瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の四国霊場 > 志度寺

 
志度寺縁起 6掲示分
志度寺縁起
志度寺には貴重な縁起絵巻が何巻もあることは以前にお話ししました。この絵巻が開帳などで公開され、そこで絵解きが行われていたようです。志度寺には勧進聖集団があって寺院の修造建築のために村々を勧進してまわったと研究者は考えています。彼らの活動を、今回は見ていくことにします。テキストは「谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起152P 聖と唱導文芸」です。
   この本の中で谷原博信氏は、次のように指摘します。
「志度寺に伝わる縁起文を見ると唱導を通して金銭や品物を調達し、寺の経済の力となった下級の聖たちの存在のあったことが読みとれる。
・この寺には七つもの縁起があって、いずれも仏教的な作善を民衆に教えることによって、蘇生もし、極楽往生もできると教説したようだ。
  志度寺縁起 白杖童子縁起・当願暮当之縁起
             白杖童子蘇生縁起
「白杖童子蘇生縁起」のエッセンスを見ておきましょう。
山城国(京都)の淀の津に住む白杖という童子は馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた。妻も子もない孤独な身の上で世の無常を悟っていた。心ひそかに一生のうち三間四方のお寺を建立したいとの念願を抱いて、着るものも着ず、食べるものも食べず、この大願を果たそうとお金を貯えていた。ところが願い半ばにして突然病気でこの世を去った。冥途へ旅立った童子は赤鬼青鬼につられ、閻魔庁の庭先へ据えられた。ご生前の罪状を調べているうちに「一堂建立」の願いごとが判明した。閻魔王は感嘆して「大日本国讃岐国志度道場は、是れ我が氏寺観音結果の霊所也。汝本願有り、須く彼の寺を造るべし」
 こういうことで童子は蘇生の機会を得て、この世に生還した。その後日譚のあと、童子は志度寺を再興し、極楽に往生した。
要点を整理しておくと
①京都の童子・白杖、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた
②貧しいながら童子は、お寺建立の大願を持ちお金を貯めていた
③閻魔大王のもとに行ったときに、そのことが評価され、この世に蘇らされた
④白杖は志度寺を建立し、極楽往生を遂げた。

 さて、この縁起がどのようなとき、どのような所で語られていたのでしょうか?
志度寺の十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵の開示が行われ絵解きが行われていたと研究者は推測します。そこには庶民に囚果応報を説くとともに、寺に対する経済的援助(寄進)が目的であったというのです。前世に犯したたかも知れない悪因をまぬかれる「滅罪」ためには、仏教的作善をすることが求められました。それは「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」などです。
「白杖童子蘇生縁起」では、貧しい童子が造寺という大業を成したことが説かれています。
「童子にできるのなら、あなたにもできないはずはない。どんな形でもいいのです。そうすれば、現在の禍いや、来世の世の地獄の責苦からのがれることができますよ」
という勧進僧の声が聞こえてきそうです。
 志度寺縁起や縁起文も、それを目的に作られたものでしょう。そう考えると、志度寺の周りには、こうした物語を持ち歩いた唱導聖が沢山いたことになります。これは志度寺だけでなく、中世の白峰寺・弥谷寺・善通寺・海岸寺なども勧進僧を抱え込んでいたことは、これまでにもお話しした通りです。
 中世の大寺は、聖の勧進僧によって支えられていたのです。
高野山の経済を支えたのも高野聖たちでした。彼らが全国を廻国し、勧進し、高野山の台所は賄えたともいえます。その際の勧進手段が、多くの死者の遺骨を納めることで、死後の安らかなことを民衆に語る死霊埋葬・供養でした。遺骨を高野山に運び、埋葬することで得る収入によって寺は経済的支援が得られたようです。
 寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
 志度の道場が、伊予の石手寺とともに修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼といったいわゆる民間宗教者の四国における一大根拠地であったことを押さえておきます。
志度寺は「閻魔王の氏寺」ともされてきました。そのため「死度(寺)」とも書かれます。
 死の世界と現世との境(マージナル)にあって、補陀落信仰に支えられた寺でした。6月16日には、讃岐屈指の大市が開かれて、近隣の人々が参拝を兼ねてやってきて、賑わったようです。志度寺の前は海で、その向こうは小豆島内海や池田です。そのため海を越えて、小豆嶋からも志度寺の市にやってきて、農具や渋団扇、盆の準備のための品々を買い求めて帰ったと云います。特に島では樒の葉は、必ずこの市で買い求めたようです。逆に、志度寺周辺からは多くの人々が、小豆島の島八十八所巡りの信者として訪れていたようです。島の内海や池田の札所の石造物には、志度周辺の地名が数多く残されています。
どちらにしても志度寺の信仰圈は、小豆島にまでおよび、内陸部にあっては東讃岐を広く拡がっていました。特に山間部は、阿波の国境にまで及んでいます。逆に、先達達に引き連れられて、四国側の人々は海を渡って、小豆島遍路を巡礼していたのです。その先達を勤めたのも勧進僧たちだったと私は考えています。
盆の九日には、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
 十日に参ると万日参りの功徳があるとされます。この日には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来る人達がいました。参詣者は、これを買って背中にさしたり、手に持って家に返ります。これに先祖の霊が乗りうつっていると伝えられます。別の視点で見ると、先祖の乗り移った樒を、志度寺まで迎えに来たとも云えます。そのため帰り道で、樒を地面などに置くことは厳禁でした。その樒は、盆の間は家の仏壇に供えて盆が終わる15日が来ると海へ流します。つまり、先祖を海に送るのです。ここからも志度寺は、海上他界信仰に支えられた寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。

  以上をまとめておきます。
①志度寺は、海上他界信仰に支えられた寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていた。
②そこでは仏教的な作善で、蘇りも、極楽往生もできると説教されるようになった。
③そのため志度の道場は、修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼などの下級の民間宗教者の一大根拠地となっていった。
④彼らは開帳や市には、縁起や絵巻で民衆教化を行って、勧進活動を進めた。
⑤そのため志度寺には、絵巻物が何巻も残っている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起152P 聖と唱導文芸
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前回は「高松七観音巡礼」をしながら次のような事を見てきました。
①近世初頭の高松周辺には、国分寺・白峰寺・根来寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・長尾寺が観音信仰の拠点となり、人々が「高松七観音巡礼」を行っていたこと。
②これらの寺院が、後の四国霊場札所と重なること
③ここからは中世の山林修行者や念仏たちが行っていた中辺路修行ルートが、近世に四国遍路道になっていったことがうかがえること。
④高松西部の五色台周辺の国分寺・白峰寺・根来寺については、本尊が同じ巨木から作られた千手観音という伝えがのこり、山林修行者の拠点として相互に結ばれていたこと。
今回は、高松七観音巡りの後半部の寺院をめぐっていくことにします。
  まずは、屋島寺の千手観音です。
千手観音が、中世に普及するのは補陀落渡海信仰の影響があるとされています。その背景には、那智の補陀落渡海山寺の千手観音が、熊野行者達によって補陀落信仰と共に勧進されたことにあると研究者は考えているようです。
それでは屋島寺の観音さまを研究者は、どんな風に見ているのでしょうか?

屋島寺千手観音
 屋島寺 十一面千手観世音菩薩
仏教において、衆生を救うため、観世音菩薩はあらゆる姿に変化します。十一面千手観世音菩薩もそのひとつで、頭上には表情を変化させた11の顔、11面をおき、42本の手で千本の手を表現しています。本像は、頭と身体の主要な部分をひとかたまりのカヤ材から彫刻し、像の内部は刳(く)り抜いていません。

屋島寺千手観音3

太い首にハリのある胸、バランス良く構成された脇手、安定感のある脚部と、その造形は見応えがあります。顔立ちは、ふくよかな頬と鼻、厚い唇などが特徴的で、個性的な造形は讃岐における造仏を思わせます。着衣のうち、膝下の部分などには、大小の波を交互にくりかえすようなひだ(翻波式衣文:ほんぱしきえもん)があらわされています。

P1120107 屋島寺 千手観音
       屋島寺 十一面千手観世音菩薩

制作時期は平安時代前期の10世紀の初め頃とみられ、香川県内でもとくに優れた平安彫刻といえます。頭上面およびすべての手は制作当初のものであり、さらに観音像の光を表現した光背がともにのこされていることも大変めずらしく貴重です。屋島寺の本尊として本堂に安置されていましたが、現在は同寺宝物館で公開されています。
 この千手観音の造作時期が平安時代前期で、「県内屈指の古像」とされていることを押さえておきます。

屋島寺縁起絵
屋島寺縁起の屋島寺
屋島寺の縁起について、『四国辺路日記』は次のように記します。
 先ツ当寺ノ開基鑑真和尚也。和尚来朝ノ時、此沖ヲ通り玉フカ、此南二異気在トテ、 此嶋二船ヲ着ケ見玉テ、何様寺院ヲ可建立霊地トテ、当嶋ノ北ノ峯二寺ヲ立テ、則南面山ト号玉フ。是本朝律寺ノ最初也。(中略)
其後、大師(弘法大師)当山ヲ再興シ玉フ時、北ノ峯ハ余り人里遠シテ、還テ化益難成トテ、 南ノ峯二引玉テ、嵯峨ノ天皇ノ勅願寺トシ玉フ、 山号ハ如元南面山尾嶋寺千光院ト号、千手観音ヲ造、本堂二安置シ玉フ、大門ノ額ヲハ、遍照金昭三密行所当都率天内院管門ト書玉フ。
  意訳変換しておくと
 屋島寺の開基は鑑真和上である。鑑眞が唐からやって来たときに、屋島沖を通過した。その際に、南に異常な気配を察して、屋島に船を着けて見てみると、寺院建立に最適の霊地だったので、屋島北峯に寺を立て、南面山と号した。つまり、屋島寺は、日本における最初の律宗寺院である。(中略)
その後退転していたのを、弘法大師が再興する際に、北峯は人里遠く布教には適していないとして、南峯に移した。そして、嵯峨天皇の勅願寺とし、南面山屋島尾千光院と号した。千手観音を造り、本堂に安置した。大門の額には、「遍照金剛三密行所当都率天内院管門」と書いた。

ここに書かれていることを要約しておくと
①開基は鑑眞で、屋島北峯に建立した寺は、日本で最初の律宗寺院であること
②退転して寺を弘法大師が復興し、南嶺に移し、自作の千手観音を安置したこと
③大門の額には、遍照金剛三密行所当都率天内院管門と書いた
①からは、屋島寺の歴史の中で、奈良西大寺の律宗集団が何らかの貢献をしていたことがうかがえます。②からは、その上に弘法大師伝説が接木されます。空海は門の額に、「遍照金剛は三密を行ずるところに当たり、しかも都率天(とそつてん)の内院の入口である」と記したとあります。遍照金剛は大日如来の別名です。大日如来の浄土は都率天よりもはるかに格の高いところです。当時の屋島寺には弥勒菩薩信仰もあったようで、都卒天の内院に入る関門だと書いています。ちなみに縁起で空海作とされる千手観音の造立は、空海入定後の数十年後のものになります。空海作とはできません。

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信貴山絵巻の飛鉢
  縁起には、屋島の飛鉢伝説が次のように記されています。

  其後、南都二赴キ給イテ、参内也。担当寺ニ、鑑真和尚所持ノ衣鉢ヲ留玉フ。 此鉢空二昇テ、沖ヲ漕行船具二飛下テ、斎料ヲ請。

意訳変換しておくと
  鑑真は、(瀬戸内海を航行し)奈良に入る時に、屋島寺を建立し、鑑真和尚の衣や鉄鉢を残した。この鉢は空を飛んで、沖ゆく船に下りたって、斎料(海関料・寄進)を集めた。

鉢が空を飛ぶことを飛鉢といって、その伝承がいろいろなお寺に残っています。例えば、越後には米山の沖を通る船に米を請うて、船頭が断わると鉄鉢が船のお米が全部山に運んできた。それで米山という地名になったという話があります。また修験者が修行をしていたときに、鉄鉢を飛ばして船から米を全部奪ってしまった話も伝えられています。沖行く船が航海安全のために、奉納品を寺や神社に納めていたことは、以前に庄内半島の三崎神社で話ししました。納めなければ災いが襲うのです。屋島寺も沖ゆく船から多く奉納品を受けていたことがうかがえます。
 鉢を飛ばして奉納品を集めるというのは神仙術です。
山岳宗教は、もとをただせば仙人(道教)の行から始まったもので、仙人の修行をしていると、不老不死の術を得る、からだが軽くなって飛べると考えられていました。それが「原始修験道」です。役行者以前は、そういうことができるのが修験者の理想だったことを押さえておきます。
 以上から屋島寺には「山林修行者 + 弘法大師伝説 + 西大寺律宗(鑑眞)」などの痕跡があることを押さえておきます。

屋島寺
屋島寺
屋島寺の地理環境を見ておきましょう。
①屋島山上に位置し、西には大きく広がる瀬戸内海があり、沖ゆく船の監視などにも最適
②海に突き出した地形で、補堕落渡海の行場としても適している
③周囲には多くの岩場があり、山岳修行の場として修験者が好みそうな要素あり。
  屋島が戦略的な要衝で、地形的にも山岳信仰の濃厚な寺であったことが分かります。そこに開かれた寺院の本尊が、平安時代前期(9世紀末期~)の「県内屈指の古像」である千手観音なのです。そういえば前回見た高松七観音の国分寺・白峰寺・根来寺もみな千手観音でした。
 また屋島寺は熊野神社を鎮守社としています。
寛文十年頃に高松藩が作成したとされる『御領分中寺々由来』の屋島寺の項には、次のように記されています。

当山鎮守十二社権現(熊野権現)、弘法大師之勧進之也

ここには熊野権現を弘法大師が勧進したと書かれています。ここにも「熊野信仰 + 弘法大師信仰」の合体が見られます。いつ頃に熊野権現が勧請されたかは分かりませんが、周囲の状況から推察すると
①讃岐大内郡の増吽による水主三山への熊野権現勧進
②備中児島への新熊野(五流修験)の勧進
③佐佐木信綱の小豆島への熊野権現勧進
などと同時期のことと考えられます。熊野水軍の瀬戸内海交易の展開や、それに伴う熊野行者の活動などが背景にあると研究者は考えています。大内郡の与田寺で増吽が活躍していた時代の応永14(1407)年の「行政坊有慶吐那売券」には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達がいたことが分かります。彼らによる勧進かもしれません。
 さらに屋島寺は近世初期の「熊野本地絵巻」を所蔵しています。この種の絵巻は、熊野比丘尼が絵解きした時に使用されたといわれます。ここからは、屋島寺にも熊野比丘尼がいたことがうかがえます。また境内に残る「血の池」も、熊野比丘尼が屋島寺にいたことを裏付けます。

五剣山と壇ノ浦
五剣山と壇ノ浦の塩田
  屋島から東を望むと見えるのが五剣山です。ここには八栗寺があります。
天を指すような岩稜は海から見ても目立つ山です。次に五剣山山中の八栗寺を巡っていきます。五剣山はその姿から備讃瀬戸を行く海人たちの目印となったことでしょう。そこへ熊野水軍とともに熊野行者がやってきます。彼らがまず探したのは、行場です。行場として五剣山は最適の条件を備えています。彼らが五剣山の行場を見逃すはずはありません。しかし、五剣山には屋島のように古い記録や仏像は残っていません。
 もともと八栗寺は、六万寺の奥院だったようです。
六万寺は源平合戦以前には、屋島を水軍拠点とした平家の保護を受けて、大いに栄えていたようです。その行場が五剣山で、そこに建立された奥の院が八栗寺という関係になります。中世には両寺は深い関係にありました。平家というパトロンを失った六万寺は衰退しますが、修験者や山林修行者の行場としての八栗寺は、その後も生き残っていきます。
 五剣山と八栗寺の名前の由来を、寂本は次のように記します。
 空海は思いを凝らして七日間、虚空蔵聞持法を修した。明星が出現した。21日目に五柄の剣が天から降った。この剣を岩の頭に埋めたことから、五剣山と呼ぶようになった。空海は千手観音像を彫刻して、建てた堂に安置した。千手院と号した。
 この山に登れば、八国を一望に見渡せるため、「八国寺」とも呼ぶ。空海が唐への留学で成果を挙げられるか試してみようと、栗八枝を焼いて、この地に植えた。たちまちのうちに生長した。そこで八栗寺と名を改めた。
 この地も空海が虚空蔵聞持法を修した聖地として、伝わっていたようです。そして空海は千手観音を残したとされています。空海修行の地とされた五剣山には多くの行者達がやってきて、行をおこなったようです。そこに現れたのが八栗寺ということになるようです。八栗寺は蔵王権現を祀り、山岳修行の行場に建立された山伏寺です。

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五剣山と壇ノ浦(讃岐国名勝図会)
中央の峰に祀られていたのが蔵王権現です。

五剣山2
八栗寺と五剣山(四国遍礼霊場記)
この峰には七つの仙窟があり、そこには仙人の木像や五智如来が安置されいたと云います。蔵王権現を祀ることから石鎚山と同じ天台系密教修験者の影響下の行場だったようです。中央には、空海が岩面に彫り込んだ高さ一丈六尺の大日如来像があり、そこで空海は求聞持法を行った岩屋があとも記します。絵図ではひときわ高く太く描かれた真ん中の峰が蔵王権現が祀られた峰にあたるようです。いまでも五剣山は、修行の山として機能している霊地です。

八栗五剣山
デフォルメされた五剣山

 澄禅の『四国遍路日記』に、八栗寺の住職から聞いた話として、次のように記します。

昔、義経が阿波の国へ上陸して屋島を目ざす途中、2月18日牟礼高松に来て、八栗寺へ押しかけてきた。その時にこの寺では僧侶が集まって観音講をしていた。ときの声が聞えたので、観音講に集っていた者はみんな後の山へ逃げたが、源氏の雑兵たちは寺へおし入って、観音講のためにつくっておいた釜二つに入っていた飯をよい兵糧があるといって配分して食べてしまった。そうして弁慶は鎧を着たままたわむれにお経を上げたので、皆の者がお互いに笑いあった

この話は、八栗寺独自のものでなく阿波の国の3番金泉寺や大山寺の話のコピー版です。もともとは『平家物語』に出ているもので、説経師や聖たちの「説話運搬者」によって、八栗寺にもたらされたものでしょう。ここで私が注目したいのは「僧侶が集まって観音講」を開いていたという所です。中世には、八栗寺でも観音信仰が強く、観音講が組織されていたことがうかがえます。これらの講に集まる人々が、聖や山伏を先達として、高松周辺の七観音霊場を「ミニ巡礼」していた姿が想像できます。ここでは中世には、千手観音を信仰する観音講が開かれていたことを押さえておきます。

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 志度寺の扁額「補陀落山」
志度寺の扁額には「補陀落山」と書かれています。
 さぬき市文化財保護協会発行「さぬき市の文化財」は、この寺の本尊十一面観音立像について、次のように記します。

  志度寺本尊の十一面観音立像は像高146cmで桧材の一木造りである。十一面観音は頭上に十一面の仏面をいただき、衆生の十一の苦しみを転じて仏果を得させる。広大な功徳を形に表した尊像であり、
頭上の仏面の正面3面は慈悲の相、
左方3面は慎怒相(しんぬそう)、
右方3面は白牙上出(はくげじょうしゅつ)の相、
後方1面は大笑(だいしょう)の相で、
頭頂1面は阿弥陀仏面を表している。
今まで見てきた高松七観音の本尊は、すべて千手観音でしたが、志度寺は十一面観音です。
この本尊の由来について、「志度道場縁起文」7巻の1編目の『御衣本縁起』は、次のように記します。

 近江の国に白蓮華という非常に大きな木があった。雷が落ちて琵琶湖に流れ出したが、その木の行さきざきで災いが起こるので、瀬田から宇治に、宇治から大坂に、そして瀬戸内海にまで流された。着岸したところで疫病がはやる、また突き出されて次の浦に流れつく。とうとう志度の浦に流れ寄って、それで十一面観音を刻んだ。

 これはどこかで聞いたことがあると思ったら、「長谷寺縁起」のSTORYとおなじです。長谷寺で観音さまになったはずの木が、禍を引き起こすので流され、流され、讃岐の志度までやってきて流れ着いた話になっています。そういえば白峯寺縁起も、補陀落から流れ着いた巨木で、国分寺・白峰寺・根来寺の千手観音は作られたと書かれていました。文保二年(1218)という年号があるので、鎌倉時代末にはできあがっていことが分かります。今まで見てきた寺の観音さまに比べると、少し遅れて現れたことになります。薗の尼という比丘尼が発願し「一幅二図シテ」絵図化したのが「御衣木之縁起」になります。
志度寺縁起 御衣木縁起部分
「御衣木之縁起」(霊木が志度に流れ着いた部分)
  この話の下敷きは、長谷寺縁起です。それを「流用」「改変」したのも説経師や高野聖などの「説話運搬者」だったのでしょう。志度寺の7つの縁起からは、寄進・勧進を進めた下級の聖たちが垣間見えてきます。
 志度寺の縁起は、どんな時に、どんな場所で語られていたのでしょうか?
 志度十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵を見せながら絵解きが行われていたのではないかと研究者は考えてます。囚果応報を説くことは、救いの道を説くことと同時に、志度寺に対する寄進・勧進などを促します。前世に犯したかも知れない悪因をまぬかれる(滅罪)ためには、仏教的作善を果たせと説きます。作善とは「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」などでした。
高野聖は、志度寺をどのように運営・プロデユースしたのか?
 聖たちがまずやらなければならなかったことは、勧進のために知識(信仰集団)を組織することです。講を結成して金品や労力を出しあって「宗教的・社会的作善」をおこなうことの功徳(メリット)を説くことでした。その反対に勧進に応じなかったり、勧進聖を軽蔑したためにうける悪報も語ります。奈良時代の『日本霊異記』は、そのテキストです。唱導の第1歩は、次の通りです
①縁起や諸仏誓願や功徳を説き
②釈尊の本生(前世)や生涯を語り、
③高僧の伝記をありがたく説きあかす。
これによって志度寺のありがたさを知らせ、信仰と作善の大切さを説きます。一般的には『今昔物語集』や『沙石集』が、このような唱導のテキストにあたるようです。
第2のステップは、伽藍造営や再興の志度寺の縁起や霊験を語ることです。
縁起談や霊験談、本地談あるいは発心談、往生談が地域に伝わる昔話を、「出して・並べて・くっつけて・・」とアレンジして、リニューアル・リメイクします。これらの唱導は無味乾燥な教訓でなく、物語のストーリーのおもしろさとともに、美辞麗句をつらねて人々を魅することが求められます。これが7つの志度寺縁起になるようです。
 
 4343286-40志度寺
志度寺(讃岐国名勝図会)
 盆の九日に、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
さらに翌日の十日に参ると「万日参りの功徳」があると云われていたようです。こうして盆には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来るソラ集落の人たちたくさんやってきました。参詣者はこれを買って背中にさして、あるいは手に持って家に戻って来ります。これには先祖の霊が乗りうつっていると信じられていたようです。海から帰ってくる霊を、志度寺まで迎えに来たのです。帰り道に、霊の宿った樒を地面に置くことは御法度でした。樒は盆の間は、家の仏壇に供えて15日が来ると海へ流します。先祖を再び海に帰すわけです。ここからも志度寺は「海上他界信仰」の寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。まさに「死渡」寺だったのです。
十一面観音 志度寺
志度寺 十一面観音図
これを演出・プロデュースしたのが高野聖です。彼らは先達と鳴ってなって富裕層を、高野山へと誘引する役割も果たしました。そして、志度寺の周りには、聖たちの坊や庵・子院が並ぶことになります。

  最後に長尾寺を見ていくことにします。
  長尾寺は、もともとは志度寺の末寺だったと研究者は考えているようです。調査書に載せられている長尾寺の仏達を見ていくことにします。伽藍の建物の建立順番について調査報告書は、次のように推察しています。
A 観音堂(本堂)→ B 阿弥陀堂 →C 護摩堂 → D 大師堂
2 長尾寺 境内図寂然
長尾寺(四国遍礼霊場記)
それぞれの建物の成り立ちを考えると、次のようになります。
A「観音堂」(本堂)とその鎮守・天照大神(若宮)は、熊野行者が最初にもたらしたもの
B「阿弥陀堂」は、高野聖たちがもたらしたもの。
C「護摩堂」は、真言(改宗後は天台)密教の修験行者の拠点
D「大師堂」は四国巡礼の隆盛とともに大師信仰の広がりの中で建立。
 ここからは長尾寺を開いたのが熊野行者たちだったことがうかがえます。
長尾寺は江戸時代前半までは「観音寺」と呼ばれ、観音信仰の拠点センターでした。
残念ながら長尾寺の観音さまは、秘仏とされお目にかかることはできないようです。しかし、過去に調査されたことがあるようで、『文化財地区別総合調査報告 第1集 香川県教育委員会、1972年)には、次のように記されています。

右手を屈腎して胸前におき、左手も胸前で蓮華を持つ立像である。檜材寄木造、平安時代の作

  秘仏本尊の前立像として安置されているのがこの観音様です。

長尾寺 聖観音立像
長尾寺 本尊の前立仏の聖観音
一見すると顔立ちや雰囲気が鎌倉時代風の聖観音です。志度寺も聖観音でした。長尾寺は、志度寺の末寺からスタートしたとすると、それは当然のことかもしれません。
 この観音さまは、初代高松藩主・松平頼重が寄進したもので、台座裏に元禄6年(1693)正月の墨書銘があるので、17世紀後半の観音さまでです。しかし、本尊を模して作られた可能性はあります。

長尾寺 聖観音台座墨書
前立ちの聖観音台座の墨書 源英(松平頼重)の名が見える

以上、「高松七観音巡礼」をおこなってきました。その中で、千手観音が本尊として安置されている所が多かったようです。それはどうしてなのでしょうか? これを解く鍵は、熊野信仰との関わりです。

補陀洛山寺(ふだらくせんじ) 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町 | 静地巡礼
補陀洛山寺の三面千手観音

 補陀落信仰の中心となった熊野那智の補陀洛山寺(ふだらくせんじ)の本尊は、三面千手観音です。ここからは、熊野行者によって四国に補陀落信仰が持ち込まれ、その本尊として千手観音が作られたことがうかがえます。
 補陀落信仰を受けた「高松七観音」の寺院も、その開基に熊野行者が大きな役割を果たしたことが考えられます。そこに遅れて来るのが高野聖です。彼らは阿弥陀信仰と弘法大師信仰をもたらします。こうして、近世になると観音信仰から弘法大師信仰へと、信仰主体を交代させ四国霊場札所が姿を見せるようになるとしておきましょう。
 
 以上を整理しておきます。
①古墳時代以来、大和勢力の朝鮮との交易活動をになったのが紀伊勢力(後の紀伊水軍)であった。
②彼らは熊野信仰を持ち、熊野業者を航海の安全祈祷の祈祷師として乗船させて、瀬戸内海を行き来した。
③こうして熊野行者は熊野水軍の先達として、各地に拠点を構え、その地で行場を開くようになった。
④その代表例が、吉備の新熊野(五流修験)や、大三島神社の社僧集団であった。
⑤こうして、讃岐でも高松周辺の五色台や屋島・五剣山などには、早くから熊野行者が入り込み、行場を開き、そこに寺院を建立した。
⑥その際に本尊として安置したのが、熊野那智の補陀洛山寺(ふだらくせんじ)と同じ、千手観音であった。
つまり、高松七観音は熊野信仰で結ばれていたと私は考えています。そのため対岸の吉備の五流修験とも密接な関係があったように思います。
四国へんろの歴史 四国辺路から四国編路へ | 武田 和昭 |本 | 通販 | Amazon
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参考文献
「武田和昭  讃岐の七観音  四国へんろの歴史15P」
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志度寺には「讃岐国志度道場縁起(海女玉取伝説)」とよばれる、14世紀前半につくられた縁起があることを前回はお話ししました。この「縁起」は、能にとり入れられて「海人」となり、幸若舞にとり入れられて「大職冠」となったといわれます。「讃岐国志度道場縁起」は中世芸能の担い手達からも注目されていたことがうかがえます。
 志度道場縁起は漢文で書かれているので、簡単に現代語に意訳して見ます。
 藤原鎌足がなくなって後、その子である不比等は父の菩提を弔うために、奈良に興福寺を建立してその本尊として丈六の釈迦仏を安置しようとした。その時鎌足の妹は美人の誉れが高く、そのうわさは唐にまできこえ、唐の高宗皇帝の切なる願いにより、唐にわたって皇后となっていた。
 この妹が兄の寺院建築のことを聞いて、たくさんの珍宝を送ってきた。その中に不向背の珠という天下無双の宝玉があった。これらの珍宝を積んだ船が、瀬戸内海の讃岐房前の浦(志度)にさしかかると、にわかに暴風が吹き波は荒れ狂い、船は転覆しそうになった。そこで珠を守るため珠を入れた箱を海中に沈めようとしたところ、海底から爪が長く伸び毛に蔽われた手が出てきて、その箱をうばいとってしまった。唐の使いは都に着いてその仔細を不比等に報告すると、非常に残念に思った不比等は珠がうばわれた房前の浦までやってきた。
 不比等はその地で、海底でも息の長く続く海人の娘と結婚し、三年が過ぎると二人の間に、一人の男の子が生まれた。この時になって初めて不比等は自分の素姓を明かし、唐から送られた宝玉がこの海で龍神にうばわれたことを話した。そして、その宝玉を何とかして取り返したい旨を妻に告げると、彼女は死を覚悟で珠を取って来ようとする。
その際、気にかかるのは残される子のことである。海人は自分がもし命をおとすようなことになれば自分の子を嫡子としてとり立ててくれるよう約束して、龍宮を偵察するために海にもぐって行く。
 海人は一旦海底を偵察した後で、自分が死んだら後世を弔ってほしいと遺言して多くの龍女たちに守られた玉を取り返そうとして腰に長い縄を結び付けて玉を得ることができたら、合図に縄を引くから引き上げてくれるように頼んで再び海中の人となった。舟の上では合図を今か今かと待っていると、かなりの時聞か過ぎて縄が引かれたので、急いで引き上げると海人は、玉をとられたと知った龍王が怒って追いかけ、四肢を食いちぎった無残な死体となっていた。
志度寺 玉取伝説浮世絵
海女玉取伝説の浮世絵

 海人の死体は近くの小島に安置され、人々が嘆き悲しみながらよく見ると、乳の下に深く広い疵がありその中に求める玉が押し込められていた。そこでその小島を真珠島と名づけ、島の南西の浜の小高いところにある小堂に海人の遺体を安置し、寺を建てて志度道場と名づけ、なくなった海人のために仏事供養を行なった。
 玉は不比等が都に持って帰り、興福寺の釈迦仏の眉間に納められた。海人と不比等の間に生まれた子は房前と名づけられ、十三才の時に母のなくなった房前の浦に行き、母の墓を訪れると地底より母の吟詠の声が聞こえてきたという。

 以上が縁起の、大体のあらすじです。この話については前回にもお話ししましたので、今回は、この縁起は何をよりどころに生まれてきたかに焦点を絞って見ていくことにします。

  二、書紀の玉取り伝説
 志度道場縁起のタネ本と目されるのが『日本書紀』允恭天皇十四年九月条にある次のような記述だと研究者は考えているようです。
 天皇、淡路島に猟したまふ。時に大鹿・猿・猪、莫々紛々に、山谷に満てり。炎のごと起ち蝿のごと散ぐ。然れども終日に、一の獣をだに獲たまはず。是に、猟止めて更に卜ふ。島の神、崇りて日はく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石の海の底に、真珠有り。其の珠を我に祠らば、悉。に獣を得しめむ」とのたまふ。
  爰に更に処々の白水郎を集へて、赤石の海の底を探かしむ。海深くして底に至ること能はず。唯し一の海人有り。男狭磯と日ふ。是、阿波国の長邑の人なり。諸の白水郎に勝れたり。是、腰に縄を繋けて海の底に入る。差須曳かりて出でて日さく、「海の底に大蝶有り。其の処光れり」とまうす。諸人。皆日はく、「島の神の請する珠、殆に是の腹の腹に有るか」といふ。亦人りて探く。爰に男狭磯、大腹を抱きて認び出でたり。
 乃ち息絶えて、浪の上に死りぬ。既にして縄を下して海の深さを測るに、六十尋なり。則ち腹を割く。実に真珠、腹の中に有り。其の大きさ、桃子の如し。乃ち島の神を祠りて猟したまふ。多に獣を獲たまひつ。唯男狭磯が海に入りて死りしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚く葬りぬ。其の墓、猶今まで在。とある、

これが男狭磯の玉取り伝説で す。意訳しておきましょう。

 天皇が淡路島に猟に行ったときに大鹿・猿・猪、などが山谷に満ちて炎のようにたち、蝿のように散る。しかし、一日が終わっても、1頭の獣さえ捕らえることはできない。そこで、猟を止めて占った。島の神が云うには、「獣が獲れないのは、私の仕業である。赤石(明石)の海の底に、真珠がある。それを我に奉ずれば、たちまち獲物は得ることができるようにしよう」と云う。
 そこで処々の白水郎(海に潜るのが上手な漁師)を集めて、赤石の海の底を探がした。海は深くて底まで潜れるものがいない。唯一、海人の男狭磯が潜れるという。彼は阿波国の長邑の人で、どこの白水郎よりも潜ることにすぐれていた。腰に縄を繋けて、海の底に入って行った。海から出てきて云うには「海の底に大きな蝶々貝があります。その中から光がしますと云う。人々が口をそろえて言うには、「それこそが島の神が求めている珠にちがいない」いいます。そこで男狭磯は、また海に探く潜り、大腹を抱いて上がってきましたがすでに息絶えていました。縄を下して海の深さを測ってみると六十尋あった。貝の腹を割ると、まさに真珠が中にあった。その大きさは桃の実ほどもある。これを島の神に捧げて猟をしたところ、たちまちにして多くの獣を得ることができた。男狭磯が海に入って、亡くなったことを悲しみ、墓を作り厚く葬むった。其の墓は今もあると云う。

これが、男狭磯の玉取り伝説です。
物語のポイントは、志度道場縁起も書紀の允恭紀・男狭磯も、息の長く続く秀れた海女がいて、海中深く潜って珠を得た後に、亡くなるという点では全く一緒です。
 幕末から維新にかけて書かれた「日本書紀通釈」によると、
「或人云、阿波国人宮崎五十羽云、同国板野郡里浦村鰯山麓に古蹟あり。里人尼塚と云り、是海人男狭磯の墓也と、土人云伝へたりとそと云り、聞正すへし」
これも意訳すると
「伝承では、阿波の人・宮崎五十羽が伝えるには、板野郡里浦村鰯山の麓に古蹟がある。。里人は「尼塚」と呼ぶ。これが海人・男狭磯の墓であると地元の人たちは伝る」

ここからは江戸末期から明治の初め頃にかけて、阿波の板野郡には男狭磯の墓と伝承される古蹟があったことが分かります。この古蹟は今もあり、鳴門市里浦には尼塚と呼ばれる宝飯印塔があるようです。
 この古蹟の伝承書紀に載せられているのですから、それよりも古いことは明らかです。
『延喜式』巻七、神祗の大嘗祭の条には、
 阿波国、一漱並布一端、木綿六斤、年色十五缶し瓢根合漬十五缶、乾羊蹄、躊鴉、橘子各十五簸皿剋・鰻鮨十五増、細螺、輯甲羅、石花等廿増特認四・其幣五色薄絢各六尺、倭文六尺、木綿、麻各二尺、葉薦一枚、作具鏝、斧、小斧各四具、鎌四張、刀子四枚、範二枚、火讃三枚、並壇濁、及潜女心曜造酒

とあって、天皇即位の大嘗祭には、阿波忌部と那賀郡の海女たちによって、いろいろの神饌が差し出されていたことが分かります。
 允恭紀に出てくる海人・男狭磯も那賀郡(長邑)の人で、『延喜式』でも那賀郡に海女の集団がいたことがわかるので、男狭磯の物語は那賀郡の海女集団によってつくられ伝承されたと研究者は考えているようです。
 そして、この海女集団は大嘗祭の神饌の献上を通して、阿波忌部とも密接な関係にあったようです。男狭磯の物語は、那賀の海女と阿波忌部氏の間に、伝承されてきた物語であるという仮説が出来そうです。
 阿波忌部は麻殖・名方・板野の三郡に分布していたといわれ、板野郡に男狭磯の墓と伝えられる古蹟があるのは自然です。それでは、この阿波忌部と那賀郡の海女の間で伝承された物語が、どのようにして中央に伝えられ、『日本書紀』に採録されるようになったのでしょうか。
 男狭磯の物語は書紀にあって、古事記にはありません。
そこで、『阿波国風土記』は720年以前に成立し、紀の編者はこれを見て書紀の中にとり入れたということも考えられます。そうすると『阿波国風土記』は、諸国の『風土記』の中でも、成立年代の早い方の一つであったことになります。

以上を時代順に並べると次のようになるようです。
①阿波には古くから那賀郡の海女の集団と忌部によって伝承される男狭磯の物語があった。
②この説話は板野郡の尼塚を中心にして伝承され、中世になって志度道場縁起の中にとり入れられた
③それが、さらに能「海人」や幸若舞にもとりいれられ、中世芸能として発展した
  
 以上をまとめておきましょう
①阿波の那賀郡には古くから、那賀の潜女とよばれる海女の集団がいて、男狭磯の物語を伝承していた
②この海女の集団は、大嘗祭の神饌を通して阿波忌部と密接な関係を持ち、そのため男狭磯の物語は忌部にも伝えられた
③それが板野郡に尼塚という伝承地となって伝えられるようになった
④この男狭磯の物語は、『阿波風土記』の中にとり入れられ、さらに『日本書紀』の中にとり入れられることになった。
⑤男狭磯の物語は、今は伝わっていない『阿波国風土記』の一つの物語であった可能性がある。
⑥中世になって阿波の男狭磯の物語が隣国の讃岐・志度寺の縁起の中にとり込まれた。
 それが志度道場縁起である
⑦志度道場縁起は、能にとり入れられて「海士」となり、幸若舞にとり入れられて「大職冠」となった。「海士」は世阿弥の頃からあった古曲であると云われます。中世には讃岐も阿波も管領となった細川氏の支配地でしたから、志度道場縁起が能にとり入れられる素地があったのかもしれません。このように、海人の玉取り伝説は、古代に遡る可能性のある古い物語のようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 海人の玉取伝説と志度寺縁起    ことひら
    -古代伝承の継受を中心に1

 昔話が親から子へ、そして孫へと伝えられている間は、大きな変化や改編は行われません。しかし、外部からやって来た半俗半僧の高野聖たちの手にかかると、おおきなリメイクが行われることがよくあります。四国では四国辺路(遍路)のためにやってきた高野聖たちが昔話を縁起化・教説化がして、仏教布教のため寺の縁起として利用していたようです。そんな例として、志度寺の縁起を見てきました。
今回は志度寺縁起の創作や広報伝播に関わった高野の念仏聖たちに焦点を当ててみたいと思います。
 
志度寺の7つの縁起を呼んでいると、寄進・勧進を進め、寺の経済を支えた下級の聖たちがいたことが見えてきます。
例えば、仏教的な「作善(善行)」を民衆に教えることによって、蘇生もし、極楽往生もできると説いています。
「白杖童子蘇生縁起」を見てみましょう。
山城国(京都)の淀の津に住む白杖という童子は、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた馬借であった。妻も子もない孤独な身の上で世の無常を悟っていた。心ひそかに一生のうち三間四方のお寺を建立したいとの念願を抱いて、着るものも着ず、食べるものも食べず、この大願を果たそうとお金を貯えていた。
 ところが願い半ばにして突然病気でこの世を去った。冥途へ旅立った童子は赤鬼青鬼につれられ閻魔庁の庭先へ据えられた。ご生前の罪状を調べているうち「一堂建立」の願いごとが判明し、王は感嘆して

「大日本国讃岐国志度道場は、是れ我が氏寺観音結果の霊所也。汝本願有り、須く彼の寺を造るべし」

 こうして童子は、蘇生の機会を得てこの世に生還する。その後日譚のあと、童子は志度寺を再興し、極楽に往生したというのがこの縁起あらましです。
この縁起はどんな時に、どんな場所で語られていたのでしょうか?
 まず考えられるのは、志度十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵を見せながら絵解きが行われていたのではないかと研究者は考えているようです。
 囚果応報を説くことは、救いの道を説くことと同時に、志度寺に対する寄進・勧進などを促しています。前世に犯したかも知れない悪因をまぬかれる(滅罪)ためには、仏教的作善が求められます。それは
「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」

です。ここでは造寺という大業を果たした白杖童子を語ることで、庶民にもそうした心を植えつけ、ささやかであっても寺に寄進するようすすめるのがこの物語のドラマツルギーのように思えます。こんな説教を聞いて、人々は今の禍いや来世の地獄の責苦からのがれるために「作善」を行おうと思うようになったのでしょう。こうした話を、寺院の修造建築のために村々に出向いて説いて勧進して歩きまわった勧進僧(唱導聖)が、志度寺周辺に数多くいたようです。
志度寺縁起の「阿一入道蘇生縁起」を見てみましょう
伏見天皇の文保元年(1317)に阿一は急死します。ところがその日のうちに蘇生して冥土から帰ってきます。その理由は閻魔王宮に到着した阿一が
「偏に念佛申、後世菩提の勤を営みたらましかば、観音の蓬台に乗して、極楽へこそ参べきに、世にましはり妻子脊属をはくくまんとせしほどに一生空く茫々として夢幻のことく馳過にき」

と閻魔様に述懐したためです。
 この姿を見た琥魔大王は
「汝十八日夜、志度道場三ヶ年よりうちに修造仕覧と起請文書たるか」
「讃岐国志度道場は殊勝の霊地我氏寺也。彼堂を三ヶ年よりうちに修造せむと大願を立申さは、汝を娑婆へ帰し遣へし」
 と、今後三年間で志度道場(寺)の本堂修造の起請文書を閻魔様に差し出し、娑婆(現世)に送り帰らされることになります。こうして、阿一は現世に帰り、寺の修復にあたることになります。
 ここから分かることは、閻魔様は、阿一は荒廃した志度寺の修造に当たらせるために蘇生させたのです。その裏には寺を修造するという仏教的作善があります。それが復活の機会を与えることになったようです。
先ほどの縁起の中には「讃岐国志度道場は殊勝の霊地我氏寺也」と書かれていました。志度寺は「閻魔大王の氏寺」だというのです。そのため「死(渡)度寺」とも書かれていたようです。
 志度寺は、死の世界と現世との接点で、海上他界観にもとづく補陀落信仰に支えられた寺であったようです。この寺の境内では6月16日には、讃岐屈指の大市が立ち、様々なものが集まり取引されました。陸路だけでなく瀬戸内海にも開けていたために、対面の小豆島から舟で農具を初め渋団扇、盆の準備のための品々を買い求めにやって来ました。島では、樒(しきみ)の葉を必ず買い求めたと云います。志度寺の信仰圈は小豆島にまで及び、内陸部にあっては東讃岐全域を覆っていたようです。特に山間部は、阿波の国境にまで及んでいました。
 盆の九日に、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
さらに翌日の十日に参ると「万日参りの功徳」があると云われていたようです。この時には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来るソラ集落の人たちたくさんやってきました。参詣者はこれを買って背中にさして、あるいは手に持って家に戻って来ります。これには先祖の霊が乗りうつっていると信じられていたようです。海から帰ってくる霊を、志度寺まで迎えに来たのです。帰り道に、霊の宿った樒を地面に置くことは御法度でした。樒は盆の間は、家の仏壇に供えて十五日が来ると海へ流します。先祖を再び海に帰すわけです。ここからも志度寺は「海上他界信仰」の寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。まさに「死渡」寺だったのです。

「死者の渡る寺」をプロデュースしたのは、どんな集団だったのでしょうか
  それが高野聖だったようです。高野山といえば真言密教の聖地という先入観があります。もちろん、そうなのですが高野聖の長い歴史から見ると、中世の高野山は「日本随一の念仏の山」でした。納骨と祖霊供養によって「日本総菩提所」に仕上げたのが高野聖だったと研究者は考えているようです。 四国霊場の志度寺や弥谷寺や別格霊場の海岸寺も死者が集まる寺という共通性があるようです。高野聖が死霊の集まる四国霊場の寺やってきたのは、彼らがもっとも得意とした「滅罪生善」のために遺骨を高野へ運ぶためでした。

 高野聖の廻国は有名で、研究者の中には「歩く宗教家」と呼ぶ人もいます
その行装は「高野檜笠に脛高(はぎだか)なる黒衣きて」と『沙石集』にしめされたような姿で遊行し、関所通行御免の特権ももっていました。
 時宗の遊行聖は、旅に生き旅に死するのを本懐とし、一遍の跡を辿るものが多かったようです。六十六部の法華経を全国六十六か国の霊場に納経する六十六廻同聖も、減罪を目的に全国を回遊します。
  崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐にやって来たと云われる西行も、「高野聖」です。
彼の讃岐行は、遊行廻国の一環とも考えられます。白峰寺参拝後には、空海の修行地とされる善通寺背後の五岳・我拝師の捨身瀧で3年も暮らしているのは、空海生誕の地で山岳修行を行うと共に、高野聖としての勧進の旅であったと研究者は考えているようです。
 観音寺に、やってきて長逗留した宗祗の旅も連歌師が時宗聖の一種であったことに行き当たると「ナルホドナ」と納得がいきます。
清涼寺の勧進聖人であった嵯峨念仏房の勧進願文には、「念仏者は如来の使なり」と記されます。
 中世は、村人は遊行聖が村にあらわれるまでは、先祖や死者の供養とか、家祈祷(やぎとう)・竃祓(かまどばらい)すらできなかったのです。専門教育を受けた宗教指導者は村にはいませんでした。そんな中に、遊行の聖が現れれば排除されるよりも、歓迎された方が多かったようです。
こうして、死者が集まる霊山・寺院には高野山からやってきた聖達が住み着くようになります。
そして、その寺を拠点に周辺村々への勧進活動を展開していきます。さらに中世末期から近世初頭にかけて、集落にあった小堂や小庵への遊行聖が住み着き定着がはじまります。現在の集落や字ごとに寺院ができる根っこ(ルーツ)のようです。
志度寺や弥谷寺に住み着いた 「聖」は、どんな人たちだったのでしょうか?
  空也以後の聖は念仏一本と、私は思っていたのですが、そうではないようです。確かに法然・親鸞・一遍が主張した専修念仏では法華経信仰と密教信仰は否定されます。そして、念仏だけを往生への道として念仏専修が王道となります。しかし、それ以前の、往生伝や『法華験記』に出てくる聖は、法華経と念仏を併せて修める者が多かったようです。さらに、これに密教呪法をくわえて学ぶ者もいました。法然とその弟子たちの信仰にも、戒律信仰や如法経(法華経)信仰が混じり合っていたと研究者は指摘します。高野聖の中には念仏と密教を併せて学ぶものが多く、修験行道と念仏は、彼らの中では一体化したものだったようです。

高野の聖は、志度寺をどのようにプロデユースしたのか?
高野聖たちがまずやらなければならなかったことは、勧進にのために知識(信仰集団)を組織し、講を結成して金品や労力を出しあって「宗教的・社会的作善」をおこなうことの功徳(メリット)を説くことでした。その反対に勧進に応じなかったり、勧進聖を軽蔑したためにうける悪報も語ります。奈良時代の『日本霊異記』は、そのテキストです。
 唱導の第1歩は、
志度寺の縁起をや諸仏の誓願や功徳を説き、
釈尊の本生(前世)や生涯を語り、
高僧の伝記をありがたく説きあかす。
これによって志度寺のありがたさを知らせ、作善に導いていく導入路を開きます。一般的には『今昔物語集』や『沙石集』が、このような唱導のテキストにあたるようです。
第2のステップは、伽藍造営や再興の志度寺の縁起や霊験を語ることです。
縁起談や霊験談、本地談あるいは発心談、往生談が地域に伝わる昔話を、「出して・並べて・くっつけて・・」とアレンジして、リニューアル・リメイクします。これらの唱導は無味乾燥な教訓でなく、物語のストーリーのおもしろさとともに、美辞麗句をつらねて人々を魅することが求められます。これが7つの志度寺縁起になるようです。
 しかし、元ネタがなければ第1話の本尊薬師如来の由来記のように、長谷寺のものをそのまま模倣するという手法も使われます。高野聖にとって、高野山に帰れば全国のお寺の情報を得ることが出来ました。先進実践例や模範由来記があれば、真似るのは当然のことです。これも文化伝播のひとつの形です。
 志度寺の海女の玉取伝説は、日本書紀に出てくる阿波の記事をリメイクしたものであることは前回お話ししました。これは出来の良い縁起っもの語りになりました。息子の栄達のために命を捧げる物語のというテーマは「愛と死」です。これほどドラマティックな要素はありません。この2つの要素を聖たちは、壮大な伝奇的構想のなかに織りこむことによって、志度寺の縁起物語を創作したのでしょう。出来が良い説経は、能や歌舞伎、浄瑠璃に変化して世俗的唱導と姿を変えていきます。これを語ったのは放浪の盲僧や山伏や、社寺の勧進聖たちでした。その際に唱導は、文字で伝えられたのではありません。語り物として口から耳へという伝えられたのです。そこでは自然と、語り口に節がつけられ、聞くものを恍惚をさせる音楽的効果が伴われるようになります。これが「説経の芸能化」なのでしょう。
縁起物語のもう一つの方向性は、軍記物(合戦談)です。人間の死ほどドラマティックなものはありません。また庶民は勇士や豪傑の悲壮な死や、栄枯盛衰に興味は集中していきます。その結果、生まれるのが『平家物語』とか『源平盛衰記』です。この一連の作業工程に、大きく関わったのが高野聖たちではなかったのかと私は考えています。

最初に思っていた方向とは、だいぶんちがう所へ来ていましたようです。今回はこのあたりで・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起
五来重  高野の聖

前回に「志度寺縁起絵」の中に描かれた中世の志度の「港」をみてみまた。そしたら「志度寺縁起って、なーにー?」と問われました。志度寺縁起が何者かであるのを答えるのは私の力の及ぶところではありません。私の考える「志度寺縁起」を備忘録代わりに残しておくということにします。
志度寺縁起 6掲示分

6篇からなる壮大な縁起で、全体が一つの物語。
 縁起絵自体は6本の大きな絵図です。日本に現在残っている縁起絵の中でいちばん大きなものと云われているようです。一幅が巻物の二・三巻に相当する大きさなので、絵巻物にすれば二十巻ぐらいのボリュームがあります。
 そこに物語が順序を追って描かれていて、上から下に、下から上に進む大胆な構成の絵を幅物にしてあります。それに長い漢文の詞書が付いています。縁起物語をかたる絵解き材料だと云われています。つまり、行事の時に多くの信者に、これを見せながら絵解物語を語ったのでしょう。ある意味、大きな大きな6篇の紙芝居と云えるかもしれません。編名は
「御衣木之縁起」
「讃州志度道場縁起」
「白杖童子縁起」
「当願暮当之縁起」
「松竹童子縁起」
「千歳童子蘇生記」
「同一蘇生之縁起」
絵は6つですが、その絵を見ながら語られるのは7つの縁起です。
それでは、順番に見ていくことにします。ご開帳・・・・!

志度寺縁起 御衣木縁起
「御衣木之縁起」クリックで拡大します
「御衣木之縁起」のあらすじ
 近江の国に白蓮華という大きな大きな木がありました。雷が落ちて琵琶湖に流れ出しますが、その木は霊木で行さきざきで災いを引き起こします。瀬田から宇治に、宇治から大坂に、そして瀬戸内海にまで流されます。着岸したところで疫病がはやる、また突き出されて次の浦に流れつく。とうとう志度の浦に流れ寄ります。それで志度では、霊木で十一面観音を刻みました。
というのが「御衣木之縁起」です。これは、どこかで聞いたことのある話です。それもそのはず「長谷寺縁起」そのものです。本来は志度ではなくて、大和の当麻の村に留まって、百年間、疫病をはやらせていたのが、徳道上人が仏像に刻んで当麻寺ができたという話を、あちこちにつなぎ合わせた「パクリ」で、地方の寺院にはよくあることです。それも文化伝達のひとつの形としておきましょう。「商品登録」「著作権」もない時代のことです。
 この絵には、上から下へに霊木が流れ着く所で起きる禍が描かれています。
志度寺縁起 御衣木縁起部分
志度寺に現れた十一面観音と当時の志度寺周辺

最後に流れ着いたのが一番下に描かれる志度寺です。そこで禍を与えていた霊木が十一観音に生まれ変わっていく場面になります。志度寺が砂堆の東端にあり、南側は潟湖が広がっていたことが分かります。
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」

また、製作年代が文保二年(1318)、発願者が「薗の尼」という比丘尼の名前と「一幅二図シテ」と書かれていますので鎌倉時代末には出来上がっていたことが分かります。
志度道場縁起

志度寺縁起の中で、最も有名なのが「讃岐志度道場縁起」の「海女の玉取り」話です。
この絵は、志度寺の本堂にレプリカが置いてあります。この物語の主人公は、なんと藤原不比等なのです。物語は、一人の海女の悲しい伝説として伝えられています。 
 時は千三百余年前、天智天皇のころ。藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁いでいた不比等の娘は父の追善のため、三つの宝物を贈った。
 しかし、都への船が志度浦にさしかかると、三つの宝物のうち「面向不背(めんこうふはい)の玉」が竜神に奪われてしまった。鎌足の子の不比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度へ。海女と契り、一子房前をもうけた。不比等は数年後、素性を明かし、玉の奪還を海女に頼む。
 海女は「わたしが玉を取り返してきましょう。その代わり、房前を藤原家の跡取りに約束してください」と竜宮に潜っていった。
 龍神との死闘の末、海女は自分の胸を切り裂いて、乳房に宝玉を隠します。
志度寺 玉取伝説浮世絵
浮世絵絵の玉取伝説 左端が玉を胸に隠した海女

腰に命綱をつけた海女の合図があり、不比等が綱をたぐると、海女の手足は竜に食いちぎられていました。しかし、十文字に切った乳房の下には、玉が隠されていたのです。
海女の玉取り物語 « 一般社団法人さぬき市観光協会

不比等は約束通り海女の生んだ房前を藤原家の嫡子とします。
若干13歳で大臣となっていた房前は、東大寺建立のため全国を行脚していた行基について志度に訪れます。その時に母の死の理由を知ります。房前は、母を偲んで志度寺の堂を広く立て直し、そこに千基の石塔を建て菩提を弔むりました。
 母を供養した房前はその後も活躍し、藤原家の栄華へとつながったとさ。
これが『海女の玉取り物語』です。ストーリーとしては「子の出世へ、命を投じる海女(母)」の物語です。しかし、登場してくる相手役が藤原不比等なのです。この絵を見ながら絵解きを聞いた人々には「志度寺=藤原家の菩提寺」ということを自然に信じるようになったでしょう。 同時に
「藤原不比等が亡き妻の墓を建立し「死渡道場」と名付けた。この海辺は極楽浄土へ続いている」と人々は信じるようになります。後世に「死渡が変化して志度」になった。その名は町の名称にもなった

と、近世の歴史書には書かれるようになります。
 いつ、どこの、だれが物語を創作したのかは分かりませんが、平安末期のプリンス、後白河天皇が今様の和歌を記した「梁塵秘抄」に「志度」という地名が登場する程、朝廷では志度は名の通った土地だったようです。その後も、この物語は語り続けられます。そして能にも取り入れられて能「海士」が作られます。
志度寺 玉取伝説能

 この能の成立背景には、興福寺と志度寺(香川県)を結んで瀬戸内海に教線を拡大する西大寺流律宗の活動があったようです。律宗が中世絵画の傑作『志度寺縁起絵』を生み出した要因だというのですが、それは又の機会にすることにします。

1志度復元イラスト 白黒
 海女が息を引き取った真珠島は、今は埋め立て地の丘になっていてます。
後世は弁天様が祀られているので「弁天」の方が地元では通りがいいようです。現在でも10月の多和の秋祭りの次の週末には、志度寺にてお経があげられていると云います。志度寺の境内には、こけむした海女の墓があります。

 志度寺縁起の3つ目は「白杖童子縁起」です。
 
志度寺縁起 白杖童子縁起・当願暮当之縁起

主人公は貧しい馬借の白杖童子です。馬借は「馬借一揆」に登場する流通業者です。白杖童子が一つのお堂を建てたいという願を立てていましたが、完成しないうちに死んでしまいました。しかし願を立てたという功徳だけで、閻魔の庁で
「お前を帰すが、志度の道場にかならずお堂を建てよ」
といわれて帰ってきます。
 白杖童子が地獄にいるとき、一人の女が鬼に道いかけられていました。白分が蘇生させてもらえるよりも、哀れな女を先に蘇生させてやってほしいと頼んだところ、お前は感心だというので、若い女も共に放免されて、この世に蘇生します。その女は讃岐守をしているたいへんな金持ちの娘だったので、夫婦になって三年間でこの寺を建てた、めでたし、めでたしという話になっています。
  この絵から読み取れるのは

志度寺 白杖童子縁起・当願暮当之縁起

①閻魔大王が登場すること。上の絵図の右半分が閻魔庁で、門外には赤鬼に死者が伴われて連行されています。中には正面に閻魔大王はじめとする「十王」のメンバーが待ち構えています。十王とは、冥土で亡者の罪を裁く十人の判官です。
 この縁起を見に集まった人たちは、説教法師の話を身を乗り出して聞いたことでしょう。同時に「十王信仰」がこのようにして絵解きを通じて広められていったうかがえます。この時代に地方の真言有力寺院は競うように「十王堂」を、建立することになります。
②もうひとつは、このお話の「落ち」はどこにあるのでしょうか
それは「寄進するものは、救われる」という善行の教えでしょう。このような教えが人々の間に広まっていたからこそ、有力寺院は大規模な造営・改築事業ができたのです。
4番目の縁起は「当願暮当之縁起」で、満濃池の龍の話です。
前編に登場した白杖童子がこの寺を三年かかって建てて供養した場所に、当願と暮当という二人の猟師が結縁のためにお参りにやってきたという所から話は始まります。二つの物語をつなげる手法としては、なかなかうまく作られています。
 当願が堂の前に座っているうちに心身朦朧として、立とうとおもっても立てなくなってしまいます。暮当は当願が帰らないので、探して道場に来てみたら、顔だけは当願で、からだは蛇になっています。当願が
「白分は蛇になってしまった。弘法大師の造った満濃地に沈めてほしい。そこに住みたい」

と云います。そこで、暮当は蛇になった当願を背負って満濃に放した。三日目に当願はどうなっているだろうと見にいったら、当願が「お前にこれをあげる」といって一眼をくり抜いて差し出したと書かれています。
 大蛇や龍の眼をもらうと、すべての願いがかなうという話はいたるところにあります。暮当が酒壷の底に沈めると、美酒になった、汲めども汲めども尽きなかったという話も、よくある果てなし話をうまく取り入れています。不思議におもった妻がそれを発見して、みんなに吹聴してしまいます。
 国司がそれを聞きつけて献上せよというので、暮当はしかたなく差し出します。その評判が朝廷にも聞こえて、朝廷に差し出せというので、朝廷に差し出したところ、こんどは宇佐八幡がそれを欲しいといいだした。その玉を宇佐に運ぶ途中で、遊女となじんだ船頭が龍神に取り返されたのを、遊女の自己犠牲によって取り返したというたいへん紆余曲折のある物話になっています。昔話の手法を縁起の中にうまく取り入れているようです。
 5・6番目の「松竹童子縁起」「千歳童子蘇生話」です。、

志度寺縁起 阿一蘇生

松竹童子が25歳で早死にしていまいます。すると観音の使いがやってきて「葬式は三曰待て」と云います。そのまま置いておいたところ、3日目に松竹童子が生き返っていうには、閻魔の庁で志度寺再興の命令を受けたというのです。その閻魔の庁の描写も非常に細かく、絵そのものもなかなかのできばえです。志度寺修造を条件にして帰されたので、松竹童子は母親と共に出家して、洛中を勧進して廻ります。勧進して集めたお金は、多くはありませんが、それを志度寺に献上します。二人は寺のわきに庵室を追って住み、お参りに来る人々の助勢を願って、ついには五間四面の礼堂を建てた。母親は六十歳で亡くなり、松竹童子は蓮華寿という法名を得て、七十二歳で亡くなったという話がドキメンタリー風に書かれているようです。

志度寺縁起 阿一蘇生部分

 最後が「同一蘇生之縁起」になります。
 阿一なる者が死からよみがえって、志度寺再興のために勧進を行います。ところが、この時代は勧進したお金をごまかす輩も現れたようです。それを防ぐためにいろいろな誓いを立てさせられる話が出てきます。
 絵巻物の最後は
「もし嘘をいったならば血を吐いて死ぬ。梵天、帝釈天、曰本国中大小の神祇は罰をくだすであろう」

となっています。絵解きは、たんに寺の縁起を話るにとどまらず、寺の寄進(募金)のために使われました。最後の一巻で、集められたお金は、このように確実に志度寺再興のために使うということを物語として語ります。今で云う「説明責任」を果たしていいるのでしょうか。勧進に応じた人々を安心させる工夫が感じられます。
 志度寺縁起は志度寺の宝物館に保管されているようです。いちどに全部は、出ていませんが、一巻か二巻ずつ出しているようです。

この志度寺縁起を知ると
藤原不比等が亡き妻の墓を建立し「死渡道場」と名付けた。
この海辺は極楽浄土へ続いている」
死渡が変化して志度になった。その名は町の名称にもなった。
という由緒が、素直にすとんと受け止められるから不思議です。これが縁起絵図や物語の魅力であり魔力なのでしょうか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

1志度復元イラスト カラー

中世の港町の地形復元作業が香川県でも進んでいるようです。今回は志度を取り上げてみます。テキストは「上野 進 中世志度の景観 中世港町論の射程 岩田書院 2016年刊」です。
1志度復元イラスト 白黒
中世志度の港の位置を確認しておきましょう。港の中心は、志度寺が所在する志度浦(王の浦)と研究者は考えているようです。中世の港は宇多津や野原(高松)の発掘から分かるように、長い砂浜にいくつかの泊が並んで全体として港として機能していました。志度では
①志度浦の北西にあたる房前
②志度浦の東北にあたる小方・泊
までの範囲一帯で港湾機能を果たしていたと研究者は考えているようです。志度浦は、近世後期の『讃岐国名勝図会』に
「工の浦また房崎のうらともいへり」

と記され、近世になっても、北西の房前浦と一体的に捉えられていたことがうかがえます。

1中世志度港の復元図1

小方は、嘉慶二年(1388)に「小方浦之岡坊」で大般若経が書写されています。

ここからは、この浦に大般若経を所蔵する古寺(岡坊)があったことがわかります。中世の港の管理センターは、寺院が果たしていました。それは、
野原(現高松港)の無量寿院
宇多津の本妙寺
多度津堀江の道隆寺
仁尾の覚城寺
観音寺の観音寺
など、港と寺院の関係を見ると納得がいきます。この付近にあった岡坊も港の管理センターとしての機能を果たし、周辺には町場が形成されていたようです。
3 堀江
多度津の堀江津と道隆寺の関係を中世復元図見て見ると

瀬戸の港町形成に共通する立地条件としては、砂州が発達し、それが防波堤の役割を果たし、その背後の潟湖の砂浜に中世の港はあったようです。志度もその条件が当てはまります。志度浦の東北に位置するは、北西風をさける地の利を得た天然の良港だったでしょう。古くから停泊し宿る機能があったことから「泊」と名がつけられたとしておきましょう。
 鎌倉時代後期~南北朝時代に成立した「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」を見てみましょう。
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」
「御衣木之縁起」
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」

この絵からは次のようなことが分かります。
①西の房前や小方・泊には家々が集まって町屋が形成されている
②房前は、舟も描かれ、寄港場所であった。
③志度寺の南には潟湖が大きく広がっている。
④志度寺は砂堆の上に建っている
⑤潟湖の入口には、木の橋が架かっていて塩田と結ばれている。
⑥真珠島は、陸とつながっていない。
⑦志度寺周辺に町場集落があった。
1「志度寺縁起絵」の「阿一蘇生之縁起」

1「阿一蘇生之縁起」
阿一蘇生之縁起
「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」と「阿一蘇生之縁起」に描かれた地形と現在の地形を比較して見てみましょう。志度の町場は、志度湾の砂堆の上にあり、砂堆の東側・南側は大きな潟(潟湖、ラグーン)跡と研究者は考えているようです。低地が広がる志度寺とその東側との間にはあきらかな段差があります。志度寺は、この安定した砂堆の上に建っています。
 それを証明するように「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも志度寺が砂堆上に描かれています。また志度寺の由来を記した「志度寺縁起」にも、志度寺の前身となる小堂について
「彼ノ島(=真珠島)ノ坤方二当り、海浜ノ沙(いさご)高洲ノ上二一小堂アり」
と記されています。これも、志度寺がやや高い砂堆の上にあったことを裏付ける史料です。
  砂堆の東側には、近世初期に塩田となり、明治40年頃まで製塩が続けられたようです。
現在も塩屋の地名が残り、塩釜神社があります。「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも真珠島の南側に塩田が見えます。中世の早い時期から小規模な塩田があったことが分かります。塩釜神社の北側には、砂洲斜面と見られる段差があります。この付近に、潟出口に面して砂洲があったようです。「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも、砂堆から東側の真珠島へ延びた砂洲が描かれていて、縁起絵の内容とあいます。
砂堆の南側については、中浜・田淵・淵田尻など海浜や淵に関連する地名が残ります。
とくにJR志度駅の南側一帯には低地が広がり、さらにその南方の政池団地付近は直池とよばれ、葦が繁茂する沼地だったようです。それが大正初年の耕地整理事業で埋め立てられます。このあたりまで潟湖だったのでしょう。
志度浦東北の小方は、近世には鴨部下庄村に属し、かつえは「小潟」と表記されていたようです。
その名の通りに後背地が潟跡跡で、今は低地となっています。古文書に
「鴨部下の庄はもと入江なりしも、上砂流出し陸地となれり」

とあるようです。微地形の起伏などに注意しながらこの辺りを歩いてみると、海岸沿いの街道はやや高い所にあり、潟跡跡の低地とは明らかな段差があるのが分かります。
 かつての真珠島

  真珠島は、志度と小方との間にある島でした。
海女の玉取り伝説にちなんで名づけられた島で、志度寺の由来を記した「志度寺縁起」に
「玉ヲ得タル之処、小嶋之故真珠嶋と号名ス」

と記されます。大正時代のはじめに陸続きとなり、戦後に周りが埋め立てが進み、今はは完全に陸地になってしまいました。しかし、周りを歩いてみると島の面影をとどめています。ここは志度寺の鬼門になるので、山頂(標高7,6m)に弁財天を祀るようになったので、江戸時代には「弁天」とよばれて崇敬されてきたようです。また、海にやや突き出した小高い山として、海側から近づく舟にとってはランドマークの役割を果たしていたとのでしょう。
蘇る聖地/香川県さぬき市志度町/真珠島/瀬織津姫/青龍/竜宮城/2019/10/18 |  剣山の麓よりシリウスの女神いくえと龍神・空が愛のあふれる世界を取り戻すため活動中

次に、志度の町場と道についてみてみましょう。

1志度寺 海岸線復元 街道

  町場は、東端の志度寺を起点に、海沿いに西へ向かう志度街道を軸に展開します。地図を見ると志度街道(点線)は、砂堆の頂部に作られていることが分かります。街道沿いの町場が中世前期まで遡るかは分かりませんが、守護細川氏による料所化との関連も考えられます。
しかし、戦国期以降に整備された可能性もあります。町場の起源は、発掘してみないと分からないということでしょう。
 江戸時代には、高松藩はここに、志度浦船番所や米蔵を置いていました。平賀源内の生家もこの街道沿いにあります。『讃岐国名勝図会』には真覚寺・地蔵寺など寺院や家々が志度街道に沿って密集して描かれています。
 志度寺から南の造田を経て長尾に至る阿波街道があり、志度は陸路によって後背地の長尾につながっていました。志度寺の後背地にあたる長尾には、八世紀後半に成立したといわれる長尾寺があります。志度寺と長尾寺はともに「補陀落山」という海にちなむ山号を持ちます。長尾寺が志度寺の「奥の院」であったと考える研究者もいるようで、ふたつのお寺には親密な交流があったようです。長尾寺にとって志度は、沿海岸地域に対する海の窓口の役割を果たしていたのでしょう。いまも歩き遍路は、志度寺から長尾寺、そして結願の大窪寺へと阿波街道を歩んで生きます。

中世の志度寺周辺の交通体系は、志度寺門前から海沿いの東西の道とともに、志度寺から南へ延びる道が整備されて行ったようです。志度寺は、東西・南北の道をつなぐ交通の要衝に位置し、人やモノの集散地となっていきます。中世の志度は海と陸の結節点に位置していたといえます。
 地名と地割を見ておきましょう。
砂堆にある町場は、寺町・田淵・金屋・江ノロ・新町などから構成されていたようです。その周囲に塩屋・大橋・中浜などの地名が残ります。町域の西側に新町・今新町の地名があります。ここから江戸時代の町域拡大は、志度街道沿いに西側へと進んだことが考えられます。町割は志度寺門前の空間が「本町」であったとしておきましょう。

町域は標高3mの安定した砂堆上にあり、町場周辺では塩屋~大橋が(0,6m)、中浜(1,8m)で他より低くいので、この付近に低地(潟)が広がっていたことがうかがえます。
 また、寺町と金屋の間に「城」の地名が残ります。
中世の志度城館跡(中津城跡・中州城跡)があったと伝えられますが遺構は確認されていないようです。ただ、この付近が中世領主の拠点となった可能性はあります。志度城城主は、安富山城守盛長とも、多田和泉守恒真であったともいわれているようです。
 志度街道の両側には短冊形地割が残り、明治~昭和初期の町家が散在します。街道の南北両側にも街路がありますが、町域全体を貫くものではありません。これは近代以降に、断続的に低地へ町域が拡大したことを示すようです。本来的な町割は、 一本の街路(志度街道)の両側に設定されていたと研究者は考えているようです。
志度の古い町並み

では、志度はどんな地形環境の変化を受けてきたのでしょうか?
幅広く安定した地形は、志度寺から西へ続く砂堆が古くから形成されていたことによると研究者は考えているようです。砂堆の東側・南側に入り組んで広がる潟は、その内岸が古代から寄港場所となっていた可能性があります。しかし、早くから潟湖は埋まり湿地状になっていきます。そして中世になると潟の内岸は、港湾としては使用できなくなります。一部は塩田となったようです。
 「志度寺縁起絵」のうち「御衣木之縁起」や「阿一蘇生之縁起」をもう一度見てみましょう。
潟の出口に簡単な橋が架けられ、潟の沿岸では塩田が造られています。また内陸部に広がる潟の内岸には舟がないのに、海に面した砂堆北側には舟があります。ここからは砂堆北半部が着岸可能で港機能があったようです。とくに「阿一蘇生之縁起」では、海に面した砂堆北半部の西側に舟が着岸しています。古代は、潟湖の内側が港だったのが、中世には潟が埋まって寄港場所が変化したようです。

中世志度の景観について、研究者は次のようにその特徴をまとめています。
①港町としての志度は、海浜部の砂堆の上にあった。
砂堆の東・南側には潟(入江)があって、砂丘の東側には真珠島に向かって砂洲があった。海に突き出した小高い真珠島は、海側からはランドマークとして機能した。「志度寺縁起絵」に描かれた志度の景観は、基本的に鎌倉時代末期~南北朝時代の現地の実態を踏まえて描かれている。
②中世の志度の港湾機能は、海に面した砂堆の北側にあった。
「志度寺縁起絵」には砂堆の北西に舟が着岸している。もともとは、潟の内岸の方が船着場として適地だが埋没が進んで、寄港場所を潟の内岸から海岸沿いに変化させていった。近世の『讃岐国名勝図会』には、砂堆西側の玉浦川の河日周辺に舟がつながれている様子が描かれいる。玉浦川は、砂堆背後の潟の排水を目的として近世に開削された可能性がある。
③志度湾岸には孤立した条里梨地割群が残る。志度南側は早くから耕地化されていた可能性がある。
④砂堆東側に志度寺が位置し、その門前から西側に延びる志度街道沿いに町場集落が広がる。志度寺は交通の起点であり、長尾など後背地にとっては沿海岸地域への窓口となった。志度寺は港湾の管理センターでもあった。
⑤志度湾には志度寺を中心とした志度のほか、房前・小方・泊など複数の浦があった。中世の志度はこれらの複合的な港湾から構成されていて、それぞれに町場があった。「志度寺縁起絵」には房前・小方・泊には家々が密集して描かれている。


以上から次の課題として見えてくることは
①中世讃岐の港湾には、国府の港であつた松山津をはじめ、志度や宇多津、仁尾、観音寺などがあります。これらは砂堆の背後の潟湖に船着場がありました。ところが中世には堆積作用で埋没が進み、港湾機能が果たせなくなり衰退する港もでてきます。松山津や多度津の堀江は、そうして衰退した港かもしれません。でも、潟が埋まって浅くなり、船着場・船溜りとしての機能が失われても、志度は港湾機能を維持し繁栄しています。その要因はどこにあったのでしょうか。志度の場合は、港湾の管理センターの役割を果たしていた志度寺の存在が大きかったのではないかと研究者は考えているようです。
この世とあの世の境「志度寺」 : おかやま街歩きノオト(雑記帳)

 もうひとつは、砂堆上に志度寺や多度津の道隆寺、野原(現高松)の無量寿院は建てられています。
なぜ、地盤が弱く建設適地とは思えない砂堆や砂洲に寺社がつくられたのでしょうか?
「洲浜」は絵画等のモティーフとされることが多かったようです。それは神仏の宿る聖域としての意味があったからだと研究者は指摘します。志度寺が砂堆・砂洲に位置した要因についても、聖なる場所というイメージがあったのかもしれません。
 島根県の出雲大社がわざわざ斐伊川の悪水の排水点に建てられたのも、そのコントロールを神に祈る場所であったとする指摘もあるようです。水をつかさどる寺社と潟の排水等との関係もあったのではないかと研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

テキストは「上野 進 中世志度の景観 中世港町論の射程 岩田書院 2016年刊」でした。

 長尾寺 もともとは志度寺と同じ寺?
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長尾寺
 
八十七番は補陀落山長尾寺です。長尾寺の中の観音院が現在本坊ですので、長尾寺観音院と「観音院」がうしろに付きます。天台宗です。補陀落山という山号がつくのはだいたい海岸のお寺で、八十六番の志度寺も補陀落山志度寺です。ですから、山号が同じということは、もとは同じ寺だったと推定できます。 
御詠歌は
あしびぎの山鳥の尾の長尾寺 
秋の夜すがらみ名をとなへよ
『四国損礼霊場記』によりますと、だいたい寺というは行基菩薩なりの開基、あるいは弘法大師の開基ということであり、この寺もその例にもれず、次のように記されています。
「聖徳太子開建ありしを、大師(弘法大師)霊をつゝしみ紹降し玉ふといへり」

聖徳太子と弘法大師を登場させるのは、もうひとつ縁起のはっきりしないことを示していると研究者は考えます。 推論すると、志度寺は熊野水軍の瀬戸内海進出の拠点港に開かれた寺のようです。それは補陀落渡海と観音信仰からも裏付けられます。その行者たちは、行場として女体山に大窪寺を開きます。志度寺と行場を結ぶ東西のルートと南海道が交わる所に、志度寺の行者の一つの院が分かれてできたのが長尾寺と研究者は考えています。
 縁起では、「
聖徳太子が始めて、弘法大師が修補した、本尊は弘法大師が作った」とあり、はっきりしないということを押さえておきます。
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 本尊の観音さんの立像は長三尺二寸、あまり太きくありません。 
大師の作也。又、阿弥陀の像を作り、傍に安じ給ふ。鎮守天照大神なり。 さし入るに二王門あり。
 熊野行者たちによって開かれた志度寺は、後には高野聖の拠点となり、死者供養のお寺になり、阿弥陀信仰が広がります。そのため分院であった長尾寺も阿弥陀信仰の拠点となります。阿弥陀の像を作った、そして観音さんのかたわらに安置したとあります。ここからも熊野行者から高野聖へ修験者の信仰が交代したことがうかがえます。
研究者が注目するのは、鎮守が天照大御神だということです。
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長尾寺
現在は長尾街道沿の街道に面して仁王門があります。

 中に入ると広い池がありますけれども、門のあたりは狭くて、両側に店屋がすぐ追っています。いまの池のあるあたりは、もとは遍路の宿で森の茂った境内だったようです。いまでも老松のみごとな庭園があります。龍や蛇が石の住に巻きついて、本尊さんを龍も蛇も拝んでいます。けれども、中世には寺が荒れていたようです。
『四国遍礼霊場記』が書かれた江戸時代の初めぐらいは、たいへん寂しい寺であった。お香やお灯明もしばしば絶えがちであったと書いています。
 戦国から安土桃山時代にかけては遍路どころではありませんが、世の中が落ちつくにつれて遍路が盛んになります。『四国損礼霊場記』が書かれたのは元禄元年です。このころにはまだ寂しいお寺であったようです。
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 江戸時代の末のころになると、遍路はふたたび衰えて、明治の初めぐらいには無住のところが多かったようです。八十八か所の中の半分ぐらいは無住だった。そこへ遍路で行った者が落ちついて、やがて住職になったというところがあります。あるいはゆかりの寺から住職が来て、そこで寺を興隆したということもありました。

 『四国領礼霊場記』は、慶長年間(1596~1615年)のころに生駒親正が豊臣秀吉から讃岐をもらって、名刹再興をしたと書いています。その次に松平氏が来るわけです。長尾寺は慶長年間ごろに再興されたものとおもわれます
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長尾寺本堂

この寺の奥の院は玉泉寺で、俗称「日限地蔵」です。

 現在でも、長尾寺の住職が隠居したら玉泉寺に入るという隠居寺になっているそうです。また、長尾寺の山号が志度寺と同じ筒陀落山であることとあわせて考察すれば、志度寺の一院が独立したという推定ができます。
87番奥の院(曼荼羅9番) 霊雲山 玉泉寺
 玉泉寺
志度寺にたくさんあった何々院、何々院の中の一つが独立して海岸から町のほうに出ていった。奥の院にあった寺が南のほうに出ていって、街道筋に長尾寺ができた。すなわち志度寺は海岸から2㎞奥まで寺域であったと考えてよいでしょう。

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この寺には、一月七日に「会陽」という行事があります。

この会陽は岡山県の西大寺の会陽と響きあっています。
つまり、長尾寺の会陽の音は西大寺のほうで聞こえる。西大寺の会陽の音は志度寺や長尾寺に響いてくる。その晩、耳を地面に付けて、足会を聞いた会は幸運があるということが、江戸時代の俳句の歳時記に善いてあります。
 四国の霊場で会陽の残っているのは善通寺と長尾寺だけです。
おそらくこれも志度寺にもとあったものを、長尾寺が継承しているのだとおもいます。
 会陽について筒単に説明しておきます。

岡山県側では、お年寄りは「エョウ」とはいわないで「エイョウ」と発音します。たいていこういう庶民参加の行事は、掛け声を行事の名前にするのです。
 西大寺の場会は、シソギ(神木・宝木)と称する丸い筒を奪い会います。
もともと筒は二つに割れています。その中に牛王宝印を巻いてあります。
それを二本入れてあります。それを筒状のもので覆って、その上をまた牛玉宝印で何枚も糊で貼っていって、離れないようにして、筒のままで何万という裸男の中に放り込む。奪い会っているうちに割れてしまうので、最後に二人の人がこれを手に入れることになります。まれに割れずに手中にいたしますと、モロシソギといって二倍の賞品がもらえます。
 長尾寺の絵巻物、で「会陽」を見ると、西大寺と同じように、やはり串牛玉をたくさん上から投げています。ですから、たくさんの人がそれを拾っていくことができます。牛王宝印というのは本尊さんの分霊です。分霊をいただいて自分の家へ持って帰っておまつりをすると、観音さんの霊が自分の家に来てくださるということになります。
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長尾寺境内
餅撒きというのがありますが、これも御霊を配る神事です。

 手わたしでいただいたのでは福がありません。
投げてもらって、みんながワーッと行って取る。争うということに功徳を認める。それが会陽というものの精神です。どうして会陽というかといいますと、西大寺の場合を見ればよくわかります。西大寺の場合はシソギ投下、牛玉宝印を投げ下ろすまで、それに参加する人々は地押しをしなければいけません。その地押しのときに「エイョ、エイョ」という掛け声をかけます。
 観音堂の横に柱が西本立っています。それはいまでも変わらないようです。
そして、梯子に手を掛けて、「エイョウ、エイョウ」と地面を踏む。近ごろは「ワッショイ、ワッショイ」になってしまったようですが、お年寄りたちは「エイョウ」といったと話しておられます。それは地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのと同じことです。これに手をかけるのは力士が鉄砲を踏むのと同じです。相撲と起源を同じくします。
 四股を踏むのは悪魔祓いの足踏みです。
その足踏みが「ダダ」です。東大寺のお水取の場合はダッタソといいます。これをダッタソと発音しますので、ダッタン人の舞楽というような説ができました。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となります。           
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 そういうことで、長尾寺の会陽は志度寺の会陽が分離して長尾寺に継承された可能性があるので、長尾寺はもとは志度寺と同じところにあったと考えられます。志度寺と長尾寺の一体性は十分に考えられることです。

 長尾寺の鎮守が天照大御神であるということは、いろいろな解釈ができます

天照大御神は熊野では「若宮」としてまつられています。
もちろん、若宮は天照大御神ではないのです。熊野の三所権現はただの熊野権現です。新宮・本宮・那智の三所のほかに、横に若宮の御殿が独立している重いお宮です。
 ところが、熊野の信仰がでぎたとぎに、新宮のほうは伊井諾尊、那智のほうは伊非再尊ということにしたために、若宮は伊許諾・伊井再尊の間に生まれた子どもということになって、天照大御神になったわけです。
 そういういきさつがありまして、実際には若宮といわれるものは若王子だったのです。若一王子というものが三所権現のなかに入ったのです。那智と新宮と本宮とで位置はそれぞれ変わりますが、権現がそろうことは変わりがありません。
 若宮すなわち若王子の「王子」は海の神様です。
 したがって、長尾寺の鎮守は海の神様だということが推察されます。伊予のあたりのお寺には札所に王子があります。西行が善通寺の西にある我拝師山について書いたものの中にも「わかいし」とあるので、西行のころには、まだ若一王子が札所にあったことがはっきりしていました。
 こういういくつかの事例から、歴史的には長尾寺も志度寺の一部であって、志度寺が分離してここに来て、観音信仰と補陀落信仰とが奥までもってこられたのだという推論ができます。

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お堂については、仁王門が阿讃街道に面しています。

そこに石徐という石の柱があります。徐とは柱という意味です。
その柱にお経が書いてあるというので緩徐ともいいます。たいへんに珍しいことに、弘安六年と弘安九年の二本の経徐が残っています。お経の文字はほとんど読めませんが、年号だけは読めております。重要文化財になっています。

 本堂に向かって右のところに大師堂と薬師堂があります。
薬師信仰は海の薬師が非常に多い。その薬師信仰があるということにも、志度寺との関係が考えられます。
札所になりますと何宗でも大師堂ができます。
領主の命令によって真言宗から天台宗に変わりました。
真言宗のお寺には、常行堂はありません。常行堂は必ず天台宗にあるお堂ですので、そのときに建てられたものだろうと推定されます。しかも、志度寺に法草堂があって、常行堂のほうが分かれて長尼寺に来たと考えられます。法草堂と常行堂はいつでもペアになってあるものです。
 比叡山では現在、西塔の向かって左側に常行堂、向かって右側に法草堂があります。ここで法華ハ皿講、常行三昧が行われます。
常行三昧というのは、真ん中に阿弥陀さんを置いて念仏をうたう堂僧が、その周囲を回りながら念仏を唱える。常行三昧はやがて不断念仏というものになります。
 不断というのは、常行三昧は九十日間ずっとやめないというのが伝統だからです。したがって、ここに勤める堂憎は専門の念仏のうたい手です。そういう者が十二人なり二十四人なり四十八人なりが詰めていまして、交代で不断念仏をうたいます。こういうものができましても、江戸時代になると実際には行われないのです。

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 江戸時代になると、寺の伽藍の体裁として天台寺院だったら常行堂がある。そういうことで常行堂は建ちますが、とりたてて修行はなかったようにおもいます。ですから、ここに常行堂があるということは天台宗に変わったときに造られたと考えられます。 それから、天満天自在天堂があります。これは菅原道真をまつったものです。
特別の意味はありません。

おもしろいのは風呂があるということです。

 別所が少し離れたところにあります。大きなお寺がありますと、そこに奉仕する人たちの住むところを別所といいます。同時に、そこを風呂地といったりします。
 紀州の由良に、興国寺といって、たいへん大きなお寺がありますが、この寺に別所があります。別所に風呂という場所があります。風呂に四人の虚無憎がいました。
これが尺八の虚無僧の始まりです。いろいろな記録や興国寺の伝承にそうあります。
 このへんはちょっと謎があります。全国どこに行っても、虚無憎がいたところを風呂地といいます。虚無僧と呼ぼれる寺の奉仕者が、アルバイトというか、風呂を沸かして、人々を入れて収入としていたと考えられます。
 最近では福島の会津あたりにたくさんの風呂があり、虚無僧がいた。のちになると虚無僧そのものが尺八を吹くより風呂のほうに転業してしまうということが研究者によって明らかになっています。
 長尾寺の別所の場合は、蒸風呂で、風呂は小さいものです。薪で石を焼いて、それを水の中に放り込むやりかたでした。

五来重:四国遍路の寺より

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