧侶の象徴です。彼は、真言系修験者であったことは、先ほど見たとおりです。しかし、同時に、天台大師の坐像も奉納しています。彼が天台宗についてもリスペクトしていたことが分かります。勝覚の信仰世界は「弘法大師信仰 + 熊野信仰 + 天台信仰」が融合された世界だったとしておきます。
6大興寺本尊薬師如来
大興寺本尊の薬師如来 那智本宮の本地仏

 ちなみに、讃岐の雲辺寺や道隆寺・金倉寺なども学問寺でした。修験者や聖・学問僧が全国から頻繁にやってきては修行としての写経を行っています。そして、どこもが台密二教(天台・真言)の=学問寺だったと、寺歴や縁起で伝えます。これをどう考えればいいのでしょうか? ここまでを整理してみます。
①古代・中世の熊野信仰は天台系が主流であった。
②そこへ室町時代になると真言系の熊野勧進聖や先達が出てくる。その象徴が醍醐寺開祖の聖宝。
③大興寺に所属した勝覚は、天台大師と弘法大師の両像の大願主となっている。
④ここからは、勝覚が天台、真言の両宗兼備の僧であったことが分かる。
研究者は「両宗兼備の熊野山伏から真言系の熊野山伏が成立」すると考えているようです。
「①熊野行者 → ②天台系修験者 → ③天台・真言の両宗兼備の僧 → ④真言系の熊野山伏」

という出現プロセスがあったというのです。つまり、「熊野信仰と弘法大師信仰」が融合し、結びつくのは、③のような修験者たちによって行われたことになります。太興寺は、それまで熊野信仰を中心に宗教活動を行っていました。それが建治二年(1276)に、弘法大師像が造られたころには、「熊野信仰 + 弘法大師」信仰の二つの中心をもつ宗教施設へと移行していたことがうかがえます。その後に戦乱などで熊野信仰が衰退しすると、熊野信仰から弘法大師信仰へと重心を移していきます。そして、近世半ばになると四国霊場札所へと「脱皮・変身」していくと研究者は考えています。
大興寺の弘法大師と天台大師の二つの坐像は、そのようなことを垣間見せてくれる像のようです。

大興寺 天台大師.2JPG
天台大師坐像(大興寺)
以上をまとめておくと
①大興寺は、古代寺院として開かれたが中世には退転した。
②それを再興したのは、熊野行者達で熊野権現信仰を中心に、別当寺として大興寺を再建した。
③そこでは熊野権現へ社僧の社僧達が奉仕するという神仏混淆の管理運営が行われた。
④社僧達は、熊野行者で修験者でもあり、山岳修行を活発に行う一方、熊野先達なども務めた。
⑤同時に、「天台・真言の両宗兼備」の学問寺として、山岳寺院ネットワークの拠点として、活発な交流をおこなった。
⑥そうした中で14世紀初めの勝覚は天台、真言の両宗兼備の山伏として、弘法大師と天台大師の二つの坐像を奉納した。
⑦これは大興寺が「熊野信仰と弘法大師信仰」の両足で立っていくその後の方向性を示すものでもあった。
⑧近世になって熊野信仰が衰退すると、大興寺は四国霊場札所として生きる道を選択した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

四国へんろの歴史 四国辺路から四国編路へ
参考文献

 2 大興寺全景近代
1902年の大興寺伽藍図 小松尾山不動光院大興寺とある
大興寺は、地元では小松尾寺と呼ばれていました。それが今は、大興寺となっています。どうして、小松尾寺から大興寺に名前が変わったのでしょうか。今回は、寺名が近年になって「変更」された背景を探って行きたいと思います。
もともとこの寺は大興寺と呼ばれていたようです。それは、字名として「大興寺」という地名が残っていることから分かります。ところが、大興寺という字名は、現在地ではありません。下の大興寺周辺の字切図を見てください。

6大興寺周辺の字切地図 
大興寺周辺の古地名(字切図)

国道377号沿いに④「大興寺」や⑥「鐘鋳原」の小字名が見えます。ここからは次の事が推察できます
A もともとの大興寺は、国道377号沿いの「大興寺」にあったこと
B 「鐘鋳原」で出張してきた鋳物師集団によって、大興寺の鐘が作られたこと
これを裏付けるように旧大興寺跡推定地からは、白鳳期の十三葉細素弁蓮華文軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦などの古瓦や鴎尾も出土しています。旧大興寺は、白鳳時代の古代寺院で、国道377号沿いにあったことを押さえておきます。

DSC02082
旧大興寺跡から望む三豊平野と七宝山

  古代氏寺はパトロンの氏族が衰退していくと、寺も退転していきます。
旧大興寺も、同じような道を歩んだようです。それを再興していくのが中世の勧進聖たちです。大興寺に関する中世の資料は、ほとんどありません。中世の遺品としては、次のようなものがあります
①鎌倉時代後期文永4年(1267)銘のある藤原経朝筆の「寺号扁額」
②建治2年(1276)の銘のある「木像天台大師像」「木像弘法大師像」、
③鎌倉時代末期康永3年(1344)6月26日の銘のある「青蓮院尊円親王の書状」
①の「寺号扁額」は木額で、正面に「大興寺」と刻み、背面には「文永四年丁卯七月二二日丁亥書之従三位藤原朝臣経朝」と刻まれています。京の高官藤原経朝が奉納したものとされます。そうだとすると、鎌倉時代には京まで、このお寺の名声伝わっていたことになります。『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』や『寺格昇格勧進之序』に「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍を誇った」とあるので、誇張とばかりは云えません。
 これ以外の中世史料はないのですが、次のような「状況証拠」は得られます。
寺の由来に次のようにあります。

熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として・・・ 建立」

ここにはこの寺が、熊野三所(本宮・那智・新宮)権現の鎮護のための別当寺として建立されたことが記されています。それを裏付けるように、現在の本尊の薬師如来は、熊野権現の本地仏です。

大興寺 四国遍礼霊場記
太興寺(四国遍礼霊場記)
上の四国遍礼霊場記の挿絵では、石段正面に①の薬師堂があって、その両脇に②大師堂と③熊野権現が並んで祀られています。そして、それに奉仕するかのように④大興寺は、その石段の下にあります。ここからも熊野権現が本尊で、その本地仏を祀る別当寺が大興寺だったことが裏付けられます。太興寺の社僧たちによって、熊野権現が神仏混淆状態で信仰されていたことがうかがえます。

6大興寺薬師本尊2g
大興寺の本尊・薬師如来 薬師如来は熊野本宮の本地仏

以上から、中世の大興寺は、熊野権現社とその本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が集まり住む僧侶集団全体が大興寺と呼ばれたとしておきます。そして、周辺にはいくつもの坊や子院があったのです。
大興寺は、いつ、誰の手によって現在地に移動してきたのでしょうか?
慶長2年(1597)の棟札には、次のように記されています。
「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」
「諸堂大破而瑕(仮)堂建立」
ここからは「諸堂大破した後に仮堂を建立」されたこと。願主は末寺の「泉上坊」と「乗林坊」だったことが分かります。

6大興寺周辺の字切地図 

先ほどの字切図に残る字名で⑦「泉上坊」を探すと、それは現在の大興寺周辺にあります。つまり、近世初頭に大興寺の復興を担ったのが「泉上坊や乗林坊」で、彼らは退転した旧大興寺を、自分たちの坊の近くに移動させて仮堂を再建したと研究者は考えています。古代中世の大興寺が現在地へ遷ってきたのは、近世初頭の生駒藩時代ということになります。
 「移転再興」を行った「泉上坊」と「乗林坊」とは、どんな性格の宗教者だったのでしょうか?
それを考える材料は、次の2点です。
①「近世の大興寺が萩原寺の末寺に属し、現在は真言宗善通寺派に属していること」
②「雲辺寺との関係の深さ」
ここからは、真言系密教修験者の姿が想像できます。「泉上坊」と「乗林坊」は、修験者のお寺(山伏寺)だったようです。ここからは、大興寺を支える宗教者が、中世の熊野行者から真言系密教修験者へと移り替わったことがうかがえます。ちなみにこの時期の金毘羅大権現では、修験者宥盛によって金光院が勢力を拡大している頃で、高野山系の真言密教修験者たちが活発に動いていた時代です。
移転し、仮堂を建てた所の地名が小松尾でした。
中世や近世では、お寺を呼ぶ際に地名で呼ぶことがよくありました。移転した大興寺も地元では「小松尾寺」と呼ばれるようになります。近世はじめの史料を見てみましょう。
①澄禅『四国辺路日記』に「小松尾寺 本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。(以下略)」。
②真念「四国辺路道指南』に「小松尾山、東むき、豊田郡辻村、本尊薬師、坐長二尺五寸、大師御作」
③寂本「四国遍礼霊場記』には、「小松尾山大興寺」
④詠歌には「植置し小松尾寺をながむれば法のおしへの風ぞふきぬる」
など、17世紀後半の案内記はすべて、小松尾寺として登場します。
  しかし、大興寺所蔵の公的文書に「小松尾寺」が使われている例はないようです。確かに江戸時代前期の真念などの案内記「小松尾寺」と表記されていました。しかし、寂本は「豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。」と記しています。小松尾村にある寺だから「小松尾寺」と呼ばれていると云うのです。
 以上から、小松尾寺は通称地名で、古来からの「大興寺」が正式な名称であったと研究者は考えています。近世・近代を通じて「小松尾寺」と「大興寺」という2つの寺名が並立して使用されてきたのです。ここからは私の想像です。

 万博も終わった頃に、国道377号のバイパス工事化が行われ、新たに「小松尾寺」への道標が掲げられた。これに対して大興寺側からクレームが出された。当寺の正式名称は「大興寺」である。勝手に、「小松尾寺」という看板を出すのは如何なものか。今回は甘受するが、次回の改修時には「大興寺」とするように善処していただきたい。これを受けて公官庁の文書では「小松尾寺」に替わって正式名称「大興寺」が用いられるようになった。

これは、あくまで私の創作話です。悪しからず。

以上をまとめておきます。
①この地には白鳳時代の古代寺院として大興寺が建立された。
②中世になると退転した大興寺に、熊野行者達が熊野神社を勧進し、その別当寺として再建した。
③中世の大興寺は神仏混淆下で、熊野行者達が管理・運営を行った。
④大興寺の熊野行者は、熊野詣での先達を務める一方で、山林修行者として雲辺寺や萩原寺(大野原町)・道隆寺(多度津)などの山岳寺院とのネットワークを結び活発な活動を展開した。
⑤しかし、戦乱の中で熊野先達業務が行えなくなり、熊野行者の活動が衰退し、大興寺も衰退する。
⑥退転していた道隆寺を現在地に移転させ、仮堂を建立したのは勧進修験者である。
⑦移転地が「小松尾」と呼ばれる地名だったので、近世には小松尾寺と呼ばれるようになった。
⑧戦後になって、正式名称「大興寺」に「統一」させた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年

 日の平山…立岩山…市間山…立岩ダム 2015/12/20
六十六部の札所寺院への勧進活動を以前に追いかけました。今回はエリアを、66番大興寺周辺に特定して、見ていくことにします。テキストは 武田和昭 「四国辺路」納経帳の起源 四国辺路の形成過程所収」です。
四国八十八カ所巡り 第67番札所大興寺 第66番札所雲辺寺 そしてやっぱり讃岐うどん | あるがまま

まずは66番大興寺の仁王門から始めましょう。
この仁王門は、以前にお話ししたように関東からやってきた唯円という廻国行者によって建立されたようです。善通寺の「善通寺大搭再興雑記」には、唯円のことが次のように記されています。(意訳のみ))
「唯縁(円)勧進用此序」
唯円は武州豊島郡浅部本村新町の遍行寺の弟子で、順誉と号した廻国行者で、享保12(1727)年2月9日から勧進を始め、同21年まで、およそ十年の勧進を行った。この勧進活動の前には、讃岐豊田郡の67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を行っていた。その後、善通寺の五重塔の勧進活動をはじめ、その造立の基礎を打ち立てた。
 ここからは唯円が、小松尾寺の仁王門建立の勧進業績を買われて、善通寺五重塔の勧進活動に携わるようになったことが分かります。唯円は廻国行者で、六十六部であった可能性が高いと研究者は考えているようです。
 唯円の再築から60年後に、この仁王門は改修されています。
その改修について仁王門脇の自然石には、次のように刻まれています。
   播州池田回国
    金子志 小兵衛
寛政元(1789)年    十方施主
奉再興仁王尊像 並門修覆為廻国中供養
 己山―月     本願主 長崎廻国大助
ここからは、長崎の廻国行者大助が、仁王像と仁王門を勧進修理したことが分かります。大助も、助力した播磨池田の小兵衛もともに廻国行者で、六十六部だったようです。
2 大興寺 仁王像

仁王像は鎌倉時代初期に造られた物で像高2mを超す大きな像で、現在は香川県指定文化財です。仁王門の台石にも、数多くの人名が刻まれています。これらの人々の力によって改修のための費用は賄われたのでしょう。修理規模がどの程度腕、勧進金額がどのくらいだったかなどは分かりません。しかし、勧進を仕切ったのは、他国からやって来た廻国行者であったことを、この仁王たちは見ていたのでしょう。 大興寺には廻国行者(六十六部)たちが、仏像や建物について勧進活動をして、その経営を支えていた歴史があるようです。
2 大興寺全景近代

大興寺の境内南側には、次のような六十六部に関する石塔が2基建立されているようです。
廻国供養塔
     宝暦七丁丑四月日
奉一字一石大乗妙典日本廻国供養
     中□□口巴
        □□古兵衛武啓
(六十六部廻国塔)
     安永十辛丑
奉納大乗妙典六十六部日本廻国
     三月良辰日
  修行者行本 俗名河内村□□朋有兵衛門

宝暦七年(1757)と安永十年(1781)の廻国供養搭です。前者の古兵衛武啓は大興寺に近い地元の人物で、後者も地元の河内村の人物です。この他にも本堂横には、石造地蔵書薩台座に亨保六年、長州萩の六十六部廻者行者の名前が見あります。これらの供養塔からは廻国行者と合わせ、大興寺を中心にして、六十六部廻国行者の活動が活発だったことがうかがえます。
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六十七番大興寺の周辺には、六十六の活動が遍路沿いにもみることができるようです。
大興寺から辺路道を66番雲辺寺に向かっていくと、柞田川の支流をせき止めた岩鍋池の大きな堰堤と、その向こうに式内社の粟井神社が見えてきます。岩鍋池堰堤手前の道路沿いに、小さな庵が建っています。これが土仏観音という庵です。
1土仏観音

この庵には「土仏緑起」(享保15年)という縁起が残されています。そこには、次のように記されています。
 合田利兵衛正照という栗井村の住人が父母孝養、二世安楽を願い、享保六年(1721)正月に日本廻国の旅に出た。五躯の仏像を入れた笈を背負い、錫杖を持ち、諸国を押鉦を鳴らしながら、「国々島々残らず回り」、納経霊地730余ケ所、 二千日を掛けて廻り帰村した。廻国の途中、上野国で観音菩薩の頭部を掘り出し、その後江戸で勧進して資金を得て体部を造り、当地に持ち帰り、庵を建立したという。

ここからは、次のようなことが分かります。
①享保年間(18世紀前半)の合田利兵衛が5年間の六十六部廻国修行を行った。
②途中、上野国で掘り出した観音像の頭部修理するために、江戸中を念仏の鉦を叩き二銭ずつの勧進を2年間行った。
③35両を集め、江戸の大仏師性雲に修理してもらい観音寺まで背負って持ち帰った
④その観音像を安置し、四国遍路のために土仏庵を建立した
 ここに祀られている観音様は上野国生まれで、江戸修理され、ここに持ち帰られたものが安置されていることになります。同時に、この庵は、四国遍路の接待のための場として造られたことが分かります。
2土仏観音


ちなみに 合田利兵衛正照が廻国行に旅立った享保六年(1721)正月です。先ほど見た唯円が67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を始める前後と重なり合います。小説的に想像力を膨らませると、唯円が大興寺に小庵を構え勧進活動を起こしていく様を、合田利兵衛正照は見ていたのかも知れません。もっと云えば、唯円のもとに通い教えを受けていた可能性もあります。それが彼を、六十六部として全国廻国に向かわせたというストーリーは考えられます。栗井村の住人が六十六部廻国行者となり、廻国修行を行っていたことを押さえておきます。
土仏観音院

この土仏庵の周辺には、いくつかの石碑や地蔵が建ち並んでいます。その中に享保六(1721)年に「濃州土器群妻木村求清房」という廻国行者が建てた地蔵菩薩があります。さらに彼が関わった享保五年~六年に建立された丁石も残されているようです。
ここからも亨保の初め頃、栗井の地に他国からやってきた廻国行者が住み着き、その人物と土地の合田利兵衛正照との間に何らかの関係が生まれ育ち、正照が廻国行者となったと考えることもできそうです。
1白藤大師堂

さらに遍路道を粟井に向かって進んでいくと、集落の入口に白藤大師堂があります。
ここにも3基の六十六部廻国供養塔が建っています。
  六十六部廻国塔
明和四(1767)丁亥天十一月吉良日
天下泰平
(種子)奉納大乗妙典六十六部日本廻国塔
国土安全
出羽国最上村山郡
   常接待建立十方施主 寒河江村願主覚心
  (地蔵菩薩台座名)
奉納大乗妙典六十六部日本廻国十方施主
万人講供養羽州村山郡寒河江村願主覚心法師
明和九(1772)辰天七月二十四日
  (六十六部廻国供養塔)
天下泰平 安政六己未 摂州武庫郡鳴尾村 清順
奉納大乗妙典日本廻国供養塔
日月清明 三月古日 世話人 奥谷講中
ここには「円誉覚心禅定門霊  安永五(1776)内申五月二十六日 行年六十一歳」の墓碑もあります。ここに出てくる覚心とは何者なのでしょうか?
白藤大師堂 Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com

『粟井村誌』(昭和25年刊)には、覚心のことが次のように記されています。
覚心は出羽国村山郡寒河江村の生まれで、四国八十八ケ所を数十回も辺路した廻国行者である。覚心は雲辺寺から麓の粟井まで随分と距離があり、さらに人家もなく辺路の人々が苦労していることから、粟井村の庄屋に願い出て村から寄進された土地に宝磨五(1755)年に庵を、同7年に大師堂を建立した。その後は、そこで辺路の人々に接待が行われるようになった
ここからは現在の山形県寒河江村市からやってきた六十六部廻国行者の覚心が四国遍路を何十回も行う中で、何らかの縁を得て、粟井村に留まるようになったことがうかがえます。そして、彼は地元の有力者に働きかけ庵や大師堂を建立し、遍路のために提供したようです。後には、ここが接待の拠点となっていったのでしょう。私は、雨露をしのぐ庵などは、地元の人たちの発案で行われたものと、思い込んでいましたが、どうもそうではないようです。ここにも外部からやって来た「有能」の人たちの発案と働きかけがあって実現したものであったことが分かります。

覚心という廻国行者は、戒名「誉」の係字がありますから、浄土系念仏行者のようです。覚心のような人物によって、周囲の村々に念仏講などが広がっていくのかもしれません。なお覚心は粟井村に来る前に、屋島壇ノ浦の大楽寺にも廻国塔(宝暦13年)を建立しているようです。

 さらにこの地域に、その他にも六十六部廻国行者の存在のがうかがえる者が残されています。白藤大師堂から少し下った所に立つ地蔵菩薩台石には、次のように掘り込まれています。
  享保九年  (梵字)遍路 六部 札供養 十一月二十一日

ここからは享保9(1724)年に遍路と六十六部廻国行者の札供養が行なわれたことが分かります。札供養とは、どんなことか私には分かりません。研究者は辺路や六十六部が納めた札を、この石塔の下に納めて供養を行ったと考えているようです。ここからも、四国遍路とともに数多くの六十六部廻国行者が、粟井の地を通過していたことがうかがえます。
十返舎一九_00006 六十六部

十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

紹介してきた太興寺周辺の六十六部の活動を、時系列に年表化してみましょう
宝永7年(1710) 粟井に六十六部の廻国供養塔建立
享保6年(1721) 地元粟井村の合田利兵衛正照が全国廻国行に旅立つ。同年に「濃州土器郡妻木村の求清房」という廻国行者が地蔵菩薩や丁石を建立。
享保9年(1724) 粟井に遍路と六十六部廻国行者の札供養行われる
享保12年(1727)唯円により善通寺の五重塔の勧進活動をはじまる。唯円はそれ以前に、大興寺仁王門を勧進で建立した実績あり
宝磨5年(1755) 覚心により粟井に庵が建立   同7年に大師堂を建立
宝暦七年(1757) 地元の古兵衛武啓が大興寺境内に廻国供養塔建立
明和4年(1767) 覚心の六十六部日本廻国塔が粟井に建立
安永5年(1776) 覚心の墓碑が建てられる(行年61歳)
安永十年(1781) 河内村の有兵衛門の廻国供養搭が太興寺境内に建立
寛成元年(1789) 長崎の廻国行者大助が、大興寺の仁王像と仁王門を修理勧進

こうしてみると、雲辺寺の麓の粟井の辺路道筋には、六十六部廻国行者の痕跡が色濃く残っていることが分かってきます。土仏庵から白藤大師堂の間には、宝永7年(1710)の六十六部の廻国供養塔が残されているので、かなり早い時期から粟井の谷には六十六部廻国行者が、入り込んできていたことがうかがえます。
 大興寺という札所で仁王門の勧進活動を行い、札所寺院に利益を与え、実績や評判を高め、さらに辺路道沿いにある庵など進出していく六十六部廻国行者の姿が見えてきます。弘法大師伝説をひろめ功徳のためにお接待の心を説いたのも彼らかも知れません。六十六部廻国行者は四国辺路の中に、重要な役割を持って組み込まれていたようです。
焼津市/横山九郎右衛門の六十六部廻国関係資料
六十六部の笈(焼津市六十六部関係資料)

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 
6大興寺 明治の伽藍図

前回までは、大興寺の歴史や伽藍変遷について見てきました。今回は、報告書を見ながら実際に諸堂を廻ってみたいと思います。その前に「復習」しておくと
①太興寺は白鳳期の古代寺院からスタートしている
②中世期は、熊野権現の別当寺として修験者達の拠点でもあった
③戦国期に衰退し、江戸時代になって現在地に移転してきて伽藍整備が進んだ
④それを勧めたのは現在の房号となっている山伏寺の泉上坊である。
⑤よって、建造物は江戸時代後期のものがほとんどである。
⑥仏像も近世以後のものが多いが一部平安期に遡るものもある。
以上の予備知識を頭の中に入れて「見仏記」を始めましょう。

6大興寺2
まず駐車場から下りて迎えてくれるのは仁王門です。
 この仁王門には棟札が残されていて、寛政8年(1796)に再興されたことがわかります。報告書には、その特徴を次のように指摘します。
「建物の各様式は、江戸時代中夜期の特徴をよく現し、後期の装飾性の高い建物への移行を検討する指標になる建物]
「禅宗様を多分に取り入れた折衷様式が18世紀以降盛んに使われて定形化していく過程の位置基準」

 仁王門前には寛政元年(1789)の銘のある石造物に、
「再興 仁王尊像井門修覆為廻国中供養」とあり、仁王門の修覆記念碑と考えられます。
ここからはこの仁王門が、寛政元年に長崎廻国の大助が中心となり、仁王門の修覆に取り掛かり、8年後の寛政8年に完成したとものと考えることができます。全国を廻国する勧進者のネットワークの力で二百年以上前に建立されたもののようです。

6大興寺8
仁王門の阿吽の金剛力士像に、御挨拶します。報告書には次のように紹介されています
力感にあふれた写実的な造形は、鎌倉時代中ごろの制作とみられよう。
本像にみる塊量性の強さは、当代に流行した慶派風の引き締まった体躯の力士像とは異質であり、やや古風な趣きのあることが指摘されよう。寛政2年(1790)に彩色がなされ、門の修理がなされたことは木札2と門前の石碑から知られ、肥前長崎の安藤大助が本願主とする廻国行者たちの助力によるものであった。現状は彩色がほとんど剥落しているが、吽形の鼻孔内には朱彩が残る。
6大興寺9

つまり、この仁王さん達は、大興寺が現在地にやって来る前の古い伽藍にあった仏達ということになります。戦火の中で仁王門は焼かれても、僧侶達によって運び出され隠されていたのかもしれません。「古風な趣」の仁王さんと評されていますが、確かにボデービルダーのような筋肉隆々感はありません。そして、作られた鎌倉時代には朱で彩られていたようです。
6大興寺3
仁王門をくぐると正面に三段の石段が迎えてくれます。
報告書は、この石段についても「調査」しています。その石段にお付き合いします。仁王門から真っ直ぐに本堂に登って行く上図の黒く塗られた部分が凝灰岩が用いられている石段です。3つの石段の内、下段と上段が凝灰岩製の切石、中段が花岡岩の切石を使用していようです。下段の凝灰岩は、よく見ると風化が進み、ひび割れたりすり減ったりして、歴史を感じさせてくれます。
6太興寺切石

さて、ここから専門家の分析を聞いてみましょうです。
 この石段に使用されている凝灰岩には、
小豆島の西の豊島(てしま)で産出される「豊島石」
三豊と仲多度の境にまたがる天霧山で切り出された「天霧石」
の2種類が確認できる。
この2種類の石材の特徴は、
「豊島石」が「含有する黒っぽい安山岩が均質で、長石を含む」
「天霧石」が「含有する灰色っぽい安山岩が不均質で、長石が少なく、火山灰が多い」特徴を持つ。
 この特徴から、石段を詳細にみると、下段は左側に砂岩製の耳石を確認するが、ほとんどが「豊島石」であることが解る。また、上段は左右に「豊島石」の縁石及び耳石を確認するが、これ以外は「天霧石」であることが解る。
 県内の石塔などの石造物に使用する石材として、「豊島石」は15世紀後半から使用が確認でき、以降多用される。一方、「天霧石」は鎌倉中・後期からの使用が確認でき、17世紀に盛行することが確認されている。  大興寺の石段も当初は「豊島石」を使用していたが、のちに「天霧石」を使用したことが伺われる。
つまり、大興寺で諸堂が相次いで建立され、伽藍整備が進んだ17世紀後半に、ちょうど「豊島石」「天霧石」が石造物に多用されていると指摘します。この下段と上段の石段の整備は、本堂・大師堂の建立に伴い、境内の整備の一環として、構築されたものと研究者は考えています。
 大興寺境内では、この他にも、次のような所に凝灰岩の切石が使われています
仁王門の基壇前面の縁石
弘法大師堂の基壇右側の縁石
天台大師堂の基壇前面の縁石
庫裡門の基壇前後の縁石
の4ヶ所で、これらは全て「豊島石」の凝灰岩です。この4ヶ所以外は、花崗岩の切石を使用されています。
6大興寺16

報告書では、さらに話を進めて花崗岩の切石で境内を整備した時期がいつなのか探ります。
棟札からは寛保元年(1741)に本堂を再建、天保15年(1844)に屋根の修復を行ったことが分かります。江戸時代後半のこの時期に、風化した凝灰岩に替えて、花岡岩の切石で補修したと研究者は考えているようです。
 何気なく踏んで歩いている石段にまで、研究者は「調査研究」の視線を注いでいるようです。あらためて二百年ほど前に、瀬戸内海の島で切り出され、ここまで運ばれてきた石段の上を歩いているのだと、言い聞かせながら石段を登って行きます。
6大興寺18弘法大師堂.jezupg

石段の下の段を上って辺りを見回して欲しいのです。このあたりは平地になっています。
前回見てもらった僧寂本によって書かれた『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)の太興寺です。この平地に、この時点では大興寺があったことが分かります。また、太子堂や天台堂がここに下りてきた時期もありました。今は何もなくなって参道のみとなっています。
6大興寺1.本堂jpg

階段を登り切ると正面に本堂が迎えてくれます。
○本堂は、以下のような建立・改修を経てきた事が残された史料から分かります。
慶長2年(1597)に仮堂を建立して以来、承応2年(1653)を経て、
寛文9年(1669)に本堂を建立し、
寛保元年(1741)に、薬師堂(本堂)が再建
天保15年(1844)に屋根の修復
  しかし、調査報告書は「寛保元年(1741)の、薬師堂(本堂)再建説」に「異議あり!」として、次のような見解を示します。
  本堂の細部の様式をみると、寛政8年(1789)に再建された仁王門の頭貫や大斗の木鼻と酷似しており、安直に寛保再建を肯定することはできない。天保棟札にあるように、屋根勾配の緩い箇所や、日当たりの悪い面の修理が行われたこと、同時に仁王門や鐘楼堂の瓦修理も行われたこと、さらに江戸後期の瓦の品質があまり良くないことを考慮すると天保15年の50~60年前に再建されたものと考えられる。
  つまり、仁王門の修理と同じ時期の寛政8年(1789)に再建説を唱え、再建時期を50年遅らせるべきだとしています。どちらにしても、約四百年前の仮堂建立から現在まで、本堂の位置はほとんど動いてないようです。
6大興寺1
 報告書は本堂の総合所見を次のように述べます    
 内部については、内陣・後陣境の組物等に改修の痕跡がある。(中略)
中央来迎壁上部の天女の彫刻が江戸末期のものと推測できることから、弘法大師堂が建設された慶応元年頃に大きな改造が行われたと考える。
 平面形式では、一正面柱間は中央間から外へ柱間を落とし、側面は正面一間通りを礼堂的な外陣、内竃部分二間は床を上げて、建具で仕切り、柱間を外陣よりやや広くしている。後陣は外部からは半丸柱で二間とするが、内部は一間扱いとなり、外観上は五間堂であるが、梁間の空間は四間と考えられることから、密教建築の流れといえなくもない。どういった意図でこの平面計画としたかは定かではないが、興味深いところである。
 当本堂は、県下でも数少ない五間堂の遺構で、内部空間の扱いも密教系仏堂の流れがあり、内陣廻に改造がみられるものの、細部の様式も含め近世後期の特徴ある建物の一つに数えることができる。
次の3ポイントを頭の中に入れておきます
①江戸末期の弘法大師堂建設の際に、大きな改造が行われている
②内部空間に密教的な流れが感じられる
③五間堂は県下でも数少ない近世後期本堂である
さていよいよ本尊様にお会いしたいのですが・・・
残念ながらこの寺の本尊は秘仏という事で、お会いする事は出来ないようです。
6大興寺本尊薬師如来
大興寺本尊薬師如来坐像
写真と報告書で本尊にお会いしに行く事にします。
 薬師如来坐像が本尊です。報告書の所見を読みます
 (前略)
 右肩部から先の腕部は別材を寄せ、腹前で膝前部の横一材を寄せ付ける。左手首は体亙に差し込み、薬壷を掌上に置く。現状の仕上げは体部金泥衣部漆箔かとみられるが、仔細に観察すると大衣部には赤みが感じられるので、朱彩色の名残りとすれば、当初は朱衣金体像であった可能性がある。
 本像の造形は肩張り緩やかに肥痩なく均整良くまとめられ、全体に彫りの抑揚は少なく穏やかなで優美な印象が強い。この作風は平安時代に流行した、いわゆる定朝様に範をとったものといえる。等身で像ながら割り首としない一木割矧造の技量や、また、頭体の一材共木観をも伝えるものとしても興味深い作例といえる。
 定朝様は、平安時代中後期において全国的に風廊するが、木像面部にみる瞼の柔かな盛り上がり方や眼嵩の特徴ある窪み、あるいは豊かに張る頬の様子や整えられた衣文などからすれば、その制作年代は定朝活躍の時期に近い11世紀中後半ころかと推測される。
 この寺にある仏像は、平安時代3点、鎌倉時代4点、室町時代1点、江戸時代29点で、金銅製の神仏習合時代の懸仏中尊1点以外は、すべて木彫と報告書は記します。
平安期の仏さんのひとつで「11世紀中頃の定朝様の観音坐像」です。
6大興寺薬師本尊2g
 なぜ、お薬師さんがこの寺の本尊なのでしょうか?
 それは、まずここには熊野権現が勧進され、熊野神社が鎮座したからです。
神仏習合の時代には、熊野権現の本地仏は薬師さまでした。そこで熊野権現を勧進した行者は、この地の有力者の保護を受けつつ、熊野神社を建立し、別当寺として太興寺を建て、社僧として別当職を勤めるようになったというのが私の想像です。この仏も仁王さまと同じく戦果を逃れて、太興寺がここに遷た以後は、この本堂に秘仏として座っていらっしゃるのでしょう。 
  観音坐像の脇士として、両脇に立っているのが毘沙門天と不動明王です
報告書を見てみましょう。
6太興寺HPTIMAGE
不動明王立像は両眼開目して、

牙上出し、巻毛、頂蓮をつける。右手を垂下して剣を執り、左手は屈劈して絹索を握る。着衣の彫りは浅く、忿怒相も控えめであり、制作は平安時代後期期とみられるものである。

6太興寺
毘沙門天立像は、
現状では後世の修理を受けて粗い彫り口を呈する状態にあるが、頭部天冠台に遺された、列弁の内側に花弁型の飾りをあしらう形式は、平安時後期の特徴的な意匠であり、本像の制作年代を示しているものとみられよう。
中尊の左右に不動明王と毘沙門天天像を配する形式は、比叡山横川の観音堂に起源するとされるが、薬師如来が朱、衣金体であることころと併せて尊像構成も天台の系譜をひくものかと推測される。
本尊の薬師さんを、修験者の守護神である不動さんと毘沙門さんがお守りするというのも、いかにも密教修験者の寺らしい取り合わせだと思います。
この他に本堂には、江戸期の十二神将やかつて焔魔堂に祀られていた閻魔十王と奪衣婆の十一体も同居していて、にぎやかな雰囲気です。
6大興寺7 地蔵堂前
 報告書が気にしているのは「正面外陣に安置される地蔵菩薩立像」のようです。
 ほぼ等身大の地蔵さまについて次のように記します
作風と構造から江戸時代中ごろ以降とみられる。外陣に安置されることは客仏である可能性が高く、旧所在が不明なのは大いに不審である。像高からしてあるいは中世に所在した旧大興寺の本尊であった可能性もあるのではなかろうか。
 
私は、近世の絵図に仁王門前に描かれている「地蔵堂」に祀られていたお地蔵さまではないかと思っています。近世には地蔵信仰が庶民に広がり、新たに地蔵を祀る地蔵堂が霊場にも姿を見えるようになります。
6大興寺13

境内を歩いて感じる事は、直線的で近世近代的な伽藍配置であることです。それは、この寺が近世後半になって新しい場所で新しい伽藍が作られていったのですから当然かも知れません。しかし、江戸時代後半に出来上がった本堂には、平安期の観音様と不動様・毘沙門様がいらっしゃいました。
  以上、本堂まで見てきましたが今回はここまで
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
6大興寺5弘法大師

参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年
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6大興寺 明治の伽藍図

これは今から約120年ほど前の大興寺の伽藍図です。
日露戦争直前の明治末にあたる時代で、神仏分離を経た境内の姿が描かれています。これを見ると中央に本堂、本堂から見て右に大師堂、左に天台堂があります。大師堂前には茶堂、手洗が、天台堂前には地蔵菩薩立像、鐘楼が描かれています。
さらに左に客殿、庫裡などの建物があります。伽藍配置は、本堂と大師堂、天台堂が横一線に並び、前側に茶堂、手洗、鐘楼が並んでいます。階段を下ると右側に護摩堂があり、左側は竹藪です。また、仁王門前の境内外には地蔵堂が描かれています。
6大興寺15
この明治35年の絵図と現在の大興寺境内の建物配置は、基本的には同じことが分かります。この百年間は伽藍配置は大きく変わっていないようです。ただ現在は茶堂、護摩堂、地蔵堂がなくなっています。例えば、現在の仁王門の川の向こう側に立っていらっしゃる地蔵さまは、この絵図の右下地蔵堂にあったものかも知れません。
6大興寺13
かつての地蔵前に立つお地蔵さん
私が、気になるは本堂の左の社です。
明治の神仏分離の跡なので、境内の外にあるようにも見えますが、この社が熊野権現です。鳥居があるのが分かります。この社は熊野権現が勧進されもので、その別当寺を勤めていたのが大興寺だったことは前回にお話ししたとおりです。そういう意味では、この寺の原点はこの熊野権現の社であったともいえます。それは、蔵王権現の本地仏が薬師如来で、このお寺の本尊として祀られていることからも分かります。推測を交えて言うのなら、かつては熊野権現は北面して鎮座し、それに仕えるように北へ延びる参道の西側に本堂や太子堂・天台堂が並んでいたとも考えられます。
6大興寺2.熊野権現
一番上の段に鎮座する熊野神社
 戦国から近世、そして神仏分離後の近代までのこのお寺の伽藍配置を今回は見ていきたいと思います。
 中世の大興寺は、往時真言24坊、天台12坊の合計36坊が萱を連ね、真言天台二宗が兼学したという珍しい性格のお寺として隆盛を極めたと伝えられていますが、資料的な裏付けはありません。しかし、現在の大興寺境内にはは本堂に向って左側に弘法大師堂があり、右側には天台宗第三祖の智顎を祀る天台大師堂が並んであります。また、研究者は
「本尊脇侍が不動明王と毘沙門天と天台様式であり、真言天台二宗の兼学の名残を留めている」
と、その可能性は残します。

6大興寺2
そして報告書は、太興寺の伽藍変遷を追いかけます。
頼りにする史料は、棟札と紀行文です
①慶長2年(1597)の棟札には
「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」「諸堂大破 而瑕(仮)堂建立」
とあります。ここからは末寺の「泉上坊」と「乗林坊」が願主となり、生駒家が讃岐領主になって世情が安定した時期に「仮堂」を建立したことが分かります。
②僧澄禅によって書かれた『四国遍路日記』(承応2年(1653)には
 大興寺は「小松尾寺」と記され、説明文は「本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。」とあります。戦国時代の混乱で衰退したこのお寺は、江戸時代に入っても、仮堂状態で「寺は小庵」だったことが分かります。

6大興寺18弘法大師堂
 ちなみに澄禅は、荒廃していた周辺の霊場を次のよう挙げています。( )内は霊場番号
出釈迦山(我拝師山、十三番出釈迦寺=曼荼羅寺の奧の院)が「吹崩」
崇徳天皇(白峯宮、現在の七十九番高照院天皇寺はが「退転」
大窪寺(八十八番、)が「本坊ばかり」
金蔵寺(七十六番金倉寺)や道隆寺(七十七番)は「昔は七堂伽藍」として衰微したことをにおわせてはいますが、「荒廃」しているとは書いていません。ここからは、讃岐の霊場が土佐や伊予などに比べると、領主の保護政策によって戦乱からの復興が早かった事が分かります。
 その中でも大興寺は、復興が遅れたようで「小庵」と記されています。つまり、この寺は領主の保護寄進を受けるようなランクの寺ではなかったことを物語ります。
この報告書には
「慶長2年(1597)~承応2年(1653)までの56年間大興寺は、諸堂が大破した後、主要な建物として仮の本堂「薬師」のみの小庵のような状態であった」
と述べます。
「遺跡略記」には、
「今の薬師堂(本堂)建立は寛文九己酉年、塩飽島において、奉加の力を得、二間半四方建立成就せしものなり」
とあります。ここからは、澄禅が訪れた16年後の寛文9年(1669)に薬師堂が塩飽衆の寄進によって建立されたことが記されます。

6大興寺17.jpg鐘楼脇から本堂の右手に天台大師堂
 さらに「今の御影堂は寛文十一辛亥年二間四方、真価、自分建立す」とあり、薬師堂(本堂)建立に続いて2年後の寛文11年(1671)に御影堂が建立されたようです。
 以上をまとめると次のようになります。
慶長2年(1597)~寛文8年(1668)  瑕(仮)堂(小庵)
寛文9年(1669)~寛文10年(1670)  薬師堂(本堂)建立
寛文11年(1671)            御影堂建立
 元禄年間を前に、世の中が落ち着くにつれて、薬師堂(本堂)と御影堂が建ち並ぶ伽藍配置に復興していったことが分かります。しかし、そのレイアウト配置については報告書は「不明」とします。

 それから16年後に、この寺を参拝した僧真念の『四国辺路道指南』(貞享4年(1687))には、
「六十七番小松尾山東向き。豊田郡辻村。本尊薬師 坐長二尺五寸、大師御作」
と記すのみです。ここには薬師堂(本堂)・御影堂など、諸堂についての記述はありません。本堂についてのみ、今と同じ「東むき」の建物配置であったことが分かります。
さらに2年後に、僧寂本によって書かれた『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)には
「小松尾山大興寺、此寺大師弘仁十三年に開聞し玉ふとなり。そのかみは七堂伽藍の所、いまに堂塔の礎石あり其隆なりし時は、台密二教講学の練衆蝗のごとく群をなせりとなん。豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。
 本尊薬師如来、脇士不動毘沙門立像長四尺、皆大大師の御作。十二神各長三尺二寸、湛慶作なり。
本堂の右に鎮守熊野権現の祠
左に大師の御影堂、大師の像堪慶作なり。
天台大師の御影あり、醍醐勝覚の裏書あり。大興寺とある額あり、従三位藤原朝臣経朝文永四丁卯歳七月廿二日丁未書之、如此うら書あり。是経朝は世尊寺家也、行成八世の孫ときこゆ。むかしのさかえし事をおもひやる。ちかき比まで宝塔・鐘楼ありとなり。」
と、以下の挿絵と共にまとまった記述を残してくれています。

6大興寺18弘法大師堂.jezupg
この挿絵を見ながら内容を確認していきます。
①弘法大師開祖で、かつては七堂伽藍の大寺でいまに礎石が残る
②隆盛を極めた時代には、台密二教(天台・真言)の学徒が蝗(いなご)のごとく群をなして、この寺にやってきて学んだ=学問寺であった。
③本堂の右(本堂に向って左側)に鎮守熊野権現の祠、
④本堂は左(本堂に向って右側)に御影堂と並んで建っていた。
別当寺の本興寺は本堂の下の段にあった
伽藍配置は、現在と変わっていない事が挿図からも分かります。ただし、仁王門はありません。
 次に、110年後の『四国遍礼名所図会』(寛政12年1800)を見てみましょう。
当院も大師の御建立也。本尊薬師、脇士仏各大師の御作なり。
詠歌 植おきし小松尾寺をながむれば法のおしえの風ぞふきける
本堂本尊薬師如来坐像、脇士不動明王御長四尺、毘沙門天各大師御作、十二神御長三尺弐寸、湛慶の作、相生の松本堂の前に有、大師堂本堂より石だん下り、仁王門。」
と記します。
6大興寺garann
ここでも挿絵を見ながら諸堂を確認していきましょう。
①本堂右(本堂に向って左側)に鎮守熊野権現の社が一段高い所にあります。
②本堂(薬師堂)には薬師の脇士として不動明王と毘沙門天が祀られます。これは、修験道系の山岳信仰の寺院に共通することです。ここからは、このお寺が「山伏寺」的な性格を持っていた事がうかがえます。
③本堂左(本堂に向って右側)には建物が描かれていません。今まであった大師堂は石段を下り、右に描かれています。
④参道の左側には入母屋造の建物と茅葺の細長い建物が描かれています。
⑦表記や挿図から、仁王門、鐘楼、茶堂が確認することができます。
明治以後の百年間には、伽藍には大きな変化がなかったようです。しかし、それ以前の江戸時代には復興過程を通じて、伽藍配置は大きく変わって来た事がうかがえます。

6大興寺6

最後にQUESTION? 
大興寺は、いつ、誰の手によって現在地に移動してきたのでしょうか?
これについては、既に示した史料から推察する事が出来ます。
①慶長2年(1597)の棟札の「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」「諸堂大破而瑕 (仮)堂建立」とありました。ここからは「諸堂大破した後に瑕堂を建立」したことが記されています。そして、その願主は末寺の「泉上坊」と「乗林坊」です。
②前回示した周辺に残る古い地名で「泉上坊」がどこにあったかを探すと、それは大興寺の現在地周辺にあります。
つまり、近世初頭に大興寺の復興を担ったのが「泉上坊や乗林坊」で、その拠点近くに仮堂を建立したと私は考えています。つまり、古代中世の大興寺が現在地へ遷ってきたのは、近世初頭なのだと思います。
6太興寺
 「移転」を行った「泉上坊」と「乗林坊」とはどんな性格の宗教者だったのでしょうか?
さらに推測を重ねますが、それを考える材料は
①「近世の太興寺が萩原寺の末寺に属し、現在は真言宗善通寺派に属していること」
②「雲辺寺との関係の深さ」
です。ここからは、真言系密教寺院の色合いが感じられます。「泉上坊」と「乗林坊」は、修験者のお寺だったと私は考えています。同時期に象頭山で金比羅を勧進して、金毘羅大権現を生み出していったような修験者がここにもいたのかもしれません。
6大興寺5

最後に、このお寺の伽藍配置の変遷を推察して終わりとします
①熊野行者によって勧進された熊野権現が一番高い所に社として祀られた。
②熊野権現の本地仏である薬師如来をまつる薬師堂が本堂として、一段下の壇に建立された。
③本堂両脇に弘法大師と天台宗の御影堂が並んだ
④さらに一段下に、別当寺である太興寺があった。
⑤さらにその一段下の小川に石橋が架けられ仁王門が姿を現した。
⑥一段下にあった大興寺が本堂の北側に庫裡と共に移動した
⑦仁王門前に地蔵堂が建立された。
以上、長い間、お付き合いいただいてありがとうございました。
次回は伽藍配置の変遷を、残された木札、石造物から確認して行きたいと思います。
6大興寺14

参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年
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地元では小松尾寺と呼ばれているこの四国霊場。
前後の雲辺寺や観音寺・本山寺・弥谷寺などに比べると、私には、もうひとつこの霊場の性格が見えてこないのです。別の言葉で言うと特色がないというか、印象に残らない札所です。立地条件も由来もよく分からないというのが正直な所でした。そんな中で、正式な調査報告書が近年に出ましたので、読んでみる事にします。お付き合いください。
まずは太興寺の歴史についてです
 このお寺は、四国八十八ヶ所霊場第67番札所の寺院で、真言宗善通寺派に属し、山号は小松尾山、院号は不動光院、坊号は泉上坊とします。本尊は薬師如来で、弘法大師の作とされます。
現在配られている『説明書』には次のように記されています。
「天平14年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1km北西に建立され、延暦11年(792)大師(空海)の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(822)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられています。」
 一方、大興寺所蔵の『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』には
「当山は七堂伽藍の霊跡で、弘仁13年(822)に弘法大師によって草創された」とあります。
どちらも弘仁13年の弘法大師の関与を記します。
 
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太興寺周辺の字切図
また、字切図に「大興寺」の小字名や、隣接して「鐘鋳原」の小字名が残り、その周辺から古瓦が出土しています。このことから『説明書』にあるように、元の大興寺は現在地よりも約1km北西にあったことがうかがえます。元の大興寺と推定される周辺からは、十三葉細素弁蓮華文軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦などの古瓦や鴎尾も出土していて、時期は白鳳期とされています。
お寺や神社は、古くからその地にあって動かないという意識が私の中にはありました。しかし、いろいろな史料を読んでいく内に、お寺は頻繁に動いていることが分かってきました。
現在の「学校」が町村合併の跡で、頻繁に統合移転を繰り返している姿とダブってきます。
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 このような言い伝えや縁起、出土遺物から研究者は次のように考えているようです。
①現在地よりも、北1キロに古代の大興寺は建立された
②弘法大師の創建か、再興かは別にして弘法大師と係わりのある寺院であること
③「大興寺」の小字名が残る区画白鳳期の古瓦が出土していることから、白鳳期に大興寺が建立されていた。
④これを裏付ける資料としては、平安時代後期(11世紀中後半頃)の作とされている割首としない一木割矧造の本尊薬師如来坐像がある。
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これを読んで初めて知ったのが、この地から白鳳期の瓦が出土していた事です。
まず私の興味は、「その古代寺院を建立したのは何者か? なぜこの地建立したのか?」という点に向かいます。
この地は、阿讃山脈の手前にそびえる菩提山(標高312.0m)から舌状に三豊平野に延びる低い丘陵上にあります。ちなみに菩提山は、条里制の基準線になった古代からの霊山でシンボル的な山だと考えられます。
 この付近の古代豪族として名前が挙がるのは、まずは讃岐忌部氏です。
忌部氏については、以前に述べましたので詳しくは、そちらをご覧ください。ここでは、忌部氏の氏神が粟井神社であること、母神山の群集墳の一部も忌部氏のものと考えられていることです。そして、古代苅田郡の南部は忌部氏によって開発されてきたとされています。その忌部氏の氏寺と考えることができそうです。粟井神社ー母神山ー太興寺というトライアングル地帯が忌部氏のテリトリーではなかったかとも思えてきます。
 そして、そこから見上げる菩提山、さらに上にある雲辺寺は霊山として信仰の対象であったという想像も生まれます。その霊山の行場をやってきた熊野行者が廻り始める。それは、観音寺から七宝山 → 弥谷寺寺 → 我拝師山(五岳) → 善通寺への辺路行道とつながっていく。その四国辺路を行道する若き日の空海の姿があったのかもしれません。想像力が私の中では、生まれ育っていきます。妄想をたくましくして「忌部氏の古代寺院 空海の辺路修行」という言葉をインプットしておくことにします。
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 太興寺の出発点となった古代寺院は、現在地ではなかったようです。
「元の大興寺は現在地よりも約1km北西」ということで、地図で確認しておきましょう。現在の場所で言うと、国道377号の南側の丘陵の突端になります。現在はここに、小さな庵が建っています。ロケーションは最高です。一ノ谷池の向こうに三豊の平野が広がり、その向こうには七宝山の連なりが望めます。
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古代太興寺跡周辺に建つ庵
ここは古代寺院の建立地としては納得のいくロケーションです。
太興寺に関する中世の資料は、あまりありません。 
  中世の遺品としては、
①鎌倉時代後期文永4年(1267)銘のある藤原経朝筆の「寺号扁額」
②建治2年(1276)の銘のある「木像天台大師像」「木像弘法大師像」、
③鎌倉時代末期康永3年(1344)6月26日の銘のある「青蓮院尊円親王の書状」
が所蔵されています。
①の「寺号扁額」は木額で、正面に「大興寺」と刻み、背面には「文永四年丁卯七月二二日丁亥書之従三位藤原朝臣経朝」と刻まれており、1267年に藤原経朝が奉納したものです。
鎌倉時代には京まで、このお寺の名声伝わっていたのかも知れません。『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』や『寺格昇格勧進之序』に「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍を誇った」とあるのも誇張とばかりは思えません。
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これ以外の中世史料はないのですが、前後の時代から次のような「状況証拠」は得られます。
 まず最初に紹介したこの寺の説明書には
「熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として・・・ 建立」
とありました。この寺が、熊野権現の別当寺として建立されたことが記されています。それを裏付けるように、現在の本尊の薬師如来は熊野権現の本地仏でもあります。
 さらに『四国偏礼宣揚記』の挿絵では、石段正面に薬師堂があって、大師堂と熊野権現並んで祀られています。太興寺は、その石段の下にあります。ここからも熊野権現が本尊で、その本地仏を祀る別当寺が太興寺だったことがうかがえます。中世の太興寺は、熊野社と本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が集まり住む僧侶集団全体が大興寺と呼ばれたようです。どちらにしても、太興寺も神仏習合のお寺で、初期には熊野行者の役割が大きかったのではないでしょうか。
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もうひとつ太興寺で、注目しておきたいのが菩提山です。
粟井村誌(昭和24年)の「粟井村有名地図」によると、菩提山頂上に「無量寺跡」、「佐々木神社跡」があったと次のように記します。
「無量寺跡」については、粟井町竹成にある薬師堂の沿革に「菩提山無量寺は元天台宗であったが天正の乱にかかりお堂をはじめ全部焼けてしまい、本尊と脇立(行基菩薩の作)を寺よりやっと持ち出すことが出来た。その後天和三年竹成薬師堂を建ててここにおまつりした。」とある。
また、廃寺の跡として菩提山無量寺は、「菩提山の上にあり、其の開いたはじめははっきりしない。別荘(土佛庵)の釈迦像、竹成の薬師像(薬師堂)はこの寺にまつってあったものといわれる。徳賢寺由緒の中に合田小三郎、年をとって天台宗の菩提山無量寺に入って僧となり重海という。その子善阿は徳賢寺を開いた人である。その後土佐の長宗我部元親によって焼きはらわれた。」とある。
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現在の菩提山の頂上について、報告書は次のように記します。
東西幅が約142.0m、南北幅約20.0mの東西に長い平坦地があり、やや西寄引こ北方向に東西幅約15.0m、南北幅約10.0mの突出部を持つような、ちょうど凸状を呈する平坦地が確認できる。(中略)
 しかし、礎石や瓦片などの「無量寺跡」と結びつく痕跡は確認できなかった。
 大興寺から菩提山間及び菩提山山頂で明確な遺構を確認していないが、「寺岡」から続く「蓮花」「れんごう」「奥蓮花」「菩提」などの小字名や「無量寺」が天台宗であったことから、大興寺との関係が推測できる。
報告書は、菩提山頂上には、長宗我部元親の侵入によって焼かれたと伝わる天台宗の無量寺の存在を裏付けています。この寺の存在は、太興寺の役割や性格を考える上で重要な意味を持っていると私は思っています。
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    本日はこれまで。中世まで太興寺のまとめです
①太興寺の起源は、白鳳期の古代寺院にまで遡れる可能性がある
②古代寺院の建立地は現在地よりも北西へ1㎞
③中世には天台・真言のふたつの学問寺として「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍」を誇った総合寺といわれるほど隆盛をきわめたとされるが資料的な裏付けはない。
④中世の太興寺は、熊野権現の別当寺であり、修験道の社僧達の拠点でもあった。
次回は、近世の伽藍復興について見ていこうと思います。

小松尾寺は、天台・真言の合同学問所だった?

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『四国領礼霊場記』は、小松尾山大興寺と呼んでいますが、俗称は小松尾寺です。
本尊は薬師如来。
ご詠歌は「うゑおきし小松尾寺を眺むれば 法の教への風ぞ吹きぬる」です。
植えると小松を掛けて、吹く風に法の教えの遺がついたと詠んでいます。小松を弘法大師が植えておいたという意味だとおもいますが、弘法大師お手植えと伝えられる松があります。

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縁起は平凡です。

 弘法大師が弘仁十三年(822)に、嵯峨天皇の勅命によって熊野三所権現鎮護の霊場として建立し、本尊薬師如来を彫刻したという縁起です。熊野三所権現のなかでは、新宮大社が薬師如来を本地としていますが、本末は阿弥陀如来です。しかも、三尊がそろっていないと熊野三所権現とはいえません。
 小松尾寺は熊野三所権現を移したというよりは、むしろ阿須賀神社を移したのだろうとおもいます。ですから薬師如来が本尊としてまつられているのです。
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『四国損礼霊場記』に、「台密二教漢学の練衆、朧のごとく群をなせりとなん」とありますから、盛んなときは鹿のように群れをなして学問をする者がいたわけです。
そして、非常に珍しいことに、このお寺は天台宗寺院と真言宗寺院の両方から成り立っていたことが分かります。大和の当麻寺のように、真言宗と浄土宗が一つになったお寺はよくあります。真言宗が加持祈祷をし、浄土宗が亡くなった方の供養と「分業」している例です。しかし、天台と真言が一寺を形成したというのは、きわめてまれな例です。そこで両宗が教学を競うように、講学練達の学僧がが集まったのだとおもわれます。
 雲辺寺も「四国高野山」と呼ばれる教学の寺だと伝わりますので、山上と里に僧侶達の学問所が並立していたことになります。

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もとは真言宗の寺院が二十四坊、天台宗の寺院が十二坊あって、本堂の左右に並んでいたそうです。『四国損礼霊場記』には、
「天台大師の御影あり。醍醐勝覚の裏書あり」と書いているので、天台大師の像は雨像だとおもわれます。
 弘法大師の遺跡としては、お手植えの樟と称する大木があります。

この寺の歴史は、むしろ鎮守の熊野権現の別当寺が大興寺だったので札所になったのでしょう。

本尊の薬師如来も熊野権現の本地仏です。
『四国偏礼宣揚記』の挿絵では、石段正面に薬師堂があって、大師堂があり熊野権現が描かれています。石段の下に大興寺あり。ここからも本来は熊野権現が本尊で、その本地仏が薬師ですから、二にして一なるものです。「小松尾寺図」は、熊野社と本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が大興寺であったことを示しています。

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 この寺は鎌倉時代には京都にまでも聞こえていたらしくて、「大興寺」の額は京都の世尊寺家で藤原行成第ハ世の孫の藤原経朝が書いています。額には「従三位藤原朝臣従朝文末四年即成七月計二日 丁末書之」という裏書があります。
 室町時代には三十六坊が並んでいたといいます。しかし、讃岐の神社仏閣の例に漏れず天正年間の長宗我部の兵火に焼かれ、慶長年間にに再建されました。
その時に現在地点に移ってきたといわれます。旧寺地は1キロほど北西だったようです。
江戸時代の記録には
「本尊薬師如来、脇士不動、毘沙門立像長四尺、皆大師の御作、十二神将各員三尺三寸、堪(湛)座作なり。本堂の右に鎮守熊野権現の祠、左に大師の御影堂、大師の像堪座作なり」とあります。
 こう見てくると村の中のお寺で、熊野権現がなければ札所になるのは考えられないようなお寺です。民家がすぐ前に建っている絵図を見ますと、昔から民家の間にあったようです。
 
 参考文献 五来重:四国遍路の寺

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