瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の四国霊場 > 善通寺

 寺や神社の文化財を調査する時に、役に立つのが「宝物目録」のようです。今ある宝物と、過去に「宝物目録」のリストに挙げられたものを比べれば、その目録が作られた時に、どんな文化財があったか分かります。そして、うまくいけば宝物がどのような場所に安置されていたのかも分かります。さらに、それがどんな由来で、伝来したのかも見ることができます。寺社調査の「有力史料」が、宝物目録と云われる所以です。今回は、善通寺の宝物リストを見ていきましょう。
   テキストは 渋谷 啓一 「 善通寺出開帳記録から見る「宝物」の形成  」 香川県歴博調査報告書2009年  です。

第11回先達車遍路 in 善通寺♪ : 四国八十八ヶ所お遍路日記
瞬目大師

 善通寺にはいくつかの寺宝目録があるようです。
その多くは、寺の縁起や由緒を語る『多度郡屏風浦善通寺之記』などと同じ木箱に納められています。なかでもいちばん規模の大きな目録は近代、大正五(1916)年に作成された目録で、動産登録的な意味合いがあるようです。これを見ると、善通寺が所有する当時の宝物・文化財が一目で分かります。
 一方、江戸時代に作成された寺宝目録としては、ご開帳の時に出品した宝物を載せたものがあります。
 今回とりあげる寺宝目録は、
①元禄九年(1696)の「霊仏宝物之目録」
②宝暦九年(1759)の「霊像宝物目録」
のふたつです。①を元禄版、②を宝暦版としておきます。どちらも出開帳の時の目録ですので、当時の善通寺の宝物の全部を含んでいるとは限りません。しかし、それだけに選りすぐれの宝物たちが選ばれています。それを見ることによって、当時の善通寺当局の自らの宝物への意識がうかがえるというのが研究者の思惑です。
目録を見る前に、善通寺の出開帳の様子と、再建への動きを見ておくことにしましょう
 江戸時代になり天下泰平の世の中になり、戦国の時代が遠くなる17世紀半ばになると江戸や大坂、京都などで各寺院の秘仏を公開する出開帳が盛んに行われるようになります。
 その目的は、都市の住人の参詣を催し、収益をあげることでした。寺院の中には、戦乱の中で伽藍を失った所が数多くありました。しかし、寺領を失った寺院は経済的困窮から伽藍再建が進まなかったようです。そんな中で、次のような有力寺院が開帳による復興費用工面という手法を取り始めます。
東日本大震災復幸支縁「信州善光寺出開帳両国回向院」(平成25年4月27 ...
延宝四年(1676) 石山寺が、江戸で行った出開帳
元禄五年(1692) 善光寺の出開帳
元禄七年(1693) 法隆寺の江戸出開帳
 法隆寺は聖徳太子信仰の中心地で、この出開帳でも聖徳太子信仰を中心に出品宝物が選ばれ、多くの信者が訪れ、期待してた以上の収益をあげ、堂宇復興に成功します。このような動きを見て、善通寺も動き始めます。
回向院 出開帳
         「江戸名所図会」の回向院開帳の様子
 中世以来、聖徳太子信仰と弘法大師信仰は「太子信仰」として一連のもののように広まっていました。法隆寺の出開帳が聖徳太子なら、善通寺は「弘法大師誕生の地」として、弘法大師信仰を目玉に据えます。今まで進まなかった金堂復興資金を、江戸や上方での出開帳でまかなおうとしたのです。
情報紙「有鄰」560号|出版物|有隣堂 - Part 2
元禄の出開帳のスケジュールは次の通りです。
①元禄 9(1696)年に江戸で行われ、
②元禄10(1697)年3月1日 ~ 22日まで
          善通寺での居開帳、
③同年11月23日~12月9日まで上方、
④元禄11年(1698)4月21日~ 7月まで 京都
⑤元禄13年(1700)2月上旬 ~ 5月8日まで
          播州網干(丸亀藩飛地)
以上のように3年間にわたり5ヶ所で開かれています。
 結果は大成功で、この収益により工事中の金堂復興は順調に進み、元禄13年には、京都の仏師に依頼した本尊薬師如来坐像が納められ、15年6月には完成の結縁潅頂が執り行われ9月に結願しています。寺領からの収入だけでは、再建は難しかったはずです。元禄の本堂再建は、出開帳という都市住民の信仰心と寄進に支えられて、とんとん拍子に成就したたようです。

 さて、残る課題は五重塔です。
 再建の動きは、金堂が復興した直後から始まりますが、今度は順調には進みません。その動きは「善通寺大塔再興雑記」に、詳しく記されています。最初、住職の光胤は多宝塔での再建を目指したようです。それが三重塔に変更され、光国が住職になると五重塔での再建計画にグレードアップされていきます。そのため当初予定した建設資金よりも大幅にふくれあがります。
 そのような中で宝暦12年(1762)に、桃園天皇から五重塔再建にむけての許可が下ります。再建工事は進み、天明八年(1788)に上棟、文化元年(1804)に入仏供養をおこない完成という形で進みます。
この五重塔の再建でも、善通寺は出開帳をおこなっています。
①元文5(1740)年 江戸・京・大坂での出開帳
②宝暦5(1755)年 善通寺での開帳
②宝暦6(1756)年 網子での出開帳
  多くの人々が住む都市へ出かけていって開催される出開帳は、いろいろなリスクをともないます。宝物輸送や管理・警護、開催準備、など、ややもすれば出費がかさみ、時には赤字に終わる場合もあったようです。出開帳の場合、成功(=教線拡大と収益確保)するためには、多くの人々が共鳴し賛同してくれるような「大義名分」が必要です。そのためには開帳趣旨をはっきりとさせて、そのねらいにあった出品宝物を選ぶことが求められます。
高野山・奥之院(その6)・・・大師入定信仰: 倫敦巴里

 善通寺の場合は、弘法大師信仰が売りです。

弘法大師空海が誕生した善通寺の復興が趣旨です。具体的には第一期は金堂の復興、第二期は五重塔復興ということになるのでしょう。そのためには「弘法大師空身誕生の地にふさわしい出品リスト」が必要になります。具体的に云えば、次のようなものが宝物(展示品)が欲しいところです。
①空海幼少期の姿
②父母の姿
③幼少期の事績にまつわる霊宝
④誕生地ゆえの信仰資料(後世の優れた作品など)
 つまり、このようなねらいのもとに、どんな宝物がそろえられたのか、そこに善通寺当局の主張や意識が見えてくると研究者は考えているようです。

残された「元禄目録」のデザインを見てみましょう

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 寸法は、縦約30㎝ 横172㎝の折本装で、表紙には紺紙を用い銀で秋草が描かれています。表紙中央やや上に標題「霊仏宝物之目録」を打ちつけています。本文の料紙は雲母入りの紙が使われます。
 首題は
「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」、

末尾に「此目録之通、於江戸開帳以前桂昌院様御照覧之分 如右」とあります。
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ここから元禄九年(1696)の江戸出開帳の際に、桂昌院の御覧に際し作成された目録のようです。
うだ記紀・万葉/桂昌院
桂昌院(家光側室で、5代将軍・綱吉の生母で、大奥の実権者

 桂昌院に見てもらうために料紙を切り継いで、出開帳出品についても吟味が十分なされたことがうかがえます。料紙に薄墨の界線がひかれ、36件の宝物が記され、それぞれの宝物についての注記(作者・由来・形状品質など)が書かれています。
 次に宝暦目録をみてみましょう。
 こちらは善通寺の手控えとして書き出されたものです。
表紙には標題が「善通寺誕生院霊像宝物之記」と墨書されています。
冒頭は「勅願所讃岐国屏風浦五岳山功位大領佐伯善通之寺 御誕生院霊一宝警目録」と書かれています。裏表紙見返り部分に。次のように記されます。
「右九番之縁起ハ、宝暦六子年於播州網干津ノ宮開帳ノ時、筆記シテ示之。
 宝暦五亥年於寺門開帳之時ハ十四番トセリ。木像大師護摩堂並毘沙門・吉祥天・渡唐天神右五ヶ所二分ツ故ナリ。散失センコトヲ恐レテ令浄書之一帖トスルナリ
 宝暦九己卯年十月 日 権僧正光国識
            右筆 宇佐宮僧真境
別表に掲げた四十六件の宝物を、1番から9番までのグループ(輸送時の収納櫃のグループ)ごとに記し、注記を宝物名称の後に付けています。第三番のグループの末尾には
「各々善通寺奥院七種宝物なり」
とあり、初めて「七種宝物」という呼び方が登場します。善通寺にとって重要な意味をもつ宝物という意味なのか、いくつかの宝物名の右上に墨色の「○」印が記されています。

 掲載されている宝物リストについてみてみましょう。
善通寺宝物リスト
左側の元禄目録は、
1~6までは彫刻
7~18までは書画
19に「稚児大師像」があるものの
20~24は工芸品、
25~34は経典(書跡)
35・36は古文書・絵図
と全部で36です。それがジャンル別に区分されて並べられています。各ジャンル内では「大師作」と伝わるものをまず最初に持ってきて、その後の配列は年代順です。
 彫刻については、幼少期の空海像・空海の請来品を、メイン宝物と考えていたようです。この目録からは、ジャンル別に配列されたはいますが、誕生地にまつわる「大師作」ものを選定の第一基準としてリストアップしていたことが分かります。
 選出と配列論理は、この目録の提出先である桂昌院に、出開帳趣旨に賛同してもらうためのものだったのでしょう。出開帳の趣旨に一番近い論理構成が、このリストだと善通寺側は考えていたのでしょう。
 次に、約半世紀後の宝暦目録をみてみましょう。
 宝暦目録は奥書にあるように網干の出開帳時の梱包リストです。
一番から九番までのグループに分けて、箱に詰められたようです。そのため、内容面よりも形状面など櫃への収納が優先されての配列になっているようです。結果といて、配列論理から出開帳の趣旨を探るのは難しいと研究者は考えているようです。
 しかし、第二番に「瞬目大師」(10)、第三番(11~19)には、中世文書や、一字一仏法華経序品をはじめとする「七種宝物」が配置されています。第四番には両親像(20・21)が続いており、内容面でみてみると、このI群が「誕生地」善通寺出開帳の主軸になるようです。
 また、先に述べた「○」印の宝物は、10・14・15・16・17・18・37・42・43で、
①出開帳の主軸となる一群
②後半に配置された善通寺創建時の資料
③中世の盛時を物語る資料(亀山院の寄進と伝える紺紙金泥法華経)
になります。元禄期の第一基準であった「大師作」の宝物は、振り分けられており、重要度の基準が変わってきたようです。
 両者のリストをつき合わせて、元禄期になかったものが、宝暦期には選ばれた宝物を研究者は探します。
そして、20・21の「讃岐守佐伯善通公御影」と「阿刀氏御影」の空海の両親像に注目します。このふたつの像は、明和八年(1771)の銘をもつ厨子に入れられて、現在まで保管されてきました。この保管用厨子は、宝暦期の開帳後に作られたもののようです。像については、制作年代は作風から江戸時代前半期のものとされます。ちょうど五重塔建立のための第二期出開帳が行われていた時期と重なります
。前回にはなかった両親の像は、第二期の出開帳のために作られたようです。「空海誕生の地」にとって、幼少期の空海の姿とともに、両親の姿も必要と考えるようになったのでしょう。「弘法大師誕生所」を強調するためのアイテムのひとつともいえます。
一字一仏法華経序品
 一字一仏法華経序品

次に研究者が注目するのは「七種宝物」という言葉の登場です。
 現在の弘法大師空海ゆかりの「七種霊宝」は、
①一字一仏法華経序品
②金銅錫杖頭(いずれも国宝指定)
③仏舎利
④袈裟
⑤水瓶
⑥鉢
⑦泥塔
の七件だそうです。ところが宝暦目録の「七種宝物」と、現在のものとはちがうっているものがあるようです。⑥の鉢はリストになく、幼少期の空海が作ったといわれる⑦泥塔は、両目録ともに、他の「七種宝物」から離れて配置されています。ここからは「七種宝物」は、江戸時代にはまだ特定化していなかったと研究者は考えているようです。
金銅錫杖頭2
 宝暦の第二期出開帳にあたり、江戸や上方の都市住民に「弘法大師誕地」をアピールするためのプロモート戦略として「七種宝物」という概念が新たに作り出されたのかもしれません。それは、瞬目大師に続く新しいアピールポイントになっていきます。
金銅錫杖頭

 以上をまとめておくと
①善通寺では、17世紀末から金堂と五重塔の復興が課題となった。
②そのための建設資金集めのために、出開帳という新手法がとられた③出開帳には、目玉となる宝物が必要となった。
④そのため出開帳の趣旨に合う「宝物」が「創」られ、エピソードが付けられていった
⑤それが空海の父母の像であり、「七種宝物」という概念だった
そういう目で見ると、善通寺が次の二つを主張するようになるのも、江戸時代の後半からだった事に気がつきます
①父善通のために空海が建立した寺が善通寺
②空海の母は、玉依御前
 これも出開帳のアピールの中で生まれ、高揚した意識かもしれないと思うようになりました。
参考文献
渋谷啓一 善通寺出開帳目録から見る「宝物」の形成 
    香川県歴史博物館調査研究報告第三巻2007年

「空海=多度津白方誕生説」は誰によって語られ始めたのか?

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多度津白方の海岸寺奥の院
 
空海は、善通寺の誕生院で生まれたと信じられています。
誕生院は佐伯氏の旧邸宅とされ、誕生時に産湯を使ったという池も境内にあります。(なお、父が善通であったというのは俗説で、資料的には確認されていません)
 ところが、この正統的なる弘法大師伝に対して、空海が多度津白方の屏風が浦で生まれ、父をとうしん太夫、母をあこや御前とするなど、まったく異なる伝記があります。「空海=多度津白方生誕説」を説く伝記は、以下のようなものがあります。
 『説経かるかや』「高野の巻」
 『弘法大師御伝記』善通寺所蔵版
  『南無弘法大師縁起』
  
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「空海=多度津白方生誕説」縁起は、いつころ制作されたのでしょうか。

 一つは、はじめに縁起の成立があり、その後に白方屏風が浦の各社寺が縁起に沿って、弘法大師誕生地説を作りあげたという縁起先行説が考えられます。
もう一つは白方屏風ガ浦の各社寺にあった誕生説を集めて縁起が成立した縁起後行説です。
しかし、本縁起には白方屏風ガ浦の海岸寺等の寺院名がまったく見えません。このことから「空海=多度津白方生誕説」の縁起本が産まれた後、白方の各寺社が既成事実を作り出していった縁起先行説の方が有力です。

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 この縁起がいつ成立したかについては、その中に讃岐守護代で天霧城主の香川氏が秀吉軍の侵入で天霧城が落城した後に、元結いを切って辺路に出たという記事がありますので、永禄二年(一五五九)以降であることは間違いありません。
 次に下限をみます。澄禅の『四国逞路日記』の中に、空海の父母とされる「とうしん大夫夫婦」の石像が弥谷寺にあったと記されてます。つまり澄禅が辺路した時には、すでに「空海=多度津白方生誕説」が札所間(弥谷寺周辺か)に定着していたのです。そして、彼は「空海=善通寺誕生説」には何も触れていません。このことから本縁起の成立は、澄禅『四国逞路日記』の承応2年(1653)よりも、かなり古いと考えられます。
「空海=多度津白方生誕説」が世に広がり、白方の大善坊が仏母院へと寺名変更するのが寛永十五年(1638)であることが目安となります。白方の仏母院の御胞衣塚の五輪塔は、大師誕生地を積極的にアッピールするために建立されたとみられますが、その形状から判断して江戸初期ころのものとされています。近世における創作なのです。
以上から縁起先行説に立って、本縁起の成立を永禄11年
(1559)から寛永年間(1614~1644)と考えます。
 この時期、古くから大師誕生地として広く認められていた善通寺は、永禄元年(1558)の兵火で金堂も五重塔も燃え落ちます。江戸時代になって生駒氏が援助の手を差しのべるまで、約80年間は衰退を余儀なくされていたようです。本縁起は、ちょうどこれを狙うようにして「空海=多度津白方生誕説」が生まれ、広げられていくのです。逆に見ると当時の善通寺は、これらの動きを止めることも出来ないほど活動力を失い、荒廃していたのかもしれません。
 なお、先日アップした記事で示したとおり寛永十一年(一六三四)の「善通寺西院内之図」には、生駒親正が寄進した御影堂と三代藩主正俊の正室・円智院が建立した御影堂が描かれており、このころから善通寺の復興が始まります。
この縁起はどこで作られたのでしょうか。
本縁起の舞台は讃岐白方屏風が浦近辺です。しかし、縁起の中に具体的な寺社の名称は善通寺以外、まったく出てきません。ただ状況証拠から、いくつかの候補となる寺社が浮かび上がってきます。
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 まず、天霧山の向こう側の弥谷寺です。

澄禅『四国逞路日記』を見てみましょう。
澄禅は、ここで本縁起の登場人物の「とうしん太夫とあこや御前」つまり、空海の父母の石像を拝んでいるのです。つまり、その時には、
空海の両親として「とうしん太夫とあこや御前」説がここでは流布されていたようです。澄禅は、讃岐守護代の香川氏の居城・天霧城の傍らを通って海岸寺に降り、そこでは空海が幼少のころに遊んだという浜を過ぎて仏母院に至っています。
 この時期は仏母院は大師誕生地として備前・但馬あたりでも、すでに広く信じられていました。ここで御影堂を開帳してもらい、空海十歳の像を拝し、寺僧から霊験あらたかなる説法を聞いたのです。さらに空海の氏神と伝える熊手八幡も参拝しています。
澄禅の時代には、空海の誕生の地はまさに多度津白方だったのです。

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そして善通寺の存在もあなどれません。

灰塵に帰した善通寺とはいえ、いくつかの小堂は火災を免れていたはずです。そして、そこには本縁起に係わってもよさそうな人物(念仏聖など)が寄居していたことが考えられます。しかし、資料はありません。あくまで憶測です。
 本縁起の「白方屏風ガ浦」という地名から、この地域の社寺を見てみましたが、これらの社寺は本縁起に洽った寺伝を持っており、この辺りとの関連が濃厚に感じられます。ただ本縁起には、これらの社寺は善通寺以外まったく記されていないことは何度も触れた通りです。それは、本縁起成立後に、各社寺で大師伝説を作り上げたと考えられるからです。言い換えれば、本縁起が高野山で創作されたとしても不思議ではないわけです。制作地を特定するのは難しいようです。
誰が「空海=多度津白方生誕説」の縁起を書いたのでしょうか。
 さてもう一度本縁起をみてみます。
前半部の中山寺や徳道上人からは、西国三十三所と関係が見えてきます。後半部には阿弥陀信仰、極楽往生思想が濃厚にみられ、念仏に関係するものです。そして高野山に参詣することや都率(弥勒)来迎のことも記されるなど高野山に関する記述がみられます。そこには高野山に係る念仏聖の存在が浮かび上がってきます。

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では高野山との関係が見いだせるのは、先に見た寺社の中でどこでしょうか。
高野山から移ってきた住職の存在や水祭りの行事が行われるという弥谷寺が、まず浮かびます。また海岸寺所蔵の棟札をみれば、弥谷寺と海岸寺は密接な関係を有していたようです。海岸寺の大師堂は天正二十年(1592)には建立されていて、新たな大師信仰を創り出していく充分な要素が当時の海岸寺にはあったと思います。また仏母院には寛文十三年(1673)の念仏講の石碑があり、それ以前の念仏行者の存在がうかがえます。
 以上の「状況証拠」から、本縁起に係わったのは白方周辺に関りを持ち、しかも高野山との関係を有する念仏系の僧が浮かび上がってきます。つまり高野聖ということです。
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さらにこの縁起を書写したのは高野山千手院谷西方院の真教です。

彼が聖方に属した僧侶であったことも匂います。真教も中世的な高野聖と言えるのではないでしょうか。書写の人物が高野山・西方院であることは、本縁起が高野山にいた人物が制作したことも考えられます。
 
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 では何の目的で作られたのか。
 この縁起は、讃岐白方屏風ガ浦で弘法大師が誕生したと記します。
しかし、それを強く主張するものではありません。それよりも主眼は、後半部に説かれる四国八十ハケ所を辺路の勧めです。辺路によって諸仏諸神が来迎して、極楽往生できる功徳が強調されます。四国辺路を進めるのが、この縁起の目指すところであったように思えます。

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 この縁起は弘法大師一代記の語り物語なのです。

これを語り、四国八十ハケ所の辺(遍)路を進めたのは誰だったのでしょうか。時衆系高野聖であったのか、また熊野比丘尼のような唱導者であったのか、今となっては、歴史の奥に隠れて見えなくなっています。
 しかし真念・寂本が
「四国には、その伝記板にちりばめ、流行すときゆ」

とあるように、これが版本とされ、多くの人に読まれることによって、庶民が参加する四国八十八ヶ所辺(遍)路が一層盛んになったことは間違いでしょう。
 つまりこの縁起の成立は、四国辺路から四国八十ハケ所辺(遍)路への移行、いわばプロの修行辺路から庶民が参加する辺路を促す動きの一部と捉えることもできるようです。
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 ちなみに四国遍路の功労者とも寂本は、真念『四国遍礼功徳記』付録の後書きなかで「空海=多度津白方生誕説」縁起本を次のように厳しく批判しています。
然るに世にし礼者ありて、大師の父は藤新太夫といひ、母はあこや御前といふなど、つくりごとをもて人を侑、四国にはその伝記板に鏝流行すときこゆ、これは諸伝記をも見ざる愚俗のわざならん、若愚にしてしるもの、昔よりいへるごとく、ふかくにくむべきにあらず、ただあはれむべし

参考史料 武田 和昭 『弘法大師空海根本縁起』について

讃岐の古代寺院 

   

讃岐の古代寺院 

 

 

                        

五重塔は、いつ誰が建てたのでしょうか?

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春咲きに塩飽本島の島遍路巡礼中に笠島集落で御接待を受けました。
その時に、1冊の本が目にとまりました。「塩飽大工」と題された労作です。この本からは、塩飽大工が係わった香川・岡山の寺社建築を訪ねて、それを体系的に明らかにしていこうという気概が感じられます。

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この本に導かれて五重塔の建立経過を見ていきましょう。

善通寺の五重塔は、戦国時代の永禄の兵火で焼失します。その後、百年間東院には金堂も五重塔もない時代が続きます。世の中が落ち着いた元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間です。これが3代目の五重塔にあたります。
ところが、これも天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。
そして5年後の弘化2年(1845)に再建に着手します。
そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工したものが現在の五重塔です。古く見えますが百年少々の五重塔としては案外若い建物です。
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1762宝暦12年着工の3代目五重塔の完成までの足取りは次の通りです 
1762宝暦12年 綸旨
1763宝暦13年 一重柱立
1765明和2年 二重成就
1777安永6年 三重柱立
1783天明3年 四重成就
1788天明8年 五重成就
1804文化元年 入仏供養
開始時の責任者は、丸亀藩のお抱え大工頭である山下孫太夫です。
棟梁が真木(さなぎ)弥五右衛門清次で、真木家は、塩飽本島笠島浦に住んでいた塩飽大工です。豊臣秀吉から650人の船方衆に1250石の領知を認める朱印状が与えられた時期には塩飽の有力な4家の一つとして島を運営した由緒ある家系です。真木弥五右衛門は、山下孫太夫の父である山下弥次兵衛の弟子であり、孫太夫とは義兄弟の一族でもありました。着工の際には、木材欅数十本、杉丸太400本余りを大阪で買い求めた史料が残っています。
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(東院に五重塔は描かれていません)

三代目の五重塔の完成まで42年かかっています。
あまりにも長くなったため、5層目の造立の時には塔脚が古びて朽ちそうになっていたようです。諸州を回って勧進しますが資金不足に悩まされ、丸亀藩に願い出て、金銭と材木2、500本をもらい受けて、塔脚の扶持としています。勧進により資金を集めながらの建設なので、資金がなくなれば材料も購入することが出来ず工事は長期にわたってストップするのが常でした。
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 浄財を集めながら塩飽大工・真木家(さなぎ)が棟梁として完成させた3代目五重塔です。
ところがわずか36年後の1840天保11年に、落雷による火災で灰燧に帰してしまいました。
この時の再建に向けた動きは早いのです。翌年には、大塔再建の願書草案を丸亀藩へ提出しています。1845弘化2年に綸旨が下ります。綸旨とは天皇の勅許であり、形式的手続きとして必須条件でした。
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完成への道のりは以下の通りです。4代目五重塔の建築推移

初代棟梁 橘貫五郎         初代棟梁  2代貫五郎  3代目棟梁
1845弘化2年 綸旨  ~9年間勧進        大平平吉
1854嘉永7年 着工     48才    20才
1861文久元年 建初  ~4年間工事  55才    27才 
1865応元年  初重上棟 ~2年間工事  59才    31才  
1867慶応3年 二重上棟 ~10年間 維新の動乱と勧進のため中断 
         初代貫五郎没(61才) 2代目貫五郎へ 33才 
1877明冶10年 三重着工 ~2年間工事  43才
1879明治12年 三重上棟 ~2年間工事  45才
1881明治14年  四重上棟  ~1年問 工事 47才    
1882明治15年 五重上棟   17年問 勧進のため中断48才 16才
1897明治30年 2代目橘貫五郎没(63才)      63才   36才
1902明治35年 ~9か月間 工事
1902明治35年 五重塔完成        三代目棟梁大平平吉36才

初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。

彼は善通寺五重塔の綸旨が下りた年に、備中国分寺五重塔を完成させたばかりで39歳でした。彼にとって2つめの五重塔なのです。この頃の貫五郎は塩飽大工第一人者の枠を超え、中四国で最高の評価を得た宮大工でした。同時進行で建設中だった岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。 
西大寺本堂立柱前年の1861文久元年に善通寺五重塔を建て始め、
西大寺本堂完成の2年後1865慶応元年に善通寺五重塔初重を上棟
二重を工事中の1867慶応3年4月26日に初代貫五郎は61歳で没します。彼にとって善通寺五重塔は、西大寺本堂と共に最晩年の大仕事だったのです。

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貫五郎はこの塔に懸垂工法を採用しました。

心柱は五重目から鎖で吊り下げられて礎石から90mm浮いています。
この工法は、昔の大工が地震に強い柔工法を編み出したと、従来はされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間ができて雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 五重塔は層毎に地上で組み立て、一旦分解して部材を運び上げ、積み上げていく手法がとられました。心柱も柄で結合させながら伸ばしていきました。五重目を組むときに、鎖で心柱を吊り上げたのです。これによって、建物全体が重みで縮むのに合わせて心柱も下がり、宝塔と屋根の間に隙間ができるのを防止する工夫だったようです。
 彼の死とあわせるように、資金不足と幕末の動乱によりそれから10年間工事は中断します。
塩飽本島生ノ浜浦の橘家には
「貫五郎は善通寺で亡くなり、墓は門を入って左側にある」
と伝わっているが、どこにあるか分からないようです。

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世の中が少し落ち着いてきた明治10年に工事は再開します。
初代貫五郎の跡を継いだのは2代目貫五郎です。
彼は1877明治10年、三重を着手する時に貫五郎の名を襲名しています。彼はほとんど一生を善通寺五重塔に捧げたともいえます。合間に数多くの寺社を残し、彫刻の腕前は初代に勝るとも劣らないと言われました。2代目貫五郎が五重を上棟したのは、5年後の明治15年48歳のときで、落慶法要が行われた明治18年まで携わったようです。しかし、この時には宝塔が乗っていません。宝塔のない姿がそれから17年間も続きました
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 日清戦争後に善通寺に11師団が設置されたのをきっかけに宝塔設置が再開されます。
そして、やっと1902明治35年五重塔の上に宝塔が載せられます。完成させたのは弟子の大平平吉で、この時36才でした。彼の手記には次のような文章が残っています。
明治15年3月に16才で2代目貫五郎の徒弟となり、五重完成後師匠に従い各所の堂宮建築をなし実地習得す、明治23年7月師匠より独立開業を許せらる」
とあります。
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五重塔の建立は、発願から完成まで62年がかかっています。

初代貫五郎と2代目夫妻の戒名が宝塔には掲げられています。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。初重外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力に圧倒されそうになります。
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 木造、三間五重塔婆、本瓦葺の建築で、一部尾垂木と扉に禅宗様が認めらますが、純和様に近い様式です。高欄付切石積基壇の上に建築され、芯柱は6本の材を継いで、最上部がヒノキ材、その下2つがマツ材、そして下部3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。また、各階には床板が張られていますので、階段での昇降が可能です。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたためか、各層で時代の違い違いを見ることができます。
 ちなみに建築に当たったのは塩飽本島出身の宮大工達で、彼らは同時期に、建設中だった金毘羅山の旭社も担当していました。
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 完成から約百年が経過し、所々に腐食が見られるようになったので、善通寺開創千二百年を迎えるに際の寺内外整備の一環として平成3年(1991)から平成5年(1993)にかけて修理が行われました。江戸時代の技法による塔婆建築の到達点を示すものとして価値が高く、平成24年12月28日に重要文化財に指定されました。


善通寺金堂の薬師如来像は、いつどこからやってきたのか?

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善通寺東院の金堂
善通寺の金堂に入ると丈六の大きな薬師座像が迎えてくれます。
この大きなお薬師さまと向かい合うと、堂々とした姿に威圧感さえ最初は感じます。このお薬師さまは、どのようにしてここに安置されたのでしょうか。それが垣間見える史料が残っています。
  戦国時代に戦禍で消失してから百年以上も善通寺には金堂も五重塔もない状態が続きました。江戸元禄時代になって、世の中が落ち着いてくるとやっと再建の動きが本格化します。そのスタートになったのは元禄七年(1694)に、仁和寺門跡の隆親王が善通寺伽藍再興をうながす令旨を出したことです。

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善通寺金堂の本尊は薬師如来

 金堂の方は元禄十二年(1699)に棟上されました。続いて、そこに収まる本尊が次の課題になります。
この薬師仏は誰の手によって作られたのでしょうか?
善通寺には、薬師仏をめぐっての善通寺と仏師とののやりとり文書が残っているようです。その文書から本尊の制作過程を追ってみます。
 善通寺が薬師本尊を発注したのは京都の仏師運長です。彼は誕生院光胤あてに、元禄十二年(1699)12月3日文書を4通出しています。その内の「御註文」には、像本体、光背、台座の各仕様について、全18条にわたり、デザインあるいはその素材から組立て、また漆の下地塗りから金箔押しの仕様が示されています。このような「見積書」によって、全国の顧客(寺院)と取引が行われていたようです。
1 善通寺本尊1
薬師如来(善通寺金堂)

 ついで翌年の元禄13年(1700)2月5日には、着手金の銀子三貫目が運長へ支払われています。
これに対して運長は次の「請取証文」3通を発行しています。
①6月 3日 銀子五貫目分、
②10月4日 銀子二貫九百五十目分、
③翌元禄14年に「残銀弐貫目」分を金三十両と銀二百六十目で請取った
制作費の総額銀十二貫九五十目分の支払いは、着手金を含むと都合四回に分けて行われたようです。

1 善通寺本尊3

薬師如来像の制作経過は、どのようなものだったのでしょうか。
仏像本体は三月中に組み立ててお目にかけ、来年の八月中旬までには、台座、光背の制作、像の下地仕上げなども完了させて仕立て、箱に入れて納入します。

と、雲長は、当初の予定案を示しています。
善通寺と雲長のやりとりの記録では、これだけしか分かりません。しかし、運長の記した「箱之覚」と京の指物屋源兵衛が運長にあてて出した「御薬師様借り箱入用之覚」があります。「箱之覚」とは薬師如来像を、京都で制作した後、善通寺へ搬入する際の梱包用仮箱の経費覚えで運長が書き留めたものです。
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金堂の基壇には古代寺院の礎石が使われている

薬師如来は、どのようにして京都から善通寺に送られたか?

 寄来造りですから分解が可能です。そのため薬師像本体は頭部、体幹部、左右両肩先部、膝部の5つのパーツに分けて梱包されたようです。また台座、光背ほか組立に必要な部材などもあわせると総計33口の仮箱が必要だったようです。
 京都で梱包作業が終わった後、善通寺までの輸送日程や経路については資料がないようです。仏や荘厳の品々を納めた33ケの箱は船で、大坂から積み出され、丸亀か多度津の港で陸揚げされ、善通寺に運びこまれたのでしょう。
 「仏像輸送作戦」を担当したのは運長の弟子の久右衛門と加兵衛という二人の仏師でした。二人が9月23日に善通寺側へ提出した銀請取証文高の総額三貫六百六十一匁六分の内訳の中に「箱代五百九十九匁九分」が含まれています。ここから久右衛門と加兵衛の二人の仏師が仏像輸送と組立設置などの作業をおこなったと研究者は考えているようです。作業終了後には、仏師二人に祝儀的な樽代八十六匁が贈られています。この頃までに薬師像の組立設置が完了したようです。
 
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 つまり薬師如来像の制作は、
①元禄13年2月5日に開始し、
②8月21日頃には像の下地仕上げが完成して仮箱も制作、
③9月23日には善通寺へ納入、組立完了
というおおよその流れがたどれます。
 しかし、薬師像の制作費の支払いが完了するのは翌年の元禄14年7月7日になっています。善通寺側の経費調達が必ずしも順調では無かったと研究者は考えているようです。
1 善通寺本尊2
 
 すべての支払い完了後に、誕生院僧正(光胤)は運長へ書状と祝詞の白銀五枚を渡しています。この書状の内容から誕生院にとって薬師如来の尊容が満足できるものであったことがうかがえます。運長自身も弘法大師「御誕生霊地」の造仏という意識をもって制作に臨んでいたことが分かります。元禄年間に出来上がった金堂と、そこに修められた薬師さんが300年以上経った今も善通寺の地を見守っています。
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参考文献 香川県歴史博物館 近世文書からみた善通寺の諸彫刻像 調査報告書第三巻

讃岐の古代寺院 善通寺 東院と誕生院の歴史について
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善通寺と誕生院(香色山から)
 善通寺の背後の香色山から善通寺を眺めたものです。東にはおむすび型の甘南備山である讃岐富士が見えています。手前に五重塔と本堂が巨樟に囲まれて建っているのが分かるでしょうか。これが東院です。更に拡大すると・・・
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善通寺誕生院

その手前に大きな屋根を重ねる伽藍があります。これが誕生院です。かつての空海の佐伯家の跡と言われています。このように善通寺は五重塔のある東院と誕生院の西院に分けることができます。
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善通寺本堂 赤門から

現在、金堂と五重塔のあるのが東院です。
ここには白鳳期の寺院跡が確認されています。佐伯家の建立によるもので、空海が生まれる以前に伽藍はあったようです。現在の金堂の基壇の周りには、造り出しのある白鳳期の非常に大きな礎石が多数用いられています。金堂は永禄元年1558の三好実休の兵火で焼けて元禄十一年(1698)に再建されました。 その間、140年近くは金堂がなかったわけです。

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善通寺本堂
永禄の時に焼けた建物について鎌倉時代の道範の『南海流浪記』には
「 白鳳期のお寺が焼けたときに本尊さんなどが焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」と書かれています。
おそらく半分だけ埋まっている仏頭がまつられていて、現在残っている仏頭はそれを掘り出してまつったのだろうとおもいます。新しく元禄十一年に建てるときに、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので、現在のように高い基壇になってしまいました。この基壇の中に、白鳳期のものがまだまだ埋まっているのかもしれません。
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善通寺東院の大楠
元禄十一年の金堂再建のときに、その敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが、古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊とする白鳳期の前寺(前身寺院)があったことが推定できます。
『南海流浪記』には、すでに火災で焼けた前寺を再建した建物が鎌倉時代初期には存在したことが見えています。平安時代の中ごろかわかりませんが、一度火災にあって、鎌倉時代初期に焼け跡を訪れた道範が本尊は埋仏だと書いています。本堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見えるといって、大師が建立したとしています。
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善通寺本堂
これを見ると、鎌倉時代初期には徐々に回復しつつあったことがわかります。
埋仏は白鳳期の仏頭に当たるもので、地震などで埋もれたのを掘り出して据えていたようです。このときの金堂が永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され、埋もれたのを首だけ掘り出しだのが現在の仏頭だとおもわれます。
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善通寺境内 善女龍王
『南海流浪記』は、四方四門に間頭が掲げられていて大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。大師の父の名前ではなくて、佐伯家先祖のお名前で、古代寺院を勧進で再興して管理された人物とも考えられます。
 つまり、以前から建っていたものを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。

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善通寺金堂
道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 しかも、『南海流浪記』は先祖の俗名と書かれています。
 本田善光の善光寺のように、進を寺号としないで個人名を付けたと考えれば、やはり先祖の聖の名を付けたと考えたいところです。善通寺も御影堂は東向きで、西に本尊をまつっています。地下に戒壇をもっているのも全く同じです。まっ暗闇の地下をぐるっと回ると、死者に再開できるという伝説をもつ戒壇巡りがあります。御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であることは通いありません。
「五来重:四国遍路の寺」より

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