中世後半になると新しい社会秩序形成の動きが出てきます。そのひとつが農村における「惣型秩序の形成」だと研究者は考えているようです。南北時代以後になると、いままでの支配者であった荘園領領主や国司の権力や権威が地に落ちます。それに代わって土地に居ついた地頭や下司・郷司などが、そのまま国人に成長して、地域の支配者になっていこうとします。しかし、それは一筋縄でいくものではなかったようです。守護も、村の中に自分の勢力を植えつけるため、自分の子飼いの家来を現地に駐留させます。新しく成長した国人も、力を蓄えれば、その隣の荘園に侵入してゆくというような動きを見せます。まさにひとつの荘園をめぐって、いくつも武力集団が抗争一歩手間の緊張関係をつくりだしていたのです。ヤクザ映画の「仁義亡き戦い」の世界のように私には思えます。そういう意味では当時の農村は、非常に不安な状況にあったことを押さえておきます。
惣村構成員の資格
そんな社会で生きていくために村人たちは、自分たちで生活を守るしかありません。隣村との農業用水や入会地などをめぐる争いもあります。また、よそからの侵人者や、年貞を何度もとろうとする領主たちに対しても、不当なものは拒否する態勢をつくらなければ生きていけません。
自検断(じけんだん)と地徳政
そこで村の秩序を守るために、自分たち自身で警察行為を行うようになります。犯罪人逮捕や、その裁判まで村で行うようになります。これを検断といいます。農民が自分たちで検断権(裁判権)を行使するのです。検断権は、中世では荘園・公領ごとに地頭が持っていました。鎌倉時代以降では重大犯罪の検断権は守護がもち、それ以外は地頭がもっていました。そのような支配者の権限を、農民たちが自分たちで行使するようになってきたわけです。それを自検断と呼んだようです。
徳政も自分たちでやるようになります。
当時の農民は守護の臨時賦課などいろいろな負担に苦しめられていました。貨幣が使われる世の中になると、借金がたまりがちです。そういうときに徳政一揆を起こして負債の帳消しを要求したわけです。しかし、これを幕府に要求しても解決できるような力は、幕府にはもうありません。室町幕府の権限は、山城と摂津、河内、近江にしか及ばない状況です。そうなると、もともとは公権力のやるべき徳政令を自分たちでやり出します。それを地徳政(じとくせい)と呼びます。この「地」は「地下」という意味です。地徳政とは、自分たちの生活エリアだけで、私的な徳政を自分たちでやることです。ここには村の生活秩序を共同体として自治的にきめてゆくという姿勢が強く見えます。
徳政一揆の背景
また村の共同利用になっている山野の利用秩序、山の木を切るとか、あるいは肥料用の下草刈りに入る、いわゆる入会山を保護するために、いつ山の口開けや口止めをやるかというようなことから始まって、次のようなことも惣村内での取り決められるようになります。
①かんがい用水路の建設・管理をどのように進めるか
②祭りなどの行事をどのようにしておこなうか、
③盗みなどの秩序をみだす行為をどう防ぐか、④荘園領主や守護などがかけてくる年貢や夫役にどう対応するか⑤周辺の村と境界をめぐって揉めたときはどうするか、
①惣村は名主層や小農民によって構成され、おとな・沙汰人などが指導者②祭祀集団の宮座が結合の中心で、その運営は寄合の決定に従って行われた。③惣掟を定めたり、入会地の管理にあたるなどした。④地下検断(裁判権)の治安維持や地下請けなど年貢納入をも担う地縁的自治組織
⑤結合は連歌や能、一向宗の浸透を促す⑥年貢減免を要求する強訴・逃散や土一揆など土民が支配勢力に抵抗する基盤としても機能
惣村の掟を伊勢の国の小倭郷(おやまごう)で見ていくことにします。
1493(明応3)年の9月15日付で、小倭郷の百姓たち321人が署名誓約しています。小倭郷には幾つもの村がありましたが、当時の村は一村が数軒から大きくても20軒ぐらいの小さなものでした。それが集まって小倭郷321人になったようです。一戸前の百姓は、ひとり残らず署名したようです。
1493(明応3)年の9月15日付で、小倭郷の百姓たち321人が署名誓約しています。小倭郷には幾つもの村がありましたが、当時の村は一村が数軒から大きくても20軒ぐらいの小さなものでした。それが集まって小倭郷321人になったようです。一戸前の百姓は、ひとり残らず署名したようです。
小倭郷の成願寺(津市白山町)
その誓約書が小倭郷の成願寺に残っています 農民などが申し合わせをするときは、神に誓った文書を神社に納めました。ここでは天台真盛宗の成願寺が倭郷の開発に大きな役割を果たしたので、村人の信仰の中心になっていて、そこに納められたようです。「成願寺文書」には、惣掟や小倭一揆関係の史料が県有形文化財に指定されています。ここでは、その一部を見ていくことにします。
第一条 田畑山林などの境界をごまかして、他人の土地を取ったり、自分の土地だと言って、他人の作物を刈り取ってしまうというようなことは絶対に許されない。第二条 大道を損じ、「むめ上(埋め土)」を自分の私有地で使ってしまうのはいけない。つまり公共の道路の土を取って自分のところので使うのはいけないということです。第三条と四条では、盗人、悪党の禁止(一種の腕力的行為禁止)第五条 「当たり質」を取ることの禁正。
「当たり質」というのは、抵当品(質草)のようです。今では抵当品は債務者のものしか対象にはなりません。ところが当時は、当人の債権物が取れない場合は、その人と同じ村人のものなら誰のものでも取ってもよいとされていたようです。これを郷質(ごうじち)とか所質(ところじち)とか呼んでいました。つまり本人が属している集団の者は、みんな同一責任を負わなければならないという考え方です。ここからは当時の人達は、郷や村などの共同体に所属していれば、その共同体全体が連帯の責任を負わなければならないと考えていたことが分かります。そうだとすると共同体から独立した個人というものはあり得なかったことになります。同じ村の人なら別の人のものでもいいという話が、当然として行なわれていたことを押さえておきます。日本人の連帯責任の取り方をめぐる問題の起源は、この辺りまで遡れそうです。 しかし、それでは困るので、今後は次のようにしようと決めています。
「本主か、然るべき在所の人のものだけ収れ」、
意訳すると「本人かその郷の者ならいいけれど、もっと広く隣村、隣村まで拡げられてはかなわないから、限定しておく」ということになるのでしょうか。そういうことを、すべて自分たちで取り決めて、村人321人全部で盟約しています。
この盟約を守っていく組織として、地侍クラスの人々四十数人が、別に盟約を結んでいます。
これを衆中(しゅうちゅう)と呼んだようです。小倭郷では、そのメンバーは、地侍クラス、村の重立ちの人々だけです。そして、次のような事を申し合わせています。
①公事出来(しゅったい:紛争が起こった場合)に身内の者だからといって決して身びいきなどはしない。②公平にひいきや偏頗なく衆中としてきちんと裁判する③衆中の間に不心得の者がでてきた場合には、仲間からから迫放する
ここからは、倭郷の惣村全体の盟約とは別に、それを遵守させていくために地侍グループだけで誓約を行なっています。こうして百姓たち321人全員暑名の誓約文書と、同時に指導グループの申し合わせ文書の両方が小倭郷の成願寺には残されました。
こうして小倭郷で何か紛争が起こったときには、指導グループの衆中の人々が調停者になります。例えば次のような調停案が出されています
①飢饉などで、負債に苦しむ人が出てくると、これこれの条件・範囲で地徳政をやろうということを自分たちで決定している。そのイニシアチブをとっているのは、地侍クラスの指導グループです。②犯罪などのときに検断(調査・裁判)③徳政実施に際しての調整
③については、金を貸しているほうは徳政に当然反対します。そこで個別に交渉して、自分は幾ら払うから、自分の債権は認めてくれ、つまり徳政はそれで免除してくれ、といった取引をやっています。
こうした紛争の調停を「異見(いけん)」と呼んだようです。これが仲裁意見です。
例えば地徳政の場合には、次のように進められています。
①徳政調停者が「異見(原案)」を出す。②債権者は債権を認めてもらうかわりに、銭を十貫文出す。③債務者のほうも、十貫文もらったのだから、今後はふたたびこの郷で地徳政が実施されても、もうこの件については債務破棄を要求しませんという誓約書を出させる。
このような手打ちのことを「徳政落居(らつきょ)」と呼んでいます。その証文が落居状で、成願寺に残っています。
こんな形で村人たちが自分たちで経済問題や紛争、土地争い、障害事件など、民事的な紛争から刑事的な紛争まで解決しています。これが行えるためには、村人全員の合意が必要です。その郷村全体で申し合わせた規約が「惣掟(そうおきて)」です。惣というのはすべてという意味ですから、村の全体にかかわるおきてという意味になります。
惣掟を持ったような村人集団を「惣」の衆中などと呼ぶようになります。惣掟にもとづいて、村人たちは紛争を自分たちで解決するという問題題解決の仕方がひろまります。ここで見た「惣」は、伊勢の小倭郷の一郷321人程度の範囲でした。ところが、もっと広い地域で自検断をやったり、地徳政をやったりする「広域の自治的な結合」も生まれていたようです。それを次回は見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
永原慶二 中世動乱期に生きる 戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法