瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の四国霊場 > 出釈迦寺

             
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出釈迦寺奥の院
 幼い頃の空海は、我拝師山で「捨身」を行ったと伝えられています。西行もそのことを知っていて、捨身行を「追体験」するために、この山の麓に庵を結んで「修行」しています。我拝師山は、霊山・聖地として古くから修験道の信仰を集め、中世にも多くの修験者が行場としてしていたようです。切り立った瀧(断崖)に建つ奥の院は、行場の雰囲気今でも残ります。そこには、消え去ろうとしている遺跡もあります。そんな中から今回は、磨崖に刻まれた石塔と石造物をご紹介しようと思います。 
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 出釈迦寺からの参道をあえぎあえぎ30分も登ると鞍部にたどり着きます。ここまでは許可があれば車でもやってこれるようです。ここが五岳山の縦走コースでハイキングには、もってこいの山道ですが、かてはこの道が修験者達が弥谷寺から七宝山を経て観音寺へと「辺地」修行を行うのに利用した道だと私は考えています。ここから見上げる奥の院は、城塞のようにも見えます。
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ゆるぎ石
本堂へ上る参道の南側に、ゆるぎ岩と呼ばれる大きな岩があります。この岩自体が磐座で、仏教以前の弥生時代からの信仰対象になっていたのかもしれません。しめ縄が架けられて、なかなかいい雰囲気です。その前の石柱には「磨崖 五輪塔 室町時代初期」とあります。周りを見回しますが、どこにも五輪塔はありません。そして「磨崖」という言葉に気づきました。この岩に掘られているのです。よく見ると五輪塔が見えてきました。

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 帰ってきて「出釈迦寺調査報告書」を見てみると、この磨崖五輪塔のことが次のように記されていました。
 五輪塔の総高は、134.5cmを測る。
空輪は、上部および左側の欠損が著しいため不明瞭であるが、おおむね高さ30.0cm、最大径はほぼ中央付近で26.0cmを測る。ほぼ円形で頭頂部の突起はやや大きめに成形している。空輪と風輪の境界は浅い凹線となっており、別石を意識して表現された可能性がある。
風輪は、高さ14.0cm、最大径は中央よりやや最上部で6.0cmを測る。(中略)
火輪は、中央での高さが22.4cm、最大幅47.2cmを測る。屋根の降りは緩やかで、やや外反する。軒の正面は表現されていないが、側面は表現されており、軒口は垂直に切られている。軒下端は弧状を呈し、真反りとなる。火輪と水輪の境界は表現されていない。
水輪は、高さ30.1cm、最大径が中央付近で39.8cmを測り、やや算盤形に近い球形を呈する。水輪と地輪の境界は、弱い凹線によって区別されている。
地輪は中心部で高さ29.5cm、残存状況の良い左端で8.0cm、最大幅50.0cmを測る。おそらく欠損部を復元すると火輪幅と同程度になると思われる。壁面の形状に制約されたためか、やや歪な形状となっている。右下部は壁面の盛り上がりが少なく、半肉彫ができずそのまま収束している。
  こんなところに五輪塔が刻まれていたことは知りませんでした。石柱の存在があっても、よく見ないと見えてきません。700年あまりの歴史の中で消えていこうとする遺構です。どんな人が、どんな思いで、ここに彫り込んだのでしょうか。
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出釈迦寺奥の院 粟島神社
さらに参道を登っていくと岩盤が削平されて粟島神社が建てられています。その崖状の壁面にも「磨崖 五輪塔」の石柱が建っています。
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  近寄ってよく見ると五輪塔はふたつ並んでいて、右側を東塔、左側を西塔と呼んでいるようです。
これも報告書には次のような紹介があります。
 東塔は、総高90.6cmを測る。
空輪は、高さ19.0cm、最大径は下端付近で17.0cmを測る。西塔と比較して細長く中心線がずれるなど、歪な楕円形を呈する。風輪は別石表現されている。高さ11.3cm、最大径は上側で20.6cmを測る。風輪株は火輪上側に入り込む。
火輪は、高さ26.5cm、最大幅45.0cm(反転値)を測る。
西側は欠損のため輪郭のみが確認できる。屋根の降りはほぼ直線的である。軒の正面は表現されていないが、側面は表現されており、軒口はほぽ垂直に切られている。軒下端は弧状を呈し、真反りとなる。
水輪は、左側が大きく欠損しているため不明瞭であるが、高さ23.8cm、上端直径21.0cm、下端直径23.0cm(直径はいずれも反転値)、最大径が中央やや下側で30.0cm(反転値)を測り、やや下膨れの球形を呈する。地輪は高さ11.0cm以上、幅58.5cm以上を測る。地輪幅は明らかに火輪幅より大きい。地輪は、他の部位よりも浅めに刻まれている。下側および左右両側は、岩盤の割れや剥離などによって不明瞭である。あるいは、刻んだ当初から割れ岩盤の形状を意識して刻まなかった可能性も考慮する必要がある。また地輪の左側面は、前述の通り西塔地輪側面と共有する。
 西塔は、総高80.8cmを測る。
空輪は、高さ13.9cm、最大径は下端付近で18.0cmを測る。右側が剥落しているために不明瞭ではあるが、おおむね歪な円形となる。風輪は別石表現されている。高さ11.1cm、最大径は上側では21.1cmを測る。風輪下部は火輪上側に入り込む。
 火輪は、高さ25.4cm、最大幅45.3cmを測る。屋根の降りは若干外反する。軒の正面は表現されていないが、側面は表現されており、軒口は斜め外方へ切られている。軒下端は直線である。水輪は、高さ20.2cm、上端直径28.4cm、下端直径30.0cm(反転値)、最大径が中央付近で31.3cmを測り、筒型の形状を呈する。地輪は高さ12.3cm以上、幅62.0cm以上を測る。
地輪幅は明らかに火輪幅より大きい。
東塔同様、地輪は他の部位よりも浅めに刻まれている。下側および左側は、岩盤の剥離などによって不明瞭である。あるいは東塔と同じく、刻んだ当初から岩盤の割れ目の形状を意識して刻まなかった可能性も想定できる。また地輪の右側面は東塔地輪左側面と共有する。側面線は、上側9.0cmまでしか区画されていない。
 刻印の状態からふたつの五輪塔の先後関係は、西塔(左)が先に掘られて。その後に東塔が出来たようです。
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出釈迦寺奥の院と釈迦如来像
淡島神社の上には釣鐘堂が改修され、その南側には捨身した空海を救うために表れた釈迦如来が金色に輝いています。
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新しい奥の院のスターのように見えます。
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出釈迦寺奥の院の層塔 向こうは天霧山

 北側には「層塔」が「再建」されて姿を見せていました。
かつては、この層塔は倒壊してばらばらになって釣鐘堂の脇に、パーツとして置かれていました。由来を知る信者は「五輪さん」と呼んで信仰対象にしていたのですが、何十年(?)ぶりで組み合わせて再建されています。
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           出釈迦寺奥の院の層塔

 高さ390.0cm以上、最大幅50.0cmで下側は地中に埋っているため、正確な高さは分かりません。。側面は四方に蓮華紋が大きく刻られています。同じような層塔は、善通寺誕生院層塔や多度津町海岸寺奥ノ院層塔にもあります。 この石材は、天霧山・弥谷山から運ばれた石材が使われています。

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        出釈迦寺奥の院 釣鐘堂の層塔
  ここからは、多度津が正面に見えます。いまでも、この奥の院周辺に並んでいる玉垣等の寄進者名は多度津の人たちの名前が多いようです。古代以来、この山の北側の多度津方面から霊山として信仰されたことがうかがえます。
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我拝師山の行場

 奥の院本堂から我拝師山へ鎖場を越えてを登ると、弘法大師の捨身誓願の聖地とされているわずかな平地に出ます。

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出釈迦寺奥の院禅定宝塔

ここが「捨身ケ瀧」になるようです。ここには宝塔があります。
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最初に見たときには、何か分かりませんでした。
宝塔は基壇、基礎、塔身がきちんと組み合っているのですが笠がないのです。高さは79cm 基壇幅60cmの方形で側面で、内部は刳り抜きがあります。石材は、これも天霧石のようです。
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ここで修行を行いながら修験者が磨崖に五輪を刻み、天霧石で刻んだ石造物をここまで運び上げてきたのでしょうか。笠がなくなったかたりで捨身が瀧にある宝塔は、直立した円柱形の塔身で、天霧石製宝塔と研究者は考えているようです。
それでは作られたのはいつ頃なのでしょうか?
①鎌倉時代後期から南北朝時代の天霧石製石造物に一般的な〈天霧A〉の石材であること、
②肩の張った格狭間文様が4面に表現されていること、
③天霧石製宝塔の形態・法量で共通点が見られること、
以上から鎌倉時代後期~南北朝時代の14世紀代と研究者は考えているようです。
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香川県の石切場
 
14世紀は、白峯寺などの石造物が近畿産から地元の天霧石製に替わっていく時期でもあるようです。
白峯寺には十三重塔がふたつ並んでありますが、先に作られた塔は弘安元年銘の花崗岩製で近畿産です。後に作られたのが地元の天霧山産の石材が使われていることは先ほど見たとおりです。このふたつの塔は、よく似ていますから後から作られた天霧石製は、花岡岩製のコピーだと考えられます。天霧石の工房では13世紀初頭になると、それまで白峯寺に奉納された大和風の石造物を模倣して、近畿産に替わって製品を供給し始めます。この時期には、天霧石の職人集団は、大和石造物の特徴を取り入れられていきます。そして、天霧石製は、讃岐西半分に流通エリアを拡大します。

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天霧産石造物の瀬戸内海沿岸地域分布図
上の分布図からは15世紀になると、天霧産の石造物は瀬戸内海各地に流通エリアを拡大していったことが分かります。それが近世になると、豊島石の石造物にとって替わられます。出釈迦寺の奥の院の石造物も、天霧山の石工集団の活動が活発化する14世紀頃のもののようです。
西讃地方に残る鎌倉時代後期から南北朝時代の天霧石製石造物を見ておきましょう。
丸亀の中津八幡宝塔
①丸亀市の中津八幡神社宝塔

文化遺産データベース
②善通寺市善通寺三帝御廟宝塔、

③多度津町光厳寺宝塔、

西白方にある仏母院にある石塔
④多度津町仏母院宝塔塔身、

⑤三豊市大北墓地宝塔2基
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我拝師山と出釈迦寺奥の院 

石造物の中で石塔は、数が少ないようです。
その石塔が奥の院に建てられたのは、どうしてなのでしょうか?
基壇、基礎は内部が刳り抜かれて空洞にしている可能性もあるようです。そうだとすれば納経などが行われていた可能性もあります。この五岳の峰続きの香色山からは、有力者の経塚が出土しています。行場・修験道・経塚という3つが、ここでもそろったことになります。

 〈参考文献〉
海逼博史・松田朝由2008
「西讃岐における中世石造物の特質一善通寺旧境内所在の石造物を中心にー」
   

   




    
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  空海は善通寺に生まれ、真魚として育って行ったとされます。
真魚にちなむ場所がいくつも善通寺には語られていますが。その中でも真魚が「捨身」を行ったというのが我拝師岳の岩場(行場)です。久しぶりに、この行場に行ってみて、改めて出釈迦寺と奥の院(捨身ゲ瀧)の関係について分からないことが多いことに気付きました。最近、出釈迦寺の調査報告書が出ていたので読んでみることにしました。その読書メモです。
 出釈迦寺が創建されたのはいつ?
 出釈迦寺は、善通寺の背後にそびえる五岳の主峰・我拝師山の北麓にある四国霊場第73番札所です。山号は我拝師山求聞持院です。五岳の主峰名である我拝師と、空海が出家する原因となった「求聞持法」がくっつけられた山号です。
「山号や本尊に求聞持が付けられている札所は、かつて求聞持法の厳しい修行が行われた霊山である」
と私の師匠は云います。この山も修験者達の修行の場であったことが山号からもうかがえます。
 
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出釈迦寺の奥の院 背後の山が我拝師山
西行も、修行した我拝師山(出釈迦山)
西行の「山家集」には、札所は我拝師山の山腹、現在の奥の院があるところだと記されています。また、山上には基壇と塔の基礎が残っており、以前は塔がそびえていたとも記されます。つまり、近世以前には、現在の境内地に伽藍はなく、空海の「捨身修行」の場である険しい岩場(捨身ゲ瀧)を経て、我拝師山へと登るのが修行僧たちの辺寺修行であり、行道聖地のひとつだったようです。
 近世の文献の中に表れた出釈迦寺を見ておきましょう。
○『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)
曼荼羅寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。此寺二荷俵ヲ置テ出釈迦山ヘ上ル、寺ヨリ十八町ナリ。
出釈迦。先五町斗野中ノ細道ヲ往テ坂ニカカル、少キ谷アイノ誠二屏風ヲ立タル様ナルニ、焼石ノ如二細成が崩カカリタル上ヲ踏テハ上り上り 恐キ事云斗無シ。
 漸峰二上り付、馬ノ頭ノ様成所ヲ十間斗往テ少キ平成所在、是昔ノ堂ノ跡ナリ。釈迦如来、石像文殊、弥勒ノ石像ナド在。近年堂ヲ造立シタレバ一夜ノ中二魔風起テ吹崩ナルト也。今見二板ノワレタルト瓦ナド多シ。爰只曼荼羅寺ノ奥院卜可云山也。夫ヨリ元ノ坂ヲ下テ曼荼羅寺二至ル。是ヨリハ町往テ甲山寺二至ル。日記ニハ善通寺ヨリロ町、善通寺ヨリ甲山寺二口町卜有リ、夫八出釈迦ノ東ノ坂ヲ下テ善通寺へ直二行タル道次ナルベシ。
この澄禅の「四国辺路日記」(承応二年:1653)には、出釈迦寺の記述はありません。出てくるのは曼荼羅寺だけです。その中に「此寺二荷俵ヲ置テ 出釈迦山ヘ上ル」とあり、荷物を曼荼羅寺に預けて奥の院に登ったことことが記されます。
 続けて、空海が真魚と呼ばれた幼少期に捨身ヶ嶽から身を投げ釈迦如来に救われ、仏門への帰依のきっかけとなった我拝師山との由来譚が記されています。ここからも江戸初期には、出釈迦寺の姿はまだなく、空海聖跡として我拝師山へ(出釈迦山)に登って参拝することが修行の一環とされていたようです。

○『四国辺路道指南』(真念 貞享四年:1687)
 七十三番出釈迦寺 少山上堂有、ひがしむき。
本尊釈迦 秘仏、御作。まよひぬる六道しゆじやうすくハんとたつとき山にいづるしやか寺 ほかに虚空蔵尊います。
 此寺札打所十八町山上に有、しかれども由緒有て堂社なし。ゆへに近年ふもとに堂井に寺をたつ、爰にて札をおさむ。是より甲山寺迄三十町。広田村。
とあります。ここからは札所は奥の院である禅定にあったのを、遍路が険しい道を登らなくても御札がもらえるように、江戸時代はじめに宗善という人が麓の現在地に伽藍を整備したと記されています。つまり、近世までは現在の奥の院付近が札所で、現在地には伽藍はなかったことを裏付けます。また、奥の院は出釈迦寺のものではなく曼荼羅寺の管理下にあったことが分かります。

○『四国偏礼霊場記』(寂本 元禄二年:1689)
  我拝師山出釈迦寺
 此寺は曼荼羅寺の奥院となん。西行のかけるにも、まんたらしの行道所へのぼるは、よの大事にて、手を立たるやうなり、大師の御教書て埋ませおはしましたる山の峰なりと。俗是を世坂と号す。其道の程険阻して参詣の人杖を拠岩を取て登臨す。南北はれて諸国目中にあり。
 大師此所に観念修行の間、緑の松の上白き雲の中釈迦如来影現ありしを大師拝み給ふによりて、ここを我拝師山と名け玉ふとなん。山家集に、その辺の人はわかはしとぞ申ならひたる、山もしをはすて申さずといへり。むかしは塔ありきときこへたり。西行の比まではそのあとに塔の石すへありと
なり。是は善通寺の五岳の一つなり。
むかしより堂もなかりきを、ちかき比宗善という人道のありけるが心さしありて。麓に寺を建立せりとなり。
此山のけはしき所を捨身が岳といふ。大師幼なき時、求法利生の御こヽろみに、三宝に誓ひ捨身し玉ふを、天人下りてとりあげけるといふ所なり。西行歌に
 めぐりあはん事のちぎりぞたのもしききびしき山のちかひみるにも
西行旧墟の水茎の丘は、万陀羅寺の縁起に載といへども此所にあり。
ここには出釈迦寺が元々は曼荼羅寺の奥の院(遙拝所)であり、大師捨身誓願の地としての由緒はあるが堂社はなく、近年、曼荼羅寺から少し登った山の上に「宗善という入道」によって堂社が建立されたことが記されています。
 これに関しては、浄厳が天和二年(1682)三月二十一日に出釈迦寺虚空蔵堂の観縁の序を撰したとの記録が「浄厳大和尚行状記」(総本山霊雲寺・河内延命寺:1999年)に見られようです。この虚空蔵堂の創建は、宗善による出釈迦寺整備の一環であったことがうかがえます。現在の出釈迦寺の寺院としての創建は、このあたりに求めると研究者は考えているようです。
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「四国偏礼霊場記」の挿図には、塀などの境内を区画するようなものはありません。ただ本堂を含む二棟の建造物が描かれているだけです。
しかし、近世後半になると、伽藍が整備されたようで「四国遍礼名所図会」(寛政十二年:1800)には、本堂や大師堂、鐘楼が認められ、客殿や庫裏が描かれています。また、境内地を石垣で保護し、石段による参道も整備されていいます。しかし、山門はありません。
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幕末の「金毘羅参詣名所図会」(暁鐘成 弘化四年:1847)には、絵図と共に出釈迦寺について次のように記します。
 曼荼羅寺の奥院といふ 三丁ばかり奥にあり
七十三番の霊場の前札所なり 近世宗善といへる入道ありてここに寺を建立すといふ
本尊  釈迦牟尼仏 弘法大師の作 秘仏なり
大師堂 本堂に並ぶ
茶堂  門内の左にあり
鐘楼  門内の右にあり僧坊にならぶ
 原の札所と言ふは十八丁上の絶頂にあり然るに 此所に堂社なく其道険阻にして諸人登る事を得ず 故に後世此所に寺をたてて札を納めむとぞ
捨身ケ嶽  山上の険しき所をいふ大師口口ける口時求法利生の御試しに三貿に誓ひをたて捨身口口口を天人下りて取上げらるといふゆへにかく号くとぞ
世坂 峯に登る険路をいふ 諸人杖をなげ岩を取て登臨すといふ
山家集 
まんだらじの行道どころへ登るは世の大事にて手をたてたるやうなり大師の御経書き埋ませおはしましたる山の嶺なり坊の卒塔婆一丈ばかりなる壇築きて建てられたりそれへ日毎に登らせおはしまして行道しおはしましけると申し傅へたりめぐり行道すべきやうに壇も二重に築きまはされたり登るほどの危うさ殊に大事なりかまへて這ひまはりつきて廻り逢はん事の契りぞ頼もしき厳しき山の誓見るにも  西行
出釈迦山  我拝師山のことなり大師此山に修行したまひし時雲中に釈迦如来出現まゐらせるを大師拝したまふ由へに号すとぞ
山家集
やがてそれが上は大師の御師に逢ひまひらせさせおはしましたる嶺なり わかはいしさんと其山をば申すなりその逼の人はわかいしとぞ申し習ひだる山文字をばすてて申さずといふ
大塔菌趾  山上にあり今八其趾のみなり西行のころまで八其跡に礎石ありしとなり
山家集    行道所よりかまへてかきつき登りて嶺にまゐりたれば師に逢はせおはしましたる所のしるしに塔のいしずえはかりなく大きなり高野の大塔ばかりなりける塔の跡と見ゆ苔は深く埋みたれども石大木にしてあらはに見ゆと言ふ

西讃府志』(:京極家編纂 安政五年:1858)
出釈迦寺我拝師山卜読ク、真言宗誕生院末寺、本尊釈迦佛、八十八所ノ一、
相傅フ昔空海、求法利生ノ願ヲ雙シ此山二登り法ヲ行フノ時、憚尊旁昇トシテ出現セリ、因テ一寺ヲ創造シテ我拝師山出釈迦尊寺卜云、或曼荼羅寺ノ奥院トモ云
 ここにも修行中の空海がここによじ登り、絶壁から身を投げたところ釈迦如来が出現し、それを拝んだことから一寺を創建し我拝師山出釈迦寺となったこと、また曼荼羅寺の奥の院とも言われていたと記されています。
3 近代以後に独自の宗教活動を展開し始める出釈迦寺
 出釈迦寺は、江戸時代は曼荼羅寺や善通寺の住職が兼任するなどその影響下にあり、独自性をみることはできません。ところが近代に入ると、「中興開山」とされる勝岳が登場し後には、自立した寺院としての活動を展開するようになります。
  これを示す資料が、明治二十九年(1896)の銅版画です。
東京精行社が制作・刊行したもので、香川県内では二十九葉の銅版画が確認されている。そのうちの1枚が出釈迦寺境内を示した「我拝師山出釈迦寺之図」で、境内の様子が描かれています。これには、客殿の東側に大きな空間が広がり、現在とはかなり違った様子がうかがえます。
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 このような状況の中、出釈迦寺は、大正十一年(1922)に境内の火災により、庫裏や客殿、大師堂が燃え落ちます。被災後すぐに庫裏、客殿などの改修・再建届が提出され、昭和四年(1929)に竣工します。そして3年後の昭和7年には、奥之院本堂の改築が出願され、同十年に上棟され、現代のような山上と山麓の一体となった寺院構成ができあがります。

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 大正から昭和の初めにこれだけの伽藍を一気に作り上げていく信者集団とそれを指導する住職がいたのでしょう。
 昭和初期には、奥の院禅定に一年間に十数万人の参拝者が訪れたり、奥の院に何日も参龍する者もいたりした、との記録があります。四国遍路の寺というよりも「空海の捨身修行の行場」として、この寺を参拝する信者達が多数いたことが分かります。
230七箇所参り

 中讃の人たちは戦後も「七ケ寺参り」を、行っていました。
農閑期にお弁当を持って朝早く家を出て、
善通寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 
→ 海岸寺道隆寺 → 金蔵寺 
の七ケ寺を歩いて回るのです。江戸時代の記録にも記されています。これも「辺地めぐり」の一種だと私は考えています。
 民衆が七ケ寺めぐりを始める前から中世には修験者達が、これらの寺と行場を巡っていたと思うのです。それを民衆が巡るようになり、江戸時代後半になると金比羅詣でにやってきた参拝客までがこのルートをめぐり始めます。金比羅参りが終わった後は、善通寺に行き・曼荼羅寺・出釈迦寺から弥谷寺・海岸寺を経て丸亀港に帰り船便で帰路に就くという「巡礼」です。それを勧める案内書やパンフレットも江戸時代に丸亀港に着いた参拝客に無料で渡されていました。
233善通寺 五岳

 そして、出釈迦寺は近世に新たに独立した寺院ですが、近代になると捨身が瀧を「行場聖地」として目玉にして独自性を売り出す戦略をとったのだと思います。多くの霊場が「奥の院」を忘れたかのように見える中で、奥の院との結びつきを強調することが独自性につながったのかもしれません。
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参考文献 出釈迦寺調査報告書 香川県教育委員会 2018年
 

   
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 善通寺の西に並んでいる山々を五岳(ごがく)と呼びます。東から香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山のことで、我拝師山はその中央に象の頭のようなどっしりとした山容で聳えています。
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  この山の麓や谷間からは、数多くの銅剣や銅鐸類が出土しています。また、現在の農事試験場から「子どもと大人の病院」に架けては、改築工事で地下を掘る度に遺物が出土していて、この辺りが「善通寺王国の都」があった所と研究者は考えているようです。ここから見上げる五岳は、霊山としては最高です。五岳の盟主である我拝師山が古くから霊山として崇められてきたことは、この山を見ていると納得できます。
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 この山には早くから行者たちが入ってきて修行をおこなっていた気配があります。そして、空海もこの山で「行道」し、「捨身」を行ったという話が伝わっています。

まず、幼い空海(幼名・真魚)の捨身伝説を見てみましょう。
ある日、真魚(まお)は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。
 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。
 空海が真魚と呼ばれた幼年期に、雪山(せっちん)童子にならって、山頂から身を投げたところ、中空で天人が受け取ったいう「捨身ヶ嶽」の伝説です。
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4 捨身ケ嶽というのは捨身の行場ということです。
 『日本霊異記』には、奈良時代の辺路修行者が実際に捨身をしたことが、いくつも記されています。本元興寺の稚児が身を投げたという記事が、平安時代の中期ごろに、醍醐天皇の皇子重明親王が書いた『史郎王記』という日記の中にも出てきます。この頃は、盛んに捨身が行われていたようです。そのため養老二年(718)に出された養老律令の坊さんと尼さんを取り締まる「僧尼令」の第二十七条に、「焚身捨身を禁ず」という条があります。
 焼身自殺が焚身、高いところから飛び下りることが捨身です。惜しげもなく命を捨てる修行者が多く出たので、法律で禁止しなければならなくなったのでしょう。
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   今も大峰山で行われている「覗き」の行は、捨身の形を変えたものかも知れません。
 命綱はありますが、突き出されたときにひやっとします。そのときに新しい魂が入って生まれ変わるのだといいます。「覗きの行」は、「捨身」を真似て安全を確保した上で「擬死再生」を体験させているのかもしれません。死んでしまったら元も子もないので、死の一歩手前ぐらいの体験をさせて「生まれ変わった」とするようになったのでしょう。「今日は、これくらいでゆるしてやろか」というところでしょうか。
 死に向き合うという宗教体験をすることによって、今までとは違う自分に気づき、新しい何かを自分のものとすることがあります。現実の見方が変わり「自己確立」への道が開かれるということもあります。
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  さて、事件は現場で起きる、現場を見てから話を進めよという原則に従って、捨身ケ岳に行って見ましょう。まずは、出釈迦寺にお参りします。境内には私の知らない間に、こんな太子像がありました。ここでも空海は、虚空蔵求聞持法の修行を行ったようです。空海の行場であるという事を、お寺は掲げています。

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 この寺は、かつては捨身が嶽の遙拝所でした。それが発展してお寺に成長してきました。
出釈迦寺の本堂から整備されたアスファルトの急坂を30分ほど登ると、我拝師山と中山の鞍部にある奥の院行場・根本御堂に着きます。
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空海からおよそ3世紀後に西行も、ここへやってきて修行を行っています。
彼は鳥羽院に使える武士でしたが、23歳で出家し、高野山で修行を重ねて、真言宗の行者になっていました。西行は、仁安2年(1167)50歳の10月、空海ゆかりの讃岐の地へ修行のためにやってきます。最初に白峯にある崇徳院の墓に参ります、もうひとつの旅の目的は崇徳上皇の怨霊を沈めるためだったようです。その後、この山の麓に庵を結んで2年ほど滞在していたようです。その時に、我拝師山の捨身ケ嶽を訪れています。
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鉄の鎖をつたって登って行くと自然の石を利用した護摩壇があります。
ここからは北側に瀬戸内海が広がります。ここで聖なる火を焚いたのでしょう。
西行の『山家集』によると、捨身が嶽は「曼荼羅寺の行道所」と記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経かきて(埋)うづませめるおはしましたる山の嶺なり。はうの卒塔婆一丈ばかりなる壇築きてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおよしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、壇も二重に築きまはさいたり。のぼるほどの危うさ、ことにに大事なり。かまえては(用心して)は(這)ひまわりつきて   
廻りあはむ ことの契ぞ たのもしき
きびしき山の  ちかひ見るにも
①行場へは「世の大事にて手を立てたる」ようで、手のひらを立てたような険しい山道を大変な思いで登った
②行場には、空海が写経した経典が埋めてある
②高さ3mほどに土を盛った壇が築かれており、空海が毎日登って修行したという言い伝えがあった。
③めぐり行道のために二重の壇が築かれていた二つの壇がある
と記しています。
ここからは西行の時代には、捨身が岳が空海の青年時代の行道修行の遺蹟とされていたことがわかります。

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「登るほどの危ふさ」ときたら大変なものであり「構えて這ひまはり付きて」(這うようにしてしっかりしがみついて)壇の周りを廻ったと記します。
西行も、空海に習って壇の周りを行道していることが分かります。
 廻り行道は、修験道の「行道岩」とおなじで、空海の優婆塞(山伏)時代には、行道修行が行われていたようです。空海も、この行場を何度もめぐっる廻行道をしていたのでしょう。西行は我拝師山の由来として、行道の結果、空海が釈迦如来に会うことができたと次のように記します
 行道所よりかまへて かきつき(抱きついて)のぼりて、嶺にまゐりたれば、師(釈迦)にあはしましたる所のしるしに、塔をたておはしたりけり、 後略
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西行はなぜ我拝師山にやってきて、2年もここで修行するつもりになったのでしょうか?
『山家集』の「善通寺・我拝師修行期」には何度も「大師」(=空海)が出てきます。
先ほど述べたように、西行は、空海が行ったと信じて、3mもの高さの壇に登り、這い回るようにして修行しています。空海が捨身して釈迦如来に逢ったという捨身ヶ嶽に、しがみつくようにして登っています。西行は、空海と自分を重ねることで、空海に対して身体的な共感を作りだし、その境地に少しでも近付こう・理解しようとしているように見えます。それが、真言行者である西行にとって、宗教的修行だったのかもしれません。
 相手に近付く・理解するために疑似体験をする方法は、今の私たちも行っています。福祉教育で行われる車椅子体験などもそうかもしれません。スポーツ等であこがれのプレーヤーに近付くために、同じ練習法を取り入れるというのも同じです。状況を重ね、身体的に何とか共感を図ろうと試みることは、他者を理解し、精神的な距離を近付けるための、ひとつの方法論なのでしょう。
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話がわき道に逸れてしまいました。空海に視点をもどします。
  行道修行は、もともとは洞窟に龍る静的な禅定と、動的な行道を交互にくりかえすものです。
 四国の辺路修行者は我拝師山に来れば、西行のように近くに庵を営んで、静に禅定します。そして、一日に三回から六回の勤行には、鉄鎖をよじ登って捨身行の形をしたり、頂上で塔をめぐったりの行道をしたようです。
 
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 北から見れば平凡な山ですが、西面と南面は厳しい岩稜で霊山で「四国の辺地」の修行所に選ばれたのも納得がいきます。多分、ここでは南面の絶壁に身をのり出して、谷底をのぞく「覗きの行」が行われていたのでしょう。この「覗き」の捨身行があったから、空海七歳の捨身伝説が生まれてきたと研究者は考えているようです。

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 どちらにしろ西行がやってきた12世紀後半は、プロの修験者達が我拝師山で修行をおこなっていたことは確かなようです。そして、行場のルートは、この山から弥谷寺へ、そして七宝山へとのびていたようです。
 以前にも紹介しましたが『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎」
とあます。ここには、大師(空海)が「七宝山修行」を創始した記されています。そして、空海が観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から弥谷寺・五岳の行場を「辺路修行」しながら、山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼があったのです。
 このルートは、中世のプロの修験者の辺路修行ルートですから、山の中を行く獣道のような「辺路道」で、近世後半の「遍路」たちが歩いた遍路道とは異なるものでしょう。しかし、道は違ても観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルートは存在していたのではないでしょうか。そして、今は忘れ去られた行場がこれらの山中には埋もれていると私は想像しています。

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  空海がここで修行したとすれば、いつでしょうか?
捨身が嶽に登って、ボケーッとしながら考えた「仮説」を最後に示します
平城京の大学に上がる前に、佐伯家の氏寺・善通寺の僧侶(佐伯家一族)から影響を受けて雑密の影響を受け、ここで虚空蔵求聞持法の初歩的な行を行っていた。

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大学をドロップアウトして、その報告のために善通寺に帰省し、僧侶として生きていく事を親族に告げて、ただちに我拝師山で修行に入った。その後、大瀧・室戸への本格修行に出た。

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大学ドロップアウト後に、吉野金峰山で修行し、自分なりの一応のめあすができて善通寺に帰ってきた。そして、我拝師山での修行をしながら一族の同意を取り付け、四国巡礼に旅立った。

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大学ドロップアウト後は、佐伯家とは連絡を絶ち、各地での修行に没頭した。そして、遣唐使の一員になるために僧籍を得る必用があり、この時に善通寺には帰ってきた。遣唐使に選ばれるまでの期間に、生家(佐伯家)の「裏山」である我拝師山や弥谷寺、七宝山までの行場を廻った。
捨身ケ嶽で修行もせずに、ボケーとこんなことを、考えていました。
以上・・
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族
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