志度寺縁起
志度寺には貴重な縁起絵巻が何巻もあることは以前にお話ししました。この絵巻が開帳などで公開され、そこで絵解きが行われていたようです。志度寺には勧進聖集団があって寺院の修造建築のために村々を勧進してまわったと研究者は考えています。彼らの活動を、今回は見ていくことにします。テキストは「谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起152P 聖と唱導文芸」です。
この本の中で谷原博信氏は、次のように指摘します。
「志度寺に伝わる縁起文を見ると唱導を通して金銭や品物を調達し、寺の経済の力となった下級の聖たちの存在のあったことが読みとれる。・この寺には七つもの縁起があって、いずれも仏教的な作善を民衆に教えることによって、蘇生もし、極楽往生もできると教説したようだ。
白杖童子蘇生縁起
「白杖童子蘇生縁起」のエッセンスを見ておきましょう。
「白杖童子蘇生縁起」のエッセンスを見ておきましょう。
山城国(京都)の淀の津に住む白杖という童子は馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた。妻も子もない孤独な身の上で世の無常を悟っていた。心ひそかに一生のうち三間四方のお寺を建立したいとの念願を抱いて、着るものも着ず、食べるものも食べず、この大願を果たそうとお金を貯えていた。ところが願い半ばにして突然病気でこの世を去った。冥途へ旅立った童子は赤鬼青鬼につられ、閻魔庁の庭先へ据えられた。ご生前の罪状を調べているうちに「一堂建立」の願いごとが判明した。閻魔王は感嘆して「大日本国讃岐国志度道場は、是れ我が氏寺観音結果の霊所也。汝本願有り、須く彼の寺を造るべし」こういうことで童子は蘇生の機会を得て、この世に生還した。その後日譚のあと、童子は志度寺を再興し、極楽に往生した。
要点を整理しておくと
①京都の童子・白杖、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた
①京都の童子・白杖、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた
②貧しいながら童子は、お寺建立の大願を持ちお金を貯めていた
③閻魔大王のもとに行ったときに、そのことが評価され、この世に蘇らされた
④白杖は志度寺を建立し、極楽往生を遂げた。
③閻魔大王のもとに行ったときに、そのことが評価され、この世に蘇らされた
④白杖は志度寺を建立し、極楽往生を遂げた。
さて、この縁起がどのようなとき、どのような所で語られていたのでしょうか?
志度寺の十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵の開示が行われ絵解きが行われていたと研究者は推測します。そこには庶民に囚果応報を説くとともに、寺に対する経済的援助(寄進)が目的であったというのです。前世に犯したたかも知れない悪因をまぬかれる「滅罪」ためには、仏教的作善をすることが求められました。それは「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」などです。
「白杖童子蘇生縁起」では、貧しい童子が造寺という大業を成したことが説かれています。
「童子にできるのなら、あなたにもできないはずはない。どんな形でもいいのです。そうすれば、現在の禍いや、来世の世の地獄の責苦からのがれることができますよ」
という勧進僧の声が聞こえてきそうです。
「白杖童子蘇生縁起」では、貧しい童子が造寺という大業を成したことが説かれています。
「童子にできるのなら、あなたにもできないはずはない。どんな形でもいいのです。そうすれば、現在の禍いや、来世の世の地獄の責苦からのがれることができますよ」
という勧進僧の声が聞こえてきそうです。
志度寺縁起や縁起文も、それを目的に作られたものでしょう。そう考えると、志度寺の周りには、こうした物語を持ち歩いた唱導聖が沢山いたことになります。これは志度寺だけでなく、中世の白峰寺・弥谷寺・善通寺・海岸寺なども勧進僧を抱え込んでいたことは、これまでにもお話しした通りです。
中世の大寺は、聖の勧進僧によって支えられていたのです。
高野山の経済を支えたのも高野聖たちでした。彼らが全国を廻国し、勧進し、高野山の台所は賄えたともいえます。その際の勧進手段が、多くの死者の遺骨を納めることで、死後の安らかなことを民衆に語る死霊埋葬・供養でした。遺骨を高野山に運び、埋葬することで得る収入によって寺は経済的支援が得られたようです。
寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
志度の道場が、伊予の石手寺とともに修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼といったいわゆる民間宗教者の四国における一大根拠地であったことを押さえておきます。
志度寺は「閻魔王の氏寺」ともされてきました。そのため「死度(寺)」とも書かれます。
志度寺は「閻魔王の氏寺」ともされてきました。そのため「死度(寺)」とも書かれます。
死の世界と現世との境(マージナル)にあって、補陀落信仰に支えられた寺でした。6月16日には、讃岐屈指の大市が開かれて、近隣の人々が参拝を兼ねてやってきて、賑わったようです。志度寺の前は海で、その向こうは小豆島内海や池田です。そのため海を越えて、小豆嶋からも志度寺の市にやってきて、農具や渋団扇、盆の準備のための品々を買い求めて帰ったと云います。特に島では樒の葉は、必ずこの市で買い求めたようです。逆に、志度寺周辺からは多くの人々が、小豆島の島八十八所巡りの信者として訪れていたようです。島の内海や池田の札所の石造物には、志度周辺の地名が数多く残されています。
どちらにしても志度寺の信仰圈は、小豆島にまでおよび、内陸部にあっては東讃岐を広く拡がっていました。特に山間部は、阿波の国境にまで及んでいます。逆に、先達達に引き連れられて、四国側の人々は海を渡って、小豆島遍路を巡礼していたのです。その先達を勤めたのも勧進僧たちだったと私は考えています。
盆の九日には、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
十日に参ると万日参りの功徳があるとされます。この日には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来る人達がいました。参詣者は、これを買って背中にさしたり、手に持って家に返ります。これに先祖の霊が乗りうつっていると伝えられます。別の視点で見ると、先祖の乗り移った樒を、志度寺まで迎えに来たとも云えます。そのため帰り道で、樒を地面などに置くことは厳禁でした。その樒は、盆の間は家の仏壇に供えて盆が終わる15日が来ると海へ流します。つまり、先祖を海に送るのです。ここからも志度寺は、海上他界信仰に支えられた寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。
以上をまとめておきます。
①志度寺は、海上他界信仰に支えられた寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていた。
②そこでは仏教的な作善で、蘇りも、極楽往生もできると説教されるようになった。
③そのため志度の道場は、修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼などの下級の民間宗教者の一大根拠地となっていった。
④彼らは開帳や市には、縁起や絵巻で民衆教化を行って、勧進活動を進めた。
⑤そのため志度寺には、絵巻物が何巻も残っている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起152P 聖と唱導文芸⑤そのため志度寺には、絵巻物が何巻も残っている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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